弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


戻る

主文
1本件控訴を棄却する。
2控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1章控訴の趣旨
1原判決を取り消す。
2被控訴人国は,控訴人に対し,1925万円及びこれに対する平成22年5
月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3被控訴人鳥取県は,控訴人に対し,1925万円及びこれに対する平成22
年5月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(なお,それぞれの請求は,数額の重なり合う範囲内で連帯支払を求めるも
のである。)
第2章事案の概要
第1事案の要旨
1Aは,平成8年4月1日に廃止されたらい予防法(昭和28年法律第214
号)11条所定の国立療養所に入所していなかったハンセン病の元患者であ
り,控訴人は,Aの子であって,その相続人である(以下,上記の法律を「新
法」という。ハンセン病の患者(ただし,元患者を含む場合もある。)を「患
者」と,療養所に入所していた患者を「入所者」と,入所していなかった患者
を「非入所者」ということがある。)。
2控訴人は,国会議員,内閣,厚生大臣及び被控訴人鳥取県(以下「被控訴人
県」という。)の知事(以下「被控訴人県知事」ともいう。)が,平成8年ま
で,非入所者及びその家族に対する偏見・差別を除去するために必要な行為を
しなかったこと,また,これらの者が,非入所者及びその家族を援助する制度
を創設・整備するために必要な行為をしなかったことは,国家賠償法上の違法
行為に当たる旨主張し,これらの者の違法行為により,A及び控訴人が,新法
の存在及びハンセン病政策の遂行によって作出・助長された偏見・差別にさら
され,あるいは非入所者及びその家族を援助する制度が創設・整備されなかっ
たことによって適切な援助を受けられず生活が困窮するなどし,精神的苦痛を
受けたとして,被控訴人らに対し,国家賠償法に基づき,損害金1925万円
(①Aに生じた損害賠償請求権のうち控訴人の相続分以下である250万円・
②控訴人固有の損害賠償請求権1500万円・③弁護士費用175万円)及び
これに対する被控訴人らに対するそれぞれの訴状送達の日の翌日(被控訴人国
については平成22年5月18日,被控訴人県については同月15日)から支
払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の(数額の重なり合う範
囲で連帯)支払を求めた。
3原審は,要旨,控訴人の主張する被控訴人国の責任のうち,①新法の患者に
対する隔離規定は,遅くとも昭和35年には,その憲法適合性を支える根拠を
欠くに至っており,その違憲性は明白であり,国会議員が,遅くとも昭和40
年以降平成8年まで上記隔離規定を改廃する法律を制定するのを怠ったこと
は,Aを含む非入所者との関係においても国家賠償法1条1項の適用上違法で
あり,過失も認められる,②厚生大臣が,遅くとも昭和35年以降患者に対す
る隔離政策を継続し,患者が隔離されるべき危険な存在であるとの社会認識を
放置したことは,Aを含む非入所者及び控訴人を含む非入所者の家族との関係
においても,国家賠償法上の違法性があり,過失も認められると判断したが,
③控訴人の主張する被控訴人県の責任は否定した。その上で,原審は,被控訴
人国の上記違法行為によるAの精神的損害を認めたが,控訴人固有の損害を認
めず,また,Aに生じて控訴人の相続した被控訴人国に対する損害賠償請求権
は時効により消滅したと判断し,控訴人の請求をいずれも棄却した(以下,被
控訴人国ないし厚生大臣による患者の隔離政策を「隔離政策」といい,国会が
新法を廃止しなかったことを「本件立法不作為」ということがある。)。
4これに対し,控訴人は,原判決を不服として控訴した。
以下の記述において,略称は原判決の例による。
第2前提事実
以下のとおり補正するほかは,原判決「事実及び理由」の第2章第2のとお
りであるから,これを引用する。
1原判決4頁4行目の「A」の次に「(●年●月●日生)」と加える。
2同4頁4ないし7行目の各「B」をいずれも「C」と改める。
3同4頁9行目末尾に次のとおり加える。
「Aは,昭和40年2月23日,大阪大学医学部附属病院において,昭和3
4年4月にハンセン病を発症したとの確定診断を受けたが,●年●月●日
に死亡するまでの間,非入所者であった。」
4同4頁13行目の「7の2,」の次に「65,」を加える。
5同7頁2行目末尾に行を改め,次のとおり加える。
「(ア)1条(この法律の目的)
この法律は,らいを予防するとともに,らい患者の医療を行い,
あわせてその福祉を図り,もって公共の福祉の増進を図ることを
目的とする。
(イ)2条(国及び地方公共団体の義務)
国及び地方公共団体は,つねに,らいの予防及びらい患者(以下
「患者」という。)の医療につとめ,患者の福祉を図るととも
に,らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない。
(ウ)3条(差別的取扱の禁止)
何人も,患者又は患者と家族関係にある者に対して,そのゆえを
もって不当な差別的取扱をしてはならない。」
(エ)5条(指定医の診察)
1項都道府県知事は,必要があると認めるときは,その指定する医
師をして,患者又は患者と疑うに足りる相当な理由がある者を
診察させることができる。
2項前項の医師の指定は,らいの診察に関し,3年以上の経験を有
する者のうちから,その同意を得て行うものとする。
3項省略」
6同7頁3行目の「(ア)」を「(オ)」と,同頁18行目の「(イ)」を「(カ)」
と,同頁24行目の「(ウ)」を「(キ)」と,同8頁4行目の「(エ)」を「(ク)」
と,同頁14行目の「(オ)」を「(ケ)」と改める。
7同8頁15行目末尾に行を改め,次のとおり加える。
「(コ)13条(更生指導)
国は,必要があると認めるときは,入所患者に対して,その社会
的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を
講ずることができる。」
8同8頁16行目の「(カ)」を「(サ)」と,同頁24行目の「(キ)」を「(シ)」
と,同9頁11行目の「(ク)」を「(ス)」と,同頁15行目の「(ケ)」を
「(セ)」と,同10頁10行目の「(コ)」を「(ソ)」と,同頁15行目の
「(サ)」を「(タ)」と改める。
9同14頁4行目末尾に行を改め,次のとおり加える。
「(8)本訴の提起
控訴人は,平成22年4月19日に本訴を提起した(顕著な事実)。
(9)時効援用の意思表示
被控訴人らは,控訴人に対し,平成24年5月18日の原審第9回口
頭弁論期日において陳述された同月15日付け被告第3準備書面,及び
平成25年3月15日の原審第15回口頭弁論期日において陳述された
同月8日付け被告第8準備書面によって,消滅時効を援用するとの意思
表示をした(顕著な事実)。」
第3争点及び当事者の主張
次のとおり補正するほかは,原判決「事実及び理由」の第2章第3(原判決
別紙「当事者の主張」)に記載のとおりであるから,これを引用する。なお,
控訴人の主張については,第3章において,適宜これを摘示して判断する。
1原判決99頁4行目の「BA」を「CA」と改める。
2同100頁6行目以下の各「らい予防法」をいずれも「新法」と改める。
3同110頁3行目以下の各「B家」をいずれも「C家」と改める。
4同111頁22行目の「「基本合意書Ⅱ」という。」の次に「内容は,別紙
「基本合意書」のとおりである。」を加える。
5同127頁21行目・22行目の「同僚の入寮者」を「他の入所者」に改め
る。
6同128頁5行目の「第1」を「第1の1」と改める。
7同130頁10行目の「(ア)」を「(イ)」と改める。
8同131頁26行目の「第1の1」を「第1の2」と改める。
9同132頁17行目の「血族族」を「血族」と改める。
10同133頁9行目の「被告鳥取県」を「被控訴人県」と改める。
11同133頁26行目以下の各「熊本地裁判決」をいずれも「熊本判決」と改
める。
12同134頁14行目及び同135頁7行目の各「期日」をいずれも「日数」
と改める。
13同135頁10行目冒頭から同頁12行目末尾まで及び同137頁6行目冒
頭から次行末尾までをいずれも削除する。
14同137頁10・11行目の「隔離政策による」を「隔離政策により」と改
める。
15同138頁3行目の「発生要件該当事実」を「発生要件である加害行為」と
改める。
16同138頁7行目の「能力等」の次に「の差」を加える。
第3章当裁判所の判断
第1認定事実等
1認定事実
前提事実,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
(1)ハンセン病の医学的知見とその変遷
アハンセン病の病型分類と症状の特徴(弁論の全趣旨)
(ア)リドレーとジョプリングの病型分類について
ハンセン病の臨床症状は,個体の免疫系がらい菌にどのような免疫
応答を示すかが目に見える形で現れたものであって,非常に多彩であ
るが,症状の違いによって医学上いくつかの型に区分されている。こ
の区分を病型というが,現在の一般的な病型分類としては,昭和41
年に提唱されたリドレーとジョプリングの分類が支持を得ている。こ
の分類による各病型の特徴は以下のとおりである。
aI群(未定型群)
らい菌の感染が成立した「免疫不全個体」が発病したときの初期症
状と考えられているものであり,ここから更に成熟した病態に移行す
る場合,以下のLL型,TT型及びB群の三方向に分岐する。
bLL型(らい腫型)
細胞免疫系の抑止力が機能せず,らい菌を多数含有する細胞が全
身に播種拡大する傾向を示す病型で,皮疹を始め多彩な症状を呈す
る。最も重症になりやすい病型で,排菌量も最も多い。
cTT型(類結核型)
細胞免疫不全のため病態は進行するが,それでも強い類結核性肉
芽腫形成が起こり,皮膚病巣は一か所に限局傾向を示して播種傾向
に乏しく,境界鮮明でしばしば中心性治癒所見を見る。排菌量はL
L型よりはるかに少ない。
dB群(境界群)
免疫応答がLL型とTT型の中間に位置し,しかも内容・程度が
不安定で,病理組織像は両者の特徴が共存しており,皮膚病巣もし
ばしば播種が見られるが,病巣が部分的には一か所に限局する傾向
が認められ,LL型のように全身に左右対称性に散在することはな
い。なお,この境界群は更に三つの型(LL型に近いBL型,TT
型に近いBT型,中間のBB型)に分岐する。
(イ)リドレーとジョプリングの分類と他の病型分類との関係
前記リドレーとジョプリングの分類のほかに,次のような病型分類
が提唱されていた。
aマドリッド分類
マドリッド分類は,昭和28年の第6回国際らい会議において提唱
されたL型(らい腫型),T型(類結核型)に加えて,B群(境界
群),I群(不定型群)の二型二群に分類する考え方である。
b我が国の伝統的分類
我が国では,伝統的に,結節型,斑紋型,神経型の三つに病型を分
類する考え方がとられてきた。これをマドリッド分類と対比すると,
結節型はL型とB群の一部を,斑紋型はT型とB群の一部を含んでい
る。神経型は,斑紋型で斑紋が消失したものである。
cWHO提案の病型分類
WHOは,多剤併用療法による治療方針決定上のより簡便な病型
分類として,MB型(多菌型)とPB型(少菌型)の二分類を提案
した。これによると,MB型はおおむねLL型,BL型,BB型及
び一部のBT型に相当し,PB型はおおむねI群,TT型及び大部
分のBT型に相当する。
(ウ)症状の特徴
ハンセン病の症状を病型ごとに整理すれば,以下のとおりである。
a皮膚等
I群一個ないし数個の低色素斑(ときに紅斑)が見られる。
TT型一個ないし数個の低色素斑あるいは紅斑が見られ,病状が進
行すると手掌大あるいはそれ以上の大きさとなる。皮疹に一
致して知覚障害,発汗障害,脱毛を伴う。
BT型TT型に似て,低色素斑か紅斑で始まるが,皮疹は小さめ
で,数は多めである。皮疹に一致する脱毛,発汗障害は余り
顕著ではない。
BB型多数(BL型,LL型よりは少ない)の斑か,集簇性丘疹
か,あるいはこれらの混在した病巣が見られる。個疹は大き
く,拡大傾向を示して板状疹となることもあり,多形性ある
いは地図状で,辺縁は不整である。皮疹に一致して軽度の知
覚麻痺,脱毛,発汗障害,皮脂分泌障害が認められる。
BL型初期は斑で始まるが,間もなくこれらは集簇・融合する。境
界不明瞭な紅斑・板状疹・丘疹・結節や,外側の境界が不明
瞭な環状斑が多発する。皮疹部分には発汗障害が認められ
る。
LL型通常,早期から広範囲・対称性に分布する複数の皮疹が確認
できる。病勢が進むと,皮疹の数が増加し,更に進行すると
皮膚の肥厚(浸潤)として確認できるようになる。真皮に塊
状の肉芽腫が形成されると,丘疹や結節の皮疹となる。集簇
性・散在性に分布する段階から全身に播種状に多数散布する
ものまで様々である。び慢性に浸潤した肥厚部位に結節が混
在したり,結節が腫大・融合して巨大な局面や腫瘤が形成さ
れることもあり,斑,丘疹,板状疹,結節が混在してくる。
結節は自潰しやすく,潰瘍や痂皮を形成し,顔面の浸潤・結
節が高度になると獅子様顔貌となる。早期から発汗障害を認
めることもある。特に進行すると,眉毛・睫毛・頭髪の脱
落,爪の変形・破壊が起こる。
b末梢神経
I群皮疹部分の知覚低下以外に特に変化は認められない。
TT型菌の存在が末梢神経系の一部のみにとどまり,侵されるのは
比較的低温の皮膚から浅い部分にある神経幹である。特に,
尺骨,総腓骨,顔面神経が侵されやすく,ここから分かれ出
る末梢神経はすべてその機能を停止し,運動麻痺と全種類の
知覚障害が支配領域に出現する。
BT型皮疹の出現に先立って,知覚過敏が起こることもある。皮疹
に一致して知覚障害が認められるが,TT型より軽度であ
る。神経幹の肥厚は強く,TT型よりも広範囲であるが非対
称性である。神経障害による筋萎縮や運動障害を残しやす
い。
BB型非対称性の肥厚を伴った多発神経炎を起こしやすい。
BL型対称性の神経障害が現れる傾向がある。比較的多くの神経に
比較的強い変化が見られ,かなりの機能障害を残すおそれが
ある。
LL型全身の皮膚表層の末梢神経を対称性に侵すが,深層の末梢神
経は侵されず,皮膚温度の高いところや踵・指先等の角化の
強い部分も侵されにくい。このような領域を除いた全身の皮
膚表面の知覚の低下(鈍麻)が見られる。さらに,皮膚の浅
い部分の神経幹も侵されやすいため顔面筋・小手筋,前脛骨
筋等の麻痺が加わる。多くは病期が進行してから現れ,主と
して知覚鈍麻を呈する。神経の肥厚は顕著ではない。
c眼
TT型やBT型は,顔面に病変がある場合に顔面神経麻痺による
片側性の兎眼が見られることがある。BL型やLL型では,らい菌
が血行性に眼部に到達して,増殖することがある。特に,眼球の前
半部は低温のため侵されやすい。顔面神経や三叉神経の麻痺がある
と多彩な障害が起こる。らい菌の侵入による変化と末梢神経の障害
とがあいまって後遺症を残すことが多い。
d耳・鼻・口・咽喉
TT型やBT型では,顔面に病変がある場合のみに,顔面神経麻
痺による変化が見られる。BL型やLL型では,鼻,口腔,咽喉の
粘膜にらい菌の浸潤による病変が見られることもある。
e臓器
至適温度が30度から33度であるというらい菌の特性から,ハ
ンセン病では体表に近い低温部が侵されやすく,温度の高い臓器
(肝臓,脾臓,腎臓等)に病変が生じてもこれによる障害はほとん
ど見られない。
イハンセン病の疫学(乙81,82,弁論の全趣旨)
(ア)ハンセン病の疫学的特徴
ハンセン病の特徴は,感染と発病の間に大きな乖離が見られること
にある。すなわち,発病する感染者は,感染者のごく一部にすぎず,
感染者の中の有病率は高い場合でも通常1パーセントを超えることは
ない。
この乖離の原因は,らい菌の毒力が極めて弱いため,感染しても発
病に至ることが少なく,この菌に対して抗原特異的免疫異常が起きた
場合にだけ発病するという事情が存することにある。
(イ)ハンセン病の感染について
a感染源
現在,感染源として確立されているのは患者だけであり,患者
は,病型によって排出する菌の量が大きく異なる。そして,多剤併
用療法を始めると,らい菌の感染力が数日で失われる。したがっ
て,感染源になる可能性があるのは未治療の患者である。なお,D
DS単剤療法でも,らい菌の排出量は急速に減少することが知られ
ている。
b感染経路
らい菌の感染経路については,現在でも確固たる結論は得られて
いない。かつては上気道粘膜からの感染が重視され,後になって皮
膚の傷からの感染を重視する説が有力になったが,近年は,再び経
上気道粘膜感染の重要性が指摘されるようになった。
c感染力
ハンセン病には結核のツベルクリン反応のような感染を知る皮内
反応がないため,感染の判定には血清学的手法が用いられるが,感
染を100パーセント知る方法はまだ確立されていない。よって,
らい菌の感染力の強弱を知ることは困難であるが,近時の疫学的研
究の成果によれば,らい菌の感染力自体はそれほど弱くないともい
われている。
(ウ)家庭内感染の危険性について
乳児期は,人間の生涯の中で,らい菌を受け取る確率の高い時期であ
ると考えられており,乳幼児に対する家庭内感染の危険性については,
第2回国際らい会議以降,国際会議等でしばしば取り上げられている。
これに対し,夫婦間感染は,古くから,稀であるといわれている。(乙
81,82)
ウ治療法の推移(弁論の全趣旨)
(ア)スルフォン剤登場以前
スルフォン剤がハンセン病治療薬として登場するまで,ほとんど唯
一の治療法は大風子油を使用することであり,ある程度効果があると
の評価もあったことから,我が国の療養所でも使用されていた。しか
し,再発率が相当に高く,根治薬というには程遠いものであった。
(イ)スルフォン剤(プロミン)の登場
アメリカのカービル療養所のファジェットは,昭和18年,20世
紀初頭に抗結核剤として開発されたスルフォン剤であるプロミンにハ
ンセン病の治療効果があることを発表した。その治療効果は顕著であ
って,スルフォン剤の登場は,これまで確実な治療手段のなかったハ
ンセン病を「治し得る病気」に変える画期的な出来事であった。
我が国においても,戦後間もなくプロミン等による治療が開始さ
れ,昭和22年以降,日本らい学会においてプロミンの有効性が繰り
返し報告されるに至った。
(ウ)DDS
DDSは,スルフォン剤の基本化合物で,らい菌の葉酸代謝を阻害し
て静菌作用を示すものである。DDSは,リファンピシン登場前のハン
セン病の代表的治療薬であり,現在でも多剤併用療法で用いられてい
る。
DDSがハンセン病治療に試されるようになったのは昭和22年頃
からであり,我が国でも昭和28年頃からDDS経口投与の治療が開
始されたが,我が国でも広く普及するようになったのは,昭和30年
代後半であった。
(エ)リファンピシン
リファンピシンは,もともと抗結核剤であったが,らい菌に対して強
い殺菌作用を有していることが判明し,我が国でも,昭和46年頃から
ハンセン病治療に用いられるようになった。リファンピシンを服用する
と,数日で体内のらい菌の感染力を失わせることができるとされてお
り,リファンピシンによって化学療法は更に進歩した。リファンピシン
は,現在の多剤併用療法の中心的薬剤である。
(オ)クロファジミン
クロファジミンは,昭和32年に合成されたフェナジン系誘導体
で,当初抗結核作用が注目されたが,らい菌に対する弱い殺菌作用と
静菌作用に加え,らい反応を抑える効果を有していることが判明し,
我が国でも昭和46年頃からハンセン病治療に用いられるようになっ
た。
(カ)多剤併用療法の確立
スルフォン剤に始まる化学療法の進歩は,ハンセン病治療に光明を
もたらしたが,昭和30年代後半にDDSの,次にリファンピシンの
耐性菌が発現し,耐性の問題をいかにして克服するかが世界的に重要
な課題となっていた。
昭和56年にWHOが提唱した多剤併用療法は,リファンピシン,D
DS,クロファジミンを同時併用することでこの問題を解決しようとす
るもので,卓越した治療効果,再発率の低さ,らい反応の少なさ,治療
期間の短縮等の点で画期的であった。
エ医学的知見の変遷(乙128,129,弁論の全趣旨)
(ア)感染・発病のおそれに関して
a第1回国際らい会議(明治30年)まで
1847年,ハンセン病医学の権威ダニエルセンが,ハンセン病は
遺伝病であるとの見解(以下「遺伝説」という。)を唱え,これ以降
ヨーロッパでは遺伝説が支配的となったが,その後明治30年にベル
リンで開催された第1回国際らい会議において,ハンセン病は伝染病
であるという見解(以下「伝染説」という。)が承認され,伝染説が
国際的に確立した見解となった。そして,この会議では,細菌学者ナ
イセルがハンセン病の伝染性は顕著でない旨述べた。
なお,我が国では,少なくとも第1回国際らい会議まで,遺伝説
が支配的で,伝染説は容易に受け入れられなかった。
b第1回国際らい会議(明治30年)以降
第1回国際らい会議以降,医学界の状況は大きく変化し,ハンセ
ン病は,国内外を問わず,一貫して,感染し発病に至るおそれが極
めて低い伝染病であることが広く認識されるに至った。この認識
は,戦前の我が国の行政部門とりわけ内務省及び厚生省にも共有さ
れていた。
内務省衛生局長を歴任した窪田静太郎は,昭和11年に発表した
論文において,ハンセン病について,「伝染病には相違ないが,思
ふに体質に依って感染する差異を生ずるので,伝染力は強烈なもの
ではない。古来遺伝病と考へられた所以もその辺に存るのであらう
と思うた」と記述している。
厚生省予防局長であった高野六郎は,昭和14年に発表した自ら
の著書の中で,ハンセン病の発病が生まれながらの体質や生活環境
によって左右される旨述べていた。
厚生省優生結婚相談所が昭和16年5月に作成した「結婚と癩
病」と題する書面には,ハンセン病にかかりやすい素質は今日学問
的に証明されておらず,ハンセン病の感染力は微弱であるなどと記
載されていた。
(イ)スルフォン剤に対する評価の確立
a国際的な動向
昭和21年にリオデジャネイロで開催された第2回汎アメリカら
い会議では,スルフォン剤であるプロミンがハンセン病に著効を示
すとのファジェットの研究報告がされ,その報告は高く評価され
た。しかしながら,この時点では,プロミンの試験が世界各地で十
分に行われていなかったこともあって,プロミンの評価について最
終的見解を出すには時期尚早であるとの慎重論にも一定の支持があ
った。
昭和23年にハバナで開催された第5回国際らい会議では,スル
フォン剤によりハンセン病治療に目覚ましい進歩があったとされ,
プロミン等のスルフォン剤の国際的評価が高まった。そして,この
会議では,DDSについて,懸念されていたほどの副作用がなく,
少量の投与でプロミンに劣らない効果があるとの研究成果も報告さ
れ,注目を集めた。
昭和27年にリオデジャネイロで開催されたWHO第1回らい専
門委員会において,スルフォン剤によるハンセン病治療は他のいか
なる治療よりもはるかに優れており,ほとんどすべての病型に効果
的である旨の報告がされたことにより,スルフォン剤によるハンセ
ン病治療に対する国際的評価はより高まった。この報告では,DD
Sについての報告もされ,DDSは,恐れられていたほどには副作
用がないこと,治療効果も高いこと,安価であること,経口投与が
可能で使用方法も簡便であることなどの点で高く評価され,外来治
療の可能性を拡げるものとして,非常に利用価値が高いと評価され
た。
その後の国際会議でも,スルフォン剤の高い評価は動かず,スル
フォン剤治療の実績が積み重ねられるにつれ,その評価は確実なも
のとなっていった。それに伴い,強制隔離否定の方向性が次第に顕
著となり,昭和31年にマルタ騎士修道会によって開催されたロー
マ会議以降,昭和33年に東京で開催された第7回国際らい会議,
昭和34年にジュネーブで開催されたWHO第2回らい専門委員会
などでハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱され,昭和
38年にリオデジャネイロで開催された第8回国際らい会議では,
無差別の強制隔離は時代錯誤であり,廃止されなければならない旨
指摘されるに至った。
b我が国における評価
GHQのサムス公衆衛生部長が,昭和21年に,日本のハンセン
病医療関係者に対して,ファジェットのプロミン等に関する文献を
紹介したことを契機として,我が国でもプロミン等による治療が開
始され,昭和22年以降,日本らい学会においても,プロミンの治
療効果を認める報告が続いた。
その後,昭和26年4月の第24回日本らい学会において,
「『プロミン』並に類似化合物による癩治療の協同研究」が発表さ
れ,プロミン,プロミゾール及びダイアゾンが極めて優秀な治療薬
であると認められた。もっとも,この時点においては,再発の可能
性を検討するために,少なくとも10年は経過観察をする必要があ
るとして,スルフォン剤の評価になお慎重な意見が学会内では根強
かった。
しかしながら,我が国でプロミンの治療研究が開始されてから1
0年を経過した昭和31年頃以降も,我が国におけるスルフォン剤
の優位性は揺るがなかった。
(ウ)「らいの現状に対する考え方」の策定
厚生省公衆衛生局結核予防課は,昭和39年3月,「らいの現状に
対する考え方」をまとめた。そこでは,次のような言及がされてい
る。
すなわち,「従来の医学においては,らいは全治は極めて困難であ
り,隔離以外に積極的な予防手段はないとされていたので,患者の隔
離収容に重点をおいてきたのであるが,最近におけるらい医学の進歩
は目覚ましいものであり,細部においては未だ不明な点は多々あるも
のの,らいは治ゆするものであること,らいが治ゆした後に遺る変型
は,らいの後遺症にすぎないこと,らい患者それ自体にも病型により
他にらいを感染させるおそれがあるものと,感染させるおそれがない
ものとがあること,らいの伝染力は極めて微弱であって,乳幼児期に
感染したもの以外には,発病の可能性は極めて少ないことという見解
が支配的となりつつあり(中略)らい治療薬の発達により,早期治療
を行なったものについては,変型に至るものが少く,又菌陰性になる
までの期間も随分短縮されてきた。」,「こうした医学の進歩に即応
したらい予防制度の再検討を行なう必要があるが,その検討の方向と
しては,第一に患者の社会復帰に関する対策であり,第二は他にらい
を感染させるおそれのない患者に対する医療体制の問題であり,第三
は現行法についての再検討であろう」,「本病についての特性とし
て,社会一般のらいに対する恐怖心は今なお極めて深刻なものがある
ので,まずこれについて強力な啓蒙活動を先行的に行わなければ,上
記各検討結果による措置も実を結ぶことは困難である」というのであ
る。
(2)我が国のハンセン病政策とその変遷
ア戦前の状況
(ア)「癩予防ニ関スル件」の制定まで(甲144,弁論の全趣旨)
我が国において,ハンセン病は,古くから「業病」とか「天刑病」
として差別・偏見・迫害の対象とされてきた。そのため,患者の中に
は,故郷を離れて浮浪徘徊する者が少なからず存在し,そのような者
は社寺仏閣等で物乞いをするなど,悲惨な状況にあった。これに対
し,救らい事業に乗り出したのは主として宗教家である。特に,明治
20年代以降,神山復生病院,慰廃園,回春病院,待労院等の私立療
養所が開設され,患者の療養に当たった。
ハンセン病は,明治30年に制定された伝染病予防法の対象疾病に
含まれてはいなかったが,伝染説が確立した第1回国際らい会議(明
治30年)以降,ハンセン病予防に対する関心が高まり,明治40年
に「癩予防ニ関スル件」が制定された。
「癩予防ニ関スル件」は,療養の途がなく救護者のない者のみを隔
離の対象とするものであったが,これは,ハンセン病が文明国として
不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受けており,浮浪
患者の救済法としての色彩を帯びつつ,他方,公衆衛生の点からは徹
底を欠いていた。
明治33年以降,内務省によってハンセン病の全国調査が実施され
たが,その際に患者の人数などのほか,ハンセン病の血統家系戸数又
はハンセン病の患家の数も調査の対象とされた。
(イ)療養所の設置(弁論の全趣旨)
内務省は,明治40年,まず2000人の浮浪患者を収容する方針
を策定するとともに,「癩予防ニ関スル件」4条1項所定の療養所の
設置方針として,市街地への距離が遠くなく交通の便利な土地を選ぶ
ことなどを決定した。しかし,実際の療養所建設は,地元住民の反対
運動で難航し,結局,次のとおり,全国5か所に府県連合立療養所
(以下「公立療養所」という。)が設置されたが,これらは必ずしも
上記方針どおりの立地条件ではなく,特に,大島療養所は,瀬戸内海
の孤島に置かれた。
第一区全生病院(東京都東村山市所在。後の多磨全生園)
第二区北部保養院(青森市所在。後の松丘保養園)
第三区外島保養院(大阪市所在。なお,昭和9年9月の室戸台風
により壊滅的被害を受け,そのまま復興されなかった。)
第四区大島療養所(香川県木田郡庵治町所在。後の大島青松園)
第五区九州療養所(熊本県菊池郡合志町所在。後の菊池恵楓園)
さらに,療養所長は,大正4年頃以降,入所患者の逃走防止等のため
離島に療養所を設置すべきであるとの意見を度々提出し,衆議院では,
昭和10年3月14日に,療養所は外部との交通が容易でない離島又は
隔絶地を選定して設置すべきであるという建議案が提出され,可決され
た。
(ウ)明治42年内務省訓第45号(甲32)
内務省は,明治42年2月2日,府県に対して,明治42年内務省訓
第45号を発した。当該訓令は,府県に対して,ハンセン病は,その患
者と接触したり,その患者の体液を介したりすることによって感染の危
険性が生じる伝染病であるから,隔離,消毒,その他の予防方法をもっ
て,ハンセン病の蔓延を防ぐとともに,一般市民に対して,ハンセン病
の性質及び予防方法を周知することを求めたものであって,その文中に
は,ハンセン病の予防方法として,患者本人の住居や衣類等の消毒だけ
でなく,患者と同居する家族の衣類等の消毒等が掲げられていた。
(エ)懲戒検束権の付与(弁論の全趣旨)
