弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     本件上告を棄却する。
         理    由
 弁護人鈴木元子外七名の上告趣意のうち、弁護人となろうとする者との接見交通
権の侵害があつたとして、憲法三四条前段、三七条三項違反をいう点については、
記録によれば、右弁護人となろうとする者との接見が拒否されていた期間中、弁護
人鈴木元子については適法に接見が認められていることが明らかであるので、所論
は前提を欠き、弁護人鈴木元子と被告人との接見中に警察官らが盗聴していたとし
て、憲法三四条前段、三七条三項違反をいう点については、右盗聴の事実は認めら
れないので、所論は前提を欠き、判例違反の主張のうち、悪性格と犯罪事実の認定
に関し所論引用の各判例に違反するという点については、右各判例はいずれも本件
と事案を異にするばかりでなく、原判決が被告人の悪性格を理由に犯罪事実を認定
したものでないことは判文上明らかであるから、所論は前提を欠き、その余の判例
違反を主張する点は、所論引用の各判例はいずれも事案を異にし本件に適切でなく、
その余の主張は、憲法三七条、三一条、三二条、三八条、三九条、三六条、三四条
違反をいう点を含め、実質はすべて単なる法令違反、事実誤認の主張であり、被告
人本人の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、いずれも刑訴法
四〇五条の上告理由にあたらない。
 なお、本件は細菌を犯罪に使用した事件で、事実の認定について細菌学の知識が
要求されるばかりでなく、菌の摂取と発症との関係についても病理学上多くの問題
点が含まれ、そのうえ被告人の犯行について合理的な動機が見出せないという特異
性を有する事件であつて、一三の訴因の全部につき第一審判決無罪、原判決有罪と
いう極めて対照的な結論に達しているので、以下、職権をもつて原判決の認定判断
の当否につき、主として第一審判決のそれと対比しつつ検討を加えることにする。
 一 まず、第一審判決は、本件被害者とされている者の中に、被告人から贈られ
たバナナを食べるなどして菌を体内に摂取したかどうか、摂取したとしても当該の
発病前に摂取したかどうか、さらに腸チフス又は赤痢に罹患したかどうかの各点に
つき疑問のある者がいるという。しかし、第一審裁判所及び原裁判所の取り調べた
各証拠(以下、単に証拠という。)によれば、原判決の認定するとおり、本件の被
害者とされている者は、すべて被告人が菌を付着若しくは混入させた物を飲食し、
又は医療行為を装つた被告人の行為により菌を体内に摂取したのちに(第二次感染
者を除く。)、腸チフス又は赤痢に罹患したと認定するのが相当である。右罹患の
点についていえば、原判決が各患者の症状、各種の検査結果及び第二次感染者を除
く全員が菌の検出された者を含み同時発病していることなどを考慮し、なお臨床の
専門家であるAら作成の鑑定書並びに同人及びBの各証言なども参酌して、全員の
罹患を認めたことは相当であり、記録を精査しても、以上の各事実の認定につき原
判決に誤認のかどは認められない。
 二 次に、第一審判決が、本件被害者とされている者の中に、被告人の行為が原
因であるとすればその潜伏期が医学上ありえない短期のものとなるような腸チフス
又は赤痢患者があり、被告人の菌投与とこれらの者の発病との間に因果関係を認め
難いとしているのに対し、原判決は、腸チフス又は赤痢について第一審判決が疑問
を抱いたような短い潜伏期も病理学上ありうるとしている。
 この点については、赤痢は、Cらの実験(当審昭和五四年押第二五号の符号五六
〇―以下符号のみを示す。)によれば、数時間という短時間で発病することがあり、
腸チフスは、Dらの実験によれば、その潜伏期は三日が標準的限界であるとされて
いる(符号五七八及び五七九)。しかし、通常の自然感染ではみられない大量のチ
フス菌又は赤痢菌が投与され体内に摂取された場合には、固有の賜チフス又は赤痢
の発症するまえに、菌体内毒素(エンドトキシン)によつて、より短時間内に急性
胃腸炎様又は食中毒様の症状を呈する可能性があることは、相当数の信頼すべき医
学者の肯定するところであり(第一審鑑定人E、原審鑑定人兼証人F、同G、同H
