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平成15年(行ケ)第318号 特許取消決定取消請求事件
口頭弁論終結の日 平成16年9月2日
            判        決
     原       告      マーテック バイオサイエンセス コ
ーポレーション
     同訴訟代理人弁護士      大場正成
     同              尾崎英男
     同              嶋末和秀
     同              飯塚暁夫
     同     弁理士      平木祐輔
     同              大屋憲一
     同              田中夏夫
  被       告      特許庁長官 小川洋
     同指定代理人         種村慈樹
同              河野直樹
     同              一色由美子
     同              涌井幸一
     同              宮下正之
            主        文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期
間を30日と定める。
            事実及び理由
第1 請求
 特許庁が、平成10年異議第74647号事件について、平成15年3月5
日にした異議の決定を取り消す。
第2 事案の概要
 1 争いのない事実
(1) 原告は、平成4年1月22日、パリ条約による優先権を主張して(アメリ
カ合衆国への出願。優先権主張日、平成3年1月24日、以下「優先日」とい
う。)、発明の名称を「微生物油混合物およびその使用」とする発明につき特許出
願(特願平4-504606号)をし、平成9年12月19日に設定登録を受けた
特許(特許第2731035号、以下「本件特許」という。)の特許権者である。
  その後、訴外サントリー株式会社から、本件特許に対し、特許異議の申立
てがなされ、同異議申立ては、平成10年異議第74647号事件として特許庁に
係属した。原告は、平成13年8月9日、本件特許の明細書(甲2、以下「本件明
細書」という。)の1回目の訂正を請求したが、訂正拒絶理由の通知とともに取消
理由の通知がされたため、平成14年6月21日に2回目の訂正(以下「本件訂
正」という。)を請求し、平成15年2月3日に本件訂正に係る訂正請求書の手続
補正を行った。
  特許庁は、上記異議申立てについて審理を遂げ、平成15年3月5日、本
件訂正の請求は認められないとした上、「特許第2731035号の請求項1ない
し19に係る特許を取り消す」との決定(以下「本件決定」という。)をし、その
謄本は、同月25日、原告に送達された。
(2) 本件特許の請求項1ないし19に記載の発明(以下、「本件発明1」ない
し「本件発明19」といい、これら全てを「本件全発明」という。)の要旨は、本
件決定に記載された(6~7頁)、以下のとおりである。
【請求項1】DHAに富みEPAを本質的に含まない微生物油と、ARAに
富みEPAを本質的に含まない微生物油を得、ここで前記DHAとARAはトリグ
リセリドの形であり、これらの油を、調合乳に含まれるDHAとARAの量が母乳
に含まれるDHAとARAの量と同等となるような量だけ、調合乳に加える、調合
乳にDHAとARAを補う方法。
【請求項2】前記ARAを含む油が、少なくとも20%のARAを含む請求
の範囲第1項記載の方法。
【請求項3】前記DHAを含む油が、少なくとも25%のDHAを含む請求
の範囲第1項記載の方法。
【請求項4】前記ARAを含む油と前記DHAを含む油を調合乳に加えて、
ARA:DHAが約5:1から約2:1となる請求の範囲第1項記載の方法。
【請求項5】前記ARAを含む油と前記DHAを含む油を調合乳に加えて、
ARA:DHAが約2:1となる請求の範囲第4項記載の方法。
【請求項6】前記ARAを含む油を、ARAに富みEPAを本質的に含まな
い油の生産を誘導する条件下で、Pythiuminsidiousum又はMo
rtierellaalpinaを培養して得る請求の範囲第1項記載の方法。
【請求項7】前記DHAを含む油を、DH生産種のCrypthecodi
niumを培養して得る請求の範囲第1項記載の方法。
【請求項8】DHAに富む微生物油と、ARAに富む微生物油の混合物から
なり、前記DHAとARAはトリグリセリドの形であり、前記混合物は本質的にE
PAを含まない組成物。
【請求項9】前記DHAに富む微生物油が、少なくとも25%のDHAを含
む請求の範囲第8項記載の組成物。
【請求項10】前記ARAに富む微生物油が、少なくとも20%のARAを
含む請求の範囲第8項記載の組成物。
【請求項11】前記油を混合して、ARA:DHAが約5:1から約2:1
