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裁判例


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主文
1本件訴えのうち,公害健康被害補償不服審査会が平成19年
3月22日付けで原告に対してした原告の審査請求を棄却する
旨の裁決の取消請求に係る部分を却下する。
2熊本県知事が昭和55年5月2日付けで原告に対してした原
告の水俣病認定申請を棄却する旨の処分を取り消す。
3熊本県知事は,原告に対し,公害健康被害の補償等に関する
法律4条2項に基づき,原告がかかっている疾病が,熊本県の
区域のうち,水俣市及び葦北郡の区域並びに鹿児島県の区域の
うち,出水市の区域に係る水質の汚濁の影響による水俣病であ
る旨の認定をせよ。
4訴訟費用は,原告に生じた費用の3分の2と被告熊本県に生
じた費用を被告熊本県の負担とし,原告に生じたその余の費用
と被告国に生じた費用を原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
1公害健康被害補償不服審査会が平成19年3月22日付けで原告に対してし
た原告の審査請求を棄却する旨の裁決を取り消す。
2主文2,3項同旨
第2事案の概要
1事案の要旨
原告は,熊本県知事に対し,公害健康被害補償法(昭和48年法律第111
号。なお,同法の題名は,昭和62年法律第97号により「公害健康被害の補
償等に関する法律」に改められた。以下,同改正の前後を問わず「公健法」と
いう。)4条2項の規定に基づく水俣病認定申請(以下「本件申請」という。)
をしたところ,同知事は,本件申請を棄却する処分(以下「本件処分」という。)
をした。原告は,本件処分を不服として,熊本県知事に対する異議申立てを経
て公害健康被害補償不服審査会(以下「本件審査会」という。)に対して審査
請求(以下「本件審査請求」という。)をしたところ,本件審査会は,本件審
査請求を棄却する裁決(以下「本件裁決」という。)をした。
本件は,原告が,本件処分及び本件裁決を不服として,これらの各取消しを
求めるとともに,熊本県知事において,原告に対し,公健法4条2項に基づき
原告がかかっている疾病が水俣市及び葦北郡の区域に係る水質の汚濁の影響
による水俣病である旨の認定をすることの義務付けを求めた事案である。
2法令の定め
(1)公健法
ア公健法1条は,同法は,事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当
範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁の影響による健康被害に係
る損害を填補するための補償並びに被害者の福祉に必要な事業及び大気の
汚染の影響による健康被害を予防するために必要な事業を行うことにより,
健康被害に係る被害者等の迅速かつ公正な保護及び健康の確保を図ること
を目的とする旨規定する。
イ公健法2条2項は,同法において「第二種地域」とは,事業活動その他
の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が
生じ,その影響により,当該大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質
との関係が一般的に明らかであり,かつ,当該物質によらなければかかる
ことがない疾病が多発している地域として政令で定める地域をいう旨規定
し,同条3項は,前2項の政令においては,あわせて前2項の疾病(以下
「指定疾病」という。)を定めなければならない旨規定する。
ウ公健法4条2項は,第二種地域の全部又は一部を管轄する都道府県知事
は,当該第二種地域につき同法2条3項の規定により定められた疾病にか
かっていると認められる者の申請に基づき,当該疾病が当該第二種地域に
係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものである旨の認定を行う,
この場合においては,当該疾病にかかっていると認められるかどうかにつ
いては,公害健康被害認定審査会の意見をきかなければならない旨規定す
る。
エ公健法106条2項は,認定又は補償給付の支給に関する処分に不服が
ある者のする審査請求は,公害健康被害補償不服審査会(本件審査会)に
対してしなければならない旨規定する。
(2)公害健康被害の補償等に関する法律施行令
公害健康被害の補償等に関する法律施行令(昭和49年政令第295号。
なお,昭和62年政令第368号による改正前の題名は「公害健康被害補償
法施行令」であったが,以下,同改正の前後を問わず「公健法施行令」とい
う。)1条は,公健法2条2項の政令で定める地域及び同項に規定する疾病は,
別表第二のとおりとする旨規定し,公健法施行令別表第二は,4の項の中欄
において,「熊本県の区域のうち,水俣市及び葦北郡の区域並びに鹿児島県の
区域のうち,出水市の区域」を掲げ,その下欄において,「水俣病」を掲げ,
なお,同別表備考は,同別表に掲げる区域は,昭和49年6月10日におけ
る行政区画その他の区域によって表示されたものとする旨規定する。
3関係通知の定め
(1)46年事務次官通知(甲4)
環境庁事務次官は,昭和46年8月7日,公害に係る健康被害の救済に関
する特別措置法(昭和44年法律第90号,以下「救済法」という。)3条1
項に規定する認定(公健法4条2項に規定する認定に相当する。)に関し,関
係各都道府県知事にあてて「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法
の認定について」と題する通知(昭和46年環企保第7号,以下「46年事
務次官通知」という。)を発出した。46年事務次官通知は,水俣病の認定の
要件として,下記のとおり規定している。

第一水俣病の認定の要件
(1)水俣病は,魚介類に蓄積された有機水銀を経口摂取することにより起る神経
系疾患であって,次のような症状を呈するものであること。
(イ)後天性水俣病
四肢末端,口囲のしびれ感にはじまり,言語障害,歩行障害,求心性視野
狭窄,難聴などをきたすこと。また,精神障害,振戦,痙攣その他不随意運
動,筋強直などをきたすこともあること。
主要症状は求心性視野狭窄,運動失調(言語障害,歩行障害を含む。),難
聴,知覚障害であること。
(ロ)胎児性または先天性水俣病
(省略)
(2)上記(1)の症状のうちいずれかの症状がある場合において,当該症状のすべ
てが明らかに他の原因によるものであると認められる場合には水俣病の範囲に
含まないが,当該症状の発現または経過に関し魚介類に蓄積された有機水銀の
経口摂取の影響が認められる場合には,他の原因がある場合であっても,これ
を水俣病の範囲に含むものであること。
なお,この場合において「影響」とは,当該症状の発現または経過に,経口
摂取した有機水銀が原因の全部または一部として関与していることをいうもの
であること。
(3)(2)に関し,認定申請人の示す現在の臨床症状,既応症,その者の生活史お
よび家族における同種疾患の有無等から判断して,当該症状が経口摂取した有
機水銀の影響によるものであることを否定し得ない場合においては,法の趣旨
に照らし,これを当該影響が認められる場合に含むものであること。
(4)法第3条の規定に基づく認定に係る処分に関し,都道府県知事等は,関係公
害被害者認定審査会の意見において,認定申請人の当該申請に係る水俣病が,
当該指定地域に係る水質汚濁の影響によるものであると認められている場合は
もちろん,認定申請人の現在に至るまでの生活史,その他当該疾病についての
疫学的資料等から判断して当該地域に係る水質汚濁の影響によるものであるこ
とを否定し得ない場合においては,その者の水俣病は,当該影響によるもので
あると認め,すみやかに認定を行うこと。
(以上)
(2)52年判断条件(甲3,乙21)
環境庁企画調整局環境保健部長は,昭和52年7月1日,後天性水俣病の
判断条件を取りまとめたものとして,関係各都道府県知事及び政令市市長に
あてて「後天性水俣病の判断条件について」と題する通知(昭和52年環保
業第262号,以下「52年判断条件」という。)を発出した。同通知は,後
天性水俣病の判断条件として,下記のとおり規定している。

1水俣病は,魚介類に蓄積された有機水銀を経口摂取することにより起る神経
系疾患であって,次のような症候を呈するものであること。
四肢末端の感覚障害に始まり,運動失調,平衡機能障害,求心性視野狭窄,
歩行障害,構音障害,筋力低下,振戦,眼球運動異常,聴力障害などをきたす
こと。また,味覚障害,嗅覚障害,精神症状などをきたす例もあること。
これらの症候と水俣病との関連を検討するに当たって考慮すべき事項は次の
とおりであること。
(1)水俣病にみられる症候の組合せの中に共通してみられる症候は,四肢末
端ほど強い両側性感覚障害であり,時に口のまわりまでも出現するものであ
ること。
(2)(1)の感覚障害に合わせてよくみられる症候は,主として小脳性と考えら
れる運動失調であること。また,小脳,脳幹障害によると考えられる平衡機
能障害も多く見られる症候であること。
(3)両側性の求心性視野狭窄は,比較的重要な症候と考えられること。
(4)歩行障害及び構音障害は,水俣病による場合には小脳障害を示す他の症
候を伴うものであること。
(5)筋力低下,振戦,眼球の滑動性追従運動異常,中枢性聴力障害,精神症
状などの症候は,(1)の症候及び(2)又は(3)の症候がみられる場合にはそれ
らの症候と合わせて考慮される症候であること。
21に掲げた症候は,それぞれ単独では一般に非特異的であると考えられるの
で,水俣病であることを判断するに当たっては,高度の学識と豊富な経験に基
づき総合的に検討する必要があるが,次の(1)の曝露歴を有する者であって,
次の(2)に掲げる症候の組合せのあるものについては,通常,その者の症候は,
水俣病の範囲に含めて考えられるものであること。
(1)魚介類に蓄積された有機水銀に対する曝露歴
なお,認定申請者の有機水銀に対する曝露状況を判断するに当たっては,
次のアからエまでの事項に留意すること。
ア体内の有機水銀濃度(汚染当時の頭髪,血液,尿,臍帯などにおける濃
度)
イ有機水銀に汚染された魚介類の摂取状況(魚介類の種類,量,摂取時期
など)
ウ居住歴,家族歴及び職業歴
エ発病の時期及び経過
(2)次のいずれかに該当する症候の組合せ
ア感覚障害があり,かつ,運動失調が認められること。
イ感覚障害があり,運動失調が疑われ,かつ,平衡機能障害あるいは両側
性の求心性視野狭窄が認められること。
ウ感覚障害があり,両側性の求心性視野狭窄が認められ,かつ,中枢性障
害を示す他の眼科又は耳鼻科の症候が認められること。
エ感覚障害があり,運動失調が疑われ,かつ,その他の症候の組合せがあ
ることから,有機水銀の影響によるものと判断される場合であること。
3他疾患との鑑別を行うに当たっては,認定申請者に他疾患の症候のほかに水
俣病にみられる症候の組合せが認められる場合は,水俣病と判断することが妥
当であること。また,認定申請者の症候が他疾患によるものと医学的に判断さ
れる場合には,水俣病の範囲に含まないものであること。なお,認定申請者の
症候が他疾患の症候でもあり,また,水俣病にみられる症候の組合せとも一致
する場合は,個々の事例について曝露状況などを慎重に検討のうえ判断すべき
であること。
(以上)
4前提事実
以下の事実は,当事者間に争いがないか,掲記各証拠(書証番号は,特記し
ない限り枝番を含む。以下同じ。)又は弁論の全趣旨から容易に認めることが
できる。なお,当事者間に争いがない事実には認定根拠を付記しない。
(1)水俣病
水俣病は,α8湾又はその周辺海域の魚介類に蓄積された有機水銀化合物
を経口摂取することによって起こる中毒性神経疾患である(ただし,その詳
細は,後記第4において検討する。)。
(2)原告(乙16,弁論の全趣旨)
原告は,大正▲年▲月▲日,熊本県葦北郡α1町(現水俣市)α2におい
て出生した女性である。原告は,昭和18年,P1(昭和▲年戦病死。)と結
婚し(婚姻届は出さなかった。),同町α3に居住し,昭和26年にP2株式
会社(以下「P2」という。)に勤務するP3と再婚し,水俣市α4に転居し,
昭和27年に同市α5に転居し,昭和28年には離婚してα2の実家に戻っ
た。原告は,同年11月,P4と結婚し(婚姻届は昭和31年4月19日に
提出した。),昭和30年に同市α6のα7開拓村に転居し,昭和46年に兵
庫県尼崎市に転居した。
(3)本件裁決に至る経緯等(甲1,2,乙16,弁論の全趣旨)
ア原告は,昭和53年9月30日,熊本県知事に対し,認定の申請に係る
疾病の名称を水俣病とする「公害健康被害補償法認定申請書」を提出して
公健法4条2項に規定する認定の申請(本件申請)をした。
イ熊本県知事は,昭和55年4月21日,本件申請について熊本県公害健
康被害認定審査会に対し,公健法4条2項の規定により意見を求めたとこ
ろ,同審査会は,同年5月1日,熊本県知事に対し,原告は水俣病ではな
いと判定するとして,棄却相当である旨の審査結果を答申した。
ウ熊本県知事は,同月2日,原告に対し,原告の申請に係る疾病は,魚介
類に蓄積した有機水銀を経口摂取したことによって生じたものとは認めら
れないとして,本件申請を棄却する旨の処分(本件処分)をした。
エ原告は,同年7月3日,本件処分を不服として,熊本県知事に対して異
議申立てをしたところ,同知事は,昭和56年9月28日,原告の上記異
議申立てを棄却する旨の決定をした。
オ原告は,同年10月28日,本件処分を不服として,本件審査会に対し,
審査請求(本件審査請求)をしたところ(以下,本件審査請求に係る審査
手続を「本件審査手続」という。),本件審査会は,平成19年3月22日,
原告の本件審査請求を棄却する旨の裁決(本件裁決)をした。
(4)別件訴訟の経緯等(甲21,22,弁論の全趣旨)
ア原告は,昭和63年,大阪地方裁判所に対し,他の水俣病患者であると
主張する者と共に,国,熊本県及びP2を被告として,原告らは,P5工
場からのメチル水銀化合物を含む排水により汚染されたα8湾周辺地域の
魚介類を摂取したことにより水俣病に罹患したものであるから,原告らに
対し,P2は民法709条に基づく損害賠償義務を負い,また,国及び熊
本県は水俣病の発生及び被害拡大の防止のために規制権限を行使すること
を怠ったことにつき国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を負うなど
と主張して,損害賠償を求める訴訟(いわゆる関西水俣病訴訟。以下「別
件訴訟」という。)を提起した。
イ同裁判所は,平成6年7月11日,原告の請求のうち,P2に対する損
害賠償請求の一部を認容し,原告のP2に対するその余の請求並びに原告
の国及び熊本県に対する各請求をいずれも棄却する旨の判決(以下「別件
訴訟第1審判決」という。)を言い渡した。
ウ原告及びP2は,別件訴訟第1審判決を不服としてそれぞれ大阪高等裁
判所に控訴したところ,同裁判所は,平成13年4月27日,別件訴訟第
1審判決を変更し,原告のP2に対する請求についてその認容額を増額し
た上,原告の国及び熊本県に対する損害賠償請求についてもその一部を認
容する旨の判決(以下「別件訴訟第2審判決」という。)を言い渡した。
なお,別件訴訟第2審判決においては,メチル水銀中毒罹患を理由とす
る損害賠償請求事件において,要件としての因果関係の存在につき請求権
者がなすべき因果関係の立証の程度は,通常の民事訴訟における場合と異
なるものではなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が
特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明すること
であり,その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持
ち得ることが必要であることを前提として,複合感覚に障害を受けていれ
ば,それだけで大脳皮質に障害を受けたことに起因する感覚障害でメチル
水銀中毒の影響によるものと推認して差し支えないとした上,同訴訟の原
告らが訴えている症状がP2が排出したメチル水銀中毒に起因すると推認
することができる準拠としては,α8湾周辺地域において汚染された魚介
類を多量に摂取していたことが証明されることに加え,①舌先の2点識別
覚に異常のある者及び指先の2点識別覚に異常があって,頸椎狭窄などの
影響がないと認められる者,②家族内に認定患者がいて,四肢末梢優位の
感覚障害がある者,③死亡などの理由により2点識別覚の検査を受けてい
ないときは,口周辺の感覚障害あるいは求心性視野狭窄があった者,のい
ずれかに該当する者は,メチル水銀に起因する障害が生じている患者と認
定して差し支えない旨判示している。
エ国及び熊本県は,別件訴訟第2審判決を不服として,最高裁判所に対し
て上告したところ,同裁判所は,平成16年10月15日,原告に係る国
及び熊本県の上告をいずれも棄却する旨の判決(以下「別件訴訟最高裁判
決」という。)を言い渡した。なお,国及び熊本県は,別件訴訟上告審にお
いて,上告受理申立て理由として,別件訴訟第2審判決は,同訴訟原告ら
がP2の排出したメチル水銀によって健康障害が惹起されたといえる関係
があることについて,通常人が疑いを差し挟まない程度の真実性の確信を
持ちうる程度の証明がないにもかかわらず,それがあると判断したもので
あり,経験則に反し違法であると主張していたところ,別件訴訟最高裁判
決は,同上告受理申立て理由について,所論の点に関する原審の事実認定
は,別件訴訟第2審判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り,上記
事実関係の下においては,原審の判断は是認することができるとして,別
件訴訟第2審判決に所論の違法はない旨判示した。
(5)本件訴えの提起(顕著な事実)
原告は,平成19年5月16日,当庁に対し,本件訴えを提起した。
第3争点及び争点についての当事者の主張
本件における主たる争点は,①本件処分の適法性,②公健法4条2項に基づく
水俣病認定の義務付けの可否及び③本件裁決の適法性,の3点であり,これらに
ついての当事者の主張は次のとおりである。
1争点①(本件処分の適法性)について
【原告の主張】
(1)公健法における水俣病の認定要件について
ア公健法制定の経緯と同法の規範目的・立法趣旨
公健法は,公害対策基本法が,21条2項において公害対策の一つの柱
として公害被害救済制度の確立の必要性が謳われていたのを受けて,一部
自治体における公害被害救済の実施等に促され制定されたものである。す
なわち,厚生省は,昭和43年9月26日,「水俣病に関する見解と今後の
措置」で,水俣病を公害病として認知し,水俣病の本態とその原因として
「水俣病は,α8湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによって起
こった中毒性中枢神経疾患である。…メチル水銀化合物が,工場排水に含
まれて排出され,α8湾内の魚介類を汚染し,その体内で濃縮されたメチ
ル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食することによって生じた
ものと認められる」とし,厚生省としては,今後すみやかに公害に係る紛
争の処理と被害の救済制度の確立を図るとした。厚生省のこの見解は,水
俣病がP2の放恣な企業活動によって発生したものであること及び「環境
汚染を媒介とした有機水銀中毒」というかつて人類の経験したことのない
特殊な発症機構の病気(公害病)であることを明らかにしたことに重要な
意義がある。
その後,昭和44年12月15日に救済法が制定されたが,同法は,そ
の1条(目的)で,「この法律は,事業活動その他の人の活動に伴って相当
範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が生じたため,その影響に
よる疾病が多発した場合において,当該疾病にかかった者に対し,医療費,
医療手当及び介護手当の支給の措置を講ずることにより,その者の健康被
害の救済を図ることを目的とする」と規定し,当面の緊急措置として,民
事責任とは切り離した医療費等の給付を行う行政上の救済措置が講ぜられ
ることになった。この点,昭和45年1月26日付け厚生事務次官通知は,
同法の趣旨として,「公害に係る被害については本来必ず原因となる特定の
有害物質があり,その特定の有害物質を排出する企業等の公害発生原因者
の民事責任に基づく損害賠償の方途は開かれているものの,現段階ではそ
の因果関係の立証や故意過失の有無等の判定等の点で困難な問題が多いと
いう公害問題の特殊性にかんがみ,法(判決注:救済法の意)は当面の応
急措置として緊急に救済を要する健康被害に対し,民事責任とは切り離し
た行政上の措置として特別の救済措置として制定されたものである」とし
ている。
そして,公健法は,救済法の不備を補充して給付内容等を拡充したもの
で,民事責任を踏まえた制度であるとされているが,「公害対策基本法に基
づき,公害病の特質を考慮して公害に係る健康被害者を迅速かつ適正に救
済することを目的」とする点においてはもとより両者は趣旨において共通
し,同一である。したがって,公健法に基づく認定制度は,法的な損害賠
償の履行に先立って,公害被害者の迅速かつ公正な保護を図ることを目的
として裁判よりも簡易化された画一定型的要件で迅速に給付を行うもので
行政的手段による包括的処理を図ろうとする公的救済制度である。このよ
うに,公健法は,多数存在する健康被害を被った被害者の「迅速かつ公正
な保護」を図ることを目的としている。すなわち,これらの「健康被害者」
をできるだけ「迅速に」かつ「もれなく公平かつ適正」に救済することを
目的・理念としているということであり,この目的・理念は,当然同法4
条の認定要件の解釈などにおいて,何よりも優先する指導原理でなければ
ならない。水俣病に関していえば,公健法は,P2の企業活動の結果とし
ての広範なメチル水銀の影響により汚染された水俣病被害者をあまねく救
済すべしという規範目的・趣旨を有しているということである。
イ公健法4条2項の認定要件の規範的意味内容
(ア)公健法4条2項は,前記第2の2(1)ウのとおり規定しており,同項
の認定申請者の申請に基づき,当該都道府県知事は「当該疾病が,第二
種地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものである旨の認
定を行う」との意味,内容及びその要件が問題となるところ,ここでは,
まず,同項において「影響」という用語が使用されていることが重要で
ある。この「影響」とは,一方の作用や働きが結果として他方に変化や
反応を起こさせること,あるいはその変化や反応をいい,原子爆弾被爆
者に対する援護に関する法律(以下「被爆者援護法」という。)110条
等において使用されている「起因」よりは広い概念である。
次に,水質汚濁の影響の有無に関して①当該申請者が指定された地域
に一定期間居住して,当該地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響
を受ける立場・地位にあったこと,水俣病に則していえば,α8湾又は
その周辺海域の魚介類の多食等による「有機水銀への曝露」という条件
を満たしている必要がある。すなわち,「有機水銀への曝露」という,い
わゆる疫学条件の存在は,次の②の水俣病に該当するかどうかの実体的
判断をなすための前提条件である。次いで,②当該申請者に発現してい
る症状や疾病が,有機水銀への曝露の影響による疾病と認められるか否
か,すなわち,公健法でいうところの「水俣病」の症状のいずれかと同
一性が認められるか否かが問題となる(もとより,このことは,各時点
での医学的知見に基づいて判断されるべきであるが,公健法制定当時の
知見によれば後記のP6報告書に記載されている「水俣病に発現する症
状のどれかと同一の症状の発現があれば,水俣病と認定してよい」との
考え方に立法者は立っていたと思われる。)。
この①と②の要件が満たされれば,水質汚濁(すなわち有機水銀への
曝露)の影響による健康被害としてこれを認定して,すべて公健法の救
済措置を受けさせるべきであると解釈すべきである。ここにいう「認定」
は,「既存の事実を公の権威をもって確定する確認行為」であり,認定は
民事上の「賠償」の側面から制約を受けるべきものではない。認定は,
行政上の確認行為として完全に独立して行われるべき性質のものである。
そして,上記2つの要件を満たすかどうかは,もとより申請者の個別の
ケースごとに具体的に総合的に判断されなければならない。なお,昭和
44年3月厚生省の委託により設置されたP6を委員長とする水俣病の
症状の検討委員会(以下「P6委員会」という。)は,その時点で判明し
ている水俣病の症状について報告しているが,その中で臨床所見として
「通常初期に四肢末端・口囲のしびれ感にはじまり,漸次拡大するとと
もに…」と指摘していたことが特に注目される。
(イ)これに対し,被告らは,公健法4条2項が二段階の認定を行うこと
を規定しているとして,同項に関する独自の文言解釈を主張する。しか
し,同項が,形式的には「大気汚染又は水質の汚濁の影響によるもので
ある旨の認定」と「当該疾病,指定疾病にかかっていると認められるか
どうか」との両者を一応区別して書き分けているようにも見受けられる
のは,救済法から改められた公健法の下においては,第一種地域に係る
疾患については因果関係ありとみなすための制度的な取決めとして,指
定地域,曝露要件等の要件が新たに導入され,その要件が満たされる場
合は,さらに「指定疾病に該当しているどうかを認定する」という仕組
みが採用されたからであり,公健法が上記の類型を2つに書き分けてい
るのは,主として第一種地域に係る疾患のためである。これに対し,第
二種地域に係る疾患については,公健法制定後も救済法の時と比べて指
定疾病の認定構造につき変更はなく,公健法の下でも,「申請に基づいて
都道府県知事等は,公害被害認定審査会の意見を聞いて,その疾病が当
該第二種地域にかかる水質の汚濁の影響によるものであるかどうかの認
定を行う」ことになり,公健法の認定制度は,「原則として,救済法に基
づく特異的疾患にかかる認定の方針を踏襲している」のである。そうす
ると,公健法の下においても,第二種地域の指定疾病該当性の認定及び
審査の本質はあくまで「当該疾病が当該第二種地域に係る大気の汚染又
は,水質の汚濁の影響によるものであるか否か」の実体的判断であって,
「当該疾病が当該第二種地域につき定められた指定疾病にかかっている
と認められるか」は,上記の「影響の有無についての実体的判断」に立
ち入る前提となる必要条件,すなわち当該指定水域を汚染した工場の排
出したメチル水銀への曝露条件の存否,換言すれば,「当該地域に係る水
質の汚濁の影響を受ける立場・地位にあったか」否かを意味するものと
解すべきである。したがって,曝露条件を満たす,すなわち,「指定疾病
にかかっている」と認められたからといって,通常「当該疾病が当該第
二種地域に係る水質の汚濁の影響によるものである」とは限らず,この
点は,第一種地域における疾患の認定要件・認定構造とは異なる。
(ウ)なお,公健法の制度の立案に携わった環境庁の担当者らの解釈にお
いても,公健法4条2項の「水質の汚濁の影響による健康被害(疾病)
に該当するかどうかは,単なる医学的判断ではなく,医学的判断を基礎
とした総合的な法的な価値判断であることを示している(公健法45条
は,公害健康被害認定審査会の委員として,医学者だけでなく,法律学
関係者も予定している。)。
そして,別件訴訟最高裁判決は,水俣病を「α8湾又はその周辺海域
の魚介類を多量に摂取したことによって起こる中毒性神経疾患である。
その主要な症状としては,感覚障害,運動失調,求心性視野狭窄,聴力
障害,言語障害等がある。個々の患者には重症例から軽症例まで多様な
形態がみられ,症状が重篤なときは死亡するに至る。水俣病の原因物質
は,有機水銀化合物の一種であるメチル水銀化合物であり,これは…P
2…P5工場で生成され,同工場の排水に含まれて工場外に流出したも
のであった。水俣病は,このメチル水銀化合物が魚介類の体内に蓄積さ
れ,その魚介類を多量に摂取した者の体内に取り込まれ,大脳,小脳等
に蓄積し,神経細胞に障害を与えることによって引き起こされた疾病で
ある」としているとおり,水俣病は環境汚染を媒介とした特殊なメカニ
ズムの公害病であり,メチル水銀中毒の一つである。そして,公健法上
の水俣病は,汚染原因者の特定,指定地域制度,申立ての管轄など,同
法の特殊なフレームの制約のある概念で,熊本水俣病,α9川(新潟)
水俣病に限定されており,指定地域の解除もあり得るところの一つの制
度ではあるが,政令に織り込む病名として「水俣病」を採用するのが相
当であるとした昭和45年3月のP6委員会の報告書(乙93)は,「水
俣病の定義は魚貝類に蓄積された有機水銀を経口摂取することにより起
る神経疾患とする」としており,この定義は,46年事務次官通知及び
52年判断条件においても「魚貝類」を「魚介類」と表現を変えた点を
除き,他は同一である。以上の定義からも明らかなごとく,水俣病の病
態・本質に関して「水俣病にかかっているか」あるいは「水俣病と認定
し得るか」否かのポイントは当該患者につき「魚介類を介してメチル水
銀化合物が人体内に取り込まれ,大脳,小脳等に蓄積し,神経細胞に障
害を与えることによって引き起こされた疾病,症状」が認められるかど
うかという事実概念であることに変わりはなく,医学的知見は当該事実
関係を認識するための経験則・手段の一つであるという位置づけとなる。
ウ因果関係の立証の程度の緩和
公健法4条1項の非特異的疾患については,個々に厳密な因果関係の証
明を行うことが不可能であるため,疫学を基礎として人口集団につき因果
関係があると判断される大気汚染地域に,一定期間居住等している者(曝
露条件を満たしている者)で指定疾病にかかっているものについては,そ
の疾病と大気汚染との間に因果関係ありとみなす制度上の取決めを行う必
要があるとされ,「指定地域」「曝露条件」及び「指定疾病」の3つの要件
が充足されれば,因果関係ありとみなして同法に基づく認定処分がされ,
当該疾病が他原因によるものとの証明がなされない限り,因果関係を覆す
ことはできないことになる。
そして,公健法4条2項の第二種地域に係る指定疾病の認定についても,
第一種地域に係る指定疾病のようにまず不可能に近いとはいえないとして
も,公害の特殊性(水俣病に則していえば,有機水銀への直接曝露ではな
く,環境汚染を媒介としての間接曝露であり,しかも熊本水俣病の場合,
有機水銀の汚染の度合いを示す指標である毛髪水銀値や血中水銀値等の医
学的データがほとんど採取されず,あるいは採取されても残されていない
といった特性,特徴)から,水俣病の因果関係の判断(認定)には多大の
手間と時間そして多くの困難が伴う点では同一であり,水質汚濁の影響に
よるものであるかどうかは,個別に判断されるべきとしても,公健法の前
記立法趣旨,水俣病の病像の未解明性等からすれば,損害賠償請求訴訟に
おける個別的因果関係の認定の場合よりも立証の程度は緩和されてしかる
べきである。そして,申請人が水俣病に罹患しているかの判断においては,
臨床医学上の知見に照らし申請人が水俣病に罹患していると明確に判断し
得る場合はもちろん,そのような明確な診断に至らない場合でも相応の医
学的知見に照らし,水俣病の疑いがあるとされる事例については,これを
水俣病と認定するのがその立法趣旨に適合するものといえる(以上につき,
東京地裁平成4年2月7日判決・判例時報平成4年4月25日臨時増刊号
168頁参照)。
(2)水俣病の意義・特質
ア前記のとおり,水俣病は,メチル水銀中毒の一つであるが,「魚介類に蓄
積された有機水銀を経口摂取することにより起こる神経系疾患」と定義さ
れ,P6委員会の報告書において,「魚介類への蓄積,その摂取という過程
において公害的要素を含んでおり,このような過程は世界の何処にもみな
いものである」と指摘されていることは極めて重要である。水俣病は人類
の歴史の中で未曾有の病気であり,まさに「水俣病の前に水俣病はなかっ
た」のである。このように,発症のメカニズムにおいて水俣病は顕著な特
異性があり,発症のメカニズムの証明には時間と手間も含めて,相当な困
難を伴うことは明らかである。
イそして,水俣病は,P2が長期かつ多量に猛毒のメチル水銀を含む工場
排水をα10海に排出し,食物連鎖により濃縮したメチル水銀によって汚
染された魚介類をα10海沿岸に居住するおびただしい住民が相当期間に
わたって食べ続けた結果発生した中毒性疾患であるから,その症状も,急
性,慢性,不全型と多種多様である。この点,P7医師(以下「P7」と
いう。)は,「水俣病の発生は一般的には1960年に終わったと信じられ
た。それは,一つは急性亜急性水俣病が集団的に発生するのが終わったと
いうことであった。しかし,それは医学的問題にとどまらず社会的・政治
的要素が大きく作用したことも否定できない。当時,この急性・亜急性水
俣病が集団的に発生した背景には,発病の可能性のあるような汚染を受け
た住民がα10海沿岸に10万人を下らないとの事実があった」などとし
ていた。
ウまた,昭和46年から昭和47年にかけての熊本大学(以下「熊大」と
いう。)の「10年後の水俣病研究班」などの調査,研究によって従来の水
俣病像が大きく変わり,急性劇症型のほかに慢性水俣病患者が多数存在す
ることがわかり,さらに患者発生期間も昭和16年から昭和47年までと
押し広げられた。すなわち,昭和46年4月,熊大に「10年後の水俣病
研究班」が発足し(第2次研究班と呼ばれた。),大規模な疫学調査等を実
施し,水俣市や天草郡α11町等で大量の検診を行い,昭和47年3月,
その結果を熊本県知事に報告したが,この調査・研究によって,従来の水
俣病像が大きく変わり,急性劇症型のほかに慢性型水俣病患者が多数存在
することがわかり,さらにその患者発生期間も昭和17年から46年まで
(翌年の報告では昭和16年から47年までとされた。)と押し広げられた。
すなわち,症状としては,いわゆるハンター・ラッセル症候群(求心性
視野狭窄,感覚障害,運動失調及び言語障害をいう。)を具備した典型症状
を重篤に示す頂点から感覚障害のみを現す裾野まで,地域的にはα8湾周
辺からα10海全域まで広範囲に拡大していること,実態として多種,多
彩な症状を示す多数の慢性型,不全型の水俣病患者が,潜在していること
は,昭和44年から昭和48年にかけて公知の事実であった。そして,P
7は,認定制度をはなれて水俣病の底辺とはいかなる者であるかを知るた
めに,メチル水銀量と症状との関係を模式化した図面を作成し,メチル水
銀汚染の場合,その代表的なものとして,いわゆるハンター・ラッセル症
候群を示すが,「それよりさらに低濃度の場合(慢性中毒)は症状が次第に
そろわなくなり不全型となり,あるいは軽症化し,あるいはある症状だけ
が目立ち非典型化する。さらに低い汚染の場合,水俣病の特有症状は不明
瞭化し,一般的疾患(非特異的疾患)例えば肝・腎障害・高血圧などと区
別できないレベルのメチル水銀の影響が考えられる。今日,慢性型の水俣
病がわずかに明らかにされてきたといってもなお氷山の一角であることに
変わりはない。例えば昭和48年の2次研究班の約1000人の住民検診
で住民の30%近くに水俣病にみられる症状がみられ,さらに従来患者は
いないと考えられていたα11地区にも同様患者がいることが明らかにな
った。」などとしている。換言すれば,この当時,救済を必要とする水俣病
の未認定患者(しかも多彩な病像を呈する)が極めて広範囲にかつ多数に
のぼっていることが一般的にも予見,予想し得る状況であったのであり,
これらは裁判例においても明らかとされている。
(3)46年事務次官通知の正当性
ア46年事務次官通知の発出経緯等
前記のとおり,昭和42年,公害対策基本法が,「国民の健康の保護」と
「生活環境の保全」を終極的目的として制定された(同法1条参照)。そし
て,昭和43年9月26日に政府が「水俣病はP5工場から流された廃液
に起因する」として水俣病を公害病として認知する公的見解を発表した以
降も,水俣病の病像については,公的認定機関において実質上「ハンター・
ラッセル症候群に合致しない患者」はすべて切り捨てられてきた。現に,
熊本県公害被害者認定審査会が昭和45年2月20日付けで定めた「水俣
病審査認定基準」(甲6)では,臨床所見として「求心性視野狭窄,聴力障
害,知覚障害,運動失調」を定め,「この四項目はもっとも重要であり,こ
れと疫学条件がそろえば水俣病と診断する」が,「この四項目の所見がそろ
わない症例の判定には慎重を要する」としており,この基準に従って現実
に運用されていた。
ところが,昭和44年12月に救済法が制定され,水俣病患者審査会は
公害被害認定審査会に切り替えられ,公害追求の世論の高まりを背景とし
て水俣病患者らの認定申請が次第に増加していき,水俣病像をめぐる問題
は新たな展開を示した。すなわち,救済法に基づく水俣病認定申請が多く
棄却されていく中で,棄却された患者であるP8らが,医師の援助を受け,
行政不服審査法に基づき厚生省に対し審査請求をし,同不服審査では,病
像論をめぐり,ハンター・ラッセル症候群と公害としての水俣病との関係
等が大きな論争点となったのである。
そして,環境庁長官は,昭和46年8月7日,国としては初めてなされ
た水俣現場での事情聴取や実態調査などに基づき,上記P8ら9名を水俣
