弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
被告人は無罪。
理由
第1本件公訴事実(訂正後のもの)
被告人は,かねて自宅に隣接するA方の家人から誹謗中傷されていると邪推し,
憤まんを高じさせ,同家人を殺害しようと企て,平成18年7月23日午前11時
35分ころ,大阪市(以下略)A方住居部分に出入口ドアから侵入し
1そのころ,同人方2階において,B(当時12年)に対し,その左肩付近を
(.),目掛けて所携の文化包丁刃体の長さ約153センチメートルで数回切り付け
逃走する同人の背後からその背部を同文化包丁で突き刺すなどしたが,駆け付けた
Aらに妨害されたため,上記Bに入院加療2週間を要する背部切創・刺創,左上肢
多発切創,左前腕伸筋腱群断裂の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げな
かった
2そのころ,同所において,C(当時43年)に対し,その左胸部を上記文化
包丁で突き刺すなどしたが,駆け付けたDらに妨害されたため,上記Cに加療53
日間を要する左胸部刺創,左血気胸,左前腕切創の傷害を負わせたにとどまり,殺
害の目的を遂げなかった
3そのころ,同所において,A(当時72年)に対し,その顔面等を上記文化
包丁で数回切り付けるなどしたが,同人らに抵抗されたため,同人に加療90日間
を要する右前額部・右眼瞼・左頬部・前胸部・右前腕・左手首切創,涙小管断裂の
傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂げなかった
4そのころ,同所において,D(当時45年)に対し,その左胸部付近を目掛
けて上記文化包丁で突き刺すなどしたが,同人に抵抗されたため,同人に加療11
日間を要する左上腕・左前胸部切創の傷害を負わせたにとどまり,殺害の目的を遂
げなかった
5業務その他正当な理由による場合でないのに,そのころ,同所において,上
記文化包丁1本を携帯した
ものである。
第2争点に対する判断
1争点
検察官は,本件犯行当時の被告人は,統合失調症に罹患していたものの,心神耗
弱の限度で責任能力があった旨を主張するのに対し,弁護人は,本件犯行当時の被
告人は,心神喪失状態であったから無罪である旨を主張する。そして,公判前整理
手続期日において,被告人の責任能力判断の前提となる間接事実として,被告人が
本件各犯行を正に行っている際にも幻聴を聞いていたか否かも争点になるとされ
た。
2前提となる事実
(1)被告人の生活歴,病歴
ア被告人は,昭和58年○月○日,E及びFの長男として出生した。
イ被告人は,小学生のときは,不登校等の問題行動はなかったが,大人し
く,一人遊びが多かった。
被告人は,中学1年生の1学期に,学級代表に選ばれたものの,教師に成績をほ
められたことで揶揄され,断続的に不登校になることがあり,その後も不登校にな
ることが増えた。被告人は,中学2ないし3年生ころから,自分の体臭を気にする
ようになった。
ウ被告人は,平成11年,高校に進学し,当初は成績が良好であった。高
校の評価も,1年次には「物静かであるが,何事にも前向きに取り組むことができ
る,2年次には「行動が控え目で口数も少ないが,真面目な性格で基本的な生。」
活態度もしっかりしている,3年次には「生活態度がきちんとしており,目立。」
たないところでもきちんと清掃するなど大変几帳面で真面目である」などと肯定。
的であった。しかし,被告人は,中学時代の友人と別れ別れになったこともあって
孤独な毎日を送るようになり,一人でテレビゲームに没頭していた。
,,,「。」エ被告人は高校2年生ころから自らの体臭について他人から臭い
と言われていると感じるようになった。
また,被告人は,高校を卒業するころから,Fらに対し「人に何か言われてい,
る。僕のことをいろいろと言っている。人につけられている気がする」などと漏。
らすようになった。
オ被告人は,平成14年3月13日,I病院神経科において,分裂病様障
害と診断された。
被告人は,当初は自ら通院していたものの,ほどなくして,被告人の家族が薬を
もらいに行くだけになった。
この後被告人は隣の家族がいろいろ言ってくる頭に言ってくる僕に言っ,,「。。
てるねん」などと,南側に隣接する菓子店「J店」に居住するA一家から何か言。
われる声が聞こえると言うようになった。なお,被告人は,A方から聞こえてきた
という声について,複数人が途中で入れ替わり,性別や誰が話しているのかについ
ては分からなかったと供述している。被告人は,Fから,聞こえないなどと諭され
ても,Fに対し「母さんは僕を騙そうとしている。僕の気持ちを分かってくれな,
い」などと,やや感情的になることが多くなった。。
なお,被告人は,高校在学中か大学入学のころ,A方を訪れ,Bが被告人のこと
をアホとかボケなどと悪口を言っていると抗議したことがあった。その後,被告人
は,A方前の電柱に「お前はJ店にマインドコントロールされている」と手書き。
で書かれたビラを貼った。
カ被告人は,大学2回生の後期から休みがちになり,大学3回生の平成1
6年秋ころには休学届を提出し,平成18年3月には退学届を提出した。
被告人は,休学届を提出した後は,仕事をすることもなく,主に自宅にいて,テ
レビゲームをするなどしていた。
被告人の主治医は,平成16年9月ころからは,被告人を入院させることも考慮
するようになった。
