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裁判例


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主      文
1 厚生大臣が平成7年11月9日付けで原告に対してした原子爆弾被爆者に対
する援護に関する法律11条1項所定の認定の申請を却下する旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
 主文同旨
第2 事案の概要
 本件は,長崎市内で原子爆弾に被爆した原告が,昭和56年ないし昭和59年ころ
から肝機能障害を指摘され,平成4年以降入院ないし通院による治療を受けてきたと
ころ,かかる肝機能障害が原子爆弾の放射線に起因するものであるとの認定の申請
を行ったのに対し,厚生大臣が,原告の肝機能障害は原子爆弾の放射線に起因する
ものとは認められず,原告の治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受けているとも
認められないとして,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律11
条1項所定の認定の申請を却下する旨の処分をしたことから,原告が,これを不服
として,その取消しを求めた事案である。
1 法令の定め等
(1) 被爆者援護法の制定に至るまでの被爆者に対する援護施策
ア 原爆医療法の制定及びその内容
 昭和32年,被爆者に対する援護施策として,原子爆弾被爆者の医療等に
関する法律(昭和32年法律第41号。以下「原爆医療法」という。)が制定された。
 同法は,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者が今なお置か
れている健康上の特別の状態にかんがみ,国が被爆者に対し健康診断及び医療を行
うことにより,その健康の保持及び向上を図ることを目的とするものであった(同
法1条)。
 同法は,原子爆弾が投下された際,当時の広島市若しくは長崎市の区域
内又は政令で定めるこれらに隣接する区域内にあった者その他同法2条各号の一に該
当する者であって,被爆者健康手帳の交付を受けたものを同法にいう「被爆者」と
規定したうえで,都道府県知事が被爆者に対して健康診断を行うとともに(同法
4条),その結果必要があると認めるときは,当該健康診断を受けた者に対して必要
な指導を行うこととした(同法6条)。
 また,同法は,厚生大臣が,原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,又
は疾病にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を
行うこととし(同法7条1項本文),当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射能に起因す
るものでないときは,その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているた
めに現に医療を要する状態にある場合に限り,必要な医療の給付を行うこととした
(同項ただし書)うえで,上記の医療の給付を受けようとする者は,あらかじめ,
当該負傷又は疾病が原子爆弾の傷害作用に起因する旨の厚生大臣の認定(以下「原
爆症認定」という。)を受けなければならないこととした(同法8条1項)。
 その後,昭和35年には,原爆症認定を受けた被爆者を支給の対象とする
医療手当が創設された(同年法律第136号)。
イ 被爆者特措法の制定及びその内容
 昭和43年,被爆者に対する援護施策として,原子爆弾被爆者に対する特
別措置に関する法律(昭和43年法律第53号。以下「被爆者特措法」という。)が制
定された。
 同法は,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者であって,原
子爆弾の傷害作用の影響を受け,今なお特別の状態にあるものに対し,特別手当の
支給等の措置を講ずることにより,その福祉を図ることを目的とするものであった
(同法1条)。
 同法は,原爆医療法8条1項に基づく原爆症認定を受けた者であって,同
項の認定に係る負傷又は傷病の状態にあるものに対して,特別手当を支給すること
や(被爆者特措法2条1項),原爆医療法7条1項の規定による医療の給付を受けてい
る被爆者に対しその給付を受けている期間について政令の定めるところにより,医
療給付を支給すること(被爆者特措法7条)等を規定していた。
 その後,昭和49年には,原爆症認定を受けた被爆者であって,当該認定
に係る負傷又は疾病の状態でなくなったものを支給の対象とする特別手当が創設さ
れた(同年法律第86号)。
 さらに,昭和56年には,前記アの原爆医療法に基づく医療手当と,上記
の被爆者特措法に基づく特別手当を統合した医療特別手当が創設され,原爆症認定
を受けた被爆者であって当該認定に係る負傷又は疾病の状態にあるものは,医療特
別手当の支給を受けることができることとされた(同年法律第70号)。
ウ 被爆者援護法の制定
 平成6年,原爆医療法と被爆者特措法を一元化するものとして,原子爆弾
被爆者に対する援護に関する法律(平成6年法律第117号。以下「被爆者援護法」と
いう。)が制定され,平成7年7月1日から施行されるとともに(同法附則1条),原
爆医療法及び被爆者特措法は廃止された(被爆者援護法附則3条)。
(2) 被爆者援護法の内容
ア 前文-被爆者援護法制定の趣旨及び目的
 「昭和20年8月,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類のな
い破壊兵器は,幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず,たとい一命をとり
とめた被爆者にも,生涯いやすことのできない傷痕と後遺症を残し,不安の中での
生活をもたらした。
このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康
の保持及び増進並びに福祉を図るために,原子爆弾被爆者の医療等に関する法律及
び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し,医療の給付,医療特別
手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また,我らは,再びこのよ
うな惨禍が繰り返されることのないようにとの固い決意の下,世界唯一の原子爆弾
の被爆国として,核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続け
てきた。
ここに,被爆後50年のときを迎えるに当たり,我らは,核兵器の究極的
廃絶に向けての決意を新たにし,原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう,
恒久の平和を祈念するとともに,国の責任において,原子爆弾の投下の結果として
生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であること
にかんがみ,高齢化の進行している被爆者に対する保険,医療及び福祉にわたる総
合的な援護策を講じ,あわせて,国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記
するため,この法律を制定する。」
イ 被爆者援護法(ただし,特段の断りのない限り,平成8年法律第82号によ
る改正前のもの。以下同じ。)にいう「被爆者」とは,次のaないしdのいずれか
に該当する者であって,被爆者健康手帳の交付を受けたものをいう。
a 原子爆弾が投下された際当時の広島市若しくは長崎市の区域内又は政
令で定めるこれらに隣接する区域内に在った者
b 原子爆弾が投下された時から起算して政令で定める期間内に上記aに
規定する区域のうちで政令で定める区域内に在った者
c 前記a及びbに掲げる者のほか,原子爆弾が投下された際又はその後
において,身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者
d 前記aないしcに掲げる者がこれらの事由に該当した当時その者の胎
児であった者
 なお,被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は,居住地の都道府県
知事に申請しなければならず,都道府県知事がこれに基づいて審査し,申請者が前
記aないしdのいずれかに該当すると認められるときに,被爆者健康手帳が交付さ
れる(被爆者援護法2条1項,2項)。
ウ 被爆者は,それぞれの要件を満たす場合に,次のとおりの援護を受ける
ことができる。
a 健康管理
 都道府県知事は,被爆者に対し,毎年,厚生省令で定めるところによ
り,健康診断を行うものとされており,健康診断の結果必要があると認めるとき
は,当該健康診断を受けた者に対し,必要な指導を行う(被爆者援護法7条,9
条)。
b 医療の給付
 厚生大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,又は疾病にかか
り,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を行う。ただ
し,当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射能に起因するものでないときは,その者の
治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある
場合に限る(被爆者援護法10条1項)。
 なお,医療の給付を受けようとする者は,あらかじめ,当該負傷又は
疾病が原子爆弾の傷害作用に起因する旨の厚生大臣の認定(原爆症認定)を受けな
ければならない(同法11条1項)。
(以下,同項に基づく認定をするために必要とされる,被爆者が現に医
療を要する状態にあることを「要医療性」といい,現に医療を要する負傷又は疾病
が原子爆弾の放射線に起因するものであるか,又は上記負傷又は疾病が放射線以外
の原子爆弾の傷害作用に起因するものであって,その治癒能力が原子爆弾の放射線
の影響を受けているため上記状態にあることを「放射線起因性」という。)
c 一般疾病医療費の支給
 厚生大臣は,被爆者が負傷又は疾病(被爆者援護法10条1項所定の医療
を受けることができる負傷又は疾病等を除く。)について一定の医療を受けたとき
は,その者に対し,当該医療に要した費用の額を限度として,一般疾病医療費を支
給することができる(同法18条1項)。
d 医療特別手当ないし特別手当の支給
 都道府県知事は,原爆症認定を受けた者であって,当該認定に係る負
傷又は疾病の状態にあるものに対し,医療特別手当を支給する(被爆者援護法24条
1項)。また,原爆症認定を受けた者であるが,当該認定に係る負傷又は疾病が治癒
しその状態にないため医療特別手当の支給を受けていないものに対し,特別手当を
支給する(同法25条1項)。
e 健康管理手当の支給
 都道府県知事は,被爆者であって,造血機能障害,肝臓機能障害その
他の厚生省令で定める障害を伴う疾病(原子爆弾の放射能の影響によるものでない
ことが明らかであるものを除く。)にかかっているものに対し,健康管理手当を支
給する(被爆者援護法27条1項)。
f 保健手当の支給
 都道府県知事は,被爆者のうち,原子爆弾が投下された際爆心地から
2キロメートルの区域内に在った者又はその者の胎児であった者に対し,保健手当を
支給する(被爆者援護法28条1項)。
g その他の手当等の支給
 都道府県知事は,一定の要件を満たす被爆者に対し,前記の各手当以
外にも,原子爆弾小頭症手当(被爆者援護法26条1項),介護手当(同法31条)等を
支給する。
エ 被爆者援護法の定める原爆症認定制度
a 前記ウbのとおり,被爆者は,現に医療を要する状態にある原子爆弾
の傷害作用に起因する負傷又は疾病について,医療の給付を受けることができるが
(被爆者援護法10条),医療の給付を受けるためには,あらかじめ原爆症認定を受
けなければならない(同法11条1項)。
b 原爆症認定を受けようとする者は,①被爆者の氏名,性別,生年月日
及び居住地並びに被爆者健康手帳の番号,②負傷又は疾病の名称,③被爆時以降に
おける健康状態の概要及び原子爆弾に起因すると思われる負傷若しくは疾病につい
て医療を受け,又は原子爆弾に起因すると思われる自覚症状があったときは,その
医療又は自覚症状の概要等を記載した認定申請書に,医師の意見書及び当該負傷又
は疾病に係る検査成績を記載した書類を添付して,その居住地の都道府県知事を経
由して,これを厚生大臣に提出しなければならない(原子爆弾被爆者に対する援護
に関する法律施行規則(平成7年厚生省令第33号。ただし,平成9年厚生省令第31号
による改正前のもの。以下「被爆者援護法施行規則」という。)12条)。
 なお,被爆者援護法施行規則の施行前に原爆医療法施行規則(昭和
32年厚生省令第8号。被爆者援護法施行規則附則6条1号により廃止。)9条1項の規定
により提出された認定申請書,医師の意見書又は当該負傷若しくは疾病に係る検査
成績を記載した書類は,それぞれ同規則12条の規定により提出された認定申請書,
医師の意見書又は当該負傷若しくは疾病に係る検査成績を記載した書類とみなされ
る(同規則附則9条)。
c 厚生大臣は,原爆症認定を行うに当たり,申請疾患が原子爆弾の傷害
作用に起因すること又は起因しないことが明らかである場合を除き,審議会等で政
令で定めるものの意見を聴かなければならない(被爆者援護法11条2項)。
 現在の被爆者援護法11条2項に規定する審議会は,疾病・障害認定審査
会(以下「審査会」という。)と規定されており(同法23条の2,被爆者援護法施行
令(平成7年政令第26号。以下「施行令」という。)9条),審査会の答申を受けた
厚生大臣が当該認定申請について同法11条1項による認定処分を行ったときは,申請
者の居住地の都道府県知事を経由して認定書を交付するものとされている(施行令
8条2項)。
オ なお,平成13年1月6日施行された中央省庁等改革関係法施行法(平成
11年法律第160号)753条により,被爆者援護法が改正され,同法本則(12条4項及び
14条2項を除く。)中「厚生大臣」を「厚生労働大臣」に改めることとされたほか,
中央省庁等改革関係法施行法1301条1項により,同法の施行前に法令の規定により厚
生大臣がした免許,許可,認可,承認,指定その他の処分又は通知その他の行為
は,法令に別段の定めがあるもののほか,同法の施行後は,厚生労働大臣がしたも
のとみなされることとされた。
2 前提となる事実(いずれも当事者間に争いがない。)
(1) 原告は,昭和20年8月9日11時2分,長崎市の三菱重工業株式会社長崎兵器
製作所大橋工場(以下「大橋工場」という。)内において,同市に投下された原子
爆弾に被爆した。原告は,昭和3年10月10日生まれであり,被爆した当時16歳であっ
た。また,原告が被爆した場所は,爆心地の北方約1・3キロメートルの地点であっ
た。
(2) 原告は,昭和56年ないし昭和59年ころに肝機能障害を指摘され,平成4年
以降,入院ないし通院による治療を受けていたところ,平成6年2月16日付けで,厚
生大臣に対し,上記肝機能障害が原子爆弾の放射線(以下「原爆放射線」とい
う。)に起因するものであるとして,原爆医療法8条1項所定の認定の申請をした。
 その後,前記のとおり,平成7年7月1日に被爆者援護法が施行され,原爆医
療法が廃止されたが,厚生大臣は,前記申請を被爆者援護法11条1項に基づく認定申
請とみなしたうえで,同申請に係る疾病は認定し難いとの原子爆弾被爆者医療審議
会の意見に従い,同年11月9日付けで,「あなたの申請に係る疾病は,原子爆弾の放
射能に起因するものとは認められず,また,治癒能力が,原子爆弾の放射能の影響
を受けているとは認められません。」という理由により,上記認定申請(以下「本
件認定申請」という。)を却下する旨の処分をした(以下「本件処分」とい
う。)。
(3) 原告は,平成8年1月22日,厚生大臣に対し,本件処分に対する異議申立て
をした。
 これに対し,厚生大臣は,平成11年3月9日付けで,「まず,被爆地点,被
爆状況等を基に異議申立人の被曝線量について検討し,次に異議申立人の疾病及び
その病状,治療の状況等について検討した。異議申立人の肝機能障害の原因はC型
肝炎ウイルスであり,異議申立人の被曝線量は,C型肝炎ウイルスに対する免疫力
の低下や感染の成立に影響を及ぼす程のものとは考えられない。」という理由によ
り,上記異議申立てを棄却する旨の決定を行い,同決定は,同年4月14日,東京都を
通じて原告に送付された。
3 当事者双方の主張
(原告の主張)
(1) 原告の被爆状況
 原告は,昭和20年8月9日当時16歳であり,長崎県立長崎工業学校第三本科
(機械科,定時制)3年生に在学していたが,学徒動員により,爆心地から約1・3キ
ロメートルの地点に所在する大橋工場内の組立工場で,魚雷のパッキング部品の製
造に従事していた。
 原告は,同日午前8時ころ,大橋工場に到着し,間もなく空襲警戒警報が出
されたため,付近の山林の中にある防空壕に避難したが,その後,警報が解除され
たことから,大橋工場に戻った。原告は,同日午前11時2分に長崎市上空で原子爆弾
が爆発した際,組立工場内の南西の角付近にある休憩用の長いすに腰掛けて,5人く
らいで話をしていたところであり,開いていたと思われる窓を背にして,上半身は
裸で肩から手拭いを掛けており,背中を爆心地の方向に向けていた。
 原告は,原子爆弾が爆発した瞬間について,突然ガスの光が一面に拡がっ
たような青い光を見た記憶しかなく,意識を失っていた時間や,飛ばされた距離は
定かでないが,気がついた時には,瓦礫の下で,体の左側を下にして,左足を折り
曲げるように倒れていたが,瓦礫の間に隙間があったため,そこからはい出ること
ができた。周りを見ると,鉄筋スレート造り平屋建ての工場は完全に倒壊し,跡形
もなく潰れており,辺りは夕暮れのように暗かった。原告は,体の背面に重症を負
っており,背中一面にガラスによる傷があり,左耳たぶが切れて,左腕の肘から下
にひどい火傷を負っていた。
 原告は,Bという下級生が大腿部に破片が突き刺さったまま近くに横たわ
っているのに気づき,同人とともに,大橋工場の裏門付近から長崎本線の線路を渡
って約300メートル離れた山林に避難し,その後,のどが乾いたので,同人と一緒に
浦上川の支流まで出て水を相当たくさん飲んだ。原告が水を飲んだ場所でも,水を
求めて来た多くの人々が力尽きて倒れており,水辺に死体が山のようになってい
た。
 原告が水を飲んだころには,周囲は既に暗闇であったが,原告はそこで救
援列車が動いていることを聞き,長崎本線の線路まで歩いて行って,照円寺付近と
思われる地点で列車の到着を待った。夜遅くなって,原告は,大村方面行きの救援
列車に乗車したが,車内には多くの重傷者が横たわっており,大村駅へ向かう途中
でも人々が次々と死んでいった。
 原告は,大村駅からトラックに乗って小学校へ行き,傷口の消毒,塗り
薬,絆創膏等の応急処置を受けた。同日朝以来何も食べていなかった原告は,そこ
でおかゆをもらった。原告は,そこでBと別れ別れになり,その後大村海軍病院に
収容された。
 大村海軍病院では,10人部屋に20人程度の患者が収容されていたが,原告
の周囲の患者はバタバタと死んでしまい,原告も同月中旬ころから9月初旬ころにか
けて,40度を超す発熱が1週間続き,髪の毛が抜け,血性の下痢や嘔吐のため食事が
とれないなどの症状が出た。採血検査の際,血を採取しているうちにどんどん固ま
ってしまい,医者からは「血液検査では重症だ」と言われたこともあった。原告の
ガラス片による傷や火傷の治癒には,2か月近くの期間を要した。
 原告は,同月下旬ころ,ようやく症状が落ち着いたので退院したが,その
後2年間ほど,だるい,食欲がない等の体調不振が続き,就労することができない状
況にあった。また,大村海軍病院での症状が重症であったことから,日米合同調査
委員会の調査の対象となり,その後も長崎の原爆傷害調査委員会(以下「ABCC」と
いう。)より問い合わせがあり,その調査を継続的に受けてきた。
 原告は,本件認定申請の原因疾患である肝機能障害について,昭和56年の
被爆者検診において指摘され,「要精密検査」との指示を受けたが,自覚症状がな
いことからそのままにしていたところ,昭和59年ころからだるい,足が重い等の症
状が出現するようになり,平成4年9月16日から同年10月22日まで立川市の医療法人
社団健生会立川第一相互病院(以下「立川第一相互病院」という。)に入院し,そ
の後,同病院に通院しながら食事療法,静脈注射等による治療を受けている。
 このように,原告は,被爆以前には至って健康であり,家族にも肝臓疾患
はなかったにもかかわらず,被爆後は体調も悪く,ついに肝機能障害を生じるに至
ったものである。
(2) 原告の症状
ア 原告の主な急性症状
a 発熱
 1953(昭和28)年11月27日の調査に係るABCC長崎原爆被爆者調査票
(以下「1953調査票」という。)には,「1945・9・20」「中程度」「10日」と記載
されている。1954(昭和29)年6月1日付け「長崎原爆傷害者調査票」(以下「1954
調査票」という。)では,発熱の程度が「+++」とされており,1956(昭和31)
年3月の調査に係る「基本標本質問票」(以下「1956調査票」という。)にも1953調
査票と同じ記載がある。
b 脱毛
 日米合同調査委員会による1945(昭和20)年10月8日の調査に係る日米
合同調査票(以下「1945調査票」という。)には,放射線の効果として,調査日で
ある同日まで頭部脱毛があり,続いていると明記されている。1953調査票に
は,「1/4,約2ヶ月間」と記載され,1956調査票にもこれと同じ記載がある。
c 血性の下痢及び嘔吐
 下痢については,1945調査票に放射線の効果として,「9月3日から
5日,水様血性下痢」と明記され,その後,9月1日からと訂正されている。1953調査
票では,「非血便性の下痢」「軽度」「3日」及び「血便性の下痢」「中程度」「7
日」と具体的に記載されている。1954調査票では,下痢の回数について「+」,血
便の程度について「+++」と記載されており,1956調査票にも,1953調査票と同
じ記載がある。
 吐き気及び嘔吐については,1945調査票にはマイナスの記載がある
が,1953調査票では,それが訂正され,「1945・9・20」「中程度」「5日」とされ
ている。1954調査票では,程度が「+++」とされており,1956調査票にも,1953
調査票と同じ記載がある。
d 血液異常
 1945調査票によれば,1945(昭和20)年9月20日の血液検査の結果,原
告の白血球数は2100であり,一般の正常値4000ないし1万を大きく下回るのみなら
ず,同時期の被爆者の平均値3340ないし4490をも下回る白血球減少症を呈してい
る。また,1945調査票によれば,同年10月9日の血液検査の結果,白血球数は7200と
回復しているが,白血球のうち免疫を司る好中球の割合が合計18パーセントと極め
て低く,造血が抑制された状態となっており,原告の骨髄障害が重篤であること
や,原告の免疫機能に重大な影響が生じたことを示している。
e ガラス片による傷や火傷の治りの悪さ
 原告の場合,ガラス片による傷や火傷の治癒に2か月を要しており,こ
のような治りの悪さは,造血障害の回復が遅れたことによるものと考えられる。
f 2年間にわたる食欲不振,倦怠感等の体調不良
 1945調査票には,放射線の効果として,「食思不振」の記載があ
り,1953調査票には,それが「1945・9・20」「中程度」「9日」と具体的に記載さ
れている。1954調査票では,程度が「+++」とされており,1956調査票に
も,1953調査と同じ記載がある。また,1953調査票には,倦怠感につい
て,「1945・9・20」「中程度」「10日」の記載がある。
イ 原告の急性症状から見た放射線被曝
 原告の急性症状においては,急性放射線障害の典型である血性の下痢及
び脱毛が明確であるところ,血性の下痢は放射線感受性の高い消化管粘膜の破壊,
さらには造血機能障害によるものであり,脱毛は毛根部の障害であって,いずれも
放射線障害の重篤性の指標となるものである。
 また,原告は,発熱,下痢,嘔吐,出血等複数の症状を呈しているが,
これらの症状は,死亡例にみられる急性放射線症状の上位を占め,発熱は死亡例の
80パーセント,下痢は67・6パーセント,嘔吐は51・6パーセント,出血は48・6パー
セントにみられるものである。
 さらに,1945(昭和20)年9月20日の血液所見では,白血球数が明らかに
減少し,好中球の減少もみられ,同年10月9日には,白血球の数自体は回復している
ものの,好中球の占める割合は低く,原告の骨髄障害の重篤性や,原告の免疫機能
に対する被爆の重大な影響を示している。
ウ 原告の被曝状況
 前記ア及びイによれば,原告は,爆心地から約1・3キロメートルという
近距離で原子爆弾に被爆し,火傷,ガラスによる傷等の重傷を負っていること,屋
内被爆とはいえ,窓の近くに裸でいた状態で被爆しており,直爆に近い状況であっ
たこと,被爆後に周辺をさまよい,放射線に汚染された粉塵や川の水を大量に摂取
していること,被爆直後から発熱,血性の下痢,脱毛等,典型的な放射線による急
性症状を呈しており,しかも重症であることが認められる。このようなことからす
れば,原告が死に至りかねないほどの大量の原爆放射線を浴び,その影響を強く受
けたことは明白であり,現に1945(昭和20)年10月8日に原告を診察した日米合同調
査委員会の柏戸医師は,原告の第一次傷として放射線による傷害を,原爆による傷
害として放射線症をそれ
ぞれ記載している。
 ちなみに,長崎市に投下された原子爆弾の爆心地から1・0ないし1・5キ
ロメートルの地点における死亡率は51・5パーセントであり,2人に1人以上が死亡し
たことになる。
(3) 放射線による人体への影響
ア 被曝線量評価の問題点と放射線による人体への影響の深刻さ
a 原爆放射線について
 原子爆弾の核分裂物質(長崎市に投下された原子爆弾ではプルトニウ
ム239)に核分裂の連鎖反応を起こさせると,莫大な数の中性子線,ガンマ線等の放
射線と莫大なエネルギーを放出し,大量の放射性核分裂物質が生成される。大量の
ガンマ線を吸収した原子爆弾周辺の大気中の原子や原子核は,高温,高圧のプラズ
マ状態の「火の玉」を作ってガンマ線や熱線を放出し,衝撃波を作り出す。原子爆
弾から放出された中性子線と,原子爆弾及び「火の玉」から放出されたガンマ線
は,大気中や地上の原子核に散乱し,吸収されながら地上に達する。原子爆弾の爆
発後1分以内に被爆者に到達した放射線が初期放射線であり,その後到達した放射線
が残留放射線である。また,初期放射線中の中性子を吸収した大気と地表及び地表
近くの建造物等を構成す
る原子核が,放射性の原子核となって放出するガンマ線,ベータ線等が誘導放射線
である。
 さらに,「火の玉」が膨張,上昇して温度が下がると,「火の玉」に
含まれていたさまざまな放射性物質が水蒸気に吸着し,水滴を作って「きのこ雲」
を形成する。この「きのこ雲」はさらに上昇しながら成長し,崩れながら横に広が
り,放射能を帯びた水滴が「黒い雨」として地上に降るほか,途中で水分が蒸発し
放射能を帯びた微粒子として地上に降る。加えて,誘導放射線によって汚染された
地上の土砂や物体が,原子爆弾の熱線による火災等により発生した火事嵐,竜巻等
により巻き上げられて再び地上に降りてくる。これらの降下物が放射性降下物であ
る。
 そして,原告は,放射性物質で充満した「きのこ雲」の下で全身を放
射性物質にさらし続けたほか,呼吸や飲食を通じて放射性物質を体内に摂取し続け
ている。
b DS86による被曝線量の推定が相当でないこと
(a) DS86による線量推定及びその問題点
 厚生省(厚生労働省)は,被爆者の原爆症認定申請を審査する際の
被曝線量の基準として,原爆放射線の線量評価体系であるDS86(DosimetrySystem
1986)に専ら依拠してきた。DS86は,アメリカ合衆国(以下「米国」という。)が
中性子爆弾の威力を測るために作成したコンピュータープログラムに基づくシミュ
レーションによって計算されたものであるが,その線量評価について,多くの問題
点が指摘されており,被爆者の被曝線量を正確に示すものとはいえない。
 すなわち,DS86による被曝線量の推定については,DS86の策定者自
身が発表当時から認めているとおり,その正確性に限界がある。
 また,広島及び長崎において繰り返し実施されている被曝線量の実
測実験の結果は,DS86による推定線量と大きな不一致を示している。具体的には,
長崎市に投下された原子爆弾におけるDS86の推定値と実測値とを比較すると,原子
爆弾の中性子線によって誘導放射化されたコバルト60について,DS86の推定線量は
爆心地から900メートル以内では過大評価,900メートル以遠では過小評価になる傾
向があり,誘導放射化されたユウロピウム152の測定結果についても,爆心地から
700メートル以遠においてDS86が過小評価になっている。
(b) 実測値との不一致の原因
 被曝線量の実測値とDS86による推定線量が一致しない原因として
は,DS86が主に初期放射線のみを線量推定の対象としており,残留放射線や放射性
降下物の存在を重視していないことが挙げられる。すなわち,初期放射線が大量に
降り注いだ爆心地に近い地域の場合,DS86は合理的な推定値といえるが,爆心地か
ら遠距離の地域においては,初期放射線は距離が増加するにつれて急速に減衰し,
むしろ放射性降下物や残留放射線の方が初期放射線より多大な影響を及ぼすにもか
かわらず,DS86はこれらの影響を十分に評価していないのであって,その推定値の
合理性には疑問がある。
 また,DS86では,原子爆弾の爆発威力(放出エネルギー)を実験的
な数値から割り出し,その威力を得るために核分裂の連鎖反応がどこまで進行した
かを求めることにより放出された線量を決定するという方法を採っているが,長崎
市に投下された原子爆弾の爆発威力を実験的な数値から割り出す段階で,既に若干
の誤差が生じている可能性を否定できないうえに,この爆発威力を前提として爆発
時に放出される中性子線及びガンマ線の大気中への分布状況に関する数値が米国の
軍事機密とされており,算出過程が一切明らかにされていないため,DS86の線量推
定の基礎となる重要な数値の検証ができないことから,DS86の入力データの合理性
に問題があるといわざるを得ない。
 さらに,DS86による推定値に関しては,中性子やガンマ線光子の飛
散過程に大きく影響を与える大気中の水分子の量についても疑問がある。すなわ
ち,DS86では,大気中の水分量を示す値として,定点である特定の気象台の観測結
果をそのまま一律に適用しており,長崎市に投下された原子爆弾の場合は,長崎海
洋気象台で測定した湿度(71パーセント)を採用しているが,同気象台は爆心地よ
りかなり海に近く,家屋が密集した同市の市街地より湿度が高かった可能性が強い
のであって,実際には,大気中の水分の原子核による中性子線の吸収が減少するこ
とにより,DS86による推定値よりも多量の中性子線が遠方に到達したことになり,
その不一致は爆心地から遠方ほど大きくなる。
 このほか,DS86では,爆心から水平距離2812・5メートルまで,高度
1500メートルまでを一定の距離又は高さごとに同心円状に区切り,円筒形に区切ら
れた空間ごとに放射線の伝播を計算しており,1500メートル以上の上空や2812・5メ
ートル以遠から計算領域の円筒内に入って来る放射線の寄与を無視している。のみ
ならず,DS86では,各計算領域への放射線の入射角度を特定の角度だけにして,放
射線の入射及び散乱角度をデジタル化して近似し,ボルツマン輸送方程式に基づい
てコンピューター計算を行っているところ,この方程式による計算方式の場合,あ
る区分領域の計算値にいったん相違が生じると,これが次の区分領域における計算
値の入力データとなるため,相違が次第に累積,拡大し,爆心地から遠距離ほど誤
差の生じるおそれが高くなる。
(c) 星意見書について
 これに対し,広島大学原爆放射能医学研究所国際放射線情報センタ
ーの星正治教授は,その意見書(乙43。以下「星意見書」という。)において,中
性子による誘導放射化の実測値がDS86の中性子線量推定値に基づく計算値と一致し
ないのは,誘導放射化に係わる熱中性子だけに問題があるのであって,DS86の中性
子線量の推定値そのものには問題がないとする。
 しかしながら,原子爆弾から放出された中性子は,空気中の原子核
