弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


戻る

主文
1 控訴人国の控訴に基づき,
(1) 原判決主文第3項を取り消す。
(2) 同取消しに係る一審原告の控訴人国に対する請求を棄却する。
2 一審原告の控訴を棄却する。
3 一審原告の控訴費用は一審原告の負担とし,その余の訴訟費用は,第1,2審
を通じて,一審原告,控訴人国及び被控訴人長崎市間に生じた各費用の4分の3を
一審原告の負担とし,4分の1を控訴人国及び被控訴人長崎市の負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
 1 控訴人国
(1) 原判決主文第3項を取り消す。
(2) 同取消しに係る一審原告の控訴人国に対する請求を棄却する。
2 一審原告
(1) 原判決主文第5項中,被控訴人長崎市関係部分を取り消す。
(2) 被控訴人長崎市は,一審原告に対し,33万3920円及びこれに対する平成
7年8月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 被控訴人長崎市は,一審原告に対し,60万円を支払え。
第2 事案の概要等
1 事案の概要
(1) 一審原告は,
ア(ア) 長崎市に投下された原子爆弾によって被爆し,原子爆弾被爆者の医療等に関
する法律(昭和32年法律第41号。以下「原爆医療法」という。)に基づいて,
長崎市長から被爆者健康手帳の交付を受け,
 (イ) 原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(昭和43年法律第53号。
以下「原爆特別措置法」という。ただし,平成7年7月1日以降は上記各法律を一
本化した原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年法律第117号。以
下「被爆者援護法」という。))に基づいて,長崎市長から健康管理手当の支給を
受けていたが,
イ 中華人民共和国(以下「中国」という。)の大学における日本語講師として,
日本から出国して中国国内に居住していた間のうち,平成6年10月分から平成7
年7月分までの健康管理手当合計33万3920円(以下「本件健康管理手当」と
いう。)の支給を長崎市長から停止されたこと等に関連して,
 (ア) 控訴人国及び被控訴人長崎市各自に対し,本件健康管理手当及びこれに対す
る平成7年8月1日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金(以
下「本件健康管理手当等」という。)の支払
(イ) 被控訴人長崎市に対し,一審原告が,平成6年8月20日,被控訴人長崎市の
市民課に転出届を提出したところ,同市職員が,故なくこれを同被控訴人の援護課
に秘密漏洩したことにより,本件健康管理手当の支給を長崎市長から停止されたな
どと主張して,国家賠償法(以下「国賠法」という。)1条1項に基づき,慰謝料
50万円及び弁護士費用10万円,以上合計60万円(以下「本件損害賠償」とい
う。)の支払
等を求めた。
(2) 原審は,
ア (1)イ(ア)の本件健康管理手当等請求関係で,
(ア) 控訴人国に対して,本件健康管理手当(33万3920円)及びこれに対する
平成7年8月1日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払
を命じ(原判決主文第3項),
(イ) 被控訴人長崎市に対する請求を棄却し(原判決主文第5項),
イ (1)イ(イ)の本件損害賠償請求関係で,被控訴人長崎市に対する請求を棄却する
(原判決主文第5項)
等した。
2 本件控訴の要旨
  そこで,
(1) 控訴人国は,1(2)ア(ア)の部分を不服として,第1の1のとおり,
ア 同部分を取り消した上,
イ 同取消しに係る一審原告の控訴人国に対する本件健康管理手当等請求を棄却す
るよう求めて,
(2) 一審原告は,1(2)ア(イ)及び同イの各部分を不服として,第1の2のとおり,
ア 同各部分(原判決主文第5項中,被控訴人長崎市関係部分)を取り消した上,
イ 被控訴人長崎市は,一審原告に対し,
(ア) 本件健康管理手当等(33万3920円及びこれに対する平成7年8月1日か
ら支払済みまで年5分の割合による金員),
(イ) 及び本件損害賠償(60万円)を
支払うよう求めて,
控訴しているものである。
3 基礎となる事実
  次のとおり補正するほか,原判決5ページ10行目から9ページ7行目までの
とおりであるから,これを引用する。
(1) 6ページ12行目の「402号通知」を「402号通達」に改める。
(2) 7ページ分
ア 2行目冒頭の「分」を削る。
イ 同行目の「支給については」の次に「,前条3項の規定を適用する場合を除
き,なお」を加える。
ウ 17行目の「平成6年8月から」の次に「,1年契約で(ただし,3回更新し
た結果)」を加える。
エ 18行目の「中国国内に」の次に「主に」を加える。
(3) 8ページ分
ア 10行目の「提出したが,」の次に次を加える。
 「一審原告が,現在所持している被爆者健康手帳(甲1)には,『1 長崎市外
に住所を移したときは,この手帳を新住所の市町村役場などに提示して住所変更の
手続を必ず行ってください。2 長崎市内で住所がかわったり,氏名がかわったと
きは,市民課又は支所で住民票の手続をする際にこの手帳を提示して新住所,新氏
名に訂正してもらってください。』との記載があるから,平成6年8月20日当時
も,同趣旨の記載があったと推認されること,これに,甲18(一審原告の陳述録
取書),原審における一審原告の供述及び一審原告の2002年12月3日付け準
備書面(2)の第2の3(5)を合わせ考慮すれば,この転出届の提出は,一審原告が,
中国の大学への赴任は,上記住所変更等の記載事項のいずれにも当たらないことか
ら,同記載上の市民課に相談に赴いたところ,同課職員から指導を受けて提出した
ものと認められるところ(これが,後日,どういう意味をもつかは,一審原告は知
る由もなかった。これが,本件健康管理手当の支給停止に連動する。),」
イ 18行目の「被爆者健康手帳の交付」を「被爆者健康手帳(甲1)の再交付」
に改める。
(4) 9ページ5行目の「で,原告が」から7行目「57万0010円」までを削
る。
第3 当審での争点
 1 狭義の在外被爆者に対する健康管理手当の支給義務者(以下「争点①」とい
う。)
  (1) 控訴人国の主張
ア 控訴人国は,
 (ア) 原爆三法が,「被爆者」たる地位をいったん取得した後に日本国内に居住も
現在もしなくなった「被爆者」(以下「狭義の在外被爆者」という。)をも適用対
象としていること,
 (イ) 本件で問題となっている原爆特別措置法及び被爆者援護法に基づく健康管理
手当の支給が国の機関委任事務であったこと