病でないとした熊本県知事の棄却処分を取り消す裁決をし,同日,環境庁
事務次官は,46年事務次官通知を発し,以後水俣病の認定審査は,この
46年事務次官通知の判断基準に従って行われてきたところ,当時の環境
庁長官大石武一(以下「大石」という。)は,「水俣病患者を一人でも見落
としてはならない」という姿勢でこの判断基準を策定したと述べており,
これは,「有機水銀の影響を受けた人たちをもれなく把握,救済する」とい
う至当な考え方である。
この46年事務次官通知の策定の基礎となったのは,新潟大学のP10
教授(以下「P10」という。)の水俣病の判断要項であり,その要点は,
①ハンター・ラッセル症候群のすべてがそろっていなければならないと杓
子定規には考えない,②主要症状としての感覚障害は最も頻度が高く,特
に四肢末端,口囲,舌に著明で(障害部位の特異性),これが軽快し難いこ
とを重視する,③感覚障害などの臨床症状のみをバラバラに切り離して考
えず毛髪水銀値,家族歴その他諸々の疫学条件と関連させながら類似の神
経疾患との鑑別診断はできる,ということであった。この点,46年事務
次官通知は,その冒頭において,救済法は「公害に係る健康被害の迅速な
救済を目的としているものであるが,従来,法の趣旨の徹底,運用指導に
欠けるところのあったことは,当職の深く遺憾とするところであり,水俣
病認定申請棄却処分に係る審査請求に対する裁決に際しあらためて法の趣
旨とするところを明らかにし,もって健康被害救済制度の円滑な運用を期
するものであること」を明らかにしている。要するに,46年事務次官通
知は,「求心性視野狭窄,聴力障害,知覚障害,運動失調」の4項目がすべ
てそろえば水俣病と診断するそれまでの運用を批判的に検討し水俣病の主
要症状のうちの「いずれかの症状があればよい」として,それまで熊本県
の認定審査会が水俣病と認定しなかったような患者も水俣病と認定すべき
であるという画期的内容のものであった。
イ46年事務次官通知の正当性
46年事務次官通知の内容は,前記第2の3(1)のとおりであるが,上記
のとおり,同通知に示されているものは,救済法の立法趣旨,目的,理念
に完全に合致しており,同通知に示された理念,考え方が実定法化された
のが公健法なのである。そして,46年事務次官通知に従えば,有機水銀
への曝露(いわゆる疫学条件)の要件について厳密な証明でなくとも,生
活歴,食生活,家族歴等の状況証拠の積み重ねによって,通常水俣病を発
症し得る程度に魚介類を摂取したと推認される程度の証明で足り,仮に水
俣病にみられる「症状の一つ」(例えば感覚障害)でも濃厚な疫学的資料が
そろっていれば,水俣病と判断することは可能であり,逆に疫学条件が薄
い場合には症状の同一性判断はより厳密になされることになろう。46年
事務次官通知を踏まえると,慢性水俣病患者の各人の具体的事情に応じて
より柔軟に各人の疫学条件と症状との相互の有機的関連の判断が可能とな
るのであり,このような46年事務次官通知は,公健法の趣旨,理念に照
らして正当である。
(4)52年判断条件が不当であること
ア52年判断条件の発出経緯等について
(ア)公害発生の原因企業が明白で,その原因企業の加害行為により,相
当範囲の人たちが生命,健康に対する被害,損害を被った場合は,被害
者は,直接,原因企業に対して責任を追及し,医療措置や損害賠償を求
めて,これを実現するのが通常のやり方である。そして,水俣病の認定
に関する処分は,昭和48年に制定された公健法に基づき,指定地域を
管轄する都道府県知事等が行うこととされているが,肝心の「水俣病で
あるか否か」の判断は,52年判断条件発出までは,46年事務次官通
知に基づき行われており,この46年事務次官通知は,水俣病患者の「幅
広い救済」を可能にするそれなりに適正な判断基準であった。
ところが,水俣病については,昭和34年12月30日にP2と被害
者らとの間で締結された,いわゆる見舞金契約(以下「本件見舞金契約」
という。)により,それ以後に「見舞金の支給対象となる者」は,別に組
織される協議会の「認定」した者に限るとされ,見舞金契約締結の5日
前である同月25日に厚生省管轄の「水俣病患者診査協議会」(以下「本
件診査協議会」という。)が設置されて以降,水俣病の診断は,厚生省や
熊本県が設置した公的機関,認定機関に独占されてきた。その後,認定
機関は,所轄,名称,法的根拠の有無,根拠法規を変え,現在の認定審
査会に至っているが,このような公的機関がP2からの受給対象者を選
別するという「認定」の性格は不変である。さらに,昭和48年7月9
日,P2と患者各・代表との間でいわゆる「補償協定書」(甲9)が調印
され(以下「本件補償協定」という。),P2は認定患者に一人当たり最
高1800万円の補償金を支払うこととなった上,上記補償協定に基づ
くP2の補償金の支払は現実には熊本県のP2に対する貸付金(県債発
行)によってその大部分が賄われるようになった。そして,昭和48年
秋に第一次石油ショックが起こり,「第三水俣病の否定」(運動失調の所
見がとれないことが否定の根拠とされた。)を足がかりとして公害問題に
対する産業界からの巻き返しが画策され,P2の経営危機がささやかれ
出し,同社の補償金の負担能力に疑問が提起され出した正にその時期に
策定されたのが,52年判断条件である。
すなわち,46年事務次官通知の下認定申請する人が急増したため,
補償金の額が大きく増加し,P2の累計赤字は昭和52年9月の中間決
算時には321億円にも膨れあがり,同年6月7日には,P2社長が熊
本県知事に対し,行政による水俣病患者補償金支払の一時肩代わりと長
期延べ払い融資を申し入れるに至った。他方,昭和48年秋ころから水
俣病認定における判断条件の再検討の動きが起こっていたところ,昭和
50年6月には環境庁に水俣病認定審査会が設置されてP10がその会
長に就任し,従前と認定申請者の症状の質が特に変わったわけではない
のに,水俣病と合併症との症状の類似性及び鑑別診断の困難性がことさ
ら強調され,また,熊本県知事が昭和52年5月31日に環境庁長官に
対して「補償協定による加害企業の民事責任履行にあたって当該企業の
経営状態等が重大な障害となることのないよう適切な措置を講じられた
い」等と要望する「水俣病認定業務促進に関する要望書」を提出し,さ
らに,認定申請者が増加し,多数の滞留認定申請者が生じていたなどの
状況の下,52年判断条件は発出された。上記の状況を受けて発出され
た52年判断条件は,概して疫学的条件を重視せず,専ら臨床症状をも
とに水俣病か否かを判断すべきとして,水俣病の症状は,単独では一般
に非特異的であり,水俣病にあっては症状の組合せが認められるべきで
あるとして,具体的に4つのパターンを設定してこれらのパターンに該
当するかどうかを水俣病認定の判断要件として明示している。この52
年判断条件は,感覚障害に加えて運動失調の存在を重視しており(しか
し,小脳性運動失調は小脳の代償作用等により時間が経つとかなり改善
される上,よほどはっきりしないと検診では拾いにくい。),のみならず,
専ら旧来の激症型の水俣病患者のデータに依拠して認定条件を変更し,
4つの組合せのパターンに該当要件を限定したものである。52年判断
条件は,46年事務次官通知とは趣旨が全く違う異質なものとなってお
り,明らかに水俣病像の逆行・改悪である。この52年判断条件の策定
により,滞留していた認定業務が促進され棄却件数が著しく増大し,熊
本県関係では,昭和55年には890名の大量棄却を招き,認定者は4
8名にすぎなくなった。水俣病像は,政治的に歪曲され水俣病患者を新
たに生み出さない方向に逆行していったのである。
(イ)これに対し,被告らは,52年判断条件は水俣病の病像及び臨床診
断方法についての医学的知見に基礎を置きつつ,46年事務次官通知を
具体化したものであるとか,46年事務次官通知には,「有機水銀の影響
によるものであることを否定し得ない場合」などの文言上あいまいなと
ころがあり,昭和52年判断条件はその趣旨を明瞭化し,具体化したも
のであるなどと主張する。
しかしながら,46年事務次官通知においても医学的な鑑別診断が要
求されており,水俣病の診断はあくまで医学的根拠を必要としていて,
しかも,46年事務次官通知の文言には被告らの主張するようなあいま
いなところはなくその趣旨は明瞭である。46年事務次官通知には,「症
状」について,「疑わしい場合」とか「否定し得ない場合」という表現は
どこにもない。46年事務次官通知は,まず水俣病にみられる症状のい
ずれかがあること,次にそれらの症状の発現又は経過に関し経口摂取に
よる有機水銀の影響が「否定し得ない場合」には症状との因果関係を積
極の方向に解すべきとしているのであって,あいまいさは特に症状その
ものについては全くなく,むしろ非常に明確で救済法の趣旨に沿う内容
であり,国民の健康の保護の観点からするとこれを改訂する合理的理由,
必要性は全くなかった。ところが,46年事務次官通知の趣旨が「水俣
病であると少しでも疑われる程度でも認定せよ」という趣旨であるとの
故意の歪曲が一部からなされ,取り分けP2は,旧認定患者(46年事
務次官通知発出前に認定された患者)と新認定患者(同通知発出後に認
定された患者)とをことさらに差別する宣伝を執拗に展開し,P2の社
長も,かなり早い段階から,「水俣病の認定基準を甘くしたのが問題がこ
じれる原因となった」と環境庁を批判していた。さらに,一部の医師(審
査会委員のP11など)も,まず,恣意的に(症状について)「疑わしい
場合」とか「否定し得ない場合」といった考えを持ち込み,そうしてお
いて,そういう場合の症状の「組合せ」や「拾い方」を問題とし,この
ような46年事務次官通知の不理解ないしことさらな曲解に立脚して,
「診断基準は曖昧だ」などと言い立てて46年事務次官通知を変えさせ
ようとしたのである。この点,P10も,46年事務次官通知が発出さ
れたころは,「水俣病における感覚障害は最も頻度が高く,その障害の部
位や経過などからして特徴的なもので感覚障害一つでも,類似の神経疾
患との鑑別診断は可能であると考えていた」ところ,52年判断条件策
定のころには,従前と認定申請者の症状の質が特に変わったわけでもな
いのに,「感覚障害はありふれた症状で水俣病の個々の症状はいずれも非
特異的で,類似した神経疾患との鑑別のためには症候の組合せが必要で
ある」旨強調するに至り,その考えを変節させている。
また,別件訴訟第二審におけるP12の証人尋問の結果等からも,5
2年判断条件は,決して医学的,科学的根拠に基づき策定されたもので
はなく,専らP2からの補償金受給対象者の行政的線引きの観点から考
案され,策定されたものであることが明らかになっている。しかし,患
者の救済のための認定基準という公的制度が,P2と患者との間の私的
な補償協定書に縛られるのは不当である。この点は,度重なる司法判断
においても繰り返し同様の指摘がされてきたところである。
イ52年判断条件は医学的根拠・正当性を欠いており,公健法の趣旨・目
的からして水俣病の診断基準たり得ないこと
(ア)52年判断条件は,その構造及び文理からすると,事実上は,同条
件2(2)に規定する4種類の「症候の組合せ」のいずれかに該当すること
を,水俣病であると判断するための必要条件として要求しているものと
解され,実際,審査をする側においても,52年判断条件が水俣病であ
ると判断するための必要条件として上記4種類の症候の組合せのいずれ
かに該当することを要求しているものと理解している。
しかるに,上記のような52年判断条件を正当化するに足りる医学的
データは存在しない。
この点,被告らは,環境庁は昭和50年に水俣病に関して水俣病認定
検討会を設置し,水俣病に含めて考えられる症候の組合せを整理し,臨
床上の診断基準に当たる具体的な水俣病の判断条件を定めたと主張し,
同検討会が,臨床的には水俣病の出現には一定の傾向があるからその傾
向すなわち水俣病の範囲に含めて考えられる組合せを整理して4つのパ
ターンに整理したかのような主張をする。しかし水俣病の症候には一定
の傾向があるといっても,肝心のその判断の根拠となる医学的データは
全く明らかではない。かつて人類が経験したことのない新しい病気であ
る水俣病の蓋然性というのは,要はコントロール群との対比による確率
の問題なのであって,具体的な医学的データに基づかずに議論しても意
味がない。また,症候群的診察特に症状の4通りのパターンに該当する
かどうかでしか水俣病の診断はできないというのであれば,その理由を
医学的データで示す必要があるが,今日まで,そのような医学的データ
は全く明らかにされていない。
そうすると,52年判断条件の「症状の組合せの4つのパターン」の
限定は,何ら医学的データの裏付けなくして,前記検討会が,水俣病の
定義・範囲を単に主観的に定めたものにすぎないことになる。
(イ)52年判断条件の基底にある歪曲された病像論
ところで,前記水俣病認定検討会が設置された昭和50年ころから,
P10などの水俣病診断の方法論に異議を差し挟む人があらわれた。昭
和47年4月10日から熊本県と鹿児島県の水俣病認定審査会の各委員
を務めていたP13の意見がその代表である。P13は,①感覚障害は,
飽くまで自覚的なものであって,客観的把握が難しく,他覚的症状に比
べると説得力がなく,②疫学条件についても,これを決定的要素とは考
えず,かつ疫学条件がそろっている場合でも,とりあえず,「水俣病では
ないか」ということから出発し,③α1地区以外でも手足のしびれとか
感覚障害のある人はいるのでα1地区だけにほかの原因の感覚障害がな
いというのはあり得ない,④46年事務次官通知の文言にもかかわらず,
水俣病認定審査はやはり,症状の組合せが必須と以前から思っていた,
等と証言している。また,前記検討会に委員として参加していたP14
も,患者の生活状況や情報は,本人の申出に依拠しているため信頼度は
低いとしているほか,前記検討委員会の委員長として昭和50年から5
2年当時主導的役割を果たしたP10は,この段階において,疫学的条
件というのは,本人が言うだけ客観性に乏しいとし,汚染条件の大小は
むしろ不明な点があるから診断には臨床的事項が重要なのだとし,感覚
障害というのは全部自覚的なものであると述べるに至った。
これらの意見によると,疫学条件は患者の訴えに依存するから客観
性・確実性に乏しく,また患者の自覚症状である感覚障害も客観性に乏
しいから,水俣病の診断を専ら他覚的臨床症状をもとに判断するという
基本姿勢に立つことになり,かつ水俣病にあらわれる各症状とりわけ感
覚障害については,客観的把握が難しいとの前提で診断することになる
と,感覚障害以外の「症状の組合せ」を必須要件とせざるを得なくなり,
組合せを要するとすると,その症状は,ハンター・ラッセル症候群を基
礎とするクラシカルなタイプのものに限定されることになってしまう。
このように,患者の訴えは主観的で,にわかに信用できないという患者
不信感を前提にすれば,「症状の客観化,数量化が必要」との名目の下に
「症状の複数の組合せ」論が必須ということが正当化され,ハンター・
ラッセル症候群の一定の症状がそろわない場合は,他の病名をつけて容
易に切り捨てることができることになる。
これに対し,初期のP10のように患者の訴えにも十分耳を傾けてあ
るがままの症状を把握し,かつ水俣病における求心性視野狭窄や感覚障
害の特異性,特徴に着目すれば,水俣病の診断に「症状の組合せ」ない
し「症候群的判断」は不可欠ではない。まして,後記のとおり,別件訴
訟第2審判決により認められた中枢性感覚障害の特殊性から,症候群的
診断によらずに感覚障害のみでもメチル水銀中毒と判断できることが明
らかとなっている。
(ウ)52年判断条件所定の4種類の「症候の組合せ」は,広範囲にわた
る慢性水俣病被害の実態に即していないこと
52年判断条件及びこれに基づく現実の運用は,いわゆるハンター・
ラッセル症候群を基礎として,「一定の症候の組合せ」を必須条件とし,
さらに,昭和53年7月3日付けの「水俣病の認定に係る業務の促進に
ついて(通知)」と題する環境事務次官通知(同年環保業第525号,以
下「新事務次官通知」という。)は,「水俣病の範囲」について枠をはめ
一定の組合せによる症候群的診断を不可欠としている。しかも,その組
合せも4つのパターンに限定しているのみならず,前記の「影響」の有
無の判断の際の不可欠の前提要素である疫学的資料を無視ないし軽視し,
疫学的資料と切り離して患者の症状それ自体から水俣病に該当するかど
うかを孤立的に判断しようとする基本的姿勢,態度が明瞭である。
しかし,医学的知見の集積により水俣病の症状の同一性を判断するに
ついて,症状の組合せを必須とする必要がないことが漸次明らかとなっ
ており,仮に症状の組合せを認定の必須条件とすると,実態として多数
存在する慢性水俣病患者の大半が認定の網からこぼれることは必定であ
る。そもそもハンター・ラッセル症候群は,元来は有機水銀製造工場で
人体が一時的に直接被曝した事例において検証された症候であり,「環境
汚染を媒介とした有機水銀中毒という特殊な発症機構の病気である水俣
病」については,もちろん参考とはなるが,水俣病の本来の病像は,そ
の実態に即した調査・研究の拡大によって独自に構築されるべきもので
あった。この点,新潟水俣病発生当初,患者のありのままの実態を直視
し,「疑わしいものを広くすくいあげ,その中から共通の症状をもつ者を
選ぶ」という水俣病解明の医学的方法論を構築していったP10の経
験・証言がすこぶる参考になる。
しかるに,前記のとおり水俣病の原因が不明の段階で原因追求の手が
かりとして役立ち,それなりに有用であったハンター・ラッセル症候群
がそのまま水俣病の概念となり,そしていつの間にか52年判断条件に
おいて認定基準の中核に据えられてしまった点に大きな問題があり,し
かも,有機水銀曝露歴を有する者に発現している健康障害が,水俣病に
起因する可能性の程度が連続的に分布しているにもかかわらず,唯一の
基準で訴訟上の因果関係の有無を「水俣病に罹患していると認めること
ができる,水俣病に罹患しているものと認めることができない」と割り
切って判断するならば,それがどのような基準であってもそのような解
決方法は水俣病被害の実態に即したものとはいえないのである。
52年判断条件においては,症状の同一性につき,「一定の症候の組合
せ」というかなり厳格な因果関係を要求されて,これに合致するかどう
かの類型的判断しかできない点が第一の問題であり,前記のとおり公健
法4条2項のキーワードは「影響」の有無であり,症状は疫学的資料と
の相関関係の中で有機的総合的に判断されるべきであるのに,52年判
断条件及び新事務次官通知によるその運用においては両者が実際上分離
され,両者の相関関係の中で「その症状に対し有機水銀がいかなる影響
を与えたか」について柔軟かつ具体的に判断することがほとんどないが
しろにされ,したがって,硬直的判断しかできない点が第2の問題点で
ある。すなわち,52年判断条件では,それが設定している「症状の組
合せ」に該当し合致するかどうかの類型的判断がまず問題とされ,それ
に該当しないものは,仮に疫学的資料が十分にそろっていても具体的な
「影響」の有無の有機的判断に立ち入ることなく個別的因果関係は一律
に否定され,棄却されて切り捨てられてしまう。52年判断条件の下で
は,たとえ濃厚な疫学的資料が存在したとした場合でも疫学的資料との
相関関係の下でのその症状に対する有機水銀の影響の有無の個別判断は,
事実上無意味不要となり,公健法4条2項が本来要請している具体的総
合的判断が封殺されてしまっている。
(エ)まとめ
このように,52年判断条件は,水俣病患者の迅速かつ公正な救済を
目的とする公健法の立法趣旨・目的に適合せず,水俣病の合理的な診断
基準としては適格性を欠いているといわざるを得ない。
(5)有機水銀の曝露条件があって,四肢末端優位の感覚障害のある患者は,
(明らかに他の原因によるものでない限り)公健法上水俣病と認定され,救
済されるべきであること
ア四肢末端優位の感覚障害が,水俣病診断の決め手となる症状であること
(ア)前記のとおり,P10は,昭和41年の日本内科学会講演会の質問・
討論において,「症例の中には,知覚障害のみのものも含まれている。毛
髪中水銀量,魚の摂取状況と症状発生の時期,知覚障害の特異性と経過
により,有機水銀中毒と診断したもので,アルキル水銀中毒症は必ずし
も定型的ハンター・ラッセルの症状を呈しないことを強調したい。」と述
べるほか,P8らの行政不服審査における参考人陳述や「新潟水俣病の
追跡」(甲100)において,知覚障害が最も頻度が高く,特に四肢末端,
口囲,舌に著明であること,またこれが軽快し難いことなどを指摘して
いる。
(イ)また,P7は,P15らの「熊本大学医学部10年後の水俣病研究
班報告書(第2年度)」の調査によると,「最も基本的な症状と思われる
知覚障害についても,その知覚障害のパターンを対照地区と比較すると,
末梢性の両側の手袋足袋型の知覚障害及び口周辺の知覚障害は明らかに
メチル水銀の影響によると考えられる。」と指摘し,「水俣病のように環
境汚染によって全地区住民が汚染された場合,その地区の住民のもつ健
康被害のどこまでがメチル水銀の影響であるかを追求するためには,全
地区住民の健康の歪みをとらえなくてはならない。そのためには,汚染
地区の住民一斉調査と非汚染地区の健康調査の対比によって地区住民の
健康のかたよりをとらえる必要がある。」としている。そして,このよう
な健康調査が現在に至るまで行政によって行われてこなかったことが,
水俣病の症状把握と診断に限界をもたらしているのであり,行政の怠慢
による未解明な部分を原告ら水俣病患者の不利益に解釈することがあっ
てはならないことはいうまでもない。
そして,P7らが,いずれも汚染地域であるα12地区及びα13地
区の住民(前者については全住民の84.1%,後者については全住民)
の検診を行ったところ,四肢末端の感覚障害は65.5%という高率に
みられた。
(ウ)さらに,P16及びP17らの研究によっても,上記の事柄が明ら
かにされている。
すなわち,P16及びP17は,汚染地区をα10海に浮かぶ離島の
α14島(熊本県天草郡α11町α15)に,対照地区を宮崎県東臼杵
郡α16町の漁村α17に設定し,疫学調査を実施した。これは厳密な
コントロールを設けて行われた調査であり,その手法が普遍的な基準を
クリアした正当なものであることは,世界的に権威があるとされるエン
バイロメンタルリサーチ誌に厳正な審査の結果掲載されたことで証明済
みである。調査の結果,感覚低下はα15でみられた5つの神経学的所
見の中で最も高頻度(73%)にみられ,α15でみられた感覚低下の
大部分はいわゆる手袋ソックス型の,四肢の末梢の感覚低下であった。
対照地区のα16町α17では,四肢末端優位の感覚障害を呈した人は
142人中1人(発生率約0.7%)しかいなかったが,α11町には,
109人中65人(発生率約60%)もいたことが判明した。
そして,疫学においては,因果関係の程度を,曝露群と非曝露群の疾
患の数を比較して,非曝露群に比較して曝露群において何倍当該疾患が
多発しているかで示し,これを「相対危険度」という。また,曝露群に
注目している症候のある患者がいるとしても,これらの症例の中には仮
に曝露しなかったとしてもその症候に罹患したであろう人が含まれてい
る可能性があることから,曝露群の症例の中から非曝露群の症例だけ差
し引いた残りが,当該曝露による増加分といえ,この,曝露群の患者集
団の中で曝露による増加分はどれくらいの割合を占めているかを明らか
にするのが,曝露群寄与危険度割合(病因割合)である。これをP16・
P17らの調査結果に当てはめると,α11町ではα16町より相対危
険度(四肢末端優位の感覚障害の発生しやすさ)が208倍という考え
られない数字となり,また,曝露群寄与危険度割合は,99.5%であ
り,α11町で四肢末端優位の感覚障害を呈する住民を水俣病患者と診
断しても,間違える確率はわずか0.5%にすぎない。このことは,α
11町の65人を全員水俣病と判断しても,せいぜい1人(正確には0.
3人)しか間違わないが,逆に65人全員が水俣病でないと判断すると,
少なくとも64人について間違いを犯すことを意味している。
(エ)そして,日本精神神経学会の研究と人権問題委員会(以下「研究と
人権問題委員会」という。)は,平成10年9月19日に学会報告として
52年判断条件に対する見解を発表しているところ,この見解は,52
年判断条件の作成過程において医学的根拠となり得る具体的データを見
出すことができなかったこと,52年判断条件に示された症候の組合せ
に基づく診断は科学的に誤りであることを発表するとともに,その過程
において,①高度の有機水銀曝露群においては,水俣病(有機水銀中毒
症)であって,水俣病にみられるとされている主要症候の中で四肢末梢
優位の感覚障害のみを有するように観察される者が,少なくとも10.
1%の有病割合で存在すること及び②高度の有機水銀曝露を受けた者で
あれば,四肢末梢に優位な感覚障害をもって,水俣病であるとの診断を
下すことが科学的に妥当である(水俣病であると誤って診断される可能
性は無視できるレベルのものである)ことを明らかにしている。
イ四肢末端優位の感覚障害は水俣病に特徴的であり,他疾患との鑑別は極
めて容易であること
(ア)前記のとおり,曝露地区とコントロール地区で四肢末端優位の感覚
障害がどの程度存在しているかを調査したところ,四肢末端優位の感覚
障害の曝露地区における発症率は,P16・P17の研究では,コント
ロール地区の208倍であり,日本精神神経学会の分析では,112.
4倍多く発生していた。このように,四肢末端優位の感覚障害は,メチ
ル水銀曝露を受けた地域以外では極めてまれな症状である反面,メチル
水銀地域住民には多発する症状であることが疫学的に明らかにされてい
る。
ところで,水俣病は中枢神経疾患であって,その感覚障害の原因は,
主として,大脳皮質が損傷されることにある(いわゆる中枢説)が,中
枢神経が両側に障害されて四肢末端優位の感覚障害を引き起こす症例は,
現時点では有機水銀中毒以外には考えられていないのであり,極めてま
れな症状である。水俣病のように大脳皮質中心後回の体性感覚野の両側
に広範囲に障害が起これば,体性感覚野は全身の感覚をつかさどってい
るため,全身の感覚低下が起こることになるが,全身の中で,手,足,
唇,舌が占める範囲が広いために,四肢末端,口周囲の感覚障害が優位
に認識されるのである。
(イ)これに対し被告らは,次のとおり主張するが,いずれも理由がない。
a被告らは,水俣病の感覚障害は大脳頭頂葉の中心後回領域及び脊髄
末梢神経(知覚神経)に起因するものであると主張する。しかし,そ
の具体的な症状判断の場面では,末梢神経障害だけを感覚障害の原因
として水俣病患者であることを否定しようとしていた。すなわち,水
俣病における感覚障害が末梢神経障害によるものであると考えれば,
訴える症状が変動し,腱反射が亢進することはあり得ないことから,
これらがあると「説明のつかない症状」ということで棄却され,他方,
認定審査会における検診項目には,複合感覚(二点識別覚)などの検
査は含まれていなかったのである。
この点,被告らは,複合感覚については,一次感覚が正常であるこ
とがその前提となっており,一次感覚に異常があり,複数の信号の認
識自体ができない場合には,複合感覚も異常を示してしまうと主張す
る。しかし,一般的にはそうであるとしても,一次感覚に異常があっ
てもその程度は様々であり,複数の信号が認識できていれば複合感覚
検査結果の異常により,中枢性神経障害の判断ができる。臨床的には,
四肢や半身に痛覚や触覚の鈍麻があった場合,この感覚障害が末梢性
か中枢性かを判断するためには,識別(複合)感覚検査を実施し,腱
反射や電気生理学的検査の結果を合わせて判断するのであり,「複合感
覚の検査が異常であっても,その原因が中枢神経の障害を反映した結
果か,一次感覚異常を反映した結果かは明らかでない」とはいえない。
この点,P18の「イラクのメチル水銀中毒」の症例では,口周囲,
四肢末端あるいは全身性の痛覚・触覚の異常がありながら,二点識別
覚や立体覚の明らかな異常を認めており,複合感覚検査を含めた検診
が事実として行われ,診断に寄与していることがわかる。
そして,水俣病による感覚障害が,メチル水銀により末梢神経が障
害されることによるものであるとする被告らの主張には,医学的根拠
はない。すなわち,被告らは,感覚障害が末梢神経系の損傷によると
の主張の根拠として,①P19らの論文と,②P20医師(以下「P
20」という。)らによる「水俣病の感覚障害に関する研究-剖検例か
ら見た感覚障害の考察-」(以下「P20論文」という。乙42)をあ
げるが,①はメチル水銀中毒のラットと水銀病患者の腓腹神経の定量
化したグラフが類似していることを報告するものであり,種の異なる
ラットのデータをそのままヒトに適用することはできない。また,②
についても,病理という手法においては機能の劣化や免疫の障害等は
認識できず,病理における病変は,あくまで病的変化の終末像でしか
なく,その終末に至る過程の病的変化の総体を認識することはできな
い上,具体的にも,<ア>ヒトの正当な比較対照群を設けておらず,正
常人と比較した定量的な解析がされていない,<イ>系統的な解析に基
づいた病理解剖がされていない,<ウ>脊髄神経の前根(運動神経)と
後根(感覚神経)の違いを考慮せずに,これらを単純に比較している,
といった問題がある。かえって,P21らの論文,P22らの論文,
P18らの論文等において,メチル水銀中毒患者の末梢神経は損傷さ
れていないことが明らかにされている。
この点,別件訴訟第2審判決は,52年判断条件及びこれに基づく
運用の面で前提とされていた水俣病における感覚障害は末梢神経障害
によるものであるとの考え方が間違っていることを明らかにした。す
なわち,同判決は,水俣病患者の感覚障害はもっぱら大脳皮質が障害
されたことによる(いわゆる中枢説の採用)と推認し,感覚障害につ
いて,大脳皮質(頭頂葉中心後回の体性感覚野)に障害があると,大
きな特徴として,複合感覚(識別感覚)の障害があらわれるとして,
したがって,複合感覚に障害を受けていれば,それだけ大脳皮質に障
害を受けたことに起因する感覚障害で,メチル水銀中毒の影響による
ものと推認した。そして,別件訴訟最高裁判決は,上記別件訴訟第2
審判決の事実を前提とした上で,同判決に経験則違反の違法があると
はいえない,としたのであるから,当然に最高裁も前記中枢説を採用
したと考えられる。
bまた,被告らは,感覚障害には多数の原因があるほか原因不明のも
のも多く,識別しなければならない疾患が多数存在するので,四肢末
端優位の感覚障害だけでは水俣病と認定できないと主張する。
しかし,前述したとおり,そもそもコントロール地区の四肢末端優
位の感覚障害の発症頻度は極端に少ない上,他疾患との鑑別は容易に
できる。例えば,患者の生活歴,職歴などから重金属中毒等の原因の
有無がわかるし,各種検査により脚気や糖尿病等と判別でき,経過を
みることによって,一時的なものかどうかやどの病気の可能性が高い
か明らかになるし,被告らがこれまで問題としてきた頸椎症や糖尿病
性神経障害による感覚障害とは,その特徴が異なり鑑別は容易である。
(6)原告が水俣病であること
原告に四肢末端優位の感覚障害があることは当事者間に争いがないところ,
前記のとおり,原告の症状が有機水銀の経口摂取に起因するものかどうかは,
46年事務次官通知の趣旨により,原告の生活史,家族における同種疾患の
有無,既往症,現在の臨床症状と当該症状の発現又は経過の内容等によって,
具体的に判断されなければならない。
ア原告の生活歴
原告は,大正▲年▲月▲日,水俣市(当時α1町)α2で出生し,尋常
小学校卒業後は両親の農業を手伝い,昭和18年7月にはP1と婚姻し,
水俣町α3に居住し,夫と共に半農半漁の生活を送ったが,昭和▲年▲月
に夫が戦死したため,長女と共にα2の実家に帰り,農業を手伝っていた。
そして,昭和26年,P3(昭和54年に水俣病認定)と再婚して水俣市
α4に転居し,夫がP2に勤務していたため,昭和27年暮れころには同
市α5のP2社宅に転居したが,昭和28年3月30日には夫と協議離婚
した。原告は,同年11月にP4と結婚して同市α6のα7開拓村で農業
に従事し,夫は,夜間α3から船を出して夜振りを行い,原告が魚介類を
売りに行くなどしたほか,原告は,夫と共にP2の排水口付近で1か月に
1週間くらい大量のアサリを採っていた。原告は,昭和46年2月に兵庫
県尼崎市へ転居した。
イ食生活歴
原告は,小さいころから魚が好きで,昭和46年ころまで,毎日,魚介
類を入手し,ボラ,アジ,タチ,イリコ,カキなどを多食しており,水俣
病が問題とされた後も,底の方にいるボラは食べると危険だと思っていた
ものの,他の魚ならよいと考えて食べ続けた。原告は,昭和28年まで約
10年間は海岸線の近くに住み,濃厚な汚染を受けており,その後もやや
山間部に転居したとはいえ,魚介類なしの生活は考えられなかったのであ
るから,十分に有機水銀曝露歴を有する。
ウ家族歴等
昭和26年から28年まで3年間婚姻関係にあったP3は,昭和54年
に水俣病の認定をされ,昭和20年までの3年間にわたり同居していたP
23,P24,弟夫婦P25,P26も水俣病に認定されている。また,
P4のおばP27も水俣病に認定されているほか,P4も昭和52年に水
俣病の認定申請をした。
エ現病歴及び自覚症状
原告は,生来健康であったが,昭和26年ころから手首の痛みと軽い頭
痛を覚えるようになり,この症状はその後も継続した。そして,昭和26
年ころからは両手足のしびれが生じ,昭和32年ころ腰痛で病院を受診し,
「○」といわれ,昭和33,34年ころからめまいがして倒れ,短時間意
識を失うこともあり,病院などを受診し「○」といわれ,昭和41年ころ
からは,風邪をひきやすくなりよく医者に通った。その後,昭和44,4
5年,たまに左足全体にカラス曲りが起こり,体が疲れやすくなった。
関西に転居後は,朝起きるとめまいがして倒れたり,頭痛もひどくなり,
足ががたがたして歩けず,途中で倒れることもあったほか,草履が脱げて
もわからなかったりした。耳が少し遠くなり,言葉も少し遅くなり,茶碗
を落とすこともあった。昭和47年4月ころからは,殊に頭から額にかけ
て痛みがひどく,診療所で受診し,治療を受けた。原告は,昭和48年4
月に1回目の水俣病の認定申請をした後も両膝から下にしびれ感,感覚鈍
麻が続き,診療所に通院したが,その間も首の痛みや足のしびれはよくな
らず,草履を履き忘れたり,洗濯物を干し忘れたり,食事が甘すぎたり辛
すぎたりすると夫にしかられていた。昭和50年7月初めころからは足の
指先から膝にかけて両方ともけいれんがくるようになり,特に左足がひど
く,同年9月にP28病院に入院した。この際,四肢の知覚鈍麻,筋力低
下,握力左右低下があり,検査の結果,○(○)を指摘され,同年11月
にP29病院で○摘出手術を受け,その症状の一部は改善した。
昭和54年当時の自覚症状は,両手足がしびれる,頭が痛い,物忘れを
する,手の節々が痛い,腰・肩・首が痛い,足がカラス曲りする,視力が
落ちたというもので,いずれも増悪傾向にあった。
なお,被告らは,原告の発症経過に疑問を呈するが,昭和20年代の終
わりから昭和30年代前半ころに両手足のしびれが生じたと考えるのが正
当である。
オ感覚障害
(ア)原告には一貫して四肢末端優位の感覚障害が両側性に認められてお
り,昭和61年のP28病院の検査では皮膚書字識別障害が認められ,
複合感覚の障害も認められる。また,腱反射も一貫して亢進しており,
末梢神経障害の可能性は少なく,これまでの多くの水俣病像に合致して
いる。
そして,原告のレントゲン写真や生化学検査の結果からは,頸椎症や
糖尿病による多発性神経炎ではないことが明らかであり,腱反射が低下,
消失していないことから,多発性神経炎型のものとは考えられず,原告
の上記生活歴等からして具体的な他原因は考えられず,水俣病によるも
のとしか考えられない。昭和55年と昭和61年のP28病院での検診
では,口周囲に感覚障害が認められており,この点からも水俣病による
感覚障害というほかにない。
(イ)原告の○の影響について,手術の執刀医が,四肢末端の知覚障害の
すべてがこの腫瘍のみによって出現したとは考えにくいと指摘している
ほか,原告の症状の発現時期は昭和28年から昭和33年ころであるが,
○が発見された昭和50年までの約20年間も○による症状が続いてい
たとは考えられない。○の発生は早くても昭和45年ころとみるのが医
学的常識である。また,○は右前頭~頭頂にあり,左への偏位は認めら
れないから,○の神経系への影響は左半身に限定されるし,認定審査会
の資料でも,手術前後の所見の比較において,感覚障害は変化はなく,
いずれも四肢末端型の感覚障害を示している。手術によって著明に改善
を示したのは,頭痛及び左下肢の麻痺であり,昭和50年の手術後で明
らかな左右差を認めるのは左下肢の脱力であって,これらから,○の影
響は左下肢麻痺を主とする運動系の神経障害であると判定される。
カ運動失調
昭和54年10月に実施された原告の神経内科の検診録や精神神経科の
検診録によると,各検査において「スロー」ないし「緩慢」などとされて
おり,左側に○の後遺症などの影響があったとしても,右側の動作の緩慢
さは無視できない事実として存在するところ,成書によると,スロー一般
が運動失調の要素であると理解されている。
なお,昭和55年,61年には,原告に運動失調が認められており,そ
れ以前の審査会の検診では十分把握されていなかった可能性もある。
キ眼球運動異常等
原告は,眼科の滑動性追従運動の検査において,軽度の眼球運動異常が