に何度も衝突し,散乱されてエネルギーを失いながら遠方まで伝播するものであ
り,中性子が原子核に衝突する際,原子核内の陽子を叩き出して原子核内にとどま
る非弾性散乱や,衝突した原子核に吸収されてその原子核を放射性原子核にする誘
導放射化が行われることにより,中性子の総個数及び線量が減少するところ,誘導
放射化は,中性子のエネルギーが小さいほど起こりやすく,熱中性子(エネルギー
が0・4電子ボルト以下の中性子)の場合,ほとんどが誘導放射化によって原子核に
吸収され,急速に中性子線量が減少するのに対し,エネルギーの高い中性子は,原
子核に衝突しても吸収されないまま遠方に到達するため,遠方に到達して誘導放射
化を行う熱中性子のほとん
どは,近距離では高エネルギーであった中性子ということになる。
 つまり,DS86の中性子線量に基づく誘導放射化の計算値が遠距離に
おいて実測値よりも過小評価であることは,DS86の近距離における高エネルギー中
性子の推定線量が過小評価であったことを示すものであって,DS86による計算の際
入力される中性子線の高エネルギー部分を修正する必要性があることは,星正治教
授自身も別の報告書において認めているところである。
(d) まとめ 
 以上のとおり,DS86は,実験に基づかない計算値であって,その線
量推定には科学的にも問題があるといわざるを得ないから,これに基づいて原告の
被曝線量を推定することは相当でない。
c 原爆放射線による人体への影響の機序とその深刻さ
(a) 残留放射線,放射性降下物による人体影響の重要性
 被爆による人体への影響を検討する際,初期放射線だけでなく,残
留放射線や放射性降下物による影響を重視しなければならないことは,前記a及び
bから明らである。特に,放射性降下物には,「黒い雨」のほかに,さまざまな放
射性物質が水蒸気と吸着して作られた「きのこ雲」から降りてくる「黒い煤」,
「黒い粒子」等の塵や微粒子もあり,「黒い雨」よりも広範囲に降った可能性が高
いところ,原子爆弾の被爆者は,これらの放射性降下物による体外被曝を受けただ
けでなく,これらが体表に付着しても身体を洗わないまま皮膚上から継続的に被爆
し続けていたものと想像される。
 また,放射線に汚染された水,食物,埃等が口腔から体内に入って
胃腸から吸収されたり,鼻腔から侵入した放射性微粒子が肺胞に達し,血液を通じ
て体内の臓器,骨髄等に沈着することにより,放射性物質が体内に蓄積されると,
容易に排出されることなく永続的に放射線を放出し,被爆者は体内の放射性物質に
よって常に被曝し続ける状態に置かれることになる。
 このような残留放射線の危険性を示す典型例としては,昭和20年9月
23日から昭和21年春まで「クリーン・アップ作戦」のために長崎市に駐屯したアメ
リカ海兵隊員の間で,1970年代の半ばから多発性骨髄腫の発症が取り沙汰されたこ
とが挙げられる。
 したがって,原爆放射線による人体への影響については,残留放射
線及び放射性降下物による被曝,特に内部被曝を考慮する必要があり,これを無視
した線量評価が誤りであることは明らかである。
(b) 放射線による人体への影響が吸収線量から把握できないこと
 放射線は,人体を構成する細胞内のタンパク質等の分子に当たる
と,中の電子にエネルギーを与えて分子の外に飛び出させる電離作用を有してい
る。集中した電離作用を起こす放射線は,単位距離当たりに多くのエネルギーを物
質に与えるため,高い線形エネルギー転移(放射線が通過した物質に単位距離当た
りで移したエネルギーの量。以下「LET」という。)の放射線となり,電荷を持つ粒
子が重く,速度が遅いほど,短い距離でエネルギーを与えて集中して電離作用を行
うので,高いLETの放射線となる。
 中性子は,それ自体では直接に電離作用を行わないが,生体の周囲
を飛び回る電子や原子核の中の陽子から電気的な影響を受けずに体内に深く浸透
し,生体物質を構成する原子核に衝突してその原子核や陽子をはじき飛ばす性質を
有しており,はじき飛ばされた原子核や陽子は,電荷を持つ重い粒子のため速度が
遅く,集中して電離作用を行うことから,中性子は高いLETの放射線となる。
 これに対し,ガンマ線は,それ自体では直接に電離作用を行わない
が,電子に当たるとこれをはじき飛ばす性質を有しており,ガンマ線にはじき飛ば
された電子は軽い素粒子のため,光速に近い速度で生体を通り抜け,まばらな電離
作用を行うことから,ガンマ線は中性子線と比べて低いLETの放射線となる。
 そして,電離作用は細胞内の染色体の切断をもたらすところ,集中
した電離作用(高いLET)の場合には,染色体内に複数の切断が起こり,誤った修復
機能により染色体異常が生ずる可能性が高くなるから,同じ吸収線量の放射線であ
っても,LETの高さによって,生体に対する影響が異なることになる。
 したがって,生体に対する放射線の影響を論じるには,吸収線量で
はなく,これに生物学的効果比(線質係数)を乗じた線量当量によるべきであり,
国際放射線防護委員会(以下「ICRP」という。)による1990(平成2)年の報告で
は,中性子について5ないし20の線質係数が勧告されていることからすれば,中性子
線はガンマ線と比べて,少なくとも5ないし20倍程度の悪影響を生体に与えるという
べきであって,このような生物学的効果比を無視して,中性子線とガンマ線の吸収
線量を単純に足した線量に基づいて放射線による人体への影響を判断することは,
非科学的といわざるを得ない。
(c) 最高裁判所平成12年7月18日判決の立場
 長崎市において爆心地より2・45キロメートルの地点で被爆した事案
に関する最高裁判所平成10年(行ツ)第43号・同12年7月8日第三小法廷判決(以下
「最高裁判所平成12年7月18日判決」という。)は,「DS86もなお未解明な部分を含
む推定値であり,現在も見直しが続けられていることも,原審の適法に確定すると
ころであり,DS86としきい値理論とを機械的に適用することによっては前記・・・
の事実を必ずしも十分に説明することができないものと思われる。例えば,放射線
による急性症状の一つの典型である脱毛について,DS86としきい値理論を機械的に
適用する限りでは発生するはずのない地域で発生した脱毛の大半を栄養状態又は心
因的なもの等放射線以外の原因によるものと断ずることには,ちゅうちょを覚えざ
るを得ない。」と述べ,DS86の機械
的適用に疑問を示している。
イ 原爆放射線後障害の特殊性
a 放射線の影響
 放射線は,物理学的機序で直接的に遺伝子,DNA及びタンパク質を傷つ
けるとともに,放射線により体内で生成されたラジカル(遊離基,フリーラジカル
ともいう。)が,間接的に細胞のタンパク質分子や遺伝子を傷つける。そして,一
定の線量以上の放射線を浴びて大量のタンパク質分子や遺伝子が同時に傷つけら
れ,修復作用が働かなくなって多数の細胞死が起こったり,多数の遺伝子が傷つけ
られて細胞分裂が正常に行われなくなると,放射線症状が現れる。このような細胞
の機能喪失に基づいて出現する症状が放射線の「確定的影響」であり,急性の放射
線症は確定的影響として起こるものである。一定の組織変性により特定臓器に障害
が起こる確定的影響については,症状出現のため必要とされる線量(しきい値)が
存在すると考えられ,し
きい値を超えれば症状が出現する者の割合が増え,線量の増加に伴って症状が重篤
になる。
 これに対し,タンパク質分子や遺伝子の修復によりいったん急性症状
が治まっても,誤った修復作用が行われ,長年の後にがんなどの放射線後障害を引
き起こすことがある。このような放射線後障害は,被曝線量が増大するに従って発
症率も高くなることから「確率的影響」といわれ,ごく少量の線量から生じると考
えられており,しきい値はなく,症状の重篤性は線量と直接相関関係を有しない。
そして,被爆者の疫学調査により,確率的影響は悪性腫瘍だけでなく非がん疾患に
もみられることが徐々に明らかにされている。
b 原爆放射線影響評価の特殊性
(a) 放射線被曝における特殊性
 原爆放射線の被曝は,その態様が全身被曝であった点に特殊性があ
り,医療放射線の場合,放射線の照射を受けた部分が傷害を受けるにとどまるのに
対し,原爆放射線のように全身に照射された放射線が相互にどのような作用をする
のかについては,全くといってよいほど解明されていない。
 例えば,被告は,確定的影響としての肝機能障害を生ずる放射線量
のしきい値を10グレイと主張するが,人間が10グレイの全身照射を受けた場合,短
期間のうちに死亡するとされており,全身照射では,医療放射線のような部分照射
とは全く異なる影響を人体に及ぼすことを考慮する必要がある。また,免疫機能を
司る血液幹細胞を造る骨髄細胞は内部被曝によっても傷害を受け,免疫に関しても
影響を及ぼすのである。
 また,「黒い雨」,「黒い煤」等に含まれ,呼吸,飲食等により体
内に取り込まれた放射性物質は,体外から被曝する場合と異なり,アルファ線やベ
ータ線を出すため,このような内部被曝は極めて低線量でも人体に重大な影響を及
ぼすところ,原告は爆心地から近距離で被爆し,しかも途中で水を飲んでいること
から,放射性物質が原告の体内に取り込まれ,肝臓に蓄積したことも考えられる。
 さらに,原子爆弾は,単に放射線を放出しただけでなく,爆心地付
近で数千度に及ぶ熱線,秒速数百メートルに及ぶ衝撃波に加え,爆風を生み出し,
被爆者に外傷,熱傷,さらには感染症をもたらしており,これらは,放射線に比較
すれば割合は小さいかもしれないが,ラジカルを体内に生み,被爆者の細胞を傷つ
けている。加えて,原子爆弾が生み出した貧困や心理的抑圧は,被爆者に免疫の低
下をもたらしており,これらの影響は,放射線の影響と相互に作用を及ぼすもので
あって,放射線の影響と切り離すことはできない。
     (b) 放射線障害出現の特殊性
 放射線後障害として現れる人体への影響は,多くの場合,個々の症
例を観察する限り,放射線に特異な症状ではなく,一般の疾病と全く同様の症状で
あり,このことは,悪性腫瘍だけでなく,非がん疾患についても同様である。
 さらに,本件認定申請に係る原因疾患は,被爆から50年近く経過し
て発生したものであるが,多くの悪性腫瘍や,心疾患,肝臓疾患,子宮筋腫等の非
がん疾患も,長期の潜伏期間又は累積を経て,有意差があるものとして出現するこ
とが認められている。
(c) 残された多くの未解明事実
 上記(b)のとおり,放射線後障害として現れる疾患には放射線障害
としての特異的症状がないことから,疫学的に検討をせざるを得ないが,放射線が
後障害を起こす機序については,放射線の傷害作用に起因すると一般に考えられて
いる悪性腫瘍の場合ですら,病理学的に十分明らかにされているわけではない。ま
た,がん発生の場合にも,放射線による免疫機能の低下が関与していることは否定
できず,このことは,非がん疾患についても同様である。
 このようなことに照らせば,原告の肝機能障害が原爆放射線に起因
するか否かについては,原子爆弾の被爆が人類の初めて体験した被害であり,現在
も多くの未解明の事実が残されていることを踏まえて判断すべきである。
   ウ 肝機能障害と放射線
a 放射線と慢性肝炎,肝硬変に関する研究の成果
(a) 放影研における調査,研究
 ABCC及びその後身に当たる財団法人放射線影響研究所(以下「放影
研」という)は,設立以来,被爆者の寿命調査(LSS,死亡者の調査)及び成人健康
調査(AHS,生存者の調査)を継続的に行い,放射線の人体に対する影響を研究して
いるところ,これらの長年の調査によって,放射線の肝臓がんに対する影響が明ら
かにされてきている。
 また,放影研は,放射線と慢性肝炎及び肝硬変の関連性についても
調査,研究を行っており,当初は示唆的な関連性程度しか認められなかったが,そ
の後,科学的な関連性が認められるようになっている。
(b) ワン論文について
 1993(平成5)年に公表された論文「原子爆弾被爆者における非癌性
疾患発生率:1958-1986」(甲71。以下「ワン論文」という。)は,1958(昭和
33)年から1986(昭和61)年までの成人健康調査に基づいて,放射線と肝機能障害
との関連性を明らかにしたものであり,生存者の有病率の調査に基づくものである
ことや,長期的データを用いた初めての調査である点でも注目すべきものである。
 ワン論文は,子宮筋腫,慢性肝炎,肝硬変及び甲状腺疾患につい
て,放射線との関係で統計的に有意な過剰リスクが認められるとし,最近の寿命調
査報告において,肝臓がんの発生率に線量反応関係が認められ,がん以外の死亡率
に関する最近の調査も,肝硬変による死亡率が高線量群で増加していることを示し
ており,動物実験も肝機能障害が放射線被曝により誘発されることを示していると
したうえで,最新の証拠は現在得ている結果を被曝の直接的影響によって説明でき
るかもしれないことを示唆していると述べているものであって,放射線と肝硬変及
び肝機能障害の関係を初めて論文で公式に認めたものである。慢性肝炎,肝硬変等
の肝機能障害は,肝臓がんと異なり,致死性の病気ではないことから,死亡者を対
象にした寿命調査では放射
線との関係が十分に研究できなかったところ,生存被爆者を対象にした調査によ
り,初めて上記の事実が判明したものである。
 ちなみに,ワン論文によれば,慢性肝疾患及び肝硬変の有意差を示
すP値(統計学上,当該事実を否定する偶然性の入る可能性を示す値)は0・006
(当該事実を否定する偶然性の入る余地が0・6パーセントであるということ)であ
り,その有意性は明確である。
(c) 過去の認定事例との関係
 厚生省は,肝機能障害を原因として多数の原爆症認定を行ってお
り,放射線と肝機能障害に関する医学的知見が限定的であった昭和43年から昭和
57年までの間においても,少なくとも45名の被爆者に対して,肝機能障害を認定傷
病名として原爆症認定を行い,近年も少数ながら同様の原爆症認定を行っており,
その中にはC型肝炎ウイルス(以下「HCV」という。)を原因とする肝機能障害も含
まれている。
 このように,放射線と慢性肝炎,肝硬変及び肝臓がんの関係が次第
に明らかになり,さらに放射線とHCVによる肝機能障害の関係が深く研究されつつあ
る時代の流れや科学の進歩に照らせば,最近になって突然HCVによる肝機能障害の原
爆症認定を厳格化した被告の態度は,時代の流れや科学の進歩に逆行するものとい
わざるを得ない。
b 藤原論文について
 その後,放影研臨床研究部副部長藤原佐枝子(以下「藤原副部長」と
いう。)が作成又は関与した諸論文は,ワン論文を踏まえて,放射線と肝機能障
害,特にC型肝炎の関連性をさらに明らかにしている。
(a) 原爆症に関する調査研究班報告書(乙12)
 平成9年3月に公表された財団法人日本公衆衛生協会・原爆症に関す
る調査研究班の「原爆症に関する調査研究班報告書」(乙12。以下「調査研究班報
告書」という。)は,「肝疾患に対する原爆放射線被曝の影響は,放影研の広島,
長崎の原爆被爆者を対象にした寿命調査から,放射線被曝線量が高いほど肝癌,肝
硬変による死亡率が高いこと,肝癌の発生率が高いことが認められた。さらに成人
健康調査(AHS)においても原爆放射線被曝線量と肝硬変,慢性肝疾患の発生率に有
意な正の関係が認められている。」と述べたうえ,「わが国においては,肝細胞癌
の約75%がC型肝炎ウイルス(HCV),約20%がB型肝炎ウイルス(HBV)の持続感
染に起因する慢性肝障害の終末像であると言われている。原爆被爆者におけるHBs抗
原(注:B型肝炎ウイルスの
S抗原)陽性率については,1973-75年,1979-81年の調査から,高線量被曝者に陽
性率が高いことが認められた。」「今回の調査の目的は,HCV感染と原爆放射線被曝
との関係を明らかにし,原爆被爆者に慢性肝疾患,肝癌の発生が高いことにHCV感染
が寄与しているかについて検討することである。」と述べている。
 ところで,放射線と肝細胞がんの関係は,従前の研究で明確にされ
ていたところ,肝細胞がんの約75パーセントがHCVの持続的感染に起因する慢性肝炎
の終末像であることは上記のとおりであり,放射線と肝細胞がんとの間に関連性が
ある以上,慢性肝機能障害について放射線との関連性が推測されるのは当然であ
り,また,慢性肝炎の90パーセントがC型又はB型のウイルス性肝炎であり,ウイル
ス性肝炎の70ないし75パーセントがC型肝炎であるから,慢性肝炎の63ないし67・5
パーセントがC型肝炎となるのであって,被爆者の中に慢性肝炎の患者が多いこと
は,C型肝炎による慢性肝炎の患者が多いことを意味しており,このことからも,
原爆放射線とHCV感染の関連性が強く推測されるところであった。
 そして,調査研究班報告書は,結局,「原爆放射線被曝と癌以外の
疾患との関係について,現在,種々の検討が行われている。原爆被曝と肝疾患との
関係については,肝癌だけでなく慢性肝炎,肝硬変と被曝との関係が報告されてい
る。一般的には,これらの慢性肝疾患の原因として肝炎ウイルス感染が大きく関与
している。以前の報告から,原爆高線量被爆者にHBs抗原陽性率が高いことが報告さ
れ,原爆被爆者に慢性肝疾患が多い原因の一部はこれによって説明できると考えら
れる。しかし,今回の調査から,原爆放射線被曝とHCV抗体陽性率は関係がな
く,HCV感染では,原爆被爆者に肝癌,肝硬変,慢性肝炎が多いことは説明がつかな
かった。」としている。
 そこで,その後の研究の課題は,なぜ原爆放射線の被曝線量がHCV感
染率と相関関係を有しないのに,肝硬変及び慢性肝炎の発症率と相関関係を有する
のかという点に移り,さらに,放射線被爆がウイルス感染率ではなく,肝硬変及び
慢性肝炎の発症率,有病率を促進するか否かを明らかにすることに移ることとなっ
た。
(b) 藤原論文(甲74)
 HCV抗体陽性者は,相当の高率で慢性肝炎,肝硬変及び肝臓がんに移
行するが,常に慢性肝炎となるわけではないことから,HCV抗体陽性者と陰性者を比
較して放射線と肝機能障害の関係を研究したのが,藤原佐枝子ほか「原爆被爆者に
おけるC型肝炎抗体陽性率および慢性肝疾患の有病率」(甲74。(以下「藤原論文」
という。)である。
 藤原論文は,冒頭の「要約」において,「これらのデータから慢性
肝疾患に対する放射線量反応関係は,HCV抗体陰性の被爆者に比べて,HCV抗体陽性
の被爆者において大きいことが示唆された(スロープ比20)。結論として,抗HCV抗
体陽性率と被曝線量との間に線量反応関係は見られなかったが,抗HCV抗体陽性者に
おいて,慢性肝疾患に対する放射線量反応の増加が認められた。従って,放射線被
曝はC型肝炎感染に関連した慢性肝疾患の進行を促進するのかも知れない」と述べて
いるほか,別の項においても,「放射線量に伴うCLD(注:慢性肝機能障害)の有病
率の増加は,抗HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著であり,被曝が,HCV感染
による肝機能異常を伴う慢性肝炎の進行を促進した可能性を示した。HCV感染が放射
線被曝の前か後かに関係なく
,放射線量はHCVが関与した慢性肝炎の経過に影響するかも知れない。」と述べてい
る。
 そして,藤原論文は,「抗HCV抗体陽性率と放射線量との間には関連
性がないが,慢性肝疾患の有病率は,抗HCV抗体陰性の人よりも陽性の人において放
射線量に伴い大きく増加したようである。この所見は,放射線被曝がHCV感染後の肝
炎の進行を促進した可能性を示唆している。」と結論付けている。
(c) 藤原論文の図2について
 上記の結論を導く上で重要な役割を果たした藤原論文10頁の図2(以
下「図2」という。)の内容は,次のとおりである。
① 被爆者慢性肝炎有病率に線量反応関係のあることは既に検証され
ているところ,藤原論文は,その相関関係がHCV感染の影響によって形成されている
のかどうか,その可能性を検証するため,同じ被爆者慢性肝炎のHCV抗体陰性群(図
2の下の直線)と陽性群(図2の上の直線)との間に,その両群の傾きを比較するこ
とにより,統計学的に十分な差異があるかどうかを確認しようとしたものである。
② 別紙図面は,図2を基に作図した模式図であり,直線A(青線)は
図2に示されているHCV-群の線量反応直線,直線B(赤線)は図2に示されている
HCV+群の線量反応直線,Aoは直線Aの0グレイ相当の左端点,Boは直線Bの0グ
レイ相当の左端点でリスク相対係数13・24に当たる。破線B’(黄線)はBoから
出発する線量反応直線で,直線Aと平行の傾きをもつものである。これらの直線や
点は,以下の説明を容易にするためのものである。
③ HCV抗体陰性・0グレイ被爆者・慢性肝炎(下の実線左端群,A
o)にHCV感染の要素が加えられると,慢性肝炎の有病率は13・24倍までアップ
し,HCV抗体陽性・0グレイ被爆者・慢性肝炎(上の実線左端群,Bo)に相当する
ことになる。
④ 次に,HCV抗体陰性・被爆者・慢性肝炎の全員に(下の実線A(青
線)で,左端群Aoを除く全員に),HCV感染の要素が加えられたとき,もし被曝と
の共同成因的な働きがなく,被曝の影響が全くない(0グレイと同等)と考えた場
合,0グレイ被爆者(左端群)と同様に,実線のどの線量群においてであれ,単に
13・24倍まで慢性肝炎有病率はアップする。つまりこの場合,下の実線が,加算的
な変化として13・24倍上方に,同じ傾きのままで平行移動したように描かれる(破
線B’(黄線)。実際はそうならなかったので,図2には描かれていない。)。
 しかし,もしHCVへの感染が,免疫を含む潜在している「被曝の影
響」と共同して肝炎の病態形成に関与し,慢性肝炎有病率増加に影響するとすれ
ば,有病率は,左端の13・24倍の位置(Bo)から出発して,線量増加に応じて右
寄りに上昇し,直線は結果的に一層高い傾きをもって描かれることになる(赤
線)。
⑤ そして,実際にその傾きは,約20倍の高さを示したが(直線B
(赤線)),「これはかろうじて有意な差異であった(P=0・097)。」
 このことは,HCV感染が被曝の影響と何らかの共同成因的な働きを
することを意味するものであり,藤原論文は,「考察」において,「放射線量に伴
うCLDの有病率の増加は,抗HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著」と判断した
ものである。
(d) 「かろうじて有意」の意味
 藤原論文は,上記(c)⑤のとおり,HCV感染者における放射線量と慢
性肝炎有病率の関係が「かろうじて有意」であることから,「この所見は放射線被
曝のHCV感染後の肝炎の進行を促進した可能性を示唆している」とする結論を導き出
している。そして,藤原証人は,同論文が0・097というP値を「かろうじて有意」
と表現した理由について,放影研ではP値が0・1から0・05までの間の場合に「かろ
うじて有意」と表現している旨証言する。
 ところで,有意水準(ある統計的仮説の下で,これ以下の確率を持
つ事象が起これば当該仮説は正しくないと判断する基準)については,0・05とする
ことが通常広く行われているが,これは唯一絶対の要請ではなく,むしろ便宜的な
ものであって,それぞれの置かれた状況における偽陽性の重要性によって決められ
るものである。この点,藤原証人が証言した放影研における有意水準は,被爆者の
死亡原因や疾病名は必ずしも正確に把握されているとは限らないうえに,時間の経
過とともに多くの被爆者は死亡し,特に高線量域での死亡者は年代を経るとともに
増加し,十分なデータが収集・集積できないことから,被爆者を対象とした長期的
調査データを分析する際には,ある程度の幅をもって判断せざるを得ないという,
放影研の置かれた状況か
ら導き出されたものである。このことは,放影研が公表した論文において,「P値
が0・10以下の場合に記述した」と明記されていること(甲75の表30及び表33)
や,「90%信頼区間」と記載されていること(乙52の2)からも裏付けられる。
 これに対し,P値が0・097であったことを捉えて,藤原論文から
は,被爆が慢性肝炎に罹患し易くしていることを科学的に納得させるような結果は
得られなかったとする見解がある。
 しかし,藤原論文は,被爆者慢性肝炎有病率に線量反応関係がある
とするワン論文を前提としたうえで,慢性肝炎,肝硬変及び肝臓がんが多い理由と
して,HCV感染と放射線被曝との共同成因的な相互作用(交絡性)を考え,その検証
を行ったものである。そして,疫学的所見の扱いやその臨床的重要性は,論文の目
的に沿って検討されるものであるところ,藤原論文は,放射線被曝とHCV感染の交絡
性の検討を目的とするものであるから,放射線量に伴う慢性肝炎の有病率の増加が
抗HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著となった点が,同論文のより重要なポイ
ントと考えるべきである。
 そして,藤原論文が「RadiationResearch」に受理されたのは,そ
の臨床的重要性が認識,評価されたからであって,0・097というP値を「かろうじ
て有意」と表現した同論文が受理されたことに,何ら批判されるべき点はない。
(e) 統計学的検定について
 ちなみに,本件のような統計学的検定は,真であることを期待する
仮説(対立仮説)に対して,逆の仮説(帰無仮説)を検証するという,通常の思考
と逆の論理的思考を行うものであり,図2の場合には,HCV陽性群と陰性群は傾きが
異なり,HCV陽性群では傾きがいっそう上昇する(交絡性がある)とする仮説が真で
あると期待する仮説(対立仮説)であるのに対し,実際に検証する仮説(帰無仮
説)は,両群は傾きに関して同質であり,傾きは平行である(交絡性はない)とす
る仮説である。P値があらかじめ決められた確率すなわち有意水準(一般には
0・05)より小さければ,帰無仮説は確率が小さいので棄却され,対立仮説が採用さ
れるが,P値がこれより大きい場合には,帰無仮説は棄却されず,対立仮説が採用
されたとはいえないことになる
。しかし,そうであるからといって,帰無仮説が正しいことが積極的に証明された
わけではなく,図2の場合は,P値が大きくても,「HCV陽性群と陰性群の傾きは平
行である」,つまり「交絡性はない」とする帰無仮説が積極的に証明されたことに
はならない。つまり,P値が大きいことにより,被曝が肝疾患のリスクを高めるも
のでないことが明らかにされたわけではなく,藤原論文においてP値が0・097とさ
れたことをもって,原告の慢性C型肝炎に対する被曝の影響が否定されたと結論付
けるのは誤りである。 
c まとめ
 放射線と肝臓がんの関係については,今日では有意な関係が示されて
いるが,放射線と肝機能障害の関係についても,長年の調査,研究により,被爆者
が非被爆者と比較して肝機能障害の頻度が高いことは疑いのない事実となってお
り,ワン論文を契機として,原爆放射線の被曝と肝機能障害の間に有意な正の関係
(線量反応関係)が認められるようになった。さらに,藤原論文では,放射線被曝
がHCV感染による慢性肝疾患の進行を促進する可能性が示唆されており,放影研では
その延長線上で更なる研究が進められている。
 このように,原爆放射線と肝機能障害に関する長年の研究成果を踏ま
えれば,原告の肝機能障害が放射線被曝とHCV感染の共同によるものであることが認
められるべきである。
(4) 被告の主張する本件処分の理由が不合理であること 
ア 放射線起因性に関する被告の主張
 被告は,次のとおり主張して,慢性肝機能障害の放射線起因性を否定す
る。
a 被爆者援護法10条の放射線起因性の要件に関する被告の解釈
 被告は,被爆者援護法10条1項本文とただし書の区別が可能であるとし
たうえで,①疫学的分析の結果,申請疾患が放射線の影響と認められる場合に同項
本文が適用され,②上記のような影響が認められない場合において,疫学的に治癒
能力に影響するときにただし書が適用されるとする。
b 被爆者援護法10条の放射線起因性に関する被告の主張
 被告は,上記aの解釈を前提として,被爆者援護法10条1項に規定する
放射線起因性について,次のとおり主張する。
(a) 確定的影響10グレイ論
 放射線により永続的な肝機能障害が生ずるには,10グレイ(1000ラ
ド)の被曝線量が必要であるが,原告の被曝線量は,DS86によれば130ないし150ラ
ド程度,全身被曝や内部被曝を考慮しても150ラド程度であって,10グレイにはほど
遠い。
(b) 免疫回復論
 上記(a)に照らせば,原告の肝機能障害に被爆者援護法10条1項本文
の適用はないが,同項ただし書の適用に関しては,治癒能力が原爆放射線の影響を
受けているか,すなわち,原告の被曝した放射線量がHCVの感染に係る免疫に影響を
及ぼしたかが問題となるところ,多量の放射線に被曝した者は,血液幹細胞から免
疫細胞を造ることができなくなり,外部からの感染を排除できなくなるが,極めて
大量に(数百ラド以上)被曝した者を除けば,ほとんどの者は被曝後数か月を経過
すれば免疫細胞を造る能力が回復し,被曝前の状況に戻るのであって,原告の受け
た被曝線量で免疫力の永続的低下がもたらされるという知見は得られていない。
(c) C型肝炎原因論
 慢性肝炎から肝硬変,肝臓がんに至るという過程は,ウイルス感染
による肝炎の経過に関する基本的医学知見であって,放射線による慢性肝炎,肝硬
変が肝臓がん等に至るという根拠はなく,原告の挙げる研究においても,放射線と
ウイルス性肝炎の関連性については,今後検討する余地があると記述されるに止ま
っている。
c 被告の主張の問題点
 被告は,がん以外の疾患に対する放射線の影響は,基本的に確定的影
響しかなく,確定的影響については,医療用放射線で認められるしきい値の線量を
超えない限り放射線障害は発生しないとし,非がん疾患については,放射線障害に
よる免疫機能低下をごく短期間に限定し,慢性肝炎に放射線の影響はないとする。
 しかしながら,このような主張は,部分的な放射線被曝の影響の研究
を,全身的,複合的な被害である原爆放射線の影響に当てはめようとするものであ
り,放射線と肝機能障害の研究を見誤るものである。
 また,被告は,被爆者のHCV感染者の慢性肝炎の原因はHCVであり,放
射線と無関係であると主張し,東京慈恵会医科大学内科学講座消化器・肝臓内科主
任教授戸田剛太郎(以下「戸田教授」という。)も証人尋問において同様の供述を
するが,原告も,被爆者の肝機能障害がHCVと関係することを前提として,放射線被
曝との交絡性,共同成因性を主張しているのであって,被爆者の慢性肝炎がHCVに由
来することから,直ちに原告の主張が排斥されるわけではない。
イ 被告の確定的影響10グレイ論(前記アb(a))に対する反論
a 原爆放射線被曝における確定的影響としての肝機能障害の出現
 被告は,放射線による肝臓への影響は確定的影響であり,放射線がし
きい値である10グレイを超えなければ健康影響が生じないとするが,原子爆弾によ
る肝機能障害が10グレイ以下で生ずることは,戸田教授も証人尋問において認めて
いるところである。すなわち,戸田教授は,証人尋問において,家森武夫「原子爆
弾症(長崎)の病理学的研究報告」(甲58の2)1244頁以下の症例について,肝細胞
や肝臓組織の変化を認めたうえで,「肝細胞内に,殊にその小葉の中心層の肝細胞
内には多量に黄色の色素が出現している。」「この色素は・・・消耗性色素の性質
に一致している」との記載(1270頁~1271頁)における消耗性色素をラジカルによ
る消耗性色素であると認める旨証言するが,これらの症例には,爆心地より2キロメ
ートル,3キロメートル地点
の被爆の症例も含まれているのであって,このような事実に照らせば,非常に低線
量でも確定的影響による肝機能障害が出現していることになる。
b 被爆者慢性肝炎と確定的影響との相違
 被爆者慢性肝炎は,一定のしきい値をもって初めて発生するわけでは
なく,相対的に高線量被曝の被爆者慢性肝炎が特別に重症というわけでもないので
あって,生存被爆者の慢性肝炎は,そもそも確定的影響の定義に合致していない。
 また,放射線の影響は,成人健康調査コホート(対象集団)1万9961名
について昭和33年から昭和61年まで調査した結果,慢性肝疾患と有意の線量相関と
して確認されており,同一集団を38年間追い続けるという長い時間のファクターが
あったからこそ,慢性肝炎発症に関与した持続的影響因子の存在が,P=0・006と
いう高い統計学的水準で把握されたものである。被爆者の慢性肝機能障害に関する
放射線起因性の研究は長い歴史を有しており,ワン論文で慢性肝機能障害に線量反
応関係が確認された後も,藤原副部長を中心に,これを踏まえたウイルスの関与に
関する検討が行われているが,これらの研究成果や研究の流れを否定する論証は示
されていない。このような慢性肝機能障害に関する線量反応関係の疫学調査は,戸
田教授が述べるような2年以
内の発生の有無に関する調査ではなく,数十年単位における調査であり,その調査
結果は,肝臓がんも含め,時間の経過とともに統計上意味を有するものとなってい
