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令和2年5月29日判決言渡同日原本交付裁判所書記官
平成30年(ワ)第1206号損害賠償請求事件
口頭弁論終結日令和2年2月12日
判決
主文5
1被告aは,原告に対し,62万円及びこれに対する平成
29年9月1日から支払済みまで年5分の割合による金員
を支払え。
2被告国は,原告に対し,11万円及びこれに対する平成
29年9月1日から支払済みまで年5分の割合による金員10
を支払え。
3原告のその余の請求をいずれも棄却する。
4訴訟費用は,原告に生じた費用の3分の2と被告aに生
じた費用全部の合計につき,その5分の2を原告の,5分
の3を被告aの各負担とし,原告に生じた費用の3分の115
と被告国に生じた費用全部の合計につき,その5分の4を
原告の,5分の1を被告国の各負担とする。
事実及び理由
第1請求
1被告aは,原告に対し,106万9800円及びこれに対する平成29年920
月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2被告国は,原告に対し,55万円及びこれに対する平成29年9月1日から
支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
1本件は,札幌刑務所の被収容者である原告が,①同じく被収容者である被告25
aから暴行を受けて負傷したと主張して,被告aに対し,不法行為に基づき,
損害賠償金106万9800円及びこれに対する不法行為の日である平成29
年9月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払
を求めるとともに,②その場に居合わせた刑務官2名が上記暴行を制止してお
らず,この点に国家賠償法上の違法があると主張して,被告国に対し,同法1
条1項に基づき,損害賠償金55万円及びこれに対する不法行為の日である平5
成29年9月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金
の支払の支払を求める事案である。
2前提事実(根拠を括弧内に示す。)
(1)当事者
ア原告及び被告aは,平成29年9月1日当時,いずれも札幌刑務所に受10
刑者として収容されていた者である(争いのない事実)。
イ被告国は,札幌刑務所を設置している(争いのない事実)。
(2)被告aによる暴行
ア被告aは,平成29年9月1日午前10時55分頃,札幌刑務所体育館
内において,パイプ椅子の一つに座っていた原告に対し,「この野郎」な15
どと語勢を上げて,近くの椅子をなぎ倒しながら近づいた上,その顔面を
手拳で殴打し,これにより転倒した原告の顔面を更に多数回殴打し,その
体を足蹴りするといった暴行を30秒近くにわたって加え続けた(以下,
この一連の暴行を「本件暴行」という。甲1~3,12〔枝番号含む。〕)。
本件暴行の際,刑務官のうち1名(以下「刑務官A」という。)が上記20
体育館内の北側に居合わせ,また他の1名(以下「刑務官B」という。)
が上記体育館内の南側に居合わせていた(争いのない事実)。
イ原告は,本件暴行によって負傷し,上顎部前歯折損,上口唇及び下口唇
裂傷,右目打撲による視力低下疑い,腰部及び頸部捻挫,右下腿挫傷との
診断を受けた。また,原告が当時使用していた眼鏡は,本件暴行によって25
破損した(争いのない事実,甲4~7)。
(3)被告aの責任原因
被告aは,原告に暴行を加えて傷害を負わせた上,その眼鏡を破損させた
のであって,原告に対して民法709条所定の不法行為責任を負う(争いの
ない事実)。
3争点5
(1)被告aに対する請求の当否
損害の発生及び額
(2)被告国に対する請求の当否
ア国家賠償法上の違法性の有無
イ損害の発生及び額10
4争点についての当事者の主張
(1)争点(1)(被告aに対する請求の当否──損害の発生及び額)について
(原告の主張)
ア物的損害(眼鏡)6万9800円
本件暴行により破損した眼鏡は原告が6万9800円で購入したもので15
あって,この額が原告に生じた物的損害の額となる。
イ将来治療費40万0000円
原告の前歯は本件暴行により折損し,治療の過程でこれを根元から抜去
した。当該部分を根本的に治療するためには,出所後にインプラント治療