キEは,平成18年7月21日,K区保険福祉センターを訪れ,被告人の
病状や,被告人に切り付けられたこと(下記(2)イ参照)などを相談し,被告人を
入院治療させたいがどうしたらよいかや,両親が無理やり入院させることで被告人
から将来恨まれることはないかなどの点について,指導を求めた。また,Eは,同
月22日,L病院を代理受診したところ,被告人を同月22日又は24日に入院さ
せるよう勧められた。
(2)犯行前における被告人の特異な言動
ア被告人は,平成18年7月18日午前11時35分ないし50分ころ,
大阪府内の警察署を訪れ「自宅の電話が盗聴されている。親に相談しても相手に,
してくれない」などと相談した。警察官が,NTTと連絡を取り合い,同日に被。
告人方を訪問することになった旨を伝えると,被告人は,礼を言って帰宅した。
,,,イ被告人は本件の10日前ころの未明に自宅台所から包丁を持ち出し
起きてきたEに対し「お父さんが僕を殺しにくるから,お父さんを殺す」と言っ,。
,。,,てEの左肩や左胸辺りを切り付けたことがあったこの理由について被告人は
当公判廷において「3階の自分の部屋にいたとき,2階で寝ていたEの寝言等を,
聞いて,追い出されそうになったと感じて,Eは助けてくれないのではないかと思
い,切りかかってしまった」旨を供述する。もっとも,被告人は,様子を見に来。
たFに「何してるの」と強く言われると,すぐに大人しくなり,すっきりしたよ。
うな感じの平然とした態度になった。
,,。ウ被告人は平成18年7月中旬ころ大量服薬やリストカットに及んだ
エ被告人は,平成18年7月20日前後ころ,自宅屋上の物置に閉じこも
り,人が襲ってくるという内容の大声を発したことがあった。このときの状況につ
いて,被告人は,当公判廷において「自室にいても声が聞こえてくるので,自室,
にはいない方がよいと思った。父も母も当てにならず,一人きりになって閉じこも
ろうと思った」旨を供述している。。
オ被告人は,平成18年7月21日,マンションを探しに行ったほか,同
月22日,自転車で大阪城公園に行った。なお,被告人は,悪口を言われる状態が
多少はよくなると思って引越しを考えていた,外に行けば楽になれると思っていた
などと説明している。
また,被告人は,同日ころ,クーラーから声がするなどと言って,クーラーの室
外機にカーテンの布をかぶせた。
(3)犯行当日における被告人の言動
ア被告人は,平成18年7月23日午前2時前ころに目が覚め,自宅3階
の自室において,テレビを見るかテレビゲームをした。被告人は,同日の早朝,警
察に電話をかけ「ファミコンがおかしい」などと言った。Fが諭すと,被告人,。
は,気分が落ち着いた様子で,自室に引き上げた。
被告人は,同日午前7時ころから,自室で賃貸住宅の本や地図のようなものを読
んでいた。Fが被告人に対し,朝食を食べるか聞いたところ,被告人は「後で食,
べる」と答えた。。
その後,被告人は,3階の自室から,パジャマとパンツという格好で自宅2階の
台所に降りてきて,一人で朝食を食べた後,自室に戻った。
イ被告人は,朝食後,疲れていたので,自室のテレビを消してベッドに横
になった。しかし,被告人は,全く寝付けず,次第に気持ちがイライラしてきた。
すると,被告人には,女性の声で「私と結婚して」という声が聞こえてきて,さ。
らに別の男女の声も聞こえてきた。被告人が「どこかに行け」などと文句を言う。
,「。」,「。」,。とおたく臭いなどと声の内容が被告人に対する悪口に変わってきた
被告人は,A一家が悪口を言っていると思い「黙れ「殺すぞ」などと言い返,。」,。
したが,なおも女性の声で「あんたに私は殺されへんで」と言うのが聞こえた。。
被告人は,自分に対するいやがらせの対策として,引越しをすること,警察に相談
をすること,弁護士に依頼して裁判を起こすことを考えていたが,いずれも功を奏
しないと認識していた。そこで,被告人は,聞こえてくる声に対して八方ふさがり
の状態になったと認識した。被告人は,その声に対し「殺すぞ」などと大声で,。
言ったものの,余計におちょくるようなことを言うのが聞こえた。そこで,被告人
は,A一家や付近のマンションの住人を殺すしかないと思った。
ウ被告人は,ズボンとシャツに着替え,特段駆け下りるという様子でもな
,,。,く3階の自室から2階に降り台所から包丁を持ち出したこのときの被告人は
無表情ないし平然とした表情であった。
Fは,被告人から包丁を取り上げようと思ったが,被告人は,これを避けた上,
Fに対し「殺すぞ」と言った。,。
エ被告人は,同日午前11時30分ころ,A方1階のJ店出入口から,A
の横を包丁を持ったまま通り過ぎて,無言のまま2階に上がった。このときの被告
人は平然とした表情であった。
被告人は,A方2階の和室にいたBに対し「お前か」と2回くらい怒鳴り,,。
右手に持った包丁で,左腕辺りを切り付けた。被告人は,逃げようとして廊下に出
たBを追いかけ,さらに背中辺りを切り付けた。
Cは,A方2階のトイレにいたところ,異様な物音が聞こえてきたため,2階和
室に行くと,被告人がBに覆い被さっていたので,被告人に対し「何してるの。,
やめてよ」などと叫んだ。被告人とCは正対する状態になり,Cは,被告人の肩。
か胸の辺りを押して突き飛ばそうとしたが,被告人は,Cの胸部辺りを包丁で突き
刺した。
Aは,A方2階和室に行き,被告人を取り押さえようとした。しかし,被告人は
Aの方を振り向き,包丁でAの顔面を5,6回切り付けた。
