弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1原判決主文第3項中,1審原告P1の1審被告厚生労働大臣
に対する却下処分取消請求に関する部分を取り消す。
21審被告厚生労働大臣が,1審原告P1に対し,平成15年
1月28日付けでした原子爆弾被爆者に対する援護に関する法
律第11条1項に基づく原爆症認定却下処分を取り消す。
31審原告P1のその余の控訴を棄却する。
41審原告P2,1審原告P3及び1審原告P4の控訴をいず
れも棄却する。
5訴訟費用は,第1審,2審を通じ,1審原告P1と1審被告
厚生労働大臣との間では,全部1審被告厚生労働大臣の負担と
し,1審原告P4と1審被告厚生労働大臣との間では,全部1
審原告P4の負担とし,1審原告らと1審被告国との間では,
全部1審原告らの負担とする。
事実及び理由
第1章控訴の趣旨
第11審原告ら
1原判決中,1審原告ら敗訴部分を取り消す。
21審被告厚生労働大臣が,1審原告P1,1審原告P4に対し,1審原告
P1については平成15年1月28日付けでした,1審原告P4については
平成16年5月12日付けでした原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律
第11条1項の認定申請に対する各却下処分を取り消す。
31審被告国は,1審原告らに対し,それぞれ300万円ずつ及びこれらに
対する,1審原告P2につき平成15年4月29日から,1審原告P3,同
P1,同P4につき,いずれも平成16年6月29日から支払済みまで年5
分の割合による金員を支払え。
4訴訟費用は,第1,2審とも1審被告らの負担とする。
第21審被告ら
11審原告らの本件控訴をいずれも棄却する。
2控訴費用は1審原告らの負担とする。
3仮執行宣言免脱
第2章事案の概要等
第1事案の概要
本件は,被爆者である1審原告らが,原子爆弾被爆者に対する援護に関する
法律(平成6年法律第117号,以下「被爆者援護法」という。)11条1項
に基づく認定(以下「原爆症認定)という。)の申請をしたところ,いずれも
却下処分を受けたため,1審被告厚生労働大臣に対して各却下処分の取消を求
めるとともに,1審被告国に対して,各却下処分の違法を理由として,国家賠
償法1条1項に基づき慰謝料及びこれらに対する遅延損害金の支払を求める事
案である。
原判決は,1審原告P2及び1審原告P3に対する各却下処分を,いずれも
違法として,これらを取り消し,1審原告P1及び1審原告P4に対する各却
下処分を,いずれも適法であるとして,同人らの請求を棄却し,1審原告らの
国家賠償請求については,いずれも理由がないとして,請求を棄却した。1審
原告ら及び1審被告厚生労働大臣は,それぞれの敗訴部分を不服として控訴し
たが,1審被告厚生労働大臣は,1審原告P2及び1審原告P3に対する控訴
を取り下げた。したがって,当審における審理の対象は,1審被告厚生労働大
臣のした1審原告P1及び1審原告P4に対する却下処分の違法性の有無及び
1審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求権の有無である。
第2法令の定め等
1被爆者援護法制定に至るまでの被爆者に対する援護施策の経緯について
(1)原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(昭和32年法律第41号)(以下
「原爆医療法」という。)の成立
昭和32年,被爆者に対する援護施策として,「広島市及び長崎市に投下
された原子爆弾の被爆者が,今なお置かれている健康上の特別の状態にかん
がみ,国が被爆者に対し健康診断及び医療を行うことにより,その健康の保
持及び向上を図ることを目的と」して,原爆医療法が制定された(1条)。
同法によると,「被爆者」とは,①原子爆弾が投下された際,当時の広島
市及び長崎市の区域内または政令で定めるこれらに隣接する区域内に在った
者,②原子爆弾が投下されたときから起算して政令で定める期間内に,前号
に規定する区域のうちで政令で定める区域内に在った者,③前2号に掲げる
者のほか,原子爆弾が投下された際,またはその後において,身体に原子爆
弾の放射能の影響を受けるような事情の下に在った者,④前3号に掲げる者
が当該各号に規定する事由に該当した当時その者の胎児であった者のいずれ
かに該当する者であって,被爆者健康手帳の交付を受けたものをいうとされ
ている(2条)。
また,同法によると,都道府県知事は,被爆者に対し,毎年,健康診断を
行い(4条),健康診断の結果,必要があると認めるときは,当該健康診断
を受けた者に対して必要な指導を行うものとされ(同法6条),厚生大臣は,
原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,または疾病にかかり,現に医療を要
する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を行うが,当該負傷または
疾病が原子爆弾の放射能に起因するものでないときは,その者の治ゆ能力が
原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある場合
に限る(7条1項)と規定し,放射線起因性が認められる負傷または疾病に
対して医療の給付を行うこととした。そして,医療の給付を受けるためには,
厚生大臣による原爆症の認定を受けることを要し,厚生大臣は認定に当たっ
て原子爆弾被爆者医療審議会(以下「医療審議会」という。)の意見を聴く
ことを要するとされている(同法8条)。
(2)原子爆弾後障害症治療指針について(昭和33年8月13日衛発第726
号各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通知)(以下
「治療指針」という。)の制定(甲全8の2の文献番号1)
治療指針は,原爆医療法7条の医療の給付に係る医療が適切に行われるよ
う,原爆の傷害作用に起因する負傷または疾病(原子爆弾後障害症)の特徴
及び患者の治療に当たり考慮されるべき事項を定めたものである。治療指針
によると,治療上の一般的注意として,いかなる疾患または症候についても
一応被爆との関係を考え,その経過及び予防について特別の考慮が払われな
ければならず,原子爆弾後障害症が直接間接に核爆発による放射能に関連す
るものである以上,被爆者の受けた放射能特にガンマ線及び中性子線の量に
よってその影響の異なることは当然想像されるが,被爆者の受けた放射能線
量を正確に算出することはもとより困難であって,この点については被爆者
の個々の発症素因を考慮する必要もあり,また当初の被爆状況等を推測して
状況を判断しなければならないが,治療を行うに当たっては,特に次の諸点
について考慮する必要があるとされ,具体的には以下のような指摘がなされ
ている。
ア被爆距離については,被爆地が爆心地から概ね2キロメートル以内のと
きは高度の,2キロメートルから4キロメートルまでのときは中等度の,
4キロメートルを超えるときは軽度の放射能を受けたと考えて処置してさ
しつかえない。
イ被爆後における急性症状の有無及びその状況,被爆後における脱毛,発
熱,粘膜出血,その他の症状をは握することにより,その当時どの程度放
射能の影響を受けていたかを判断することのできる場合がある。
ウ原子爆弾後障害症として比較的明瞭なものは,瘢痕治癒異常,造血機能
障害,内分泌機能障害,白内障等であるが,この外,肝機能障害,各種腫
瘍等種々の続発症の生ずる可能性も考慮しなければならない。
エ原子爆弾後障害症においては,その症状が一進一退することが多いので,
治療を加えた結果一応軽快をみても,その後における健康状態には絶えず
注意を払う必要がある。
オ原子爆弾被爆者の中には,自身の健康に関し絶えず不安を抱き神経症状
を現すものも少くないので,心理的面をも加味して治療を行う必要がある
場合もある。
カ原子爆弾後障害症については,全身的な補強が,肉体的にはもちろん精
神的にも好影響をもたらす場合が少くない。特に全身衰弱の認められるも
のには,量的及び質的に十分な栄養の補給,強壮剤の投与を行うとともに,
各種ストレスに対する予備能力の低下傾向に注意する必要がある。
上記通知は,原爆医療法11条2項が定める原爆症認定の基準を定めるも
のではなく,同条1項の健康保険の診療方針に関して特に留意すべき事項を,
同法9条の指定医療機関に周知させる目的で発せられたものであるが,原爆
症認定の審査を担当していた原子爆弾被爆者医療審議会の意見聴取を経てお
り,原爆症に関する当時の起因性判断の考え方を推認させるものといえる。
特に,原爆による放射線の線量評価システムが存在しない時期に,被爆者ご
との被爆線量の推定に関する一応の目安が示されているものとして,注目す
る必要がある。
(3)「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領に
ついて」(昭和33年8月13日衛発727号各都道府県知事・広島・長崎
市長あて厚生省公衆衛生局長通知)(以下「実施要領」という。)(甲全
2)
治療指針と日を同じくして,実施要領が発せられた。この通知は,被爆者
の健康診断(原爆医療法4条)を行うに当たって考慮すべき事項を定めたも
のであるが,被爆者の障害についての放射線起因性に関する記述として,次
のような記載がある。
放射能による障害の有無を決定することは,はなはだ困難であるため,た
だ単に医学的検査の結果のみならず被爆距離,被爆当時の状況,被爆後の行
動等をできるだけ精細には握して,当時受けた放射能の多寡を推定するとと
もに,被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接的に当該疾病
または症状が原子爆弾に基づくか否かを決定せざるを得ない場合が少くない。
また,被爆者の健康診断を行うに当たって特に考慮すべき点は,次のとお
りであるとして,原子爆弾の放射能に基づく疾病である限り,被爆者の個々
の発症素因,生活条件等は別として,被爆者の受けた放射能の量が問題とな
ることはいうまでもない。しかし,現在において被爆当時に受けた放射能の
量をは握することはもとより困難であるが,概ね次の事項は当時受けた放射
能の量の多寡を推定するうえに極めて参考となり得ると指摘している。すな
わち,
ア被爆距離
被爆した場所の爆心地からの距離が2キロメートル以内のときは高度の,
2キロメートルから4キロメートルまでのときは中等度の,4キロメート
ル以上のときは軽度の放射能を受けたと考えてさしつかえない。
イ被爆場所の状況
原子爆弾後障害症に関し,問題になる放射能は,主としてガンマ線及び
中性子線であるので,被爆当時における,しゃへい物の関係はかなり重大
な問題である。このうち特に問題となるのは,開放被爆としゃへい被爆の
別,後者の場合には,しゃへい物等の構造並びにしゃへい状況等に関し,
十分詳細に調査する必要がある。
ウ被爆後の行動
原子爆弾後障害症に影響したと思われる放射能の作用は,主として体外
照射であるが,これ以外に,じんあい,食品,飲料水等を通じて放射能物
質が体内に入った場合のいわゆる体内照射が問題となり得る。したがって,
被爆後も比較的爆心地の近くにとどまっていたか,直ちに他に移動したか
等,被爆後の行動及びその期間が照射量を推定するうえに参考となる場合
が多い。
エ被爆後における健康状況
前述の被爆者の受けたと思われる放射能の量に加えて,被爆後数日ない
し,数週に現れた被爆者の健康状態の異常が,被爆者の身体に対する放射
能の影響の程度を想像させる場合が多い。すなわち,この期間における健
康状態の異状のうちで脱毛,発熱,口内出血,下痢等の諸症状は原子爆弾
による障害の急性症状を意味する場合が多く,特にこのような症状の顕著
であった例では,当時受けた放射能の量が比較的多く,したがって,原子
爆弾後障害症が割合容易に発現し得ると考えることができる。
オ臨床医学的探索
臨床医学的探索に当たっては,原子爆弾後障害症として最も発現率の高
い造血機能障害の検査に主体を置くほか,肝機能検査,内分泌機能検査等
もあわせて行う必要のある場合がある。
また,異常については,この異常が放射能以外の原因に基づくものであ
るか否かについては,詳細に検討を加えたうえ,一応考えられる他の原因
を除外した後においてはじめて放射能に基づくものと認めるべきであり,
したがって,この鑑別診断を行うに当たっては,尿検査,糞便検査,エッ
クス線検査その他必要ある検査はもちろん十分に行わなければならない。
カ経過の観察
原子爆弾後障害症の一部,例えば,軽度の貧血や白血球減少症のような
ものでは,所見が一進一退する場合が往々にしてみられるので,被爆者の
健康について十分に経過を観察する必要がある。
(4)医療手当及び特別被爆者制度の創設
昭和35年法律第136号による原爆医療法の改正により,一般疾病医療
費制度(同法14条の2。原爆症認定を受けた被爆者を支給の対象とする医
療手当制度が創設され(原子爆弾の放射線を多量に浴びた被爆者に医療費の
支給が限定されていたが,その後にその制限がなくなった。),医療手当制
度(同法14条の8)が追加された。
(5)原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(以下「被爆者特措法」と
いう。)の制定及びその改正
被爆者特措法は,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者であっ
て,原子爆弾の傷害作用の影響を受け,今なお特別の状態にあるものに対し,
特別手当の支給等の措置を講ずることにより,その福祉を図ることを目的
と」して制定された(1条)。
同法は,原爆症の認定を受けた被爆者に対する特別手当(2条,当初月額
1万円),原爆医療法14条の2が定める特別被爆者に対する健康管理手当
(5条,当初月額3000円),同法7条1項の医療の給付を受けている者
に対する医療手当(7条),特別被爆者で介護を要する者に対する介護手当
(9条)の各制度を規定した。各手当については,一定の所得制限があった。
その後,原子爆弾小頭症手当(4条の2),保健手当(5条の2),葬祭
料の支給(9条の2)等が追加され,原爆医療法上の前記医療手当が被爆者
特措法の特別手当に統合されて医療特別手当の制度となった。
2被爆者援護法の制定
平成6年,原爆医療法と被爆者特措法を一元化するものとして,被爆者援護
法が制定され,平成7年7月1日から施行されるとともに(同法附則1条),
原爆医療法及び被爆者特措法は廃止された(同法附則3条)。
(1)被爆者援護法の概要
ア被爆者援護法制定の趣旨及び目的
被爆者援護法は前文を設け,次のとおり定める。
「昭和二十年八月,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類の
ない破壊兵器は,幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず,たとい
一命をとりとめた被爆者にも,生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を
残し,不安の中での生活をもたらした。
このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康
の保持及び増進並びに福祉を図るため,原子爆弾被爆者の医療等に関する
法律及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し,医療の
給付,医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。ま
た,我らは,再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固
い決意の下,世界唯一の原子爆弾の被爆国として,核兵器の究極的廃絶と
世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。
ここに,被爆後五十年のときを迎えるに当たり,我らは,核兵器の究極
的廃絶に向けての決意を新たにし,原子爆弾の惨禍が繰り返されることの
ないよう,恒久の平和を念願するとともに,国の責任において,原子爆弾
の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは
異なる特殊の被害であることにかんがみ,高齢化の進行している被爆者に
対する保健,医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ,あわせて,
国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため,この法律を制
定する。」
イ被爆者の定義
被爆者援護法が定める被爆者は,直接被爆者,入市被爆者,救護被爆者,
胎児被爆者で被爆者健康手帳(同法2条)の交付を受けたものとしており
(同法1条),この点は原爆医療法と同様である。
ウ被爆者健康手帳について
被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は,その居住地(居住地を有
しないときは,その現在地)の都道府県知事(広島市及び長崎市において
は市長)に申請しなければならず(同法2条1項),都道府県知事は,同
申請に基づいて審査し,申請者が前記被爆者の定義に該当すると認めると
きは,被爆者健康手帳を交付する(同条2項,3項)。
エ被爆者に対する援護の概要
被爆者援護法が定める被爆者に対する援護措置は次のとおりである。
(ア)健康管理
都道府県知事は,被爆者に対し,毎年,厚生労働省令で定めるところ
により,健康診断を行い(同法7条),健康診断に関する記録を作成・
保存し(同法8条),必要な指導を行う(同法9条)。
(イ)医療の給付
厚生労働大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,または疾病
にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給
付を行う。ただし,当該負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因する
ものでないときは,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受け
ているため現に医療を要する状態にある場合に限る(同法10条1項)。
(ウ)一般疾病医療費の支給
厚生労働大臣は,被爆者が,上記(イ)の医療給付を受けることができ
る負傷または疾病以外の負傷または疾病について医療を受けたときは,
当該医療に要した費用を限度として,一般疾病医療費の支給をすること
ができる(同法18条1項)。
(エ)医療特別手当の支給
都道府県知事は,11条1項の認定(原爆症認定)を受けた者であっ
て,当該認定に係る負傷または疾病の状態にあるものに対し,医療特別
手当(月額13万5400円)を支給する(同法24条1項,3項))。
(オ)特別手当の支給
都道府県知事は,11条1項の認定(原爆症認定)を受けた者(医療
特別手当の支給を受けている者を除く。)に対し,特別手当(月額5万
円)を支給する(25条1項,3項)。
(カ)原子爆弾小頭症手当の支給
都道府県知事は,被爆者であって,原子爆弾の放射能の影響による小
頭症の患者であるものに対し,原子爆弾小頭症手当(月額4万6600
円)を支給する(同法26条1項,3項)。
(キ)健康管理手当の支給
都道府県知事は,被爆者であって,造血機能障害,肝臓機能障害その
他厚生労働省令で定める障害を伴う疾病(原子爆弾の放射能の影響によ
るものでないことが明らかであるものを除く。)にかかっているもの
(医療特別手当,特別手当,原子爆弾小頭症手当の支給を受けている者
を除く。)に対し,健康管理手当(月額3万3300円)を支給する
(同法27条1項,4項)。
(ク)保健手当の支給
都道府県知事は,被爆者のうち,原子爆弾が投下された際爆心地から
2キロメートルの区域内に在った者またはその当時その者の胎児であっ
た者(医療特別手当,特別手当,原子爆弾小頭症手当,健康管理手当の
支給を受けている者を除く。)に対し,保健手当(月額1万6700
円)を支給する。ただし,厚生労働省令で定める身体上の障害(原子爆
弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。)
がある者等については3万3300円とする(同法28条1項,3項)。
(ケ)その他
介護手当(同法31条),葬祭料(同法32条),特別葬祭給付金
(同法33条)の支給の制度が定められている。
以上をまとめると,(ア)の健康管理手当及び(ウ)の一般疾病医療費の支
給は,被爆者援護法1条の「被爆者」であれば受けることができる援護で
あるが,(ク)の保健手当の支給を受けるためには,爆心地から2キロメー
トル以内の区域に在った直接被爆者またはその当時その者の胎児であった
被爆者であることが要件とされ,(キ)の健康管理手当の支給を受けるため
には,一定の疾病に罹患すること(ただし,原子爆弾の放射能の影響によ
るものでないことが明らかであるものを除く。)が要件とされている。ま
た,(イ)の医療の給付,(エ)の医療特別手当または(オ)の特別手当の支給
を受けるためには,被爆者援護法に基づく原爆症認定を受けることが要件
とされている。
オ原爆症認定の要件と手続
被爆者援護法による原爆症認定制度の概要は次のとおりである。
(ア)認定要件について
被爆者援護法による原爆症認定を受けるための要件として,被爆者が
現に医療を要する状態にあること(要医療性)のほか,現に医療を要す
る負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因するものであるか,または
右負傷または疾病が放射線以外の原子爆弾の傷害作用に起因するもので
あって,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため
右状態にあること(放射線起因性)を要すると解される(同法10条1
項,11条1項。最高裁平成10年(行ツ)第43号同12年7月18日
第3小法廷判決参照)。
(イ)申請手続について
原爆症の認定を受けようとする者は,都道府県知事を経由して,厚生
労働大臣に,負傷または疾病の名称,被爆時の状況(入市の状況を含
む。),被爆直後の症状及びその後の健康状態の概要等を記載した認定
申請書(様式第5号)に,医師の意見書(様式第6号)及び当該負傷ま
たは疾病に係る検査成績を記載した書類を添えて提出しなければならな
いものとされ,上記医師の意見書には,①疾病等の名称,②被爆者健康
手帳の番号,③被爆者の氏名及び生年月日,④既往症,⑤現症所見,⑥
当該疾病等が原子爆弾の放射能に起因する旨,原子爆弾の傷害作用に起
因するも放射能に起因するものでない場合においては,その者の治ゆ能
力が原子爆弾の放射能の影響を受けている旨の医師の意見,⑦必要な医
療の内容及び期間を記載すべきものとされている(被爆者援護法施行令
8条1項,同法施行規則12条)。
(ウ)審議会等の意見聴取
被爆者援護法は,厚生労働大臣は,原爆症認定を行うに当たって,審
議会等(国家行政組織法8条に規定する機関をいう。)で政令で定める
ものの意見を聴かなければならないとし(同法11条2項),同法施行
令9条においてその審議会等は疾病・障害認定審査会とされた。
そして,同審査会は,委員30人以内で組織し,特別の事項を審査さ
せるため必要があるときは,臨時委員を置くことができ,これら委員及
び臨時委員は,学識経験のある者のうちから,厚生労働大臣が任命する
ものとされている(疾病・障害認定審査会令(平成12年政令第287
号)1条,2条)。また,同審査会に,被爆者援護法の規定に基づき認
定審査会の権限に属させられた事項を処理する分科会として,原子爆弾
被爆者医療分科会(医療分科会)を置くものとされ,同分科会に属すべ
き委員及び臨時委員等は,厚生労働大臣が指名するものとされている
(同令5条1項,2項)。
なお,原爆医療法当時は,厚生大臣が原爆症の認定を行うに当たって
は,医療審議会の意見を聴くものとされていた(同法8条2項)。
(エ)認定書の交付
厚生労働大臣は,原爆症認定の申請書を提出した者につき原爆症の認
定をしたときは,その者の居住地の都道府県知事を経由して,認定書を
交付する(被爆者援護法施行令8条2項)。
(2)原爆症認定に関する審査の方針
ア認定基準(内規)について
医療審議会は,平成6年9月19日,「認定基準(内規)」(以下「6
年認定基準(内規)」ということもある。)を定めて,審査の目安として
いた。
イ審査の方針の制定とその内容(乙全1,甲全8の2の文献番号2)
医療分科会では,平成13年5月25日,審査の方針(以下「旧審査の
方針」という。)を決定し,その基準を目安として原爆症の認定審査を行
うこととした。旧審査の方針の概要は次のとおりである。
(ア)原爆放射線起因性の判断
a判断に当たっての基本的な考え方
Ⅰ申請に係る負傷または疾病(以下「疾病等」という。)における
原爆放射線起因性の判断に当たっては,原因確率(疾病等の発生が,
原爆放射線の影響を受けている蓋然性があると考えられる確率をい
う。以下同じ。)及び閾値(一定の被曝線量以上の放射線を曝露し
なければ,疾病等が発生しない値をいう。以下同じ。)を目安とし
て,当該申請に係る疾病等の原爆放射線起因性に係る「高度の蓋然
性」の有無を判断する。
Ⅱこの場合にあっては,当該申請に係る疾病等に関する原因確率が,
①おおむね50パーセント以上である場合には,当該申請に係
る疾病の発生に関して原爆放射線による一定の健康影響の可能
性があることを推定
②おおむね10パーセント未満である場合には,当該可能性が
低いものと推定する。
Ⅲただし,当該判断に当たっては,これらを機械的に適用して判断
するものではなく,当該申請者の既往歴,環境因子,生活歴等も総
合的に勘案した上で,判断を行うものとする。
Ⅳまた,原因確率等が設けられていない疾病等に係る審査に当たっ
ては,当該疾病等には,原爆放射線起因性に係る肯定的な科学的知
見が立証されていないことに留意しつつ,当該申請者に係る被曝線
量,既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその
起因性を判断するものとする。
b原因確率の算定
原因確率は,次の表の申請に係る疾病等,申請者の性別の区分に応
じ,それぞれ定める別表に定める率とする。
申請に係る疾病名申請者の性別別表
白血病男別表1-1
女別表1-2
胃がん男別表2-1
女別表2-2
大腸がん男別表3-1
女別表3-2
甲状腺がん男別表4-1
女別表4-2
乳がん女別表5
肺がん男別表6-1
女別表6-2
肝臓がん
皮膚がん(悪性黒色腫を除男別表7-1
く)
卵巣がん女別表7-2
尿路系がん(膀胱がんを含
む)
食道がん
その他の悪性新生物男女別表2-1
副甲状腺機能亢進症男女別表8
c閾値
放射線白内障の閾値は,1.75シーベルトとする。
d原爆放射線の被曝線量の算定
申請者の被曝線量の算定は,Ⅰの値に,Ⅱ及びⅢの値を加えて得た
値とする。
Ⅰ初期放射線による被曝線量
初期放射線による被曝線量は,申請者の被爆地及び爆心地からの
距離の区分に応じて定めるものとし,その値は別表9に定めるとお
りとする。
Ⅱ誘導放射線による被曝線量
誘導放射線による被曝線量は,申請者の被爆地,爆心地からの距
離及び爆発後の経過時間の区分に応じて定めるものとし,その値は
別表10に定めるとおりとする。
Ⅲ放射性降下物による被曝線量
放射性降下物による被曝線量は,原爆投下の直後に特定の地域に
滞在し,またはその後,長期間に渡って当該特定の地域に居住して
いた場合について定めることとし,その値は次のとおりとする。
特定の地域放射性降下物による被曝線量
己斐または高須(広島)0.6~2センチグレイ
西山3,4丁目または木場(長12~24センチグレイ
崎)
eその他
Ⅰbに規定する「その他の悪性新生物」に係る別表については,疫
学調査では放射線起因性がある旨の明確な証拠はないが,その関係
が完全には否定できないものであることにかんがみ,放射線被曝線
量との原因確率が最も低い悪性新生物に係る別表2-1を準用した
ものである。
Ⅱcに規定する放射線白内障の閾値は,95パーセントの信頼区間
が,1.31ないし2.21シーベルトである。
(イ)要医療性の判断
要医療性については,当該疾病等の状況に基づき,個別に判断するも
のとする。
(ウ)方針の見直し
この方針は,新しい科学的知見の集積等の状況を踏まえて必要な見直
しを行うものとする。
なお,審査の方針の別表は別紙別表1-1,1-2,2-1,2-2,
3-1,3-2,4-1,4-2,5,6-1,6-2,7-1,7-2,
8ないし10のとおりである。
ウ新しい審査の方針(乙全200)
原子爆弾被爆者医療分科会は,平成20年3月17日,「新しい審査の
方針」(以下「新審査の方針」という。)を定め,被爆者援護法11条1
項の認定に係る審査に当たっては,被爆者援護法の精神に則り,より被爆
者救済の立場に立ち,原因確率を改め,被爆の実態に一層即したものとす
るため,この方針を目安として,行うものとした。
(ア)放射線起因性の判断
a積極的に認定する範囲
Ⅰ被爆地点が爆心地より約3.5キロメートル以内である者
Ⅱ原爆投下より約100時間以内に爆心地から約2キロメートル以
内に入市した者
Ⅲ原爆投下より約100時間経過後から,原爆投下より約2週間以
内の期間に,爆心地から約2キロメートル以内の地点に1週間程度
以上滞在した者
以上の者から,放射線起因性が推認される以下の疾病についての
申請がある場合については,格段に反対すべき事由がない限り,当
該申請疾病と被爆した放射線の関係を積極的に認定するものとする。
①悪性腫瘍(固形がんなど)
②白血病
③副甲状腺機能亢進症
④放射線白内障(加齢性白内障を除く)
③放射線起因性が認められる心筋梗塞
この場合,認定判断に当たっては,積極的に認定を行うため,申
請者から可能な限り客観的な資料を求めることとするが,客観的な
資料がない場合にも,申請書の記載内容の整合性やこれまでの認定
例を参考にしつつ判断する。
baに該当する場合以外の申請について
aに該当する場合以外の申請についても,申請者に係る被曝線量,
既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性
を総合的に判断するものとする。
(イ)要医療性の判断
要医療性については,当該疾病等の状況に基づき,個別に判断するも
のとする。
(ウ)方針の見直し
この方針は,新しい科学的知見の集積等の状況を踏まえて随時必要な
見直しを行うものとする。
第3前提事実
1アメリカ合衆国は,昭和20年8月6日午前8時15分,広島に,同月9日
午前11時2分,長崎に,それぞれ原子爆弾を投下した。
21審原告らは,いずれも,被爆者援護法1条の定める被爆者である。
31審原告らは,被爆者援護法第11条1項に基づく原爆症認定申請をしたが,
1審被告厚生労働大臣(1審原告P2については,厚生大臣)はこれを却下し
た。1審原告らの各申請日時,各処分の日,訴状送達日の翌日は以下のとおり
である。
申請日処分のなされた日訴状送達日の翌日
1審原告P2平成9年1月27日平成9年6月3日平成15年4月29日
1審原告P3平成14年7月8日平成15年1月28日平成16年6月29日
1審原告P1平成14年7月9日平成15年1月28日平成16年6月29日
1審原告P4平成15年6月23日平成16年5月12日平成16年6月29日
第4争点
1放射線起因性の判断基準について(争点(1))
1審原告P1及び1審原告P4が求める取消請求は,原爆症認定の申請につ
いてされた各却下処分の取消を求めるものであり,前記各1審原告らは,各申
請について認定要件(放射線起因性及び要医療性)が充足されているにもかか
わらず申請を却下した点で違法であると主張するものである。そして,医療分
科会では,原爆症認定の審査方針として,その要件の一つである放射線起因性
に関する判断基準を定め,前記基準に則って原爆症認定を行ってきたものであ
るところ,1審原告らは,前記審査方針の内容を批判して,あるべき判断基準
を主張し,1審被告らは前記審査方針の正当性を主張するものである。したが
って,医療分科会が従前採用していた原爆症認定に関する審査方針における放
射線起因性の判断基準の相当性が争点となる。
なお,前記のとおり,現時点では,医療分科会では新しい審査方針が定めら
れ,この方針に基づいて原爆症認定が行われているが,当審における争点は,
従前の審査方針の相当性である。
21審原告P1及び1審原告P4の原爆症認定要件の充足性について(争点
(2))
争点(1)を前提として,1審原告P1及び1審原告P4に関する原爆症認定申
請時における放射線起因性及び要医療性の充足性の有無,具体的には,1審原
告P1については,同人の被爆後約50年を経て発症した白内障が,放射線白
内障として放射線起因性を有するのかどうかが主たる争点であり,1審原告P
4については,同人の膵臓病変が分枝型膵管内乳頭粘液腫瘍(以下「IPM
N」という。)であるかどうか,IPMNに放射線起因性が認められるかどう
か,また,同人に要医療性が認められるかどうかが主たる争点である。
31審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求権の有無について(争点(3))
1審被告厚生労働大臣が,1審原告らに対して,原爆症認定に関する却下処
分をしたことについて国家賠償法上違法性が認められるかどうかが争点である。
第5争点に関する当事者の主張についての原判決の引用
争点(1)に関し,1審原告らの主張として,原判決22頁15行目冒頭から同
78頁5行目末尾までを,1審被告らの主張として,原判決78頁6行目から
同132頁16行目末尾までを引用する。
第6争点に関する1審原告らの当審における主張
別紙「1審原告らの当審における主張」のとおり。
第7争点に関する1審被告らの当審における主張
別紙「1審被告らの当審における主張」のとおり。
第3章当裁判所の判断
第1原子爆弾による被害の概要
証拠(甲全3,5,43,乙全14,56,101)によれば,アメリカ合
衆国により日本国に投下された2発の原子爆弾の概要,その物理的な作用,概
括的な被害の内容について,以下の事実が認められる。
1広島の原子爆弾
広島の原子爆弾には,効率を高めるために,臨界量の約3倍である約60キ
ログラム弱で,90パーセント以上の高濃縮ウラン235が使用された。そし
て,臨界量以上の核分裂物質を2つに分けて,砲弾状の塊とリング状の標的に
して,それぞれは臨界条件を満たさないようにし,爆発させたいときに,砲弾
状の塊を火薬爆発の圧力で,リング状のものに衝突,合体させて,その衝撃で
中性子発生装置を発動させ,連鎖反応を引き起こさせるといういわゆる砲身式
と呼ばれるタイプのものである。広島原爆は,昭和20年8月6日午前8時1
5分,広島市内の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)付近,P5病院の上空,
約580メートルで爆発し,約60キログラム弱の高濃縮ウラン235のうち,
約0.7キログラムが核分裂反応を起こし,その余のウラン235は環境中に
放出された。1キログラムのウラン235が核分裂するときの質量減少は1グ
ラム弱であるが,高性能TNT(トリニトロトルエン)火薬のおよそ2万トン
の爆弾の爆発エネルギーに相当し,核分裂によって生じたエネルギーの約50
パーセントが爆風の,約35パーセントが熱線の,約15パーセントが放射線
のエネルギーとして放出されたとされている。
2長崎の原子爆弾
長崎の原子爆弾は,いわゆる爆縮(インプロージョン)式と呼ばれるタイプ
のものである。球の中心に中性子発生装置を置き,その周りを臨界量以下のプ
ルトニウムで取り巻き,さらにその周辺をタンパーとして天然ウランで球状に
囲み,その外側に高性能火薬による爆縮レンズを取り付けて,全体が球状にで
きあがった球面に多数の点火栓をつける。点火栓を同時に発火させて火薬を爆
発させると,爆発波が爆縮レンズで天然ウランを外から球状に圧縮し,その中
に発生する衝撃波が,あたかも一つの球が収縮するように中心に向かって進み,
その高速・高圧によって中心に置かれたプルトニウム球が極めて短時間内に圧
縮されて,密度が高まり,臨界条件が満たされ,その瞬間に中心に置かれた中
性子発生装置が押しつぶされて,連鎖反応が始まるという仕組みである。爆縮
式では,核分裂物質の周辺を大量の火薬物質が取り巻いているため,核爆発で
発生した中性子がそれらと衝突してエネルギーを失うため,初期中性子線のエ
ネルギー分布は砲身式に比較して,低いエネルギーの方にずれる。
長崎原爆は,昭和20年8月9日午前11時2分,長崎市内競馬場の北東約
300メートルの上空約500メートルで爆発し,爆弾に使用されたプルトニ
ウム239は約8キログラムであるが,そのうち,約1キログラムが核分裂反
応を起こし,その余は環境中に放出された。
3原子爆弾の物理的な作用
(1)衝撃波,爆風の物理的作用
原爆の爆発によって,爆発点に数10万気圧という超高圧が作られ,周り
の空気が膨張して爆風となった。爆心地あたりでの風速は秒速280メート
ル,3.2キロメートルの地点でも秒速28メートルあったとされている。
爆風の先端は衝撃波として進行し,爆発の約10秒後には,爆発点から約3.