となる請求の範囲第8項記載の組成物。
【請求項12】前記油を混合して、ARA:DHAが約2:1となる請求の
範囲第11項記載の組成物。
【請求項13】前記ARAを含む油を、ARAに富みEPAを本質的に含ま
ない油の生産を誘導する条件下で、Pythiuminsidiousum又はM
ortierellaalpinaを培養して得る請求の範囲第8項記載の組成
物。
【請求項14】前記DHAを含む油を、DHAを生産する条件下で、DH生
産種のCrypthecodiniumを培養して得る請求の範囲第8項記載の組
成物。
【請求項15】少なくとも25%のDHAを含みEPAを本質的に含まない
微生物油と、ガンマリノレン酸含有油との混合物からなる組成物。
【請求項16】前記リノレン酸含有油が、サクラソウ、ルリヂサ又はクロフ
サスグリ種油からなる請求の範囲第15項記載の組成物。
【請求項17】前記リノレン酸含有油を、ガンマリノレン酸を生産する条件
下で、ガンマリノレン酸を生産する微生物を培養して得る請求の範囲第15項記載
の組成物。
【請求項18】前記微生物がMucorjavonicus又はMorti
erellaisabellinaである請求の範囲第17項記載の組成物。
【請求項19】DHAに富む微生物油とARAに富む微生物油の混合物から
なり、これらの油がDHAとARAのレベルが母乳に含まれるDHAとARAの量
と同等となるような量で含まれ、前記DHAとARAはトリグリセリドの形であ
り、前記微生物油は本質的にEPAを含まない調合乳。
(3) 本件決定は、別紙異議の決定書写し記載のとおり、本件訂正の請求を認容
せず、本件全発明を本件明細書の特許請求の範囲のとおりと認定した上、① 本件
明細書には本件発明1~14及び19(以下「本件各発明」という。)を、当業者
が容易に実施することができる程度に記載されているものとは認められないから、
本件各発明についての特許は、特許法36条4項に規定する要件を満たしていない
特許に対してなされたものであり、さらに、② 本件各発明は、ドイツ特許公報N
o.3920679 C2(甲3、以下「刊行物1」という。)、雪印乳業研究所
報告第90号(1990)(甲5、以下「刊行物3」という。)、Process
Biochemistry、p.117~125(1989)(甲6、以下「刊行
物4」という。)、J.DispersionScienceandTechn
ology 10(4&5)、p.561~579(1989)(甲7、以下「刊
行物5」という。)、Biotechnology、Vol.4、p.186~1
96(1986)(甲8、以下「刊行物6」という。)、Biochemicae
tBiophysicaActa316、p.56~65(1973)(甲1
0、以下「刊行物8」という。)に記載された各発明に基づいて、また、③ 本件
発明15は、上記各刊行物記載の発明に基づいて、本件発明16~18は、上記各
刊行物記載の発明に加えて米国特許No.4938984(甲9)に記載された発
明に基づいて、いずれも当業者が容易に発明をすることができたものであるから、
本件発明15~18に係る特許は、同法29条2項に規定に違反してされたもので
あり、いずれも取り消されるべきであるとしたものである。
 2 原告主張の本件決定の取消事由の要点
 本件決定は、本件各発明について、その構成要件である微生物油の解釈を誤
った結果、特許法36条4項の要件を満たしていないと誤って判断する(取消事由
1)とともに、刊行物1及び3には「DHAとARAに富みEPAを本質的に含ま
ない」組成物とすることについての示唆がないにもかかわらず、この点が容易であ
るとして、本件各発明の進歩性についての判断を誤った(取消事由2)ものである
から、違法として取り消されるべきである(原告は、本件訂正の適否は争わず、ま
た、本件発明15~18について、取消事由を主張するものではない。)。
(1) 特許法36条4項の要件違反についての判断の誤り(取消事由1)
  本件決定は、本件発明1の構成である「DHAまたはARAに富みEPA
を本質的に含まない微生物油」であって、「DHAとARAはトリグリセリドの
形」であるものとは、自然に生成される状態で、「DHAまたはARAに富みEP
Aを本質的に含まず、DHAとARAのすべてがトリグリセリドの形である微生物
油」を意味すると解せられる」(8頁)とした上、「本件特許明細書(注、本件明
細書)には、「DHAまたはARAに富みEPAを本質的に含まない微生物油」で
あって「DHAとARAのすべてがトリグリセリドの形であるもの」は記載されて
おらず、また、本件特許明細書には、トリグリセリド以外の脂質成分を含む微生物
油からトリグリセリドのみを分離する適切な手段について記載されているとはいえ
ない」と判断し、「本件発明1~14及び19を、当業者が容易に実施することが