るのである。加えて,継続的な疫学調査により,近年においても,脳卒中,心筋梗
塞,呼吸器疾患等,線量相関関係が認められる疾患が増大していることに留意すべ
きである。
ウ 被告の免疫回復論(前記アb(b))に対する反論
a 免役機能低下の存続に対する影響の可能性
 被告は,極めて大量に被曝した者を除けば,ほとんどの者は被曝後数
か月を経過すると血液細胞を作る能力が回復し,被曝前の状況に戻るのであって,
原告の受けた被曝線量で免疫力の永続的低下をもたらすという知見は得られていな
いと主張する。
 しかしながら,免疫機能の持続的低下には,被告の主張するような高
線量が必要とされるわけではない。すなわち,楠洋一郎ほか「原爆放射線のヒト免
疫応答に及ぼす影響第16報:黄色ブドウ球菌毒素に対するT細胞の反応」(甲120。
以下「原爆放射線のヒト免疫応答に及ぼす影響第16報」という。)は,免疫を司る
T細胞の免疫機能低下は,高線量被爆者群で顕著であるとしており,清水由紀子ほ
か「原爆被爆者の死亡率調査第12報,第2部 がん以外の死亡率:1950-1990年」
(甲119。以下「原爆被爆者の死亡率調査第12報」という。)は,原告よりも低い線
量である0・5ないし1シーベルト線量域の全身被曝が骨髄及び他の器官に主要な急性
障害を引き起こし,完全な修復がなされなかった場合には長期的健康影響を引き起
こすかもしれないとしていると
ころ,ウイルス性肝炎もその延長上で考えることが可能であり,また,原告には骨
髄の急性障害が生じていたところである。
 また,藤原論文も「HCV感染が放射線被曝の前か後かに関係なく,放射
線量はHCVが関与した慢性肝炎の経過に影響するかもしれない。」として,原爆放射
線の被曝者がHCV感染によって肝機能障害が進行する過程を具体的に想定しており,
放射線による免疫低下がC型肝炎による慢性肝機能障害と無関係ということはでき
ない。
 さらに,放影研臨床研究部長鈴木元は,「放影研における臨床研究の
方向性」(甲120)において,「肝炎ウイルス感染率に影響がある輸血歴,針治療
歴,家族歴および広島と長崎の差,性別などの交絡因子の影響を補正しても,被曝
の影響が残った。これらの結果は,放射線の影響が少なくとも肝炎ウイルスの持続
感染への移行段階に効いていることを示している。この過程は,原爆被爆による長
期にわたる免疫応答性の変化が関係している可能性がある。また,放射線により遺
伝子変異が起きた肝臓幹細胞に肝炎ウイルスが感染した場合に,キャリアーになり
やすいかもしれない。」と述べており,被告の免疫回復論に根拠がないことは明ら
かである。
b ウイルス感染による細胞障害と免疫
 被告は,C型慢性肝炎の場合,HCVのみが慢性肝炎の原因である旨主張
し,戸田教授も証人尋問において同旨の供述をしている。
 しかし,C型を含むウイルス性肝炎の場合,ウイルス自体が肝臓の細
胞を傷害するのではなく,免疫機序により細胞障害(炎症)が生ずるものと考えら
れる。すなわち,一瀬白帝ほか編著「図説分子病態学」(甲103)によれば,B型肝
炎の場合,B型肝炎ウイルス(以下「HBV」という。)自体には細胞障害性がなく,
免疫学的機序により細胞障害が生ずるものと考えられ,免疫細胞である細胞障害性
T細胞がB型肝炎発症に深く関与しているのであって,「HCVによる肝細胞障害機序
に関して,HCV感染者で肝機能障害持続正常者の肝組織を見ると10~20%の症例では
肝組織障害はみられないこと,C型肝炎患者肝組織中,あるいは末梢血中にHCV特異
的細胞障害性T細胞が存在することにより,主として免疫学的機序が肝細胞障害に
重要な役割を果たして」
いるとされており,B型肝炎とC型肝炎はほぼ同様の機序で放射線による免疫機能
の低下を介して肝機能障害を促進させていると考えられることからすれば,ウイル
スが関与しているから原爆放射線被曝と関係ないということはできない。
   エ 戸田教授の意見書及び証人尋問における供述に対する批判
a 原告の基本的立場
 戸田教授は,乙39(以下「戸田意見書①」という。),乙44(以下
「戸田意見書②」という。)及び乙48(以下「戸田意見書③」といい,戸田意見書
①ないし③を併せて,単に「戸田意見書」という。)の3本の意見書を作成している
が,反対尋問を経た意見書は戸田意見書①のみであり,戸田意見書①の提出及び戸
田教授の証人尋問以前に,本件に関する基本的な論点及び証拠は出尽くされていた
ことに照らせば,その後提出された戸田意見書②及び③の証拠価値は著しく低いと
いうべきであるから,戸田意見書①及び戸田教授の証人尋問における供述を中心に
検討,批判する。
b 戸田意見書①の特徴
 戸田意見書①は,本件の争点や,既提出の諸論文,意見書,証人尋問
調書に全く触れるところがなく,肝機能障害と放射線に関する長期間にわたる研究
成果を一切無視して,自説のみを極めて簡略に述べたにすぎず,放射線と肝機能障
害の関係について直接費やされている部分はわずか1頁程度にすぎない。
 このような戸田教授の不誠実性は,同人が証人尋問において,藤原副
部長の論文「原爆被爆者における肝障害」(甲76)が権威ある雑誌に受理された正
真正銘の科学論文であって単なる報告書ではないにもかかわらず,この論文につい
て,「きちっとしたジャーナル」に投稿されてアクセプト(受理)されれば本当だ
と認められるものの,何かの研究報告書にすぎないものでデータにはなり得ないと
いう趣旨の供述をしていることや,後日提出した意見書において,上記論文等が雑
誌にアクセプトされたこと自体を強く非難していることからも明らかである。
 さらに,戸田意見書①は,本件で書証として提出されている論文をは
じめ,被爆者の肝機能障害について英文学術誌に掲載された論文に言及しておら
ず,論点や論述の目配りとしては誠実さ,公正さを欠いており,その作成に当たっ
て誠実な検討を行ったものとは認め難い。
c 戸田意見書①結論部分の要約及び反論
(a) 戸田意見書①の結論部分の要約
① 放射線による肝臓への影響は確定的影響と考えられており,1000
ラドのしきい値を超えなければ健康影響が発生しない。
② 慢性肝炎の成立には肝細胞障害因子が持続的に存在することが必
須であるが,原子爆弾の投下により原告が放射線に曝露されたのはせいぜい数日な
いし数週間であり,放射線による細胞障害や放射線の作用で発生したラジカルは短
命であるから,持続的な細胞障害をもたらす可能性はない。放射線による肝障害
は,肝静脈の閉塞性病変による肝循環障害であり,慢性肝炎ではない。
③ 放射線が永続的に細胞障害を与えるとすれば,遺伝子損傷がある
が,放射線により遺伝子損傷を受けた肝細胞はアポトーシス(細胞死)に陥るとこ
ろ,細胞死は炎症を惹起しないとされており,放射線は炎症の原因となり得ない。
  
④ したがって,原告にはHCV以外に持続的な肝細胞障害因子は存在せ
ず,HCVが原告の慢性肝障害の原因であり,その病態は慢性肝炎であるとするのが妥
当である。
(b) 前記(a)①に対する反論
 戸田意見書①は,前記(a)①のとおり,放射線の肝機能への影響を
確定的影響に限定して考えているが,このような考え方は,放射線と肝臓がん及び
肝機能障害に関するこれまでの研究成果を一切無視するものであって相当でないこ
とは,前記(3)イbのとおりである。
(c) 前記(a)②に対する反論
 戸田意見書①の前記(a)②の結論は,放射線の肝機能障害への影響
は確定的影響以外にないという考えに執着し,問題の本質を根本的に見誤ったもの
であり,また,放射線の確定的影響と確率的影響との混同に起因するものというこ
とができる。
 確かに,放射線の短時間あるいはごく短期間の影響すなわち確定的
影響のみを考えれば,原告の場合のような短期間の被曝では,慢性肝炎にみられる
ような持続的な細胞障害はもたらす可能性はないといえるかもしれない。しかし,
原告の主張は,放射線が長期間肝臓に影響を及ぼし続けることにより持続的な細胞
障害をもたらしているとしたり,放射線が短時間又は短期間で慢性肝炎と同様な症
状を発症させるとしたり,原子爆弾投下直後の初期放射線又はその後の残留放射能
等の肝臓に対する直接的な確定的影響がそのままの形で30年ないし40年間引き続き
存続しているとしたりするものではなく,原告は,原爆放射線が生体に与えた遺伝
子レベルや免疫を含む多様な影響,そしてそれが後年に至って肝機能障害に与える
影響を主張し,被爆者の
原爆放射線による慢性肝炎の原因について,原爆放射線による遺伝子損傷の可能性
が十分にあるとしつつ,他方で免疫による影響もあり,この両者は区別できないと
主張するものである。
 このように,戸田意見書①の上記結論は,本件の問題点に対する根
本的な理解不足を露呈した,的外れなものといわざるを得ない。
(d) 前記(a)③に対する反論
 戸田意見書①は,「放射線が永続的に細胞障害を与えるとすると遺
伝子損傷があるが,放射線により遺伝子損傷を受けた肝細胞はアポトーシス(細胞
死)に陥る」と明言しており,戸田教授は証人尋問においても,遺伝子の損傷を受
けた細胞は,アポトーシスに陥って除かれるというのが一般的な考え方であり,放
射線により遺伝子が損傷され,それが原因で肝炎が発生することは考えられない旨
供述する。
 そして,戸田教授は,上記の説明が貫けないことが分かると,すべ
ての細胞がアポトーシスに陥るとする説明を翻し,DNAの損傷が残ることを認めたう
えで,肝細胞はすべて2年間で置き換わるという考え方を突然示して,DNA損傷が後
年に残ることを否定する根拠としようとするほか,細胞の不完全修復があり得るこ
とについて同意を示しながらも,遺伝子損傷をある程度受けた細胞は短期間で死ん
でしまい,2年を経過した時点で残った細胞は健康な正常細胞である旨供述する。
 以上を総合すると,遺伝子損傷をある程度受けた肝細胞は,すぐに
アポトーシスで除去され,遺伝子損傷が残ったり,遺伝子の不完全修復が生じて生
き延びたとしても,肝細胞は2年間ですべて新しい細胞に入れ替わり,その後肝臓は
正常な細胞のみで構成されるから,遺伝子損傷が2年以上残ることはなく,放射線に
よる2年を超える後障害はありえない,ということになる。
 しかし,肝臓がんについて,遺伝子が損傷を受けた後2年をはるかに
経過してから発症することは,藤原論文,前掲「原爆被爆者における肝障害」(甲
76)等において確認されており,戸田証人も,上記事実を認めざるを得なかったも
のである。
 ちなみに,原子爆弾の被爆者の場合,被曝による遺伝子への影響が
後年まで残存したり,何らかの障害を与えたりすることが重要な点として挙げられ
ることに留意すべきである。
d 戸田意見書②に対する批判
(a)遺伝子損傷の長期間にわたる存続
 戸田意見書②は,遺伝子損傷が長期間存続する事実について,
「「遺伝子障害を『ある程度』受けた細胞」の『ある程度』の意味は,高度の遺伝
子損傷で,アポトーシスに陥るほどの遺伝子損傷という意味である。遺伝子損傷が
軽度であれば,遺伝子損傷を残した細胞集団で肝臓は形成されることになる」と弁
解し,被曝による遺伝子損傷が長期間存続する事実及び原子爆弾の被爆者にとって
これが重要な点であることを認め,40年近く継続するような確定的影響が否定され
た場合,ワン論文や藤原論文のような研究に進むことは当然であり,戸田意見書②
はこれらの研究も視野に入れたものであるとしている。
 しかしながら,戸田意見書①及び戸田教授の証人尋問における供述
の基調は,前記c(a)のとおりであり,放射線の肝細胞への影響による肝臓の障害
は2年以上存続することはあり得ないという,誤った考え方に固執するものであっ
たことに留意しなければならない。
 また,戸田教授は,遺伝子損傷の長期間にわたる存続の事実を認
め,これが「最重要な留意点であることは,一般論としてはそのとおりである。」
とする以上,その事実について戸田意見書①又は証人尋問において明確な説明を行
い,これを前提としてその後の論理を組み立てるべきであったにもかかわらず,戸
田意見書①及び同人の主尋問は,この点についてまったく触れていない。
(b) 確定的影響に固執する誤り
 戸田意見書②は,「我が国では,慢性肝炎を含めて慢性肝障害の原
因としてC型肝炎ウイルスが最も頻度の高い原因であり,・・・したがって,慢性
肝炎の原因として,被曝による遺伝子損傷を考えなければならない理由は全くな
い。」とし,遺伝子損傷を考えるならそれは「慢性肝炎でなく発がんへの道を歩む
ことになる。」とする。
 しかし,上記意見は,放射線による肝機能障害には確定的影響しか
考えられず,被爆者C型肝炎の病態形成はHCV以外に考えられないという自説にこだ
わり,これまでの科学,医学の到達点を無視するものである。
 原告は,被爆者のC型肝炎についてHCVウイルスの関与を否定するの
ではなく,被爆による放射線とHCVウイルスの共同成因によるC型肝炎の発症及び促
進を主張しており,仮に戸田教授が数十年前の放射線による人体への影響を認める
のであれば,同人の論旨に照らしても,放射線の生体に与える遺伝子レベルを含む
多様な影響以外に考えられないはずである。
 なお,戸田意見書②には,遺伝子と肝機能障害との関係を証明でき
なければ肝機能疾患の放射線起因性が認められないとも読める部分があるが,肝臓
がんの場合においてさえ,遺伝子レベルでの発症機序が明確な形で証明されている
わけではなく,それでも実務上は原爆症認定が行われているのであって,最高裁判
所平成12年7月18日判決も原爆症認定について医学的に完全な証明を要求しているわ
けではない。
(c) ワン論文の障害因子について
 ところで,戸田意見書②は,ワン論文において慢性肝障害及び肝硬
変の発生率に明らかな線量反応関係が認められたことは,原爆放射線の被曝と慢性
肝障害の因果関係を強く疑わせるものであったとしつつも,ワン論文には,飲酒,
栄養状態,医療機関を訪れてHCVに曝露される機会が多かったか否か等の,放射線以
外の障害因子による影響(いわゆる「偽りの放射線影響」)などの問題点が残され
ていることから,ワン論文は「不完全な論文」であるとしている。
 しかし,藤原論文は,被爆者が非被爆者よりもHCVの感染率が高いわ
けではないことを示しており,被爆者が医療機関を訪れてHCVに曝露される機会が多
かったという障害因子は,問題にならないことというべきである。加えて,放射線
と喫煙又は飲酒との関係に正の相関関係が認められないとする研究が存在すること
などにも照らせば,戸田意見書②が示した「偽りの放射線影響」に関する疑念は解
決されているというべきであって,戸田意見書②もこれを認めている。
e まとめ
 以上のとおり,戸田意見書及び戸田教授の証人尋問における供述は,
証拠価値が乏しかったり,誠実性に欠ける点があるほか,その内容についても,放
射線被曝と肝機能障害との関係を確定的影響のみに限定して考えていることなど,
非科学的,非医学的な点が多い。
 したがって,このような意見書及び供述に基づいて,原告の慢性肝機
能障害が原爆放射線に起因することを否定することはできない。
(5) 放射線起因性についての立証責任及び立証の程度
ア 原爆医療法及び被爆者援護法の趣旨と原爆症認定の要件
 被爆者援護法は,その10条1項において,原爆症の認定について,放射線
起因性と要医療性を要件として定めている。
 これらの要件該当性を判断するには,同法の前文に込められた,いわば
立法者意思ともいうべき趣旨及び目的に沿って判断する必要があるところ,同法前
文の中でとりわけ重要なのは,①国の責任において,原子爆弾投下の結果として生
じた放射能であること,②その放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異な
る特殊の被害であること,③高齢化の進行している被爆者に対する保険,医療及び
福祉にわたる総合的な援護策を講じることを,特に明記している点である。
 すなわち,①は,原子爆弾の投下により被爆者が受けた被害の重大性と
深刻性を踏まえて「国家補償的配慮」の必要性を表明し,その理念で医療等の措置
を講じる必要性を明らかにしたものであり,②は,放射線に起因する健康被害が他
の戦争被害とは異なる特殊な被害であることを特に重視すべきことを指摘したもの
であり,③は,被爆者に高齢化が進行していることから,保険,医療及び福祉にわ
たる総合的な援護策を講じることを求めているものである。
 したがって,同法に規定する放射線起因性や要医療性の判断に当たって
は,あくまで国家補償的配慮の下に,放射線に起因する健康被害の特殊性を配慮
し,高齢化が進行する被爆者に医療等の総合的な施策を講ずる観点から,その該当
性の有無を決しなければならない。
 そして,原告が申請疾病により「現に医療を要する状態にある被爆者」
であることは明らかであり,被告がもっぱら放射線起因性の要件を争っていること
から,同要件の立証責任の所在及び立証の程度を検討する。
   イ 国家補償責任と立証責任及び立証の程度
a 国家補償責任に関する最高裁判所判決
 国家補償とは,国家の行為によって損害を加えられ,その損害発生に
ついて被害者に責任のない場合に,国家がその損害を填補する制度ないし法理であ
り,国家賠償と損失補償に次ぐ第三の類型として,結果責任の形で提唱されたもの
であって,国民の身体や財産に生じた損害を救済するという目的に照らして,国家
の責任において被害者の救済を図ることに主眼が置かれるものである。
 そして,最高裁判所昭和50年(行ツ)第98号同53年3月30日第一小法廷判
決(民集32巻2号435頁)は,原子爆弾による健康上の被害が特異かつ深刻なもので
あることと並んで,これが戦争という国家の行為によってもたらされたものであ
り,しかも被爆者の多くが一般の戦争被害者よりも不安定な生活状況に置かれてい
ることを指摘したうえで,「原爆医療法は,このような特殊の戦争被害について戦
争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面を有するも
のであり,その点では実質的に国家補償的配慮がその制度の根底にあることは,こ
れを否定することができない」と判示して,原爆医療法が国家補償の趣旨,性格を
有することを明らかにしている。
 さらに,同判決は,「被爆者の救済という観点を重視するならば,不
法入国した被爆者も現に救済を必要とする特別の健康状態に置かれている点では他
の一般被爆者と変わるところがないのであって,不法入国者であるがゆえにこれを
かえりみないことは,原爆医療法の人道的目的を没却するものといわなければなら
ない」として,「被爆者の救済」と「人道的目的」が被爆者立法の神髄であること
を明らかにしている。
b 国家補償責任と被爆者救済の必要性
 原爆医療法及び被爆者援護法が国家補償責任に基づいて制定され,又
は実質的に国家補償的配慮に基づくものである以上,その解釈,運用に当たって
は,国の責任を重視し,できるだけ被害者の救済を中心に考えなければならない。
すなわち,被爆者に放射線起因性についての無理な立証を強い,科学的に未解明な
点を被爆者に不利に扱うことは許されないというべきであり,放射線起因性の判断
に当たっては,被害の特性と,国家補償ないしは国家補償的配慮という立法趣旨に
沿った判断をすべきである。
c 最高裁判所平成12年7月18日判決等における国家補償責任の位置付け
 最高裁判所平成12年7月18日判決及び大阪高等裁判所平成12年11月7日
判決(判例時報1739号45頁,判例タイムズ1057号128頁。以下「大阪高裁判決」とい
う。)は,それぞれ放射線起因性の証明の程度として「高度の蓋然性」を要すると
し,証明の程度を実質的に軽減した原審の判断を批判しているものの,内容として
は原審の認定した因果関係の存在をそのまま是認している。
 例えば,最高裁判所平成12年7月18日判決は,「法7条1項は,放射線と
負傷又は疾病ないしは治ゆ能力低下との間に通常の因果関係があることを要件とし
て定めたものと解すべきである。このことは,法や特措法の根底に国家補償的配慮
があるとしても,異なるものではない」としながらも,実際には証明の程度に配慮
し,「放射線起因性があるとの認定を導くことも可能」として因果関係を認めてい
る。
 逆に,放射線起因性について被爆者に重い立証責任を負わせれば,後
記のとおり,放射線の人体への影響について未解明の部分が多く,その証明が困難
なことから,被爆者の救済が図られなくなるおそれがある。
 したがって,放射線起因性の証明の程度については,最高裁判所平成
12年7月18日判決の表面的な文言にとらわれずに,被爆者立法の前提にある立法事実
と,「被害者の救済」及び「人道的目的」を図ろうとする最高裁判所の判断の実質
を理解して,特別な配慮をすべきである。
   ウ 原子爆弾による被害の特殊性と立証責任及び立証の程度
a 原子爆弾による被害の特殊性
 原爆放射線の被曝は,全身被爆に体内被曝が加わったものであり,特
定臓器に対する被曝及び全身の被曝の影響に加えて,免疫機構に対する被曝があ
る。さらに,熱線,爆風等による肉体的被害に加え,心理的な抑圧などのストレ
ス,社会の崩壊に伴うさまざまな被害が複合して生じており,これらを厳密に放射
線被曝による被害と区別することは不可能である。そして,放射線後障害としての
疾患は非特異的であり,しかも放射線後障害が出現するのは被爆から長期間を経た
後である。
 このように,原子爆弾による被害が複合的,特殊な被害であり,その
科学的解明が困難なことに照らせば,放射線起因性の立証責任についても,このよ
うな被害の特殊性を考慮せざるを得ない。
b 科学的解明の困難さ
 厚生省がかつて運用の指針としていた「医療認定基準」は,「放射能
による障害の有無を決定することははなはだ困難であるため,医学的検査の結果の
みならず被爆距離,被爆当時の状況,被爆後の行動等をできるだけ精細に把握し
て,当時受けた放射能の多寡を推定するとともに被爆後における急性症状の有無及
びその程度等から間接的に当該疾病若しくは症状が原子爆弾に基くか否かを決定せ
ざるを得ない場合が少くない。」としている。
 このように,放射能による傷害の有無の判断が著しく困難であること
は,厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健
康診断の実施要領について」(昭和33年8月13日衛発第727号)による「原子爆弾被
爆者健康診断実施要領」において,「昭和20年広島及び長崎の両市に投下された原
子爆弾は,もとより,世界最初の例であり,従って核爆発の結果生じた放射能の人
体に及ぼす影響に関しても基礎的研究に乏しく明らかでない点がきわめて多い。」
とされていることからも窺われる。
 そして,原子爆弾による放射線と被曝による身体障害のメカニズム
は,未だ科学的に解明されていない部分が非常に多く,現在も新しい知見が次々と
明らかにされている状況にある。
 このような事情を踏まえて,最高裁判所平成12年7月18日判決は,DS86
について,「なお未解明な部分を含む推定値であり,現在も見直しが続けられてい
る」と指摘したうえで,放射線による急性症状の典型である脱毛が,DS86としきい
値理論を機械的に適用する限りでは発生し得ない地域で発生していることから,当
該傷害について「放射線起因性があるとの認定を導くことも可能であって,それが
経験則上許されないとまで断ずることはできない。」として,放射線起因性を認め
ている。
 このように,原爆放射線の人体への影響には不確定かつ未解明な部分
が多いことから,仮に被爆者が立証責任を負うとしても,最高裁判所平成12年7月
18日判決が示した程度の立証で足りるとすべきである。
   エ 被爆者の高齢化と立証責任及び立証の程度
 原子爆弾の被爆者が高齢化しつつある中で原爆症認定に長時間を費やす
ことは,被爆者にとって極めて酷であり,原爆放射線の人体への影響が科学的に未
解明な状況下で,被爆者に放射線起因性についての立証責任を課し,高度の証明を
求めれば,救済の道は閉ざされかねない。
 被爆者援護法の前文は,高齢化の進行している被爆者に対する保険,医
療及び福祉にわたる総合的な援護策を講じることを掲げており,被爆者の高齢化に
伴って肝機能障害,がん等の疾病に罹患する割合が増える中で,放射線起因性の有
無が判然としない場合にも,被爆者に医療等の措置が容易に受けられるよう配慮を
求めたものと解すべきである。
 そして,同法に係る立法事実及び立法者意思や,その根底にある国家補
償的配慮を踏まえれば,特に高齢の被爆者に対して,放射線起因性についての立証
責任を負わせるべきではなく,少なくとも証明の程度を軽減することが必要と解す
べきである。
   オ 最高裁判所平成12年7月18日判決の立証程度および「高度の蓋然性」の内

 最高裁判所平成12年7月18日判決は,放射線起因性の立証について「高度
の蓋然性」を要するとし,その判定は「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性
の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきである」と判示している
ことから,高い証明度を要求しているように見えるが,同判決を詳細に検討する
と,文言から受ける印象とは異なり,被爆者の救済及び人道目的のために格段の配
慮をしていることが理解できる。
 同判決は,爆心地から約2・45キロメートル離れた地点で被爆した被上告
人の被爆当時の状況,被爆による負傷の程度,被爆後の行動,その後の身体状況等
を踏まえたうえで,「このような症状の経過,治ゆの遷延は,治療の不十分,不適
切さだけでは十分に説明することができないものであった。」と認定し,現在の傷
害の内容及び程度についても,「このように広範な脳孔症は,頭部外傷の合併症と
いうだけでは説明することができないようなまれな状態であり,このことは,かわ
らの打撃以外の要因も加味していることを強く推認させる。」としている。そし
て,日米合同調査団や厚生省が行った調査の内容や,被上告人とほぼ同じ地点で被
爆した3人の被爆直後の急性症状を踏まえて,「DS86としきい値論とを機械的に適用
する限りでは発生するは
ずのない地域で発生した脱毛の大半を栄養状態又は心因的なもの等放射線以外の原
因によるものと断ずることには,ちゅうちょを覚えざるを得ない」としたうえで,
「物理的打撃のみでは説明しきれないほどの被上告人の脳損傷の拡大の事実や被上
告人に生じた脱毛の事実などを基に考えると,被上告人の脳損傷は,直接的には原
子爆弾の爆風によって飛来したかわらの打撃により生じたものではあるが,原子爆
弾の放射線を相当程度浴びたために重篤化し,又は右放射線により治ゆ能力が低下
した結果,現に医療を要する状態にある,すなわち放射線起因性があるとの認定を
導くことも可能であって,それが経験則上許されないものとまで断ずることはでき
ない」と判示している。
 このように,放射線起因性の立証に必要な「高度の蓋然性」の証明に必
要とされる「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るもの」と
は,まさに同判決が示した程度のもので足りるのであって,「高度の蓋然性」の内
容を正確に理解するならば,原告の場合,放射線起因性の立証は十分に尽されてい
るというべきである。
 そもそも,慢性肝機能障害は,従来は原爆症と認定されており,しかも
疫学的には放射線と慢性肝機能障害の因果関係が明らかにされてきたにもかかわら
ず,徐々に原爆症認定が厳しくなり,1989(平成元)年に米国でHCVが発見されたと
いう理由で,放射線起因性が否定されるようになったものであるが,現在,学問的
には,HCVの存在により放射線起因性が否定される状況にはなく,むしろ共同成因と
考えられることは前記のとおりである。原告は,まさに死ぬかもしれない程の原爆
放射線を浴び,ほぼ肝硬変といえる高度の肝機能障害を発症しているのであって,
国家補償,人道,高齢者福祉といった被爆者援護法の立法趣旨に照らして,放射線
起因性が認められるべきことは当然である。
  (6) まとめ
 以上のとおり,被告が依拠したDS86による放射線量推定は,最高裁判所平
成12年7月18日判決が指摘するとおり,「なお未解明な部分を含む推定値であり,現
在も見直しが続けられている」のであって,未だその問題点を克服したとはいい難
く,実測値との不一致,残留放射線及び放射性降下物の軽視とこれに基づく内部被
曝の軽視等の欠陥を有している。また,10グレイの放射線を照射しなければ肝機能
障害は起きないとするしきい値理論も,肝機能障害と放射線被曝の関係を確定的影
響に限定している点で根本的に誤っているのみならず,全身照射と部分照射の相
違,残留放射線及び放射性降下物による低線量被曝の軽視,他の傷害との複合の無
視等に照らして非科学的であり,その信用性に重大な問題がある。
 このようなことからすれば,原告が被曝した放射線量をDS86により130ラド
と推定し,これが肝機能障害のしきい値を下回るから放射線起因性がないとする被
告の主張は理由がなく,むしろ,
① 爆心地から1・3キロメートルという近距離で窓近くに上半身裸で被爆し
重傷を負っていることや,被爆直後に被爆地周辺をさまよい歩き,放射線に汚染さ
れた粉塵,川の水等を大量に摂取した原告の被爆状況
② 被爆直後に発熱,脱毛,血性の下痢,嘔吐,白血球や好中球の減少等の
血液異常が発生し,それらの症状も重症で,被爆直後に放射線症との診断を受ける
ほどの急性症状があったこと
③ HCVの同定以前からの研究によれば,被爆者は非被爆者に比べ明らかに肝
障害の頻度が高く,原爆放射線被曝量と相関関係が認められること
④ C型肝炎と被爆の関係に関する疫学的研究成果によれば,慢性肝機能障
害と原爆放射線との間に相関関係があること,他方,原爆放射線被曝量と被爆者の
HCV感染には相関関係がないのに,原爆放射線量と被爆者のHCV肝障害とは相関関係
があり,その原因として,放射線がHCV感染後の発症や進行の促進に関与した可能性
が指摘されていること
等の事実を総合すれば,原告の肝機能障害は,放射線被曝とHCVが共同成因と
なり,致死量程度の原爆放射線を浴びたためにC型肝炎が発症若しくは進行し,又
は放射線により治癒能力が低下したために発症若しくは進行したために,現に医療
を要する状態にあるものとの認定を導くことができる。
 したがって,原告の原爆症認定申請を却下した本件処分は,違法であるか
ら取り消されるべきである。
(被告の主張)
(1) 原爆症認定の要件の立証責任及び立証の程度
ア 原爆症認定の要件及び原告の主張
 被爆者援護法10条1項は,「厚生大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して
負傷し,又は疾病にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医
療の給付を行う。ただし,当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射能に起因するもので
ないときは,その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医
療を要する状態にある場合に限る。」と規定する。
 したがって,同法11条1項に基づく原爆症認定に当たっては,①被爆者が
現に医療を要する状態にあること(要医療性),②現に医療を要する負傷又は疾病
が原子爆弾の放射線に起因するものであること,あるいは,当該負傷又は疾病が原
子爆弾の放射線に起因するものでないときは,その者の治癒能力が原子爆弾の放射
線に影響を受けているため現に医療を要する状態にあること(放射線起因性)を要
する。
 また,放射線起因性の要件については,申請者である原告において,特
定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明する責
任がある。
 この点,原告は,放射線起因性の証明について必ずしも高度の蓋然性の
証明を要しないとするが,原告の上記主張は,以下に述べるとおり失当である。
イ 被爆者援護法10条1項の要件と因果関係の立証
a 立証責任について
 被爆者援護法に基づく援護は,被爆者の状況,疾病の内容等に応じて
その内容が異なり,同法11条1項に基づく認定を受けた被爆者に対しては,他の被爆
者より厚い援護を与えている。そして,同項の認定処分を受ける者がこれによって
自己の権利,利益の拡張を得られることや,同項の規定の文言に照らせば,同法
10条1項に規定する原爆症の認定に係る各要件の立証責任は,医療の給付を受けよう
とする者が負うものと解すべきであるから,同項による医療の給付を受けようとす
る被爆者において,同項所定の要件を具備していることの証明があった場合に,は
じめて同法11条1項の原爆症認定がされることとなる。
b 証明の程度について
 原爆症認定に係る放射線起因性の要件の証明の程度について,最高裁
判所平成12年7月18日判決は,相当程度の蓋然性の証明があれば足りるとした原審の
