弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     原判決を破棄する。
     被告人を拘留一〇日に処する。
     原審におる未決勾留日数中一〇日を右本刑に算入する。
     原審および当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
         理    由
 本件控訴の趣意は、被告人作成名義の控訴趣意書、弁護人小栗孝夫、同尾関闘士
雄、同伊藤泰方、同伊藤宏行および同大矢和徳の五名共同作成名義の控訴趣意書な
らびに弁護人桜井紀作成名義の控訴趣意書の各記載のとおりであるから、いずれも
ここにこれを引用する。これらに対する当裁判所の判断は、左記のとおりである。
 控訴趣意は、まず、
 「本件においては、被告人は、終始その氏名等を黙秘しており、検察官は、被告
人の氏名等を記載しない起訴状を原審に提出して、本件公訴を提起した。そして被
告人は、原審において、弁護士桜井紀を弁護人に選任する弁護人選任届(別紙第三
表)を提出し、更に弁護士森健、同大矢和徳および同花田啓一の三名を弁護人に選
任する弁護人選任届(別紙第六表)を提出した。その各弁護人選任届には、いずれ
も被告人の氏名は自書してないけれども、被告人を特定し得る事項を記載して被告
人の指印が押してあるから、右の各弁護人選任届は有効と解すべきである。しかる
に原裁判所は、右の各弁護人選任届が刑訴規則第一八条等に違反する無効のものと
解し、弁護士大矢和徳一名を国選弁護人に選任し、同弁護士だけを公判に出頭させ
て、事件を進行した。その結果、被告人は、学識経験が豊富にして法廷技術に熟達
した桜井、森および花田三弁護士の弁護を受けることができなくなり、不利益な立
場に立つた。原判決には、右の点において、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴
訟手続法令の違反がある」
 と主張する。
 なお、後記説示の別紙第一一表弁護人選任届および第一二表弁護人選任届が当審
に提出され、当裁判所は、種々調査研究をし、合議の結果、後記の理由により、右
の各弁護人選任届を適法有効と解して、第一回公判を開廷し、弁護人としては大矢
弁護人だけが出頭し、裁判長において同弁護人に対し、控訴趣意書の陳述を催促し
たところ、検察官は、
 「当審に提出されている各弁護人選任届(右の第一一表第一二表)は、被告人の
氏名の記載がなく、いずれも刑訴規則第一八条第六〇条に違反し無効である。従来
の高等裁判所諸判例によつても、然りである。故に当審においては、弁護人の選任
がなく当公判廷には弁護人が在廷していないとみるべきである。本件は、弁護人の
選任のない事件として審理を進行されたい」
 と強く主張して、裁判長の右の訴訟指揮に対し異議の申立をした。当裁判所は、
合議のうえ、右の異議の申立を理由なしとして棄却する決定を言い渡して、事件を
進行した。
 それで叙上の各所論に関する本件訴訟手続の経過を精査し、刑訴規則第一八条第
六〇条第六二条第一項の解釈に関する法律問題に論及しよう。
 本件記録によれば、
 一、 被告人は、昭和三九年一月二六日午前六時七分頃軽犯罪法第一条第三三号
違反事実の嫌疑にて刑訴法第二一二条第二一三条にもとづき司法警察職員によつて
逮捕され、終始沈黙して、氏名住所年令等をも黙秘し、同月二八日被疑者欄に別紙
第一表のとおり記載した勾留状(写真添付)の発布を受けて同日名古屋拘置所に勾
留され、同拘置所において、旧一階三七房に収容され、一八三番という番号を附さ
れ、以来一八三番と呼称されて来た。そして検察官は、同月三一日右事実を公訴事
実としかつ被告人欄に別紙第二表のとおり記載した起訴状(写真添附)を原審に提
出して、本件公訴を提起した。
 一、 そして弁護士桜井紀を弁護人(私選)に選任する旨を記入しかつ作成名義
人欄等に別紙第三表のとおり記載した弁護人選任届が同年二月五日原審に提出され