は,争わない。
イ 狭義の在外被爆者は健康管理手当受給権を失わないところ,この支給も,国の
機関委任事務であった。
ウ したがって,一審原告に対する本件健康管理手当支給義務者は,被控訴人長崎
市であり,控訴人国ではない。その理由は,次のとおりである。
(ア) 国の機関委任事務については,普通地方公共団体の長は「国の機関として」
(平成11年法律第87号による改正前の地方自治法(以下「旧地方自治法」とい
う。)150条,同法律第87号による改正前の国家行政組織法15条2項)事務
を処理するのであるが,そうであるからといって,当然に国がその費用の支給義務
者となるわけではなく,支給義務者が誰であるかは,実定法の定めるところによる
べきである。
(イ) 旧地方自治法232条1項は,機関委任事務に関する「支弁」について定めて
いたが,同項は,普通地方公共団体の長が管理,執行する国の機関委任事務につい
ての所要経費はすべて当該普通地方公共団体がその財政から支出する義務を負うこ
とを規定していた。
 そして,普通地方公共団体が支弁した経費については,「当該地方公共団体が全
額これを負担する」のが原則であり(平成11年法律第87号による改正前の地方
財政法9条本文),同改正前の同法10条ないし10条の4所定の事務について国
がその全部又は一部を「負担する」にすぎなかった。
 このように,機関委任事務については,国の機関として処理する国の事務であっ
ても,その経費は普通地方公共団体において支弁し,国は所定の事務に限り当該普
通地方公共団体との間でその経費の一部又は全部を負担するという立法政策が採ら
れていた。
エ ところで,
(ア) 原爆特別措置法は,都道府県知事が健康管理手当を支給する(5条1項)とし
た上で,健康管理手当の支給に要する費用は当該都道府県が支弁する(10条1
項)と規定していたし,被爆者援護法も,被爆者に対する健康管理手当の支給義務
の実施機関は都道府県知事である(27条1項)とした上で,その費用を都道府県
が支弁する(42条)と規定している(ただし,原爆特別措置法15条,被爆者援
護法49条により,同法中「都道府県知事」又は「都道府県」とあるのは,広島市
及び長崎市については,「市長」又は「市」と読み替える。以下,併せて「都道府
県知事等」,「都道府県等」という。)。
(イ) (ア)の「支弁する」という規定も,旧地方自治法232条1項と同じく,支給
事務の所要経費を都道府県等がその財政から支出する義務を負うという意味であ
る。
(ウ) したがって,「被爆者」に対する健康管理手当の支給義務者は都道府県等であ
る。
オ 一般に,行政機関相互における権限の委任とは,行政機関がその権限の一部を
自己の意思により他の行政機関に移譲することをいう。権限が委任されると,委任
機関はその権限を失い,後は受任機関がその権限を自己の権限として,自己の名と
責任においてこれを行使するにすぎない。このように権限の委任は,権限が移譲さ
れる点において,権限の移譲を伴わない代理・専決又は代決と区別されるものであ
り,民法上の委任ともまったく異なる概念である。
 機関委任事務は,同一の行政組織内の行政機関相互間の権限委任ではないが,以
上の理は,機関委任事務の委任後の法律関係にも同様に妥当する。 したがって,
機関委任事務に関する権限は,受任機関である普通地方公共団体の長に移譲され,
主務大臣には,原則として直接管理・執行する権限はなく,普通地方公共団体の長
に対して指揮監督権限を有するのみである(旧地方自治法150条)。例外的に,
旧地方自治法151条の2が規定するところにより,当該都道府県知事が,主務大
臣の勧告(1項)及び職務執行命令(2項)に従わず,高等裁判所の職務執行命令
判決(3項ないし7項)にも従わない場合に,主務大臣が機関委任事務を直接管
理,執行することができる(8項)にすぎなかった。
カ 狭義の在外被爆者に対する健康管理手当の支給事務も,次の理由から,当該被
爆者の日本国内における最後の居住地又は現在地の都道府県(以下「最後の都道府
県」という。)の都道府県知事等を受任機関とする機関委任事務であったと解され
る。
(ア) 狭義の在外被爆者は,日本国内で都道府県知事等から被爆者健康手帳交付決定
及び健康管理手当支給認定を受けていたのであるから,出国するまでの間は,その
居住地又は現在地の都道府県等に対して健康管理手当受給権を有している状態にあ
り,いったん同受給権を取得した者は,日本国内に居住も現在もしなくなっても同
受給権を失わず,国外において同受給権を有する。
(イ) 最後の都道府県等が狭義の在外被爆者に対して負担していた手当支給義務が同
人の出国により消滅すると解するためには,その手当支給事務を行う権限が同人の
出国によって他の都道府県知事等に移転したと解するほかない。しかしながら,原
爆特別措置法及び被爆者援護法には,狭義の在外被爆者の出国により手当支給事務
を行う権限が,最後の都道府県等の都道府県知事等から他の行政機関に移転すると
の規定はまったく存在しない。そこで,最後の都道府県等の都道府県知事等が引き
続きその支給事務を行う権限を有するものと解するべきであり,最後の都道府県等
(本件については長崎市)が健康管理手当の支給義務を負うことになった。
(ウ) 確かに,平成14年厚生労働省令第74号による改正前の被爆者援護法施行規
則35条1項は「医療特別手当受給権者は,居住地を移したときは,次に掲げる事
項を記載した届書に,住民票の写し・・・を添えて,14日以内に,これを居住地
(都道府県の区域を越えて居住地を移した場合にあっては,新居住地)の都道府県
知事に提出しなければならない」とし,同条2項は「都道府県知事は,都道府県の
区域を越えて居住地を移した者から前項の規定による届出が提出されたときは,そ
の者の従前の居住地の都道府県知事に,文書でその旨を通知しなければならない」
と規定し,同条は健康管理手当にも準用していた(同施行規則54条)。
 しかしながら,これらの規定は,日本国内における移転に関する規定である上,
旧居住地の都道府県等から新居住地の都道府県等に手当支給義務が移転することに
伴う事務手続が円滑に行われるようにするための規定にすぎないから,狭義の在外
被爆者の出国によって,最後の都道府県等が負っていた手当支給義務が消滅する根
拠となるものではない。
キ 以上のとおり,原爆特別措置法及び被爆者援護法上,最後の都道府県等が狭義
の在外被爆者に対して負担していた手当支給義務が,同人の出国により消滅する根
拠はないから,消滅事由のない限り,最後の都道府県等の手当支給義務は同出国後
もそのまま存続するものと解される。
  (2) 一審原告の反論
ア 原爆三法の実体法的解釈として,第一次的かつ究極的責任主体は国であ
る。被爆者の便宜のために,その事務を国の機関たる長崎市長に委任した結果,被
控訴人長崎市が支払義務者となったにすぎない。同被控訴人に健康管理手当支給義