判断を変更し,通常の民事訴訟における因果関係の立証の程度と異なるものではな
いとしたうえで,「訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学
的証明ではないが,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結
果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり,その判定
は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを
必要とすると解すべきである」として,放射線起因性の証明の程度についても高度
の蓋然性を証明することが必要であるとしている。
 上記判断は原爆医療法に関するものであるが,被爆者援護法に基づく
原爆症認定の場合も異なる点はなく,同法27条1項が健康管理手当の支給について,
被爆者の造血機能障害等が「原爆放射線の影響によるものでないことが明らかでな
いこと」を要件とし,同法31条が介護手当の支給について,被爆者の障害が「原爆
の傷害作用の影響によるものでないことが明らかでないこと」を要件とするなど,
厳格な因果関係の存在を必要としていないことと対比すれば,同法10条1項の放射線
起因性の要件を満たすには,放射線と負傷又は疾病ないし治癒能力低下との間に通
常の因果関係の存在を要することは明らかである。
 したがって,本件では,原告において,原告の肝機能障害が原爆放射
線に起因するものであること,又は,原告の治癒能力が原爆放射線の影響を受けて
いることについて,高度の蓋然性があることを証明しなければならない。
c 放射線起因性(因果関係)判断の科学性について
 放射線起因性すなわち事実的因果関係の証明は,経験則に基づいて行
われるものであるが,その対象が科学的,医学的知見によってしか証明できない事
柄である以上,科学的,医学的知見を離れて偏った感情や先入観,価値判断を入れ
てはならないのであって,科学的,医学的知見を総合して判断した場合に,通常人
が疑いを差し挟まない程度に納得が得られ,真実性を確信し得るものであることが
必要である。
 そして,原爆放射線と原告の肝機能障害との因果関係の有無を判断す
るに当たっては,原子物理学,放射線学,疫学,医学等の高度に専門的な知見が専
門的経験則として重要な地位を占めることは明らかである。
(2) 放射線による人体への影響
ア 放射線
 物質は無数の原子から構成され,原子と原子は数個の電子を介して結ば
れているところ,何らかの原因で原子から電子が切り離され,マイナスの電気を持
つ電子とプラスの電気を持つ原子に分離することを電離(イオン化)という。放射
線とは,広義には電波や紫外線なども含むが,一般的にはこの電離を引き起こす電
離放射線のことを指し,電離放射線には,ガンマ線,エックス線,中性子線,重量
子線等がある。また,放射能とは,ある不安定な物質が,自ら放射線を放出して他
の物質に変わる性質や能力をいう場合と,不安定な物質そのものをいう場合があ
り,この不安定な物質を放射性物質ともいう。
 放射線が物質に当たると,放射線のエネルギーは物質中に放出され,こ
れにより励起(原子・分子などの系が,エネルギーの最も低い安定した状態から,
より高いエネルギー状態に移ること)又は電離が生じる。
 また,放射線は,無作為に原子から電子を失わせるため,遊離
基(フリーラジカル又はラジカル)と呼ばれる極度に不安定なイオンを生成する。
遊離基の多くは,近隣の原子又は分子に1000分の1秒以内といった極めて短時間で作
用して消失する。人体に当たった放射線は,人体中の水分子を分解して遊離基を生
成し,この遊離基がDNAなどの種々の生体分子に対して作用する。また,放射線が直
接DNAに作用して遊離基を生成し,DNAに損傷を与えることもある。
 放射線には,自然界に存在するものと人工的に作られたものがあり,自
然界からの放射線(自然放射線)被曝には,大地に存在する放射性物質からの放射
線や宇宙線による外部被曝と,体内に取り込まれた放射性物質からの放射線による
内部被曝がある。地球上の人間1人が受ける平均自然放射線被曝線量は,外部被曝と
内部被曝を合計すると年間2・4ミリシーベルト程度とされている。
 ちなみに,吸収線量とは,放射線が物質又は生体に作用したとき,単位
物質(組織)1キログラム当たりに吸収されたエネルギー量(ジュール)を表すもの
であり,1キログラム当たり1ジュールのエネルギーが与えられるときの吸収線量が
1グレイ(100ラド)とされる。
 また,等価線量とは,放射線の生体への影響を表すための単位であり,
放射線の種類によって異なる放射線被曝による生体組織への影響を考慮したもの
で,生体に作用した吸収線量に生物学的効果比を考慮した放射線過重係数を掛けて
得られる。等価線量は,単位物質(組織)1キログラム当たりに吸収されたエネルギ
ー量(ジュール)を表すものであり,生物学的効果比を考慮して1キログラム当たり
1ジュールのエネルギーが与えられるときの等価線量が1シーベルト(100レム)とさ
れる。生物学的効果比はガンマ線よりも中性子線の方が大きいとされているが,原
爆放射線はそのほとんどがガンマ線であり,中性子線の割合は少ない。
イ 放射線起因性
a 基本的な考え方
 一般に,疾病は,いくつかの要因が絡み合って発生するものである。
そして,ある因子がある疾病の要因か否かを判定するには,人体を用いた実験が許
されないことから,動物実験等の基礎医学的な検討に加え,疫学的方法によって検
討するほかない。
 また,放射線被曝による症状は,被曝後に見られる嘔吐,下痢,血液
細胞数の減少,出血,脱毛等の急性放射線障害を除き,放射線被曝特有のものでは
ないから,ある疾病を有する個人の症状を分析しても,当該疾病が放射線被曝によ
って生じたものか又は他の要因によって生じたものであるかを判別することは極め
て困難である。
 そこで,放射線被曝の人体への健康影響,すなわち,放射線被曝があ
る疾病の危険因子であるか否か,被曝線量の増加に伴って当該疾病の発生率や死亡
率が高まるという線量反応関係が認められるか否かといった問題の検討にも,疫学
的分析を行うことが必要となる。
 したがって,個々の原爆症認定申請については,上記のような疫学的
知見を踏まえながら,被爆者の申請疾患と推定被曝線量との関連を検討することが
基本となる。
b 放影研における疫学調査
 被爆者に対する疫学調査は,被爆者について長期追跡調査をするため
に設立されたABCCによって開始され,1975(昭和50)年にABCCが日米共同運営によ
る財団法人である放影研に改められたことから,放影研による調査に引き継がれて
現在に至っている。
 そして,疫学におけるコホート(疫学においてある共通の性格を持つ
集団をいう。)研究とは,何らかの共通特性(例えば,同じ居住地,同一の曝露要
因など)を持った集団を追跡し,その集団からどのような頻度で疾病,死亡が発生
するかを観察し,要因と疾病等との関連を明らかにする研究であるところ,放影研
は,約12万人の対象者をコホート集団として,1950(昭和25)年以降の死亡率等に
つき調査研究を行う寿命調査と,寿命調査集団から線量推定値などが明らかでない
者を除いた者についてその有病率等を調査する成人健康調査の,2種類のコホートを
対象とする疫学調査を行っている。
c 放射線による人体への影響
 放射線による人体への影響については,症例の蓄積によって詳細な科
学的知見が得られており,原爆放射線による人体への影響とそれ以外の放射線によ
る人体への影響には,基本的に相違がないとされている。
 放射線の人体への影響は,放射線に被曝してから症状が出現するまで
の時期の違いによって,急性影響と晩発影響に分けられる。急性影響は,放射線に
被曝して数週間以内に現れる影響であり,白血球の減少,吐き気,全身倦怠感,め
まい,出血及び脱毛が主な症状である。晩発影響は,放射線に被曝して数年間経過
した後に現れる影響であり,がん(白血病を含む。)及び白内障が主な症状であ
る。
 また,放射線に対する感受性は,細胞分裂と関係が深く,骨髄,腸上
皮等の細胞分裂を繰り返し行う細胞は,筋肉や神経の細胞等のあまり分裂すること
のない細胞に比べ,放射線に対する感受性が高いことが知られている。
d 確定的影響と確率的影響
 放射線の人体への影響は,確定的影響と確率的影響に分類される。
 確定的影響とは,低線量の被曝では影響は出現しないことが明らかで
あるが,ある線量以上の放射線に被曝すると影響が出現するものをいい,ある線量
を境として影響が出現する場合,その境の値をしきい値という。確定的影響は,多
数の細胞が放射線被曝によって損傷を受けた場合に出現するもので,白内障や脱毛
などが典型例であり,被曝線量に比例して症状が重篤化する性質がある。
 これに対し,確率的影響とは,放射線に被曝したからといって必ず影
響が出現するものではないが,被曝線量が多いほど影響の出現する確率が高まるも
のをいい,がんや遺伝的障害がこれに該当すると考えられているが,一部のがんに
ついては,現時点における疫学調査では放射線による影響が明確に確認されておら
ず,遺伝的障害については,原子爆弾の被曝のような高線量被曝でもその影響は現
時点では確認されていない。確率的影響は,被曝線量が多いほど症状が重篤化する
わけではないが,少量の被曝線量でもその影響が出現する可能性があり,被曝線量
の増加にしたがって出現する確率が高くなるものである。
e 被曝線量の推定
 上記dに照らせば,確定的影響については,被爆者の被曝線量が申請
疾患のしきい値を超えるものか否かが,当該申請疾患が放射線影響によるものか否
かの判断基準となり,確率的影響については,申請疾患の出現する確率と被曝線量
との関係を知ることが,当該申請疾患に関する放射線影響によるものか否かの判断
基準となることから,当該被爆者の被曝線量を把握することが重要となる。
 そして,原告の申請疾患である肝機能障害は確定的影響に属するもの
であるから,原告の被曝線量を推定したうえで,それが肝機能障害の発症や治癒能
力に影響を及ぼすものであったか否かを検討すべきである。
(3) 被曝線量の推定
ア 原爆放射線量推定方式(DS86)
 放射線被曝と疾病の関係を疫学的に検討するには,当該被爆者の被曝線
量を推定する必要があるところ,放影研では,被爆者の疫学調査において,原爆放
射線量推定方式DS86によって被曝線量を求めている。
 原爆放射線量推定方式としては,1965(昭和40)年に米国オークリッジ
国立研究所の科学者により提案された線量評価システムT65D(Tentative1965
Doses)があり,放影研もDS86の策定以前には,この方式によって計算した放射線量
を被爆者の疫学調査に使用していた。T65Dは,米国ネバダ核実験場における原子爆
弾の爆発テスト,高い鉄塔に設置した小型原子炉あるいは強力なコバルト60源を用
いた実験,日本家屋を建設して行った遮へい実験等の結果を,広島市及び長崎市に
投下された原子爆弾に当てはめて放射線量を推定したものであるが,1970年代後半
以降,種々の問題点が指摘されるようになった。そこで,米国では,1981(昭和
56)年に線量再評価検討委員会及びその結果を評価,吟味するための上級委員会が
設置され,日本側でも厚生省が検討委員会及
び上級委員会を組織して米国と共同でこの問題に当たることとなり,1986(昭和
61)年,日米合同上級委員会において,新しい線量評価システムDS86が策定され
た。
 DS86は,放射線量推定方式として最良のものとされ,ICRPの基準の根拠
として用いられるなど,世界の放射線防護の基本的資料とされており,その発表以
降,被爆者の疫学調査における線量評価に用いられている。
イ DS86の概要と初期放射線による被曝線量
 DS86は,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の物理学的特徴,放出
された放射線の量,放射線の空中移動のあり方や建築物や人体の組織を通過する際
の影響に関する核物理学上の理論的モデルに基づいて組み立てられ,放射線量の計
算値を算出したものであり,実際の被曝試料を用いたガンマ線及び中性子線の測定
結果により検証されている。
 DS86による初期放射線量の計算方法は,放射線量を計算する前提となる
原子爆弾の出力について,複数の推定方式を用い,広島市に投下された原子爆弾の
出力を15キロトン(誤差は±3キロトン),長崎市に投下された原子爆弾の出力を
21キロトン(誤差は±2キロトン)とし,これを前提に,空気中カーマ,遮へいカー
マ,臓器線量の計算モデルを統合し,被爆者の遮へいデータを入力して線量を計算
するものである。
 空気中カーマとは,被爆者の周囲の遮へいを考慮しない被曝線量をい
い,遮へいカーマとは,被爆者の周囲の建物や構造物による遮へいを考慮した被曝
線量をいう。人体の被曝線量は,周囲の建物等による遮へいによっても異なるた
め,DS86においては,被爆者に日本家屋の中若しくはその側にいた場合,又は戸外
にいて日本家屋若しくは地形により遮へいされていた場合について,家屋集団モデ
ル,長屋集団モデル等のモデルを用いて計算している。また,臓器線量とは,人体
組織による遮へいも考慮した被曝線量をいう。特定の臓器が受けた線量を計算する
には,当該臓器の周囲の人体組織による遮へいも考慮しなければならず,被曝時の
姿勢や向きによって臓器の位置が異なるため,遮へい効果も異なるところ,DS86
は,赤色骨髄,膀胱,骨,脳,
乳房,目,胎児/子宮,大腸,肝,肺,卵巣,膵,胃,睾丸及び甲状腺の15臓器を
対象として,被爆者の臓器線量を昭和20年当時の典型的日本人の人体模型又はそれ
に適合するモデルを用いて計算している。
ウ DS86の問題点をめぐる議論
a ガンマ線の測定値と計算値との不一致
 原子爆弾の被爆者が被曝した放射線には,ガンマ線と中性子線があ
り,線量としてはガンマ線の占める割合が高いところ,DS86においては,ガンマ線
と中性子線の計算値を測定結果により検証する際,ガンマ線量を直接測定する方法
として熱ルミネッセンス線量測定法を用いている。この方法による測定
値とDS86による計算値を比較すると,広島の場合,爆心地から1000メートル以遠で
は測定値が計算値より大きく,近い距離においては逆に小さくなっており,長崎の
場合,この関係は逆になっているが,これらは細部における傾向であり,全体とし
ては測定値と計算値はよく一致している

b 熱中性子線の測定値と計算値との不一致
 他方,中性子線量の検証については,線量を直接測定する方法がない
ことから,中性子によって特定の物質中に生成された特定の放射性物質の放射能を
測定し,この測定値とDS86による計算値との比較が行われた。その結果,
例えば,電柱の碍子の接着剤として使われていた硫黄が速中性子線によって誘導化
されたリン32については,原爆投下の数日後に測定したデータを再検討したとこ
ろ,DS86との間に差は見られなかったが,鉄の中の不純物であるコバルトが熱中性
子線によって誘導化されたコバルト60については,計算値が爆心地から290メートル
の地点において測定値の1ないし1・5倍,爆心地から1180メートルの地点において測
定値の3分の1倍と系統的な差を示した。
 これらの測定結果によれば,熱中性子線誘導放射能(ユウロピウム
152,コバルト60,塩素36)の測定値とDS86による計算値との間には系統的な不一致
がみられ,爆心地から近距離では計算値の方が測定値より高く,遠距離では逆に測
定値の方が高いところ,この傾向は明瞭であり,DS86の策定後,測定値の数が増加
するとともに,広島の場合にこの相違が顕著なものとなってきた。
エ DS86の問題点の解決-DS02の策定過程における検討
 DS86における中性子線に関する測定値と計算値との不一致に関する上記
ウの問題点については,厚生労働科学研究研究費補助金厚生労働科学特別研究事業
「原子爆弾の放射線に関する研究 平成14年度総括・分担研究報告書」(乙50。以
下「平成14年度研究報告書」という。)記載のとおり,計算値と測定値は一致する
ことが次のとおり判明した。
 熱中性子に関しては,ユウロピウム152,コバルト60及び塩素36について
の測定があり,速中性子に関してはニッケル63の測定がある。
そして,中性子の測定に用いた被曝試料は,原爆放射線の他にも,土壌
に含まれる自然放射性物質からの放射線,宇宙線等による被曝を受けており,原爆
放射線の被曝線量を測定するためには,このような被曝線量を被曝試料の被曝線量
から差し引くために,バックグラウンド(自然放射性物質からの放射線,宇宙線等
による被曝)の補正が必要とされるところ,塩素36の測定値は,バックグラウンド
の補正を行えばDS86の計算値とよく一致することが確認された。
 また,9か所の異なる被爆距離における被曝試料をそれぞれ4人の測定者
に配分し,4人の測定者が同一試料についてユウロピウム152及び塩素36の測定を行
ったところ,ユウロピウム152については,測定値と計算値が爆心地から1キロメー
トルを超える遠距離まで非常によく一致すること,塩素36についても,若干のばら
つきはあるものの,測定値と計算値が一致し,補正方法を改善するとさらによく一
致することが確認された

 こうして,前記ウbの熱中性子線の不一致は,実測値の測定方法の問題
であって,DS86の問題ではなかったことが明らかになった。
 一方,中性子については,爆心地近くで測定値よりも計算値が高いとい
う問題もあったが,これについては,計算値の基となっている原子爆弾の出力と炸
裂点の高度の数値に原因があると推測されたことから,この点を再検討した結果,
広島市に投下された原子爆弾の出力を15キロトンから16キロトンに,高度を580メ
ートルから600メートルに修正すれば,計算値と測定値がよく一致することが判明し
た。
 そして,DS86に対するこのような検討を踏まえて,線量推定方式
DS02(DosimetrySystem2002)が策定され,2003(平成15年)年3月に原爆放射線
量評価検討会において承認された。DS02は,DS86に比べて格段に精密であるが,空
気中線量全般に関してDS86の大幅な変更はなかった。
 このように,測定技術の進化と,コンピュータの能力及び技術の向上に
より可能となった膨大な計算に基づいてDS02が策定された結果,DS86による計算値
と測定値がよく一致することが判明し,DS86の計算値の正確性,ひいてはその科学
的合理性が証明されている。
オ 残留放射能の評価
a 残留放射能について
 一般に,人体への放射線被曝の形態は,身体の外部から放射線を浴び
る外部被曝と,呼吸,飲食,外傷,皮膚等を通じて体内に取り込まれた放射性物質
が放出する放射線による内部被曝とに大別され,原爆放射線による外部被曝は,初
期放射線による被曝と,残留放射能から放出される放射線による被曝に分けられ
る。
 初期放射線とは,原子爆弾の爆発後1分以内に空中から放出されるもの
で,その主要成分はガンマ線と中性子線である。残留放射能は,原爆の核分裂によ
って生成された放射性物質(放射性降下物)と,地上に到達した初期放射線の中性
子が建物や地面を構成する物質の原子核と反応を起こすことによって生じた誘導放
射能(放射性物質)に分けられる。
 したがって,原子爆弾の被爆者が浴びた被曝線量については,初期放
射線による外部被曝のほかに,残留放射能による被曝(放射性降下物及び誘導放射
能による外部被曝並びに内部被曝)を検討する必要があるところ,初期放射線によ
る外部被曝の線量について,DS86により推定することが合理的であることは前記の
とおりであるから,残留放射能による被曝線量について検討する。
b 残留放射能の測定
 残留放射能の測定は,原子爆弾投下後の早い段階から行われてお
り,1945(昭和20)年8月10日から行われた大阪帝国大学調査団による調査をはじ
め,京都帝国大学,理化学研究所調査団,マンハッタン技術部隊,日米合同調査
団,広島文理大による測定,調査が行われている。これらの初期調査の結果,爆心
地付近のほか,広島においては己斐,高須地区,長崎においては西山地区で特に放
射能の高いことが判明した。残留放射能の調査はその後も行われており,放射性降
下物については1975(昭和50)年に爆心から半径30キロメートル以内で採取された
土壌試料からの調査が行われ,誘導放射能については1976(昭和51)年以降被曝岩
石中のユウロピウムの測定等が行われている。
c 誘導放射能
 残留放射能の測定,調査結果を基に,1958(昭和33)年以降,誘導放
射能の計算が行われるようになり,DS86策定時にも計算が行われた。その結果,爆
心地での誘導放射能からの外部放射線への潜在的最大被曝線量は,
広島で約80レントゲン,長崎で30ないし40レントゲンと推定された。こ
の被曝線量は,爆発直後から無限時間まで爆心地に居続けた場合の線量であるか
ら,実際の被爆者の誘導放射能による被曝線量は,これよりも大幅に少ないことに
なる。
 なお,土壌の放射化による線量率(単位時間当たりの線量)は時間の
経過とともに急速に低下するため,誘導放射能による積算線量の約80パーセントは
1日目が占めており,2日目以降の誘導放射能による被曝線量は小さい。また,地上
での線量率は爆心地からの距離の増加に伴い急速に減少し,広島では爆
心地から175メートル,長崎では350メートル離れると半減している。
d 放射性降下物
 放射性降下物についても,DS86策定時に線量推定が行われたところ,
放射性降下物が特にみられた地域は,長崎の西山地区などに限定されており,これ
らの地域は,いずれも爆心地から約3キロメートル風下に当たり,かつ,爆発の30分
から1時間後に激しい降雨が生じている。これらの地域において,被爆後数週間から
数か月の期間にわたり,線量率の測定が数回行われており,その値から爆発1時間後
の線量率を推定し,任意の時間内における積算線量を求めることができる。
 放射性降下物による積算線量の推定には,①初期調査における線量率
測定データの利用,②半導体検出器による土壌試料からの測定データの利用という
方法があるところ,長崎の場合,①及び②の方法により積算線量を測定した結果,
測定値はよく一致し,広島の場合は①のデータがあるのみであったが,DS86策定時
に発見された原爆投下直後に集められた試料を基に爆心地付近の放射性降下物を計
算したところ,①の方法による推定値と一致した。
 以上の方法により,爆発1時間後から無限時間までの地上1メートルの
位置での放射性降下物によるガンマ線の積算線量を計算した結果,長崎の西山地区
で20ないし40レントゲン,広島の己斐,高須地区で1ないし3レントゲンと推定され
た。この積算線量も,爆発1時間後から無限時間まで当該地域
に居続けた場合の線量であって,実際の被爆者の放射性降下物による被曝線量はこ
れより大幅に少ないことになる。
e 吸収線量への換算
 ところで,上記c及びdの各線量は,いずれもレントゲンを単位とす
る空気中の照射線量(ある場所における空気を電離する能力を表す線量)であるか
ら,人体組織の吸収線量に換算するには,適切な換算係数を乗ずる必要がある。そ
して,このような換算の結果,上記cの誘導放射能による人体組織の無限時間まで
の積算被曝線量は,長崎で最大18ないし24ラド,広島で最大約50ラドとなり,放射
性降下物によるものは長崎で最大12ないし24ラド,広島で最大0・6ないし2ラドとな
る。
f 内部被曝
 被曝線量を検討するうえで内部被曝を考慮する必要があることは前記
のとおりであるところ,長崎の西山地区の住民に対する体内の放射線量を測定した
結果,1945(昭和20)年から1985(昭和60)年までの同地区における内部被曝によ
る積算線量は,男性で10ミリラド(0・01ラド),女性で8ミリラド(0・008ラド)
と推定されている。
カ 原告の主張に対する反論
 原告は,DS86による被曝線量の推定について,正確性に限界があり,こ
れに基づく被曝線量の推定には多大な問題がある旨主張し,名古屋大学名誉教授澤
田昭二(以下「澤田名誉教授」という。)も証人尋問においてこれに沿う供述をし
ているが,上記主張は,次のとおり理由がない。
a 被曝線量の測定値とDS86による計算値の不一致について
 原告は,DS86による計算値と原子爆弾による被曝線量の実測値が一致
しないことは明らかであるとし,その原因として,DS86の推定式自体が不合理であ
ることや,入力データが不正確なことを主張する。
 しかしながら,ガンマ線については,原告の主張する傾向が存在する
ものの,これらは細部における傾向であって,全体としては測定値とDS86による計
算値がよく一致していることは前記ウaのとおりである。すなわち,平成14年度研
究報告書7頁の図1によれば,距離2・1キロメートルの地点でも0・05グレイと0・06
グレイの間の値で,すなわち0・01グレイ単位の精度で,熱ルミネセンス測定による
測定値とDS86による計算値が一致していることが示されており,澤田名
誉教授も,ガンマ線についてはDS86の推測値に問題がない旨供述している。
 また,中性子線についても,DS02の策定過程における再測定の結果,
バックグラウンドの補正を行えば測定値がDS86による計算値とよく一致することが
判明しており,より測定値に合った線量推定方式としてDS02が策定されたが,DS02
による計算値はDS86による計算値とほぼ一致していることは,前記エのとおりであ
る。
 なお,澤田名誉教授は,証人尋問において,中性子について測定値と
DS86による計算値との不一致を指摘するが,この点は,中性子線のうち熱中性子線
のデータに関するものであり,速中性子線についてはDS86の計算値と測定値はよく
一致していたのであって,DS86が速中性子を主とする被曝線量を計算したものであ
り,熱中性子の被曝線量への寄与が少ないことや,速中性子線の方が熱中性子線と
比較して生物に対する有害性が強いことに照らしても,熱中性子線についての不一
致を中性子線全般の不一致であるかのように述べる同人の供述は不当である。
b 最高裁判所平成12年7月18日判決におけるDS86の評価について
 原告は,最高裁判所平成12年7月18日判決がDS86自体を排斥しているか
のように主張する。
 しかしながら,同判決は,DS86について,「世界中において優良性を
備えた体系的線量評価システムとして取り扱われてきたもの」とする原審の認定事
実を掲げたうえで,「DS86もなお未解明な部分を含む推定値であり,現在も見直し
が進められているところであ」るとしているのであって,線量推定方式としての
DS86の科学的合理性自体を否定しているものではない。そして,DS02の策定によ
り,DS86の計算値と測定値とが一致し,未解明とされた部分が解明され,DS86の科
学的合理性が改めて証明されたことは,前記エのとおりである。
c 生物学的効果比について
 原告は,ガンマ線と中性子線を単純に合算した吸収線量を被曝線量と
し,生物学的効果比を考慮しないのは不当である旨主張する。
 しかしながら,ガンマ線より中性子線の方が生物学的効果比は大きい
とされているものの,原爆放射線のほとんどはガンマ線であり,中性子線の割合は
極めて少ないから,被曝線量の評価として,生物学的効果比を考慮した等価線量で
なく吸収線量を用いたとしても,人体への影響の評価として大きな差異が生じるこ
とはない。
 また,等価線量による評価を正確に行うには,被爆者ごとに,被爆当
時の爆心地からの距離,屋内被爆か否か等にとどまらず,被爆時における被爆者の
姿勢,向いていた方角,衣服,内臓脂肪等による遮へいの影響等のすべてを詳細に
確認しなければならないところ,被爆から数十年を経て認定申請を行った被爆者に
このような詳細な状況を確認するのは極めて困難であるから,吸収線量を用いるこ
とが現実的かつ適切である。
d 残留放射能及び内部被曝について
 原告は,被告が残留放射能及び内部被曝を軽視しており,DS86は初期
放射線による被曝線量に重点を置いたものであるから,爆心地から離れて初期放射
線が減少し,「死の灰」等による残留放射線の影響が強まる地区では,現実の線量
と推定値との間に乖離が生じる旨主張する。
 しかしながら,被告において,残留放射能,放射性降下物による被曝
及び内部被曝についても考慮していることは,前記オのとおりである。
 また,原告は,長崎市に入市したアメリカ海兵隊員の多発性骨髄腫の
発症例を挙げて,残留放射能の危険性を示す典型例であると主張するが,これにつ
いては科学的な検討がされていないうえに,多発性骨髄腫については被曝による過
剰リスクが認められていないから,原告の上記主張はその前提を誤るものであって
失当である。
(4) 放射線による肝臓への影響
ア 肝機能障害について
a 肝機能障害,慢性肝炎
 肝臓は,生体内における物質対処の中心的臓器であり,その機能は,
代謝,排泄,解毒,造血及び凝固,循環調節等,多岐にわたっている。そして,何
らかの原因により肝臓疾患が引き起こされた結果,肝臓の持つ上記の機能の一部又
はすべてが低下する状態を肝機能障害という。
 慢性肝炎は,慢性肝機能障害の1つであり,6か月以上持続する肝実質
の炎症に基づく肝機能障害があり,組織学的には門脈域を中心とした持続性の炎症
がみられ,肝小葉内には肝細胞の変性ないし壊死を認める病態,あるいは,肝臓の
炎症が6か月以上持続しているか,持続していると推定される状態と定義される。慢
性肝炎は,ウイルスその他の肝細胞障害因子が持続的に存在することにより,肝細
胞死が継続的に起きている状態であり,肝組織にはリンパ球をはじめとする炎症細
胞の浸潤がみられる。実際の臨床においては,GOT(グルタミン酸オキサロ酢酸トラ
ンスアミナーゼ),GPT(グルタミン酸ピルビン酸トランスアミナーゼ)の値が6か
月以上にわたって上昇を示し,HBV又はHCVの感染が認められた場合に慢性肝炎と診
断される。
 肝臓は再生力の強い臓器であり,慢性肝炎により肝細胞死が持続して
も,失われた肝細胞は再生されるが,炎症反応や肝細胞障害に対する修復過程にお
いて線維の増生が起こり,ひいては肝硬変に至る。
b 肝機能障害の要因
 肝機能障害の主な要因としては,ウイルス,細菌,薬剤,アルコー
ル,肥満,腫瘍等が挙げられるほか,放射線被曝も挙げられる。
 肝機能障害のうち,慢性肝炎の約90パーセント及び肝硬変の78パーセ
ントが肝炎ウイルスを要因とし,肝細胞がんでは70パーセントがHCVに陽性,19・5
パーセントがHBVに陽性,4・7パーセントがHBV及びHCVに陽性であり,アルコールに
由来するのは0・5パーセント程度といわれており,他の統計では,慢性肝炎のうち
HBV及びHCVによるものが約90パーセントを占めているとされている。このように,
慢性肝炎のほとんどが肝炎ウイルスに起因していることが医学的に判明している。
 なお,HCVに感染した場合,80パーセント程度は持続的な感染となっ
て,C型慢性肝炎を発症する。
c 肝機能障害の臨床症状
 慢性肝炎では,自覚症状,他覚症状はほとんど現れず,増悪期であっ
ても,全身倦怠感,易疲労感がみられることもあるが,自覚症状はほとんどみられ
ないことが多い。C型慢性肝炎では,急性肝炎の症状を呈するB型肝炎と異なり,
自覚症状のないまま慢性化するという特徴がある。肝硬変では,全身倦怠感,易疲
労感,脾腫,肝硬度の増強,くも状血管腫,手掌紅斑,黄疸,浮腫,腹水等がみら
れる。
イ 放射線による肝障害
a 肝臓に永続的障害を生じさせるために必要な線量
 肝機能障害は放射線被曝によっても生じるが,確定的影響の範ちゅう
に属するものであり,放射線被曝によって肝機能に永続的な障害が生じるために
は,1回のみの放射線被曝の場合には10グレイ(1000ラド)以上の線量が必要であ
り,それ以下の線量を分割して被曝した場合には,さらに多くの線量が累積されな
ければ永続的な障害は生じないとされている。
 これに対し,原告は,被告の上記の見解が動物実験の結果に基づくも
のであり,また,本件で問題とされるのは原子爆弾による全身被曝であって,残留
放射線の影響も看過できないことから,原爆放射線の人体に対する影響の根拠にな
らないと主張する。
 しかしながら,被告の見解は動物実験の結果のみに基づくものではな
く,他の人体に対する放射線の照射結果にも裏付けられていること,原爆放射線と
それ以外の放射線による人体への影響は化学的,物理的に異なるところはないこ
と,被告の見解は残留放射能についても考慮したものであることからすれば,原告
の主張はその前提を誤るものであって,失当というべきである。
 また,原告は,原爆放射線の全身被曝による人体への影響がそれ以外
の放射線による被曝の場合と異なると主張するものの,その科学的な根拠を示して
いない。
 そもそも,肝障害には種々の要因が関与している可能性があることか
ら,被爆者の肝障害が放射線に起因するものか否かを分析するに当たっては,他の