認められている。そして,水俣病の判定において参考とされる眼球運動異
常は小脳性のものに限定されていないところ,最近の軽症例では,両側性
に水平方向の滑動性追従運動の異常が認められ,衝動性運動は正常に保た
れる傾向が認められるとされており,原告に認められる異常がこれに該当
することは明らかであって,原告には最近の軽症の水俣病患者例と同様の
傾向があるといえる。そして,以上のような所見は,眼球運動で滑動性障
害が両眼あり,構音障害があることも考えると,小脳性運動失調があるこ
とを支持するものである。運動失調の存在は,原告の日常生活上のボタン
かけなどの手の巧緻性低下などの不便とも一致し,運動失調が左だけでな
く右にも存在することは,病巣が右にあった○によっては説明することの
できない障害であり,少なくとも,運動失調の疑いは否定できない。
さらに,原告については,語音聴力の一部悪化が認められており,中枢
性聴力障害の可能性が否定できないとされている。
ク視野狭窄
昭和54年の精神神経科の検査では狭窄の疑いが認められ,昭和55年,
昭和61年のP28病院の検査ではより明確な所見が得られている。
ケ小括
以上のとおり,原告は,最汚染期とされる昭和20年代後半から昭和3
0年代前半はもとより,関西に転居する昭和46年まで,α8湾を中心と
するα10海の汚染された魚介類を多食し,同じ食生活を営んでいた家族
からも多数の水俣病認定者が生じている。そして,原告の四肢末端優位の
感覚障害,構音障害,滑動性眼球運動異常,協調運動障害,語音聴力一部
悪化の事実は,その症状の発現時期,経過に照らしても他の病気では到底
説明のつかないものであり,経口摂取した有機水銀の影響によるものとし
か考えられない(少なくとも有機水銀の影響によるものであることを否定
し得ない)のである。
仮に,症状として四肢末端優位の感覚障害しか認められないことがあっ
たとしても,その症状を明らかに説明できる他原因(他の病気)は考えら
れないのであり,46年事務次官通知に照らして有機水銀の影響による水
俣病というほかない。
なお,別件訴訟第2審判決は,別件訴訟1審原告の症状がメチル水銀の
影響によるものであることについて,通常人が疑いを差し挟まない程度に
真実性の確信を持ち得る高度の蓋然性を証明することが必要であるとした
上で,原告が水俣病であることを認め,別件訴訟最高裁判決もこれを是認
している。
(7)まとめ
以上のとおり,原告は公健法上水俣病であると認められるから,原告の本
件申請を棄却した本件処分は違法であって,取り消されなければならない。
【被告らの主張】
(1)公健法における水俣病の認定要件及びその基本的考え方
ア公健法4条2項,2条2項,3項の規定からすると,同法4条2項の申
請を受けた都道府県知事は,まず,①当該申請者が当該指定地域につき定
められた指定疾病にかかっていると認められるか否かを認定・判断した上
で(当該指定疾病罹患の認定),それが肯定される場合に,②当該指定疾病
が当該指定地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものである
かどうかの認定・判断をする(当該指定疾病と当該指定地域との結びつき
の認定)という二段階の認定を行うことになる。もっとも,後者の当該指
定疾病と当該指定地域との結びつきの認定・判断は,実際上は,前者の当
該指定疾病罹患の認定・判断で賄われてしまうため,「疾病にかかっている
と認められる者」であると認められる場合には,通常,「当該疾病が当該第
二種地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものである」こと
も認められることになる。すなわち,公健法4条2項で定められている特
異的疾患は,「当該大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質との関係が
一般的に明らかであり,かつ,当該物質によらなければかかることがない
疾病」であり,かつ,我が国においてそのような原因とされる汚染物質に
曝露する可能性がある生活環境は具体的には相当程度限定されているため,
当該指定疾病罹患の要件の有無を当該申請者の曝露歴,生活歴等の具体的
事実に基づいて認定・判断する過程において,事実上,当該第二種地域に
おける汚染物質曝露が当該指定疾病罹患の原因であることの検討がされて
しまうことになるのである。
そして,公健法の委任を受けた公健法施行令1条別表第二は,認定業務
の対象とすべき疾病について「水俣病」としか規定していない。そうする
と,ここでいう「水俣病」という概念は,医学上の水俣病以外にあり得な
いから,公健法4条2項は,医学的に水俣病と診断し得る者を認定の対象
とすることを明らかにするものであり,どのような者を水俣病と医学的に
診断し得るかということについては,医学的知見にゆだねる趣旨と解する
のが相当である。このように,公健法上の指定疾病は医学的知見に基づい
て当該疾病に罹患していると診断されたものであることを前提としている
と解されることからすると,公健法2条3項を受けた公健法施行令におけ
る指定疾病たる「水俣病」は,医学的知見に基づき「水俣病」と診断され
るものでなければならない。
また,公健法が健康被害者の公正な保護を目的としていることに加え,
同法における「水俣病」の認定が行政処分としてされるものである以上,
判断の公平性,連続性,統一性が求められ,かつ,国民に対する行政責任
を全うできるものである必要があり,公健法はそのことを要請していると
解される。すなわち,申請者が「水俣病」にかかっているか否かを認定す
べき行政庁としては,水俣病に関する研究の状況,医学界における研究結
果の評価についての定説的な医学的知見に基づいて,できる限り具体的か
つ明確な統一的判断条件をあらかじめ設け,その条件を満たすか否かとい
う観点から判断することが公健法上要請されている。このような意味で,
公健法における「水俣病」概念は,正しい医学的知見に基づくもの,すな
わち,医学界の定説的な知見に基づくものでなければならない。
公健法4条2項の内容が上記のようなものであることからすれば,同法
上の「疾病(水俣病)にかかっていると認められる」という要件が充足さ
れるためには,「定説的な医学的知見に基づいて水俣病にかかっていると認
められること」が必要であるとの結論が導かれ,この意味で,公健法上の
認定要件は,医学的概念である「水俣病」概念を取り込んだ規範的要件で
あるというべきであり,このことは,その立法過程における事情からも明
らかである。
そして,公健法における「水俣病」の認定は,それが行政処分としてさ
れるものである以上,判断の公平性,連続性,統一性が求められ,申請者
が「水俣病」にかかっているか否かを認定すべき行政庁としては,水俣病
に関する研究の状況,医学界における研究結果の評価についての定説的な
医学的知見に基づいて,できるだけ具体的かつ明確な統一的判断条件をあ
らかじめ設け,その条件を満たすか否かという観点から判断することを要
するのであって,52年判断条件は,このような必要性にこたえるものと
して策定された具体的審査基準であって,この意味において,52年判断
条件は,公健法の立法趣旨を体現したものである。
イ上記のとおり,公健法は,定説的な医学的知見に基づき水俣病と診断さ
れることを求めていると解されるが,ひとくちに定説的な医学的知見に基
づき水俣病と診断されることといっても,診断という概念自体,様々な確
からしさのレベルを含むものであり,その得られた情報や疾患の特性等に
応じて,どの程度の確度をもった診断であるかは,個別の事案においてそ
れぞれ異なる。
そして,公健法において求められている診断のレベルについては,公健
法には明確な規定がない以上,その趣旨に照らして解釈・決定されるべき
である。この点,46年事務次官通知の趣旨を明らかにすべく出された環
境庁企画調整局公害保健課長通知「水俣病認定申請棄却処分に係る審査請
求に対する『裁決書』および『公害に係る健康被害の救済に関する特別措
置法の認定について(環境庁事務次官通知)』について」(以下「公害保健
課長通知」という。乙19)には,46年事務次官通知について,「公害の
影響による疾病の指定に関する検討委員会が行った研究報告書に集約され
ている水俣病研究の成果を基礎とするものであり,これを公害に係る健康
被害者を広く迅速に救済する救済法の趣旨とするところに従って解釈し定
めたものである」とされ,公健法附則3条においても,救済法において救
済対象とされた者がそのまま公健法における補償対象とされる旨規定され
ており,公健法と救済法とでは,どのような場合に認定を行うかについて
の規定に大きな変更がないこと等に照らせば,公健法も,公害に係る健康
被害者を「広く」迅速に救済することを趣旨としていることは明らかであ
る。
そうすると,上述した,公健法における「水俣病」概念が定説的な医学
的知見に基づき水俣病と診断されるものであることを前提にしていること
と,公害に係る健康被害者を「広く」迅速に救済するという公健法の趣旨
とを,矛盾なく両立させることが要請されているというべきであり,これ
を医学的な「診断」の確からしさのレベルについてより具体的にいえば,
医学界の定説的な知見を基礎とした上で,定説的な医学的知見に反しない
限度で可能な限り救済の間口を広げるような「診断」レベルを設定すると
いうことになり,これが,「水俣病であるとほぼ確実に診断し得るという,
いわば確定診断のレベルではなく,相当の医学的検査を尽くし,医学的根
拠をもって水俣病である可能性が水俣病でない可能性を上回ると判断し得
るぎりぎりのレベル」なのであり,これを具体的審査基準の形で示して制
定されたのが,52年判断条件という症候群的診断なのである。
ウ以上のとおり,公健法における「水俣病にかかっていると認められる」
という法律要件が充足されるためには,①具体的な症候の存在などの事実
が認められることを前提としつつ,②それらの前提事実を定説的な医学的
知見に基づいて評価・判断した結果,「水俣病に罹患している」と医学的に
認められる必要があり,このことは,公健法上の要請である。そして,公
健法には,医学的評価・判断の対象である上記①の一定の具体的な事実が
存在することの証明度を特段に軽減する旨の規定は存在しないことから,
公健法上の認定処分の取消訴訟において,これらの医学的評価・判断の前
提である一定の事実の存否が争われた場合に,それらの事実の存在を認定
するためには,民事訴訟における原則どおりいわゆる高度の蓋然性,すな
わち,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るという
程度の証明が必要である。
(2)水俣病の病像
ア水俣病の病理
水俣病は,工場排水に含まれるメチル水銀が魚介類に蓄積され,それを
大量に経口摂取することによって起こる神経系疾患である。そして,体内
に取り込まれたメチル水銀は,体内の様々な組織を一様に障害するのでは
なく,神経系の特定部位を強く障害することが病理解剖学的に確認されて
いる。
すなわち,大脳については後頭葉の線野,特に鳥距野の前半部,頭頂葉
の中心後回領域,前頭葉の中心前回領域及び側頭葉の側脳溝に面する横回
領域が,小脳については虫部及び半球が,脊髄末梢神経については知覚神
経が主として障害される。
なお,障害の程度は,症例により異なり,同一人の中でも部位ごとに多
少の差があり一定したものではない。そして,メチル水銀に対する感受性
には個人差があり,水俣病を発症するメチル水銀量にも個人差が認められ
ているため,同程度のメチル水銀を吸収蓄積しても,万人が等しく水俣病
になるわけではない。
イ水俣病の主要症候
水俣病にみられる症候としては,四肢末端優位の感覚障害,運動失調,
平衡機能障害,求心性視野狭窄,歩行障害,構音障害,筋力低下,振戦,
眼球運動異常,聴力障害などを挙げることができる。
(ア)このうち,感覚障害は,知覚障害ともいい,水俣病にみられるもの
は,両側性四肢の末端部ほど強く現れ,表在感覚,深部感覚及び複合感
覚のいずれもが低下(鈍化)するものであるが,その程度はほとんど感
覚の脱失に近いものからごく軽度のものまで様々であり,この症候は,
大脳頭頂葉の中心後回領域及び脊髄末梢神経(知覚神経)の障害に起因
するものである。なお,この感覚障害は,水俣病にだけ特異な症候では
なく,後記のとおりその原因には種々様々なものが存在することから,
当該感覚障害だけをみて水俣病による感覚障害であるか否かを鑑別する
ことは到底できない。
(イ)上記症候のうち,運動失調は,協調運動障害(運動の命令を出す大
脳の中枢,それを伝える神経及び運動の原動力である筋肉のいずれにも
異常がなく,振戦などの不随意運動もないにもかかわらず,意図した運
動が円滑にできず,運動の方向や程度が変わってしまうこと),体幹運動
失調(体位や姿勢を保持するのに必要な随意的あるいは反射的な筋の収
縮が損なわれることによる起立時,座位時の姿勢の異常や歩行障害など)
として出現し,水俣病にみられるものは一側に偏位することなく両側性
に現れる。この運動失調は,専門の医師であれば,起立,歩行,言語の
状態をよく観察することで判断できることが多く,また,ジアドコキネ
ーシス(交互変換運動),指鼻試験,膝踵試験,脛叩き試験などにより確
認される。この症候は,主として小脳の障害に起因するものであるが,
運動失調の原因は様々であって,これは水俣病に特異な症候ではない。
(ウ)前記症候のうち,平衡機能障害は,上記のような神経内科的所見(体
幹運動失調)として認められるものと,視刺激によって誘発される異常
眼球運動等の神経耳鼻科的所見として認められるものがあり,水俣病に
みられるものは,主として小脳及び脳幹の障害に起因するものである。
したがって,運動失調がある場合には,一般に平衡機能に異常が認めら
れるが,平衡機能障害があっても,迷路の異常によるものもみられるこ
とから,小脳性運動失調がみられるとは限らない。
(エ)前記症候のうち,水俣病にみられる視野の異常は,視野の周辺部が
見えなくなる求心性視野狭窄であり,両側性に出現し,中心部の視力は
よく保たれている。この症候は,大脳後頭葉の鳥距野のうち前半部がよ
り強く障害されることに起因するものである。そして,求心性視野狭窄
についても,視神経炎後の不完全視神経萎縮,色素性網膜炎,緑内障,
心因性視野狭窄など,類似の症候をきたす他の疾患が多数存在すること
から,その他の臨床所見及び検査所見により総合的に鑑別しなければな
らない。
(オ)水俣病にみられる眼球運動障害には,眼球が視標の動きにつれて滑
らかに動かず,小刻みに動いたり,ある一点で停止して,しばらくして
から大きく動くといった滑動性眼球運動障害と,急速に視線を移したと
きに眼球の動きが行き過ぎたり,行き足りなかったりする衝動性眼球運
動障害があり,いずれも,左右対称性かつ左右共同性の眼球運動障害で
ある。この症候は,大脳の眼球運動中枢及び小脳の障害に起因するもの
である。
(カ)水俣病にみられる難聴は,後迷路性難聴(感音性難聴(振動として
伝えられた音を電気的な信号に換え,神経を介して聴覚中枢に伝える系
の障害による難聴)のうち,内耳で変換された電気的な信号を伝達し,
音として認識する聴神経から中枢(脳)までのいずれかの部位が障害さ
れることにより起こるもの)であり,大脳側頭葉の側脳溝に面する横回
領域の障害に起因するものであると考えられ,後迷路性難聴であること
は,聴覚疲労現象,語音聴力検査で確認する。
(3)水俣病の臨床診断方法
臨床医学においては,個人の有する症状の原因は「診断」によって明らか
にされるところ,この診断という手続又は過程には,技術を用いて情報を集
める部分と,それらの情報の持つ意味を医師が自らの知識,経験によって判
断する部分とがあり,これにより患者に生じている異常を評価する。そして,
診断の過程においてある疾患に特異な所見が得られるならば,その所見を検
出する客観的な検査のみで診断が可能となるが,疾患によっては特異な所見
がもともと存在しない場合があり,そのような場合には,医師が,患者の訴
える症状を把握した上,これと各種の臨床検査の所見を総合して,いかなる
疾患に罹患しているかを判断することになり,特に臨床検査の所見によって
有力な情報が得られない場合には,症候(症状及び徴候・所見)の組合せに
よる症候群的診断によらざるを得ない。
ところで,症候の組合せに基づいて症候群的診断を行う場合,症候には出
現頻度の差や他の疾患では通常みられない特異的なものかどうかといった違
いがあるから,どのような組合せであっても診断価値が等しいというもので
はない。その中でも診断上の価値の最も高い組合せが診断基準と呼ばれるも
のである。
そして,前記のとおり,水俣病は,メチル水銀が神経系を障害することに
より,前記(2)で主要症候として掲げた各種の神経症状を呈する疾患であり,
これらの主要症候がみられる場合に,直接生検などの方法によってメチル水
銀による障害を証明できれば,水俣病の診断は明確であるが,障害部位の性
質上生存中にそのような検査を行うことは実際上不可能である。また,前記
の主要症候は,それぞれ単独では非特異的であり,他の疾患によってもそれ
らの症候を来す場合が多い。具体的には,水俣病の主要症候の一つである四
肢末梢優位の感覚障害と同様の感覚障害を呈する疾病として,多発性神経炎
(多発性ニューロパシーなどとも呼ばれる。)によるものがあり,その原因に
は,急性感染症,栄養障害(脚気等),内分泌障害(糖尿病等),代謝障害(尿
毒症等),重金属・有機溶剤中毒,薬剤の副作用及び悪性腫瘍に伴う感覚障害
があるほか,原因不明のものも多い。運動失調,平衡機能障害,眼球運動障
害及び難聴は,腫瘍,多発性硬化症等の脱髄性疾患,各種中毒,血管障害,
各種の変性疾患等の疾患で認められ,また,求心性視野狭窄は,網膜色素変
性症や緑内障等の疾患で認められ,いずれも水俣病に特異な症候とはいえな
い。
したがって,水俣病の診断は,メチル水銀によって引き起こされる各種の
症候の組合せからメチル水銀による神経系の障害を推定するという症候群的
診断によらざるを得ない。また,メチル水銀による神経系の障害では,障害
を受けた部位に対応する症候が必ずしもすべて出現するとは限らないのであ
るから,どのような症候の組合せがあればメチル水銀の影響が推定できるか
が検討されなければならない。
(4)52年判断条件の正当性
ア52年判断条件の発出経緯
そこで,環境庁は,昭和50年,水俣病に関して造詣の深い各分野の専
門家17名からなる水俣病認定検討会を設置し,水俣病の範囲に含めて考
えられる症候の組合せを整理し,臨床上の診断基準に当たる具体的な水俣
病の判断基準を定め,その結果を52年判断条件として示したのであり,
その発出に至る経緯は次のとおりである。
(ア)公健法制定に先立つ昭和44年,公害の原因者たる加害企業による
損害賠償がされるまでの間の応急的な行政上の特別の措置として,緊急
に救済を必要とする健康被害者に対して医療費等を支給し,公害に係る
健康被害者を迅速かつ適正に救済することを目的として,救済法が制定
され,同法の趣旨を周知することにより円滑な運用を図るため,昭和4
6年8月7日付けで46年事務次官通知が発せられた。この46年事務
次官通知は,その時点における医学的研究の成果(新潟におけるP10
らの研究成果及び公害の影響による疾病の指定に関する検討委員会の検
討結果等)を取り入れて作成されたものであったが,同通知については
発出後まもなく以下のような問題点が生じた。
すなわち,①46年事務次官通知第1(2)に「上記(1)の症状のうちの
いずれかの症状がある場合」と記載されていたため,同通知第1(1)(イ)
掲記のいずれか一つの症状でもあれば水俣病として認定すべきとしてい
るかのような誤解が生じるとともに,②第1(3)の「有機水銀の影響によ
るものであることを否定し得ない場合」というのが具体的にどのような
場合であるのかが不明確であったことから,同通知の趣旨として広まっ
た「疑わしきは救済」というニュアンスと相まって,わずかの可能性で
もあれば上記「否定し得ない場合」に該当するかのように誤解されたの
である。
そもそも,46年事務次官通知の第1(2)において,いわゆるハンタ
ー・ラッセル症候群のすべての症候がそろわない場合でも水俣病の範囲
に含まれるとされたのは,その時点における医学的研究の成果を取り入
れたものであるが,その研究成果においても,いずれか一つの症候で水
俣病であると診断できるという結論は得られておらず,当時において(現
在においてもそうであるが),同通知第1(1)(イ)のいずれか一つの症状
でもあれば水俣病と診断することができるというような医学的知見が存
在したことはなく,同通知第1(1)(イ)についていずれか一つの症状でも
あれば認定すべきであると解釈することは,医学的知見に明らかに反す
るものである。この点,昭和46年9月29日に,46年事務次官通知
の趣旨を明らかにすべく出された公害保健課長通知(乙19)において
も,46年事務次官通知は「公害の影響による疾病の指定に関する検討
委員会の行った研究報告書に集約されている水俣病の成果を基礎とする
ものであ」るとされているところ,同研究報告には一症状のみの水俣病
の存在などは報告されていない。46年事務次官通知第1の(2)(3)は,
救済法の趣旨にかんがみ,医学的知見に基礎を置いた上で,医学的にみ
て水俣病又はその疑いがあると考え得る限りの者を含め,広く患者を救
済しようとしたものである。すなわち,申請人の呈する健康障害とメチ
ル水銀との影響との因果関係の医学的判断(水俣病か否かの医学的診断
の確実性(確からしさ)の程度)について,水俣病とほぼ確実に診断し
得るという,いわば確定診断のレベルではなく,相応の医学的検査を尽
くしたにもかかわらず,医学的根拠をもって水俣病である可能性が水俣
病である可能性を上回ると判断し得るぎりぎりのレベルを採用すること
によって,医学を基礎とした上で可能な限り救済の間口を広げたものと
いえる。したがって,46年事務次官通知にいう「否定し得ない」とは,
わずかでも可能性があれば「否定し得ない」ものとして認定すべきであ
るという意味ではなく,当然そこには,医学的な根拠が存在しなければ
ならないとともに,医学的根拠をもって水俣病である可能性が他疾患で
ある可能性よりも優位であることを要するのであり,その判断は,公害
被害者認定審査会(公健法においては公害健康被害認定審査会)の水俣
病に関する高度の学識と豊富な経験に基づく医学的判断にゆだねられて
いる。このことは,当時の大石環境庁長官の昭和47年の衆議院公害対
策並びに環境保全特別委員会における答弁や,公害保健課長通知の内容
においても現れているところである。
(イ)以上のとおり,46年事務次官通知の趣旨は,その時点における医
学的研究の成果を取り入れ,また,救済法の趣旨にかんがみ,医学的知
見に基礎を置いた上で,医学的にみて水俣病又はその疑いがあると考え
得る限りの者を含め,広く患者を救済しようとしたものであったが,上
記(ア)のような誤解を生じさせることになった。そこで,環境庁は,医
学的知見に基礎を置きつつ,46年事務次官通知をより具体化すること
とし,昭和50年に,新潟大学名誉教授であったP10を始め,P14
熊大医学部教授,P12鹿児島大学医学部教授ら水俣病についての代表
的な専門家らのほか,水俣病研究に限定することなく,様々な神経症状
に精通する神経内科の代表的専門家であるP31病院長のP32ら,当
時の医学(神経内科学)界における第一線で活躍していた専門家17名
からなる水俣病認定検討会を設置し,臨床上の診断基準に当たる具体的
な水俣病の判断条件を定め,その結果を52年判断条件として示したも
のである。このように,52年判断条件も,46年事務次官通知も,「医
学的にみて水俣病又はその疑いがあると考え得る限りの者を含め,広く
患者を救済しようとする」趣旨においては同様であって,52年判断条
件は,46年事務次官通知の表現によって生じた問題点に対応すべく,
医学的専門家による検討会を経て,46年事務次官通知の表現をより具
体的なものとしたにすぎない。
この点,原告は,あたかも被告国が52年判断条件を発出することに
よって救済範囲を極めて限られたものにしようとしたかのように主張す
るが,以上述べたことからすると,原告の同主張は明らかに失当である。
イ52年判断条件の医学的正当性
(ア)前記(3)で述べたとおり,水俣病は,メチル水銀が神経系を障害する
ことにより,主要症状として掲げた各種の神経症状を呈する疾患である。
そして,これらの主要症候がみられる場合に,直接生検などの方法によ
ってメチル水銀による障害を証明できれば,水俣病の診断は明確である
が,生存中にそのような検査を行うことは実際上不可能である。また,
上記の主要症候は,それぞれ単独では非特異的であり,他の疾患によっ
てもそれらの症候を来す場合があって,水俣病の診断は,メチル水銀に
よって引き起こされる各種の症候の組合せからメチル水銀による神経系
の障害を推定するという症候群的診断によらざるを得ない。さらに,前
記のとおり,メチル水銀による神経系の障害では,障害を受けた部位に
対応する症候が必ずしもすべて出現するとは限らないから,上記の主要
症候のすべてがそろうことを要求することも相当ではなく,どのような
症候の組合せがあればメチル水銀の影響が推定できるかが検討されなけ
ればならない。そこで,環境庁は,前記のとおり,昭和50年に水俣病
に関して造詣の深い専門家からなる水俣病認定検討会を設置し,水俣病
の範囲に含めて考えられる症候の組合せを整理し,臨床上の診断基準に
当たる具体的な水俣病の判断条件を定め,その結果を52年判断条件に
よって示したのであり,52年判断条件は,上記の水俣病の病像及び臨
床診断方法についての医学的知見に基礎を置きつつ,46年事務次官通
知を具体化したものである。そして,この52年判断条件を策定するに
当たっては,当時公表されていたP22及びP13らの研究並びにP1
5熊大精神科教授のほか,上記水俣病認定検討会の座長であったP10
の研究等,当時発表されていた論文や専門家の医学的知見が参照されて
おり,十分な医学的根拠を有することは明らかである。
また,環境庁は,昭和60年8月16日熊本水俣病第2次訴訟控訴審
判決が福岡高等裁判所で出されたことを契機として,その時点における
水俣病の病態及び52年判断条件が医学的にみて妥当なものであるかど
うかにつき,同年に設けた「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議」
(以下「専門家会議」という。)に諮問した。同会議の委員は,P10を
始め,P14,P12ら水俣病についての代表的な専門家とともに,水
俣病研究に限定することなく,様々な神経症状に精通する神経内科の代
表的専門家であるP32らをも人選しており,これらの専門家から構成
された同会議が,会議に参加した豊富な医学的知見と臨床経験を持つ委
員全員の総意をもって作成した意見書は,52年判断条件について,「現
時点では現行の判断条件により判断するのが妥当である。」と結論付けて
いる。このように,52年判断条件が,医学的知見に基礎を置き,適切
かつ妥当であることは,医学の専門家の間でコンセンサスが得られてい
る。
(イ)この点,原告は,水俣病患者には,ハンター・ラッセル症候群のう
ち四肢末端優位の感覚障害しかみられない者も存在し,四肢末端優位の
感覚障害の所見のみから水俣病と診断することもできると主張する。
しかしながら,仮に,原告が主張するように感覚障害の所見のみをも
って水俣病と判断すると,偽陽性が著しく多くなることは,剖検例の分
析結果からも明らかである。すなわち,P20らによる「水俣病の感覚
障害に関する研究-剖検例から見た感覚障害の考察-」(P20論文)に
よれば,臨床検査上四肢末梢優位の感覚障害のみを呈する剖検例21例
中,メチル水銀の影響であったものはわずか2例であり,このことは四
肢末梢優位の感覚障害を呈するものの中には他原因や原因不明のものが
多くあることを示している。
そして,52年判断条件を満たす病態は,いわゆるハンター・ラッセ
ル症候群と感覚障害のみの病態との間に位置しており,偽陽性,偽陰性
は完全には回避できないものの全体としては少なくなり,妥当な診断の
正確性が得られるものである。
(ウ)また,原告は,52年判断条件は,概して疫学的条件を重視せず,
専ら臨床症状をもとに水俣病か否かを判断すべしとしている点において
誤りであると主張する。
しかし,魚介類の傾向摂取によるメチル水銀曝露歴というのは,本人
の魚介類を多食していた旨の申告によるところが多く,客観性という面
で問題がある上,魚介類の汚染状況にも差があるため,そのメチル水銀
の多量摂取を客観的に裏付けることは困難であること,メチル水銀に対
する感受性には個人差があり,水俣病を発症するメチル水銀量にも個人
差が認められること,ある地域において患者が多発した,つまり発症す
るほどのメチル水銀曝露歴を受けた者が多数いたとしても,その地域に
居住しているすべての者について同程度のメチル水銀曝露歴があったと
もいえないことから,水俣病の診断においてメチル水銀曝露歴が果たし
得る役割には限界がある。そして,疫学条件の存在は,指定疾病該当性
の前提条件ではあるが,これを曝露歴と健康障害との因果関係の医学的
診断において考慮することには限界があり,原告が指摘する疫学調査の
結果も信用するに値しないことは,後記(5)エにおいて述べるとおりであ
る。
(エ)さらに,原告は,被告らは,52年判断条件にもとづき,「末梢神経
障害では説明のつかない症状である腱反射の亢進や所見の変動を理由に
水俣病を否定してきた」などと主張する。しかし,後記(5)アのとおり,
そもそも,被告らは,いわゆる「末梢説」に立つものではなく,腱反射
の亢進や所見の変動のみを理由として水俣病の認定申請を棄却したこと
はないのであり,原告の主張は完全に誤っている。
(5)原告の主張について
ア感覚障害による鑑別可能性に関する原告の主張について
原告は,水俣病の感覚障害の原因が中枢神経障害であることを前提とし
て,中枢神経の一部である中心後回の体性感覚野が障害されると認知及び
識別的な機能の障害の方が強く生じ,いわゆる複合感覚,立体覚,皮膚書
字覚が障害され,これらは他の病気には通常みられない特徴的な症状であ
り,こうした中枢神経の障害による感覚障害の症状をとりあげることによ
り,容易に他疾患との鑑別ができ,これらの感覚障害による諸検査で十分
判断できると主張する。
しかし,人の感覚には,視覚,聴覚等の特殊感覚や内臓感覚を除くと,
大きく分けて表在感覚(触覚,痛覚,温度覚等の皮膚あるいは粘膜の感覚),
深部感覚(関節位置覚,振動覚,圧痛覚等の骨膜,筋肉,関節等から伝え
られる感覚)及び複合感覚(二点識別覚,立体覚,皮膚書字覚等)の別が
あるところ,このうち複合感覚とは,表在感覚及び深部感覚により認識さ
れた複数の信号を,中枢神経によって分析・統合し,その関係を把握する
という高次の感覚であるから,複合感覚については,一次感覚が正常であ
ることがその前提となっており,一次感覚に異常があり複数の信号の認識
自体ができない場合には複合感覚も異常を示してしまう。そのため,複合
感覚の検査結果が異常であっても,その原因が中枢神経の障害を反映した
結果か,一次感覚異常を反映した結果かは明らかではなく,複合感覚検査
の異常により直ちに中枢神経障害があるとは判断できない。
また,複合感覚検査のうち,原告が依拠し,また,別件訴訟第2審判決
が正確な理解を誤った二点識別覚については,標準的な検査方法が確立さ
れておらず,異常かどうかの基準となる正常値も存在しないなど,その検
査実施の難しさ,検査結果の評価の難しさに関して様々な問題点が指摘さ
れている。
なお,原告は,52年判断条件及びこれに基づく診断面での運用は,水
俣病における感覚障害は末梢神経障害いわゆる多発性神経炎型のものであ
るという考え方に立っているとして,被告らがいわゆる末梢神経障害説に
立っていることを前提とする主張をするが,被告らは,メチル水銀は中枢
神経及び末梢神経の両方を障害し,その結果として感覚障害等の様々な症
状を呈すると主張しているものであり,原告がいうところのいわゆる「末
梢説」に立っているわけではなく,52年判断条件は中枢神経障害のみで
水俣病の症候を呈する患者についても適切に診断することを可能とするも
のであるから,原告の主張はその前提を誤っている。そして,メチル水銀
中毒によって中枢神経及び末梢神経が共に障害されることは,P20らに
よる剖検による病理所見により客観的に証明されている上,国際的にも確
認されているところである。
以上のとおり,水俣病においては感覚障害が中枢性,末梢性両方の関与
によるものであり,52年判断条件においてもこの両者を区別しているわ
けではないから,そもそも「感覚障害が末梢性か中枢性かを推定すること」
に特段の意義は認められない上,ほとんどの症例において一次感覚障害を
来しているのであるから,複合感覚検査の有用性は低いといわざるを得な
い。
イP20論文に関する原告の主張について
原告は,P20論文に対する日本精神神経学会による批判(甲20)や
別件訴訟の控訴審におけるP20の証言内容に基づき,病理より臨床所見
の方がより正確に判断できるなどと主張する。
しかし,病理所見は臨床医学において重要な役割を果たしており,殊に
神経疾患においては,他の臓器のように神経を直接検査することが困難で
あるため,臨床検査の客観性には限界があるところ,これとの対比におい
て,剖検の所見においては非常に客観的で多くの知見が得られるのであり,
原告の上記主張は,病理学や,臨床現場における病理所見の重要性に関す
る基本的な理解を欠いたものというほかない。原告は,別件訴訟の控訴審
におけるP20の証言をもって原告の上記主張を裏付けようとするが,原
告の主張は,P20の証言の一部分のみを恣意的に取り上げて,同証言に
異なる意味づけをしようとするものにすぎない。
そして,昭和30年から同56年の間,熊大医学部病理学講座教授であ
ったP33及びP20の水俣病関係の剖検数は450例に達し,世界的に
みても最多である上,その中には慢性期の患者も多く含まれている。原告
は正常人と比較した定量的解析がなされていないとして,P20の病理学
的手法を批判するが,そもそも,病理診断は,病理専門医がそのトレーニ
ングの過程で学問的及び経験的に習得した「正常像」と献体を比較して判
断する定性的な判断であって,病理診断の際に,原告が述べるような定量
的な解析(形態計測的な解析)を行うことはほとんどないし,厳密なコン
トロール群がなくとも医学的な根拠が失われるわけではない。
また,原告は,P20論文について,日本精神神経学会の会誌である精
神神経学雑誌(甲20)掲載の研究と人権問題委員会(委員長P35)の
学会活動報告中で取り上げられたP36らの意見(以下「P36論文」と
いう。)を基に,P20論文には疫学用語の誤用があり,それを修正すると
P20らの主張の数字上の根拠は失われるなどと主張する。
しかし,P20論文における説明に何ら不合理な点はなく,原告が主張
するような,P20論文の「数字上の根拠が失われる」などとの批判を受
ける余地はない。P36論文においては,事実の誤った解釈や,病理診断
に対する理解不足に基づく偏った意見が目立つものである。
ウ原告が引用する各意見等について
原告が引用する各医師の意見及び調査結果は,「有機水銀の曝露条件があ
って,四肢末梢優位の感覚障害がある患者は公健法上水俣病と認定される
べきである」との原告の主張を根拠づけるものではない。
(ア)原告は,P10の発言内容として,①水俣病の症例の中には,知覚
障害のみのものも含まれている,毛髪中水銀量,魚の摂取状況と症状発
症の時期,知覚障害の特異性と経過により,有機水銀中毒と診断したも
ので,アルキル水銀中毒症は,必ずしも定型的なハンター・ラッセルの
症状を呈しないことを強調したい,②中毒には軽症から重症まで毒物摂
取量や個体の条件に応じて種々の症度の患者が存在する,水俣病認定申
請する人々は皆純朴な人ばかりで,詐病を使う人などないこと,2年も
経過観察すれば水俣病か否かは判断できる,といった発言をそれぞれ引
用する。
しかし,P10の上記①の発言自体から,単なる感覚障害のみで水俣
病と認定できるとの趣旨は何ら読み取れないし,典型的なハンター・ラ
ッセルの症状を呈しない場合であってもアルキル水銀中毒が存在するこ
とが,52年判断条件の正当性を何ら弾劾するものではないことも当然
である。そもそも,P10は水俣病認定検討会の座長として52年判断
条件の策定に関与していたのであるから,その事実からもP10が単に
四肢末梢優位の感覚障害があれば水俣病と認定できるなどと考えていな
かったことは明らかである。また,上記②の発言も,その全体をみれば,
原告の主張するような趣旨ではないことは明らかである。
なお,原告は,P10の水俣病に関する医学的見解について,52年
判断条件策定当時の見解がそれ以前のものから変遷しており,信用でき
ないかのように主張する。しかし,P10が,原告が主張するように水
俣病における感覚障害はその障害の部位や経過などからして特徴的なも
ので,感覚障害一つでも,類似の神経疾患との鑑別診断は可能であると
考えていたなどと明確に述べている証拠は見あたらず,原告の主張は,
その前提において失当というほかない。
(イ)原告は,P10・P37・P38の調査の結果として,P10らは,
毛髪水銀値が40.0から59.9ppmである44名を対象として臨
床症状を検討した結果について,「自覚症の頻度は四肢のしびれ感が7
3%ともっとも高く」,「他覚所見では四肢のしびれ感に対応する四肢の
末梢性知覚障害が61%と最も高率で…認められる。」,「この中で,知覚
障害のみを示す例が7例あり,その5例は家族内に患者や有症者を認め