a設置当初の療養所内では,風紀が乱れ,秩序維持が困難な状況にあ
ったところ,大正5年法律第21号による「癩予防ニ関スル件」の一
部改正により,「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ
必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」(4条ノ2)とされ,療養
所長の懲戒検束権が法文化された。これに伴い,大正5年内務省令第
6号により,「癩予防ニ関スル件」の施行規則(明治40年内務省令
第19号)が一部改正され,懲戒検束権について,次のとおり定めら
れた(なお,当該規則5条ノ2第1項3号は,昭和22年5月2日に
厚生省令第14号により削除された。)。
5条ノ2
1項療養所ノ長ハ被救護者ニ対シ左ノ懲戒又ハ検束ヲ加フルコ
トヲ得
1号譴責
2号三〇日以内ノ謹慎
3号七日以内常食量二分ノ一マデノ減食
4号三〇日以内ノ監禁
2項前項第三号ノ処分ハ第二号又ハ第四号ノ処分ト併科スルコト
ヲ得。第一項第四号ノ監禁ニ付イテハ,情況ニ依リ管理者タ
ル地方長官又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ其ノ
期間ヲ二個月マデ延長スルコトヲ得
5条ノ3
前条ノ外懲戒又ハ検束ニ関シ必要ナル細則ハ管理者タル地方長官
又ハ代用療養所所在地地方長官ノ認可ヲ経テ療養所ノ長之ヲ定ム
bさらに,大正6年には,前記規則5条ノ3所定の施行細則が定めら
れたが,当該細則における懲戒検束事由の定めは,風紀を乱したと
か,職員の指揮命令に服従しなかったという理由で,減食等の処分の
対象とされ,また,逃走し又は逃走しようとしたとか,他人を煽動し
て所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で,監禁等の処
分の対象とされるなど,それ自体が,具体性に欠け,かつ,恣意的な
運用の危険を内在させていた。
c以上のような懲戒検束権の法制化により,療養所長の取締りの権限
が大幅に強化され,療養所の救護施設としての性格は後退する一方,
強制収容施設としての色彩が濃厚なものとなった。
(オ)断種ないしワゼクトミーの実施(弁論の全趣旨)
我が国の公立療養所では,当初,男女間の交渉を厳重に取り締まった
が,所内での男女交渉は絶えず,出産に至ることも少なくなかった。そ
のため,療養所内での出生児の養育を許さない方針であった療養所側は
取扱いに苦慮していた。しかるところ,大正4年,当時の全生病院長D
は,男女間の交渉を認めることがむしろ療養所の秩序維持に役立つと考
え,結婚を許す条件としてワゼクトミー(精管切除)を実施した。この
ことを契機に,全国の療養所でワゼクトミーが普及し,昭和14年まで
に1000人以上の患者にこれが実施され,他方妊娠した女性に対して
は,人工妊娠中絶が実施された。このような患者に対する優生手術は,
昭和23年に優生保護法が制定されるまで,法律上の明文の根拠なく実
施されていた。さらに,当該優生手術は,優生保護法の制定の前後を問
わず,患者本人及び配偶者の同意を得ないで実施されることがあった。
(カ)第一期増床計画(弁論の全趣旨)
大正8年に政府が行ったらい患者一斉調査によれば,患者数は約1万
6200人であり,このうち療養の資力がない患者は約1万人であっ
た。これに対し,療養所の収容能力は十分ではなく,収容患者数は15
00人にも満たなかった。そこで,内務省は,大正10年から大正19
年(昭和5年)までの10年間に,初の国立療養所を新設するとともに
既存の5か所の公立療養所を拡張して,病床数を5000床とする第一
期増床計画を策定し,昭和11年ころまでにはその目標が達成された。
(キ)入所対象の拡張等(弁論の全趣旨)
前記のとおり,「癩予防ニ関スル件」3条1項は「癩患者ニシテ療
養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ(中略)療養所ニ入ラシメ之ヲ救護
スヘシ(後略)」と定めるものであったところ,内務省は,大正14
年,衛生局長の地方長官あて通牒により,そこにいう「療養ノ途ヲ有セ
ズ」の意味につき,現状ではほとんどの患者の関係において療養の設備
が整えられていないことを指摘し,また「救護者」とは,扶養義務者で
あるか否かに関わらず,療病的処遇を与えるべき者を含む趣旨(そのよ
うな者が存在しない場合に広く「救護者ナキモノ」ということにな
る。)であるとし,その結果,患者の入院資格は相当広いものとなる旨
の解釈を示し,事実上すべての患者を入所の対象とすることとした。
なお,内務省衛生局予防課長Eは,大正15年5月発行の「民族浄
化のために」という論稿において,「癩病は誰しも忌む病気である。
見るからに醜悪無残の疾患で,之を蛇蝎以上に嫌い且怖れる。(中
略)こんな病気を国民から駆逐し去ることは,誰しも希ふ所に相違な
い。民族の血液を浄化するために,又此の残虐な病苦から同胞を救ふ
ために,慈善事業,救療事業の第一位に数へられなければならぬ仕事
である。(中略)要するに,癩予防の根本は結局癩の絶対隔離であ
る。此の隔離を最も厳粛に実行することが予防の骨子となるべきであ
る。」と記述している。
(ク)旧法の制定(乙126,弁論の全趣旨)
a政府委員F(当時の内務省衛生局長)は,昭和6年2月28日,衆
議院における旧法の質疑において,当局はハンセン病が慢性の伝染病
であって,遺伝病ではないと考えているかなどと質問されて,「此法
ヲ立案スル上ニ於キマシテハ,癩ガ傳染病ナリト云フコトヲ前提トシ
テ居ルノデアリマス,(中略)此癩ノ傳染病デアルト云フコトハ,所
謂癩菌ガ発見セラレマシテ以来學問上疑ガナイト云フコトニナッテ居
ルト承ッテ居ルノデアリマス,(中略)私共ノ諒解致シテ居リマス所
デハ,癩病自體ガ遺傳ヲスルト云フコトハ,是ハナイコトヽ承ッテ居
ルノデアリマス,或ハ癩菌ニ對スル抵抗力ト言ヒマスカ,體質ノ如何
ニ依リマシテ,體質ハ無論遺傳スル性質ヲ持ッテ居ル譯デアリマスカ
ラ,體質ガ癩菌ニ對シテ特ニ癩菌ヲ受入レ易イヤウナ體質ヲ持ッテ居
ルト云フヤウナ時ニ,所謂遺傳ト認メラレルヤウナ,通俗ニ申シマス
レバ,サウ云フコトモアルカモ知レマセヌガ,是ハ學問上ノ遺傳デハ
ナイト存ズルノデアリマス」と答弁した。
b昭和6年に「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改正され,「癩予
防法」との題名を附された上,旧法が成立した。主な改正点は,次の
とおりである。
(a)入所対象の拡張
療養所の入所対象につき「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」
(「癩予防ニ関スル件」3条1項)との限定が撤廃され,「癩患者
ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」が隔離の対象とされた(旧法3条1
項)。
(b)従業禁止規定等の新設
行政官庁は,予防上必要と認めるときは,「癩患者ニ対シ業態上
病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト」ができ(旧法2
条ノ2第1号),また,「古着,古蒲団(中略)其ノ他ノ物件ニシ
テ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁
止シ,其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ
廃棄ヲ為スコト」ができる(同条ノ2第2号)ものとされた。
(ケ)「癩の根絶策」(弁論の全趣旨)
内務省衛生局は,昭和5年10月,「癩の根絶策」を発表した。これ
によれば,ハンセン病は「惨鼻の極」であり,「癩を根絶し得ないやう
では,未だ真の文明国の域に達したとは云へ」ず,「癩を根絶する方策
は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加へればそれでよい。外
に方法はない。(中略)若し十分なる収容施設があって,世上の癩患者
を全部其の中に収容し,後から発生する患者をも,発生するに従って収
容隔離することが出来るなれば,十年にして癩患者は大部分なくなり,
二十年を出でずして癩の絶滅を見るであらう。(中略)然しかくの如き
予防方法が講ぜられない場合は,癩はいつまで経っても自然に消滅する
ことはない。過去の癩国は永久に癩国として残る。」とされ,癩根絶計
画案として,20年根絶計画,30年根絶計画,50年根絶計画の三つ
を挙げている。
なお,癩根絶計画は直ちには実施されなかったが,昭和10年に2
0年根絶計画の実施が決定され,昭和11年からの10年間に療養所
の病床数を1万床とし,さらにその後の10年間でハンセン病を根絶
することとされた。
(コ)療養所の新設(弁論の全趣旨)
第1期増床計画,旧法制定,20年根絶計画等に伴って,昭和5年
3月に初の国立療養所である長島愛生園が岡山県邑久郡邑久町の瀬戸
内海の小島に開設され,その後,次のとおり,国立療養所が開設され
た。
昭和7年11月栗生楽泉園(群馬県吾妻郡草津町所在)
昭和8年10月宮古療養所(沖縄県平良市所在。後の宮古南静園)
昭和10年10月星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市所在)
昭和13年11月国頭愛楽園(沖縄県名護市所在。後の沖縄愛楽園)
昭和14年10月東北新生園(宮城県登米郡迫町所在)
昭和16年7月松丘保養園,多磨全生園,邑久光明園,大島青松園及
び菊池恵楓園が国立療養所に組織変更
昭和20年12月駿河療養所(静岡県御殿場市所在)
(サ)戦前の無らい県運動
a全国の状況(甲20ないし24,91,124ないし126,弁論
の全趣旨)
無らい県運動は,県内の全ての患者を療養所に送り込もうとする官
民一体となった運動であり,昭和4年の愛知県の民間運動が発端とな
るが,昭和11年以降に活発化した。日中戦争(昭和12年)が始ま
ると,運動自体が戦時体制に組み込まれ,このころから,被控訴人国
によって組織的,体制的に推進されるようになった。
また,昭和16年には,厚生省が,道府県に対して,①らい(ハン
セン病)の予防は隔離により達成可能であり,したがって患者の収容
こそ最大の急務であること,②そのため病床の拡充を図り,患者の収
容を励行すべきであり,その完全を期すため無らい県運動の徹底が必
要であること,③その実施に当たっては,政府から各道府県に一層の
督励をなす必要があるのみならず,国民に対し,あらゆる機会に種々
の手段を通じてらい予防思想を普及し,無らい県運動の意義を理解協
力させ,患者に対しても一層その趣旨の徹底を期するべきであること
を指示するに至った。
このような国策に従い,戦時体制のもと,全国で無らい県運動が実
施され,徹底した強制収容が行われた。そして,そのことは,相当数
の国民に,ハンセン病が恐ろしい伝染病であり,患者が地域社会に脅
威をもたらす危険な存在である旨の認識を根付かせることにもなっ
た。
長島愛生園は,開園当初から慢性的な定員超過に陥ったが,これを
解消すべく,十坪住宅運動が実施された。これは,財団法人長島愛生
園慰安会が広く民間から寄付金を募り,入所患者の作業により1棟6
畳2部屋の十坪住宅を療養所内に建設し,建設後はこれを国庫に寄付
する形で入所患者の住宅にあてるものであった。
戦前の無らい県運動において,患者の実態把握のために一般住民か
らの通報が活用された。
b特に鳥取県の状況(甲21,35,90,124ないし126,乙
110,121,顕著な事実)
昭和11年に鳥取県知事(明治憲法下では,知事は,内務省管轄の
官吏であって国により任命され,都道府県は,自治体としての側面と
国の総合出先機関としての側面を有していた。)に就任し,昭和14
年に離任したG(以下「G知事」という。)は,知事就任直後から,
「癩予防は私の念願」として,無らい県運動に熱心に取り組んだ。そ
の結果,鳥取県は,県を挙げて無らい県運動を推進するようになり,
財団法人鳥取県癩予防協会が創立され,その運動が全国から注目を浴
びるようになった。鳥取県における十坪住宅運動に対する寄付状況
は,昭和11年5月までの同県内からの累計寄付金額が198円03
銭にとどまっていて同県内の個人及び団体による自発的で広範な寄付
がほとんど見られなかったが,昭和12年5月末現在で同県内からの
寄付金が2万8163円03銭に及んでおり,同月現在の十坪住宅運
動への寄付金のいわゆる外地を含む全国の総額は12万9469円6
3銭であった。
昭和16年に各県の無らい県運動の現状を評価した当時の長島愛
生園長であったD(以下「D園長」ということがある。)は,鳥取
県が知事ら県幹部の主導性を発揮して早期に運動に取り組んだ結
果,在宅患者を一時8名まで減少させたにもかかわらず,日中戦争
の「出征兵士訣別家政整理」などの口実による一時帰省が増えたた
め,44名に逆転したことは遺憾であると述べていた。
(シ)財団法人癩予防協会の活動(甲127,130,乙97,98,1
19,120)
昭和5年に貞明皇太后がハンセン病予防事業のために御内帑金を下賜
されたことを契機として,昭和6年に財団法人癩予防協会(以下「癩予
防協会」という。)が設立された。
政府は,昭和6年,6月25日を「癩予防デー」と定め,癩予防協会
は,当初,同日,全国で講演会などを開催して,ハンセン病の予防知識
の普及に努めていた。
癩予防協会は,昭和11年より,講演会などの開催を東京のみで行う
こととし,各府県に対して,自宅で療養している患者を訪問し,患者及
びその家族に対してハンセン病予防上必要な事項を指導するように要請
し,各府県において患者及びその家族に対する訪問指導が実施された。
前記訪問指導の中で,患者及びその家族に対して患者の療養所への入所
も指導された。
(ス)保育所について(甲38,39,乙38,92,135)
癩予防協会は,昭和6年8月に,親が患者として療養所に収容された
ことにより,保護者・扶養者を失った子(以下「入所者の子」とい
う。)を保育・教育するための機関(以下,この機関のことを「保育
所」という。)として,長島愛生園の愛生保育所(楓蔭寮)及び大島青
松園の楓寮を設置し,その後,栗生楽泉園,菊池恵楓園,星塚敬愛園,
松丘保養園及び宮古南静園に保育所をそれぞれ設置した。これらの保育
所の所管は,戦後の昭和21年5月に,癩予防協会から被控訴人国に移
管された。
イ戦後,新法制定までの状況
(ア)優生保護法の制定(乙132,弁論の全趣旨)
国民優生法(昭和15年制定)に代わるものとして,前提事実3(4)
のとおり,昭和23年に優生保護法が制定された。なお,昭和24年
から平成8年までに行われたハンセン病を理由とする優生手術は14
00件以上,人工妊娠中絶の数は3000件以上に上った。
優生保護法の立法提案者であるH及びIが共著者となった書籍「優
生保護法解説」には,優生保護法のらい条項に関し,「癩は遺傳性の
疾患と云われていたが,現在では傳染病の部類に属している。唯これ
は慢性傳染であってその潜伏期間が長く,幼児中に傳染したものが少
年期特に破瓜期に至って,或は身體的に大きな障害があった場合に発
病するのが普通であって,先天的に同病に對する抵抗力の弱いと云う
事も考えられるのである。また,現在では癩を完全に治療し得る方法
もないので,癩患者に對しては,本人又は配偶者の同意を得て本手術
を行うのが適當である」と記載されていた。
(イ)プロミンによる治療の有効性の認識及びプロミンの予算化(弁論の
全趣旨)
前記のとおり,昭和22年頃以降,我が国においてもプロミンによる
治療の有効性が明らかになりつつあり,厚生省医務局長Jは,昭和23
年11月27日の衆議院厚生委員会において,プロミンによる治療の有
効性を前提とした答弁をした。
プロミンの登場は,患者に希望を与えるものであったが,当初,プ
ロミンを広く普及させるだけの予算措置は採られておらず,そのよう
な中で,昭和23年に多磨全生園でプロミン獲得促進委員会が結成さ
れ,これを中心としたプロミン獲得運動が全国に波及した。その結
果,昭和24年度予算で,ほぼ患者らの要求どおりのプロミンの予算
化が実現した。
(ウ)戦後の無らい県運動(甲20ないし22,145の5~7,151
の1~10,乙113)
厚生省豫防局長は,昭和22年11月6日付けで,都道府県知事に対
し,「無癩方策実施に関する件」と題する通達を発した。同通達におい
ては,第1次実施事項として,療養所の管理を強化すること,帰郷患者
を療養所へ復帰させること,既知の未収容患者のうち感染の危険の大き
なものから順次入所させること,既知の未収容患者及びその家族に対す
る隔離及び消毒その他予防指導の厳重な実施などが記載され,第2次実
施事項として療養所の病床の増加並びに一斉検診の実施による未収容患
者の発見及び収容などが記載されていた。
昭和24年6月24日及び25日に厚生省で開催された全国国立療養
所長会議では,無らい県運動を継続するという方針が決定されるととも
に,療養所の増床と一斉検診の実施が決定された。
厚生省公衆衛生局長は,昭和25年4月22日付けで,都道府県知事
に対し,「昭和25年度らい予防事業について」と題する通達を発し,
国立療養所との密接な連携,予防技術の向上,一斉検診の実施及び収容
その他の事後措置の施行などが指示された。
厚生省公衆衛生局長は,昭和26年4月24日付けで,都道府県知事
に対し,「昭和26年度らい予防事業について」と題する通達を発し,
未収容患者の収容に重点を置き,予防事業を強力,かつ,徹底的に推進
することなどが指示された。
戦後の無らい県運動の中でも,患者の実態把握のために一般住民から
の通報が活用された。
(エ)戦後の患者数と患者収容の強化(弁論の全趣旨)
厚生省が昭和25年8月実施した全国らい調査によると,登録患者が
1万2628人,このうち入所患者が1万0100人,未収容患者が2
526人であり,未登録患者を合わせた患者数は1万5000人と推定
された(明治33年の調査では患者総数が3万0359人とされてお
り,相当の把握漏れの可能性があることを度外視しても,患者数は50
年間で半減したことになる。)。また,有病率は,人口1万人当たり
6.92人(明治33年)から1.33人(昭和25年)と約5分の1
まで減少した。
厚生省は,昭和25年以降,療養所の増床計画を進めるとともに,患
者を次々と療養所に入所させていった。その結果,昭和25年12月末
の時点で2769人であった在宅患者数が,昭和30年12月末の時点
では1112人にまで減少した。
厚生省は,昭和24年度から昭和28年度までに5500床を増床
したため,療養所の収容定員が1万3500人となった。そして,同
年の調査では,未登録患者を含む推定患者数が約1万3800人とさ
れたので,この時点でほぼ全患者の収容が可能になり,増床が終了し
た。
(オ)昭和26年11月8日の参議院厚生委員会における長島愛生園長の
発言(甲37,乙105,130,弁論の全趣旨)
参議院では,新たなハンセン病政策を検討するため,参議院厚生委
員会に「らい小委員会」が設けられ,昭和26年11月8日,同委員
会において,多磨全生園長K,長島愛生園のD園長,菊池恵楓園長L
を含む5名の参考人からの意見聴取が行われた。このとき,D園長
は,患者の収容強化について,「癩は家族伝染でありますから,そう
いうような家族に対し,又その地方に対してもう少しこれを強制的に
入れるような方法を講じなければ,いつまでたっても同じことである
と思います。(中略)強権を発動させるということでなければ,何年
たっても同じことを繰返すようなことになって家族内伝染は決してや
まない」などと述べ,断種等について,「それから,予防治療,予防
するにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれど
も,これによって防げると思います。又男性,女性を療養所の中に入
れて,それを安定せしめる上においてはやはり結婚というようなこと
もよろしいと思います。結婚させて安定させて,そうしてそれにやは
りステルザチョン即ち優生手術というようなものを奨励するというよ
うなことが非常に必要があると思います。(中略)私どもは先ずその
幼児の感染を防ぐために癩家族のステルザチョンというようなことも
よく勧めてやらすほうがよろしいと思います。癩の予防のための優生
手術ということは,非常に保健所あたりにもう少ししっかりやっても
らいたいというようなことを考えております。」などと述べた。
D園長は,平成27年10月2日,長島愛生園礼拝堂において,同委
員会における発言の真意について説明し,その中で,優生手術につい
て,「子供が生まれると癩予防の意味においても非常に危険でありまた
母体を危険にし又病状を悪化させるおそれがある。又証言中の意味は癩
家族に奨めてと云うのは罹った患者その人の事で病気でない家族の人々
の事ではない。それもその必要の意義を充分話して本人の承認の上でや
ることを云ったのである。」などと述べた。
(カ)予防法闘争(弁論の全趣旨)
日本国憲法施行に伴う療養所入所者の人権意識の高まりや,プロミ
ン獲得運動等を契機として,入所者が団結して隔離政策からの解放を
求める動きが生じつつあったところ,昭和26年2月,患者らの全国
組織である全患協が結成され,これを中心として旧法の改正運動が盛
んになった。そして,入所者らは,昭和28年3月に内閣が提出した
らい予防法案を入手したが,その内容につき,旧法からの改善が十分
でないことに対する反発が生じ,予防法闘争と呼ばれるハンストや作
業スト,国会議事堂前での座り込み等の激しい抗議行動が行われるに
至った。
(キ)新法の国会審議(乙79,104,弁論の全趣旨)
aらい予防法案の提出と提案理由
らい予防法案は,昭和28年3月14日内閣により提出され,同
日の衆議院解散によりいったん廃案となったが,同年6月30日に
再提出された。
その提案理由は,要旨,ハンセン病は慢性の伝染性疾患であり,
根治することが極めて困難であって,患者やその家族が被る社会的
不幸は計り知れないところ,旧法は今日の実情にそぐわない面があ
るので,これを全面的に改正した新法を制定しようとするものであ
る,というものであった。提案理由中の新法6条(療養所への入所
を定めた規定)に関する部分においては,ハンセン病予防には患者
の隔離以外に方法がないことが強調され,療養所入所後における長
期の療養生活やハンセン病の伝染力が緩慢であること等を考慮の
上,まず勧奨により本人の納得を得て療養所へ入所させることを原
則とし,これによっては目的を達し難い場合に,特例的に入所を命
じ,あるいは直接入所させる等の措置がとられる旨説明された。
b衆議院における審議
昭和28年7月3日及び同月4日に開催された衆議院厚生委員会
において,らい予防法案の審議が行われた。
この中で,厚生省医務局長M(以下「M局長」という。)は,「癩
を伝染させるおそれがあるものについて,癩予防上必要があると認め
るときに限ってこの積極的な勧奨をいたすということになっておりま
すので(中略)この必要以外の者で入所を希望しない者は,入所の義
務がないということになるわけでございます。」と述べたが,伝染の
おそれの有無の判断については,「感染の危険性がある者,ない者と
いうふうに,はっきりわけるわけにも行かない」,「ただちに採用し
得る基準が求められない」とも指摘した。また,同省公衆衛生局長N
(以下「N局長」という。)は,「感染の危険性というものは相対的
なもので」あり,伝染の危険性のない患者は「非常に数が少い」と述
べた。
他方,N局長は,治療について,「最近の医学の進歩によりまし
て,治療が非常に進歩して参りましたので,相当これは―全然菌をな
くし得るかどうか,全治ということにつきましては異論もございます
が,非常に軽快させ得るものであるという立場に立ってこれを取扱っ
ております。」,「プロミンの注射によりますと,結節,浸潤など
は,効果は治療開始後一箇月前後から現われて参りまして,六箇月前
後で非常に軽快いたします。」とも述べた。
N局長は,「法の立案の精神は決して患者を療養所にとじ込めてし
まえばいいというような考えは毛頭ございません。」,「症状が軽快
して,もう隔離療養の必要がないと所長が認めた者は当然退所でき
る」と述べた。
このような審理を経て,衆議院厚生委員会は,昭和28年7月4
日,賛成意見(自由党及び改進党)及び反対意見(日本社会党)が
示された上で,原案どおり可決すべきものと議決した。衆議院にお
いて,同日,同法案が賛成多数で可決された。
c参議院における審議
昭和28年7月6日から,参議院厚生委員会において同法案が審
議された。
N局長は,同月9日の厚生委員会で,「伝染させるおそれ」の解
釈について,「らい菌を証明いたしますか,或いはらい菌を証明い
たしませんでも,臨床的にらい菌を保有すると認められる患者(中
略)例えば皮膚及び粘膜にらい症状を呈するもの,神経らいで神経
の肥厚を伴うもの,神経らいで肥厚を認めないけれども,萎縮麻痺
を認める,それが限局していないというようなものを考える」旨述
べ,また,M局長は,「例えば菌が一回,二回或いは一カ月という
ような程度証明されませんでも,まだその二カ月後,三カ月後に出
る虞れがあるというふうに考えられます限り,病院としては感染の
虞れが全くなくなったというふうには断定いたさないような状況で
あります。」と述べた。
N局長は,伝染させるおそれがある患者の扱いについて,「やは
りどうしてもそれが療養所に入所を肯んじないようなときには無理
にでも入所させて治療を受けさせ,そうして公衆衛生上の害を取除
かなければならないというふうに考えておるのでございます。」,
「伝染させる虞れがあるという患者はやはり収容するという方針を
とるわけでございます。」と述べ,伝染させるおそれがある患者が
そのまま入所の対象になるとの見解を示した。
厚生大臣Oは,強制入所について,「やはり勧奨によってできる
だけやりたい(中略)抜かざる宝刀によりまして空文に帰しました
ら結構なことでありまするが」と述べる一方,勧奨にどうしても応
じない場合のために強制収容の規定が必要である旨述べた。
M局長は,治療について,根治させることができると断定するこ
とはまだ難しい段階にあるとしながらも,「プロミンその他の新ら
しいらい治療剤が広く使用されるようになりまして,患者の治療成
績は非常に上って参りました(中略)病気を抑えるという意味にお
きましては極めて顕著な効果がある。」と述べ,N局長も,同旨の
答弁をした。これに関し,P議員は「治療よろしきを得るならばこ
れは退院することができるのだ。こういう時代になってこれがもう
我々の間では常識になっている」と述べ,Q議員も「日本のらい患
者の数がだんだんに数は減りつつあるという実情もある」と述べ
た。
なお,厚生省は,この時点でWHO第1回らい専門委員会(昭和
27年)の報告を入手していたが,その内容につきN局長がした説
明は「患者の収容ということについて強制力をどの程度使うかとい
うことについては,その国々の状況によって異なる」というもので
あった。
当該厚生委員会では,退所規定を設けるなどの修正案が検討され
たが,結局,各党派の意見調整ができないまま,同法案を可決すべ
きものと決定されるとともに,新法附帯決議が全会一致で採択され
た。昭和28年8月6日,参議院において,同法案が賛成多数で可
決された。
d衆参両議院での審議を通じ,病型によって伝染の危険性の程度に差
があることは議論に上ったものの,ハンセン病が伝染し発病に至るお
それの極めて低い病気であるということに着目した議論が十分に行わ
れることはなかった。
(ク)「伝染させるおそれがある患者」(新法6条1項)の解釈について
(乙41,弁論の全趣旨)
厚生省は,昭和29年頃,「らい患者伝染性有無の判定基準」を策
定したが,そこには,①らいを伝染させるおそれのある患者とは,ら
い菌を証明する者及びらい菌は証明しないが活動性のらい症状を認め
る者,②らいを伝染させるおそれのない患者とは,相当の期間にわた
ってらい菌を証明せず,かつ活動性のらい症状を認めない者,③活動
性のらい症状とは,ⅰ)皮膚及び粘膜にらい症状のあるもの,ⅱ)神
経らいで神経の肥厚の著明なもの,ⅲ)神経らいで麻痺及び筋萎縮の
著明なものとする記載があった。
また,厚生省は,いったん「伝染させるおそれがある患者」と認め
られた者が,治療を経るなどして一度や二度の菌検査で陰性となって
も,直ちに伝染のおそれがない患者になるとは考えておらず,相当長
期間の経過観察による厳格な審査を経なければ,伝染のおそれがない
患者とは判断されないとしていた。
そして,未治療の患者の大半は,病型のいかんを問わず,何らかの皮
膚症状や神経症状を呈することによってハンセン病であると診断される
ものであって,ハンセン病であるとの診断を受けながら,厚生省の作成
した「らい患者伝染性有無の判定基準」によって「伝染させるおそれが
ない」と判断される未治療の患者は,ほとんど存在しないという実情で
あった。
ウ新法制定後の状況
(ア)新法制定後の通達の定め等
a隔離政策は,新法制定により継続されることになり,次のとおり,
通達によって,細目的事項が定められた。(甲51,乙31の2・
3・6,弁論の全趣旨)
(a)「らい予防法の施行について」と題する昭和28年9月16日
付け国立らい療養所長あて厚生事務次官通知
この通知は,ハンセン病についての国の施策の趣旨を患者に理
解させ,外出制限等の義務の遵守及び療養への専念を患者に対し
て指導するように療養所長に指示し,外出制限に関する新法15
条については,「公衆衛生への影響」を強調しつつ外出許可は特
に慎重を期すべきものとし,外出を許可すべき「その他特別の事
情がある場合」(同条1項1号)はこれを「患者の家庭における
重大な家事の整理等であって本人の立会がなければ解決できな
い」ような場合に厳しく限定するとともに,許可を得て外出する
患者に対しては外出許可証明書を携行させるよう配意することを
求め,また,患者が当然に守るべき事項を「患者療養心得」にお
いて詳細に規定し,秩序の維持を図ろうとする趣旨のものであっ
た。
(b)「らい予防法の運用について」と題する昭和28年9月16日
付け国立らい療養所長あて厚生省医務局長通知
この通知は,療養所長が入所患者の外出を許可する場合にとり得
る「らい予防上必要な措置」(新法15条3項)として,①着衣及