たところ、原裁判所は、名古屋拘置所に電話をかけて、右の弁護人選任届が刑訴規
則第一八条第六〇条に違反し不適法である旨を通知した。そこで弁護士桜井紀、同
大矢和徳および同森健の三名のうちの一名を国選弁護人に選任されたい旨を記入し
かつ作成名義人欄に別紙第四表のとおり記載した弁護人選任に関する上申書が原審
に提出され、原裁判所は、これにもとづき、同月一一日被告人の表示として別紙第
五表のとおり記載しかつ弁護士大矢和徳を被告人の弁護人(国選)に選任する旨を
記載した国選弁護人選任書(写真添附)を作成送達して、同弁護士を国選弁護人に
選任した。しかるにその後更に、弁護士森健、同大矢和徳および同花田啓一の三名
を弁護人(私選)に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第六表のとおり
記載した弁護人選任届が同月一五日原審に提出された。
 一、 原裁判所は、同年二月一五日第一回公判を開廷し、右第三表および第六表
の各弁護人選任届を却下したうえ、国選弁護人大矢和徳一名だけを立ち会せて、審
理をし、その後第二回公判を開き、同年三月七日の第三回公判において、「被告人
を拘留一〇日に処する。未決勾留日数中一〇日を右本刑に算入する」旨の有罪判決
を宣告した。その判決書には、写真を添附し、被告人欄に別紙第七表のとおり記載
して、被告人を特定している。次で右判決宣告の直後、検察官の請求により、被告
人の表示として別紙第八表のとおり記載した勾留取消決定がなされ、被告人は、こ
れにもとづき、同日釈放された。
 一、 原審国選弁護人大矢和徳は、同年三月七日ただちに右判決に対し当審に控
訴の申立をした。そして更に、作成名義人欄等に別紙第九表のとおり記載した控訴
申立書が同月一〇日に提出された。次で弁護士大矢和徳を本件の送達受取人に選任
する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第一〇表のとおり記載した送達受取人届
が同月一九日に提出された。
 一、 そして弁護士大矢和徳および同小栗孝夫の両名を当審における弁護人(私
選)に選任する旨を記入しかつ作成名義人欄等に別紙第一一表のとおり記載した弁
護人選任届が提出され、更に弁護士桜井紀、同尾関闘士雄、同伊藤泰方、同花田啓
一および同伊藤宏行の五名を当審における弁護人(私選)に選任する旨を記入しか
つ作成名義人欄等に別紙第一二表のとおり記載した弁護人選任届が提出された。
 一、 なお、作成名義人欄等に別紙第一三表のとおり記載した控訴趣意書が提出
された。そして弁護人小栗孝夫、同尾関闘士雄、同伊藤泰方、同伊藤宏行および同
大矢和徳の五名共同作成名義の控訴趣意書が提出され、更に弁護人桜井紀作成名義
の控訴趣意書が提出された。
 一、 当裁判所は、後記説示のとおり、右第一〇表の送達受取人届を不適法とみ
る関係上(その結果、すでに釈放されている被告人に対し公判期日召喚状を適法に
送達する方法がなく、したがつて公判に被告人が出頭しない場合には、訴訟を進行
することができない)、あらかじめ大矢弁護人に対し、被告人を公判に出頭させる
よう配慮方を勧告し、同弁護人は、これを快諾した。
 一、 原審における証拠調の結果により、被告人が「AのB」であると推測し得
る状態にあつた。そして当裁判所は、被告人が出頭したうえ公判を開廷し、A株式
会社労務課長Cを証人として尋問し、かつその証言にもとづき戸籍謄本等を取り寄
せて証拠調をした(なお、被告人は、当審においても、その氏名等を終始黙秘し続
けた)。
 という事実関係が明らかである。
 しかるところ、当裁判所は、叙上の当審における証拠調の結果等にもとづき、被
告人の氏名、年令および職業はそれぞれB、昭和一七年一二月一二日生およびA株
式会社従業員であり被告人の本籍および住居はそれぞれこの判決冒頭の記載のとお
りであると認定する。
 <要旨>そして本件のように被告人の氏名が明らかでないために、検察官が起訴状