要因がない状態における放射線の肝臓への影響を観察する必要があり,そのために
は,医療用放射線による肝障害や動物実験による成果を参考にすることが有用であ
る。
 この点について,総合病院広島生協病院病院長齋藤紀(以下「齋藤医
師」という。)は,その意見書(甲77,94,106。以下,それぞれ「齋藤意見書①」
ないし「齋藤意見書③」という。)において,原子爆弾の被爆者が全身的な修復機
転の障害等の複合的な影響を受けたこと,被曝後数か月の時点において一種の悪液
質状態であったことを挙げ,被爆者に上記しきい値を適用すべきではないと述べ
る。
 しかしながら,肝細胞の寿命は約300日であり,肝臓は再生能力の旺盛
な臓器であるから,被曝によって肝細胞の再生(分裂)が障害された場合,それが
極めて重度であれば1年以内に肝機能不全を来し,そうでなければ分裂能のある遺伝
子を有する他の肝細胞に置き換わるのであって,被曝から数十年後まで修復機転の
障害が持続することはあり得ないから,被爆後数十年を経て慢性肝炎を発症した原
告の場合,複合的な影響により肝臓に永続的な障害を生じたものでないことは明ら
かである。
 また,齋藤医師は,比較的低い照射線量で強い肝障害を呈した事例が
あるとして,肝機能障害が確定的影響であることを否定するが,10グレイ以下の放
射線を被曝したことにより肝細胞障害を生じても,それは一時的なものであって,
永続的な障害とはなり得ないし,そもそも同人の挙げる症例は,慢性肝炎とは全く
異なる所見の肝障害である。
b 放射線被曝により慢性肝炎を発症することは考えられないこと
(a) 放射線被曝により慢性肝炎を発症することがないことの根拠
 放射線に起因する肝機能障害は存在するが,その病態は肝静脈の閉
塞性病変であり,慢性肝炎とは異なる。すなわち,放射線に起因する肝機能障害の
所見は,初発症状が腹水,肝腫大であり,GOT,アルカリホスファターゼ(ALP)の
上昇,肝シンチグラムで欠損像が認められ,肝静脈閉塞の病理組織所見が認められ
るが,慢性肝炎の特徴である炎症細胞の浸潤は見られない。
 しかも,慢性肝炎の発症には,前記アaのとおり,肝細胞障害因子
が持続的に存在することが必要であるが,放射線被曝の場合にはこれが存在せず,1
回限りの原爆放射線被曝によって慢性肝炎に罹患することは,慢性肝炎発症の機序
を考えればあり得ない。すなわち,放射線による細胞障害は,放射線自体か,又は
放射線が細胞内の水に作用して発生したラジカルが細胞内小器官等を損傷すること
により生ずるが,放射線はもちろん,ラジカルは極めて反応性が高く,短時間に消
失するため,持続的な肝細胞障害因子にはなり得ない。
(b) 原告の主張及びこれに沿う証拠に対する反論
 これに対し,原告は,原爆放射線の場合には,体内に摂取した放射
性物質からの低線量放射線の持続的内部被曝により慢性肝機能障害が現れる旨主張
するが,上記見解は科学的根拠に基づくものではなく,失当である。
 この点,齋藤意見書①には,全身の外部,内部被曝の放射線障害に
おいて,特定の臓器の急性障害は多臓器にわたる障害の影響を受けざるを得ず,人
体の血流の4分の1が経由する大きな臓器である肝臓においては,ラジカルを含め,
人体に生じた毒性の代謝産物もまた肝臓に集中し,原子爆弾による放射線肝障害も
その関与を抜きには考えられない旨の記述がある。
 しかしながら,ラジカルの寿命は,長くても数日程度であり,数十
年後にラジカルが残ることは考えられず,これによって被曝から数十年後に肝機能
障害が引き起こされることはあり得ないから,ラジカルによる肝機能障害が起こり
得るとしても,それは放射線暴露後早期の段階であり,被曝から数十年後に慢性肝
機能障害を起こすことはあり得ない。
 また,齋藤意見書①及び②で挙げられている被爆者の肝障害の例
は,それが放射線に起因するものであるか否かの確証がなく,いずれも被曝後1年以
内の症状に関するものであって,被曝から数十年後に生じた原告の肝機能障害が放
射線に起因することの論拠となり得るものではない。
 さらに,放射線自体やラジカルによって遺伝子が損傷された場合,
遺伝子修復が起こるか,アポトーシスに陥るが,アポトーシスは炎症を起こさない
細胞死であるから,細胞がアポトーシスに陥ることにより慢性肝炎を発症すること
はなく,遺伝子の修復過程で不完全修復が起きた場合には,発がんの機序となるこ
とはあっても慢性肝炎は発症しない。齋藤意見書②及び③には,被曝による遺伝子
損傷が肝炎の発症に影響を与える可能性があるかのような記載があるが,科学的根
拠がなく失当である。
 なお,齋藤意見書②には,放射線に起因する肝障害が一般に「放射
線肝炎」と呼称されていることをもって,放射線被曝により慢性肝炎を発症するこ
とが肯定されるかのような記載があるが,その報告例の所見からは慢性肝炎とは別
の病態であるといわざるを得ないから,上記記載は誤りである。
c 被曝線量と慢性肝疾患の有病率の疫学的な関連性について
(a) 概説
 原告は,疫学的にも肝機能障害,肝硬変及び肝臓がんの出現につい
て,原爆放射線量との相関関係を示すデータが多いと述べ,慢性肝疾患は確率的影
響による疾患であり,被曝と慢性肝疾患との間に因果関係があると主張するが,上
記の記載の基となった各種の疫学的研究結果は,被曝線量の増加によって肝がん以
外の慢性肝疾患が増加することを科学的に明らかにしたものではなく,原告の主張
するような科学的知見は確立されていないといわざるを得ない。
 また,被爆者に肝臓がんの増加が認められる理由としては,放射線
被曝による遺伝子損傷による可能性が高く,肝炎や肝硬変を母地として発症したも
のとは限らないから,肝臓がんの増加が認められることと原告の肝機能障害(慢性
肝炎)は関係がない。
 以下,原告の指摘する各種疫学的研究結果が,被曝と慢性肝疾患の
因果関係を認める根拠となり得ないことを明らかにする。
(b) 疫学の意義とその限界
 そもそも疫学とは,危険性が疑われる疾病要因は可能な限り排除す
るという疾病予防,公衆衛生の見地から,集団における健康障害の頻度と分布を規
定する諸要因を明らかにするものであり,個々の患者における疾病発生の原因を究
明する決め手とはなり得ないものである。
 本件では,原告の被曝と原告の慢性肝機能障害との間に因果関係が
認められるか否かが問題となるところ,被爆者集団全体を対象とした疫学的研究の
成果を踏まえ,疫学的因果関係の有無を検討するだけでなく,病理学,臨床医学,
放射線学等の見地をも踏まえ,原告の当該症状が被曝に起因するか否かを個別的に
検討する必要がある。
 また,疫学的な因果関係を検討するに当たっては,当該疫学調査が
検討すべき要因と疾病との関連性をみるために正しく設定され,交絡因子やバイア
スの影響が適切に排除されていることや,適切な統計的検定によって有意性が確認
されることが必要であり,そのうえで,関連の時間性,関連の強因性,関連の一致
性,関連の特異性,関連の整合性等,疫学的因果関係の存在を認めるために必要な
要件に適合するか否かを検討しなければならない。
 さらに,仮に特定の要因と疾病の間に疫学的因果関係が認められた
としても,別の要因に比して相対危険度が低ければ,個別的因果関係の検討におい
て,当該疾病が別の要因に起因すると推定されることにも留意すべきである。
(c) ワン論文等について
 ワン論文(甲71)及びこれに基づく「成人健康調査第7報原爆被爆者
における癌以外の疾患の発生率,1958-86年(第1-14診察周期)」(甲26)は,原子
爆弾被爆者の成人健康調査集団について,がん以外の疾患の発生率と被曝線量との
関係を長期間にわたり調査したものであり,慢性肝疾患及び肝硬変について,大き
くはないが有意な放射線影響が成人健康調査集団で初めて観察されたとするが,慢
性肝炎と肝硬変の主要原因であるウイルス感染及びアルコールの過剰摂取との関係
を検討していないから,被曝と慢性肝疾患の発症の因果関係を裏付ける知見とはな
り得ない。
(d) 原爆被爆者の死亡率調査第12報について
 原爆被爆者の死亡率調査第12報(甲119)は,原子爆弾被爆者の寿命
調査集団におけるがん以外の死因による死亡について,被曝線量との関連を長期間
にわたり調査したものであるが,この論文中には,慢性肝疾患や肝硬変について,
有意な死亡の増加が認められた旨の記載はない。
 上記論文は,脳卒中,心疾患,消化器及び呼吸器疾患で統計的に有
意な線形の放射線影響が観察されるとし,消化器疾患の1シーベルト当たりの推定過
剰相対リスクは0・11であり,P値が0・05未満との記載があるが,肝硬変について
は,1シーベルト当たりの推定過剰相対リスクが0・18,90パーセント信頼区間
が(0・00;0・40)との記載があるものの,P値の記載はなく,有意差が認められ
たか否かは不明であり,信頼区間の下限が0・00なので,被曝線量が増加しても死亡
率が変化しない可能性がある。そして,消化器には放射線感受性が高いとされる腸
の粘膜上皮細胞等も含まれており,消化器疾患について有意な増加が認められたと
しても,それを慢性肝疾患に類推することはできないから,上記論文も,被曝と慢
性肝疾患の発症との因果関係を裏
付ける知見とはなり得ない。
 また,上記論文は,総括的にみて,解析を近距離被爆者に限定して
も線量反応が強く示され,潜在的な重要交絡因子の影響は極めて小さいので,寿命
調査集団において放射線とがん以外の死因による死亡率との間にみられる関連性は
交絡に起因するものではないと考察しているところ,この考察は,職業,喫煙状
況,習慣的飲酒等の危険因子と,これら危険因子情報の得られた回答者のうちがん
以外のすべての疾患の者の死亡率,及び線量との関係の解析中に導き出されたもの
であって,肝硬変や慢性肝疾患との関連に特化して解析したものではなく,肝硬変
や慢性肝疾患に限定すれば,当該疾病の危険因子として一般に認知されている飲酒
歴等の交絡要因については評価していないと理解すべきである。
(e) 藤原論文(甲74)について
 藤原論文は,成人健康調査集団について,抗HCV抗体陽性率,慢性肝
疾患と原爆放射線被曝の関係を調査したものである。
 藤原論文によれば,HCV陰性群の線量反応(直線の傾き)は1グレイ
当たり0・16と極めて小さく,信頼区間は(-0・05;0・46),P値は0・15であ
り,統計的な有意差があるとは認め難く,信頼区間の下限もマイナスとなってお
り,被曝線量が増加しても有病率が変化しないか,むしろ減少する可能性があ
る。HCV陽性群についても,低抗体価,高抗体価のいずれもP値が0・05を大きく上
回り,信頼区間の下限もマイナスとなっている。
 したがって,藤原論文は,少なくとも原爆放射線量と成人健康調査
対象者の抗HCV抗体陽性率については関係がないと結論付け,放射線被曝がHCV感染
後の肝炎の進行を促進した可能性についてさらに研究を要するとしているにすぎ
ず,被曝と慢性肝疾患の発症との因果関係を裏付ける知見とはなり得ない。
(f) 原爆被害者の死亡率調査第13報
 D・プレストンほか「原爆被害者の死亡率調査第13報 固形がんおよ
びがん以外の疾患による死亡率:1950-1997年」(乙52の1,2。以下「原爆被害者の
死亡率調査第13報」という。)は,「原爆被爆者の死亡率調査第12報」と同様の手
法で,寿命調査集団における1950(昭和25)年から1997(平成9)年までの間にがん
以外の疾患で死亡した者について解析したものである。
 同論文の表13(乙52の2)は,1968(昭和43)年から1997(平成9)
年までの間に死亡した者を解析したものであるが,肝硬変について1シーベルト当た
りの推定過剰相対リスクを0・19,90パーセント信頼区間を(-0・05;0・5)とし
ており,P値は示していないが,90パーセント信頼区間の下限が0を下回っており,
放射線の影響によって統計的に有意な死亡の増加を認めたものとはいえない。
(g) 小括
 以上のとおり,最新の疫学的調査においても,放射線被曝と慢性肝
疾患の発症又は増悪との間に統計的に有意な関連性を認めたものはなく,疫学的な
因果関係を検討する前提すら存在しない。
 そして,原爆症認定は,あくまで疫学的知見,病理学的知見,臨床
学的知見及び放射線に関する科学的知見を総合した科学的根拠をもって行う必要が
あり,こうした知見に基づかずに放射線起因性を認めることは,原爆症認定につい
て審議会の意見を聴かなければならないとした被爆者援護法11条2項の趣旨を没却す
るものである。
(5) 原告の肝機能障害の放射線起因性
ア 原告の推定被曝線量
a 原告の被爆状況
 原告は,原子爆弾に被爆した当時,満16歳であり,長崎県立長崎工業
学校に在学していたが,昼間は大橋工場へ学徒動員されており,長崎市に原子爆弾
が投下された時点には,爆心地から北に約1・3キロメートルの地点にある大橋工場
の組立工場内にいた。
 原子爆弾の爆発後,原告は,大橋工場の裏門から長崎本線の線路を越
えて約300メートル離れた山林へ避難し,その後,救援列車が運行されていることを
聞いて,照円寺付近の線路の傍らで列車が到着するのを待ち,同日午後6時か7時こ
ろ,付近に到着した大村行きの救援列車に乗り,大村駅でトラックに乗り換え,大
村海軍病院に入院した。
b 原告の推定被曝線量
(a) 初期放射線による被曝線量
 原告が被爆した爆心地から約1・3キロメートルの地点における空気
中カーマ線量(遮へいがなかったと仮定した場合の被曝線量)は,210ラド(ガンマ
線207ラド,中性子線3ラド以下)と推定され,原告が組立工場内で被爆したと主張
していることから,家屋(工場)による遮へいを考慮すると,長崎における平均家
屋透過係数はガンマ線の場合0・48,中性子線の場合0・41であるから,原告の初期
放射線による被曝線量は105ラドを超えないものと推定される。
 なお,原告は,上半身裸の状態で爆心地の方向のガラス窓に背を向
けて被爆したと主張するが,原告の左腕の火傷が原爆の熱線,閃光によるものであ
るとしても,その火傷が左腕の肘から下のみに限局しており,背中にはガラス片に
よる傷はあっても火傷はなかったこと,1953調査票には,左肩に閃光による火傷が
あった旨の記載があるが,程度は軽いとされており,1956調査票には「3cm大」「入
院1週間後完治」と記載されていることに照らせば,左腕以外には熱線,閃光を直接
浴びていないと考えられ,遮へいの影響は十分にあったものと推測される。
(b)放射性降下物による被曝線量
 長崎において特に放射性降下物が見られた地域は西山地区に限定さ
れており,爆発1時間後から無限時間までの地上1メートルの位置での放射性降下物
によるガンマ線の積算線量を計算した結果,同地区での積算線量が20ないし40レン
トゲンと推定されることは前記(3)オdのとおりであって,これを吸収線量に換算す
ると12ないし24ラドとなる。
 しかしながら,原告が被爆後西山地区に滞在した事実は認められ
ず,原告が移動した場所に黒い雨が降ったという記録も存在しないから,原告の放
射性降下物による被曝線量は,多くとも24ラドを上回らないものと推定される。
(c) 誘導放射能による被曝線量
 長崎市に投下された原子爆弾の場合,誘導放射能による外部被曝線
量は,爆発直後から無限時間までの爆心地における積算線量で18ないし24ラドと推
定されるが,誘導放射能による被曝線量は,原子爆弾の爆発後時間の経過とともに
急激に減少し,爆心地からの距離によっても急激に減少する。個々の被爆者の誘導
放射能による被曝線量については,原爆爆発後の経過時間と当該被爆者が被爆後に
滞在した場所によって放射線量率を求め,これに滞在時間を考慮して,おおよその
数値を推定することが可能である。
 そして,原告は,被爆地点から約300メートルの範囲内で,爆心地の
方角ではなく西の方角に徒歩で移動したと推測されること,原告が救援列車に乗車
した照円寺付近は爆心地から約1・4キロメートルの地点であること,大村海軍病院
は爆心地から15キロメートル以遠に所在することから,原告は被爆後,誘導放射能
による外部被曝を考慮すべき時間帯に,爆心地から1キロメートルの範囲内に立ち入
っていないと推測される。
 そこで,原告が被爆直後から12時間経過後まで爆心地から1キロメー
トルの地点にとどまり,その後は誘導放射能による被曝の影響のない地点に移動し
たものと仮定して,誘導放射能による被曝線量を算定すると,別紙「原告の誘導放
射能による被曝線量計算表」のとおり,累積被曝線量は0・236ラドとなり,原告が
被爆当日午後6時か7時に救援列車に乗車したことからすれば,原告の誘導放射能に
よる被曝線量は0・23ラドを超えることはないと推定される。
(d) 内部被曝線量
 長崎市に投下された原子爆弾による内部被曝線量は,西山地区の住
民を対象とする測定の結果,昭和20年から昭和60年までの40年間に,男性で10ミリ
レム(0・01ラド),女性で8ミリレム(0・008ラド)と推定されていることは,前
記(3)オfのとおりであるところ,原告の場合について,正確な算定は不可能である
が,内部被曝線量を最も多く受けたと考えられる西山地区に原告が滞在し続けたと
仮定しても,その被曝線量が0・01ラドを上回ることはないと推定される。
(e) 小括
 原告の被曝線量は,上記(a)ないし(d)の推定被曝線量を単純に合
算しても129・24ラドであり,130ラドを超えないものと推定されるところ,この値
は,放射線による肝機能障害のしきい値を大きく下回る。
 なお,原告は,大橋工場において被爆したものであるが,被爆者に
ついて実施した生物学的線量測定における染色体異常のデータにより推定したとこ
ろ,同工場の労働者のDS86による推定被曝線量が他の被爆者に比べ高すぎるた
め,DS86の見直しに当たってこれを減少させる必要性が指摘されており,DS02の実
務研究者委員会において,同工場の作業従事者の遮へい計算が大幅に改善された結
果,上記作業従事者の合計線量が20ないし40パーセント減少した。
c 原告の主張に対する反論
 原告は,原告が被爆直後から放射線による急性症状を呈していること
から,大量の放射線を浴びたことが推認されると主張し,澤田名誉教授も証人尋問
において,原告の急性症状がかなり重篤であり,原告が半致死量に近い放射線を浴
びている旨供述する。
 しかしながら,放射線による人体の影響については個人差が大きく,
急性症状の内容,程度等から被曝線量の多寡を判断することはできないし,急性症
状とされる症状の中には,放射線被曝によらなくても発現するものもあるから,急
性症状の内容から被曝線量を推定することもできない。
イ 原告の肝機能障害に放射線起因性が認められないこと
a 原告の病歴
(a) 本件認定申請の認定申請書(以下「本件認定申請書」という。)
に添付された渡辺昭夫医師(以下「渡辺医師」という。)作成の1994(平成6)年
1月7日付け意見書には,負傷又は疾病の名称として肝機能障害と記載され,原告が
昭和59年ころから肝障害を指摘され,手掌紅斑,クモ状血管腫,肝腫大があると記
載されている。肝機能に関する検査については,平成5年3月にGOTが45,GPTが58,
同年12月にGOTが32,GPTが43,ICG(インドシアニングリーン)が15・5パーセン
ト,TTT(チモール混濁試験)が6・0,ZTT(硫酸亜鉛混濁試験)が19・6,HBs-Ag
(B型肝炎ウイルスのS抗原)がマイナスとされ,必要な医療の内容として,食事
療法,内服による肝庇護療法が記載され,平成4年9月16日から同年10月22日まで入
院し,その後通院したと記載されている。
(b) 本件認定申請書に添付された渡辺医師作成の健康診断個人票に
は,既往症として「昭和59年 肝障害」,現症として全身倦怠感,体重減少(1か月
7ないし8キログラム),クモ状血管腫,手掌紅斑,肝触知(2センチメートル)と記
載され,平成4年9月にはGOTが68,GPTが52,ALPが456,TTTが6・0,ZTTが
19・6,HBs-Agがマイナスと記載され,平成5年3月にはGOTが45,GPTが58,ALPが
365,同年12月にはGOTが32,GPTが43,ALPが421,ICGが15・5パーセント,同年11月
24日の白血球数は8400,血小板数は23・6万と記載されている。
(c) 渡辺医師の平成6年8月20日付け診断書には,第2世代HCV抗体が陽
性であったこと,入院中の加療は強力ミノファーゲンCの静注と食事,安静であっ
たこと,外来では小柴胡湯,ビタミン剤の投与を行っていることが記載されてい
る。
(d) 本件認定申請書には,昭和59年ころ肝機能の精密検査を勧められ
たが,特に自覚症状がなかったのでそのままにしておいたこと,平成4年春ころから
急に月に一度くらい非常に疲れやすくなり,仕事ができなくなったこと,平成5年
9月に受診したところ肝機能障害を指摘され入院したことが記載されている。
(e) 原告の陳述書(甲93)には,昭和56年に肝機能について要精密検
査と言われたが,自覚症状がなく仕事も忙しかったため特に精密検査を受けなかっ
たこと,昭和59年ころから体がだるく足が重いなどの症状が出て,平成4年に容態が
悪化して働ける状態ではなくなり,退職して立川第一相互病院で治療を受け始めた
ことが記載されている。
(f) 原告は,本人尋問において,昭和49年ころに被爆者健康手帳の交
付を受け,診断を受けた際,肝機能異常の指摘はなく,昭和56年ないし昭和59年こ
ろに医師から肝機能検査を受けるよう言われたが,平成4年に体がだるく足が重くな
るという自覚症状が出るまでは自覚症状はなかった旨供述する。
b 原告の肝機能障害がC型慢性肝炎であること
 上記a(a)及び(b)の各記載によれば,原告は,GOTとGPTの異常が6か
月以上持続し,ZTT,ICGの上昇も認められることから,慢性肝炎と判断されるが,
血小板数が正常であること,ICGは上昇しているが20パーセントを超えていないこ
と,GOT,GPTの著しい上昇が認められないこと等から,肝硬変には至っていないと
判断される。
 そして,放射線被曝による肝機能障害は,肝静脈の閉塞性病変であ
り,慢性肝炎とは全く異なる病態であるところ,原告の肝機能障害には,腹水,著
明な肝腫大等の肝静脈閉塞性病変の臨床所見はなく,肝静脈の閉塞性病変の場
合,ICG検査の値は通常50ないし60パーセントに上昇するのに対し,原告
の場合は15・5パーセントにすぎないことから,原告の肝機能障害が放射線被曝によ
るものではないことは明らかである。
 さらに,放射線被曝による肝機能障害は,被曝後遅くとも3年以内に起
きてくるものであり,被曝から数十年経った後に放射線被曝による肝機能障害が現
れることは考えられないところ,原告の肝機能障害は,早くても昭和56年ないし昭
和59年ころに発症したものと考えられるから,放射線被曝による肝静脈閉塞性病変
の可能性はない。
 そして,原告はHCVに感染していると認められるところ,前記(4)アb
のとおり,HCVに感染した場合,80パーセント程度は持続的な感染となってC型慢性
肝炎を発症することからすれば,原告の慢性肝炎もHCVによるC型慢性肝炎である蓋
然性が高いというべきである。
ウ 小括
 以上のとおり,原告の推定被曝線量が肝機能障害のしきい値を大きく下
回ることや,原告の肝機能障害の所見及び病歴に照らせば,原告の肝機能障害は
HCVによるC型慢性肝炎であり,原爆の放射線に起因するものでないことは明らかで
ある。
(6) 原告のC型慢性肝炎の発症が免疫能力の低下によるものではないこと
 原告は,原爆放射線被曝による免疫能力の低下が原告のHCV感染に影響を与
えた旨主張するが,放射線被曝が免疫能力の低下を生ぜしめ,肝炎発症に影響を及
ぼしたと認めることはできない。
ア 被曝がC型肝炎の発症を促進させるとの科学的知見は認められないこと
 藤原論文は,成人健康調査の対象集団について,抗HCV抗体陽性率,慢性
肝疾患と原爆放射線被曝の関係を調査したものであり,HCV抗体陽性群と陰性群に分
けた場合における被曝線量ごとの慢性肝疾患の相対リスクの変化をそれぞれ求め,
図2でそれを比較している。
 HCV抗体陰性群については,線量反応(直線の傾き)は1グレイ当たり
0・16,95パーセント信頼区間は(-0・05;0・46),P値は0・15であって,被曝
線量の増加にも関わらず有病率はほとんど上がっておらず,P値も0・05を上回って
おり,統計学的に有意とはいえず,信頼区間の下限もマイナスとなっており,被曝
線量が増加しても有病率が変化しないか,減少する可能性もある。
 一方,HCV抗体陽性群については,線量反応は1グレイ当たり3・04,95パ
ーセント信頼区間は(-1・05;9・02)であって,下限がマイナスとなっており,
P値は記載されていないが,0・05を下回ることはあり得ないと推測される。また,
藤原論文の表6によれば,HCV陽性群を低抗体価と高抗体価に分けた場合のP値は,
それぞれ0・57と0・55であり,求められた線量反応の値が偶然によるものであった
可能性が半分を上回る結果となっている。
 したがって,HCV抗体を陽性と陰性に分けた場合,いずれの直線の傾きも
統計学的に有意ではなく,被曝線量に伴う慢性肝疾患有病率の有意な増加は証明さ
れていない(藤原論文はこの点について,「放射線量に伴うCLDの有病率の増加は,
抗HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著であり」としているが(12頁),HCV陽
性群の有病率の増加については,上記のとおり統計学的な有意差は認められていな
い。)。
 そして,HCV陰性群とHCV陽性群の2本の直線の傾きの差を比較すると,
P値は0・097であり,0・05を上回っていることから,統計学的に有意な差があると
はいえない結果であったことから,藤原論文は,放射線被曝がHCV感染後の肝炎の進
行を促進するという仮説を立てたうえで,更なる研究を要すると結論付けている。
 そして,HCVに感染することによって有病率が13・24倍に大きく増加して
いることからすれば,HCVへの感染の有無が慢性肝疾患の有病率に大きく関わってい
ることは明らかであり,放射線被曝がC型慢性肝炎の発症を促進することについて
は,そのような仮説が立てられ,研究されているものの,科学的な裏付けはなく,
むしろHCVへの感染によって慢性肝疾患の有病率が大きく増加しており,原告の慢性
肝炎はHCVによる蓋然性の方が高いということができる。
 なお,原爆放射線のヒト免疫応答に及ぼす影響第16報には,「放射線の
影響が少なくとも肝炎ウイルスの持続感染への移行段階に効いていることを示して
いる。」との記載があるが,ここにいう肝炎ウイルスはHBVのことであり,「原爆被
爆に長期にわたる免疫応答性の変化が関係している可能性」「放射線により遺伝子
変異が起きた肝臓幹細胞に肝炎ウイルスが感染した場合に,キャリアーになりやす
いかもしれない」等と記載されている点も,HBVに関する筆者の仮説にすぎない。
イ 被曝による免疫能力の低下との関連性は認められないこと
 ICRPの報告書によれば,1グレイを超える全身照射で数分以内に骨髄とリ
ンパ濾胞に細胞学的変化が観察され,白血球数の減少の最大が2週目ないし5週目に
みられるところ,0・5ないし1グレイの線量では,造血細胞の枯渇をほとんど生じな
いため,生存には影響を及ぼさないが,7ないし10グレイ及びそれ以上の急性照射で
は,被曝者の100パーセントが死亡すると考えられている。
 また,原子爆弾の被爆者の白血球数は,一般に,初期にリンパ球,次い
で顆粒球が減少するが,その後1か月目を最低値として回復する経過をとったとさ
れ,被曝後1年目の調査では,被爆者群における白血球数が4000未満である者の割合
は対照者群に比して高いが,被曝後2年2か月後の調査では被爆者群と対照者群で差
は認められず,10年後の時点でも差は存在しないとされる。
 このように,多量の放射線に被曝した者は,血液幹細胞から免疫細胞を
造ることができなくなり,外部からの感染を排除できなくなるが,極めて多量に
(数百ラド以上)被曝した者を除けば,ほとんどの者は被曝後数か月を経過すれば
免疫細胞を造る能力が回復し,被曝前の状況に戻るのであって,原告の受けた被曝
線量で免疫力の永続的低下がもたらされるという知見は得られていない。
 そして,各種感染症の有病率が原子爆弾の被爆者で高いとする報告は,
尿路感染症について有意ではないが示唆的な結果が出たことと,HBVについて若干の
報告例があるほかは認められていない。
 さらに,藤原論文によれば,抗HCV抗体陽性率及び抗HCV高抗体価は,被
曝した者の方が被曝しなかった者に比べて有意に少なかったとされており,このこ
とは,被爆者の方が持続的な感染者の頻度が少ないことを示すものであって,HCV感
染の機会が同じであるとすると,被爆者もウイルスを排除して持続的感染を防げる
だけの免疫力を備えていたことになる。
 このほか,原爆被爆者の死亡率調査第12報には,「一つの興味深い機序
として免疫能不全が考えられる」と記載されているが,これは文献的事実に基づい
た記載であって,特に新しく研究を行った結果ではなく,本件において問題となっ
ているHCVに起因する肝障害に影響を与える免疫能不全に関して述べたものではな
い。
ウ 小括
 以上のとおり,HCVに起因するC型慢性肝炎について,被曝による免疫能
力の低下が影響を与えるという科学的知見は存在せず,免疫能力に問題がないHCV保
有者であっても80パーセントが持続的に感染して慢性肝炎を発症すること,原告の
白血球数に異常が認められないこと等からすれば,原告のC型慢性肝炎が被曝によ
る免疫能力の低下に起因するものでないことは明白である。
(7) 結論
 原告は,被爆後40年近く経過した昭和59年ころに初めて肝機能障害の診断
を受けたものであるが,そのような長期間の経過後に放射線被曝による肝機能障害
を発症することは考え難く,また,放射線被曝は,慢性肝炎の原因となる持続的な
肝細胞障害因子とはなり得ないうえに,原告の被曝線量は,放射線による肝機能障
害のしきい値を大きく下回っている。
 そもそも原告は,HCVの感染者であり,放射線被曝がC型慢性肝炎の発症に
影響を及ぼすとの知見はなく,かえって被曝線量とHCVの抗体陽性率等との間には関
連性がないとされ,その一方で,放射線被曝とは無関係の要因であるHCVと肝機能障
害との間には,極めて強固な関連性が認められることからすれば,原告の肝機能障
害は,HCVによるC型慢性肝炎であって,原爆放射線に起因するものとは到底認めら
れない。
 以上のとおり,原告の肝機能障害について,放射線起因性は認められず,
本件請求は理由がないから棄却されるべきである。
4 争点
 以上によれば,本件の争点は,「本件認定申請に係る原告の肝機能障害が,
原爆放射線に起因するもの,又は,原告の治癒能力が原爆放射線の影響を受けてい
るため現に医療を要する状態にあるものと認められるか否か」(放射線起因性の有
無)である。
第3 当裁判所の判断
1 原告の被爆に関する事実
(1) 原告の被爆状況
 前記「前提となる事実」及び証拠(甲1,3ないし5,8,31,78,93,乙
1,19,証人山口,原告本人)によれば,原告の被爆状況及び被爆直後の状況につい
て,次の事実を認めることができる。
ア 原告は,昭和3年10月10日に出生し,長崎市に原子爆弾が投下された昭和
20年8月9日当時16歳であり,長崎県立長崎工業学校第三本科(機械科,定時制)3年
生に在学していたが,学徒動員により,昼間は爆心地から約1・3キロメートル北方
の地点に所在する大橋工場内の組立工場で魚雷のパッキング部品の製造に従事して
いた。
イ 原告は,昭和20年8月9日朝,長崎市稲佐町一丁目の自宅を出て,午前8時
ころ大橋工場に到着したが,間もなく空襲警戒警報が出されたため,同工場の裏門
(現在の長崎大学の正門)を出て,長崎本線の線路を渡り,付近の山林の中にある
防空壕に避難した。その後,上記警報が解除されたことから大橋工場に戻り,組立
工場内の南西の角付近にある休憩用の長いすに腰掛けて,4,5人で話をしていたと
ころ,同日午前11時2分に長崎市上空で原子爆弾が爆発した。その際,原告は,上半
身裸で肩から手拭いを掛けており,原告の体が納まるほどの大きさの2つのガラス窓
を背にして,爆心地の方向に背を向ける形で腰掛けていた。
ウ 原告は,原子爆弾が爆発した瞬間,突然ガスの光が一面に拡がったよう
な青い光を見たが,爆発による音については記憶がない。原告が気を失っていた時
間や吹き飛ばされた距離は分からないが,気がついた時には,瓦礫の下で,体の左
側を下にして左足を折り曲げるような形で倒れており,瓦礫の間に隙間があったた
め,そこからはい出ることができた。
 原告が瓦礫からはい出た際,周囲を見ると,鉄骨スレート葺きの大橋工
場は完全に倒壊して跡形もなく潰れており,周辺は見渡す限り瓦礫の山と化し,約
2・5キロメートル離れた稲佐町付近まで見渡せる有様で,辺りは夕暮れのような暗
さになっていた。原告は,後頭部や背中一面にガラス片等による傷を負い,左耳た