を受けなければならず,その費用は40万円と見込まれる。20
ウ慰謝料50万0000円
原告は,何ら落ち度がないにもかかわらず,被告aから一方的に本件暴
力を受け,傷害を負ったものであって,原告の上下口唇に裂傷等が生じて
食事や会話がしにくくなり,また,精神的衝撃も大きく,日常生活に負担
が生じていることなどからすれば,原告の受けた精神的苦痛を慰謝するに25
は,50万円を下回らない慰謝料を要する。
エ弁護士費用10万0000円
原告は,本件暴行について訴訟提起を余儀なくされたのであって,その
訴訟追行に必要な弁護士費用は,被告aに対するものとしては10万円が
相当である。
(被告aの主張)5
原告の眼鏡が破損した事実は認めるが,当該眼鏡を原告が6万9800円
で購入したとの事実については知らず,この額が物的損害の額となるとの主
張は争う。
また,原告の前歯については,ブリッジや入れ歯による治療なども考えら
れるのであって,インプラント治療の必要性を争う。10
さらに,原告の主張する慰謝料額については,高額に過ぎる。
(2)争点(2)ア(国家賠償法上の違法性の有無)について
(原告の主張)
刑務官は,刑務所の被収容者である受刑者の生命や身体に危険が生じない
よう配慮する注意義務を負っている。しかるに,刑務官A及びBは,本件暴15
行の状況を確認し,それを制止し得る唯一の立場であったにもかかわらず,
口頭で中止を指示したのみで,本件暴行を実力で制止しなかったのであるか
ら,上記注意義務を怠ったもので,国家賠償法1条1項の適用上違法である。
この点につき被告国は,刑務官A及びBが被告aに有形力を行使した場合,
収拾困難な事態に陥るおそれがあったと主張するが,他の受刑者は本件暴行20
に際してその場で事の行方を傍観していたにすぎず,被告a又は原告に加勢
したり,興奮したりしていたものではなかったのであって,上記のおそれが
あったとはいえない。
(被告国の主張)
ア刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(以下「刑事収容施設25
法」という。)77条1項は,被収容者が他人に危害を加えるなどした場
合に,刑務官が,合理的に必要と判断される限度で,その行為を制止する
などの措置を執ることができるとしており,措置の必要性があり,その措
置の内容が事態に応じて相当でなければならないという比例原則を定めた
ものということができる。そして,こうした場合に刑務官の権限の不行使
が国家賠償法1条1項の適用上違法となるのは,具体的事情の下において5
制止等の措置を執らなかったことが許容される限度を逸脱して著しく合理
性を欠くときに限ると解すべきである。
イ本件においては,体育館内には当時52名の受刑者がおり,これを刑務
官A及びBの2名で戒護していたものであって,措置の内容については,
刑務官としての合理的な裁量に委ねられていたというべきである。10
そして,刑務官A及びBは,多数の応援職員が直ちに駆けつけることが
可能であったという状況を踏まえ,平成22年6月に発出された札幌刑務
所首席指示第30号に従い,本件暴行開始直後にそれぞれ非常ボタンを押
して応援を求め,応援職員の到着を待つこととした上で,暴行の中止を重
ねて指示するなど,混乱を回避する措置を執っていた。その結果,非常ボ15
タン押下の約28秒後に応援職員約30名が到着し,制止を実行したもの
である。
このように,刑務官A及びBは,合理的な判断に基づいて適切に対応し
ていたのであって,許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠いていた
とはいえない。20
ウこの点につき原告は,刑務官A及びBは実力をもって本件暴行を制止す
べきであったと主張する。
しかし,本件においては,刑務官A及びBは,体育館内の規律及び秩序
を維持するため,被告aだけではなく他の複数の受刑者らの動静も監視し
て指示をする必要があった。25
また,仮に刑務官A及びBが実力をもって本件暴行を制止した場合,受
刑者らから襲撃を受け,鍵を奪取されるなどの収拾困難な事態に陥る可能
性があった。現に,札幌刑務所においては,平成16年6月には受刑者を
制圧した刑務官が複数の受刑者らから暴行を受けた事例が発生し,平成2
8年6月にも受刑者間のトラブルを制止した刑務官が当該受刑者から暴行
を受けた事例が発生していた。5