に被告人の氏名を記載せず単に被</要旨>告人を特定するに足りる事項だけを記載
して起訴した事件においては、原則として、被告人が他人と共同してまたは単独に
て作成提出する弁護人選任届、送達受取人届、控訴申立書、控訴趣意書等における
作成名義人としての被告人の表示は、必ずしも被告人の氏名を記載することを要せ
ず、記録と対照して当該事件の被告人であることを特定するに足りる事項を記載し
指印をすれば足りると解するのが相当である。いうまでもなく、刑事訴訟は、起訴
状の提出によつて開始せられ、各種の訴訟行為によつて進行し発展するが、それら
のすべての訴訟行為は、起訴状を前提とし、これを基礎として行なわれる。起訴状
は、このようにすべての訴訟行為の基本となる極めて重要な書類であるところ、刑
訴法第二五六条第二項第一号は、起訴状には被告人の「氏名」その他被告人を特定
するに足りる事項を記載しなければならないと明定している。そしてここにいわゆ
る「その他被告人を特定するに足りる事項」の一種の例示として、刑訴規則第一六
四条第一項は、被告人が自然人である場合につき、その年令、職業、住居および本
籍を記載しなければならないと規定している。もつとも、同条第二項により、右の
年令、職業、住居および本籍の一部または全部が明らかでないときは、その旨を記
載すれば足りる。起訴状については、勾引状、勾留状、差押状、捜索状、逮捕状等
に適用または準用される刑訴法第六四条第二項と同趣旨の規定は存在しない。した
がつて成文上は、起訴状には被告人の「氏名」を記載しなければならないこととな
つている。刑訴規則第一六四条第一項が、起訴状には、刑訴法第二五六条(同条
は、前記のとおり、被告人の「氏名」と規定している)に規定する事項のほか、次
に掲げる事項を記載しなければならないと規定している点からみても、成文上は、
起訴状に被告人の「氏名」を記載することを要することが明白である。しかるにも
かかわらず、被告人の氏名が明らかでないときは、起訴状に、被告人の表示とし
て、被告人の通称、あだ名または仮名等を記載すれば足り、結局において、刑訴法
第六四条第二項と同様に、被告人の人相、体格その他被告人を特定するに足りる事
項を記載すれば足りる、という拡張解釈が行なわれ、この解釈は、一般に適法とし
て是認され、実務上も通用している(起訴状に被告人の表示として被告人を特定す
るに足りる事項だけを記載することは、叙上のように適法と解されているけれど
も、明らかに成文と異る例外の場合に属するから、検察官は、できるだけ諸種の調
査をして、成文の明定するところに従い、被告人の氏名を明確にして起訴するよう
に努力すべきであろう。そして起訴状に被告人を特定するに足りる事項だけを記載
して起訴した場合においても、検察官は、引き続き調査をして、被告人の氏名が明
確となるように努力し、その氏名が明確となつた場合には、起訴状における被告人
の表示を訂正する措置を講ずべきであろう。なお、本件おいては、被告人を「年令
二十歳位別添写真の男」と表示して起訴したが、この表示は裁判所を大いに困惑さ
せるものである。右の表示は満一九歳何カ月位の少年法所定の少年を起訴したよう
にもみえ、しかも、本件は家庭裁判所を経由していない事件であるからである)。
そして成文の明定するところに従い起訴状に被告人の氏名を記載して起訴した事件
においては、左記(イ)(ロ)(ハ)に掲記するような各種の訴訟書類には、すべ
て被告人の氏名を記載している。けだし、それらの各書類には、「被告人何某に対
する何々被告事件」と書いて被告事件を特定する趣旨、書類(例、弁護人選任に関
する通知書)の名宛人の趣旨等にて、成文上または実務の必要上、被告人の氏名を
記載することが要請されているからである。しかしながら、叙上の拡張解釈にもと
づき起訴状に被告人の氏名を記載せず被告人を特定するに足りる事項だけを記載し
て起訴した事件においては、実務上、(イ)裁判所側の作成する弁護人選任に関す
る通知書、国選弁護人選任書、公判期日被告人召喚状、公判調書、決定書、判決書