るケースであった。」との部分を引用する。
しかし,上記のとおりP10らは,毛髪水銀値が明確に特定されたも
のを調査対象者としているから,毛髪から水銀が検出された事実がない
原告を同列に扱うことができないことは明らかであり,上記調査結果を
もって,原告の主張する,単に四肢末梢優位の感覚障害があるというだ
けで水俣病と診断できるという結論を導くことはできないことも明らか
である。
(ウ)原告は,P7が,P15らの「熊本大学医学部10年後の水俣病研
究班:“10年後の水俣病に関する疫学的,臨床医学的ならびに病理学的
研究(第2年度)”の図を引き合いに出して,「最も基本的な症状と思わ
れる知覚障害についても,その知覚障害のパターンを対象地区と比較す
ると,末梢性の両側のgloveandstockingtype(手袋靴下型)の知覚
障害および口周辺の知覚障害は明らかにメチル水銀の影響と考えられ
る」と述べた論述を引用する。
しかし,P7が引用する上記図によれば,α1地区における四肢末梢
優位の知覚障害及び口周辺の知覚障害の症例数が対照地区であるα18
地区と比べて多いといえるが,だからといって,汚染地区においては,
四肢末梢優位の感覚障害がみられれば,それだけで水俣病と診断できる
わけではない。すなわち,P15調査は,四肢末梢優位の感覚障害のみ
を有する者を調査したものではないから,汚染地区において四肢末梢優
位の感覚障害のみを有する者が多いとはいえない。また,P15調査(第
1年度)は,臨床症状の組合せを設定して,その存在比率を,α1地区
及びα11地区と対照地区であるα18地区との間で比較検討したとこ
ろ,口周辺を含む四肢末梢優位の知覚障害のほかに求心性視野狭窄や構
音障害等が認められたものについては,統計学的に有意な差が認められ
たのに対し,四肢末梢優位の知覚障害のみについては,統計学的に有意
な差は認められず,「知覚障害だけの場合,メチル水銀の影響も考えられ
るが,他の原因の混入も考慮されなければならない。水俣病であると決
定するためには,さらに疫学的な事項,すなわち,家族内発病の有無や
魚介摂取状況,他の疾患の合併の有無などについて検討されなければな
らないだろう」としているのであり,P7の発言は,こうしたP15調
査の結果を正確に理解しないものであって,正当なものとはいえない。
また,原告は,P7らによる,α13地区の全住民及びα12地区の
全住民の84.1%の検診を行い,そのうち65.5%に四肢末端の感
覚障害がみられたとの調査結果(甲102)を引用する。
しかし,この調査を行ったのは,昭和44年に結成された水俣病研究
会(この研究会は,その年の6月に提訴された水俣病訴訟(通称,一次
訴訟)を支援し,水俣病を告発する運動の一つとして発足されたもので
あるとされている。)に参加していたP7をチーフとするP30総合調査
団医学班であるが,調査に参加した医師の専門分野は記載されていない
上,調査期間内には,「『治療についての患者との対話集会』などの講義
が参加者,患者や家族,市民や支援者を相手にもたれ,夜のふけるのも
忘れて行われたというのである。感覚障害の検査には熟練が必要である
にもかかわらず,上記調査結果からは,P7らの調査における診断方法
も,診断した医師の専門分野も不明であり,科学的・客観的な調査が行
われているとは言い難い。P7のいう65.5%に四肢末端の感覚障害
がみられたとするデータは,検者,被検者とも極めて強いバイアスがか
かった調査結果であり,後述の研究と人権問題委員会の見解のように,
このデータを,対照となる非汚染地域の調査結果と単純に比較しても,
正確な結論が導き出せないことは明白である。また,仮に,この調査結
果の数字が正しいとしても,上記と同様,そのことは,汚染地区におい
て四肢末梢優位の感覚障害が多くみられたということを意味しているに
すぎず,四肢末梢優位の感覚障害のみを呈する者が多くみられたという
調査結果ではないから,上記調査結果をもって,原告の主張するように,
単に四肢末梢優位の感覚障害があるというだけで水俣病と診断できると
いう結論を導くことはできない。
エ「曝露群寄与危険度割合」に基づく原告の主張について
原告は,汚染地区を熊本県天草郡α11町α15,対照地区を宮崎県東
臼杵郡α19町α17に設定したP16・P17らの疫学調査の結果,四
肢末梢優位の感覚障害を呈した人は,対照地区であるα17では142人
中1人(発生率約0.7%)しかいなかったが,汚染地区であるα15に
は109人中65人(発生率約65%)いたことが判明したとして,当該
調査結果から,「曝露群寄与危険度割合」を99.5%と計算し,汚染地区
においては四肢末梢優位の感覚障害は顕著であるとして,有機水銀の曝露
条件があって,四肢末梢優位の感覚障害がある患者は,明らかに他の原因
によるものでない限り,公健法上水俣病と認定されるべきであると主張す
る。
(ア)しかし,疫学は,個体差を考慮せず,集団の統計的特徴に基づいて
健康障害の要因を推定していく学問的方法論であるから,個人を観察の
対象とし,個体差を常に考慮する臨床医学において,この疫学的手法を
利用することにはおのずから限界があり,原告が,疫学研究のみの結果
に基づいて病気の原因を決定するとの見解を前提としているのであれば,
当該主張に理由がないことは明らかである。
そして,疫学においては,関連性の認められた要因を実際の人間集団
に与え,特定の健康障害が発生するかどうかを確認するという,因果関
係を評価するための理想的な研究手法を用いることはできないことから,
①調査対象集団の構成員が一様ではない,②対象者に重大な危害や不利
益が加わるような方法での疾病の検索が不可能であるため,その判定は
主に臨床診断によることになり,疾病発症の十分な評価ができない,③
対象となる人間の行動を制約・監視することが困難であることから,曝
露状況の評価が困難である,といった限界がある。さらに,要因と疾病
との間に統計学的関連が認められた場合であっても,真に関連性が認め
られるかを判断するには,バイアス(偏り。疫学的測定に紛れ込む誤差
のうち,真値との差に方向性のある誤差である系統誤差をいい,偶然・
確率的に起こる誤差である「偶然誤差」と区別される。この偏り(バイ
アス)は,誤差が起こる原因によって,「選択バイアス」(対象者を選択
する過程から発生し,研究への参加を左右する要因に起因する系統誤差
をいう。)と「情報バイアス」(試験参加者の疾病や曝露状態に関する不
正確な情報から生じる偏りを指し,「思い出しバイアス」などが含まれ
る。)に大別される。)や交絡因子を考慮し,その影響をできるだけ排除
する必要がある。そして,寄与危険とは,危険因子への曝露群がその因
子のみによって発症した部分を示す指標で,危険因子への曝露によって
罹患の危険がどれだけ増えたかを示すものである。この寄与危険の一類
型として,曝露群の発生率のうち,その曝露が原因となっている部分の
割合を寄与割合(寄与危険度割合又は曝露群寄与危険度)といい,曝露
群での発生率から非曝露群での発生率を差し引いた上,曝露群での発生
率で割ることにより得られる。したがって,例えば,寄与割合75%と
いうのは,あくまで,曝露群において認められた有病者集団のうち75%
については曝露によって生じた可能性があるというにとどまり,有病者
全員の疾病について,曝露によって生じた可能性が75%あるというこ
とを意味するものではないことは,上記の算出方法から明らかであり,
寄与割合が75%あるからといって,必ずしも,その有病者1名を取り
出した場合に,その個人の当該疾病が当該曝露によって引き起こされた
可能性が高いことを意味するものではない。
(イ)上記のとおり,疫学調査を行うときは,バイアスや交絡因子につい
て考慮した上で,関連性の有無を判断することが極めて重要であり,こ
れらを考慮していない疫学調査はその結果を活用する価値に乏しく,そ
こでの数値には何の意味もない。
そうであるところ,原告が「曝露群寄与危険度割合」を計算した際に
基礎としたP16・P17らの疫学調査は,α11を対象とするもので
あったところ,調査対象者の抽出に当たって,調査への参加に積極的な
グループの住民のみを対象としたとされ,検査を実施する医師が,疾病
に罹患している者を優先的に調査対象として選択してしまった可能性を
指摘することができるほか,曝露があったとして自らの意思で積極的に
調査に協力する者だけを調査対象としたおそれも指摘でき,その調査結
果は,曝露地域全体の指標ではなく,偏ったものとなっていると考えら
れる。それにもかかわらず,P16・P17の論文には,このような選
択バイアスを考慮し,その影響を排除しようとした形跡は全くうかがわ
れないばかりか,選択バイアスがなかったとの誤解を生じかねない表現
すら使用されている。また,α15地区における検診については,水俣
病患者の掘り起こしを目的としていた社会医学研究会ないしこれを継い
だ地域医療研究会の構成員が検査を行っていたのに対し,α17地区に
おいては,水俣病のコントロールをとる目的で検査を行い,被検者につ
いてもその目的が告知されていたのであるから,盲検法が取られなかっ
たことはいうまでもなく,α15地区では検者が水俣病にみられる所見
を積極的に確認する方向で検査を行い(診断バイアス),対照地区である
α17地区では,被検者が水俣病にみられる所見が現れない方向で検査
を受けていた可能性があるのであって,看過できない情報,観察による
偏りがある。したがって,当該調査の結果は,これを活用する価値に乏
しく,適切な曝露群寄与危険度割合を算出できるほどの精度を有してい
ない。
なお,原告は,当該調査の手法が普遍的な基準をクリアした正当なも
のであることは,世界的に権威があるとされるエンバイロメンタルリサ
ーチ誌に掲載されたことで証明済みであると主張するが,同誌に掲載さ
れたP16らの論文には,曝露群寄与危険度割合が計算・表示されてい
るわけではないから,同誌のレフェリーは,当該調査の結果が曝露群寄
与危険度割合を算出することができるほどの精度を有しているか否かに
ついては何ら判定しておらず,横断研究としては受容できるとしてこれ
を掲載したにすぎない。
のみならず,原告は,P16・P17らの実施した疫学調査(甲10
4)を用いて相対危険度及び曝露群寄与危険度割合を算出したと主張す
るが,そもそも,原告が曝露群寄与危険度割合等の算出に用いた数値(甲
第75号証参考資料7頁から引用した値)とP16・P17らの実施し
た疫学調査との関連性について見い出すことができない上,この甲第7
5号証における数値がどのようにして算出された値であるのかさえ全く
明らかではない。このように,原告が,P16・P17らの疫学調査の
結果であると主張して相対危険度及び曝露群寄与危険度割合の算出の基
礎としたデータは,その真偽さえ明らかではなく信用できないものであ
る。
さらに,P16・P17らの疫学調査は,感覚異常等の症状が曝露群
であるα15地区において非曝露群であるα17地区と比較して高い値
であるとするにすぎず,曝露群と非曝露群とのそれぞれの地域における
有症状者とされる者のうち,感覚異常以外の症状が認められないこと,
すなわち,被検者が感覚異常のみを有しているかを調査しておらず,同
調査の結果は,四肢末梢優位の感覚障害のみによって水俣病に罹患して
いると医学的に診断することができることの根拠とはなり得ない。
オ研究と人権問題委員会の52年判断条件に対する見解について
原告は,日本精神神経学会の研究と人権問題委員会が平成10年9月1
9日付けで学会活動報告として発表した52年判断条件に対する見解(甲
20)に基づき,高度の有機水銀曝露を受けた者で,四肢末梢優位の感覚
障害のみを有すれば,それだけで水俣病であると判断することができると
いう仮説を妥当なものとして採用することは,公害問題において当然の帰
結であると主張する。
(ア)しかし,研究と人権問題委員会の見解において取り上げられている
曝露群に関する調査のうち,P7によるものは,検者及び被検者共に極
めて強いバイアスがかかった調査結果であることは容易に推認できるし,
そもそもこの調査結果を他地域と比較することは極めて不合理である。
(イ)また,疫学においては,情報バイアス,殊にその一種である疾病状
態の不正確な測定という診断バイアスを排除する必要があり,取り分け,
客観性に乏しく被検者の応答に頼らざるを得ないといった困難な診断を
要する感覚障害においては,診断バイアスを排除するために,事前の診
察内容の打合せ等の調整が必要となるところ,研究と人権問題委員会の
見解は,既に終了した複数の疫学調査の結果を漫然と比較して曝露群寄
与危険度割合を算出しており,個々の疫学調査結果についてバイアスの
問題を無視しているというほかなく,複数の疫学調査を併せて用いる場
合は診断バイアスを排除することができないにもかかわらず,その点を
全く考慮していないという致命的な誤りを犯しており,信用できない。
(ウ)さらに,研究と人権問題委員会の見解は,P36が中心となって策
定されたものと推認されるところ,P36の別件訴訟における証言内容
等からすると,P36は,感覚障害の検査の困難性についての認識が乏
しく,診断バイアスへの配慮を欠いているというほかない。
なお,研究と人権問題委員会は,いわゆる精神科の学会である日本精
神神経学会に属するものであるところ,現在の日本の医療環境に照らし
て,精神科を専門とする委員会が,神経疾患である水俣病について述べ
た見解の正当性には重大な疑義がある。
(エ)以上のとおり,研究と人権問題委員会の見解は,正確性を欠く調査
結果や精度の異なる複数の調査結果を同列に扱って,バイアスや交絡因
子を調整する工夫がないままに機械的に曝露群寄与危険度割合を算出す
るなどという偏った手法を採用したものであって,これを活用する価値
に乏しいから,このように算出された曝露群寄与危険度割合99.1%
という数値には何らの意味もなく,これによって原告の前記主張が裏付
けられるものではない。
カ別件訴訟第2審判決が定立した判断基準について
原告は,別件訴訟第2審判決において,原告が水俣病患者であると認め
られたことから,原告は公健法上も水俣病であると認められると主張する。
しかしながら,そもそも,別件訴訟と本件処分の取消訴訟の訴訟物は異
なるから,別件訴訟において原告の請求が一部認容されたことは,本件処
分の適法性判断に何ら影響するものではない。
また,別件訴訟第2審判決が示した前記第2の4(4)ウの判断については,
次のとおり,医学的にみて明らかな誤りないし不適切といわざるを得ない
点が含まれている。
すなわち,別件訴訟第2審判決は,前記第2の4(4)ウの①については,
舌先又は指先の二点識別覚をもって判断の根拠としている。しかし,二点
識別覚とは,皮膚上の二点をコンパスやノギスで同時に触れ,これを二点
として識別できるか否かの検査であり,複合感覚の一つをみるものである
ところ,表在感覚が障害されている場合に複合感覚検査をしても意味があ
るのか疑問であるし,二点識別覚検査のような感覚障害検査は,性質上,
不可避的に被検者の応答に頼らざるを得ないという限界があり,神経疾患
の検査の中でも客観性に乏しく,最も難しい検査の一つであって,現時点
ではその客観的かつ標準的な検査方法さえ確立しているとはいえず,神経
疾患の局在診断あるいは原因的診断を下すのに,このような客観性の乏し
い一検査の結果のみに頼ることはあり得ない。さらに,舌先の二点識別覚
検査は,医学界において一般的に承認を得られた検査方法ではなく,その
確実性,有用性などについては全く明らかではない。このように,二点識
別覚検査の結果のみを用いて中枢神経の障害を診断できるとする医学的知
見は存在せず,まして,二点識別覚検査の結果で水俣病の診断ができると
した研究は存在しない。したがって,上記の基準は別件訴訟第2審判決が
独自に定立した基準であって,医学的根拠のないものである。
さらに,前記第2の4(4)ウの②において判断根拠とされている「四肢末
梢優位の感覚障害」については,同判決自身も,「四肢末梢優位の感覚障害
はメチル水銀中毒以外の原因によっても生じうるものであるから,四肢末
梢優位の感覚障害があることのみによっては,高度の蓋然性をもって,当
該患者がメチル水銀中毒であるとまではいえない」と判示しているとおり
であり,感覚障害が他の多くの原因によって生じ得ることは,たとえ家族
内に認定患者がいる場合であっても変わらないのであるから,同判決は,
自らが否定した「感覚障害のみによる水俣病の診断」を認めるという自己
矛盾した判断を行ったことになり,上記の基準が医学的経験則に反してい
ることは明らかである。
のみならず,前記第2の4(4)ウの③は,二点識別覚の検査を受けていれ
ば,「口周囲の感覚障害」又は「求心性視野狭窄」がみられても,水俣病と
は診断されないが,その検査を受けていない場合には,いずれかの症状だ
けで水俣病と診断されるという,そもそも到底医学的な基準としてはあり
得ないものである。また,別件訴訟第2審判決は,口周囲の感覚障害のみ
で水俣病と認め得る理由を,「末梢神経のうち,顔面の神経は,その伝導路
の途中に頸椎,腰椎などを通っていないから,加齢その他の原因による頸
椎狭窄などの影響を受けることがない」としているが,顔面の知覚神経は
三叉神経に支配されており,三叉神経は中脳より顔面に至るものであるか
ら,大脳皮質のみならず,中脳及び顔面の間の神経伝導路に,血管障害,
脳腫瘍,脳炎,その他の病変があれば,口周辺の感覚障害が生じ得るので
あって,医学的知見として口周辺の感覚障害に特異性がないことは明らか
であって,上記基準の定立は明らかな誤解に基づくものである。
なお,別件訴訟最高裁判決は,水俣病の病像論について踏み込んだ判断
を示さなかったが,この点については,水俣病がどのような病気であり,
個々人がこれに罹患しているかどうかは,専ら事実認定に関する事項(法
律審である最高裁判断を示すのにふさわしい事柄ではなく,本来,医学的,
科学的に解明されるべき事項)であることを考慮して,原審の判断につい
ては,経験則違反等の違法があるとはいえないと判断したものと推測され
るとされており,最高裁において別件訴訟第2審判決が独自に考案した前
記条件を是認したと認められるものではない。
(6)原告は水俣病ではないこと
ア原告には四肢末梢優位の感覚障害しか認められないこと
(ア)原告に係る検診結果等
原告は,昭和53年9月30日付けで本件申請をし,熊本県知事は,
同年10月7日付けでこれを受理し,昭和54年10月26日から同年
11月2日にかけて,疫学調査のほか,神経内科,精神科,耳鼻咽喉科
及び眼科の各検診を実施したが,その結果は,次のとおり,水俣病に係
る症候のうち,原告に認められたものは四肢末梢優位の感覚障害のみで
あった。
a感覚障害について
原告には,神経内科における検診で,両側前腕以下と右下腿以下,
左下腿外側から下腿以下にかけて触・痛覚鈍麻がみられ,精神科にお
ける検診では,四肢に知覚障害がみられ,以上の検査から,四肢の感
覚障害が認められた。
b小脳性運動失調について
言語障害については,神経内科の検診の際には認められていないが,
精神科検診では,構音障害がみられた。四肢の協調運動の検査につい
ては,神経内科の検診で,上肢ではジアドコキネーシス及び指鼻試験
がいずれも正常であり,下肢では膝踵試験及び脛たたき試験で左側に
脱力に伴う運動障害がある以外には認められず,精神科検診では,緩
徐がみられたこともあるが,異常とは認められなかった。起立歩行の
検査においては,神経内科の検査では,左の片足起立は不能で,つえ
歩行であり,精神科での検査では,「歩行,起立不能」であった。
以上のことから,原告には,時に構音障害がみられたものの,運動
障害は○及びその手術の影響とみられる左下肢の脱力によるものと考
えられ,小脳性の運動失調はないと判断されるべきものである。
c求心性視野狭窄について
眼科検診において,両眼とも視野狭窄は認められなかった。
d中枢性眼球運動障害について
滑動性追従運動で軽度の異常が疑われたが,有意な所見とはいえず,
衝動性運動,前庭動眼反射は,共に異常が認められなかったことから,
中枢性眼球運動障害はないものと判断されるべきものである。
e後迷路性難聴について
前記のとおり,水俣病にみられる難聴は,伝音声難聴ではなく感音
声難聴であり,感音声難聴のうちでも,大脳側頭葉の側脳溝に面する
横回領域の障害に起因する後迷路性難聴である。そして,原告につい
ては,耳鼻咽喉科検診において行われた純音聴力検査の結果では,両
耳,特に右側に伝音声難聴が認められ,中枢性神経障害に由来する感
音声難聴とは異なっている。また,高音部には両側の閾値上昇がみら
れ,その結果のみからは,一見後迷路性難聴の可能性を全否定するこ
とはできないようにもみえるが,骨導値は正常であり,聴覚疲労現象
は認められないことから,その閾値上昇は,外耳道,鼓膜,耳小骨の
いずれかの部分の障害によるものと考えるべきものであった。
また,語音聴力の一部悪化が認められたため,後迷路性難聴の可能
性も完全には否定できなかったが,後迷路性難聴を判定するより客観
的な検査である聴力疲労の検査では何ら異常を認めないのであるから,
後迷路性難聴の可能性を否定できないにしても,その可能性は極めて
小さいといえる。
f平衡機能障害(視運動性眼振パターン)について
視運動性眼振パターン検査は,正常範囲であることから,平衡機能
障害を示唆する所見はないと考えられる。
(イ)原告には,原告が主張するような症候は認められないこと
原告は,四肢末梢優位の感覚障害以外にも水俣病に係る症候が認めら
れると主張するが,それらは検査結果の一部分を誇大に解釈したものに
すぎず,到底認められるものではない。
a原告は,検診カルテの記述などから,原告は小脳性運動失調を有す
ると主張する。しかし,原告の○手術前である昭和49年8月18日
の検診記録ではジアドコキネーシスや指鼻試験は正常であり,運動失
調を認めておらず,昭和53年5月21日の神経内科の検診記録にお
いても,小脳性運動失調に関する検査のうち,「Ⅵ上肢」の項目では,
おおむねすべての項目において正常と判断されており,原告が指摘す
る「緩徐」という意味の「slow」との記載については,実際には「slow
butgood」(「緩徐なるも良好」の意。)と記載されており,運動失調は
ないという判断がされているし,同日の上記検診記録においては,小
脳性運動失調を調べる他の検査(膝踵試験等)について,健側(右側)
では全く正常の所見であり,かろうじて左側で「slow」や「-1」と
いう記載を認めるも,左側は○術後による筋力低下であることは明ら
かであり,原告に小脳性運動失調の所見は認められない。さらに,昭
和54年10月27日の神経内科検診記録における検診医の「まとめ
及び印象」でも,「Ataxia(運動失調の意)は認めない」と記載されて
おり,昭和49年の検診時にも小脳性運動失調が認められていないこ
とを考え合わせると,原告に小脳性運動失調が認められないことは明
らかである。
b原告は,昭和54年10月27日の神経内科検診記録中の記載をも
って,原告は構音障害も有していたと主張するが,当該検査を行った
検診医は,当該検診記録の「まとめおよび印象」の項目において,構
音障害については言及しておらず,有意な所見なしとしており,この
検診記録を要約転記した認定審査会資料においても,言語障害は「-」
となっている。
なお,同月28日の精神神経科の記録では,「口に何かがはさまっ
たようないい方,時々言葉がもつれる」と記載されているが,この所
見は構音障害において認められるoraldiadochokinesisとは別の所見
であるし,昭和49年8月18日,昭和53年5月21日,昭和54
年10月27日の神経内科の各診察ではこのような所見は認められて
おらず,有意な所見ともいえない。
そして,仮に原告に構音障害があるとしても,原告については上記
のとおり小脳性運動失調とは認められないのであるから,それがメチ
ル水銀の影響によるものとまでは判断できないというべきであり,し
たがって,原告には水俣病にみられる構音障害は認められないという
べきである。
c原告は,昭和54年の検診において滑動性追従運動の異常が認めら
れており,中枢性眼球運動障害を認めると主張する。
しかし,滑動性追従運動の検査で異常を示したのは,0.3Hzと0.
5Hzの2種類で検査を行ったうちの0.5Hzの方のみであり,しかも,
軽度の異常が疑われたにとどまる。滑動性追従運動の検査は,被験者
の意志の関与が所見に大きく影響を及ぼすところ,原告については,
他の眼球運動障害である衝動性運動障害や前庭動眼反射では正常とな
っており,0.3Hzの検査では正常波形を示したことを考えると,0.
5Hzの検査のみで滑動性眼球運動の異常が疑われたことをもって,有
意な所見とはいえず,中枢性の眼球運動障害であるとは到底判断でき
るものではない。
(ウ)小括
以上のとおり,原告に一貫して認められる水俣病に係る症候は,四肢
末梢優位の感覚障害のみであり,その他の小脳性運動失調や構音障害,
平衡機能障害,求心性視野狭窄を認めない。また,軽度の滑動性追従運
動の障害が疑われるものの中枢性の眼球運動障害であると判断できず,
メチル水銀の影響によると判断できるものではないし,聴力障害もメチ
ル水銀の影響による可能性は極めて低く,水俣病と診断できる根拠とな
るレベルの所見ではなく,原告には,52年判断条件の2(2)の水俣病に
みられる症候の組合せは認められない。そうであるところ,52年判断
条件が,定説的な医学的知見に基づき,これに反しない限度で可能な限
り救済の間口を広げるために設定された基準として合理的なものである
ことは前記のとおりであるから,原告が水俣病であるとは認められない。
イ原告のメチル水銀曝露は濃厚なものではなく,発症時期も曝露時期とは
一致しないこと
(ア)原告の認定審査会資料においては,メチル水銀への曝露歴に関して,
次のとおり記載されている。すなわち,原告の居住歴及び職歴として,
水俣市α2で出生し,昭和18年から昭和25年まではα3に居住し,
漁業に従事していたことが,同年から昭和30年まではα2,α4及び
α5町に居住し,農業及び家事に従事していたことが,同年から昭和4
6年まではα7に居住し,農業に従事していたことが,同年から現在(昭
和48年)までは兵庫県に居住し,会社員であったことが,それぞれ記
載され,家庭内認定者の有無については,いない旨記載され,魚介類の
入手方法については,昭和25年までは漁業で入手したが,その後は店
や行商人から買ったり,漁師からもらったりしていた旨記載されている。
(イ)また,上記認定審査会資料には,原告の病歴として,昭和48年に
手足のしびれがあり,手足,足先ほど強くしびれ,物をもっている感じ
がしないこと,足先が曲がっているような感じがあること,正座ができ
ないこと,頭痛,後頸部痛,物忘れ,手関節痛,腰痛,肩凝り,足にカ
ラス曲がりがあり,視力が低下した旨記載され,既往歴として,腰痛,
頭痛が昭和48年から昭和54年にかけてあり,P39診療所,P40
病院,P41病院及びP28病院を受診したこと,昭和50年にP29
病院で○の手術を受けたこと,昭和51年7月8日に,○切除後後遺症
の体幹の機能障害による起立位保持困難により2級1種の身障者手帳の
交付を受けたことが記載されている。
この点原告は,昭和28年ころから手足のしびれが生じていた,疫学
調査では昭和48年ころからの自覚症状となっているが,生活歴や病歴
に応じた十分な聴取が原告からなされておらず,医師でない行政職員に
よる調査の限界を示しているなどして,水俣病に関する原告の症状が昭
和28年ころには発症していたかのように主張する。しかし,症状につ
いて詳細に記録されている疫学調査(乙16の17)に対し,「生活歴や
病歴に応じた十分な聴取が原告からなされて」いないと主張する具体的
根拠は全く述べられていない。また,原告の疫学調査においては,上記
のとおり,水俣病にみられる症状の発症が昭和48年と記載され,特に
多足のしびれについては,昭和54年10月28日の精神神経科の診察
記録でも「発症:昭和48年」という記載に加えて,昭和53年ころの
欄に「1年前より手足先のしびれ,カラスまがり」と記載されており,
精神神経科の診察も,これらの症状が昭和48年ころに発症したことを
支持するものとなっている。
(ウ)上記のとおり,原告は,昭和25年以降,漁業に従事しておらず,
昭和46年には兵庫県に転居したため,その後はα8湾の魚介類は摂取
していない。そして,最も濃厚な曝露を受けていた昭和30年代には水
俣病にみられる症状を発症せず,昭和48年になって感覚障害の所見が
認められたというのであるから,このようなものがメチル水銀の影響に
よるものとは考え難い。
さらに,原告が海岸線近くに住み,漁業に従事していた期間はわずか
であり,その期間も濃厚な汚染以前のことである。原告は,出生後,兵
庫県に転居するまでの間,大半は山間部に居住し,農業に従事していた
のであり,濃厚な曝露は認められないことから,メチル水銀曝露条件は
弱く,水俣病と診断するには根拠が薄弱である。
ウ原告の有する四肢末梢優位の感覚障害が○及びその手術の影響を受けて
いる可能性を否定できないこと
原告に昭和48年から認められた四肢末梢優位の感覚障害は,その時期
的な近接性のみからも,昭和50年にP29病院で手術を受けた○及びそ
の手術の影響によるものである可能性が考えられるところ,実際に,原告
の当該○の部位は,昭和54年の神経内科の検診録で「perietal」(頭頂葉)
と記載されており,同部位は中枢性の感覚障害を十分に来し得る部位であ
る。以上に加え,上記のとおり,原告の感覚障害が,その発症時期等から
メチル水銀の影響によるものとは考え難いことも併せて考慮すれば,原告
の有する感覚障害は,むしろ時期的に近接する昭和50年の○及びその手
術の影響を受けているというべきである。
エまとめ
以上のとおり,原告の有する水俣病に係る症候は,四肢末梢優位の感覚
障害のみである上,濃厚なメチル水銀曝露歴があったとは認め難く,上記
感覚障害は,その発症時期等に照らし,○及びその手術の影響によるもの
というべきである。
そして,これらの事実の存在を前提とした上で,本件処分当時の定説的
な医学的知見に基づいて評価・判断すると,医学的根拠をもって水俣病で
ある可能性が水俣病でない可能性を上回ると判断することは到底できない
ことは明白であって,原告が水俣病にかかっていると認めることはできな
い。
よって,原告が「疾病(水俣病)にかかっていると認められる」という
公健法上の認定要件を満たさないことは明らかであるから,本件処分は適
法である。
2争点②(公健法4条2項に基づく水俣病認定の義務付けの可否)について
【原告の主張】
争点①で述べたとおり,46年事務次官通知によれば,原告が水俣病である
ことは明らかであり,本件申請を棄却した本件処分は取り消されるべきもので
あって,原告を水俣病と認定する処分をすべきであることが公健法の規定から
明らかであるから,熊本県知事に原告が水俣病であるとの認定をすることを義
務付けるべきである(行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)37条の3
参照)。
そして,本件処分が取り消されただけでは,再認定申請での棄却,不服審査
の請求等の果てしない繰り返しとなり,根本的な解決は望み得ない。
【被告熊本県の主張】
公健法4条2項は,同法2条3項の規定により定められた疾病にかかってい
ると認められる者が同法4条2項に基づく認定を申請することを認めている
から,原告の水俣病認定の義務付けを求める訴えは,行訴法3条6項2号の申
請型義務付け訴訟に該当するところ,申請型義務付け訴訟のうち,「申請又は
審査請求を却下し又は棄却する旨の処分又は裁決がされた場合」(同法37条
の3第1項2号)の類型については,併合提起した処分又は裁決に係る取消訴
訟等が認容されることが訴訟要件となるものと解される。
しかるに,本件において,熊本県知事が行った本件処分が適法であって,取
り消されるべきものに当たらないことは争点①について述べたとおりである
から,原告の上記義務付けの訴えは訴訟要件を欠き不適法であって,却下され
るべきである。
3争点③(本件裁決の適法性)について
【原告の主張】
(1)52年判断条件に正当性・相当性があることについての判断の理由の欠
缺又は理由不備の違法
本件審査会は,公健法に基づき,環境大臣の所轄の下に設置された審査庁
であるが,職権行使の独立性及び身分保障を認める規定(公健法115条,
116条参照)等からして,環境庁の発する通知等やそれらに基づく公健法
の運用の実態等に必ずしも拘束されず,独立して職権行使することが義務付
けられている。すなわち,原告の疾病が,有機水銀の経口摂取によって生じ
たか否かの判断をするについては,まず,公健法の立法目的趣旨を探求し,
その本旨に立ち戻って本件処分の違法性一般を第三者的な審査機関としての
公正な立場から厳正に判断すべき使命,責任を負っている。
しかるに,本件審査会は,争点①で述べたとおり本来よって立つべき基礎
である46年事務次官通知を一顧だにせず,かえって,既に述べたとおり,
科学的,医学的根拠を欠き,問題点の多い52年判断条件を,何ら理由を示
すことなく「非常に重いものとして受け止める」として,公健法の趣旨に背
反する52年判断条件に不当に呪縛された状態の下で審査・判断しているの
であり,本来の第三者機関としての公正な任務,役割を放棄しているといわ
ざるを得ない。本件審査会は,52年判断条件に「拘束されない」としなが
ら,「非常に重いものとして受け止めて」これに呪縛されざるを得ない理由を
何ら明示していないのであって,その審査判断には前提問題についての理由
欠缺又は理由不備の違法がある。
(2)52年判断条件の正当性・相当性についての審理不尽の違法
原告は,本件審査手続において,本件処分が52年判断条件に準拠して行
われたから違法・不当であり,取消事由があると主張していたが,本件審査
会は,原告の主張を十分理解しないまま,具体的理由を明らかにすることな
く52年判断条件を一方的に是認した上で本件裁決を行っている。しかるに,
本件裁決において「当審査会としては環境省の示す判断条件に拘束されると
は考えない。」と述べられているように,環境省が示す52年判断条件が正当
性を有するかどうかが問題なのであり,本件審査会は,この点について十分
な審理を尽くさないまま本件裁決を行うという重大な違法を犯したものであ
る。
(3)原告の昭和50年の○手術以前の検診結果についての審理不尽の違法
原告は,昭和50年に○手術を受けているから,それまでに左半身優位に
出現していた各種症状と○との関係を十分究明し,その症状の意味するとこ
ろを明らかにする必要があった。
そして,原告は本件申請前に一度水俣病認定申請を行い,棄却された経歴
があるところ,その関係で原告は昭和49年に認定検診を受けており,○手
術前の症状のデータを被告熊本県は所持している。
しかるに,熊本県知事は,平成18年12月28日付け書面において,本
件審査請求に係る本件処分時に使用された資料ではないため,提出できない
との意見を表明し,その点につき審理を行わないまま本件裁決に至っており,
本件裁決には審理不尽の違法がある。
【被告国の主張】
本件審査請求の審理は,公健法の当事者主義及び行政不服審査法の各規定に
基づき行われており,その審理手続に何ら違法な点はない。
理由付記の不備ないし審理不尽に関する原告の主張はいずれも争う。
第4当裁判所の判断
1公健法における水俣病認定の枠組み
(1)公健法4条2項の構造
ア公健法2条2項は,同法において,「第二種地域」とは,事業活動その他
の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が
生じ,その影響により,当該大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質
との関係が一般的に明らかであり,かつ,当該物質によらなければかかる
ことがない疾病が多発している地域として政令で定める地域をいう旨規定
し,同条3項は,同条2項の政令においては,あわせて同項の疾病を定め
なければならない旨規定している。以上を前提として,同法4条2項前段
は,第二種地域の全部又は一部を管轄する都道府県知事は,当該第二種地
域につき同法2条3項の規定により定められた疾病にかかっていると認め
られる者の申請に基づき,当該疾病が当該第二種地域に係る大気の汚染又
は水質の汚濁の影響によるものである旨の認定を行なうと規定し,同法4
条2項後段で準用する同条1項後段は,当該疾病にかかっていると認めら
れるかどうかについては,公害健康被害認定審査会の意見をきかなければ
ならない旨規定する。
以上のような公健法の規定からすると,公健法4条2項に基づく申請を
した者が同項に基づく認定を受けるためには,①当該申請者が当該申請に
係る指定疾病にかかっていること及び②当該疾病が,当該第二種地域に係
る大気の汚染又は水質の汚染の影響によるものであること,以上の2つの
要件を満たすことを要すると解される。
イこれに対し,原告は,上記①の要件は,当該申請者が指定された地域に
一定期間居住して,当該地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響を受
ける立場・地位にあったこと,水俣病に則していえば,α8湾又はその周
辺海域の魚介類の多食等による「有機水銀への曝露」という条件を満たし
ていることを意味し,上記②の要件を判断するための前提条件であって,
同②の要件は,当該申請者に発現している症状や疾病が,有機水銀への曝
露の影響による疾病と認められるか否か,すなわち,公健法でいうところ