務が課せられるからといって,控訴人国の同義務が免除されるものではない。
   イ 控訴人国が受任機関に権限を委任したとしても,被爆行政において,受
任機関が自己の名と責任において権限を行使する実態はなく,控訴人国は受任機関
の自主性を許さず,控訴人国の指示どおりに実務をしている実態にある。
   ウ 原爆三法の国家補償的趣旨や目的から,地方自治体的特徴はありえず,
健康手当支給行政を行う権限は,なお控訴人国自らの行政機関に留保されているも
ので,一般論としての機関委任事務の法的性格論はなじまない。
 2 本件健康管理手当請求権の時効消滅の当否(以下「争点②」という。)(仮
に,一審原告が,控訴人国又は被控訴人長崎市に対し,本件健康管理手当請求権を
有していたとしても)
  (1) 控訴人国及び被控訴人長崎市の主張
   ア 平成6年10月分から平成7年7月分までの本件健康管理手当請求権
は,
(ア) 控訴人国に対する関係では,会計法30条及び31条1項に規定する「国に対
する権利で,金銭の給付を目的とするもの」であり,
(イ) 被控訴人長崎市に対する関係では,地方自治法236条1,2項に規定する
「普通地方公共団体に対する権利で,金銭の給付を目的とするもの」である。
イ 「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」
(ア) 会計法31条2項及び地方自治法236条3項が準用する民法166条1項に
いう「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは,権利を行使するについて法律上の障害
がなくなったときのことをいい,事実上の障害はこれに含まれないところ,402
号通達に基づく行政の取扱いや大阪地方裁判所平成13年6月1日判決以前の裁判
例が在外被爆者に原爆三法の適用を排除していたことは,権利を行使するについて
の事実上の障害にすぎず,法律上の障害にはなり得ない。
(イ) 一審原告は,本件健康管理手当については,当該支給月の末日経過後,不支給
分の支払を求めて直ちに権利行使することが可能であった。
   ウ(ア) 一審原告が,本件健康管理手当の支払を求める本訴を提起したのは,
平成13年9月11日であった。
(イ) したがって,本件健康管理手当請求権は,本訴提起前の平成12年7月末日の
経過により,「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」から5年を超えて経過しているの
で,会計法30条後段及び(又は)地方自治法236条1項後段により,時効によ
り消滅している。
   エ 会計法31条1項及び地方自治法236条2項は,各同項に規定する,
金銭の給付を目的とするものについての不安定な状態をなるべく速やかに解決し,
大量かつ複雑多様な会計上の決済を早期に完了させる必要性があることを理由とし
て,時効の援用・時効の利益の放棄という個別の事情に係る行為を排斥し,画一的
にこれを処理し規律することを目的として,時効期間の経過により一律に時効消滅
の効果を生ずるとするものであるから,会計法31条後段及び地方自治法236条
1項後段の消滅時効は,それらの文理及び趣旨からみて,時効の援用がなくとも当
然に消滅するものである。
   オ エの趣旨にかんがみれば,会計法31条1項及び(又は)地方自治法2
36条2項の適用される場面において,時効消滅の援用も主張も不要であり,した
がって,時効消滅の援用や主張を観念する余地はないから,権利濫用を観念する余
地がない。すなわち,上記法条が適用される場面においては,請求権が一定期間の
経過により当然に消滅したものと判断すべきであって,その主張も要しないのであ
る。最高裁判所第一小法廷平成元年12月21日判決・民集43巻12号2209
ページが,除斥期間の規定の適用に関して,除斥期間の経過による請求権の消滅の
主張は,実体法上も手続法上も要件ではないといっているのと同趣旨である。
カ 仮に,主張を要すると解する余地があるとしても,国の行政機関が法令の解
釈・運用を統一するため,通達を発し,関係者にその周知を図り,普通地方公共団
体の長が当該通達に示された解釈に従うのは当然のことであり,402号通達で示
された解釈は,相応の論拠を有するものであって,原爆三法の規定に明白に反する
というものではなく,当時の厚生省が違法な解釈であると認識していたわけでもな
いから,控訴人国及び(又は)被控訴人長崎市が時効を主張することは権利の濫用
にはならない。
(2) 一審原告の反論
   ア 行政が,法の明文もなく,解釈によって権利や法的地位を喪失させ,被
爆者の請求権行使の途を閉ざしている場合には,確定判決で行政の解釈・運用が否
定されて始めて権利が確定するのだから,時効は判決確定日から進行する。
   イ 従前の行政行動に照らして,控訴人国又は被控訴人長崎市が,消滅時効
を主張するのは
(ア) 援用権の濫用であり,
(イ) 権利の濫用である。
3 被控訴人長崎市の本件損害賠償義務の有無(以下「争点③」という。)
   一審原告及び被控訴人長崎市の各主張は,原判決13ページ20行目から1
4ページ24行目まで(ただし,同被控訴人関係部分のみ)のとおりであるから,
これを引用する。
第4 争点①(狭義の在外被爆者に対する健康管理手当の支給義務者)についての
判断
 1 はじめに
(1) 控訴人国は,原審における主張(402号通達で示された解釈・運用)を改
め,当審において,次を承認している。
ア 原爆三法は,狭義の在外被爆者をも適用対象としている。
イ 本件で問題となっている原爆特別措置法及び被爆者援護法に基づく健康管理手
当の支給は,国の機関委任事務であった。
ウ 狭義の在外被爆者は,同手当受給権を失わず,国外において同手当受給権を有
する。
(2) そして,控訴人国と被控訴人長崎市の指定代理人が一部重複していること及び
同被控訴人の当審における主張態度からすれば,同被控訴人も,(1)について,同様
の見解に立っているものと解される。
(3) (1)については,次の事情にかんがみ,当裁判所も,同様に解する。
ア 原爆三法の趣旨
イ 不法入国した被爆者に関する事件において,最高裁判所第一小法廷昭和53年
3月30日判決(民集第32巻2号435ページ,以下「A事件」という。)が,
「原爆医療法は,被爆者の健康面に着目して公費により必要な医療の給付をするこ
とを中心とするいわゆる社会保障法としての他の公的医療給付立法と同様の性格を
もつと同時に,原子爆弾の被爆による健康上の障害がかつて例をみない特異かつ深
刻なものであることと並んで,かかる障害が遡れば戦争という国の行為によつても
たらされたものであり,しかも,被爆者の多くが今なお生活上一般の戦争被害者よ
りも不安定な状態に置かれているという事実を見逃すことはできず,このような特