等のすべての書類、(ロ)検察官の作成提出する公判期日変更申請書、冒頭陳述
書、証拠調請求書、証人尋問事項書、控訴申立書等のすべての書類ならびに(ハ)
例えば国選弁護人の作成提出する公判期日請書、公判期日変更申請書、証拠調請求
書、証人尋問事項書、控訴申立書等のすべての書類に、被告人の氏名が明確となら
ない限り、被告人の表示として、被告人を特定するに足りる事項だけを記載してお
り、しかも、それで、一般に適法と解せられ、実務上も十分に通用しているのであ
る。叙上のような成文の拡張解釈、実務の実情等を参しやくして考察すれば、被告
人の「氏名」の記載を要求している刑訴規則第一八条第六〇条第六二条第一項等の
諸規定は、いずれも刑訴法第二五六条第二項第一号刑訴規則第一六四条第一項が要
求しているところに従い起訴状に被告人の「氏名」を記載して記訴した場合を前提
とする原則的規定にほかならないことが明白であるといわなければならない。した
がつて起訴状に被告人の氏名を記載せず単に被告人を特定するに足りる事項だけを
記載して起訴した事件においては、訴訟の経過中に被告人の氏名が明確となつた場
合等を除き、右の原則的規定の例外として、被告人が他人と共同してまたは単独に
て作成提出する各書類の作成名義人としての被告人の表示は、記録と対照して当該
事件の被告人であることを特定するに足りる事項だけを記載し指印をすれば足りる
と解するのが相当である。起訴状に被告人の表示として通称、あだ名または仮名等
だけを記載して起訴した事件においばは、もちろん、右各書類の作成名義人として
右の名称を記載し指印等をすれば適法と解してよい。
 被告人の氏名が明らかでないために、起訴状に被告人の氏名を記載せず単に被告
人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴する場合としては、被告人がその氏
名を熟知しているにもかかわらずこれを黙秘している場合とその他の場合(例、被
告人が氏名等の記憶喪失者である場合)とがあることは、多言を要しない。そして
後者の場合については、上記説示の結論が正当であることは、疑のないところであ
ろう。しかし、前者の場合については、なお検討する余地があるように思われる。
 そもそも被告人は、特別事情のない限り、その氏名を黙秘する権利を有しない。
このことは、最高裁判所昭和三二年二月二〇日大法廷判決(集一一巻二号八〇二
頁)の明言するところである。そこで、「特別事項のない場合において、被告人が
氏名を黙秘し弁護人選任届等に氏名を記載せず単に被告人を特定するに足りる事項
だけを記載することは、刑訴規則第一条第二項に違反し、黙秘権の濫用であるか
ら、その弁護人選任届等は、無効のもの、または少くとも不適法として却下すべき
ものである」という見解が考えられる。しかしながら、まず第一審の弁護人選任届
について観察するに、起訴状に被告人を特定するに足りる事項だけを記載して起訴
した事件においては、その起訴の時から第一回公判開廷直前の時までの段階におい
て、被告人を特定するに足りる事項だけを記載した弁護人選任届の提出されるのが
通常である。しかるところ、いわゆる起訴状一本主義の原則上、右の段階において
は、裁判所に何等の資料も存在しない。このように何等の資料も存在しないため
に、裁判所は、弁護人選任届に被告人を特定するに足りる事項だけしか記載してな
いことが被告人の氏名を黙秘していることに基因する場合であるか否か、被告人の
氏名の黙秘が特別事情のない権利濫用の場合にあたるか否か、という問題を判断す
ることができない。しかも、この問題を判断するために、右の段階において、裁判
所が被告人を呼び出しまたは検察庁、警察署等に照会するような方法により、資料
を収集し事実の取調をする等の積極的活動をすることは、右の原則上、少くとも妥
当ではないというべきである。けだし、右の特別事情の有無という問題は犯罪事実
その他の被告人に不利益な事項との関連において観察し判断することを要する問題