び所持品の消毒,経由地及び行先地における注意事項の指示等によ
り,個々の患者について適当な措置をとること,②外出許可期間は
必要最短期間とし,経由地についても,目的地への最短経路を標準
とすること,③外出目的,外出期間,行先地及び経由地を詳細に記
載した台帳を備え付け,許可条件に違反した患者には必要な措置を
講ずること等を定めるものであった。
(c)「らい予防法の施行について」と題する昭和28年9月16日
付け各都道府県知事あて厚生事務次官通知
この通知は,療養所への入所に関する新法6条について,①患
者本人の病状及び生活環境を考慮し,実状に応じた懇切な説得を
行うことを原則としつつ,②勧奨に応じない者に対する命令(新
法6条2項)を発するに当たっては,まずは自発的入所への勧
奨・説得が必要であり,③強制入所の措置(新法6条3項)がと
られるのは,患者が入所命令を受けて正当理由がなく期限内に入
所しないとき,浮浪らい患者,国立療養所からの無断外出患者,
従業禁止の処分を受けてこれに従わない患者につき,公衆衛生上
療養所入所の必要があり,しかも入所勧奨及び入所命令の措置を
とるいとまがないとき等であることを明らかにしたものであっ
た。なお,外出制限を定める新法15条1項に違反して無断外出
した場合,外出許可を受けたが許可条件(目的,期間,行先地,
経由地等)に違反した場合には,状況によって,新法6条に従
い,入所勧奨,入所命令等の措置をとり,あるいは入所の即時強
制を行いうることなどが確認されている。
この通知においては,都道府県におけるらい予防事務(患者家
族等に対する福祉事務を含む。以下同じ。)は特定の職員に行わ
せ,患者に関する秘密保持の観点から,らい予防事務は原則とし
て保健所長に委任しないこととするほか,市町村についても事務
的援助その他の関与を行わせないように指示し,新法4条に係る
届出についても保健所を経由させずに直接都道府県知事に行わせ
ることとしていることに注意するように求めていた。
b被控訴人県においても,新法制定後は,ハンセン病予防事務は特定
の職員のみが行い,秘密保持の観点から知事から保健所長に権限が委
任されることはなく,市町村に対して事務的援助その他の関与を行わ
せたことはなく,ハンセン病予防事務の担当官は1人だけであった。
知事に対する患者の届出は,親展の封書で知事に対して直接郵送さ
れ,その届出書は秘書が知事室で担当者に直接手交していた。(乙3
3,37)
(イ)保育所(甲22,38ないし40,146,147,乙38,9
2,135)
既に認定したとおり,親が患者として療養所に収容されたことによっ
て保護者・扶養者を失った入所者の子を保育・教育するために設置され
た保育所は,戦後,癩予防協会から被控訴人国に移管され,新法の制定
に伴い,新法22条に基づいて入所者の児童に養育,養護その他の福祉
措置を講ずるために設置される施設となった。
保育所は,昭和30年までに,公私13の療養所に設置されるに至っ
た。保育所の多くは,入所者の児童が入所者と容易に面会できるように
するため,療養所内に置かれた。
昭和29年10月8日に開かれた参議院文部委員会において,厚生省
医務局国立療養所課長補佐は,保育所の性格に関する厚生省の見解を質
問されて,新法22条により設置された応急の施設であり,入所者の子
については,一般のいわゆる児童福祉法による児童施設へ入所させるの
を建前にしており,定員その他の関係で急には一般の児童施設に入所さ
せられないという場合にやむなく保育所に入所させてその面倒を見てい
るのが実情であり,可能な限り一般の児童福祉施設に入所させるように
努力している旨答弁している。
D園長は,長島愛生園に入所している患者の子が,療養所内の保育所
で義務教育を終了して社会に出た時に身許が判明することを慮り,ま
た,そのような子が社会生活に適応できないおそれがあると考え,それ
らの子を支援するために,昭和24年10月,D園長自身を理事長とす
る財団法人楓蔭会を設立した上で,大阪府内に児童福祉法に基づく養護
施設「白鳥寮」を建設した。(甲22)。
入所者が入所する際に同伴し,又は療養所内で出産した児童で,健康
な児童について,当初は「UntaintedChildren」と
いう外国語の訳語から「未感染児童」と呼ばれていたが,「保育児童」
と呼ばれるようになった。昭和29年10月8日に開かれた参議院文部
委員会において,前記国立療養所課長補佐は,前記児童について,「未
感染児童」ではなく「保育児童」という用語を使用していた。
(ウ)患者台帳(甲50,51,乙31の14)
厚生省公衆衛生局結核予防課長は,昭和32年6月25日付けで,各
都道府県衛生主管局(部)長宛てに,「届出らい患者台帳の作製につい
て」と題する通達を発し,届出患者の実態を把握してハンセン病予防業
務推進の基礎資料とするため,同年7月1日以後に新法4条1項により
届出のあったすべての患者について台帳を作成して業務の参考にするよ
うに指示した。その中で,患者の家族の状況についても具体的に聴取し
て前記台帳に記入するように指示されていた。
厚生省公衆衛生局長が昭和33年9月25日付けで各都道府県知事宛
てになされた「らい予防事業の実施について」と題する通知において
は,極力患者台帳その他関係資料を整備し,在宅患者の検診により病状
又は家庭の状況等に変化が生じた場合にはそれを記録することなどが指
示されていた。
(エ)退所者の現れ(甲18,50,51,乙136,弁論の全趣旨)
第2次世界大戦後,プロミンの治療効果によって療養所内では菌陰性
者が多数となり,これに伴い,昭和26年に全国で35人の軽快退所者
が公式統計に計上され,新法制定後も軽快退所者は増加し,昭和35年
には216人に達した。
昭和28年に厚生省が作成した「らい予防法逐条説明」と題する文書
には,新法15条の説明として,「勿論その病状が軽快し,療養の必要
がなくなったと所長が認めるものについては,退所することが出来るこ
とは当然である」と記載されていた。
昭和33年,療養所において治療を受けて軽快退所した者に適切な援
助を与えて自立更生を促進すべく,療養所からの軽快退所者を対象者と
して厚生省より委託を受けた藤楓協会が資金を貸し付ける世帯更生資金
貸付制度が創設された。
厚生省公衆衛生局長が昭和33年9月25日付けで各都道府県知事宛
てになされた「らい予防事業の実施について」と題する通知において
は,未収容患者の収容による伝染源の隔離が予防事業上最重要の問題と
なっており,また,最近は医療の進歩により療養所を軽快退所する患者
も逐年増加の傾向にあって,その社会復帰の円滑化が緊急の課題になり
つつあるとされ,在宅患者の入所促進と新たに制定された世帯更生資金
貸付制度の活用による治癒者の社会復帰の円滑化を中心に患者の適正な
把握及び潜在患者の発見,正しいらいの知識の普及啓蒙に努め,我が国
のハンセン病を早期に絶滅するため格段の努力を払うことが指示され
た。
昭和39年からは,就労助成金要綱が定められ,軽快退所者に対する
就労支援金の支給が開始された。
(オ)新法改正運動の経過(弁論の全趣旨)
全患協の,昭和28年の予防法闘争は不首尾に終わったが,その後
も新法附帯決議を軸に療養所内の処遇改善等の運動が継続され,昭和
38年には,大規模な新法の改正運動が行われた。しかし,この運動
は,新法改正には結び付かず,平成8年に至るまで,新法の改正法案
が提出されたり,国会で新法の改廃について審議されたりしたことは
なかった。
このような二度にわたる運動の挫折や入所者の高齢化を経て,その
後の全患協の運動の重点は,新法の改正要請から療養所内での処遇改
善に向けられるようになった。
(カ)療養所以外の医療機関における治療
aハンセン病治療に対する保険適用
国民健康保険法は,新法廃止以前において,入所者を国民健康保
険法の適用対象から除外していたものの,非入所者に対するハンセ
ン病治療については国民健康保険(以下「保険」という。)の適用対
象から除外していなかった。(乙48の1・2)
そして,抗ハンセン病薬については,プロトゾール末,タスミン,
プロトミン及びテラミンが遅くとも昭和29年度までに薬価基準に収
載されるに至り,これらの薬がハンセン病治療に用いられた場合に
は,保険診療の対象とされることになった。(甲70の2,乙23,
27)
しかしながら,リファンピシン及びクロファジミンは,平成7年の
時点では,薬事法上,抗ハンセン病薬として製造することを承認され
ていなかった(同法14条1項)ため(なお,クロファジミンは,薬
事法上,製造すること自体を承認されていなかった。),これらをハ
ンセン病治療に用いた場合には,当該治療は保険診療とされなかっ
た。そのため,リファンピシンやクロファジミンを使用することが必
要となる多剤併用療法は,混合診療となり,保険診療とはされなかっ
た。(甲70の2,原審証人Ra6頁)。
このように,ハンセン病の治療については,新法廃止以前において
も,限定的にではあるものの保険診療の対象とされていたのである
が,医療従事者の相当部分は,ハンセン病治療には全面的に保険適用
がないものとする前提で対処していた。(甲49,86,乙25)。
b療養所以外の医療機関での治療の実情
新法には,療養所以外の医療機関によるハンセン病治療を禁止する
規定は存在しないが,厚生省は,「伝染させるおそれがある患者」を
広く解釈し,未治療の患者のほとんどすべてをこれに該当するものと
解した上で,そのすべてを療養所への入所対象としていたため,ハン
セン病治療を専門としない一般的な医療機関の医療従事者は,ハンセ
ン病に対する知見及びハンセン病治療の経験が不足しており,一部に
は,ハンセン病は強烈な伝染病であるとの誤解も生じていた。その結
果,ハンセン病治療を専門としない一般的な医療機関においてハンセ
ン病治療が実施されるという実例はほとんどなかった。(甲25,原
審証人Ra5頁,弁論の全趣旨)
新法の下で,療養所以外の医療機関でハンセン病の治療を行ってい
たのは,京都大学,大阪大学等の大学附属病院や愛知県の外来診療所
等,数か所に限られており,しかも,この中で,入院治療が可能であ
ったのは,京都大学(医学部附属病院皮膚病特別研究施設。以下大学
名のみを示す。)だけであった(乙49,弁論の全趣旨)。
京都大学では,昭和24年以降外来の患者が年々増加し,昭和42
年には204名に至った。京都大学におけるハンセン病の新患分布
は,京都府,兵庫県,滋賀県,三重県,大阪府,福井県,奈良県,広
島県,岐阜県,徳島県,愛知県,高知県など広範囲に及んだ。京都大
学では,患者の治療をする際,ハンセン病との病名をあえて付けず,
末梢神経炎,皮膚抗酸菌症等の病名で診断して保険診療の対象にして
いた。(乙25,原審証人Ra6・7頁)
大阪大学医学部附属病院皮膚科別館(以下「阪大皮膚科別館」とい
う。)では,昭和35年から昭和38年の間,月平均90名から10
0名(延べ人数にして約250人)の患者が通院しており,その患者
の住所の分布は,大阪府,兵庫県,奈良県,京都府,和歌山県,三重
県,高知県,名古屋市,福井市,滋賀県,愛媛県と広範囲に及んでい
た。阪大皮膚科別館では,特殊皮膚病の研究の一環としてハンセン病
の外来治療を実施していたこともあり,保険適用がないことを前提と
していたものの,ハンセン病治療に係る医療行為自体については無償
で実施していた。他方,ハンセン病治療の際に用いられる薬剤の費用
については,主立った患者から「ただの薬では効かないと思ってい
る。また,粗末にしてしまいがちだから,費用を取ってください。」
と言われたため,患者が全て実費で負担することになっていたが,そ
の費用については財団法人大阪皮膚病研究会から一部補助がされてい
た。(甲48,乙12,24,61)
藤楓協会が昭和38年に開設した愛知県の外来診療所では,新法廃
止の前年である平成7年までに,延べ4423人(療養所退所者38
41人,在宅者582人)の患者が受診し,一番多い年には,延べ2
08人(療養所退所者172人,在宅者36人)の患者が受診した。
(甲23)
c療養所における外来治療
療養所においても,昭和40年代から,徐々に外来診療が行われ
るようになった。(乙49,弁論の全趣旨)
(キ)藤楓協会の活動(甲54ないし61,乙97,98)
a厚生省の所管する藤楓協会が昭和27年6月13日に創立された。
藤楓協会の前身は,癩予防協会であった。
b藤楓協会は,昭和27年から平成14年まで,原則として毎年,ハ
ンセン病について正しい知識の普及啓発するための大会を開催してい
た。その際に作成されたパンフレットには,ハンセン病は,遺伝病で
も不治の病でもないことに加え,感染力が大変弱く,発病者の大半
は,乳幼児のときに家庭内感染を受けた者である旨の記載がされてい
た。
c藤楓協会は,当初から啓発資料を作成して配布していた。
厚生省は,藤楓協会の要望により,昭和38年に,貞明皇太后の誕
生日である6月25日を中心とする1週間を「らいを正しく理解する
週間」と定めた。昭和60年に同週間の呼称が「ハンセン病を正しく
理解する週間」に変更された。
藤楓協会は,昭和48年,「らいを正しく理解するために厚生省
公衆衛生局編」と題するリーフレットを作成した。同リーフレットに
は,ハンセン病がらい菌の感染により発病するもので遺伝病ではな
く,伝染力が極めて弱く,感染の機会は限定されていること,特効治
らい薬の効力で完全に治癒するようになったこと,藤楓協会でもレク
リエーション用のバスを各療養所に配置して入所者と社会との交流を
深めていることなどが記載されていた。
藤楓協会は,昭和49年から「藤楓だより」と題するパンフレット
を作成し,「らいを正しく理解する週間」に合わせてポスターととも
に各都道府県及び関係機関に希望数を配布していた。昭和49年に作
成された「藤楓だより」と題するパンフレットには,ハンセン病はら
い菌の感染による伝染病であること,らい菌は伝染力が極めて弱いた
め,ハンセン病に罹患・発病した人々は,抵抗力の弱い幼少の時に同
じ家庭内にらい菌を出している患者がいて,その人から濃厚な感染を
うけた場合がほとんどであること,近代医学の進歩により確実に効く
薬が開発され完全に治癒するようになったこと,早く発見された患者
は必ずしも療養所に入らないで通勤,通学等普通の日常生活を家庭で
行いながら適当な施設で外来治療が受けられるようになったこと,か
つては社会から隔絶されていた療養所の門が開放され,入所者の多く
が各療養所に置かれているレクリエーション用のバスで里帰りなど旅
行を楽しんでいることなどが記載されていた。
d藤楓協会は,昭和42年から昭和57年まで,毎年,療養者作品展
示会を全国各地のデパートで開催し,その展示会場には入所者の制作
した作品を展示するとともに,「らいを正しく理解するために」と題
するパンフレットを置くなどして来場者に対してハンセン病に関する
知識の普及啓発を実施していた。
e藤楓協会は,ハンセン病に関する知識の普及啓発を図るため,昭和
28年,昭和42年,昭和53年,昭和57年及び昭和58年に映画
を制作した。
(ク)新法廃止までの経過(甲18,弁論の全趣旨)
全患協は,昭和38年以降も,その運動方針中に新法改正を掲げて
いたが,次第に運動の重点が患者に対する処遇改善問題へと移行し,
特に,昭和48年以降,入所者に対する処遇改善が進み,運用上,外
出制限等が緩和されてくると,新法改正が実現しても現在採られてい
る福祉的措置が後退するのではないかとの懸念から,全患協の中で
も,新法改正に消極的な考えが現れるようになっていた。
その後,昭和62年3月に所長連盟の新法改正要請書が,また,平成
3年4月に全患協の新法改正要請書がそれぞれ厚生大臣に提出された
が,大きな反響を呼ぶには至らなかった。
しかし,平成6年にいわゆる大谷見解が発表され事態が一変した。す
なわち,いわゆる大谷見解は,新法を廃止し,在園者に対しては今まで
どおりの処遇を保障するというものであったところ,これに対し,全患
協は,入所者らとともに,当初とまどいを見せたものの,平成7年1
月,9項目の要求が充たされることを条件にいわゆる大谷見解を支持す
ることを明らかにした。その後の新法廃止に至る経過の概略は,前提事
実3(7)のとおりである。
エ患者やその家族に対する社会的偏見・差別について
(ア)旧来からの偏見・差別の実相(甲23,弁論の全趣旨)
我が国においては,ハンセン病は,明治時代以前から,差別・偏見・
迫害の対象とされてきたが,第1回国際らい会議(明治30年)におけ
る伝染説確立に至るまで,我が国では,多数の者がハンセン病を遺伝病
であると信じ,これが伝染する病気であるとの認識はなかったか,あっ
たとしても極めて希薄であった。その結果,ハンセン病の伝染に対する
恐怖心に由来する偏見はほとんど存在せず,そのような時代における偏
見・差別は,主として,患者を穢れた者,劣った者あるいは遺伝的疾患
を持つ者と見る考えに由来するものであり,このため,患者のみならず
その家族に対しても偏見・差別が生じていた。
我が国で,医学的知見として伝染説が確立され,伝染説に依拠する
「癩予防ニ関スル件」が制定された後も,社会一般には,ハンセン病
が伝染病であるとの認識はすぐには広がらず,なお遺伝病であると信
じている者も多く,また,実際にも,ハンセン病が次々と伝染する状
況ではなかったことから,社会一般の伝染に対する恐怖心はそれほど
強いものではなかった。
(イ)無らい県運動以降の戦前の差別・偏見について(甲20ないし2
4,弁論の全趣旨)
このような状況は,昭和4年頃から終戦にかけて全国各地で大々的
に行われた無らい県運動による強制収容の徹底・強化により変わっ
た。すなわち,無らい県運動により,極めて広範に患者を探索するこ
とによる強制収容が繰り返され,これに伴い,患者の自宅等が予防着
を着用した保健所職員により徹底的に消毒されるなどしたが,これら
の出来事は,ハンセン病が強烈な伝染力を持つ恐ろしい病気であると
の人々の恐怖心を助長し,患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存
在であり,ことごとく隔離しなければならないという偏見を多くの国
民にもたらし,ひいては患者及びその家族に対する差別を助長した。
(ウ)戦後の偏見・差別について(弁論の全趣旨)
厚生省は,昭和25年頃,すべての患者を入所させる方針を打ち立
て,これに基づき,全患者の収容を前提とした増床を行い,患者を次々
と入所させ,その結果,患者総数のうち入所患者の割合は,昭和30年
頃には9割を超えるに至ったのであった。このような患者の徹底した収
容やこれに伴う患者の自宅の消毒等の施策は,ハンセン病が強烈な伝染
力を持つ恐ろしい病気であり患者は隔離されなければならないとの偏見
を更に助長した。
また,昭和28年制定の新法には,即時強制を含む伝染させるおそれ
がある患者の入所措置(6条),外出制限(15条,28条),従業禁
止(7条),汚染場所の消毒,物件の消毒・廃棄・移動の制限(8条,
9条,18条)等の規定がある反面,退所の規定がない。このような新
法の存在及びその運用は,人々に,ハンセン病が強烈な伝染病であると
誤解を与えるとともに,患者と接触を持ちたくないとの考えを抱かせ
た。
瀬戸内海の孤島等のへき地に置かれた療養所の存在も,新法の存在と
あいまって,人々にハンセン病が恐ろしい特別な伝染病であることを強
く印象付け,偏見・差別の助長に大きな役割を果たした。
(エ)心中事件(乙92,122,123,弁論の全趣旨)
プロミン登場後も,以下のような痛ましい事件が絶えなかった。
a昭和25年9月1日,熊本県で,患者の父を抱えた息子が,将来を
悲観し,父を銃殺した上で自殺するという事件が起こった。
b昭和26年1月29日,山梨県で,患者を抱える家族9人の心中事
件が起こった。この事件は,保健所に患者発見との報告があり,消毒
の準備をしていた矢先の出来事であった。
c昭和56年12月頃,秋田県で,軽い皮膚病をハンセン病と思い込
んだ母親が,2人の子供を絞殺し,自分も自殺を図ったが未遂に終わ
ったという事件が起こった。
d昭和58年1月,香川県で,自分と娘がハンセン病にかかっている
と思いこんだ女性が,娘をガス中毒で死なせ,自分も自殺を図ったが
未遂に終わるという事件が起こった。
(オ)竜田寮児童通学拒否事件(甲76,146,147,乙38,5
0,91の1・2,92,135,弁論の全趣旨)
竜田寮は,国立療養所である菊池恵楓園に設置された保育所(同療養
所の入所者の子である児童を保育する寮)であり,昭和28年度までこ
の寮の児童は一般の小学校(黒髪小学校)への通学が認められていなか
った。当時の菊池恵楓園長であるLが,これについて,同年12月2
日,熊本地方法務局長に対して,憲法26条,教育基本法3条及び新法
3条の教育の機会均等の精神に反すると思料されるなどと申告し,熊本
地方法務局は,人権侵犯事件として調査した。昭和29年2月16日,
法務省人権擁護局第2課長,文部省初等中等教育局初等教育課長及び厚
生省医務局長らが出席して打合せ会を実施し,法務省としては保育所に
いる保育児童は一般の学校に通学させるべきであるとの見解が示され
た。熊本地方法務局は,昭和29年2月17日,熊本市教育委員会に対
して竜田寮の児童の同小学校への通学を認めるように勧告し,同委員会
は,同年3月11日,竜田寮の児童を熊本市内の小学校へ通学させる旨
決定した。ところが,同年4月8日の入学式当日,竜田寮の児童の通学
に反対する立場の一部の保護者が,竜田寮の新1年生4人の通学に反対
して,小学校の校門に立ちふさがり,「らいびょうのこどもといっしょ
にべんきょうせぬよう,しばらくがっこうをやすみましょう」等と書か
れたポスターを貼るなどして,その登校を阻止しようとするという事態
が生じた。そして,この問題は,昭和30年4月に,熊本商科大学長が
里親となって児童を引き取り,そこから通学させるという形で決着する
まで,通学賛成派と通学反対派が激しく対立して紛糾した。
竜田寮の児童の通学を受け入れるか否かについては,黒髪小学校のP
TA内部でも通学賛成派が約34%,通学反対派が約64%,中立の立
場が約2%というように,意見が分かれた。また,この事件は,「全患
協ニュース」に取り上げられた上,昭和29年10月7日及び8日に開
かれた参議院文部委員会において議題として取り上げられた。
なお,竜田寮以外の保育所の児童は,昭和29年当時,既に一般の児
童と共通の教育機関に通学することができていたが,その状況に至るま
でには,一定の時間と曲折を経ており,中には,竜田寮と同様に問題が
生じた保育所もあった。
(3)Aがハンセン病を発症してから死亡するまでの経緯
アAが大阪に転居するまで
(ア)Aは,●年に,Sと結婚して以降,鳥取県東伯郡a町(現在の鳥取
県倉吉市a町)の家(以下「a町の家」という。)で生活し,農業を
していた。(甲3の3,31)
●年●月に●が出生し,●年●月に●が出生し,●年●月に●が出生
し,●年●月に●が出生し,●年●月に●が出生し,●年●月に●が出
生し,●年●月に控訴人が出生した。●は,●年●月に死亡した。(甲
3の3)
●は,●年●月に他家の養子となってa町の家を出て行き,●年●月
に養父の死亡によりその家督を相続し,●年●月に婚姻し,3人の子を
もうけた。(甲3の3,5の2・3,77,乙10)
Aは,昭和21年8月,両手に急激に水疱を形成し,疼痛を認め,そ
の後,次第に,両前腕,手及び下腿の知覚鈍麻並びに指の可動障害が増
強した。Aは,遅くとも同年にはハンセン病を発症していた。(甲42
の1・2,原審Ra証人2頁)
Sは,●年●月に肝臓がんで死亡した。高校を卒業して大阪に出てい
た長男がa町の家に戻ってきて,Sの遺産の大半を相続した。●が●年
●月に●と婚姻し,同年●月に同人との間に●をもうけた。(甲3の
3,4の1,30,31,77,控訴人本人7及び9頁)
Aは,昭和30年夏に,2週間ほど,37度5分から38度程度の発
熱が続いたことがあったが,その発熱の原因がはっきりとしなかったた
め,熱が下がった後に,鳥取県倉吉市にある北岡病院を受診した。同病
院の医師は,Aの顔,肩,足にあらわれていた薄い紅班を診て,Aの疾
患をタムシと診断した。その後,Aの手のひらや指には,水疱ができる
ようになった。(甲31)
(イ)昭和31年頃になると,a町の家の周囲では,Aがハンセン病に罹
患したといううわさが立ち始めた。(甲31,77,控訴人本人11
頁)
●年●月に●とその●との間で離婚調停が成立し,●が●との間の●
の親権者となった。(甲4の1)
倉吉市内の集落の家に嫁ぐため,入籍はしていないものの,同家で生
活していた二女が,その頃,Aがハンセン病に罹患したといううわさが
立ったため,a町の家に戻された。(甲31,66,77)
●は,●年●月に●と婚姻し,同月に●をもうけた。(甲4の1)
控訴人は,a町の家から地元の中学校に通学していたとき,力が強か
ったため「ちから」のあだ名が付けられていた。また,控訴人は,その
当時,同校内で相撲をしていた際に「さばおり」という技を相手にかけ
て,同級生から恐れられていた。(乙96,控訴人本人13頁)
(ウ)Aは,昭和34年までに,手の指が曲がったり,火傷により手の指
先を失ったりしていた。そこで,Aは,昭和34年1月頃,岡山大学医
学部附属病院三朝分院(以下「岡山大学医学部三朝分院」という。)及
び鳥取赤十字病院の皮膚科を受診したところ,Aの症状はハンセン病に
似ていると診断された。(甲31,77,乙10)
Aの家族及び親戚は,この診断を聞いて困惑し,Aの今後について話
し合った。その中で,長男は,Aにハンセン病の菌がある旨主張し,当
時a町役場の保健課長をしていた親族は,Aにハンセン病の菌はない旨
主張し,Aも自分はハンセン病ではない旨主張し,二男は,Aを他の病
院でも診察してもらうべきであるなどと主張した。長男は,Aの面倒を
見ることはできない旨述べて,妻と子を連れて,a町の家から出て行っ
た。二男は,他家の養子になっていたためAの面倒を見ることを拒否
し,三男は家業の農業に向いていないと考えて,四男に対して帰郷を促
す手紙を送ったところ,四男が帰郷せずに三男が帰郷してきた。(甲3
1,77,乙10,53,控訴人本人5ないし9頁)
Aの家族及び親戚は,話し合いの結果,Aを大阪に住んでいるAの妹
(以下「叔母」という。)の家に転居させ,Aに大阪の病院で診察を受
けさせた上で,Aの疾患がハンセン病であると診断された場合には,A
を大阪から療養所に入所させることを決め,三男がそのための手続を担
当することとなった。(甲31,77,乙10,控訴人本人9頁)
Aは,昭和34年3月半ば頃,前記の話合いの結果に従って,大阪の
叔母の家に転居した。その後,Aは,親戚に残っていた不動産を売却し
た(甲31,77,控訴人本人9頁)。
イAが大阪に転居してから鳥取に帰郷するまでの経緯
(ア)Aは,昭和34年4月28日,二男,三男及び四男とともに,阪大
皮膚科別館を訪れて,T医師の診察を受け,ハンセン病に関する検査を
受けた。Aは,当時,両側の尺骨神経及び両側の腓骨神経が肥厚し,両
上腕に大きな発赤が生じ,両上腕,両手及び両下腿に知覚鈍麻が生じ,
両手に火傷などによる水疱が多数形成された状態であった。(甲42の
1・2,77,原審証人Ra2頁)。
その後,T医師は,前記の検査の結果から,Aについてハンセン病を
発症したとの確定診断をしたが,「紅斑性ケロイド,抗酸性菌は検出せ
ず」と記載した診断書を交付した。この診断書の記載により,二男及び
四男は,Aの症状はハンセン病によるものではないと考えた。(甲3
0,88,乙4,10,11)
Aは,昭和34年5月5日に阪大皮膚科別館におけるハンセン病治療
を受け始めてから昭和41年3月24日まで,概ね月1回以上(多い時
は月に10回以上),阪大皮膚科別館で治療を受け,主治医から,原判
決別紙「処方薬一覧表」のとおり薬の処方を受けた。この治療を受けて
いる間に,Aには,顔の発赤,顔,右前腕,右上腕及び左下肢の紅斑並
びに顔面麻痺等の症状があらわれ,そのうち顔面麻痺は後遺症となっ
た。(甲42の1・2)。
(イ)控訴人は,昭和34年5月半ば頃に大阪に行き,それ以降は,叔母
の家でAと一緒に生活し,鳥取県内の地元の中学校から大阪の中学校に
転入した。控訴人は,大阪へ転居するに当たって,二男から,二男の家
で生活して,地元の中学校を卒業するように勧められたが,それに応じ
なかった。(甲31,乙10,11,弁論の全趣旨)
Aは,昭和34年7月,大阪市b区c町の四軒長屋の一軒(以下「c
の家」という。)を45万円で購入し,Aと控訴人はcの家に転居し
た。四男も,自衛隊に入隊するまでの間にcの家でA及び控訴人と同居
したことがあった。(甲31,乙10,11)
A及び控訴人は,●年のお盆に,一時的に,鳥取に帰省した。その
際,同年●月に婚姻し妊娠していた●が,Aの下を訪れた。そして,●
は,A及び控訴人とともに大阪に行き,中絶手術を受け,その後大阪で
生活するようになり,同年●月に離婚し,一時期,cの家でA及び控訴
人と同居していた。(甲3の3,30,31,77,乙10,11)
三男が大阪で自転車屋を開店し,Aがその開店資金を供与した。●
は,●年●月●日に婚姻し,●との間に●をもうけた。(甲6の1・
2,31)
二女が大阪でお好み焼き屋を開店することとなり,Aは,その開店資
金を供与した。二女は,●年に水害のためにお好み焼き屋を廃業し,同
年●月●日に●と再婚し,●をもうけた。(甲7の2,31)
控訴人は,同年3月に,大阪の中学校を卒業すると,大阪の鉄工所で
働き始めたが,約1年で鉄工所を退職し,その後,転職を繰り返した。
(甲31,66)
(ウ)大阪大学医学部附属病院のU医師は,昭和40年2月24日付け
で,大阪府知事に対し,Aが昭和34年4月に「結核様癩」を発症した
旨の記載をした「御届」と題する書面(以下「御届」という。)を提出
した。御届に記載されていたAの住所地が三男の住所地であったため,
大阪府は,Aの住所地を調査していたが,不明であるとして処理され,
結局Aを患者として登録しなかった。(甲8,45,66)。
Aは,前記のとおり,阪大皮膚科別館で治療を受けたが,症状が思
うように改善しなかったことから,その治療方針に疑問を抱くように
なり,昭和41年3月24日以降,阪大皮膚科別館に通院するのを止
めた。その後,Aが阪大皮膚科別館において診察を受けたのは,昭和
42年6月8日及び昭和49年2月4日の2回だけであった。(甲3
1,42の1・2)。