殊の戦争被害について戦争遂行主体であつた国が自らの責任によりその救済をはか
るという一面をも有し,実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあり,かかる原爆
医療法の人道的目的からも,不法入国した被爆者にも,同法の適用が拒否されるこ
とがあってはならない」旨を判示していること,原爆二法を一本化した被爆者援護
法が,その前文で,「たとい一命をとりとめた被爆者にも,生涯いやすことのでき
ない傷跡と後遺症を残し,不安の中での生活をもたらした。・・・国の責任におい
て,原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害
とは異なる特殊の被害であることにかんがみ,高齢化の進行している被爆者に対す
る保健,医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講・・・ずるため,この法律を
制定する」と,その立法趣旨を宣言していること等に照らすと,これらの趣旨は,
健康管理手当を巡る権利関係を考えるに当たっても忘れてならないこと
ウ 平成15年政令第14号被爆者援護法施行令5条1,2項及び同年厚生労働省
令第16号同法施行規則35の3第2項等の改正により,狭義の在外被爆者に対し
ては,当該被爆者の日本国内における最後の居住地又は現在地の都道府県知事等が
実施機関となることを前提とした規定を設け,実定法上も,(1)ウについて根拠付け
がされたと解されること
(4) 以上によれば,一審原告は,仮に平成6年10月から平成7年7月まで(本件
健康管理手当の支給が停止されていた間),狭義の在外被爆者に該当したとしても
(この点については疑問の余地があることについては,後記第5の8(3)ケで述べ
る。),本件健康管理手当(33万3920円)の受給権を有していたものであ
る。
2(1) そして,一審原告が有していた本件健康管理手当受給権の給付義務者は,
ア 控訴人国ではなく,被控訴人長崎市であると解するのが相当であり,その理由
は,控訴人国が,第3の1(1)ウないしキで主張するとおりである。
イ 第3の1(2)の一審原告の反論は採用しない。
(2) したがって,
ア 控訴人国を本件健康管理手当支給義務者と判断して,控訴人国に対し,平成6
年10月分から平成7年7月分までの本件健康管理手当(33万3920円)及び
これに対する平成7年8月1日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の
支払を命じた原判決主文第3項は相当でないから,
イ 控訴人国の控訴に基づいて,
(ア) 同主文第3項を取り消した上,
(イ) 同取消しに係る一審原告の控訴人国に対する請求を棄却する
ことにする。
第5 争点②(本件健康管理手当請求権の時効消滅)についての判断
1(1) 第4の1(4)及び同2(1)アによれば,一審原告は,被控訴人長崎市に対し,
平成6年10月分から平成7年7月分までの本件健康管理手当(33万3920
円)の受給権(請求権)を有するものである。
(2) そこで,被控訴人長崎市に対する関係で,争点②について判断する。
2 一審原告が同被控訴人に対して有する1(1)の請求権,すなわち,本件健康管理
手当請求権は,地方自治法236条1項後段にいう「普通地方公共団体に対する権
利で,金銭の給付を目的とするもの」であることは明らかである。
3 同条は,
(1) 1項後段で,時効に関し他の法律に定めがあるものを除くほか,5年間これを
行わないときは,時効により消滅する旨,
(2) 3項後段で,消滅時効の中断,停止その他の事項(前項に規定する事項を除
く。)に関し,適用すべき法律の規定がないときは,民法の規定を準用する旨
をそれぞれ定めているから,本件健康管理手当請求権(平成6年10月分から平成
7年7月分まで)の消滅時効の起算点については,民法166条が適用されること
になる。
4 「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」(民法166条1項)
(1) 「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは,権利を行使するについて法律上の障害
がなくなったときのことをいい,
ア 原則として,事実上の障害はこれに含まれない(最高裁判所第二小法廷昭和4
9年12月20日判決・民集28巻10号2072ページ参照)のであるが,
イ 事実上の障害であっても,権利を行使することが,現実には期待し難い特段の
事情がある場合には,その権利行使が現実に期待することができるようになった時
以降において消滅時効が進行すると解するのが相当である(同大法廷昭和45年7
月15日判決・民集24巻7号771ページ,同第三小法廷平成8年3月5日判
決・民集50巻3号383ページ,同第一小法廷平成15年12月11日判決・裁
判所時報1354号1ページ)。
(2) 補正後の引用に係る原判決(6ページ9行目から7ページ4行目まで)に認定
したとおり,被控訴人長崎市は,402号通達に基づき,狭義の在外被爆者を含む
在外被爆者一般に対する健康管理手当の支給を排除する解釈・運用をしていたもの
である。
ア 当裁判所も,上記解釈・運用は採用しないものであるが,その理由は,原判決
15ページ20行目から18ページ24行目までのとおりであるから,これを引用
する。
イ 一審原告は,第3の2(2)アのとおり主張する。
(ア) 確かに,一介の市民が,行政庁の解釈に反して裁判まで提起することは大きな
困難を伴うものである。
(イ) しかしながら,憲法は,三権分立を定め,最終的な法解釈は,司法権を司る裁
判所に委ねられている。下級行政庁が,上級庁の通達に従った法解釈・運用をしな
ければならないとしても,同通達をもって最終的な法解釈ということはできないこ
とは明らかであるから,それは,やはり事実上の障害にすぎず,法律上の障害とは
いえないと解するのが相当である。
(3) 次に,権利を行使することが,現実には期待し難い特段の事情があったか否か
につき検討するに,補正後の引用に係る原判決(7ページ17行目から8ページ8
行目まで)認定の事実,甲11,14及び一審原告の供述(53~58項)によれ
ば,
ア 一審原告が,平成6年10月分以降の健康管理手当が支給されなくなったこと
(振込入金がされなくなったこと(甲14によれば,平成13年8月ころは,毎月
24日に当該月分の同手当を銀行振込の方法で支給されていた。))を知ったの
は,平成7年7月10日,2回目の一時帰国をした後,配偶者から指摘されて預金
通帳を見てからである。
イ これはおかしいと考え,改めて同月17日,長崎市長に被爆者健康手帳の交付
申請をし,同手帳の再交付を受けて翌8月分から健康管理手当の支給が再開され
た。