7キロメートルにあり,30秒後には11キロメートルの距離に達した。衝
撃波が外方に向かい,風が吹き止む瞬間があった後,今度は外方から内方へ
それよりも弱い爆風が流れ込んだ。
(2)熱線の物理的作用
爆発によって生じた火球は,爆発の瞬間に温度が摂氏数百万度に達し,火
球の膨張によって,その表面温度は下降するが,火球の表面を覆っていたシ
ョックフロントが火球から分離すると,火球からの熱放射が直接外部に放出
されるようになり,その温度は約7000度で,地上爆心地地域で,1平方
センチメートル当たり99.6カロリー,3.5キロメートルの地点で,1
平方センチメートル当たり1.8カロリーの熱線量が計算されている。爆発
後3秒以内に火球から放射された99パーセントの熱線が地上に影響を与え,
爆心地付近では人体を炭化させ,瓦や岩石の表面を溶融させるほどの熱作用
をもたらし,爆心地から1.2キロメートル以内で,無遮蔽の状態で被爆し
た人は致命的な熱線熱傷を受け,死者の20ないし30パーセントがこの熱
傷によるものと推定されている。
(3)放射線の物理的作用(甲全101)
ア放射線の意義
放射線には,エックス線,ガンマ線などの光と同じ性質を持つ電磁波と,
アルファ線,ベータ線,中性子線などの粒子線があり,いずれも人体細胞
を含む物質を透過する能力があり,それらが透過する物質にエネルギーを
与えるとともに,その電離作用によって様々な傷を与える。
イ放射線の作用
ガンマ線は,物質をよく透過する。これは,アルファ線やベータ線のよ
うな荷電粒子と異なり,核や核外電子とのクーロン力(電荷を帯びた粒子
に働く力のことで,2つの粒子の電荷の積に比例し,粒子間の距離の2乗
に反比例する。)による相互作用がないためである。それでも,物質を透
過中のガンマ線は,核や核外電子と相互作用をしながら,自分自身のエネ
ルギーを失っていく。
ベータ線は,ガンマ線と同様,物質を透過するが,その際,原子を構成
する電子や核との間で,クーロン力による相互作用を起こす。ベータ線は,
1回の電子との衝突で運動エネルギーを全て失う確率はほとんどなく,多
数回,電子と衝突しながら,方向をめまぐるしく変え,場合によっては後
ろに戻ってくるものもある。このように,入射ベータ線は物質中で散乱さ
れ,運動エネルギーを減じながら,全体として,入射方向の強さ(フルエ
ンス率)を減らしていく。
アルファ線は,ヘリウム核であるから,電荷を持ち,物質中を進むとき,
主に,核外電子との電気的相互作用によって,電子の電離や励起を起こす。
原子核とも相互作用を起こすがその確率は低い。アルファ線は電子に比べ
て質量が大きいので,電子をいろいろな方向に飛ばすが,自分自身はほと
んど曲がらずに進む。同じ核種から放出された同じエネルギーを持つアル
ファ線は,どれも同じ距離だけ進み,物質中を通過する過程でその数はほ
とんど減らない。しかし,進行距離がある距離を超えると,突然その数が
0になる。その意味で,ガンマ線やベータ線が指数関数的に強さが減弱す
るのと対照的である。アルファ線の生体内での飛程はせいぜい,80ミク
ロン程度である。
中性子は電荷がないので,物質中を通過するとき,クローン力による相
互作用がなく,主に原子核との衝突によりエネルギーを失う。原子核の大
きさは原子に比べ,非常に小さいので,中性子が衝突する確率は小さく,
透過性が大変大きい。高速中性子は,原子核と衝突すると,相手の核が重
いと,相手にあまりエネルギーを与えず,中性子自身は高速のまま方向を
変えるだけであるが,相手の核が軽いと,1回の衝突で相手に与えるエネ
ルギーが大きく,衝突された方の原子核は,勢いよく物質中を飛び,周り
の物質の電離,励起を起こす。
このように,高速中性子は,核と衝突しながらエネルギーを失い,速度
を減じ,緩中性子となり,最終的には,そこにある物質の熱運動エネルギ
ーと同程度となる。この状態の中性子を熱中性子という。熱中性子は,核
反応を起こして吸収されるか,半減期約10分のベータ線を出して陽子に
変わる。
それぞれの放射線が生体に対して,どのような影響を与えるかをみると
き,2つの面がある。一つは生体内での飛程であるが,ガンマ線,中性子
線は透過力が強く,ベータ線,アルファ線は透過力が弱い。アルファ線は
紙一枚を透過しにくく,ベータ線は数ミリのアルミニウム,プラスティッ
クを透過しにくく,ガンマ線は鉛やコンクリートなどの密度の高い物質を
透過しにくく,中性子線は水分の多いもの,水やコンクリートを透過しに
くいとされている。もう一つは局所的な影響力であるが,これは線エネル
ギー(LET)で表され,LETは単位飛程当たりのエネルギー損失と定
義され,アルファ線,中性子線は高LET放射線,ガンマ線は低LET放
射線と呼ばれる。
ウ被爆線量の単位
(ア)吸収線量
吸収線量とは,放射線が物質ないし生体に作用したとき,単位物質
(組織)1キログラム当たりに吸収されたエネルギー量を表す。単位は
グレイ(記号Gy)で,1グレイは,単位物質1キログラム当たりに吸
収される放射線のエネルギーが1ジュールであることを意味する。1グ
レイは100センチグレイ,放射線が単位物質1グラム当たりに吸収さ
れたエネルギー量を表すラド(記号rad)との関係では,1グレイは
100ラドである。
(イ)等価線量
等価線量とは,放射線防護の目的のため,1990年国際放射線防護
委員会によって定義された概念であり,吸収線量が等しくても,放射線
の種類やエネルギーの大きさ,すなわち線質の相違,臓器や組織の相違
によって,生物学的効果に量的な相違が生じることを考慮した単位で,
組織1キログラム当たりに吸収されたエネルギー量を表す。単位はシー
ベルト(記号Sv)である。生物学的効果比は,エックス線,ガンマ線
で係数1,アルファ線は係数20,中性子はエネルギーの範囲によって
係数5ないし20とされている。
(ウ)照射線量
照射線量とは,エックス線あるいはガンマ線について,ある場所にお
ける空気を電離する能力を表す量である。単位は通常,レントゲン(記
号R)を用いる。1レントゲンは,エックス線あるいはガンマ線により,
0度c,1気圧で1立方センチメートルに1静電単位の電気量に相当す
る正(あるいは負)イオンを生じさせるような照射線量である。
(4)原爆放射線の分類
ア初期放射線
原爆爆発後1分以内に空中から放射された放射線を初期放射線と呼ぶ。
その主要成分は,ガンマ線と中性子線である。ガンマ線のうち核分裂の連
鎖反応が起こっている100万分の1秒以内に放出されるものを即発ガン
マ線と呼び,爆発1分以内に核分裂生成物や誘導放射化された原子核から
放出されたものを遅発ガンマ線と呼ぶ。遅発ガンマ線には,大気中の主と
して窒素と水素の原子核及び地上の物質の原子核が中性子を吸収して誘導
放射化して放出するガンマ線も含まれる。中性子のうち核分裂の連鎖反応
の瞬間に核分裂で放出されるものを即発中性子と呼び,核分裂で生じた核
分裂生成物からやや遅れて放出された中性子を遅発中性子と呼ぶ。また,
原爆の器材物質の原子核がガンマ線を吸収して放射核となって中性子を放
出するものがある。核分裂によって生じたエネルギーの約5パーセントが,
初期放射線として放出されたとされている。
なお,核分裂によって生じる中性子のエネルギー分布はよく分かってい
るが,原爆が砲身式であるか爆縮式であるかによって火薬量や配置が異な
り,中性子の散乱のされ方が違うので,爆弾の外に放出される中性子線の
量やエネルギー分布は異なってくる。また,核分裂によって生じる中性子
は複雑に配置された原爆の器材物質の原子核によって減速されるので,エ
ネルギー分布を原理的に計算できたとしても,計算結果には大きな不確定
要素が伴い,そのため最終的には実験結果に頼らざるを得ないとされてい
る。
イ残留放射線
残留放射線は,爆発後1分より後の長時間にわたって放射されるもので
あり,2種類に大別される。一つは,放射性降下物で,核分裂生成物及び
分裂しなかったウラン235(広島),プルトニウム239(長崎)が空
中に飛散し,爆発1分以後のガンマ線,ベータ線及びアルファ線の放射線
源となったものである。もう一つは,地上に降り注いだ初期放射線(中性
子)が土壌や建築物資材の原子核に衝突して原子核反応を起こし,それに
よって放射線を誘導する誘導放射能である。核分裂によって生じたエネル
ギーの約10パーセント(初期放射線のエネルギーの約2倍)が,残留放
射線として放出されたとされている。誘導放射能による被爆線量は,初期
放射線に比べると線量は小さいものの,長時間にわたり残存し,遠距離被
爆者及び入市被爆者に影響を与えたとされている。
4原爆による被害(甲全86の7,乙全14,56)
(1)死亡者
原爆による死亡者数は正確に把握されていないが,広島市では全人口34
万人から35万人のうち9万人から16万6000人が死亡し,長崎市では
全人口25万人から27万人のうち6万人から8万人が死亡したといわれて
いる。
また,広島市調査課によれば,昭和21年8月10日現在の広島の死者は,
軍人,広島で作業をしていた朝鮮半島の人々を除いて11万8661人であ
り,このうち約11万4000人が,昭和20年12月までのいわゆる急性
期に死亡したと考えられている。急性期の死亡者のうち,爆心地から2キロ
メートル以内の死亡総数を100パーセントとしたとき,初めの2週間の死
亡者は88.7パーセント,第3週から第8週までの死亡者が11.3パー
セントであったとされている。
(2)爆風,衝撃波による被害
爆風,衝撃波は,建物等の建築物を倒壊させ,倒壊した建物からは火災が
発生し,大災害を生じさせた。建物被害は主として地形,建造物分布の違い
が大きく影響し,広島では,被爆前の建物の約91.9パーセントが半壊・
半焼・大破以上の被害を受け,全市が瞬時にして壊滅したといっても過言で
はないのに対し,山が多い長崎では,被爆前の建物の約36.1パーセント
が被害を受けた。しかし,広島,長崎とも,消防機関はほぼ全滅し,施設や
消防隊員が被災を免れたところでも,街路の堆積物が消防隊の進路をふさい
で,消火活動を妨害した。火災を拡大した原因として,両市とも,給水管が
損壊して,水圧が低下し,給水が停止していたこと,地上に露出していた給
水管も建物の崩壊で切断され,あるいは熱のために融解したりし,地下の給
水管も土地の不均一な移動のため破損したものが多かったことが挙げられる。
このような要因から,その被害は甚大であり,爆風及び火災によって灰燼に
帰した面積は,広島で13平方キロメートル,長崎で6.7平方キロメート
ルに及んだ。
(3)熱線による被害
原爆による熱線により,爆心地は摂氏3000度にも達し,瓦,岩石を溶
融させ,人体を炭化させた。露出した皮膚に第1次熱傷(爆発による熱線が
直接引き起こす熱傷。火災等による熱傷を第2次熱傷という。)が生じた範
囲は,広島で半径3.5キロメートル,長崎で半径4.0キロメートルであ
った。
(4)放射線による人体に対する被害(乙全14,101)
放射線の人体への影響は,急性障害と後障害に分けられる。急性障害は,
昭和20年12月末までに生じた障害をいい,後障害はそれより後に生じた
障害をいう。
ア放射線の急性障害
(ア)急性障害(急性症状といい,被爆直後から第2週の終わりまで。)
としては,高度な放射線を浴びた者は,火傷等の外傷が軽い場合であっ
ても,被爆直後から,全身の不快な脱力感,嘔吐,吐き気などの症状が
現れ,2,3日から数日間に発熱,下痢,喀血,吐血,下血,血尿を起
こし,全身が衰弱して被爆から10日前後で死亡した。この時期の死亡
者の病理学的所見として,放射線による骨髄,リンパ節などの造血組織
の破壊及び腸の上皮細胞,生殖器や内分泌腺細胞における腫脹と変性な
どがみられた。
(イ)第3週から第5週までの時期(亜急性症状)の主な症状は,吐き気,
嘔吐,下痢,脱毛,脱力感,倦怠,吐血,下血,血尿,鼻出血,歯齦出
血,生殖器出血,皮下出血,発熱,咽頭痛,口内炎,白血球減少,赤血
球減少,無精子症,月経異常などであった。
病理学的に最も著明な変化は,放射線による骨髄,リンパ節,脾臓な
どの組織の破壊で,その結果,血球,特に顆粒球及び血小板の減少が生
じた。この時期の死因の多くは敗血症であった。そのほか死因との直接
の関係は少ないが,下垂体,甲状腺,副腎などの内分泌腺に放射線によ
る萎縮性障害像がみられた。
(ウ)第6週から第8週(合併症状)には,比較的軽微な症状であった者
は回復に向かい始めたが,一部には肺炎,膿胸,重症大腸炎などの症状
を発し,いったん好転しかけていたものが再び容態が悪化した例がかな
りみられた。これらの発現は,放射線による人の抵抗力の減弱によるも
のと考えられている。
(エ)第3月から第4月の終わりまで(回復症状)は,外傷,熱傷,放射
線による血液や内臓諸臓器の機能障害も回復傾向を示したが,生殖器へ
の放射線の影響はなお続いており,男性の精子数減少,女性の月経異常
もみられた。
イ放射線の後障害
一般に,昭和21年以降に発生した放射線に起因すると考えられる人体
影響を,放射線の後障害と呼び,このうち,被爆後長年月の潜伏期を経て
現れてくるものを特に晩発障害と呼び,急性障害に引き続いて起きる障害
を慢性障害と呼ぶ場合もある。個々の症例を観察する限り,一般にみられ
る疾病と同様の症状を持っており,放射線に起因するかどうかの見極めは
不可能であるが,被爆集団として考えると,集団中に発生する疾病の頻度
が高い場合があり,そのような疾病は放射線に起因している可能性が高い
と判断される。
ウ放射線被害の確定的影響と確率的影響
(ア)放射線の確定的影響
確定的影響とは,しきい値(影響が現れる最小線量)が存在し,被爆
線量がしきい値を超えると影響の現れる確率が急激に増加して全員に影
響が現れる影響をいう。
放射線は,直接的に遺伝子のDNAやタンパク質分子を傷つける。同
時に間接的に放射線により体内で生成されたフリーラジカル(遊離基)
が,タンパク質分子や遺伝子を傷つける。タンパク質分子や遺伝子は修
復作用を持つが,一定線量以上の放射線を浴びて大量のタンパク質分子
や遺伝子が同時に傷つけられ,修復作用が働かなくなって多数の細胞死
が起こる場合や,多数の遺伝子が傷つけられて多くの細胞分裂が正常に
行われなくなる場合には,放射線症状が現れる。このような機能喪失に
基づいて症状が出現するものを放射線の確定的影響という。特定臓器障
害の確定的影響については,症状出現のための線量(しきい値)が存在
すると考えられる。この確定的影響の場合,被爆線量がしきい値を超え
れば,症状が出現し,線量の増加に伴って症状が出現する者の割合が増
えるとともに,症状が重篤になる。
(イ)放射線の確率的影響
確率的影響とは,しきい値が存在しないと考えられており,被爆線量
の増加とともに,影響の現れる確率が増加するような現象をいう。
放射線による遺伝子などが損傷された後,タンパク質分子や遺伝子の
修復によりいったん急性症状が治まっても,誤った修復作用が行われる
ことがあり,誤った修復作用の起こる確率は,被爆者の浴びた放射線量
に比例するといわれている。遺伝子が誤って修復された場合に,長年の
後に,がん等の放射線後障害を引き起こすことがある。この放射線後障
害は,被爆線量にほぼ比例して確率的に発症するので,確率的影響とい
われる。このように,確率的影響は,極少量の線量であっても生じる可
能性があると考えられ,しきい値はなく,症状の重篤性は線量と直接的
な相関関係がない。
第2検討すべき問題について
旧審査の方針の検討における放射線起因性の判断基準の相当性を検討するに
は,その基礎となるDS86による原爆被爆線量評価の相当性,疫学に基づく
寄与リスク(原因確率)やしきい値を用いて,放射線起因性を判断することの
相当性が問題となり,さらに,線量評価については,残留放射線の評価や内部
被爆の問題をどのように考えるか,また,急性症状と被爆線量との関係をどの
ように捉えるのかという点が問題となるので,以下検討する。
第3線量評価について
1旧審査の方針における原爆放射線の被爆線量の算定基準の概要とその根拠
(1)旧審査の方針における原爆放射線の被爆線量の算定基準の概要
前記「第1章第2法令の定め」に記載のとおり,旧審査の方針は,被爆線
量を,初期放射線による被爆線量に誘導放射能による被爆線量及び放射性降
下物による被爆線量を加えて得た値とするものとし,初期放射線による線量
の点については別表9(遮蔽がある場合につき別表註記あり。),誘導放射
能による線量の点については別表10,放射性降下物による線量の点につい
ては,広島では己斐または高須,長崎では西山3,4丁目または木場につい
てのみ,所定の線量を付加するものとしている。
(2)初期放射線による被爆線量算定基準の根拠
旧審査の方針別表9は,DS86により算出された数値に基づいて作成さ
れており,被爆時に遮蔽がなかった場合の被爆線量に相当する。被爆時に遮
蔽があった場合,DS86における透過係数を考慮して,透過係数が0.5
を超えることはないとして設定されている。
(3)誘導放射能による被爆線量算定基準の根拠
旧審査の方針別表10は,DS86等報告書において,誘導放射能による
外部被爆の積算線量を計算した結果,広島では約50ラド,長崎では18な
いし24ラドと推定され,また,これが爆心地から被爆した地点までの距離
や,爆発からの時間の経過とともに減少するとされたことに基づいて,爆心
地からの距離を100メートル間隔で,広島では700メートルまで,長崎
では600メートルまでとし,積算線量を8時間ごととした場合の計算値を
用いて作成されたものである。
(4)放射性降下物による被爆線量算定基準の根拠
旧審査の方針における放射性降下物による被爆線量算定基準は,主要な放
射性降下物は,広島では己斐・高須地区,長崎では西山地区という爆心地か
ら約3000メートル離れた地域にのみ,みられたとの知見に基づき,DS
86等報告書において,放射性降下物による外部被爆の積算線量を計算した
結果,広島では0.6ラドないし2ラド,長崎では12ないし24ラドと推
定されたことに基づくものである。
(5)旧審査の方針において,内部被爆による影響を考慮しなかった根拠
旧審査の方針において,内部被爆を考慮しなかったのは,長崎で原爆から
の放射性降下物が最も多く堆積したとされる地区の住民について,セシウム
137からの内部被爆線量を計算した結果,昭和20年ないし昭和60年ま
での積算線量は,男性で10ミリラド,女性で8ミリラドとされ,広島にお
ける放射性降下物がみられた地域の住民の内部被爆線量は,長崎の10分の
1程度と考えられるとの知見に基づき,内部被爆による線量は極微量である
と考えられたことによるものである。
2原爆放射線の線量推定方式の変遷と各システムの内容
(1)DS86策定に至るまでの経緯(甲全5,乙全14,16,40,59)
昭和20年8月6日,広島に原爆が投下された直後の同月8日から,日本
国の科学者らは現地に入って原爆被害の状況の調査を開始し,これら種々の
調査結果がまとめられている。他方,アメリカ合衆国のトルーマン大統領は,
広島・長崎の被爆者を長期間追跡調査することの重要性にかんがみ,NAS
(nationalacademyofscience)に対してそ
の方策を立案するように命じ,NASの勧告に基づいてABCC(atom
icbombcasualtycommission)が設立された。
ABCCは米国政府によって運営され,日本国側も国立予防衛生研究所の支
所を広島,長崎のABCC内に設置し,これに協力するという体制であった。
ABCCでの研究内容は,昭和50年にABCCが組織変更された放射線影
響研究所(radiationeffectsresearchfo
undation;以下「放影研」という。)に引き継がれ,日米両国政府
が共同して研究する体制となったが,放影研における調査研究活動の目的に
照らして,被爆者が受けた放射線量を正確に把握することが最重要事項であ
った。そして,当時存在した線量評価システムとしては,昭和40年,米国
のオークリッジ国立研究所の科学者らによって提案された。これがT65D
(tentative1965doses)である。
T65Dは,「ichibanproject」という大規模な実験プ
ロジェクトの結果によるものであるところ,このプロジェクトは,ネバダ核
実験場において,長崎型原爆のテスト,高い塔に裸の小型原子炉あるいは強
力なコバルト60線源を設置した実験や,日本家屋を建てて遮蔽実験を行い,
これらの実験から得られた結果を広島と長崎の場合に当てはめて,放射線量
を推定した。
しかしながら,昭和45年代になると,T65Dの問題点や矛盾点,特に
中性子線の線量評価や,日本家屋のガンマ線に対する透過率についての問題
点が指摘され,昭和56年から日米合同で研究活動が開始され,昭和61年
に放影研から「1986年放射線評価システム(DS86)」が発表された。
(2)DS86等報告書の内容(乙全39,40)
アシステムの概要
DS86は,広島・長崎の被爆者データを放射線防護基準の考察に用い
るために開発された,被爆者ごとの被爆線量の正確な評価を行う「線量評
価システム」である。そして,原爆の爆発と同時に放出される放射線であ
る即発放射線及び遅発放射線が臓器に線量を与える諸過程を,全て物理的
素過程に基づいて計算コードに組み立てたものがDS86である。DS8
6とT65Dを比較すると,長崎では,DS86では,ガンマ線カーマ
(ガンマ線が,ある質量の物質においてはじき飛ばした全ての荷電粒子の
持っている初期運動エネルギーの総和を質量で除した価で,通常,照射さ
れた放射線のある場所での強さを表す。特に,前記物質を空気とした場合
を空気(中)カーマという。以下同様である。)については,T65Dよ
り幾分小さいものの,誤差の範囲内といえるが,中性子カーマについては,
T65Dの約2分の1ないし3分の1であり,この原因は,大気中の水蒸
気成分による影響と考えられるとしている。また,広島では,DS86で
は,ガンマ線カーマについては,T65Dの2ないし3.5倍となり,中
性子カーマについては,T65Dの約10分の1と大幅に減少しているが,
ガンマ線カーマが増大した一因は,爆弾の出力が12キロトンから15キ
ロトンに増大したためであり,中性子カーマが減少した原因は,大気中水
蒸気成分の影響のほか,爆弾の起爆装置の相違と殻の厚さに起因して,広
島の中性子スペクトルが長崎の中性子スペクトルより軟らかいことに基づ
く。また,透過率について,T65Dでは,距離と無関係に定められてい
たが,DS86では爆心地からの距離ごとに値が変わっており,DS86
による家屋内遮蔽カーマは,一般に,T65Dより小さくなる傾向がある。
さらに,臓器線量の計算に当たっては,昭和20年ころの日本人の体格,
被爆時における種々の遮蔽状況,被爆者の姿勢,臓器15種類を選択して
計算をした。
なお,DS86には,残留放射能については,その線量計算に含まれて
いない。
イ原爆の出力の推定
広島・長崎に投下された原爆の出力は,線量計算にとって最も基礎的な
データであるにもかかわらず,投下時のデータの大部分が失われたため
(広島では飛行機内で撮影されたフィルムは偶然に破棄され,長崎では随
伴飛行機が,爆撃時までに撮影点に到着しなかったため,撮影されてな
い。),直接の測定値からの値は得られていない。しかしながら,長崎爆
弾については,これと同一型の原爆による実験の結果から,出力は,かな
り精度よく推定でき,21キロトンプラスマイナス2キロトンの範囲内に
あるとされている。
広島型の爆弾は,今までに広島に一発投下されただけで,同一型の実験
ができず,その出力の推定は,長崎の場合より誤差が大きいが,15キロ
トンプラスマイナス3キロトンとされている。原爆の出力の推定は,その
後の核分裂の連鎖反応の程度を推定するために必要な判断である。
ウソースタームの計算と検証
ソースタームとは,核分裂の連鎖反応で発生した放射線が,100万分
の1秒という短い間に,爆弾容器の物質と衝突しながらこれを通り抜け,
どれだけの量が,どういうエネルギー分布で,大気中にどの方向に放出さ
れたかという点を確定する作業である。ロスアラモス国立研究所とローレ
ンス・リバーモア研究所において,地下核実験のデータ解析用のコンピュ
ーター・プログラムを用いて,原爆の放射線の複雑な放出過程の理論的な
計算が行われ,中性子やガンマ線の粒子及びそれらの2次生成物が放出さ
れ,吸収されるかあるいはシステムから脱出するまで追跡されたとされて
いる。ただし,軍事機密のため,日本側に示されたのは,原爆容器を通り
抜けて外部に放出された即発ガンマ線と中性子線の総量,エネルギー分布
及び方向分布に関する計算結果だけであった。広島原爆については,放出
放射線の角度分布とエネルギー分布が,長崎原爆については,エネルギー
分布が計算された。これらの計算の検証は,広島原爆のレプリカ(砲身を
短くし,核分裂物質を減らしたもの。)を用いて組み立てた臨界実験装置
等によりなされた。
エ放射線の空中輸送,空気中カーマの決定
初期放射線が爆弾の線源から空気中を経て線量推定の対象となる地域に
伝播していくことを放射線の輸送という。即発中性子線,即発ガンマ線及
び空気捕獲ガンマ線の空中輸送について,2次元コンピューターコードや
モンテカルロコードを用いた大規模な計算により,爆心地から2500メ
ートルまでの各距離における空気中カーマ(カーマとは物質に放出される
運動エネルギーの意味であるが,空気中カーマとはある場所における遮蔽
前の線量で,単位はグレイで表される。)が決定された。ただし,これら
の即発輸送には,大気は爆風によって攪乱されていないとして計算がなさ
れている。
オ熱ルミネッセンス法によるガンマ線の計算値の検証
ガンマ線の測定には熱ルミネッセンス法が用いられる。タイル,煉瓦,
岩石などに含まれた石英などの結晶にガンマ線を照射すると,結晶内の電
子が励起状態になって静電気エネルギーとして貯蔵されるところ,熱ルミ
ネッセンス法では,結晶を熱すると,このエネルギーが光(ルミネッセン
ス)として放出されることを利用して,ガンマ線の照射量を測定すること
ができる。そこで,上記のとおり計算された空気中カーマのうち,ガンマ
線カーマについては,爆心から約1500メートル近辺にある広島大学理
工学部校舎,長崎市家野町民家の塀等から収集された被爆時の状態を保持
している試料につき,熱ルミネッセンス法によるガンマ線の測定を行い,
その測定結果と前記計算値とを比較した。この結果,広島において,測定
値は,爆心地から1000メートル以遠の地点で,計算値より大きく,近
い地点では,逆に計算値より小さくなっている。長崎においてはこの関係
は逆である。1000メートル以上の地点で測定値の平均値とよい一致を
得るためには,計算値は,広島で約18パーセント大きくなり,長崎で約
10パーセント小さくなる必要があるとされた。
カ中性子に関する検証
中性子線量の検証には,中性子により特定の物質中に誘導された特定の
放射性物質の放射能を測定し,この測定値に対応する計算値と比較する方
法を取った。DS86開発当時に得られていた放射能の測定値には,速中
性子により誘導されたリン32,熱中性子によって誘導されたコバルト6
0,ユーロピウム152がある。
リン32は,爆弾投下の数日後に測定したデータに再検討が加えられ,
爆心地から近距離においては,DS86の計算値との間に差はみられない
が,爆心地から400メートル以遠の距離においては,測定値の誤差が大
きくなるため,結論を下すことができないとされ,コバルト60は,T6
5Dの決定の際の測定に加え,新たな試料の測定も行われたところ,計算
値が,地上距離260メートルにおいて,測定値の1ないし1.5倍,1
180メートルにおいて測定値の4分の1と,系統的な差を示した。この
不一致を解決するために,種々の調査や計算を行ったが,1180メート
ル地点において,計算値と実測値とで4倍の違いが出る点の解明には至ら
ず,この問題は未解決のまま,残されているとされている。次に,ユーロ
ピウム152は,当時新しい測定であったが,測定データは全体として計
算結果と矛盾しないが,1000メートルの地上距離における計算結果の
妥当性を確認するには,不確かさが大きく,また,測定機関の間で測定値
のばらつきが大きいとされた。
被爆者の被爆線量の推定に関しては,比較的高いエネルギー(約0.5
メガエレクトロンボルト(Mev)以上の中性子の影響が主となり,それ以下
のエネルギーの中性子の影響は余りないとされ,速中性子によるリン32
のデータを中心に検討が行われた。なお,計算された中性子カーマ値が間
違っているという可能性はまだ残っていて,中性子の測定についてのこの
章の結論は,中性子線量がさらに研究が進展するまでは疑わしいというこ
とでなければならないとの記述がある。
キ残留放射能の放射線量
報告書自体,誘導放射能及び放射性降下物による被爆線量の測定の正確
性に影響する多くの要素がよく知られておらず,被爆線量推定は大まかな
近似にならざるを得ないとし,その理由として,風雨の影響がある以前に,
速やかな被爆率の測定がなされていないこと,その後の風雨の影響を明ら
かにしたり,放射能の時間分布を与えるのに,十分な程度の測定が繰り返
されていないこと,測定場所の数が余りにも少なく,放射能の詳細な地理
的分布について,十分に推定できるものではなかったこと,このような調
査では,代表的でない標本が抽出されることが多く,このような標本に偏
りが存在しているかどうかも不明であること,較正や測定の詳細に関する
資料が入手できていないことなどを挙げ,多数の測定の精度は非常に低く,
その誤差はかなり大きいと思われると断っている(乙全16)。
報告書は,結論として,放射性降下物の影響については,爆発の1時間
後から無限時間まで地上1メートルの位置で計算した結果が,西山地区
(長崎)において20ないし40レントゲン,己斐・高須地区(広島)に
おいて1ないし3レントゲンとしている。
内部放射線の被爆は,残留放射能中の放射性核種の吸入摂取を含め若干
の可能性があるとして,西山地区住民の測定結果に基づき,昭和20年か
ら昭和60年までの40年間に男性で10ミリラド,女性で8ミリラドと
推定した。
誘導放射能による影響については,爆心地での最大被爆量を広島につい
て約80レントゲン,長崎について30ないし40レントゲンと推定され,
1日後にはその約3分の1,1週間後には数パーセントとなると推定され
た。また,地上での線量率は,時間の経過とともに急激に減少し,爆心地
から離れることでも急激に減少するので,早期入市者の被爆線量は,その
人の爆心地付近での行動状況を正確に把握しなければ評価できないとされ
ている。そして,以上に述べた線量は,地上1メートルでの空気中の照射
線量(レントゲン)であって,組織の吸収線量に換算すると,放射性降下
物による人体組織の無限時間までの積算線量は,最大で,広島で0.6な
いし2ラド,長崎で12ないし24ラドとなり,誘導放射能によるものは,
最大で,広島で50ラド,長崎で18ないし24ラドとなる。
ク家屋及び地形による遮蔽
各種の日本家屋のモデルを作成し,連結モンテカルロコードにより,自
由空間の放射線場と結合されることによって,被爆者が被爆時にいた位置
における中性子とガンマ線のエネルギーと角度別フルエンスをコンピュー
ターにより計算を行い,放射線透過率を求めた。T65Dに比べると透過
率は低いものとなった。
ケ臓器線量
昭和20年当時の典型的日本人成人の体重を55キログラムと推定し,
被爆時の姿勢によって,臓器の位置や身体の遮蔽などが異なることを考慮
して,正座位,直立,臥位の模型を作成し,このような模型に放射線を入
射して,問題とする臓器に達するまでの放射線の輸送に関する連結計算を
行い,被爆者の特定の臓器での中性子とガンマ線のエネルギー及び角度別
のフルエンス(中性子線,アルファ線,ガンマ線などの粒子がある場所を
どのくらい通ったかを表すために用いられる量で,単位は毎平方メート
ル)を得て,臓器線量を計算した。このような臓器線量評価システムを当
該模型に適用したところ,ガンマ線の等方入射では,計算値と実験値とが
非常によく一致し,また,中性子とガンマ線の混合場の被爆では,中性子
の測定値は,入射ガンマ線に対する透過率と同様によく一致しているが,
人体中での中性子相互作用によって生ずるガンマ線については,計算値よ
り実験値の方が大きいことを示したとされている。
なお,DS86では,赤色骨髄,膀胱,骨,脳,乳房,目,胎児(子
宮),大腸,肝,肺,卵巣,膵,胃,睾丸及び甲状腺の15臓器を対象と
している。
コ線量評価体系の作成
以上の計算を統合すると,特定の被爆者に関するデータを入力し,自由
空間データベース,家屋遮蔽データベース及び臓器遮蔽データベースを組
み合わせて,各種の線量を出力することができる。被爆者の属する市,爆
心地からの距離,日本家屋の中又はそのそばで被爆した場合の状況に関す
るパラメータあるいは戸外にいて家屋あるいは地形により遮蔽された場所
で被爆した場合,当該地点における記号化された遮蔽割合を入力すると,
被爆者の位置における遮蔽フルエンスを出力することができ,また,年齢,
性別,体位の入力により特定臓器の吸収線量等所要の情報を出力すること
ができる。ただし,これによって被爆線量を計算できるのは,爆心地より
2500メートル以内で被爆した遮蔽記録のある被爆者である。これが,
DS86の体系である。
なお,推定線量に対する不確定性(誤差)の推定は,予備的な値として,
空気中カーマに対して広島で16パーセント,長崎で13パーセントとな
り,臓器カーマに対しては25ないし35パーセントとなっていると報告
されている。
(3)DS02について(乙全15,67,68,113)
アDS02の策定の経緯
DS86における中性子線量に関する計算値と測定値との不一致等を踏
まえ,平成14年に新しい原爆放射線線量の評価システム(DS02)が
作成された。日米実務研究者会議が平成13年3月から開催され,ここで
策定されたDS02(新線量評価方式)が原爆放射線量評価検討会によっ
て平成15年に承認され,平成18年,日本語訳が放影研から出版された。
なお,DS02には改訂部分のみが記載されており,それ以外の部分は今
後ともDS86を参照するものとされた。
イDS02の特徴
DS86からDS02への大きな変更は,広島における爆弾の出力を1
5キロトンプラスマイナス3キロトンから16キロトンプラスマイナス4
キロトンに,爆発高度を580メートルから600メートルプラスマイナ
ス20メートルに修正したことである。
DS02及びDS86のどちらにおいても,空気中カーマは地形,建造
物または身体による遮蔽を受けていない地上1メートルの地点における線
量として計算されている。そして,広島と長崎の爆心地から2500メー
トルの範囲内において,DS02により計算された総カーマ線量とDS8
6のそれとの差は10パーセント未満である。広島では,DS02の中性
子及びガンマ線の空気中カーマを合計した線量はDS86と比べて多かっ
たが,その差は5パーセント未満である。爆心からの距離が1000メー
トルから2500メートルの範囲では,広島については,DS02の空気
中カーマ線量は,DS86によるそれより,平均して7パーセント高く,
長崎については,爆心からの距離が爆心地から2500メートルの全範囲
において,DS02の中性子とガンマ線の空気中カーマ線量の合計は,D
S86によるそれより,8パーセントほど高く,爆心地から1000メー
トルから2500メートルでのDS02の空気中カーマ線量は,DS86
によるそれより,平均して9パーセント高い。これらの平均値は,DS0
2とDS86によって得られた線量に有意な差はないことを示してはいる
が,線量の中性子とガンマ線の成分において重要な変化がある。
また,広島について,DS02とDS86とで線量を詳細に比較すると,
ガンマ線量については,爆心地付近では,DS02線量とDS86線量は
余り変わらないが,遠くなるにしたがって,DS02線量がだんだんDS
86線量よりも高くなり,約10パーセント以内で横ばいとなる。そして,
中性子線については,爆心地付近では,DS02線量がDS86線量より
も低いが,爆心地から500メートル付近で逆転して,1000メートル
付近で,DS02線量がDS86線量より10パーセント程度高くなり,
再びその率が小さくなっていき,2000メートル付近で同じ程度となり,
それ以遠では,DS02線量がDS86線量よりも低くなっていく。
長崎について,DS02とDS86とで線量を比較すると,ガンマ線量
は,約10パーセント増加となっているが,DS02の中性子線量はDS
86線量よりも低く,その比率も30パーセントくらいとなる。中性子線
量はガンマ線量に比較するとはるかに小さく,かつ,爆心地から2000
メートル以遠では絶対値も非常に小さくなる。
そして,広島におけるDS86からDS02への空気中カーマ線量の変
化は,ガンマ線カーマの変化とほぼ一致している。これは,ガンマ線が爆
弾の総線量中78パーセントを占め,爆心地からの距離が1500メート
ル以遠の全範囲では,空気中カーマの99パーセント以上を占めるためで
あり,広島では明らかに空気中カーマでは,ガンマ線が優位を占めている。
このことは長崎におけるDS86からDS02への空気中カーマ線量の変
化についても当てはまり,広島の場合より顕著である。これは,空気中ガ
ンマ線カーマは,爆弾の直下では総カーマの94パーセントであり,爆心
地から1000メートル以遠では,全範囲でカーマの99パーセント以上
を占めているからである。
なお,DS02の体系は,DS86と実質的に異なるものではなく,ソ
ースタームの計算,空中輸送計算,地上構造物による遮蔽率の計算,人体
における臓器線量の計算が改めて行われ,計算値と実測値の比較検討も行
われた。
3DS86の線量評価方式に対する指摘
DS86による初期放射線の線量評価について,以下のとおりの指摘がなさ
れている。
(1)ガンマ線について
アDS86等報告書(昭和61年)の指摘
DS86等報告書では,前記のとおり,広島においては1000メート
ル以上の地点で測定値は計算値より大きく,近い地点は逆に小さくなって
いる。長崎においてはこの関係は逆であり,1000メートル以上の地点
で測定値の平均値とよい一致を得るためには,計算値は広島で約18パー
セント大きくなり,長崎で約10パーセント小さくなる必要があるとされ
ている。
イP6らによる測定結果及び指摘(平成4年及び平成7年)(甲全28の
1,2,甲全30の1,2,甲49の1,2,50の1,2,)
(ア)P6らによる「広島の爆心地から2.05キロメートルにおける測
定ガンマ線量とDS86の評価との比較」の指摘(甲全84の21)
P6らは,広島の爆心地から2050メートルに地点で採取した5枚
の瓦の試料を用いて,ガンマ線量を熱ルミネッセンス法により測定した。
また,爆心地から2450メートルで収集した瓦の試料もバックグラウ
ンド評価の信頼性をチェックするために解析した。その結果,爆心地か
ら2050メートルにおける測定値の平均値は129ミリグレイプラス
マイナス23ミリグレイであった。この値は,同一距離におけるDS8
6による計算値の2.2倍の値であり,これらの結果からすると,爆心
地から2050メートルにおける測定値に対し,DS86の推定値は5
0パーセントあるいはそれ以下であることを示していると指摘している。
(イ)P6らによる「爆心地から1.59キロメートルから1.63キロ
メートルの間の広島原爆のガンマ線量の熱ルミネッセンス法の線量評
価」の指摘
P6らは,広島の爆心地から1591メートルないし1635メート
ルのビルディング(郵便貯金局)の屋根の5か所から収集した瓦の試料
を用い,熱ルミネッセンス法によって,広島原爆からのガンマ線カーマ
を測定した。前記5か所からそれぞれ各4枚の瓦の試料を用いて石英の
粒子を抽出して,これらの粒子を熱ルミネッセンス法により解析をして,
ガンマ線カーマを得たところ,その測定値の平均値は,DS86による
計算値より平均して21パーセント(標準誤差は4.3パーセントない
し7.3パーセント)多かった。この測定結果と従前の熱ルミネッセン
ス法による測定結果によると,ガンマ線カーマの測定値は,爆心地から
1300メートルの地点で,DS86による計算値を超過し始め,この
不一致は爆心地からの距離の増加とともに,増加することを示唆してい
る。このような不一致は,DS86の中性子のソーススペクトルに誤り
がある(遠距離に到達できる高いエネルギーの中性子の成分が過小評価
されていること。)ことに起因し,このことは,これまでの中性子線の
測定値によって裏付けられていると指摘している。
ウDS02報告書の指摘(乙全113の中)
熱ルミネッセンス法によって,ガンマ線量を測定する場合,試料となる
煉瓦やタイルは,自然放射線核種によりエネルギーを蓄積している。した
がって,広島及び長崎で採取された煉瓦やタイルは,前記自然放射線核種
によるエネルギー蓄積に加えて,原爆からの放射線によるエネルギーを蓄
積しているので,後者によるエネルギー値を知るためには,バックグラウ
ンド線量(自然放射線核種によるエネルギー蓄積量)を把握することが重
要である。そして,広島,長崎で採取された試料について,測定に基づい
て得られた合計推定バックグラウンド線量は,0.1グレイないし0.3
3グレイの範囲にあった。これらの値に対応する爆弾の合計自由野ガンマ
線量計算値の地上距離は,広島では,0.1グレイで約1900メートル,
0.33グレイで約1600メートルであり,長崎では0.1グレイで約
2100メートル,0.33グレイで約1800メートルであり,バック
グラウンド推定値は,前記距離よりも若干近距離において,正味線量測定
値に大きな影響を及ぼし始めるので,バックグラウンドに関する不確実性
は,広島では爆心地から1500メートル以遠,長崎では爆心地から17
00メートル以遠の距離においては,正味線量測定値の不確実性の主な寄
与因子となるとしている。
エP7教授(以下「P7」という。)の意見書の指摘(甲全29,34,
102)
P6らは,原爆放射線が到達していないことが明白な爆心地から遠距離
における測定値を求めて,これをバックグラウンド値とし,この値を,爆
心地から2450メートルにおける瓦の試料による測定値から差し引いて,
原爆によるガンマ線線量を求めるとマイナスとなったとしている。本来,
線量がマイナスとなることはあり得ないから,爆心地から2450メート
ルの地点では原爆によるガンマ線量は,測定誤差の範囲内で,もはや測定
できない線量しか到達していなかったことになるとともに,P6らは,バ
ックグラウンド値を大きめに見積もったことを示している。したがって,
P6らが求めた爆心地から2050メートルの地点における原爆によるガ
ンマ線線量の値は過大な値ではないものといえる。
また,広島,長崎原爆から放出された初期放射線のガンマ線の実測値を
カイ自乗フィット計算すると,広島では,DS86によるガンマ線の計算
値は,近距離では実測値より系統的にやや過大であるのに対し,遠距離で
は系統的に過小評価となり,爆心地から遠距離になるほど,過小評価の度
合いが高くなっている。DS02によるガンマ線の計算値は,近距離でD
S86によるそれより,わずかに小さく,遠距離ではわずかに大きくなっ
ているが,実質上,DS86の計算値とほとんど変わっていないので,D
S02の計算値についても,依然として実測値との不一致の問題は残され
ている。これに対し,長崎では,DS86によるガンマ線の計算値は,比
較的実測値とよく一致している。これは,長崎原爆の放出した中性子線量
の割合が,ガンマ線の放出線量と比較して少なく,長崎原爆における中性
子線の遠距離における過小評価の影響を受けなかったためと思われる。
(2)熱中性子線について
アDS86等報告書の指摘
前記のとおり,コバルト60については,計算値は,爆心地から近距離
では,測定値よりも最大1.5倍となり,爆心地から1180メートルで
は,測定値の4分の1となるなど系統的な差を示し,種々の調査や計算を
行っても,この不一致の点を解決するに至らず,この問題は未解決とされ,
ユーロピウム152については,測定データは全体として計算結果と矛盾
しないが,爆心地から1000メートルまでの間の計算結果の妥当性を確
認するには不確かさが大きく,また,測定機関の間で測定値のばらつきが
大きいとされている。
イP8らの「広島原爆の被爆線量評価の問題点」(平成12年)の指摘
(乙全15の添付資料)
DS86で計算した広島原爆の中性子はユーロピウムの生成量を説明で
きないし,コバルト60の測定結果もうまく説明していない。また,加測
器マス方式で測定した塩素36についても同様な系統的ずれを示している。
測定により求められた値と計算値との比をとると,熱中性子の結果は,一
致して系統的なずれがあることが認められる。近距離ではデータが計算値
より小さく,遠距離では大きい。そこで,広島原爆は,2つのウラン23
5を配置して,火薬で2つのウランを合体させて,臨界に達して爆発させ
たものであるが,この2つのウランの衝突の際,原爆の底が抜けたように
割れたと仮定し,また,中性子が発生した高度を90メートル引き上げて
計算をすると,1000メートル以内では全ての実測値と計算値とが一致
してくるが,これでも,1000メートル以遠では両者を一致させること
ができないと指摘されている。
ウP9らによる「長崎における原爆中性子によって誘導された残留コバル
ト60の測定と環境中性子によるバックグラウンドへの寄与」(平成14
年)の指摘(甲全32の1,2)
DS86の最終報告において,P10らによって測定されたコバルト6
0の残留放射能の実測値と低エネルギーの中性子領域におけるDS86に
よる計算値との間に系統的な不一致がみられるとされ,また,広島で得ら
れたユーロピウム152,コバルト60,塩素36に対する放射能データ
とDS86の計算値との不一致が確認されている。そこで,広島での前記
問題の性格を明らかにするために,長崎での実測値に広島の場合と同様の
不一致が存在するかどうかの点について,関心が集まっていた。すなわち,
もし,長崎において,計測値と測定値とが一致するのであれば,広島にみ
られた不一致は,空気中の中性子の伝搬計算による不確かさによるもので
はなく,広島原爆から放出された中性子スペクトルによることになるから
である。そこで,P9らは,長崎原爆の中性子によって誘導された5個の
鉄鋼サンプル中の残留コバルト60の放射線を,爆心地から1000メー
トル以内において測定したところ,その計算値と実測値の比率は,長崎及
び広島における計算値と,前記P10らによる実測値との比と同様の傾向
を示した。そして,平成14年におけるデータは爆心地から約1000メ
ートルでの計算値とはおおむね一致しているが,爆心地から1100メー
トルを超えるデータがないため,DS86による計算値と実測値との乖離
の問題は未解決のままであるとされている。
エDS02報告書(平成14年)の指摘(乙全113中)
(ア)コバルト60について
広島においては,一つの例外を除いて,爆心地から1300メートル
以内のコバルト60の測定値とDS02に基づく計算値とは全体的によ
く一致した。
長崎においては,コバルト60の測定値は,DS02に基づく計算値
とおおむね一致したが,近距離における計算値と測定値の間でも,大き
な差異を示すものがあった。
(イ)ユーロピウム152について
広島においては,爆心地から800メートル以内では,ユーロピウム
152の測定値とDS02中性子に基づく計算値とはよく一致しており,
800メートルから1000メートルでは,測定結果が計算値よりわず
かに高い傾向にある。
長崎においては,ユーロピウム152の測定値は,若干ばらついてい
るが,DS02中性子に基づく計算値とは2倍以内で一致している。
(ウ)塩素36について
塩素36については,日,米,独で測定がされた。米国での測定によ
れば,測定値は,爆心地付近からバックグラウンドと識別不可能となる
距離まで,DS02のよる計算値と一致するとされ,ドイツでの測定に
よれば,広島での被爆試料について,爆心地から800メートル以遠に
おける測定値とDS02による計算値との間に顕著な不一致は認められ
ず,近距離においては,塩素36から得られた実験に基づくフルエンス
は,DS02による計算値に基づくものより低いとされ,日本での測定
によれば,爆心地から1100メートルの間では,測定値とDS02に
よる計算値とはよい一致がみられ,1100メートル以遠の試料につい
ては,バックグラントとの識別が不能で,原爆による塩素36の測定は
困難であるとされている。
オP11らによる「原子爆弾の放射線に関する研究」(平成15年)の指
摘(乙全15)
DS86作成後,熱中性子誘導放射能(ユーロピウム152,コバルト
60,塩素36)の測定値と対応するDS86計算値との間には,系統的
なずれがみられ,近距離では計算値が実測値より高く,遠距離では,計算
値が実測値より低い。この傾向ははっきりしており,DS86作成後に測
定値の数が増加するとともに,広島においてはこのずれが顕著なものとな
ってきた。長崎では,DS86の計算値と実測値とが,系統的なずれを示
さない測定値と,広島と同様のずれを示す測定値との両者がある。このよ
うに,熱中性子線について,DS86の計算値と実測値が一致しない傾向
ははっきりしたものの,その原因については,未解決のままであり,測定
しているのは非常に微量な放射能であり,爆心地から2000メートルを
超すと,測定値が計算値の10倍,100倍となっていくため,測定値に
問題がある可能性も残されていた。そこで,この問題を解決するために,
技術の進歩に裏付けされた最先端の測定とコンピューター技術の進歩によ
り可能となった膨大な計算を再度行い,測定,計算の両面からのすりあわ
せにより不一致の原因を究明するために,日米合同で研究を行うこととし
た。ここでは,9か所の異なる被爆距離における被爆試料をそれぞれの4
人の測定者用に分割して,同一試料の測定をする環境を設定して測定をし
た結果,ユーロピウム152については,計算値(DS86若しくはDS
02)と測定値とは,1000メートルを超す遠距離に至るまで非常によ
く一致し,塩素36については,3人の測定者による測定値に若干のばら
つきはあるが,計算値と測定値とは一致がみられた。結論として,日,米,
独によるガンマ線(熱ルミネッセンス)及び中性子(放射化による残留放
射能)に関する測定値は,爆心地から少なくとも,1200メートルの地
点までは,DS02の計算値と全般的に極めてよく一致していること,爆
心値から1200ないし1500メートル以遠での中性子の測定値と計算
値の相違については,線量の絶対値が小さく,バックグラウンドとの区別
が困難なことなど,測定値の不確実性によるものと判断されていると指摘
されている。
カP7の意見書(平成16年)の指摘(甲全102)
DS86では,コバルト60,ユーロピウム152,塩素36について,
爆心地から近距離については,DS86による計算値が実測値を上回り,
遠距離については,DS86による計算値が実測値を下回るという傾向を
示しており,このように種類の異なる原子核について,同一の傾向を示す
ということは,DS86の計算値に問題があることを示唆している。最近,
広島については,ユーロピウム152と塩素36について,精度のよい実
測値が得られ,爆心地から1400メートル付近までの実測値とDS02
による計算値とはよく一致することが示されたが,なお,ユーロピウム1
52については,1400メートルあたりから,DS02の計算値は実測
値を下回る傾向がみられる。しかし,これ以上の遠距離について,実測値
と計算値との一致の有無を明確にすることは,ユーロピウム152と塩素
36の測定値がバックグラウンドの影響を受けるため,現状では困難であ
る。そうすると,遠距離における実測値と計算値との比較については,コ
バルト60の1800メートル付近の実測値と計算値との比較が重要とな
る。そこで,コバルト60の実測値に基づいて,カイ自乗フィット計算に
よって中性子線量を求めると,爆心地から700メートルまでは,実測値
に対して,DS86の計算値の方がやや過大であり,900メートルでは,
実測値に対して,DS86の計算値の方が過小となり,計算値に対する実
測値の比は,1500メートルで約14分の1,2000メートルで16
7分の1となるなど,爆心地からの距離が離れるにしたがって,DS86
の計算値は実測値に対して過小評価の度合いが拡大していく。
長崎については,中性子線について,遠距離において適切な測定試料を
入手することが困難であるため,爆心地から1100メートルまでの実測
値しか得られていない。そして,長崎でのユーロピウム152の実測値に
は大きなばらつきがあるので,実測値にばらつきのないコバルト60につ
いて検討をする。そこで,コバルト60の実測値をカイ自乗フィット計算
によって得られた中性子線量に基づいて推定すると,爆心地から1300
メートルで,9.06センチグレイとなり,DS86の計算値の約4.2
倍,2500メートルで,0.35センチグレイとなり,DS86の計算
値の約172倍となると指摘している。
(3)速中性子線について
アDS86等報告書の指摘
前記のとおり,原爆投下直後の調査の際,広島で採取された絶縁碍子中
の硫黄に含まれるリン36の計算値は,爆心地から400メートル以内の
距離では,DS86の計算値とよく一致するが,それ以遠の距離において
は,測定値との誤差が大きくなるとされている。
イDS02報告書の指摘(乙113中)
DS86において,広島で採取された硫黄試料からリン36放射化の測
定値に基づいて評価がなされたが,今回の再評価において,測定値の更新
と修正が行われた。その結果,地上距離500メートル未満(直線距離8
00メートル未満)において収集された硫黄試料に関する測定結果は,現
在利用可能なデータが許す範囲において信用できる。
広島で採取された銅試料中のニッケル63を加測器質量分析法を用いて