であるからである。故に仮に右の見解に従うと、第一審第一回公判前には、資料が
ないために、その公判前に提出された弁護人選任届に被告人を特定するに足りる事
項だけしか記載してないことが権利の濫用にあたるか否かという問題を判断するこ
とができないという不都合な結果を生ずる。起訴状一本主義の原則から考えると、
被告人を特定するに足りる事項だけを記載した起訴状を提出して起訴した事件にお
いても、権利濫用の有無というような判断の困難な問題に遭遇することなく、右の
起訴状のままの状態で諸手続を進行し容易にかつ適法に第一回公判を開廷し得るよ
うに、弁護人選任届等の問題を解決するのが妥当であるように思われる。
 なお、右の事件においても、裁判所は、現実に審理判決の対象となつている者と
起訴状記載の被告人とが人違でないことを調査する義務を有するにすぎない(刑訴
規則一九六条)。被告人の氏名等が明確となることは望ましいことである。しか
し、裁判所は、常に必ずみずから進んで被告人の氏名等を明確にする方法をとらな
ければならないわけではない(本件においては、被告人が前記のように少年法所定
の少年であるかも知れないために、裁判所は、被告人の生年月日調査の必要上、結
局において、被告人の氏名等を明確にしなければならないこととなつた)。次に刑
訴規則第一条第二項に違反し権利を濫用してした訴訟行為の効力について審案する
に、訴訟を遅延させる目的のみでする忌避の申立は権利濫用の場合にあたることが
明白である。しかし、その申立は、権利濫用の事由により、無効のもの、または刑
訴法第二四条第一項後段にもとづき不適法として却下すべきものと解することはで
きない。もつとも、右の申立は、同条項前段にもとづき却下することができる。
 しかし、それは、同条項前段の特別規定が存在するからにほかならない。弁護人
選任届等については、右のような特別規定は存在しない。権限を濫用してする公判
期日変更決定は、司法行政監督上の問題を生ずるにすぎない(刑訴法二七七条刑訴
規則一八二条二項)。刑事または民事の訴訟において、訴訟の完結を遅延させる目
的のみでする上訴の申立は、明らかに権利の濫用である。しかし、その申立は、権
利濫用の事由により、無効のもの、または不適法として棄却もしくは却下すべきも
のと解することはできない。民事の訴訟において、金銭納付を命ずる制裁を加えら
れることがあるにすぎない(民訴法三八四条ノ二等)。なお、最高裁判所判例を調
査するに、右の大法廷判決は、弁護人選任届につき、前記見解に賛意を表していな
いようにみえる。また昭和二九年一二月二七日第一小法廷決定(集八巻一三号二四
三五頁)は、被告人の表示として、「Dこと氏名不詳者」と記載している。この被
告人は、戸塚警察署巡査に対する公務執行妨害傷害の嫌疑にて現行犯として同巡査
によつて逮捕され、同警察署監房九号室に抑留されたが、終始氏名住所等を黙秘し
続けた。Dという表示は、仮名であり、結局においては、戸塚警察署監房九号室と
いう監房番号にほかならないのである。そして右の被告人は、上告申立書を提出
し、上告審において、一〇名の弁護人を選任する弁護人選任届を提出し、被告人本
人の上告趣意書をも提出したが、上告審においても引き続き氏名住所等を黙秘し、
右の各書類には、作成名義人たる被告人の表示として、Dと記載したにとどまり、
被告人の氏名を記載しなかつた。しかし、同法廷は、右の各書類をいずれも適法有
効とみた。上記の諸点から考察して、当裁判所は前記見解を採用しない。
 そこで本件における上記認定の各書類を検討するに、まず名古屋拘置所において
は、一八三番という番号を附されている在監者は、その在監者全員を通じて、一定
の日時においては一名だけであり、同時に二名以上はいない。この事実は、当裁判
所に職務上顕著である。そして第三表弁護人選任届(原審の分)、第四表弁護人選
任に関する上申書、第六表弁護人選任届(原審の分)、第一一表弁護人選任届(当