ウAが鳥取に帰郷してから死亡するまでの経緯
(ア)Aは,昭和42年になると,cの家とその敷地を180万円で売却
し,同年春頃,控訴人とともに鳥取のAの実家に帰郷した。(甲31,
66,乙10,11)
その後,Aは,二男から,鳥取県東伯郡d町所在の土地を譲り受けた
上で,二男の協力を得て,その土地上に住居(以下「eの家」とい
う。)を建築し,Aの実家からeの家に移り住んだ。eの家の建設費用
は,cの家及びその敷地の売却代金と親戚から受けた援助によって捻出
された。(甲31,77,乙10)
被控訴人県知事は,昭和42年12月15日,Aに対して,身体障害
者手帳を交付した。(乙58)
(イ)控訴人は,鳥取に帰郷すると,運送会社などで正社員として働いた
こともあったが,昭和45年頃に一人で鳥取県外に出て行き出稼ぎをす
るようになった。(甲30,31,66,乙10,控訴人本人55頁)
控訴人がAと離れて暮らしていたときには,Aが障害のために一人で
風呂には入れないため,二男が自宅の風呂をAに使わせていた。(甲7
7)
(ウ)控訴人の姪及びその夫は,昭和55年6月16日,倉吉保健所を訪
問して,控訴人について相談し,控訴人が1ないし2か月に一度帰郷し
て控訴人の姪らに時を問わず電話を架けてくるし,控訴人の親戚及び兄
弟も手を焼いていて,反抗したら暴力を振るうので皆がいいなりになっ
ており,できれば控訴人を入院させたいなどと述べた。
控訴人の姪が,同年7月9日,同保健所を訪れ,控訴人を措置入院さ
せるように訴えた。その際,控訴人の姪は,同保健所の職員に対し,
「私が結婚した際,控訴人が父親気取りで,『らいの孫として嫁にやり
たくない。』と言い,控訴人は自分がAのハンセン病を治してやったと
思っている。」旨述べた。
同保健所の職員が,同年7月12日,eの家を訪問し,A及び控訴人
と面談をした。その際,Aは,同職員に対して,Aがハンセン病である
といううわさを理由に家を去った長男への恨みを述べるとともに,自分
はハンセン病ではなかった旨述べて,服を脱いでその背中を見せた。
控訴人が,同年7月14日,同保健所に電話を架けて,「同月12日
午後10時頃に控訴人の姪とその夫がeの家に来て,『このくそババ。
死んでしまえ。今度電話してきたら,殺してやる。保健婦に何が分かる
か。』などと言った。」と告げた。これに対し,同保健所の職員は,控
訴人に対し,もう少し冷却期間を置き,控訴人の姪らに電話は絶対せ
ず,二男によく相談することなどを指導した。Aが同月29日午後2時
頃に控訴人の姪方に電話をしたところ,控訴人の姪の夫が対応し,同人
は,同日午後3時頃にeの家に来て,Aに対して叩いたり蹴ったりする
などの暴行を加えた。Aが,同保健所に電話を架けて,同年8月1日に
控訴人の姪の夫から暴行を受けた旨述べると,同保健所の職員は,Aか
ら控訴人の姪らに電話は絶対せず,親類を通して交渉することなどを指
導した。控訴人が,同月6日,同保健所に電話を架けて,「Aの怪我と
控訴人の姪の取った態度について,滋賀県在住の三男なども来て,控訴
人の姪をまじえて話し合ったが,控訴人の姪は全く知らん顔であきれた
態度であった。」と言った。これに対し,同保健所の職員は,控訴人に
対し,控訴人の姪らに電話はせず,どうしても電話をしないといけない
のであれば,二男等を通してするように指導した。(甲78,乙11,
54)
(エ)二男が,昭和57年12月2日,倉吉保健所を訪問して,Aを老人
ホームに入所させたいが,控訴人が反対するので困っている旨述べた。
同保健所の職員が,昭和58年2月3日,eの家を訪問し,控訴人及び
Aと面談をした。その際,控訴人は,同職員に対して,Aがハンセン病
であるとうわさされて大阪に逃れてからの経過を話し,Aを老人ホーム
に入所させると,親類及び兄弟がAをますます見放してしまうなどと訴
え,Aがハンセン病に罹患していなかったことを強調した。Aは,同職
員に対し,老人ホームに入所したいと言ったのは炊事が大儀になり,控
訴人とその兄弟がいがみ合うのを聞きたくないからであるが,今しばら
くはこのままeの家に居たい旨述べた。(甲78,乙54)。
控訴人は,その当時から,医学書を読むなどしてハンセン病について
かなり学習していた。(甲78,乙54)
(オ)Aは,昭和58年当時,障害基礎年金として月額3万7700円を
受領しており,昭和61年には,障害基礎年金として年額77万850
0円を受領していた。(乙39,58)
Aは,昭和58年7月18日当時,eの家で一人暮らしをしていた
が,両手が不自由になっていた上,左目が見えず,右目も少し不自由に
なっており,一人での生活に不安を覚えていたことから,同日付けで,
養護老人ホーム鳥取県立母来寮(母来寮)への入所を申請した。この申
請は,二男が中心となって進めたものであり,Aの身元引受人も二男と
なっていた。(乙10,16,57)
Aは,昭和58年12月14日に,脳梗塞を発症し,森本外科・脳神
経外科医院(以下「森本外科医院」という。)に入院した。Aの脳梗塞
は,その後1か月程度でほとんど軽快し,Aは,森本外科医院を退院し
たものの,脳梗塞の後遺症として右不全麻痺が残った。そのため,A
は,一人で生活することがより困難となった。(乙10,57)
森本外科医院のV医師は,昭和59年1月23日付け健康診断書にお
いて,Aの疾患を「多発性関節リウマチ」及び「脳梗塞(右不全マ
ヒ)」と記載し,Aの指が熱傷により短縮している旨指摘していた。
(乙57)
(カ)被控訴人県中部福祉事務所長は,昭和59年1月31日付けで,身
体的及び経済的理由により,居宅において養護を受けることが困難と認
められることを理由に,老人福祉法11条1項に基づいて,Aを同年2
月1日より母来寮に入所させる措置を開始することを決定し,Aは,同
日から,母来寮に入所した。Aは,被控訴人県から,母来寮の入所費用
のうち9万2737円を支弁されることになったため,入所費用のうち
Aが負担する額は3000円にすぎなかった。(乙10,13の2,5
7,58)
昭和42年5月から昭和48年3月まで被控訴人県のハンセン病予防
事務の担当官であったWは,Aの入所当時,次長として母来寮に勤務し
ていたが,Aがハンセン病に罹患しているとは認識していなかった。A
は,母来寮入所後,様々な医療機関(福島整形外科,清水病院,垣田病
院,増田耳鼻科医院,上原整形外科医院等)を多数回にわたって受診し
ているが,受診した医療機関でハンセン病についての指摘を受けたこと
はなかった。母来寮の職員は,母来寮におけるAに関する出来事を,母
来寮入所記録に記録していたが,同記録には,Aがハンセン病に罹患し
ていることを窺わせる記載はない。(乙13の1,37,弁論の全趣
旨)
Aは,性格的に気性が激しく,勝ち気で,プライドが高かったため,
他の入所者とトラブルになることが多く,時には叩き合ったり,とっく
みあいのけんかになることもあった。平成2年8月21日には,二男と
思しき息子(以下「Aの息子」という。)が母来寮を訪れ,職員に対
し,Aについて,若い頃から頑固で通して暮らしており,母来寮にも大
変に迷惑をかけていることはよく知っており,入所以前から他人のこと
など考えることなくわがままであり,親子関係が非常に悪い旨述べた。
(乙13の1,15,58)
母来寮の入所者が,Aの指の状態を見て,「マンゴー」と発言したこ
とがあった。(甲77,乙15)
二男は,平成元年8月23日,母来寮の職員に対して電話を掛け,為
替によって148万円をA宛に送金したので,当該148万円をA名義
の預金にして欲しい旨連絡した。(乙13の1)
(キ)控訴人は,平成3年9月18日に,二男とともに倉吉保健所を訪
れ,職員に対し,Aが,昭和34年頃にハンセン病らしき病気に罹患し
たことについて,遺伝的なものの心配があるかどうかということ,A及
び控訴人が医療費として多額の負担を強いられたことや控訴人の兄姉が
Aの面倒を見なかったことなどを相談した。これに対し,職員は,遺伝
の心配はなく,体質についてはどの病気にもいえることであり,昔のこ
とを言い争って苦しむより今後のことを考えて話し合うべきである旨述
べた。(甲31,乙2の1,3)
控訴人は,平成3年9月26日に,A及び二男とともに倉吉保健所
を訪れ,職員に対し,Aの状態を見せ,同月18日のときと同様の相
談をした。これに対し,同職員は,Aが元気で生活している現在,兄
弟で過去のことをとやかく争うのはおかしく,これからに向けて兄弟
間で助け合って話し合うべきである旨述べた。この際,Aは,同職員
に対し,自分がリュウマチに罹患している旨述べた。(甲31,乙2
の2,3)。
(ク)Aは,平成5年3月18日頃になると,入浴・着脱衣に全介助を要
するようになっていただけでなく,膝関節痛により歩行に支障が生じて
きたことから,母来寮での処遇が困難となった。そこで,被控訴人県の
中部福祉事務所長は,同日以降,Aに対する老人福祉法11条1項に基
づく措置を,母来寮に入所させるというものから,特別養護老人ホーム
鳥取県立巌城はごろも苑(以下「巌城はごろも苑」という。)に入所さ
せるというものに変更するとともに,措置費として支弁される金額を2
0万3729円に増額する決定をし,Aは,同日,母来寮から巌城はご
ろも苑へ転寮した。(乙13の1,58)
控訴人は,平成5年5月頃,当時勤めていた会社を退職し,鳥取に帰
郷した。控訴人が退職した頃に同社から受け取っていた月給は概ね55
万円を超えており,同年当時の控訴人の預貯金の残高は2000万円程
度であった。(甲31,43,66,乙10,11,弁論の全趣旨)
Aは,●年●月●日に死亡した。
(4)Aの死亡から控訴人が本訴を提起するまでの経緯
ア二男は,平成6年4月22日,倉吉保健所を訪れ,控訴人が暴力的であ
るとして,控訴人の精神病院への入院について相談した。同保健所の職員
は,同日のうちにeの家で控訴人と面談した。その際,控訴人は,Aの昭
和30年代の診断書と昭和50年頃のぼろぼろになった医学書を持ち出し
て,「母がらいであれば良かった。」などと発言した。同職員は,控訴人
がハンセン病について異様なほど知識を持っているが,それ以外には特に
変わった発言又は言動などが見られないと判断した。(乙3,10,5
3)
控訴人は,二男とともに,平成7年6月9日及び同年7月3日に倉吉保
健所を訪れて,控訴人の兄弟がAの世話を控訴人に押しつけておきなが
ら,その苦労を認めてくれないことへの不満を述べ,保健所もAの家族に
指導してほしかったなどと述べた。(乙3,53)
倉吉保健所の職員は,平成7年7月17日,控訴人と二男の依頼に基づ
いてeの家を訪れ,前記両名と面談をした。その際,控訴人は,大阪大学
の医師作成の手紙を見せながら,「母の病気はハンセン病でなかったの
に,ひどく偏見の目で見られた。こんなことが二度と繰り返されてはいけ
ない。」などと発言しており,少なくとも同日の時点までは,Aがハンセ
ン病に罹患したことがないのに,ハンセン病であると疑われたなどと考え
ていた。(乙3,53)。
平成8年3月31日に新法が廃止された。(顕著な事実)
控訴人は,平成8年4月上旬頃以降,何度も,被控訴人県福祉保健部健
康対策課(以下「県健康対策課」という。)に電話を架け,同年6月19
日には被控訴人県の本庁相談室で職員から事情を聞かれた。その中で,控
訴人は,Aが岡山大学三朝分院及び鳥取赤十字病院で菌が検出されないも
のの症状からハンセン病と診断されたのに在宅医療となって,控訴人だけ
がAの世話をし,その苦労を家族が理解しないことへの不満を述べるとと
もに,新法が周知されて医師,a町保健課及び家族の対応が適正であれ
ば,Aは国立療養所に入所することができてより幸せであったなどと述べ
た。(乙4)
控訴人は,平成8年5月頃,しつこく国立療養所である邑久光明園に行
って話をするので,同園の医師から国立鳥取療養所精神科を紹介され,控
訴人を診察した同科の医師から精神病ではないとの判断を受けた。(乙
3,53)
控訴人は,平成8年10月10日付けで,大阪府の保健予防課に対し,
Aのハンセン病について大阪府に対する報告があったか否かなどを照会し
た。同課の担当者は,同月28日付けで,書面で,大阪府に対する報告は
確認できなかったなどと回答した。(甲17)
控訴人は,平成9年8月11日,倉吉保健所を訪れ,Aの診療状況につ
いて,鳥取赤十字病院の外来で症状はハンセン病と診断されたなどと説明
し,平成元年又は同2年に保健所へAと控訴人の兄姉の仲について相談す
るとともにハンセン病治療施設を紹介してほしいと話したが,相手にされ
なかったと述べるとともに,控訴人が大変な状況にあり,昭和34年当時
適正な対応がされていればAが国立療養所で治療を受けられたはずである
ことを,二男に理解させるように求めた。同保健所の職員は,平成9年8
月12日,来所した二男に対し,控訴人の言い分を伝えるとともに,ハン
セン病等について説明し,二男は,ハンセン病については医師等に会った
りしており,大体のことは理解している旨述べた。(乙3,53)
控訴人が,平成9年10月20日頃,大阪皮膚病研究会理事長に対し
て,Aの診療録写しの送付を請求したところ,まもなく,同理事長は,控
訴人に対して,Aの診療録の写しを送付した。(甲31,41)
イ入所者は,平成10年7月,熊本地方裁判所に,「らい予防法」違憲国
家賠償請求訴訟を提起した。(甲120,当審Rb証人3頁)
控訴人は,同年後半以降に,ハンセン病の資料を入手するなどして,被
控訴人国が国際的な批判に耳を貸さずに隔離政策を推進していたものであ
ると認識した。(弁論の全趣旨)
控訴人が,平成11年頃,前記訴訟の原告ら代理人となっている弁護士
に対し,Aが国立療養所に収容されなかったためにAと控訴人が大変に苦
労してきており,Aを国立療養所に収容しなかったことの責任を問いたい
と思っているので,前記訴訟に参加できるかという趣旨の問い合わせをし
た。これに対し,同弁護士は,控訴人が前記訴訟の原告にはなれない旨回
答した。(甲156,当審Rb証人22ないし25頁)
ウ控訴人は,平成11年,被控訴人県の職員に対し,ハンセン病の治療に
は健康保険が使えなかったなどと述べるとともに,被控訴人県がAを患者
であると認識していたのか否か及びAに対してどのような対応をしようと
していたのかについて調査するように求めた。これに対し,職員は,書類
がなく確認できないなどと答えていた。県健康対策課の職員が,控訴人か
ら大阪府に対してAがハンセン病である旨の届出がされている旨指摘され
て,大阪府に対して届出の有無を照会し,大阪府から該当なしとの回答を
得たこともあった。(甲31,乙3,19,20)
控訴人は,平成12年以降,厚生省から出向してきた県健康対策課長に
対し,控訴人の兄姉達がハンセン病であったAを阪大病院で再び受診させ
ることを勝手に決め,Aの世話など面倒なことをすべて控訴人に押し付
け,ハンセン病の治療には保険が使えず,経済的な負担が大きかったなど
と述べた。控訴人は,同課長に対し,被控訴人県がAを国立療養所に収容
させなかったことを非難することもあったが,同課長は,被控訴人県とし
てはAがハンセン病である旨の届出がされていなかったのでどうしようも
なかった旨述べた。同課長は,控訴人の話を聞く中で,医師免許の保有者
である自分よりも控訴人の方がハンセン病に関しては優れた知識を持って
いると認識した。(乙20)
大阪府の担当者は,平成12年7月31日,控訴人に対して,御届が発
見された旨の連絡をした。これにより,被控訴人県は,初めて御届の存在
を認識するに至った。(甲31,乙3,19,20)
県健康対策課,倉吉保健所及びf町の担当者は,控訴人の気持ちを聞い
て二男に伝えるために,平成12年12月4日に倉吉保健所において控訴
人と協議した。その結果,県健康対策課の課長補佐が,同月18日,二男
に対し,控訴人の心情を伝える文書を作成して送付した。(乙3,20)
その後も,控訴人は,被控訴人県に対し,苦情を述べ続けた。控訴人
は,被控訴人県においてAがハンセン病に罹患していたことを調査するの
に10年もかかったなどとの苦情も言うようになった。(乙19,20)
エ熊本地方裁判所は,平成13年5月11日,国会議員が平成8年まで新
法を廃止しなかったこと及び厚生大臣が隔離政策を実施していたことは,
国家賠償法上違法と評価されるべきであり,被控訴人国は,入所者に対し
て,国家賠償法に基づく損害賠償債務を負う旨の判決(以下「熊本判決」
という。)を言い渡した。そして,この判決の内容は,翌日には新聞によ
って全国的に報道された。(甲9,乙52の1~6・8)
被控訴人国は,平成13年5月23日,熊本判決に対する控訴を断念
し,このことは,翌日には新聞によって全国的に報道された。(乙52の
1ないし8)
控訴人は,熊本判決をマスコミ報道で知って,同月23日,県健康対策
課に電話をかけて担当者に対し,「ハンセン病訴訟に関し,政府が控訴を
断念したようだ。」と発言した。(乙3,弁論の全趣旨)
平成13年6月22日にハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支
給等に関する法律(以下「ハンセン病補償法」という。)が公布され,即
日施行された。(顕著な事実)
同日,非入所者が,初めて,「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を提
起した。(甲134,当審Rb証人5頁)
被控訴人国は,平成13年7月23日,ハンセン病違憲国賠訴訟全国原
告団協議会(以下「全国原告団協議会」という。)との間で,入所者に対し
て和解一時金を支払うことなどを内容とする基本合意書(基本合意書Ⅰ)
を取り交わした。(甲93,乙22)
オ熊本地方裁判所は,平成13年7月27日,「らい予防法」違憲国家賠
償請求事件について和解に関する所見を示した。同所見において,入所歴
のない患者の原告(以下「入所歴のない原告」という。)について,熊本
判決に従えば,国家賠償請求権を有すると解すべきである旨示された。
(甲10)
被控訴人国は,前記所見で示された,国立療養所に入所していたが,提
訴前に死亡している患者であった者の相続人である原告(以下「遺族原
告」という。)及び入所歴のない原告からの提訴への対応について検討
し,平成13年9月12日,同裁判所に対し,前記原告らについて判決を
求める旨記載された意見書を提出した。同意見書には,熊本判決において
直接に判断されていない部分であること,どのような共通損害が認められ
るのかが不明であること,ハンセン病補償法の対象にもされていないこと
などの事情にかんがみ,話合いにより解決することは難しい旨記載されて
いた。(甲136の1・2)
被控訴人国は,熊本地方裁判所に提出した平成13年12月7日付けの
準備書面において,国立療養所に入所したことのある患者が有する損害賠
償請求権について,特段の事情がない限り,慰謝料請求権を含めて相続の
対象となること自体は争わないが,本件訴訟における被相続人と熊本判決
における原告らとの間に共通損害を認めることが困難である旨主張した。
(乙100,当審Rb証人12頁)
同裁判所は,平成13年12月7日,当該事件について,弁論を終結
し,和解に関する所見を示した。同所見において,入所歴のない原告も被
控訴人国に対し国家賠償請求権を有すると解され,入所歴のない原告は,
社会の中で生活を送っただけにより一層ハンセン病に対する偏見により
様々な差別的取扱いを受け,抗ハンセン病薬が保険診療で正規に使用でき
る医薬品に含まれていなかったなどの制度的欠陥によりハンセン病の治療
を受けられる医療機関が極めて限られていたため,入所者とは異なり,医
療を受けることすらままならず,ハンセン病の罹患を隠して社会生活を送
らざるを得なかったことなどにより極めて深刻な被害を共通して受けたこ
とが認められ,入所歴のない原告の和解金額は,発症時期が昭和37年1
2月31日までの場合は700万円,発症持期が昭和38年1月1日以降
昭和47年12月31日までの場合は600万円,発症時期が昭和48年
1月1日以降の場合は500万円とするのが相当である旨記載されてい
た。(甲11,当審Rb証人13頁)
坂口力厚生労働大臣(当時)は,平成13年12月11日,閣議後の記
者会見において,同月7日に同裁判所から示された和解所見への対応につ
いて質問されて,被控訴人国としてどう対応するかをまだ決めておらず,
死亡した入所者の遺族に対してどこまで補償するのか,また補償する必要
があるのかについてもう少し議論する必要があり,非入所者が受けた差別
及び偏見について被控訴人国の責任がどれくらいあるのかということもも
う少し整理する必要があるなどと述べた。(甲96)
同裁判所は,同月18日,更に和解に関する所見を示し,入所歴のない
原告の発症時期の認定は,原則として医療機関においてハンセン病罹患と
診断された時と解される旨記載されていたほか,入所歴のない原告の慰謝
料額の算定根拠について示した。(甲12,当審Rb証人15頁)
被控訴人国は,同月26日,条件付きで和解の席に着くことを発表し,
同月27日に同裁判所に回答することとした。(甲135の2)
ハンセン病国賠訴訟全国原告団協議会(以下「全国原告団協議会」とい
う。),ハンセン病国賠訴訟遺族・非入所原告団及びハンセン病国賠訴訟
全国弁護団連絡会は,同月26日,声明を発表した。その声明の中では,
厚生労働大臣が,同日,遺族原告及び入所歴のない原告のハンセン病国家
賠償請求訴訟に関し,原告側が弁護士費用及び遅延損害金の請求を放棄す
ることを条件として同月7日付け同裁判所の和解勧告を受諾する意向を表
明し,同月27日以降,同勧告に従って具体的な和解が実現していくこと
になる旨記載されていたほか,被控訴人国は,熊本判決確定後も,遺族原
告及び入所歴のない原告については共通損害が明らかでないとの理由で和
解を拒み続けてきたが,今回の和解受諾により,遺族原告が被相続人たる
患者の損害賠償請求権を相続により承継し,入所歴のない原告も入所者と
同様に絶対隔離政策の被害者であることが司法上明確になった旨記載され
ていた。(乙102)
被控訴人国は,同月27日に同裁判所において実施された和解期日にお
いて,和解に応じる意向を示し,入所歴のない原告については,主とし
て,合理的理由のなくなった新法を廃止しなかったために,国立療養所に
入所させて治療を行うという政策の結果として,入所せずに治療を受ける
ことが容易ではなかったことに基づく損害を認める旨述べるなどした。
(甲135の1・2,当審Rb証人17頁)
被控訴人国は,平成14年1月28日,全国原告団協議会との間で,被
控訴人国が,提訴前に死亡した患者の遺族及び非入所者に対して,和解一
時金を支払うことなどを内容とする基本合意書(基本合意書Ⅱ)を取り交
わし,その趣旨の合意をした。基本合意書Ⅱの内容は,別紙記載のとおり
である。基本合意書Ⅱにおいては,被控訴人国が遺族原告及び入所歴のな
い原告に対して損害の賠償等として平成13年12月7日に熊本地方裁判
所が示した和解に関する所見を踏まえて和解一時金を支払う等とされてお
り,前記和解一時金は,相続性のある損害賠償請求権としての法的性質を
有するものであるが,非入所者の遺族が国を被告として国家賠償請求訴訟
を提起した場合の規定は設けられなかった。基本合意書Ⅱが締結された当
時,「らい予防法」違憲国家賠償請求事件の原告らの中に非入所者はごく
僅かしかおらず,非入所者の遺族はいなかった。(甲13,94,12
0,当審Rb証人18及び36頁,弁論の全趣旨)
基本合意書Ⅱに係る合意の事実は,平成14年1月29日に,新聞によ
り全国的に報道された。その中では,基本合意書Ⅱが被控訴人国の法的責
任に基づく謝罪と損害賠償としての和解金支払いを盛り込んでいる旨報道
されていた。(乙17,18,56の1ないし5)
平成14年1月30日に熊本地方裁判所で「らい予防法」違憲国家賠償
請求事件の和解期日が実施され,基本合意書Ⅱに基づいて,一部の遺族原
告及び入所歴のない原告と被控訴人国との間で和解が成立した。ハンセン
病国賠訴訟西日本弁護団の一員である吉田哲也弁護士は,ハンセン病国賠
訴訟を支援する関西連絡会の作成した「支援する会ニュース」と題する書
面において,同日の和解は,被控訴人国が遺族原告及び入所歴のない原告
の受けてきた被害についてもその法的責任を認め,賠償義務のあることを
確認するものである旨述べた。(乙101,当審Rb証人30及び31頁)
カ被控訴人県の関係部署は,平成14年11月29日,控訴人の対応につ
いて協議し,県健康対策課のX課長補佐が控訴人の要求どおりにならない
ことを知らせ,控訴人を怒る役割を担い,控訴人から「われ,やったる」
などと大声で怒鳴られもしていた。また,倉吉保健所は,平成15年4月
16日,控訴人が同保健所に毎日のように来訪して業務に支障をきたして
いたため,一定時間対応した後で引き取ってもらうように求める方針で控
訴人と対応することを決定した。(甲31,乙3,19,20)
県健康対策課の職員は,控訴人が,Aのハンセン病の治療に保険が使え
なかった旨の苦情を述べた場合には,訴訟を提起してもらうしかない旨述
べていた。(乙19,20)
控訴人は,平成15年7月22日,県健康対策課へ来て,Aの治療に保
険が使えなかったなどと話した。これに対し,同課長は,「お金のことを
言うなら,訴訟を起こしてください。一体貴方は何を要求しているのです
か。」と言うと,控訴人は,無言になった。(乙3,19,20)
控訴人は,その頃までの間に,近藤剛弁護士によく電話を架け,被控訴
人県の職員に述べていたことと同様の話をしていた。同弁護士は,ハンセ
ン病国賠訴訟の弁護団の一員であった。(控訴人本人89,96及び97
頁,弁論の全趣旨)
キ控訴人は,平成15年7月24日午後5時30分頃,鳥取県立県民文化
会館において,同会館での会合を終えたX課長補佐と会い,被控訴人県の
対応がなっておらず,Aの面倒を自分一人で見させられたなどと話し,一
方的で際限のない不満話に見切りを付けた同補佐が話を打ち切って帰りか
けたため,同日午後6時5分頃,同補佐の態度に憤激して,同補佐の背後
から所携の腰鉈で同補佐の頭部を数回にわたり切りつけ,殺人未遂等の被
疑者として現行犯逮捕された(以下,控訴人の敢行した殺人未遂等の犯行
に係る刑事事件を「別件刑事事件」という。)。(甲31,乙19ないし
21)
鳥取地方裁判所は,平成15年10月10日,別件刑事事件について,
控訴人に対して,殺人未遂等により懲役4年に処する旨の判決を言い渡し
た。(甲31,乙3,19,20)
同判決に対して控訴人から控訴があり,近藤剛弁護士及び井上雅雄弁護
士が控訴人の私選弁護人となった。控訴人は,前記各弁護士から,隔離政
策の違法性について論理的,かつ,明確な説明を受けた。広島高等裁判所
松江支部は,平成16年7月26日,控訴人に対して,殺人未遂等により
懲役3年に処する旨の判決を言い渡した。同判決は,同年8月10日に確
定した。(乙21,控訴人本人97頁,弁論の全趣旨)
控訴人は,平成18年9月16日に満期出所した。(甲31)
控訴人が,平成22年4月19日,本件訴えを提起した。原審において
は,近藤剛弁護士,井上雅雄弁護士及び神谷誠人弁護士が控訴人の訴訟代
理人となった。これまで,非入所者の遺族が,隔離政策の違法性を主張し
て,非入所者の被控訴人国又は都道府県に対する損害賠償請求権を相続し
たとして国家賠償請求訴訟を提起したことはなかった。(顕著な事実,弁
論の全趣旨)
(5)本訴提起後の出来事
ア被控訴人らが,控訴人に対し,控訴人の被控訴人らに対する国家賠償法
に基づく損害賠償請求権について消滅時効を援用するとともに,被控訴人
国が,裁判所及び控訴人に対し,基本合意書Ⅱの内容に沿って控訴人との
間で和解を行う意思があることを示し,当審においても同様の意向を示し
た。(顕著な事実,弁論の全趣旨)
イ被控訴人国は,基本合意書Ⅱの成立時期から3年以上経過した時期に提
訴した非入所者及び遺族原告に対して,基本合意書Ⅱに基づき,和解に応
じている。(甲137の2,弁論の全趣旨)
被控訴人国は,平成28年11月4日,東京地方裁判所において,基本
合意書Ⅱの成立時期から3年以上経過した時期に提訴した非入所者の遺族
に対して,基本合意書Ⅱに準じて,和解に応じている。(甲137の1,
弁論の全趣旨)
2Aないし控訴人に関する認定事実の補足説明
(1)控訴人は,前記1(3)ア(イ)の認定に関し,長男が最初の妻と離婚したの
は,Aがハンセン病に罹患したことがうわさになったことが原因である旨主
張し,控訴人本人からの陳述録取書(甲31,66)にもこれと同趣旨の記
載があり,Y作成の意見書(甲119の1。以下「Y意見書」という。)に
もこれと同趣旨の記載がある。
しかしながら,二男は,控訴人訴訟代理人に対し,長男の最初の妻がAか
ら叱られることが多く,その際に長男が庇ってくれず,これが離婚の原因に
なったと想像している旨供述しているところ(甲77),二男は,控訴人訴
訟代人に対して,二女が倉吉市内からa町の家に戻された原因がAがハンセ
ン病にかかったとのうわさにあることを認めており(甲77),二男が長男
の離婚の原因について虚偽の供述をする動機が窺われない。前記認定のとお
り,Aの息子が,母来寮の職員に対し,Aが若い頃から頑固で通して暮らし
ており,他人のことなど考えることなくわがままであり,親子関係が非常に
悪いなどと述べており(前記1(3)ウ(カ)),これによれば,Aと長男の最初
の妻との折り合いの悪さが離婚の原因になることも何ら不自然ではないとい
える。したがって,長男が最初の妻と離婚した少なくとも主たる原因が前記
うわさであったとは認められず,控訴人の前記主張等は採用できない。
(2)控訴人は,前記1(3)ア(ウ)の認定に関し,原審本人尋問において,鳥取
赤十字病院の皮膚科の担当医がAの疾病をハンセン病と診断して,その旨記
載された診断書を作成した旨供述し,控訴人本人からの陳述録取書(甲3
1,66)において,Aが昭和34年1月頃に岡山大学医学部三朝分院に検
査入院した後,鳥取赤十字病院の皮膚科で受診して,ハンセン病と診断さ
れ,その旨記載された診断書を書いてもらい,その後,保健婦が毎日のよう
にa町の家に訪れてAに鳥取大学病院で受診するように指導し,Aの様子を
見に来た保健所長が,前記の役場の課長をしていた親族に対し,Aの病状が
悪いので,早く療養所に連れて行くように勧めた旨供述し,Y意見書(甲1
19の1)にもこれと同趣旨の記載がある。