測定したところ,爆心地から1800メートルでの値がバックグラウンド
の大きさとなると思われ,このバックグラウンド値を差し引いた後の実測
値を補正して計算すると,前記銅試料中のニッケル63の測定値は,DS
02に基づく試料別計算値とよく一致し,DS86に基づく計算値と比較
した場合でも,一点の試料を除いてよく一致するとされている。
ウP12らによる「広島の原爆生存者における距離の関数としての高速中
性子の測定」(平成15年・以下「P12論文」という。)の指摘(乙全
43の1,2)
DS86では,生存者に対する中性子線量(爆心地から900メートル
ないし1500メートルでの中性子線量)の計算値が正しくない可能性が
あるとの指摘がなされ,広島では,熱中性子放射化測定が広範囲に実施さ
れ,長崎でも同様の測定が行われ,熱中性子に関する実測値は得られたが,
測定バックグラウンドの不確定性や,熱中性子と中性子線量の関係の不確
定性等の要素があるため,熱中性子線の実測値によって,中性子線量を確
定することができなかった。これに対し,高速中性子は,基本的には広島
のあらゆる中性子線量に寄与するものであり,試料の環境への依存性は,
熱中性子線に関する実測値よりはるかに少ない。そこで,P12は,速中
性子線測定のために,加測器質量分析法を用いて,銅の中の微量のニッケ
ル63を検出する方法を開発し,広島において,爆心地から380メート
ルないし5000メートル以上と,爆心地からの距離の異なる7地点から
被爆した銅の試料を採取し,各試料について測定を2回以上行ったところ,
380メートルから1461メートルまでの試料からは,高速中性子の実
測値が直接得られ,1880メートルと5062メートル地点での試料か
らは,原爆中性子をそれほど浴びていない銅試料中のニッケル63計数が
測定された。これらの実測値を基に,種々の計算をした結果,爆心地から
900メートルないし1500メートルの距離で,高速中性子に関する実
測値とDS86による計算値との間に十分な一致が認められ,高速中性子
と中性子線量との間に密接な相関関係があると仮定すると,前記の実験結
果から,中性子線量の実測値とDS86の計算値との不一致は,前記距離
については,あったとしてもわずかなものと推認される。そして,広島と
長崎において,ガンマ線は,熱ルミネッセンス法を用いて検証され,長崎
では中性子はDS86に一致するというこれまでの結論を考慮すると,こ
のような実験結果によって,広島の線量測定のための強力な基盤が得られ
たものであり,原爆生存者が浴びた線量について,将来修正が必要となる
としても,その程度はわずかであると考えられると指摘している。
エP7の意見書(平成16年)による指摘(甲全102)
P12論文では,DS86の広島原爆の中性子線量の計算値と実測値の
不一致の問題は解消したと指摘しているが,このようにはいえないとして,
次のような問題点を指摘できるとしている。すなわち,ニッケル63の実
測値とDS86の計算値とが一致しているといえる爆心地からの距離は,
949メートルと1014メートルの地点における測定値だけであり,1
301メートルと1461メートルの地点における測定値とDS86の計
算値とは一致しているとはいえない。もともと,爆心地から1000メー
トル付近の地点は,熱中性子線の実測値に対して,DS86の計算値が過
大評価から,過小評価に移行する地点であり,P12論文における実測値
に対するDS86の計算値とを比較してみても,前記と同様の傾向が窺わ
れる。また,P12論文による実測値を基に,高速中性子線量が距離とと
もに半減する地点,すなわち半減距離を調べてみると,P12論文の実測
値による半減距離は170メートルとなり,DS86の計算値によるそれ
は145.8メートルであり,後者の方が半減距離が短いので,速中性子
線は,実測値による方が,DS86の計算値によるより,ゆっくり減少し
ていることが分かる。同様にDS02の計算値による半減距離を求めると
145.6メートルとなるので,やはり,実測値による方が,DS02の
計算値によるより,ゆっくり減少していることに変わりはない。そして,
高速中性子の成分中に,エネルギーの高い成分が多く含まれていると,遠
距離まで到達する中性子が増加するので,半減距離は長くなる。そうする
と,P12論文の実測値による半減距離が,DS86及びDS02の計算
値によるそれより長いということは,DS86及びDS02による中性子
線量の計算値が,エネルギーの高い成分を,実際より少なく見積もってい
る可能性があることを示唆している。さらに,P12論文では,爆心地か
ら1880メートルの地点における測定値を,バックグラウンド値として
いるが,DS02による計算値によっても,前記地点では,なお,かなり
の量の高速中性子が到達している距離なのであるから,前記地点における
測定値をバックグラウンド値とすることは,実測値と計算値とを比較する
ことを無意味なものにすることになると指摘している。
(4)初期放射線に係るDS86による計算値と測定値の不一致の原因について
P7は,DS86あるいはDS02の計算値と実測値の不一致の原因として,
以下のとおり指摘している(甲全102)。
前記原因としては,原爆の爆発点から放出された中性子線のエネルギー分
布,すなわちソースタームの計算の問題,中性子の伝播に重要な影響を与え
る湿度の高度による変化,ボルツマン輸送方程式に基づくコンピューター計
算における区分の設定の問題が考えられるとし,以下のように指摘している。
すなわち,中性子が散乱や吸収されないで,平均的に到達することができる
距離(平均到達距離)は,中性子線のエネルギーが高くなるほど大きくなる
ところ,広島原爆のガンマ線及び熱中性子線の実測値がDS86による推定
線量より,遠距離で過小評価となっている点,そして,原爆では,100万
分の1秒以内に核分裂の連鎖反応を数十段階以上繰り返させる必要上,エネ
ルギーが1メガエレクトロンボルト以上の高速中性子に連鎖反応を起こさせ
る主要な役割を持たせているはずであるのに,広島原爆の構造と形状に似せ
た模擬原子炉(原子炉では,制御された連鎖反応を持続させるために,中性
子を減速し,核分裂の連鎖反応における主要な役割を熱中性子と呼ばれる低
エネルギー中性子に持たせている。)からのソースタームの測定値とDS8
6に用いられたソースタームとが一致したとされている点などからすると,
DS86に用いられた中性子のソースタームのうち,高エネルギー成分が,
実際の広島原爆のソースタームと異なって過小に評価されている可能性が考
えられる。また,DS86では,長崎の原爆爆発時の湿度として,海に近い
海洋気象台の記録値(71パーセント)をそのまま採用しているが,長崎で
は爆心地付近は海からやや離れ,河川の影響も小さいから,海面近くと上空
とでは湿度が異なり,上方になるにつれ湿度が小さくなっていた可能性があ
る。そして,湿度が前記記録値より低い場合,大気中の水蒸気に含まれる水
素の原子核による中性子線の吸収率が減少し,DS86の計算値よりもずっ
と多くの中性子線が遠方に到達することになるし,上空の空気中の原子核で
反射して地上に到達した中性子の寄与が遠距離で増大することになる。長崎
原爆において,DS86の計算値では,近距離での中性子線量が,実測値よ
り,やや急減に減少しており,これは,中性子を吸収する水分量を,DS8
6では実際より大きく見積もったことに起因するものと考えられると指摘し
ている。
また,P7は,DS86でみられた,遠距離におけるガンマ線の計算値と
実測値との不一致,コバルト60による中性子線の同様の不一致,高速中性
子のニッケル63の計算値による半減距離と,実測値によるそれとの不一致
は,DS02においても解消されておらず,広島原爆の爆弾のタンパー(外
殻)の材質,火薬の量や成分の詳細,広島原爆が放出した放射線のエネルギ
ー分布の詳細は米国の軍事機密であるとして明らかにされず,前記の問題の
解明は妨げられていると指摘している。
(5)他方,P8らは,平成17年8月に発表された「新しい原爆放射線評価体
系DS02」(乙全103)において,以下のとおり指摘している。DS8
6の計算値と被爆試料の測定値には,計算値が近距離で高く,遠距離で低い
という系統的なずれが確認され,この問題を再検討することとし,平成8年,
日米の研究者による共同研究が開始され,DS02が決定されたこと,その
結果,DS86における前記問題のうち,近距離では計算値が測定値より高
い点は,爆発点を20メートル引き上げることで,計算値が低くなり解決し,
遠距離では計算値が測定値より低い点は,遠距離でユーロピウム152のデ
ータが計算値より高いことは恐らく天然のガンマ線の混入により高くみえて
いたことで解決したというものである。
4残留放射能,内部被爆について
(1)残留放射能について
DS86による誘導放射能及び放射性降下物による被爆線量は大まかな近
似にならざるを得ないとしつつ,誘導放射能及び放射性降下物の一応の数値
を提示しているが,これらについては,以下のような調査結果や見解がある。
ア誘導放射能に関する調査結果と指摘について
(ア)P13「広島及び長崎における残留放射能」(昭和37年)の指摘
(乙全17)
広島の己斐・高須地区及び長崎の西山地区では,降下核分裂生成物が認
められたが,爆心地ではその量は無視してさしつかえないほどであった。
両市の爆心地における放射能は主として,中性子によって誘発された放射
性同位元素から発生したものといえる。降下物による最大照射線量は,広
島では数ラド,長崎ではほぼ30ラドであったと考えられる。ただし,こ
れらの数値は,その上限を示すものである。そして,爆発後1時間から無
限時間に至るまでに,広島の爆心地区における中性子誘発放射能によって
受けると考えられる最大照射線量は,計算方法によって異なるが,183ラ
ドから24ラドの範囲にわたるものと推定される。24ラドの推定値を得た
計算方法(研究室内で,広島及び長崎において採取した土壌並びに屋根瓦標
本に対し,中性子線による照射をし,シンチレーション検出器を用いてガン
マスペクトルを測り,その誘発放射能を決定する方法)は,最も誤差が少な
く,その数値にも信頼が置ける。この方法によって算出した長崎の爆心地に
おける爆発時より無限時間までの積算線量は4ラドで,この数値は結果を無
視してさしつかえないほど線量が低いことを示す。最大線量183ラドが算
出されている場合についても,空中における中性子の減衰により,爆心地か
ら900メートルの距離における中性子束は爆心地の10分の1に減少した
し,発生した同位元素の半減期が短かったため,爆発から24時間で放射能
は70パーセントが消滅したことから,個人がこの照射を受ける可能性は極
めて少なかったものと推定されると指摘している。
(イ)P10らによる「広島・長崎における中性子誘導放射能からのガン
マ線量の推定」(昭和45年)の指摘(乙全190)
中性子によって土壌及び建築材料に誘導された放射能からガンマ線量
を実験データに基づいて推定したところ,原爆投下後1日目に広島の爆
心地付近に入り,そこに8時間滞在した者の推定被爆線量は3ラドであ
る。広島の爆心地から500メートル及び1000メートルの距離にお
ける線量は,それぞれ爆心地の線量の18パーセント及び0.07パー
セントであった。爆発直後から無限時間までの累積ガンマ線量は,広島
では爆心地で約80ラド,長崎では同じく約30ラドであると推定され
たと指摘している。
(ウ)「原爆放射線の人体影響1992」(平成4年)の指摘(甲全11
1の8)
爆心地における爆発直後から無限時間までの積算線量として,DS8
6において示された値をもとに,広島で80ラド,長崎で40ラドとし,
広島と長崎について,人が市内に入った時間,入った場所,滞在した時
間の具体的な場合について被爆線量の推定を行ったところ,爆発直後か
ら無限時間までの積算線量のうち,約80パーセントは1日目が,約1
0パーセントは2日目から5日目までが,残りの約10パーセントは6
日目以降がそれぞれ占めていることが判明した。また,爆発直後から現
在までの,都市別,距離別の積算線量は以下のとおりである。
爆心からの距離(メートル)都市積算線量(ラド)
0広島80
長崎40
500広島9.1
長崎3.4
1000広島0.17
長崎0.096
1500広島0.0048
長崎0.0028
以上から,即発放射線(中性子,ガンマ線)は人に対して一瞬のうち
に大きな被爆を与え,残留放射能のうち,誘導放射能は即発放射線に比
べると人に与える線量は小さいものの,長時間にわたり残存し,被爆生
存者や早期入市者に被爆をもたらしたといえると指摘している。
(エ)P14による「DS02に基づく誘導放射線量の評価」(平成16
年7月)の指摘(甲全85の60)
京都大学原子炉実験所のP14は,DS86報告書にあるP15らの
計算結果をDS02に応用することにより,距離と時間の関数として誘
導放射能による地上1メートルでの外部被爆(空気中組織カーマ)を求
めたところ,誘導放射線量率に関する計算結果は,以下のとおりである。
放射線量率は,時間とともに急速に減衰し,爆発1分後の爆心地でのそ
れは,広島で1時間当たり約600センチグレイ,長崎で1時間当たり
約400センチグレイとなり,広島,長崎ともに,1日後にはその10
00分の1に,1週間後には100万分の1に減少しているが,それで
も,爆心地近辺では,約1年近く,自然放射線レベル以上の放射線量率
が続いていたことになる。これまでに得られた爆心地近辺での測定値と
計算値とを比較すると,広島は両者がおおむね一致しているが,長崎で
は,測定値に比べて,多いものでは,計算値がその6ないし8倍となっ
ている。その理由は定かではない。積算放射線量についていうと,積算
線量値は,爆心からの距離とともに速やかに減少する。爆心地での積算
線量は,広島で120センチグレイ,長崎で57センチグレイであり,
爆心地から1000メートルでは,広島で0.39センチグレイ,長崎
で0.14センチグレイ,1500メートルでは,広島で0.01セン
チグレイ,長崎で0.005センチグレイとなり,これ以上の距離での
誘導放射線被爆は無視して構わない。広島の爆心地に原爆爆発の1日後
に入って,ずっとそこに滞在した場合の線量は,広島で19センチグレ
イ,長崎では5.5センチグレイ,1週間後に入って,ずっとそこに滞
在した場合の線量は,広島で0.94センチグレイ,長崎で1.4セン
チグレイとなる。
以上に基づき,P14は,個人線量の正確な評価は困難であるものの,
誘導放射能による被爆が問題となるのは,爆心地から1000メートル
以内に,1週間以内に入った人であるといってよいと指摘している。
イ放射性降下物に関する調査と指摘について
(ア)P16らの「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」(昭和28年
5月)の指摘(甲全86の2)
広島管区気象台気象技師P16らは,昭和20年8月から同年12月
までに収集した資料(住民からの聞取りを含む。)に基づいて,広島原
爆の当日の降雨について検討し,原爆投下後20分から1時間後に降雨
があり,降雨は午後3時から4時ころまで続き,その範囲は,爆心地付
近から北西方向に長径29キロメートル,短径15キロメートルであり,
継続時間1時間以上の大雨域は長径19キロメートル,短径11キロメ
ートルの楕円形ないし長卵型の区域であったとした。雨水の性状として,
降り始めの小雨の雨粒に特に黒い泥分が多いため,粘り気があり,白い
衣服がかすり状になり,流れる川水は墨を溶いたように黒くなり,雹の
ような大粒の雨が降った。1ないし2時間,黒い雨が降った後に,白い
普通の雨となったというものである。
(イ)P17の「広島原爆後の“黒い雨”はどこまで降ったか」(平成元
年2月)の指摘(甲全86の1,9,乙全29)
もと気象研究所予報研究部のP17は,前記(ア)の原資料のほか,ア
ンケート調査,現地の聞取り調査等をもとに雨域,降雨開始時刻,降雨
継続時間,推定降水量の分布等を調べた結果,降雨域は前記(ア)以外に
もあり,少しでも雨が降った区域は,爆心地から北北西約45キロメー
トル(広島県と島根県の県境近くまで),東西方向の最大幅約36キロ
メートルに及び,その面積は約1250平方キロメートルで,その降雨
域は,(ア)によるいわゆるP16雨域の約4倍に広がること,降雨が1
時間以上継続したいわゆる大雨域も,P16らの少雨域(降雨の継続時
間が30分以内の区域)に匹敵する広さにまで及んでいた旨を報告した。
(ウ)黒い雨に関する専門家会議(平成3年5月)の調査とその指摘(乙
全20)
厚生省が,昭和51年,前記(ア)に基づき大雨地域を健康診断特例区
域として取り扱っていたところ,前記(イ)のP17雨域が契機となって
被爆地域の拡大を求める声が起こり,広島県・広島市は,昭和63年8
月,黒い雨に関する専門家会議(座長P18・放影研理事長)を設置し
て検討を開始し,平成3年5月に報告書を発表した。その内容は次のと
おりである。
a残留放射能
昭和51,昭和53年度に国(厚生省)が行った,爆心地から半径
30キロメートルの範囲の107地点(爆心地から2キロメートルご
との同心円と爆心地から放射状に8方向に引いた線とが交わった地
点)の土壌中の残留放射能(セシウム137)調査データの再検討,
上記土壌試料の一部についてのウラン235及びウラン238の測定,
屋根瓦中のセシウム137の検討,柿木及び栗木の年輪区分によるス
トロンチウム90の測定を行ったが,屋根瓦を用いたガンマ線測定方
法は不適当であり,土壌中のウラン235の測定法は,客観的資料を
提供できる十分な方法であるという確証は得られなかった。また,柿
の木によるストロンチウム90の測定は進行中であり,現在までの結
果では,黒い雨との関連について,確定できなかった。
b気象シミュレーション法による降下放射線量の推定
気象シミュレーション法によれば,原爆雲(火の玉によって生じ
た)の乾燥大粒子の大部分は北西9ないし22キロメートル付近にわ
たって降下し,雨となって降下した場合には大部分が北西5ないし9
キロメートル付近に落下した可能性が大きいことが分かり,また,衝
撃雲(衝撃波によって巻き上げられた土壌などで形成された雲)や火
災雲(火災煙により形成された雲)による雨(いわゆる黒い雨)の大
部分は,北北西3ないし9キロメートル付近にわたって降下した可能
性が大きいと判断された。したがって,降雨地域の推定では,多雨地
域は,いわゆるP16雨域の範囲と同程度であるが,火災雲の一部が
東方向にはみ出して,降雨落下しているとの計算結果となり,また,
原爆雲の乾燥落下は,北西の方向に,従来の降雨地域を越えているこ
とが推定されるが,その後の降雨などで,これらの残留放射能は急速
に放射能密度を減じている。
また,気象シミュレーション法によって得られた放射性降下物量,
その地上での分布データ及びネバダ核実験値を用いて,広島原爆の残
留放射能による照射線量率を,炸裂12時間後で,1時間当たり約5
レントゲン,最大積算線量(無限時間照射され続けたと仮定した場合
の線量)は約25ラドと推定した。
c体細胞突然変異及び染色体異常頻度の検討
降雨地域と対象地域で統計的に有意差はなく,人体への影響を明確
に示唆する所見は得られなかった。
(エ)P13の「広島・長崎原爆生存者に関する放射線量測定」(昭和3
5年)の指摘(乙全159)
爆心地からの距離が各々3000メートル程に位置する広島市の西部
地区(α,高須,己斐)及び長崎の西山地区に降下物があった。これら
の放射線核分裂生成物によるガンマ線外部照射積算線量は正確には分か
らないが,推計の結果,線量は広島で数ラド,長崎の西山地区では10
0ラドくらいであった。中性子によって土壌に放射線元素が誘発された
ものと思われる爆心地付近における放射線は,爆発後数週間目に測定さ
れた時は極めて微弱であったが,これは,中性子によって誘発された元
素の大部分が半減期の短いものであったことから,当然考えられること
である。この線源の最大線量を理論的計算によって推定すると,爆発時
から無限時間までの総積算線量は広島で100ラド,長崎で50ラドに
達する。しかし,前記計算線量の50パーセントを受ける確率は以下の
理由により,極めて少ない。なぜなら,これらの元素の半減期が短いこ
と(これらの元素の放射能は12時間で半減し,27時間で4分の3に
減少する。),爆心地から遠ざかるにつれて,放射能は急激に減少する
こと(中性子束は,爆心から900メートルで10分の1に減少す
る。)などによる。したがって,原爆の1次放射線を除けば,広島及び
長崎の被爆生存者が有意線量を受けた証拠はほとんどない。中性子に誘
発された放射能は存在したが,この放射能は,被爆者が受けた総線量に
ほとんど寄与しなかったものと思われると指摘している。
(オ)P13の「広島及び長崎における残留放射能」(昭和37年)の指
摘(乙全17)
P13は,前記報告書で,放射性降下物について,次のように述べて
いる。広島及び長崎の原爆による降下物の量は,爆発後に両市で行われ
た線量測定により比較的,正確に測定することができる。放射性降下物
は,広島では己斐・高須地区,長崎では西山地区に多くみられた。両市
において行われた日米合同調査の結果,昭和20年10月3日から同月
7日までの調査では,広島の己斐・高須地区の降下物による放射線量は,
最高で1時間当たり0.045ミリラドが記録されている。減衰の法則
を適用して爆発の1時間後から無限時間までを積算すると,戸外被爆者
の場合,約1.4ラドの線量となる。この線量は,無視することはでき
ないが,生物学的障害の原因となる量としては,恐らく十分なものとは
いえないであろう。長崎の西山地区における降下量は,前同日の調査で
は,最高の場所では,1時間当たり1.0ミリラドを記録した。減衰の
法則を適用して爆発の1時間後から無限時間までを積算すると,照射を
受けた総線量は約30ラドとなる。しかし,実際問題としては,人は1
か所に静止することはないであろうから,この場合,最高線量を示す場
所で過ごす時間を1日の3分の1とし,屋内遮蔽による減弱計数2を用
いて計算すると,この人が受ける総照射線量は,上記の4分の1に減少
するので,西山地区で受けた照射線量は実際上,多く見積もっても,1
0ラド程度であり,これもまた,明確な生物学的障害を起こすに足りる
量とは考えられないと指摘している。
(カ)P9らによる「広島原爆の早期調査での土壌サンプル中のセシウム
137濃度と放射性降下物の累積線量評価」(平成8年)の指摘(甲全
42の1,2,乙全195の添付資料)
P9らは,広島原爆の極めて早期の調査(広島原爆投下後3日後)に
おいて,収集された土壌サンプル中のセシウム137の含有量を決定す
るために,低バックグラウンドガンマ線測定を行った。これらの22の
土壌試料は,爆心地から5キロメートル以内で収集され,核実験による
全地球的な放射性降下物には晒されていないので,広島原爆による放射
性降下物の測定に適する。22の試料のうち,11の試料でセシウム1
37が検出された。そして,このうち3つの試料はP17雨域内に含ま
れるが,P16雨域には含まれておらず,2つの試料はP17雨域に含
まれるが,P16雨域の境界線上にあるものであったことから,広島原
爆後の降雨域は,P16雨域より広いことを示している。また,その放
射能は測定時に,1グラム当たり0.16ないし10.6ミリベクレル
の範囲であったことから,これをもとに,放射性降下物の累積被爆線量
(原爆後1時間後から無限時間までの地上1メートルの位置による放射
性降下物の外部被爆の積算線量)を算定すると,降下物が集中した己斐
・高須地区では最大で4レントゲン,同地区を除く爆心地から5キロメ
ートル以内では,0.12レントゲンプラスマイナス0.02レントゲ
ンとなり,初期の外部放射線測定による結果とよく一致すると指摘して
いる。
(キ)P17による「黒い雨問題と気象シミュレーション」(平成16年
11月)の指摘(甲全85の41)
P17雨域とP9らによる前記研究結果とを照らし合わせると,広島
の爆心地の東側から北西に延びる強い降雨域と,その西側と東側の弱い
降雨域とに対応して,残留放射能の分布が対応していることが明らかと
なると指摘している。
(ク)P19らの「黒い雨の放射線影響に関する意見書」(平成17年7
月)の指摘(乙全116)
黒い雨と放射性降下物とが同一視されることが多いが,雨が黒いのは,
不完全燃焼した火災のすすが雨に取り込まれて落下するためであり,両
者は区別して理解する必要がある。原爆により生じる放射性降下物には,
核分裂したウラン235あるいはプルトニウム239の核分裂生成物及
び分裂せずに飛散したウランあるいはプルトニウム(原爆粒),原爆の
中性子線によって放射化された土砂が原爆の爆風によって巻き上げられ,
上昇気流によって舞い上げられた粉じん,爆風の中性子線によって放射
化された可燃物が爆風の熱線によって燃焼した火災煙の3種がある。し
かし,原爆の爆風は11キロメートルまで,熱線は約3キロメートルま
で達したため,原爆の爆風によって舞い上げられた粉じん等の中には,
必ずしも原爆の中性子線によって放射化されておらず,したがって,爆
発時においては,爆心地から遠距離の地点では,放射性核種を含んでい
ないものが大部分であったと考えられる。
そして,「黒い雨に関する専門家会議」での検討においても,土壌中
の残留放射能はP16・P17両降雨地域とも相関がみられないことが
判明しており,さらに,気象シミュレーション法を用いて推定した長崎
の降雨地域は,これまでの物理的残留放射能の証明されている地域と一
致することが確認されている。したがって,仮に,黒い雨に関するP1
7雨域の範囲がP16雨域より広いとしても,だからといって,P17
雨域の範囲がそのまま放射性降下物の分布範囲を示すものとはいえない
と指摘している。
(2)内部被爆について
内部被爆とは,放射線核種が飲食物,呼気等により,また皮膚,外傷部位
から体内に侵入し,体内から継続的に放射線を照射したという問題であり,
外部被爆において問題とならなかったアルファ線やベータ線が関与する点な
ど困難な問題があり,その機序や線量評価については,次のような指摘がな
されている。
ア放射線防護委員会第1委員会作業班報告書による「皮膚の線量限度のた
めの生物学的根拠」(平成3年11月)及びP20らによる「ホット・パ
ーティクル(粒子)被爆の発がんリスク」(平成15年)の指摘(乙全1
12,224,225の1,2)
放射線防護委員会による前記報告書では,低線量での広い範囲の不均一
照射では,皮膚がんのリスクは,被爆した面積,すなわち照射された細胞
数,そして皮膚への平均線量に比例するということが合理的であること,
P20らの研究の結果,最も発がん性が高いのは,均一被爆であることが
明確に示され,不均一被爆の余剰効果が,細胞不活化の相違によって説明
されるとは思われないと指摘している。
そして,P20らは,8平方センチメートルの範囲に最小2ミリメート
ル径までの様々な細胞に,最大エネルギー0.97メガエレクロトンボル
トの線源を配置し,発がん効果の比較を研究し,前記報告書では以下のよ
うに指摘している。放射線微粒子(ホット・パーティクル)によるような,
空間的に不均一な被爆は,同量のエネルギーが組織全体に均一に沈着する
場合より,発がん性が高いと示唆されてきた。しかしながら,このような
示唆の正確性については,生体内の実験(動物実験)及び試験管内の実験
による知見及び人間の疫学的データに基づいて検討すると,全体的にはこ
れと反対の見解が支持され,前記の放射線防護委員会が提唱するような,
平均的な線量が,そのプラスマイナス3倍の範囲内で,発がんリスクに対
する適切な評価となることが示唆された。この問題に応用できる人間のデ
ータはほとんどない。プルトニウム噴霧の職業的吸引に伴う肺がん死亡と,
診断のために投与されたトロトラストによる肝がんと白血病の発生に関す
る限られたデータでは,有意な増加要因は現れていない。また,主に肺と
皮膚の被爆を含む限られた動物実験でも,ホット・パーティクルによる発
がんの増加は示されていない。最近の試験管内での悪性形質転換の実験で,
ホット・パーティクル被爆での細胞形質転換の増加を示したものがあるが,
適切に解釈するとその効果は余りない。約0.1グレイ未満の吸収線量に
及んだ研究はほとんどない。
イP21の米国上院退役軍人局における証言(平成10年4月)での指摘
生物測定学者であるP21博士は,米国上院退役軍人局において,次の
とおり証言している。すなわち,DNAの分子結合を破壊するエネルギー
は,およそ10エレクトロンボルトであるのに対し,1個のプルトニウム
原子が1回の原子の変化で放出するエネルギーは,500万エレクトロン
ボルトであり,セシウム137の出すエネルギーは約50万エレクトロン
ボルトである。したがって,放射能性核種の中の1個のうち,最小の粒子
がDNAの科学結合を破壊する能力があることについて,疑いの余地はな
い。その破壊が被爆を受けた染色体の遺伝情報に不安定を起こす確率は若
干100パーセントを下回る。生体組織内での核の変換で,細胞の幾つか
は死亡し,幾つかは損傷を受けて修復をし,あるいは誤った修復をする場
合もある。そして幾つかが,そのままずっと損傷した状態のまま再生され
る。誤った修復をした細胞はその働きも誤ってしまうし,また,損傷した
細胞は突然変異したDNAを再生してしまう。これが後に不健康やがんを
もたらす能力を持っている。
ウP22による「内部被爆に関する意見書」(平成16年9月)の指摘
(乙全30)
長期間の内部被爆の評価上着目すべきはストロンチウム90及びセシウ
ム137である。原子爆弾の爆発に伴い発生する中性子は土壌中等に放射
化生成物(誘導放射能)を生じるが,主な誘導放射能であるアルミニウム
28,マンガン56,ナトリウム24の半減期は数分から数時間程度と短
いので,長時間の内部被爆では,誘導放射能を考慮する必要はない。そし
て,爆発30分後に西山地区に黒い雨が降り,核分裂生成物が浦上川を汚
染した可能性があるが,被災日の夕方においては,浦上川の水面付近の放
射性核種の量は,セシウム137及びストロンチウム90ともに,1平方
センチメートル当たり,それぞれ3.3ベクレル以下と考えられ,これを
前提に検討すると,自然放射線に匹敵する被爆を受ける可能性はない。ま
た,セシウム137及びストロンチウム90の物理学的半減期は,それぞ
れ約30年及び約29年であるが,体内に取り込まれた放射性核種は,放
射性壊変による減衰及び各元素に特有の代謝過程を経て,体外に排出され
るので,体内の放射能が実際に半減する時間は物理学的半減期より短くな
る。このような生物学的半減期をも考慮すれば,晩発的に肝臓に障害を与
えることはないと指摘している。
エP14による「DS02に基づく誘導放射線量の評価」(平成16年)
の指摘(甲全85の60)
P14は,前記報告書で以下のとおり報告している。誘導放射能の体内
取込みに伴う内部被爆の正確な評価は,外部被爆以上に困難であるが,大
ざっぱな仮定をもとに,焼け跡の片づけに従事した人々の空気中の塵埃吸
入を想定して内部被爆評価を試みると,吸入の対象となる放射能を土壌中
のナトリウム24とスカンジウム46とし,放射化生成量はDS02検証
計算で得られた地上1メートル中性子束を用いて1キロメートル以内の平
均値を計算し,塵埃濃度を1立方メートルあたり2ミリグラムと想定し,
原爆当日に広島で8時間の片づけ作業に従事したとして内部被爆を評価す
ると,0.06マイクロシーベルトという値になったとし,この値は,考
え得る外部被爆に比較した場合,無視することができる程度のものである
と指摘している。
オP23「原爆症訴訟意見書」(平成16年9月)の指摘(甲全83の
2)
放射線防護学を専門とするP24大学教授P23は,前記意見書で,以
下のとおり指摘している。原爆被災において,体の外部から浴びた放射線
以外に,放射性核分裂生成物や未分裂の核物質の体内への取込みに起因す
る内部被爆もあったことを軽視してはならない。内部被爆は,その被爆線
量を算出すること自体が非常に困難である。なぜならば,体内に取り込ま
れた放射性物質の種類と量や体内での沈着部位を時系列的に正確に把握す
ることが不可能だからである。内部被爆の影響は,外部被爆とは違った機
序で人体に作用する可能性が示唆されている。外部被爆が総じて体外から
の一時的な被爆であるのに対し,内部被爆の場合は体内に入り込んだ放射
性物質が放出する放射線によって局所的な被爆が継続するという特徴を持
つからである。例えば,骨組織に沈着したプルトニウム239は,13種
類の放射性核分裂生成物に変化し,その過程で,アルファ線,ベータ線,
ガンマ線などを放出し,周囲の組織に被爆を与える。そして,細胞膜が,
溶液中の放射性イオンからの放射線に敏感であり,低線量で影響を受ける
との報告があり,長時間に及ぶ内部被爆の結果,外部被爆の場合とは異な
る態様において,細胞組織のDNAの損傷等が生じる可能性がある。さら
に,このような内部被爆の影響については,微小な細胞レベルで生じるた
め,「吸収線量」,「線量当量」などのマクロな概念によっては,その影
響を正確に評価することができない可能性がある。放射線が組織1キログ
ラム中に与えた平均エネルギーが等しくとも,組織全体が平均的に浴びた
のか,それとも特定の細胞が集中的に浴びたのかによって影響が異なり得
るにもかかわらず,これらの単位では,局所的に生じた被爆について,そ
の影響を1キログラムの組織全体に対する被爆として平均化してしまうか
らである。広島,長崎の原爆の場合,微細な放射性粒子が大量に降下した
と考えられ,それらの放射性微粒子は,吸引や飲食を通じて体内に取り込
まれ,内部被爆の原因となったと考えられる。したがって,被爆者が受け
た放射線の被爆量を評価するためには,初期外部放射線に加えて,誘導放
射能や放射性降下物による持続的な外部被爆,放射性降下物や未分裂の核
分裂物質による内部被爆を全体として評価しなければならない。
カP25「意見書」(平成16年12月)の指摘(甲全67,甲全95の
1,2)
琉球大学理学部教授P25は,前記意見書で,次のとおり述べている。
極めて小さい放射性物質は呼吸や飲食等によって人の身体内部に取り込ま
れ,親和性のある組織に沈着・滞留し,飛程の短いアルファ線とベータ線
は,体内に止まってしまうので,これらが放出時に有していた全てのエネ
ルギーが周囲の細胞組織を形成している原子の電離等に費やされ,ホット
スポットと呼ばれる集中的に電離作用を受ける領域が形成される。その内
部では,均一的な体外被爆と異なり,高密度電離が行われている可能性が
ある。そして,高密度電離を行うアルファ線などは,DNAの二重鎖切断
を引き起こし,誤った修復がされる確率が高くなり,その結果,誤った遺
伝情報を伝えたり,異常細胞を生成・成長させたり,細胞を死滅させたり
する。また,DNAの損傷は,放射線が細胞核を直接貫く場合の外,細胞
質内部の水分子の電離作用等を媒介として,間接的なプロセスで行われる
ことも明らかになっている。さらに,最近,アルファ線を照射した細胞の
周辺の,放射線を照射されなかった細胞に損傷が及ぶバイスタンダー効果
と呼ばれる放射線影響も知られるようになっている。内部被爆線量を測定
する方法であるホールボディカウンターでは,放射線のうち飛程の長いガ
ンマ線しか測定できないから,内部被爆線量を正確に測定することはでき
ない。
キP7の「体内に取り込んだ放射性物質の影響」,「意見書」(平成17
年7月)の指摘(甲全48,51)
放射性物質を体内に取り込んだ場合,水溶性(あるいは油溶性)の場合
は,微粒子の形で体内に取り込まれた場合でも,放射性物質が1個の原子
または分子のレベルで,血液やリンパ液に溶けて,ばらばらに散らばって
体内に広がり,元素の種類によっては,特定の器官に比較的集中して滞留
することが起こる。ヨードが甲状腺に集まるとか,リンやコバルトが骨髄
に集まるなどがこの例である。このような場合,尿などの排泄物から微量
ながらも放射性の原子または分子が含まれて検出できるので,その測定か
ら身体に取り込んだ放射性物質の量を測定できる。ところが,水溶性ある
いは油溶性ではない放射性微粒子が体内に取り込まれ,微粒子がある程度
の大きさを保ったまま固着すると,その周辺の細胞が集中して被爆する。
この場合は,沈着した部位から,かなり持続的に強い放射線を出し続ける
ような場合を除いて,放射性微粒子を特定することも困難であるし,排泄
物から推定することもできない。このような放射性微粒子による影響は,
微粒子の大きさ,微粒子に含まれる放射性元素と放出される放射線の種類
に大きく依存し,また,この影響を,生物学的効果比のように単純な因子
で表現することも困難である。
外部被爆の場合は,外部の様々な方向から放射線によって照射されたと
しても,ほぼ一様に被爆する。そのため,平均的な量である吸収線量(生
体組織1キログラム当たりの吸収エネルギー)によって被爆影響を評価す
ることができるが,放射性微粒子による内部被爆の場合は,ホット・スポ
ットの直近の球殻の細胞組織は集中して,継続的な強い被爆を受け,これ
に次ぐ影響をその周りの球殻が受ける。したがって,器官組織全体の吸収
線量のような被爆影響評価によって,内部被爆を評価することは適当では
ない。そして,1個の放射線粒子のエネルギーは数万電子ボルトから数百
万電子ボルトであり,一方,細胞内のDNAなどの分子の1個の電子が電
離するエネルギーは10電子ボルト程度なので,1個の放射線粒子によっ
て,細胞内のDNAなどの分子から数千個から数十万個の電子が電離し,
これによって切断された分子の大部分は元通りに修復されるが,電離によ
って破壊された分子の中には,正しく修復されずに染色体異常や突然変異
などを起こし,急性症状や晩発性症状を引き起こすものがある可能性があ
る。被爆線量が極めて低線量であっても,1個の放射線粒子が細胞の分子
に与える影響は,ミクロのレベルでは極めて膨大なものであって,その影
響によって急性症状や晩発性症状につながる変化が生じている可能性を否
定できないと指摘している。
クP26「意見書」(平成17年11月)の指摘(甲全88の3,6)
埼玉大学名誉教授P26は,前記意見書において,次のとおり述べている。
(ア)ガンマ線の場合には,その線量は線源からの距離に反比例する。し
たがって,等量の同一核種であっても,体外に存在する場合に受ける線
量と比べて,体内に入った場合に受ける線量が格段に大きくなる。
(イ)ベータ線やアルファ線を放出する核種が体内に入ってくると,飛程
距離が短いこれら放射線のエネルギーのほとんど全てが吸収され,体内
からの被爆が桁違いに大きくなる。ことに,アルファ線の生物学的効果
は大きく,1グレイで10ないし20シーベルトにもなる。このように
アルファ線は短い飛程距離の中で集中的に組織にエネルギーを与えて多
くの遺伝子を切断し,電離密度が大きいため,DNAの二重らせんの両
方が切断され,誤った修復をする可能性が増大する。
(ウ)人工放射性核種には生体内で著しく濃縮されるものが多いが,例え
ば,放射性ヨウ素なら甲状腺,放射性ストロンチウムなら骨組織,放射
性セシウムなら筋肉と生殖腺というように,放射性核種によって濃縮さ
れる組織や器官が決まっているため,特定の体内部位が集中的な内部被
爆を受けることになる。
(エ)体内への取込みがあって,その核種が体内に沈着,濃縮されたとす
ると,その核種の寿命に応じて内部被爆が続くことになる。例えば,放
射能半減期が28年のストロンチウム90が骨組織に沈着すると,崩壊
を繰り返し,またストロンチウム90が崩壊して生じるイットリウム9
0もベータ線を放出するため,長年にわたってその周辺のベータ線によ
る内部被爆が続くことになる。
5検討
(1)DS86による線量評価について
DS86は,広島,長崎の被爆線量データを基に,原爆放射線の人の健康
に対する影響という効果を研究するため,それぞれ開発されたシステムであ
るT65Dなどを,修正,改訂した被爆者ごとの原爆放射線量評価システム
であり,核物理学の理論に基づいてコンピューターにより計算されたデータ
ベース及びコンピュータープログラムの体系である。そして,前記のとおり,
DS86では,もともと,初期放射線のガンマ線量については,広島原爆に
被爆している種々の試料から得た実測値と比較した場合,爆心地から100
0メートル以遠では,実測値がDS86による計算値より大きく,1000
メートル以内では,実測値がDS86による計算値より小さくなるという問
題点が指摘されており,中性子線量についても,基本的には同様の傾向がみ
られるというのであるから,爆心地から1000メートル以内における初期
放射線量については,まだしも,1000メートル以遠における広島,長崎
の原爆による実際の放射線量を精度高く表しているのかどうか,疑問が残る
といわざるを得ない。
そして,その後,問題点の修正を図るべくDS02がさらに開発されたも
のの,基本的には,DS86による計算値や結果と大きく異なるものではな
く,前記のようなDS86の持っている問題点を内包しているシステムであ
ると評価するのが相当である。
そして,DS86が昭和61年に発表され,前記のような問題点が指摘さ
れていたことから,その後も,長崎や広島での種々の被爆試料の測定や計算
がなされ,その結果,実測値と計算値とが爆心地から遠距離に至るまで一致
していると指摘する者もあるが,他方で,不一致のままであると指摘する者
もあるのであり,その不一致の原因について一定の見解を明らかにする者も
ある。そして,また,測定技術の進歩などにより,従前に比べて,特定の放
射性物質の放射能は測定精度が向上してきていることが窺えるところである
のに(3項(2)エ(イ)によるユーロピウム152の測定値など),現実に得ら
れた被爆試料による実測値を基にして,被爆線量に関する理論的な計算をし
た値と,DS86による計算値との間の不一致がいまだに学問的に問題とさ
れている。結局,どのような精密な測定技術や高度の計算技術を駆使し,世
界有数の物理学者等が様々な研究をしても,DS86が作成された時点で,
長崎,広島の原爆による客観的な放射線量については,爆心地から近距離
(1000メートルないしせいぜい1400メートル)地点までの初期放射
線量を明らかにすることはできても,それと同程度の精度をもって,それ以
上の遠距離地点における線量を明らかにしているかどうかについては,疑問
が残り,この点において限界があるシステムであるというべきである。
以上より,DS86は,爆心地から比較的近距離における初期放射線量を
算定する目安としては貴重な資料ではあるが,前記のような限界があるシス
テムであることもまた,明らかであると判断する。
(2)誘導放射能について
まず,DS86報告書自体が,残留放射線に関する被爆線量の推定は,大
まかな近似値にならざるを得ないとし,台風等の影響を補正しなかったと自
認しているのであるから,DS86が示す値自体,大まかな近似値であると
評価するのが相当である。
そして,誘導放射能については,昭和37年に発表されたP13の論文に
よると,爆発後1時間から無限時間に至るまでに,広島の爆心地区における
中性子誘導放射能によって受けると考えられる最大照射線量は,計算方法に
よって異なるが,183ラドから24ラドの範囲にわたるものと推定され,
最も信頼が置ける数値(24ラド)を得た計算方法によって算出した長崎の
爆心地における爆発時より無限時間までの積算線量は4ラドで,広島におけ
るそれは24ラドであるとしている。また,昭和45年に発表されたP10
らによる論文によると,爆発直後から無限時間までの累積ガンマ線量を,広
島爆心地では約80ラド,長崎爆心地では30ラドとしている。さらに,平
成16年に発表されたP14らによる論文によると,爆発直後から無限時間
までの被爆線量を,広島爆心地では120センチグレイ,長崎爆心地では5
7センチグレイであるとしている。本件記録中には,これ以外に,誘導放射
能による被爆線量推定計算をした資料は見当たらず,これらの数値自体につ
いて,明白に誤りであるといえるだけの資料は見当たらない。
ただし,P13による昭和37年「広島及び長崎における残留放射能」に
よって示した中性子誘導放射能による最大照射線量値の算出の根拠となって
いるのは,DS86やDS02が発表される以前の線量評価に基づく計算値
であるから,どのような線量評価が前提になされているのか疑問があるし,
P10らが昭和45年に示したガンマ線量の推定値以外の誘導放射能値の算
出の根拠となっているのは,T65Dによる線量評価によるものであると考
えられるが,T65Dの線量評価の正確性にも問題があったことが指摘され
ているのであるから,前提となる線量評価の正確性の点で問題がないわけで
はない。そして,旧審査の方針では,DS86の誘導放射線による最大被爆
量は,広島爆心地で約50ラド,長崎爆心地では18ないし24ラドとして
いるところ,前記数値については,中性子線によって誘導された元素として,
土壌中の元素のみが考慮されて算出されている。ところが,実際には,DS
86等報告書でも,瓦や煉瓦などの建造物資材のほか,人体などの中の元素
についても,中性子線によって誘導放射化されたものが存在することが指摘
されているし,後記のとおり,遠距離被爆者の急性症状,入市被爆者にも脱
毛,下痢などの放射線被爆による急性症状と同様の症状が一定の割合で生じ
たことを示す多数の調査結果があり,これらの症状は,放射線に起因するも
のであると認めるのが相当である。このような事実に照らすと,DS86に
よる誘導放射線の被爆線量値は,過小評価されている可能性があることを否
定できないというべきである。また,これらの数値は,その算出の根拠とな
る計算方法や計算の基礎となる試料等の違いを考慮したとしても,相当に幅
のある数値であって,そもそも,現在入手可能な試料等を基に,爆発からの
時間と爆心地からの距離によって,誘導放射線による被爆線量を,それなり
の精度のある数値として明らかにすることができるのかどうか自体,疑問で
あるといわざるを得ないのであって,旧審査の方針による数値を唯一の判断
基準として,申請疾病について原爆症認定の有無を判断するということにつ
いては疑問を抱かざるを得ない。
(3)放射性降下物について
まず,放射性降下物の降下範囲については,原爆の物理的作用の課程に照
らすと,核分裂生成物,未分裂の核分裂性物質及び誘導放射化された大気中
の原子核などが,広島においては己斐・高須地区,長崎においては西山地区
以外にも,量の差こそあれ,放射性降下物として降下したものであり,この
点は,1審被告らも認めるところである。ところで,原爆投下直後の広島に
おける降雨の調査結果として,P16らの調査結果であるP16雨域とP1
7の調査結果であるP17雨域が存在するところ,P9らの調査結果におい
て,P16雨域には含まれていないが,P17雨域には含まれている地点で
採取された3地点の土壌試料からセシウム137が検出されたことや,P1
6雨域の境界線上にあるが,P17雨域に含まれている2地点で採取された
土壌試料からもセシウム137が検出されていることに照らすと,試料数自
体が十分なものとはいえないとしても,放射性降下物を含む雨が降った範囲
は,P16雨域より広い範囲であった可能性が十分にあるというべきである。
このことは,黒い雨に関する専門家会議の検討結果やP19らの指摘を踏ま
えても左右されないというべきであり,放射性降下物の降下した範囲が,D
S86によって線量が算定されている一定の範囲に限定されるとすることは
相当ではない。
(4)内部被爆について
旧審査の方針では,残留放射線による内部被爆の影響は考慮されておらず,
これは,DS86等報告書において,内部被爆線量が極微量であると考えら
れたことによるものである。
しかしながら,DS86等報告書の基礎となるデータは,ホールボディカ
ウンターにより測定されたセシウム137の内部負荷データであるところ,
ホールボディカウンターでは,飛程距離の短いアルファ線やベータ線を直接
測定することはできないし,また,内部被爆において考慮されるべき放射線
核種は,セシウム137以外にも存在する。さらに,ホット・スポットによ
る内部被爆の可能性とこれによる人体への影響の重大性を強調するP7,P
23,P25,P26らの見解もある。いわゆるホット・パーティクル理論
と呼ばれる理論に否定的な見解が存在することは前記認定のとおりであるが,
ホット・パーティクル理論が科学的知見として,明確に排除されるべきであ
るとするだけの科学的知見が確立しているとまではいい難い。
(5)まとめ
以上によると,初期放射線の被爆線量の評価システムとしてのDS86に
ついては,現在,これ以外に線量評価をする適切な手段がなく,特に爆心地
から近距離の地点における初期線量を評価するについてはかなり精度の高い
システムであるといえ,その意味において,その存在意義を否定し去ること
まではできないので,誤差があることを考慮のうえ,原爆症の認定に当たっ
て利用することは是認し得る。しかし,DS86の計算値については,誤差
が生ずる範囲を狭く解しても,爆心地から1400メートル以遠の放射線量
については,誤差がある(過小評価されている)蓋然性が高いうえ,誘導放
射線や放射性降下物については,旧審査の方針が定めた数値も過小評価され
ている蓋然性が高く,このような数値を機械的に個々の被爆者に当てはめて,
原爆放射線による被爆線量を評価することについては疑問があるし,内部被
爆による影響については,その評価について,専門家においても意見の分か
れる点であり,その影響を全く無視して,個々の被爆者の線量評価をするこ
とが相当であるとはいい難い。
第4急性症状について
1問題の所在
1審被告らは,DS86による線量評価を前提として,放射線による急性症
状を発症するには,一定のしきい値を超える放射線に被爆することが必要であ
り,しきい値を超える放射線の被爆が認められない遠距離被爆者や入市被爆者
についてみられた身体症状は,放射線による急性症状ではないと主張し,最高
裁判所平成12年7月18日第3小法廷判決(以下「平成12年最高裁判決」
という。)において,DS86による被爆線量評価と放射線に起因する急性症
状に関するしきい値では説明できない脱毛,嘔吐,下痢等の急性症状が被爆者
に認められたという指摘は理由がないことが新たな知見によって明らかになっ
たと主張し,この点は遠距離被爆者(1審原告P1)や入市被爆者の被爆線量
評価のうえでも重要な点となるので,この点について検討する。
2急性症状等に関する調査結果
(1)遠距離被爆者に生じた放射線被爆による急性症状と同様の症状等に関する
調査結果
ア原爆の効果に関する合同調査団の調査結果(昭和26年)(甲全6,甲
全77の11)
原爆の効果に関する合同調査団(通称「日米合同調査団)作成の報告書
によると,広島及び長崎において,別紙日米合同調査報告書記載のとおり
の結果が得られたとされている。
イ東京帝国大学医学部診療班P27らによる「原子爆弾被害調査報告(広
島)」(昭和28年で,以下「東大報告」という。)(甲全77の7,1
12の1)
東京帝国大学医学部診療班のP27は,昭和20年10月から同年11
月にかけて,広島において,爆心地から5キロメートル以内の生存被爆者
5120人の調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。
(ア)対象被爆者のうち,急性症状様の症状がみられた者の割合
別紙東京帝国大学医学部診療班による報告書1記載のとおり
(イ)被爆者の遮蔽状況と脱毛発現率の状況
別紙東京帝国大学医学部診療班による報告書2記載のとおり
前記調査結果によると,脱毛の発現率は屋外解放のもの,屋外陰にあ
ったものが最も高く,コンクリート建物内のものが最も低く,木造家屋
内のものはその中間率を示し,これによって,コンクリート建物及び木
造建物の遮蔽能力を窺うことができる。
(ウ)爆心地から遠距離で被爆した者にみられた症状について
放射能症(脱毛,皮膚溢血斑及び壊疽性または出血性口内炎症のうち,
1症例以上を示したもの)と規定されたものは,爆心地から2.8キロ
メートル以遠には発見されなかった。しかし,放射能症距離別発生頻度,
脱毛距離別発現頻度と近似する状態を示す口内炎症及び悪心,嘔吐の距
離別発現頻度曲線は,爆心地からの距離が遠ざかるに伴って低くはなる
が,これらの症状を呈するものは3.1ないし4.0キロメートル間に
おいても明らかに存在しており,当該距離内においても,わずかながら
放射能障害症状を呈する症例を確認することができると考えられる。
他方,発熱,下痢,食欲不振及び倦怠感を調査すると,やや不規則では
あるが,5キロメートルまで,かなりの発生率を示している。これらを
もって,放射能威力による災害範囲と定めることはできないが,ただし,
これらの症状の初発時期と距離との関係を検査すると,発熱,口内炎症
及び下痢は被爆当日に,4キロメートルまで,食欲不振,悪心,嘔吐及
び倦怠感は被爆当日に5キロメートルまで,かなりの発生をみており,
各症状の発現が何らかの意味において,原子爆発に関係があることを明
示している。
ウP28らによる「広島市における原子爆弾被爆者の脱毛に関する統計」
(昭和28年で,以下「P28報告」という。)(甲全8の2の文献5,
甲全77の7,85の18)
東京帝国大学医学部放射線科のP28は,東大報告の調査対象者512
0名中,707例にみられた脱毛の例について統計的観察を行い,その結
果を以下のとおりまとめている。
(ア)爆心距離による出現頻度
脱毛症の爆心距離による出現頻度は,別紙P28報告記載のとおりで
ある(甲全8の2の文献5の第2表)。
脱毛出現最大距離は,爆心地より水平距離にして2.8キロメートル
で,全脱毛者の約90パーセントは2キロメートル以内にある。
(イ)爆心距離と屋内・屋外発症者数との関係
屋内・屋外で脱毛出現率が多いと考えられる距離は,爆心地からの距
離が,コンクリート内で0.1ないし1.0キロメートル,木造内で0.