できる程度に記載されているものとは認められない」(同頁)と判断した。
  本件発明の構成要件である「前記DHAまたはARAはすべてトリグリセ
リドの形」とある部分が、リン脂質等の構造のDHAやARAなど微量の不純物の
存在をも許さないことを意味するものでないことは、被告も認めるところであり、
そうである以上、原告もこれを争うものではない。しかし、本件明細書の記載が特
許法36条4項違反であるとする上記判断は、以下のとおり誤りである。
ア まず、本件発明1に係る特許請求の範囲の請求項1にある、「ここで前
記DHAとARAはトリグリセリドの形であり」とは、その微生物油における「前
記DHAとARAはトリグリセリドの形」であることを示したものであり、本件発
明1の微生物油は、いずれも精製油であって自然に生成される状態の粗製油は含ま
ないと解釈すべきである。
  確かに、「前記DHAとARAはトリグリセリドの形」との文言は、そ
れ自体では、文字どおり、微生物油に含有されているDHAやARAがトリグリセ
リドの形であること以上の意味を有するものではないが、上記のような解釈は、上
記の請求項1の文言から直接導き出されるものではなく、本件発明1の微生物油が
調合乳に添加されるものであることから導き出せるのである。
  すなわち、調合乳に添加される油は必ず精製油でなければならない。こ
の精製油は、原料となる動植物から採取した油(粗製油)を精製することによって
得られる。これに対し、粗製油には、トリグリセリド構造以外の特にリン脂質構造
の脂肪酸やその他の不純物も含有されるが、精製プロセスでトリグリセリド構造の
脂肪酸以外の不純物が除去されるから、精製油においては、全ての脂肪酸がトリグ
リセリド構造(トリグリセリドの形)である(ただし、リン脂質等の構造のDHA
やARAなどの微量の不純物の存在を全く排除するものではない。)。
  このように、「前記DHAとARAはトリグリセリドの形」とは、微生
物油における全ての脂肪酸はトリグリセリドの形であること、すなわち、本件発明
1の微生物油は、いずれも精製油であることをいうものと合理的に解釈できる。
イ 本件発明1に係る特許請求の範囲の請求項1は、上記のように解釈され
るところ、本件明細書の記載は、以下のとおり、特許法36条4項の要件を満すも
のである。
① 本件明細書の実施例5に記載されているDHASCO及びARASC
Oは、本件明細書中で各々「ドコサヘキサエン酸を含有する単細胞油」、「アラキ
ドン酸を含有する単細胞油」と定義されているが、この微生物油が精製油であるこ
と自体は明記されていない。
  しかし、食用の油は必ず精製油である。まして、本件発明1は乳児に
与える調合乳への添加物であり、調合乳の成分が純粋なものでなければならないこ
とは、国際的にも確立した、当業者の常識に属することであるから、粗製油を調合
乳に添加することはあり得ない。したがって、本件明細書の実施例5の油混合物に
用いられた微生物油及び同10の油混合物に用いられた微生物油が精製油であるこ
と、すなわち、ARA及びDHAがトリグリセリドの形である微生物油であること
は明らかである。
② そして、本件明細書の実施例1や3には、ARA及びDHAの粗製油
を製造する方法が記載され、この方法により製造された粗製油を、食油としての機
能を損なう、非グリセリド型の諸成分を効率的に分離して、利用価値の高い優れた
品質の油脂に仕上げるべく、慣用手段によって精製できることも当業者にとって自
明である。
  すなわち、技術文献(甲18~20、以下「本件技術文献」とい
う。)の記載から、食用油の精製技術について慣用手段が確立していることは明ら
かである。これらの各文献は、動植物油一般の精製について述べたものであるが、
微生物油においても、主成分はトリグリセリド構造の脂肪酸であり、含まれる不純
物の成分はリン脂質、遊離脂肪酸など、一般の動植物油と異なるところはないか
ら、これらの不純物を除去する精製手段も基本的に同じものとなり、動植物油一般
の精製技術は、微生物油においても同様に当てはまる。
  したがって、実施例1や3の方法により製造された粗製油が慣用手段
によって精製できること、精製によって得られる微生物油(精製油)の脂肪酸がト
リグリセリドの形であることは、当業者には自明である。
③ 以上のとおり、本件明細書には、「DHAまたはARAに富みEPA
を本質的に含まない微生物油」であって「DHAとARAはトリグリセリドの形」
であるものが、当業者が容易に実施し得る程度に記載されているのであるから、本
件明細書の記載は、本件発明1とこれを含む本件各発明に関し、特許法36条4項
の要件を満足するものである。
ウ① 本件決定は、本件明細書で引用された特許文献(以下「本件特許文
献」という。)で得られた微生物油が、トリグリセリドのみからなるものとは認め
られないと述べる(8頁)。