に対する各尋問調書、I作成の鑑定書など)、現に、本件と同様にチフス菌を使用
した犯罪の場合において、菌摂取後二四時間以内に発熱、吐気、腹部膨脹などの症
状を発した事例がみられるのである(右I鑑定書参照)。
 したがつて、本件について、短期発症の腸チフス及び赤痢をエンドトキシン論の
採用により説明しうるとした原審の判断は、首肯することができるものといわなけ
ればならない。
 三 次に、第一審判決は、被告人の自白した方法による腸チフス又は赤痢の犯行
供用菌数を推定し、その菌数では、本件の高い発病率(被告人の行為が原因である
とした場合、これにより菌を摂取した者の大部分が発病したことになる。)及び短
い潜伏期の説明ができないとしているのに対し、原判決は、菌を直接食品に穿刺し
たという被告人の司法警察員に対する自白を採用し、右説明は可能であるとしてい
る。
 まず、菌数と発病率及び潜伏期に関するDらの実験結果が普遍的な妥当性と一義
的な法則性を有するものでないことは、多くの専門学者の一致して説くところであ
り(第一審鑑定人E、原審鑑定人兼証人F、同G、同Hに対する各尋問調書、I作
成の鑑定書など)、また、菌数の鑑定についても、菌の増減の全体的傾向は把握す
ることができるとしても、個々の数値は浮動的であつて、どのように実験の精度を
高めても、正確な菌数を推定することが困難であることは、第一審判決の依拠した
J、K両鑑定を担当したJ、Kのほか多くの学者の一致した意見である(第一審で
取り調べたLら著「腸炎」二四頁ないし二六頁、I作成の鑑定書、原審鑑定人兼証
人F、同G、同Hに対する各尋問調書など)。そのうえ、本件の場合は、被告人が
医学的検査目的のため厳格な実験条件を付して菌を培養し、かつ、これを食品など
に付着又は混入させたものではなく、恣意的に菌を採取したものであることは、記
録上明らかであるから、菌数の鑑定の基礎自体が極めて不確実である。したがつて、
第一審判決がDらの実験結果に菌数の鑑定結果をあてはめ、これにより算出された
発病率、潜伏期をもつて機械的に事実認定の基礎としたことは、相当でないといわ
なければならない。
 なお、第一審判決は、原判示第一のM大学カステラ事件(以下、カステラ事件と
いう。)について、J、K両鑑定を採用し、N研究所の鑑定を菌数の大部分が定量
的に表現されていないことなどを理由に菌数の鑑定としてほとんど無価値であると
し、右J、K両鑑定によれば、カステラに付着した赤痢菌は著明な減少傾向を示し、
赤痢を発病させるに足りないものであるとして、これを無罪の一理由としている。
しかし、右N研究所の鑑定がカステラに付着した歯数の変化については定量的にこ
れを表示していることは、同鑑定書の記載内容に徴し明らかである(昭和四一年五
月一〇日付のもの)。また、右J、K両鑑定がチクロ使用禁止後の昭和四七年度中
に製造されたカステラを使用しているのに対し、右千葉県衛生研究所の鑑定は、チ
クロの使用が認められていた昭和四一年当時のカステラを使用していて、本件犯行
(昭和三九年)に使用したとされているカステラにより近似した物を実験の対象と
しているという点で、対象物により即した価値を有するとみられるものであり、記
録によつても、右鑑定結果を排斥すべき事情、換言すれば、原審がこれを採用した
ことを不当とすべき事情は認められない。そして、右鑑定によれば、カステラにふ
りかけられた赤痢菌は、四八時間経過後も十分生きており、増加傾向を示す場合す
らあるのである。その生残菌数は、J、K両鑑定に比して遙かに多く、優に赤痢を
発症させるに足りるものと認められる。
 それ故、以上の点についての原判決の認定判断は、首肯することができるものと
いうべきである。
 四 次に、第一審判決が本件起訴事実のうちのチフス菌による事件(原判示第四
のO方事件を除く。)について自然感染の疑いがあるとしているのに対し、原判決
はこれらをすべて被告人の犯行による人為感染であるとしているので、以下、この
点について判断する。
 1 右事件のうちには、M大学のバナナ(原判示第一〇事実)、焼蛤(同第七事
実)、みかん(同第一一事実)及びP病院のバリユーム(同第一二事実)、舌圧子
(同第一三事実)各事件のように、その周辺に腸チフス患者又はその疑いのある者