しかしながら,まず,Aが岡山大学医学部三朝分院及び鳥取赤十字病院で
受診した後で,Aの家族及び親戚が集まって話し合った際にAの病状に対す
る言い分が対立していたのであり(前記1(3)ア(ウ)),Aについてハンセン
病と診断されて,その旨記載された診断書が作成されたのであれば,Aの家
族及び親戚の中でAの病状に関する言い分が対立することは不自然である。
また,被控訴人県は,当時,医師に対して,患者(疑いも含む。)を診察し
た場合には,封書で被控訴人県知事にその旨を通知することを求めていたの
であるから(前記1(2)ウ(ア)a(c),同b,乙33・8頁),鳥取赤十字病院
の皮膚科の担当医が,Aの疾病をハンセン病であると診断したのであれば,
同医師の通知がなされるはずであるが,その旨の通知があったと認めるに足
りる証拠はない。さらに,被控訴人県においては,昭和28年に新法が制定
された後,ハンセン病予防事務について,保健所長に権限が委任されたこと
はなく,市町村に対して事務的援助その他の関与を行わせたこともなく(前
記1(2)ウ(ア)a(c),同b),現に,a町の元保健婦も,平成8年10月14
日に倉吉保健所の職員に対し,昭和35年頃にa町の家のあった地域でハン
セン病予防事務に関与したことはない旨述べており(乙53),保健婦及び
保健所長から入所勧奨があった旨の控訴人の前記供述は被控訴人県の当時の
執務態勢と整合していないし,a町の元保健婦の供述とも相反している。し
たがって,控訴人の前記供述等は採用できない。
(3)ア控訴人は,前記1(3)イ(ア)の認定に関し,T医師が,Aに対し,「紅
斑性ケロイド,抗酸性菌は検出せず」と記載した診断書を交付した事実は
なく,仮にかかる診断書が作成されたとしても,それは対外的方便のため
であって,二男,三男及び四男は,Aがハンセン病であるとのほぼ確信に
近い認識を有しており,これに反する二男の警察官調書(乙10)及び四
男作成の陳述書(乙11)は信用できないし,四男作成の陳述書のうち,
Aの病気の認識に関する供述部分は,信用性の高い四男の警察官調書(甲
157)と矛盾しているなどと主張し,Y作成の意見書(甲119の1)
にもこれと同趣旨の記載がある。
しかしながら,まず,診断書作成の有無について検討するに,控訴人
も,被控訴人県の職員に対し,阪大皮膚科別館の医師が作成した診断書に
は「紅斑性ケロイド,抗酸性菌は検出せず」と記載されていた旨述べ(乙
4),平成18年12月にYらからライフストーリーの聞き取りを受けた
際に,T医師が「紅斑性ケロイド」と記載された診断書を交付した旨述べ
(甲30),京都大学でハンセン病の治療をしていた医師である原審Ra
証人も,患者から診断書を求められたときにその目的を十分に聞いて,秘
密保持のためにハンセン病と分かる病名を診断書に記載しないことがあっ
た旨述べており(甲88,原審Ra証人31頁),ハンセン病の治療にあ
たる専門医が患者の秘密保持のために診断書にハンセン病と分かる病名を
記載しないこともままあったと認められることに照らせば,Aを診察した
T医師が「紅斑性ケロイド,抗酸性菌は検出せず」と記載した診断書を作
成した事実が認められる。
次にAの家族の認識について検討するに,前記診断書を翻訳してもらっ
てAがハンセン病ではないと思ったなどとする四男作成の陳述書(乙1
1)の記載は不自然なものではないといえる。また,二男が診察結果をA
らに確認して,「らいの菌はないという診察だった」と聞いて,Aの病気
がハンセン病ではないと思ったなどとする二男の警察官調書(乙10)記
載も,T医師が前記のような診断書を作成したという事実と整合するもの
である。さらに,二男の警察官調書(乙10)及び四男作成の陳述書(乙
11)が作成された時点では,Aがハンセン病であったことは警察官や被
控訴人らに既に明らかになっていたのであるから,二男及び四男がAのハ
ンセン病を認識した時期についてあえて虚偽の事実を供述する理由がな
い。加えて,原審Ra証人も,秘密保持のためにハンセン病と分かる病名
の記載されていなかった診断書が患者の周囲の人間が持つハンセン病との
疑いを否定する役割を果たした旨証言し,また二男及び四男が診断書の記
載からAの病名を誤解した可能性がある旨証言している(原審Ra証人2
2及び32頁)。よって,Aがハンセン病ではないと思っていたとする二
男及び四男の前記各陳述書の記載は信用できるものであり,この点に関す
る控訴人の主張等は採用できない。
なお,四男の警察官調書(甲157)には,四男がいつからAのハンセ
ン病の罹患を認識したかについては明確には記載されていない。しかし,
四男の陳述書(乙11)では,昭和34年頃にAのハンセン病の罹患を認
識していなかった理由について,T医師作成の診断書の記載内容を踏まえ
て具体的に供述されている。したがって,四男の警察官調書(甲157)
にある前記供述部分は,四男の陳述書(乙11)にあるAの病気の認識に
関する供述部分の信用性を左右するものではないといえる。
イ被控訴人らは,四男の警察官調書(甲157)及びこれに基づく主張が
記載されている控訴人第3準備書面(以下,これらの攻撃防御方法を「本
件各攻撃防御方法」という。)が時機に後れた攻撃防御方法に該当するか
ら却下されるべきである旨指摘する。確かに,民事訴訟における文書送付
嘱託又は刑事確定訴訟記録法による閲覧などの制度を利用することによ
り,刑事記録の証拠の複製等を民事訴訟における証拠として使用すること
は可能ではある。しかし,弁論の全趣旨によれば,四男の陳述書写しが控
訴人訴訟代理人に送付されたのは,平成24年5月15日であって,同日
の時点では別件刑事事件の裁判書以外の保管記録について刑事確定訴訟記
録法2条2項により規定された保管期間である5年が経過していたため,
控訴人訴訟代理人において四男の警察官調書がすでに廃棄されていて,前
記諸制度を利用して四男の警察官調書の複製等を入手できないものと考え
たと認められる。控訴人訴訟代理人において,民事訴訟における文書送付
嘱託又は刑事確定訴訟記録法による閲覧などの制度を利用して,四男の警
察官調書の複製等を入手できないと考え,本件各攻撃防御方法の提出が後
れたことについて重大な過失があるとまではいえない。よって,被控訴人
らの前記指摘は採用し難い。
(4)控訴人は,前記1(3)ア(イ)及びイ(イ)の認定に関し,昭和30年代前半に
Aがハンセン病であることが周囲に知られるようになり,控訴人が鳥取県内
の中学校内で差別にさらされ,修学旅行で大阪に来たいとこの宿泊先に会い
に行った際に同校の同級生からものすごい形相と迫力で囲まれたなどと主張
し,原審本人尋問等において,これと同趣旨の供述をし,Y意見書(甲11
9の1)にもこれと同趣旨の記載がある。
しかしながら,控訴人は,同校において,相撲をした際に「さばおり」と
いう技をかけて暴力的な態度をとったことによって,同級生から恐れられて
いたことが認められるから(前記1(3)ア(イ)),仮に,控訴人が,同校の同
級生などの関係者から不利益な取扱いを受けたことがあったとしても,その
原因は控訴人の暴力的な態度にあった可能性が否定できない。したがって,
控訴人が,同校の同級生などの関係者から,Aがハンセン病であったことを
理由として不利益な取扱いを受けたとは認められず,控訴人の前記主張等は
採用できない。
この点,控訴人は,控訴人が相撲で「さばおり」という技を使ったことを
もって暴力的な態度をとったとは認定できないし,控訴人が暴力的な態度を
とって生徒間で恐れられていれば,控訴人を取り囲んでにらみつけるような
挑発的な態度を取るはずがない旨指摘する。しかし,学校体育実技「武道」
指導資料(乙96)によれば,「さばおり」という技は小中学校競技規程上
の禁止技である旨記載され,その技の態様から見て腰と膝に大きな負担がか
かる危険なものであると推認され,こうした危険な技を用いることは周囲の
人間に恐怖の念を抱かせる暴力的な態度であるといえる。また,控訴人自身
も,原審本人尋問において,土俵の真ん中で「さばおり」という技を用いて
皆から怖がられた旨供述しており(控訴人本人13頁),控訴人のかかる供
述から,控訴人がその暴力的な態度で同級生から恐れられていたと認められ
る。したがって,控訴人の前記指摘は採用できない。
(5)控訴人は,前記1(3)イ(イ)の認定に関し,Aが大阪においてその外見か
ら患者であると認識され,Aと同居されていた控訴人ともども,近隣住民等
から自宅玄関先に動物の死骸を投げ込まれるなど悪質な嫌がらせや排除行為
などの差別にさらされ続けた旨主張し,原審本人尋問等において,これと同
趣旨の供述をし,Y意見書(甲119の1)にもこれと同趣旨の記載があ
る。
しかしながら,Aには,顔,右前腕,右上腕及び左下肢の紅斑や両手の水
疱などの症状があらわれており(前記1(3)イ(ア)),証拠(甲30,31)
及び弁論の全趣旨によれば,cの家のあった地域には昭和9年まで公立療養
所である外島保養院が設置されていた事実が認められるものの,一般に,ハ
ンセン病の診断は容易ではないとされ(乙84,原審証人Ra21頁),実
際にAの診察をした医師ですら,Aの後遺症を「多発性関節リウマチ」など
と診断しているくらいであり(前記1(3)ウ(オ)),ハンセン病とは診断して
いないし,Aが入所していた当時の母来寮の次長であったWも,約6年間ら
い予防事務に従事し,患者と接する機会が一般人よりも多かったと推認され
るにもかかわらず,Aがハンセン病であるとは認識していなかったのである
から(前記1(3)ウ(カ)),一般人が,Aの外見から,Aがハンセン病である
と認識できたとは認められない。加えて,cの家で控訴人及びAと同居して
いたことがある四男の陳述書(乙11)には,Aがcの家で生活していた頃
に顔が腫れたりしたことがあったが.そのことで四男が周囲の人から何か言
われたことはないし,A又は控訴人が悩んでいたとは聞いたことがない旨記
載されている。したがって,控訴人の前記主張等は採用できない。
(6)控訴人は,前記1(3)イの認定に関し,療養所外における治療及び治療薬
が保険診療の適用外とされていたため,Aが大阪において極めて多額の経済
的負担を強いられ,厳しい生活を余儀なくされ,医師から服用を指示された
アリナミンの購入費を全てAと控訴人が負担しなければなかったなどと主張
し,原審本人尋問等において,これと同趣旨の供述をする。
しかしながら,阪大皮膚科別館では,外来の患者に対し,ハンセン病治療
に係る医療行為を無償で提供し,治療に使用する薬剤の実費額だけを請求
し,しかも,薬剤費については財団法人大阪皮膚病研究会から一部補助がさ
れていた(前記1(2)ウ(カ)b)。そして,Aが阪大皮膚科別館で処方された
薬は,原判決別紙処方薬一覧表の「処方薬/量」欄記載のとおりであり,そ
れらの処方薬の当時の価額は,同一覧表の「薬価」欄記載のとおりであった
と認められるから,Aが阪大皮膚科別館において負担した薬の価額は同一覧
表の「処方額」欄記載の程度であったと推測される(乙28ないし30,7
7)。そうすると,Aの薬剤費は,多い月でも1700円程度であり,月平
均では510円程度であったこととなるから,阪大皮膚科別館における治療
費が相当高額であったとはいえない。実際,Aは,昭和40年4月15日
に,同日の治療費である1310円のうち310円の支払を滞らせたことが
あるものの,その他に治療費の支払を滞らせたことを窺わせる証拠は存在し
ない(甲42の1・2)。
阪大皮膚科別館におけるAの診療録には,昭和38年10月12日の欄に
「アリナミンF内服指示」,昭和39年1月30日の欄に「アリナミン1日
300㎎内服中」,昭和42年6月8日の欄に「アリナミン内服中」と記載
されているものの,阪大皮膚科別館の主治医がAに対して継続的にアリナミ
ンの服用を指示した旨の記載はない(甲42の1・2)。そうすると,Aがア
リナミンを長期間にわたって服用していたとまでは認められないから,アリ
ナミンの費用が高額であったとは認められない。
Aは,控訴人とともに昭和34年に大阪に移り住んだものの,その際に不
動産を親戚に売却し,同年のうちにcの家を45万円で購入してそこに控訴
人と転居しており(前記1(3)イ(イ)),居宅を購入するだけの資金を確保し
ていたといえるし,さらに,二女に対してお好み焼き屋の開店資金を,三男
に対して自転車屋の開店資金を供与している(同前記)。加えて,四男の陳
述書(乙11)には,Aが大阪で治療をしていた頃,四男がA又は控訴人か
ら「薬代が高い。」とか「生活が苦しい。」という話を聞いたことがない旨
記載されている。
以上の諸点に照らせば,A及び控訴人が大阪においてAのハンセン病の治
療のために極めて多額の経済的負担を強いられ,それが原因となって厳しい
生活を余儀なくされたとは考えられず,この点に関する控訴人の主張等は採
用できない。
(7)控訴人は,前記1(3)ウ(ア)の認定に関し,控訴人とAが昭和42年に鳥
取に戻った最大の理由が大阪の医療機関では患者であるAを受け入れないこ
とにあり,A及び控訴人が鳥取に戻った後も近隣の医療機関から差別的対応
を受けた旨主張し,原審本人尋問等において,これと同趣旨の供述をする。
しかしながら,二男の警察官調書(乙10)には,Aが自分の弟から鳥取
に戻るように勧められ,これに三男も同調して帰郷した旨記載されている。
また,四男の陳述書(乙11)には,Aが昭和42年に鳥取に戻った理由に
ついて,鳥取に二男がいて安心だと思っており,その当時,控訴人が結婚し
たいという話があって,控訴人に結婚してほしかったからではないかと思う
旨記載されている。このように,控訴人の前記主張等は,二男の警察官調書
及び四男の陳述書の記載内容と異なっている。よって,控訴人の前記主張等
は,採用できない。
(8)控訴人は,前記1(3)ウ(イ)の認定に関し,控訴人が鳥取での正社員の仕
事ではAの生活を支えられなかったため,その仕事をあきらめて関西等に出
稼ぎに出て,Aのために控訴人の仕事の選択肢が制約されたなどと主張し,
原審本人尋問等において,これと同趣旨の供述をする。
しかしながら,二男の警察官調書(乙10)には,控訴人がAとともに大
阪から鳥取に戻ってから,運送会社や鉄工所等で仕事をしたが,協調性がな
く同僚とけんかをしてすぐに辞めていたようであり,大阪の方に勤めに行く
と言って一人で出て行ったが,すぐに辞めてAの所に帰ってきたなどと記載
されている。Aが母来寮から巌城はごろも苑に転寮する際に老人福祉司によ
って作成された老人調書(乙58)には,控訴人について,「昭和55年当
時,仕事もせず母親の年金をあてにして生活していたため,二男により大阪
に転出させられる。このこともあって,二男の身元引受について母来寮等に
不満を言ったりする行動がある。」と記載されていた。また,控訴人も,前
述のYらから聞き取りを受けた際に,出稼ぎをするようになった最も本質的
な理由は二男の根性が分かって嫌になったことにあるなどと述べている(甲
30)。このように,控訴人の前記主張等は,二男の警察官調書及び老人調
書の記載内容と異なっているばかりか,控訴人自身が述べた内容とも異なっ
ているため,採用できない。
(9)控訴人は,前記1(3)ウ(カ)の認定に関し,Aが母来寮においてハンセン
病であると認識されて嫌われ,母来寮の職員及び他の入所者から差別的対応
を受けたなどと主張し,原審本人尋問等において,これと同趣旨の供述をす
る。
しかしながら,母来寮の入所記録(乙13の1)には,母来寮におけるAの
出来事が記載されており,Aが過去にハンセン病に罹患していたことが母来
寮の職員に判明していれば,それはAの世話をする母来寮の職員にとって重
要な情報になるから,何らかの形で記録されるべきものであるが,同記録に
は,控訴人が供述するような(控訴人本人59,68頁)控訴人においてA
がハンセン病であると職員に告げたことを裏付ける記載もないし,Aがハン
セン病に罹患していたことが判明していることを窺わせる記載すらされてお
らず,Aがハンセン病に罹患していた事実が母来寮の職員によって認識され
ていたとはいえない。Aの息子が,母来寮の職員に対し,Aについて,若い
頃から頑固で通して暮らしており,母来寮にも大変に迷惑をかけていること
はよく知っている旨述べており,Aの息子の対応は,Aがハンセン病である
ことを理由に差別的対応を受けているのとはかけ離れたものである。加え
て,前記(5)のとおり,一般人が,Aの外見から,Aがハンセン病であると
認識できたとは認められない。したがって,控訴人の前記主張などは採用で
きない。
また,Aがマンゴーと呼ばれていたことについて,控訴人は,マンゴーが
患者に対する蔑称である旨指摘し,原審本人尋問等においてこれと同趣旨の
供述をし,Y意見書(甲119の1)にもこれと同趣旨の記載がある。しか
し,鳥取方言辞典等(乙1の1~3)によれば,鳥取において,「マンゴ
ー」という言葉は,摩滅して丸くなること(手の指が曲がっていること)を意
味する言葉として使われている事実が認められ,必ずしも患者を意味するも
のではない。加えて,Aが母来寮に入所していた時に寮母として母来寮に勤
務していた者も被控訴人県職員による聞き取り調査において「マンゴー」が
ハンセン病による手の変形を表した者ではない旨述べているばかりか(乙1
5),鳥取県に居住し,Aが母来寮に入所する際に身元引受人となっていた
二男も,控訴人訴訟代理人に対し,「マンゴー」という言葉が,鳥取におい
ては指が曲がっていることを意味し,ハンセン病を意味するものではないと
思う旨述べている(甲77)。したがって,控訴人の前記指摘等は採用でき
ない。
(10)控訴人は,前記1(3)ウ(キ)の認定に関し,控訴人が,仕事とAの介護で
県外と鳥取との行き来を繰り返す中で,母来寮でのいじめや差別的待遇を訴
えるAの姿を見て,苦悩して精神的に疲弊し,Aにとって療養所に入った方
が幸せだという思いを強くし,Aの状況を放置している控訴人の兄達を許せ
なくなり,平成3年9月18日及び同月26日に倉吉保健所に行き,ハンセ
ン病に罹患したAが高齢者施設や控訴人の兄達から嫌われている旨述べ,A
を療養所へ入所させるか,控訴人の兄達が面倒をみるようにするかの対応を
求めたが,相談に応じた保健師がハンセン病偏見差別の中で生きる控訴人や
Aの苦悩を正面から理解しようとせず,控訴人の求めに応じた対応をしなか
ったなどと主張し,原審本人尋問において,これと同趣旨の供述をする。
しかしながら,前記(9)のとおり,Aが母来寮においてハンセン病を理由
にして差別的対応を受けていたとは認められない。また,Aは,従前から,
同保健所の職員に対し,ハンセン病に罹患していた事実を否定していた上,
平成3年9月26日に控訴人とともに同保健所に訪れていた際にも,自分が
リュウマチに罹患している旨述べ,ハンセン病に罹患していたことを認めて
いないにもかかわらず,控訴人が,同職員に対し,Aを療養所へ入所させる
か,控訴人の兄達が面倒をみるようにするかの対応を求めるのは不自然な感
を否めない。よって,控訴人の前記主張等は採用できない。
(11)控訴人は,前記1(4)アの認定に関し,控訴人が,昭和34年当時か
ら,Aがハンセン病であることを認識していたなどと主張し,原審本人尋問
等において,これと同趣旨の供述をし,Y意見書(甲119の1)にもこれ
と同趣旨の記載がある。
しかしながら,控訴人は,昭和58年2月3日に,倉吉保健所の職員に対
し,Aがハンセン病であるとうわさされて大阪に逃れてからの経過を話しつ
つ,Aがハンセン病ではなかったことを強調し(前記1(3)ウ(エ)),平成6
年4月22日に,同職員に対して,わざわざAの昭和30年代の診断書と医
学書を持ち出して「母がらいであれば良かった。」などと発言したばかりか
(前記1(4)ア),平成7年7月17日に,同職員に対して,大阪大学の医
師作成の手紙を見せながら,Aがハンセン病でなかったのに,ひどく偏見の
目で見られた旨発言しており(同前記),Aがハンセン病であるとのうわさ
が存在していたことを認めつつ,それが誤りであって,Aがハンセン病では
なかった旨を明確に述べている。また,四男の陳述書(乙11)にも,控訴
人は,Aが鳥取から大阪に転居した当時,Aがハンセン病ではないと言って
おり,四男も,Aの生存中に,Aがハンセン病であったのに行政にきちんと
対応してもらえなかったなどと行った不満を控訴人から聞いたことがない旨
記載されている。したがって,控訴人の同職員に対する一連の発言及び四男
の陳述書の記載内容に照らせば,控訴人は,少なくとも平成7年7月17日
の時点までは,Aがハンセン病に罹患したことがないのに,ハンセン病であ
ると疑われたなどと考えていた事実が認められる。よって,控訴人の前記主
張等は採用できない。
この点,控訴人は,患者もその家族も偏見・差別から身を守るためにハン
セン病を隠しながら生活を送ることを強いられてきたから,控訴人がAのハ
ンセン病を否定することは,決して病気の認識がなかったことを意味するも
のではない旨指摘する。しかし,そのような理由で,倉吉保健所の職員に対
してまで,「母がらいであれば良かった。」などと発言することは,容易に
理解することができない。
また,控訴人は,控訴人が平成6年4月22日に「母がらいであれば良か
った。」と述べたとされているのも,それ以前からの経緯を踏まえてその真
意を推し量れば,控訴人の「保健所が母親のハンセン病を認めて療養所に収
容してくれればよかった」との趣旨の発言を倉吉保健所が十分理解できなか
ったゆえにかかる表現になったと理解するのが自然である旨指摘する。しか
し,控訴人の指摘は,具体的にどのような発言をしたかを明らかにするもの
ではない上,Aがハンセン病であれば良かったとの発言と控訴人指摘の趣旨
の発言とでは,ハンセン病への罹患の有無を異にするのであって,保健所の
職員がそれを取り違えるとは通常考え難い。よって,控訴人の前記指摘も採
用できない。
控訴人は,平成3年9月に控訴人が倉吉保健所を訪れるなどした時に控訴
人がAのハンセン病のために兄弟関係が悪くなったと述べており,控訴人が
Aのハンセン病を認識していたことを示しているなどと指摘する。しかし,
同月18日に控訴人が同保健所を訪問した際に控訴人と応対した同保健所の
職員によって作成された「遺伝相談申込票」と題する書面(乙2の1)に
は,相談内容として「ハンセン氏病らしき病気に34年位前に母が罹患遺
伝的なものの心配はどうか」と記載されているにとどまり,昭和31年頃に
なるとAがハンセン病であるとのうわさが立ち,昭和34年にはハンセン病
に似ていると診断されたこと(前記1(3)ア(イ)(ウ))に照らすと,上記書面
の記載内容からして,控訴人が,その当時,Aの罹患した病気がハンセン病
であったと認識していたとは即断できない。よって,控訴人前記指摘も採用
できず,控訴人がAのハンセン病を認識した時期に関する前記認定を左右す
るものではない。
なお,控訴人の姪は,昭和55年7月9日,倉吉保健所を訪れて控訴人を
措置入院させるように訴えた際,同保健所の職員に対し,「控訴人は自分が
Aのハンセン病を治してやったと思っている。」旨述べている(前記1(3)
ウ(ウ))。しかし,控訴人の姪は,その当時,同保健所の職員に対して,控
訴人の素行の悪さを理由にして措置入院させるように訴えており,控訴人と
控訴人の姪との関係が険悪になっていたから,控訴人の姪の前記発言が,控
訴人の発言又は考えを正確に反映したものであるかは判然としない。したが
って,控訴人の姪の発言をもって控訴人がAのハンセン病を治した旨述べた
り,そのように思っていたとは即断できない。
また,控訴人は,昭和58年当時から,既に医学書を読むなどしてハンセ
ン病について学習し,平成6年4月22日に控訴人と面談した倉吉保健所の
職員や医師免許を持っていた県健康対策課長が驚くほどのハンセン病に関す
る知識を持っていた(前記1(3)ウ(エ),1(4)ア,同ウ)。しかし,前記昭
和58年の相談内容にてらしても,控訴人は,Aがハンセン病であると疑わ
れていることを認識していたとみられるから,控訴人が,その当時,Aがハ
ンセン病に罹患したことがないと考えていたとしても,Aに関する前記うわ
さがいわれのないものであるなどと考えて,ハンセン病について熱心に学習
したとしても何ら不自然ではない。
その他に,控訴人がAのハンセン病を認識した時期に関する前記認定を左
右するに足りる事実を認めることはできない。
第2控訴人が相続したAの被控訴人国に対する国家賠償請求について
1責任原因
(1)控訴人の主張の要約
Aの被控訴人国に対する損害賠償請求権の発生原因事実たる違法行為の存
在につき,控訴人は要旨次のように主張している。
アハンセン病は,遅くとも昭和35年には,全ての患者との関係で,隔離
政策を用いなければならないような特別な疾患ではなくなっており,それ
にもかかわらず患者は強固な偏見・差別にさらされていた。このことを前
提とすると,被控訴人国には,患者に対する偏見・差別を除去する義務
(偏見・差別除去義務),及び,とりわけ非入所者に対して援助制度を創
設・整備すべき義務(援助制度創設・整備義務)がある。
イ偏見・差別除去義務違反の具体的発現として,次のものを指摘すること
ができる。すなわち,①偏見・差別除去に向けて隔離政策を転換し新法を
撤廃しなかった国会議員の立法不作為,②同様にして,内閣による,新法
撤廃に向けた法案の不提出(法案提出義務違反)及び③厚生大臣による,
患者に向けられた偏見・差別を放置することを含む,新法廃止以前の隔離
政策の不転換(政策転換義務違反)がこれである。
ウ援助制度創設・整備義務違反の具体的発現として,次のものを指摘する
ことができる。すなわち,非入所者が在宅治療を受けることが困難な状況
が放置されていたことや,公的扶助・公的福祉サービスを利用することが
事実上不可能であったことを前提とするところの,①在宅医療制度を含む
援助制度の創設・整備を内容とする立法を怠った国会議員の立法不作為,
②同様にして,内閣による,援助制度の創設・整備に向けた法案の不提出
(法案提出義務違反)及び③厚生大臣による,患者の一般診療機関におけ
る保険診療制度の不構築を含む,新法廃止以前の隔離政策の不転換(政策
転換義務違反)がこれである。
エ要するに,偏見・差別除去義務及び援助制度創設・整備義務いずれの関
係においても,国会議員には立法不作為が,そして内閣には法案不提出
が,厚生大臣には政策不転換が,それぞれ問われるべきものである。
(2)厚生大臣の隔離政策不転換について
ア国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員
が個々の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反して当該国民に損
害を加えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規
定するものであり(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集
39巻7号1512頁,最高裁平成17年9月14日大法廷判決・民集5
9巻7号2087頁,最高裁平成27年12月16日大法廷判決・民集6
9巻8号2427頁参照),当該公務員の公権力の行使に当たる行為が同
項の適用上違法であるといえるためには,当該公務員が職務上の法的義務
に違反したことだけではなく,その法的義務について当該公務員が当該被
害者個人に対して負うものであることが必要となる。
イ政策転換義務違反,援助制度創設・整備義務違反
(ア)新法における患者収容の根拠は同法6条にあるところ,その1項
は,勧奨による入所を定めるが,これは,背後に入所命令(同条2項)
及び直接強制(同条3項)を予定するものである以上(前提事実3
(5)),完全な任意の入所とみることは困難であった。
新法廃止までは,保険診療で正規に使用できる医薬品に含まれていた
抗ハンセン病薬が一部にとどまっていたこと,ハンセン病治療を専門と
しない一般的な医療機関の従事者が,ハンセン病に対する知見及びハン
セン病治療の経験が不足していたことなどが原因となって,ハンセン病
の治療を受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られており,とり
わけ,入院治療が可能な医療機関が京都大学に限定されていたため,入
院治療を必要とする患者は,事実上療養所に入所せざるを得ず,また,
療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていた(前記第1・1(2)
ウ(カ))。
厚生大臣は,プロミンの登場によりハンセン病が治癒の見込める病気
となった後も,なお,患者のほぼ全員を対象とする収容を徹底した。こ
れにより,ハンセン病に対する社会的な偏見・差別が助長された(前記
第1・1(1)ウ(イ)及び同(2)エ(ウ))。
厚生大臣は,新法6条の「らいを伝染させるおそれがある患者」を,
ハンセン病と診断されてなお「伝染させるおそれ」がないと判断される
未治療の患者はいないといってよいほど広義に解釈・運用してきた。そ
の結果,未治療のほぼ全ての患者が療養所に収容され,隔離されること
になった(前記第1・1(2)イ(ク))。
このようにして,厚生大臣は,新法の下でも,著しく多数の患者を対
象として隔離政策を遂行してきた。
(イ)療養所への収容は,患者に居住・移転の自由を制限することは明ら
かであるが,それにとどまらず,学業の中断,就職や結婚の断念,失
職,家族と触れあうことの遮断をもたらすことから,憲法13条に含ま
れるとみられる人格権を直接制約するものと評価することができる。
前記(ア)で述べた新法の隔離政策の対象となることは,患者の人権に
対し,継続的かつ極めて重大な制限を強いることになるから,隔離政策
の実施に当たっては,最大限の慎重さをもって臨むべきであり,少なく
とも,隔離の必要不可欠性が認められる限度でのみ憲法上許容されるも
のと解するのが相当である。そして,新法6条1項が,伝染させるおそ
れがある患者について,ハンセン病予防上必要があると認められる場合
に限って,入所勧奨を行うことができるとしていることに示されている
ように,既に新法自身が,療養所への収容を実施する行政機関に対し,
隔離の必要性の判断権を付与していたのであり,この判断の局面におい
て憲法適合的であることが要請されていたこともまた,自明なこととい