ウ 上記に遡る同年1月15日の第1回目の帰国,同年2月23日の第2回目の出
国についても,一審原告は,長崎市への転入届,長崎市からの転出届を提出したが
(甲11),そのときは,アの不支給については気付かなかったようである。
そうとすれば,一審原告がその後,5回も出国,帰国を繰り返して,中国の大学へ
の赴任を終え,平成10年7月20日,最終の帰国に至ったとしても,遅くとも,
平成7年8月1日(後記5(2)イ参照)の時点において,被控訴人長崎市に対し,本
件健康管理手当の請求をすることが現実には期待し難かったともいい難いのである
から,やはり,同時点において,(1)イにいう特段の事情があったとはいい難い。
5 ところで,
(1) 原爆特別措置法5条4,5項及び被爆者援護法27条4,5項によれば,健康
管理手当の支給期限は,各手当の当該月の末日であると解されるから,本件健康管
理手当について,一審原告は,各手当の当該月の末日経過後は,不支給となった同
手当の支払を求めて権利行使することが可能であった。
(2) すなわち,本件健康管理手当について支給を停止された
ア 最初の平成6年10月分は同年11月1日から,
イ 最後の平成7年7月分は同年8月1日から
いずれも健康管理手当請求権を行使することが可能であった。
(3) 本件訴訟の提起は,平成13年9月11日である(本件記録上明らかであ
る。)。
(4) とすれば,一審原告に生じた本件健康管理手当請求権については,
ア 同手当の支払を現実に請求した,(3)の本件訴訟の提起時点では,既に,遅くと
も権利行使が可能であったと解される平成7年8月1日(4(3)参照)から,5年を
超えて経過しているから,
   イ 地方自治法236条2項に基づき,被控訴人長崎市の消滅時効の援用を
要せずして,時効により消滅したことになる
といえそうである。
6 しかしながら,一審原告は,本件健康管理手当請求権が時効消滅したと主張す
ることは,援用権の濫用又は権利濫用になると主張するので,この点について,検
討を進める。
(1) 地方自治法236条2項の趣旨
  同条項が,金銭の給付を目的とする普通地方公共団体の権利(以下,便宜「公
債権」という。)及び,普通地方公共団体に対する権利で,金銭の給付を目的とす
るもの(以下,便宜「公債務」という。)の不安定な状態をなるべく速やかに解決
し,大量かつ複雑多様な会計上の決済を早期に完了させる必要があることから,時
効の援用や時効利益の放棄という個別の事情に係る行為を排斥し,画一的にこれを
処理し規律することを目的として,民法上の一般債権の消滅時効期間が10年(民
法167条1項)であるのに比して,商法上の一般債権並みに5年(商法522
条)という期間の経過により,一律に時効消滅の効果を生じさせるものであること
は,被控訴人長崎市の主張するとおりである。
(2) 消滅時効の援用権の濫用について
ア 地方自治法236条2項の文言及び(1)の趣旨にかんがみれば,被控訴人長崎市
は,同項の適用される場面において,消滅時効を援用しているわけではない(この
「援用」とは,実体法上要求される「援用」を意味する。後記7(1)ア参照)ので,
援用権の濫用を観念する余地はない。結論において,同被控訴人の主張するとおり
である。
イ よって,同被控訴人が消滅時効を援用するのは援用権の濫用に当たるとの一審
原告の主張は採用できない。
 ウ 次に,同被控訴人が消滅時効を主張することが権利の濫用に当たるか否かに
ついて検討するが,問題をはらむので,項を改めて論じる。
7 消滅時効の主張の権利濫用(問題の所在)
(1)ア 実体法上,消滅時効の援用が不要ということ(地方自治法236条2項)
と,
イ 手続法上,すなわち民事訴訟手続において,弁論主義の建前上(例えば,民事
訴訟法159条,179条等),消滅時効の主張(これをも「援用」という言葉を
使用するので,アとの関係で誤解が生じやすい。)を要するということは,
別個の問題であると解される。
(2) というのは,もし,地方自治法236条2項の「時効の援用を要せず」という
ことを,民事訴訟手続における弁論主義の建前を廃して,消滅時効の主張さえ不要
ということを意味すると仮定するのであれば,
ア(ア) 実体法である民法145条は言わずもがなの規定であり,
 (イ) 実体法において,手続法上の大原則をことさらに規定する必要も実益もない
ということにつながるが,そうであれば,無駄を省いて規定している民法の体系に
そぐわないと解されるし,
イ そもそも,民法145条が消滅時効の援用を必要としている実体法上の理由に
も,手続法(弁論主義)上,消滅時効の主張を要する理由にも反する
と解されるからである。
(3) 被控訴人長崎市は,最高裁判所第一小法廷平成元年12月21日判決・民集4
3巻12号2209ページを引用し,地方自治法236条2項の「時効の援用を
要」しない趣旨からして,公債務に係る請求権は,一定期間の経過により時効によ
って当然に消滅するものであって,その旨の主張は不要であるから,実体法上も手
続法上も「援用」という行為は要件ではないと主張する。
  しかし,同判決は,除斥期間についてのものであるところ,本件は,時効につ
いてのものであり,事例を異にし,適切ではない。
 こと消滅時効に関しては,
ア 実体法上は,
(ア) 原則は「援用」を要し(民法145条),
(イ) 例外的に「援用」を要しない場合もある(地方自治法236条2項のように,
実体法で明示している場合がこれに当たる。)が,
イ 手続法上は,弁論主義の建前から,実体法上の請求権消滅の原因事実としての
消滅時効を,裁判所の審理の俎上にのせるべく主張を要するのを必要不可欠として
いる
と解するのが,実体法と手続法の統一的解釈に沿う所以である。その理由を,次
に,それぞれ項を改めて補足説明する。
(4) 消滅時効の援用を必要とする実体法上の理由
ア 実体法である民法上,消滅時効は,実体法上いったん成立し,存在する権利
を,実体法上消滅させる構造(民法167条以下)になっている。
イ 時効によって権利が消滅するということの意味するところは,権利消滅という
効果が,法が定めた一定の時効期間の経過とともに確定的に生ずるものではなく,
時効が「援用」されたときに初めて確定的に生ずるということである(最高裁判所
第二小法廷昭和61年3月17日判決・民集40巻2号420ページ参照)。
ウ 民法145条が,時効は当事者の援用がなければ,裁判所は時効によって裁判
をしてはいけないとしているのは,実体法上,「援用」という援用権者の行為(意
思表示)が必要であることを意味する。その背景にある実質的理由は,次のとおり
解される。
(ア) 一方で,消滅時効による利益を甘受するのを潔しとしない援用権者もいるとこ
ろ,かかる人には,消滅時効を援用する権利を行使しない自由を与えるのが,私的
自治の観点(利益を押しつけられない自由,自己決定権を尊重する。)からも必要