の「水俣病」の症状のいずれかと同一性が認められるか否かという問題で
あり,本件における主位的な問題は,あくまで当該疾病(申請者に発現し
ている症状や疾病)が「当該地域の水質の汚濁」すなわち「メチル水銀へ
の曝露」の「影響による疾病」と認められるかということであると主張す
る。
しかしながら,原告の上記主張は,公健法4条2項にいう「当該疾病」
を,同項に基づく申請者に発現している症状や疾病を意味することを前提
とするものであるところ,同法の文理に照らせば,同項にいう「当該疾病」
は当該第二種地域につき同法2条3項の規定により公健法施行令に定めら
れた疾病をいうものと解するのが自然であって,同法の規定からは,上記
「当該疾病」について,その文理を離れて原告が主張するように解すべき
根拠を読み取ることはできない。
この点,原告は,公健法における指定地域(例えば,新潟水俣病におけ
るα9川流域)外の住民(例えば,新潟県下のα20川流域の住民)が有
機水銀取扱工場の廃液の影響により感覚障害等の水俣病に罹患したとして,
公健法上の救済を申し立てたとしても,「当該申請者が当該第二種地域につ
き定められた指定疾病」(水俣病一般ではない)にはかかっていないとして
「水質汚濁の影響の有無」という実体的判断に立ち入るまでもなく,申立
てを棄却(却下)することができると主張し,公健法2条3項に基づき公
健法施行令において定められた指定疾病は,同条2項に基づき公健法施行
令において定められた当該指定疾病に係る指定地域に限定されたものであ
り,それは,当該地域に係る水質の汚濁の影響を受ける立場・地位にあっ
たかによって判断されるものであるかのような主張をする。
しかしながら,公健法2条2項に規定する指定疾病は,事業活動その他
の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が
生じる場合において,当該大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質と
の関係が一般的に明らかであり,かつ,当該物質によらなければかかるこ
とがない疾病をいうのであって,同項に規定する指定疾病は,当該大気の
汚染又は水質の汚濁の原因である物質による疾病であることを超えて,当
該大気又は水質の汚濁自体によることはその要件とはされていない。した
がって,公健法4条2項における指定疾病は,大気の汚染又は水質の汚濁
の原因である物質との関係が一般的に明らかであり,かつ,当該物質によ
らなければかかることがないものであれば足り,それ以上に当該大気の汚
染又は水質の汚濁に係る指定地域において生じた疾病に限定されるもので
はないというべきである。公健法施行令別表第二の1及び4の項並びに3
及び5の項も,それぞれ異なる地域について同一の疾病を規定しており,
当該疾病が,当該疾病に係る指定地域に固有のものではないことを前提と
しているものというべきである。
したがって,公健法4条2項の判断の枠組みに関する原告の上記主張を
採用することはできず,同項の認定要件としては,①当該申請者が当該申
請に係る指定疾病にかかっていること及び②当該疾病が,当該第二種地域
に係る大気の汚染又は水質の汚染の影響によるものであることがそれぞれ
独立の要件として必要になると解すべきである。
ウもっとも,公健法4条2項の認定の対象となる指定疾病は,特定の物質
をその原因とする疾病(当該物質によらなければかかることがない疾病)
であるから,上記①の当該申請者が当該申請に係る指定疾病にかかってい
るとの要件を満たすとの判断は,同時に当該指定疾病に係る原因物質への
曝露があることをも意味することになる。そうであるところ,当該疾病の
原因となる上記物質は,事業活動その他の人の活動に伴って生じる相当範
囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質に限られる
のであるから(同法2条2項参照),そのような物質が自然界に多量に存在
することは想定し難いところであり,当該物質への曝露の機会は,相当程
度限定されたものになるものと解される。そして,後記のとおり,公健法
2条2項に規定する指定疾病には,水俣病をはじめ,その症候が必ずしも
当該指定疾病に特異的なものではないものもあり,当該指定疾病にかかっ
ているかどうか判断するためには,当該指定疾病の原因物質への曝露の有
無をも探求する必要がある場合も少なくないと考えられることからすると,
上記①の要件を満たす場合,すなわち,公健法4条2項の認定の対象とな
る指定疾病にかかっていると認められる場合において,当該指定疾病に係
る指定地域における居住等,当該地域における当該指定疾病に係る原因物
質への曝露の機会が認められるときは,事実上,当該指定疾病は,当該第
二種地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものであると推認
され,これが当該地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁以外の影響による
ものであることが明らかとならない限り,上記②の要件をも満たすものと
判断して差し支えないというべきである。
そうすると,本件においても,原告が上記①の要件を満たす場合,すな
わち,原告が公健法2条2項の規定に基づき公健法施行令別表第二に規定
された疾病(水俣病)にかかっていると認められる場合には,その判断の
過程において,同別表4の項中欄に掲げられた地域における居住等,原告
につき同地域における水俣病の原因物質への曝露の機会が認められるとき
は,原告がかかっている水俣病は,当該地域に係る水質の汚濁の影響によ
るものであると推認することができ,原則として,上記②の要件も満たす
ことになる。したがって,本件処分の適法性を検討するに当たっては,ま
ずもって,原告が上記①の要件を満たすと認められるか,すなわち,原告
が「水俣病にかかっていると認められる」かどうかについて検討すべきこ
とになる。
(2)「水俣病にかかっていると認められる」場合について
ア公健法における「水俣病」の意義
(ア)前記のとおり,公健法2条2項は,同法において「第二種地域」と
は,事業活動その他の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の
汚染又は水質の汚濁が生じ,その影響により,当該大気の汚染又は水質
の汚濁の原因である物質との関係が一般的に明らかであり,かつ,当該
物質によらなければかかることがない疾病が多発している地域として政
令で定める地域をいうと規定し,同条3項は,同条2項の政令において
は,あわせて同項の疾病を定めなければならない旨規定するところ,こ
れらの規定を受け,公健法施行令別表第二4の項は,公健法2条2項の
政令で定める地域として「熊本県の区域のうち,水俣市及び葦北郡の区
域並びに鹿児島県の区域のうち,出水市の区域」を,同条3項の政令で
定める疾病として,「水俣病」をそれぞれ規定しているものの,「水俣病」
の定義規定等,これがいかなる疾病であるかについては,なんら規定が
置かれていない。
(イ)ところで,救済法2条1項は,同法において,「指定地域」とは,事
業活動その他の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の汚染又
は水質の汚濁が生じたため,その影響による疾病が多発している地域で
政令で定めるものをいう旨規定し,同条2項は,同条1項の政令におい
ては,あわせて同項に規定する疾病を定めなければならない旨規定し,
同法3条1項前段は,指定地域の全部又は一部を管轄する都道府県知事
は,当該指定地域につき同法2条2項の規定により定められた疾病にか
かっている者について,その者の申請に基づき,公害健康被害者認定審
査会の意見を聴いて,その者の当該疾病が当該指定地域に係る大気の汚
染又は水質の汚濁の影響によるものである旨の認定を行う旨規定してお
り,これらを受けて,公害にかかる健康被害の救済に関する特別措置法
施行令(昭和44年12月27日政令第319号,以下「救済法施行令」
という。)別表6の項は,上記政令で定める地域及び疾病として,公健法
施行令別表第二4の項と同様の規定を置いていた。
そして,公健法は,附則2条において,救済法を廃止する旨規定する
一方,附則3条において,同法の施行の際に現に救済法3条1項の認定
を受けている者は,政令で定めるところにより,公健法による認定を受
けたものとみなす旨規定するほか,附則4条1項,2項も,公健法施行
の際現に救済法3条1項の認定の申請をしている者に対しては,従前の
例によりその認定をすることができ,この認定を受けた者は,政令で定
めるところにより,公健法による認定を受けたものとみなす旨規定して
おり,先にみた救済法の規定内容と公健法のそれとの類似性に加え,上
記のような公健法の下における救済法の位置付け等からすると,公健法
が,救済法の下における認定制度を発展的に引き継いだ経緯が明らかで
あり,公健法2条2項に基づき公健法施行令別表第二が規定する「水俣
病」は,救済法2条2項に基づき救済法施行令別表に規定された「水俣
病」と同義であると解すべきである。
そうであるところ,証拠(乙19,91,93)によれば,救済法施
行令別表に「水俣病」が規定されるに至った経緯として,次の事実が認
められる。すなわち,救済法施行令制定に先立つ昭和44年,財団法人
P42協会は,厚生省から公害の影響による疾病の範囲等に関する研究
を委託され,同年8月,P6を委員長とする公害の影響による疾病の指
定に関する検討委員会(P6委員会)を設置し,公害に係る健康被害の
救済制度の確立と円滑な運用に資するため,制度の対象とする疾病の名
称,続発症検査項目等の問題について検討を行った。そして,P6委員
会は,有機水銀関係について,政令に織り込む病名としては「水俣病」
を採用するのが適当であること,水俣病の定義は,「魚貝類に蓄積された
有機水銀を経口摂取することにより起こる神経系疾患」とすること,α
8湾沿岸における水俣病とα9川沿岸における有機水銀中毒との相互関
係については,疫学,臨床,病理,分析等の所見から同一の疾病であり,
同一病名で統括することができること,水俣病という病名は,我が国の
学会ではもちろん,国際学会においてもMinamataDiseaseとして認めら
れ,文献上もそのように取り扱われていること,有機水銀中毒,アルキ
ル水銀中毒,メチル水銀中毒等は経気,経口,経皮等によっても惹起さ
れるが,水俣病は上記定義のごとく魚貝類に蓄積された有機水銀を大量
に経口摂取することにより起こる疾患であり,魚貝類への蓄積,その摂
取という過程において公害的要素を含んでいること,このような過程は
世界のどこにもみないものであり,この意味において水俣病という病名
の特異性が存在すること,などの意見を取りまとめ,こうしたP6委員
会の意見を受けて救済法施行令別表に救済法2条2項に規定する疾病と
して「水俣病」が規定されるに至った。
以上のような救済法施行令に「水俣病」が規定されるに至った経緯に
加え,水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(平
成21年法律第81号,以下「水俣病特措法」という。)前文及び2条1
項においても,メチル水銀により水俣病が発生したとの認識が示されて
いることなどからすると,公健法の下における「水俣病」とは,魚介類
に蓄積されたメチル水銀を経口摂取することにより起こる神経系疾患を
いうものと解するのが相当である。
イ水俣病に「かかっている」と認められる場合について
(ア)公健法における水俣病の意義は上記のとおりであるところ,前記の
とおり,公健法4条2条に基づく認定を受けるためには,「水俣病にかか
っている」と認められることが必要であり,水俣病にかかっていると認
められるためには,経験則に照らして全証拠を総合検討し,当該申請者
が水俣病にかかっていることが証明される必要があり,その判定は,通
常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであるこ
とを要するものというべきである。
(イ)これに対し,被告らは,「水俣病にかかっていると認められる」とい
う認定要件は,それ自体が医学的概念を取り込んだ規範的要件であって,
具体的には「定説的な医学的知見に基づいて水俣病にかかっていると認
められる」ことを意味すると主張する。
確かに,前記のとおり,公健法及び公健法施行令は,「水俣病」がいか
なる疾病であるかについては特段の規定を置いておらず,その意義につ
いては医学的概念として医学における知見にゆだねる趣旨と解されるが,
そのような医学的概念としての「水俣病」は,上記アのとおり認識され
るのであって,このようにして認識されるところの公健法における「水
俣病」に,「かかっている」か否かということ自体は,一般的,日常的な
事実概念として理解できるものであり,それ自体が医学的概念であると
いうことはできないから,裁判所における事実認定の対象となるものと
いうべきである。
この点,被告らは,他の立法例,例えば,被爆者援護法との相違から
「水俣病にかかっていると認められる」という要件についての被告の主
張が裏付けられると主張する。すなわち,被爆者援護法においては,1
0条1項において,申請疾患が現に医療を要する状態にあること(要医
療性)及び現に医療を要する負傷又は疾病が,原子爆弾の放射線に起因
するものであるか,放射線以外の原子爆弾の傷害作用に起因するもので
あって,その者の治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受けているため
上記状態にあること(放射性起因性)を医療給付の支給要件とし,同法
11条1項は,同法10条1項に定める場合であることを原爆症の認定
要件としており,このように,被爆者援護法の原爆症認定については,
被曝,疾病及び両者の間の因果関係という個々の要件事実が証拠によっ
て認められることによって充足されたと判断されるものと規定されてい
るが,公健法4条2項は,原因物質への曝露を前提としつつも,申請者
が定説的な医学的知見に基づいて水俣病にかかっていると認められるこ
と自体を一つの認定要件としており,通常の因果関係は認定要件として
規定されておらず,この点において,公健法4条2項の認定は,被爆者
援護法の原爆症認定とは明らかに異なるというのである。
しかしながら,前記のとおり,公健法4条2項に規定する認定の対象
となる疾病は,大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質(原因物質)
によらなければかかることのないものであるから,当該疾病の意義ない
し定義自体が,当該原因物質と疾患との間の因果関係を含んだものにな
らざるを得ない。「水俣病にかかっている」との要件は,前述した水俣病
の意義に照らせば,その原因物質であるメチル水銀の摂取と当該申請者
に発現している疾患との間の因果関係を含むものであるというべきであ
り,被爆者援護法における原爆症認定とその認定要件の構造が異なるも
のではないというべきである。
したがって,「水俣病にかかっていると認められる」という認定要件は,
それ自体が医学的概念を取り込んだ規範的概念であって,この要件が認
められるためには,定説的な医学的知見に基づいて水俣病にかかってい
ると認められることが必要であるとの被告らの主張は,採用することが
できない。
もとより,水俣病にかかっていると認められるか否かを判断するに当
たっては,水俣病に係る医学的知見を参照すべきことは当然であるけれ
ども,そのような医学的知見は,水俣病にかかっているか否かという事
実を認定する際の経験則の一つを構成するものにすぎないのであり,公
健法4条2項に規定する申請をした者が上記要件を満たすためには,そ
のような医学的知見を含む経験則に照らして全証拠を総合検討し,当該
申請者が水俣病にかかっていると認められること,すなわち,当該申請
者に一定の疾患が存すると認められることを前提として,当該疾患が魚
介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取によって招来されたものである
との関係を是認し得る高度の蓋然性が証明されることを要するものとい
うべきであって,その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実
性の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきである。
(ウ)この点,原告は,公健法4条2項においては,「影響」という用語が
使用されているところ,この「影響」という用語は,被爆者援護法にお
ける「起因」等という用語よりも広い概念であることや,公健法の立法
趣旨や水俣病の病像の未解明性からすれば,損害賠償請求訴訟における
個別的因果関係の認定の場合よりも立証の程度は緩和されるべきである
と主張する。
しかしながら,前記アにおいて説示したとおり,申請者に存する疾患
とメチル水銀の経口摂取との間の因果関係の有無は,公健法4条2項に
おける「水俣病にかかっている」という要件該当性の問題であって,同
項にいう「影響」の有無の問題ではない。そして,公健法4条2項は,
「起因」等,直接上記因果関係の存在を同項の認定の要件とするような
文言は用いていないものの,前記のとおり,公健法2条2項の規定によ
り公健法施行令で指定された疾病については,その意義ないし定義自体
に原因物質と疾患との間の因果関係の存在を内包しているのであって,
公健法4条2項の認定は,原因物質の曝露との間の因果関係をもその要
件としているものと解され,その点は,被爆者援護法における原爆症認
定等と異なるところはないというべきである。
そして,行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に,
これを拒否する処分の取消訴訟において当該処分を受けた者がすべき因
果関係の立証の程度は,特別の定めがない限り,通常の民事訴訟におけ
る場合と異なるものではないというべきところ(最判平成12年7月1
8日・判例時報1724号29頁参照),公健法4条2項に規定する認定
については,その因果関係の立証の程度を緩和する特別の定めは存しな
いし,同法の趣旨ないし目的からそのような趣旨を読み取ることもでき
ない。
すなわち,公健法は,同法2条1項に規定する第一種地域について同
条3項に基づき政令に規定する疾病については,これが,大気の汚染又
は水質の汚濁の原因である物質との関係が一般的に明らかではなく,又
は当該原因である物質によらなくてもかかることがある疾病であって,
当該原因物質と当該疾病との間の因果関係の立証が極めて困難であるこ
とから,同法4条1項に規定する認定については,上記のような意味の
大気の汚染の原因物質に対する曝露との間の因果関係自体は当該「疾病
にかかっている」という要件には含まないものとした上,当該疾病にか
かっていると認められる者が,当該大気汚染に対する一定の曝露条件を
満たす場合には,当該疾病と当該大気汚染との間に因果関係がある(当
該疾患が当該大気汚染の影響によるものである)ものとして取り扱うこ
ととして,個別具体的な因果関係の立証を不要としているところ,同条
2項に規定する認定については,そのような因果関係の認定方法につい
ての特別の規定を置いていない。また,水俣病に関しては,水俣病特措
法5条1項が,同法に基づく救済の対象者として,「過去に通常起こり得
る程度を超えるメチル水銀のばく露を受けた可能性があ…る者」と規定
し,メチル水銀に対する曝露の事実に係る立証の程度につき,その可能
性で足りるものとして,その程度を緩和しているところ,公健法4条2
項は,上記因果関係の立証の程度についても,そのような特別の規定は
置いてない。
そして,公健法は,事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範
囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁の影響による健康被害に係
る損害を填補するための補償並びに被害者の福祉に必要な事業及び大気
の汚染又は水質の汚濁の影響による健康被害を予防するために必要な事
業を行うことにより,健康被害に係る被害者等の迅速かつ公正な保護及
び健康の確保を図ることをその目的とするものである(同法1条)。すな
わち,同法は,大気の汚染又は水質の汚濁の原因者の汚染原因物質の排
出による環境汚染によって生じた健康被害をその対象として,本来であ
れば,当該原因者と被害者との間で損害賠償等の民事上の問題として処
理されるべき損害ないし健康被害について,これを填補する制度的な枠
組みを設け,もって,公害被害者の迅速かつ公正な保護及び健康の確保
を図ろうとするものであって,本質的には,民事責任を踏まえた損害な
いし健康被害の填補を図る制度としての性格を有するというべきである。
したがって,このような同法の基本的な性格ないし趣旨からは,同法4
条2項に規定する認定の要件のうち因果関係の立証の程度につき,通常
の民事訴訟におけるのに比して緩和すべきものとする趣旨を直ちに読み
取ることは困難であるといわざるを得ない。
以上のとおりであるから,公健法4条2項の認定の要件としての因果
関係の立証の程度を通常の民事訴訟における場合に比して緩和すべきで
あるとする原告の主張を採用することはできない。
もっとも,後記のとおり,水俣病が発見された後長期間が経過した現
在においても,水俣病の病像については医学者の間でも争いがあり,必
ずしも医学的知見が帰一しないという現在の状況の下においては,当該
申請者の疾患が魚介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取によって招来
されたものであるとの関係を是認し得る高度の蓋然性が証明されたとい
えるかどうかについては,水俣病に係る特定の医学的知見に拘泥するこ
となく,証拠により認められるあらゆる事情を総合的に考慮し,健全な
社会通念に照らして通常人において疑いを差し挟まない程度に真実性の
確信を持ち得るかという観点から判断すべきものである。
2水俣病に関する基礎的事実関係
以上を前提として検討するに当たり,前記前提事実に加えて,証拠(甲75
~77,乙1,4,41,46,57,69,102,126)及び弁論の全
趣旨によると,まず水俣病に関し,以下の事実を認めることができる。
(1)水俣病発見の経緯等
ア水俣病は,昭和28年ころから熊本県水俣市及びα8湾周辺において集
団的に発生した,有機水銀化合物の一つであるメチル水銀を摂取すること
により引き起こされる中毒性神経障害である。そして,上記メチル水銀は,
P5工場のアセトアルデヒド製造設備内で生成されたものであり,これが
工場排水に含まれて排出され,α8湾及びその周辺海域の魚介類の体内に
濃縮・蓄積されて,これを経口摂取することにより,人の体内に取り込ま
れ,上記の神経障害を引き起こすものであった。
イすなわち,α8湾周辺地域においては,昭和25,26年ころから,漁
獲量が著しく減少し,カラスや水鳥が空から落ちたりするほか,昭和28
年ころには,猫の狂死なども確認されるようになっていたところ,昭和3
1年5月1日,P43病院長であったP44は,α8湾沿いの漁村におい
て4名もの脳炎らしき患者が発生していたことから,P57保健所に対し,
原因不明の中枢神経疾患が多発している旨報告し,これにより水俣病が公
に認知されることになった。
そして,その後も類似の症状を呈する患者が続発したことから,同年8
月24日,熊大医学部において同学部のP45教授を班長とする水俣病研
究班(以下「熊大研究班」という。)が組織され,水俣病につき,疫学的,
臨床学的及び病理学的研究が行われることとなった。そして,上記の患者
のほとんどがα8湾から採れる魚介類を多量に摂食しており,また,魚介
類を好んで食べる猫,鳥,水禽類も多数死亡していることが判明したため,
水俣病は,α8湾周辺の魚介類を介しての何らかの中毒,特に重金属の中
毒が強く疑われるに至った。そのため,熊本県衛生部は,同年11月,現
地の漁民に対し,α8湾の魚介を採らないよう指導したため,昭和32年
には一時的に患者の発生がなくなったかにみえたが,その後,現地の漁民
が生活困窮のために再び出漁するようになり,再度患者が発生するに至り,
昭和36年末までの患者総数は89名であるとされ,そのうち36名が死
亡するに至った。
ウ上記水俣病の原因については,昭和32年7月に開催された厚生省厚生
科学研究班により,何らかの化学物質に汚染された魚介類を多量に摂取す
ることにより発症する中毒症であるとの結論が示されたものの,その原因
物質としては,当初マンガン,タリウム及びセレン等の物質が疑われたも
のの,明らかとはならなかった。
その後,水俣病の臨床像及び病理像が,イギリスのP46及びP47ら
による有機水銀中毒の報告例に酷似していることが明らかとなり,熊大研
究班は,昭和34年7月,文部省科学研究水俣病総合研究班会議において,
水俣病の原因は,有機化合物,特に有機水銀が有力であるとの報告を行っ
た。すなわち,P46らは,1940年(昭和15年),イギリスにおける
4例の有機水銀中毒患者の臨床像について報告し,次いで,1945年(昭
和20年)には,1死亡例について脳病理所見を報告し,その中毒の特異
性を明らかにしたが,そこでは,臨床的には,四肢の感覚障害,中心性視
野狭窄,小脳性運動失調及び難聴を示し,病理学的には,大脳後頭葉の線
野の萎縮,小脳顆粒細胞の脱落,側頭葉皮質の聴覚中枢,及び頭頂葉中心
溝前後の損傷が認められることを報告していたところ,こうしたP46ら
によって報告された有機水銀中毒による臨床的,病理学的所見は,水俣病
患者らのそれとよく符合するものであった。
さらに,その後,水俣産のヒバリガイモドキ貝からメチル水銀が抽出さ
れ,さらに昭和38年にはP5工場のアセトアルデヒド工場内のスラッジ
から塩化メチル水銀が取り出されるなどし,水俣病の原因物質はP5工場
からの排水中に含まれるメチル水銀であることが明らかとなった。
エところで,P5工場は,昭和24年ころからアセトアルデヒド,次いで
塩化ビニルの生産をはじめ,その後次第に大量生産に移行したが,水俣病
の患者の発生もこれにやや遅れて始まり,以後増加し,上記アセトアルデ
ヒド等の製造量と水俣病患者の発生との間には正の相関関係がみられる。
P5工場は,昭和33年9月,アセトアルデヒド工場排水の排出先をα
8湾内のα21港からα22川河口に変更したため,昭和34年ころから
は,α8湾沿岸のみならず,α22川河口の住民にも水俣病が発病するよ
うになった。
また,P2は,昭和34年12月には,サイクレーター(排水浄化装置)
を設置したことにより,同工場から排出されるメチル水銀は減少し,その
後昭和43年5月,P5工場におけるアセトアルデヒドの製造を中止し,
これにより同工場からメチル水銀の含まれる工場排水が排出されることは
なくなった。
そして,平成7年1月31日末時点において,公健法4条2項に基づき
α8湾周辺地域における水俣病と認定された者の総数は2947人であり,
その居住地は,熊本県水俣市がその3割程度を占めているほか,同県α2
3町,α24町,α25町,八代市,α11町,α26町,鹿児島県出水
市,α27町,α28町及び阿久根市等,α10海沿岸の広範囲に及んで
いる。
(2)水俣病の病理
ア魚介類を介して経口摂取されたメチル水銀は,その大部分が消化管から
体内に吸収され,血液を通じて体内に広く分布し,神経系のみならず,一
般臓器組織の細胞にも広範囲に沈着している。なお,体内に取り入れられ
たメチル水銀が排泄されて半分になるいわゆる生物学的半減期は,健康人
で約70日であるとされている。
イ上記のとおり,体内に取り込まれたメチル水銀は,全身諸臓器組織に当
初はほぼ均等に分布するが,これによる障害部位は特異的で,主として神
経系に限定されており,一般臓器の障害はほとんどみられない。
神経系のうち,最もメチル水銀による障害を受けやすい部位は脳であり,
大脳及び小脳のいずれについても神経細胞を中心として障害されるが,特
にその障害を受けやすい部位があり,それが水俣病の特徴となっている。
すなわち,メチル水銀により最も障害されやすいのは,大脳皮質の後頭
葉であり,特にそのうち鳥距野が障害されやすい。また,頭頂葉の中心後
回や中心前回もこれに次いで障害されやすく,症例によって,中心後回が
中心前回よりも強く障害される事例や,逆に中心後回よりも中心前回の方
が強く障害される事例もある。さらに,大脳皮質のうち,側頭葉の聴中枢
附近も障害されやすい部位である。その他,他の皮質領域も種々の程度障
害を受けるが,アンモン角や海馬旁回などは障害を受けないとされている。
さらに,小脳についても,小脳皮質病変が主変化であって,歯状核の病変
は著しく軽いか,ほとんど無障害であるとされ,皮質においては,顆粒細
胞の減少が見られるのに対し,大型のプルキンエ細胞等の障害は比較的軽
い。そして,小脳におけるメチル水銀による顆粒細胞の減少には特徴があ
り,一般に,小脳半球(周辺部)及び虫部(中心部)の比較的深部中心性
に障害が現れ,小脳回の深部のものに比較的早くかつ比較的強く現れると
されている。
ウ上記のほか,メチル水銀が末梢神経,殊に脊髄末梢神経のうち感覚神経
(知覚神経)をも障害するか否かについては,被告らはこれらの末梢神経
も障害されると主張するのに対し,原告は,メチル水銀によって末梢神経
が障害されることはないと主張するところ,証拠(乙3,46,47,5
5,76)によれば,メチル水銀によって,末梢神経のうち感覚神経が障
害される場合があることは否定できないものといわなければならない。
(ア)すなわち,上記各証拠によると,熊大医学部病理学第2講座に所属
していたP34及びP20らは,当初は,急性発症,亜急性発症及びそ
れらの経過例並びに慢性発症経過例を含む72例の水俣病患者について,
後に,これらを含めた83例の水俣病患者について剖検を行い,その結
果を報告しているが,そこでは,脊髄末梢神経は常に障害されており,
この脊髄末梢神経については,運動神経よりも知覚神経優位の障害が観
察され,運動神経にほとんど障害を認めない軽症例においても感覚神経
が障害されているとされている(乙46,76)。また,新潟県α9川流
域に発生した15例の水俣病患者の剖検を行ったP48らも,全例で脊
髄の後根,すなわち感覚神経で変性が認められた旨報告しており(乙4
7),これらの報告からすれば,メチル水銀は,大脳皮質や小脳等の中枢
神経のみならず,末梢神経,殊に感覚神経をも障害するものと認めるの
が相当である。
(イ)これに対し,原告は,末梢神経障害では,腱反射の喪失が一般的な
臨床症状であることが知られているところ,水俣病患者については,し
ばしば腕橈骨筋反射とアキレス腱反射が保存されている上,初期に発見
された水俣病患者については,大部分の症例について腱反射は正常か亢
進していたことからすれば,メチル水銀によって感覚障害等の末梢神経
は障害されないと主張し,これに沿う証拠(甲26,44)を提出する。
しかしながら,上記甲第44号証その他の証拠(甲35,乙23等)
によると,腱反射は,その中心より上位に病変がある場合には,腱反射
に対する抑制作用が正常に機能しないために亢進し,他方,反射の中心
及びそれより末梢に病変があるときには減弱ないし消失することが認め
られるものの,前記のとおり,メチル水銀は,大脳皮質を初めとする中
枢神経をも障害し,しかも,後述のとおり,その障害の程度は末梢神経
の方が中枢神経より軽度であるというのである。そうであるとすれば,
末梢神経が障害された場合であっても,中枢神経の障害の程度が大きい
ために,結果として腱反射が維持ないし亢進することも十分考えられる
ところであり,水俣病患者について腱反射が維持ないし亢進している例
があることから,直ちにメチル水銀によっては感覚神経等の末梢神経が
障害されないということはできず,この点についての原告の主張を採用
することはできない。
(ウ)もっとも,上記(ア)の各報告によっても,メチル水銀による末梢神
経の障害の程度は,大脳や小脳等の中枢神経の障害に比して軽度である
とされているほか,末梢神経では,神経繊維が障害されると,その障害
を修復しようとするメカニズムが働き修復が行われ,その修復過程にお
いて,コラーゲン(膠原繊維)が増加して瘢痕を形成するところ,水俣
病患者の剖検例でその感覚神経に観察された変性は,神経節細胞の脱落
消失によるWaller変性に次ぐ神経繊維の消失とこれに伴う上記修
復過程における膠原繊維の増加等の新しい変性性変化のほか,このよう
な修復による神経繊維の再生,再生不全,シュワン細胞核の増加等の陳
旧性変性が多くみられるとされている。さらに,水俣病患者ないしメチ
ル水銀中毒患者の末梢神経には注目すべき病変が見あたらないとする報
告も存するところであり(甲80,乙75。もっとも,これらの報告に
おいて感覚神経につきどの程度詳細な検査が行われたかはなお明らかで
はなく,これらの報告をもっても,前記P34及びP20らの調査結果
を左右するものとはいえない。また,甲第82号証においては,メチル
水銀中毒患者の感覚神経の伝導速度が正常であった旨報告されているが,
上記のとおり,末梢神経が障害された場合であっても修復作用が働くと
いうのであるから,感覚神経の伝導速度が正常であるからといって,直
ちに感覚神経に障害がないという趣旨を読み取ることはできない。),水
俣病における末梢神経の障害による影響は,中枢神経の障害によるそれ
との比較において限定的であると解され,水俣病の主要症候の一つであ
る四肢末端優位の感覚障害も,主として末梢神経障害ではなく中枢神経
(大脳皮質のうち中心後回)の障害に由来するものと推認されることは
後記のとおりである。
(3)水俣病の臨床像(水俣病の主要症候)
水俣病の主要な症状としては,以下のとおり,感覚障害,運動失調,視野
狭窄及び難聴が知られており,これらの症候は併せてハンター・ラッセル症
候群と呼ばれる。
ア感覚障害
(ア)水俣病における感覚障害
人の感覚は,視覚や聴覚等の特殊感覚及び内臓感覚を除くと,大きく
分けて表在感覚,深部感覚及び複合感覚に分類される。このうち,表在
感覚とは,皮膚又は粘膜の感覚であって,触覚,痛覚,温度覚等がこれ
に含まれるのに対し,深部感覚とは,筋肉や関節等の身体の内部から伝
えられる感覚であって,関節位置覚,振動覚及び圧痛覚などが含まれる。
また,複合感覚とは,2点識別覚や立体感覚のことであり,マッチ棒の
先端で皮膚に書かれた文字等をあてることができるという書字覚なども
この複合感覚に含まれる。
水俣病における感覚障害は,上記表在感覚,深部感覚及び複合感覚の
いずれもが低下(鈍化)するものであり,左右対称性に四肢の末端ほど
強くみられ,口周囲あるいは舌尖部にみられることもある。そして,そ
の程度は,ほとんど感覚がなくなってしまうものから正常人との区別が
困難な軽微なものまで様々であるが,水俣病の重症例では,四肢末端に
おける表在感覚,深部感覚及び複合感覚のいずれもが低下するのが原則
であり,表在感覚については,触覚,痛覚及び温度覚のすべてが低下す
るのが一般的であるとされる。
そして,上記感覚障害のうち,表在感覚の障害については,治療に比
較的よく反応するものの完全に消失するには至らず,また,深部感覚や
識別覚については,治療に抗して長く残存する場合が多いとされる。
(イ)感覚障害の機序
前記のとおり,体内に取り込まれたメチル水銀は,大脳皮質のうち後
頭葉の中心後回を選択的に障害するところ,この中心後回は,体性感覚
の中枢であることからすれば,水俣病患者にみられる前記(ア)の四肢末
端優位の感覚障害は,中心後回の障害によるものであると考えられる。
なお,前記のとおり,メチル水銀は,中枢神経のみならず,末梢神経
をも障害するものであることからすると,水俣病における感覚障害は,
こうした末梢神経の障害によるものである可能性も考えられなくはない
が,この点については,以下の諸点を指摘することができる。
すなわち,①前記のとおり,水俣病における感覚障害は,表在感覚の
障害のみならず,深部感覚や複合感覚の障害をも含むものであり,平成
9年にP28病院で実施された集団検診においても水俣病患者における
二点識別覚に顕著な異常が認められているところ(甲51),証拠(乙7
5)によると,関節位置覚や識別覚等の深部や複合感覚の障害は,末梢
神経の障害よりも,中枢性神経の障害でみられることが多いとされてお
り,これらからすると,四肢末端優位の感覚障害の原因は,末梢神経の
障害というよりも中枢神経(大脳皮質の中心後回)の障害にあるとみる
のが合理的である。また,②前記認定のとおり,メチル水銀により末梢
神経(感覚神経)が障害される例も観察されているものの,感覚神経の
障害の程度は中枢神経の障害の程度に比して軽度であるというのであり,
しかも,③中枢神経等,腱反射の中心より上位に病変がある場合には,
腱反射に対する抑制作用が正常に機能しないために腱反射が亢進し,他
方,反射の中心及びそれより末梢に病変があるときにはこれが減弱ない
し消失するところ,証拠(甲26,44,乙58)によると,水俣病患
者の多くにおいて,腱反射は亢進しているか維持されているというので
あるから,中枢神経の障害が末梢神経の障害に優越していることがうか
がわれるのであって,こうした事情も,水俣病における感覚障害の原因
が中枢神経(大脳皮質の中心後回)の障害に存することを示唆するもの
であるといえる。さらに,④先にみたとおり,末梢神経においては,神
経繊維が障害されると,その障害を修復しようとするメカニズムが働き
修復が行われ,水俣病における末梢神経の変性も,神経節細胞の脱落消