   しかし、例えば、特許第2830951号公報の発明の目的は、微生
物油の精製工程にあるのではなく、粗製油を抽出するまでの過程の方法にあるか
ら、公報中に精製に関する記載がなくても不合理ではない。そして、その使用目的
からして、当該発明の微生物油が実際に上記目的に使用されるに当たって予め精製
されることは明らかである。特表平6-505384号公報についても、同様であ
る。
 ② 本件決定は、A博士の宣誓供述書(以下「本件供述書」という。)に
も言及して、「本件特許明細書(注、本件明細書)に記載されている微生物からヘ
キサン抽出により得られるものには、トリグリセリドだけではなく、リン脂質も含
まれることを、同博士も認めている」(8頁)と述べる。
   しかし、本件供述書は、粗製油を得るときの抽出について述べている
のであって、微生物油の精製について述べたものではないから、本件発明1の実施
可能性を否定する根拠とはならない。
 ③ 本件決定は、本件明細書には、トリグリセリド以外の脂質成分を含む
微生物油からトリグリセリドのみを分離する適切な手段について記載されていない
と述べる(8頁)。
   しかし、粗製油を精製する手段は周知慣用手段であり、本件明細書に
それを記載することが求められるものではない。
(2) 本件各発明の進歩性ついての判断の誤り(取消事由2)
  本件決定は、「母乳代替物としてよりよいものとするために調合乳に対し
てARAとDHAを母乳にふくまれる量だけ添加すること、また、その際に、母乳
の構成脂質は主にトリグリセリドであるから、添加するARA又はDHAも主とし
てトリグリセリドの形のものとすべきこと、及び、ARAとDHAを添加すること
により同時に母乳にふくまれる他の成分、例えば、母乳に含まれる量がARAやD
HAよりも少ないEPAなどの量が影響を受けないようにすべきことは、当業者が
刊行物3および1に記載された事項から容易に想到し得ること」(17頁)、「A
RAおよびDHAの供給源として、刊行物4、5および8に記載された、ARA又
はDHAに富み、本質的にEPAを含まず、ARA又はDHAがトリグリセリドの
形であるものを含む微生物油を採用することは、当業者であれば容易になし得た」
(同頁)と、それぞれ判断し、本件発明1が刊行物1、3~6及び8に記載された
発明から容易になし得たと判断したが、誤りである。
ア まず、本件決定は、刊行物3には「調合乳を母乳と同じ脂肪酸組成及び
トリグリセリド組成に調節するためには、配合可能な油脂を適切に選択することが
必要であることが示されており」(16頁)と認定する。
  しかし、刊行物3は、調製乳に配合する多不飽和脂肪酸(以下「PUF
A」という。)の全ての成分について母乳の組成と一致することが望ましいとした
上、配合可能な油脂を選択し、その組合せによって人乳脂肪の優れた特徴を調製粉
乳に反映させることが重要であると記載しているだけで、油脂の組合せの選択を具
体的に示しておらず、まして、「ARAとDHAだけ」を調合乳に配合すべきPU
FAとしてはいない。
  刊行物1には、調合乳に配合すべき油脂について、(n-6)脂肪酸で
は、γリノレン酸、ジホモ-γ-リノレン酸、及び/又はARAを、(n-3)脂
肪酸では、オクタデカテトラエン酸、EPA及び/又はDHAを、所定の範囲の含
有量だけ配合することを記載しているが、「ARAとDHAだけ」を調合乳に配合
すべきPUFAとして選択することを、示唆する記載はない。
  また、刊行物1には、ARAやDHAとともに、EPAも乳児の神経系
及び脳が発達する際に必要とすると記載されており、同刊行物において、EPA
は、乳児が摂取すべき重要なPUFAと考えられているのであるから、当業者が当
然にEPAの摂取を抑制すべきと考えるとはいえない。実際のところ、刊行物1
は、PUFAを含有する人工乳を記載した唯一の引用文献であるが、その人工乳に
配合されたEPAは母乳の含有量よりも多い。これは、本件発明1の目的及び課題
を認識しない当業者が、調合乳に含有させるEPAの量について、本件決定の上記
判断のように考えないことを示している。
イ しかも、添加するARA又はDHAを母乳と同様にトリグリセリドの形
とすることが望ましいとしても、この望ましい結果を実現できる方法を実施可能な
発明として容易に想到できるか否かは、全く別の問題である。
  上記のとおり、刊行物3は、適当な油脂の組合せの選択が重要であると
しながら、具体的な組合せの選択を示していないし、また、刊行物1は、脂肪混合
中の脂肪酸がトリグリセリドの形であることを特に求めず、リン脂質やコレステロ
ールの形のものを許容しているのである。
  本件発明1の発明者は、DHAとARAのみを母乳と同等とし、EPA
や他の成分を実質上含ませない配合を目的とし、トリグリセリドの形のDHAやA
RAに富み、かつ、本質的にEPAを含まない各微生物油が存在することに着目し