うべきである。さらに,ここで問題となる隔離の必要不可欠性の判断の
基準は,その性質上,医学的知見の進歩やハンセン病の蔓延状況の変化
等によって変動し得るものであることはいうまでもないから,行政機関
としては,当該必要性に係る判断を,その時点における最新の医学的知
見に基づき,その時点までのハンセン病の蔓延状況,個々の患者の伝染
のおそれの強弱等諸般の事情を考慮しつつ,隔離のもたらす人権の制限
の重大性に配意して,十分に慎重に行うべきものであったと解される。
したがってまた,単に患者に伝染のおそれがあることのみによって隔離
の必要性が肯定されてはならないというべきである。
(ウ)医学的知見や蔓延状況,伝染のおそれについてみると,①ハンセン
病は,そもそも,感染し発病に至るおそれが極めて低い病気であって,
このことは,新法制定よりはるか以前から政府やハンセン病医学の専門
家において十分に認識されていたこと(前記第1・1(1)エ(ア)),②我
が国の患者数は,明治33年から昭和25年までの50年間に半減ある
いはそれ以下に減少し,それとともに,有病率もその間に1万人当たり
6.92人から1.33人と約5分の1に低下し,新法制定当時のハン
セン病の蔓延状況は,もはや深刻なものではなくなっていたとみられ,
その後も,患者の発生は,自然に減少していくと見込まれていたこと
(前記第1・1(2)イ(エ)及び同(キ)cのQ議員の発言部分),③国際的
には,スルフォン剤がハンセン病に著効を示すことが発表された昭和2
1年以降,スルフォン剤のハンセン病治療上の優位は全く揺るがず,治
療実績が積み重ねられるにつれ,ますますスルフォン剤の評価が確実な
ものとなっていったこと(前記第1・1(1)エ(イ)a),④これに伴い,国
際的には,次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり,昭和31年のロ
ーマ会議,昭和33年の第7回国際らい会議(東京)及び昭和34年の
WHO第2回らい専門委員会などのハンセン病の国際会議においては,
ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱されるまでに至ってい
たこと(前記第1・1(1)エ(イ)a),⑤我が国におけるスルフォン剤の評
価も,これらの国際的評価と基本的には変わらないものであり,昭和2
4年以降,プロミンが我が国の療養所で広く普及するようになり,かつ
てのようなハンセン病が不治の悲惨な病気であるとの観念はもはや妥当
しなくなっていたこと(前記第1・1(1)エ(イ)b)などを総合すると,遅
くとも昭和35年以降,ハンセン病は,もはや患者を隔離しなければな
らないほどの特別の疾患ではなくなっており,病型のいかんを問わず,
すべての患者との関係で,伝染予防のための隔離の必要性は失われてい
たといわざるを得ない。
(エ)そうすると,厚生大臣としては,遅くとも昭和35年の時点におい
て,隔離政策の抜本的な転換をする必要があったというべきであり,少
なくとも,新たに患者を収容することをやめるとともに,すべての入所
者に対し,自由に退所できることを明らかにする相当な措置を採るべき
であったといえる。そして,抗ハンセン病薬の一部しか保険診療で正規
に使用できる医薬品に含まれていなかったことなどの制度的欠陥によ
り,ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限ら
れていたため,患者の多くは,事実上,療養所に入所せざるを得ず,ま
た,療養所にとどまらざるを得ない状況に置かれていたのであるから,
厚生大臣としては,隔離政策の転換の一環として,このような療養所外
でのハンセン病医療を妨げる制度的欠陥を取り除き,在宅医療制度を構
築するための相当な措置を採るべきであった(なお,控訴人は,厚生大
臣が,隔離政策の転換義務とは別に,在宅医療制度を構築する義務を負
っていた旨主張するが,在宅医療制度の不備は,隔離政策との関係で生
じたものであるから,隔離政策転換義務の一内容として捉えるのが相当
である。)。すなわち,厚生大臣は,Aを含む非入所者個人に対して,
隔離政策を転換して,上記の在宅医療制度を構築するための相当な措置
を採るべきであったということができる。
厚生大臣は,伝染病の伝ぱ及び発生の防止等を所管事務とする厚生省
を統括管理する地位にあるのであるから,昭和35年当時,隔離の必要
性を判断するのに必要な医学的知見・情報を十分に得ていたか,あるい
は得ることが容易であったと認められるにもかかわらず,前記のような
隔離政策の抜本的な転換やそのために必要となる在宅医療制度を構築す
るなどの相当な措置をとることなく,新法6条,15条の下で隔離政策
を継続したのであるから,厚生大臣の公権力の行使たる職務行為には国
家賠償法上の違法性があり,厚生大臣に過失があったといえる。
ウ偏見・差別除去義務について
(ア)控訴人は,遅くとも昭和35年以降,厚生大臣は,被控訴人国が創
出したハンセン病に対する偏見・差別を解消するために,患者が社会内
で生活することは公衆衛生上何ら問題ないことを市民に広く周知徹底す
る等の社会内の差別・偏見を除去するための相当な措置をとるべき義務
を負っていた旨主張する。
しかしながら,無らい県運動によりハンセン病の伝染に対する恐怖心
があおられ,隔離政策の継続により患者に対する偏見・差別が助長され
たことは否定し難いものの(前記第1・1(2)エ(イ)(ウ)),それよりは
るか以前から,患者は差別・偏見・迫害の対象とされ,その中には故郷
を離れて浮浪徘徊する者が少なからず存在するほどであって,患者に対
する偏見・差別は極めて深刻なものがあったのであるから(前記第1・
1(2)ア(ア)及び同エ(ア)),被控訴人国によって患者に対する偏見又は
差別が創出されたとまではいえない。したがって,厚生大臣は,患者に
対する偏見又は差別の創出という先行行為があったことを理由として,
その除去のために相当な措置をとるべき法的義務があるということはで
きない。
また,ハンセン病の感染力が非常に弱く,発病する可能性が非常に低
いとしても,昭和35年以降においても,全ての患者がハンセン病の感
染源と全くなり得ないとまでいうことはできないから,厚生大臣におい
て,患者が社会内で生活することは公衆衛生上何ら問題がないことを市
民に広く周知徹底する義務を負っていたとまでいうことはできない。
(イ)ところで,上記のとおり,被控訴人国の隔離政策の継続により,患
者に対する偏見・差別が助長されたことは否定し難いところであるか
ら,隔離政策による患者に対する偏見・差別の助長を先行行為として,
厚生大臣は,その除去のために相当な措置をとる義務があるということ
ができる。そして,前記イのとおり,厚生大臣において隔離政策の抜本
的な転換があれば,その際にその理由として,ハンセン病が感染し発病
に至るおそれが極めて低い病気であり,もはや患者を隔離しなければな
らないほどの特別の疾患ではなくなっており,伝染予防のための隔離の
必要性は失われていることを国民に対して説明することになり,その説
明が患者に対する偏見・差別を除去するについて相当程度の効果があっ
たであろうことは,容易に想定できるところであるから,厚生大臣は,
偏見・差別除去のためにも隔離政策を転換する法的義務があり,隔離政
策を継続したことは,被控訴人国が助長した偏見・差別の除去義務をも
怠ったというべきである。
エ以上のとおりであるから,厚生大臣は,Aを含む非入所者に対し,隔離
政策の転換,そのために必要となる在宅医療制度の構築等の相当な措置を
とることを怠ったことについて,公権力の行使たる職務行為に違法性が認
められるとともに,過失が認められる。
(3)国会議員の立法不作為について
ア国会議員の立法行為又は立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法
となるかどうかは,国会議員の立法過程における行動が個々の国民に対し
て負う職務上の法的義務に違反したかどうかの問題であり,立法の内容の
違憲性の問題とは区別されるべきものである。そして,上記行動について
の評価は原則として国民の政治的判断に委ねられるべき事柄であって,仮
に当該立法の内容が憲法の規定に違反するものであるとしても,そのゆえ
に国会議員の立法行為又は立法不作為が直ちに同項の適用上違法の評価を
受けるものではない。
もっとも,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するため
に所要の立法措置をとることが必要不可欠であり,それが明白であるにも
かかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合や,法
律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由な
く制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白である
にもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法
措置を怠る場合などにおいては,国会議員の立法過程における行動が上記
職務上の法的義務に違反したものとして,例外的に,その立法不作為は,
国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるという
べきである(最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻
7号1512頁,最高裁平成17年9月14日大法廷判決・民集59巻7
号2087頁,最高裁平成27年12月16日大法廷判決・民集69巻8
号2427頁参照)。
イそこで,本件立法不作為が非入所者であるAとの関係において国家賠償
法1条1項の適用上違法の評価を受けるか否かについて検討する。
新法6条1項は,伝染させるおそれがある患者について,ハンセン病予
防上必要があると認められる場合に限って,入所勧奨を行うことができる
旨,その勧奨に従わない場合に入所を命じることができる旨規定し,新法
7条1項は,伝染させるおそれがある患者に対し,国立療養所に入所する
までの間に限り従業禁止の処分ができる旨規定し,新法8条1項は,伝染
させるおそれがある患者又はその死体があった場所の管理者等に消毒を命
じることができるなどと規定し,新法9条1項は,伝染させるおそれがあ
る患者が使用し,又は接触した物件について,ハンセン病予防上必要があ
ると認められる場合に限って,当該物件の消毒廃棄等を命じることができ
るなどと規定している(前提事実3(5))。新法の「伝染させるおそれが
ある患者」,「ハンセン病予防上必要があると認められる場合」との文言
からすると,患者が一律に隔離等の対象とはされておらず,非入所者の権
利利益が新法の規定により当然に制約されるわけではない。なお,新法の
上記規定が非入所者の権利利益を制約する潜在的な危険があったとして
も,それは,新法の上記規定の内容そのものによるというよりは,隔離等
の実施に当たる行政機関による前記各規定の「伝染させるおそれのある患
者」,「ハンセン病予防上必要があると認められる場合」という概念の解
釈の結果によるものであり,新法の上記規定が,非入所者の権利利益を合
理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであること
が明白であるとまでいうことはできない。
また,新法は,隔離政策の継続を義務付けていたわけではない。むし
ろ,都道府県知事がハンセン病を伝染させるおそれがある患者についてハ
ンセン病予防上必要があると認めるときは隔離することができるとしてい
る新法6条の文言からも明らかなように,前記(2)イ(イ)のとおり,新法自
身が,行政機関に対し,隔離の必要性の判断権を付与していたのであり,
当該必要性の判断にあたっては,その時点における最新の医学的知見及び
ハンセン病の蔓延状況など諸般の事情を考慮しつつ,隔離のもたらす人権
の制限の重大性に配意して,十分に慎重に行うべきものであったと解され
るのである。その中で隔離の必要性に関する行政機関における判断が変更
され,隔離政策の転換がなされ,療養所外でのハンセン病医療を妨げる制
度的欠陥が取り除かれて在宅医療制度が構築され,ハンセン病の治療が受
けられる医療機関が広がる余地も,新法の解釈上は残されていたといえ
る。
現に,非入所者に対するハンセン病治療については保険の適用対象から
除外されず,抗ハンセン病薬の中には薬価基準に収載されており,新法廃
止以前であっても,限定的ではあれ,ハンセン病の治療が保険診療の対象
とされていた。新法の下でも,数は極めて限定されていたが,京都大学及
び大阪大学等の大学附属病院のように療養所以外の医療機関においてハン
セン病の治療が合法的に実施されていた(前記第1・1(2)ウ(カ))。
以上によれば,非入所者に憲法上保障されている権利行使の機会を確保
するために所要の立法措置をとることが必要不可欠であり,それが明白で
あるとはいえないし,また,新法の規定について憲法上保障され又は保護
されている非入所者の権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲
法の規定に違反することが明白であるとはいえない。したがって,本件立
法不作為は,非入所者であるAとの関係において国家賠償法1条1項の適
用上違法の評価を受けるものではないというべきである。
ウ(ア)この点,控訴人は,国会議員は,遅くとも昭和40年には,被控訴
人国が創出したハンセン病に対する偏見・差別を解消すべく,隔離政策
を転換し,らい予防法を撤廃すべき義務を負い,患者に対する在宅医療
制度を含む援助制度を整備・実現することを内容とする立法をすべき義
務を負っていた旨主張する。
しかし,前記(2)ウ(ア)のとおり,患者に対する偏見・差別は古くから
極めて深刻であったのであり,被控訴人国が隔離政策の実施によりハン
セン病に対する偏見・差別を創出したとはいえない。前記イのとおり,
非入所者の権利利益が新法の規定により当然に制約されるわけではない
し,隔離政策の転換が実現され,在宅医療制度が整備される余地が新法
の解釈上は残されており,非入所者に憲法上保障されている権利行使の
機会を確保するために所要の立法措置をとることが必要不可欠であるこ
とが明白であるとはいえないし,また新法の規定が憲法上保障され又は
保護されている非入所者の権利利益を合理的な理由なく制約するものと
して憲法の規定に違反することが明白であるとはいえない。よって,控
訴人の前記主張は採用できない。
(イ)控訴人は,非入所者が利用できた一般的な社会保障制度では,その
申請過程で,生活困窮又は身体障害の原因であるハンセン病の罹患履歴
が明らかになるため,非入所者が療養所への入所やハンセン病に対する
偏見・差別を恐れて,一般的な社会保障制度を利用することが困難な状
況に置かれており,国会議員もこれを認識していたから,遅くとも昭和
40年には,非入所者に対する援助制度を整備・実現することを内容と
する立法をすべき義務を負っていた旨主張する。
しかし,前記(2)アのとおり,厚生大臣には,隔離政策を抜本的に転
換すべき義務があったのであり,厚生大臣が隔離政策の転換義務を履行
していれば,患者であることが露見したからといって非入所者が入所を
強制される事態に陥ることもなく,非入所者が療養所への入所を恐れて
一般的な社会保障制度の利用を躊躇する事態は生じ得ないはずである。
したがって,非入所者が療養所への入所に対する恐れから一般的な社会
保障制度の利用が困難な状況にあったからといって,患者に対する援助
制度の整備・実現に係る立法義務があるということはできない。
また,社会保障制度の申請過程でハンセン病の罹患履歴が明らかにな
るとしても,新法3条は患者に対する差別的取扱いを禁止し(前提事実
3(5)),それが社会保障を担当する公務員にも課せられていることは
明らかであるし,公務員は職務上知り得た秘密について守秘義務を負
い,したがって,申請した非入所者が患者であることが外部に漏れて,
それを発端に非入所者が偏見・差別を受けることは想定されていない。
したがって,非入所者が社会保障制度の申請によって偏見・差別を受け
ることを恐れることをもって,患者に対する援助制度の整備・実現に係
る立法義務があるということはできない。よって,控訴人の前記主張も
採用できない。
(ウ)控訴人は,新法の隔離規定が,およそハンセン病と診断された全て
の患者を療養所に入所させることを想定した規定であり,非入所者の居
住・移転の自由や人格権を合理的な理由なく制約するものであり,新法
には,退所規定はおろか,行政機関の認定・診断に関する不服申立ての
規定も存在せず,ハンセン病と診断された者が居住移転の自由を含む憲
法上保障された権利利益を回復あるいは実現するための規定が全く存在
しないため,新法は,前記平成17年9月14日最高裁判決が,立法な
いし立法不作為の違法性判断の枠組みとして示している「立法措置をと
ることが国民の憲法上保障された権利行使の機会確保のために必要不可
欠であるにもかかわらず,それを長期にわたって怠った場合」にも当て
はまるものであったといえるから,新法そのものが,非入所者との関係
においても違憲・違法であったなどと主張する。
しかし,前記イのとおり,新法の文言上,患者が一律に隔離等の処分
の対象とはされておらず,非入所者の権利利益が新法の規定そのものに
より当然に制約されるわけではない。新法自身が,行政機関に対し,隔
離の必要性の判断権を付与していたのであり,当該必要性の判断にあた
っては,その時点における最新の医学的知見及びハンセン病の蔓延状況
など諸般の事情を考慮しつつ,隔離のもたらす人権の制限の重大性に配
意して,十分に慎重に行うべきものであったと解され,行政機関がこの
判断の局面において憲法に適合するように職権を行使することによって
新法が合憲的に解釈運用される余地があったといえる。
また,新法自体には,入所者の退所に関する明文の規定はないもの
の,新法13条が「国は,必要があると認めるときは,入所患者に対し
て,その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための
措置を講ずることができる。」と定め(前提事実3(5)),この規定は
入所者が退所できることを当然の前提とするものであると解され,厚生
省公衆衛生局長が,新法の国会審議の中で,隔離療養の必要がないと認
められた者は国立療養所から退所できる旨答弁し(前記第1・1(2)イ
(キ)b),同省の作成した「らい予防法逐条解説」と題する文書には,
新法15条の解説の中でも前記答弁と同趣旨の記載があり,昭和33年
に軽快退所者を対象とする世帯更生資金貸付制度が創設され,昭和39
年に軽快退所者に対する就労支援金の支給が開始されていて,軽快退所
者への公的支援が実施されている(前記第1・1(2)ウ(エ))ことに照ら
せば,新法が入所者の退所を認めない建前をとっていないことは明らか
である。
新法25条1項前段では,「厚生大臣は,この法律又はこの法律に基
づいて発する命令の規定により所長[国立療養所所長のこと]又は都道
府県知事がした処分についての審査請求がらいを汚染させるおそれがあ
る患者であるとの診断に基く処分に対してその診断を受けた者が提起し
たものであって,かつ,その不服の理由が,その診断の結果を争うもの
であるときは,その審査請求の裁決前,第5条第2項の規定に準じて厚
生大臣が指定する二人以上の医師をして,その者を診察させなければな
らない。」と規定されており,新法は,新法又は新法に基づいて発する
命令の規定により国立療養所所長又は都道府県知事がした処分に対する
審査請求が可能であることを当然の前提としていると解され,前記処分
に対する不服申立てなどの救済手段が存在しないとはいえない。
したがって,控訴人の前記主張も採用できない。
(4)内閣の法案提出義務について
前記(3)のとおり,立法について固有の権限を有する国会ないし国会議員
の前記立法不作為につき,国家賠償法1条1項の適用上違法性を肯定するこ
とができないものである以上,国会に対して法律案の提出権を有するにとど
まる内閣の前記法律案不提出についても,同項の適用上違法性を観念する余
地のないことは当然というべきである。したがって,内閣の法案提出義務に
関する控訴人の主張は採用できない。
2損害
(1)前記第1・1の認定事実によれば,Aは,遅くとも昭和21年にはハン
セン病を発症し(前記第1・1(3)ア(ア)),昭和34年5月5日から昭和4
1年3月24日までの約7年間にわたり阪大皮膚科別館でハンセン病の治療
を受けており(同(3)イ(ア)),自身がハンセン病に罹患していたことを認識
していたと推認される。しかし,Aは,昭和55年7月12日,控訴人の姪
が控訴人を措置入院させるように訴えたことにともなってeの家を訪問した
倉吉保健所の職員に対して,自らの背中を見せてまでハンセン病であること
を否定し(同(3)ウ(ウ)),平成3年9月26日に控訴人及び二男と同保健所
を訪れて相談した際にも,自分がリュウマチに罹患している旨述べるなどし
て(同(3)ウ(キ)),自らが患者であることを一貫して否定し,二男,四男及
び控訴人もAの症状がハンセン病によるものではないと考えていたほどであ
り(同(3)イ(ア)及び同(4)ア),Aがハンセン病への偏見及び差別を恐れて
その病歴を行政や家族にさえ隠しながら生活していたと推認される。Aは,
昭和34年にハンセン病であるとのうわさが立っために鳥取から大阪に転居
して阪大皮膚科別館で受診してからハンセン病の治療を受けて約7年もの間
通院しており,従前の居住地から遠く離れた場所にある医療機関への通院を
継続しているが(同(3)ア(イ)及び同イ(ア)),これには,隔離政策の転換が
遅れ,ハンセン病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が極めて限られ
ていたことによるものであるとみられる。もっとも,阪大皮膚科別館への通
院にともなう経済的負担は極めて重いものであったとはいえない(前記第
1・2(6))。また,Aは,身体障害者手帳の交付を受けており(前記第
1・1(3)ウ(ア)),身体障害者福祉法に基づく福祉措置を受けていたと考え
られ,障害者年金を受給し,老人福祉法に基づいて母来寮及び巌城はごろも
苑への入所措置を受けており,公的扶助を得ている(同(3)ウ(オ),(カ)及び
(ク))。Aは,非入所者であるから,自身の国立療養所への入所による隔離
の被害自体は受けておらず,入所歴があることにともなう差別的取扱いも受
けていない。
以上の諸事情に照らせば,Aは,隔離政策の転換が遅れたため,ハンセン
病への偏見及び差別を恐れてその病歴を隠しながら生活していたこと,在宅
医療制度を構築するための相当な措置がとられなかったために,ハンセン病
の治療を受ける機会が極めて制限されたことによって,精神的損害を被った
と認められる。
(2)アこの点、控訴人は,Aがハンセン病に罹患したことにより,社会の偏
見・差別にさらされた結果,Aの家族が崩壊するという損害を受けたと主
張する。確かに,長男は,Aがハンセン病に罹患したとうわさになった際
に,妻と子供を連れてAの下を離れ(前記第1・1(3)ア(ウ)),Aは,そ
のような長男への恨みを述べている(同(3)ウ(ウ))。
しかしながら,二男及び四男は,阪大皮膚科別館の診断書により,Aの
疾病はハンセン病ではないと認識したのであるから(同(3)イ(ア),前記第
1・2(3)),Aの家族が,Aがハンセン病に罹患したことを理由として
崩壊したとまではいい難い。実際,他家の養子となっていた二男は,Aに
対して,eの家の敷地を譲渡してその建築に協力し,障害のために一人で
風呂には入れないAに自宅の風呂を使わせ,Aの老人ホームへの入所手続
を進めて,身元引受人となるなどして度々支援を行っている(前記第1・
1(3)ア(ア)及び同(3)ウ(ア),(イ),(オ))。Aの方でも,三男及び二女に対
して,大阪での開店資金を供与している(同(3)イ(イ))。控訴人の姪及び
その夫と控訴人及びAとの間でいさかいが生じ,控訴人の姪の夫がAに暴
行を加えているが,控訴人が時を問わずに控訴人の姪らに電話を架けるな
どして,控訴人の姪らが倉吉保健所で控訴人の措置入院について相談して
いたことがあり(同(3)ウ(ウ)),このことが背景になっているとみられ,
Aのハンセン病自体によるものであるとはいい難い。これについて控訴人
と控訴人の姪が話し合った際には当時滋賀県に居住していた三男も来訪し
て立ち会っている(同(3)ウ(ウ))。このように,Aがハンセン病に罹患し
たことがうわさになった以降も,Aとその家族との間の交流が継続してい
たことは明らかである。
そうすると,Aがハンセン病に罹患したことにより,AとAの家族の関
係が崩壊したとは認められず,控訴人前記主張は採用できない。
イ控訴人は,A及び控訴人が,cの家で生活していた当時,Aがハンセン
病であることを理由として近隣住民から嫌がらせを受けた旨主張する。
しかしながら,前記第1・2(5)のとおり,A及び控訴人がAのハンセ
ン病罹患を理由として近隣住民から嫌がらせを受けた事実は認められず,
控訴人の前記主張は採用できない。
ウ控訴人は,A及び控訴人が,昭和42年に鳥取に戻った後も近隣の医療
機関から差別的対応を受けた旨主張する。
しかしながら,前記第1・2(7)のとおり,A及び控訴人が鳥取に戻っ
た後で近隣の医療機関から差別的対応を受けた事実が認められず,控訴人
の前記主張は採用できない。
エ控訴人は,母来寮においてAがハンセン病であると認識されて嫌われ,
母来寮の職員及び他の入所者から差別的対応を受けた旨主張する。
しかしながら,前記第1・2(9)のとおり,Aが母来寮において患者で
あると認識されて差別的対応を受けた事実は認められず,控訴人の前記主
張は採用できない。
3消滅時効
(1)時効の起算点
ア被控訴人国の国家賠償責任の消滅時効については民法724条の規定に
よるところ(国家賠償法4条),民法724条にいう「損害及び加害者を
知った時」とは,被害者において,加害者に対する賠償請求をすることが
事実上可能な状況の下に,それが可能な程度に損害及び加害者を知った時
を意味すると解するのが相当である(最高裁昭和48年11月16日第二
小法廷判決・民集27巻10号1374頁,最高裁平成23年4月22日
第二小法廷判決・裁判集民事236号443頁参照)。そこで,控訴人に
おいて,Aから相続した被控訴人国に対する国家賠償請求権を行使するこ
とが事実上可能な状況の下に,それが可能な程度に損害及び加害者を知っ
たのがいつであるかについて検討する。
控訴人は,平成9年10月20日頃にAの診療録写しの送付を請求し,
同写しを入手しており(前記第1・1(4)ア),その頃には既にAがハン
セン病に罹患していたことを認識し,その証明のために重要な証拠となる
資料を得ている。
控訴人は,昭和55年当時から医学書を読むなどしてハンセン病につい
て熱心に学習しており(前記第1・1(3)ウ(エ)),その結果,控訴人のハ
ンセン病に関する知識は,Aの死亡後には倉吉保健所の職員や医師免許を
有する県健康対策課長が驚くほどの知識を有していると認識するほどにな
っていた(同(4)ア及びウ)。
控訴人は,平成10年後半以降に被控訴人国が国際的な批判に耳を貸さ
ずに隔離政策を推進していたものと認識した(同(4)イ)。
被控訴人国が平成13年5月23日に熊本判決について控訴を断念する
と,控訴人がその日のうちにマスコミ報道でそれを知って,被控訴人県の
担当者に電話を架けてそれを伝えており(同(4)エ),控訴人が「らい予
防法」違憲国家賠償請求訴訟への参加を拒否された後も前記訴訟の動向に
高い関心を寄せていたといえる。
控訴人は,平成11年から平成15年7月24日に別件刑事事件を敢行
する直前まで,被控訴人県の職員らに対して継続的に苦情を述べる中で,
再三,ハンセン病の治療に保険が使えなかった旨述べ,同職員らからは民
事訴訟を提起するように勧められており,また同日頃までの間に,ハンセ
ン病国賠訴訟弁護団の一員であり,後に本件で控訴人訴訟代理人となる近
藤剛弁護士に対しても,よく電話を架けて,同職員らに述べたことと同様
のことを話している(同(4)ウ及びカ)。ハンセン病の治療に保険が使え
なかったことは,前記1(2)アからも明らかなように,被控訴人国の非入
所者に対する国家賠償責任を基礎付ける重要な事実であり,控訴人は,被
控訴人国の賠償責任を基礎付ける重要な事実を既に認識し,これを同職員
らのみならず本件で控訴人訴訟代理人となる弁護士にも伝え,同職員らか
らは民事訴訟での解決を勧められていたといえる。
平成14年1月28日に被控訴人国が入所歴のない原告に対して熊本地
方裁判所の和解に関する所見を踏まえて和解一時金を支払うことをなどを
内容とする基本合意書Ⅱが締結され,翌日に全国的に報道され,その中で
は基本合意書Ⅱに損害賠償としての和解金の支払が盛り込まれていると報
じられ,ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団の一員である弁護士も基本合意
書Ⅱで入所歴のない原告が受けた被害についても被控訴人国の賠償義務が
確認されたとの見解を示しており(同(4)オ),基本合意書Ⅱは,被控訴
人国が入所歴のない原告に対して相続性のある損害賠償債務を負うことを
踏まえて和解一時金の支払が合意されたと解されるものであった。
控訴人は,別件刑事事件の控訴審において,現在の控訴人訴訟代理人で
あり,ハンセン病国賠訴訟弁護団の一員でもある弁護人らから患者に対す
る隔離政策の違法性に関して,論理的かつ明確な説明を受け(同(4)
キ),その違法性に対する理解を深める機会を得ており,平成16年7月
26日に別件刑事事件の控訴審判決が言い渡された。
以上の諸点に照らせば,控訴人は,被控訴人国の隔離政策の継続が非入
所者との関係でも違法であると判断するに足りる事実について,遅くとも
別件刑事事件の控訴審の判決が宣告された平成16年7月26日には認識
していたとみるのが相当である。そうすると,控訴人が相続したAの被控
訴人国に対する国家賠償請求権の消滅時効は,遅くとも同日から進行する
というべきであり,本件訴訟提起時には,前記国家賠償請求権について3