6ないし1.5キロメートル,屋外陰で0.6ないし1.5キロメート
ル,屋外解放で1.1キロメートルないし2.5キロメートルとなって
おり,木造内及び屋外陰は原子爆弾の放射線に対して同程度の防護作用
をなしたものと推測される。
(ウ)脱毛部位
脱毛症707例の全例に頭部の脱毛がみられた。頭部以外の脱毛症が
併発したものは38例で,脱毛症例707例に対して5.4パーセント
を占めている。部位としては,眉,鬢髭,脇下,陰部に脱毛がみられた。
(エ)考察
原子爆弾による災害は,今回が人類において最初のものであり,放射
線の種類,強さ,作用などに関しては,現在明らかにされていない点も
あるため,調査した人々の観察や意見が必ずしも一致せず,従来の考え
方をもってしては常識的でない事実も報告されている。したがって,こ
の報告においても,脱毛の出現範囲,部位,方向性等に関して従来の放
射線生物学的な考え方と多少矛盾し,または,理解に苦しむような点も
あるが,特に修正は加えていない。
この調査は,被爆後3ないし4か月目に行われたものであり,一部の
脱毛は既に回復していたり,多数の調査票中には,記載上の誤りも含ま
れていることが推認される。しかし,脱毛調査としては,多数例であり,
かつ,脱毛は放射線生物学的にみて人間の受けた放射線量を忠実に表示
する一つの標準となり得るので,統計的に観察した。
脱毛の出現範囲は,2.8キロメートルとなっているが,統計によっ
ては1.5キロメートル以内との報告もある。遮蔽との関係は,木造内
に最も多く,次いで屋外解放,陰,コンクリートとなっている。脱毛時
期は,早い者は被爆後数日から始まっているが,多くは2週間前後に多
発している。方向性に関しては,放射線がガンマ線を主とし,かつ,散
乱線が多いと考えられるので,一般に方向性が認められないのは当然で
あろうが,7例(約1パーセント)には方向性が認められた。この原因
については,不詳である。
エP29による医師の「原爆残留放射能障碍の統計的観察」(昭和32年
10月で,以下「P29報告」という。)(甲全7)
広島市ε町在住のP29医師は,広島市の一定地域(爆心地から2.0
ないし7.0キロメートに及ぶ地域)に住む被爆者生存者全部について,
昭和32年1月から同年7月までの間,個別に調査員を派遣して3946
名について調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。
(ア)原爆直後(原爆投下後3か月以内。以下同様。),中心地(爆心地
から1.0キロメートル以内。以下同様)に入らなかった屋内被爆者1
878名について
対象者1878名中,有症者(原爆放射能障碍及び同熱障碍を受けた
人で,急性原爆症の症状を認めた者。以下同様)は380名で,その有
症率は20.2パーセントであった。被爆距離別の有症率は被爆距離と
反比例し,被爆距離が短いほど,高率であった。また,急性原爆症の各
症候の発現率も,被爆距離が短いほど高く,それが長いほど,低率とな
っており,その低下の具合はかなり整然としていて,別紙P29「原爆
残留放射能障害の統計的観察」表1ないし表4の屋内被爆者A群の欄記
載のとおりとなる(甲全7の表1)。
(イ)原爆直後,中心地に出入りした屋内被爆者1018名について
対象者1018名中,有症者は372名で,その有症率は36.5パ
ーセントであった。これらの有症者に特異な点は,被爆距離別の有症率
が,被爆距離の延長に伴って低率を示さない点である。また,急性原爆
症の各症候の距離別発現率も被爆距離に反比例して,整然と低下はして
おらず,別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表1ないし表
4の屋内被爆者B群の欄記載のとおりとなる(甲全7の表2)。
(ウ)原爆直後,中心地に入らなかった屋外被爆者652名について
対象者652名中,有症者は287名で,その有症率は44パーセン
トであり,(ア)及び(イ)の場合より高率である。被爆距離別有症率は,
(ア)の場合と同様,被爆距離に反比例して低下している。急性原爆症の
各症状の発現率も被爆距離に反比例している。屋外被爆者が対象なので,
熱や火傷の頻度が屋内被爆者より高いが,熱,火傷等の頻度を除いた他
の症状で比較しても,(ア)及び(イ)の場合よりも有症率は高く,別紙P
29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表1ないし表4の屋外被爆者
A群の欄記載のとおりとなる(甲全7の表3)。
(エ)原爆直後,中心地に出入りした屋外被爆者398名について
対象者398名中,その有症率は203名で,その有症率は51パー
セントであった。これは,(ア)ないし(ウ)と比較して最も高率であり,
別紙P29「原爆残留放射線障害の統計的観察」表1ないし表4の屋外
被爆者B群の欄記載のとおりとなる(甲全7の別表4)。そして,この
症例に特異な点は,被爆距離別有症率が,その距離に反比例して低率を
示さない点であり,これは(イ)の場合と類似している。
(オ)考察
直接被爆者では,被爆距離が短いほど,急性原爆症の有症率が高く,
反対に被爆距離が長いほど,有症率が低い。また,被爆直後に中心地に
入らなかった屋内被爆者の有症率は平均20.2パーセントであるが,
屋内で被爆して,その後中心地に入った者の有症率は36.5パーセン
トで,前者より高率である。また,屋外被爆者でも,その直後,中心地
に入らなかった者の有症率は平均44.0パーセントであるが,屋外被
爆者であって,直後に中心地に入った者の有症率は51.0パーセント
で,上記のいずれの場合より高率であった。もともと,屋外被爆者には,
熱,火傷の頻度が高いが,これらの頻度を除外して,屋内被爆者の場合
と比較しても,なお,屋外被爆者の有症率は高率であった。また,原爆
の瞬間は屋内,屋外のいずれにあっても,その後,直ちに中心地に入っ
た者には有症率が高い。
オP30による「原子爆弾症(長崎)の病理学的研究報告」(昭和28
年)(甲全121の資料1)
P31専門学校研究治療班のP30らは,昭和20年9月14日から約
1週間にわたり13例の剖検を行い,その結果を以下のとおりまとめてい
る。前記13例は,長崎原爆被爆後,37日から42日目に死亡した例で
あるところ,全て亜急性原子爆弾症により死亡したものであり,被爆距離
別にみると,爆心地から500メートルが1例,800メートルが1例,
1キロメートルが7名,1.5キロメートルが1例,2キロメートルが2
例,3キロメートルが1例である。
カ厚生省公衆衛生局による「原子爆弾被爆者実態調査健康調査および生
活調査の概要」(昭和42年11月で,以下(以下「厚生省報告」とい
う。)(乙全22)
厚生省公衆衛生局が,昭和40年11月に原子爆弾被爆者の健康調査を
行い,その結果をまとめたものであり,症状・被爆地別にみた被爆後2か
月以内の身体異常発現率(総数)については,別紙厚生省公衆衛生局「原
子爆弾被爆者実態調査」記載のとおりである。そして,被爆後2か月以内
の身体異常の発現率をみると,近距離で被爆した者ほど,各種の身体異常
の発現率が高く,爆心地からの距離との間に密接な関係がみられると指摘
している。
キP32らによる「長崎ニ於ケル原子爆弾災害ノ統計的観察」(昭和57
年で,以下「P32報告」という。)(甲全8の2文献番号4,84の2
6)
長崎医科大学外科第1教室のP32教授らは,昭和20年10月から同
年12月までの間,長崎市の地区ごとに訪問をし,当時,その地に実在し
た者について,被爆時の居所,受傷状況,受傷後の経過,転帰などの調査
を行い,脱毛に関する調査結果を以下のとおりまとめている。
(ア)距離別脱毛の頻度
爆心地からの距離が2ないし3キロメートルの地点までの被爆者につ
いては,生存者1739名中56名(3.2パーセント),死亡者10
名中2名(20パーセント)で,爆心地からの距離が3ないし4キロメ
ートルの地点までの被爆者については,生存者1079名中19名(1.
8パーセント)である。
(イ)環境別脱毛の頻度
脱毛の頻度について,屋外開放の場合,生存者例545名中109名
(20パーセント),死亡者例68名中13名(19.4パーセント),
屋外陰の場合,生存者例674名中58名(8.6パーセント),死亡
者例33名中16名(48.5パーセント),屋内(木造)の場合,生
存者例3198名中355名(11.1パーセント),死亡者例184
名中54名(29.3パーセント),屋内(コンクリート)の場合,生
存者例776名中120名(15.5パーセント),死亡者例44名中
12名(27.3パーセント),壕内の場合,生存者例327名中9名
(2.7パーセント),死亡者例中4名中2名(50パーセント)であ
る。生存者では,脱毛の発生頻度は,屋外開放が最も多く,次いで,コ
ンクリート屋内,死亡者では,屋外開放が,屋外陰よりはるかに少ない
が,これは脱毛の期を待たずに死亡したためと考えられる。
クP33らによる「原爆被爆者における脱毛と爆心地からの距離の関係」
(平成10年で,以下「P33報告」という。)(甲全84の24,乙2
7,179)
放影研統計部のP33らは,寿命調査対象者である被爆者(原爆時に爆
心地から10キロメートル以内にいた人)のうち,被爆線量の推定されて
いる広島,長崎の8万6632人を対象とし,昭和25年以降の約10年
間に,面接により被爆時の場所や遮蔽状況などを調べる際に,急性症状に
関する資料(ただし,被爆から数年後の記憶に基づくもの。)も入手し,
原爆後60日以内に起こったと報告された脱毛のみを陽性とし,脱毛の程
度を軽度(4分の1未満),中等度(4分の1以上,3分の2未満),重
度(3分の2以上)に分類して調査し,その結果を以下のとおりまとめて
いる。脱毛の陽性を報告した被爆者数は,広島で対象者5万8500人中
3857人(うち重度1120人),長崎で対象者2万8132人中13
49人(うち重度287人)であった。さらに,脱毛と爆心地からの距離
について調査したところ,爆心地から2キロメートル以内での脱毛の発現
率は,爆心地に近いほど高く,爆心地からの距離とともに急速に減少し,
2キロメートルから3キロメートルにかけて緩やかに減少し(3パーセン
ト前後),3キロメートル以遠でも1パーセント程度のものに,脱毛が認
められるが,ほとんど距離とは独立である。脱毛の程度についてみると,
遠距離にみられる脱毛はほとんど全て軽度であったが,2キロメートル以
内では重度の脱毛の割合が高かった。このようなパターンを総合すると,
3キロメートル以遠の脱毛が,放射線以外の要因(被爆によるストレスや
食糧事情)などを反映しているのかもしれないことが示唆された。
ケP34らによる「長崎原爆における被爆距離別の急性症状に関する研
究」(平成10年で,以下「P34報告1」という。)(甲全85の20,
111の6)
長崎大学医学部付属原爆後障害医療研究施設資料収集保存部資料調査室
に所属するP34らは,被爆者手帳保持者を対象として原爆被爆者調査か
ら得られた急性症状に関する情報をもとに,被爆距離が3.5キロメート
ル以内の人から3000人(被爆距離2ないし2.4キロメートルの者が
672人,2.5ないし2.9キロメートルの者が889名)を無作為に
抽出し,これらの者に対して急性症状の発生頻度を調べることとし,調査
票にあった嘔吐,下痢,発熱,脱毛,皮下出血,鼻出血,歯肉出血,口内
炎及びその他の9症状の発症頻度と被爆距離との関連,脱毛については距
離別の頻度,発症時期及び程度について調査を行い,その結果を以下のと
おりでまとめている。
対象者3000人のうち,嘔吐,下痢,発熱,脱毛などの症状があった
人は1086人(36.2パーセント)で,被爆距離が1.5キロメート
ル未満では約60パーセントの人に症状があった。距離が離れるに伴い,
症状の頻度は減少し,1.5ないし1.9キロメートルで40パーセント,
2.0キロメートル以遠では30パーセント以下となった。症状の頻度は
男女ともにどの距離区分でも同様であり,性別による差異はみられない。
症状内容は,下痢(26パーセント),発熱(18パーセント),脱毛
(12パーセント),歯肉出血(10パーセント),嘔吐(10パーセン
ト),皮下出血(7パーセント),口内炎(7パーセント),鼻出血(5
パーセント),その他(5パーセント)となっている。そして,距離別の
脱毛頻度については,被爆距離2.0ないし2.4キロメートルでは67
2名中41名(6.1パーセント),2.5ないし2.9キロメートルで
は889名中32名(3.6パーセント)となっている。また,距離別の
脱毛の発症時期について,距離の分類を0.5ないし1.4キロメートル,
1.5ないし1.9キロメートル,2.0ないし2.4キロメートル,2.
5ないし2.9キロメートルに分類して調査したところ,どの距離でも8
月中に約60パーセントが発症し,9月中に約30パーセントが発症して
いる。このような調査結果は,ア項の日米合同調査団,キ項のP32報告
による調査結果と一致している。さらに,脱毛の程度は,近距離ほど中等
度及び重度の割合が多くなっている。
これらの調査結果からの考察として,急性症状の発症について,日米合
同調査団やP32報告による調査結果と同様の結果が得られ,急性症状の
うち,下痢及び発熱が多いという結果も前記2調査による結果と同様であ
った点については,これらの急性症状には,感染症による下痢や発熱とい
った放射線以外の要因によるものが含まれていることによるのかもしれな
い。だが,脱毛や皮下出血は,これまで放射線以外の要因では起こりにく
いと考えられているので,今回,脱毛についてはさらに詳しく調査をした
ところ,脱毛の頻度では被爆距離と発症頻度との相関がみられ,被爆距離
2.0キロメートル以遠でも脱毛が観察され,脱毛の発症時期や程度につ
いても,被爆距離2.0キロメートル以上についても,2.0キロメート
ル未満の群と同様の傾向があり,距離との相関がみられた。これらが放射
線に起因するものかどうかについては,さらに詳細な調査が必要である。
コP35らによる「広島と長崎の原爆被爆生存者における急性放射線症状
とその後のがん死亡との関係に関する観察」(平成12年2月で,以下
「P35報告」という。)(甲全111の1,112の7)
P35らは,放影研業績報告として,寿命調査対象者による調査結果か
ら得られたデータの解析を行い,その結果を以下のとおりまとめている。
被爆後60日以内に脱毛があったと報告されている者では,急性放射線
症状を経験しなかった者に比べ,電離放射線推定被爆線量と白血病死亡率
との間にみられる線形の線量反応関係の勾配が2.5倍も急であると認め
られた。一方,白血病を除くがん死亡率における線量反応関係には脱毛の
有無による差はほとんどなかった。白血病に関するこのような結果には,
年齢または性別による違いはなく,両市で同じであり,この観察結果から,
放射線の早期影響を経験した者は,同程度の放射線被爆がありながら,脱
毛を呈した者は,これを呈さなかった者に比べ,追跡調査期間中,白血病
で死亡する可能性が高かったことが分かる。そして,線量推定の確率誤差
が35パーセント,線量反応が線量の3次の関数であると仮定した場合に
も,脱毛のあった群における白血病相対的リスクの過剰は,1.89倍も
高く,白血病と脱毛との関連は統計的に有意(P値0.10の水準)であ
った。
サP34らによる「長崎原爆による急性症状(脱毛)と死亡率との関連」
(平成12年3月で,以下「P34報告2」という。)(甲全10,46,
112の9)
P34らは,昭和45年長崎市在住の被爆者手帳所持者のうち,長崎原
爆に直接被爆し,急性症状,被爆距離及び遮蔽状況の情報があり,推定被
爆線量の得られている9910人について,昭和45年1月1日から平成
9年12月31日までの28年間を観察期間とし,この期間の死亡を観察
し,昭和32年から昭和44年の間に本人の申告に基づいて得られた急性
症状のうち,放射線以外の要因が最も少ないと考えられる脱毛について解
析を行い,その結果を以下のとおりまとめている。
対象者9910人のうち,観察期間中に3236人が死亡し,悪性新生
物による死亡が830人,脳血管疾患が520人,心疾患が556人など
である。被爆線量区分ごとの脱毛数,がん死亡数及びそれらの割合を考察
すると,被爆線量が高いほど,脱毛,がん死亡ともに頻度が増加している。
また,がん死亡の頻度は脱毛あり(14.9パーセント)の方が脱毛なし
(8.2パーセント)よりも高かった。観察期間14年目から脱毛ありの
方が脱毛なしよりも生存率が低くなり,がん死亡の場合,脱毛ありの人は,
脱毛なしの人より,ハザードは1.52倍高く,被爆線量が1グレイ高く
なるごとに,1.1倍高くなる。死因ががん以外の場合は,ハザードに対
する有意な影響はみられなかった。
以上の調査結果より,同程度の被爆線量であっても,脱毛ありの人のが
ん死亡のハザードは脱毛なしの人に比べて高く,同様の結果は,P35ら
による放影研の寿命調査集団を対象とした脱毛と白血病死亡の観察でも得
られている。その理由としては,脱毛ありの人は,脱毛なしの人に比べて
放射線感受性が高いのかもしれないということ,被爆線量に推定誤差があ
り,脱毛ありの人の被爆線量は実際にはもう少し高かったのかも知れず,
今後の慎重な検討が必要であるとされる。
シP34らによる「被爆状況別の急性症状に関する研究」(平成12年3
月で,以下「P34報告3」という。)(甲全85の19)
P34らは,長崎原爆の被爆者のうち被爆距離が4キロメートル未満の
者1万2905人を対象として,被爆距離,被爆時の遮蔽状況,急性症状
に関する調査を行い(被爆者手帳申請時の調査票による。),その結果を
以下のとおりまとめている。急性症状のあったのは4685人(36.3
パーセント)で,脱毛についての被爆距離別,遮蔽別の発生頻度は,遮蔽
ありの場合は2.0ないし2.4キロメートルで5.5パーセント,2.
5ないし2.9キロメートルで2.8パーセント,遮蔽なしの場合は2.
0ないし2.4キロメートルで12.5パーセント,2.5ないし2.9
キロメートルで8.6パーセントであった。このような結果は,被爆直後
に行われた日米合同調査報告(2.1ないし3.0キロメートルの被爆距
離で脱毛の発現率は3.1パーセント)による調査結果と一致している。
被爆距離が2キロメートル以遠でも,脱毛の発現率との間に相関関係がみ
られ,また,遮蔽の有無により脱毛率の発生頻度に明らかな差がみられた。
このことから,直ちにこれらの要因が放射線であると判断することはでき
ず,放射線との因果関係を調査するためには,個人レベルで染色体調査な
どを行う必要がある。
スP34らによる「長崎原爆の急性症状発現における地形遮蔽の影響」
(平成16年4月で,以下「P34報告4」という。)(甲全111の
7)
P34らは,長崎原爆について,地理情報システムを利用して,地形的
に放射線が遮蔽された地域を割り出し,急性症状の発現における地形遮蔽
の影響について検討することとし,爆心地から南東側の約2.5キロメー
トル付近を中心とする5つの町を遮蔽地域とし,爆心地からの距離が遮蔽
地域とほぼ同じで,爆発点から可視地域となる7つの町を無遮蔽地域とし,
直接被爆者で昭和45年現在,長崎市に在住し,急性症状の情報が得られ
た9910人のうち,遮蔽地域で被爆した1601人,無遮蔽地域で被爆
した1715人について,嘔吐,下痢,発熱,脱毛,皮下出血,鼻出血,
歯肉出血及び口内炎の発現頻度を比較する調査を行い,その結果を,以下
のとおりまとめている。
遮蔽地域と無遮蔽地域における各急性症状の発現頻度は,嘔吐がそれぞ
れ1.5パーセント,5.1パーセント,下痢がそれぞれ9.5パーセン
ト,22.3パーセント,発熱がそれぞれ3.9パーセント,12パーセ
ント,脱毛がそれぞれ1.9パーセント,5.1パーセント,皮下出血が
それぞれ1.2パーセント,1.8パーセント,鼻出血がそれぞれ0.9
パーセント,3.8パーセント,歯肉出血がそれぞれ2.5パーセント,
4.3パーセント,口内炎がそれぞれ2.6パーセント,4.0パーセン
トであり,急性症状の発現頻度は,全ての症状について,遮蔽地域の方が,
無遮蔽地域よりも低かった。このうち脱毛は放射線以外の要因では起こり
にくく,自覚的及び他覚的に分かりやすい症状であることや,脱毛の発現
頻度の比較について,カイ2乗検定の結果は,P<0.001で有意であ
った。また,個人についての遮蔽状況として,家屋等による遮蔽の有無別
にみた場合も,遮蔽のある場合の方が,遮蔽のない場合に比べて低かった。
遮蔽地域と無遮蔽地域における脱毛の程度別発現頻度についても,遮蔽地
域での軽度と重度の頻度は,それぞれ1.8パーセント,0.1パーセン
トであり,無遮蔽地域での軽度と重度の頻度は,それぞれ4.0パーセン
ト,1.1パーセントであり,遮蔽地域における重度脱毛の割合は低かっ
た。さらに,急性症状の程度別頻度についても,遮蔽地域と無遮蔽地域に
有意差が認められた。
以上の調査結果からの考察として,遮蔽地域と無遮蔽地域における脱毛
の発現頻度の違いは,被爆放射線量の違いを示していると考えられ,遮蔽
地域で重度脱毛が2人観察されたところ,これらの被爆当時の詳細は不明
であるが,遮蔽地域の一部はフォールアウト(放射性降下物)があった地
域でもあることから,その影響の可能性がある。
セP36による「原爆被害者調査の結果に関する分析データ集(分析対象
者6744人の集計結果から)」(平成17年9月で,以下「P36報
告」という。)(甲全72の1ないし3,73の1,2,75)
一橋大学大学院社会学研究科のP36教授は,日本原水爆被害者団体協
議会(被団協)が,昭和60年に実施した「被爆40年・原爆被害者調
査」の際に回収された調査票1万3168枚のうち,原爆体験の重さ及び
深さを測定し,被爆者を層化(グループ分け)するために必要な設問に全
て有効な回答が得られている6744枚を選定し,これらの分析を行い,
その結果を以下のとおりまとめている。
(ア)被爆状況と被爆距離別にみた,急性放射線障害の有無
直接被爆者4863名のうち,放射線被爆による急性症状と捉え得る
症状(吐き気,下痢,食欲不振,発熱,脱毛,皮膚の斑点など)があっ
た者の割合は,爆心地から距離別にみると,被爆距離が1キロメートル
以内の者407名中337名(82.8パーセント),2キロメートル
以内の者2111名中1483名(70.3パーセント),3キロメー
トル以内の者1077名中582名(54パーセント),3キロメート
ルを超える者1251名中507名(40.5パーセント)で,爆心地
からの距離が近くなるほど規則的に大きくなり,爆心地から3キロメー
トルを超える距離における被爆でも,高率で急性症状が発症しているこ
とが示された。これを脱毛について,爆心地からの距離別にみると,3
キロメートル以内の者582名中156名(26.8パーセント),3
キロメートルを超える者507名中116名(22.9パーセント)と
なっている。
(イ)被爆状況と被爆距離別にみた,急性放射線障害の症状数
放射線被爆による急性症状と捉え得る症状の個数を,5段階(1ない
し2個,3ないし4個,5ないし7個,8ないし10個,11ないし1
6個)に区分し,爆心地からの距離別にみると,症状が1ないし2個の
者の割合は,爆心地からの距離が遠くなるほど,規則的に大きくなるの
に対し,症状が5個以上の者の割合は,爆心地からの距離が近くなるほ
ど,規則的に大きくなる。急性症状の重さという観点からみても,被爆
距離との関連性があることが判明した。
(2)入市被爆者に生じた放射線被爆による急性症状と同様の症状等に関する調
査結果
アP29報告(昭和32年10月)(甲全7,甲全8の2の文献番号6)
P29医師は,P29報告において,昭和32年1月から同年7月にか
けて,広島原爆投下直後に同市に入市した者629名について,放射線に
よる急性症状と同様の症状の有無や程度,被爆後3か月間の行動等を個人
ごとに調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。
(ア)原爆直後,入市し,中心地(爆心地から1.0キロメートル以内。
以下同様)に入らなかった非被爆者104名の急性症状様症状の発症率
該当者104名中,放射線による急性症状と同様の症状を発症した者
はいなかった。
(イ)原爆投下直後に入市し,中心地に出入りした非被爆者(525名)
の急性症状様の症状の発症率
別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表6記載のとおりで
ある。すなわち,該当者525名中,有症者は230名であり,有症率
は43.8パーセントである。該当者525名中には,一般人405名
と,広島県安佐郡安佐町消防団員120名が含まれているところ,後者
の集団については,強壮な壮年ないし中年の人達であったことや,各々
の生活環境がほぼ等しく,入市の日時,作業地,作業時間,作業目的が
一定していたため,この団員の勤労作業後の健康状態を調査することは,
統計上,甚だ有意義と思われた。この消防団は,原爆投下の翌日8月7
日及び同月8日の午前8時に入市し,市内横川町(爆心地より1.5キ
ロメートル)から爆心地を経て山口町(爆心地より1.0キロメート
ル)に至る間の被爆者の救助と道路疎開作業を行い,団員の中には,そ
の後も引き続き5日間以上,中心地付近で人探しその他に従事した者が
あったが,午後4時に作業をうち切って帰村している。作業中に広島の
河川の水を飲用する者はなかった。団員中,帰村後,1ないし5日後に
発熱,下痢,粘血便,皮膚粘膜の出血,全身衰弱等を来して床に伏すに
至った者が多数あったが,その家族(広島市内に入市しない者)には同
様の症状にかかったものはなかった。そして,調査対象者について,入
市後にみられた発熱,下痢,脱毛等の症候群は,全く,急性原爆症その
ままであり,該当者中,原爆直後から20日以内に中心地に出入りした
者に有症率が高く,1か月後に中心地に入った者の有症率は極めて低か
った。そして,該当者525名中,その26.4パーセントに発熱を認
め,その10.3パーセントは3週間以上も高熱が続いた。該当者中,
30.8パーセントに急性下痢を認め,その11.6パーセントは,赤
痢同様の高熱と粘血便を訴え,この治療は数日より3ないし4か月を要
した。
(ウ)原爆直後に入市し,中心地に出入りした非被爆者525名の中心地
滞在時間と急性原爆症との関係
別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表7記載のとおりで
あり,該当者525名中,中心地滞在時間が4時間以下の場合は有症者
が少ないが,10時間以上の場合は,その有症率が高い。また,原爆直
後から引き続いて2週間以上滞在した者では,その78.1パーセント
に発熱,下痢その他を認めた。
(エ)考察
原爆時に広島市内にいなかった非被爆者で,原爆直後に,広島市に入
ったが中心地に出入りしなかった104名については,その直後,急性
原爆症らしい症候は見いだされなかったのに対し,同様の非被爆者で,
原爆直後に中心地に入り,10時間以上活動した者のうち43.8パー
セントが急性原爆症同様の症状を惹起し,その20パーセントの者には
高熱と粘血便のあるかなり重症の急性腸炎が認められた。
そこで,被爆者及び原爆直後,中心地に入市した非被爆者にみられた
発熱,下痢の原因について考察すると,これらの症状は,当時の不良な
環境や不衛生などで,細菌性の赤痢が合併して起こった現象であるとす
る者がある。しかしながら,被爆生存者の調査では,被爆距離が短いほ
ど,発熱,下痢の頻度が多く,被爆距離が長くなるほど,規則的に頻度
が少なくなっていくのであり,このようなことは,赤痢の流行にはみら
れないし,原爆直後に入市したが,中心地に入らなかった者には,発熱,
下痢はみられないのに対し,同じ非被爆者でありながら,原爆直後に中
心地で活動した者のうち30パーセントの者に発熱,下痢がみられ,し
かも,その家族にはそのような症状が発現していないのである。また,
当時行われた,多数の原爆屍の剖検記録にも消化管全体にわたって,粘
膜の壊死等は記録されているものの,大腸のみに限局した化膿性出血性
腸炎は記載されていない。このような諸点からみると,急性原爆症の急
性下痢は,原爆放射能による腸粘膜破壊のためと考えるのが妥当である。
イ広島市による「広島原爆戦災誌」(昭和46年8月)(甲全8の2文献
番号7,甲47,乙全31)
広島市は,昭和46年8月,広島原爆直後,広島市の爆心地付近に入市
して救援活動等を行った,安芸郡江田島幸の浦基地(爆心地から12キロ
メートル)の陸軍船舶練習部第10教育隊201名と豊田郡忠海基地(爆
心地から50キロメートルP37高等女学校駐屯)の陸軍船舶工兵補充隊
32名について,救護活動をした場所,期間,救援内容,健康状態につい
てのアンケートを行い,その結果を以下のとおりまとめている。
(ア)対象者の活動内容と期間
幸の浦基地救援隊は,原爆投下当日,基地から舟艇により宇品に上陸,
正午前に市内に進出し,直ちに活動を開始し,同日夜から翌7日早朝に
かけて中央部に進出し,主として,大手町,紙屋町,相生橋付近,元安
川で活動し,1週間後の8月12日ないし13日まで活動して,帰還し
た。
忠海基地救援隊は,8月7日朝から市周辺(東練兵上,大河,宇品,
その他主要道路沿いなど)の負傷者の多数集結場所において,救援を行
う。
(イ)救護作業の内容
死体の収容と火葬に従事した者が最も多く,負傷者の収容と輸送,道
路・建物の清掃,遺骨の埋葬,収容所での看護,焼け跡の警備,食糧配
給などである。
(ウ)障害の状況
a出動中の症状
2日目ころから,下痢患者多数続出し,食欲不振もみられた。
b基地帰投直後の症状(軍医診断)
ほとんど全員が白血球数3000以下で,下痢患者(ただし,重患
はなし。)が出て,発熱するもの,点状出血,脱毛の症状の者が少数
ながらあった。
c復員後,経験した症状
168人に倦怠感,120人に白血球数減少,80人に脱毛,55
人に嘔吐,24人に下痢がみられた。
dアンケート時(昭和46年)の身体の具合について
112人に倦怠感,40人に胃腸障害,38人に肝臓障害,27人
に高血圧,27人に鼻や歯の出血,23人に白血球数の減少,20人
にめまい,15人に貧血などがある。なお,右のような症状は,2,
3種の症状が1人の身体に出ている場合が多数で,発病者のうち,死
体及び負傷者の収容作業従事者の占める割合が最も多く,次いで,火
葬,負傷者輸送の順である。
ウP39らによる「原爆放射線の人体影響1992」中の「早期入市者の
末梢血リンパ球染色体異常」(平成4年3月)(甲全111の8)
広島大学原爆放射能医学研究所助教授P39らは,広島原爆投下後の翌
日8月7日に広島市内に入市し,旧西練兵場付近で救護活動などの作業に
4ないし7日間滞在して従事した広島県賀茂郡在住の賀北部隊工月中隊員
20名(入市被爆者としては最も多くの量を被爆したと考えられる。)と
原爆投下直後から3日以内に爆心地付近に入った者20名の合計40名を
対象として,原爆投下後の医療用放射線被爆の回数や内容などを詳細に聴
取し,末梢血を採取のうえ,リンパ球の染色体分析による調査を行い,そ
の結果を以下のとおりまとめている。
早期入市被爆者を滞在期間の長短と医療被爆の多少で4群に分類し,染
色体異常の頻度を計測すると,長期滞在で,かつ,医療被爆の多い群(賀
北部隊の隊員10名で,T65Dに基づく推定線量が平均13.9ラドの
群),長期滞在者の群(賀北部隊の隊員10名で,同推定線量の平均が4.