Dは,A方の3階にいたところ,2階から物音が聞こえてきたため,2階に行く
と,Cが座り込み,Aが流血しながら被告人ともみ合っていた。Dは,被告人の背
後から両肩を掴んでAと被告人を引き離し,被告人と向かい合う格好になった。被
告人は,必死な表情であったものの,意識が飛んでいるような様子はなかった。被
告人は,Dの左上腕部を突き刺した。
被告人は,1階に続く階段の下り口のそばまで行き,Dを睨みながら「警察に電
話するんやったら,してみやがれ」などと言って,階段を下りて行った。。
オ被告人は,被告人方に戻り,同方2階台所流し台において,スポンジを
使って包丁を洗った上,流し台の下の包丁立てに包丁を入れた。このときの被告人
は,平然とした態度であり,悪びれたり呆然としたりする様子はなかった。
カ被告人は,同日午前11時39分ころ,自ら110番通報をして,警察
官に対し「人を刺した(住所略,4人くらい包丁で刺した。男も女もいる。隣,,)
のお菓子屋さんにいる」などと申告した。。
,「。」,被告人は被告人方に駆け付けた警察官からお前がやったんかと問われて
同警察官に対し「隣の家の奴等にずっといじめられて恨んでいたから,僕がみん,
。」,,「。」,な刺してやったと答えさらに凶器の包丁はどこにあるんやと問われて
流し台下の包丁入れに入れたけどないんやったらお母さんがどっかに持っていっ「,
たんと違いますか」と答え,同行の求めに黙って応じた。。
(4)本件当日後の被告人の様子
被告人は,平成18年12月20日,大阪拘置所の係官に対し「他の舎房から,
声が聞こえる感じがする」などと訴えた。被告人については,統合失調症の疑い。
,。,,があるとされたことからリスパダール錠の処方が開始されたその後被告人は
平成19年2月9日には,うつ気分や食欲減退があると訴えた。そこで,リスパダ
ール錠に加え,ワイバックス錠の処方が開始された。
被告人は,平成19年4月2日ころ,居室内の壁に自己の額を打ち続ける自傷行
為に及んだため,保護室に収容された。
3責任能力の検討
(1)G医師の鑑定結果の概要
ア病状
被告人は,中学2,3年ころ,妄想型統合失調症を発症したと推定され,病状は
徐々に進行し,現在に至っている。病像は,妄想より幻聴が優位である。
イ犯行時における被告人の精神状態と責任能力に関する参考意見
犯行時,被告人には「臭い「オタク」などと悪口が聞こえてきた。被告人は,」,
反抗して言い返したが,それに応答するような「あんたに私は殺されへんで」と。
いう幻聴に激高し,この上は隣家の人たちを殺害することによって自らを守るより
仕方ないと考え,犯行に至った。犯行は幻聴に支配された復讐行動といえる。
他方,被告人には,被告人に立ち向かって来た人物に攻撃を加え,許しを請うて
いるように思える発言をした人物や逃げた者に対しては凶行に及ばなかったのであ
り,極めて主観的ではあるが,犯行についての違法性の認識があった。被告人は,
問診時には犯行中にも幻聴があったように語っているが,興奮し目的をもって行動
している最中になお幻聴を聞いたとは考え難い。また,被告人は「男女2人がス,
キップをしながら店にやってきた」などと,あり得ない場面も語っている。これ。
らの被告人の体験談は,追想妄想によるものと考えられる。
犯行が,幻聴に激高し,かつ支配されて行われたことは明らかである。一方で,
行為の違法性の認識は犯行中も明瞭に存在し,犯行内容も,反省の意を示すならば
殺したくないという,より柔軟な方向への思慮の変化が看取される。すなわち,本
件犯行は,幻聴の支配力と違法性の認識という二重の見当識の上に成立していたの
である。具体的には,幻聴による行動力が違法性の認識による抑制力を凌駕したこ
とにより,本件が惹起されたことになる。
以上より,本件犯行時における被告人の是非弁別能力及びこれに従って行動する
能力は著しく減じていたものと思料する。
(2)H医師の鑑定結果の概要
ア病状
被告人に精神症状が明らかに気付かれたのは,高校3年すなわち18歳ころであ
るが,その1,2年前から「他人に臭いと言われる」と言うことがあり,既に,。
幻聴もしくは妄想が出現していた可能性がある。被告人は,高校在学中に破瓜型の
統合失調症を発病したと推定される。
本件犯行の約3か月前からは服薬中断に影響されて精神状態が悪化し,幻聴,妄
想に関連する異常行動が顕著となった。犯行に先立って幻聴が急激に活発になり,
被害者方から「悪口」が発せられるという被害妄想と怒りに駆られ,強度の精神運
動興奮の状態に陥った。
イ犯行時における被告人の精神状態と責任能力に関する参考意見
本件犯行時において,被告人は,統合失調症の寛解期ではなく症状が活発な病勢
期にあった。違法性の認識を行為の最中にも保持していたとは考えにくい。行動態
様からも明らかなように,犯行の経過中は強度の精神運動興奮の状態にあった。犯
行後になって速やかに興奮が醒めており,その時点で違法性の認識が現れたとみる
べきである。
また,仮に犯行時に違法性の認識が多少とも存在したとしても,これをもって是
。,非弁別能力が保持されていたとすることには疑問がある被告人の主観においては
犯行は報復,懲らしめ,あるいは不当な行為を中止させるための最後の手段として
認識されている。被害者らの不当な行為すなわち「悪口」は言うまでもなく幻聴で
あり,被告人は合理的な根拠なく不当性を確信していた。言い換えれば,法律で罰