さらに,刑務官A及びBは警棒及び第一種手錠を貸与されておらず,警
備用具等も貸与されていなかったのであり,他方で被告aの身長は180
cmもあったのであって,そもそも本件においては刑務官A及びBが本件
暴行を制止することができたとはいえず,結果の回避・防止可能性がなか
った。10
したがって,原告の上記主張は,理由がない。
(3)争点(2)イ(損害の発生及び額)について
(原告の主張)
ア慰謝料50万0000円
刑務所内では,他の受刑者から暴力を振るわれた受刑者が応戦すると,15
けんか闘争として両者が処罰の対象となる一方で,暴力行為に抵抗しなけ
れば生命や身体に危険が生じるのであるから,受刑者は刑務官がこうした
暴力行為を制止するものと信頼しているのであり,原告も同様の信頼を抱
いていた。ところが,本件の刑務官2名は本件暴行を制止せず,これによ
り原告の上記信頼は裏切られたのであって,しかも,原告は他の受刑者の20
見ている前で一方的な暴力行為を甘受せざるを得なかった。これによる原
告の精神的苦痛を慰謝するには,50万円を下回らない慰謝料を要する。
イ弁護士費用5万0000円
原告は,本件の訴訟提起を余儀なくされたのであって,その訴訟追行に
要する弁護士費用は,被告国に対するものとしては5万円が相当である。25
(被告国の主張)
争う。
第3当裁判所の判断
1争点(1)(被告aに対する請求の当否──損害の発生及び額)について
(1)物的損害(眼鏡)2万0000円
原告の眼鏡は本件暴行により破損したものであるところ(前記前提事実5
(2)イ),その時価額を認定するに当たって購入時期及び購入額を明らかにす
る的確な証拠は見当たらないものの,一般的な眼鏡の価格等に照らし,少な
くとも2万円相当の損害を被ったものと認めるのが相当である。
(2)将来治療費5万0000円
原告の上顎部の前歯は,本件暴行により折損し(前記前提事実(2)イ),治10
療の過程で根元から抜去されたものと認められる(甲3の1〔14頁〕,原
告本人〔7頁〕)。
ところで,証拠(甲14,16〔枝番号含む〕)及び弁論の全趣旨によれ
ば,こうした場合の治療方法としてインプラント,入れ歯,ブリッジ治療等
が考えられるところ,このうちインプラント治療は,他の治療方法と比較す15
ると,見た目が美しく,健康な歯への影響も少ない一方,費用が高額である
といった特徴があり,総額30万から40万円程度を要する例もあるものと
認められる。
本件についてこれをみるに,原告に対してインプラント治療を行うのが最
適であることを認めるに足りる証拠はないのであって,将来の治療費として20
インプラント治療に係る費用を要するとは直ちにいえない。もっとも,原告
の前歯が根元から抜去されている以上,何らかの治療を要することは明らか
というべきであり,その費用としては,上記各証拠及び弁論の全趣旨に照ら
し,5万円を下らないものと認めるのが相当である。
(3)慰謝料50万0000円25
前記前提事実(2)ア及び(3)によれば,本件暴行は,被告aから突然一方的
に受けたというべきものである上,本件の証拠上,原告に特段の落ち度や原
因があったことはうかがわれないのであって,これにより原告の被った傷害
の程度にも照らすと,本件暴行により受けた原告の精神的苦痛は相当程度大
きなものといわざるを得ない。
この点につき被告aは,本件暴行は他の受刑者から指示されたものであり,5
自らは当該受刑者の道具にすぎなかった旨主張する(慰謝料額についての事
情の主張と解される。)。しかし,証拠(乙ロ1)によれば,確かに他の受刑
者が被告aに対して原告への暴行を指示したことがうかがわれるものの,こ
れにより,本件暴行によって原告に生じた精神的苦痛自体が軽減されるとか,
慰謝料が低額なものにとどまるなどということは困難である。10
そして,以上の事情のほか本件に現れた全事情を踏まえると,原告の受け
た精神的苦痛に係る慰謝料は,50万円をもって相当と認める。
(4)弁護士費用5万0000円
弁論の全趣旨によれば,原告は,相当額の報酬をもって本件訴訟の追行を
原告訴訟代理人弁護士に委任したことが認められるところ,前記(1)ないし15
(3)の損害の合計額のほか本件に現れた全事情に照らすと,被告aとの関係
においては,5万円の限度で通常生ずべき弁護士費用であるものと認められ
る。
2争点(2)(被告国に対する請求の当否)について