が発生している事例があるが、そのうち、M大学の場合は、罹患を疑われる者及び
菌陽性者が被告人の勤務していた第一内科の医師にだけ集中的に多発し、しかも、
右菌陽性者の大部分がほとんど無症状であつたことから、伝染病学的にみて自然流
行の可能性は考えられない場合であり(第一審公判調書中の証人Qの供述部分及び
原審の同証人に対する尋問調書)、また、P病院の場合も、当該患者の発生当時、
赤痢、腸チフスの発生防止のため消毒を続けていたのに、被告人が当時執務してい
た内科の関係者にだけ腸チフス患者が続発していること(第一審公判調書中証人R
の供述部分)からして、これを自然流行とみることには疑問がある場合である。
 2 S方事件(原判示第六事実)と三島、バナナ事件(同第九事実)については、
S方事件は小田原市で、三島バナナ事件はその翌日三島市で、いずれも被告人から
バナナをもらつて食べた者が全員(全員喫食の事実については原判決の認定を支持
することができる。)ほぼ同時に発病した事件である。当時両市に腸チフスの流行
のなかつたことは記録上明らかであり、また、腸チフスの発生率は極めて低いので
あるから、相隔つた両市において、なんらの脈絡なく一二名の者がほとんど同時に
発病する蓋然性は極めて小さいといえる。そうすると、右両事件がいずれも人為感
染によるものであることを推認するについて両者は相互に補強しあう関係にあると
原判決が判断したことは、相当と認められる。
 3 本件一一のチフス菌による事件のうち、被害者から菌が検出され鑑定の行わ
れた九事件については、その菌のフアージ型がいずれもD2型であり(もつとも、
第一審判決のいうとおり、D2型の発生頻度は、チフス菌の各型のうちで最も高い
が、それにしても、全体の発症からみれば、その約五分の一の頻度に過ぎない。)、
薬剤感受性値もいずれも一致しているのであつて、このことは、右九件が自然流行
として起こりうる可能性がほとんどないことを意味するものである。しかも、これ
らが被告人の保存培養していた菌のそれとも一致していることは、被告人の保存培
養していた菌が右各犯行に使用された蓋然性が高いことを示すものである。そうす
ると、原判決が右フアージ型及び薬剤感受性値が一致した事実をもつて極めて重視
すべきものであるとしたことは相当である。
 4 本件チフス菌による事件の被害者は、同一家族又は同一職場に極めて高い率
をもつて集中的に発生し、しかも、発病が各事件ごとに全員同時期であることから
して順次感染の可能性は否定されるというべきである。
 以上の次第であるから、本件チフス菌による事件が自然感染によるものであるこ
とを否定し、人為感染によるものであると認定した原審の判断は、首肯することが
できるのである。
 五 次に、被告人の捜査官に対する自白の信用性について、第一審判決は結局こ
れを否定し、原判決はこれを肯定している。
 この点については、まず、右自白が任意にされたことは両判決の一致して認める
ところであるから、本件が極めて重大な犯罪事実であり、しかも、特に医師として
最も恥ずべき行為であるにもかかわらず、医療行為に従事していた被告人が自白を
していることを考えれば、その信用性も高いものといつてよいであろう。
 第一審判決は、右自白の内容が犯行方法などの点において前後一貫していないと
いう。たしかに、司法警察員に対する自白の大部分は菌を直接穿刺したというもの
であり、検察官に対する自白の大部分は菌液を穿刺したというものであるが、原判
決のいうとおり、いずれの方法であるにせよチフス菌をバナナなどに穿刺したとい
う供述の中心的部分自体は、途中で否認した時期はあつたが、前後変わることなく
維持されているのである。そして、被告人の本件菌の採取・穿刺が人体実験を目的
としたものではなく、菌を操作したいというその時々の衝動に駆られてしたものに
過ぎなかつたことは、証拠上明白であるから、実験上要求される菌液を作つて菌数
を一定にするというような厳密な方法をとつたなどということは、むしろ考えられ
ないといつてよいであろう。したがつて、直接菌を穿刺したという被告人の司法警
察員に対する自白を採用した原審の判断は相当というべきである。
 なお、第一審判決は、自白内容に体験者でなければ知りえない秘密性の蔵されて