8ラドの群),短期滞在で,かつ,医療被爆の多い群(同推定線量の平均
が1.9ラドの群),短期滞在者の群(同推定線量の平均が1ラドの群)
の順で染色体異常がみられ,滞在期間の差が染色体異常に反映され,また,
長期滞在者,短期滞在者のいずれの群でも医療被爆による染色体異常が考
えられる結果が得られた。
エP41による「2004年くまもと被爆者健康調査プロジェクト04」
(平成17年8月で,以下「P41報告」という。)(甲全81の1ない
し4)
P41医師は,遠距離被爆者及び入市被爆者の健康障害の実態を解明す
ることを目的として,平成16年6月から平成17年3月までの間に,5
8歳以上の熊本県内在住者のうち,被爆者合計278名と非被爆者530
名を対象として,疾患発生状況の聞取調査を行い,その結果を以下のとお
りまとめている。2キロメートル以遠の被爆または入市被爆のみの群につ
いては,65パーセントの者に,昭和20年年末までに,下痢,ひどいだ
るさ,食欲不振,吐き気,発熱などの症状があり,12.7パーセントの
者に脱毛があり,入市被爆者のみの群については,71パーセントの者に
前記と同様の急性症状があり,8.8パーセントの者に脱毛があった。
オP36報告(平成17年9月)(甲全73の1ないし4)
P36報告によると,入市被爆者1414名中548名(38.8パー
セント),救護被爆者199名中57名(28.6パーセント)に放射線
被爆による急性症状と捉え得る症状があったとされている。また,入市被
爆者の場合でも,ぶらぶら病があったという者が56パーセント,被爆に
より健康状態が変わったとする者(すっかり変わったとする者及び少し変
わったとする者の合計)の比率は40パーセントを超えており,その比率
は爆心地から3キロメートルを超えて直接被爆をした者の比率と変わらな
い。入通院の頻度についても,長期入院率,しばしば入院した者の率,し
ばしば通院した者の率は,直接被爆をした者全体の比率と入市被爆者の比
率とは同じである。
カP42弁護士らによる「P43高等女学校入市被爆者についての調査報
告書」(平成18年2月)(甲全82)
P42弁護士らは,昭和20年8月19日から同月25日までの間に,
P43高等女学校から,救護隊として派遣され,爆心地から約350メー
トルの距離にある本川国民学校において救護活動に従事した23名(被爆
当時15歳ないし16歳の者)を対象として,入市被爆の実情や健康状態
の調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。本川国民学校で救
護活動に従事した23名のうち,平成17年12月31日現在の死亡者は
13名,生存者は10名で,生存率は43パーセントである。調査対象者
の生存率は,平成16年簡易生命表による生存率と比較して,非常に低率
である。死因が判明した死亡者11名の死因につき,白血病2名,卵巣が
ん,肝臓がん2名,胃がん,膵臓がんなどがん性の者が7名を占めた。ま
た,生存者については,全員に急性症状がみられた。
(3)急性症状の発生機序としきい値
ア放射線基礎医学(第10版)(甲全76の2,乙全101)
放射線の量と急性症状の発生率,潜伏期間と症状との関係については,
別紙「ヒトにおける全身照射,線量区分,症状,治療及び転帰(UNSC
EAR,1998)のとおりである(乙全101の330pの表19-
6)。
なお,P44らは,被爆者の重度脱毛の事例として2グレイ以下の被爆
において,20パーセント程度の脱毛が生じるとしている。だたし,この
記述については後に削除されている(乙全208)。
イICRP(国際放射線防護委員会)専門委員会Ⅰの課題グループによる
「電離放射線の非確率的影響」(昭和62年)(乙全92)について
(ア)皮膚
放射線照射による皮膚反応には,多様な影響が含まれ,重篤度及び発
現時期は被爆の条件によって変わる。観察可能な最も早い変化は一過性
紅班で,数時間以内に現れ,それは傷害を受けた上皮細胞がヒスタミン
様の物質を放出するために起こる毛細血管の拡張によるものである。こ
の初期反応は,典型的な場合は数時間続くだけなので,しばしば見落と
されがちであり,その2ないし4週間後に,もっと濃く,もっと長時間
継続する紅班の繰り返しが1回から数回現れる。線量が増すと,脱毛,
乾性落屑及び表皮の壊死が起こり得る。表皮の基底層の増殖細胞の損傷
が紅班と落屑の病因として決定的と思われるので,反応の重篤度を決め
るのは,これらの細胞に対する線量である。そして,与えられた線量に
対する反応の重篤度は,主として照射された皮膚の深さと面積に依存し,
反応の重篤度に影響する他の要因としては,解剖学的な部位,血行,被
爆組織への酸素供給,被爆者の年齢などであるが,解剖学的な部位につ
いていうと,頭皮の放射線感受性は,手のひらと足底に次いで低い。
人の皮膚では,10平方センチメートルの面積に紅班を生じさせるエ
ックス線あるいはガンマ線のしきい線量は,1回短時間に与えられる場
合,6ないし8グレイとされている。毛嚢の損傷に対するしきい値は紅
班のそれよい低い。低LET放射線の1回短時間照射の場合,3ないし
5グレイの線量で,一過性脱毛が起こり得る。
皮膚に対する放射線の急性効果(紅班,脱毛等)は,主として表皮の
基底層及び毛嚢球の増殖性細胞の傷害とその結果起こる表皮の細胞再生
の妨害によるもので,これらの型の傷害が現れるまでの時間は,表皮に
対応する細胞コンパートメントにおける細胞の交代動態と密接に関連し
ている。
(イ)消化器系
胃腸管の粘膜に対する放射線の影響は,ある点では皮膚に対する放射
線の影響に対比し得るものである。口腔,咽頭,食道及び肛門の扁平上
皮細胞からなる粘膜は,反応の速度で皮膚と似ているが,胃,小腸及び
大腸の腺細胞からなる粘膜は,早く反応し,1回照射での耐容線量はも
っと低い。粘膜上皮の増殖性細胞の死は,かなりの数の細胞が破壊され
ると,細胞再生を妨害するのに十分で,その結果,潰瘍を生じ,最終的
には粘膜の障害を受けた部分が露出する。事故的全身被爆のように,も
し,小腸の大部分が10グレイを超える線量を短時間に受けると,上述
の影響のために,急性の致命的な赤痢様症状が引き起こされる。
ウP45らによる「電離放射線障害に関する最近の医学的知見の検討」
(平成14年3月で,以下「P45論文」という。)(甲全85の28,
乙全194の添付資料)
(ア)放射線被爆に伴う確定的影響
放射線の影響は被爆線量に着目して,確定的影響と確率的影響に区分
される。確定的影響の特徴は,しきい線量を超えて被爆した場合,被爆
線量の増加に伴い発生率が増加し,重症度が増加する。しきい線量以下
の被爆では,症状は出ない。各臓器,組織の確定的影響のしきい線量は,
放射線治療を受けた患者等の放射線被爆事例を中心にして求められてお
り,ICRPの刊行物中で,被爆した人々の1ないし5パーセント(集
団中,比較的感受性の高い人々)に症状が出現する線量をしきい値とし
ている。急性放射線症は,確定的影響によって,発生率の増加,重症度
が左右される。
(イ)急性放射線症
確定的影響の中で最も重篤な障害は,短時間に全身が被爆したときに
起こり,体幹など身体の主要部分が被爆し,数時間から数週間以内に現
れる臨床症状の総称を急性放射線症という。その病態は,多くの組織や
臓器の複合障害と位置づけられている。一般に,急性放射線症は約1グ
レイ以上の被爆で起きるとされている。被爆線量に依存して現れてくる
臨床症状から,血液・骨髄障害,消化管障害,循環器障害,中枢神経障
害に分けられる。病態と線量に関しては,以下のとおりとなる。
全身吸収線量(グレイ)死亡をもたらす主な影響生存期間(日)
3-5骨髄の損傷30-60
5-15胃腸管及び肺の損傷10-20
>15神経系の損傷1-5
また,急性放射線症は,時間的経過から,前駆期,潜伏期,発症期,
回復期若しくは死亡期の4つの病気に分けられる。前駆期は,被爆後数
時間以内に現れ,食欲低下,悪心,嘔吐,下痢が主な症状で,およそ1
グレイ以上で現れることが多い。これらの症状は,線量が高いほど現れ
るまでの時間が短く,症状が重い。これらのことから,被爆線量を推定
することができる。すなわち,1ないし2グレイでは,吐き気は10な
いし50パーセントの被爆者に2時間から数時間後に現れるが,4グレ
イを超えるとほぼ全員に現れ,6グレイ以上では30分以内に現れると
いった具合である。急性放射線症の症状及び検査としきい線量との関係
は,以下のとおりとなる。
症状・検査所見しきい線量(グレイ)発現までの時間
悪心・嘔吐148時間以内
末梢血リンパ球の減少0.524-72時間以内
染色体異常0.224時間以内
前駆症状では,この他にも,頭痛,意識障害,体温の上昇等がみられ
る。前駆期を過ぎると,一時的に前駆期の症状が消え,無症状な時期に
入る。前駆期にみられることが多い皮膚の発赤や紅班も消失する。この
潜伏期も線量に依存し,8グレイを超えるとほとんどないとされている
が,P46臨界事故(以下「P46事故」という)では,これ以上の被
爆があった者に潜伏期が観察されている。この潜伏期後には,多彩な症
状が現れる発症期に入る。この時期に,典型的な後記の4つの障害が発
症する。その後,治療が成功すれば,回復期に入るが,線量が高いと死
亡に至る。
急性放射線症における前駆症状と線量・発症までの時間を表に現すと
以下のとおり(IAEAのセーフティ-レポートシリーズ2)となる
(甲全85の28の表3)。
セーフティ-レポートシリーズ2
線量1-2Gy2-4Gy4-6Gy6-8Gy>8Gy
嘔吐
(時期)2時間以降1-2時間1時間以内30分以内10分以内
(%)10-5070-90100100100
下痢中等度重度重度
(時期)--3-8時間1-3時間1時間以内
(%)--<10>10100
頭痛非常に軽い軽い中等度重度重度
--4-24時間3-4時間1-2時間
(時期)--508080~90
(%)
意識影響なし影響なし影響なし影響あり意識喪失のこ
とあり
(時期)----数秒/数分
(%)----100(50Gy以
上)
体温正常微熱発熱高熱高熱
(時期)-1-3時間1-2時間<1時間<1時間
(%)-10-8080-100100100
また,急性放射線症の主な兆候については,以下のとおりである。
線量(Gy)1-22-44-66-8>8
21-3518-288-187以下なし潜伏期(日)
疲労感発熱,感染高熱,感染高熱,下痢高熱,下痢主な症状
脱力感出血,脱毛,疲労出血,脱毛めまい脱毛,意識障害
死亡率(%)00-5020-7050-100100
a血液・骨髄障害
約0.5グレイを超える全身被曝では,リンパ球数が減少するが,
1ないし2グレイを超える被曝では,リンパ球以外の白血球数(顆粒
球),血小板,赤血球数も減少する。被曝事故では,全身均一な被曝
がほとんどないため,たとえ高線量の被曝でも,被曝者の骨髄機能が
残存していることが多いため,骨髄移植にも困難な点が生ずる。8な
いし10グレイを超える被曝に対しては,他の臓器の障害も大きく,
骨髄治療が奏功しても,多臓器障害で死亡することが多い。
b消化管障害
前駆症状としての下痢のしきい線量は4ないし5グレイであり,約
8ないし10グレイ以上の被曝で主症状としての下痢が現れるとされ
る。高線量の放射線被曝により,血管の透過性が亢進し,腸管内に水
が出てくるために生ずるもので,腸管上皮がその幹細胞の死滅で再生
できなくなり,重篤及び血性の下痢を起こし,水分・電解質の喪失,
出血,吸収不良,感染などが生じる。
c循環器障害
15グレイ以上の被曝で生じる。心筋は放射線に感受性は低いが,
消化管障害,皮膚障害や血管の透過性亢進による水分,電解質の喪失
により2次的にも循環不全が生じる。この場合は,より低い線量で起
きる。
d中枢神経障害
50グレイ以上の高線量の被曝では,不穏・見当識障害・運動失調
・錯乱などが起きる。対症療法以外に有効な治療はない。
(ウ)急性放射線皮膚障害
放射線による皮膚障害は,細胞分裂の盛んな基底細胞層が障害を受け
ることにより生ずる。数週間以内に生じる皮膚障害を急性放射線皮膚障
害と呼び,短時間に約3グレイ以上の被曝で起こるとされている。被曝
した身体部位(皮膚の厚さの相違など),被曝した皮膚面積などにより,
皮膚症状のしきい線量が異なり,特に,全身被曝の場合,予後を大きく
左右する因子にもなる。放射線による皮膚障害では,始めは痛みがなく,
細胞死や組織死により表皮が脱落して,再生が起きなくなってから現れ,
また,皮膚を構成する細胞により,放射線に対する感受性が異なるため,
一律に患部の細胞,組織が障害を受けるものではない。障害の程度は,
組織に付与されたエネルギーの総量,付与率,患部面積などにより,放
射線による影響は,皮下,真皮組織への障害であるとともに,血管の障
害でもある。初発症状は,発赤であり,通常は一過性である。およそ3
グレイの被爆から現れる。それに引き続き,組織の腫脹が生じるが,そ
の程度は線量によって異なる。時間の経過とともに,脱毛,色素沈着,
落屑,水疱,細胞死や表皮の細胞増殖障害によって生じる疼痛性の潰瘍
が現れる。被爆した部分の血管内皮細胞が障害を受けると,炎症反応が
長期化し,血栓形成が起きる。被曝した皮膚の被曝線量は症状から推定
可能であるが,症状がすぐに現れないため,患者は被曝したことに気付
かないこともあり,また,いつ被曝したか,どういう放射線によるもの
か,症状の程度,被曝時間等が不明なことがあることも多い。
急性放射線皮膚障害の症状としきい線量との関係を表に表すと,以下
のとおりとなる(甲全85の28の表5)。
症状しきい線量(Gy)発症までの時間
紅班
312-24時間初期紅班(一過性)
614-21日二次性紅班
脱毛
314-18日一過性脱毛
721日永久脱毛
落屑
8-1225-30日乾性落屑
15-2020-28日湿性落屑
水疱15-2515-25日
びらん・潰瘍2014-21日
壊死2521日
(エ)同旨の見解として,P47の意見書や同人の証人調書(乙全10,
156,193,194,205の1,2)がある。
なお,P47は,放射線による急性障害の症状は,特徴的な経過をた
どることが知られているが,様々な疾病で現れる症状に似ている非特異
的な症状が多いとしている。また,原爆被爆者の急性障害について,被
爆による下痢は,少なくとも4グレイ以上の被爆をしたときに,被爆後
3ないし8時間程度で出現することが経験上明らかとなっているので,
真実,被爆による下痢がみられたとするならば,重度の脱毛が出現して
いるはずである。被爆後,下痢,脱毛,長時間続く倦怠感,歯茎からの
出血などの症状があったとしても,このような症状は,放射線による急
性障害としては,非特異的なものであるから,これらの症状があったと
いうだけで,相当量の被爆があったということにはならないとし,当時
の公衆衛生事情などに照らして考えると,吐き気,下痢,だるさ,脱毛
などといった症状の原因は,放射線以外にあると考えるのが常識的判断
であろうし,被爆による急性障害であれば,下痢等の症状が軽度で,回
復した後にこれらの症状を繰り返すということはなく(重度であれば,
予後は極めて悪い。),発熱,頭痛,倦怠感,下痢等の症状が長期間継
続するという場合は,別の要因によるものと考えるのが妥当な判断であ
るとしている。
エP48の意見書及び同人の証人調書(甲全35の1,2,96の1ない
し4,97,98)
P49病院名誉院長のP48が,上記P47の見解について,平成19
年10月9日付け意見書等で述べる指摘は次のとおりである。なお,同人
は,昭和52年以来,広島において被爆者の臨床に携わっていた。
(ア)P47意見書にあるしきい線量は,急性放射線障害に際して観察さ
れた臨床症状であって,広島・長崎原爆被害の実態を基礎として定めら
れたものではない。そして,急性放射線症のしきい線量は1970年代
に既に確立していたが,当時はDS86はいまだ作成されておらず,T
65Dが適用されていた時代である。
(イ)放射線治療や被爆事故の場合と原爆の場合とでは被爆状況が異なる。
原爆の場合には,医療用単一線源からの瞬間照射の状況とは異なり,原
爆における脱毛という急性症状の発症の機序は単純ではない。また,原
爆の場合は,初期放射線(ガンマ線,中性子線)の他に,地面からの誘
導放射線(ガンマ線)を浴び,放射性を持った粉じんやほこりをかぶる
など,ベータ線による外部被爆や内部被爆(ベータ線,アルファ線)が
あった。
(ウ)原爆被爆における脱毛の時期,態様は,被爆態様が異なるため,医
療用被爆などとは異なる。原爆における脱毛には,1週間以内に生じ,
あるいは1か月を経過して生じたもの,頭髪全体に生じあるいは頭髪の
一部に生じたものなど,時期及び態様に多様性があり,これは被爆状況
が多様であるために起こるものである。
(エ)脱毛のしきい線量が3.5グレイとすれば,初期放射線量としては,
爆心地から1キロメートルの範囲内に相当するところ,諸調査の結果で
は,1キロメートルを超えて脱毛がみられるのであって,しかも,爆心
地からの距離に相関した発現頻度がみられているのであり,1キロメー
トル以遠の被爆者に発症した脱毛を放射線以外の原因によるものとする
ことはできない。
(オ)毛母細胞に放射性物質が特異的に集積するという科学的知見はない
が,抗がん剤の投与により脱毛が生ずる場合もあることから,血液を介
した被爆が考えられないではない。
3検討
(1)DS86に基づいて定められた旧審査の方針の別表9によると,爆心地か
ら2キロメートルの地点における初期放射線量は,広島及び長崎において,
それぞれ7センチグレイ,13センチグレイであり,誘導放射線はいずれも
0である。それにもかかわらず,爆心地から2キロメートル以遠で被爆した
者に脱毛,下痢等の急性症状がみられたとする調査結果が,上記のとおり,
種々存在し,1審原告らは,これらの身体症状は放射線に起因する急性症状
であって,遠距離被爆者であっても急性症状がみられた者については,相当
量の放射線被爆があった旨主張し,1審被告らは,これらの身体症状は放射
線に起因するものではないと主張するので検討する。
(2)まず,脱毛は放射線以外の要因では起こりにくく,自覚的及び他覚的に分
かりやすい症状であるという特徴を有することから,2項で検討した資料の
うち,被爆距離が2キロメートルを超える被爆者の脱毛の発現率について記
載があるものについてまとめると,おおむね以下のように整理される。
ア日米合同調査団による報告
長崎における爆心地から2.1ないし2.5キロメートルで被爆した者
(外または日本家屋内で被爆した者。)の脱毛の割合は,7.2パーセン
トで,爆心地からの距離が0.5キロメートル遠ざかるごとに,その発現
率は,2.1パーセント,1.3パーセント,0.4パーセントと逓減す
る。
また,広島における爆心地から2.1ないし2.5キロメートルで被爆
した者(長崎の場合と同様。)の脱毛の割合は,4.8パーセントで,爆
心地からの距離が0.5キロメートル遠ざかるごとに,その発現率は,2.
4パーセント,1.3パーセント,0パーセントと逓減する。
イ東京大学報告
広島における爆心地から2.1ないし2.5キロメートルで被爆した者
の脱毛の割合は,6.4パーセントで,爆心地からの距離が0.5キロメ
ートル遠ざかると,その発現率は,1.7パーセントに減少している。
また,P28報告によると,被爆者の個々の被爆状況すなわち,屋外,
屋内のどこで被爆したか,屋内のうち木造家屋かコンクリート建物か,屋
外のうち開放部分,遮蔽物がある場所で被爆したかによって,脱毛の発現
率が異なり,放射線の屋内のコンクリート建物で被爆した者の発現率が最
も低く,屋外開放部分で被爆したものの発現率が最も高いという調査結果
が得られている。
ウP29報告
広島における爆心地から2キロメートルの屋外で被爆し,原爆投下直後
爆心地付近に入市しなかった者の脱毛の割合は,18.7パーセントで,
爆心地からの距離が0.5キロ遠ざかるごとに,その発現率は,10.9
パーセント,12.0パーセント,0.1パーセント,2.8パーセント,
0パーセント,4パーセントとなっている。
エ厚生省報告
症状・被爆地別にみた被爆後2か月以内の身体異常発現率(総数)のう
ち,脱毛についてみると,直接被爆者であって原爆投下後3日以内に爆心
地から2キロメートル以内の地域に入った者で,被爆距離が2.1キロメ
ートルから3.0キロメートル以内で16.6パーセント,3.1キロメ
ートルから4.0キロメートル以内で16.9パーセント,4.1キロメ
ートル以上で11.0パーセントとなっている。
オP32報告
爆心地からの距離が2ないし3キロメートルの地点までの被爆者の脱毛
の発現率は,生存者中3.2パーセントで,爆心地からの距離が3ないし
4キロメートルの地点になると,その発現率は,生存者中1.8パーセン
トと逓減する。
カP33報告
脱毛と爆心地からの距離について調査したところ,爆心地から2キロメ
ートル以内での脱毛の程度は,爆心地に近いほど高く,爆心地からの距離
とともに急速に減少し,2キロメートルから3キロメートルにかけて緩や
かに減少し(3パーセント前後),3キロメートル以遠でも約1パーセン
ト認められる(ただし,この部分については,ほとんど距離とは独立であ
る。)とされている。
キP34報告1,3及び4について
P34報告1では爆心地からの距離が2.0ないし2.4キロメートル
で被爆した者の脱毛の割合は,6.1パーセントで,爆心地からの距離が
2.5ないし2.9キロメートルの地点になると,その発現率は,3.6
パーセントと逓減している。
P34報告3では,爆心地からの距離が2.0ないし2.4キロメート
ルで被爆した者の脱毛の割合は,12.5パーセントで,爆心地からの距
離が2.5ないし2.9キロメートルの地点になると,その発現率は,8.
5パーセントと逓減している(ただし,遮蔽なしの場合。)。また,爆心
地から2キロメートル以遠での被爆者についても,遮蔽の有無によって脱
毛の発生頻度に明らかな差がみられたとしている。
また,P34報告4では,長崎において,遮蔽地区と無遮蔽地区を設定
して,急性症状の発現割合を比較したところ,遮蔽地域と無遮蔽地域にお
ける各急性症状の発現頻度は,嘔吐,下痢,発熱,脱毛,皮下出血,鼻出
血,歯肉出血,口内炎全ての症状について,発現頻度は,遮蔽地域の方が,
無遮蔽地域よりも低いという調査結果が得られている。
クP36報告
爆心地からの距離別が2キロメートルから3キロメートル以内で被爆し
た者の脱毛の割合は,26.8パーセント,爆心地からの距離が3キロメ
ートルを超える地点になると,その発現率は,22.9パーセントと逓減
する。
(3)このように,上記の資料では,おおむね,脱毛の発現率は,爆心地からの
距離が遠ざかるにしたがって逓減しており,また,遮蔽の有無を区別したも
のについては,地形的な遮蔽の有無及び個々の被爆場所による遮蔽の有無の
いずれの場合であっても,遮蔽がない場合の発現率は,遮蔽がある場合のそ
れに比較して高率であり,被爆後に爆心地付近に入市している者は,入市を
しなかった場合に比べて,その発現率は高率となっている。また,脱毛以外
の下痢などの症状についても,被爆距離との相関関係が強く認められる調査
結果となっている。
また,入市による影響についても,P29報告において,被爆後,爆心地
に入市した者について,入市をしなかった場合に比べて,前記身体症状の発
現率が高率であるとの結果があり,また,P29報告中,広島で原爆の直爆
を受けておらず,原爆投下後の翌日と翌々日に入市し,爆心地付近で救護活
動を行った消防団員に,帰村後,下痢,粘血便の症状を呈したものが多数あ
り,その症状は,広島原爆の直爆を受けた者に現れた急性原爆症に極めて類
似していたこと,入市をしなかった団員の家族には何らこのような症状が現
れていないことのなどの報告がなされており,前記団員の生活環境,入市日
時,広島を離れた日時,作業地や作業時間などが類似していることなどにか
んがみると,これらの者に現れた身体症状が,個々の団員の個別的な状況い
かんによるものではなく,入市したことで,放射線の影響を受けたことによ
るものであることを窺わせる資料であるといえるし,広島市が編集,発行し
た「広島原爆戦災誌」による,いわゆる暁部隊(爆心地から数キロメートル
以上離れた地域から,広島原爆投下当日ないしその翌日から,1週間程度,
爆心地付近で,救護活動に従事した部隊隊員)に対する調査結果や,P42
弁護士らによるP43高等女学校の調査結果なども,原爆放射線の影響が原
爆の直爆を受けていない入市者に対して及んだことを窺わせる資料であると
いえる。
さらに,平成10年以降に発表された報告中には,脱毛のあった群におけ
る白血病相対的リスクの過剰は1.89倍で,白血病と脱毛との関連が認め
られたり,同程度の被爆線量であっても,脱毛ありの人の,がん死亡のハザ
ードは脱毛なしの人に比べて高く,その理由としては,脱毛ありの人は,脱
毛なしの人に比べて放射線感受性が高いのかもしれないということ,被爆線
量に推定誤差があり,脱毛ありの人の被爆線量は実際にはもう少し高かった
のかもしれないという示唆がなされるに至っている。
これらのことからすると,上記調査の結果に表れた,いわゆる遠距離被爆
者の脱毛等の身体症状は,原爆放射線に起因して引き起こされた症状である
ことが強く推認されるものといえる。
(4)これに対し,1審被告らは,P34らによる「原爆急性症状の情報の確か
さに関する研究」,「長崎原爆被爆者の急性症状に関する情報の確かさ」長
崎医学会雑誌81巻特集号平成18(2006)年を根拠として,上記各報
告書の基になった被爆者の記憶は不確かであるとする。確かに,乙全157
の表によれば,症状ごとの一致率(直後調査と15-20年後の調査)は7
1.9パーセントから90.9パーセントの範囲にあることが認められるこ
とからすると,中には記憶が不確かなものもあったであろうことは推測され
る。
しかしながら,日米合同調査団報告,東京大学報告,P28報告によって
なされた調査は,人類史上,前例のない原爆爆発による人間に対する影響調
査であるという性質上,調査対象者は,自分の身体に現れた身体症状が,漠
然と放射線に起因するものではないかという危惧感は持っていたかもしれな
いが,爆心地の詳細な地点,放射線が人体に及ぼす影響や,それが具体的に
自分の身体にどのように現れるのか,自分が被爆した場所と自分に出現した
身体症状の内容,発症時期等との間に関連性があるのかどうかといったこと
を認識していたとはいい難いから,何が自分にとって利益な事実なのか,あ
るいは不利益な事実なのかを判断する基準は持っていなかったものと考えら
れ,その意味で,自分の身体症状について,殊更,虚偽の事実を申告すると
いう基礎となる事情は存在しないといえる。また,その調査時期に照らして
も,全体的には,記憶が薄れたとの事情もないといってよい。そして,調査
者自身,前記のような調査の性質からして,原爆被爆者の身体にどのような
症状が出現しているのか,それが放射線に起因するものかどうか,一定の仮
説を立てて臨んだ調査ではなかった(特に,主たる調査者が日本人の場
合。)ことが窺われ,その意味で,従前の知見との整合性をひとまずおいて,
得られた調査結果を検討していることや,これらの調査が,原爆投下後,約
2か月が経過した昭和20年10月から同年11月までの間,5000人以
上の対象者に対してなされたものであることを考慮すると,前記のような程
度の不一致率の存在は,前記の調査結果の意義を没却するものとまではいえ
ない。このことは,これらの,原爆投下後まもなくなされた調査結果が,そ
の後になされた,調査時期,調査者や調査方法,調査の対象となる人員を異
にする種々の調査の結果と矛盾するものではなく,これらの調査結果によっ
て裏付けられていることからもいえることである。
次に,1審被告らは,自然災害,東京大空襲においても被爆の影響ではな
いことが明白な嘔吐,下痢,出血,脱毛,口内炎,倦怠感,不眠といった身
体症状の発症が確認されており,身体症状の存在から放射線被爆の急性症状
と判断することはできず,特にP46事故においては,事故現場からの距離
と体調不良の発現率とに相関関係がある旨主張する。確かに,乙全162に
よれば,東京大空襲の被災者の中に脱毛(禿)を生じた者があったことが認
められないではなく,被災による心身の負担から脱毛等の身体症状が生ずる
ことを全く否定することはできないところであり,広島,長崎の被爆者が,
自身が死に直面するに等しい,耐え難い体験をし,精神的な影響を受けなか
ったということは,むしろ考え難い。しかしながら,被爆者に現れた身体症
状が,放射線に起因しないのであれば,その身体症状が,爆心地からの距離
に相関して発現したり,また,遮蔽の有無,入市の時期,滞在時間と相関し
て発現したり,脱毛等の放射線被爆による急性症状様の症状が認められたり,
放射線に起因する蓋然性の高い白血病やがん死亡との関連性が認められたこ
とを,合理的に説明することはできないものといわざるを得ない。
また,乙全221中には,P46事故の後,事故現場からの距離に相関し
て体調不良を訴える者があったことを示す資料があるが,同資料は,体調不
良として脱毛等の放射線被爆と同様の事例を扱うものではなく,施設の存在
の不快感,不安感を示す資料とはいえるものの,前記の各調査結果にみられ
る被爆地における急性症状を放射線被爆の影響ではないことを説明する資料
とはいえない。
したがって,1審被告らの前記主張はいずれも採用し難い。
(5)さらに1審被告らは,P45論文やこれと同旨のP47意見書を根拠とし
て,放射線に起因する急性症状には,組織別に一定のしきい線量があり,ま
た,特徴的な経過をたどるとし,これらの知見と整合しない1審原告らの訴
える身体症状は,放射線に起因するものではないと主張するので検討する。
P45論文の主たる研究者であるP45や同旨の意見書を提出するP47
は,被爆医療の専門家であり,その分野における同人らの知見については十
分信頼を置けるものと考えられ,したがって,同人らが示す組織別のしきい
線量や皮膚障害のしきい線量,IAEAの急性放射線障害の前駆症状と被爆
線量の関係のまとめなども,それ自体に誤りがあるとも考えられない。
しかしながら,昭和62年に発表されたICRPの専門委員会による「電
離放射線の非確率的影響」によれば,基本的には,放射線に起因する急性症
状の発症には,組織別のしきい線量が影響するとしているものの,放射線照
射による皮膚反応には,多様な影響が含まれ,それらの頻度,重篤度及び発
現時期は被爆の条件によって変わること,与えられた線量に対する反応の重
篤度は,照射された皮膚の深さと面積に依存するが,反応の重篤度に影響す
る要因として,解剖学的な部位,血行,被爆組織への酸素供給,被爆者の年
齢などがあり,皮膚に対する放射線の急性効果(紅班,脱毛等)の症状が現
れるまでの時間は,表皮に対応する細胞コンパートメントにおける細胞の交
代動態と密接に関連することが指摘されるなど,放射線に起因する急性症状
が,被爆条件,被爆部位,被爆態様など,個々の被爆者の個体差によって一
様なものではなく,P45らのいう知見にも例外が存在することを示唆する
内容となっているのであって,P45らのいう知見もこれを否定する知見で
あるとも考え難い。このことは,P45論文においても,P46事故におけ
る患者において,8グレイを超えると潜伏期がみられないとされていたのに,
同事故の患者には潜伏期がみられたとし,P45論文の示す知見とは異なる
症状の経過があったことが紹介されていることからも裏付けられているとい
うべきである。
また,平成18年9月に発表された「チェルノブイリ原子力発電所事故に
よる人体影響」によると,白血病に関する知見として,事故処理作業従事者
以外では,汚染地域の成人住民に白血病が増加したという確かな証拠はなく,
前記事故による放射線被爆によって小児白血病が増加したという主張は支持
しないとされており,原爆被爆者の場合には,放影研の寿命調査では,原爆
後20年間に,成人及び被爆年齢時10歳未満の小児の白血病による死亡率
の増加が顕著に認められていることと比較すると,前記事故による一般住民
の放射線被爆及び放射線障害の態様は原爆被爆者の場合とは極めて異なって
いるという見解が明らかにされている(甲全85の2,乙全229)。そし
て,平成10年にP50らによる「ヒト細胞移植重度複合型免疫不全マウス
におけるヒト毛包の放射線感受性」と題する論文によると,ヒトの頭部細胞
組織を免疫不全型のマウス(以下単に「マウス」という。)に移植をして,
局部エックス線照射(1ないし6グレイ)を照射する実験をしたところ,脱
毛は照射後3週間後から起こり,線量に依存して脱毛が拡大したこと,照射
後4週間たっても毛髪は残っており,残存毛髪の幅が細くなっていること,
マウスの毛の幅が0ないし3グレイまでの線量でほぼ線形に減少しているこ
とから,毛髪の造成活動に関しては1グレイのしきい値がないことが示唆さ
れたとの見解が示されている(甲全140)。このように,1審被告らの主
張する放射線に起因する急性症状の特徴と必ずしも整合しない実験結果や見
解も表明されている。
前記のような見解を示す知見もあるうえ,広島,長崎の原爆の被爆者のよ
うに,極めて近接した日時に,類似した状況で,数万人あるいは数十万人の
人々が同時に被爆したうえ,被爆後,適切な医療処置を受けることができな
かったという状況と比較した場合,1審被告らが主張するチェルノブイリ原
子力発電所事故等のような重大な被爆事故が日常的に発生するものではなく,
このような被曝事故による症例が少ないことからしても,P45らのいう知
見にも例外が存在することや,前記知見が原爆被爆者に被爆後まもなく出現
した身体症状にそのまま当てはまるものともいい難いことが裏付けられてい
るというべきである。
確かに,1審被告らが指摘するように,(1)で指摘した資料については,そ
の調査の方法は,調査員を派遣して対象者に質問をしたものであったり,書
面によるアンケート方式であったりするものもあり,特に,原爆投下直後の
初期になされた調査については,現在の放射線に対する人体影響の科学的知
見のレベルに照らして,科学的な精密性を欠いていることは否定し得ないも
のの,前記のとおり,これらの資料による原爆被爆者らに,被爆後まもなく
出現した身体状況等は,これを実際に観察した医師らが把握した事実,ある
いは被爆者自身が自分の体験に基づいて認識した事実を基に把握されたもの
であって,しかも,その後の調査によっても,その結果は支持されているも
のである。このようなことからすると,前記の各報告は,被爆者に出現した
身体症状が,60年以上前に生起した原爆による放射線に起因するかどうか
という,もはや,再現実験をするなどして実際にこれを検証することが不可
能な事象について,法的な因果関係の有無を把握するための資料としては,
一定の信用性,正確性を有するものというべきであって,当裁判所は,これ
らの各報告を,1審被告らが主張するように質の低い調査であるとして,軽
視することが相当であるとは考えない。
したがって,P45論文やこれと同旨のP47意見書の被爆治療に係る知
見については,被爆治療の分野における知見と被爆者の被爆直後の症状に不
一致がみられる場合があるという意見としては理解できるが,同人らは被爆
者の実態に関する研究や検討に携わってきたわけではなく,同人の専門的知
見が原爆被爆者に被爆後まもなく出現した身体症状について,そのまま適用
されると解することについては疑問があるから,1審被告らの前記主張も採
用しない。確かに,初期放射線による被爆線量が少ないか,0と評価される
者に脱毛などの症状が発症していることについて,しきい値との関係でいえ
ば,DS86に基づく線量評価自体に問題があることを指摘することができ
る以上には,現時点で,その発生機序が明らかになっているとはいえないと
しても,だからといって,発生機序が存在しないということを意味するもの
ではないというべきである。
以上によると,調査結果が示す,被爆距離,遮蔽の有無,入市の有無及び
その時期,滞在時間と相関する発現率によって急性症状が出現するという事
実は,集団的な観察としては,脱毛などの症状は,主として,あるいは専ら
原爆放射線の影響によるものであると推定することができるというべきであ
って,これらの身体症状は,全て原爆放射線によるものではなく,他の原因
によるものであるとの1審被告らの主張は採用し難い。
4まとめ
DS86による線量評価の点については,第3項5に記載したとおりであり,
被爆者調査における被爆者にみられた脱毛,下痢といった身体症状(初期症
状)は,原爆放射線による影響に基づくものであるとみるのが合理的であり,
このように考えた場合,被爆者にみられた初期症状の発現状況や症状と,DS
86に線量,放射線被爆治療等による科学的知見が,被爆者の初期症状と一致
していない面があるので,これらの科学的知見は,広島,長崎の原爆被爆者の
初期症状という点についてみれば,これを十分に説明し得る知見とはいえない
というべきである。そして,これらの点を踏まえて,原爆症認定の放射線起因
性判断における急性症状の問題について検討すると,旧審査の方針が定める線
量評価の手法は,その主たる根拠となるDS86による線量評価システム自体,
爆心地から遠距離で被爆した者の被爆線量を評価するについては,誤差(過小
評価)の問題があって,そのままの数量をもってこれらの者の被爆線量(初期
放射線量)とすることは相当とはいえないのみならず,残留放射線(残留放射
能や放射性降下物)の点でも誤差(過小評価)がある蓋然性が高く,また,内
部被爆について全く考慮していない点で問題があるのであって,旧審査の方針
が定める数値が,個々の被爆者(特に遠距離被爆者や入市被爆者)が実際に被
爆した線量と相当程度の蓋然性をもって一致するということを前提として,そ
れのみをもって,個々の被爆者の申請疾病の放射線起因性を判断することは相
当とはいえない。
そうすると,個々の被爆者について,正確な被爆線量を数値化して現すとい
うことは困難であるということになるが,今後,放射能に関する測定技術やこ
れに関する計算精度が進展し,物理学者などによって新たな知見が発表された
としても,個々の被爆者が,60年以上前に実際に被爆した線量を,正確に数
値化するということは,もはや期待し得ないというべきで,この点に関する精
度を上げることや,今,現在あるシステムの精度がどれほど高いといえるか,
あるいはそうではないのかという点について,これ以上,意を用いるというこ
とは,個々の被爆者の申請疾病と放射線起因性との関連性を判断するという目
的に照らして,それほど意味のあることとは思われない。個々の被爆者の申請
疾病の放射線起因性を判断するについては,今,現にある資料等(DS86に
よる計算値を含む。)を基に,これらを有効に活用するようにし,ただし,申
請疾病自体の医学的知見,放射能や放射線に関する知見,申請疾病と放射線と
の関連性に関する知見は,日々進歩する蓋然性が高いことを踏まえて,これを
判断していくしかない。その際,DS86による計算値自体,その出発点とも
いうべき広島・長崎原爆の出力を推定するのに極めて有力な資料が破棄されて
いたり,ソースタームについても,これに関する情報はDS86の信頼性を検
証するうえで重要な部分であるにもかかわらず,広島・長崎原爆の構造や材質
に関する詳細な情報は軍事機密の問題があって明らかにされず,米国側から示
されたのはコンピューターによる計算結果のみであるなど,半永久的に検証不
可能な計算結果を前提とするものであったり,原爆投下時の両市の気象状況等
についても一応の仮定のうえに成り立つなど,様々な前提条件を仮定して,計
算をした結果のうえに構築されているものなのであるから,個々の被爆者の申
請疾病についての放射線起因性を判断するについて,個々の被爆者の実際の被
爆線量を推定するに当たり,DS86による数値自体を,高度に正確性のある
精密なものであるとして取り扱うことには問題があるのであって,様々な前提
条件を仮定したうえでの,その意味で誤差があることを当然の前提として,科
学的,物理的法則を適用した計算値であるとして取り扱い,その際,原爆症認
定の申請をした被爆者に急性症状が認められる場合には,原爆放射線の影響を
受けたことの根拠の一つとして考慮し,その具体的症状,すなわち,その症状
の具体的な内容や程度,発症の時期や症状が継続した期間等を把握し,放射線
被爆治療に係る急性症状の知見等をも参考にしつつ,これを判断することが相
当である。
第5原因確率について
1旧審査の方針における原因確率の概要と問題の所在
旧審査の方針では,前記のとおり,DS86に基づく被爆者の被爆線量の評
価を行いこれを前提として,疾病等発生が放射線によって確率的に影響を受け
るものについては,疫学的知見によって得た原因確率(寄与リスク)を算定し,
被爆者について,該当する原因確率を目安に原爆症における放射線起因性の判
断を行うこととした(ただし,白内障についてはしきい値を目安とする。)。
したがって,審査の方針に基づく放射線起因性の判断の相当性を判断するた
めには,原因確率について,その相当性を判断する必要がある。もっとも,1
審原告P1の申請疾病である白内障については,原因確率が適用される疾病で
はなく,1審原告P4の申請疾病であるIPMNについても,旧審査の方針で
は原因確率が定められていない疾病であるから,個別の1審原告らの申請疾病
の放射線起因性を判断するに当たっては,当該疾病についての原因確率を問題
とする余地はなくなっているようにも考えられるが,後述するように,放射線
白内障にはしきい値が存在しないとの知見が示されており,放射線起因性判断
のあり方とも重要な関係があるので,以下,旧審査の方針における原因確率の
考え方とその合理性について検討することとする。
(1)旧審査の方針における原因確率の概要
前記法令の定め等のとおり,旧審査の方針は,原因確率について,申請疾
病等及び申請者の性別の区分に応じ,それぞれ定める旧審査の方針別表1-
1ないし別表8(原因確率表)に定める率とするものとしている。そして,
旧審査の方針は,原因確率の当てはめによる申請疾病等の放射線起因性の判
断について,以下のような手順で行うものとしている。すなわち,
ア申請疾病等が確率的影響に係る疾病等である場合,その放射線起因性の
判断に当たっては,原因確率を目安として,当該申請疾病等の放射線起因
性に係る高度の蓋然性の有無を判断する。
イこの場合にあっては,当該申請疾病等に関する原因確率が,おおむね5
0パーセント以上である場合には,当該申請疾病等の発生に関して原爆放
射線による一定の健康影響の可能性があることを推定し,おおむね10パ
ーセント未満である場合には,当該可能性が低いものと推定する。
ただし,当該判断に当たっては,これらを機械的に適用して判断するも
のではなく,当該申請者の既往歴,環境因子,生活歴等も総合的に勘案し
たうえで,判断を行うものとする。
ウまた,原因確率等が設けられていない疾病等に係る審査に当たっては,
当該疾病等には,放射線起因性に係る肯定的な科学的知見が立証されてい
ないことを留意しつつ,当該申請者に係る被爆線量,既往歴,環境因子,
生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を判断するものとする。
(2)原因確率の算定基準の根拠
前記原因確率表は,広島大学医学部保健学科P51を主任研究者として行
われた2項記載の論文において,被爆者の性別及び疾病ごとに算出した寄与
リスクに基づいて作成された表を転用したものである。
2P51らによる「放射線の人体への健康影響評価に関する研究」(平成12
年・以下「P51論文」という。)(乙全7)
(1)研究目的
放影研が調査した寿命調査対象者のがん死亡及びがん発生のデータを基に,
がんによる死亡及びがん発生における原爆放射線被爆の寄与リスクを主要部
位について性及び被爆時年齢別に算出すること,また,がん以外の疾患の死
亡や有病についての寄与リスクについても検討することを目的とするもので
ある。
(2)研究方法
アリスク評価の指標
放射線の人体への影響に関するリスク評価の指標として,相対リスク
(非暴露群に対する暴露群の疾患発生あるいは死亡の比),絶対リスク
(暴露群と非暴露群における疾患発生あるいは死亡の差),寄与リスク
(暴露者中におけるその暴露に起因する疾病などの帰結する割合すなわち,
例えば,暴露群におけるがん死亡者のうち原爆放射線が原因と考えられる
がん死亡者の割合)の3種類がある。このうち,寄与リスクは,絶対リス
クの相対的大きさで表され,相対リスクと絶対リスクの両指標の考え方を
併せ持つものであり,その大きさが0から100パーセントに数値化され
る。したがって,種々の疾患に対する放射線リスクの評価が同じ枠内の数
値として統一的に考えられることから,放射線に起因する死亡者等が占め
る割合としてのリスク評価の指標としては,寄与リスクが最適と考えられ
る。なお,寄与リスクの値は,過剰相対リスク(放射線被爆集団における
絶対リスクから,放射線に被爆しなかった集団における絶対リスクを引い
たもの。)を過剰相対リスクに1を加えたもので除して算定される。
イ寄与リスクを求めた疾患
寄与リスクの算出の対象となった疾患は,寿命調査及び成人健康調査で
放射線被爆と疾病の死亡・発生率(有病率)についての関係が論文発表さ
れているものである。固形がんについては,寄与リスクを求めるに当たっ
て,次の3群に分けた。
(ア)部位別に寄与リスクを求めたがん
寿命調査集団を使った過去の死亡率・発生率の報告で放射線との有意
な関係が一貫して認められ,かつ,部位別に寄与リスクを求めても比較
的信頼性に足りると考えられる部位のがんである胃がん,大腸がん,肺
がん,女性乳がん,甲状腺がん及び白血病。
(イ)原爆放射線に起因性があると思われるが,個別に寄与リスクを求め
ると信頼区間が大きくなると考えられるがんである肝臓がん,皮膚がん
(悪性黒色腫を除く),卵巣がん,尿路系(膀胱を含む)がん,食道が
ん。
(ウ)現在までの報告では,部位別に過剰相対リスクを求めると統計的に
は有意ではないが,原爆放射線被爆との関連が否定できないもので,
(ア)(イ)以外のがん全て。
寄与リスクを求めなかった疾患は,骨髄異形成症候群(最近,被爆との
関連が学会で発表されているが,まだ論文発表されていない。),放射線
白内障(しきい値が求められている。),甲状腺機能低下症(論文発表さ
れているデータから寄与リスクを算出することができない。),過去に論
文発表がない疾患(造血機能障害など)である。
なお,放射線白内障における安全領域のしきい値は,眼の臓器線量で1.