せられることを(知識として)知っていたとしても,被告人は合理的な根拠なく自
。,己の行為を正当とみなしていた仮に弁別能力が多少とも保持されていたとしても
問答無用の行動態様に現れているように,怒りという情動(急激に生じる強度の感
情)に支配されており,弁別によって行動を制御する能力は失われていたとみるべ
きである。
以上より,本件犯行時における被告人の是非善悪を弁別し,その弁別に従って行
動する能力は失われていたと考えられる。
(3)当裁判所の判断
ア本件犯行時の被告人の病状
(ア)被告人の病状に関しては,G鑑定及びH鑑定ともに,被告人は,遅
くとも高校在学中には統合失調症を発病したこと,犯行時における被告人の精神状
態は悪化していたこと,本件は,被害者方から「悪口」が発せられるという被害妄
想と怒りに駆られた犯行であること,被告人に対しては,統合失調症の専門的治療
が必要であることなどについてはほぼ一致している。
上記に加えて,前記前提となる事実のとおり,被告人については,家族が関係機
関に被告人を入院させたいと相談し,医師から,本件犯行の翌日である平成18年
7月24日までには入院させるように勧められていたこと,統合失調症による幻聴
や妄想に由来するものと認められる異常行動がたびたび現れていたことに照らす
と,被告人の統合失調症は,入院を要する程度に症状が悪化していたものと認めら
れる。
(イ)これに対して検察官は,被告人の犯行当時の病状は,統合失調症妄
想型ではあるものの,その状態は,人格の崩壊に至るような重篤なものではなかっ
たと主張する。検察官は,その根拠として,被告人は,犯行の2日前である平成1
8年7月21日,転居するマンションを探し,同月22日には大阪城周辺へ自転車
で出掛けていたほか,犯行当日の午前中も,賃貸住宅についての雑誌などを読むな
どした後,朝食を食べて自室に戻っており,自己を律して通常の社会生活を営んで
いたことなどを挙げる。
確かに,G医師は,鑑定時において被告人には人格の解体あるいは荒廃はほとん
どないと思う旨を証言し,H医師も,鑑定時において被告人の人格が荒廃している
とまではいえず,人格水準が低下しているというべきであると証言している。しか
し,被告人は,平成16年秋ころ,大学を休学してから一切職に就くこともなく,
引きこもりの状態であって,通常の社会生活というにはほど遠い生活を送っていた
のであり,H医師は,このような生活状況を統合失調症と診断する一つの要素とし
て考慮しているのである。また,検察官が指摘するように,被告人が引越し先を探
し,自転車で外出したのも,悪口などの幻聴から遠ざかろうとしたというもので,
通常の社会生活を営んでいるように見えても,その実質は統合失調症による幻聴や
。,,,妄想に強く影響された行動といえる加えて被告人は本件の約10日前からは
実の父親であるEを包丁で切り付ける,自宅屋上の物置に閉じこもる,クーラーの
室外機にカーテンの布をかぶせるといった異常な行動に及んでおり,被告人の供述
するところによれば,これらはいずれも統合失調症による幻聴や妄想に強く影響さ
れた行動であると認められるから,被告人が幻聴や妄想に左右されることなく自己
を律して通常の社会生活を営んでいたとは到底いえない。犯行時における病状につ
いて,G医師は「幻覚妄想状態が中心で,漸次悪化していることがわかる」旨を,
述べ,H医師も「犯行時は,明らかな急性期であり,例えて言えば,病気が燃え,
盛っている状態である」旨を証言しており,被告人の統合失調症は,犯行時,活発
な幻聴や妄想があり,病勢の盛んな状態であったことは明らかである。被告人が,
人格の解体あるいは荒廃にまで至っていなかったとはいえ,このような病状にあっ
たことは,被告人の責任能力を判断する上で,十分考慮しなければならない。
イ被告人は本件犯行時に幻聴を聞いたか
(ア)弁護人は,被告人は,本件各犯行の最中にも幻聴を聞いており,幻聴
に支配されていたと主張する。被告人も,G鑑定の問診時に「2階でBを)5,(
回くらい刺したと思う(Bは)最後は『許してくれ』と言うたのでやめた。そ。。
のあと下に降りたらAさんとMさんがいて『もうしようもないことしない』と,。
言ったので帰ろうとした。J店から出たら,男女2人スキップしながら店にやって
来たので『あの人たちはお客ですか』とMさんに聞くと,自分の家の者ですと,。
言うた。2人は2階に上がって行った「私もMさんに『あいつら,またするか。」,
もしれんから,2階に上がっていいか』と聞いたら『じゃ2階に上がってくだ。,
さい』と言ったので,2階に上がってたしか『お前らもいやがらせや人殺しせ。,
えへんな』という感じのことを言ったら『お前死ぬまでいやがらせする』と言。,。
うたので『刃物持っている意味わかっているなあ』と言ったら『お前ら私を殺,。,
しに来たんやろ』とたしかそのようなことを言ったので,女の人の胸の方を刺し。
た「女の人が奥の部屋に逃げ『もうしない』と言ったので,それ以上追いか。」,,。
けなかったそのあと男の人が女を刺しやがってどうのこうのと言って向かっ。『。』
て来たので刺した「1階に降りると,Aさんが店舗部分と住居部分の境辺りに。」,
いて,向かってきたのでおそらく顔を刺したと思う『もうせえへん』と言いな。。
がら逃げた。店舗部分にいたMさんに『お前もうせえへんな』と聞いたら『せ。,
えへん,こらえてくれ』と言うたので,自宅に戻った」などと,犯行の最中に。。
も幻聴が聞こえていたように述べている。