である。相手方の権利といえども,義務者の意思と無関係に,いったん発生し,存
在する権利を当然に消滅させるというのは,義務者にとっても,自由意思を有する
人(民法はこれを当然の前提としている。)としてはありがた迷惑なのである。
(イ) 他方,いったん発生し,存在する権利を,消滅時効によって消滅させたいと願
う援用権者もおり,かかる人には,消滅時効を援用する権利を行使する権能を付与
しているが,それを実体法上「援用」権として,規定しているのが民法145条で
ある。
(ウ) すなわち,民法(実体法)は,消滅時効を援用して,相手方の権利の消滅をさ
せる方法と,これを援用しないで,他の方法で戦う方法,あるいは戦わない方法の
選択を,援用権者の自由に委ねるのを原則としているのである。
エ したがって,実体法上,消滅時効を援用するのは,裁判上でも裁判外でも構わ
ないことになる。
(5) 消滅時効の援用(主張)を必要とする手続法上の理由
ア さて,手続法は,実体法上の権利の有無,存在(発生,障害,変更,消滅)に
つき争いがある場合に,その当否を,裁判において最終的に解決する手続,方法
(ルール)を定めるものである。
イ 当事者は,民事訴訟手続で,争いある実体法上の権利の発生,障害,変更,消
滅に係る主要事実(具体的事実)を主張して証明すべき対象事実を裁判所に提供し
て(当事者が攻撃防御を尽くすとは,このことを意味する。),裁判所の法的当て
はめ,判断を求めることになる。
ウ これを消滅時効についてみると,
(ア) 援用権者が,消滅時効を援用(主張)するとは,実体法上いったん発生し,存
在する権利を,実体法上消滅させる要件事実として,
a 消滅時効が完成した事実と,
b それを援用権者が「援用」した事実(これによって初めて,権利消滅という効
果が確定的に生ずることは(4)イのとおりである。)を,
(イ) 訴訟手続において,具体的に主張し,審理の対象として,裁判の俎上にのせる
訴訟行為が,手続法上の「援用」に他ならない。
(ウ) (イ)の訴訟行為があった上,裁判所が(ア)a・bの主張事実を認めて初めて,い
ったん成立し,存在する権利が,裁判手続において,確定的に消滅すると判断され
るのである。
エ ウ(ア)bの「援用」を要するのは,(4)ウ(ウ)で述べたとおり,実体法上は,援用
する,しないが援用権者の自由な選択に委ねられているからに他ならない。
オ ウ(イ)の「援用」は,手続法上,審理の対象として,当事者が裁判の俎上にのせ
る訴訟行為のことであるから,それは,裁判上でされることを論理的前提としてい
る。
カ 援用権者たる当事者が民事訴訟手続で消滅時効を援用(主張)する場合は,
(ア) 実体法上必要とされる援用権者の意思表示としてのウ(ア)bの「援用」と,
(イ) 手続法上必要とされる当事者が訴訟行為としてするウ(イ)の「援用」とが,
観念的に競合しているにすぎない。
(6) ところで,
ア 地方自治法236条2項が,公債務について,消滅時効の援用を要しないとい
っているのは,
(ア) 消滅時効による相手方の権利消滅の要件事実として,(5)ウ(ア)bの実体法(民
法)上,原則的に要求されている「援用」という行為(意思表示)を,
(イ) 地方自治法236条2項が,例外的に不要としていることを意味するにすぎな
い。
イ 援用という意思表示を不要とすることによって,大量の公債務についても,相
手方の権利を行政手続上スムーズに消滅させることが可能になるから,その意義は
大きい。
ウ ア,イ及び(5)の趣旨にかんがみれば,公債務の存在が裁判上争われる事態にな
ったときは,普通地方公共団体が,消滅時効による相手方の権利消滅につき,裁判
所の法的判断を求めるために,訴訟行為として,消滅時効によって相手方の権利が
消滅した旨を具体的事実に基づいて主張((5)ウ(イ)の援用)することは,民事訴訟
手続の本質から必要不可欠なのである。というのは,次のとおりである。
(ア) 当事者の自由な処分を許す権利関係について,いかなる法的主張を尽くして,
権利の発生,障害,変更,消滅についての自己の法的正当性を認めてもらうかは,
当事者の自由であるところ,
(イ) 自己の法的正当性を訴訟手続上主張することによって,裁判所の判断対象とし
て俎上にのせることになり,それがあって初めて,裁判所は,自らの権能として,
法規の当てはめ,法的判断が可能となるからであり,
(ウ) 裁判所の判断を求めるための,かような素材提供に相当する(5)ウ(イ)の訴訟行
為としての援用(主張)までも不要といっているのではないことが理解できよう。
(7) そこで,次に,被控訴人長崎市が,いったん発生し,存在していた本件健康管
理手当請求権が,時効により消滅したと主張(訴訟手続上の主張)することが権利
の濫用に当たるかどうかの検討に進むが,重大な問題を内包するので,これも,項
を改めて論じることにする。
8 権利濫用の有無について
(1) 6(1)のとおり,地方自治法236条2項は,公債権・債務の不安定な状態を
なるべく速やかに解決し,大量かつ複雑多様な会計上の決済を早期に完了させる必
要があることから,時効の援用や時効利益の放棄という個別の事情に係る行為を排
斥し,画一的にこれを処理し規律することを目的として,時効期間の経過により一
律に時効消滅の効果を生じさせる規定である。すなわち,同項は,公債務について
は,原則的に必要な実体法上の「援用」を,例外的に不要といっているのである。
(2) 7(5)・(6)で述べたとおり,手続法は,実体法上の権利の有無,存在(発生,
障害,変更,消滅)につき争いがある場合に,その当否を,最終的に裁判において
解決する手続,方法(ルール)を定めるものである。訴訟手続上,弁論主義の建前
からして,訴訟行為としての「援用」が必要であるとしても,その手続上の「援
用」を許さない(一審原告の主張はこのように解される。)というためには,
ア 実体法上の「援用」を許さないという事情だけで,
イ あるいはその事情に加えて,
ウ あるいはまたそれとは無関係に,
訴訟手続上の信義則にもとると評価できる特段の事情がなければならないと解され
る。
 というのは,手続法の性格上,実体法上定められた,権利の発生,障害,変更,
消滅規定を,手続法が作用する場面で実質上没却させる事態を来すことを認めるこ
とは,明確な規定がない以上,原則的には許されないからである。
(3) そこで,検討するに,前記認定の事実及び摘示した証拠によれば,次のとおり
認定判断される。
ア 一審原告は,平成6年8月から1年間(ただし,更新可)の予定で,中国の大
学へ日本語講師として赴任するために長崎市を留守にすることが,被爆者健康手帳
に記載してある,長崎市外への住所変更の際の注意事項のいずれにも当たらないこ
とから,同手帳に記載のある市民課に相談に赴いたところ,同課職員から指導を受
けて,中国への転出届をしたものであるが,これが,本件健康管理手当の支給停止