て、初めてARAやDHAがトリグリセリドの形で添加される本件発明1の調合乳
を実施可能な発明として想到することができたのである。
ウ さらに、本件発明1の特定の2つの微生物油を選択することは、DHA
とARAは母乳と同等に含有するがEPAは含有しない配合とする本件発明1の目
的が認識されていなければ、なし得ることではない。
  そして、刊行物3及び1が、「ARAとDHAだけ」を調合乳に配合す
べきPUFAとして選択すること、EPAを本質的に含有させないことを示唆する
ものではないことは上記のとおりである。
  また、刊行物5は、ARAを生産する微生物を多数記載している。しか
し、同刊行物には、調合乳に微生物油を用いることの記載はなく、まして、ARA
を産生する微生物から採取される微生物油のうちEPAを含まない微生物油を選択
して調合乳に使用することを示唆する記載はない。刊行物4には、EPAとDHA
が含有された微生物が記載されているが、これらの微生物からトリグリセリドを主
成分とする微生物油が採取できることは具体的に記載されておらず、同刊行物に、
調合乳に微生物油を用いること、微生物から採取される微生物油のうちEPAを含
まない微生物油を選択することを示唆する記載はない。
  刊行物8には、ある実験条件の下でのDHAを含むトリグリセリドを検
出した微生物についての実験結果が記載されている。しかし、同刊行物には、この
微生物が実用できる微生物油を生産することも、また、仮に微生物油が得られたと
して、それを調合乳に使用することも、示唆する記載はない。
エ 以上のとおり、本件発明1には進歩性が認められるから、本件発明2~
7にも進歩性が認められる。
  また、本件発明8の組成物は、本件発明1の調合乳にDHAとARAを
補う方法において調合乳に加えられる微生物油の混合物であり、この組成物を用い
ることによって、DHAとARAは母乳の組成と同等で、EPAを含まない調合乳
を作ることができる。このような組成物は、刊行物1、3~6及び8のいずれに
も、また、それらの組合せにも示唆されていないから、本件発明8には進歩性が認
められる。
  したがって、本件発明8を引用する本件発明9~14にも、進歩性が認
められる。
  さらに、本件発明19は、調合乳の発明であり、本件発明1の方法によ
って作られた調合乳の発明に相当するから、本件発明19にも進歩性が認められ
る。
 3 被告の反論の要点
  本件決定の認定・判断は正当であり、原告主張の取消事由は、いずれも理由
がない。
(1) 取消事由1について
ア 本件決定は、本件発明1に係る特許請求の範囲の請求項1の「前記DH
AとARAはトリグリセリドの形」との部分について、「DHAまたはARAはす
べてトリグリセリドの形であることを通常意味する」と認定したものであるが、現
実には絶対的に100%純粋な物質を作ることが難しい場合があることは認める。
したがって、上記請求項1に記載された発明の実施可能要件を判断するに当たって
は、微量の不純物をも含まない物質を得るのが困難である場合があることに鑑み、
それぞれの「目的にかなう純度の物質」について実施可能要件を満たしていればよ
いとすべき場合はあると思料する。
  しかし、本件発明1の微生物油は調合乳に添加されるものであるから精
製油であるという原告の主張は、原告が自ら認めるように、上記の「前記DHAと
ARAはトリグリセリドの形であり」という文言から導き出されるものではない。
事実として、調合乳に添加される油は必ず精製油でなければならないとしても、こ
のことと、上記請求項1に記載の文言とは別個に扱われるべきものである。
イ また、原告は、上記請求項1についての原告の解釈を前提にして、本件
明細書の記載が特許法36条4項の要件を満たすものであると主張するが、以下の
とおり、誤りである。
① 本件明細書には、実施例5、10で使われているDHASCO、及び
ARASCOが、具体的にどの程度のトリグリセリドからなり、トリグリセリド以
外をどの程度含むのかについては、何も記載されていない。しかも、従来、調合乳
に配合されるのは、必ずしもトリグリセリドに限られなかったと認められる(刊行
物1)。そうすると、本件発明1の実施例5及び10に用いられるDHASCO及
びARASCOが、実質的にトリグリセリドからなる精製油であることが明らかで
あるとはいえない。
  したがって、本件明細書の実施例5にDHASCO及びARASCO
について記載されているからといって、本件発明1の調合乳に配合する微生物油と
して、DHAとARAが実質的にトリグリセリドからなる精製油を用いることが本
件明細書に記載されているとはいえない。
② 仮に、上記DHASCO及びARASCOが実質的にトリグリセリド
からなる精製油であったとしても、本件明細書にはその具体的組成が記載されてい
ないから、本件発明1の調合乳に添加すべき微生物油としては、どの程度のトリグ