75シーベルト(95パーセント信頼区間1.31ないし2.21シーベ
ルト)である。
ウ寄与リスクを求めた基となった資料
白血病,胃がん,大腸がん及び肺がんについては,放影研が公開してい
る死亡率調査(1950年ないし1990年),甲状腺がんと乳がんは,
発生率調査(1958年ないし1987年,臓器線量からカーマ線量に変
換)のデータを使用した。
副甲状腺機能亢進症は,有病率調査結果から寄与リスクを推定し,線量
は論文で使われている甲状腺線量で求めた。
肝硬変については,がん以外の疾患の死亡率調査から算出し,線量は論
文で使われている結腸線量を使った。
子宮筋腫は成人健康調査集団を対象にした発生率調査から求めた。
エ寄与リスクを求める際の被爆時年齢及び被爆からの経過年数
白血病及び固形がんの放射線に対する過剰死亡及び過剰発生は,性,被
爆時年齢,被爆後の経過年数の影響を受ける。特に白血病については,被
爆後10年をピークにして,その後被爆後年数の経過とともに急激に過剰
相対リスクは低下しており,1981年から1990年のデータに基づき
算出した。固形がんについては,寄与リスクは観察期間の平均を使用した。
性差,被爆時年齢による過剰相対リスクに有意差があるがんについては,
性別,被爆時年齢別に寄与リスクを求めた。
(3)研究の結果
ア白血病,胃がん,大腸がんの死亡,甲状腺がんの発生について,性別,
被爆時年齢,線量別の寄与リスクを求めた(審査の方針の別表1~4の各
1・2と同内容)。
イ乳がんについて,被爆時年齢,線量別の寄与リスクを求めた(審査の方
針の別表5と同内容)。
ウ肺がんの死亡について,被爆時年齢の影響を受けなかったので,性別,
被爆線量別の寄与リスクを求めた(審査の方針の別表6の1・2と同内
容)。
エ肝臓がん,皮膚がん(悪性黒色腫を除く),卵巣がん,尿路系(膀胱を
含む)がん,食道がんについて,この5疾患をまとめて寄与リスクを求め
た(審査の方針の別表7の1・2と同内容)。
オ副甲状腺機能亢進症の有病率調査では,被爆の影響に性差は認められな
かったので,被爆時年齢と甲状腺臓器線量別に寄与リスクを求めた(審査
の方針の別表8と同内容)。
カ肝硬変による死亡については,被爆の影響に性差,被爆時年齢による差
は認められなかったので,被爆線量ごとの寄与リスクを求めた(最小20
センチグレイの場合に3.5パーセント,最大300センチグレイの場合
に35.1パーセント)。ただし審査の方針には採用されなかった。
キ子宮筋腫の有病率については,放射線の影響に被爆時年齢による差は認
められなかったので,被爆線量ごとの寄与リスクを求めた(最小5センチ
グレイの場合に2.2パーセント,最大150センチグレイの場合に40.
8パーセント)。ただし,審査の方針には採用されなかった。
(4)考察
この研究は,これまでの原爆放射線の健康に対する影響に関する研究結果
を踏まえて,現時点における最新の科学的知見から,がん及びがん以外の疾
患の寄与リスクを求めたものであり,前記の研究は現在も継続されているの
で,今後の研究によって,さらに新しい知見が発表されると考えられる。今
後とも,その時点における最も信頼性のあるリスク評価が必要である。
3放影研における疫学調査の概要と調査内容について
(1)放影研の疫学調査の概要(甲全145,乙全10)
ア放影研の沿革
放影研は,日本国民法に基づき,日本国の外務・厚生省(当時)が所管
し,また日米両国政府が共同で管理運営する公益法人として昭和50年4
月に発足した。その前身は,米国学士院(NAS)が設立したABCCで
あり,翌年には厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加して,共同して
大規模な被爆者の健康調査に着手した。昭和30年,後記のとおりのフラ
ンシス委員会による全面的な再検討が行われ,その結果,研究計画が大幅
に見直されて今日も続けられている集団調査の基礎を築いた。
イ放影研の疫学調査における調査集団について
(ア)概要
ABCCは,昭和30年のフランシス委員会の勧告を受けて,昭和2
5年の国勢調査時に行われた被爆者調査から約28万人の日本人被爆者
が確認され,このうちの約20万人(昭和25年当時広島・長崎のいず
れかに居住していた者)を基本群として,以後の被爆者調査は,この基
本群から選ばれた副次集団について行われた。寿命調査(LifeSpanSt
udy,LSS)では,厚生省・法務省の公式許可を得て,国内である限り,
死亡した地域に関わりなく死因に関する情報を入手し,がんの罹患率に
関しては,地域の腫瘍・組織登録からの情報により調査が行われた。成
人健康調査(AdultHealthStudy,AHS)については,疾患の発生と
健康状態に関する追加情報もある。
(イ)寿命調査
当初のLSS集団は,基本群のうち,本籍が広島か長崎にあり,昭和
25年に両市のどちらかに在住し,効果的な追跡調査を可能にするため
に設けられた基準を満たす者の中から選ばれ,次の4群に分類される。
①爆心地から2000メートル以内で被爆した中心グループ(近距離被爆
者)。
②爆心地から2000ないし2500メートルで被爆した者。
③中心グループと年齢・性が一致するように選ばれた,爆心地から25
00ないし10000メートルで被爆した者(遠距離被爆者)。
④中心グループと年齢・性が一致するように選ばれた,1950年代前
半に広島・長崎に在住していたが原爆投下時は市内にいなかった者
(市内不在者。原爆投下後,60日以内の入市者とそれ以降の入市者も
含まれている。)。
当初9万9393人から構成されていたLSS集団は,順次拡大され,
今日では12万0321人となっている。この集団には,爆心地から1
000メートル以内で被爆した9万3741人と原爆時市内不在者2万
6580人が含まれている。これらの人々のうち,8万6632人につ
いては被爆線量推定値が得られているが,7109人(このうち,95
パーセントは2500メートル以内で被爆している。)については,建
物や地形による遮蔽計算の複雑さや不十分な遮蔽データのため線量計算
はできていない。平成11年12月現在,LSS集団には,基本群に入
っている2500メートル以内の被爆者がほぼ全員含まれるが,近距離
被爆者,昭和25年から35年ころまでに転出した被爆者,国勢調査に
無回答の被爆者,原爆時に両市に駐屯中の日本軍部隊及び外国人は除外
されている。以上のことから,爆心地から2500メートル以内の被爆
者の約半数が調査の対象となっている。
(ウ)成人健康調査
この集団は,2年に1度の健康診断を通じて疾病の発生率と健康上の
情報を収集することを目的として設定された。成人健康調査によって,
全ての疾患と生理的疾病を診断し,がんやその他の疾患の発生と被爆線
量との関係を研究し,LSS集団の死亡率やがんの発生率についての追
跡調査では得られない臨床上あるいは疫学上の情報を入手できる。昭和
32年の設立当時,AHS集団は当初のLSS集団から選ばれた1万9
961人からなり,中心グループは,昭和25年当時生存していた,爆
心地から2000メートル以内で被爆し,急性放射線症状を示した49
93人全員で構成された。この他に,都市・年齢・性をこの中心グルー
プと一致させた次の3つのグループ(いずれも中心グループとほぼ同
数)が含まれる。
①爆心地から2000メートル以内で被爆し,急性症状を示さなかった
者。
②広島では爆心地から3000ないし3500メートル,長崎では30
00ないし4000メートルの距離で被爆した者。
③原爆時にいずれの都市にもいなかった者からなるグループ。
昭和52年に,高線量被爆者の減少を懸念して,新たに次の3つのグ
ループを加えAHS集団を拡大し,合計2万3418人とした。すな
わち,
④LSS集団のうち,昭和40年暫定推定放射線量が1グレイ以上で
ある2436人の被爆者全員。
⑤これらの人と年齢及び性を一致させた同数の遠距離被爆者。
⑥胎内被爆者1021人。
AHS集団設定後40年を経た平成11年現在5000人以上が生存
しており,その70パーセント以上の人々が今も成人健康調査プログラ
ムに参加している。なお,原爆投下時市内不在者に関する積極的な追跡
調査は,1980年(昭和55年)年代に終了した。
(2)疫学研究の方法の概要(甲全65,66,乙全52,53)
アコホート研究の概要
コホート研究とは,何らかの共通特性(同年生まれ,同一職業,同一の
暴露要因など)をもった集団を追跡し,その集団からどのような疾病や死
亡が起こるかを観察し,要因と疾病との関連を明らかにしようとする研究
であり,疾病の要因と考えられている情報に基づいて,調査集団を設定し,
その後の疾病や死亡の起こり方が,要因の有無やその要因への暴露の程度
によって,どのように異なるのかを観察する研究である。コホート研究の
長所としては,分母集団の死亡率や罹患率が直接測定でき,相対危険も算
出することができること,暴露要因の影響を,単一の疾病についてだけで
なく,複数の疾病について同時に観察することができることにあり,短所
としては,調査集団設定時に調査された要因のみについてしか,その健康
影響を測定し得ないこと,他の疫学調査に比べて設定する調査集団を大規
模にしなければならず,少なくとも数千人ないし数万人の調査集団を設定
し,長期にわたり追跡しなければならないため,調査期間と調査費用が膨
大になることがある。コホート研究における解析の手法としては,調査集
団を外部集団と比較する外部比較法と,調査集団内部で暴露要因の程度に
よって分けられたグループ内で比較する内部比較法がある。外部比較法は,
比較的情報が入手しやすい全国の暦年別,性別及び年齢別の死亡率(罹患
率)が用いられることが多い。外部比較法においては,標準集団として用
いた集団が調査しようとする要因以外に質的に異なっていないか,すなわ
ち,2つの集団の比較性が保たれているかどうかという点について十分な
検討が必要である。一方,内部比較法は,調査集団内部において,暴露の
程度に応じてグループ分けを行い,暴露が高い群から発生した死亡罹患と,
非暴露群または低暴露群から発生した死亡罹患の違いをみるものであって,
観察人,観察年数及び疾病や死亡の発生数が十分であれば,それぞれの群
から起こった累積死亡率(罹患率)を算出し,直接比較することができ,
その比が相対危険として算出される。
リスク評価に関しては次の点が問題となる。すなわち,比較的高いレベ
ルの暴露から得られた健康障害に関する用量・反応関係が,低いレベルの
暴露においても適用できるのかどうかである。高レベル域での用量・反応
直線を,そのまま低レベルに伸ばしてよいとは限らず,暴露レベルが比較
的高い領域で得られた用量・反応関係が,低い暴露レベル域で再現できる
か否かを疫学的に検討することは必ずしも容易ではない。多数の対照者の
調査が必要なばかりではなく,相対的に他の危険因子の影響が大きくなる
などの問題も生ずる。多くの場合,単独の研究で得られたデータのリスク
解析結果では不十分で,幾つかの異なる研究から得られたデータをプール
して解析するなどする必要がある。
イポアソン回帰分析
内部比較法の一手法として,対照群を設定せず,回帰分析を用いて,要
因暴露に応じた用量・反応関係を求める方法がある。回帰分析とは,予測
したい変数である目的変数(死亡率や罹患率など)と目的変数に影響を与
える変数である独立変数(要因)との関係式(回帰式)を求め,目的変数
の予測を行い,独立変数の影響の大きさを評価することができる。そのう
ち,ポアソン回帰分析は,目的変数がポアソン分布(ある事象が万一起こ
るとすれば,突発的に起こるが,普段は滅多に起こらないという場合にお
ける一定時間当たりの事象発生回数を表す分布)に従うことを仮定して行
う回帰分析法である。
ウフランシス委員会の勧告(甲全16)
昭和30年11月,「ABCC研究企画の評価に関する特別委員会の報
告書」(フランシス報告)によると,以下のとおりの勧告がなされている。
すなわち,死亡診断書調査の主目的は,被爆後5年以上経過して,全般的
死亡率の増加として現れるような,全身性の生理学的影響,または幾つか
の特定の影響が,広島と長崎の原爆放射線の照射を受けた者に起こるか否
かを研究することにあり,このような影響があれば,その影響は死亡統計
によって計測できるはずである。ところで,放射線の後影響と死亡との間
に関係があるとすれば,照射程度がいろいろ異なった群(症状のある近距
離被爆者群,症状のない近距離被爆者群,遠距離被爆者群)を調査の対象
としなければならない。そこで,これらの調査は,被爆集団のみによって
調査ができるのか,あるいは非被爆集団も含める必要があるかという問題
を慎重に検討したところ,被爆群内の放射線の影響の強弱を調べるだけで
はなく,幾らかの非被爆群も調査の対象に含めることが望ましいと考えら
れる。被爆群内の影響に勾配が認められたとしても,被爆線量の最も少な
い群における放射線の影響は,非被爆者と比較しなければ推定はできない
し,また,影響に勾配が認められない場合は,被爆線量の最も少ない群に
も直接被爆または降下物による放射線の障害があったかどうかの決定がで
きないからである。したがって,非被爆者群を調査の対象に含めることを
勧告する。最も適切な非被爆者群は,昭和25年10月1日現在,広島市
及び長崎市に居住していた者である。そして,戦時中を海外で過ごした転
入者及び原爆後1か月以内に入市した者(したがって,多少,残留放射線
を受けたと思われる者)を非被爆者群から除くべきかどうか検討したが,
両者を観察から除外することはせずに,資料が得られたときに差異があれ
ば,その差異について調査を行うことに決定した。
(3)放影研等による調査結果の概要
(寿命調査)
アP52らによる「予研・ABCC寿命調査第3報1950年10月-1
960年9月の死亡率」(昭和38年)(甲全41)
寿命調査集団の全サンプル99393件を解析の対象として,昭和33
年から昭和35年の間の死亡率を検討したもので,以下の記載がある。
長崎至近距離被爆者には,広島至近距離被爆者より,遮蔽された者が多
い。この解析で扱った死亡数は合計8614であるところ,最も多い死因
は,中枢神経系の血管損傷と悪性新生物である。原爆時市内にいなかった
者は,どの距離区間の被爆者よりも低率な死亡比を観察した。爆心地から
1399メートル以内の被爆者は,これより遠距離の被爆者より,全死因,
全病死因,結核(広島男子),白血病とその他の悪性新生物の標準化死亡
比が高率であることが分かった。自然死による死亡者あるいは白血病を除
く悪性新生物で死亡したものが受けたと考えられるT57D線量は,最近
の戸籍照合で生存していた被爆者の受けた線量より有意に高率であると分
かった。被爆者の地図上の座標別に標準化死亡比をみると,死亡比の大小
の一部に,少なくともその地域の社会階級の影響を受けていることが分か
った。それにもかかわらず,広島では爆心地を含む地域で被爆した者の標
準化死亡比は常に高く,放射線の影響が疑われる。
イP53外らによる「予研-ABCC寿命調査第6報原爆被爆者におけ
る死亡率1950-70年」(昭和46年)(乙全47)
T65D線量を用いた解析(ただし,爆心地からの距離を用いた解析は
一切行われていない。)が行われており,以下の記載がある。
(ア)高線量被爆群における疾病による死亡率は,低線量被爆群及び市内
にいなかった群のそれよりも高い。
(イ)死亡率の増加は,白血病について特に顕著であって,放射線の影響
は推定線量が10ないし49ラドであった者にも存在しているようであ
った。
(ウ)白血病を除くがんによる死亡率も高線量被爆群において上昇を示し
たが,確実に上昇の認められたのは200ラドを越える線量を受けた群
のみであった。新生物以外の死因による死亡率には軽微な増加が観察さ
れたが,全体としては,脳卒中,循環器系の疾患及び結核を含むその他
の死因に対しては,放射線の影響はほとんどみられず,死亡率に対する
放射線の影響は,主として白血病と悪性腫瘍及び良性または性質不詳の
新生物などに限定されているようである。特定部位のがんに対する放射
線の影響には差異が認められた。特に子宮頚がん,子宮体部がん及び胃
がんには,他の部位のがんに比べて,放射線の影響が少ないようであっ
た。ただし,サンプル変動が相対的に大きいので,これらの差異が正確
であるとはいえない。
(エ)被爆時年齢が10歳未満であった小児は,白血病及びその他のがん
について,それよりも高い年齢で被爆した者に比較して強い影響を受け
ている。
(オ)高線量群における白血病の死亡率は,観察した20年間にわたって
一貫して減少してはいるが,最後の期間である昭和40(1965)年
から昭和45(1970)年においてもなお一般の水準までには下降し
ていない。しかし,その他のがんの頻度は,この観察期間中上昇し,最
後の期間である昭和40年から昭和45年においてはその上昇が顕著で,
白血病を除くがんの誘発に必要な潜伏期は,被爆者が受けた放射線量の
範囲内ではおおよそ20年以上であろうと思われる。
(カ)原爆後30日以内に入市した「早期入市群」の死亡率が極端に低い
値を示した。早期入市者は,この20年間一貫して低い死亡率を維持し
てきた。この傾向の例外は,白血病を除く悪性新生物による死亡率であ
り,早期入市者のがん死亡率は,昭和35(1960)年までに後期入
市者(原爆後31日以上たって入市した者)のそれに達し,昭和35
(1960)年から昭和45(1970)年の期間にはがんの死亡率に
関しては市内にいなかった群と低線量被爆者群との間に差異はみられな
かった。
ウP53外らによる「予研ABCC寿命調査第7報原爆被爆者の死亡率
1970-72年および1950-72年」(昭和48年)(甲全39,
乙全48)
引き続き,対象者に対する観察と解析が行われ,以下の記載がある。
追加観察期間においては,重要な新しい所見は認められず,以前の所見
を補強するものであった。結核,脳血管系の疾病及び心臓血管系の疾患な
どのその他の要因については,放射線の影響は,ほとんど認められなかっ
た。現在までの調査では,死亡率に対する放射線の影響は,白血病とその
他の悪性新生物及び良性または性質不詳の新生物などに限定されているよ
うである。白血病による死亡率は急速に下降しているが,現在でも高い値
を示しており,胃がんを除く消化器のがんによる死亡率が高線量被爆群に
高い。なお,本調査では,放射線被爆の影響を確認するために,原爆時に
広島及び長崎にいなかった一群の人々も調査の対象に含まれている。
エP53外らによる「寿命調査第8報原爆被爆者における死亡率,19
50-74年」(昭和52年)(乙全49)
引き続き,対象者に対する観察と解析が行われ,以下の記載がある。
がん以外の疾患では放射線の死亡に及ぼす後影響がみられるという証拠
はなく,電離放射線は全ての疾患による死亡率を高めるものであるとする
加齢促進の仮説には疑問が投げかけられた。また,それまでに調査報告で
認められた影響に胃がん,食道がん,泌尿器がん及びリンパ腫も追加すべ
きであるとの示唆が得られ,また,大腸,肝臓及び他の器官にも放射線の
発がん効果がみられる可能性がある。
白血病誘発効果は昭和45年から昭和49年の調査でもまだ認められ,
白血病以外の悪性新生物全体の絶対危険度の平均も上昇を続け,昭和46
年から昭和49年の調査では,100万人年ラド当たりの死亡数は4.2
にまで達した。現在放射線の影響が明確にあるとされているほとんどの部
位のがんでは,死亡率の増加が統計的に証明されるまでの最小潜伏期間は,
がんの種類及び原爆時年齢によって変わるようである。また,白血病誘発
効果は最近まで,死亡率に対する後影響を支配してきたが,現在では白血
病以外のがんへ放射線影響の方が大きくなってきている。白血病以外の全
てのがんに関する絶対危険度の継続的増加に特に関連があると思われるが
んの部位は,呼吸器及び消化器のがんであった。発生率に関する資料によ
れば,乳がんも増加しつつあるが,これはまだ死亡率の解析にはみられな
い。また,一般に全観察期間を通じて平均した絶対危険度は原爆時年齢と
ともに増加し,原爆時年齢は,発がんに重要な役割を演ずるが,このこと
は対象集団の最少年齢が主ながんの発生する年齢に達するまでは完全には
解明できない。前報に続き,早期入市者の白血病死亡率が高いことの確認
はされず,早期入市者及び後期入市者の死亡率に重要な差異があるともい
えない。
オP53らによる「寿命調査第9報第2部原爆被爆者における癌以外の死
因による死亡率,1950-78年」(昭和56年)(甲全111の16,
乙全28)
引き続き,対象者に対する観察と解析が行われ,以下の記載がある。
(ア)がん以外の死因による累積死亡率は,両市,男女及び5つの被爆時
年齢群のいずれにおいても,放射線量に伴う増加は認められなかった。
したがって,現在までのところ放射線による非特異的な加齢促進は認め
られない。
(イ)昭和25年以前の死亡の除外による偏りの大ききを求めるために,
3つの補足的死亡率調査(昭和21年の広島被爆者調査,昭和20年の
長崎被爆者調査及び被爆時に妊娠していた女性の調査結果)を使用して,
寿命調査の調査開始(昭和25年)以前の死亡率を再解析した結果,こ
の偏りが1950年以後に調査対象に認められた放射線影響の解釈に重
大な影響を及ぼすとは考えられない。
(ウ)極めて少ない量の誘導放射線を受けたと思われる早期入市者におい
ては,後期入市者及び0ラド被爆群よりも死亡率が引き続き低い。この
調査対象期間中の早期入市者には,白血病またはその他の悪性腫瘍によ
る死亡の増加は認められていない。
カP53らによる「寿命調査第10報第1部広島・長崎の原爆被爆者に
おける癌死亡,1950-82年」(昭和61年)(乙全12)
上記報告書には,以下の記載がある。
白血病,肺がん,女性乳がん,胃がん,結腸がん,食道がん,膀胱がん及び多
発性骨髄腫について有意な線量反応が認められたほか,肝臓及び肝内胆管,卵巣
及びその他子宮附属器のがんについては,有意な放射線の影響が示唆されたが,
胆嚢及び前立腺のがんにおける正の線量反応は有意ではなかった。しかし,診断
上の困難性及び放射線影響の薄弱性から肝臓及び卵巣のがんに対する放射線影響
は明白な根拠によるものとはいえない。この解析の基となった死亡診断書におけ
る肝臓,胆嚢及び胆管のがんの診断は極めて不正確である。
白血病以外のがんについても,放射線誘発がん死亡に対する被爆時年齢
と死亡時の影響には統計的に有意な相互作用が認められ,特に,被爆時低
年齢群に当初認められた高い相対危険度が,時の経過に伴い減少したのに
対し,被爆時高年齢群では,当初,相対危険度は低いが,その後,増加傾
向を示した。これは,白血病以外の全部位のがんを合計した場合に,統計
的に有意であったが,胃がん,肺がん及び女性乳がんに同様の傾向が認め
られた。全被爆年齢群において,白血病を除く,放射線誘発がん死亡の絶
対危険度は経時的に増加している。
キP53らによる「寿命調査第11報第2部新線量(DS86)におけ
る1950-85年の癌死亡率」(昭和63年)(甲全38)
本報告から,これまでのT65Dによる線量推定から,DS86による
線量推定に変更され,以下の記載がある。
放射線量の増加とともに死亡率が有意に高くなるのは,従前の調査結果
と同様に白血病,食道がん,胃がん,結腸がん,肺がん,乳がん,卵巣が
ん,膀胱がん及び多発性骨髄腫であり,有意の上昇がみられないのは,直
腸がん,胆嚢がん,膵臓がん,子宮がん,前立腺がん及び悪性リンパ腫で
あるとされ,さらに骨がん,咽頭がん,鼻がん,喉頭がん及び黒色腫以外
の皮膚がんと放射線との関係も調べられているが,いずれも有意な上昇は
認められなかったとされている。また,脳腫瘍以外の中枢神経系の腫瘍に
ついては上昇傾向を示したが,脳腫瘍については,その傾向は観察されな
かったとし,放射線誘発がんの経年変化のパターンを明らかにするには,
さらに調査が必要であろう。
また,低線量域(0.50グレイ以下)の線量反応関係の検討もされて
いるが,白血病を除いて低線量域と高線量域での回帰係数には有意な差は
認められず,白血病では,0.5グレイ未満での回帰係数は0.5グレイ
以上でのそれよりも低かった。
クP53らによる「寿命調査第11報第3部改訂被爆線量(DS86)
に基づく癌以外の死因による死亡率,1950-1985年」(平成5
年)(乙全73)
この報告では,以下の記載がある。
限られた根拠しかないが,高線量域(2または3グレイ以上)において
がん以外の疾患による死亡リスクの過剰があるように思われ,がん以外の
疾患による死亡率のこのような増加は,一般的に昭和40年以降で若年被
爆群(被爆時年齢40歳以下)において認められ,若年被爆者の感受性が
高いことを示唆している。死因別にみると,循環器及び消化器系疾患につ
いて,高線量域(2グレイ以上)で相対リスクの過剰が認められるが,こ
の相対リスクはがんの場合よりもはるかに小さい。ただし,高線量を被爆
した被爆者において,がん以外の死因による死亡が増加しているという傾
向を確認し,さらに,そのような死亡増加が寿命短縮をもたらしているか
どうかを明らかにするには,寿命調査対象の部分集団(成人健康調査対
象)について検診で確認される疾患及び寿命調査対象の死亡率に関して追
跡調査をさらに行うことが必要である。
(成人健康調査)
P54らによる「成人健康調査第7報原爆被爆者における癌以外の疾患の
発生率1958-86年(第1-14診察周期)」(平成6年)(乙全
75)
P51論文の基礎資料となった報告書であり,昭和33年から昭和61
年までに収集された成人健康調査集団の長期データを用いて,悪性腫瘍を
除く19の疾患の発生率と電離放射線被爆との関係が初めて調査された報
告であって,以下の記載がある。
子宮筋腫,慢性肝炎及び肝硬変,また甲状腺がんを除く甲状腺所見が一
つ以上あることという大まかな定義に基づく甲状腺疾患に,統計的に有意
な過剰リスクが認られる。子宮筋腫についての所見は,良性腫瘍が放射線
被爆により発生する可能性を示す新たな証拠となるものであり,肝臓の放
射線感受性を示す今回の結果は,重度被爆群において肝硬変による死亡が
増加するという最近の寿命調査の報告を裏付けるものである。甲状腺の非
悪性疾患に被爆時年齢の影響が認められ,被爆時年齢が20歳以下でリス
クは上昇し,20歳以上ではリスクの上昇は認められていない。心臓血管
系の疾患については,いずれにも有意な線量反応関係は認められなかった
が,近年,若年被爆者では心筋梗塞の発生が増加している。成人健康調査
において心筋梗塞と確認された症例は77例に限られ,この中には致死症
例は含まれておらず,今回有意な結果が得られなかったのは症例数の不足
のためかもしれない。
また,この調査は,昭和33年から昭和61年に受診者の白内障の新た
な発生が放射線量に伴って増加していないことを示唆しているとされてい
る。
(がん発生率調査)
P55らによる「原爆被爆者における癌発生率。第2部:充実性腫瘍,1
958-1987年」(平成7年)(甲110の10,乙全9)
P51論文の基礎資料となった報告書であり,以下の記載がある。
死亡に関するこれまでの寿命調査所見と同様に,全充実性腫瘍について
統計学的に有意な過剰リスクが立証された。胃,結腸,肺,乳房,卵巣,
膀胱及び甲状腺のがんにおいて,放射線と有意な関連性が認められ,20
歳以下で被爆した群において,神経組織(脳を除く)腫瘍の増加傾向があ
った。今回初めて寿命調査集団で放射線と肝臓及び黒色腫を除く皮膚のが
ん罹患との関連性がみられ,唾液腺腫瘍への原爆放射線所見を一層裏付け
た。口腔及び咽頭,食道,直腸,胆嚢,膵臓,喉頭,子宮頚,子宮体,前
立腺,腎臓及び腎盂のがんには放射線の有意な影響はみられず,被爆時年
齢の増加とともに相対リスクが減少することが示されている。そして,原
爆被爆者の今後の解析においてはがんの死亡と罹患の両方に焦点を当てる
べきである。
(死亡率調査)
アP56らによる「原爆被爆者の死亡率調査第12報,第1部癌:195
0-1990年」(平成8年)(乙全8)
P51論文の基礎資料となった報告書であり,以下の記載がある。
部位・性別リスク推定値で,胃,結腸,肺,乳房,卵巣,膀胱及び甲状
腺に加えて肝臓がんに有意な過剰相対リスクが認められる。
イP57らによる「原爆被爆者の死亡率調査第12報,第2部がん以外の
死亡率:1950-1990年」(平成11年・以下「P57論文」とも
いう。)(乙全74)
P51論文の基礎資料となった報告書であり,以下の記載がある。
放射線量とともにがん以外の疾患の死亡率が統計的に有意に増加すると
いう前回の解析結果を強化するもので,有意な増加は,循環器疾患(心臓
病,脳卒中),消化器疾患(肝硬変が含まれている。),呼吸器疾患及び
造血器系疾患に観察されている。1シーベルトの放射線に被爆した人の死
亡率の増加は,約10パーセントで,がんと比べるとかなり小さいものと
なっているが,今回のデータからはっきりした線量反応曲線の形を示すこ
とはできなかった。また,有意な線量反応関係は,血液疾患による死亡に
も認められ,過剰相対リスクは固形がんの数倍であった。
ウP33ら「原爆被爆者の死亡率調査第13報固形がんおよびがん以外の
疾患による死亡率:1950-1997年」(平成15年・「P33論
文」ともいう。)(甲110の11の1)
P51論文発表後のものであり,以下の記載がある。
(ア)放射線に関連した固形がんの過剰率は調査期間中を通して増加した
が,新しい所見として,相対リスクは到達年齢とともに減少することが
認められた。子供のときに被爆した人において相対リスクは最も高い。
典型的なリスク値としては,被爆時年齢が30歳の人の固形がんリスク
は,70歳で1シーベルト当たり47パーセント上昇した。
(イ)がん以外の疾患の死亡率が過去30年間の追跡調査期間中,1シー
ベルト当たり約14パーセントの割合でリスクが増加しており,依然と
して統計的に確かな証拠が示された。心臓疾患,脳卒中,消化器官及び
呼吸器官の疾患に関して,統計的に有意な増加がみられた。
(ウ)約0.5シーベルト未満の線量については,放射線影響の直接的影
響は認めらなかった。
(エ)がん以外の疾患の相対リスクでは,年齢,被爆時年齢及び性につい
て,統計的に有意な変異はなく,これらの影響の推定値はがんの場合と
同程度であった。
4放影研の疫学調査に関する指摘等について
(1)P58による「原因確率に関する意見書」の指摘(平成17年10月)
(甲全64)
P58は,前記意見書において,以下のとおり指摘している。
ア放影研の疫学調査
放影研の疫学調査は,世界史上初の原子爆弾投下による人体被害の実相
を,膨大なデータの積み重ねによって明らかにした貴重な調査研究である
ことは確かであるが,研究の設計に関して,対照群の設定上の問題,残留
放射線の影響を無視するなど,被爆線量の推定上の問題,被爆後5年間な
いし13年間のデータ欠落に起因する問題があることから,被爆者が受け
た原爆や原爆放射線の影響を捉えられず,また,リスクの大きさを正確に
推定することができないという欠点をもったものである。したがって,放
影研の疫学調査の結果を機械的に用いることには慎重でなければならない。
すなわち,
(ア)対照群の設定上の問題
原因確率算出の根拠となった寿命調査第12報等によれば,放影研で
は,リスクの分析において,対照群を設定していない。放影研は,相対
リスクや,これを基礎とする指標を算出するうえで,基準となる非暴露
群の罹患率等について,実際に調査したデータを使う代わりに,暴露群
について回帰分析を行い,得られた回帰式から想定上の0線量における
罹患率を推定し,バックグラウンドリスクとしている。放影研では,広
島,長崎に居住している住民を比較対照群としているが,両都市の原爆
では,広い地域の全ての住民に被爆があり,遠距離被爆者などについて
も残留放射線のような直爆放射線以外の放射線の被爆を様々な程度で受
けていることを考慮すると,このようなものを対照群に設定することに
は当然問題がある。適当な対照群が設定されなかった場合,暴露群での
線量反応関係が正しく捉えられているのであれば,放影研が採用したよ
うな対照群の設定をすることも一つの方法であると考えられるが,以下
に述べるとおり,暴露群での線量反応関係が正しく捉えられていないか
ら,正しい推定ができるとは考えられない。また,比較的高いレベルの
放射線量の暴露から得られた健康障害に関する用量(線量)反応関係が,
より低いレベルの放射線量の暴露においても適用できるのかという問題
が残る。
さらに,残留放射線を含めた放射線被爆の影響を調べようとする場合,
残留放射線の被爆を受けていない人々を対照群にする必要があるところ,
放影研ではこのような調査がされておらず,対照群の設定に問題がある。
(イ)被爆線量の推定上の問題
原爆被爆者の放射線被爆の形態としては,初期放射線による外部被爆,
放射性降下物や誘導放射化物質からの外部被爆及び内部被爆の形態があ
る。しかるに,放影研の疫学調査では,原爆放射線のうち,初期放射線
のみを暴露要因として評価し,放射性降下物や誘導放射化物質など残留
放射線は暴露要因として評価されていないため,残留放射線による被爆
の影響を捉えることができない。仮に,初期放射線と残留放射線とを別
々の要因として,初期放射線の影響をみようとした場合であっても,観
察対象者の残留放射線の暴露量が評価されていない場合は,残留放射線
の交絡を修正して,正しい関連を導くことはできない。
したがって,放影研の疫学調査では,原爆放射線全体の影響が捉えら
れていないことになるから,暴露群における線量反応関係が正しく捉え
られていないこととなる。
(ウ)データ欠落に起因する問題
放影研の疫学調査においては,寿命調査については昭和25年,成人
健康調査については昭和33年までに,それぞれ死亡した放射線感受性
が強いと思われる被爆者の調査がなされていない。一般に,疫学調査開
始時点が最短潜伏期間よりも後に設定されると,感受性の高い人達や早
期に発症した人達への影響を見落とすことになるし,放射線被爆から疾
病の発症までの潜伏期が短いものの評価については,観察開始の遅れを
考慮する必要があり,逆に,観察開始時点が早すぎても,影響が発現し
ない時期を観察期間に繰り入れることになる点を考慮すべきである。
イ原因確率を原爆症認定基準に用いることの問題点について
寄与リスクとは,暴露群全体が受けたリスクの大きさを,暴露群の罹患
率などの影響のうち,当該要因の暴露がなかったら,影響が発現しなかっ
たであろう部分の大きさを表現したものであるが,暴露群に属する個々の
人が,暴露を受けたために発現した人なのか,あるいは暴露を受けなくと
も発現した人なのかを特定することはできないのであって,このことは,
寄与リスクの大小に関係なく当てはまる。したがって,寄与リスクが小さ
いからといって,当該要因が当該集団に属する特定の個人の発症原因を構
成していないとして,寄与リスクの小さい集団に属する全員の放射線起因
性を否定するのは誤りである。
疾病の発症に関わる要因は多数あり,相互に関連しながら,相乗あるい
は相加,相殺効果を示しながら,多くの要因が総体として疾病の発症に作
用している。ある個人が新たな要因に暴露されたとき,以前からもってい
た要因との間に新たな関係が作られ,疾病の発生に関与することになるの
であって,新たに負荷された要因が,以前からあった要因と無関係に,独
自にその個体に関わって,ある疾病を発症させるかどうかを決定するとい
うことはない。ところが,旧審査の方針に用いられている原因確率は,あ
る要因が他の要因と独立して,個々人の疾病の発症に作用し,当該疾病を
発症させた確率とされている。しかしながら,前記のような疾病の多要因
性にかんがみれば,このような原因確率という概念自体疑問である。
以上のとおり,ある集団の寄与リスクの大小のみで,その集団に属する
特定個人の発症原因を特定することができない以上,寄与リスク(原因確
率)の大きさをもって,個人に発症した疾病の放射線起因性を否定するた
めの判断基準とすることは誤っている。
そうすると,個々人に発生した疾病の放射線起因性の判断に当たっては,
放影研の疫学調査の結果に基づく寄与リスクを転用した原因確率を唯一の
基準とすべきではなく,臨床医学や放射線生物学等をはじめとする幅広い
分野の学問研究の成果の視点を取り入れる必要がある。
(2)P51による「放射線の人体への健康影響評価に関する研究」についての
意見書(平成17年10月)(乙全99,125)の指摘について
P51は,上記意見書において,以下のとおり指摘している。
ア放影研の疫学調査
放影研の疫学調査においては,ポアソン回帰分析による高度な解析を行
い,被爆線量0の場合の死亡(罹患)率の値を推定し,これと任意の暴露
要因量(任意の被爆線量)での死亡(罹患)率の増加割合を推定して,相
対リスクなどを算出している。
また,全くの非暴露群を設定して,これと暴露群との比較を行う方法は,実施
が可能であれば,望ましい方法ではある。しかしながら,このような方法による
場合,暴露群と比較して,非暴露群において,暴露因子以外の要因の分布が異な
ることが少なくなく,結果の解釈に多大な困難さを生じさせることになって,不
都合である。放影研も,過去の疫学調査において,内部比較法とあわせて外部比
較法を用いたことがあったが,非暴露群における暴露因子以外の要因の分布が暴
露群と大きく異なる可能性が指摘されたため,内部比較法を用いることとしたの
である。
放影研の疫学調査集団は,原爆投下から5年経過した昭和25年に実施された
国勢調査に基づいて設定されたため,最初の5年間に放射線に対する感受性の高
い人達が選択的に死亡し,結果的に放射線に対する抵抗性の高い集団を追跡して
いることにより,放影研の調査結果に偏りを来している可能性があることを全く
否定することはできない。しかしながら,放影研では,この点について,幾つか
の検討がなされ,それらの結果によると,選択による大きな偏りが存在する可能
性は低いものと報告されている。なお,現在,寿命調査で得られているリスク推
定は,いわば,被爆者のうち,昭和25年当時生存していた者という集団におけ
るリスク推定となるが,現時点において生存している被爆者は,昭和25年の時
点においても生存していたのだから,原爆放射線のリスク評価として,放影研に
よる疫学調査の結果を応用することについて問題は少ない。
イ原因確率の算定
疫学調査は,集団の傾向をみるものであって,その結果は,平均的なものであ
るから,集団に属する各個人については,必ずしも的確に当てはまるということ
はできない。よって,各個人の放射線起因性について,疫学調査の結果をもって,
厳密に判断するということであれば,問題がある。しかしながら,疫学調査の結
果を,放射線起因性があることの可能性を示唆するものとして,参考資料的に利
用するのはよいと思う。疫学的には,ほんのわずかでも被爆をすれば,それに基
づいてがんが余分に起こってくる可能性はある。
5検討
(1)疾病の原因確率を決定する基礎となったP51論文の寄与リスクは,放影
研の寿命調査及び成人健康調査に基づいて算定され,この寿命調査及び成人
健康調査に用いられた線量評価はDS86に基づくものであるところ,前記
のとおり,DS86は,爆心地から遠距離の地点での線量評価が過小評価と
なっている蓋然性が高いことや,また,内部被爆による線量を無視できるも
のとすることには問題があり,したがって,前記寄与リスクの算出に当たっ
て,初期放射線以外の残留放射線及び内部被爆が考慮されていない点等に問
題があるといえる。また,P51論文における寄与リスク算出には,ポアソ
ン回帰分析の手法が採用されているところ,解析の手法自体がどのように高
度な手法であっても,その基礎となる調査集団における被爆線量に関するデ
ータに前記のような問題点があることからすると,上記手法によって得られ
た数値自体が過小なものとなっている可能性があることを否定し得ない。
さらに,P51論文では,寄与リスクを算定するに当たり,甲状腺がん及
び乳がんについては,発生率調査で得られた数値を用い,白血病,胃,大腸,
肺がんについては死亡率調査で得られた数値を用いている。そこで,P51
論文(乙全7)の表1(がん過剰相対リスク~死亡率調査,発生率調査か
ら)によって,1シーベルト当たりの過剰相対リスクについて,死亡率調査
による場合と発生率調査による場合とを比較してみると,食道がんのように,
死亡率調査によるそれ(0.53)が,発生率調査によるそれ(0.28)
を上回るものもあるが,胃(死亡率調査で0.24,発生率調査で0.3
2),結腸(死亡率調査で0.65,発生率調査で0.72),直腸(死亡
率調査で0.03,発生率調査で0.21),肝臓(死亡率調査で0.29,
発生率調査で0.49),乳がん(死亡率調査で1.41,発生率調査で1.