に連動することは知る由もなかった。
イ 被控訴人長崎市で健康管理手当を担当する援護課は,402号通達に基づき,
在外被爆者には原爆三法の適用を排除する解釈・運用をしていたところ,アの転出
届を知り,同運用に従い,平成6年10月分以降,一審原告に対する健康管理手当
の支払を停止した。一審原告が,同支払停止の事実を認知したのは,中国から2回
目に一時帰国した平成7年7月10日の後であった。
ウ 当裁判所が,同被控訴人のイの解釈・運用を採用しないことは前記した。
エ 一審原告は,本件健康管理手当の支払停止を不審には思ったものの,直ちに,
再度の被爆者健康手帳の交付申請をし,同交付を受けて平成7年8月分から健康管
理手当の支給が再開されたのであるから,当座の不審・不満は解消された。
オ 一審原告は,エのとおり健康管理手当支給が再開されたのであるから,イの解
釈・運用を間違いであるとして,未払分の本件健康管理手当の支払を求めて訴訟を
提起することができたと解することもできる反面,一介の市民が,通達という行政
庁の解釈に反して裁判を提起することは大きな困難を伴い,事実上難しかったであ
ろうとも解される。
 というのは,前記したとおり,通達をもって最終的な法解釈ということはできな
いから,訴訟提起をしなかったことは法律上の障害とはいえないし,訴訟提起をす
ること(行政庁が通達に従った行政をしている以上,これを不満とする当事者が請
求するには,裁判する以外にない。)が現実に期待し難かったとまでもいえないの
ではあるが,なお,一審原告から,同被控訴人に対し,本件健康管理手当の請求を
裁判ですることは,現実には非常に困難を伴うものであろうことは,容易に推測で
きるからである。
カ 一審原告の供述(58項)及び当裁判所に顕著な事実によれば,一審原告は,
(ア) 大阪地方裁判所が,同庁平成10年(行ウ)第60号被爆者援護法上の被爆者
たる地位確認等請求事件について,平成13年6月1日言い渡した判決において,
在韓被爆者(広島市で被爆し,韓国籍を有している。来日して大阪府知事から被爆
者健康手帳の交付と健康管理手当の支給認定を受け,その後出国した。)が原告と
なって起こした健康管理手当の支給等を求める裁判で,同手当の支払請求について
勝訴したことを報道で知り,
(イ) また,長崎地方裁判所においても,同じく,在韓被爆者(長崎市で被爆し,韓
国籍を有している。来日して長崎市長から被爆者健康手帳の交付と健康管理手当の
支給認定を受け,その後出国した。)が原告となって起こしている健康管理手当の
支給等を求める裁判(長崎地方裁判所平成11年(行ウ)第5号在外(韓)被爆者
の健康管理手当支給停止処分取消請求事件)の手助けになればとの思いで,
(ウ) 402号通達に基づく被爆者援護法上の行政庁の運用を正すべく,
本件訴訟を平成13年9月11日提起した。
キ 被控訴人長崎市は,当審において,一審での主張を改め,「被爆者」たる地位
をいったん取得し,健康管理手当受給権を取得した後に日本国内に居住も現在もし
なくなった「被爆者」である,狭義の在外被爆者が,同手当受給権を失わず,国外
において同手当受給権を有することを事実上承認するに至った。
ク 健康管理手当の支給が再開された後も,引用に係る原判決(7ページ25行目
から8ページ8行目まで)のとおり,中国の大学の日本語講師として,中国への出
国,日本への帰国を5回繰り返したが,その間,健康管理手当の支給が閉ざされる
ことはなかった。
ケ 仮に,402号通達に従ったとしても,「海外出張者の住所は,出張の期間が
1年以上にわたる場合を除き,原則として家族の居住地にある」との昭和46年3
月31日自治振第128号自治省行政局振興課長通知に基づけば,一審原告が中国
の大学に任期1年の契約(更新可)により赴任すること(補正後の引用に係る原判
決(7ページ17行目から8ページ8行目まで)参照)は,未だ,その居住地は日
本国内にあったものと解する余地もある。というのは,
(ア) 住所や居住地という概念が一義的でなく,相対的概念であり(最高裁判所第三
小法廷昭和38年11月19日判決・民集17巻11号1408ページ,同第三小
法廷昭和35年3月22日判決・民集14巻4号551ページ,同大法廷昭和29
年10月22日判決・民集8巻10号1907ページ等),
(イ) 前記A事件判決の趣旨を念頭におけば,一審原告の出国は,同通知を適用すべ
き実態にはなかったのではないかと解する余地がある
からである。
  しかも,一審原告の供述(58項)によれば,その不在中は,長崎市内の住宅
は,一審原告の子がときどき訪れて管理し,電気,ガス,水道等の支払は,預金通
帳から自動引き落としの方法で支払い続け,固定資産税も払い続けていたことが認
められるから,中国赴任中,長期不在の期間(1年に満たないうちに日本にたびた
び帰国していた。)があったとはいえ,健康管理手当の支給関係においては,長崎
市民としての実態があったものと認めることも十分可能であった。
(4) 一審原告の権利濫用の主張の当否
ア (3)認定の事情を含む前記認定の事情を総合勘案すれば,被控訴人長崎市が,地
方自治法236条2項によって,本件健康管理手当請求権が当然に消滅した旨を,
訴訟行為として主張することを容認することにためらいがないわけではない。しか
しながら,前記した同条項の趣旨にかんがみれば,なお,訴訟手続上の信義則にも
とると評価できる特段の事情があるとまでは判断し難い。
イ また,本件全証拠を検討しても,
(ア) (3)認定の事情とは無関係に,
(イ) あるいは,(3)認定の事情に加えて,
訴訟手続上の信義則にもとると評価できる特段の事情を認めるに足りない。
ウ したがって,訴訟行為として,消滅時効を「援用」することが権利濫用にあた
るとの,一審原告の主張は採用できない。
9 まとめ
(1) 以上要するに,
ア 1(1)のとおり,一審原告は,被控訴人長崎市に対し,平成6年10月分から平
成7年7月分までの本件健康管理手当(33万3920円)の請求権を有したが,
イ 5(4)イ及び7(2)アのとおり,同請求権は,地方自治法236条2項によっ
て,実体法上の「援用」を要せずして,当然に時効により消滅しているものであ
り,
ウ 8(4)のとおり,訴訟手続において,同被控訴人が,訴訟行為としてイの事実を
主張することを信義則上許さない特段の事情があるということはできないから,
(2) 同被控訴人に対する本件健康管理手当(33万3920円)請求権は時効によ
り消滅しているものである。
(3) よって,一審原告の,同被控訴人に対する本件健康管理手当等請求は理由がな
く,
ア これと同旨の原判決主文第5項中の被控訴人長崎市関係部分のうち,本件健康
管理手当等請求を棄却した部分は結論において相当であり,
イ 同部分に関する一審原告の控訴は理由がないものとして棄却を免れない。
第6 争点③(被控訴人長崎市の本件損害賠償義務の有無)についての判断
