弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
1本件控訴の趣意は,弁護人岡本哲作成の控訴趣意書に記載されているとおりで
あるから,これを引用する。
そこで,記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討する。
2控訴趣意中,事実誤認の点について
論旨は,原判決は,被告人について完全責任能力を認めているが,本件当時,
被告人の責任能力が低下していたことは明らかであるから,原判決には判決に影
響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というのである。
原審で取調べられた関係各証拠によれば,本件の経緯,顛末について,以
下の事実が認められる。すなわち,被告人は,()本件当時,住所地のアパート1
に居住し,居室にいるときは何をするでもなく過ごし,ほとんど外出することも
なく,生活保護を受給して生活していたこと,()平成17年4月27日昼過ぎ2
,,ころ被告人方アパート近くのショッピングセンターA西口店付近路上において
被告人以外の者同士が「お金が2億円程B【注:被告人と同じ姓】の家に流れ,
ていった」などと話しているのを聞いたと思い,被告人の金2億円をBがチョ。
ロまかしたと考えて立腹したこと,()同月28日昼ころから,被告人方居室で3
缶ビール(350cc)を5本程飲んでいた際,上記話を思い出し,何で2億円
がBの所に流れとんならと思って再度立腹し,その2億円だけでも返して貰おう
と考え,同日夕刻ころ,何も持たずに岡山市a町b丁目c番d号所在の見ず知ら
ずのC【注:Bと同姓】方へ赴き,インターフォンを執拗に鳴らし,ドアを叩く
などしたが,誰も応対しなかったため,一旦被告人方に戻ったこと,()暫くし4
てから,もう戻っているだろう,腹が立つから包丁を持って行ってやろうなどと
,,,考え刃体の長さ14センチメートルの包丁を持ち出し同日午後6時5分ころ
C方だと思って同市a町b丁目c番e号所在のD方まで赴き,インターフォンで
(),「。」「。」応対した同人の妻E当時59歳に対し旦那は居るかいつ帰って来る
などと申し向け,同女から「どなたですか」と尋ねられると「Bだ」と答,。,。
え,不審に思った同女が玄関へ行き,ドアを少し開けたところ,強引に居宅内に
,,「。立ち入ろうとし同女が必死にドアを閉めようとした際旦那に金をとられた
返せ」などと申し向けながら上記包丁を突き出し,示凶器脅迫の本件犯行に及。
んだこと,()その後,同女と押し問答となり,同女が上記包丁を被告人から取5
り上げ,戸外に逃げて行ったため,同女を追いかけて行き,同市a町b丁目c番
f号所在のF方北側路上において,同女と口論していたところ,同日午後6時2
0分ころ,同女の息子から通報を受けて上記A付近に駆け付け,その周辺を検索
していた警察官に発見され,職務質問を受けた際「GとBという男に2億円を,
貸したが,返してくれないので包丁を持って行った「家に行くと中年のおばさ。」
んが出てきたので包丁を突き付けて,金を返せと脅した」などと申し立てたこ。
とから,同日午後6時40分ころ,本件の現行犯人として逮捕されたことなどが
認められる。以上のとおりの本件の経緯,顛末によれば,被告人は,唐突に,B
の下に被告人の2億円が流れ,Bがこれを不正に取得したと思い込み,一旦はC
方に赴いたものの,最終的には被害者方がB方であると考え,包丁を準備した上
で本件犯行に及んだことは明らかである。
そして,被告人は,捜査段階において,B方だと思って被害者方に赴いたこと
や2億円の点などについて,警察官に対し,平成17年5月15日「B』の家,『
に行ったつもりなのに,何故Dさんの家に行ったのかよく分かりません。間違え
て他人の家に行ったのかも知れません。知らない間に家が勝手に動いたのかもし
れません」などと供述し,警察官の「2億円はどうやって稼いだのか」との問。。
いに対し「過去の自分の貯金であり,財産じゃ。通帳が無いから,いつからあ,
るのか分からないが確かに私が稼いだ金じゃ」と供述し「君は生活保護を貰っ。,
ているのに,いつ稼いだのか」との問いに対し「小さいころからの財産として。,