失のみならず,その修復過程における膠原繊維の増大やその後の再生不
全等として観察される場合も多いというのであるが,水俣病における感
覚障害は,四肢末端優位に表在感覚,深部感覚及び複合感覚のいずれも
が障害されるものであるところ,このうち表在感覚の障害については,
治療に比較的よく反応するとされるが,深部感覚や識別覚(複合感覚)
については,治療に抗して長く残存する場合が多いとされていることか
らも,水俣病における四肢末端優位の感覚障害の原因が上記のような修
復作用の働かない中枢神経(大脳皮質の中心後回)の障害にあることが
うかがわれる。
以上の諸点を考慮すれば,水俣病における四肢末端優位の感覚障害の
原因は,専ら,メチル水銀により中枢神経(大脳皮質の中心後回)が障
害されることにあるものと推認して差し支えないというべきである。
なお,被告らは,上記①のP28病院等における二点識別覚検査につ
き,このような感覚障害検査は,被検者の感覚を検査するものであり,
性質上,不可避的に被検者の応答に頼らざるを得ないという限界がある
ため,神経疾患の検査の中でも客観性に乏しく,最も難しい検査である
上,P28病院で実施された舌先の二点識別覚検査は医学界では承認さ
れておらず,その確実性,有用性などが明らかになっていないなどと主
張し,これに沿う証拠(乙49,72等)を提出する。
しかしながら,一般的にみて,感覚障害の検査に困難な場合が多いと
しても,P28病院において行われた上記検査について,証拠(甲60)
に照らしても特にその手技等に不十分な点があった様子はうかがわれな
いし,また,前記のとおり,上記P28病院における二点識別覚の検査
において,水俣病患者とそれ以外の者との間で顕著な差異が観察されて
いるのであるから,舌先の二点識別覚の検査が一般的ではないからとい
って,直ちにその有用性ないし意義を否定することは相当でなく,この
点についての被告らの主張を採用することはできない。
イ運動失調
(ア)水俣病における運動失調(乙5,7,10,68,69)
身体の運動が円滑に行われるためには,それぞれの動きを担当する筋
肉が一定の目的に向かって収縮・弛緩等を行いながら調和を保って働く
こと(協調運動)が必要であるが,筋・腱・骨・関節等の運動器に異常
がなく,また,脱力,筋トーヌス(緊張)の亢進や振戦等の不随意運動
も認められないのに意図した運動(随意運動)が円滑に行うことができ
ない場合を,運動失調といい,この運動失調は,協調運動失調(四肢の
運動時に認められることから,四肢失調ないし動的失調とも呼ばれる。)
及び平衡機能障害(起立,歩行時に認められることから,体幹失調ない
し静的失調とも呼ばれる。)に分類されるほか,その障害部位によって,
大脳性,小脳性(小脳虫部型,小脳半球型,全小脳型),脊髄後索性及び
前庭迷路(中耳)性に分類される。
水俣病においてみられる運動失調は,主として小脳(全小脳)の障害
に起因する小脳性運動失調である。また,小脳全体の障害による運動失
調では,四肢の随意運動の協調性に関する機能と起立,歩行などの姿勢
をとる機能の両方が侵されるため,協調運動障害と平衡機能障害との双
方がみられる。
すなわち,水俣病患者においては,言語は緩徐で,長く引っ張った不
明瞭な言葉づかいで,あたかも甘えたようになるなどの言語障害がみら
れるが,こうした言語障害は,小脳の障害による構音障害によるもので
ある。また,歩行は動揺性であたかも酔っぱらったかのようであり,急
激な方向転換,停止も困難であって,甚だしい場合には,起立も困難と
なり,座位をとっても上体をかろうじて支え得る程度となる。以上のほ
か,水飲み,煙草吸い,マッチつけ,ボタンかけ,書字などが極めて拙
劣となり,多くは粗大な振戦を伴う。さらに,水俣病患者においては,
大脳の眼球運動中枢(後頭葉の眼球運動野)及び小脳が障害されること
によって,左右対称性かつ左右共同性の眼球運動異常もみられる。
(イ)運動失調の検査
運動失調のうち,協調運動障害の代表的な検査として,交互変換試験,
指-鼻-指試験及び膝-踵試験などがある。このうち,交互変換試験と
は,手を外向きや内向きに回すなどさせるものであり,小脳障害におい
ては,この運動が遅く,かつ不規則になる(反復拮抗運動障害)。また,
指-鼻-指試験とは,患者の人差し指を自分の鼻先と検者の指先へと交
互に繰り返して触れさせる試験であり,うまく自分の鼻先や検者の指先
に触れられない場合をジスメトリーと呼び,指が目標(鼻,指先)に近
づくにつれて大きく震える場合には,小脳性振戦があるといえる。
また,平衡障害については,座位,立位の観察,片足立ち試験,ロン
ベルグ試験,普通歩行及びつぎ足歩行等の検査により判断することがで
きる。
眼球運動異常については,指標追跡検査として滑動性指標追跡及び衝
動性指標追跡があるほか,視運動性眼振検査(OKN)及び迷路検査な
どが実施される。
ウ視野狭窄(乙67)
(ア)水俣病における視野狭窄
視野とは,視線を固定した状態で見える全範囲をいい,この視野の異
常には,視野の一部が点状あるいは斑状に欠ける暗点視野(中心視野),
視野の半分が見えなくなる半盲(視野欠損)及び視野の広さが狭くなる
狭窄の3種類に大別されるところ,水俣病にみられる視野の異常はこの
うち狭窄に該当し,その中でも視野の周辺部分が見えなくなる求心性視
野狭窄である。
水俣病における視野狭窄は,大脳皮質の後頭葉における鳥距野の前半
部(周辺部視野の中枢)が障害されることにより生じるものであり,左
右対称に発現し,視野狭窄が著しい場合であっても,中心部分の視力は
末期まで保たれる傾向にある。
(イ)視野狭窄の検査
視野の測定方法には目的に応じて数種類存在するが,視野全体を把握
するのに最も適していて,かつ代表的なものとして,ゴールドマン視野
計を用いるものがある。これは,指標を,大きな明るいもの,小さい明
るいもの,小さい暗いものの順に大きさと輝度を変化させながら検査を
行い,それぞれの条件の下で指標を周辺から中心に動かし,被検者がそ
の指標を見ることができた点を記録していき,この点の軌跡を視野図に
表すものである。
エ難聴
(ア)水俣病にみられる難聴
聴覚は,音を振動として伝達する部分と,伝えられた振動を電気的な
信号に変え神経を介して大脳の聴覚の中枢に伝達する部分とに分けられ,
前者の障害による聴力低下を伝音声難聴と,後者のそれを感音声難聴と
いい,このうち,感音声難聴は,さらに,迷路(内耳)が障害されるこ
とによって起こる迷路(内耳)性難聴と聴神経から中枢までに原因のあ
る後迷路性難聴とに区別される。
水俣病にみられる難聴は,大脳の聴覚を司る部分である側頭葉横回領
域の神経細胞が脱落することにより起こるものであり,後迷路性難聴に
分類される。
(イ)難聴の検査
聴力の測定に当たっては,標準純音聴力検査(純音による気導骨導検
査)を行うことになる。なお,上記気導とは,音が外耳道を通り,中耳
の鼓膜及び耳小骨を介して内耳に伝わることをいい,骨導とは,音が体
表あるいは直接骨を介して内耳に伝わることをいい,上記気導骨導聴力
検査は,オージオメーターという聴力測定装置を用い,純音(ジーとい
う変化のない音)を検査音として,気導あるいは骨導により左右それぞ
れの耳の聴力を測定してその結果をオージオグラムという記録用紙に記
入され,伝音声難聴と感音声難聴に区分することができる。すなわち,
上記検査においては,伝音声難聴では骨導聴力は正常で,気導聴力が低
下するのに対し,感音声難聴では,気導聴力及び骨導聴力がほぼ一致し
て低下することになる。
もっとも,上記検査においては感音声難聴においては内耳性難聴と後
迷路性難聴とに鑑別することが困難であるため,これらを区別するため
には,さらに語音による聴力検査や自記オージオメトリーの検査(自動
的に記録される聴力検査の一種)が必要となる。すなわち,後迷路性難
聴は,ただ単に音を聞く能力(純音聴力)は正常であっても,言葉を聞
く能力(語音聴力)が非常に悪いものもあるため,これを確認するため
に語音聴取閾値検査(数字を使った語音聴力検査)と語音弁別検査(言
葉を使った語音聴力検査)を行い,また,自記オージオメトリーでは,
持続音を用いた場合と断続音を用いた場合とで,難聴の種類によりそれ
らの覚鋸歯状曲線のパターンが異なることから,これを利用して感音声
難聴の鑑別診断が可能であるとされる。
(4)遅発性ないし不全型の水俣病について(甲25,64,65,100,
乙2,58,59,63,64,74)
ア前記のとおり,メチル水銀の生物学的半減期は約70日であり,1日に
0.3㎎以上のメチル水銀を摂取することにより1年で30㎎以上蓄積し
得ることになり,多量のメチル水銀を摂取すれば急性発症するが,その量
が少なければ,発症するまでの潜伏期間が長くなり,その摂取量いかんに
よって,急性発症から慢性発症まであり得るところである。そして,そう
した発症の機序においては,上記のようなメチル水銀の蓄積のみならず,
単個壊死細胞の累積(壊死した神経細胞は再生できない。)による影響も作
用しており,P34は,人体例では発症までに数年ないし十数年を要する
ものもあるとしている(乙2)。
イ水俣病発見後初期に観察された水俣病患者には,上記(3)のハンター・ラ
ッセル症候群のいずれもの症候を備える者が多く観察された。この点,熊
大研究班のP22及びP13らが水俣病発見後比較的初期の段階である昭
和35年に発表した論文(乙58)においては,当時観察された水俣病患
者34名のうち,求心性視野狭窄並びに表在性知覚障害及び深部知覚障害
は検査し得た患者の全員に認められ,聴力障害は85.3%の者に,言語
障害や歩行障害を含む運動失調は8割以上の者に認められた旨報告されて
いる。
しかし,その後,P5工場からのメチル水銀を含む排水の排出がなくな
った後も水俣病患者は出現し続け,しかも,前記ハンター・ラッセル症候
群の症候のうち一部のみを備える患者も観察されている。
3判断の枠組み
(1)昭和52年判断条件について
52年判断条件は,後天性水俣病の判断条件として,前記第2の3(2)の
とおり規定しているところ,これは,その規定内容からすれば,水俣病と認
定するためには四肢末端優位の感覚障害のみでは足りず,ハンター・ラッセ
ル症候群の他の症候との一定の組合せを要求するものであるといえる。そし
て,被告らは,この52年判断条件は,現在においても,定説的な医学的知
見に基づき,これに反しない限度で可能な限り救済の間口を広げるために設
定された基準として,合理的なものであると主張する。
そして,後記のとおり,ハンター・ラッセル症候群のうち,本件処分時に
おいて原告に明らかに認められるものは,四肢末端優位の感覚障害に限られ
るから,52年判断条件によれば,原告が水俣病にかかっているとは認めら
れないことになるため,52年判断条件の妥当性について検討する必要があ
る。
ア52年判断条件発出に至る経緯等
前記前提事実に加え,証拠(甲5~9,11,18,19,35,39,
乙21)及び弁論の全趣旨によると,52年判断条件の発出経緯として,
次の事実を認めることができる。
(ア)前記のとおり,水俣病は,昭和31年公に認知されたがその原因は
不明とされ,その後,熊大研究班による研究等により,α8湾周辺の魚
介類を介しての何らかの中毒であることが強く疑われるに至り,さらに,
その臨床所見がP46及びP47が報告した有機水銀中毒のそれに類似
していたことから,昭和34年7月,文部省科学研究水俣病総合研究班
会議において,熊大研究班により水俣病の原因は,有機化合物,特に有
機水銀が有力であるとの報告がなされ,その後,水俣産のヒバリガイモ
ドキ貝からメチル水銀が抽出され,さらに昭和38年にはP5工場のア
セトアルデヒド工場内のスラッジから塩化メチル水銀が取り出されるな
どしたため,水俣病の原因物質はP5工場からの排水中に含まれるメチ
ル水銀であることが明らかとなり,昭和43年,α8湾周辺を中心とす
るα10海沿岸の地域及びα9川の中下流の流域において発生が報告さ
れた水俣病の原因は,それぞれP2及びP49株式会社の各工場から排
出されたメチル水銀であることが政府の統一見解として発表された。
(イ)P2は,昭和34年12月30日,水俣病患者との間で,死亡者に
ついては弔慰金30万円を,生存者については年金10万円を支払うこ
となどを内容とする本件見舞金契約を締結した。本件見舞金契約は,同
契約締結後発生した患者に関し,その3条で「本契約締結日以降におい
て発生した患者(協議会の認定した者)に対する見舞金については甲(P
2)はこの契約の内容に準じて別途交付するものとする。」と規定し,以
後本件見舞金契約に基づく給付を受けることができるのは,後記本件診
査協議会により水俣病であると認定された者に限られることを明らかに
していた。そして,熊本県は,これに先立つ同月25日,P50熊大医
学部教授,P22,P51P52病院院長,P53水俣市医師会副会長,
P44P55病院嘱託,P56P57保健所長,P58県衛生部長を委
員として本件診査協議会を設置し,水俣病かどうかの判定は同協議会で
行うこととした。
なお,本件診査協議会は,昭和36年9月14日,厚生省により水俣
病患者診査会に改組され,その委員もP59,P34,P11P52病
院副院長及びP61P55病院院長(P44と交代)を加えた10名と
なり,さらに,昭和39年2月28日には,熊本県において制定された
水俣病患者審査会設置条例に基づく水俣病患者審査会として改組され,
後記のとおり,昭和44年の救済法の制定により,同法に基づく公害被
害者認定審査会として承継されていった。
(ウ)昭和44年12月15日,事業活動その他の人の活動に伴って相当
範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が生じたため,その影響
による疾病が多発した場合において,当該疾病にかかった者に対し,医
療費,医療手当及び介護手当の支給の措置を講ずることにより,その者
の健康被害の救済を図ることを目的とした救済法が制定され,同月27
日には,救済法施行令が制定され,これらはいずれもその一部を除き,
昭和45年2月1日施行された。
救済法においては,α10海沿岸地域における水俣病について,指定
地域の全部又は一部を管轄する都道府県知事(熊本県知事ないし鹿児島
県知事)は,当該指定地域につき水俣病にかかっている者について,そ
の者の申請に基づき,公害被害者認定審査会の意見をきいて,その者の
当該疾病(水俣病)が当該地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響
によるものである旨の認定を行うものとし(3条1項),同認定を受けた
者は,公害医療手帳の交付を受けた上で(同条3項),医療費,医療手当
及び介護手当の支給を受けることができるものとされていた(4条,7
条,9条)。
(エ)熊本県公害被害者認定審査会は,昭和45年2月20日,水俣病審
査認定基準を定めたが,そこでは,疫学的事項のほか,臨床所見として,
「A求心性視野狭窄,聴力障害,知覚障害,運動失調,B知能障害,
性格障害,C構音障害,書字障害,歩行障害,企図振戦,D不随意
運動,流涎,病的反射,けいれん」を掲げ,臨床診断としては,(1)A
の4項目は最も重要であり,この4項目と疫学的条件がそろえば水俣病
と診断する,(2)Aの4項目のない症例の判定には慎重を要する,(3)
BはAに伴っていることが多いので,実際的には問題はないが,もしB
のみの症状(Aを欠く)では,水俣病を診断するには慎重を要する,(4)
Cは主として脳症状であり,Cのみを呈する場合には一応可能性ありと
して要再検とする,(5)Dのみの症例は他の疾患の可能性が強い,(6)
類似疾患を鑑別する必要があり,例えば,糖尿病等代謝性疾患に伴う神
経障害,動脈硬化症,頸椎変性症等に伴う神経障害,心因性症状等を除
外すること,などとされており(甲6),基本的にはハンター・ラッセル
症候群のいずれもの症候を具備することを,その認定基準としていたも
のといえる。
(オ)熊本県公害被害者認定審査会は,上記(エ)の認定基準にのっとり,
昭和45年6月19日,P8を含む11名の申請者につき不認定処分を
したところ,同申請者の一部が,同年8月,行政不服審査法に基づき,
環境庁長官に対して審査請求をした。当時環境庁長官であった大石は,
昭和46年8月7日,上記水俣病不認定処分を取り消す裁決をするとと
もに(甲7),環境庁事務次官は,同裁決書を添付した上で関係各都道府
県知事に宛てて46年事務次官通知を発出した。46年事務次官通知の
規定内容は前記第2の3(1)のとおりであるが,要旨,水俣病の主要症状
は,求心性視野狭窄,運動失調(言語障害,歩行障害も含む。),難聴及
び知覚障害であり,これらのいずれかの症状がある場合において,当該
症状が明らかに他の原因によるものであると認められる場合には水俣病
の範囲に含まないが,当該症状の発現又は経過に関し魚介類に蓄積され
た有機水銀の経口摂取の影響が認められる場合には,他の原因がある場
合であっても,これを水俣病の範囲に含むものであり,この場合におい
て「影響」とは,当該症状の発現又は経過に,経口摂取した有機水銀が
原因の全部又は一部として関与していることをいい,認定申請人の示す
現在の臨床症状,既往症,その者の生活史及び家族における同種疾患の
有無等から判断して,当該症状が経口摂取した有機水銀の影響によるも
のであることを否定し得ない場合においては,救済法の趣旨に照らし,
これを当該影響が認められる場合に含むものであるとしており,前記
(エ)の熊本県公害認定審査会において定められた水俣病の認定基準を緩
和するものであるといえる。
(カ)以上のような状況の下,熊本地方裁判所は,昭和48年3月20日,
水俣病患者のP2に対する損害賠償請求を認容する判決を言い渡し,P
2に対し,死者に関しては1800万円を,生存者のうち重症者につい
ては1700万円を,軽症者については1600万円など総額9億37
30万円余りを支払うよう命じたところ,同判決については控訴される
ことなく確定した。
P2は,上記判決を受けて,同年7月9日,水俣病患者団体との間で,
本件補償協定を締結した。本件補償協定においては,P2は,水俣病患
者に対し,患者の区分に従い,Aランクの患者には1800万円の,B
ランクの患者には1700万円の,Cランクの患者には1600万円の
各慰謝料等を支払うほか,治療費,介護費及び終身特別調整手当を支払
うものとされ,同日以後水俣病認定を受けた者をもその対象とするもの
であった。
なお,昭和49年9月1日には公健法が施行され,救済法の下におけ
る認定制度を引き継ぎ,公害被害者認定審査会は,公害健康被害認定審
査会として改組された。公健法の認定制の下においては,水俣病の認定
を受けた者については,療養の給付及び療養費,障害補償費,遺族補償
費,遺族補償一時金,児童補償手当,療養手当並びに葬祭料の給付の支
給を受けることができるものとされた。
(キ)上記(オ)の46年事務次官通知の発出並びに上記(カ)の熊本地方裁
判所判決及び本件補償協定の締結を受け,熊本県知事に対するに水俣病
認定申請者数は,それまで年間2桁であったのに,昭和46年には32
7名に,昭和48年には1930名となるなど急増し,熊本県において
は認定申請から検診,診査までの滞留期間が長期化し,多数の滞留認定
申請者が生じる状況となった。なお,熊本県における水俣病の認定申請
者数及びその処分結果は,別紙2水俣病の申請者,認定・棄却者数一覧
記載のとおりである。このような状況の下,熊本県は,昭和52年2月,
国会に対し,昭和48年の熊本地裁判決以降水俣病認定申請が急増して
いるところ,行政庁としては熊大を中心とする認定検診は月約50人が
限度であり,認定審査会の審査も月約80人が限度である上,水俣病の
病象が確立していない現在において,46年事務次官通知の「否定し得
ない」ものまで含めた判断は極めて困難であり,結局,処分可能な答申
は月20件から30件にすぎないことから,迅速な救済という法律の趣
旨に対応できない状況にあるとして,現行制度の下においては不作為の
違法状態を早急に解決することは不可能であることから,現行制度の抜
本的な改正を速やかに行い,国において直接処理するよう配慮されたい
旨の陳情を行うとともに,環境庁長官に宛てても,水俣病認定業務につ
いては国において直接処理する措置を講じられたい旨要望するが,それ
が実現されるまでの間の対策として,①現在における答申保留のような
事例についても明確な判断を可能ならしめるような基準を明示されたい,
②死亡者等であって「わからない」として答申された事例についてもそ
の処分の基準を明確化されたい,③本件補償協定による加害企業の民事
責任の履行に当たって,当該企業の経営状態等がその重大な障害となる
ことのないよう,適切な措置を講じるとともに,今後熊本県が水俣病問
題を処理していくに当たって,いかなる財政負担を必要とする事態が生
じた場合であっても,絶対に同県に対し過大な負担をかけない措置をと
ることを確約されたい,等の要望を行った。
また,P2においても,上記水俣病申請者数の急増を受け,昭和52
年9月末までに水俣病患者に対する補償金の総額は307億円にも及び,
累積赤字が同月の中間決算時には321億円までふくらんでいた。
(ク)以上のような状況を受け,環境庁は,昭和50年6月,水俣病の認
定の考え方については既に46年事務次官通知で明らかにされ,「当該症
状が経口摂取した有機水銀の影響によるものであることを否定し得ない
場合には水俣病として救済する」ということになっているが,実際に水
俣病の認定を行うに当たっては,種々の問題があることから,水俣病の
専門家にこれらの問題点や水俣病の病像についての検討を依頼すること
により,「有機水銀の影響が否定し得ない場合」とは具体的にいってどう
いう場合であるかについて,臨床,疫学両面から,具体的な判断条件の
整理を行うことができれば,水俣病の認定及び関連業務を円滑に行うこ
とに役立つものと考えられるとして,水俣病の専門家からなる水俣病認
定検討会を設置した。なお,同検討会は,P10を会長として,新潟県
及び新潟市,熊本県並びに鹿児島県の各公害被害者認定審査会の委員で
ある17名の医師により構成されていた。同審査会は,昭和50年6月
2日に第1回全体会議を開催した後,7回にわたる分野別小委員会及び
2回にわたる全体会議を経て,昭和52年2月18日,同検討会での議
論の結論を52年判断条件としてまとめた,環境庁は,同年7月1日,
これを環境庁企画調整局環境保健部長通知として発出した(52年判断
条件)。
なお,環境庁長官は,上記52年判断条件の発出に当たり談話(甲1
2)を発表したが,そこでは,水俣病認定業務については昭和48年こ
ろから認定申請者が著しく増加するとともに,その症候につき水俣病の
判断が困難な事例が増大してきたこともあり,認定申請から検診,診査
までの滞留期間が長期化し,保留扱いとなる事例が増加していたため,
環境庁においては熊本県及び関係各省との間で事態の打開策につき鋭意
検討を重ね,昭和52年6月28日には水俣病に関する関係閣僚会議が
開催され,水俣病対策の推進について申合せが行われたところ,52年
判断条件の発出はこの申合せの趣旨に基づくものであり,3800人に
及ぶ滞留認定申請者を抱える熊本県の認定業務を促進するとともに,水
俣病に関する総合的な調査研究体制を確立することにより,水俣病事件
という現実を,でき得る限り解明克服するために,環境庁として,関係
各省と緊密な連携を保ちつつ,熊本県と一体となり,新たな展望に立っ
た諸施策を積極的に推進しようとするものであって,このような考え方
に基づき,水俣病認定業務の促進のために,水俣病の判断条件を明らか
にすることとし,また,汚染者負担の原則を維持するためにも,P2が
あくまで補償を遂行することができるよう関係各省の指導協力を要請し,
かつ,また,認定業務の促進のために熊本県に加重な財政負担がかから
ぬよう環境庁としても十分努力するつもりである,とされていた。
(ケ)さらに,昭和53年11月15日には,水俣病にかかった者の迅速
公正確実な救済のため,公健法等による水俣病に係る認定等の申請をし
た者で認定等に関する処分を受けていない者に関する処分を行う期間の
特例を臨時に設けることにより水俣病の認定に関する業務の促進を図る
ことを目的として,水俣病の認定業務の促進に関する臨時措置法(同年
法律第104号)が制定され,公健法に基づく水俣病の認定を申請した
者で都道府県知事による認定に関する処分を受けていないものは,環境
庁長官に対して,当該認定等の申請に係る水俣病が公健法2条2項の規
定により定められた第二種地域に係る水質の汚濁の影響によるものであ
る旨の認定を申請することができるものとされた。
イ52年判断条件の性格
(ア)上記アにおいて認定したところを総合すると,昭和44年12月に
救済法が制定され,さらに昭和49年には公健法が施行され,これらに
より公害被害者認定審査会ないし公害健康被害認定審査会の意見に基づ
く水俣病の認定制度が整備されたが,昭和46年に46年事務次官通知
が発出されて水俣病認定の要件が事実上緩和されたほか,昭和48年に
は熊本地方裁判所が水俣病患者のP2に対する損害賠償請求を認容する
判決を言い渡したことなどから,昭和46年ないし昭和48年ころから
水俣病の認定申請者数が急増するとともに,その症候につき水俣病の判
断が困難な事例が増加したため,熊本県においては,その認定審査能力
を大きく超過することとなり,認定申請から検診,診査までの滞留期間
が長期化して保留扱いになる事例が増加するなど滞留認定申請者の増加
が問題となり,国に対しても,46年事務次官通知の「否定し得ない」
ものまで含めた判断は極めて困難であり,現行制度の下においては不作
為の違法状態を早急に解決することは不可能であることから,現行制度
の抜本的な改正を速やかに行い,国において直接処理する措置を講じら
れたい旨要望するとともに,それが実現されるまでの間の対策として,
答申保留となっているような事例についても明確な判断を可能ならしめ
るような基準を明示されたい等の要望を行うなどしていたところ,環境
庁は,こうした要望を受け,水俣病の専門家からなる水俣病認定検討会
を設置し,同検討会において52年判断条件が取りまとめられた経緯が
明らかである。
ところで,前記認定のとおり,46年事務次官通知は,その文理の上
では,臨床所見としてハンター・ラッセル症候群のうち一つの症候しか
認められない水俣病も存し得ることを前提として,そのような症状が「経
口摂取した有機水銀の影響によるものであることを否定し得ない場合」
には,これが水俣病の範囲に含まれるものとしているが,上記「有機水
銀の影響によるものであることを否定し得ない場合」かどうかの判断の
準則は明示しておらず,その判断に際しては,メチル水銀への曝露歴等,
諸般の事情を総合的に考慮し得るものとなっていた。他方,52年判断
条件においては,水俣病の判断条件として,メチル水銀への曝露歴の存
在を前提とした上,四肢末端ほど強い両側性感覚障害を含む複数の症候
の組合せを必要とするものとしており,少なくとも,その文理の上では,
46年事務次官通知におけるよりも限定された水俣病像を採用している
ということができる。そして,その症候については,これを「認められ
る」場合と「疑われる」場合とに分けた上で,水俣病であると判断する
ことができる症候の組合せを具体的に列挙し,「否定し得ない場合」とい
った判断要素は含まれておらず,46年事務次官通知に比して,より記
述的な判断基準となっているといえる。
以上のような52年判断条件の発出経緯,すなわち,熊本県において
多数の滞留認定申請者が生じ,国においても従来判断保留となっていた
ような事例についても明確な判断を可能ならしめるような基準を明示す
ることが求められていた状況で,環境庁により設置された水俣病認定検
討会において52年判断条件が取りまとめられたことに加え,上記のよ
うな46年事務次官通知と対比した場合における52年判断条件の規定
内容に照らすと,52年判断条件は,水俣病にかかっているかどうかを
より明確かつ類型的に判断することができるようにすることにより迅速
な審査を可能とし,水俣病に係る認定業務を促進して急増する水俣病認
定申請に対応するため,46年事務次官通知における認定要件に比して
より客観的に把握し得る認定申請者の臨床所見を中心的な判断要素に据
えた上,そのような症候のみから水俣病にかかっていると認めるに足り
るだけの症候の組み合わせを抽出し,列挙したものであると理解するの
が相当である。
(イ)この点,原告は,52年判断条件は,専らP2からの補償金受給対
象者の行政的線引きの観点から考案され,策定されたものであると主張
する。
確かに,前記認定のとおり,昭和34年にP2と水俣病患者との間で,
P2が水俣病患者について死亡弔慰金ないし年金を支払うことを内容と
する本件見舞金契約が締結され,昭和48年にはP2と水俣病患者団体
の間で,P2が水俣病患者についてその患者区分に従い1600万円な
いし1800万円の慰謝料を一時金として支払うほか,治療費,介護費
及び終身特別調整手当を支払うことなどを内容とする本件補償協定が締
結されたが,これらの協定等においては,救済法及び公健法の各施行後
については,これらの法律に基づく水俣病認定に際して当該認定申請者
が水俣病にかかっているかどうかを判断することになる公害被害者認定
審査会ないし公害健康被害認定審査会により水俣病と認定された者がそ
の支給対象となるものとされていた。そして,その後,水俣病認定申請
者が急増するに従いP2が負担する補償金総額も急増し,昭和52年9
月末には水俣病患者に対する補償金総額が307億円にも膨らむなどP
2の財政をひっ迫し,熊本県においても国に対してP2が本件補償協定
等による民事責任を履行するに当たってその経営状態等が重大な支障と
なることのないよう適切な措置を講じられたい旨要望していたというの
であり,これらに加え,P2においても,46年事務次官通知に基づき
水俣病認定された者について補償を行うことに難色を示していたところ
である(甲8,15~17)。52年判断条件は,このような状況の下で
取りまとめられたものであり,このような52年判断条件を取り巻く状
況等からすると,水俣病認定検討会において水俣病の判断基準を取りま
とめるに当たり,個々の委員において,P2による本件補償協定に基づ
く補償金の支払能力の点を念頭においていた可能性を否定することはで
きない。そして,水俣病にかかっているかどうか自体は医学的に規定し
得るものであるとしても,その判断基準をどの程度の確度のものとして
設定するかということ自体は,医学的知見によって定まるものではなく,
当該判断基準を設定する趣旨ないし目的によって規定されるものである
から,52年判断条件を策定するに当たっては,上記の観点から,その
判断基準がより確度の高いものとして設定され,あるいはP2からの高
額の補償金の支給を受けるに値するだけの深刻な健康被害が生じている
場合に限定され,水俣病と判断される範囲が狭められている可能性を指
摘することができる。
しかしながら,上記のとおり,52年判断条件の策定に当たった水俣
病認定検討会の個々の委員においてP2の補償金の支払能力の点を考慮
し,こうした点がその判断基準に影響を与えている可能性は否定できな
いものの,先に認定した52年判断条件発出に至る経緯からは,当該検
討会ないしこれを設置した環境庁自体において,判断基準の明確化によ
る審査の迅速化及び認定業務の促進という前記(ア)の趣旨を超えて,P
2の補償金負担軽減のために水俣病認定の判断基準を厳格化するという
目的ないし意図を有していたことまで読み取ることは困難であるといわ
ざるを得ず,52年判断条件が専らP2からの補償金受給対象者の行政
的線引きの観点から考案され策定されたものであると認めることはでき
ない。
(ウ)被告らは,52年判断条件は,定説的な医学的知見に基づき,これ
に反しない限度で可能な限り救済の間口を広げるために設定された基準
であって,相当の医学的検査を尽くし,医学的根拠をもって水俣病であ
る可能性が水俣病でない可能性を上回ると判断し得るぎりぎりのレベル
のものであると主張する。
しかしながら,52年判断条件が必ずしも定説的な医学的知見に立脚
したものであるとは認められないことは後記ウのとおりであるし,前記
アにおいて認定した52年判断条件発出に至る経緯からは,52年判断
条件の発出に当たり,前記のとおり,医学的知見に基づき基準を明確化
し,審査の迅速化と認定業務の促進を図るという意図があったことはう
かがわれるものの,被告が主張するような医学的根拠をもって水俣病で
ある可能性が水俣病でない可能性を上回ると判断し得る限り公健法によ
る水俣病認定の対象として救済の間口を広げようとする趣旨を読み取る
ことはできないというほかなく,この点についての被告らの主張は採用
することができない。
ウ52年判断条件の妥当性
(ア)前記イにおいて認定説示した52年判断条件の性格に加え,52年
判断条件をとりまとめた水俣病認定検討会の委員は,新潟市若しくは新
潟県,熊本県又は鹿児島県における公害健康被害認定審査会の委員を務
めていた医師であり,いずれも多数の水俣病患者の認定に関与してきた
ものと考えられることからすると,52年判断条件は,同検討会におい
て水俣病に係る豊富な経験に基づき,それまでに水俣病と認定されてき
た患者に多くみられる臨床所見の組合せを抽出し列挙して策定されたも
のであると推認される。そうであるとすれば,52年判断条件に規定す
る症候の組合せが認められ,同条件を満たす者については,原則として,
公健法にいう「水俣病にかかっている」と認めて差し支えないというべ
きであり,その限りにおいては,52年判断条件が水俣病にかかってい
るか否かの判断において一定の意義を有することは否定することができ
ず,一概にこれを軽視することは相当ではない。
ところで,52年判断条件が,上記イ(ウ)の被告らの主張のように,
定説的な医学的知見に基づき,医学的根拠をもって水俣病である可能性
が水俣病でない可能性を上回ると判断し得るぎりぎりのレベルとして設
定された基準だというのであれば,52年判断条件に規定する症候の組
合せが認められない認定申請者については,水俣病にかかっている,す
なわち,当該申請者に存する症候が経口摂取したメチル水銀の影響によ
るものであるとの高度の蓋然性を認める余地がないことになろう。上記
が,医学的知見によれば経口摂取したメチル水銀の影響により52年判
断条件に規定する組合せを満たさない症候のみが現れることはあり得な
いというのであれば,以下に述べるとおり,そのような医学的知見は存
在しないといわざるを得ない。また,上記が,経口摂取したメチル水銀
の影響により52年判断条件に規定する組合せを満たさない症候のみが
現れる可能性はあるものの,そのような場合その症候がメチル水銀の影
響によるものである蓋然性を立証できる手段はあり得ず,結局水俣病と
認めることはできないというのであれば,同じく以下に述べるとおり,
そのような立証手段が存在しないという医学的正当性を裏付ける的確な
証拠は存しないというべきである。すなわち,52年判断条件に規定す
る症候の組合せを有しない限り,水俣病にかかっていると認められない
という被告らの主張については,その医学的正当性を裏付ける的確な証
拠は存しないものといわざるを得ない。
(イ)被告らは,52年判断条件は,水俣病の代表的な専門家たちにより,
計11回に及ぶ水俣病認定検討会を経て策定されたものであることから,
医学的正当性を有すると主張する。
しかしながら,52年判断条件が,前記イ(ア)のような性格のものと
して理解されるものである以上,52年判断条件に規定する要件をすべ
て満たす場合についてはともかくとして,52年判断条件を満たさない
場合について,一律に水俣病にかかっていると認められないと判断し得
るかという点については,単に水俣病の専門家らによって取りまとめら
れたものであるという一事をもって,これを首肯するには足りないとい
うべきである。
(ウ)この点,被告らは,水俣病認定検討会の議論の内容を明らかにでき
る資料は存しないため,当時,具体的にどのような知見が52年判断条
件策定の基礎となったのかを明示することは困難であるが,水俣病認定
検討会の委員であった者がそれ以前に執筆した論文や学会報告(乙58
~61)により,当該委員がどのような知見をもって水俣病認定検討会
の会議に臨んだのか知ることができ,これらからすると,52年判断条
件は,当時発表されていた論文や専門家の医学的知見等に基づき,水俣
病について第一線で研究を行っていた専門家により策定されたものであ
るから,十分な医学的根拠を有することは明らかであると主張する。
しかしながら,被告らが指摘する当時の論文や学会報告も,52年判
断条件の基準を満たさない場合に水俣病とは認められないことの医学的
正当性を裏付けるものであるということはできない。
aまず,P22及びP13らの「水俣病に関する研究」と題する論文
(乙58)は,水俣病が公に認知されて間もない昭和35年に発表さ
れたものであり,熊大医学部第一内科教室に入院した11名のほか,
現地で観察し得た水俣病患者の臨床症状の発現頻度を報告している。
同論文においては,ハンター・ラッセル症候群のうち,求心性視野狭
窄は検査し得た全例に認められたこと,聴力障害は34例中29例に
認められたが,オージオメーターで測定すればこの数はさらに増加す
るものと思われること,言語障害は34例中30例(88.2%)で,
歩行障害は28例(82.3%)で,書字障害,釦止め運動拙劣及び
アジアドコキネーシスが各29例(93.5%)で,指々試験及び指
鼻試験拙劣が各25例(80.6%)でそれぞれ認められたこと,表
在知覚障害(触,温,痛覚鈍麻),深部知覚障害(圧覚,位置覚,運動