ぶが切れて,左腕の肘から下にひどい火傷を負っていた。
エ 原告は,Bという下級生が,大腿部に破片が突き刺さって貫通している
状態で近くを這うように歩いているのに気づき,同人とともに,大橋工場の裏門付
近から長崎本線の線路を渡って,約300メートル離れた山林に避難し,そこにある芋
畑を目指したが,芋を見ても食べる元気がなかった。
 その後,原告もBものどが乾いたので,一緒に浦上川の支流と思われる
川まで下り,原告はそこで水を相当たくさん飲んだ。原告が水を飲んだ場所でも,
水を求めて来た多くの人々が力尽きて倒れており,水辺には川の中に頭を突っ込ん
だままの状態の死体が多数見られた。原告が水を飲んだころには,周囲は既に薄暗
くなっていた。
オ そのころ,原告は,救援列車が動いていることを耳にして,長崎本線の
線路まで歩いて行き,照円寺付近と思われる地点で列車の到着を待った。しばらく
して,ようやく救援列車が来たので,原告はこれに乗車したが,背中が痛かったた
め,車内では這うようにして寝ていた。車内には座席に座っている人はなく,多く
の重傷者が横たわっており,うめき声が聞こえ,原告には途中で人々が次々と死ん
でいったものと思われた。Bとは救援列車の中で別れ別れになった。
 原告は,救援列車で大村駅に到着し,そこからトラックに乗って学校ら
しい所へ行き,傷口の消毒,塗り薬,絆創膏等の応急処置を受けた。同日朝以来何
も食べていなかった原告は,そこでおかゆをもらった。
カ その後,原告は,大村海軍病院に収容された。同病院には,10人部屋に
20人程度の患者が収容されていたが,原告の収容後,原告の周囲の患者は,前後左
右皆亡くなってしまった。亡くなった患者の多くは,最初は熱が出て,下痢,血便
が続き,高熱でうわごとを言うようになって亡くなるという経過をたどっていっ
た。
 原告も,入院後2週間程度経過したころから髪の毛が抜けるようになり,
入院後20日程度経過したころから,発熱,下痢,血便,嘔吐等の諸症状が出始め,
昭和20年9月初旬ころには,40度を超す発熱が1週間続いた。採血検査の際,血液を
採取している最中にどんどん固まってしまい,医師から「原爆症の重症だ」と言わ
れたこともあった。ガラス片による傷や火傷は,比較的順調に治癒する方向に推移
したものの,入院から約2か月後に退院するまでには治らなかった。また,頭部に刺
さったガラス片は同病院で除去してもらったが,背中にはガラス片によるものと思
われる痛みが感じられたものの,同病院のレントゲン検査ではガラス片を発見する
ことができなかった。
キ 原告は,昭和20年9月下旬ころ,ようやく症状が落ち着いたことから大村
海軍病院を退院したが,その後約2年間ほど,だるい,食欲がない等の体調不振が続
き,就労することができない状況にあった。また,背中の傷は入院中に完治せず,
退院後約2か月ほど,背中を下にして寝ることはできなかった。
 原告は,同病院における症状が重症であったことから,日米合同調査委
員会の調査の対象となり,また,その後もABCCから原告に対して問い合わせがあ
り,その調査を継続的に受けてきた。
(2) 原告の症状に関する調査記録
 証拠(甲30の1・2,57,59,77,78,証人齋藤)によれば,ABCCの保管に
係る原告の被爆直後の症状に関する日米合同調査委員会等の調査結果に,次のとお
り記録されていることが認められる。
ア 発熱
 原告の発熱について,1953調査票には,「1945・9・20」「中程度」「10
日」と記載され,1954調査票には,発熱の程度として「+++」と記載されてお
り,1956調査票にも1953調査票と同じ記載がある。
イ 脱毛
 原告の脱毛について,日米合同調査委員会の調査に係る1945調査票に
は,放射線の効果として,昭和20年10月8日まで頭部脱毛があり,脱毛は続いている
と明記されており,1953調査票には,「1/4,約2ヶ月間」と記載され,1956調査票
にも1953調査票と同じ記載がある。
ウ 血性の下痢,血便及び嘔吐
 原告の下痢について,1945調査票には,放射線の効果として,「9月3日
から5日,水様血性下痢」と明記され,その後,9月1日からと訂正されている。1953
調査票には,「非血便性の下痢」「軽度」「3日」及び「血便性の下痢」「中程
度」「7日」と記載され,1954調査票には,下痢の回数として「+」,血便の程度と
して「+++」と記載されており,1956調査票にも1953調査票と同じ記載がある。
 原告の吐き気及び嘔吐については,1945調査票にはマイナスの記載があ
るが,1953調査票では訂正され,「1945・9・20」「中程度」「5日」と記載されて
おり,1954調査票には嘔吐の回数として「+++」と記載され,1956調査票にも
1953調査票と同じ記載がある。
エ 血液異常
 1945調査票によれば,1945(昭和20)年9月20日の血液検査の結果,原告
の白血球数は2100であり,一般の正常値4000ないし1万を大きく下回るのみならず,
同時期の被爆者の平均値3340ないし4490をも下回っており,白血球減少症を呈して
いる。
 また,1945調査票によれば,同年10月9日の血液検査の結果,原告の白血
球数は7200と回復しているが,白血球のうち免疫を司る好中球の割合が合計18パー
セントと極めて低く,造血が抑制された状態となっていたことが明らかになってい
る。
オ 食欲不振,倦怠感等の体調不良
 1945調査票には,放射線の効果として,「食思不振」の記載があ
り,1953調査票には,この点について,「1945・9・20」「中程度」「9日」と具体
的に記載されており,1954調査票には食欲不振の程度として「+++」と記載さ
れ,1956調査票にも1953調査と同じ記載がある。
 また,1953調査票には,原告の倦怠感について,「1945・9・20」「中程
度」「10日」と記載されている。
(3) 原告のその後の生活歴,現在の症状等
 前記「前提となる事実」及び証拠(甲93,乙1,40の1ないし4,原告本人)
によれば,原告のその後の生活歴,現在の症状等について,次の事実を認めること
ができる。
ア 原告は,大村海軍病院を退院後,約2年間ほど体調不振が続いて就労でき
なかったが,その後,長崎市内の叔父の新聞販売店で働いた後,昭和34年に上京
し,鉄工会社,倉庫会社等に勤務した。その間,特に病気やけがをしたことはな
く,輸血を受けるような手術をしたこともなかった。また,飲酒をした場合でも,
せいぜい2,3合であり,深酒はあまりしたことがなかった。
 昭和47年には,被爆時に身体に刺さって入り込んだガラス片が,背中か
ら右わきの下を回って,ようやく出てきたことがあった。
 また,原告は,昭和47年ないし昭和49年ころ帰郷した際,被爆者健康手
帳の存在を知って,その交付を受けたが,原子爆弾に被爆したことはなるべく忘れ
るよう努めて日常生活を送っていた。
イ 原告は,昭和56年ないし昭和59年ころ,被爆者検診において,肝臓につ
いて要精密検査との指示を受けたが,自覚症状がないうえに,仕事のために休みが
取れないことから,精密検査を受けなかった。また,社団法人日本被団協原爆被爆
者中央相談所の理事長である肥田舜太郎医師(以下「肥田医師」という。)に相談
をした際にも,肝機能の精密検査を受けることを勧められたが,これを受けなかっ
た。
 原告は,昭和59年ころ,体がだるい,足が重い等の症状を感じたもの
の,その後は健康状態に特段の異常を感じていなかったが,平成4年に,これらの症
状が急に悪化したことから,立川第一相互病院で診察を受けたところ,肝機能障害
との診断を受け,同年9月16日から同年10月22日まで同病院に入院する一方,勤務先
の運送会社を辞職した。
 その後,原告は,立川第一相互病院に通院しながら,食事療法,静脈注
射等による治療を受けている。
ウa 立川第一相互病院の渡辺医師による平成6年1月7日作成の意見書には,
原告の負傷又は傷病の名称として「肝機能障害」と記載され,現症所見として「手
掌紅斑,クモ状血管腫,肝腫大」と記載されており,同医師の意見として,「ウイ
ルス性肝炎は否定的であり,又,飲酒による肝障害も否定的」「肝障害については
原子爆弾の放射能によることが否定しえない」と記載されている。
b また,渡辺医師による平成6年8月20日付け診断書には,原告の病名と
して「肝障害」と記載され,「前回申請時にはC型肝炎抗体検査が未実施でした。
第2世代HCV抗体は陽性でした。従いまして,肝障害の原因として,C型肝炎ウイル
スの関与も否定し得ません。しかし,被爆による肝への障害も否定できないものと
考えます」と記載されている。
c さらに,原告に対する平成4年9月17日の臨床病理学的検査の結果によ
れば,赤血球数426万,白血球数7500,血小板数23・1万,白血球百分比は好中球
67・1パーセント,好酸球4・3パーセント,好塩球1・1パーセント,単球7・6パーセ
ント,リンパ球19・5パーセント等とされており,平成5年11月24日の同種検査の結
果によれば,赤血球数487万,白血球数8400,血小板数23・6万,白血球百分比は好
中球60・8パーセント,好酸球8・0パーセント,好塩球1・2パーセント,単球7・7パ
ーセント,リンパ球21・8パーセント等とされている。
エ なお,原告は,肺がんを発症し,平成13年2月にこれを認定疾病として,
被告から原爆症認定を受けた。
2 原子爆弾による被害
 各項末尾に掲記した証拠によれば,原子爆弾による物理的作用,物的被害及
び人的被害について,次の事実を認めることができる。
(1) 原子爆弾の物理的作用
 原子爆弾は,核分裂性物質(長崎市に投下された原子爆弾の場合はプルト
ニウム239)に核分裂の連鎖反応を起こさせることにより,核爆発を生じさせるもの
であり,その爆発により,莫大なエネルギー(長崎市に投下された原子爆弾の場
合,TNT(トリニトロトルエン)火薬約21キロトン以上の爆発エネルギーに相当す
る。)を放出するほか,莫大な数の中性子線,ガンマ線等の放射線を放出し,「死
の灰」と呼ばれる大量の放射性核分裂物質が生成される。
 大量のガンマ線を吸収した原子爆弾周辺の大気中の原子や原子核は,数百
万度の高温,数十万気圧という高圧のプラズマ状態の「火の玉」を作り,著しく高
温の熱線や,ガンマ線を放出するとともに,その急激な膨張により,爆発点付近で
秒速2万メートル以上という衝撃波を作り出し,すさまじい破壊作用をもたらす。原
子爆弾から放出された中性子線と,原子爆弾及び「火の玉」から放出されたガンマ
線は,大気中や地上の原子核に散乱し,吸収されながら地上に達する。核分裂によ
って生じたエネルギーのうち,約50パーセントが爆風,約35パーセントが熱線,約
5パーセントが初期放射線であるガンマ線及び中性子線として放出されたとされる。
原子爆弾の特徴は,通常の爆弾と異なり,爆風のほかに強烈な熱線と放射線を伴う
ことである。
 原子爆弾による放射線には,原子爆弾の爆発後1分以内に空中から放射さ
れ,中性子線及びガンマ線を主とする初期放射線と,その後放射される残留放射線
がある。残留放射線は,原子爆弾から放出された中性子を吸収した大気と地表や建
築物を構成する原子核が放射性の原子核となって放出するガンマ線,ベータ線等の
誘導放射線と,核分裂生成物,分裂しなかった核分裂性物質が「黒い雨」「黒い
煤」等として地上に降り注いだ放射性降下物の,2つに大別される。
 放射性降下物の成因としては,「火の玉」が膨張,上昇して温度が下がる
と,「火の玉」に含まれていたさまざまな放射性物質が「黒い煤」となり,これが
水蒸気を吸着し,水滴を作って「きのこ雲」を形成し,さらに上昇しながら成長し
た「きのこ雲」がついには崩れて広がり,大きくなった水滴が放射能を帯びた「黒
い雨」として地上に降るほか,その水滴の水分が蒸発して再び「黒い煤」になり,
当初の「黒い煤」とともに地上に降る一方,原爆の熱線による火災によって火事嵐
や竜巻が起こり,誘導放射化された地上の土砂や物体が巻き上げられて再び地上に
降下するものとされている。
(甲1,3,9,17,20,79の1,88,乙15,49,証人澤田)
(2) 原子爆弾による人的,物的被害
ア 原子爆弾による物的被害の概況
 長崎市に投下された原子爆弾は,昭和20年8月9日午前11時2分,同市松山
町171番地の上空高度約503メートルの位置で爆発した。
 原子爆弾による熱線は,爆発から3秒ほどの短時間に異常な高熱で地上を
包み,地表面の温度は爆心地で約3000ないし4000度,1キロメートル離れた地点で約
1800度,1・5キロメートル離れた地点で約600度に達したものと推定されており,こ
の熱線により,爆心地付近では瓦や岩石の表面が溶融し,爆心地の近くでは燃える
ものがすべて火を噴き,爆心地から2キロメートル以内でも衣類,電柱,樹木等の表
面が燃えたり焦げたりした。
 また,原子爆弾によって生じた爆風は,爆心地から1・3キロメートルの
地点でも秒速100メートル近いものであったと推定されており,爆心地から1キロメ
ートル以内では,一般の家屋は原形をとどめないまでに破壊され,鉄筋コンクリー
トの建物も,潰れたり変形するなどして残骸と化した。
 熱線と爆風による物的被害は,火災によってさらに増大し,爆風の被害
が半壊程度で済んだ家屋でも,その後発生した火災のために全焼することもあっ
た。さらに,建造物の倒壊に起因する二次的な火災が生じたほか,大規模な火災に
よって火事嵐が発生し,これに伴って竜巻が発生するなどした。
 このように,長崎市に投下された原子爆弾による物的被害は,熱線,爆
風,火災等が複合することによって著しく拡大し,爆風と火災により,灰燼に帰し
た総面積は6・7平方キロメートルにのぼり,全焼壊家屋は1万2900戸,半焼壊家屋は
5509戸にのぼった。また,南北に延びる長崎市の市街地のうち,人家が比較的少な
い爆心地の北側は,約2キロメートル以内が灰燼あるいは火災地域となり,市街地が
続く爆心地の南側は,家屋の全壊,半壊地域が2・6キロメートルに及んだほか,3キ
ロメートル以上離れた所も火災地域となった。
(甲1ないし3,甲9,甲79の1,乙15,証人澤田)
イ 原子爆弾による人的被害の概況
 長崎市に投下された原子爆弾によるすさまじい熱線は,通常の火傷では
考えられない熱傷をもたらし,爆心地付近では一瞬のうちに身体が炭化し,爆心地
から1・2キロメートル以内では熱傷だけでも致命的な影響を与え,重傷者の表皮は
焼けただれてはがれ落ち,皮下の組織や骨までが露出した。熱線により火傷を負っ
た者は,爆心地から約4キロメートルの地点にまで及んだ。
 また,原子爆弾によって生じた爆風により,多くの人々が吹き飛ばさ
れ,無数のガラスや木片を全身に浴び,外傷を負った。
 さらに,その後発生した火災によって,倒壊建物の下敷きになった者が
犠牲になるなど,犠牲者の数は,熱線,爆風,火災等が複合することによって著し
く増大した。
 これらに加えて,原爆放射線の影響により,被爆直後における急性期
(被爆直後から昭和20年12月31日までをいう。以下同じ。)から,嘔吐,発熱,下
痢,皮下出血,脱毛等のさまざまな障害が発生しており,爆心地から1キロメートル
以内で被爆しながら無傷だった者も,大多数の者がこのような放射線に起因する障
害によって死亡している。原爆放射線は,初期放射線によって人体に影響を及ぼす
だけでなく,残留放射線により放射化した土,埃や放射性降下物が呼吸により体内
に吸収されたり,皮膚の表面から体内に透過したり,これらが溶けた川の水を飲む
ことにより体内に吸収され,沈着,堆積したりすることにより,内部被曝による影
響を及ぼすものと考えられる。
 原子爆弾による人体への被害は,急性原爆症と後障害に分けられる。急
性原爆症には,脱毛,皮下出血,下痢,血便,造血作用の障害による白血球の減少
等がある。長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設作成の「長崎原子爆弾の医
学的影響」(甲57)で引用されているデータによれば,原子爆弾による急性期の死
亡例において,発熱が80・0パーセント,下痢が67・6パーセント,嘔吐が51・6パー
セント,出血が48・6パーセントにみられたとされる。後障害としては,ケロイド,
白内障,小頭症,白血病,乳がん,胃がん等が知られている。
 このように,原子爆弾はその熱線や爆風により瞬時にして極めて多数の
者を殺傷しただけでなく,その後も上記のような複合的な影響により多くの被爆者
を死に至らしめ,又はその身体に深刻な影響を与え続けている。昭和25年における
長崎市原爆資料保存委員会の調査によれば,長崎市に投下された原子爆弾による被
害者数は,昭和20年12月末までの推定で,死者7万3884人,負傷者7万4909人とされ
ており,前掲「長崎原子爆弾の医学的影響」(甲57)で引用されているデータによ
れば,爆心地から1・0ないし1・5キロメートルの地点における原子爆弾による死亡
率は,51・5パーセントにものぼっている。
(甲2,3,20,23,47の1,57,58の1,102,証人澤田)
3 放射線が人体に及ぼす影響
 各項末尾に掲記した証拠によれば,放射線が人体に及ぼす影響に関する知見
として,次のとおり認めることができる。
(1) 放射線の身体的影響等
 放射線の人体への影響は,被曝した本人に現れる身体的影響と,被曝した
人の子孫に現れる遺伝的影響に大別される。身体的影響は,被曝してから比較的短
期間に影響が現れる急性影響(急性障害)と,被曝後長い期間を経て現れる晩発影
響(晩発障害)とがある。
 放射線の急性影響は,放射線を受けた部位,放射線の種類,線量等によっ
て,異なった症状として現れる。また,放射線を全身に受けた全身被曝の場合と,
身体の一部だけに受けた局部被曝との場合では,影響の現れ方が異なり,全身被曝
では,放射線感受性の高い部位に現れる影響が問題となるのに対し,局部被曝では
被曝した部位に現れる影響だけが問題となる。
 例えば,社団法人日本アイソトープ協会編集「改訂版やさしい放射線とア
イソトープ」(甲22)記載のデータによれば,一度に大量のガンマ(X)線を全身
被曝した場合,0・25グレイ以下では臨床症状はほとんど認められず,0・5グレイで
は一次的に白血球が減少し,1グレイでは吐き気,嘔吐,全身倦怠,リンパ球の著し
い減少等が生じ,1・5グレイでは50パーセントの人に放射線宿酔が生じ,2グレイで
は急性影響で5パーセントの人が死亡,4グレイでは30日間に50パーセントの人が死
亡,7グレイ以上では100パーセントの人が死亡するとされている。また,広島市・
長崎市原爆災害誌編集委員会編「広島・長崎の原爆災害」(甲20)は,照射後60日
以内に照射を受けた者の半数が死亡する線量を,およそ200ないし600ラド(2グレイ
ないし6グレイ)としている。
(甲9,20,22,乙7)
(2) 確定的影響と確率的影響
 放射線の人体への影響については,確定的影響と確率的影響に分けること
ができる。確定的影響とは,ある一定の線量以上になると影響が出る現象をいい,
これに対し,確率的影響とは,被曝線量が増大するほど影響の出る確率が高まる場
合をいう。
 確定的影響の場合に,当該影響が現れる最低の被曝線量をしきい値(しき
い線量)といい,しきい値は影響の種類によって異なる。また,確定的影響の場合
は,被曝線量が増大するほど症状が重篤になる。確定的影響としては,脱毛,不
妊,白内障等が認められている。
 これに対して,確率的影響は,被曝線量が増大するほど症状が重篤になる
わけではない。また,非常に低い被曝線量における確率的影響に関しては,科学的
に十分解明されていない面があるものの,そのような場合でも放射線の確率的影響
は低い確率ながら起こり得るとされており,しきい値なしの線量効果関係が成り立
つものと想定されている。確率的影響としては,遺伝的影響及びがんが認められて
いるが,近年の調査,研究により,心筋梗塞,子宮筋腫等,非がん疾患の発生につ
いても被曝による有意な増加が認められることが明らかにされている。
(甲9,62,70,71,77,80の2,乙7,8)
(3) 放射線が細胞に及ぼす影響から見た確定的影響と確率的影響
 放射線は,直接的に細胞内のタンパク質やDNA等の重要な高分子に電離や励
起を引き起こして破壊し,細胞に損傷を与えるとともに,水分子等を電離させてラ
ジカルを生成することにより,細胞膜の過酸化によって細胞死を惹起したり,ラジ
カルを介してDNAを切断したりする。DNA切断の修復が不完全な場合には,DNAの染色
体異変等が引き起こされ,また,細胞分裂の際に障害が出ると,その細胞が細胞死
することがある。
 長瀧重信監修「緊急被ばく医療の基礎知識」(甲62)によれば,確定的影
響は,細胞死により組織の細胞欠落症状が起きて現れる放射線障害,あるいは,組
織修復過程で変性が起きることによって発生する放射線障害であり,被曝した集団
の1ないし5パーセントで細胞欠落症状や組織変性が顕在化する最低線量がしきい値
であるとし,これに対して,放射線によるDNAの染色体変異等によって引き起こされ
る健康影響が確率的影響であるとする。
(甲9,61,62,91,証人齋藤)
(4) 低線量放射線による被曝の影響
 新倉修監訳「劣化ウラン弾 湾岸戦争で何が行われたか」(甲54)は,従
来,低線量放射線(低レベル放射線)による被曝の影響は極めて小さく,研究する
ことが不可能であるとされていたが,その後,低線量放射線被曝の場合に,ペトカ
ウ効果,単球欠損,赤血球の変形等の生物学的メカニズムによる影響が確認されて
いると紹介している。
 ペトカウ効果は,カナダ原子力株式会社ホワイトシェル核研究所のペトカ
ウ博士が1972年に明らかにしたものであり,1細胞膜を破壊するのに,1分当たり
26ラドの高線量被曝率では3500ラドを要したのに対し,1分当たり0・001ラドの低線
量被曝率ではわずか0・7ラドしか要しなかったことから,低線量被曝率の場合に細
胞膜を破壊するのに必要な線量が高線量被曝率の場合よりも著しく低いというもの
であって,放射線の電離作用によって生じた酸素のラジカルの影響によるものとさ
れている。
 そして,肥田医師は,「放射線の影響に関する新しい知見について」(乙
49)において,原子爆弾による直接的,一時的な放射線被曝ではなく,体内に摂取
された放射性物質からの少量の放射線による長時間の被曝によって,致命的な疾病
を発病した例を紹介している。
 さらに,原爆被爆者の死亡率調査第12報は,0・5ないし1シーベルトの低線
量域の全身被曝が骨髄及び他の器官に主要な急性障害を引き起こし,完全に修復さ
れなかった場合は長期的健康影響を引き起こすかもしれないとする見解を示してい
る。
(甲47の1,48の1,49,50,52,54,119,証人肥田)
4 原子爆弾による被曝線量の評価
 各項末尾に掲記した証拠によれば,原子爆弾による被曝線量の推定方式及び
原告が受けた原子爆弾による被曝線量について,次の事実を認めることができる。
(1) 被曝線量の推定方式
ア T65Dの策定
 原爆放射線の人体への影響を評価するために,被曝線量をできるだけ正
確に把握するための調査,研究が,原子爆弾の投下直後から日米の専門家によって
行われてきた。
 1956(昭和31)年,米国原子力研究委員会がオークリッジ国立研究所を
中心にICHIBAN計画と呼ばれる核実験を行い,この成果を基に,1957(昭和32)年,
日本に投下された原子爆弾に関する最初の個人被曝線量推定方式であるT57Dが提示
され,爆心からの距離別の線量曲線が作成された。 
 その後,ABCCは,オークリッジ国立研究所と協力して,1965(昭和40)
年にT57Dを改訂した線量推定方式であるT65Dを提示し,T65Dは,その後約20年間に
わたり個人被曝線量の推定に用いられてきた。T65Dは,長崎型原子爆弾を用いて米
国で行った実験データに基づき,空気中カーマを爆心からの距離をパラメータとし
て計算する公式,及び,日本家屋等の遮蔽物の透過率を被爆者に関する記号化され
た情報をパラメータとして計算する公式を作り出したものであるが,臓器線量は計
算されなかったほか,被曝時の姿勢や向きのような個人の差も考慮されていなかっ
た。
(甲9,102,乙31,49,50)
イ DS86の策定
 1970年代後半に至り,T65Dにも中性子線量推定などの点で問題があるこ
とが指摘されるようになったことから,T65Dの見直しに向けた作業が始まり,1981
(昭和56)年に米国エネルギー省に原子爆弾線量再評価のための作業グループが設
けられ,日本側でも厚生省の下に原爆放射線量研究チームが設けられ,1983(昭和
58)年には,ABCCの後身に当たる放影研において,日米共同による原爆放射線の線
量評価の研究プログラムが作られた。そして,1986(昭和61)年,日米合同の委員
会において,新たな線量評価体系であるDS86が策定された。
(甲9,102,乙25,49,50)
ウ DS86による線量推定の方法
 DS86は,核物理学の理論に基づく空気中カーマ,遮蔽カーマ(空気中カ
ーマが遮蔽物によって遮られる程度を考慮した線量)及び臓器線量の計算モデルを
統合した線量計算方法に被爆者の遮蔽データを入力して,被爆者の被曝線量を計算
するコンピューター・システムであり,遮蔽効果や臓器線量を計算するために,家
屋クラスター及び長屋クラスターの2種類のコンピューター・モデルによる約1000種
類の異なる遮蔽状況や,昭和20年当時の日本人の体格等の情報に基づく年齢別,体
位別の人体模型のコンピューター・モデルが用いられており,その計算値の妥当性
については,実際に原爆放射線により被曝した瓦,タイル等の物理学的な試料の中
の残留放射能の測定値と,それに対応するDS86の計算値を比較することにより検討
されている。
 なお,DS86策定に当たっては,誘導放射能についても計算を行っている
ところ,誘導放射能による被曝線量は,爆心地における爆発直後から現在までの積
算線量で40ラド,爆心地から1キロメートルの地点における同様の積算線量で0・096
ラドであり,積算線量の約80パーセントは第1日目が占めており,誘導放射能はほと
んど影響を与えなかったとされている。
 また,DS86は,放射性降下物についても評価をしているが,限定的な地
域についてのみしか評価しておらず,核分裂生成物については,「黒い雨」の降雨
地点がよくわからず見積もりも困難なため,評価に含まれていない。
 DS86は,ICRPによる基準の根拠として用いられるなど,世界の放射線防
護の基本的資料とされたほか,原爆症認定申請における個々の申請者の被曝線量評
価に用いられてきた。
(甲9,乙31,49,50,証人澤田)
(2) DS86の問題点及びDS02の策定
ア 中性子の不一致問題
 澤田名誉教授は,1997(平成9)年に放影研で開催された第4回広島・長
崎原爆放射線量に関する日米合同ワークショップ等において,被曝線量の実測実験
の結果である実測値と,長崎市に投下された原子爆弾におけるDS86の推定値とを比
較すると,原子爆弾の中性子線によって誘導放射化されたコバルト60につい
て,DS86の推定線量は爆心地から900メートル以内において過大評価,900メートル
以遠において過小評価になる傾向があり,誘導放射化されたユウロピウム152の測定
結果についても,爆心地から700メートル以遠においてDS86が過小評価になるなど,
中性子線について実測値とDS86の推定値に不一致が見られることを明らかにしてい
る。
 そして,中性子線量の検証については,これを直接測定する方法がない
ことから中性子によって特定の物質中に生成された特定の放射線物質の放射能を測
定し(放射化の測定),この測定値とDS86による計算値とを比較する方法が用いら
れるところ,このような比較の結果,中性子線のうち熱中性子誘導放射能(ユウロ
ピウム152,コバルト60,塩素36)の放射化測定値とDS86の計算値との間に,上記の
ような距離ごとの系統的な不一致が認められるという,「中性子の不一致問題」が
存在することが明らかになった。熱中性子誘導放射能の放射化測定値については,
爆心地から近距離ではDS86による計算値の方が測定値より高く,遠距離では逆に計
算値の方が低くなる傾向にあることが明瞭であり,DS86の策定以降,測定値の数が
増加するとともに,特に広島
の場合にこの不一致が顕著になってきた。
              (甲9,18,29,79の1・2,82,85の1・2,86
の1ないし4,104,乙31,50,証人澤田)
イ 中性子の不一致問題の原因に関する考察
 澤田名誉教授は,前記アのように実測値とDS86による推定線量が一致し
ない原因として,DS86が主に初期放射線を線量推定の対象としており,残留放射線
や放射性降下物の存在を重視していないこと,DS86の初期放射線の伝播を計算する
ボルツマン輸送方程式に入力した原子爆弾の爆発点から放出された中性子線のエネ
ルギー分布が正しくなかった可能性があること,DS86が中性子線の遠距離への伝播
について重要な影響を及ぼす大気中の水分子の量,すなわち湿度について,長崎市
に投下された原子爆弾の場合,爆心地が海から少し離れているにもかかわらず,長
崎海洋気象台で測定した71パーセントという湿度を地表から上空1500メートルまで
の湿度としてそのまま採用していること,DS86では,爆心地から水平距離2812・5メ
ートルまで,高度1500メートルま
でを一定の距離又は高さごとに同心円状に区切り,円筒形に区切られた空間ごとに
放射線の伝播を計算しており,各計算領域への中性子線とガンマ線の入射,散乱角
度を特定の角度だけにしてデジタル化して近似し,ボルツマン輸送方程式に基づい
てコンピューター計算を行っており,同方程式による計算方式の場合,ある区分領
域の計算値がいったんずれ始めると,これが次の区分領域における計算値の入力デ
ータとなるため,相違が次第に累積,拡大し,爆心地から遠距離ほど大きな誤差を
生じさせる危険があることを指摘するほか,2812・5メートル以遠や1500メートル以
上の上空から入射する放射線を無視していることの影響も検討する必要があること
を指摘している。
(甲79の1,証人澤田)
ウ 中性子の不一致問題に対する日米合同研究による検討
 中性子の不一致問題については,日米共同で研究することとされ,米国
エネルギー省の実務研究班と我が国の厚生省に設置された実務研究班による合同研
究が行われた。日米の合同研究においては,熱中性子線の試料の測定における技術
的な問題や,遠距離におけるバックグラウンド(原爆放射線以外の土壌に含まれる
自然放射性物質からの放射線,宇宙線等による被曝)との関係を中心とした議論が
行われ,検討の結果,熱中性子に関するDS86の計算値と測定値は一致するという結
論に達した。その概要について,平成14年度研究報告書(乙50)には,概要下記a
ないしcのとおり記載されている。
a 熱中性子に関しては,ユウロピウム152,塩素36等に関する測定が行わ
れているところ,塩素36の測定値は,中性子の測定に用いた被曝試料から原爆放射
線の被曝線量を正しく測定するために必要なバックグラウンドの補正を行え
ば,DS86の計算値とよく一致することが確認された。
 また,9か所の異なる被爆距離における被曝試料をそれぞれ4人の測定
者に配分し,各測定者が同一試料についてユウロピウム152及び塩素36の測定を行っ
た結果,ユウロピウム152については,測定値と計算値が爆心地から1キロメートル
を超える遠距離まで非常によく一致し,塩素36についても,若干のばらつきはある
ものの,測定値と計算値が一致し,補正方法を改善するとより一層一致することが
確認された

b 一方,爆心地近辺で中性子の測定値よりも計算値が高いという問題に
ついては,計算値の基となっている原子爆弾の出力と炸裂点の高度の数値を再検討
した結果,広島市に投下された原子爆弾の出力を15キロトンから16キロ
トンに,高度を580メートルから600メートルに修正すれば,計算値と測定値がよく
一致することが判明した。
c これらの結果により,中性子の不一致問題は解消され,DS86は策定当
時としては最良のものであったことが証明されたことになる。
(乙31,43,45,50)
エ DS02の策定
 日米合同原爆線量実務研究班は,DS86に対する上記ウの検討を踏まえ
て,新たな線量推定方式であるDS02を構築し,DS02は,2003(平成15)年3月,我が
国の厚生労働省と米国エネルギー省合同の上級検討委員会により承認されるに至っ
た。
 平成14年度研究報告書によれば,DS86からDS02への大きな変更は,広島
市に投下された原子爆弾の出力及び高度に関する上記の修正であり,DS02はDS86に
比べて格段に精密な計算となっているものの,空気中線量全般に関して大幅な変更
はないとされている。
(乙50)
(3) 原告の推定被曝線量
ア 原告は,爆心地から約1・3キロメートルの地点で原子爆弾に被爆したと
ころ,DS86によれば,長崎市に投下された原子爆弾による爆心地から1・3キロメー