(1)認定事実20
証拠(乙イ19の1・2,イ21のほか後掲のもの)及び弁論の全趣旨に
よれば,次の事実が認められる。
ア原告及び被告aは,平成29年9月1日当時,いずれも札幌刑務所の第
9工場に配役されていた(甲3〔2頁〕,12〔2頁〕)。
イ第9工場の受刑者ら52名は,同日午前10時30分(以下,平成2925
年9月1日の出来事については時刻のみを記載する。)から,体育館内で
運動時間を過ごしており,刑務官A及びBがこれに立ち会っていた。
午前10時54分56秒頃,原告は別紙見取図1記載の「原告」の位置
にあるパイプ椅子に座り,被告aは同見取図1記載の「被告a」の位置に
あるパイプ椅子に座っていた。また,刑務官A及びBはそれぞれ同見取図
1記載の「刑務官A」「刑務官B」の位置に立っていた(甲3の1〔7,5
8頁,現場見取図3〕,10〔4,5頁,現場見取図3〕,11〔4頁,現
場見取図3〕,12〔8頁〕,乙イ3〔2枚目〕,イ4〔写真1,2〕,イ5
〔2枚目〕,証人b〔5頁〕)。
ウ被告aは,午前10時54分58秒頃,パイプ椅子から立ち上がり,別
紙見取図1記載の矢印のとおり原告に向かって走り出した。そして,「こ10
の野郎」などと語勢を上げ,他のパイプ椅子をなぎ倒しながら原告に近づ
き,午前10時55分7秒頃,原告の前にあったパイプ椅子を持ち上げて
床にたたきつけた。
刑務官Aはこれを現認し,拡声器を使用して「やめろ」と発言したが,
被告aは,午前10時55分10秒頃,原告の顔面を手拳で殴打し始めた。15
そのため,刑務官Aは,午前10時55分11秒頃,そばにあった非常ボ
タンを押し,また被告aによる殴打を現認した刑務官Bもほぼ同時に非常
ボタンを押した(甲3の1〔8頁〕,10〔6,7頁〕,11〔5,6頁〕,
12〔10,11頁〕,乙イ3〔2,3枚目〕,イ4〔写真3~16〕,イ
5〔2枚目〕,証人b〔6~8頁〕,原告本人〔2~4頁〕)。20
エ被告aは,他の受刑者の右頰付近を1回殴りつけた後,倒れた原告に馬
乗りになり,その顔面を多数回殴打し,体を足蹴りするなどの暴行を続け
た。
この間,刑務官Aは「離れろ」,刑務官Bは「やめろ」,「離れろ」と発
言し(午前10時55分14秒頃),また刑務官Aは「やめろ」と発言し25
たが(同20秒頃),被告aは暴行を止めなかった。また,刑務官Aは,
午前10時55分22秒頃には別紙見取図2の「刑務官A」の位置まで近
づき,刑務官Bも同23秒頃には同見取図2の「刑務官B」の位置まで近
づいたが,両名ともしばらくはそれ以上近づくことはなく,被告aによる
暴行を遠巻きに眺めていた(甲3の1〔8~11頁〕,10〔8~11頁〕,
11〔7~9頁〕,12〔11~13頁〕,乙イ3〔3枚目〕,イ4〔写真5
19~28〕,イ5〔3枚目〕,証人b〔9,10頁〕,原告本人〔4,1
1頁〕,被告a本人〔16頁〕)。
オ近くに居合わせた他の受刑者らの多くは,被告aの暴行を静観するにと
どまっていた。もっとも,このうち1名の受刑者は,午前10時55分2
3秒頃,被告aに走り寄り,同30秒頃に被告aを原告から引き離した。10
しかるに,被告aは再び原告に近づき,その胸倉を両手でつかむなどし
た。これに気付いた刑務官Bは,午前10時55分35秒頃,被告aの方
に2,3歩ほど歩みだしたものの,同38秒頃,応援職員を待つことにし,
それ以上近づくのをやめた(甲10〔11頁〕,12〔13頁〕,乙イ3
〔3,4枚目〕,イ4〔写真19~43〕,イ5〔3枚目〕,証人b〔10,15
14,15頁〕,原告本人〔6頁〕)。
カ午前10時55分39秒頃,他の刑務官約30名が順次体育館内に駆け
付け,うち1名が被告aの右腕を,他の1名がその左腕を制して体育館東
側壁際まで連れていき,そのまま別室に連行した(甲3の1〔12頁〕,
10〔11,12頁〕,11〔9頁〕,12〔13頁〕,乙イ3〔4枚目〕,20
イ4〔写真44,45〕,イ5〔3枚目〕,イ14,被告a本人〔12頁〕)。
(2)争点(2)ア(国家賠償法上の違法性の有無)について
ア原告は,刑務官A及びBが本件暴行を実力で制止しなかったことが,国
家賠償法1条1項の適用上違法であると主張する。
そこで検討するに,刑事収容施設法77条1項は,刑務官は,被収容者25
が他人に危害を加える行為をし,又はこの行為をしようとする場合におい
て,合理的に必要と判断される限度で,その行為を制止し,その被収容者