6)では,いずれも死亡率調査の値より,発生率調査の値が大きく,固形が
ん全体でも,死亡率調査で0.40,発生率調査で0.63となっている。
このように,1シーベルト当たりの過剰相対リスクの値が死亡率調査と発生
率調査とでは,相当程度の開きがあり(おおむね,死亡率調査による値より
発生率調査による値の方が大きい。),寄与リスクが,過剰相対リスク値に
1を足した値を分母とし,過剰相対リスク値を分子とする計算によって表さ
れるのであるから,過剰相対リスク値が大きくなれば,寄与リスク値も大き
くなることは明らかであって,過剰相対リスク値を死亡率調査によるのか,
発生率調査によるのかは,寄与リスク(原因確率)の算定に影響することも
また,明らかである。そうすると,同じがんでありながら,寄与リスクを算
定するに際し,あるがんについては,死亡率調査による値を基に寄与リスク
を算定し,あるがんについては発生率調査による値を基に算定して,これら
を一律のものとして扱って,10パーセントあるいは50パーセントを基準
として,疾病の放射線起因性の有無を判断するということ自体,これを正当
化し得るような特段の事情がない限り,正当なものとは評価し難い。
この点について,1審被告らは,死亡率調査(寿命調査)は,発生率調査
(成人健康調査)に比べて調査期間が長く,調査集団が大きいから疫学的精
度が高いこと,放影研が公開しているデータは,死亡率についてはカーマ線
量,臓器線量の情報,発生率については臓器線量の情報であるところ,多く
の場合,個人の臓器線量を算出するのは困難で,カーマ線量の方が適用しや
すいこと,甲状腺がんと乳がんは予後のよいがんであることを挙げる。
しかしながら,寿命調査の対象者数が成人健康調査の対象者数より大きい
ことは指摘のとおりであるが,P51論文の作成時に公開されていた死亡率
調査のデータは1950年から1990年までの調査結果,発生率調査のそ
れは1958年から1987年までの調査結果であり,疫学的な精度を左右
するほどのデータ量の違いがあるとも直ちにいい難い。次に,カーマ線量を
用いて寄与リスクを求めることが妥当であるとの点については,臓器線量か
らカーマ線量を求めることは可能であり,現に,P51論文でも,発生率調
査の値によって寄与リスクを求めた甲状腺がん,乳がんについては,臓器線
量からカーマ線量に変換をした値を用いているのであるから,これをもって,
前記特段の事情とはいい難い。また,乳がんなどが予後のよいがんであると
いう点については,このようなことが一般的にいえるとしても,予後のよい
がんか,そうでないがんかというのは,どのような基準で区別するのか曖昧
なものであるし,現に乳がんについては,前記のとおり,過剰相対リスクの
値が,死亡率調査による値と発生率調査による値では,相当異なっているの
であるから,前記事情をもって前記特段の事情とはいい難い。よって,1審
被告らの前記主張は採用し難い。
(2)また,前記の放影研の調査結果によると,被爆当時から年月を経過するに
したがって,放射線被爆との関連性を有する疾患の種類が増加している。こ
れをがんについてみると,ごく初期のころの調査(寿命調査第3報)による
と,爆心地から1399メートル以内の被爆者は,これより遠距離の被爆者
より,全死因,全病死因,結核(広島男子),白血病とその他の悪性新生物
の標準化死亡比が高率であることが分かったとしている程度であるが,その
後,がんについては部位別の研究がなされ,同第6報,同第7報では,白血
病,悪性腫瘍及び良性または性質不詳の新生物に放射線影響が認められると
され,子宮がんなどの相対的危険度は有意に高くはないとされていたが,同
第8報では,放射線影響が統計的に有意であると示唆されるがんに,胃がん,
食道がん,泌尿器がん及びリンパ腫が追加され,大腸,肝臓及び他の器官に
も放射線の発がん効果がみられる可能性が指摘された。その後,同第10報
では,白血病,肺がん,女性乳がん,胃がん,結腸がん,食道がん,膀胱が
ん及び多発性骨髄腫について有意な線量反応が認められたほか,肝臓及び肝
内胆管,卵巣及びその他子宮附属器のがんについては,有意な放射線影響が
示唆されたが,胆嚢及び前立腺のがんにおける正の線量反応は有意ではなか
ったとされ,同11報では,放射線量の増加とともに死亡率が有意に高くな
るのは,従前の調査結果と同様の各種がん及び多発性骨髄腫であり,有意の
上昇がみられないのは,直腸がん,胆嚢がん,膵臓がん,子宮がん,前立腺
がん及び悪性リンパ腫であるとされ,さらに骨がん,咽頭がん,鼻がん,喉
頭がん及び黒色腫以外の皮膚がんと放射線との関係も調べられているが,い
ずれも有意な上昇は認められなかったとされている。このようなことは,が
ん以外の疾患についても当てはまるのであり,放影研による長期間にわたる
継続的な研究の結果,線量反応関係が認められる疾病が,がんについては部
位別に,また,がん以外のものについてもしだいに明らかになってきている
経緯が認められ,このような経緯に照らすと,さらに研究が継続されること
によって,新たな知見が得られる可能性が高いことが十分に窺われる。
そして,原爆による放射線被爆による発がんの可能性が一生継続する場合,
コホート研究の趣旨からしても,研究の対象となっている調査集団中に生存
者がいる限り,観察を継続し続けることに意味があるのであって,現在得ら
れているデータも,いわば観察途中のデータにすぎないという側面を有して
いるものである。
そうすると,P51論文が寄与リスクを算定するのに用いた寿命調査及び
がん発生率調査の値は,それがその時点での最新のデータであるとしても,
同論文が作成された平成12年ころのデータに基づくものであり,それ以後
の研究の成果や知見を加味したものではないという限界を有するものである。
また,疫学調査の性質上,その結果が直ちに集団に属する個々人について
当てはまるというものではないことをも考慮すると,P51論文による寄与
リスク(原因確率)を用いて,個々人の疾病についての放射線起因性の有無
を判断するについては,このような限界があることを前提として判断するこ
とが必要であり,P51自身が指摘しているように,個々の申請者の疾病の
放射線起因性の有無を判断するに当たり,原因確率を放射線起因性があるこ
との可能性を示唆するものとして,参考資料として利用することについては
意義があるものといえるとしても,寄与リスク(原因確率)が10パーセン
ト以下であることをもって,ある個人の疾病についての放射線起因性を否定
することは相当とは思われない。
(3)以上によると,旧審査の方針が採用する原因確率については,基礎資料と
して使用された放影研の疫学調査では,その線量評価としてDS86が用い
られていることから,DS86自体の線量評価についての問題点のみならず,
DS86による線量評価には初期放射線以外の残留放射線や内部被爆による
線量が全く考慮されていないうえ,ポアソン回帰解析に用いられたデータ自
体に前記のような線量評価の正確性に問題があって,得られた過剰リスクが
低い値となっている可能性があること,死亡率調査と発生率調査における過
剰リスクには相当程度の差がみられ,概して,死亡率調査のそれより,発生
率調査のそれの方が高い値となっていることから,あるがんについては死亡
率調査の過剰リスクに基づいて寄与リスクを求め,あるがんについては発生
率調査の過剰リスクに基づいて寄与リスクを求めることについての合理性を
認め難く,したがって,現に生存している個々人の放射線起因性に関する判
断をするに際し,死亡率調査の過剰リスクに基づいて算定された寄与リスク
を用いることについても問題がないとはいえないこと,さらに,寄与リスク
(原因確率)は,前記のような事情や,これを求めるための基礎資料として
使用された放影研疫学調査結果自体,観察途中のデータに過ぎず,一定時期
以降の調査結果や知見が加味されていないデータであり,このようなデータ
に基づいて求められた値にすぎないのに,個々人の疾病の放射線起因性の有
無を判断するについて,一律に10パーセントあるいは50パーセントの数
値を基準として評価することは相当とはいないこと,このような点から,そ
の正確性には問題があるといわざるを得ない。
第6放射線起因性の判断基準
1旧審査の方針に基づく放射線起因性の判断の妥当性
旧審査の方針の内容については前判示のとおりであり,その概要は,当該疾
病の放射線起因性を判断するについては,基本的には,線量評価システムであ
るDS86に基づき,被爆者が被爆した市,被爆した際の爆心地からの距離に
よって算出される初期放射線量,被爆した市と,被爆者が爆心地からどの程度
離れた地点で,爆発後どの程度の時間留まったかによって算出される残留放射
線量,被爆者が一定の場所に留まった場合に,一定の数値として決められてい
る放射性降下物による被爆線量の合計値を算出し,このようにして算出された
被爆線量と被爆時の年齢あるいは性別をもとに,疾病ごとに定められている原
因確率を算出して得られる値あるいはしきい値を目安とした推定基準を適用し
て,高度の蓋然性の有無を決めるというものである。その際,推定規定による
判定を機械的にすべきではないとされてはいるが,どのような場合に,どのよ
うな観点を考慮して,機械的判断とならないようにして,高度の蓋然性を判断
したらよいのか,その具体的な判断基準となる要素を指摘した規定はない。
そして,これまでに検討してきたところによれば,旧審査の方針の判断基準
の重要な要素であるDS86による初期放射線量評価,残留放射線評価,原因
確率の定め方等には,それらが一定の優れた科学的知見に基づいて考案された
ものであることは認められるものの,それぞれに限界ないし問題点を抱えたシ
ステムあるいは基準であることが認められるのであるから,その基準のみに基
づいて放射線起因性の判断をすることは相当とは認め難い。前記のとおり旧審
査の方針自体基準の機械的適用を戒める旨の定めは置いているものの,それは
前記システムなり基準に前記のような問題点があることを前提にしたものでは
ないため,その基準を当てはめるうえでどのような点を考慮すべきかが示され
ておらず,したがって,それによって判断の適正化を図ることは困難というほ
かはない。
2本件訴訟における判断基準
(1)立証責任及び立証の程度
前記のとおり,被爆者が被爆者援護法による原爆症認定を受けるためには,
被爆者が現に医療を要する状態にあること(要医療性)のほか,当該負傷また
は疾病が原子爆弾の放射線に起因すること(放射線起因性)が必要とされる。
そして,平成12年最高裁判決は,放射線起因性の立証責任及び立証の程度に
ついて「行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に,その拒
否処分の取消訴訟において被処分者がすべき因果関係の立証の程度は,特別の
定めがない限り,通常の民事訴訟における場合と異なるものではない。そして,
訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではない
が,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果を招来し
た関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり,その判定は,通常人
が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要と
すると解すべきである」として,原爆医療法の原爆症認定における放射線起因
性の立証責任を拒否処分の取消しを求める者に負わせるとともに,立証の程度
について「相当程度の蓋然性」の立証では足りないとの判断を示したが,当裁
判所も,原爆医療法の廃止に伴って制定された被爆者援護法における原爆症認
定の要件である放射線起因性の判断に当たっては,上記最高裁判所の判示する
ところと同様の考え方に立って判断するのが相当であると考える。
(2)放射線起因性の判断のあり方
本件訴訟における放射線起因性の判断基準としては,基本的には放射線起因
性を判断するうえでは被爆者の被爆線量を考慮することは当然のことであり,
現時点においては線量評価システムとしてはDS86に勝るものは考案されて
いないことから,同システムには前記限界ないし問題点があることを考慮に入
れたうえで参考とし,また,審査の方針が定める原因確率についても前記問題
点があることを考慮に入れるとともに,申請疾病自体の医学的知見,放射能や
放射線に関する科学的知見,申請疾病と放射線との関連性に関する科学的知見
あるいは疫学的知見は日々進歩するものであることを考慮に入れて放射線起因
性を判断すべきであると考える。特に,遠距離地点での被爆者や入市被爆者に
ついての被爆線量を推定するに当たっては,これらの者の正確な被爆線量を数
値化すること自体,相当困難であることにかんがみて,原爆症認定の申請をし
た被爆者に急性症状が認められる場合には,原爆放射線の影響を受けたことの
根拠の一つとして考慮し,その具体的症状,すなわち,その症状の具体的な内
容や程度,発症の時期や症状が継続した期間等を把握し,放射線被曝治療に係
る急性症状の知見等をも参考にしつつ,これを判断すべきである。そして,上
記のほか,1審原告らの個々の申請疾病の放射線起因性の判断をするについて
は,1審原告らの被爆以前の生活状況,被爆時の状況,被爆後の行動,被爆後
に生じた症状等,被爆前の健康状態と被爆後の生活状況や健康状態の比較検討,
申請疾病の内容,発病の時期やその後の経緯を勘案する必要がある。これらの
事情を勘案したうえ,被爆者援護法の立法趣旨に照らして,当該申請疾病が放
射線に起因しているということを,通常人であれば,疑いを差し挟まない程度
に真実であるという確信を持ち得るものかどうかを判断して,決すべきである。
(3)科学的知見について
申請疾病の放射線起因性に関する判断は,原爆放射線と当該申請疾病との間
の因果関係の存否を判断するものであるところ,それを判断するに当たっては,
その対象となる事項の性質上高度に科学的な知見に基づく判断が必要となる。
そして,そのためには,当該申請疾病自体の医学的な知見,原爆放射線自体に
関する科学的知見及び当該申請疾病の原爆放射線起因性に関する科学的,疫学
的知見がどのようなものであるかを検討することが必要であるが,それらの知
見はいずれも高度に科学的な知見であり,また,知見の中にはその専門分野の
中で確立した知見もあれば,いまだ確立しているとはいえない知見もある。そ
して,本件における放射線起因性の判断は,自然科学的な厳密な因果関係の存
否についての判断ではなく,法律的な因果関係の判断であり,通常人からみた
高度の蓋然性の有無の判断であるから,その知見がその分野において確立して
いることが,誰の目からみても明らかなものについては,その知見を前提とし
て判断することになるが,一定の水準にある学問的成果として是認されるもの
と判断される複数の知見があり,その内容が,当該申請疾病と原爆放射線の起
因性の有無を判断するについて,必ずしも,両立し得る内容とはいえない場合
は,そのような複数の知見が存在していることを前提として,そのような知見
が明らかになった経緯,そのような知見を支えている事実,それぞれの知見が,
原爆放射線と当該申請疾病との間の法律的な因果関係の存否を判断するという
目的と照らし合わせた場合,どのような点が,これを肯定する要素となるのか,
あるいはこれを否定する要素となるのか等を検討し,最終的には被爆者援護法
の立法趣旨に照らして,当該申請疾病が放射線に起因しているということを,
通常人であれば,疑いを差し挟まない程度に真実であるという確信を持ち得る
ものかどうかを判断して,これを決するほかない。
第71審原告らの原爆症認定要件の存否について
11審原告P1について
(1)1審原告P1の被爆状況等
証拠(甲B3,6,原審における1審原告P1,各項末尾に掲記の証拠)
によれば,以下の事実が認められる。
ア被爆前の生活状況,被爆状況及び被爆後の行動について(甲B3,6,
原審における1審原告P1)
(ア)被爆前の生活状況
1審原告P1(当時18歳)は,昭和▲年▲月▲日,宮崎県で出生し,
地元の高等女学校を卒業後,昭和19年春,女子勤労挺身隊に入隊し,
爆心地から約3.1キロメートル地点にある長崎市のP59P60工場
で検査係に配属されていた。
(イ)被爆状況
昭和20年8月9日午前11時ころ,1審原告P1は,上記P60工
場の事務所で,同じ挺身隊員のP61及びP62とともに書類の仕分作
業に従事していたところ,強烈な閃光が目に入り,閃光と同時にごう音
とともに衝撃が事務所内を走り,倒れてきた書類棚の下敷きになった。
1審原告P1はしばらく気を失っていたが,友人に助け出され,左の額
からの出血か所を三角きんで縛ってもらった。
(ウ)被爆後の行動
1審原告P1は,額からの出血が止まらず,浦上駅(爆心地から約8
00メートル)の北側にある大学病院で治療を受けるため,同僚であっ
たP62,P61とともに午後1時ころ工場を出て,浦上川に沿って徒
歩で大学病院に向かった。工場を出て,後に梁川橋と判明した橋(爆心
地から約1.1キロメートル)を渡ったが,川にはたくさんの死体が浮
いていた。しばらく歩き,後に浦上駅と分かった駅のプラットホームで
休憩し,再び線路沿いに歩いて爆心地から約600メートルに位置する
竹岩橋あたりで,P62が付近の病院を見に行ってくれた。しかし,病
院の建物が壊れていると言うので,長崎市β町にある寄宿舎に帰ること
にした。寄宿舎に戻る途中,浦上駅を過ぎたあたりで黒い雨に打たれた。
黒い雨はべとべとしていて粘度が高く,半そでのセーラー服を着ていた
ため,腕についた雨をなかなかぬぐえなかった。黒い雨は目にも入った
ため,黒い雨が付着したままの手で目をこすったりもした。夕方の6時
くらいに寄宿舎に戻ったが,建物が倒壊していたため,それ以後3日く
らい裏山のカボチャ畑で野宿をした。その後,P60工場や造船所に行
き,後片付けをしているうちに同月15日の終戦を迎え,その後4日く
らいにかけて,実家のある宮崎市のγ駅に到着した。
なお,被告らは,1審原告P1が認定申請時に提出した認定申請書に
は,被爆当日,病院を探すため爆心地付近を歩いた旨の記載はなく,浦
上駅近辺まで行ったとの1審原告P1の供述等は信用性がない旨主張す
るが,証拠(甲B3,乙B1,4の1,1審原告P1本人)によれば,
1審原告P1は,認定申請書及び異議申立書に被爆当日におよそ5時間
にわたって長崎市内をさまよい,爆心地付近にまで行ってしまった旨を
記載しており,その内容は原審における同人の供述内容と基本的な部分
で齟齬がないから,1審原告P1の上記の説明内容は基本的に信用すべ
きものと認められる。
イ被爆直後に生じた症状等について
1審原告P1は,昭和20年8月末ころから,急に発熱し,体のだるさ
を感じ,髪の毛が抜け始めた。その後1か月ほどで全ての髪の毛がなくな
り丸坊主になってしまった。また,同年9月初めころからは,赤痢のよう
なひどい下痢が続き,血便が出始め,このような状態が9月いっぱい続い
た。同年10月ころには,首のリンパ腺が腫れて首が回らなくなりγ町の
P65病院で診察を受け,医師から,長崎市に行ったことはないかと尋ね
られ,その症状は原爆に起因するものであると言われた。
また,1審原告P1は,翌昭和21年の正月ころから,歯がぐらつき,
歯茎から出血しやすくなる状態が1か月ほど続いた。そして,同年3月こ
ろ輸尿管結石になり,約2か月通院治療した。また,同年8月には手足が
腫れて診察を受けたところ,腎臓が悪いと言われ,腎機能は現在も落ちて
おり,疲労などを原因として貧血状態になることがある。
ウ被爆前の健康状態並びに被爆後の生活状況及び健康状態
(ア)被爆前の健康状態
1審原告P1は,被爆前は健康状態に異常はなく,既往症もなかった。
(イ)被爆後の生活状況及び健康状態等
a1審原告P1は,昭和23年ころ嫁いだが,嫁ぎ先でも病気勝ちで,
流産を繰り返した後,2子を出産した。しかし,昭和30年ころ離婚
し,その後,愛知県で再婚し,1子を出産した。
b1審原告P1は,昭和40年ころから貧血になり,昭和53年ころ
からは腰痛,体全体の痛みに悩まされるようになった。そして,昭和
56年11月,広島のP49病院にて心臓肥大との診断を受け,昭和
60年ころからは風邪を引きやすく,扁桃腺が頻繁に腫れるようにな
った。
c1審原告P1は,平成14年8月21日には,P66病院で腰椎辷
症,慢性腎炎,高脂血症,高血圧症の診断を受け,変形性脊髄症,骨
粗鬆症とも診断されている。
d1審原告P1の眼の症状について
1審原告P1は,平成2,3年ころ(63,64歳ころ)から,目
がかすみ,みえにくくなったと感じていたが,その後,視力の低下や
目のかすみがひどくなってきたので,平成9年5月13日(70歳)
に愛知県一宮市内のP67を受診したところ,両眼白内障と診断され
た。その後しばらくの間,P67で点眼内服治療を受け,平成13年
11月26日(74歳),右眼の白内障の手術を受けて眼内レンズを
挿入した。左眼の視力は0.01程度であり,現在も白内障の治療中
で,医師から手術が必要と言われているが,1審原告P1の意向でい
まだ手術を受けていない(原審における1審原告P1本人)。
エ原爆症認定申請と申請疾病
(ア)原爆症認定申請及び申請書等の記載
1審原告P1は,平成14年7月9日,認定申請書(乙B1)の「負
傷または疾病の名称」欄に両眼白内障と記載し,P67医院のP68医
師による意見書(乙B2)及び同医院のP69検査技師が記載した健康
診断個人票(乙B3)を添付のうえ,1審被告厚生労働大臣に対し,被
爆者援護法11条1項の認定申請をした。上記認定申請書の「負傷また
は疾病の名称」欄には「両眼白内障」と記載されており,「被爆時以後
における健康状態の概要及び原子爆弾に起因すると思われる負傷若しく
は疾病について医療を受けまたは原子爆弾に起因すると思われる自覚症
状があったときは,その医療または自覚症状の概要」欄には,被爆時の
状況のほか,貧血や変形性腰痛,脱水症状,白血球が少ないと指摘され
ていることなどが記載されている。
なお,P68医師作成の上記意見書(平成14年6月15日付け)の
「負傷または疾病の名称」欄には,「両眼白内障」と,「既往症」欄に
は「腰痛」と,「現症所見」欄には「右眼白内障手術実施後視力0.2
(矯正0.8),左眼水晶体前嚢下で高度混濁視力0.1(矯正不
能)」と,「当該負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因する旨,原
子爆弾の傷害作用に起因するも放射能に起因するものでない場合におい
ては,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けている旨の医
師の意見」欄には「水晶体の混濁状況からして加齢によるものよりも被
爆によるものと推定する。」とそれぞれ記載されており,P69検査技
師が記載した上記健康診断個人票の「既往歴」欄には「9年初頃から視
力低下に気付く腰痛もあり治療中」と,「現症」欄には「9年5月1
3日初診水晶体両眼共前嚢下に中等度の混濁を認め視力両眼共0.4,
13年11月視力両眼共矯正0.1に低下,右眼の白内障手術実施,左
眼は現在も白内障治療中」と記載されている。
一方,原告P1の診療録(乙B8)の平成14年6月15日の欄には,
「水晶体右人工レンズ,左水晶体後嚢下円盤状混濁,前極前嚢下にも
混濁あり」と記載されている。
(イ)却下処分
1審被告厚生労働大臣は,平成15年1月28日付けで上記申請を却
下する処分(以下「本件1審原告P1却下処分」という。)をした(甲
B1)。
(ウ)異議申立て
1審原告P1は,本件1審原告P1処分を不服として,平成15年4
月2日,1審被告厚生労働大臣に対し,異議の申立てをした(乙B4の
1・2)。
以上の認定申請書,意見書及び健康診断個人票の各記載を総合すると,
1審原告P1の原爆症認定申請疾患は,両眼白内障と解される。
(2)1審原告P1の被爆線量
前記認定事実によれば,1審原告P1は,長崎の爆心地から約3.1キロ
メートルの距離にある造船所の事務所内で被爆したものである。そして,旧
審査の方針別表9は初期放射線量による被爆線量を定めているところ,同表
には爆心地から2500メートル以遠の地点の被爆線量を定めていないので,
旧審査の方針によると1審原告P1の初期放射線による被爆線量は0という
ことになる。また,前記認定事実及び旧審査の方針の別表10によると,1
審原告P1の被爆後の行動による残留放射線量は1センチグレイ程度となる。
そうすると,1審原告P1の被爆線量は,白内障についてのしきい値とされ
る1.75シーベルトには達しない。
しかしながら,前記認定したように,1審原告P1のように爆心地から3.
1キロメートルの地点で被爆したいわゆる遠距離被爆者については,DS8
6による初期放射線量が過小評価されている可能性があることに留意する必
要がある。また,1審原告P1は,原爆投下当日,原爆が投下された数時間
後に爆心地から最短距離にして600メートルの地点まで額に傷を負ったま
まの状態で接近をしており,しかもその後,額に出血している状態で,黒い
雨に打たれ,寄宿舎付近に避難したというのであるから,誘導放射能や放射
性降下物が身体や衣服に付着し,または体内に入ったことは十分に考えられ,
誘導放射能や放射性降下物による相当量の外部被爆及び内部被爆をした可能
性があり,旧審査の方針による残留放射線量は過小評価されている可能性が
ある。
そして,1審原告P1には,前記のとおり,下痢,脱毛といった放射線に
よる急性症状として説明することが可能な症状を発現し,その後も,被爆前
は格別,健康状態に異常はみられなかったのに,被爆後,体のだるさを感じ
るようになり,このような脱力感は相当長期間に及び,昭和21年年初ころ
には,歯茎からの出血傾向がみられ,同年3月ころには輸尿管結石となって
通院をし,その後も,貧血,腰痛,心臓肥大,腰椎辷症,慢性腎炎,高脂血
症,高血圧症など多数の疾病を発症するなど,被爆を境にして健康状態は急
激かつ著しく悪化し,長期にわたって体調不良の状態が継続していることに
かんがみると,1審原告P1の被爆線量は旧審査の方針で算定された被爆線
量より多量の線量を被爆したものと推認するのが相当である。
なお,1審被告らは,1審原告P1に生じた前記下痢,脱毛等といった身
体症状は,原爆放射線に起因するものではないと主張し,その根拠として,
放射線に起因する急性症状としての下痢,脱毛の発症にはしきい値があり,
特徴のある発症等の経過をたどるところ,1審原告P1は,前記しきい値を
超える線量を被爆していないうえ,放射線被爆による下痢,脱毛について現
れる特徴的な発症経過がみられないことを挙げる。
しかしながら,DS86に基づく線量評価のみを基準にして急性症状の有
無を判断することが相当でないことは前に認定判示したとおりであり,した
がって,上記線量評価に基づいて1審原告P1に生じた前記症状を原爆放射
線に起因するものでないとの1審被告らの前記主張は採用し難い。
(3)1審原告P1に生じた白内障の放射線起因性判断における問題点
放射線白内障が放射線被曝によって発症する疾病であることは確立された
知見である。それは,旧審査の方針においても認められており,さらに,新
しい審査の方針においては,申請者の被爆地点が爆心地より約3.5キロメ
ートル以内である場合には,格段に反対すべき事由がない限り,放射線起因
性が積極的に認定される。しかしながら,旧審査の方針においては,放射線
白内障は放射線被爆により確定的な影響を受ける疾病として1.75シーベ
ルトというしきい値が設けられていることや,白内障には放射線白内障だけ
ではなく誰でも一定の年齢に達すれば発症する可能性が高いとされる老人性
白内障も存在することから,1審原告P1が罹患した白内障の放射線起因性
を判断するためには,1審原告P1の被爆線量のみならず,放射線白内障に
はしきい値は存在するのか,放射線白内障と老人性白内障とはどのように区
別されるのかなどの点について検討する必要がある。
ア申請疾病である両眼白内障と放射線被爆との関係に関する知見について
まず,白内障の病像や白内障と放射線被爆に関する知見としては以下のよ
うなものがある。
(ア)白内障の病態(現代の眼科学)の指摘(乙全82)
a水晶体の構造
水晶体は,透明なカプセル,すなわち水晶体囊に包まれ,直径は9ミ
リメートル,厚さ3ないし4ミリメートル,重さ0.2グラムで,ちょ
うど錠剤のような形をした両凸面レンズである。水晶体の赤道部と毛
様体との間には無数の繊維状の毛様小帯すなわちチン小帯が張ってい
て,これにより,虹彩の裏側でガラス体の前に保持されている。水晶
体はほぼ無色透明なレンズで,血管,神経はない。水晶体の前面のカ
プセルを前囊,後面のものを後囊と呼ぶが,前嚢下には一層の上皮細
胞層がある。この内側には規則正しく,密に配列した無数の六角柱状
の繊維があり,水晶体質の大部分をなしている。水晶体中心部の繊維
は,25歳を過ぎるころから硬くなり,水晶体核を形成する。この核
は,加齢とともに漸次増大し,硬化していく。核の周りで水晶体囊と
の間の部分を水晶体皮質と呼ぶ。
b水晶体の検査法
水晶体は,細隙灯顕微鏡によって観察される。細いスリット光を斜
め横から眼内に入れて,生体顕微鏡でみると,角膜に次いで前房の奥
に瞳孔を通して水晶体が光学的な切片の像として観察される。これに
より,水晶体に混濁があれば,その部位,範囲などが観察され,徹照
法もあわせて行われる。
c白内障について
白内障とは水晶体が混濁した状態をいう。その混濁はタンパクの変
性,繊維の膨化や破壊によるもので,これには先天性のものと後天性
のものがある。後天性の白内障としては,原因別に,老人性,外傷性,
併発性,放射線性などに分けられる。混濁の程度,範囲,部位に応じ
て視力低下を訴える。
Ⅰ老人性白内障について
白内障の中でも最も多いものである。原因としては,加齢による
水晶体の混濁で,70歳ないし80歳の高齢者になると多少なりと
も全ての人にこれが認められる。初発年齢には個人差があるが,一
般に50歳以上で,他に原因をみい出せないものを指す。症状とし
ては,視力障害を訴え,程度の差はあるが両側性で,進行は一般に
緩徐である。混濁は赤道部皮質や核,あるいは後囊下に始まる。混
濁の程度により進行の順に初発白内障,未熟白内障,成熟白内障,
過熱白内障に分けられる。
治療としては,視力が障害され,日常生活に支障を来すようにな
ったら手術を行う。また,職業,社会的生活環境も考慮される。
Ⅱ放射線白内障
放射線エネルギーによって生じる白内障で,レントゲンや原爆な
どの被爆による。放射線を受けると6か月から数年を経て,後嚢下
に白内障をみる。これは,外眼部や眼内に対する照射による場合が
多い。
(イ)「放射線被爆と年齢に関する眼科的所見変化広島・長崎成人健康
調査集団」(昭和57年)(甲全62の2の4)の指摘
原爆時年齢15歳未満の広島対象者の後囊下変化に関連する相対的危
険度は,100ないし199ラド群では2.8,200ないし299ラ
ド群では4.3,300ラド以上群では5.3であった。広島若年齢群
の後囊下変化において,放射線感受性による加齢増進が200ないし2
99ラド及び300ラド以上の両群に5パーセント水準で有意な増加を
もって認められた。軸性混濁及び後囊下変化の双方に対する相対的危険
度の比較統計量は,広島の原爆時15歳未満の年齢群の加齢影響による
放射線感受性の増大を示唆すると指摘している。
(ウ)「電磁放射線の非確率的影響」(昭和62年)(乙全78)の指摘
ICRP(国際放射線防護委員会)は,1977年(昭和52年)に
幾つかの非確率的影響(その影響が起こる確率と重篤度の両方が線量と
ともに変わり,線量反応関係にしきい値があり得るような影響),しき
い線量を示し,個々の臓器,組織に対する線量限度を勧告していたとこ
ろ,本件報告書(1984年4月に主委員会により採択されたもの。)
は,前記委員会専門委員会の課題グループが上記勧告の根拠を示したも
のであり,以下の指摘をしている。
a水晶体は,身体の中で最も放射線感受性の高い組織の1つである。
b高線量では水晶体混濁(すなわち白内障)が数か月以内に発生し,
急速に進行する。低線量では,混濁が発生するのに何年もかかること
があり,顕微鏡的大きさにとどまり,顕著な視力障害を起こさない。
c水晶体混濁の原因は,水晶体の前面上皮中の分裂細胞の損傷である。
実験的研究によると,このような細胞の顕微鏡的異常は,低い線エネ
ルギー付与(LET)放射線の1グレイ程度の急性被爆の数分以内に
検出可能となる。
d損傷を受けた細胞の分解生成物は後方に移動し,水晶体の後極の被
膜下に蓄積し,水晶体の弯曲を後方に変位させる。このような損傷を
受けた細胞が十分に蓄積すると,それらは点状の中央後面被膜下混濁
として眼科学的に観察可能となる。この段階では,放射線誘発混濁は
視力に影響はなく,他の原因による白内障と容易に区別できる。
e病変が進行するかどうかは,放射線の線量によって決まり,臨床検
査だけでは予測できない。病変が進行すると,水晶体の前面皮質と核
もまきこむことになり,最終的には重篤な視力障害を引き起こすこと
になる。この段階では,混濁を放射線誘発病変として識別できなくな
る。
f原爆被爆生存者では,眼科学的に検出し得る混濁の頻度を増加させ
る低LET放射線のしきい値は大体0.6ないし1.5グレイと推定
されている。
g放射線治療患者(233人)に対する追跡調査等の結果に基づくと,
放射線治療における1回照射のしきい値(ある特定の影響が被爆した
人々の少なくとも,1ないし5パーセントに生じるのに必要な放射線
量)は,2ないし10グレイと推定される。
(エ)「国際放射線防護委員会の1990年勧告」(平成3年初版)(乙
全79)の指摘
ICRP(国際放射線防護委員会)は,水晶体に見知可能な白濁を生
じさせるしきい線量(1回短時間被爆で受けた全線量当量または全等価
線量)は0.5ないし2.0シーベルト,視力障害(白内障)を発生さ
せるそれは5シーベルトと推定されており,米国放射線防護測定審議会
(NCRP)では,1989年(平成元年)に2ないし10シーベルト
とされている。
(オ)「原爆放射線の人体影響1992」(平成4年3月)(甲全62の
2の1,乙全14)の指摘
a放射線白内障の特性
放射線白内障の特性は以下のとおりである。
Ⅰ電離放射線の種類に関係なく,どの放射線でも水晶体に同じよう
な形態学的変化を起こす。
Ⅱ水晶体に同じ吸収線量が照射されたときには,放射線の種類によ
って障害の程度に強弱があり,その差は生物学的効果比(RBE)
によって表され,白内障の発症に関しては,速中性子は,エックス
線,ガンマ線よりもRBEが大きく,RBEが大きい放射線は,全
身照射による致死線量以下で白内障を起こす。
Ⅲ照射された線量が大きいほど,白内障発生までの潜伏期間が短く,
白内障の程度は強い。
Ⅳ幼若な個体ほど変化が強いが,放射線に対する感受性にも個体差
がある。
Ⅴ混濁は,水晶体の後嚢下で初発する。斑点状ないし円板状混濁を
形成し,一部はドーナツ形となる。これを細隙灯顕微鏡でみると,
混濁の表面は顆粒状で多色性反射(色閃光)がみられることがある。
混濁は後嚢下とその少し前方に位置するものとに分かれて二枚貝様
の混濁を形成する。このような初期にみられる所見は放射線白内障
に特徴的なものである。
Ⅵ後極部後嚢下に放射線白内障に類似の混濁を生ずるものとしては,
網膜色素変性症やブドウ膜炎に併発する白内障,ステロイド白内障,
老人性白内障などであり,これらの白内障との鑑別が必要である。
b原爆白内障の臨床像
原爆白内障は,原爆以外の放射線によって生じた白内障と極めて類
似しており,水晶体の後極部後嚢下に混濁が認められても,軽い変化
は被爆していない人にもみられることがあるため,原爆の放射線によ
って起こったものかどうか判定しかねることもある。原爆白内障を診
断するためには,水晶体後極部後嚢下に顆粒状の変化があるだけでは
十分ではなく,細隙灯顕微鏡で少なくとも円板状の混濁がみられるこ
とを条件としている見解もある。
また,長崎の被爆者を調べたP70によれば,原爆放射線による水
晶体の所見として,分割帯の点状混濁,後嚢下の凝灰岩様混濁を挙げ
ている。
広島の被爆者を調べたP71らは,原爆白内障の診断基準に,後極
部後嚢下にあって色閃光を呈する限局性の混濁があること,後極部後
嚢下よりも前方にある点状ないし塊状混濁があることという2つの形
態学的特徴を挙げている。そして,このような水晶体混濁が認められ
たうえで,近距離直接被爆歴があること,併発白内障を起こす可能性
のある眼疾患がないこと,原爆以外の電離放射線の相当量を受けてい
ないことという4条件がそろっている場合に,原爆白内障と診断でき
るとしている。
c原爆白内障の病理組織学的所見
原爆白内障の病理組織学的所見では,一致して水晶体後嚢下の皮質
に変化が強い。水晶体繊維の顆粒状の崩壊や無定形化が認められてい
るが,放射線の種類による特徴的な病理組織学的所見は得られていな
い。
1957年(昭和32年)10月から4年間にわたって広島大学で
調べられた128人にみられた原爆白内障について,以下のとおり4
段階に分けられている。
Ⅰ微度
微度では,水晶体後極部の後嚢下に色閃光を呈する限局性混濁で
直像鏡の+8Dレンズを通して徹照しても混濁は認められない。
Ⅱ軽度
軽度では,後極部後嚢の前方(後分割帯)に細点状混濁があるも
ので,徹照法でかすかな混濁陰影を認めることがある。
Ⅲ中等度
中等度では,徹照法で水晶体の中軸部に直径1ミリメートル以下
の類円形の混濁陰影を認める。
Ⅳ高度
高度では,徹照法で後極部にかなり大きな類円形の混濁陰影を認
める。
このように,水晶体混濁が中等度以上になると徹照法でも確実に混
濁陰影を捉えることができるが,視力障害を来すことはない。視力障
害を自覚するのは高度だけである。また,原爆白内障の発生頻度と混
濁の程度は,被爆線量と平行し,被爆時の年齢と相関する。したがっ
て,被爆線量に関係する爆心地からの距離,遮蔽の状態,脱毛,その
他の急性放射能症の症状の有無とその程度などの諸要因とも相関関係
がある。広島・長崎の被爆者の調査では,頭部の脱毛の程度と水晶体
後嚢下混濁との間には高度の相関関係が認められた。
d原爆白内障の発生頻度
P72病院眼科で行われた調査(1953年(昭和28年)6月か
ら1954年(昭和29年)10月)では,2.0キロメートル以内
の被爆者の原爆白内障発生率は54.7パーセントで,2キロメート
ル以上での被爆者では10.8パーセントであった。
広島大学眼科での調査(1957年(昭和32年)10月から19
61年(昭和36年)9月)では,1.0キロメートル以内の原爆白
内障発生率は70パーセント,1.0ないし2.0キロメートルでは
30パーセントで,1.6キロメートルを超えると発生頻度は急減し
た。
長崎大学眼科で行われた調査(1953年(昭和28年)7月から
1956年(昭和31年)12月)では,被爆距離が1.8キロメー
トル以内の発生率は54.7パーセント,2.4キロメートル以内で
は45.8パーセントで,原爆白内障が起こる被爆距離の限界は統計
的に1.8キロメートルとしている。
e脱毛と遮蔽状況
広島,長崎の被爆者の調査で,頭部の脱毛の程度と水晶体後囊下混
濁との間には高度の相関関係が認められ,長崎の調査では,脱毛がな
く,遮蔽と被爆距離が増加するほど,後嚢下混濁の発生率が減少して
いることが明らかにされている。
f原爆白内障の経過
原爆白内障は,被爆後数か月から数年して発生する。重症例は早く
発症し,軽症例の潜伏期は遷延する。被爆線量に応じて微度から強度
まで,相当する混濁を形成した後は停在性となる。
(カ)「広島原爆被爆者の放射線白内障1949-64」(平成4年6
月)(乙全63)の指摘
この報告書は,DS86線量推定値が得られている広島原爆被害者の
2249例中,1949年から1964年の間に認められた白内障(水
晶体後嚢下混濁)と電離放射線被爆の定量的関係を再検討したものであ
り,中性子RBEを18と仮定したDS86における眼の臓器線量当量
を用いた場合の放射線誘発白内障における安全領域のしきい値は1.7
5シ-ベルトで,その95パーセント下限と上限推定値は1.31と2.
21シーベルトと推定される(なお,この報告書で,分析の対象とされ
たのは,線量推定値がありかつ放射線白内障と診断された事例で,58
例である。)。
また,被爆者に認められた水晶体変化のうち高頻度に報告された病変
は,高線量被爆者における水晶体後嚢下円板状混濁や多色性光彩であっ
たが,約10年前の所見と比較して,これらの病変にはほとんど進行が
みられなかった。片眼あるいは両眼の水晶体混濁の程度は,生体顕微鏡
検査を用いて,判定不能,微小,小,中,大に分類され,混濁の程度は,
ほぼ小以下(約70パーセント)であり,大と分類されたものはわずか
に5症例であった。臨床調査によると,ヒトにおいてエックス線曝露か
ら水晶体混濁が発現するまでの時間的間隔は6か月から35年と広範囲
にわたっており,平均して2,3年である。エックス線の単一急性被爆
のしきい値線量は,一般に2グレイ前後であるとみなされてきたが,原
爆被爆者はガンマ線と中性子線に同時に被爆しているため,同時被爆の
場合には放射線による生物学的影響に相互作用が存在するか否かに関す
る疑問が生ずる。しかし,被爆者に関する限られたデータを利用するた
め,相互作用の存在の決定及びその影響の推定は困難である。いずれに
しても中性子線量とガンマ線量の各しきい値は単一エックス線被爆の結
果と比較できないかもしれない。また,安全領域を定義づけるうえで両
しきい値を考慮することは賢明であると思われる。そして,中性子の生
物学的効果比を18と仮定したDS86の眼の臓器線量当量を用いて,
白内障のしきい値は1.75シーベルトと推定されている。
ただし,これらのリスク推定値には,多くの不確定要素があり,この
不確定要素には,個々の被爆者の被爆場所,姿勢,身体の方向,遮蔽に
関する情報が不十分であることに由来する誤差,また1949年(昭和
24年)から1964年(昭和39年)に観察された白内障の高線量被
爆者数が少数であることに由来する誤差が含まれる。原爆被爆者の個人
放射線量に非系統的な誤差が存在することは,線量反応解析において,
放射線影響の過小な推定をもたらすものといわれている。ここで,非系
統的な誤差を考慮に入れた場合,推定値はある程度高くなり,より高い
生物学的効果比に基づくしきい値は,一般的にいわれている2グレイに
近似するであろうことが示唆される。
(キ)成人健康調査第7報(平成6年3月発表,以下「第7報」とい
う。)(乙全75)の指摘
重度被爆者では被爆直後,軸性混濁の発生率が増加するとした以前の
報告とは異なり,現在の調査結果によると,昭和33年から昭和61年
までの間の成人健康調査対象者における白内障発生率に放射線の影響が
あることを示唆していない。すなわち,1グレイ当たりの相対リスクは
1.05(95パーセントの信頼区間で0.99ないし1.12)であ
り,このことは,原爆投下以降13年間に白内障発生に関する影響が衰
減したか消滅したことを示唆している。また,性,市,被爆年齢の線量
反応は有意な修飾因子ではないことが示されているが,被爆以降の時間
の影響は有意であった。最も高い過剰リスク(1グレイ当たりの過剰リ
スクが1.20)は成人健康調査の10年間に現れ,時間とともに減少
した。また,被爆時年齢と被爆後経過時間の影響を合わせた場合,被爆
時年齢20歳以下の若年時に被爆した人では,過剰リスクは1958年
(昭和33年)から1968年(昭和43年)のみにみられたが,この
集団では,それ以降は放射線の影響はみられなかった。他方,年齢層の
高い集団では,過剰リスクはどの時期においてもみられなかったので,
若年時に被爆した人にだけ,放射線の影響が長く消えないことを示唆し
ているといえる。しかし,後嚢下変化の有病率が10年以上,一定のま
まであることを示す初期の調査の結果によれば,被爆後長期間経過して
新しい症例が発生するとは思われない。
今回の調査による前記結論については,レンズの混濁化の原因を考慮
していない白内障の発生率データの解析に基づいているので,推論の範
囲は限定されたものである。白内障の発生と原爆放射線の関係に関する
適当な解析をしようとする場合,もともと存在していた症例と,原爆被
爆被害以外が原因であることが判明した症例を全て除外しなければなら
ないが,今回の調査の範囲を超えるものである。本調査の結果により,
結論を出したり,将来,眼科調査を計画するためには,第1に白内障に
おけるレンズの混濁度の範囲は広いので,軽度の症状を発見するために
は細隙灯顕微鏡を使用する必要があること,第2に白内障には老人性,
放射線,外傷などのような疾患の合併症など様々な亜型があるので,こ
れを考慮する必要がある。放射線被爆と白内障の亜型に関する推論とし
ては,以下のようにいうことができる。すなわち,一般集団では老人性
白内障は年とともに,特に50歳以降に急速に増加することが知られて
いる。このことと,先天的原因は除外されていると思われること,外傷
が原因である症例は稀であること,昭和38年から昭和39年に実施さ
れた眼科調査では,50歳代と同年代の高線量被爆者の有病率は7パー
セントであったことからすると,放射線に誘発された症例数はあるとし
ても少ないものと思われる。本調査における白内障の大部分は老人性に
よるものであると思われ,恐らく,レンズの混濁に基づいて評価した加
齢に対する放射線影響がないことは,老人性白内障のリスクが放射線被
爆で増大しないことを示唆しているといえる。だたし,このような主張
は,細隙灯顕微鏡を用いて,特に老人性白内障患者の確認を含んだ詳細
な調査をすることによって有効性が立証されなければならず,このよう
な詳細な調査がなされることによって,放射線被爆が老人性白内障の早
期発生を誘発するのか,老人性白内障の型を変更するのか,疾患の進行
に影響するのかといった疑問に答えることになるかもしれない。
(ク)P45らによる「電離放射線障害に関する最近の医学的知見の検
討」(平成14年3月)(甲全85の28)の指摘
水晶体の混濁あるいは白内障の発生は,以前は,水晶体前面の水晶体
包下の上皮細胞に生じた細胞死あるいは細胞障害が,水晶体の後面に移
動し水晶体中心軸上の混濁となるとされていた。線量が少ない場合は,
視力障害を伴わない混濁のみであり,線量の増加に伴い視力障害を伴う
白内障となると考えられてきた。しかしながら,最近の知見では,水晶
体混濁は,水晶体の分裂細胞(上皮細胞)の細胞死ではなく,水晶体の
上皮細胞のゲノムの遺伝子変異による水晶体の繊維タンパクの異常が原
因であるとされている。被爆から水晶体混濁が生じるまでの潜伏期間の
長さは,繊維組織に分化するまでの時間と,上皮細胞の遊走にかかる時
間が関係する。線量が極めて高い場合には,代謝性の変化が生じその結
果透明性が失われると考えられている。病理学的には,最初に水晶体後
面の水晶体包下の異常として確認される。被爆による水晶体前面の異常
の程度が大きい場合には,視力障害の原因となる。放射線による水晶体
混濁あるいは白内障の発生には,線量,被爆時の年齢,線量率などが関
係する。原爆被爆者のデータでは15歳未満の若年者の感受性が高いと
されている。
放射線被爆による水晶体混濁あるいは白内障のしきい線量に関する見
解は,研究者(機関)によって一致しておらず,別紙「水晶体混濁,白
内障に関するしきい線量」記載のとおりである(甲全85の28の表
7)。
(ケ)成人健康調査第8報(平成15年,以下「第8報」という。)(甲
全8の2の文献番号31)の指摘
前記第7報に12年間の追跡期間を追加して更新された報告である。
そして昭和35年から平成10年の成人健康調査の対象者からなる約1
万人の長期データを用いて,白内障の発生率と原爆放射線被爆線量との
関係を調査した結果,白内障に有意な正の線量反応を認めた。白内障で
の放射線影響は,新しい知見である。また,白内障の1シーベルト当た
りの過剰相対リスクは,全相対リスクが1.06であるのに対し,被爆
時年齢25歳の相対リスクは1.07である。
(コ)「原爆被爆者におけるがん以外の疾患の発生率,1958-199
8年」(平成16年)(以下「P73論文」という。)の指摘(乙全7
6)
昭和33年から平成10年の成人健康調査受診者からなる約1万人の
長期データを用いて,がん以外の疾患の発生率と原爆放射線被爆線量と
の関係を調査した。その結果,白内障に関し,有意な正の線形線量反応
関係を認めた。水晶体混濁は60歳以降に急増するので,調査時年齢が
60歳以下と60歳を超える者の間での線量反応における異種混交を検
討した。放射線の影響は若年群において有意(1シーベルト当たりの相
対リスク1.16で,95パーセントの信頼区間が,1.04から1.