覚,振動覚及び二点識別覚障害)とも検査し得た30例全例に認めら
れたこと等を報告している。
以上のとおり,P22及びP13らの上記研究は,水俣病発見後比
較的初期の水俣病患者の臨床所見を報告したものであって,ハンタ
ー・ラッセル症候群のほとんどを具備した患者の報告がその中心とな
っていることからすると,同論文から,軽度の水俣病患者における臨
床所見の特徴を読み取ることは困難であって,これが,52年判断条
件に規定する症候の組合せを有しない水俣病患者が存しないことを裏
付けるものであるということはできない。もっとも,上記のような初
期の水俣病患者においても,感覚障害についてはその全例に認められ
ていたことは,着目されてよいものと思われる。
bまた,「10年後の水俣病に関する疫学的,臨床医学的ならびに病理
学的研究」報告書におけるP15の論文(「5.水俣病の精神神経学的
研究-水俣病の臨床疫学的ならびに症候学的研究」,乙59)は,水俣
病患者が多発したα1地区と汚染の影響が疑われているα11地区,
さらそれらの対照として汚染の可能性が小さいと考えられるα18地
区の3地区の住民について,昭和46年に行われた一斉検診の結果を
報告している。そこでは,知覚障害は,α1地区において極めて高率
にみられる症状であり,特に,口周辺の知覚障害と手袋状・ストッキ
ング状の四肢の末梢性知覚障害が水俣地区に圧倒的に多いが,知覚障
害だけの場合や,下肢又は上肢のみに認められる知覚障害には,α1
地区と他の2地区の数字との間に優位な差は認められなかったこと等,
知覚障害,失調,構音障害,難聴及び視野狭窄の発生状況について報
告した上,α1地区の住民では他の2地区に比べて神経・精神症状の
出現率が著しく高く,しかも,その主な症状はすべて水俣病に特徴的
であると従来考えられてきたものであるから,これらの神経精神症状
はメチル水銀によるものと推定されるが,対照地区と考えられるα1
8地区においても,一定の神経精神症状がみられることから,それぞ
れの地域における水俣病以外の疾患について検討する必要があるとし
た上,個々の神経症状のうちから,対照地区との有意差のみられたも
のとして,四肢の手袋状・ストッキング状の知覚障害,口周辺の知覚
障害,視野狭窄,構音障害を選び出し,さらにその特徴からいくつか
の組合せを設定し,その存在率を比較検討している。そして,水俣病
の発症時期については,典型的に症状のそろったもの(知覚障害と視
野狭窄を含む事例)と知覚障害のみ又はそれが主症状の患者群とを比
較すると,だいたいそれらの分布は一致しており,その発病の時期は
調査時点である昭和46年までの広い時期に及んでいることを報告し,
まとめとして,α1地区における神経精神症状の出現頻度は驚くべき
高率であること,水俣病の診断には,求心性視野狭窄及び手袋・スト
ッキング状の末梢性知覚障害,口周辺の知覚障害が重要であることが
明らかになったが,必ずしも症状のそろわないものでも水俣病(メチ
ル水銀中毒症)と考えざるを得ない症例も多数見出され,従来,水俣
病とは無関係であると考えられていた2,3の疾患や症状も,α1地
区では対照地区より有意の差で高率に認められており,これらの症状
や疾患もメチル水銀中毒と関係があるのではないかと疑われたこと,
水俣病には重症のものから軽症のものまで極めて広い範囲のばらつき
があり,症状もなお変化しつつあり,症状の発生は昭和36年以降も
46年に至るまでみられており,これらは,必ずしも症状の重さや加
齢とは関係がない,などとしている。
また,同研究は,水俣病認定申請をしてP15らの診察を受けた患
者で既に水俣病と認定された患者46人と一斉検診で水俣病と診断さ
れた患者58人に係る調査結果も報告しているところ,そこでは,表
在性知覚障害は,水俣病患者のほぼすべての者(98~100%)に
見られ,運動失調は94~96%のものに,難聴は70~87%のも
のに,求心性視野狭窄は57~74%のものに,構音障害は55~7
4%のものにみられたことを報告しており,これらの症候の組合せの
型について,その出現頻度を報告している。
上記のとおり,P15らによる上記論文は,水俣病にみられる症候
の組合せに着目してその頻度等を報告するものであり,症候の組合せ
から水俣病の診断基準を抽出しようとしている点において52年判断
条件と類似する面があるということはできる。しかしながら,同研究
において検討されている症候の組合せは,52年判断条件におけるそ
れとは異なっており,少なくとも,52年判断条件に規定する症候の
組合せを有しない者が水俣病とは認められないことを裏付けるもので
はない。また,例えば,同論文においては,知覚障害だけの場合につ
いては,α1地区と他の地区との間に有意差が認められないとしつつ,
このような場合についてはメチル水銀の影響も考えられるが他の原因
の混入も考慮されなければならず,水俣病であると決定するためには,
さらに疫学的な事項,すなわち,家族内発病の有無や魚介摂取状況,
他の疾患の合併の有無などについて検討されなければならないとして
おり,同論文は,一定の症候の組合せが存しない場合であっても,疫
学条件その他の事情を考慮することにより,水俣病であると判断する
場合があることを否定していないのであって,この点においても,同
報告は,52年判断条件とはその前提を異にするというほかない。
のみならず,同じくP15らが昭和48年3月に発表した「10年
後の水俣病に関する疫学的,臨床医学的ならびに病理学的研究(第2
年度)」(乙120)においては,水俣病患者の発症年度は昭和17年
から昭和47年にまで及んでいるとされているほか,水俣病と診断さ
れた患者にみられる症候の組合せは16種類にも及んでおり,そこに
は,ハンター・ラッセル症候群のうち,感覚障害のみを伴う例もあっ
たことが報告されている。
c昭和46年の日本医学会総会会誌に掲載されたP10による「水質
汚染―アルキル水銀中毒―」(乙60)は,α9川流域における水俣病
について報告するものである。
同報告においては,昭和40年1月から5月にかけてα9川下流沿
岸の住民にメチル水銀中毒患者が発見されたことを契機として,同年
6月から神経内科・脳神経外科教室の共同により系統的住民調査を実
施し,その際,診断はメチル水銀中毒症の臨床的特徴及び他疾患の除
外などの臨床的検討によるほか,川魚摂取と頭髪水銀量高値,家族内
発症などに着目して行ったこと,その結果,昭和40年12月までに
患者と認定されたものは26名(死亡5名),保有者(症状はなくとも
頭髪水銀量が200ppmを超える者)は9名であり,患者発生地域
はα9川下流沿岸に限局してみられたこと,その後,患者・保有者を
中心に経過観察・治療を行ったが,昭和42年以降,定期的に患者発
生地区で患者・保有者以外にも受診をすすめて年1回検診を行い,こ
の追跡検診により昭和44年12月までに認定患者は42名と増加し,
昭和46年2月時点での認定患者は49名(死亡6名)となっており,
したがって,昭和40年12月以降,23名が追加認定されたことに
なるが,このうちには新たに発見されたものもあるものの,その多く
は病状の増悪,遅発により認定されたものであること,その主要症候
として,感覚障害は96%のものに,視野狭窄は78%のものに,運
動失調は74%のものにみられたこと,症状の経過では,初期には末
梢神経障害,共同運動障害などで改善がみられ,一部では求心性視野
狭窄の拡大もみられたが,その後は共同運動障害を除く全症状で増悪
傾向がみられたこと,さらに,昭和45年には,α9川流域の住民に
つき三次にわたる一斉検診を行ったこと,発症の最低頭髪水銀量の検
討は重要ではあるが汚染状況,川魚摂取状況,診断基準などにより異
なり,また症状の遅発,増悪する事実もあることから慎重でなければ
ならないこと,などを報告している。
以上のとおり,P10による上記報告は,α9川流域にみられた水
俣病患者に係る調査結果を報告するものであるが,そこでは症候の組
合せという観点から水俣病の臨床像が検討された様子はうかがわれず,
むしろ,上記のとおり,水俣病の診断は,臨床的検討によるほか,川
魚摂取と頭髪水銀量高値,家族内発症などに着目して総合的に判断し,
その上で,水俣病であると認められた者について,その症候の経過等
を報告しているのであるから,一定の症候の組合せがなければ水俣病
であると診断できないとの前提はとられていないものと考えられるの
であり,同報告が,52年判断条件の医学的正当性を基礎付けるもの
ということはできない。
dP10による「水俣病の診断に対する最近の問題点」(『神経進歩』
第18巻第5号882頁(昭和49年),乙61)は,P10が,その
時点における水俣病の診断についての考え方を記したものである。
同論文においては,メチル水銀中毒症の個々の症候をみると,視野
狭窄を除き,極めてありふれた神経症候であり,そこに要求されるこ
とは,類似した多くの神経疾患をいかにして鑑別すべきかであるとし
た上,具体的に,水俣病と頸椎症における神経症状との鑑別について
検討するなどしたものである。
以上のとおり,P10の同論文は,水俣病の各症候が,視野狭窄を
除き水俣病に特異的なものではなく,他疾患との鑑別の重要性を指摘
するものであるけれども,52年判断条件に規定された症候の組合せ
について検討するものではなく,52年判断条件に規定された症候の
組合せが備わらない限り水俣病であると診断することができないこと
を裏付けるものではない。
(エ)また,被告らは,環境庁は昭和60年8月16日に熊本水俣病第2
次訴訟控訴審判決が福岡高等裁判所で出されたことを契機として,その
時点における水俣病の病態及び52年判断条件が医学的にみて妥当なも
のであるかどうかにつき,同年に設けた,P10,P14及びP12ら
の水俣病についての代表的な専門家のほか,水俣病研究に限定すること
なく様々な神経症状に精通する神経内科の代表的専門家であるP31病
院長のP32やP62神経センター長P63等の専門家らにより構成さ
れる「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議」(専門家会議)に諮問
したところ,専門家会議は,「現時点では,現行の判断条件により判断す
るのが妥当である。」と結論付けており(乙22),52年判断条件の医
学的正当性が確認されていると主張する。
しかしながら,52年判断条件の性格が,前記イ(ア)のようなものと
して理解される以上,52年判断条件に規定する要件を満たす場合につ
いて水俣病と認められることはともかくとして,52年判断条件を満た
さない場合について,症候のみからは医学的に水俣病と断定することは
できないとしても,他の条件等を考慮せずに一律に水俣病にかかってい
ると認められないと判断し得るかという点については,単に水俣病その
他の専門家によって是認されているという一事をもってこれを首肯する
に足りないことは,前記説示したところと同様である。
また,被告らが専門家会議において資料として使用されたと指摘する
論文等(乙63~66)も,52年判断条件の要件を満たさない場合に
水俣病とは認められないことの医学的正当性を直ちに基礎付けるものと
いうことはできない。
aすなわち,P7による第68回日本精神神経学会のシンポジウムに
おける報告である「長期経過した水俣病の臨床的研究」(乙63)は,
水俣病発見後当初はハンター・ラッセル症候群を中心としてほかに類
のないほど共通の症状がみられており,その全体の臨床像も似ていた
が,その後,症状の改善がみられるものもあったことから症状の多様
化がみられ,当初から10年を経た同報告時においては各症状の経過
に不揃いがあるために次第に非典型化し,その前景となる症状が入れ
替わっていくつかの病型に類型化されてきていることなどを報告する
ものであるが,そこでは,新しい病型の試みとして,失外套症状群近
似の型,失調・構音障害・知覚障害を主徴とする型,知能・性格障害
を主徴とする型及びその他の型に分類し,そのうちその他の型として,
錐体路症状が目立つ型のほか,知覚障害が主徴となる型や視野狭窄の
み見られるものを挙げているところであり,同論文が52年判断条件
の医学的正当性を裏付けているということはできない。また,同論文
は,40名の認定患者を出した27世帯を含む65世帯の構成人員3
84名から既に水俣病認定された40名を除いた者のうち100名を
診察したところそのうち77名のものに末梢性の知覚障害が認められ
たことなどを報告している。
bまた,P38らによる「新潟水俣病の疫学と臨床-とくに第2回一
斉検診と臨床症状の推移について-」(『神経進歩』第16巻第5号8
81頁(昭和47年),乙64)は,新潟県α9川流域の住民について
昭和45年に実施した一斉検診の結果を報告するものである。そこで
は,四肢遠位部に知覚障害を認めるのみの患者数は,α9川の下流域
で有意に高頻度であったこと,昭和47年2月の水俣病認定を受けた
患者数は102名であるが,そのうち追跡検診を受けた者の94.9%
に多発性ニューロパシーが認められ,当初は手袋靴下型を示したもの
が後には体幹にも知覚障害が及び胸髄から一部は頸髄レベルにも達す
ること,一般の多発性ニューロパシーでは顔面,体幹などで正中線よ
りの部分(額,鼻先,口唇,胸部前面及び背部中央)など支配神経末
端部に知覚障害をみる場合があるが,水俣病患者では,体幹でこの傾
向をみるものもあるが,少なく,顔面では,口周囲ないし上口唇部を
中心とするタマネギ状に知覚異常を示すものが圧倒的に多いこと,共
同運動障害,聴力障害及び視野狭窄も高率でみられること,等が報告
されているが,同論文から52年判断条件に規定する症候の組合せを
具備しない水俣病患者が存しないことは何らうかがえない。
cさらに,P22及びP13による「水俣病の臨床」(『神経進歩』第
13巻第1号(昭和44年),乙65)は,熊本県における水俣病発症
当初の水俣病患者の臨床像とその10年後の状況とを比較するもので
ある。そこでは,発病当初及びその10年後のいずれにおいてもハン
ター・ラッセル症候群を中心とする症候が高率でみられるが,それら
の水俣病の主要所見はいずれも10年を経てその頻度及び程度におい
て軽減しており,ただ,その軽減の程度は10年という期間を考慮す
るとあまりに遅々かつ微々たるものであることなどを報告していると
ころ,同報告からも,52年判断条件が規定する症候の組合せが検討
された様子はうかがわれない。
dP12らによる「多変量解析による水俣病の診断」(『神経進歩』第
18巻第5号890頁(昭和49年),乙66)は,昭和46年から昭
和49年にかけて水俣市に近い鹿児島県側のα10海沿岸の住民につ
いて行った一斉健康調査の結果を基に,神経症状のうちこの調査にお
いて出現した頻度が3%以上であった53項目を対象としてその調査
結果に基づく多変量解析を行うものであるが,そこでは,因子分析の
結果として水俣病の因子を規定する症状としては,本質的にはハンタ
ー・ラッセル症候群と同一であるとされている。そして,水俣病の診
断においては,地域魚介類の水銀値,居住歴,家族内発症の有無,魚
介類の摂取状況,猫などの発症の有無,過去の毛髪中水銀値及び発症
の有無,過去の毛髪中水銀値及び発症時期などの疫学条件を重視すべ
きことはいうまでもないが,これらの条件に関しては必ずしも正確な
情報が得られるとは限らず,水俣病の診断に疫学条件が備わっていれ
ば積極的な根拠となり得るが,必ずしもその条件を明らかにし得ない
場合もあり,いきおい神経症状を中心とする臨床症状が診断上もっと
も重要視されており,ただ,臨床症状の上からも健康者と水俣病患者
とを画然と区別する基準は存しないとする。
上記のとおり,同論文は,水俣病の診断における個々の症候の重み
を検討した上,疫学条件の有無を判断することが困難な場合も多いこ
とを指摘するものではあるが,52年判断条件が規定する症候の組合
せを検討するものではない。また,甲第35号証によると,同研究に
おける多変量解析の結果は,P12による水俣病の診断の正当性をう
かがわせるものであるということはできるものの,上記P12による
診断の基準自体が必ずしも明確ではなく,上記P12らの調査解析結
果が52年判断条件の医学的正当性を基礎付けるものということはで
きない。
(オ)被告らは,水俣病においては,体内に取り込まれたメチル水銀が強
く障害する部位は特定されており,また,このような障害によって主に
生じる症候も特定されているが,その障害部位は大脳や小脳を始めとす
る神経系であるため,患者の生存中にこれらの組織を生検し,メチル水
銀による障害が生じているか否かを確認することは困難である上,上記
症候はいずれも当該症候の一つがあれば水俣病に罹患していると判断で
きるような特異的な症候ではなく,他の疾患によってもこれらの症候を
来す場合が多いことから,水俣病の診断は,必然的に,各種の症候の組
合せから水俣病であると推定する症候群的診断によらざるを得ないと主
張する。
しかしながら,水俣病における主要な症候がいずれも水俣病に非特異
的なものであって,水俣病の診断において症候群的診断が有用であると
しても,そこにおける症候の組合せが52年判断条件に規定する組合せ
に限られるとする根拠がないことは,上記(ア)から(エ)までにおいて認
定説示したとおりである。
また,弁論の全趣旨によれば,水俣病の主要症候は,いずれも水俣病
に特異的なものではなく,他の疾病によっても生じ得るものと認められ,
それらの症候のみからは,直ちに水俣病と診断することができないこと
は被告らの主張するとおりである。しかしながら,前記のとおり,水俣
病は,魚介類に蓄積されたメチル水銀を経口摂取することにより生じる
中毒性疾患であるから,水俣病認定申請者に存する症候が,経口摂取し
たメチル水銀を原因とするものかどうかを判断するに当たっては,他の
症候等の組合せを検討するほか,水俣病の原因物質であるメチル水銀へ
の曝露の状況等の疫学的条件を検討することも可能である上,前記のと
おり,水俣病にみられる主要症候が,水俣病に非特異的なものではない
としても,それが他の原因によるものではないと鑑別することができる
のであれば,水俣病と診断して差し支えないはずである。このように,
水俣病の診断に際して検討されるべき事柄は,唯一症候の組合せに限ら
れるものではなく,認定申請者のメチル水銀への曝露の状況や他疾患の
可能性等,種々のものが考えられるのであるから,水俣病の主要な症候
がいずれも水俣病に非特異的なものであって,他の疾病においてもみら
れるものであるとしても,そのことから直ちに水俣病の診断には症候の
組合せが必要であるとまでいうことはできないというべきである。
そもそも,前記のとおり,52年判断条件は,メチル水銀への曝露歴
を水俣病と判断する前提条件とした上,認定申請者に認められる個々の
症候がメチル水銀の影響によるものであるかどうかについては,一定の
症候の組合せの存否によるものとし,メチル水銀に対する曝露歴等の疫
学的条件が十分には考慮されていない。この点,被告らは,魚介類の経
口摂取によるメチル水銀曝露歴というのは,本人の「魚介類を多食して
いた」旨の申告によるところが多く,魚介類の汚染状況にも差があるた
め,そのメチル水銀の多量摂取を客観的に裏付けることは困難であるこ
と,水俣病を発症するメチル水銀量にも個人差が認められること,ある
地域において患者が多発した,つまり発症するほどのメチル水銀曝露歴
を受けた者が多数いたとしても,その地域に居住しているすべての者に
ついて同程度のメチル水銀曝露歴があったともいえないことから,水俣
病の診断においてメチル水銀曝露歴が果たし得る役割には限界がある旨
主張するところ,前記イ(ア)において認定説示した52年判断条件の性
格をも併せ考えると,52年判断条件においては,メチル水銀の曝露歴
等の認定申請者の疫学的条件については客観的な裏付けを欠き,明確に
認定することが困難であることも少なくないと考えられることから,よ
り明確かつ類型的に水俣病にかかっているか否かを判断することを可能
にするため,このような疫学的条件よりも客観的かつ類型的に判断し得
る症候の組合せを重視して判断基準を設定しているものと推認される。
そして,確かに,メチル水銀への曝露歴を中心とする疫学的条件につい
ては,認定申請者の供述による部分が大きく,その客観的裏付けを欠く
場合も少なくないものと考えられ,多数の認定申請について審査する必
要がある公害健康被害認定審査会において個別的に認定判断することが
困難である場合も多いと考えられる。
しかしながら,上記のとおり,一般論としてメチル水銀に対する曝露
歴等が認定申請者の供述によるところが大きく,その的確な認定が困難
な場合が多いということはできるとしても,認定申請者の供述その他の
資料からこれを認定することができる場合にまで軽視する理由はない。
前記のとおり,水俣病の主要症候はいずれも水俣病に非特異的なもので
あり,これのみから直ちに水俣病かどうかを判断することができないこ
とからすれば,むしろ,メチル水銀に対する曝露状況等の疫学的条件を
認定することができる場合には,そのような疫学的条件も症候の存否な
いし組合せ等と併せて総合的に考慮するのが相当であるというべきであ
る。したがって,水俣病の診断に当たっては,常に症候群的診断による
ほかないかのような被告らの主張は,採用することができない。
エ52年判断条件についての小括
以上認定説示したところによると,52年判断条件は,その策定経緯等
からすると,これに規定する要件を満たす者については水俣病にかかって
いるものと認めて差し支えないというべきであり,その意味において水俣
病認定における52年判断条件の意義を否定することはできないけれども,
52年判断条件の要件を満たさない者については,症候の組合せの要件を
満たさないという一事をもって直ちに水俣病にかかっていないものという
ことはできない。上記組合せを満たさない各症候についても,その内容や
発現の経緯等により,水俣病と考えられる可能性の程度は様々であり,さ
らに,申請者のメチル水銀に対する曝露状況等の疫学的条件に係る個別具
体的事情等を総合考慮することにより,水俣病にかかっているものと認め
る余地があるものというべきである。
(2)水俣病における感覚障害について
ア後記のとおり,ハンター・ラッセル症候群のうち,原告に当初から一貫
して明らかに認められる症候は,四肢末端優位の感覚障害に限られる。
ところで,被告らは,ハンター・ラッセル症候群のうち臨床上認められ
る症候が四肢末端優位の感覚障害のみの水俣病が存在することは医学的に
実証されておらず,四肢末端優位の感覚障害のみからは水俣病であると診
断することはできないと主張するところ,上記のとおり,52年判断条件
に規定する要件を満たさないという一事をもって直ちに水俣病にかかって
いないものと判断することができないとしても,被告らの主張するとおり,
臨床上把握しうる症候が四肢末端優位の感覚障害のみの水俣病が存しない
のであれば,疫学的条件その他の事情について検討するまでもなく,原告
が水俣病であるとは認められないとも考えられる。
イしかしながら,前記認定事実に加え,証拠(甲75,76,103,乙
1,2,41,46,69,75,76)及び前記(1)ウ(ウ)(エ)において
認定説示したところによれば,水俣病患者については,ハンター・ラッセ
ル症候群の全部の症候が発現する場合のほか,中程度ないし軽度の患者に
ついては,その一部の症候のみしか出現しない場合も多いところ,そのよ
うな場合であっても,そのほとんどの例において四肢末端優位の感覚障害
がみられるというのであるから,四肢末端優位の感覚障害は,水俣病にお
ける最も基礎的ないし中核的な症候として,いわば水俣病における共通項
として位置付けることができる。この点,世界保健機構の環境保健クライ
テリア(甲76)においても,メチル水銀中毒の各症候について見積もら
れたメチル水銀の体内量の閾値が最も低いのは知覚障害であったとするバ
キルらの研究が紹介されている。
また,前記認定のとおり,体内に取り込まれたメチル水銀は,神経系の
特定部位,すなわち,メチル水銀は,大脳については,後頭葉の線野,特
に鳥距野の前半部(周辺部視野の中枢),頭頂葉の中心後回領域(感覚の高
次中枢),前頭葉の中心前回領域(随意運動の中枢)及び側頭葉の側脳溝に
面する横回領域(聴覚の中枢)を,小脳については,虫部及び半球を,末
梢神経については,感覚神経を,それぞれ強く障害し,これらの障害の部
位に応じて,ハンター・ラッセル症候群の各症候が発現するところ,上記
各証拠等によると,感覚障害以外の症候については,その出現頻度に差は
あるものの,その現れ方は様々であり,種々の症候からなる多彩な水俣病
患者が存するものということができ,神経系の各部位のメチル水銀に対す
る感受性は個人差があるものと推認される。
そして,前記のとおり,水俣病は魚介類を介してメチル水銀を経口摂取
することにより生じる中毒性の神経疾患であるから,水俣病は,各人のメ
チル水銀に対する曝露の状況やメチル水銀に対する感受性に応じて死亡に
至る重症例からその症状の程度が極めて軽度な軽症例まで不断に分布して
いるものと考えられるところ,上記のような水俣病における四肢末端優位
の感覚障害の位置付けからすれば,そのような最も軽度の水俣病において
は,臨床所見として把握し得る神経症候が四肢末端優位の感覚障害のみで
あるものも存在すると推認される。
ウこの点,前記認定のとおり,P15らによる論文においては,ハンター・
ラッセル症候群のうち感覚障害のみの場合については,水俣病であると決
定するためには,さらに疫学的な事項,すなわち,家族内発病の有無や魚
介摂取状況,他の疾患の合併の有無などについて検討されなければならな
いとされ,このような感覚障害のみしかない水俣病も存在することが前提
とされている上,水俣病と診断された患者には,ハンター・ラッセル症候
群のうち,感覚障害のみを伴う例もあったことを報告しているところであ
る(前記(1)ウ(ウ)b)。また,先にみたP38らの報告では,新潟県α9
川流域の住民について昭和45年に一斉検診を行った結果,四肢遠位部に
知覚障害を認めるのみの患者が同川下流域で優位に高頻度であったことを
報告しており(前記(1)ウ(エ)b),これらの報告は,臨床所見として把握
し得る神経症候が四肢末端優位の感覚障害のみである水俣病も存在するこ
とを示唆するものであるということができる。
また,上記論文ないし報告の他にも,次の論文ないし報告の存在を指摘
することができる。
(ア)まず,P10,P37及びP38による「新潟水俣病における毛髪
水銀値と臨床症状-比較的低水銀汚染者群にみられた神経症状の特徴
-」(甲101)は,新潟大学脳研究所神経内科を受診し,毛髪水銀値が
40.0~59.9ppmと比較的低い値を示した44名を対象として
その臨床症状の特徴を報告するものであるが,そこでは,自覚症の頻度
は四肢のしびれ感が73%と最も高く,他はほぼ40%以下であること,
他覚所見ではしびれ感に対応する四肢の末梢性知覚障害が61%と最も
高率で,その他の異常所見が20~30%の頻度で認められたこと,こ
のうち,知覚障害のみを示す例が7例あり,そのうち5例は家族内に患
者や有症者を認めるケースであったこと,知覚障害は末梢性の手袋靴下
型分布を基本とすること,上記のような知覚障害のみを示す例について
は,毛髪水銀値でもない限りその診断は難しいが,家族発現をみる例で
他に否定的原因がなく,メチル水銀による多発性神経炎と考えてよいと
思われる場合があること,などを指摘している。
同報告にあらわれた知覚障害のみを示す例がすべてメチル水銀の影響
によるものであると直ちにいうことは困難であるものの,毛髪水銀値が
比較的低い受診者に知覚障害のみを示す例が認められ,また,四肢の末
梢性知覚障害が他の神経症候に比して高率で認められたことは,臨床上
把握し得る神経症候が四肢末端優位の感覚障害に限られる水俣病が存在
することをうかがわせるものである。
(イ)また,P7は,同人らを含むP30総合調査団が昭和51年にα1
0海沿岸各地において行った一斉検診の結果,水俣病認定申請中の者4
13名のうち301名(73.1%)の者に四肢末端の感覚障害がみら
れ,次いで,聴力障害や筋力低下も60%余りの者にみられたこと,上
記沿岸地域のうち,α13では全住民について,α12では全住民の8
4.1%について検診することができたが,これらの検診においても,
四肢末端の感覚障害は65.5%と最も高率にみられたことを報告して
いる(甲102)。また,P64も,出水市α29島の住民のうち若年者
について行った検査の結果,感覚障害,聴力低下,共同運動障害などい
ずれも水俣病の特徴的症状が優位に見出され,中でも,特徴的なことは,
四肢末梢型の感覚障害が高頻度にみられたことであり,しかも,その感
覚障害の程度は汚染の程度と関連しており,しかもその感覚障害を説明
できる原因もなく,かつそれが集団的に発生していることなどから,有
機水銀影響によるものと考えてよいと思われ,そうであるとすれば末梢
型の感覚障害が最も初期あるいは軽症の症状であるといえるとしている
(甲103)。
上記各報告は,臨床上把握し得る神経症候が四肢末端優位の感覚障害
のみである水俣病が存在することを直接裏付けるものではないが,四肢
末端優位の感覚障害が水俣病における最も基礎的,中核的な症候である
ことを示すものであり,軽症例においては,そうした四肢末端優位の感
覚障害のみの水俣病も存することをうかがわせるものであるということ
ができる。
この点,被告らは,上記P7の報告にある調査を行ったのは,水俣病
研究会に参加していたP7をチーフとするP30総合調査団医学班であ
るが,感覚障害の検査には熟練が必要であるにもかかわらず,上記調査
に参加した医師らの専門分野も上記調査の診断方法も不明であり,科学
的・客観的な調査が行われているとはいい難い上,上記研究会の性格等
からして,P7の上記報告は,検者,被検者とも極めて強いバイアスが
かかった調査結果であり,こうしたデータを対照となる非汚染地域の調
査結果と単純に比較しても正確な結論を導き出せないと主張する。
確かに,上記報告によれば,上記調査は多数に及ぶ認定申請者の早期
の救済を図ることを目的とするものであり,その調査目的においては一
定の方向性があるものと認められる上,調査を行った医師団においては
診察経験の豊富な者から未経験の者までいるため,その診察技術が問題
となることもあったとされている。
しかしながら,上記調査は,延べ103名にも及ぶ複数の大学に所属
する医師により行われたものであり,個々人の検査技量にばらつきがあ
るとしても,上記調査結果が直ちに信用することができないということ
はできないし,感覚障害の検診において,検者ないし被検者のバイアス
が一定程度その結果に影響を及ぼすことがあるとしても,それが先にみ
たような上記調査の顕著な傾向を否定するほど大きなものであることを
うかがわせる証拠もなく,被告らが主張する事情を考慮しても,P7に
よる上記報告の信用性が直ちに全面的に否定されるものではないという
べきである。
(ウ)さらに,P16及びP17は,α14島の漁村であるα15(熊本
県天草郡α11町α15)と,比較対照群としての漁村であるα17(宮
崎県東臼杵郡α16町)とで住民の神経学所見を比較し,α17では神
経学所見を2つ以上有している者の割合は9.2%で,4つ以上有する
者はいなかった,α15では2つ以上有する者が56.2%であり,4
つ以上有する者は15.7%いたこと,感覚異常,共同運動異常,聴力
障害,視野狭窄及び言語障害の各神経学所見のいずれも,α17の住民
に比べα15の住民の方に有意に高い頻度でみられたこと,感覚低下は
α15でみられた5つの神経学所見の中で最も高頻度(73%)にみら
れたこと,α15でみられた感覚低下の大部分はいわゆる手袋ソックス
型の四肢末梢の感覚低下であったこと,このタイプの感覚低下はα17
ではまれであったことなどを報告している(甲104)。
この点,被告らは,P16及びP17らの上記疫学調査は,バイアス
や交絡因子について十分に配慮していないため信用するに値しないなど
と主張する。
確かに,上記論文からは,疫学において問題となるバイアスや交絡因
子について十分な配慮が払われたことは読み取ることはできないものの,
そのこと自体は被告らが指摘するものも含めた他の論文等においても同
様であって,そうした調査結果の具体的な数値から直ちに一定の結論を
導くことについては慎重であるべきということはできるとしても,専門
家の手により調査検討されたものである以上,その信用性を直ちに否定
するのは相当ではない。
エ被告らは,四肢末端ほど強く現れる感覚障害としては,主なものを挙げ
るだけでも,急性感染症,栄養障害,内分泌障害(糖尿病等),代謝障害(尿
毒症),重金属・有機溶剤中毒,薬剤の副作用及び悪性腫瘍に伴う感覚障害
があるほか,原因不明のものも多いため,四肢末端優位の感覚障害のみか
ら水俣病を診断することはできないと主張する。
確かに,証拠(乙41,112~115)及び弁論の全趣旨によると,
水俣病以外にも,四肢末端優位に感覚障害がみられるものとして多発性神
経炎があるところ,その原因としては糖尿病や頸椎症など種々のものが存
在し,中には原因不明なものも含まれていることが認められる。
しかしながら,四肢末端優位の感覚障害が,水俣病に特異的な症候であ
るとはいえないことからすれば,臨床上把握し得る神経所見が四肢末端優
位の感覚障害のみの場合にあっては,これが水俣病であるかどうかを判断
するに当たって慎重を要することはもとより当然であるけれども,こうし
た四肢末端優位の感覚障害が水俣病の最も基礎的ないし中核的な症候であ
ることは既に説示したとおりであり,これが水俣病を診断するに際して重
要な判断要素となることは否定することができない。そして,四肢末端優
位の感覚障害が水俣病における中核症候であることからすれば,メチル水
銀に対する曝露歴等の疫学的条件を具備する者について,曝露歴に相応す
る四肢末端優位の感覚障害がみられ,当該感覚障害が他の原因によるもの
であることを疑わせる事情が認められない場合には,当該感覚障害はメチ
ル水銀の影響によるものである可能性が高いというべきである。そして,
四肢末端優位の感覚障害は,多くの原因によって出現し,その原因が明ら
かでないことも少なくないとされているものの,殊に糖尿病性ニューロパ
シーは比較的頻度が大きいとされ,また,頸部変形性脊椎症によるミエロ・
ニューロパシーにおいてもみられることがあるとされていることからする
と,四肢末端優位の感覚障害の原因を検討するに当たっては,まずもって
これらの他原因の可能性について検討すべきである。
この点,被告らは,感覚障害の所見のみをもって水俣病と判断すると偽
陽性が著しく多くなることは,P20論文(乙42)からも明らかである
と主張する。
そこで検討するに,P20論文は,熊本県公害健康被害認定審査会ない
し同県公害被害者認定審査会に申請し,いったん棄却処分を受けた後再申
請した者で,死後,昭和50年12月から平成3年11月までに熊大医学
部病理学教室又は京都府立医科大学病理学教室において解剖された101
例の剖検例について報告するものである。同報告においては,対象とした
101例のうち四肢末端優位の感覚障害のみを示した者は21例(男17
例,女4例)であったが,これらにつき剖検資料を参考に再検討を加えた
ところ,神経系にメチル水銀によると考えられる一定の障害パターンを示
したものは2例(9.5%)のみであり,1例は水銀沈着症であったこと
などを報告している。
上記のとおり,P20論文によると,四肢末端優位の感覚障害のみを有
する水俣病認定棄却処分を受けた者21名のうち,その神経系にメチル水
銀によると考えられる障害パターンを示したものは2例しかなかったとい
うのであるから,四肢末端優位の感覚障害のみに着目していては,的確な
水俣病の診断が困難であることは,被告らの主張するとおりであろう。し
かしながら,前記のとおり,P20らが剖検の対象としたのは,水俣病認
定申請につきいったん棄却処分を受けた後,さらに再申請した者であって,
それらの各剖検例における個別具体的なメチル水銀に対する曝露歴等の事
実関係は明らかにされていないから,四肢末端優位の感覚障害のみからは
水俣病とは診断できないということを超えて,メチル水銀に対する曝露歴
等の疫学的条件その他の事情を含めて総合的に検討しても,常に水俣病で
あると診断できないということまで意味するものではないというべきであ
る。むしろ,同報告において,上記のとおり,四肢末端優位の感覚障害の
みしか有しない者についても,その神経系にメチル水銀によると考えられ
る一定の障害パターンが観察された例があったことは,臨床所見として把
握し得る神経症候が四肢末端優位の感覚障害のみである水俣病が存在する
ことを示唆するものであるということもできる。
オ他方,原告は,上記ウ(ウ)のP16及びP17の調査結果のほか,P1
7の意見書(甲75)や日本精神神経学会・研究と人権問題委員会による
「環境庁環境保健部長通知(昭和52年環保業第262号)『後天性水俣病
の判断条件について』に対する見解」(『精神神経学雑誌』第100巻第9
号765頁(平成10年),甲20)からすると,α11町ではα16町よ
りも四肢末端優位の感覚障害の相対危険度(四肢末端優位の感覚障害の発
生のしやすさ)が208倍であり,α11町で四肢末端優位の感覚障害を
呈する住民を水俣病患者と診断しても,間違える確率は曝露群寄与危険度
割合が99.5%であるからわずか0.5%にすぎず,このことは,α1
1町の65人を全員水俣病と判断してもせいぜい1人(正確には0.3人)
しか間違わないが,逆に65人全員水俣病でないと判断すると,少なくと
も64人について間違いを犯すことになる,曝露群寄与危険度割合は99.