を拘束し,その他その行為を抑止するため必要な措置を執ることができる
旨を定めている。
したがって,刑務官は,同項に基づき,被収容者が他人に危害を加える
行為をし,又はこの行為をしようとする場合において,当該行為を制止す5
る権限(以下「制止権限」という。)を有していることになる。
そして,国の公務員によるこうした権限の不行使は,その権限を定めた
法令の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,具体的事情の下におい
て,その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認めら
れるときは,その不行使により被害を受けた者との関係において,国家賠10
償法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である(最高裁平
成16年4月27日第三小法廷判決・民集58巻4号1032頁,最高裁
平成16年10月15日第二小法廷判決・民集58巻7号1802頁参
照)。
イこれを本件についてみるに,刑事収容施設法77条1項では,制止権限15
の行使を合理的に必要な限度で行うべきことは定められているものの,制
止権限の行使が義務付けられる場合があるのか否かについては,同項の文
言上,明示的な定めはない。
しかし,そもそも刑事収容施設法の趣旨,目的は,刑事収容施設の適正
な管理運営を図るとともに,被収容者等の人権を尊重しつつ,これらの者20
の状況に応じた適切な処遇を行うことにある(1条)。また,同法上,刑
事施設の規律及び秩序は適正に維持されなければならず(73条1項),
この目的を達成するため執る措置は,被収容者の収容を確保し,並びにそ
の処遇のための適切な環境及びその安全かつ平穏な共同生活を維持するた
め必要な限度を超えてはならないとされているのであって(同条2項),25
同法77条1項の定める刑務官の制止権限も,これらの各規定を受けて定
められたものと解することができる。
したがって,刑務官には,刑事施設の規律及び秩序を適正に維持して,
被収容者の収容を確保するとともにその安全かつ平穏な共同生活が維持さ
れた状態を保つ義務が一般的に生じているのであり,そうした義務の履行
のために制止権限を行使すべきものといえるのであるから,刑務官には,5
状況に応じ,制止権限の行使が義務付けられる場合もあるものというべき
である。
現に,証拠(乙イ1)によれば,「刑務官の職務執行に関する訓令」(平
成18年5月23日付け法務省矯正訓第3258号法務大臣訓令)におい
て,刑務官には,被収容者等の動静に不審な点が認められるときは,速や10
かに,その原因等を確認し,必要な措置を執ることが求められている(1
4条15号)。また,証拠(イ16)によれば,本件の札幌刑務所におい
ては,刑務官らに対し,平成22年6月8日付け首席指示第30号として,
①けんか事犯等を現認した場合は,非常ベル通報等をもって非常通報する,
②当該けんか事犯等の制止を行う,③なお,「一人で制止することが困難15
と認められる場合」には,応援職員の到着を待って制止に当たるものとし,
同職員が到着するまでの間は口頭で制止するなどと指示されていたことが
認められる。これらの訓令及び指示は,いずれも,刑務官において制止権
限の行使を義務付けられる場合があることを前提とするものということが
できる。20
ウ他方,被収容者は,刑事収容施設法74条1項により,刑事施設の長の
定める遵守事項に従うものとされており,当該遵守事項には犯罪行為をし
てはならないこと(同条2項1号),他人に対して乱暴な言動をしてはな
らないこと(同項2号),刑事施設の職員の職務の執行を妨げてはならな
いこと(同項4号)が含まれている。そして,札幌刑務所長は,被収容者25
の遵守事項として,「他人に暴行を加え,若しくは傷害を与え,又はこれ
らの行為を企ててはならない」,「他人とけんかし,若しくは口論し,又は
これらの行為を企ててはならない」,「職員の職務の執行を,暴行,脅迫そ
の他の方法で妨げてはならない」と定めるほか,職員の指示に対する違反
についても定めていたものである(乙イ23〔第1の23・24・37項,
第2〕)。5
したがって,札幌刑務所の被収容者は,刑務官の職務執行に従う立場に
あって,他人から暴行を受けたとしてもこれに対して反撃に及ぶことはで