1 市町村において,住民の居住関係の公証,その他の住民に関する事務は,住
民基本台帳に基づいて処理され(住民基本台帳法1条),また,市長村長その他の
市町村の執行機関は,住民基本台帳に基づいて住民に関する事務を管理し,又は執
行しなければならない(同法3条2項)のであるから,長崎市内に居住関係を有す
る「被爆者」に関する事務を住民基本台帳に基づいて行うことは,そもそも同法
(7条14号,同法施行令6条の2)が要求するものである。そして,一審原告か
らの転出届を受理した被控訴人長崎市の市民課担当職員が,同法3条2項に基づい
てこれを援護課に伝達することは,地方公務員法32条(法令等及び上司の職務上
の命令に従う義務)により義務付けられているのである。市民課担当職員が上記転
出の情報を援護課に提出したことをもって違法といえる筋合いはない。
2 被控訴人長崎市の担当職員は,402号通達に基づき,被爆者が日本国の領域
を越えて居住地を移した場合には,原爆三法の適用がなく,健康管理手当受給権を
失うとの上級庁の解釈に従い,同手当支給事務を運用していた。
3(1) 2の解釈・運用を採り得ないことは,前記したが,証拠(乙5,6,9~1
1)に照らすと,同解釈・運用が誤りであったことが,一義的に明らかであったと
いうのも言い過ぎである。同解釈・運用が改められたことは,従前のそれが無理で
あったこと,あるいは時代の進展に伴ってより良い方向に行政が梶を切ったという
ことであって,喜ぶべきことである。
(2) 同担当職員が,法令の解釈・運用を統一するために国の行政機関が発した通達
に示された解釈に従うのは,機関委任事務の性格から当然のことである。
(3)ア 以上によれば,特段の事情がない限り,同通達で示された解釈に従って行政
実務を運用していたことをもって国賠法1条1項にいう違法性があると認めるのは
相当でないところ,同特段の事情についてこれを認めるに足りる証拠もない。
イ 確かに,第5の8(3)ケで述べたとおり,昭和46年3月31日自治振第128
号自治省行政局振興課長通知に従っても,一審原告が,中国の大学への任期1年
(ただし,更新可)の契約により赴任した実態は,同通知に当てはまるものと解す
ることには疑問もあるが,このことも,アの判断を左右しない。
 (4) 結局,同被控訴人の市民課による一審原告に対する転出届提出の指導を誤り
ということもできない。
 4 同被控訴人の援護課が,市民課からの転出届の通知だけで被爆者の地位喪失
扱いをしたのも,402号通達に基づいた運用を行っていたからであるから,3と
同じ理由により,国賠法1条1項にいう違法性があったとはいい難い。
 5 一審原告は,その他にも,種々主張するが,その論旨は多岐にわたり何をも
って違法な行為と主張するのか判然とせず,控訴審においても,その違法行為を特
定しないから,これ以上判断を加える必要をみない。
6 よって,一審原告の同被控訴人に対する本件損害賠償請求は理由がないから,
(1) これと同旨の,原判決主文第5項中の被控訴人長崎市関係部分のうち,本件損
害賠償請求を棄却した部分は相当であり,
(2) 同部分に関する本件控訴は理由がない。
第7 結論
 以上によれば,
1 控訴人国の一審原告に対する控訴は理由があるから,同控訴に基づき,第4の
2(2)のとおり,
(1) 原判決主文第3項を取り消して,
(2) 同取消しに係る一審原告の控訴人国に対する請求を棄却し,
2 一審原告の被控訴人長崎市に対する控訴は,第5の9(3)及び第6の6のとお
り,理由がないから,これを棄却し,
3 一審原告の控訴費用及びその余の1,2審を通じた訴訟費用の負担につき,民
事訴訟法67条,65条,64条,61条を適用して
主文のとおり判決する。
     福岡高等裁判所第1民事部
          裁判長裁判官  簑   田   孝   行
             裁判官  駒   谷   孝   雄
             裁判官  藤   本   久   俊

戻る



採用情報


弁護士 求人 採用
弁護士募集(経験者 司法修習生)
激動の時代に
今後の弁護士業界はどうなっていくのでしょうか。 もはや、東京では弁護士が過剰であり、すでに仕事がない弁護士が多数います。
ベテランで優秀な弁護士も、営業が苦手な先生は食べていけない、そういう時代が既に到来しています。
「コツコツ真面目に仕事をすれば、お客が来る。」といった考え方は残念ながら通用しません。
仕事がない弁護士は無力です。
弁護士は仕事がなければ経験もできず、能力も発揮できないからです。
ではどうしたらよいのでしょうか。
答えは、弁護士業もサービス業であるという原点に立ち返ることです。
我々は、クライアントの信頼に応えることが最重要と考え、そのために努力していきたいと思います。 弁護士数の増加、市民のニーズの多様化に応えるべく、従来の法律事務所と違ったアプローチを模索しております。
今まで培ったノウハウを共有し、さらなる発展をともに目指したいと思います。
興味がおありの弁護士の方、司法修習生の方、お気軽にご連絡下さい。 事務所を見学頂き、ゆっくりお話ししましょう。

応募資格
司法修習生
すでに経験を有する弁護士
なお、地方での勤務を希望する先生も歓迎します。
また、勤務弁護士ではなく、経費共同も可能です。

学歴、年齢、性別、成績等で評価はしません。
従いまして、司法試験での成績、司法研修所での成績等の書類は不要です。

詳細は、面談の上、決定させてください。

独立支援
独立を考えている弁護士を支援します。
条件は以下のとおりです。
お気軽にお問い合わせ下さい。
◎1年目の経費無料(場所代、コピー代、ファックス代等)
◎秘書等の支援可能
◎事務所の名称は自由に選択可能
◎業務に関する質問等可能
◎事務所事件の共同受任可

応募方法
メールまたはお電話でご連絡ください。
残り応募人数(2019年5月1日現在)
採用は2名
独立支援は3名

連絡先
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所 採用担当宛
email:[email protected]

71期修習生 72期修習生 求人
修習生の事務所訪問歓迎しております。

ITJではアルバイトを募集しております。
職種 事務職
時給 当社規定による
勤務地 〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
その他 明るく楽しい職場です。
シフトは週40時間以上
ロースクール生歓迎
経験不問です。

応募方法
写真付きの履歴書を以下の住所までお送り下さい。
履歴書の返送はいたしませんのであしからずご了承下さい。
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所
[email protected]
採用担当宛