年の消滅時効期間が経過したことは明らかである。
イ(ア)控訴人は,前記第1・1(4)オの認定に関し,被控訴人国が,平成1
4年1月28日の基本合意書Ⅱに係る合意に至るまで,遺族原告につい
て相続法理の適用を否定し,和解一時金が損害賠償請求権に基づくもの
ではないとの立場をとり続けたなどと主張し,当審Rb証人も当審証人
尋問等において,これと同趣旨の供述をする。
しかしながら,平成13年12月7日付けの国の準備書面の概要は,
国立療養所に入所したことのある患者が有する損害賠償請求権につい
て,特段の事情のない限り,慰謝料請求権を含めて相続の対象となるこ
と自体は争わず,本件訴訟における被相続人と熊本判決における原告ら
との間に共通損害を認めることが困難であるというものであり,被控訴
人国が遺族原告の請求を争う理由は,遺族原告と熊本判決における原告
らとの間に共通損害が認められない点にあり,遺族原告について相続法
理が適用されること自体は肯定しているとみられる。同月11日に実施
された記者会見における厚生労働大臣の発言も,同大臣は,遺族原告に
対する賠償の要否及び非入所者への偏見に対する国の責任の有無につい
て検討していることを示しただけであり,遺族原告について相続法理の
適用を否定する見解を示したとはいい難い。
また,基本合意書Ⅱは,被控訴人国が,平成13年12月7日熊本地
方裁判所が示した和解に関する所見を踏まえて,入所歴のない原告を含
む原告らに対して損害の賠償等として和解一時金を支払う旨定められた
ものであるところ,同裁判所が「らい予防法」違憲国家賠償請求事件に
おいて示した和解に関する所見は,いずれも入所歴のない原告が被控訴
人国に対して国家賠償請求権を有する旨の見解を述べたものであること
を踏まえると,基本合意書Ⅱにおいて規定された和解一時金は,損害賠
償請求権としての性格を有するものであるというべきである。現に,ハ
ンセン病国賠訴訟西日本弁護団の弁護士の中にも,基本合意書Ⅱに基づ
き平成14年1月30日に同裁判所で成立した和解が遺族原告及び入所
歴のない原告の受けてきた被害についても被控訴人国に賠償義務のある
ことを確認したものであるとの見解を開陳した者がいる(第1・1(4)
オ)。
したがって,控訴人の前記主張等は採用できない。
(イ)控訴人は,被控訴人国が基本合意書Ⅱを締結するまでに示した対応
及び基本合意書Ⅱの文言からすると,①基本合意書Ⅱの非入所者に支払
われる和解一時金の法的性格は,非入所者の国に対する損害賠償請求権
を認めたものとはいえず,また,②和解一時金請求権の相続性は否定さ
れていた旨主張する。
しかし,上記(ア)のとおり,基本合意書Ⅱにおいて定められた入所歴
のない原告に支払われる和解一時金は損害賠償金としての性質を有する
というべきである。また,基本合意書Ⅱには,非入所者の遺族が国を被
告として国家賠償請求訴訟を提起した場合の規定は設けられていない
が,それは,基本合意書Ⅱの締結当時,「らい予防法」違憲国家賠償請
求事件の原告らの中に非入所者はごく僅かしかおらず,非入所者の遺族
はいなかったこと(同(4)オ)から定められなかったにすぎないとみら
れ,非入所者が死亡した場合に和解一時金がその相続人に相続されるこ
とを否定するものであったとは解されない。
よって,控訴人の前記主張は採用できない。
(ウ)控訴人は,被害者たる非入所者及びその家族にとって被控訴人国の
加害構造を認識することは困難であり,加害者たる被控訴人国の責任で
被害者たる非入所者及びその家族は提訴困難な状況にあり,提訴できた
のは一部の稀なケースであるなどと主張する。
しかし,非入所者及びその家族一般はともかくとして,控訴人は,前
記アのとおり,平成10年後半以降に被控訴人国が国際的な批判に耳を
貸さずに隔離政策を推進していたものと認識し,平成11年から平成1
5年7月24日に別件刑事事件を敢行する直前まで,ハンセン病の治療
に保険が使えなかったという被控訴人国の国家賠償責任を基礎付ける重
要な事実を認識して,被控訴人県の職員ら及び本件で控訴人訴訟代理人
となる弁護士に対してそれを指摘し,同職員らからは民事訴訟を提起す
るように勧められており,別件刑事事件の控訴審において,弁護人らか
ら患者に対する隔離政策の違法性に関して,論理的かつ明確な説明を受
けている。よって,遅くとも別件刑事事件の控訴審の判決のあった平成
16年7月26日の時点では,控訴人にとって,被控訴人国の加害構造
を認識することは困難であったとはいえないし,被控訴人国に対する国
家賠償請求の提訴が困難であったとはいえないから,控訴人の主張する
前記諸事情は消滅時効の起算点に関する判断を左右するものではない。
(エ)控訴人は,控訴人において,Aや控訴人の被害が,隔離政策を根本
原因とする偏見・差別及び在宅医療制度の欠陥による被害であると認識
せず,Aが療養所に入所すれば,Aや控訴人が幸せになれたはずであ
り,Aを新法に従って入所させるべきであったとして,Aを入所させな
かったa町保健課,倉吉保健所,兄姉ら,阪大病院に対して被害感情を
向けるなどしており,控訴人には損害賠償請求をするという発想はな
く,被控訴人国が加害者であるという意識がなかったから,被控訴人国
の加害構造を認識するのが困難な状況にあり,また,控訴人が,本件控
訴人訴訟代理人から,隔離政策の違法性に関して,論理的,かつ,明確
な説明を受けても,直ちに同説明を受け入れるのは困難であり,本件提
訴直前まで権利行使可能な状況の下でそれが可能な程度の認識があった
とは認められない旨主張する。
しかし,前記アのとおり,控訴人は,平成11年頃までには,被控訴
人国が国際的な批判に耳を貸さずに隔離政策を推進していたものと認識
し,また,被控訴人国が平成13年5月23日に熊本判決に対する控訴
を断念した事実を同日のうちに知って,それを被控訴人県の担当者に伝
えていたことに照らせば,控訴人には被控訴人国に対して損害賠償請求
をするという発想がなく,被控訴人国が加害者であるという意識がなか
ったとはいい難い。また,平成11年から平成15年7月24日に別件
刑事事件を敢行する直前まで,ハンセン病の治療に国民健康保険が使え
なかったという被控訴人国の国家賠償責任を基礎付ける重要な事実を認
識して,被控訴人県の職員ら及び本件で控訴人訴訟代理人となる弁護士
に対してそれを指摘し,同職員らからは民事訴訟を提起するように勧め
られており,控訴人において隔離政策の法的責任を基礎付ける事実を認
識し,被控訴人国に対する国家賠償請求訴訟を提起するのが困難であっ
たとはいえない。
したがって,控訴人が被控訴人県の職員等に対して述べた苦情の中
に,新法に従ってAが国立療養所に収容されるべきであったなどといっ
たものが含まれていたことを考慮しても,控訴人は,被控訴人国の隔離
政策の継続が非入所者との関係でも違法であると判断するに足りる事実
について,遅くとも別件刑事事件の控訴審の判決が宣告された平成16
年7月26日には認識していたとみるのが相当であり,控訴人の前記主
張は採用できない。
(オ)控訴人は,賠償請求をすることが事実上可能な程度の認識とは,勝
訴可能性の認識を含めた現実的提訴可能性を認識していることをいい,
被害者が独自に提訴可能と判断したとしても,法律専門家がみて提訴可
能と判断できない段階では,時効消滅を正当化し得るだけの現実的提訴
可能性があるとはいえないと主張する。
しかし,被害者が賠償請求をする場合に,法律専門家に相談・委任す
るのが通常であったとしても,認識の主体はあくまでも被害者である以
上,勝訴可能性の認識を含めた現実的提訴可能性を認識していることま
で必要か否かは別として,被害者が賠償請求をすることが事実上可能な
程度に損害及び加害者を認識していれば足りるというべきである。
(カ)控訴人は,被控訴人県の職員が,前記第1・1(4)カのとおり,控訴
人に対して訴訟を提起するように述べたことに関し,被控訴人県の担当
者が控訴人の要求を基本的には否定・拒絶し,控訴人との直接交渉を拒
否する方便として「訴訟」という言葉を使ったにすぎないなどと指摘す
る。
しかし,控訴人は,Aの死亡後,平成15年7月24日に別件刑事事
件を敢行するまで,何度も,倉吉保健所及び県健康対策課を訪問するな
どして,被控訴人県の職員に対し,控訴人の兄姉や被控訴人県に対する
不満などを述べ,控訴人が述べた不満の中には,二男が,Aに対して,
eの家の敷地を譲渡してその建築に協力し(前記第1・1(3)ウ(ア)),
Aの老人ホームへの入所手続を進めて身元引受人となる(同(3)ウ(オ))
などして度々支援を行っていたにもかかわらず,控訴人の兄姉が控訴人
にAの世話など面倒なことをすべて押しつけたと述べる(同(4)ウ)な
どしていて,客観的な事実関係と整合しないものもあったが,これに対
し,被控訴人県の職員は,控訴人の不満等を放置し,又は聞き置くなど
といった消極的な対応に終始していたわけではなく,平成9年8月12
日に倉吉保健所に来所した二男に対して控訴人の言い分を伝え(同(4)
ア),控訴人からの指摘を踏まえて,大阪府に対し,Aがハンセン病で
ある旨の届出がされていたかを照会し(同(4)ウ),平成12年12月
4日には同所において控訴人と協議して,同月18日,二男に対し,控
訴人の心情を伝える文書を作成して送付しており(同(4)ウ),控訴人
の述べた不満等に対して相応の対応をしていたといえる。控訴人は,何
度も,被控訴人県の職員に対し,控訴人の兄姉や被控訴人県に対する不
満などを述べる中で,大声で怒鳴り,同保健所を毎日のように来訪して
その業務に支障を及ぼすなどしており(同(4)カ),控訴人の被控訴人
県に対する言動には社会通念上不相当なものがあったといわざるを得
ず,これに対し,被控訴人県の職員が,控訴人の要求どおりにならない
ことを知らせて,控訴人を怒り,その中で訴訟を提起するように述べる
ことも(同(4)カ),不相当な言動を繰り返す控訴人に対する対応とし
て不適切なものであったとはいえない。また,控訴人は被控訴人県に述
べたのと同様の話を近藤剛弁護士にもしていて,弁護士に対して訴訟提
起のための相談をすることも可能な状況にあり(同(4)カ),被控訴人
国は非入所者の遺族に対して訴訟上の和解に応じているのであるから
(同(5)イ),控訴人が国家賠償請求訴訟を提起することも現実的な解
決策であったといえる。以上の諸点に照らせば,被控訴人県の控訴人に
対する一連の対応が不適切なものであったとはいえず,被控訴人県の職
員が,控訴人の要求を基本的には否定・拒絶し,控訴人との直接交渉を
拒否する方便として,訴訟を提起するように述べたとは認められず,控
訴人の前記指摘は採用できない。
(2)権利濫用,信義則違反又は公序良俗違反
ア控訴人は,被控訴人国が,公式に,患者の遺族を,隔離政策の被害者
と認めないだけでなく,患者の遺族に対する抜本的な偏見・差別解消策を
とっていないために,患者の遺族は,現在も隔離政策に起因する偏見・差
別に苦しみ続けて,裁判を起こすこともできない状況に置かれているので
あり,患者の遺族が提訴することができない原因が被控訴人国にあること
からすると,被控訴人国による消滅時効の援用は,信義則上許されないも
のであり,時効援用権の濫用というべきであると主張する。
しかしながら,被控訴人国が,公式には,患者の遺族を隔離政策の被害
者として認めていないとしても,そのことによって,被控訴人国が,患者
の遺族が訴え提起その他の権利行使や時効中断行為に出ることを妨害し,
権利行使や時効中断行為に出ることを事実上困難にしたなどとはいえな
い。その上,前記(1)アのとおり,控訴人は,平成11年頃には,熊本地
方裁判所で係属中の「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟に参加したいと
申し出て,同年から平成15年7月24日に別件刑事事件を敢行する直前
まで,被控訴人県の職員ら及び本件で控訴人訴訟代理人となる弁護士に対
して,再三,ハンセン病の治療に国民健康保険が使えなかった旨述べて,
被控訴人国の非入所者に対する国家賠償責任を基礎付ける重要な事実を指
摘し,同職員らからは民事訴訟を提起するように勧められたばかりか,本
件で控訴人訴訟代理人となる弁護士にも同様のことを話し,別件刑事事件
の控訴審において同弁護士から隔離政策の違法性に関して,論理的,か
つ,明確な説明を受け,控訴人が権利行使や時効中断行為をなすに当たっ
て有益な事項を教示されていた。したがって,控訴人が国家賠償を請求し
て提訴することができなかったとはいえず,被控訴人国が消滅時効を援用
することは,信義則違反ないし権利の濫用に当たるものではなく,控訴人
の前記主張は採用できない。
イ控訴人は,法曹界全体がハンセン病問題に対する加害者であり,法曹た
るものが消滅時効を観念すべきではないし,被控訴人らは,隔離政策及び
「無らい県運動」を展開し,社会に深刻,かつ,根強い偏見・差別を創
出,助長して被害者の権利行使を困難にし,被害者において真の加害者が
被控訴人国であると認識するのが著しく困難な状況を作り上げ継続させて
いるのは加害者たる被控訴人ら自身であって,被控訴人国が控訴人に対し
て消滅時効を主張するのは公序良俗違反,信義則違反ないし権利の濫用に
当たるし,ハンセン病に対する偏見・差別を創出・助長してきた裁判所
が,謝罪する一方で,偏見・差別被害のために権利行使が困難だったA及
び控訴人の請求を3年の消滅時効によって否定することは,信義則に反し
許されない旨主張する。
しかしながら,まず,被控訴人国が,患者に対する偏見・差別を創出し
たものでないことは,これまで繰り返し述べたとおりである。また,仮
に,法曹界全体がハンセン病問題に対する加害者であるとみられるとして
も,それ故に被控訴人国において,消滅時効を援用することが許されない
とする根拠を見いだすことはできない。さらに,患者の遺族一般において
被控訴人国こそが加害者であると認識するのが著しく困難な状況にあった
としても,控訴人は,前記(1)イ(ウ)のとおり,控訴人にとって,被控訴人
国の加害構造を認識することが困難であったとはいえないし,被控訴人国
に対する国家賠償請求訴訟を提起するのが困難であったとはいえない。し
たがって,控訴人の主張する前記諸事情は,被控訴人国による消滅時効の
援用が公序良俗違反,信義則違反ないし権利の濫用に該当するか否かに関
する判断を左右するものではなく,控訴人の前記主張は採用できない。
ウ控訴人は,被控訴人国が,熊本判決の確定以降,基本合意書Ⅰ及び基本
合意書Ⅱの締結に至る交渉過程において,相続法理の適用を否定していた
にもかかわらず,本件訴訟に至ると,基本合意書Ⅱを根拠にして控訴人が
相続法理によりAの被控訴人国に対する損害賠償請求権を取得したなどと
主張して消滅時効を援用しているが,この被控訴人国の態度は,全く矛盾
していて背信行為というほかないとして,被控訴人国が控訴人に対して消
滅時効を主張するのは公序良俗違反,信義則違反ないし権利の濫用に当た
る旨主張する。
しかしながら,前記(1)イ(ア)のとおり,被控訴人国が,基本合意書Ⅱに
係る合意に至るまで,遺族原告について相続法理の適用を否定し,和解一
時金が損害賠償請求権に基づくものではないとの立場をとり続けていたと
は認められない。したがって,控訴人の前記主張は,その前提を欠くもの
であって採用できない。
エ控訴人は,被控訴人国が,非入所者及び遺族原告並びに非入所者の遺族
に対して消滅時効を援用せずに和解に応じており,被控訴人国が控訴人に
対して消滅時効を主張するのは公序良俗違反,信義則違反ないし権利の濫
用に当たる旨主張する。
確かに,被控訴人国は,基本合意書Ⅱの成立時期から3年以上経過した
時期に提訴した非入所者及び遺族原告との間で基本合意書Ⅱに基づいて和
解に応じ,同時期に提訴した控訴人以外の非入所者の遺族との間で基本合
意書Ⅱに準じて和解に応じている(前記第1・1(5)イ)。
しかしながら,被控訴人国は,原審及び当審において,控訴人に対し,
基本合意書Ⅱの内容に沿って控訴人との間で和解を行う意思がある意向を
示していることに照らせば(同(5)ア),この点に関し,控訴人以外の非
入所者の遺族とは異なる差別的な取扱いをしているとはいえない。したが
って,控訴人の主張する前記諸事情は,被控訴人国による消滅時効の援用
が公序良俗違反,信義則違反ないし権利の濫用に該当するか否かに関する
判断を左右するものではなく,控訴人の前記主張は採用できない。
4小括
控訴人の相続したAの被控訴人国に対する国家賠償請求権は,消滅時効によ
り消滅したというべきである。
第3控訴人個人の被控訴人国に対する国家賠償請求について
1責任原因
(1)控訴人の主張の要約
控訴人個人の被控訴人国に対する損害賠償請求権の発生原因事実たる違法
行為の存在につき,控訴人は要旨次のように主張している。
アハンセン病は,遅くとも昭和35年には,全ての患者との関係で,隔離
政策を用いなければならないような特別な疾患ではなくなっており,その
ような状況のもと,被控訴人国には,患者に対する偏見・差別除去義務及
び援助制度の創設・整備義務を負っていたのであるが,さらに,これにと
どまらず,患者の家族との関係においても,患者の家族に向けられた偏
見・差別の除去義務及びとりわけ非入所者の家族に対する援助制度の創
設・整備義務を負っていた。
イ以上のような,患者の家族に対する偏見・差別除去義務違反の具体的発
現として,次のものを指摘することができる。すなわち,①患者の家族に
対する偏見・差別除去に向けて隔離政策を転換し新法を撤廃しなかった国
会議員の立法不作為,②同様にして,内閣による,新法撤廃に向けた法案
の不提出(法案提出義務違反)及び③厚生大臣による,患者の家族に対す
る偏見・差別を放置することを含む,新法廃止以前の隔離政策の不転換
(政策転換義務違反)がこれである。
ウ他方,非入所者に対する援助制度創設・整備義務違反の具体的発現とし
て,次のものを指摘することができる。すなわち,非入所者の家族をして
患者家族生活支援制度を利用させることが新法上不可能であり,かつ,非
入所者の家族が偏見・差別を恐れる結果,生活保護等の一般的な扶助・福
祉制度の利用が事実上不可能とされていたという事情,さらには,援助制
度の創設・整備が懈怠された結果,非入所者が多額の経済的負担を強いら
れ,その結果家族の成長発達が阻害されていたという状況を前提とすると
ころの,①非入所者の家族への援助制度の創設・整備を内容とする立法を
怠った国会議員の立法不作為,②同様にして,内閣による,非入所者の家
族に対する援助制度の創設・整備に向けた法案の不提出(法案提出義務違
反)及び③厚生大臣による,患者の一般診療機関における保険診療制度の
不構築を含む,新法廃止以前の隔離政策の不転換(政策転換義務違反)が
これである。
エ要するに,ここでも,偏見・差別除去義務及び援助制度創設・整備義務
いずれの関係においても,国会議員には立法不作為が,そして内閣には法
案不提出が,厚生大臣には政策不転換が,それぞれ問われるべきものであ
る。
(2)厚生大臣の隔離政策不転換について
ア援助制度創設・整備義務違反
(ア)前記第2・1(2)アのとおり,当該公務員の公権力の行使に当たる行
為が同項の適用上違法であるといえるためには,当該公務員が職務上の
法的義務に違反したことだけではなく,その法的義務について当該公務
員が当該被害者個人に対して負うものであることが必要となる。前記第
2・1(2)イ(エ)のとおり,厚生大臣には,非入所者を含む患者に対し,
遅くとも昭和35年の時点において,隔離政策を転換し,在宅医療制度
を構築するために相当な措置をとるべき法的義務を負っていたものであ
るが,厚生大臣が,非入所者の子である控訴人に対して,このような法
的義務を負っているかについて検討する。
厚生大臣は,前記第2・1(2)イ(ア)のとおり,新法の下でも,患者の
ほぼ全員を収容の対象とする収容を徹底するなどして,隔離政策を遂行
してきたが,隔離政策の遂行により,療養所に収容されて隔離されたの
は患者であって,その家族ではない。また,隔離政策の下で,ハンセン
病の治療が受けられる療養所以外の医療機関が限られ,在宅医療制度が
構築されなかったが,その結果として,ハンセン病の治療を受けられる
機会が極めて制限され,入所せずに治療を受けることが容易でなかった
ことに基づく損害を被ったのは,患者であって,その家族ではない。し
たがって,隔離政策が転換され,在宅医療制度を構築するために相当な
措置がとられたとしても,患者の家族の権利利益に直接的な影響がある
とはいい難い。
加えて,控訴人が,Aのハンセン病罹患を理由に同級生等から不利益
な取扱いを受けたり,Aとともに近隣住民等から悪質な嫌がらせや排除
行為などの差別にさらされ続け,近隣の医療機関から差別的対応を受け
たとは認められない(前記第1・2(4),(5),(7))。控訴人が,Aの
ハンセン病の治療のために極めて多額の経済的負担を強いられて,その
生活が困窮したとは認められないし(同(6)),Aのために控訴人の仕
事の選択肢などが制約されたとも認められない(同(8))。
以上の諸点に照らせば,厚生大臣が,非入所者の子である控訴人に対
して,隔離政策を転換し,在宅医療制度を構築するために相当な措置を
とるべき法的義務を負っているとはいえない。
(イ)この点,控訴人は,優生思想を色濃く反映した隔離政策及び無らい
県運動が,患者本人のみならずその家族をも標的としたものであり,そ
の結果,家族の衣類等が消毒の対象となり,患者の家族も調査,監視の
対象とされ,患者の子を「未感染児」と呼称して療養所内又はその近接
地に設置された保育所に入所させ,旧優生保護法が制定され,ハンセン
病にかかりやすい体質が存在し,それが遺伝するという体質遺伝的疾病
観を前提とする優生手術等が患者及びその配偶者に実施されたなどと指
摘し,当審証人Rcは,同人作成の意見書(甲123)及び当審証人尋
問において,同趣旨の供述をする。
しかしながら,帝国議会での旧法の質疑における政府委員の答弁を見
ても,当局はハンセン病が慢性の伝染病であって,遺伝病ではないと考
えているかなどと質問されて,ハンセン病自体が遺伝することはないと
明確に答弁した上で,らい菌を受け入れやすい体質を有しているとき
に,それが遺伝することもあるかもしれないが,学問上の遺伝ではない
と考える旨答弁しており(前記第1・1(2)ア(ク)),控訴人指摘のよう
な体質遺伝的疾病観を全面的に肯定したものとはいえないことに加え,
厚生省優生結婚相談所が昭和16年に作成した「結婚と癩病」と題する
書面においても,ハンセン病にかかりやすい素質は学問的に証明されて
いない旨記載されていること(同(1)エ(ア)b)に照らせば,内務省及び
厚生省の官僚の中に,ハンセン病の発病が体質に影響されることを認め
る者がいたこと(同(1)エ(ア)b)を考慮しても,体質遺伝的疾病観を根
拠として,旧法が制定され,旧法の下での隔離政策が推進されたとは認
められない。また,新法の国会審議においても,新法の提案理由は,ハ
ンセン病が慢性の伝染疾患であって,根治が困難であることとされ,患
者の隔離以外にハンセン病の予防方法のないことが強調されていたこと
に照らせば(前記第1・1(2)イ(キ)),体質遺伝的疾病観を根拠として
新法が制定され,新法の下での隔離政策が推進されたとは認められな
い。
当審証人Rcは,新法に国立療養所からの退所規定が設けられなかっ
た背景として,ハンセン病が化学療法等で治ったとしても,ハンセン病
にかかりやすい体質は変わらず,そうした体質を持つ者が社会復帰して
子供をもうけると,そうした体質を受け継ぐ者が生じるおそれがあるた
め,患者の生涯隔離をD園長らが強く主張したことがあるなどと証言す
る。なるほど,D園長は,家族を含む収容強化を訴えていたが(前記第
1・1(2)イ(オ)),新法の退所規定についてみると,新法13条が入所
者に対する更生指導を規定しており(補正後の前提事実3(5)),新法
が入所者の退所を認めない建前をとっているのであれば,このような規
定を置く必要はないから,新法は入所者が退所できることを前提にして
いると考えられる上,新法の制定過程において,当局から,新法立案の
精神は患者を閉じ込めればいいというものではなく,症状が軽快して療
養所長により隔離療養の必要がないと認められれば,当然退所できる旨
の答弁がされ(前記第1・1(2)イ(キ)b),昭和28年に新法を所管す
る厚生省により作成された「らい予防法逐条説明」と題する文書にも新
法15条の説明として前記答弁と同趣旨の記載がある(同(2)ウ(エ))こ
とに照らせば,新法が患者の生涯隔離を指向し,入所者の退所を認めな
い建前をとっていないことは明らかであって,退所規定の不存在に関す
る当審証人Rcの証言は採用できない。
内務省が明治42年2月2日に発した訓令において,ハンセン病の予
防方法として患者と同居する家族の衣類等の消毒が掲げられていた(前
記第1・1(2)ア(ウ))ものの,同訓令においては,ハンセン病が患者と
接触したり患者の体液を介することによって感染するとされており(同
前記),ハンセン病の感染を予防するための措置として前記家族の衣類
等の消毒が規定されていたといえる。また,昭和6年に制定された旧法
でも病毒に汚染された物件の消毒に関する規定が置かれ(同(2)ア(ク)
b),新法の下でも汚染場所の消毒や汚染物件の消毒廃棄等に関する規
定が置かれたが(前提事実3(5)),旧法や新法にある消毒に関する規
定も,ハンセン病の感染を予防するための措置として定めれたものであ
る。したがって,前記内務省訓令,旧法及び新法にある消毒に関する規
定から,患者の家族が隔離政策の標的になっていたとはいえない。
明治33年以降,ハンセン病の全国調査が内務省により実施され,ハ
ンセン病の血統家系戸数又は患家の数もその調査の対象とされ(前記第
1・1(2)ア(ア)),新法施行後も厚生省から都道府県に対して,患者の
実態を把握してハンセン病予防推進の基礎資料とするために患者台帳を
作成し,そこに患者の家族の状況を記録するように指示されていたが
(同(2)ウ(ウ)),療養所への隔離の対象となったのは患者だけである
し,患者の家族の状況が調査されたのは患者の実態把握の一環であるに
すぎないといえる。したがって,患者の家族が調査されたという事実か
ら,患者の家族が隔離政策の標的になっていたとはいえない。
入所者が入所する際に同伴し,又は療養所内で出産した児童で,健康
な児童について,「未感染児童」と呼ばれていた時期があったものの,
「保育児童」という用語が使用されるようになった上,「未感染児童」
という用語自体が「UntaintedChildren」という外
国語の訳語に由来するものであったことに照らせば(同(2)ウ(イ)),前
記児童が「未感染児童」と呼ばれていた時期があったからといって,患
者の子がハンセン病を発症する可能性のある患者予備群として位置付け
られていたとはいえない。療養所内又はその近接地に設置された保育所
は,新法22条に基づいて入所者の児童に養育,養護その他の福祉措置
を講ずるために設置された施設であり,昭和29年10月8日の参議院
文部委員会において当局から,入所者の子は可能な限り一般の児童福祉
施設に入所させるように努力しており,前記保育所は応急の施設であっ
て,定員等の関係で急に一般の児童福祉施設に入所させられない場合に
やむなく前記保育所へ入所させている旨説明されていることに照らせば
(同(2)ウ(イ)),入所者の子がハンセン病を発症する可能性があるとみ
なされて,発症の有無を監視するために前記保育所に入所させられたと
はいえない。したがって,患者の子が「未感染児童」と呼ばれていた時
期があり,療養所内又はその近接地に設置された保育所に入所させられ
たことがあったとしても,患者の子が患者予備軍として位置付けられる
などして隔離政策の対象になっていたとは認められない。
当審証人Rcは,D園長が,昭和26年11月8日の参議院厚生委員
会で,「幼児の感染を防ぐために癩家族のステルザチョンというような
こともよく勧めてやらすほうがよろしいと思います。」などと述べたこ
とについて(前記第1・1(2)イ(オ)),体質遺伝的疾病観が背景にあ
り,D園長が,優生保護法のらい条項において優生手術の対象者が患者
本人と配偶者に限定されているのを生ぬるいと考えて発言したものであ
る旨証言する。しかし,公立療養所である全生病院長であったD園長
は,公立療養所で男女間の交渉を厳重に取り締まっていたのを改めて,
男女間の交渉を認める方が所内の秩序維持に役立つと考えて結婚を許す
条件として優生手術を実施し,これを契機として全国の療養所に優生手
術が普及した(同(2)ア(オ))。D園長は,優生手術を勧める理由とし
て,「子供が生まれると癩予防の意味においても非常に危険でありまた
母体を危険にし又病状を悪化させるおそれがある。」と述べている(同
(2)イ(オ))。また,優生保護法の立法提案者が共著者となった書籍にお
いては,優生保護法のらい条項に関し,先天的にハンセン病に対する抵
抗力が弱いことが考えられる旨言及されているけれども,ハンセン病が
伝染病である旨明記されているばかりか,それとともにらい条項が規定
された理由として,ハンセン病が幼児期に感染して長い潜伏期間を経て
発症するのが普通であって,完全に治療しうる方法がないことも指摘さ
れている(同(2)イ(ア))。以上のようなD院長の優生手術に関する考
え,立法者の著書から窺われる優生保護法のらい条項の趣旨に照らせ
ば,体質遺伝的疾病観を前提として,D園長が優生手術を勧めたとか,
療養所における優生手術が実施されたとか,優生保護法のらい条項が制
定されたとは認められない。
以上によれば,控訴人の前記指摘等は採用できない。
イ偏見・差別除去義務
(ア)控訴人は,遅くとも昭和35年以降,厚生大臣は,被控訴人国が創
出した患者の家族に対する偏見・差別を解消するために,患者の家族と
の関係でも,隔離政策を抜本的に転換し,ハンセン病には基本的に感染
のおそれがなく,患者の家族が社会内で生活することは公衆衛生上何ら
問題ないことを社会一般に広く周知徹底する義務を負っていた旨主張す
る。
しかしながら,これについては,被控訴人国が隔離政策を継続するは
るか以前から,患者の家族に対する偏見も存在していたのであるから
(前記第1・1(2)エ),被控訴人国によって患者の家族に対する偏見
又は差別が創出されたとまではいえない。したがって,厚生大臣は,患
者の家族に対する偏見又は差別の創出という先行行為があったことを理