きず,刑務官の職務執行によって自己の身体の安全を図らざるを得ないの
であるから,刑務官の制止権限の行使につき,これにより安全かつ平穏な
共同生活を確保し,その自己の身体の安全を図るという法的利益を有して10
いるということになる。
エ以上を踏まえると,札幌刑務所の刑務官においては,被収容者の安全か
つ平穏な共同生活を維持するために必要とされる場合であって,被収容者
の身体に対する危険が現実化している状況が生じたときには,制止権限を
行使する法的義務が生じるものというべきである。15
オところで,前記認定事実によれば,被告aはパイプ椅子を床にたたきつ
けるという粗暴な行動をした上,刑務官Aからの口頭での中止指示にもか
かわらず,原告の顔面を手拳で殴打し始めたのであって,これを刑務官A
及びBの2名が現認していたというのである。そのため,この時点で,被
告aが遵守事項に反して他人に暴行をし始めており,これにより原告の身20
体に対する危険が現実化していたのである以上,これを現認していた刑務
官A及びBには,被収容者の安全かつ平穏な共同生活を維持するために,
単なる口頭の指示にとどまらず,実力をもって被告aの暴行を制止する必
要が生じていたというべきである。しかも,この状況は,明らかに,上記
イの首席指示にいう「けんか事犯等」の発生に当たるのであって,当該首25
席指示に照らしても,これに居合わせた刑務官A及びBにおいては,非常
ボタンを押して非常通報するだけでなく,直接,本件暴行を制止すべきで
あったものということができる。
したがって,本件暴行の開始当時,刑務官A及びBには,本件暴行の制
止をする職務上の法的義務があったというべきである。
しかるに,刑務官A及びBは,実力をもって被告aの本件暴行を制止す5
ることなく,漫然と「やめろ」,「離れろ」などと発言するのみで,30秒
近くもの間,原告が被告aから殴る蹴るの暴行を受けているのを,別紙見
取図2記載の位置から遠巻きに眺めていたものであって,これに,暴行に
及んでいたのが被告aの1名だけであったこと,現に,後に被告aは他の
受刑者1名のみによって原告から引き離されていたことなども併せ考慮す10
ると,刑務官A及びBによる制止権限の不行使は,その権限を定めた法令
の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,具体的事情の下において,
その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くものといわざ
るを得ない。
カこれに対し,被告国は,次のとおり主張するが,それぞれにおいて判断15
するとおり,いずれも採用することができない。
(ア)まず,被告国は,刑務官A及びBにおいては,体育館内の規律及び秩
序を維持するため,被告aだけではなく他の複数の受刑者らの動静も監
視して指示をする必要があったと主張し,その根拠として,①受刑者の
うち1名は,原告に罵声を浴びせ,被告aをそそのかしていた,②周囲20
の受刑者らは,その場から離れるよう刑務官A及びBから指示されたに
もかかわらず,これに従っていなかった,③別の受刑者1名は,被告a
を原告から引き離していたことなどを挙げる。
しかし,上記①については,このような事実を認めるに足りる的確な
証拠は見当たらない。また,上記②については,刑務官A及びBがそれ25
ぞれ「離れろ」と発言していた事実は認められるものの,これが原告か
ら離れるよう被告aに対して発せられていたものか,それとも原告及び
被告aから離れるよう周囲の受刑者らに対して発せられていたものなの
かは,証拠上は必ずしも判然としないし,周囲の受刑者らにおいて,こ
れを被告aに対して発せられたものと受け止めた可能性も否定すること
ができない。上記③については,別の受刑者1名は単に被告aを原告か5
ら引き離したにすぎず,体育館内の規律及び秩序を害するような特段の
暴力行為には及んでいない。そして,これらの点を措くとしても,上記
①ないし③の各行為はいずれも本件暴行に端を発したものと解される上,
各行為により体育館内の規律及び秩序が維持されなくなる危険性という
ものはなお抽象的なものにとどまるのであって,その抑止が現に行われ10
ている本件暴行の制止に優先するものとはにわかに考え難い。
したがって,被告国の上記主張は,採用することができない。