リセリドを含むことが必要であり、どの程度までトリグリセリド以外の成分を含ん
でよいのか、本件発明1の目的に適合するトリグリセリドの純度はどの程度である
か、いずれも不明である。
  したがって、上記請求項1についての原告の解釈を前提にしても、本
件明細書の詳細な説明には、本件発明1が容易に実施しうる程度に記載されている
とはいえない。
③ 本件技術文献は、油脂の精製に関わる一般文献、あるいは酵母の産生
する単細胞油に関する文献であって、本件発明1で用いる微生物油の精製に関する
ものではない。
  したがって、これらの文献に記載された慣用手段をどのように適用す
れば、本件発明1の目的に適合する程度の純度にトリグリセリドを精製することが
できるのか、明らかとはいえない。
(2) 取消事由2について
ア 原告は、本件発明1は、ARAとDHAのみが母乳と同等の含有量で、
EPA及び他の長鎖PUFA成分は含有されない調合乳組成を選択したものである
と主張する。
  しかしながら、本件発明1に係る特許請求の範囲の請求項1は、本件発
明1における調合乳がARAとDHAのみを母乳と同等となるような量含み、EP
Aや他の長鎖PUFA成分を含まない配合であることを規定しているとはいえない
から、原告の上記主張は、上記請求項1の記載に基づかないものである。
イ 人乳代替物である調合乳に配合する油脂として、本件発明1における特
定の2つの微生物油のような特性を有するものを選択する動機は、刊行物3及び1
の記載に基づき、十分に示唆されているというべきである。
  そして、刊行物4、5及び8には、上記の特定の微生物油の供給源が記
載され、刊行物4及び5には、微生物油を食用油脂の供給源として用いようとする
ことが示されている。
  したがって、刊行物3及び1と刊行物4、5、8に記載された技術的事
項を組み合わせ、調合乳に配合する油脂として本件発明1の特定の2つの微生物油
を選択することは、当業者が本件特許の優先日当時の技術水準に基づいて容易に想
到し得ることである。
第3 当裁判所の判断
1 取消事由1(特許法36条4項の要件違反についての判断の誤り)について
(1) 本件決定は、本件発明1の構成要件である「前記DHAとARAはトリグ
リセリドの形」との部分について、「当該微生物油に含まれているDHAまたはA
RAはすべてトリグリセリドの形であることを通常意味すると認められる」(8
頁)と認定したところ、この認定が、本件特許の出願当時の当業者の技術を前提と
して、DHA又はARAが当該技術上可能な限りトリグリセリドの形であること
(精製油としての程度で足りるのか否かは、後記のとおり、争いがある。)を意味
しており、リン脂質等の構造のDHAやARAなど微量の不純物の存在を許さない
ものでないことは、当事者間に争いがない。なお、本件発明1の構成要件中の「A
RA」、「DHA」及び本件明細書における「ARA」、「DHA」の用語が、脂
肪酸の一種である「アラキドン酸(ARA)」、「ドコサヘキサエン酸(DH
A)」自体のみを意味するものではなく、アラキドン酸及びその化合物をも含むア
ラキドン酸類の総称として、ドコサヘキサエン酸及びその化合物をも含むドコサヘ
キサエン酸類の総称として、それぞれ使用されるものであることは、当事者間に争
いがないものと認められる(以下、上記意味におけるARAを、アラキドン酸自体
と区別するために、鍵括弧付きの「ARA」と表記する。「DHA」についても同
様に、ドコサヘキサエン酸自体と区別するために、「DHA」と表記し、上記意味
の脂肪酸類を、「脂肪酸」と表記する。)。
  原告は、本件決定が、「本件特許明細書(注、本件明細書)には、「DH
AまたはARAに富みEPAを本質的に含まない微生物油」であって「DHAとA
RAのすべてがトリグリセリドの形であるもの」は記載されておらず、また、本件
特許明細書には、トリグリセリド以外の脂質成分を含む微生物油からトリグリセリ
ドのみを分離する適切な手段について記載されているとはいえない」、「本件発明
1~14及び19を、当業者が容易に実施することができる程度に記載されている
ものとは認められない」(同頁)と判断したことが誤りであると主張するので、以
下検討する。
ア まず、原告は、本件発明1に係る特許請求の範囲の請求項1に、「ここ
で前記DHAとARAはトリグリセリドの形であり」とある部分は、その微生物油
における「前記DHAとARAはトリグリセリドの形」であることを示したもので
あるところ、本件発明1の微生物油は調合乳に添加されるものであり、調合乳に添
加される油は必ず精製油でなければならないから、本件発明1の微生物油は、いず
れも精製油であって粗製油は含まないと解釈するべきであり、上記請求項1の文言
は、精製油における全ての脂肪酸がトリグリセリドの形であること(ただし、リン