トルの地点における初期放射線の空気中カーマ線量は,ガンマ線が207ラド,中性子
線が2・15ラドと推定される。
 さらに,DS86によれば,長崎市に投下された原子爆弾における平均家屋
透過係数は,ガンマ線が0・48,中性子線が0・41とされており,これらの係数を上
記被曝線量に乗じる方法により家屋(組立工場)による遮蔽を考慮した値を求める
と,中性子線が99ラド,中性子線が0・88ラドとなる。
(乙16,17)
イ DS86の策定に当たっては,長崎市に投下された原子爆弾による放射性降
下物が特に多く見られた西山地区における,爆発1時間後から無限時間までの地上
1メートルの位置の放射性降下物によるガンマ線の積算線量は,20ないし40レントゲ
ンと推定されており,これを吸収線量に換算すると12ないし24ラドとなる。
(甲90の1,乙16,51)
ウ 長崎市に投下された原子爆弾による誘導放射能について,DS86の策定に
当たっては,爆心地における爆発直後から無限時間までの積算による外部被曝線量
を吸収線量で18ないし24ラドと推定しているが,放射線被曝者医療国際協力推進協
議会編「原爆放射線の人体影響1992」(以下「人体影響1992」という。)は,誘導
放射能による被曝線量の積算線量を40ラドと推定する見解を紹介している。
 もっとも,誘導放射能による被曝線量は,原子爆弾の爆発後時間の経過
とともに急激に減少し,爆心地からの距離によっても急激に減少するところ,長崎
市に投下された原子爆弾に係る誘導放射線の線量率として明らかにされている数値
(乙18の346頁)に基づいて,原告が被爆直後から12時間経過後まで爆心地から1キ
ロメートルの地点にとどまり,その後は誘導放射能による被曝の影響のない地点に
移動したものと仮定して,誘導放射能による被曝線量を算定すると,別紙「原告の
誘導放射能による被曝線量計算表」のとおり,累積被曝線量は0・236ラドとなる。
(乙16,18,49)
エ 長崎市に投下された原子爆弾の放射能に係る内部被曝について,DS86の
策定に当たり,原子爆弾による放射性降下物が最も多く堆積したとされる西山地区
の住民を対象としたセシウム137の測定値に基づいて,内部被曝線量を推定した結
果,昭和20年から昭和60年までの40年間において,男性で10ミリレム(0・01ラ
ド),女性で8ミリレム(0・008ラド)とされた。
(甲90の1,乙16,49)
オ 以上に対し,澤田名誉教授は,長崎市に投下された原子爆弾による爆心
地から1・3キロメートルの地点における中性子線量を,実測値のカイ2乗法に基づく
解析によって総合的に推定すると,DS86の推定値の約4・2倍である9・06ラドとな
り,また,中性子線とガンマ線では電離作用が異なり,ガンマ線が低いLET(線形エ
ネルギー転移)の放射線であるのに対し,中性子線は高いLETの放射線であって,人
体に与える影響が異なるから,中性子線の吸収線量に生物学的効果比(線質係数)
を乗じて線量当量を求めるべきところ,仮に生物学的効果比を5とすれば,中性子線
は45・3レムであり,ガンマ線207レムと合計して252・3レムとなり,生物学的効果
比を20とすれば,中性子線は181・2レム,ガンマ線との合計は388・2レムとなる,
とする見解を述べている。
 また,澤田名誉教授は,原告の誘導放射化による残留放射線の被曝線量
を0・8ラドと推定している。
 さらに,長崎市に投下された原子爆弾による放射性降下物のうち,「黒
い煤」については,西山地区周辺に限らず広範囲に降ったとする記録があり,澤田
名誉教授は,原告が被爆した爆心地から1・3キロメートルの地点にも,「黒い煤」
等の放射性降下物が降ったと考えられるとしている。
 なお,残留放射線については,原子爆弾の爆発後に広島市や長崎市に入
市した者が,直接原子爆弾に被爆したわけではないにもかかわらず,放射能に起因
すると考えられる疾病により死亡したりしている例があることから,その影響は深
刻であり,その評価には極めて多くの不確定要因があるとする見解がある。
(甲9,47の1,48の1,79の1,88,証人澤田)
5 肝機能障害に関する知見
 各項末尾に掲記した証拠によれば,肝機能障害に関する知見として,次のと
おり認めることができる。
(1) 肝機能障害について
 肝機能障害とは,肝疾患に関連した臨床検査において,GOT,GPT,γ-GTP
(ガンマ・グルタミール・トランスペプチダーゼ)又はアルカリホスファターゼの
値に異常が見られた場合をいい,肝障害の結果として起きる状態である。肝障害
は,肝細胞障害,胆汁うっ滞及び肝腫瘍に大別することができる。
 肝機能障害を起こす原因となる因子には,肝炎ウイルスやその他のウイル
ス等による感染,アルコール,薬物,自己免疫,脂肪肝,先天性代謝異常等があ
り,荒瀬康司「ウイルス性肝炎」(乙36)によれば,我が国にはウイルス性の肝臓
病患者が200万人以上いると考えられている。
 戸田教授は,肝炎について,炎症,すなわち,臓器障害等に付随する生体
の防御反応であり,炎症性細胞(リンパ球,顆粒球等)の浸潤がみられるものであ
って,このような意味で他の肝障害と区別されるべきであるとする見解を示してい
る。
 また,慢性肝炎は慢性肝障害の一つであり,慢性肝障害が持続すると肝硬
変になり,肝硬変ではしばしば肝細胞がんが合併する。このように,慢性肝炎が進
行すると,肝硬変から肝細胞がんへと経過することが知られている。
 なお,被爆者健康管理手当の記載,認定申請等における肝障害に該当する
疾患名としては,大区分として「肝(臓)機能障害」と記載され,同時に小区分病
名として「肝硬変」や「慢性肝炎」と記載されることから,被爆者の診断書におけ
る病名として「(慢性)肝(臓)機能障害」とされる場合があり,小区分の病名と
して慢性肝炎と併記されたりするが,実際には,肝(臓)機能障害で認定申請され
る疾患は,ほとんどすべて慢性肝炎及び肝硬変である。
(甲94,乙11,36,39,証人戸田)
(2) 慢性肝炎及び肝硬変について
ア 慢性肝炎とは,6か月以上持続する肝実質の炎症に基づく肝機能障害があ
り組織学的には門脈域を中心とした持続性の炎症がみられ肝小葉内には肝細胞の変
性ないし壊死を認める病変,あるいは,肝臓の炎症が6か月以上持続しているか,持
続していると推定される状態をいう。慢性肝炎は基本的に肝組織所見の検討により
診断され,門脈域の線維性拡大とリンパ球を主とした炎症細胞の浸潤を特徴とす
る。
 慢性肝炎では,肝炎の自覚症状,他覚症状はほとんど現れない。自覚症
状としては,増悪時に全身倦怠感,易疲労感等がみられることがあり,他覚症状と
しては,肝腫大が主なものであるが,増悪期でも自覚症状,他覚症状がほとんどみ
られないことが多い。
(乙11,39,証人戸田)
イ 慢性肝炎は,その成因により,ウイルス性,薬剤性,アルコール性,自
己免疫性及び代謝性等に分類されるが,我が国では,ウイルス性の慢性肝炎が圧倒
的に多く,HBV又はHCVによる慢性肝炎が約90パーセントを占めており,戸田教授
は,我が国では肝炎ウイルスに起因する慢性肝障害を慢性肝炎と呼んでいるとして
いる。また,肥田医師は,アルコールによる肝炎であっても,ウイルス肝炎が合併
することがあり得るとしている。
 肝炎ウイルスとしては,平成10年4月現在,A,B,C,D,E,G及び
TTの7種類が確認されており,これらはいずれも急性肝炎を起こし得るが,慢性肝
炎を発症させるのは,B,C,D,G及びTTの5種類である。
 ウイルス性肝炎における肝障害機序については,一般的には,肝炎ウイ
ルスに感染された肝細胞が,当該ウイルスに特異的な細胞障害性T細胞(リンパ
球)の攻撃を受けて死滅し,肝細胞と細胞障害性T細胞の反応が,さらに周辺の細
胞群にサイトカイン(細胞から分泌される活性物質)などを介して影響を与え,壊
死巣が生じ,さらに反応が展開する場合には一層広範囲に壊死巣が形成されること
になると説明されており,ウイルス自体が肝細胞障害を起こすのではなく,主とし
て免疫学的機序が肝細胞障害に重要な役割を果たすものとされている。
(甲48の1,94,103,乙36,39)
ウ 慢性肝障害が持続すると,炎症反応や肝細胞障害に対する修復過程に伴
って線維の増生が起こり,隣り合う門脈域や門脈域と中心静脈域が結ばれること
(架橋形成)によって,肝小葉構造が破壊され,小葉構造の改築が起こるところ,
この状態を肝硬変といい,肝硬変ではしばしば食道静脈瘤,腹水等の合併症が生じ
るほか,肝細胞がんが合併することもある。ウイルス性肝炎から生じた肝硬変の場
合,その進行は緩やかであり,腹水,食道静脈瘤破裂等を呈して初めて肝硬変の存
在に気付く例もある。
 慢性肝炎及び肝硬変の成立には,いずれもウイルス,自己免疫,薬物
等,肝障害をもたらす因子が持続的に存在することが必要とされている。
(乙39,証人戸田)
(3) C型慢性肝炎について
 C型肝炎ウイルス(HCV)により引き起こされる肝炎には,C型急性肝炎と
C型慢性肝炎があり,C型慢性肝炎は,HCVの持続感染の結果惹起される病態であ
る。HCVの感染者は持続感染により慢性肝炎に至る場合が多く,感染者の70ないし
80パーセントがC型慢性肝炎に至るとする見解がある(証人戸田22,46項)。
 HCVは,1988(昭和63)年に米国カイロン社がHCV抗体測定法を開発したこ
とにより発見されたものであり,これによって,従来非A型非B型肝炎とされてい
たものの大多数がC型肝炎であることが明らかにされている。
 C型慢性肝炎は,主として輸血,血液製剤,針治療,注射等の医療行為,
刺青等によって感染し得ると考えられている。
 我が国のC型慢性肝炎患者数は約100万人,C型肝硬変患者数は約12万人と
する推定があるほか,我が国のHCV抗体陽性例が約200万人と考えられるとする見解
もある。
 C型慢性肝炎では,自覚症状が認められない場合が多く,患者の45パーセ
ントが自覚症状を認めなかったとする調査結果もある。自覚症状としては,全身倦
怠感,易疲労感,食思不振,悪心,嘔吐等が認められる。
 C型肝炎による肝障害の発生機序についても,B型肝炎の場合と同様,ウ
イルス自体が肝細胞障害を起こすのではなく,ウイルス感染した肝細胞を認識した
リンパ球が肝細胞を攻撃して肝細胞障害を起こすなど,主として免疫学的機序が肝
細胞障害に重要な役割を果たすものとされている。
 C型慢性肝炎は,多くの場合,長年の間に徐々に進行し,40パーセントの
症例がHCVの初感染から15ないし20年で肝硬変に進展し,25パーセントの症例が
HCVの初感染から20ないし30年で肝細胞がんを合併するという見解や,HCVの感染か
ら30ないし40年で肝硬変へ進むとする見解がある。このように,HCV感染からC型慢
性肝炎,肝硬変,肝細胞がんへと進展するまでの期間が非常に長いことが,C型肝
炎の特徴の一つである。
(甲94,103,乙11,36,39,44,証人齋藤,証人戸田)
(4) C型肝炎ウイルスの肝疾患に占める比重
 我が国では,ウイルス性慢性肝炎の中でB型の割合が約25ないし30パーセ
ント,C型の割合が約70ないし75パーセントであるとする見解や,慢性肝炎の中で
B型の割合が34・4パーセント,C型の割合が64・5パーセントとするデータがあ
る。
 また,平成3年の日本肝臓学会集計では,我が国の肝硬変の49・3パーセン
トがHCV,20・4パーセントがHBV,3・1パーセントが両者の混合感染とされており,
戸田教授は,肝硬変の成因としては約78パーセントが肝炎ウイルスによるものであ
るとしている。
 さらに,我が国の肝がん半数以上がHCVに由来するという見解があるほか,
戸田教授は,肝細胞がんの70パーセントがHCVに陽性,19・5パーセントがHBVに陽
性,4・7パーセントがHBV及びHCVに陽性であるとしており,我が国の肝細胞がんの
約78パーセントがHCV感染が原因であるとする報告もある。
(甲74,120,乙11,39)
6 放射線が肝臓に及ぼす影響
 各項末尾に掲記した証拠によれば,放射線が肝臓に及ぼす影響について,次
の事実を認めることができる。
(1) 放射線による肝障害への影響
 放射線による肝臓への影響は,確定的影響と考えられ,被曝線量がしきい
値を超えなければ永続的な健康影響が発生しないとする見解が存在するところ,原
子放射線の影響に関する国連科学委員会1982年報告書(乙6)によれば,肝臓に永続
的な障害を起こすために必要な被曝線量は,1回の照射の場合1000ラドであり,分割
照射の場合には3ないし6倍の被曝線量が必要となるかもしれないとされている。
 また,戸田教授は,放射線による肝障害は,肝静脈の閉塞性病変による肝
循環障害であるとしており,医療用放射線による肝障害の報告を見ると,その症例
に共通してみられる臨床,臨床検査,病理組織所見としては,①初発症状は腹水,
肝腫大であること,②肝静脈閉塞疾患との鑑別が必要となること,③GOT,特にアル
カリホスファターゼの中等度の上昇,④肝臓シンチグラムで欠損像がみられるこ
と,⑤肝静脈閉塞の病理組織所見があること,が挙げられるとしている。ま
た,ICRP専門委員会3の報告書である「放射線治療における患者の防護」(乙33)
は,急性の放射線肝炎について,臨床的には体重増加,腹囲の増加,肝腫大及び腹
水として,生化学的には血清アルカリフォスファターゼの上昇によって特徴付けら
れるとしている。
 もっとも,人体影響1992(甲67)には,放射線による慢性の肝疾患発生に
ついては,特に血管造影のために用いられたトロトラスト(Thorotrast)による発
癌が知られているが,トロトラストは悪性腫瘍のみでなく,投与20ないし40年後に
肝硬変や肝線維症などの非悪性肝疾患の発生を増加させるとの報告があることが紹
介されている。
 なお,放射線による肝障害について,「放射線肝炎」「放射性肝炎」の名
称を用いている文献が存在する(甲97,乙33等)が,戸田教授は,炎症とは,臓器
障害等に付随する生体の防御反応であり,その有無は,リンパ球,顆粒球をはじめ
とする白血球浸潤が見られるか否かによって判断されることからすれば,上記各文
献における肝障害は,厳密な意味での肝炎とはいえないとする見解を示している。
(甲67,94,97,乙6,33,39,44,証人戸田)
(2) 放射線の肝細胞及び遺伝子に対する影響
ア 放射線の細胞に対する障害作用
 放射線は,直接的に細胞内のタンパク質,DNA等に電離や励起を引き起こ
して破壊し,細胞に損傷を与えるとともに,水分子等からラジカルを生成すること
により,細胞膜を破壊して細胞死を惹起したり,ラジカルを介してDNAを切断したり
し,DNA切断の修復が不完全で細胞分裂の際に障害が出ると,その細胞が細胞死する
ことは,前記3(3)のとおりであり,放射線による細胞障害は,放射線自身又は放射
線が細胞内の水に作用して発生したラジカルが,細胞内小器官や機能タンパクを損
傷することによると考えられている。
 また,放射線は,ラジカルとともに,インターロイキン,TNF(腫瘍壊死
因子)等の炎症性サイトカインと呼ばれる多くの物質を発生させ,多臓器に影響を
与える。
(甲9,61,62,77,92,106,108ないし110,乙39,証人齋藤)
イ ラジカルについて
 ラジカルとは,不対電子を持つ原子又は分子をいい,例えば,原子は原
子核とその周囲の軌道に存在する電子から構成されるところ,電子は,通常1つの軌
道に2個ずつ対をなして収容されるが,原子の種類によっては1つの軌道に電子が1個
しか存在しないことがあり,このような場合がラジカルと呼ばれる。
 ラジカルは,脂質,タンパク質,核酸等を攻撃し,生体膜や組織に傷害
を引き起こし,ひいては種々の疾病,がん,老化等に密接に関連していることが次
第に明らかにされている。
 ラジカルは極めて短命であり,戸田教授は,ラジカルが一般的には
1000分の1秒以下で消滅するとしているほか,EricJ.Hall「放射線科医のための放
射線生物学」(甲69)は,その生存時間を10のマイナス5乗秒としているが,「突然
変異と形質転換を引き起こす放射線誘導長命ラジカル」(甲99)には,半減期が
20時間以上と考えられるラジカルの存在に関する記載があり,田中公夫「放射線誘
発の遺伝的不安定性と発癌」(甲100)は,「DNAやタンパク質に生じる有機型フリ
ーラジカルは,照射後20日と長期間存在し続け突然変異を引き起こす」としてい
る。
 もっとも,前掲「放射線科医のための放射線生物学」は,ラジカル自体
が極めて短命であっても,ラジカルによる化学結合の切断から生物効果が現れるま
での期間は,生物効果の種類によってさまざまであり,細胞死の場合は,障害され
た細胞が分裂に至る何時間,何日後には現れるが,発がんの場合には40年を要する
こともあり,胚芽細胞の遺伝に導く突然変異であれば,いくつかの世代を経ても発
現しないかも知れない,とする見解を示している。
(甲63,69,77,99,100,乙44,証人戸田)
ウ 放射線の肝細胞に与える影響
 人体における放射線感受性は,細胞,組織,臓器等によって異なるとこ
ろ,人体の細胞の中で最も放射線の影響を受けやすい細胞は,白血球の一種である
リンパ球であり,一般的に,骨髄,生殖器等の細胞増殖が活発な部位が放射線の影
響を受けやすいとされ,肝臓は,放射線の影響を受けにくい臓器とされる。
 戸田教授は,放射線により遺伝子損傷を受けた肝細胞は,遺伝子修復を
するか,又はアポトーシスに陥るが,いずれの経緯をたどるにせよ,肝細胞は,そ
の寿命に照らして,2年程度経過すればすべて別の肝細胞に置き換わることから,放
射線による遺伝子損傷から2年以内には,当該損傷を受けた細胞はなくなり,残った
細胞は基本的には正常細胞であるとする見解を示している。もっとも,戸田教授
も,放射線による遺伝子損傷が起きた場合に,遺伝子が不完全に修復されることが
あり,それが後になって増幅される可能性があることは否定せず,一度起きた遺伝
子変異が細胞にとって致命的なものでない場合,遺伝子変異が生涯にわたって残存
することは認めているところ,その場合,後になって起こる効果としては,がんの
発生が最も考えられる
が,それ以外の効果が起こらないとは断言できないとしている。
 他方,肥田医師は,放射線による障害を受けた細胞が疵を負ったまま生
き延びて増殖した場合に,発がん又は白血球,リンパ球障害による免疫機能障害に
よって各種疾病の発病促進,増悪をもたらすと指摘する。
 なお,齋藤医師は,齋藤意見書③において,遺伝子変化の研究が,肝臓
がんのみならず,その母体と考えられているウイルス性慢性肝炎においても進み,
慢性肝炎においても,被曝と遺伝子変化との関連が重要な検討対象となり得る旨の
見解を示している。また,本多政夫ら「慢性肝炎,肝細胞癌のcDNAマイクロアレイ
による遺伝子発現解析」(甲113)によれば,肝細胞がん発生の分子生物学的メカニ
ズムを解明するために,慢性肝炎肝組織及び肝細胞がんにおける遺伝子発現異常の
解析を行う研究も行われている。
(甲49,106,113,乙9,32,39,証人戸田)
(3) 放射線と肝疾患の関連性に関する疫学的研究
ア ABCCによる後障害の調査
 原子爆弾の後障害に関する調査プログラムには,原爆傷害調査委員
会(ABCC)及びその後身に当たる放影研による調査のほか,広島大学原爆放射能医
学研究所による調査や,広島原爆障害対策協議会健康管理センターによる調査があ
る。
 ABCCは,1947(昭和22)年,米国原子力委員会の資金によって米国学士
院が設立した委員会であり,1948(昭和23)年に我が国の厚生省国立予防衛生研究
所が参加し,共同して被爆者の広範な健康調査を行ってきた。その後,ABCCは,日
米共同による調査研究をさらに長期にわたって続行するために,1975(昭和50)年
に財団法人である放影研に再編成された。放影研の運営経費は,日米両国政府が同
額を負担し,日米の専門評議員で構成される専門評議員会の勧告を得て調査研究活
動を行っている。
 ABCCは,1947(昭和22)年から調査プログラムの実施を開始し,1950
(昭和25)年の国勢調査付帯調査により把握された被爆者に基づいて固定集団(寿
命調査集団)を設定し,同年から寿命調査(LSS)を開始した。寿命調査集団は,当
初は9万9393人であったが,その後拡大し,1999(平成11)年には12万0321人となっ
ている。
 また,ABCCは,寿命調査集団の中から,2年に1度の健康診断を通じて疾
病の発生率と健康上の情報を収集することを目的とした成人健康調査集団を設定
し,1958(昭和33)年から成人健康調査(AHS)を行っている。この調査によって,
すべての疾患と生理的疾病を診断し,がんやその他の疾患の発生と被曝線量との関
係を研究して,寿命調査集団の死亡率やがんの発生率についての追跡調査では得ら
れない臨床上又は疫学上の情報を入手することが可能となり,がんや心筋梗塞,子
宮筋腫等の非がん疾患の発生について,被曝線量との有意な関係が認められてきて
いる。成人健康調査集団は,当初は寿命調査集団から選ばれた1万9961人から構成さ
れ,1977(昭和52)年から合計2万3418人に拡大されたが,集団設定後40年を経た
1999(平成11)年においても5000人以上
が生存しており,うち70パーセント以上の構成員が成人健康調査プログラムに参加
している。
 なお,ABCCによって開始されたこれらの調査は,放影研に受け継がれ,
現在も実施されている。
(甲70,71,102,116,乙24,証人藤原)
イ 放射線と肝臓がんの関係についての研究及び知見
 放射線と肝臓がんの関係については,1992(平成4)年に発表されたD・
トンプソンほか「原爆被爆者における癌発生率。第2部:充実性腫瘍,1958-1987
年」(甲75。以下「原爆被爆者における癌発生率」という。)において,寿命調査
集団において診断された肝臓がんについて,1シーベルト当たりの推定過剰相対リス
ク(ERR1SV)は0・49,95パーセント信頼区間は(0・16;0・92)とされ,線形線量
反応が認められたことから,放射線に関連した肝臓がんの過剰リスクがはじめて立
証され,肝臓がんと放射線には有意な関係があることが判明した。上記論文には,
「これまでの調査は,1Gy以上に被曝した者ではB型肝炎ウイルス抗原を持つ者が多
くなっていることを示している。肝炎ウイルスが肝臓がん発達において果たす重要
な役割を考えるとこのことは特に
興味深い。現在行われている肝臓がん罹患率の組織学的研究は,低LET放射線と原発
肝臓がんとの関連の理解を一層深めるかもしれない。」と記載されている。
 また,がんは,一般に細胞中のがん遺伝子の活性化,がん抑制遺伝子の
不活化,DNA修復遺伝子の不活化等を通じて起きると考えられており,放射線は染色
体を切断したり,遺伝子を欠失,再配列させたりする作用が強いと考えられている
ところ,瀬山敏雄らは,「原爆被爆者肝癌における癌抑制遺伝子p53の変異は線量
依存的に上昇する」(平成9年度,原爆症に関する調査研究班報告書)において,被
爆者の肝がん組織の中のがん抑制遺伝子p53の異常率について調べた結果,異常率
が線量依存的に増大していることを確認し(P=0・03),これによって,原爆放射
線が遺伝子変化を通じて肝がん発生に影響していることがはじめて立証された。
 なお,「放影研ニューズレターVol.20No.6」(甲27)には,承認された
研究計画書として「原爆被爆者における肝細胞癌の分子生物学的解析」が掲げら
れ,その説明として,「比較的長い潜伏期間の後に,原爆被爆者では原発性肝癌の
発生頻度が上昇していることが観察されている。加えて,高線量被爆者にHBs抗原陽
性度が高くB型肝炎ウイルスおよびC型肝炎ウイルスが肝癌発生に大きくかかわっ
ていると推測されている。その機構についてはまだ詳細に検討されておらず,肝癌
発生過程においてこれらの現象に関与する因子の相互作用があるか否かについても
不明である。しかし,肝癌の発生機構は二つ以上の癌抑制遺伝子の変異を含む多段
階を経ると信じられている。p53遺伝子の機能喪失と肝炎ウイルスの感染との間に
は相関があり,また電離放射
線が,癌抑制遺伝子の機能喪失に十分な欠失型突然変異を起こすことなどを考慮す
ると,B型肝炎ウイルスや特にC型肝炎ウイルスと共に,これら遺伝子の研究は,
肝癌発生に関するいくつかの問題を明らかにするであろう。」と記載されている。
(甲9,27,75,乙50)
ウ がん以外の肝疾患と放射線の関係に関する研究及び知見
a ワン論文以前の研究
 原子爆弾の被爆直後には,何らかの肝障害が被爆者の中にみられたこ
とは,多くの臨床家によって報告されており,その後も被爆者における肝障害の頻
度は高く,重要な医学的問題の一つとされてきた。
 後障害としての肝機能障害については,昭和34年に原爆後障害研究会
の第1回シンポジウムにおいて,肝機能障害の比率は被爆者,非被爆者に差がなく,
原爆に起因すると思われる肝機能障害は認めないとする報告があったものの,重藤
文夫らによる原爆病院入院患者調査では,肝疾患が第2位の頻度を占めており,大き
な医学的問題とされていた。
 その後も,昭和37年の志水清らによる広島市の原爆医療認定申請書を
用いた統計調査でも,被爆者の肝疾患の頻度が国民健康調査と比べて3倍近く高率で
あり,近距離被爆者で特に高い傾向が認められ,シュライバーらはABCCの寿命調査
対象集団の143例の肝硬変剖検例で電離放射線と肝硬変の間に有意の関係を認め,石
田定は,原爆病院の外来患者の肝疾患有病率が2・0キロメートル未満の近距離被爆
者で高率にみられたと述べるなど,肝疾患と放射線の関係を示唆する報告や研究が
続いた。
 また,人体影響1992(甲17)には,成人健康調査集団の1グレイ以上の
高線量被曝群とその対照群を比較したHBs抗原及び抗体の測定の結果,HBs抗原の陽
性率が1グレイ以上の高線量被曝群の方が対照群よりも有意に高かったとする研究結
果があり,高線量被曝群での免疫能の低下を示唆するものではないかと考えられる
旨記載されている。
(甲17)
b ワン論文
 1993(平成5)年に公表された論文「原子爆弾被爆者における非癌性疾
患発生率:1958-1986」(ワン論文)は,1958(昭和33)年から1986(昭和61)年
までの成人健康調査に基づいて,放射線と肝機能障害を含む非がん疾患との関連性
を検討したものであり,子宮筋腫,慢性肝炎,肝硬変及び甲状腺疾患について,放
射線との関係で統計的に有意な過剰リスクが認められるとしている。ワン論文によ
れば,臓器線量と慢性肝疾患及び肝硬変の有意差を示すP値は,0・006であり,ワ
ン論文は,放射線と肝硬変及び肝機能障害の間に有意な関係があることを初めて論
文で公式に認めたものとされている。
 そして,ワン論文は,最近の寿命調査報告において,肝臓がんの発生
率に線量反応関係が認められ,寿命調査におけるがん以外の死亡率に関する最近の
調査も,肝硬変による死亡率が高線量群で増加していることを示しており,動物実
験も肝機能障害が放射線被曝により誘発されることを示しているとしたうえで,
「最新の証拠は,現在得ている結果を被曝の直接的影響によって説明できるかもし
れないことを示唆している。」と述べている。
 戸田教授は,戸田意見書②において,ワン論文について,慢性肝炎及
び肝硬変の主要原因の一つであるアルコール摂取の影響や,栄養状態の影響につい
て検討しておらず,放射線の影響の有無を確認するために必要な放射線以外の肝障
害因子に関する補正が十分行われていないと指摘しているところ,ワン論文も,こ
の点を認め,「アルコール摂取に関する情報などAHS対照者の栄養状態に関する情報
は,放射線被曝と慢性肝炎および肝硬変発生との関連におけるアルコール摂取の相
互的作用の役割について手がかりを与えてくれるであろう。」としている。もっと
も,齋藤医師は,齋藤意見書③において,この問題については,寿命調査集団にお
いて飲酒のリスク要因増加が認められなかったとする研究が存在することなどに照
らして,問題は解消さ
れているとしている。
(甲26,71,106,114,乙44)
c 藤原論文等
(a) 平成9年3月に公表された調査研究班報告書(乙12)は,我が国に
おいて,肝細胞がんの約75パーセントがHCV,約20パーセントがHBVの持続感染に起
因する慢性肝障害の終末像といわれていることを背景に,ワン論文において放射線
被曝線量と肝硬変及び慢性肝疾患の間に有意な関係が認められたことや,高線量被
爆者のHBs抗原陽性率が高いとする研究結果を踏まえて,HCV感染と原爆放射線被曝
との関係を明らかにし,被爆者に慢性肝疾患及び肝がんの発生が多いことにHCV感染
が寄与しているかについて検討することを目的として行われた調査に係る報告書で
ある。
 そして,上記調査においては,輸血歴,肝疾患家族歴等の因子に関
する補正を行った結果,成人健康調査集団におけるHCV陽性率と被曝線量との間に有
意な関係を認めることができなかったことから,調査研究班報告書は,「今回の調
査から,原爆放射線被曝とHCV抗体陽性率は関係がなく,HCV感染では,原爆被爆者
に肝癌,肝硬変,慢性肝炎が多いことは説明がつかなかった。今後は,分子疫学的
な手法を使って,原爆放射線被曝と慢性肝疾患,肝癌の発生メカニズムの解明が必
要であろう。」と結んでいる。
(乙12,21)
(b) 藤原論文(甲74)は,調査研究班報告書の結果を踏まえて,HCV抗
体陽性の被爆者とHCV抗体陰性の被爆者における慢性肝疾患(主として慢性肝炎又は
肝硬変)に対する放射線量反応関係を検討したものである。
 その結果,HCV陰性群(対象者数5577人,症例数208)の線量反応
は,1グレイ当たり0・16,95パーセント信頼区間は(-0・05;0・46),P値は
0・15であった。また,HCV陽性群のうち低抗体価の場合(対象者数205人,症例数
20)の線量反応は,1グレイ当たり0・61,95パーセント信頼区間は(-
2・19;4・09),P値は0・57,高抗体価の場合(対象者数339人,症例数166)の線
量反応は,1グレイ当たり2・63,95パーセント信頼区間は(-4・64;14・64),P
値は0・55であったが,慢性肝疾患(CLD)の有病率自体は,HCV抗体陽性の対象者と
陰性の対象者について,放射線量とともに増加した。HCV抗体陽性の対象者における
慢性肝疾患の相対リスクは13・24であった。そして,線量反応関係を示す曲線
は,HCV抗体陽性の対象者において,HCV抗体陰性の対象者よりも20倍近く
高い勾配を示した(HCV抗体陰性の対象者が1グレイ当たり0・16であるのに対し,相
対リスクの増加は1グレイ当たり3・04)が,藤原論文はこの点について,「これは
かろうじて有意な差異であった(P=0・097)。」としている。
 そして,藤原論文は,「要約」において,「これらのデータから慢
性肝疾患に対する放射線量反応関係は,HCV抗体陰性の被爆者に比べて,HCV抗体陽
性の被爆者において大きいことが示唆された(スロープ比20)。結論として,抗
HCV抗体陽性率と被曝線量との間に線量反応関係は見られなかったが,抗HCV抗体陽
性者において,慢性肝疾患に対する放射線量反応の増加が認められた。従って,放
射線被曝はC型肝炎感染に関連した慢性肝疾患の進行を促進するのかも知れない。」
としているほか,「考察」において,「放射線量に伴うCLDの有病率の増加は,抗
HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著であり,被曝が,HCV感染による肝機能異
常を伴う慢性肝炎の進行を促進した可能性を示した。HCV感染が放射線被曝の前か後
かに関係なく,放射線量はHCVが関与
した慢性肝炎の経過に影響するかも知れない。」としており,結論として,「実際
の原爆放射線量とAHS対象者の抗HCV抗体陽性率とは関係がなかった。むしろ,被曝
していない人よりも被曝した人の方が陽性率は低かった。抗HCV抗体陽性率と放射線
量との間には関連性がないが,慢性肝疾患の有病率は,抗HCV抗体陰性の人よりも陽
性の人において放射線量に伴い大きく増加したようである。この所見は,放射線被
曝がHCV感染後の肝炎の進行を促進した可能性を示唆している。この仮説を明らかに
するために,更なる研究が必要である。」としている。
(甲74)
(c) なお,藤原論文に係る研究と同一の研究に関する藤原副部長の
「原爆被爆者における肝障害」(甲76)には,「HCV抗体陽性者における慢性肝炎の
1Gy当たりの相対リスクは3・04(95%CI-1・05-9・02),陰性者のそれは
0・16(95%CI-0・05-0・46)で,HCV陽性者の慢性肝炎有病率の線量・反応関係の
傾きは,陰性者の約20倍であった。しかし,この2つの傾きには統計学的には有意差
は認められなかった(p=0・097)。」と記載されている。
 また,有意水準は,統計学的には0・05とされることが通常であり,
その場合,P値が0・05より小さい場合には帰無仮説が棄却されることから有意であ