(イ)次に,被告国は,仮に刑務官A及びBが実力をもって本件暴行を制止
した場合,受刑者らから襲撃を受け,鍵を奪取されるなどの収拾困難な
事態に陥る可能性があったと主張するとともに,現に札幌刑務所におい15
ては,①平成16年6月には受刑者を制圧した刑務官が複数の受刑者ら
から暴行を受けた事例が発生し,②平成28年6月にも受刑者間のトラ
ブルを制止した刑務官が当該受刑者から暴行を受けた事例が発生してい
たと主張する。
しかし,証拠(乙イ7)によれば,上記①の事例は,受刑者1名が従20
前から刑務官に対して反抗的な言動を取り続けていたという背景事情の
下で,受刑者らが刑務官に暴行を加えたものであるところ,本件におい
てはこのような背景事情の存在は証拠上うかがわれない。また,証拠
(乙イ7,イ15)によれば,上記①及び②の事例はいずれも受刑者を
制止・制圧した刑務官は1名であったようにうかがわれるのに対し,本25
件において被告aを制止し得た刑務官は刑務官A及びBの2名もいたの
であるから,本件は上記①及び②の事例とは事案を異にする。そして,
そもそも本件においては,防犯カメラの映像(乙イ19の1・2)を見
ても,被告a以外の受刑者らの多くはただ茫然と立ちすくんでいたよう
にも見受けられるのであって,その映像上,刑務官A及びBが被告aの
本件暴行を制止した場合に,他の受刑者らから襲撃を受けたり,鍵を奪5
取されたりするような危険性が生じていたようにはうかがわれない。
したがって,被告国の上記主張は,採用することができない。
(ウ)さらに,被告国は,そもそも本件においては刑務官A及びBが本件暴
行を制止することができたとはいえず,結果の回避・防止可能性がなか
ったと主張し,その根拠として,①刑務官A及びBは警棒及び第一種手10
錠を貸与されておらず,警備用具等も貸与されていなかったこと,②被
告aの身長は180cmもあったことなどを挙げる。
しかし,前記認定事実のとおり,被告aは僅か1名の受刑者によって
原告から引き離されているのであるし,その後も,駆け付けた刑務官ら
により,警棒等も使用されずに本件暴行が制止されているのであって,15
刑務官A及びBによって本件暴行を制止することができなかったものと
は,にわかに考え難い。
したがって,被告国の上記主張は,採用することができない。
(エ)なお,被告国は,上記イの首席指示にいう「一人で制止することが困
難と認められる場合」には,複数人で制止することが困難と認められる20
場合も含まれるのであって,本件はそのような場合に当たるから,当該
首席指示によっても口頭の制止で足りる旨主張する。
しかし,「一人」という語に複数人の場合を含むと解釈することは,
その一般的語義に照らして困難であるし,そのような解釈を裏付けるよ
うな定めも上記首席指示には見当たらない。被告国の上記主張は,採用25
することができない。
(オ)以上に加え,被告国は他にも種々の主張をするが,いずれも前記判断
を左右し得ない。
キ以上によれば,刑務官A及びBによる制止権限の不行使は,原告との関
係において,国家賠償法1条1項の適用上違法となるものというべきであ
る。5
(3)争点(2)イ(損害の発生及び額)について
原告は,刑務官A及びBによる制止権限の不行使の結果,上記(2)ウの法
的利益を侵害されたものであるところ,上記不行使の態様,時間,本件暴行
の内容,原告の傷害の程度その他本件に現れた一切の事情を考慮すると,こ
れにより原告に生じた精神的苦痛を慰謝するための慰謝料は,10万円と認10
めるのが相当である。
また,前記のとおり原告は本件訴訟の追行を原告訴訟代理人弁護士に委任
したところ,上記慰謝料額のほか本件に現れた全事情に照らすと,被告国と
の関係においては,1万円の限度で通常生ずべき弁護士費用であるものと認
められる。15
3結論
よって,原告の請求は,被告aに対するものにつき損害賠償金62万円及び
これに対する遅延損害金の限度で,被告国に対するものにつき損害賠償金11
万円及びこれに対する遅延損害金の限度でそれぞれ理由があるからその限度で
これを認容し,その余はいずれも理由がないから棄却することとして,主文の20
とおり判決する。
札幌地方裁判所民事第5部
裁判長裁判官瀬孝
裁判官萩原孝基
裁判官佐藤克郎

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