私が持っていたものじゃ。兆という金が動いており,H銀行にはI銀行から20
0億円という金が流れてきている。銀行が金を盗むんじゃ,ものすごい額じゃ。
。,この金をバクチをして集団の中をぐるぐると動いとるバクチは賭け事ではなく
言葉のやりとりとして行うものじゃ。実際には20億という金が動いているが,
その中の2億円を私と名前が一緒ということで『B某』の所に流れ,Bがその金
をチョロまかしたんじゃ」と供述し「今まで2億円という金はどこにおいてい。,
たのか」との問いに対し「通帳に入れていたのでどこか分からない。親から相。,
続したものではなく,自然と財産として持っていたものじゃ」と供述し,更に。
は「2億円という金を返して貰いに行っただけであり,真剣に話しを聞いて貰,
うために包丁を持っていったのだ。今回の件がけりが付いたあとは,よそに流れ
ているかもしれない2億円の行き先を突き止め,返して貰いに行かなければなら
ない。なぜなら,2億円は私の金だからだ」などと供述(検16号証)し,同。
月16日には「自分の2億円という金を返して貰いに行ったのであり,話を真,
剣に聞いて貰うため,包丁を持っていったのです」などとも供述した(検17。
号証)上,同月18日,検察官に対しても「今回の件は,人づてに,Cなんと,
かという人が私のお金をチョロまかしたと聞いていたので,腹がたってそのお金
を取り戻しに行ったのです。包丁を持って押し掛けた家が,Dという人の家だそ
うですが,Cなんとかという人の家に押し掛けたつもりでした。なぜその家に行
ってしまったのかよくわかりません」などと供述しており(検18号証,この。)
ような供述内容に徴すると,本件犯行が相当強固かつ不可解な幻覚・妄想の影響
下で敢行されたことが強く疑われる上,被告人が,これまで毒物及び劇物取締法
,,違反の罪又はこれを含む罪により昭和59年9月6日及び平成5年1月22日
2回罰金刑に処され,同7年7月21日,同11年10月5日及び同13年1月
16日,3度にわたって懲役刑に処された前科を有しているばかりか,捜査段階
において「シンナー後遺症の治療のため,18歳のころJ病院に,29歳のこ,
ろK病院に,42歳のころL病院に入通院するなどしていた」などと供述して。
いる(検15号証)ことに鑑みると,原審第1回公判期日における罪状認否にお
いて,被告人が本件公訴事実を認める陳述をし,責任能力の点を特に争点化しな
かったことを考慮しても,本件当時,被告人の責任能力に欠けるところがなかっ
たか否かは,できる限り慎重に審理・判断する必要があったというべきである。
そこで,当審において,被告人の精神鑑定,鑑定人の証人尋問を実施したとこ
ろ,本件当時,被告人は,統合失調症,有機溶剤遅発性精神病性障害,両疾患の
合併のいずれかの状態にあったことが明らかとなった。すなわち,鑑定人M作成
の鑑定書及び同人の当審公判供述によれば,現在の精神科臨床において,精神疾
患の診断基準として一般的に使われているDSM-Ⅳによれば,統合失調症の特
徴的症状として,()妄想,()幻覚,()解体した会話,()ひどく解体した又は1234
緊張病性の行動,()陰性症状のうち2つ以上が1か月の期間ほとんどいつも存5
在することとされているところ,被告人の場合,病歴から上記5つの症状のいず
れもが存在していたことは間違いなく,鑑定人が診察や検査を行った約2か月間
をみても,()幻覚,()妄想,()解体した会話は持続していたと考えられ,鑑123
定期間中に直接観察できたとはいえないものの,本件前の無為・自閉的な生活態
度からは,()の陰性症状が持続していたことが強く示唆され,また,犯行その5
ものは()のひどく解体した行動と捉えることもできる上,幻覚・妄想の態様に4
ついてみても,幻覚・妄想は統合失調症以外の疾患でも観察されることが多いも
,,,,,ののその症状群すなわち()思考化声()話しかけと答えの形の声の幻聴12
()自己の行為を注釈する声の幻聴,()身体的非影響体験,()思考奪取と思考345
干渉,()思考伝播,()妄想知覚,()感情・意欲の領域における被影響体験や678
作為体験は,第1級症状と呼ばれ,これらのうち,2,3の症状が確実に存在す
る場合,統合失調症である可能性が高いことが広く認められており,ICD-1