また,被告人は,当公判廷においても「被害者方の2階に行き,Bに対し『お,,
前が悪口を言っているのか』などと言ったところ,Bは『お前があほだから,。,
悪いんや』などと言った。悪口は,B君を刺す前は,聞こえていた。B君を刺し。
た後は,多少,聞こえてたように思う」などと供述している。。
上記のうち,Bは,当時12歳で,本件に至るまでは被告人との面識はなかった
ものと認められるから,あえて被告人を揶揄する発言をしたとは認め難い。また,
関係証拠を検討しても,その余の被害者らが被告人の述べたような発言をしたとは
認め難い。被告人がBに切りかかった後に男女2人スキップしながら被害者方に
,,入ってきたとする点や被害者側の者から2階に上がるように言われたとする点も
前記前提となる事実とは全面的に相違している。したがって,犯行時の状況として
被告人の説明する内容や当時における被告人の統合失調症の症状を前提とすると,
被告人が本件各犯行の最中にも幻聴を聞いていた可能性が十分に存することにな
る。
(イ)被告人の上記説明に関して,G医師は「興奮し目的をもって行動し,
ている最中になお幻聴を聞いたとは考え難い。同時に現場では,あり得ないであろ
う場面も語っている。これらの被告人の体験談は,追想妄想によるものと考えられ
る」などと説明する。しかし,G医師は,その理由について「興奮状態のとき。,
には,目的を持って行動しており,病的情動に支配されている場合は,新しい幻聴
を聞くことはない。理由は分からないが,現象としてそのようなものであると述べ
ている」と証言するにとどまっている。。
一方,H医師は「怒りという情動が発生したからといって,幻聴が消えてしま,
うということはないと思う。怒りに任せて殺害しようと一生懸命行動に出ている最
中にも,更に新たな幻聴を聞くことはあり得ると思う。これは臨床経験上言えると
思う。被告人は,犯行時に関しては,強い情動に支配されて,意識が必ずしも清明
でなかった可能性がある。G医師はそれを追想妄想と考えているようであり,その
可能性ももちろんあると思うが,犯行の最中に,意識そのものが必ずしも通常の状
態ではなかったと思う」として,犯行の最中にも幻聴があった可能性を否定しな。
い。H医師は,自己の臨床例に照らして,専門的立場から証言したものと認められ
る。また,前記前提となる事実によると,被告人は,本件犯行直前にも多くの幻聴
を聞いていたものと認められる。これらを総合すると,H医師の上記証言を容易に
排斥することはできない。
(ウ)そうすると,被告人は,本件各犯行の最中にも幻聴を聞いていたとい
う可能性を排斥できないというべきである。
ウ犯行動機
(ア)前記前提となる事実によると,被告人は,統合失調症によるものと認
められる幻聴や妄想により,実父であるEを包丁で切り付ける,自宅屋上の物置に
閉じこもる,クーラーの室外機にカーテンの布をかぶせるなどの異常行動に及んで
いた。そして,被告人は,本件当日も,疲労によりベッドに横になったところ,ま
,「。」たもや幻聴が聞こえてきて八方ふさがりの状態になりその声に向かって殺すぞ
と言ったもののおちょくるようなことを言われたため,この上は,A一家や付近の
マンションの住人を殺害するしかないと決意したものと認められる。被告人は自宅
3階の自室にいた際に上記の声を聞いたとするものの,被告人とAらとはほとんど
交流がなく,Aらが被告人に聞こえるような声で悪口を言うとは到底認め難いこと
からすると,被告人が犯行直前に聞いたとする声は幻聴にほかならず,この幻聴や
A一家から悪口を言われるという被害妄想は統合失調症によるものであることは明
らかである。そして,このような幻聴や妄想により被害者一家らを殺害しようと決
意したというのは,何ら自らの生命や身体の安全が脅かされたわけでもないことか
らすると,いかにも突飛かつ不合理であり,了解することは著しく困難というほか
ない。
(イ)これに対し,検察官は,①被告人が本件各犯行の最中に新しい幻聴を
聞いたかどうかは疑わしい上,仮にそのような幻聴を聞いたとしても,それは被告
人に対し殺害を命令するような内容ではないから,被告人には,幻聴に対して主体
的に意思決定をすることができた,②被告人が聴いたという幻聴の内容は,被告人
に対する悪口や「あんたに私は殺されへんで」などという被告人を揶揄するもの。
であり,それに対する憤まんが高じて殺意を抱くことは,一応了解可能である旨を
主張する。
しかし,①前記前提となる事実によると,被告人は,本件犯行の直前の幻聴によ
り八方ふさがりの状態になりこの声が聞こえてこないようにするには悪口を言っ,,
ているA一家やマンションの住人を殺害するしかないと思うまでに追い詰められて
いたものと認められるから,幻聴に対して主体的に意思決定をすることができたと
は認め難い。また,②上記のとおり,悪口を言ったと思料される人物を問い質すこ
ともなく,直ちに一家4人を包丁で切り付ける行為に出るというのは,通常人の思
考とはかけ離れたものであって,動機を了解することは著しく困難というべきであ
る。
検察官の上記主張はいずれも採用できない。
エ犯行態様
(ア)犯行態様についてみると,前記前提となる事実のとおり,被告人は,
平然とした表情で無言のままA方の2階に上がり込み,わずか12歳のBに対して
包丁で切り付けたばかりか,Bが逃げようとするのも意に介さず,背後からさらに
切り付けた上,その後も,我に返ったり,躊躇したりする様子もなく,次々と被害