ると判断される。このことから,戸田教授は,戸田意見書②において,藤原論文が
P値が0・097であったことについて「かろうじて有意」と表現したことが不適切で
あるとする見解を示している。
 一方,久道茂ほか訳「臨床のための疫学」(乙47)は,「有意水準
を0・05とすることはあくまで便宜的なものであって,それぞれの置かれた状況にお
ける偽陽性の結論の重要性によって決めているようである。」としており,放影研
においては,P値が0・1から0・05までの間の場合に「かろうじて有意」と表現し,
有意水準を0・1と設定することがある。
(甲75,76,乙44,46,47,52の2,証人藤原)
d その他
(a) 「原爆被爆者の死亡率調査第12報」(甲119)は,「高線量被曝し
たLSS対象者の大部分を含む放影研臨床追跡調査・・・において,心筋梗塞および脳
梗塞,ならびにアテローム性動脈硬化症と高血圧症の様々な指標について有意な線
量反応が観察されている。この対照群の慢性肝疾患には統計的に有意な線量反応も
確認されている。」「このような影響に関する機序が解明されていないからといっ
て,機序が存在しないという意味ではないと我々は考えている。0・5-1Svの線量域
の全身被曝は骨髄および他の器官に主要な急性障害を引き起こし,完全に修復され
なかった場合は長期的健康影響を引き起こすかもしれない。特に,この線量域の被
曝は多能性骨髄幹細胞の半分以上を死滅させると考えられている。」「一つの興味
深い機序として免疫能不全
が考えられる。健康に直接影響が出るわけではないが,T細胞とB細胞の機能的・
量的異常において原爆放射線の後影響が見られる。」という見解を示している。
(甲119)
(b) 「原爆放射線のヒト免疫応答に及ぼす影響第16報」(甲120)は,
成人健康集団におけるHCV及びHBVの感染率及び持続感染者の発生率を調査した結
果,HBs抗体陽性率(過去の感染率)と線量との間に相関はないこと,HBs抗原陽性
率(持続感染率)は線量に応じて有意に増加すること,HCV抗体陽性率と線量との間
には関係が認められないこと,HCV抗体陽性慢性肝炎の発生率(HCV持続感染者)は
線量に応じて上昇するが有意水準に至らないこと等が明らかになったとしたうえ
で,「肝炎ウイルス感染率に影響がある輸血歴,針治療歴,家族歴および広島と長
崎の差,性別などの交絡因子の影響を補正しても,被爆の影響が残った。これらの
結果は,放射線の影響が少なくとも肝炎ウイルスの持続感染への移行段階に効いて
いることを示している。この過程は
,原爆被爆による長期にわたる免疫応答性の変化が関係している可能性がある。ま
た,放射線により遺伝子変異が起きた肝臓幹細胞に肝炎ウイルスが感染した場合
に,キャリアーになりやすいのかもしれない。他方,いったん持続感染が起きた後
に,肝硬変や肝細胞癌へ進行する段階を被爆が促進するのか否かは,未だ検討され
ていない。」としている。
(甲120)
(c) 原爆被害者の死亡率調査第13報(乙52の1)は,原爆被爆者の死亡
率調査第12報と同様の方法によって,寿命調査集団における1950(昭和25)年から
1997(平成9)年までの間にがん以外の疾患で死亡した者に対する放射線の影響につ
いて解析したものであり,心臓疾患,脳卒中,消化器官及び呼吸器官の疾患に関し
て,統計的に有意な増加がみられたとしている。
 上記論文の表13(乙52の2)は,1968(昭和43)年から1997(平成
9)年までの間に死亡した者に対する放射線の影響について解析したものであるとこ
ろ,肝硬変については,1シーベルト当たりの推定過剰相対リスクを0・19,90パー
セント信頼区間を(-0・05;0・5)としており,90パーセント信頼区間の下限が
0を下回っていることから,上記論文は,放射線の影響によって統計的に有意な死亡
の増加を認めた疾患として肝硬変を挙げていない。
(乙52の1・2)
(4) 放射線の免疫に対する影響
 白血球,殊にリンパ球や顆粒球には免疫機能があるところ,放射線は,造
血作用を司る骨髄を障害し,白血球等を減少させる作用を有する。白血球数は免疫
力を測る指標となるが,白血球数は正常値の範囲にとどまっていても,白血球の能
力が劣るために,免疫力や感染を防ぐ能力が低下している場合もあり得るとされて
いる。
 原子爆弾の被爆者における白血球について,人体影響1992(乙15)は,広
島の場合,初期にリンパ球,次いで顆粒球が減少し,その後約1か月目を最低値とし
て,まずリンパ球,次いで顆粒球が,急速又は徐々に回復する経過をたどったとし
ており,日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編「原子爆弾災害調査報
告集」(甲58の1)によれば,長崎の場合,昭和20年9月1日ないし21日の外来患者に
ついては,爆心地から2キロメートル以内の患者の方がそれ以遠の患者より白血球の
減少が明らかに重かったとされる。人体影響1992(乙15)によれば,被爆者には,
被爆後1年目においても白血球減少を示す症例が明らかに多いが,被爆距離や被爆当
時における症状の発現との間に一定の関係は見出されず,2年2か月後の調査ではさ
らに白血球減少の症例が減
少しており,昭和31年においては被爆者の白血球数の平均は5500となっており,被
爆者と対照者の間に有意な差異はみられないとする調査結果があるとされている。
 肥田医師は,原爆放射線による免疫力の低下について,放射能が白血球の
持っている免疫性能をどのように破壊するかはまだ理論的によく分かっていないも
のの,免疫力の低下は,被爆者が体内に取り込んだ放射能によって破壊された細胞
の白血球の変化によるものであるとし,このような体内に取り込んだ放射能による
低線量放射線は,ラジカルを発生させることにより細胞を障害させ,その不完全修
復により免疫機能障害による各種疾病の発病を促進させるとの見解を示している。
そして,同医師は,原告の肝障害について,原子爆弾に被爆し,急性放射能症を発
症した後,免疫機能の低下によってHCV感染を容易にし,発病を促進され,症状の進
行を早め,症状の増悪を招いた典型例であると確信する見解を示している。
 これに対し,戸田教授は,免疫機能の低下によりHCVの持続感染が起き,そ
の免疫機能の低下が原爆放射線のためではないかという議論はあるものの,HCVにつ
いては正常な人でも70ないし80パーセントが持続感染を起こすこと,ウイルスの性
質そのものが免疫学的な監視機構から逃れるような性質を持っていること,被曝し
た者のHCV抗体陽性頻度が被曝していない者と比較して低く,被曝した者も一般にウ
イルスを排除できるほどの免疫を持っていたはずであること等から,HCVの持続感染
を免疫機能の低下により説明することは困難ではないかという見解を示している。
(甲9,47の1・2,48の1・2,49,58の1,乙15,44,証人肥田,証人戸田)
7 原告の肝機能障害に関する放射線起因性についての判断
(1) 本件訴えにおいては,本件処分の違法性の有無に関して,本件認定申請に
係る原告の肝機能障害に放射線起因性が認められるか否か,すなわち,原告が原爆
放射線に被曝したことと上記肝機能障害との間に因果関係が認められるか否かが争
われているものである。
 ところで,行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に,
その拒否処分の取消訴訟において被処分者がすべき因果関係の立証の程度は,特別
の定めがない限り,通常の民事訴訟における場合と異なるものではないところ,そ
の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではないが,経験則に照らして
全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高
度の蓋然性を証明することであり,その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度
に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきである(最高裁
判所平成12年7月18日判決)。
 そして,放射線起因性の要件を定めた被爆者援護法10条1項の規定は,その
文言に照らせば,立証の程度について,通常の民事訴訟における場合と異なるもの
とした特別の定めであると解することは相当でなく,むしろ,同法27条1項が被爆者
であって造血機能障害,肝臓機能障害その他厚生省令で定める傷害を伴う疾病にか
かっているものに対し,健康管理手当を支給するとしつつ,「原子爆弾の放射能の
影響によるものでないことが明らかであるものを除く。」と規定していること,同
法31条が被爆者であって厚生省令で定める範囲の精神上又は身体上の障害により介
護を要する状態にあり,かつ介護を受けている被爆者に対し,介護手当を支給する
としつつ,「原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを
除く。」と規定してい
ることと対比すれば,同法10条1項の規定は,放射線と負傷又は疾病ないしは治癒能
力の低下との間に通常の因果関係があることを要件として定めたものと解すべきで
あって,このことは,同法の根底に国家補償的配慮があるとしても,異なるもので
はないというべきである。
(2) しかしながら,原子爆弾による被害は未曾有のものであり,他に例を見な
い凄惨なものであって,多くの被爆者は,莫大な量の初期放射線を全身に被曝した
ことに加え,残留放射能を被曝しており,その後も放射線による後障害の不安を抱
き続けるという,極めて特異かつ苛酷な状況に置かれているものである。そのた
め,原爆放射線の身体に対する影響の有無を検討,判断するに当たっても,被曝し
た特定の部位に現れる影響にとどまることなく,身体に対する全体的,総合的な影
響を把握し,理解していくことが相当である。
 そして,人間の身体に疾病が生じた場合,その発症に至る過程において
は,多くの要因が複合的に関連していることが通常であり,特定の要因から当該疾
病の発症に至った機序を立証することにはおのずから困難が伴うものであり,殊
に,原爆放射線による後障害の場合には,個々の症例を観察する限り放射線に特異
な症状を呈しているわけではなく,一般にみられる症状と全く同様の症状を呈する
ものであって,その症状をもって放射線に起因するか否かを見極めることが不可能
であることは,人体影響1992(甲17)の指摘するところである。
 一方で,同書も指摘するとおり,一定の被曝集団について観察した場合
に,ある特定の疾病がその集団において発生する頻度が高いことがあり,そのよう
な疾病については,放射線に起因している可能性が強いと判断されるところ,放射
線後障害については,このように高い統計的解析によってその存在が初めて明らか
にされるという特徴が認められるのであって,このことは,ABCC及び放影研の長期
間にわたる寿命調査,成人健康調査等の結果,原子爆弾の投下後数十年もの期間を
経過した後になって,放射線による被曝とさまざまな疾病との間に有意な関係が認
められてきていることからも明らかである。
 そして,今日においても,放射線の人体に与える影響については,その詳
細が科学的に解明されているとはいい難い段階にあり,また,原子爆弾被爆者の被
曝放射線量についても,その評価は推定により行うほかないのであって,放射線起
因性の検討,判断の基礎となる科学的知見や経験則は,いまだ限られたものにとど
まっている状況にあるといわざるを得ない。
 以上のような事情の下においては,原告の肝機能障害が放射線起因性を有
するか否かを判断するに当たって,原告が原爆放射線を被曝したことによって上記
疾病が発生するに至った医学的,病理学的機序についての証明の有無を直接検討す
るのではなく,放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的な知見を踏
まえつつ,原告の被爆状況,被爆後の行動やその後の生活状況,原告の具体的症状
や発症に至る経緯,健康診断や検診の結果等を全体的,総合的に考慮したうえで,
原爆放射線被曝の事実が上記疾病の発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性
が認められるか否かを検討することが相当である。
 このことは,前掲「原子爆弾被爆者健康診断実施要領」(甲15,乙27)が
「いうまでもなく放射能による障害の有無を決定することは,はなはだ困難である
ため,ただ単に医学的検査の結果のみならず被爆距離,被爆当時の状況,被爆後の
行動等をできるだけ精細には握して,当時受けた放射能の多寡を推定するととも
に,被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接的に当該疾病又は症状
が原子爆弾に基くか否かを決定せざるを得ない場合が少くない。」としていること
や,厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾後障害症治療指針について」(昭和33年8月
13日衛発第726号)(甲15,乙26)による「原子爆弾後障害症治療指針」が,「原子
爆弾後障害症を医学的にみると,原子爆弾投下時にこうむった熱線又は爆風等によ
る外傷の治癒異常と投下時
における直接照射の放射能及び核爆発の結果生じた放射性物質に由来する放射能に
よる影響との二者に大別することができる。・・・後者は造血機能障害,内分泌機
能障害,白内障等によって代表されるもので,被爆後10年以上を経た今日でもいま
だに発病者をみている状態である。これらの後障害に関しては,従来幾多の臨床的
及び病理学的その他の研究が重ねられた結果,その成因についても次第に明瞭とな
り,治療面でも改善が加えられつつあるが,今日いまだ決して十分とはいい難
い。」としたうえで,「原子爆弾被爆者に関しては,いかなる疾患又は症候につい
ても一応被爆との関係を考え,その経過及び予防について特別の考慮がはらわれな
ければなら」ないと指摘していることからも,裏付けられるというべきである。
(3) 以上を前提として,本件認定申請に係る原告の肝機能障害に放射線起因性
が認められるか否かについて検討する。
ア 原告は,爆心地から約1・3キロメートルという至近距離において,建物
の中であったとはいえ,ガラス窓に背を向けて上半身裸のまま腰掛けた状態で原子
爆弾に被爆しており,大量の初期放射線に被曝したことはもちろんのこと,その後
も救援列車に乗車するまでの間大橋工場の周辺にとどまったことにより,誘導放射
線に被曝し続けていたというべきであり,さらに,残留放射線により放射化した土
や埃に加え,放射性降下物等の放射性物質が含まれていた可能性もある川の水を大
量に飲んでいることから,内部被曝による影響も免れないものと推測される。
イ 原告は,被爆当時16歳であり,被爆以前に特段の健康上の障害があった
とは認められないにもかかわらず,被爆直後に大村海軍病院に入院して2週間程度経
過したころから,脱毛,血性の下痢等の症状を呈するようになり,就労可能な程度
に体調が回復するまでに約2年以上を要している。そして,原告が同病院に入院中に
発症した,脱毛,血性の下痢等の諸症状は,いずれも原爆放射線による急性期の障
害と認められるものであること,原告が発症した発熱,下痢,嘔吐及び出血の諸症
状は,いずれも急性期の死亡例において高い割合で認められたものであること,原
告の昭和20年9月20日の血液所見では,白血球数が明らかに減少しているほか,好中
球も減少しており,同年10月9日には,白血球の数自体は回復しているものの,好中
球の占める割合は依然
低くなっており,骨髄障害や免疫機能の低下が窺われること等に照らせば,原告
は,被爆直後から原爆放射線による急性障害を発症しており,原爆放射線によって
相当期間に及ぶ重大な身体への影響を被ったことが認められる。
 このように,原告の原爆放射線による急性障害の重篤性や,原告の免疫
機能が少なくとも一定期間低下した事実に加えて,原告の体調はその後回復したも
のの,他方において,被爆から長年月を経た昭和47年になって被爆時に身体に刺さ
って入り込んだガラスがようやく排出されるなど,被爆後長年月に引き続き原子爆
弾による影響をさまざまな形で被っていたことが窺われることを併せて考慮すれ
ば,原告に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したもの
であっても,前掲「原子爆弾後障害症治療指針」のとおり,一応原子爆弾による被
爆との関係を考えることが相当というべきである。
ウ ところで,本件認定申請時における原告の肝臓に関する症状及び血液検
査の結果は,前記1(3)ウのとおりであり,証拠(乙39,証人戸田)によれば,原告
の肝機能障害について,GOT及びGPTの異常が6か月以上持続しており,ZTT及びICGの
上昇も認められることから,慢性肝炎と判断されるが,血小板数が正常であるこ
と,ICGの上昇が20パーセントを超えないこと,GOT及びGPTについても著しい上昇と
まではいえないことから,肝硬変には至らないものと判断されることが認められ
る。
 そして,渡辺医師による平成6年8月20日付け診断書には,原告について
第2世代HCV抗体が陽性であった旨の記載があることから,原告が当時既にHCVに感染
していたことが認められるところ,戸田教授も,原告の肝機能障害がHCVに起因する
C型慢性肝炎である旨の見解を示しており(乙39,証人戸田),原告の肝機能障害
がHCV感染に由来するものであることを否定するに足りる証拠はなく,本件認定申請
に係る原告の肝機能障害はC型慢性肝炎であると認められる(原告も,原告の肝機
能障害がHCV感染に由来すること自体は争っていないものと解される。)。
エ 原告は,原告の肝機能障害について,放射線被曝とHCVが共同成因とな
り,原爆放射線を浴びたためにC型肝炎が発症若しくは進行し,又は放射線により
治癒能力が低下したために発症若しくは進行した旨主張する。
a そこで検討するに,HCVに感染した場合,多くは持続的な感染となって
C型慢性肝炎を発症するに至り,さらに症状が進行した場合には肝硬変,肝細胞が
んの発症へと至ることが認められるところ,我が国の慢性肝炎患者の場合,ウイル
ス性の慢性肝炎が圧倒的に多く,そのうちC型慢性肝炎の割合が約7割程度に及ぶこ
とは,前記5(2)イ及び(4)のとおりであり,さらに,我が国の肝硬変患者の約5割に
HCV感染が認められることや,我が国の肝細胞がんをはじめとする肝臓がんの患者に
占めるHCV感染者の割合が過半数に及んでいることは,前記5(4)のとおりであっ
て,我が国における慢性肝炎,肝硬変及び肝臓がんの患者において,HCV感染に起因
する者が相当の割合を占めていることが認められる。
b 一方,原子爆弾の被爆者には高い頻度で肝障害が認められ,そのこと
は長い間重要な医学的問題の一つとされていたものであるところ,ABCC及び放影研
による原子爆弾の後障害に関する長期的な調査等の結果,1990年代に至り,ワン論
文,原爆被爆者における癌発生率(甲75)等の論文によって,慢性肝疾患,肝硬変
及び肝臓がんの発症と放射線の被曝線量との間にそれぞれ有意な関係が認められた
ことは,前記6(3)イ,ウa及びbのとおりである。ちなみに,ワン論文について
は,アルコール摂取や栄養状態の影響について検討していないことが指摘されてい
るが,寿命調査集団においてアルコールの摂取が一般に多量であることや,栄養状
態が一般的に悪いことを窺わせる証拠はなく,寿命調査集団において飲酒のリスク
要因増加が認められなかった
とする研究が存在すること等に照らせば,被曝線量と慢性肝疾患等に有意な関係が
あることは否定できないというべきである。
 そこで,このような調査,研究の結果に照らせば,慢性肝疾患,肝硬
変及び肝臓がんの発症者の中に大きな割合を占めるHCVの持続感染及びその進行によ
るC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があると
みることには,相応の根拠が存するものというべきである。
c さらに,上記bの知見を踏まえて,放射線とC型慢性肝炎の関係につ
いて研究が進められた結果,前記6(3)ウcのとおり,HCV感染と被曝線量の間に有
意な関係を認めることはできなかったものの,HCV抗体陽性者においては,放射線量
の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加しており,慢性肝疾患の有病率が,HCV抗
体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することが
窺われ,放射線被曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した
可能性が指摘されるに至っている。
 もっとも,この点を指摘した藤原論文は,慢性肝疾患の有病率がHCV抗
体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することに
ついて,統計学的な検証の結果,P値は0・097であるとしており,この値が一般的
な有意水準(0・05)を上回ることから,統計学上有意な関係にあるとは認められな
かったものと評されているところである。しかし,高線量域における生存被爆者が
少なくなりつつあること等を考慮すれば,被爆者を対象とした長期的調査の結果を
分析するに当たり,一般的な有意水準よりも幅を持った判断をせざるを得ないとす
る考え方にも一応の合理性が認められるところであり,放影研において有意水準を
0・1と設定することがあることにもかんがみれば,P値が0・05を上回っているとの
一事をもって,放射線が
HCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性があることを
否定することはできないというべきである。
(4) これに対し,被告は,さまざまな理由により,原告の肝機能障害が放射線
に起因するものとはいえないと主張しているので,これらの点について検討する。
アa 被告は,肝機能障害が放射線の確定的影響に属するものであるとした
うえで,原告の被曝線量は,DS86に基づいて推定した結果,130ラドを超えないとす
る一方,肝機能障害のしきい値は1000ラドであるから,原告の肝機能障害が放射線
に起因するものとはいえないと主張する。
b そこで検討するに,原子爆弾による放射線の線量推定方式である
DS86は,1986(昭和61)年に,原子爆弾による放射線量の評価に関する日米合同の
委員会において,従来の線量推定方式であるT65Dの問題点を踏まえて策定されたも
のであり,ICRPをはじめ,世界の放射線防護の基本資料とされてきたことは,前記
4(1)イ及びウのとおりである。
 また,DS86については,その策定直後から,熱中性子誘導放射能の放
射化測定値とDS86による計算値との間に,距離ごとの系統的な不一致がみられると
いう,いわゆる中性子の不一致問題が指摘されたことから,日米の合同研究による
検討が行われた結果,原子爆弾の出力等について一定の補正を施すことにより上記
問題が解消されるという結論に達し,かかる検討の結果を踏まえて,新たな線量推
定方式であるDS02が2002(平成15)年に策定されたところ,空気中線量全般に関し
てDS86からの大幅な変更はないとされていることは,前記4(2)のとおりである。
 そして,前記4(3)アないしエによれば,DS86等に基づいて推定した原
告の被曝線量は,初期放射線,誘導放射線,放射性降下物及び内部被曝を合計して
も130ラド未満となるのに対し,前記6(1)のとおり,肝臓に永続的な障害を起こすた
めに必要な被曝線量すなわち肝機能障害のしきい値は,1回の照射の場合1000ラドと
されていることからすれば,DS86等に基づく原告の推定被曝線量と上記しきい値を
機械的に適用する限り,原告の肝機能障害は放射線の影響によるものではないとい
うこととなる。
c しかしながら,中性子線とガンマ線の人体に与える影響は異なってお
り,前者の方が数倍以上の悪影響を与えることから,原爆放射線における中性子線
の比率が僅少であるとしても,中性子線とガンマ線の吸収線量を単純に合計して放
射線量を推定していることは相当でなく,生物学的効果を考慮した線量当量により
人体への影響を検討すべきであるとする見解も有力に主張されているところであ
る。
 また,原告が被爆直後に放射性物質で汚染されていたと考えられる川
の水を大量に飲んでいることに照らせば,前記4(3)エの推定内部被曝線量が原告に
妥当するか否かについては疑問の余地があるというべきであり,残留放射線の影響
についてなお多くの不確定要因があるとする前記4(3)オの見解も否定し得ないとこ
ろである。
 加えて,原告よりも爆心地から遠い地点で被爆した被爆者について,
放射線に起因するラジカルによる消耗性色素と考えられる肝細胞内の色素が出現し
ている例も指摘されている(甲58の2・1270頁,証人戸田)。
 このようなことからすれば,本件のような事案においては,DS86等に
基づく推定線量としきい値とを機械的に適用することによって放射線起因性の有無
を判断することは相当であるとは認め難い。
 さらに,上記の点を措くとしても,原告は本件において,原告の肝機
能障害を原爆放射線の確定的影響ではなく確率的影響として主張していると解され
るのであって,確率的影響としての上記肝機能障害がHCV感染と相俟って生じたか否
かが本件の争点というべきであるから,DS86等に基づく推定線量としきい値とを適
用した結果,上記肝機能障害が原爆放射線の確定的影響としての肝機能障害である
ことが否定されたとしても,これによって直ちに本件における原告の主張が排斥さ
れるわけではないというべきである。
d したがって,本件においては,被告の前記aの主張をもって原告の肝
機能障害に係る放射線起因性を否定することはできない。
イ 被告は,原告の肝機能障害がC型慢性肝炎であって,放射線に起因する
肝機能障害の病態である肝静脈の閉塞性病変ではないことから,放射線起因性が否
定される旨主張し,戸田教授もこれに沿う見解を示している(乙39,証人戸田)。
 しかしながら,放射線に起因する肝機能障害の病態として被告が主張す
る病状は,放射線の被曝による直接的な影響として発生したものを念頭に置いたも
のと解されるところ,原告は,原告の肝機能障害がHCVに起因することを肯定しつ
つ,原爆放射線との共同成因により慢性肝炎が発症又は促進したと主張しているの
であるから,被告の上記主張が正しいとしても,これによって直ちに本件における
原告の主張が排斥されるものではない。
ウ 被告は,慢性肝炎の発症には肝細胞障害因子が持続的に存在することが
必要であるところ,原爆放射線による被曝の場合には,放射線はもちろん,放射線
が細胞内の水に作用して発生したラジカルも短時間に消失することから,持続的な
肝細胞障害因子が存在し得ず,原爆放射線により慢性肝炎が起こることはあり得な
い旨主張し,戸田教授もこれに沿う見解を示している(乙39,証人戸田)。
 しかしながら,放射線やラジカルによって損傷した遺伝子は,アポトー
シスを起こしたり,完全に修復したりするほか,不完全に修復することがあり,そ
れが後になって増幅される可能性や,遺伝子変異が生涯にわたって残存する可能性
があることは否定できないところであり,その場合,後になって起こる効果として
は,がんの発生が最も考えられるものの,それ以外の効果が起こらないとは断言で
きないことは,前記6(2)ウのとおりである。
 また,ラジカル自体が短時間に消失することは被告の主張するとおりで
あるとしても,ラジカルによる化学結合の切断から生物効果が現れるまでの期間は
さまざまであり,必ずしも短期間とは限らないことは,前記6(2)イのとおりであ
る。
 さらに,体内に吸収された放射性物質による内部被曝の効果について
は,必ずしも十分に解明されていないことが窺われるところ,こうした放射性物質
による低線量被曝によって致命的な疾病を発症した例が紹介されていることや,こ
のような被曝が長期的健康影響を引き起こすかもしれないとする見解もあることに
照らせば,原子爆弾に起因する放射線が,HCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的
な因子になり得ることが否定されているものとは認められない。
 したがって,被告の上記主張をもっても,原告の肝機能障害が放射線に
起因して発症又は促進した可能性を否定することはできない。
エ 被告は,C型慢性肝炎について,被曝による免疫能力の低下等が影響を
与えるという科学的知見は存在せず,免疫能力に問題がないHCV保有者でも多くの者
が慢性肝炎を発症すること,原告の白血球数に異常が認められないこと等から,原
告のC型慢性肝炎が被曝による免疫能力の低下に起因するものではないと主張し,
戸田教授も,上記のような事情が認められることから,HCVの持続感染を免疫機能の
低下により説明することは困難である旨の見解を示している。
 しかしながら,白血球数が正常値の範囲にとどまっていても,白血球の
能力が劣るために免疫能力が低下している場合があり得ることからすれば,原告の
白血球数に異常がなかったとしても,そのことから直ちに原告の免疫能力がC型慢
性肝炎の発症,促進を防ぐに十分であったと結論付けることはできない。また,HCV
感染に由来する場合が多数を占める慢性肝疾患,肝硬変及び肝臓がんについて,被
曝線量との有意な関係が認められることや,慢性肝疾患の有病率がHCV抗体陰性の被
爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することが窺われ,被
曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した可能性が指摘され
ていることは前記のとおりである。これに加え,C型肝炎による肝障害の発生機序
についても,HCV自体が
肝細胞障害を起こすのではなく,主として免疫学的機序が肝細胞障害に重要な役割
を果たすものとされていること,原告の免疫能力が原爆放射線の被曝後いったん低
下しており,その後も原告が原子爆弾によって身体への影響を被り得る状況にあっ
たこと等に照らせば,上記の被告主張の事実をもって,原爆放射線の人体に与える
影響について,その詳細が科学的に解明されているとはいい難い段階にある現在の
状況の下において,前記(3)記載のように被曝による免疫能力の低下がC型慢性肝炎
を発症,促進させたものと推測することの合理性を否定することはできないという
べきである。
 したがって,免疫能力に問題がないHCV保有者でも多くの者が慢性肝炎を
発症すること,HCV感染と被曝線量の間に有意な関係が認められず,HCV感染に関し
ては免疫能力の低下による影響が窺われないことを考慮しても,なお原告が被曝に
よる免疫能力の低下によってC型慢性肝炎を発症又は進行させたとの判断を否定す
ることまではできないというべきである。
(5) 以上のとおり,原爆放射線の人体に対する影響,放射線による肝機能障害
の発症及び促進等に関する科学的知見及び経験則は,いまだ限られたものにとどま
っている状況にあり,放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的な知
見は,長期的な調査の結果,近年に至ってようやく得られつつあるところであるこ
とは,前記(3)エのとおりであって,このようなことを踏まえたうえで,前記認定に
かかる,原告の本件認定申請時における肝機能障害に関する症状及び血液検査の結
果と,原告の被爆時の状況,爆心地からの距離,被爆後における行動等から窺われ
る原告の放射能被曝の重大性,被爆直後における急性障害の症状の内容及び程度,
現在に至るまでの健康状態等とを,現時点における上記の科学的知見及び経験則に
照らして全体的,総
合的に判断すれば,本件認定申請に係る原告の肝機能障害については,原告が爆心
地から至近の地点において多大な原爆放射線に被曝したことが,HCVの感染とともに
慢性肝炎を発症又は進行させるに至った起因となっているものと認めるのが相当で
ある。
第4 結論
 原告の本件認定申請に係る原告の肝機能障害について,放射線起因性が認められ
ることは上記のとおりであり,原告が上記肝機能障害により現に医療を要する状態
にあることについて,被告は明らかに争わないものと認められるから,上記肝機能
障害については,原爆症認定の要件を具備するものであることが認められる。
 よって,原告の請求は理由があるからこれを認容することとし,主文のとおり判
決する。
東京地方裁判所民事第2部
裁判長裁判官      市村陽典
裁判官      森 英明
裁判官      丹羽敦子
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