由として,その除去のために相当な措置をとるべき法的義務があるとい
うことはできない。
(イ)ところで,隔離政策の遂行により患者に対する偏見・差別が助長さ
れ,それと同時に患者と接触する機会の多い患者の子その他の家族に対
する偏見・差別が助長されたことは否定し難い。しかし,隔離政策自体
は,患者を対象とするものである。また,患者の家族といっても患者と
の親疎・日常の接触も様々であり,患者自身に対する偏見・差別と比較
すると,患者の家族に対する偏見・差別の内容・程度も様々である。A
がハンセン病に罹患し,そのうわさが立った地域において控訴人が偏
見・差別の目でみられたことであろうことは容易に想定できるが,それ
以上に控訴人が主張するような具体的な偏見・差別を受けたと認めるこ
とができないことは,前記ア(ア)のとおりである。したがって,控訴人
に対し,厚生大臣が偏見・差別除去のために相当の措置等をとる義務が
あるとまでいうことはできない。
ウ以上のとおりであるから,厚生大臣は,控訴人に対し,公権力の行使た
る職務行為に国家賠償法上の違法性があったとはいえない。
(3)国会議員の立法不作為について
ア前記第2・1(3)アのとおり,国会議員の立法行為又は立法不作為が国
家賠償法の適用上違法となるかどうかは,国会議員の立法過程における行
動が個々の国民に対して負う職務上の法的義務に違反したかどうかの問題
であり,上記行動についての評価は原則として国民の政治的判断に委ねら
れるべき事柄であって,例外的にその立法不作為が同法の適用上違法の評
価を受けるのは,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保する
ために所要の立法措置をとることが必要不可欠であり,それが明白である
にもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合
や,法律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な
理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白
であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等
の立法措置を怠る場合などに限られるというべきである。
イそこで,本件立法不作為が非入所者の子である控訴人との関係において
国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるか否かについて検討す
る。
まず,新法5条による指定医の診察の対象者は患者であり,新法6条に
よる入所勧奨等の対象者は患者又はその保護者であり,新法7条による従
業禁止処分の対象者は患者であり,新法8条による汚染場所の消毒の対象
者は患者又はその死体があった場所の管理者等であり,新法9条による汚
染物件の消毒廃棄等の対象者は患者が使用又は接触した物件の所持者であ
る。これらの規定は,患者の家族を義務の名宛て人とはしておらず,患者
の家族が汚染場所又は汚染物件の消毒等を命じられたとしても,それは,
汚染場所を管理し,又は汚染物件を所持するなどしていたためであって,
患者と家族関係にあるために生じるものではない。新法の規定が,患者の
家族の憲法上の権利を直接的に動揺させ,侵害するものであるとはいい難
い。
また,前記第2・1(3)イのとおり,新法は,隔離政策の継続を義務づ
けていたわけではなく,新法の解釈上は,隔離政策を転換する余地も残さ
れていたといえる。
以上によれば,本件立法不作為について,国家賠償法1条1項の適用の
観点からみると,患者の家族に憲法上保障されている権利行使の機会を確
保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白
であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠
り,また憲法上保障され又は保護されている患者の家族の権利利益を合理
的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反することが明白である
にもかかわらず国会が正当な理由なく長期にわたって改廃等の立法措置を
怠っていたなどと評価することはできない。したがって,本件立法不作為
は,非入所者の子である控訴人との関係において国家賠償法1条1項の適
用上違法の評価を受けるものではないというべきである。
ウ(ア)この点,控訴人は,遅くとも昭和40年には,被控訴人国が創出し
た患者の家族に対する偏見・差別を解消すべく,隔離政策を転換し,ら
い予防法を撤廃すべき義務を負っていた旨主張する。
しかし,前記(2)のとおり,患者の家族に対する偏見・差別も,患者
に対する偏見・差別と同様に古くから存在していたのであり,被控訴人
国が隔離政策の実施により患者の家族に対する偏見・差別を創出したと
はいえない。前記イのとおり,新法の規定が,患者の家族の憲法上の権
利を直接的に動揺させ,その侵害にわたるものとはいい難いし,隔離政
策の転換が実現される余地が新法の解釈上は残されており,患者の家族
に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措
置をとることが必要不可欠であり,それが明白であるとはいえないし,
また新法の規定が憲法上保障され又は保護されている患者の家族の権利
利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反すること
が明白であるとはいえない。よって,控訴人の前記主張は採用できな
い。
(イ)控訴人は,非入所者の家族が利用できた一般的な社会保障制度で
は,その申請過程で,生活困窮又は身体障害の原因である非入所者のハ
ンセン病罹患履歴が明らかになるため,非入所者の家族は,非入所者が
療養所へ入所させられたり,非入所者の家族自身が偏見・差別を受ける
ことに対する恐れから,一般的な社会保障制度を利用することが困難な
状況に置かれており,非入所者は,生活費や治療費として多額の経済的
負担を強いられて,非入所者の子供の成長に必要な生活条件を整えられ
ず,その成長発達権が侵害されており,国会議員もこれを認識していた
から,遅くとも昭和40年には,患者の家族に対する援助制度を整備・
実現することを内容とする立法をすべき義務を負っていた旨主張する。
しかし,前記第2・1(2)アのとおり,厚生大臣には,隔離政策を抜
本的に転換し,在宅医療制度を構築すべき義務があったのであり,厚生
大臣が隔離政策の転換義務を履行していれば,患者であることが露見し
たからといって非入所者が入所を強制される事態に陥ることもなく,非
入所者の家族が非入所者の療養所への入所を恐れて一般的な社会保障制
度の利用を躊躇する事態は生じ得ないし,抗ハンセン病薬の一部しか保
険診療で使用できないなどといった制度的欠陥は是正されたはずであ
る。したがって,非入所者が療養所への入所に対する恐れから一般的な
社会保障制度の利用が困難な状況にあり,ハンセン病の治療が保険診療
の対象外となって非入所者が治療費等のために多額の経済的負担を強い
られたとしても,患者に対する援助制度の整備・実現に係る立法義務が
あるということはできない。また,社会保障制度の申請過程でハンセン
病の罹患履歴が明らかになるとしても,新法3条は患者のみならず患者
の家族に対する差別的取扱いを禁止し(前提事実3(5)),それが社会
保障を担当する公務員にも課せられていることは明らかであるし,社会
保障を担当する公務員は職務上知り得た秘密について守秘義務を負い,
したがって,申請した非入所者が患者であることが外部に漏れて,それ
を発端に非入所者が偏見・差別を受けることは想定されていない。した
がって,非入所者が社会保障制度の申請によって偏見・差別を受けるこ
とを恐れることをもって,患者に対する援助制度の整備・実現に係る立
法義務があるということはできない。
(4)内閣の法案提出義務について
前記(3)のとおり,立法について固有の権限を有する国会ないし国会議員
の前記立法不作為につき,国家賠償法1条1項の適用上違法性を肯定するこ
とができないものである以上,国会に対して法律案の提出権を有するにとど
まる内閣の前記法律案不提出についても,同項の適用上違法性を観念する余
地のないことは当然というべきである。したがって,内閣の法案提出義務に
係る控訴人の主張は採用できない。
2小括
以上によれば,控訴人個人の被控訴人国に対する損害賠償請求権の発生原因
事実たる違法行為が存在しないというべきである。
第4被控訴人県に対する国家賠償請求について
1責任原因
(1)費用負担者の賠償責任(国家賠償法3条1項)
控訴人は,機関委任事務の一環としてらい予防事業を実施した知事や職員
の給与を負担してきた被控訴人県も,被控訴人国の行為について国家賠償法
上の責任が発生するのであれば,費用負担者として同様の責任を負担し,ま
た,都道府県職員が隔離政策遂行という加害行為を担っており,加害行為を
担う物的・人的体制に対する費用を負担してきたのであるから,費用負担者
としての責任を負う旨主張する。
確かに,被控訴人県知事は,日本国憲法制定後,平成11年法律第87号
による改正前の地方自治法148条に基づいて,機関委任事務として,隔離
政策の遂行などのハンセン病対策事業を実施してきたものであり(前提事実
3(6)),この事務を実施した被控訴人県の知事及び職員に対する給与を負
担したことが認められる(弁論の全趣旨)。
しかしながら,控訴人の主張に係るA又は控訴人自身に対する加害行為
のうち国会議員の立法不作為,内閣の法案提出義務違反及び厚生大臣の隔
離政策の転換義務違反における加害公務員は,国会議員,内閣構成員又は
厚生大臣などであって,被控訴人県の知事や職員ではあり得ず,被控訴人
県は,これらの加害公務員に対して給与を負担していない。したがって,
被控訴人県は,国会議員の立法不作為,内閣の法案提出義務違反及び厚生
大臣の政策転換義務違反について,国家賠償法3条1項に基づく損害賠償
義務を負わないというべきである。
これについて,控訴人は,加害行為は,作為義務違反だけではなくて,隔
離政策の継続と隔離収容体制の維持とこれによる偏見・差別の創出・助長と
いう積極的な行為を含むものであると主張している。なるほど,被控訴人県
は,日本国憲法制定後,被控訴人国の機関委任事務として隔離政策遂行など
のハンセン病対策事業を実施してきたのであるが,被控訴人県の知事及び職
員は,ハンセン病対策事業に関する事務について厚生大臣の指揮監督下にあ
り,厚生大臣において新法が廃止されるまで隔離政策を遂行していたのであ
るから,隔離政策の遂行を拒否し,隔離政策を抜本的に転換すべき職務上の
注意義務があったとはいえない。
したがって,控訴人の前記主張は採用できない。
(2)被控訴人県のAに対する独自の責任
ア控訴人は,被控訴人県が,機関委任事務の一環として隔離政策を推進し
ただけではなく,全国に先駆けて鳥取県癩予防協会を設立し,これを母体
として十坪住宅運動を展開するなどして自らも無らい県運動を強力に推進
して,患者に対する偏見・差別を創出,助長,維持し,患者が鳥取県内で
平穏に生活するのが困難な状況を創出してきたところ,遅くとも昭和35
年にはハンセン病が隔離政策を用いねばならないほどの特別な疾患ではな
くなっていたことを認識していたから,条理上,①患者に対応,接触する
県関係職員や県民に対し,ハンセン病の知識の普及や教育を行い,患者が
地域社会で生活しても公衆衛生上問題がないことを社会一般に周知徹底す
べき義務,②患者が適切な治療・介護を受けられるための医療体制・福祉
体制を整備した上でその情報を周知する義務を負っていたのに,これらを
怠っており,被控訴人県の無らい県運動における活動は法的には独立した
被控訴人の県の行為として評価されるべきである旨主張する。
しかしながら,昭和11年に就任したG知事が無らい県運動に熱心に取
り組んだ結果として,財団法人鳥取県癩予防協会が設立され,これを母体
として十坪住宅運動が展開されて昭和12年5月末には同運動に対して2
万8163円03銭もの多額の寄付金が寄せられるなどして全国から注目
を浴びたものの,G知事の離任後はこれが低調なものとなって推移したこ
とに照らせば(前記第1・1(2)ア(サ)b),同県における無らい県運動が
盛んになって全国的に注目を浴びるようになったのは,被控訴人国によっ
て任命された官吏であるG知事の意向によるところが大きい上,無らい県
運動自体は被控訴人国によって組織的,体制的に推進されていたものであ
って(同(2)ア(サ)a),被控訴人県における戦前の無らい県運動は,この
延長線上にあったと位置付けることができる。日本国憲法の施行と同時に
地方自治法が施行されて同知事が都道府県の純然たる機関となった後も,
隔離政策遂行などのハンセン病対策事業は,被控訴人国の機関委任事務と
され,被控訴人県の知事及び職員は,同事業に関する事務について厚生大
臣の指揮監督下にあり,厚生大臣は,昭和22年11月6日付けで,都道
府県知事に対し,「無癩方策実施に関する件」と題する通達を発するなど
して新法が廃止されるまで隔離政策を遂行していたのであるから(同(2)
イ(ウ)),日本国憲法下における被控訴人県による隔離政策の遂行及び無
らい県運動の推進も,国の機関として厚生大臣の包括的な指揮監督の下で
実施されたものであって,被控訴人県独自の政策であるとはいえない。し
たがって,被控訴人県による隔離政策の遂行及び無らい県運動の推進が,
ハンセン病に対する偏見・差別を助長し維持させるものであったとして
も,条理上,被控訴人県に対してAとの関係で控訴人が主張する前記のよ
うな義務を発生させるものではないというべきである。
よって,控訴人の前記主張は採用できない。
イ控訴人は,被控訴人県が,被控訴人国の許容する範囲内で,退所者又は
非入所者の存在を認め,それらの者に独自の対応をすることが可能であ
り,退所者の再入所あるいは非入所者の入所の判断については狭いながら
も被控訴人県に一定の裁量権が与えられていたから,被控訴人県自身の裁
量によって退所者又は非入所者を入所させない,すなわち在宅治療とする
と判断した以上,被控訴人県としては在宅治療者に対する医療上,福祉上
の独自の行政責任を負い,機関委任事務を理由として被控訴人県のAに対
する在宅医療体制整備義務が否定されるものではないなどと主張する。
しかしながら,患者の在宅医療制度に不備が生じていた原因は,厚生大
臣が隔離政策を採用し,抗ハンセン病薬に対する保険適用が限定的なもの
であったことにあるところ,ハンセン病対策事業について厚生大臣の包括
的な指揮監督下にあった被控訴人県知事には隔離政策を転換するとか,ま
た抗ハンセン病薬を保険適用とする権限もないため,患者の在宅医療制度
の不備を改善する権限があったとはいえない以上,被控訴人県知事の判断
により療養所に入所させなかった患者が存在していたとしても,患者が適
切な治療や介護を受けることができるための医療体制を整備すべき職務上
の注意義務を負っていたとはいえない。
加えて,前記認定事実によれば,Aは,昭和31年頃にa町の家の周囲
でハンセン病に罹患したといううわさが立ち始め,昭和34年3月半ばに
a町の家から大阪へ転居する前に岡山大学医学部三朝分院及び鳥取赤十字
病院を受診したものの,ハンセン病に似ていると診断されたにとどまって
おり(前記第1・1(3)ア(イ),(ウ)),大阪へ転居してから昭和41年3
月24日まで阪大皮膚科別館に通院してハンセン病の治療を受け,昭和4
0年2月24日付けで御届が大阪府知事に提出されたが,御届に記載され
たAの住所地が三男のものであって,大阪府ではAの居住地が不明である
とされ,患者として登録されず(同(3)イ(ア)及び同(ウ)),大阪府が被控
訴人県から平成11年に御届の有無について照会された際には該当なしと
回答し,大阪府が平成12年7月31日に控訴人に対して御届の存在を認
めるまでは,被控訴人県において御届の存在を認識していなかった(同
(4)ウ)。Aは,昭和42年春頃に鳥取に帰郷した後も,昭和55年6月
12日に倉吉保健所の職員と面談した際には患者であることを否定し(同
(3)ウ(ウ)),母来寮に入所後に様々な医療機関を多数回にわたって受診し
たが,ハンセン病について指摘されることはなく(同(3)ウ(カ)),平成3
年9月26日に倉吉保健所職員に対して,自分がリュウマチである旨述べ
(同(3)ウ(キ)),一般人がAの外見からAがハンセン病であると認識でき
たとは認められず(前記第1・2(5)),控訴人ですらAの生前にはAが
ハンセン病に罹患したことはないと認識していた(前記第1・1(4)
ア)。以上の諸事情に照らせば,Aが死亡するまで,被控訴人県において
Aがハンセン病に罹患していた事実を認識していなかったと推認され,被
控訴人県において同事実を認識し得たともいえないから,Aについて被控
訴人県自身の裁量によって在宅治療とすると判断できたとは認められず,
控訴人の前記主張はその前提を欠くものである。
よって,控訴人の前記主張は採用できない。
ウ控訴人は,新法に差別禁止条項があるので,被控訴人県が独自に差別解
消策をとることは機関委任事務に反するものではなく,患者に対して相談
事業を行い,これを通じて,差別を受ける患者自身の偏見・差別意識を緩
和,解消し,良好な家族関係や地域生活を築く基礎とすることも一つの偏
見・差別解消策であるといえ,機関委任事務の範囲内で独自の偏見・差別
解消策を行うことは十分可能であったから,偏見・差別解消策を講じる義
務があるのに,これを怠った旨主張する。
しかしながら,隔離政策の遂行により患者に対する偏見・差別が助長さ
れたことは否定し難いものの,前記イのとおり,ハンセン病対策事業につ
いて隔離政策を採用する厚生大臣の包括的な指揮監督下にあった被控訴人
県知事には隔離政策そのものを転換する権限がないことからすると,前記
のような偏見・差別の助長について被控訴人県に責めに帰すべき事由があ
ったとはいえず,したがって,被控訴人県において患者に対する相談事業
を独自に行うなどして患者に対する偏見・差別解消策を講じる職務上の注
意義務があるとはいえない。
また,前記イのとおり,Aが死亡するまで,被控訴人県においてAがハ
ンセン病に罹患していた事実を認識していなかったと推認され,被控訴人
県において同事実を認識し得たともいえないから,被控訴人県において,
Aに対してAがハンセン病であることを前提とした施策を行うことができ
る状況にあったとはいえず,控訴人の前記主張はその前提を欠くものであ
る。
よって,控訴人の前記主張は,被控訴人県のAに対する国家賠償責任の
有無に関する判断を左右するものではなく,採用できない。
(3)被控訴人県の控訴人に対する独自の責任
ア控訴人は,被控訴人県が,機関委任事務の一環として隔離政策を推進し
ただけではなく,全国に先駆けて鳥取県癩予防協会を設立し,これを母体
として十坪住宅運動を展開するなどして自らも無らい県運動を強力に推進
して,患者の家族に対する偏見・差別を創出,助長,維持し,患者の家族
も鳥取県内で平穏に生活するのが困難な状況を創出してきたところ,遅く
とも昭和35年にはハンセン病が隔離政策を用いねばならないほどの特別
な疾患ではなくなっていたことを認識していたから,条理上,①患者及び
その家族に対応,接触する県関係職員や県民に対し,ハンセン病の知識の
普及や教育を行い,患者の家族が地域社会で生活しても公衆衛生上問題が
ないことを社会一般に周知徹底すべき義務,②患者の家族の偏見・差別に
対する恐怖心を軽減するため,その家族に対する相談体制を整備・充実さ
せるべき義務,③患者が適切な治療・介護を受けられるための医療体制・
福祉体制を整備した上でその情報を周知する義務を負っていたのに,これ
らを怠っており,被控訴人県の無らい県運動における活動は法的には独立
した被控訴人の県の行為として評価されるべきである旨主張する。
しかしながら,前記(2)アのとおり,被控訴人県における戦前の無らい
県運動が盛んになったのは,昭和11年に就任したG知事の意向によると
ころが大きい上,無らい県運動自体は被控訴人国によって組織的,体制的
に推進されていたものであって,被控訴人県における戦前の無らい県運動
もこの延長線上にあったと位置付けられ,また,日本国憲法下における被
控訴人県による隔離政策の遂行及び無らい県運動の推進も,厚生大臣の包
括的な指揮監督の下で実施されたものであって,被控訴人県独自の政策で
あるとはいえない。したがって,被控訴人県による隔離政策の遂行及び無
らい県運動の推進が,患者の家族に対する偏見を助長するものであったと
しても,条理上,被控訴人県に対して控訴人との関係で控訴人が主張する
前記のような義務を発生させるものではないというべきである。
よって,控訴人の前記主張は採用できない。
イ控訴人は,被控訴人県が,被控訴人国の許容する範囲内で,退所者又は
非入所者の存在を認め,それらに独自の対応をすることが可能であり,退
所者の再入所あるいは非入所者の入所の判断については狭いながらも被控
訴人県に一定の裁量権が与えられていたから,被控訴人県自身の裁量によ
って退所者又は非入所者を入所させない,すなわち在宅治療とすると判断
した以上,被控訴人県としては在宅治療者に対する医療上,福祉上の独自
の行政責任を負い,機関委任事務を理由として被控訴人県の控訴人に対す
る在宅医療体制整備義務が否定されるものではないなどと主張する。
しかしながら,前記(2)イのとおり,被控訴人県知事には,患者の在宅
医療制度の不備を改善する権限があったとはいえない以上,被控訴人県知
事の判断により療養所に入所させなかった患者が存在していたとしても,
患者が適切な治療や介護を受けることができるための医療体制を整備すべ
き職務上の注意義務を負っていたとはいえない。
加えて,前記(2)イのとおり,Aが死亡するまで,被控訴人県において
Aがハンセン病に罹患していた事実を認識していなかったと推認され,被
控訴人県において同事実を認識し得たともいえないのであるから,Aにつ
いて被控訴人県自身の裁量によって在宅治療とすると判断されたとは認め
られず,控訴人の前記主張はその前提を欠くものである。
よって,控訴人の前記主張は採用できない。
ウ控訴人は,新法に差別禁止条項があるので,被控訴人県が独自に差別解
消策をとることは機関委任事務に反するものではなく,患者の家族に対し
て相談事業を行い,これを通じて,差別を受ける患者の家族自身の偏見・
差別意識を緩和,解消することも一つの偏見・差別解消策であるといえ,
機関委任事務の範囲内で独自の偏見・差別解消策を行うことは十分可能で
あったから,偏見・差別解消策を講じる義務があるのに,これを怠った旨
主張する。
しかしながら,隔離政策の遂行により患者の家族に対する偏見・差別が
助長されたことは否定し難いものの,前記イのとおり,ハンセン病対策事
業について隔離政策を採用する厚生大臣の包括的な指揮監督下にあった被
控訴人県知事には隔離政策を転換する権限がないことからすると,前記の
ような偏見・差別の助長について被控訴人県に責めに帰すべき事由があっ
たとはいえず,したがって,被控訴人県において患者の家族に対する相談
事業を独自に行うなどして患者の家族に対する偏見・差別解消策を講じる
べき職務上の注意義務があるとはいえない。
前記イのとおり,Aが死亡するまで,被控訴人県においてAがハンセン
病に罹患していた事実を認識していなかったと推認され,被控訴人県にお
いて同事実を認識し得たともいえないから,被控訴人県において,Aの生
存中に,控訴人に対して,Aがハンセン病である,すなわち控訴人が患者
の家族であることを前提とした施策を行うことができる状況にあったとは
いえない。
控訴人は,Aの死亡後,被控訴人県の職員に対して種々の不満を述べる
などしているが,前記第2・3(1)イ(カ)のとおり,同職員の控訴人に対す
る一連の対応について不適切な点はなく,職務上の注意義務に対する違反
があるとはいえない。
よって,控訴人の前記主張は,被控訴人県の控訴人に対する国家賠償責
任の有無に関する判断を左右するものではなく,採用できない。
2小括
以上によれば,控訴人の被控訴人県に対する請求について,費用負担者とし
ての責任も,A及び控訴人に対する被控訴人県独自の責任も認められない。
第4章結論
以上の次第であるから,控訴人の請求は,いずれも理由がなく,これと
同旨の原判決は結論において相当である。
よって,本件控訴は理由がないから,これを棄却することとし,主文の
とおり判決する。
広島高等裁判所松江支部
裁判長裁判官栂村明剛
裁判官光吉恵子
裁判官田中良武
(別紙)
基本合意書
ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会と国(厚生労働大臣)は,ハンセ
ン病患者であった者が提訴時に死亡している場合の当該死亡者の相続人である原告
及び入所歴のないハンセン病患者・元患者の原告が提起した訴訟に関し,次のとお
り,司法上の解決(裁判上の和解)についての基本事項を合意した。
一謝罪
1国は,熊本地方裁判所平成13年5月11日判決において認められた国の法
的責任を深く自覚し,長年にわたるハンセン病隔離政策とらい予防法により入
所歴なき原告を含む患者・元患者の人権を著しく侵害し,ハンセン病に対する
偏見差別を助長し,ハンセン病政策の被害者に多大な苦痛と苦難を与えてきた
ことについて真摯に反省し,衷心より謝罪する。
2国は,入所歴なき原告を含む患者・元患者に対し,その名誉を回復し,精神
的苦痛を慰謝することを目的とする謝罪広告を行う。
謝罪広告の実施については,ハンセン病問題対策協議会において,すでに協
議・決定され,予定されている謝罪広告に含めるものとする。
二一時金の支払
1国は,原告に対し,損害の賠償等として,平成13年12月7日に熊本地方
裁判所が示した和解に関する所見を踏まえて,和解一時金を支払う。
2相続人からの請求について,当該原告が相続人であること及びその相続分に
ついては,証拠に基づき,裁判所が認定する。
原告は,相続を原因とする不動産の所有権移転登記手続に要する程度の資
料を証拠として提出する。
3ハンセン病療養所の入所歴のない者のハンセン病の発症時期については,平
成13年12月18日付けの熊本地方裁判所の補充所見で示された医師による
確定診断を基本とし,当事者間に意見の相違があるものについては,証拠に基
づき,裁判所が認定する。
原告は,診断書ないしこれに準ずる資料,陳述書等を証拠として提出す
る。
三入所歴なき原告について
国は,入所歴なき原告について,主として,合理的な理由のなくなった「らい
予防法」を廃止しなかったために,ハンセン病療養所に入所させて治療を行うと
いう政策の結果として,ハンセン病の治療を受けられる機会が極めて限られて,
入所せずに治療を受けることが容易ではなかったことに基づく損害を与えたこと
を認める。
四加算金等
1原告は,遅延損害金及び弁護士費用の支払を求めない。
2訴訟費用は各自の負担とする。
ただし,印紙代については,既に貼付した分を除き,全額国の負担とする。
五名誉回復等の施策について
1原告と国は,遺族による死没者の遺骨引取りが,死没者の名誉回復,ハンセ
ン病に対する偏見差別の解消につながるものであるとの基本認識にたったうえ
で,死没者の意志を尊重しつつ,遺族の遺骨の引取りにつき,それぞれ努力す
る。
2遺骨の引取り等,その他の事項については,別途協議する。

戻る



採用情報


弁護士 求人 採用
弁護士募集(経験者 司法修習生)
激動の時代に
今後の弁護士業界はどうなっていくのでしょうか。 もはや、東京では弁護士が過剰であり、すでに仕事がない弁護士が多数います。
ベテランで優秀な弁護士も、営業が苦手な先生は食べていけない、そういう時代が既に到来しています。
「コツコツ真面目に仕事をすれば、お客が来る。」といった考え方は残念ながら通用しません。
仕事がない弁護士は無力です。
弁護士は仕事がなければ経験もできず、能力も発揮できないからです。
ではどうしたらよいのでしょうか。
答えは、弁護士業もサービス業であるという原点に立ち返ることです。
我々は、クライアントの信頼に応えることが最重要と考え、そのために努力していきたいと思います。 弁護士数の増加、市民のニーズの多様化に応えるべく、従来の法律事務所と違ったアプローチを模索しております。
今まで培ったノウハウを共有し、さらなる発展をともに目指したいと思います。
興味がおありの弁護士の方、司法修習生の方、お気軽にご連絡下さい。 事務所を見学頂き、ゆっくりお話ししましょう。

応募資格
司法修習生
すでに経験を有する弁護士
なお、地方での勤務を希望する先生も歓迎します。
また、勤務弁護士ではなく、経費共同も可能です。

学歴、年齢、性別、成績等で評価はしません。
従いまして、司法試験での成績、司法研修所での成績等の書類は不要です。

詳細は、面談の上、決定させてください。

独立支援
独立を考えている弁護士を支援します。
条件は以下のとおりです。
お気軽にお問い合わせ下さい。
◎1年目の経費無料(場所代、コピー代、ファックス代等)
◎秘書等の支援可能
◎事務所の名称は自由に選択可能
◎業務に関する質問等可能
◎事務所事件の共同受任可

応募方法
メールまたはお電話でご連絡ください。
残り応募人数(2019年5月1日現在)
採用は2名
独立支援は3名

連絡先
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所 採用担当宛
email:[email protected]

71期修習生 72期修習生 求人
修習生の事務所訪問歓迎しております。

ITJではアルバイトを募集しております。
職種 事務職
時給 当社規定による
勤務地 〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
その他 明るく楽しい職場です。
シフトは週40時間以上
ロースクール生歓迎
経験不問です。

応募方法
写真付きの履歴書を以下の住所までお送り下さい。
履歴書の返送はいたしませんのであしからずご了承下さい。
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所
[email protected]
採用担当宛