,,者らを切り付けるというもので幻聴や妄想に基づくということを考慮しなくとも
悪口を言われたに過ぎない者の行動としては,一見して極めて異常なものである。
また,被告人は,A方の1階にAがいたことを認識したものの,そのまま2階に上
がって犯行に及んでいる。この点について,被告人は,H医師の問診において,A
とMを刺さないで2階に上がった理由を問われて「悪口を)言ってない人だと,(
思っていた」と答えており,被告人は,特定の誰というよりも,悪口の聞こえて。
きたA方2階に行って,そこにいる悪口を言っている者に直接危害を加えようと考
えて犯行に及んだものとみられる。このように,被告人が正に犯行に及ぶ際にも,
,,統合失調症による幻聴や妄想が強く影響していて自ら主体的に意思決定をしたり
その決定内容に従って行動することができなかったのではないかとの疑いは濃厚で
ある。
(イ)これに対して,G医師は「被告人には,終始犯行についての違法性,
の認識があり,極めて主観的ではあるが,被告人に立ち向かって来た人物に攻撃を
加え,許しを請うているように思える発言をした人物や逃げた者に対しては凶行に
及ばなかったという「行為の違法性の意識は犯行中も明瞭に存在し,犯行内容。」,
も反省の意を示すならば殺したくないというより柔軟な方向への思慮の変化が看取
される」としており,さらに「主観的にであるが,犯行時,被告人には行為に。,
対する逡巡がある(逡巡とは,具体的には)主観的ではあるが,向かってきた。,
人物に対しては攻撃を加えるけれども,相手が許しを請うならば許すというふうな
内容の話である「客観的な状況はともかくとして,被告人自身の気持ちとして。」,
は,こういうような−被告人に立ち向かって来た人物に攻撃を加え,許しを請うて
いるように思える発言をした人物や逃げた者に対しては凶行に及ばないというよう
。」。な−気持ちが主観的にあったということであるという趣旨の説明を加えている
前提として,上記のとおり,被告人の被害者らに対する切付け行為には,躊躇し
ている様子が全く認められず,むしろ,一家4人を問答無用に切り付けることで,
悪口を言われたという幻聴や妄想についての報復行為を貫徹しているものといえ
る。すなわち,G医師が指摘する「被告人に立ち向かって来た人物に攻撃を加え,
許しを請うているように思える発言をした人物や逃げた者に対しては凶行に及ばな
かった」という事実は,客観的には一切存在しない。
ところで,G医師は,先に述べたとおり,被告人が聞いたという,上記指摘に沿
う内容の被害者らの声(許してくれ「もうしようもないことしない「お前「。」,。」,
死ぬまでいやがらせする「もうしない「女を刺しやがってどうのこうの」。」,。」,。
等の声)は「男女2人がスキップをしながら店にやってきた」などの事実に反,。
する記憶とともに,追想妄想である可能性が高いと説明している。そうすると,G
医師の説明によれば被告人が犯行後に妄想的な思い出し方をしたに過ぎないとされ
る被害者らの声やそれに応じた被告人自身の行動(これらは,上記のとおり,客観
的事実に反するものである)を取り上げ,それを犯行時に被告人が主観的に逡巡。
した根拠とすることには疑問がある。
なお,上記イで検討したとおり,被告人は,本件各犯行の最中に,G医師の上記
指摘に沿う内容の声を,追想妄想ではなく,犯行時に存する幻聴として聞いていた
可能性がある。そうだとすれば,被告人は,現実には被害者らの発言や態度に応じ
て犯行に及ぶか否かを選択したわけでは全くないのであるから,単に,犯行時,そ
のような幻聴を聞いていたに過ぎないことになる。このように統合失調症の症状で
ある幻聴のただ中にあった被告人について,幻聴の内容からみて主観的に逡巡があ
,。るとして犯行時に違法性の認識があったと評価することも相当でないと思われる
(ウ)検察官は,上記G鑑定を前提としつつ,被告人が,G医師の問診に対
して「向こうが悪いけれども,自分のやっていることも良くないことだと当時,(
から分かっていたか)はい,そうです「犯行の途中でも,自分は悪いことはし。」,
ていると思った」などと答え,H医師の問診に対しても「殺すのはどうかと思っ。,
て,ためらった「途中で止めようという気持ちは)あったことはあった」な。」,(。
どと答えており,犯行を躊躇した様子がみられることなどを指摘して,本件犯行時
の被告人には違法性の認識が存在していた旨を主張する。
しかし,H医師は,被告人の上記のような思考について「被告人が犯罪歴は全,
くないこと,発病するまでは,真面目であったことなどから,幻聴に起因する恨み
を晴らすことと人を殺すことはいけないという気持ちが,葛藤を起こしても不思議
ではない。その現れが逡巡ということになって現れてくるのであって,それをもっ
て直ちに是非善悪の弁識がある程度できたことにはならない」と証言している。。
H医師の上記証言は相応の説得力がある上,被告人が,本件犯行直前における幻聴
により八方ふさがりの状態になり,精神的に追い込まれた状況になっていたこと,
犯行の具体的状況において,被告人が被害者らの言動により犯行を回避しようとし
た形跡はなく,問答無用に切り付けたことに照らすと,仮に多少は犯行を躊躇した
ことがあったとしても,統合失調症による幻聴や妄想の強い影響の下で,自ら主体
的に意思決定をしたり,その決定内容に従って行動することができたりしたとは認
め難い。