審の分)、第一二表弁護人選任届(当審の分)および第一三表控訴趣意書の各書類
には、作成名義人たる被告人の表示として、「名古屋拘置所在監者一八三番」とい
う趣旨の記載等があり、記録と対照して本件の被告人であることを特定するに足り
る事項が記載してあるとみることができないわけではなく、かつ指印がしてある。
したがつて右の各書類は、いずれも適法有効というべきである(起訴状を基本とし
て訴訟上のすべての手続を進行すること前記のとおりであるから、右のような各書
類においても、できるだけ起訴状の被告人の表示と合致する記載をしかつ拘置所に
おける番号等の記載をもして、被告人を特定する方法を講ずべきである、例えば、
本件においては、第一二表のように記載するのが妥当であろう。なお、第一一表お
よび第一三表は、それぞれ被告事件名欄における被告人の表示と作成名義人欄の記
載とを総合することによつて、結局、作成名義人たる被告人の表示として、被告人
を特定するに足りる事項の記載があるとみることができる)。しかしながら、被告
人の表示として、単に「氏名不詳」または「氏名不詳者」とだけ記載したものは、
被告人を特定するに足りる事項を記載したものとみることができない(氏名不詳者
に対する軽犯罪法違反被告事件が二件以上係属している場合等を考慮に入れれば、
なお更そのとおりであることが明らかである)。故に第九表控訴申立書および第一
〇表送達受取人届は、いずれも不適法というべきである。
 右のとおりであるところ、原裁判所は、第三表弁護人選任届および第六表弁護人
選任届をいずれも不適法として結局において却下し、大矢弁護士一名を国選弁護人
に選任して手続を進行したのである。故に原判決には、右の点において、刑訴規則
第一八条第六〇条の解釈適用を誤つた違法があり、結局、訴訟手続法令の違反があ
ることとなる。
 しかしながら、本件は元来弁護人がなくても開廷することのできる事件であるけ
れども、原裁判所は特に大矢弁護士を国選弁護人に選任して手続を進行した。しか
も、被告人の提出した第四表弁護人選任に関する上申書にもとづき、被告人の希望
する桜井、大矢および森の三弁護士のうちの大矢弁護士を国選弁護人に選任したの
である。そして大矢弁護士は、昭和三二年四月に名古屋弁護士会に入会した同会所
属弁護士であり、学識経験が豊富であつて法廷技術に熟達しており、それらの点に
おいて、桜井、森および花田三弁護士に決して劣らない弁護士である。このこと
は、当裁判所に職務上顕著な事実である。しかも、記録によれば、大矢弁護士は、
原審において、被告人の利益のために、諸種の多くの主張をし立証をし十二分に防
禦方法を講じ弁論をしている。仮に共同弁護人として他の右三名の弁護士が関与し
たとしても、右の程度以上に防禦方法を講じ弁論をするには至らなかつたと思われ
る。なお、当裁判所においては、被告人の選任した七名もの多数の弁護人が関与し
て事件を進行し、事実の取調をし、左記のとおり、いわゆる破棄自判をするが、本
件被告事件の実体関係については、原判決は、当裁判所の見解と趣旨を同じくする
ものである。叙上の諸点から考察して、原判決の前記訴訟手続法令違反が判決に影
響を及ぼすことの明らかな場合にあたるとは、にわかに断定することができない。
 上記のとおりであるから、右の控訴趣意は、結局において理由なきに帰する。
 控訴趣意は、次に、
 「原判決引用の名古屋市交通局長E作成名義の愛知県中警察署警視Fに宛てた捜
査関係事項照会についての回答書は、原審において検察官が提出したものである
が、刑訴法第三二三条所定の書面にあたらない。そして原審において弁護人は、右
の回答書につき、その旨を申し述べて、証拠とすることに異議を申し立てた。しか
るに原審は、右回答書を同条所定の書面と解して取調をしたうえ、これを証拠に供
して事実認定をした。すなわち証拠能力のない書類を証拠とした。原判決には、右
の点において、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続法令の違反がある」