いることが案外少ないということを自白の信用性否定の一理由としているが、被告
人の自白を仔細に検討すれば、右判断は正当とはいえない。本件自白は一般に具体
的であつて、しかも、迫真力のある部分が所々に織り込まれている。例えば、カス
テラ事件につき、菌の出所及び薬剤耐性に関し、「被害者から往診を求められた際、
カステラに付着させた赤痢菌はP病院から持つて来たものであるから、クロマイに
対し耐性を持つていると考え、あらかじめカナマイシンを用意して行つた。」と供
述し、焼蛤事件につき、当日午後一時半ごろまで本件焼蛤を肴にして飲酒していた
医師らが発病せず、その後午後二時二〇分ごろ来てその残りを食べたT医師が発病
している事実からして、右焼蛤がチフス菌で汚染されたのは、右午後一時半から二
時二〇分ごろまでの間と推定されるところ、被告人は、「焼蛤にチフス菌をふりか
けたのは午後二時か三時ごろであつた。」旨、すなわち右のような短い推定犯行時
間とほぼ一致する供述をしており、また、S方事件につき、「足柄駅に行く途中竹
の下の水車小屋の辺まで来た時弟が車で追いかけて来て駅まで送つてくれた。その
時弟は、かぜをひいたらしい、寒けがしてしようがない、と言つていたので、私は
内心はバナナを食べたなと思つた。その日弟に会う前に実家で母親に、弟たちみん
な元気かい、と聞いたのも、バナナをくれたことが心配であつたからである。」と
供述していることなどがその例である(以上は、司法警察員及び検察官に対する供
述調書中において、被告人が一貫して述べているところである。)。これらの供述
は、通常は犯人でなければ知ることができない事実を明らかにしているものという
べきである。
 次に、所論は、自白を信用することができない理由として、被告人が逮捕勾留中
心身ともに疲労し、健康が極限状態にあつたため、捜査官に問われるまま迎合的に
供述したとし、血圧の最低値が一二〇、最高値が一八〇であつたことがその証左で
あると主張する。なるほど、右血圧については、医師Uの司法警察員調書によれば、
最低値、最高値は、それぞれ一三〇―一七八、一二〇―一八〇、一二〇―一七〇で
あるが、その供述の基となつたカルテ(符号四七四)によれば、それは、七八―一
三〇、八〇―一二〇、七〇―一二〇であるから、右供述調書の記載は誤つているこ
とになり、この点の主張は前提を欠くことになる。右のように血圧は正常であり、
そのうえ、記録によれば、食欲は旺盛で、睡眠も良好であつたことが認められるの
である。そして、被告人は第一審公判廷で、「捜査官の取調べを受けていた当時、
精神的にも肉体的にも疲労困ぱいしてゆつくりとものを考えることができなくなり、
虚偽の自白をした。」と弁解しているのであるが、その弁解の採用しえないことは
右にみたところから明らかである。
 なお、被告人の法廷の供述は、総じて他の多くの客観的な証拠と矛盾し、信用性
に乏しいものである。例えば、カステラ事件に関連し、医師Vは、一、二審を通じ、
被告人から、「先生なんかおかしくないですか。Wがカステラを食べて赤痢になり
大変だ。」などという電話があつた旨証言し、この証言は他の証拠とも符合し信用
すべきところ、被告人は右電話をしたこと自体を否定している。また、X方事件(
原判示第八事実)に関し、P病院検査助手Yは、主治医の指示により、チフス菌の
培養検査などの準備をしていたのに、被告人から、臨床的にチフスと決定したから
検査はしなくてもよいとの指示があつた旨証言しているが、被告人はその事実も否
定している。さらに、被告人がZ株式会社M製鉄所において診療を担当したAaか
ら赤痢菌が検出されたとして同人を赤痢患者と診断した件に関し、M大学付属病院
検査技師Bbの証言などによれば、右Aaの検体は便の性状、潜血反応及び寄生虫
の有無の検査が終了したのち投棄されたことが明白であるのに、被告人は右検体に
ついて赤痢菌の検査をしたと強弁しているのである。
 以上述べたところに加え、被告人の自白は、逮捕後七日で突然始まつたのではな
く、逮捕の翌日又は翌々日にすでに本件犯行と結びつく事実について供述している
こと、自白を始めた際、被告人の所属するM大学第一内科の主任教授Ccに対し、
今回の事件に関し社会不安を招き、同内科に大きな汚点を残したことをおわび申し
上げる旨の謝罪の手紙を書いていることなどを考慮すると、本件自白の信用性は否