脂質等の構造の「DHA」や「ARA」などの微量の不純物の存在を全く排除する
ものではない。)を示していると主張する。
  しかしながら、原告も認めるように、上記請求項1において、「微生物
油」が粗製油から精製された精製油のみに限定されるような記載は認められない。
  また、本件明細書(甲2)において、「微生物油」に関しては、「本発
明は非変性微生物油を含有するブレンドまたは混合物に関する。本明細書で使用さ
れる「非変性」なる用語は化学的に、または共有結合的に変化されないことを意味
する。本明細書全体を通して、特に断りがなければ「微生物油」または「油」なる
用語は非変性油を意味することは理解されよう。「微生物油」または「単細胞油」
なる用語は微生物が生存中に自然に生成する油である。このような油は長鎖の
PUFAを多量に含有しうる。」(3頁左欄)と記載されているが、「微生物油」又は
「油」自体がどのような成分からなるものであるかについては、明確に定義する記
載が認められず、「微生物油」が精製油であると定義する記載も認められない。し
かも、本件明細書の実施例1(5頁左欄及び右欄)には、特定条件で増殖した
Pythiuminsidiosumの乾燥物からヘキサン抽出により乾燥バイオマス100g当たり約
5~6gの粗製油(第1フラクション)である「油」を得たこと、及びエタノール抽
出により乾燥バイオマス100g当たり追加の約22gの粗製油(第2フラクション)で
ある「油」を得たことが記載され、また、「第2のフラクションは主としてリン脂
質であるが、第1のフラクションはリン脂質およびトリグリセリドの混合物を含ん
でいた。合一したフラクションは約30~35%のアラキドン酸を含有し、EPAが検出さ
れない油を生成した」と記載されているから、本件明細書において「油」の語は、
「脂肪酸」がリン脂質の形のものを主成分とする場合をも含むものとして用いられ
ていることが認められ、「脂肪酸」がトリグリセリドを主成分とするものに限定し
て用いられていないことが明らかである。
  さらに、一般に、調合乳について、「純粋、良質、安全及び乳児の消化
に適したもの」が要求され(栄養法典委員会「調合乳に関する基準法典」(198
1年)、甲17、抄訳)、また、食用油である精製大豆油が、トリグリセリドの形
の脂肪酸が99%を超えるものである(宮川高明著「食用油製造の実際」(昭和6
3年7月5日)、甲19、83頁表3.6)としても、調合乳に配合される油であ
るからといって、それが精製油であるとする合理的根拠はない。すなわち、刊行物
1(甲3)には、「食物、特に乳児食又は乳児用ミルクを製造するのに適し」(訳
文2頁)た脂肪配合物に存在する脂肪酸類が、「使用する油脂に応じてトリグリセ
リド、リン脂質又はコレステロールエステルとして存在する」(同頁)と記載さ
れ、調合乳に配合する油における「脂肪酸」の存在形態としては、トリグリセリド
のほか、リン脂質又はコレステロールエステルがあることが認められる。しかも、
調合乳への脂肪の配合は母乳組成を目標とするものである(本件明細書2頁右欄)
ところ、刊行物3(甲5)には、「人乳のトリグリセリドは脂質中の95%以上を
占める」(160頁左欄)と記載されており、調合乳へ脂肪を配合する場合であっ
ても、トリグリセリドの形の脂肪酸が99%を超えることまでは要求されていない
ものと認められる。
  そうすると、本件発明1が調合乳に加える微生物油であるからといっ
て、当該微生物油が、慣用の食用油精製プロセスで精製された精製油であると限定
することはできず、また、「前記DHAとARAはトリグリセリドの形であり」の
構成が、精製油と同程度の純度の脂肪酸トリグリセリドであることを示したものと
は認められないから、原告の上記主張は、採用することができない。
  したがって、上記請求項1にいう、「微生物油」については、精製の有
無を問わず、そこに含まれる「ARA」及び「DHA」が、本件特許の出願当時の
技術水準に照らし、可能な限り全て脂肪酸トリグリセリドの形であること(当該技
術上、除去できないリン脂質等の構造の「DHA」や「ARA」など微量の不純物
は許容される。)を規定したものと認められる。
イ 原告は、原告による前記の特許請求の範囲の請求項1の解釈を前提とし
て、本件明細書の実施例5及び10には、精製油である微生物油が開示されてお
り、また、実施例1及び3には、「ARA」及び「DHA」の粗製油を製造する方
法が記載され、本件技術文献上、慣用手段により粗製油から精製油を精製できるこ
とも当業者にとって自明であるから、本件明細書の記載は、特許法36条4項の要
件を満足すると主張するが、前示のとおり、前提となる原告の上記請求項1につい
ての解釈が誤りである以上、上記主張を採用する余地はない。
  したがって、本件発明1の微生物油が精製油であることを前提とするそ
の余の原告の主張(ウの①ないし③)についても、これを採用することはできな