 と主張する。
 案ずるに、所論の名古屋市交通局長作成名義の回答書は、「名古屋市交通局は、
何人に対しても、同局の管理する同市a区b町c丁目d番地先所在のG線H号等の
電柱にビラ貼附の承諾を与えたことがない」旨を記載した昭和三九年一月二七日附
書面である。そして右回答書その他の原判決引用の各証拠と原判示事実等とを対照
して考察すると、原判決は、右回答書その他の原判決引用の各証拠を総合して、
「被告人は、名古屋市交通局長の管理する同市a区b町c丁目d番地先所在G線H
号電柱に、同局長の承諾を得ないで、ビラ五枚を貼附して、みだりに他人の工作物
にはり札をした」という趣旨の軽犯罪法第一条第三三号に該当する事実を認定した
ことが明らかである。すなわち、原判決は、右回答書をもつて、被告人が電柱にビ
ラ五枚を貼附するにつき当該電柱の管理者たる名古屋市交通局長の承諾を得なかつ
た事実の証拠としたのである。そしてこの場合においては、右回答書は、窃盗事件
における盗難被害届等と同様な被害者の被害届と同視すべきものである。そもそも
刑訴法第三二三条第三号所定の書面は、同条第一号第二号所定の書面に準ずる書面
をさすと解すべきであるところ、右のような被害者の被害届と同視すべき右回答書
は、同条第一号第二号所定の書面にあたらないことは、もちろん、その書面に準ず
る書面にもあたらないといわなければない。したがつて右回答書は、公文書であつ
て特に信用すべき状況のもとに作成されたと認むべき書面ではあるけれども、なお
同法第三二三条所定の書面に該当せず、同浅第三二一条第一項第三号所定の供述書
に該当すると解するのが相当である。しかるところ右回答書については、記録を精
査しても、同法第三二一条第一項第三号所定の「供述者が……公判準備又は公判期
日において供述することができず」という事情の存在することを肯認することがで
きない。そして記録によれば、原審において、弁護人は、右回答書につき所論のと
おり異議の申立をし、被告人も弁護人も、これを証拠とすることに同意しなかつた
にもかかわらず、原審は、右回答書の取調をして、これを原判決における事実認定
資料に供したことが明らかである。これを要するに右回答書は証拠能力を有しない
にもかかわらず、原審は、これを原判決における事実認定資料に供したのであるか
ら、原判決には、この点において、訴訟手続法令の違反がある。そして右回答書以
外の原判決引用の各証拠だけによつては、被告人が電柱にビラを貼附するにつき名
古屋市交通局長の承諾を得なかつた事実を確認することができない。もつとも、屋
外広告物法にもとづいて制定公布された名古屋市屋外広告物条例は、その第六条第
三項において、電柱、街路燈柱およびこれらに類するものにはり紙、はり札等を表
示してはならない旨を規定し、第一六条第一項において、第六条の規定に違反した
者を五万円以下の罰金に処する旨を規定している。その各条項その他の右条例の諸
規定によれば、名古屋市交通局長は、その管理する電柱に他人がはり札をすること
を承諾する権限を有しないことが明らかである。したがつ被告人の本件はり札行為
について同局長は承諾を与えていないと推定することができる。しかし、右の屋外
広告物関係法令は、社会公共の利益保護を目的としているに反し、軽犯罪法第一条
第三三号は、個人の財産権保護を目的としている。したがつ被告人の本件はり札行
為について仮に右局長が事前に承諾を与えていたとすれば、管理者の承諾があるの
であるから、右のはり札行為をもつて、名古屋市屋外広告物条例第一六条第一項第
六条第三項の罪を構成するとみることができることは格別、軽犯罪法第一条第三三
号の罪を構成するとみることはできない(この理は、例えば電力会社の電柱にはり
札をした場合を想定すれば、一層明確となるであろう)。管理者の承諾があれば、
はり札行為をもつて他人の財産権を侵害したとみることはできず、したがつて正当
事由のある場合にあたるといわなければならない。右のとおりであるから、本件に