0などの他の診断基準の中でも重視されているところ,被告人が示す幻覚・妄想
については,上記第1級症状のうち,少なくとも()ないし()の5項目が認めら37
,,,れこの点からも被告人が統合失調症である可能性が支持されることもっとも
DSM-Ⅳにより統合失調症と診断するためには,シンナーなどの物質の影響が
ないことを要し,これらの影響が考えられる場合には統合失調症との診断は行わ
ないこととされており,被告人にシンナー乱用及びシンナー依存の既往が認めら
れ,シンナー吸引開始に先立って幻覚・妄想があったと判断できる情報がないこ
とに徴すると,被告人の示す幻覚・妄想などの症状は,シンナーによる遅発性精
神病性障害,すなわち,幻覚・妄想などの精神病症状が物質の直接的な効果が作
用していると想定される期間を明らかに越えて持続する場合であると考えること
も可能であるが,被告人が統合失調症である蓋然性があることに徴すると,確定
的にシンナーによる遅発性精神病性障害と診断することはできないこと,また,
一般的に使われる診断基準は,上記両疾患の合併を認める立場はとっていないも
のの,統合失調症の発症年齢は20歳前後が多く,16ないし40歳が主な発病
,,,,危険年齢であり被告人の場合シンナー吸引を始めたのは1213歳であり
この年齢で統合失調症が発症することは稀であるから,シンナー吸引を開始した
後に明らかとなった幻覚・妄想は,一部は有機溶剤遅発性精神病性障害によるも
のであり,また一部は後に発症した統合失調症によるものとも考えられることな
どが認められる。
そして,統合失調症,有機溶剤遅発性精神病性障害,両疾患の合併のいずれの
場合においても,被告人が示す幻覚・妄想とは何ら矛盾はなく,診断名ではなく
状態像として表現すると,明らかな幻覚・妄想状態にあるということができ,被
告人は,本件前,生活保護を受けていたことや居住していたアパートの家賃を記
憶しているなど,一定の現実見当識が残存しているものの,家賃の何万倍もの預
金があったのは不自然であるとの矛盾点を突き付けても,巨額の金員を盗られた
という主張は揺るぎなく訂正不能であり,妄想として固定化しており,また,上
記のとおり,被告人は,その財産を盗ったと主張する人物とは無関係の被害者方
を訪れていること,59歳の女性という,被告人よりも身体能力が劣ると考えら
れる人物によって携帯した包丁を取り上げられたこと,犯行後,逃走したり隠れ
たりする積極的な行動を取らず,駆け付けた警察官に現場のすぐ近くで逮捕され
たことなど,本件当時の被告人の行動には纏まりを欠いた奇異な部分が散見され
るところ,これら諸点は被告人が本件当時にも多様な幻覚・妄想を呈していたこ
とを強く支持する所見である上,心理検査の結果,被告人の知能指数は軽度精神
遅滞レベルに相当するものの,被告人が幻覚・妄想状態にあることと矛盾しない
所見と解されることに徴すると,被告人は,本件当時,相当強固かつ不可解な幻
覚・妄想に支配された状態にあり,現実的な是非善悪の弁別能力を有していなか
ったと認めるのが相当である。なお,本件犯行については,統合失調症又は有機
溶剤遅発性精神病性障害に起因する人格水準の低下のために被告人の自制力が低
減していたこと,中学校時代から反社会的行為が習慣化していたという生活環境
要因が影響したことも否定できないものの,それが本件犯行の主因ではなく,被
告人が現実的な是非善悪の判断能力を有していなかったことを機軸とし,これに
付加して上記諸事情が影響したと考えられるとの前記鑑定人の見解も首肯するこ
とができる。
以上の検討結果によれば,本件当時,被告人は責任能力を欠いていたという
べきであるから,原判決には事実の誤認があり,これが判決に影響を及ぼすこと
は明らかである。
論旨は理由があり,その余の点について判断するまでもなく,原判決は破棄を
免れない。
3よって,刑訴法397条1項(382条)により原判決を破棄し,同法400条
ただし書により当裁判所において無罪の言渡しをすることとし,主文のとおり判
決する。
平成18年3月22日
広島高等裁判所岡山支部第1部
裁判長裁判官安原浩
裁判官河田充規
裁判官吉井広幸

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