い。
ウ そして、前記に説示した上記請求項1の解釈を前提として、本件明細書
の発明の詳細な説明に、本件発明1を当業者が容易に実施できる程度の記載がなさ
れていることについては、原告による主張立証がないが、念のため、本件明細書の
実施例5及び10に開示される微生物油について検討する。
  本件明細書によれば、実施例5で使用される微生物油は、ARAについ
てみると、「約33%のARAを含有するARASCO(実施例1記載のPythiuminsidiosumか
ら得られる)」(6頁右欄)と記載されており、ARASCOの「ARA」の量は
記載されているが、当該「ARA」がトリグリセリドの形であることは記載されて
いない。また、本件明細書には、ARASCOについて「本明細書でアラキドン酸
を含有する単細胞油」(3頁右欄)と定義されていることが認められるが、単細胞
油が「油」であるからといって、常にトリグリセリドを主成分とするものを意味す
るといえないことは、前示のとおりである。しかも、本件明細書の実施例4におい
ては、バイオマスからヘキサンで抽出した粗製油をもって「単細胞油」と称してい
る(6頁左欄)ことからも、「単細胞油」が精製油を意味するものではないことは
明らかである。
  したがって、実施例5のARASCOが、単細胞油であることを根拠と
して、「ARA」が実質的にトリグリセリドの形である微生物油を意味するという
ことはできず、また、調合乳に加える微生物油であることを根拠として、当該油が
実質的に脂肪酸トリグリセリドであるということができないことも、前示のとおり
である。
  さらに、実施例10で使用される微生物油についても、ARAについて
みると、「ARA油(実施例2の記載のMortierellaalpinaから得られる)」(8頁右
欄)と記載されているのみであり、当該「ARA油」は、実施例5のARASCOと同
様の理由により、「ARA」が実質的にトリグリセリドの形である微生物油を意味
するということはできない。
  以上のとおり、本件明細書の実施例5及び実施例10に使用された微生
物油は、「ARA」が実質的にトリグリセリドの形である微生物油とは認められな
いから、これに反する原告の前記主張も誤りといわなければならない。
  また、上記実施例5及び実施例10に使用された微生物油は、「DH
A」についても、本件明細書の記載からみて、「ARA」と同様に、実質的にトリ
グリセリドの形である微生物油とは認められない。
エ そして、本件明細書の発明の詳細な説明において、「ARA」及び「D
HA」が実質的にトリグリセリドの形である微生物油の実施例の開示がないだけで
はなく、当該微生物油を調合乳に加えることにより調合乳に「ARA」及び「DH
A」を補う方法についても、記載ないし示唆するところは認められず、その方法の
目的及び構成等に関する記載及び示唆もない。
  したがって、本件明細書の発明の詳細な説明には、当業者が容易にその
実施をすることができる程度に、本件発明1の目的、構成等が記載されていると認
めることはできず、本件明細書が特許法36条4項に規定する要件を満たしていな
いことは明らかである。
(2) 本件各発明はいずれも、本件発明1の「ARA」及び「DHA」がトリ
グリセリドの形である微生物油を用いるものであるから、本件発明1に関する前記
説示が該当するといえる(原告は、本件発明1を除く本件各発明について、独自の
取消事由を主張するものではない。)。
  したがって、本件決定が、「本件特許明細書(注、本件明細書)には、
このような「微生物油」を構成要件の1つとする本件発明1~14及び19を、当
業者が容易に実施することができる程度に記載されているものとは認められない」
(9頁)と判断したことに誤りはなく、本件各発明は、特許法36条4項に規定す
る要件を満たしているとはいえないから、その余の取消事由について検討するまで
もなく、特許を受けることができないものである。
2 本件発明15~18について
  原告は、本件発明15~18についての本件決定の判断に対しては、何ら取
消事由を主張しない。
3 結論
 以上のとおり、本件各発明を含む本件全発明は、特許を受けることができな
いものであるから、これと同旨の本件決定には誤りがなく、その他本件決定に取り
消すべき瑕疵は見当たらない。
 よって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文の
とおり判決する。
   東京高等裁判所知的財産第1部
         裁判長裁判官       青  柳     馨
             裁判官       清  水     節
            裁判官       沖  中  康  人

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