,,,,さらにそもそも被告人が犯行を躊躇したということ自体上記(イ)のとおり
本件各犯行の問答無用で容赦のない執拗な犯行態様に照らし,本件各犯行の最中に
聞いていた可能性のある幻聴(上記「許してくれ「もうしようもないことしな。」,
い」等)による,あるいは,G医師が説明する追想妄想による,誤った認識ない。
し思い込みであるとも考えられる。また,被告人が犯行を躊躇した旨の供述は,被
告人の捜査段階における供述調書に見当たらず,H医師の問診時に一旦言いよどん
だ後に出てきたことからみて,弁護人が弁論で指摘するように,既に幻聴及びこれ
に対する怒りの支配から脱し,規範意識が作用する中で,被告人が(殺害を)ため
らったと答えた可能性も否定できない。
そして,被告人がG医師の問診時に述べた「反省してくれるのなら人殺しのつも
りはなかった「犯行の途中でも,自分は悪いことはしていると思った」といっ。」,。
た心理状態の説明についても,同様に解釈しうる余地がある。
いずれにせよ,検察官の上記主張は採用できない。
オ犯行時の記憶
(ア)被告人は,捜査段階において「Aさんの家の1階には,AさんとM,
さんが座っていたが,2人とも逃げたので,私は,追いかけることはせずに,2階
に上がった「2階で,中学生くらいの男の子が口で刃向かってきた「私が1。」,」,
階に下りると,Aさんが近付いてきたので,顔の辺りやお腹や胸を刺したように思
う」などと,前記前提となる事実と反する供述をしており,また,G医師及びH。
医師の問診時にも,上記イ(ア)で指摘したとおり,到底事実とは思われないことに
ついて述べているのであるから,犯行当時の被告人の意識が清明でなく,記憶が正
しく保持されていない疑いは濃厚である。
H医師も,当公判廷において「被告人が記憶に基づいてきちんと供述してるか,
どうかは疑問である。被害者の供述と,かなり食い違っているところがあったり,
2人の男女がスキップをして走ってきたというふうな,全くあり得ない話を記憶と
して語っていることから,犯行時の記憶はかなり問題がある。ということは,強い
情動に支配されて,この犯行の最中に関しては,意識が必ずしも清明でなかった可
能性はある。G医師はそれを追想妄想,つまり過去にさかのぼって妄想的な意味づ
けをしてる,妄想的に別の話を作ってしまってるというふうに考えているところ,
その可能性もあると思うが,行為の最中に,意識そのものが必ずしも通常の状態で
はなかったと思う」旨を証言している。。
(イ)これに対し,検察官は,被告人の犯行時の記憶は清明であり,被告
人が犯行時,見当識を失っていなかった旨を主張する。しかし,先に検討したよう
に,被告人は,既に捜査段階やG医師の問診時において,被害者らの供述と異なる
事実や到底あり得ない事実について述べていたものであり,これを追想妄想である
と断定することはできないのである。そうすると,犯行の最中,被告人の意識その
ものが必ずしも通常の状態ではなかったと思うとするH医師の上記証言を排斥する
ことはできず,犯行時における被告人の意識が清明であったとは断定し難く,その
記憶が正しく保持されているともいえない。
カ犯行後の言動
検察官は被告人が本件犯行直後被害者方を去る際に警察に電話するんやっ,,,「
たら,してみやがれ」などと捨てぜりふを吐いていることから,警察沙汰になる。
ことを理解しているといえること,本件犯行直後に110番通報をしていること,
被告人は,捜査段階において「人を刺したことは犯罪だと分かっていたことなの,
で,警察に捕まるのは仕方がないと思い,警察に電話をかけた」などと供述して。
いることなどから,被告人は,本件犯行直後に行為の違法性の認識があり,ひいて
は,犯行時にも違法性の認識があったと主張する。
しかし,H医師は,被告人の犯行後の言動について「違法性の認識を行為の最,
中にも保持していたとは考えにくい。行為態様から明らかなように,犯行の経過中
は強度の精神運動興奮の状態にあった。しかし,犯行後は速やかに興奮が醒めてお
り,違法性の認識はその時点で現れたと見るべきである」と述べ,犯行後に11。
0番通報をしたことは,直ちに犯行時にも違法性の認識があったことの裏付けにな
らないとする。また,被告人が統合失調症による幻聴や妄想の影響で異常行動に及
ぶ一方で,その直後には表面上は平静さを取り戻すということについては,本件の
約10日前にあった,被告人のEに対する切付け行為とも相通じるものがあり,H
医師によれば「統合失調症の幻覚の特徴として,いきなり降ってわいたように幻,
,,,聴の声が押し寄せてくるとそれに振り回されてしまうがそれがすっと消えると
まるで何事もなかったかのような状態になってしまう。それはいかにも不自然で,
父親を切ったときにも,それだけのことをしていながら,何事もなかったように振
る舞っていたというのは,これは正に統合失調症の特徴だろうと思う」と説明さ。
れている。このH医師の見解は,被告人の異常行動とその直後の様子との落差を説
明する上で相応の説得力を有するものといえる。これらを踏まえると,犯行後の行
動から犯行時の被告人に違法性の認識があったと直ちに断定することはできないと
いうべきである。この点につき,検察官は,被告人が当公判廷において,裁判官の
「,。」包丁を持って家を出るときは悪いことをしに行くという気持ちはなかったのか
という質問に対し「あった」旨を供述していることを挙げて,被告人には犯行,。
時に違法性の認識があったと主張する。しかし,被告人は,それに引き続いて,被