1であるから,曝露群に観察される四肢末端優位の感覚障害の99.1%
は有機水銀曝露によるものである,などとして,メチル水銀に対する曝露
歴が認められる者について,四肢末端優位の感覚障害が認められれば,そ
れのみから直ちに水俣病であると判断することができるかのような主張を
する。
しかしながら,疫学は,本来,一定の人間集団を対象として,その中で
出現する疾病その他の健康に係る種々の事象の頻度と分布及びそれらに影
響を与える要因を明らかにすることを目的とするものであり(乙101~
104),それから得られた結果は判断の前提となる経験則の1つとなるも
のではあるが,その手法を直接用いて個々人の具体的診断ないし因果関係
の有無の判断をすることはできない。また,相対危険度や曝露群寄与危険
度割合は,各種の調査によって得られた数値を一定の統計処理することに
より得られるものであり,そこでの算出の仕方からすれば,上記調査結果
にわずかでも誤差があれば,そうした誤差は相対危険度や曝露群寄与危険
度割合にも大きく反映される場合があることは明らかであって,こうした
数値を算出するについては,その前提となる調査結果等の数値が正確であ
ることが前提となる。そうであるところ,P17の意見書(甲75)に記
載された数値には,そもそもその出典が明らかではないものもある上,上
記P16及びP17の調査についても,前記のとおり,一般的な傾向をう
かがうためには有用であり,その限りにおいては信用性を否定できないと
しても,同調査に当たってバイアスや交絡因子について十分な配慮が払わ
れた様子はうかがわれず,その調査結果が,直ちに相対危険度や曝露群寄
与危険度割合の算出に供し得るだけの精度を有しているかはなお明らかで
はない。さらに,上記日本精神神経学会・研究と人権問題委員会による研
究においては,それまでに実施されてきた複数の調査結果を用いて検討し
ているところ,一口に感覚障害といってもいくつかの検診方法があり,ま
た,そうした検診の手技や基準等についても調査ごとにばらつきがあると
考えられることや,上記各調査における神経症候の出現頻度等については,
一定の傾向は認められるもののなおばらつきもみられるところであり,こ
うした調査がすべて等しい条件の下で実施されたものとは認められないこ
とからすると,上記研究の検討結果を直ちに採用することはできない。
以上のとおりであるから,メチル水銀に対する曝露歴が認められる者に
ついて四肢末端優位の感覚障害が認められれば直ちに水俣病と診断し得る
ものと認めるに足りる証拠はなく,原告の主張が上記の趣旨をいうのであ
れば採用することはできない。
カ以上認定説示したところによれば,臨床上把握し得る神経症候が四肢末
端優位の感覚障害のみである者については,そうした感覚障害が水俣病に
特異的なものではないことから,水俣病かどうかを判断するについては慎
重を要するものではあるけれども,その一事をもって水俣病であることを
否定するのは相当ではなく,メチル水銀に対する曝露歴等の疫学的条件の
ほか,当該感覚障害が水俣病にみられる感覚障害としての特徴を備えてい
るかといった点(例えば,その発現部位や発現時期,あるいはその原因が
中枢神経の障害にあることをうかがわせる事情の有無等)や,当該感覚障
害について水俣病以外の原因,取り分け糖尿病や頸椎狭窄等によるもので
あることを疑わせる事情が存するかどうかといった点等,水俣病認定申請
者に係る具体的な事情を総合的に検討して水俣病にかかっていると認めら
れるか否かを判断すべきである。
なお,原告及び被告らは,それぞれ,水俣病の診断における二点識別覚
検査の有用性についてるる主張するけれども,後記のとおり,原告は二点
識別覚検査を受けておらず,その有用性は原告が水俣病であるかどうかの
判断を左右するものではないから,この点については判断しない(なお,
前記2(3)ア(イ)参照)。
4原告に係る事実関係
以上の見地から検討するのに,前記前提事実に加えて,証拠(甲28,29,
52,54~59,94,95,乙16,17,35,70,126)及び弁
論の全趣旨によると,原告に関して以下の事実を認めることができる。
(1)原告の生活歴等
ア原告は,大正▲年▲月▲日,熊本県葦北郡α1町(現水俣市)α2にお
いて,P65とP66の二女として出生した。α2は,海岸から12㎞程
度離れた山間に所在し,原告の両親は同所で農業を営んでいたため,原告
も,昭和14年ころ尋常高等小学校高等科を卒業した後,同所で両親の農
業を手伝うようになった。原告家族は,同所に居住していた際,頻繁に行
商人から魚を購入して食べていた。
イ原告は,昭和18年,P1と結婚し,P1の実家のあるα1町α3に転
居した。P1の実家は海岸沿いに所在し,その家族は漁業に従事していた
ため,原告は,義兄のP67の網子となってα3沖で漁をすることがあっ
たほか,農業にも従事していた。また,P1自身は,P68製造会社に勤
務していたものの,その傍ら,夜振りでボラ釣り等もしており,原告は,
同所に居住している際,自ら採るほか網元からもらうなどして,ボラやビ
ナ貝等の魚介類を毎日のように食べていた。原告は,同所に居住していた
昭和20年4月15日にP1との間の長女を出産した。
ウ原告は,昭和▲年▲月▲日にP1が出征先の満州において病死したため,
昭和25年ころには娘と共にα2の実家に戻ったが,その後も毎週のよう
にα3の亡夫の実家を訪れており,その際には,いりこ,ボラ,ビナ貝及
びアジ等の魚介類をもらうなどしていた。
エ原告は,昭和26年,P3と婚姻して水俣市α4に転居し,さらに,P
3がP2に勤務していたため,昭和27年には同市α5所在のP2の社宅
に転居したが,昭和28年3月30日にP3と離婚し,同年4月に再びα
2の実家に戻った。原告は,この間も,行商人から魚を購入するなどして
食べていた。
オ原告は,昭和28年11月,P4と婚姻し,昭和30年には,水俣市α
6のα7開拓村に転居した。同所は,海岸から約3㎞程度の山間に所在し,
原告は,昭和33年ころからは同所で酪農に従事するようになった。P4
は,酪農の合間に頻繁に夜釣り等の漁に出てカニやタコ,イカあるいはナ
マコ等を採っており,タコ等については自家消費するのみだけでなく,一
部他に販売するなどもしていたほか,知り合いから魚をもらう機会も多か
った。
また,原告も,海岸で貝を採取して食べることも多く,P1の弟やP1
の兄の子で網元をしていたP69から魚をもらうことも多かったほか,原
告の義母の娘の嫁ぎ先が魚の行商をしていたこともあり,そこから魚をも
らい,他の行商人からも魚を購入するなどしていた。
カP4及び原告は,昭和46年2月末,α6の土地を売却し,P4の友人
を頼って兵庫県尼崎市に転居した。
P4は,同市へ転居後は,P70株式会社,P71株式会社及びP72
等に勤務したが,昭和59年にはP73病院に入院し,その後昭和61年
に一時失業対策事業を実施しているP74株式会社に勤務したが,昭和6
2年に退職し,以後無職である。
また,原告は,尼崎市への転居後当初はP75で工員として稼働してい
たが,昭和48年ころ退職し,以後無職である。
キP1の母であるP23,P1の妹であるP24,P1の弟であるP76
及びその妻のP77並びにP1の弟のP25及びその妻のP26は,いず
れも現在までに水俣病認定を受けており,原告は,P1と婚姻関係(内縁
関係)にあった間,これらのうちP25及びP26を除く者らと共に生活
していた。
また,P3は,死亡後の昭和54年に,水俣病に認定されている。
(2)原告の病歴等
ア原告は,昭和28年ころから,頭が重く足にしびれを感じるようになり,
昭和32年ころには手足の先のしびれが悪化したため,P52病院を受診
したところ,○と診断され同病院に通院して治療を受けた。また,昭和3
3,34年ころからはめまいも頻繁に起こるようになり,昭和44,45
年ころには,たまに左足にからす曲がり(こむら返り)が起きるようにな
った。
イ原告は,昭和46年に尼崎市に転居した後も手足のしびれや痛みがあり,
昭和47年ころには頭痛と足のしびれや痛みのためにP39診療所に通院
し,昭和48年ころには,手足の先のしびれが強く,物を持っている感じ
もなく,足先も曲がっているように感じ正座もできない状況であったほか,
頭痛,後頸部痛,腰痛,肩凝り等の自覚症状もあったため,県立P40病
院の整形外科を受診したところ,○,○と診断され,昭和50年7月ころ
には両足の指先から膝にかけてけいれんがみられるようになり,手足の知
覚がなくなり,力が入らなくなったため,同年9月にP28病院に入院し
た。
ウP28病院において○(○)が発見されたため,原告は,同年11月,
紹介を受けたP29病院において同腫瘍の摘出手術を受け,さらに,昭和
57年にも,P78病院脳外科において,上記○につき再手術を受けた。
エまた,原告は,昭和59年ころからは左右の肩の付け根がこるようにな
り,痛みがあったため,以後P41病院及びP79診療所ないしP80医
院(眼科)などを受診している。
(3)事実認定の補足説明
上記のとおり,当裁判所は,別件訴訟において証拠として提出された原告
に係る供述録取書(甲59)の記載におおむね沿って,原告には昭和28年
ころから手のしびれ等の自覚症状があったものと認定したものであるが,被
告らは,原告に自覚症状が生じたのは昭和48年ころであると主張するとこ
ろ,確かに,原告につき昭和54年に実施された検診の結果作成された疫学
調査票(乙16の17)及びこれに基づき作成された公害健康被害認定審査
会資料(乙16の13)にはこれに沿う記載もあるので,当裁判所が上記供
述録取書の記載をおおむね信用できるものと判断した理由を以下説明する。
ア前記前提事実に加えて前掲各証拠によると,本件処分に至る経緯は次の
とおりである。すなわち,原告は,昭和48年4月27日,熊本県知事に
対し,救済法に基づく水俣病認定申請をし,昭和49年8月に各種の検診
を受け,さらに,脳手術後である昭和53年5月にも再度各種検診を受け
たものの,同年8月3日,熊本県知事により棄却処分を受けた。そこで,
原告は,同棄却処分につき審査請求をしたが,同審査請求は,昭和62年
7月20日,環境庁長官により棄却された。また,原告は,上記審査請求
にあわせて,昭和53年10月7日,熊本県知事に対して公健法に基づく
水俣病認定申請(本件申請)を行ったところ,昭和54年10月26日か
ら同年11月2日にかけて,疫学的調査,X線検査,生化学・血清学的検
査,神経内科検診,精神科検診,耳鼻咽喉科検診及び眼科検診の各検査な
いし検診が実施された。熊本県知事は,上記検診等により得られた資料を
基に昭和55年4月21日付けで熊本県公害健康被害認定審査会に諮問し
たところ,同審査会は,同月25日及び26日に開催された同審査会の審
査の結果,同年5月1日付けで原告は水俣病ではないとの答申を行い,熊
本県知事は,これを受け,同月2日付けで原告の本件申請を棄却する本件
処分をした。
イそこで,上記検診等における原告の発症時期に関する記載をみると,昭
和49年8月に実施された検診の記録(甲94)には,主訴が頭部痛と両
上肢の知覚低下であったことは記載されているものの,病歴やその経過,
あるいは疫学的事項については記載されておらず,昭和53年5月に実施
された検診の記録(甲95)においても,昭和50年の○の手術前の病歴
等については記載されていない。
他方,本件申請に係る資料等の記載についてみるに,原告が本件申請を
するに際して提出した申請書(乙16の4)には,健康状態の概要として,
「水俣にいる時,魚屋さんが毎日うりに来たのを買って食べていた。また,
○○や○○より頂いた。小さい時から魚のない日はなかった。昭和28年
頃より頭が重く足がだるく顔がむくんだりした。足がしびれて,ころびや
すく,目が見えにくく不自由である。」などと記載されている。これに対し,
昭和54年10月26日に実施された原告に係る疫学調査の調査票(乙1
6の17)には,自覚症状に関し,手足のしびれ,頭が痛くぼやっとして
物忘れをする,手の節々が痛い,腰・肩・首がいたい,足がカラス曲がり
する,視力が落ちた,といった症状がいずれも昭和48年から増悪してい
る旨記載され,既往歴等に関しても,腰・頭の痛みの時期はいずれも同年
以降であることが記載されているほか,昭和54年10月28日に実施さ
れた精神科検診の際の検診記録(甲29)にも,原病歴に関し,初発症状
は手足のしびれ・脱力,頭痛であり,その発症は昭和48年である旨記載
されている。
ところで,原告は,昭和61年に,P28病院において検診を受けてい
るところ,その検診の際に作成された検診記録(甲52,55の1)には,
感覚障害の発現時期は昭和28年ころである旨記載され,歩行障害は昭和
32年ころ,言語障害は昭和33年ころがそれぞれ発病時期であり,視力
障害,聴覚障害及び物忘れについてはいずれも昭和46年ころが発現時期
であるとの記載があるほか,昭和33~4年ころからめまいがして倒れて
意識を失ったりして近医へ通院し,このころから右半身にジンジンしたし
びれ感や口がもつれたりするようになったため,P52病院に通院したと
ころ,言葉のもつれやしびれは消えるも体は疲れやすく,昭和45年ころ
から左足全体のカラスまがりがおこるようになり,昭和46年に尼崎に転
居した後は工員として働いたが,昭和48年には足が立たなくなって仕事
を辞めたことなどが記載されている。
ウ以上認定したところによると,原告は,昭和48年に症状が重くなって
仕事を辞めるとともに最初の水俣病認定申請をしたものと認められ,同年
以前から何らかの症状があった可能性が高いところ,昭和53年10月7
日の本件申請の当初から,昭和28年ころから頭が重い,足がだるいとい
った症状があった旨申告していたのであり,後に昭和61年にP28病院
において検診を受けた際にも,感覚障害等の初発時期が昭和28年ころで
あり,P52病院等への通院歴を申告していたというのであるから,少な
くとも昭和28年ころには,何らかの自覚症状があったとみる方が自然で
ある。そうであるところ,上記原告に係る供述録取書には,昭和26年以
降の自覚症状の状況について詳細かつ具体的に記載されているほか,受診
した医療機関の名称等についても具体的に記載していることなどを考慮す
ると,同陳述録取書の記載内容はおおむね信用してよいものと考えられ,
前記(2)の各事実を認めることができる。
エこの点,確かに,昭和54年10月に実施された検診等の際に作成され
た資料には,感覚障害等の初発時期が昭和48年ころである旨の記載があ
る。
しかしながら,上記イで認定したところからは,原告は,昭和61年の
P28病院における検診の際,昭和33年ころからみられた右半身のしび
れや口のもつれはP52病院を受診したことによりいったん軽快したが,
その後再度これが悪化し,昭和46年に尼崎に転居した後は,工員として
稼働したものの,そのころから視力障害,聴覚障害及び物忘れも発現し,
昭和48年には足が立たなくなるなど症状が増悪して仕事を辞めた旨述べ
ていたものと認められるところ,昭和54年10月の検診の際に作成され
た資料の記載も,そのようないったん軽快したものの昭和48年ころに仕
事を辞めなければならないほど症状が増悪した趣旨を記載したものと理解
することも可能である。そして,そもそも,昭和54年10月に実施され
た上記検診等は,これに先立つ本件申請に基づいて行われたものである以
上,原告が,その検診等において,本件申請に係る申請書に記載した事実
と異なる趣旨の供述をするとは考え難いことをも併せ考えると,昭和54
年10月に実施された検診等の際に作成された資料の記載は,前記ウの認
定判断を左右するものではないというべきであって,この点についての被
告らの主張を採用することはできない。
(4)原告に係る検診の結果等
ア昭和49年に実施された検診の結果等
前記のとおり,原告は,昭和48年4月に救済法に基づく水俣病認定申
請を行い,昭和49年8月に検診を受けているところ,その検診結果は次
のとおりである(甲94)。
(ア)神経学的所見
意識,知能,性格変化,記銘力及び情動その他の精神状態については
異常を認めない。脳神経に関しては,嗅覚については異常を認めず,視
力は眼鏡による矯正を要するものの,視野については,対座法による検
査では異常を認めない。顔面の知覚や味覚等についても異常を認めず,
嚥下障害,構音障害,小脳性言語障害及び舌の運動異常のいずれも認め
られない。頸部については運動痛を認める。また,上肢のうち左手遠位
部に筋萎縮を認める。また,軽度の起立歩行障害を認めるほか,左手関
節痛,左足関節痛,左優位の腰痛を認め,下肢筋力の低下も認められる。
また,知覚に関しては,四肢の遠位部に触覚異常を認め,深部感覚に
ついては,関節覚は正常であるが,位置覚に異常を認め,複合感覚につ
いては,左側で数字識別覚に異常を認めた。また,反射に関しては,上
腕三頭筋反射は消失しており,下顎反射やアキレス腱反射に軽度の亢進
を認めたが,その余の反射は正常であり,病的反射は右手のワルテンベ
ルグ反射を除き認めない。
(イ)生化学・血清学的検査
尿検査及び血清学的検査のいずれにおいても異常を認めない。
(ウ)X線検査
頸椎のX線写真によると,C5,6の椎体に変形と骨棘形成を認め,
C6における脊柱管の前後径は11㎜であった。
(エ)担当者による印象
上記検診の担当医は,原告に診られた上記症状についての印象として,
①変形性脊椎症に基づく神経根症状,②関節症及び③変形性腰椎症とで
おおむね説明が可能であるとしている。
イ昭和53年に実施された検診結果等
原告が昭和53年5月に受けた検診の結果は次のとおりである(甲95)。
(ア)同検診の際の現病歴として,昭和50年11月にP29病院で○と
思われる○につき手術を受けた旨記載されているほか,左下肢を中心に
筋力低下があり,装具を用い右手の杖を使って歩行している旨記載され
ている。
(イ)精神状態については,意識,記銘,知能,性格,記憶及び情動のい
ずれにも異常を認めないが,非協力的であった。
(ウ)脳神経に関する検査事項に関しては,嗅覚及び視野は不明であるが,
眼球運動,眼振及び瞳孔反射については異常を認めず顔面神経や嚥下に
ついても異常を認めない。言語については,異常を認めないものの,多
少ゆっくり反応していた。
(エ)頸部については右側に運動制限と運動痛を認めた。上肢については,
振戦,不随意運動,硬直,痙縮等の異常は認めない。ジアドコキネーシ
スは緩徐なるも良好であり,指鼻試験は企図してやろうとするとミスを
する。下肢については,左下肢に軽度の筋萎縮が見られ,膝踵試験及び
脛叩試験では,いずれも緩徐で軽度の異常を認めるが,これらの試験を
行うこと自体は可能であった。なお,両足起立は可能であったが,片足
起立は検査せず,しゃがみ試験,両足跳び試験,つま先歩行,踵歩行等
の検査は行わなかった。
(オ)知覚については,触覚及び痛覚つき四肢に末端ほど優位の異常を認
め,位置覚にも異常を認める。
(カ)上記検診録には,担当者の要約として,①感覚に付き四肢末梢では
触覚・痛覚とも消失しているが,食い違いも多く不確かであり,左上下
肢には軽度の感覚があるかもしれないが,いずれにしてもどうしようも
ない,②脱力は,左下肢を中心に軽度のものが遠位にあり,脛骨神経を
主にすると思われるが,膝踵試験及び向脛叩打試験はできる,③協調運
動については,上肢は正常だが下肢は左がやや緩徐であり,ぎこちない,
④言語障害に関しては,軽度の喃語に近い感じで,多少とも失調傾向が
あり,タイミングが遅れる傾向がある,などと記載されている。
ウ昭和54年に実施された検診結果等
原告は,昭和54年10月26日に疫学調査並びにX線検査及び生化
学・血清学的検査を受けたほか,同月27日に神経内科検診を,同月28
日に精神科検診を,同月29日に耳鼻咽喉科予診を,同月31日に眼科予
診を,同年11月1日に眼科本診を,同月2日に耳鼻咽喉科本診をそれぞ
れ受診しているところ,これらの検診の結果は次のとおりである(甲28,
29,乙16,17)。
(ア)神経内科学的所見
視眼球運動及び眼振並びに瞳孔については異常を認めない。視野(外
側)は,右80度,左が75度~80度で,検診担当医は,視野障害は
はっきりしない旨記載している。言語については,自発語OKなるも検
査時oraldiadochokinesis(言語の反復)を示すとされ,頸部について
は運動制限,運動痛及び硬直等を認めない。また,上肢については,振
戦,不随意運動及び硬直は認めず,ジアドコキネーシス及び指鼻試験に
ついては,いずれも,確実なるも両側とも遅く,特に左側で低下を認め
る。下肢については,振戦,硬直,痙縮は認めないが,膝踵試験及び脛
叩試験はいずれも遅く,左側は下肢の筋減弱のため検査不能であった。
検診担当医は,運動失調は認めないとまとめている。
また,両足起立は可能であるが,片足起立は,右足では可能であるも
のの,左足については不可であり,普通歩行については杖を用い足首に
装置を使用すれば可能であるが,しゃがみ試験や両足とび,つま先歩行
等の試験は実施しなかった。深部反射については,両上肢で軽度の亢進
を認めるほか,左下肢でも亢進を認める。
知覚については,左下肢中心部及び両上下肢の末梢部に触覚減弱,痛
覚鈍麻を認め左下肢では脱力を認める。
上記検診の担当医は,原告の印象として,①頭頂葉下の○手術後左下
肢に単麻痺があり,知覚障害もあること,②両上下肢遠位の原因はわか
らず,右上肢の動きが遅い理由もわからないとしているほか,腰椎にX
線変化がある旨記載している。
(イ)精神医学的所見
対座法による視野検査では狭窄は認められず,眼球運動もスムーズで
あったが,構音障害に関しては,口に何かがはさまったような言い方で
時々言葉がもつれるとして,軽度の障害を認めている。また,頸部の運
動制限及び運動時の痛みがいずれも認められる。運動麻痺については左
側に片麻痺があり,運動失調は認めないものの全体に緩徐であるとされ,
アジアドコキネーゼについても左右とも緩慢であるが,特に左で緩慢で
あった。
感覚障害については,触覚,痛覚,温覚及び冷覚はいずれも四肢末端
優位に異常が認められた。
(ウ)眼科的所見
視野については異常を認めず,眼球運動については,SPM(活動性
追従運動)については,0.3Hzでは正常と判断されたが,0.5H
zでは階段状の異常波形が出現したため軽度の異常が疑われた。SM(衝
動性運動)及びVOR(前庭動眼反射)については異常を認めない。
(エ)耳鼻咽喉科的所見
純音聴力検査によれば,左右の耳,特に右耳の気道聴力の低下が認め
られるほか,高音部で両側で閾値の上昇が認められるが,骨導値は正常
で,TTSテストでは異常が認められなかったため,聴覚疲労も存しな
いものと認められる。また,語音の一部に悪化が認められた。
エP28病院における検診結果等
原告は,昭和61年にP28病院において検診を受けているところ,そ
の際の検診記録によると,その結果は次のとおりである(甲52,55)。
(ア)神経学的検査においては,音叉を用いた聴力検査で聴力低下がみら
れたほか,構音障害に関し,ラ行及びパ行で拙劣で,発語異常があると
される。また,左下肢に筋萎縮及び麻痺が認められる。つぎ足による直
立時動揺やしゃがみ動作は左下肢麻痺のため検査することができず,同
麻痺のために歩行異常もある。
(イ)運動異常に関しては,指鼻試験及び指指試験でいずれも異常が観察
されたほか,企図振戦もあり,共同運動障害も左右共に認められるとし
ている。さらに,膝踵試験でも,右は軽度の異常が,左は著明な異常を
認めているほか,深部反射についても亢進している。また,知覚障害は,
四肢末端のほか,口の周囲にも観察された。
(ウ)さらに,視野については,正常値の76ないし91%であり,狭窄
が認められた。また,滑動性眼球運動障害が認められた。
5検討
(1)メチル水銀への曝露状況等について
ア上記認定事実によると,原告は,大正▲年に熊本県葦北郡α1町α2に
おいて出生した後,昭和46年に兵庫県に転居するまでの間,転居を繰り
返しつつも現在の水俣市内で生活し続けていたところ,前記のとおり,原
告は,この間,行商人から購入したり,P1あるいはその家族からもらっ
たり,自ら採取するなどしてα10海の魚介類を多食していたものと認め
られる。
以上によると,原告は,昭和46年に尼崎市に転居するまでの間,メチ
ル水銀に汚染された魚介類を継続的かつ多量に摂食していたものと推認さ
れ,多量のメチル水銀に対する曝露の事実を認めることができる。
なお,前記認定事実によると,原告のα2の家族内には水俣病認定を受
けた者は存在しないものの,原告が一時期生活を共にしていたP1の親族
やP3が水俣病の認定を受けていることは,原告においても水俣病となり
得る量のメチル水銀を摂取した可能性を裏付けるものということができる。
イこれに対し,被告らは,原告が海岸線近くに住み,漁業に従事していた
期間はわずかであり,その期間も濃厚な汚染以前のことである上,原告は,
出生後,尼崎市に転居するまでの間,大半は山間部に居住し,農業に従事
していたのであるから濃厚な曝露は認められないことになり,メチル水銀
曝露条件は弱いと主張し,これに沿うP81らの研究(乙117)を指摘
する。
しかしながら,原告が,山間部に居住していた時期を含めて行商人から
頻繁に購入するなどして多量の魚介類を摂食していたことは前記認定のと
おりであり,単に,原告が山間部に居住していたことをもって,同認定を
覆すことは到底できない。被告らが指摘するP81らの研究も,α30海
沿岸天草郡漁村集落の漁家,農家及び公務員の3世帯につき,各3人の合
計9人をその調査対象とするものであり,その調査対象がこのように少数
の者に限定されていることからすると,その調査結果を直ちに一般化し得
るかという点については疑問もあるし,仮に,一般論として被告らが主張
するような一定の傾向があるとしても,それが直ちに原告に当てはまると
いうこともできないことは,既に認定したところから明らかである。
以上のとおりであるから,この点に関する被告らの主張は採用すること
はできない。
(2)原告にみられる感覚障害について
ア前記のとおり,原告は,昭和28年ころから手足にしびれを感じるよう
になり,その後,昭和49年,昭和53年,昭和54年及び昭和61年に
それぞれ実施された検診のいずれにおいても,四肢末端優位の感覚障害が
一貫して認められており,さらに,昭和61年の検診においては,四肢の
ほか,口の周囲にも感覚障害が観察されている。
以上のような原告における感覚障害の発現部位は,前記2(3)ア(ア)にお
いて認定した水俣病においてみられる感覚障害のそれとよく符合している。
また,その発現時期も,前記(1)において検討したメチル水銀に対する曝露
の時期とも一致するほか,前記2(1)において認定したP5工場からのメチ
ル水銀を含む排水の排出が解された時期及び水俣病患者が出現するように
なった時期とも符合しており,これをメチル水銀の影響によるものと解し
ても矛盾はない。
イところで,前記のとおり,原告は,昭和50年11月にP29病院にお
いて○の手術を受けているところ,被告らは,原告に認められる四肢末端
優位の感覚障害は,上記○及びその手術の影響を受けているというべきで
あると主張し,その根拠として,①四肢末端優位の感覚障害の発症時期が
上記手術に近接していること,②昭和54年の神経内科の検診録で当該○
の部位が「perietal」(頭頂葉)と記載されているが,同部位は中枢性の感
覚障害を十分に来たし得る部位であることなどを指摘する。
しかしながら,原告の知覚障害の発症時期が昭和28年と認められるこ
とは既に認定説示したとおりであって,この点において被告らの主張はそ
の前提を欠くものといわなければならず,むしろ,このような感覚障害の
発症時期と○の手術の時期との感覚からすれば,原告の感覚障害の全部が
○ないしその手術の影響によるものであるとみるには無理があるといわざ
るを得ない。また,確かに,証拠(乙78~80)によると,頭頂葉で○
が発育した場合には反対側に感覚鈍麻を来す場合もあり,○手術に伴う合
併症としても,感覚障害が挙げられていることが認められる。しかし,証
拠(甲54)によると,原告の○は,右前頭部から頭頂部にかけて右傍失
状静脈洞に生じた鶏卵大の○であり,前頭葉運動領野から頭頂葉知覚連合
野にまで及んでいることからすると,原告の左半身にみられる麻痺その他
の運動障害・知覚障害が上記○ないしその手術の影響を受けている可能性
は否定できないものの,他方,上記のような腫瘍の位置関係からすれば,
右半身にまで○の作用が広く及んでいるとは考え難いところであり,上記
○の手術を担当した医師においても,右側知覚障害をもたらすほどの腫瘍
による反対側への圧迫偏位はなく,四肢末端の手袋足袋型の知覚障害のす
べてがこの腫瘍のみによって出現したとは考えにくいとしているところで
ある。したがって,原告にみられる四肢末端優位の感覚障害のすべてが原
告の○ないしその手術の影響によるものであるとは到底認めることはでき
ず,この点についての被告らの主張は採用することができない。
ウまた,前記認定のとおり,昭和49年に実施された検診においては,X
線検査により,原告の頸椎のC5,6の椎体に変形と骨棘形成が認められ
ており,同検診の担当医は,変形性脊椎症に基づく神経根症状,関節症及
び変形性腰椎症とでおおむね説明が可能であるとの印象を述べている。
しかしながら,昭和54年の検診の際の頸椎及び腰椎の検査においても,
C5,6の脊柱管の前後間は11㎜とされているが,いずれも軽症である
とされている。
また,前記のとおり,昭和61年の検診の際には,原告の口周囲にも感
覚障害が認められているところ,口周囲に至る神経は頸椎や腰椎を経由す
るものではないから,口周囲の同感覚障害は頸椎症等を原因とするもので
はないことは明らかであって,そうであるとすれば,四肢末端優位の感覚
障害についても同様に頸椎症等を原因とするものではないと解するのが合
理的である。
なお,公健法における「水俣病にかかっていると認められる」という要
件につき,被告らのように,それ自体が医学的概念を取り込んだ規範的要
件であって,具体的には「定説的な医学的知見に基づいて水俣病にかかっ
ていると認められる」ことを意味すると解するのであれば,棄却処分の取
消訴訟において,当該棄却処分後に生じた症候等については,それが処分
時に既に存在していたが見落とされていたというような場合を除いては,
これを判断の基礎とすることは許されないことになろうが,上記要件につ
いての被告らの主張は採用することができず,これを事実要件として理解
すべきことは既に説示したとおりであるから,処分時に一定の症候が存す
ることが認められる限り,当該処分後に生じた症候等についても,処分時
に存在した症候が経口摂取したメチル水銀を原因とするものかどうかを判
断するに当たってしんしゃくし得ることは当然である。
エさらに,原告に係る複数回の検診においても原告が糖尿病等に罹患して
いることをうかがわせる所見はない上,弁論の全趣旨によると糖尿病によ
る多発性神経炎は,末梢神経障害によるものであるから,腱反射は減弱す
るものと認められるが,先に認定した検診結果によると,原告については
腱反射が維持ないし亢進していることが認められるから,原告の感覚障害
は,糖尿病によるものであるとも認められない。
オ以上のとおり,原告に見られる感覚障害は,水俣病におけるそれによく
符合している上,水俣病以外の別原因が存する様子もうかがわれない。の
みならず,既に認定説示したとおり,水俣病における感覚障害は,中枢神
経(頭頂葉の中心後回)が障害されることによるものであると推認される
ところ,前記のとおり,原告については腱反射が維持ないし亢進している
というのであるから,原告にみられる感覚障害も中枢神経の障害に由来す
るものであることがうかがわれるのであり,これらを併せると,原告の感
覚障害は,原告が経口摂取したメチル水銀を原因とするものであると考え
るのが合理的である。
(3)原告のその余の症候について
ア視野狭窄
前記認定事実によると,昭和49年,昭和53年及び昭和54年の検診
において視野狭窄は認められていない。なお,前記のとおり,昭和61年
のP28病院での検診においては,視野狭窄を認めるとしているが,それ
も軽度であるというのであり,昭和55年に原告について実施した検診の
結果を記載したとされる検診録(甲56)にも視野は正常であるとの記載
があることからすると,上記昭和61年の検診結果から直ちに視野狭窄を
認めることは困難というべきである。
イ難聴
前記2(3)エのとおり,水俣病にみられる難聴は,大脳の側頭葉横回領域
が障害されることによるもので,感音性難聴のうち,後迷路性難聴であっ
て,後迷路性難聴か否かは語音検査や自記オージオメトリーにより判断さ
れる。そうであるところ,前記認定事実によると,昭和54年の検診の際,
原告の両耳につき気道聴力の低下が観察されているものの,いずれも骨導
聴力は正常であったというのであり,しかも原告の自記オージオグラムで
も聴覚疲労は確認されてないというのであるから,同検診の際の原告の難
聴は,伝音声難聴であると推認される。
もっとも,上記昭和54年の検診の際,語音検査に異常が観察されてい
ることから,感音性難聴のうち後迷路性難聴の可能性を完全には否定する
ことができないものの,その可能性は大きいとはいえない。なお,昭和6
1年のP28病院における検診要約(甲52)には,原告について「感音
性難聴(軽度)高音部低下」と記載されているものの,原告に係る検診録
中同年9月29日付けの「耳鼻科的検査」の欄には平均値が記載されてい
るのみで,どのようにして上記のとおり判断したのかを読み取ることはで
きず,同年の検診録の記載から直ちに原告に感音声難聴が認められるとい
うことはできない。
ウ運動失調
前記認定事実によると,昭和49年,昭和53年及び昭和54年の検診
においては運動失調は認められておらず,少なくとも,本件処分時には,
運動失調は存しなかったものと認められる。
もっとも,前記のとおり,昭和61年にP28病院において実施された
検診の際には,ジアドコキネーシス,指鼻試験,膝踵試験等において異常
を認めており,さらに,昭和55年に原告について実施した検診の結果を
記載したとされる検診録(甲56)にも同様の記載があることからすると,
このころには,原告に小脳性の運動失調が生じていたものと認められる。
そうであるところ,昭和54年以前の検診の際には,運動失調自体は認め
ていないものの,ジアドコキネーシスや指鼻試験で動作の緩徐がみられた
というのであり,上記のようなその後の運動失調の発現をも考慮すると,
そうした緩徐といった所見は,後の運動失調の端緒であった可能性も否定
できず,これらの所見は,原告の水俣病該当性を判断するに当たって,積
極に考慮することも許されるものと解する。
エ構音障害
前記認定事実によると,昭和49年の検診,昭和53年の検診及び昭和
54年10月27日の際には言語障害は認められていないものの,そのう
ち昭和53年の検診の際には軽度の喃語に近い感じで,多少失調傾向があ
り,タイミングが遅れる傾向があるとされているほか,昭和54年10月
28日の精神科の検診の際には,口に何かはさまったような言い方で時々
言葉がもつれるとされているところ,後に昭和61年にP28病院で検診
を受けた際にもラ行とパ行で拙劣で発語異常があるとされていることから
すると,昭和54年ころには構音障害が疑われる状況にあったところ,こ
れが昭和61年にかけて増悪したものとみて差し支えないというべきであ
る。そして,以上の原告の発話の状況等は,前記2(3)イにおいて認定した
水俣病における構音障害の特徴に符合しているということができる。
オ眼球運動異常
前記認定事実によると,昭和54年の検診の際,滑動性追従運動につい
ては,0.5Hzにおいて階段状の波形を示し,軽度の異常を認めている
ものの,昭和53年の検診においては眼球運動異常は認められていないほ
か,昭和54年の検診においても,衝動性運動及び前庭動眼反射について
は異常は認められず,滑動性追従運動についても,0.3Hzの検査にお
いても異常は認められていないことからすると,本件処分時において,原
告に眼球運動異常があったとまで認めることはできない。なお,昭和61
年のP28病院における検診記録には,滑動性眼球運動障害がある旨の記
載があるが,その検査の際の波形(甲55の2)をもって直ちに異常所見
といえるのか疑問もあるし,滑動性追従運動については,被検者の意志の
関与が大きいとされているところ(乙67,99),上記波形をみると,一
部に波形の形状が途中で大きく変わっているものなどがあることからする
と,何らかの意識状況等の変化が作用している様子もうかがわれるのであ
って,上記P28病院における検診結果のみから原告に滑動性眼球運動異
常があるとまで認めることはできない。
(4)小括
以上認定説示したところを総合すると,次のとおりいうことができる。
原告は,大正▲年に現水俣市において出生した後,昭和46年に尼崎市に
転居するまでの間,同市で生活し,かつ,同市沿岸部の魚介類を多食し続け
たものであり,その時期からして,原告は多量のメチル水銀に対する曝露歴
を有するものと認められる。そして,原告には一貫して四肢末端優位の感覚
障害が認められるところ,昭和61年には口周囲にも感覚障害がみられるよ
うになっており,これらの感覚障害は,水俣病患者にみられる感覚障害の特
徴を備えたものであるということができる。他方,原告は昭和50年に○の
手術を受けており,左下肢の麻痺等,当該○ないしその手術の影響は一部に
認められるものの,原告の上記感覚障害のすべてが同○ないしその手術の影
響によるものとは考え難いところであり,その他,糖尿病及び頸椎狭窄その
他の感覚障害の原因となり得る疾患の存在もうかがわれず,原告の上記感覚
障害が水俣病以外の原因によるものであるという合理的な疑いを生じさせる
に足りる証拠はないのみならず,腱反射が維持ないし亢進しているなど,同
感覚障害が中枢神経の障害に由来するものであることをうかがわせる事情も
認められることからすれば,原告の四肢末端優位の感覚障害は経口摂取した
メチル水銀の影響によるものであると考えるのが合理的である。
さらに,前記のとおり,ハンター・ラッセル症候群のうち,本件処分時に
原告に明らかに認められるものは四肢末端優位の感覚障害のみであるが,同
時点においては,これに加えて構音障害が疑われる状況にあったということ
ができ,さらに,その後の昭和61年には構音障害のほか運動失調も生じて
いたというのであり,その端緒ともいうべき動作の緩徐は本件処分時に既に
生じていたものと認められることからすると,本件処分時においても小脳性
の障害が存したことがうかがわれるところであって,これらは,いずれも水
俣病の臨床所見として不自然ではない上,メチル水銀以外の原因によるもの
であることをうかがわせる証拠もない。
これらを総合考慮すれば,本件処分時において原告が有していた感覚障害
は,社会通念に照らし,原告が魚介類に蓄積されたメチル水銀の経口摂取に
よって招来されたものであると認めるのが相当であり,原告は,本件処分時
において,水俣病にかかっていたものと認められる。
6本件処分の適法性について(争点①)
前記1(1)のとおり,公健法4条2項に基づく水俣病認定の要件は,①当該
認定に係る申請者が水俣病にかかっていること及び②当該水俣病が,当該第二
種地域に係る水質の汚濁の影響によるものであること,の2つであり,申請者
がこれらの要件を満たす限り,申請を受けた都道府県知事は水俣病認定をしな
ければならず,これをするかどうかについての裁量はないものと解される。
そして,原告が,本件処分時において,上記①の要件を満たしていたことは
前記2から5までにおいて認定説示したところから明らかである。そして,前
記4(1)及び5(1)において検討した原告のメチル水銀に対する曝露状況に加
え,前記1(1)ウにおいて検討したことをも併せ考えると,原告は上記②の要
件も満たしていたものと認められる。
以上によると,原告は,公健法4条2項に基づく水俣病認定の要件を満たし
ていたと認められるから,原告から同認定に係る申請を受けた熊本県知事とし
ては,原告に対し,水俣病認定処分をすべきであった。しかるに,熊本県知事
は,原告の同申請を棄却する旨の本件処分をしたのであるから,本件処分は違
法であって,取消しを免れない。
7公健法4条2項に基づく水俣病認定の義務付けの可否について(争点②)
公健法4条2項は,同項に規定する者に対して同項に規定する認定について
の申請権を認めたものと解されるから,原告の本訴請求のうち,水俣病認定の
義務付け請求に係る部分は,行訴法3条6項2号に規定する申請型義務付け訴
訟に該当するものと解される。
そして,申請型義務付け訴訟については,併合提起された取消訴訟等の訴え
に係る請求に理由があると認められ,かつ,その義務付けの訴えに係る処分又
は裁決につき,行政庁がその処分若しくは裁決をすべきであることがその処分
又は裁決の根拠となる法令の規定から明らかであると認められることが,その
認容の要件となる(行訴法37条の3第5項)。
そうであるところ,原告が上記義務付けの訴えに併合提起した本件処分の取
消訴訟に係る請求に理由があると認められることは上記6のとおりである。
また,前記2(3)アのとおり,水俣病における感覚障害は治癒し難いものと
認められるところ,原告について本件処分後に感覚障害が治癒したといった事
情は何らうかがわれないから,原告は,現時点においても水俣病にかかってい
るものと推認される。したがって,原告は,現時点においても,上記6の①及
び②の各要件をいずれも満たしているものと認められるから,熊本県知事が原
告につき公健法4条2項に基づく認定処分をすべきことは同法の規定から明
らかである。
以上によれば,水俣病認定の義務付けを求める原告の請求は理由がある。
8本件裁決の取消請求に係る訴えの適法性について(職権による判断)
前記第1のとおり,原告は,本件処分の取消し及び水俣病認定の義務付けの
各請求に併せて,本件裁決の取消しを求めている。
ところで,前記第2の4(3)のとおり,原告は,熊本県知事から本件申請を
棄却する旨の本件処分を受けたため,本件処分を不服として,同知事に対する
異議申立てを経て,公健法106条2項及び行政不服審査法に基づき,本件審
査会に対して本件審査請求をしたものであって,原告の本件審査請求の目的は,
本件処分の取消しにあったことは明らかである。そうであるとすれば,原告の
本訴請求のうち,本件裁決の取消請求も,究極的には本件処分の取消しをその
目的とするものというべきであって,本件裁決の取消しを求めるについての原
告の法律上の利益(行訴法9条1項)も,その限りにおいて認められるものと
いうべきである。
そうであるところ,本件処分の取消しを求める原告の請求は理由があり,認
容されるべきことは既に説示したとおりであって,本件処分に係る審査請求に
対する取消裁決を待つまでもなく,本件処分はその効力を失うことになるから,
原告は,もはや,本件裁決の取消しを求めるにつき法律上の利益を有しないも
のというほかない。したがって,本件訴えのうち,本件裁決の取消請求に係る
部分は,訴えの利益を欠き,不適法である。
第5結論
以上の次第であるから,本件訴えのうち,本件裁決の取消請求に係る部分は不
適法であるからこれを却下し,その余の請求(本件処分の取消請求及び公健法4
条2項に基づく水俣病認定の義務付け請求)はいずれも理由があるからこれを認
容することとし,主文のとおり判決する。
大阪地方裁判所第2民事部
裁判長裁判官山田明
裁判官徳地淳
裁判官釜村健太は,差し支えのため,署名押印することができない。
裁判長裁判官山田明

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