定すべくもないものであり、この点の原判決の説示は十分首肯することができるも
のといわなければならない。
 六 次に、第一審判決は、本件について納得すべき動機のないことを無罪の大き
な理由とし、これに対し原判決は、被告人が異常性格者であつたことを本件犯行の
重要な原因として挙げ、これといつた格別の動機のないことこそ本件犯行の特徴で
あるとしている。
 この点については、各般の証拠に基づいて被告人を異常性格者であると認定した
原審の判断は相当であり、この観点から被告人の本件所為をみれば、自己の研究室
の同僚、診療を担当した患者、あるいは親戚の者など自己の生活圏の中にあつて接
触する機会の多かつた者に対し格別の動機なく無差別に犯行に及んだことも首肯す
ることができるものというべきである。特に、第一審判決がO方事件につき、「被
告人の故意の犯行と推測する条件はかなりそろつている。」としながら、これにつ
き無罪とした第一の理由として、動機が全く不明であることを挙げている点は、通
常の人格者を判断の基礎にすえ、本件のような重大な犯罪を犯すについては必ずや
それ相応の動機がなければならないとの前提のもとに、かかる動機の立証のないこ
となどから直ちに被告人の犯行自体を否定したもので、とうてい支持することがで
きないものといわなければならない。
 なお、原判決は、犯行の原因が存在することを推測させる事実として被告人が異
常性格者であることを挙げたに過ぎないから、これから犯罪事実を推認したという
所論の非難はあたらない。
 七 なお、付け加えて言えば、本件のうち、昭和三九年九月の患者にリオンゾン
デを挿入した大林事件(原判示第二事実)、同四〇年八月及び九月のカルピス事件
(同第三事実)中の患者から採血し又はこれに注射した事件は、いずれも被告人の
した診療行為の直後に、激しい下痢、腹痛、高熱、悪寒戦慄などの重い症状を呈し
た場合である。わずか一年ほどの間に同じZ株式会社M製鉄所診療所において三件
もの同種事件が発生したというのも不自然であるが、それにもまして、このような
場合、診療に従事した医師としては、右診療行為とこれらの病状との関係につき疑
問を持ち、検討を加えるのが当然であると考えられるのに、被告人がそのような調
査を全くしていないことは(この事実は記録上明らかである。)、医師の態度とし
て全く不可解というほかなく、むしろ、被告人としては前記各症状の発生を予見し
ていたものと考えてもあながち不合理とはいえず、このことは、本件が被告人の犯
行であることを推認させる一つの徴憑といえる。
(なお、所論は、原判決は疫学の法則を恣意的に解釈し、蓋然性の程度で事実を認
定しているというが、原判決は、疫学的証明があればすなわち裁判上の証明があつ
たとしているのではなく、「疫学的証明ないし因果関係が、刑事裁判上の種々の客
観的事実ないし証拠又は情況証拠によつて裏付けられ、経験則に照らし合理的であ
ると認むべき場合においては、刑事裁判上の証明があつたものとして法的因果関係
が成立する。」と判示し、本件各事実の因果関係の成立の認定にあたつても、右立
場を貫き、疫学的な証明のほかに病理学的な証明などを用いることによつて合理的
な疑いをこえる確実なものとして事実を認定していることが認められるので、原判
決の事実認定の方法に誤りはないというべきである。)
 以上の諸点を踏まえ、記録にあらわれた諸般の事実を加えて総合的に判断すると、
本件各事実につき被告人を有罪とした原審の認定判断は、首肯することができるも
のとすべきである。
 よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、
主文のとおり決定する。
  昭和五七年五月二五日
     最高裁判所第一小法廷
         裁判長裁判官    本   山       亨
            裁判官    団   藤   重   光
            裁判官    藤   崎   萬   里
            裁判官    中   村   治   朗
            裁判官    谷   口   正   孝

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