害者らを刺すなどしている際には,悪いことだとは分からない状態になっていたと
思う旨を供述しているから,検察官の上記主張は必ずしも当たらない。
一方,被告人は,犯行直後,被告人方に戻り,平然とした態度で,犯行に使用し
た包丁を洗って包丁立てにしまったほか,臨場した警察官に対し,自己の犯行を後
悔するような言動を示していなかったのである。このような被告人の犯行後の行動
は,むしろ,被告人が犯行時に違法性の認識を有していたと推認することに疑いを
生じさせる事情といえる。
キ被告人の本来の人格
被告人の性格については,G医師は「内気で引っ込み思案であることに間違い,
はなかろう」と指摘し,H医師も「幼少期には特に問題なく発育し,学業成績。,
も上位であった。性格は内向的,非社交的で,学校では模範生である反面,対人関
係では傷つきやすく敏感な傾向があった」と指摘している。加えて,前記前提と。
なる事実のとおり,被告人は,学生時代の成績は良好で,特に問題行動を起こすこ
ともなく,真面目な性格であり,犯罪歴はなかったというのである。そうすると,
本件犯行は,被告人の本来の人格とは全く異質な行為であるといえる。
クH鑑定に関する検察官の主張の検討
検察官はH鑑定は被告人の問診については2回にわたり合計3時間半行っ,,,,
ただけであり,十分な時間を確保できておらず,かつ,統合失調症の場合,寛解期
でないものについては全て心神喪失と判断してきたと述べるなど,余りにも偏って
いるなどと主張して,H鑑定の正当性を論難する。
しかし,H医師は,G鑑定において,既に詳細な心理テストが行われていたため
に再度の心理テストを行うことは不要だと判断したのであり,H医師もG鑑定の身
体的な諸検査や心理テストの結果を参照しているから,用いた資料や判断方法に問
題はない。問診の回数が少なく,短時間であることについては,被告人が統合失調
症に罹患していること自体はG鑑定と相違なく,別の疾患を検討する必要は余りな
い事例だったこと,被告人の病状が良くなく,できるだけ早く結論を出すべきと考
えたこと,被告人が非常に疲労しやすいため,1回の問診が短時間にならざるを得
なかったことなどを証言しており,不合理な点は見当たらない。鑑定内容も,前記
前提となる事実にあるような犯行前のエピソードをも考慮して,被告人の犯行時の
精神状態を検討しているもので,特段不自然な点は見当たらない。H医師は,当公
判廷において「急性期に関しては,基本的には心神喪失という方向で検討する。,
しかし,急性期だからというだけでは説明にならないので,その場合の症状の程度
であるとか,犯行との関連性をかなり詳しく検討した上で心神喪失という方向で検
討する」旨を証言しており,本件のH鑑定の内容をみても,H医師が初めから心。
神喪失ありきという偏った判断をしたとも認め難い。
そうすると,H鑑定を論難する検察官の上記主張は,いずれも採用できない。
ケ小括
以上に検討したところによると,被告人は,統合失調症の症状を相当悪化させ,
幻聴や妄想が活発化していたところ,本件犯行直前に聞いた幻聴により八方ふさが
りの状態になったことから,この上は被害者一家を殺害しようと決意したもので
あって,このような犯行動機は了解することが著しく困難であるし,被告人の本来
の人格とは全く異質なものであり,統合失調症による幻聴や妄想がなければ殺害を
決意することはなかったという意味において,幻聴や妄想に強く影響されていたこ
。,,,とは明らかであるまた犯行時の状況も被告人が犯行をためらった形跡はなく
110番通報をしたことなどの犯行後の行動を検討しても,被告人が正に犯行時に
違法性の認識を有していたとは断定し難い。被告人は,常日頃,殺人が違法な行為
であるという抽象的かつ観念的な知識を有していたが,犯行時,統合失調症による
幻聴や妄想の強い影響を受けて,自らの行為について,長年にわたって悪口を言っ
てくるという不当な行為に対する最後の対抗手段として,正当性を有するものと不
合理にも認識していたものと認められ,反対動機を形成する前提として,自己の直
面する具体的状況に応じて行為の是非善悪を弁別する能力は,完全に失われていた
疑いが濃厚である。さらに,幻聴とのやり取りで激情に駆られ,強度の精神運動興
,,,奮の状態にあり意識が清明でなかった可能性すらあるのであるから仮に犯行時
是非善悪を弁別する能力がごくわずかに残存していたとしても,その弁別に従って
自己の行動を制御する能力は失われていた疑いが濃厚である。
検察官は,違法性の認識,是非弁別能力及び行動制御能力のいずれも欠けていた
とするH鑑定を論難して,上記判断と異なり,被告人は心神耗弱状態にとどまって
いた旨を主張するが,既に説示したところから明らかなとおり,採用の限りではな
い。
そうすると,被告人は,本件犯行時,是非善悪を弁別し,それに従って行動を制
御する能力を失っており,心神喪失の状態であったとの合理的な疑いが残るといわ
ざるを得ない。
第3結論
よって,被告人の本件各行為は,心神喪失者の行為として罪とならないから,刑
事訴訟法336条前段により,被告人に対し無罪の言渡しをする。
よって,主文のとおり判決する。
(求刑懲役10年,文化包丁の没収)
平成20年5月26日
大阪地方裁判所第11刑事部
西田眞基裁判長裁判官
千賀卓郎裁判官
馬場崇裁判官

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