おいて、判決をもつて軽犯罪法第一条第三三号に該当する事実を認定するために
は、名古屋市交通局長の承諾のなかつたことを明確にする適法な証拠を判決に掲記
することを要するというべきである。結局において前記の訴訟手続法令の違反は、
判決に影響を及ぼすことの明らかな場合にあたるといい得るであろう。右の控訴趣
意は、理由がある。
 右のとおりであつて、本件控訴は、前記の点において理由があるから、刑訴法第
三九七条第一項により、原判決を破棄する。そして同法第四〇〇条但書に従い、被
告事件について次のとおり判決をする。
 罪となるべき事実
 被告人は、他の一名の者(氏名等不詳)と共謀のうえ、昭和三九年一月二六日午
前六時七分頃名古屋市の所有にかかり同市交通局長の管理する同市a区b町c丁目
d番地先所在G線H号電柱(同所のI株式会社J営業所前路上所在。市内電車用の
コンクリート製電柱。それには、同日の以前から引き続きペンキで「禁貼紙」と掲
示してある)に、同市長または同市交通局長の承諾を得ず、正当事由がないのに、
「春斗で大巾賃上げをかちとり、災害事故を絶滅しよう、K党」などと印刷したビ
ラ五枚(それぞれ長さ五三センチ余、巾一八センチ余の紙)をいずれも糊を使用し
て裏面が全面的に密着する方法にて貼りつけ、もつてみだりに他人の工作物にはり
札をしたものである。
 証拠の標目
 一、 原審公判調書中の証人L、同Mおよび同Nの各供述記載
 一、 当審における証人Lおよび同Oの公判廷における各供述
 一、 押収にかかる証第一号バケツ一個、証第二号はけ一個、証第三号ビラ一八
枚、証第四号ビラ一六枚、証第五号ビラ一七枚および証第六号ビラ一九枚
 法令の適用
 被告人の判示所為は、刑法第六〇条軽犯罪法第一条第三三号罰金等臨時措置法第
二条第二項に該当するので、所定刑中拘留刑を選択し、その刑期範囲内において被
告人を拘留一〇日に処する。なお、原審未決勾留につき刑法第二一条を、原審およ
び当審訴訟費用につき刑訴法第一八一条第一項本文を適用する。
 本件についての当裁判所の見解は、上記説示のとおりである。したがつて記説示
に反する趣旨の控訴趣意その他の主張は、すべて理由なしとして排斥する。すなわ
ち、それらの所論についての結論を略記すると次のとおりである。
 一、 軽犯罪法第一条第三三号の規定は、憲法第二一条第一項に違反せず、憲法
第三一条にも違反しない。
 一、 本件起訴をもつて、刑訴法第一条または刑訴規則第一条第二項に違反する
とみることはできず、また軽犯罪法第四条に違反するとみることもできない。
 一、 本件は、刑訴法第三三九条第一項第二号または同法第三三八条第四号にも
とづき公訴を棄却すべき場合にあたらない。
 一、 原審公判調書記載の証人Lおよび同Mの各供述中判示事実に副う部分は、
決して所論のような偽証ではなく、いずれも十分に信用してよいものであると認め
る。
 一、 本件のように他人の工作物にその所有者または管理者の承諾を得ないでは
り札をする行為は、それ自体他人の財産権の侵害行為であつて、違法行為にほかな
らない。右のはり札をする行為は、客観的にみて、他人の工作物の美観を害する汚
損行為というべきである。上記の屋外広告物関係法令もまた電柱にはり札をする行
為自体をもつて美観風致を害する行為とみている。そして本件において刑法第三五
条等所定の正当事由またはこれに準ずべき正当事由があつたとみることはできな
い。したがつて本件は、軽犯罪法第一条第三三号にいわゆる「みだりに……はり札
をし」た場合にあたる。
 一、 この判決をもつて被告人を処罰しても、軽犯罪法第四条に違反しないと確
信する。
 叙上の説示に反する趣旨の所論は、すべて理由がなく、採用しない。
 以上のとおりであるから、主文のとおり判決をする。
 (裁判長裁判官 影山正雄 裁判官 吉田彰 裁判官 村上悦雄)
別 紙
<記載内容は末尾1添付>

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