32)であったが,高齢群では有意ではなかった。
これを基に考察するに,過去の成人健康調査の眼科調査により高線量
被爆群,特に若年被爆者において後嚢下混濁の発生率の上昇が明らかに
されたが,初期の成人健康調査の眼科調査や1958-1986年の以
前の成人健康調査のがん以外の発生率調査では白内障に関する放射線の
付加的な影響は明らかにされなかった。
しかしながら,さらに12年間の経過観察の追加により白内障の全体
的な発生率が放射線量に伴い有意に上昇した。最新の経過観察における
発症時60歳未満の白内障症例によって,放射線影響の検出が高まった
のかもしれない。また,最近の研究では,非常に遅延性の水晶体の変化
が放射線治療後に,あるいは,台湾での放射能汚染された建造物による
被爆等においてに検出された。より若い受検者での水晶体混濁に対する
放射線リスクの増加と長期の潜伏期間を伴う相対リスクの上昇に関する
我々の知見は,これらの知見と一致している。
(サ)P74ら「原爆被爆者における眼科調査」(平成16年4月で以下
「P74論文」という。)(甲全8の2文献35,甲全62の2の3)
の指摘
平成12年6月から平成14年9月にかけて,成人健康調査対象者の
うち被爆時の年齢が13歳未満の者全員及び昭和53年から昭和55年
眼科調査を受けた者を対象として,細隙灯顕微鏡,写真撮影及び水晶体
混濁分類システム2による分類を行い,性,年齢,都市,線量,中間危
険因子を説明変数とし,核色調,核混濁,皮質混濁,後嚢下混濁それぞ
れの所見なしの群を基準として,混濁群別比例オッズモデルを用いてロ
ジスティック回帰分析を行ったところ,核色調,核混濁に放射線との相
関が認められなかったが,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係
において,遅発性の放射線白内障及び早発性老人性白内障に有意な相関
が認められた。すなわち,中間危険因子で調整した場合,1シーベルト
での皮質混濁のオッズ比は1.34(95パーセント信頼区間で,1.
16ないし1.52),後嚢下混濁のオッズ比は1.36(95パーセ
ント信頼区間で,1.17ないし1.58)であった(共にP<0.00
1)。なぜ,55年を経てこのような現象がみられるのかその機序は不
明である。白内障には紫外線,糖尿病,ステロイド治療,炎症,カルシ
ウム代謝など様々な危険因子が存在することが知られているが,それら
を調整しても,線量との関連の優位性の変化は認められなかった。今後,
動物実験などにより確認する必要があると考えられる。また,今後,し
きい値モデルを用いて解析を行い,放射線の確定的影響について別途報
告の予定である。
(シ)P75ら「原爆被爆者における白内障有病率の統計解析,2000
-2002」(平成16年9月で,以下「長崎医学」という。)(甲全
62の2の5)の指摘
平成12年6月から平成14年9月まで,放影研で行われた広島・長
崎の原爆被爆者の白内障有病率調査に関して発表されたデータを使って,
白内障線量反応の詳しい統計解析及び白内障線量反応におけるしきい値
を検討した。その結果,核色調及び核混濁では,女性で示唆的であり,
同程度の放射線リスクがみられた。皮質混濁に対しては,有意な放射線
リスクが認められた。後嚢下混濁に対しては,有意な放射線リスクが認
められた。このリスクは,被爆時年齢とともに示唆的に減少し,被爆時
年齢5歳,10歳及び20歳で1シーベルト当たりのオッズ比はそれぞ
れ1.67,1.50及び1.22であった。放射線の主効果が有意で
あった早発性皮質混濁と晩発性後嚢下混濁について,しきい値の検討を
行ったが,しきい値の存在は認められなかった。
放射線白内障におけるしきい値の存在の有無は,今後世界各地での放
射線関連疫学調査での検討課題の一つであると思われる。
(ス)放射線基礎医学第10版(平成6年初版)(甲全8の2文献15,
甲全76の2,乙全101)の指摘
白内障は,水晶体に混濁を生ずる疾病で,水晶体混濁は2グレイの被
爆で起こるといわれるが,臨床的に問題となるような白内障は5グレイ
の被爆が必要である。
最近の放影研の報告によるとDS86による推定線量で被爆線量の明
らかな広島の原爆被爆者2249名について,白内障の発生と線量の関
係を調べたところ,中性子線に対して0.06グレイ,ガンマ線に対し
て1.08グレイのしきい値から求めた中性子のRBEは18で,この
値を用いた眼の臓器線量当量で示される放射線誘発白内障のしきい値は
1.75シーベルト,安全域は1.31シーベルト(95パーセント信
頼限界の下限)であった。潜伏期間は線量と照射期間にはほとんど関係
がなく,原爆被爆者では被爆後5年で白内障が発生したと報告されてい
る。この場合,混濁は主に水晶体の後極部に起こり,同時に前嚢下部位
に起こることがある。この点で,赤道面上に起こる老人性白内障と区別
されるが,進行すれば他の白内障と区別できなくなる。中性子線は,エ
ックス線やガンマ線と比べると白内障を起こしやすく,同一吸収線量で
エックス線の5ないし10倍の効果があるといわれている。子供は,成
人に比べ,低線量で混濁を生じる。
(セ)P76の意見書(平成17年4月)(乙全81)の指摘
P77大学医学部の眼科学教授P76は,以下のとおりの所見を示し
ている。
原爆による放射線白内障については,後極部後嚢下にあって色閃光を
呈する限局性の混濁,若しくは後極部後嚢下よりも前方にある点状ない
し塊状混濁のいずれかの水晶体混濁が認められること,近距離直接被爆
歴があること,併発白内障を起こす可能性のある眼疾患がないこと,原
爆以外の電離放射線の相当量を受けていないこと,以上の4条件がそろ
った場合に診断できるとされており,特に前記のような特徴的な水晶体
混濁が認められることが肝要であり,そのため,水晶体混濁の状況を確
認すべく,散瞳した状態で細隙灯顕微鏡検査を実施し,申請者の水晶体
混濁が上記の状況であることを確認することが重要である。
また,放射線白内障は,放射線の影響により生じ,被爆後数か月から
数年で発症し,特に重傷例にあっては,被爆後早期に発症することが判
明しているから,原爆放射線の被爆のみで,被爆後50年以上経過した
後に遅発性の放射線白内障が発生したとは考えにくい。仮に遅発性の放
射線白内障が発症したとしても,後極部後嚢下にあって色閃光を呈する
限局性の水晶体混濁を呈しないことから,老人性白内障との鑑別は大変
困難である。その根拠としては,放射線が水晶体に与える影響は「確定
的影響」であり,被爆線量がしきい値を超えない限り,その影響は観察
されないことにある。またしきい値を超える放射線を被爆した場合でも,
線量が低い場合には,水晶体混濁が発生したとしても顕微鏡的大きさに
とどまり,著明な視力障害を起こさないことから症状を呈しないとされ
ている。
したがって,申請者に発症した白内障が原爆による放射線白内障かど
うかの判断においては,白内障の発症年齢とその病状,細隙灯顕微鏡検
査による水晶体混濁の状況,ブドウ膜炎等の白内障を発生させることが
ある眼疾患の発生状況,糖尿病,強皮症等白内障を生じる全身性疾患の
罹患状況,副腎皮質ステロイド薬等服薬状況,外傷の有無,職歴などに
かんがみ,老人性白内障や糖尿病性白内障など,他の白内障と鑑別でき
ることも重要である。
(ソ)主治医等の医師の見解
aP68医師の見解(甲B2,乙B8)
1審原告P1の主治医であるP68医師は,平成17年7月23日
付け報告書(甲B2)で,以下のように指摘している。
平成9年5月13日の初診日のカルテには「水晶体後極混濁」とい
う記載があり,水晶体のその他の部分に混濁がある旨の記載はなく,
上記初診時の所見は,後嚢下に限局された混濁が認められたことで間
違いないこと,また,平成14年6月15日のカルテには,「右人
工レンズ,左水晶体後嚢下円盤状混濁,前極前嚢下にも混濁あり」
と記載されており,前嚢下の混濁もみられるようになっていたが,同
診療録のスケッチ(乙B8)からも前嚢下の混濁の範囲は小さいのに
対し,後嚢下の混濁の範囲は著しく大きく顕著であることが分かり,
皮質の混濁,核の混濁,色調等,老人性白内障に通例みられる所見は
なく,以上のように後嚢下の混濁が顕著であったことから,1審原告
P1の白内障が原爆放射線に起因するものである。なお,上記平成1
4年6月15日付け意見書や健康診断個人票に「前嚢下」とあるのは,
いずれも「後嚢下」の誤記である。
b原爆被爆者の白内障についての意見書(P88)(甲全62の1,
原審における証人P88)の指摘
原爆白内障は,近距離被爆者すなわち高線量被爆者に特有のものと
みなされてきた歴史的経過があったが,近年のP74論文や長崎医学
等による新たな眼科調査によって,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体
所見の関係において,遅発性の放射線白内障及び早発性の老人性白内
障に有意な相関が認められ,これらの白内障には,事実上,しきい値
のない確率的影響である可能性が示唆されるに至っている。
放射線白内障の特徴は,後嚢下の混濁が初発することであるが,前
嚢下にも混濁があり得る旨の報告もあり,混濁の部位は後嚢下に限局
されるものではないと考えているところ,1審原告P1も初診時に後
嚢下の混濁が認められたとされており,その白内障は放射線白内障で
あると考えられる。そして,1審原告P1の白内障が,水晶体の皮質
部の混濁が中心となる老人性白内障の症状とは異なること,後嚢下混
濁が初発していれば,その後の経過で前嚢下に混濁が及んでも放射線
白内障とは矛盾しないこと,最近の報告によれば,遅発性の放射線白
内障が認められており,被爆後長期間経過した後に白内障が生じたと
しても不合理ではないこと,後嚢下混濁についてはしきい値はないと
報告されていることなどから,1審原告P1の白内障には放射線起因
性が認められると考える。また,現在,被爆者は少なくとも60歳を
超えているため,放射線白内障と老人性白内障の両方の所見が併存し
てる可能性が高い。
cP48医師の意見書(甲全96の1ないし4,99,甲B7)の指

放射線白内障は,従来,確定的影響に属する疾患と考えられていた
が,1990年代になって,海外において,遅発性の放射線白内障の
所見があることが指摘されるようになり,我が国における最近の報告
(P74論文)において,被爆線量が増加することによって,後嚢下
混濁を呈する放射線白内障と,皮質混濁を呈する老人性白内障が生ず
ることが確認されるに至った。また,一般的な臨床上の所見として,
非被爆者においても,糖尿病,ステロイド投与または老人性白内障の
罹患によって,後嚢下混濁が生ずる場合があるため,後嚢下混濁が認
められれば,それが必ず放射線白内障であるということになるわけで
はなく,この点を踏まえて放射線白内障であるか否かを見極めるべき
であるが,高齢になれば,被爆者において老人性白内障の特徴である
皮質混濁が進行することは当然ではあるものの,放射線の影響によっ
て早発性の老人性白内障(当該被爆者において70歳になって白内障
所見を得るべきところ,放射線被爆の結果60歳で白内障を発症して
しまうような場合)が生ずることも確認されているのであり,被爆者
に老人性白内障が生じていることをもって,放射線白内障が否定され
るわけではないし,被爆者の受診時の年齢によって,放射線白内障が
否定されるものでもない。そして,被爆者の場合は,被爆という否定
できない事実を重視して判断すべきである。
イ知見についてのまとめ
(ア)前記認定の白内障と放射線起因性に関する知見を全体的に検討する
と,平成4年(1992年)ころまでの見解では,放射線被爆による水
晶体混濁の原因は,水晶体前面上皮中の分裂細胞の損傷であり,損傷を
受けた細胞の分解生成物は後方に移動し,それが水晶体後極の皮膜下に
蓄積されることによって混濁として認識されるようになるというもので
あったこと,放射線に起因する白内障の発症には一定のしきい値があり,
照射された線量が大きいほど白内障発症の潜伏期間が短く,白内障の程
度が強いこと,水晶体混濁は,被爆後,数か月から数か年ないし数十年
の潜伏期間を経て発現すること,幼若な個体ほど感受性が強く,変化が
強い傾向にあること,原爆放射線に起因する白内障の臨床像としては,
水晶体後極部の後嚢下の皮質に変化が強く,後極部後嚢下に色閃光を呈
する限局性の混濁,後極部後嚢下にある点状ないし塊状の混濁という形
態学的特徴を有するとする,「電磁放射線の非確率的影響」や「原爆放
射線人体影響1992」に代表される見解が一般的なものであった。,
なお,「原爆放射線人体影響1992」は平成4年に出版されたもの
であるが,証拠(甲B7の資料3,甲全62の2の1)によれば,同文
献の原爆白内障に関する記述は昭和54年に出版された「広島・長崎の
原爆災害」の記述同様の内容となっており,引用されている文献も19
60年代(昭和35年代)までの論文であり,白内障についての調査も
1957年(昭和32年)10月から1961年(昭和36年)9月ま
でに行われたP71らによる広島の被爆者128人を調べた際の資料ま
でのものに基づいていることが認められ,また,前記のとおり,放射線
白内障のしきい値を1.75シーベルトとした前記「広島原爆被爆者の
放射線白内障1949-64」が資料としたものも1949年(昭和2
4年)から1964年(昭和39年)までに発症した事例中58事例に
ついて分析検討したものである。
(イ)そして,1958年(昭和33年)から1986年(昭和61年)
までの28年間の成人健康調査対象者の白内障発症率についての調査,
解析の結果について,平成6年に発表された放影研による第7報でもお
おむね前記見解が裏付けられる結果となり,若年時に被爆した人にだけ,
放射線の影響が長く消えないことが示唆されること,調査の結果による
と白内障の大部分は老人性によるものであると思われ,恐らく,老人性
白内障のリスクが放射線被爆で増大しないことを示唆しているといえる
と指摘した。ただし,本調査(第7報)の結果により結論を出すために
は,細隙灯顕微鏡を使用して,軽度の症状を発見する必要があることや,
白内障には老人性,放射線などの疾患を合併した亜型があるので,これ
を考慮する必要があると指摘し,細隙灯顕微鏡を用いて,特に老人性白
内障患者の確認を含んだ詳細な調査をすることによって有効性が立証さ
れなければならないこと,このような詳細な調査がなされることによっ
て,放射線被爆が老人性白内障の早期発生を誘発するのか,老人性白内
障の型を変更するのか,疾患の進行に影響するのかといった疑問に答え
ることになるかもしれないとの見解が示された。
(ウ)その後,放影研による第8報では,第7報で対象とされた受検者の
範囲が12年間分追加され,1958年(昭和33年)から1998年
(平成10年)までの40年間の成人健康調査の対象者からなる約1万
人の長期データを用いて白内障の発生率と原爆放射線被爆線量との関係
を調査した結果,白内障に有意な正の線量反応を認めたとの見解が発表
され,白内障にしきい値が存在しないことを示唆する見解が示されてい
る。また,P73論文でも前記と同旨の見解が示されるとともに,放射
線の影響は若年群において有意であること,より若い受検者での水晶体
混濁に対する放射線リスクの増加と長期の潜伏期間を伴う相対リスクが
上昇するとの見解が示され,さらに,平成16年に発表されたP74論
文では,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係において,核色調
及び核混濁に放射線との相関は認められなかったが,遅発性の放射線白
内障及び早発性老人性白内障に有意な相関が認められたとの見解が示さ
れ,同年に発表された長崎医学では,放射線の主効果が有意であった早
発性皮質混濁と晩発性後嚢下混濁についてしきい値の検討を行ったが,
しきい値の存在は認められなかったとの見解が示されるに至っている。
また,放射線に起因する白内障の発生機序についても,電離放射線障害
に関する最近の医学的知見をまとめた「電離放射線障害に関する最近の
医学的知見の検討」(平成14年3月)において,水晶体混濁あるいは
白内障発生の原因についての最近の知見として,水晶体の上皮細胞の遺
伝子の変異による水晶体の繊維タンパクの異常に起因するものであるこ
とが明らかにされた。
(エ)1審原告らは,このような放射線白内障及び同白内障発症の放射線
起因性に関する知見の変遷から,従来,放射線被爆による白内障発症ま
での潜伏期間は長くとも35年程度であり,しきい値以上の線量の被爆
がない限り放射線に起因する白内障は発生しないとの見解は否定され,
放射線に起因して遅発性の白内障や早発性の老人性白内障が発症するこ
とが明らかになり,また,前記のような白内障にはしきい値の存在は認
められないという知見が明らかになったと主張する。
これに対して,1審被告らは,P74論文について,遅発性白内障,
早発性老人白内障ということ自体,いつを基準にして遅発なのか,早発
なのか明確でないこと,このような白内障が放射線に起因して発生する
機序が不明であることなどを根拠に,前記見解は単なる仮説以下の知見
にすぎないと主張する。
そこで,それらの点について検討するに,平成6年に発表された放影
研による第7報は,その調査対象者が継続的に健康調査を受検していた
者であり,被爆からの時間の経過による健康異変の経緯を考慮すること
ができる点や対象人数の豊富さなどからしても,基本的には信頼性の高
い知見であったと評価することができるものであり,それにより示され
た,原爆投下後13年間に白内障発生に関する影響が衰弱したか消滅し
たものとの結果が得られたこと,老人性白内障のリスクが放射線被爆で
増大しないことを示唆しているとの結果は,前記従来の知見に沿ったも
のであったことが認められる。ただ,この調査では,その調査結果の有
効性については,老人性白内障患者の確認を含んだ詳細な調査をするこ
となどによって立証されなければならないとも指摘されていて,前記の
調査結果は将来における調査によって変更の余地があることを指摘する
とともに,その調査結果いかんによっては,放射線が老人性白内障の早
期誘発,老人性白内障の型の変更,進行等に影響を与えている可能性が
あることを示唆していた。そして,その後に発表された第8報では,白
内障の発生率と原爆放射線被爆線量との関係を調査した結果,白内障に
有意な正の線量反応を認めたとの調査結果が明らかにされて,白内障の
発症にしきい値がないことが示唆されるに至っている。また,P73論
文でも同様の結果が得られるとともに,より若い受検者での水晶体混濁
に対する放射線リスクの増加と長期の潜伏期間に伴う相対リスクの上昇
を認めたとしており,これらの調査結果は第7報での調査対象者に12
年間分の追跡期間を加え,約1万人の長期データを用いた結果,得られ
たものであるから,科学的な知見としては,十分な信用性を有するもの
というべきである。そして,P73論文とほぼ同時期に発表されたP7
4論文及び長崎医学で示された,放射線に起因して遅発性の白内障や早
発性の老人性白内障が発症することや前記のような白内障にはしきい値
の存在は認められないとの見解は,第8報及びP73論文の見解に沿う
ものであり,第7報が指摘した詳細な調査の結果,同報による知見に変
更をもたらす新たな知見であると評価し得るものといえる。これに対し,
1審被告らが立脚する放射線白内障に関する知見は前記平成4年ころの
通説的な知見に基づくものであり,放射線白内障のしきい値が1.75
シーベルトとされていることについても,前記のとおり1964年(昭
和39年)ころまでの調査に基づく資料を前提としたものであり,その
意味では限られた資料に基づくものであって,放射線白内障発症の原因
についても,それまで考えられていた放射線による水晶体上皮細胞の細
胞死ではなく,水晶体の上皮細胞のゲノム遺伝子変異による水晶体の繊
維タンパク質異常が原因であるとの新しい知見が示されるに至っている
ことを勘案すると,1審被告らの前記知見が絶対的なものであるといえ
るかどうか極めて疑問であるといわざるを得ない。
1審被告らは,P74論文は後嚢下混濁は放射線白内障,皮質混濁は
老人性白内障と一種の擬制をしているが,後嚢下混濁は放射線白内障の
みに生じる特異な症状ではなく,老人性白内障にもみられる症状である
から,P74論文は失当である旨主張する。確かに,前記認定のように,
老人性白内障の混濁は赤道部皮質や核に始まるもののみではなく,後嚢
下に混濁を生ずるものもあることは1審原告らも認めるところである。
しかし,P74論文が示しているところは,後嚢下混濁があれば全て放
射線白内障であるということではなく,被爆者に生じた後嚢下混濁と被
爆放射線量とは有意(P<0.001で)な関係があるということにあ
るのであるから,1審被告らの前記主張は理由がない。のみならず,前
記のとおり被爆者の皮質混濁(老人性白内障)と被爆線量との間にも有
意な関係が認められていることからすると,老人性白内障であるという
だけでは,放射線被爆との関係を完全に否定することはできない。
1審被告らは,遅発性白内障や早発性老人性白内障というものはその
定義が曖昧であると批判するが,前記認定の白内障の放射線起因性に関
する知見の推移に照らすと,遅発性白内障とは,それまで被爆に起因す
る白内障の潜伏期間は,被爆から長くとも10数年程度で,それ以降は
放射線の影響が減弱するか消滅するとされていた見解よりも長い潜伏期
間の後に発症する白内障を指し,早発性の老人性白内障とは,一般的に,
加齢が原因で高率に白内障が発症する年代である70歳以前に発症する
白内障を指していると理解することができ,それ以上の厳密な定義がな
されなければ,原爆症認定における白内障の放射線起因性の判断の際に
考慮すべき科学的知見として一定の水準を有しないとし得るものでもな
い。
また,なぜこれほど長い潜伏期間を経た後に白内障が発症するのかと
いう点についてその機序が不明であるとの批判については,P74論文
自体このことを認めており,いまだその機序は科学的に説明できていな
いことは確かである。しかし,原爆放射線が人体へどのような影響を与
えるのかという点についての研究は,時間の経過や研究の積み重ねよっ
て,刻々と変化している未解明な部分が多分に残されている研究分野で
あって(このことは,これまでの放影研による業績報告の経過をみても
明らかである。),研究や調査が進むに従って進化していくことが予想
されているだけではなく,P73論文,P74論文及び長崎医学が明ら
かにした前記見解は,第7報の前記指摘からしても詳細な追跡調査が加
わることによって科学的に想定され得た結果ともいえ,それまでに積み
重ねられてきた調査結果から全く想定し得ないような特異な見解である
ともいえないものである。したがって,現時点での知見を評価するには,
各知見を並列的にのみ評価するのではなく,その変遷とその根拠をも考
慮することが必要であり,このことは被爆者援護法制定の趣旨や原爆被
爆者たちがいずれも高齢になってきていることにかんがみると重要であ
ると考える。そして,原爆症について申請疾病の放射線起因性における
因果関係の立証には,一点の疑義もないという自然科学的正確性が厳密
に必要とされるものではないのであって,その判断は法律的判断として,
その時点における一定の水準を有する科学的知見に基づき,社会通念上
一般的に放射線によって当該疾患が発症したと認めることができるかど
うかによるべきものであることは,前記判示のとおりであり,その意味
での因果関係の有無の判断をするうえでは,上記自然科学的な機序の解
明が不可欠であるとも認められないだけでなく,放射線に起因する遅発
性白内障,早発性老人性白内障の発生機序を説明し得ていないという点
をもって,原爆症認定における白内障の放射線起因性の判断の際に考慮
すべき科学的知見として一定の水準を有しないと解することも相当とは
いえない。
(4)1審原告P1の白内障の放射線起因性
前記認定の1審原告P1の被爆線量及び前記白内障に関する知見を前提
として1審原告P1に生じた白内障が放射性に起因するものと判断するこ
とができるかどうかについて検討する。
証拠(甲B2,乙B8)によれば,P68医師は,平成9年5月13日
の初診時から,1審原告P1の主治医として同人を診察してきたが,1審
原告P1の症状は,初診時から,水晶体の混濁が後嚢下に限局されており,
平成14年6月15日の診察時には前嚢下にも混濁が認められたが,後嚢
下の円盤状の混濁範囲が著しく大きく顕著であったこと,他方,皮質の混
濁,核の混濁,色調等,老人性白内障に通例みられる所見がなかったこと
が認められ,そのため同医師は1審原告P1の白内障を原爆放射線に起因
する放射線白内障と診断したことが認められる。
なお,1審原告P1の原爆症認定申請書に添付された同医師作成の意見
書及びP69検査技師作成の健康診断個人票には,その混濁か所を前嚢下
と記載する部分があるが,他方,1審原告P1のカルテ中,上記意見書の
作成日付である平成14年6月15日の欄には,それが後嚢下であること
を示す記載と,それに符合するカルテのスケッチがあること(乙B8),
P68医師は,1審原告P1の両眼水晶体の後嚢下に限局された混濁を認
めたことから,その初診時から放射線白内障の可能性が高いとして診察に
当たってきた経過が明らかであること,これらに照らすと,その混濁部位
を前嚢下と記載した上記の意見書等の記載は,誤記と認めるのが相当であ
る。
そうすると,1審原告P1には,放射線白内障に特徴的な後嚢下の混濁
の初発(放射線白内障の混濁が後嚢下に始まることについては争いがな
い。)や後嚢下の顕著な円盤状混濁が認められるから,それは放射線白内
障を認めるについて積極の要素となり得るものと解される。そして,1審
原告P1は,平成9年5月にP68医師の診断を受けた時点で,水晶体後
囊下に混濁がみられたということからするとこの水晶体後囊下混濁が短期
間に発症したとみるのは不自然であり,遅くともその初発は1審原告P1
において,目がかすみ,物がみえにくくなったという平成2,3年ころで,
同人が63歳前後ころであったものと認めるのが相当である。なお,1審
被告らは,1審原告P1の白内障には後極部後嚢下にあって色閃光を呈す
る限局性の混濁若しくは後極部後嚢下よりも前方にある点状ないし塊状混
濁がみられないことや,放射線白内障は進展しないが,同原告の白内障は
進展性があるので放射線白内障ではない旨主張する。しかしながら,前記
のとおり「原爆放射線人体影響1992」によれば,色閃光は原爆白内障
の程度が微度の場合に細隙灯顕微鏡で混濁の表面をみるとみられることが
あるというものであって,どのような場合にも必ずみられるというもので
はなく,また,同文献によれば混濁は微度から軽度,中等度,高度へと,
また後嚢直下から前方皮質部分に進展することが認められることからして,
1審被告らの前記主張は理由がない。
そして,第8報では被爆者の白内障発症率は線形の線量反応関係が認め
られたこと,被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係において,遅発性放
射線白内障や早発性老人性白内障に有意な相関が認められたとする前記知
見や,早発性皮質混濁と晩発性老人性後嚢下混濁についてはしきい値が存
在しないと考えられるとする前記知見があり,その年齢には種々の見解が
あるが,一貫して,若年(おおむね20歳以下)被爆者は,放射線感受性
が高いことが指摘され,第7報では,若年被爆者について放射線の影響が
長く消えないことが示唆され,原爆被爆者のデータでは,15歳未満の放
射線感受性が高いとされている。これらの知見に照らすと,被爆時の年齢
が18歳の1審原告P1が63歳ころに放射線白内障を発症したからとい
って不自然とはいえない。
また,1審被告らは,1審原告P1の年齢からすると同人に発症した白
内障は老人性白内障である旨主張する。確かに,前記のとおり50歳を超
えると老人性白内障に罹患するものが増加し,70歳ないし80歳の高齢
者になると多少なりとも全ての人にそれがみられるとされている。しかし
ながら,遅発性放射線白内障が存在することは前記のとおりであるから,
年齢のみによって放射線起因性を否定することはできないというべきであ
り,さらに,仮に1審原告P1に放射線白内障の症状のみならず,老人性
白内障の症状が発現していたとしても,皮質混濁(老人性白内障)と放射
線被爆量との間にもしきい値のない有意な関係がみられたとの知見が示さ
れていることからすると,1審原告P1に生じている白内障が放射線被爆
と関係がないものとすることはできないというべきである。
そして,以上を総合して判断するに,1審原告P1は,前記認定のとお
り,旧審査の方針で算出される線量よりは多量の線量を被爆しているもの
と推認されることに加え,1審原告P1が発症した白内障は放射線に起因
する白内障の発現形態の特徴である水晶体後嚢下に混濁が初発しているこ
とや前記の最近の知見と照らし合わせると,同人の白内障は,加齢という
要素が加わっていることを否定することはできないものの,その発症また
は進行に原爆による放射線が影響を及ぼした高度の蓋然性があるものと認
めることができるので,同人の白内障を,原爆放射線による被爆に起因す
るものと判断するのが相当である。
(5)1審原告P1の要医療性
1審原告P1は,前記認定のとおり,平成13年11月26日(74歳),
右眼の白内障の手術を受けて眼内レンズを挿入したが,左眼の視力は0.0
1程度であり,現在も白内障の治療中であるというのであるから,要医療性
が認められる。
(6)結論
以上によれば,1審原告P1は,本件1審原告P1却下処分当時,原爆症
認定申請の対象とされるべき白内障について,放射線起因性及び要医療性を
具備していたものと認められるから,本件1審原告P1却下処分は違法とい
うべきである。
21審原告P4について
(1)1審原告P4の被爆状況等
証拠(甲C7,乙C1,1審原告P4,各項末尾に掲記の証拠)によれば,
以下の事実が認められる。
ア被爆前の生活状況,被爆状況及び被爆後の行動について
(ア)被爆前の生活状況
1審原告P4は,大正▲年▲月▲日生まれの男性であり,広島で被爆
した昭和20年8月6日当時20歳で,当時,広島の陸軍第2総軍司令
部参謀部通信班に配属された。
(イ)被爆状況
1審原告P4は,同日午前8時ころには,広島市大須賀町付近の兵舎
(爆心地から北東に約1.5キロメートル)で睡眠を取るため,窓際の
寝台に毛布を頭からかぶって横になったところ,毛布を通して足下の方
に,白く赤みのある巨大な火柱が見え,巨大な火の玉に包み込まれるよ
うな感覚を受け,次の瞬間,爆風で飛ばされ,意識を失った。気がつく
と,身体が兵舎の下敷きとなっており,耳鳴りがして外の音は全く聞こ
えなかった。何とか自力ではい出すと,右胸に1.5センチメートルほ
どの穴があいており,呼吸をするたびに血が噴き出し,左でん部からも
出血し,後で顔にもけがをしていたことが分かった。倒壊した兵舎から
外に出ると,薄墨のような色をした黒い雨が降ってきた。
(ウ)被爆後の行動
1審原告P4は,その後,仲間とともに,同日午後2時か3時ころま
で救護活動を行ったうえ,徒歩で東練兵場の前を通って指定された集合
場所であるP78に移動し,同所で衛生兵らにでん部の傷からガラス片
を取り出してもらい,右胸の傷口にも処置をしてもらった。
1審原告P4は,後記のとおり,被爆直後ころから体調不良であった
が,被爆翌日の同年8月7日に休養を取り,翌8日から,同年10月下
旬まで,命令に従って各部隊・施設間の軍事通信網作成の作業に従事し
た。1審原告P4は,この間,爆心地付近にあった中国軍管区司令部や,
海に近い陸軍船舶司令部のほか,南方に位置する吉島飛行場,三菱造船
所,爆心地よりやや西の福島町に至るまで,広島市内の焼け跡の中を通
信回線を引く作業に従事した。広島市南方には比較的早い時期から作業
に行っていたが,その際の通路は,爆心地付近が焼け野原であったため,
西練兵場に沿った電車道を通って爆心地方面に入り,そこからさらに電
車道に沿って南に歩いていった。作業終了後はP78に戻って野営した
り,街中で就寝したりした。
イ被爆直後に生じた症状等について
1審原告P4は,被爆当日,乾パン等を少し食べただけで吐き,吐血す
るような状態で,翌7日の夕方からは,下痢,食欲不振,倦怠感に襲われ
た。下痢は,血ばかりが出るような状況が1週間ほど続き,被爆の2,3
日後からは,頭部,陰部及び眉毛の脱毛が始まり,ほとんどの毛が抜けて
しまい,ぱらぱらと髪が残る程度であった。また,そのころ,腕,腿,胸,
腹などに紫斑が現れた。下痢や吐き気は3週間ほどで回復したが,脱毛や
紫斑は,広島を離れる10月下旬ころまで続いていた。
ウ被爆前の健康状態並びに被爆後の生活状況及び健康状態
(ア)被爆前の健康状態
1審原告P4は,被爆前,格別の病歴もなく,健康であった。
(イ)被爆後の生活状況及び健康状態
a1審原告P4は,同年10月下旬,大阪に引き揚げて1か月ほど滞
在したが,その少し前から片耳が聞こえず,耳だれのようなものが出
るようになり,その後耳だれは治まったが,片耳は聞こえないままで,
耳鳴りが治まらなかった。
b1審原告P4は,同年11月末ころ除隊となり,家族の疎開先の豊
橋市に帰ったが,身体の倦怠感が強く,朝起きられない状態が続き,
そのような状態は就職後も続いた。
c1審原告P4は,昭和23年10月に結婚し,その後織物業を始め
たが,朝起きるのがつらく,また,片方の耳が聞こえず,耳鳴りがす
る状態が続いていたため,一宮市のP81に通院したが,鼓膜が破れ
ているとの診断を受け,その後の治療によってある程度鼓膜は再生し
たものの,耳鳴りはやまず,現在まで続いている。
また,同人は,昭和30年ころ,P82病院で結核性睾丸炎と診断
され,睾丸を一つ摘出したが,摘出した睾丸からは結核菌は発見され
なかった。それから1,2年後,被爆の際にガラス片で受傷した左で
ん部に腫瘍ができ,P100で腫瘍摘出手術を受け,その1年後,右
でん部にできた同様の腫瘍の手術を受けた。
d1審原告P4は,昭和60年ころから激しい腹痛を覚えるようにな
り,P83病院で精密検査を受けた結果,膵臓に10ミリメートルほ
どの腫瘍があることが判明し,平成10年の検査では,腫瘍が約20
ミリメートルに,また平成16年の検査では約30ミリメートルに成
長していた。
また,同人は,昭和62年,一宮市のP67医院で両眼白内障と診
断され,昭和63年ころ,左眼が網膜剥離になりかけていたのでレー
ザーによる治療を受けた。その後,白内障が悪化したため,平成17
年1月,左眼の手術を受けた。
さらに,同人は,平成10年ころから右肩に違和感を覚え,P83
病院で,直径約2センチメートルの異物を摘出する手術を受けた。そ
の後,右手にしびれが残り,箸やペンを落とすようになった。
1審原告P4は,平成11年,上記病院で,左下腿静脈瘤と診断さ
れ手術を受けた。
エ原爆症認定申請と申請疾病
(ア)原爆症認定申請及び申請書の記載
a1審原告P4は,平成15年6月23日,原爆症の認定申請書の
「負傷又は疾病の名称」欄に「のう胞性膵腫瘍」と,「被爆時以後に
おける健康状態の概要及び原子爆弾に起因すると思われる負傷若しく
は疾病について医療を受け又は原子爆弾に起因すると思われる自覚症
状があったときは,その医療又は自覚症状の概要」欄に,被爆状況と
その後の急性症状,耳鳴り,昭和60年ころに発症した膵臓の腫瘍
(良性),昭和62年に発症した両眼白内障,昭和63年の左眼網膜
剥離と記載して提出した(乙C1)。
b認定申請書に添付された上記P83病院のP84医師による意見書
には「のう胞性膵腫瘍」,既往症は「特になし」,「S60年より膵
腫瘍にて経過観察中膵腫瘍は放射能の影響によるものであることは
否定できない」と記載されている(乙C2)。
cまた,健康診断個人票には,「既往症」欄に「特になし」,「現
症」欄に「左上腹部に持続性の痛みあり圧痛を伴うのう胞性膵腫
瘍による症状と考えられる」と記載されている(乙C3)。
(イ)却下処分
1審被告厚生労働大臣は,平成16年5月12日付けで上記申請を却
下する処分(以下「1審原告P4却下処分」という。)をした(甲C1
の1・2)。
(ウ)申請疾病について
1審原告P4は,上記認定申請をする以前にも下顎部に残る異物や白内
障を理由に原爆症認定申請をしているが,いずれも却下された(原審にお
ける1審原告P4本人)。
そうすると,1審原告P4の申請疾患は,嚢胞性膵腫瘍(臨床上,膵嚢
胞と同義とされている。)と解される。なお,1審原告P4は,同原告の
正式な病名は分支型膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)であるとして,同
疾病が申請疾病であるとしている。
その他に,1審原告P4の認定申請書には,両眼白内障及びそれによる
左眼網膜剥離に関する記載があるが,原告P4は,上記のとおり,白内障
について別途原爆症認定申請をして却下処分を受けており,本件の認定申
請にはこれは含まれていない。
(2)1審原告P4の被爆線量
前記認定の事実によれば,1審原告P4は,広島の爆心地から1.5キロ
メートルの距離にある兵舎の屋内で被爆したものであり,旧審査の方針別表
9(広島)によると,初期放射線による被爆線量は0.5グレイ(50セン
チグレイ)とされ,また,建物による遮蔽を考慮して透過係数を0.7とす
ると,1審原告P4の初期放射線による被爆線量は0.35グレイ(35セ
ンチグレイ)と推定されること,1審原告P4には,原爆爆発後72時間以
内に爆心地から700メートル以内の区域への入市や,広島市己斐地区又は
高須地区に滞在又は居住した経過はないことから,同人の被爆後の行動によ
る残留放射線は0グレイとなる。
しかし,旧審査の方針が依拠するDS86による初期放射線量が過小評価
されている可能性に留意する必要があることは,1審原告P1の場合と同様
である。また,1審原告P4は,原爆投下当日,胸,でん部に出血のある状
態で,黒い雨に打たれ,その後も相当の期間,広島市内に留まって,通信手
段敷設などの作業を行っていたというのであるから,誘導放射能や放射性降
下物が身体や衣服に付着し,または体内に入ったことは十分に考えられ,誘
導放射能や放射性降下物による相当量の外部被爆及び内部被爆をした可能性
があり,旧審査の方針による残留放射線量は過小評価されている可能性があ
る。
そして,1審原告P4には,前記認定のとおり,吐き気,下痢,脱毛とい
った放射線による急性症状として説明することが可能な症状を発現し,その
後も,被爆前は格別,健康状態に異常はみられなかったのに,被爆後,身体
のだるさを感じるようになり,このような脱力感は相当長期間に及び,その
後も,睾丸炎,でん部の腫瘍,白内障,左下腿静脈瘤などを発症するなど,
被爆を境にして,健康状態は急激に悪化し,長期にわたって体調不良の状態
が継続していることにかんがみると,1審原告P4の被爆量は,旧審査の方
針で算定された被爆線量よりは多量の線量を被爆したものと推認するのが相
当である。
なお,1審被告らは,1審原告P4に被爆に生じた吐き気,下痢,脱毛と
いった身体症状は原爆放射線に起因するものではないと主張するところ,前
記主張を採用し難いことは,前記1審原告P1の場合と同様である。
(3)1審原告P4の申請疾病の放射線起因性判断の問題点
1審原告P4は,自分はIPMNに罹患しているところ,同疾病は放射線
起因性がある旨主張している。これに対し,1審被告らは,同原告が罹患し
ているのはIPMNではないとしてこれを争うとともに,仮に,IPMNで
あったとしても放射線起因性はない旨主張する。そして,IPMNは,旧審
査の方針において放射線により確定的影響を受ける疾病であるとかあるいは
確率的影響を受ける疾病であるとして原因確率が定められている疾病ではな
いので当該疾病に放射線起因性が認められるかどうかが特に問題となる。
(4)1審原告P4のIPMNの放射線起因性
ア申請疾病であるIPMNの病像等に関する知見
(ア)内科学第8版(平成15年)(乙C5)の指摘
膵嚢胞は,膵液,粘液,血液,壊死物質などを内容として含み,嚢胞
壁に覆われた嚢胞を膵内部あるいは膵周囲に形成する病変の総称であり,
嚢胞壁に上皮成分を認めない仮性嚢胞と嚢胞壁内面が上皮に裏打ちされ
た真性嚢胞に分類される。
膵嚢胞の大部分が仮性嚢胞であり,真性嚢胞は約1割を占めるにすぎ
ない。真性嚢胞は,先天性と後天性に分類され,後天性の真性嚢胞には
貯留性,寄生虫性,腫瘍性がある。
仮性嚢胞の成因は膵炎によるものが最も多く,70ないし80パーセ
ントを占める。それ以外の成因は炎症や外傷による膵管系の破綻で,膵
液や壊死物質などが貯留し,周囲組織で被覆されて形成される。貯留性
嚢胞は,腫瘍や炎症による膵管閉塞に続発し,膵液がうっ滞して徐々に
生じる。一方,腫瘍性嚢胞の成因は不明である。膵囊胞全体の頻度は,
入院患者の0.004ないし0.04パーセントとされる。
自覚症状としては,腹痛,悪心,吐き気,食欲不振が高頻度に生じ,
発熱,黄疸,消化管出血などが認められる。他覚症状としては,上腹部
圧痛,腫瘤触知が認められる。膵液の膵外漏出に伴い,腹水や胸水がみ
られる場合がある。腫瘍性嚢胞では,無症候の場合も多く,腹部腫瘤が
唯一の症状の場合がある。
膵管内乳頭腫瘍では,十二指腸乳頭の開大と粘液の排出が特徴的で,
膵管造影では主膵管や分枝膵管のびまん性の拡張がみられる。膵炎の経
過中に持続する上腹部痛を伴い,腫瘤を触知する症例で,仮性嚢胞が強
く疑われ,超音波,CTで内部構造の均一な腫瘤が認められれば,診断
が確定する。無症候性の膵嚢胞は,腫瘍性嚢胞を疑い,隔壁の不整な肥
厚や隆起が認められればその疑いが強まる。腫瘍性嚢胞の実質的診断は,
嚢胞の性状や主膵管の拡張所見等から総合的に診断される。膵管内乳頭
腫瘍や粘液性嚢胞腫瘍では良性・悪性の鑑別が問題になるが,必ずしも
容易ではない。
腫瘍性囊胞は,悪化する場合があるので,切除が原則である。良性の
可能性が高い病変に対しては,膵局切除などの縮小手術が施行されるこ
ともある。腫瘍性囊胞は,浸潤性膵管がんに比較して予後良好な腫瘍と
されているが,浸潤や転移を伴うものは,切除不能な場合もあり,予後
不良である。
(イ)「膵嚢胞性疾患について」(乙全94号証,浜松医科大学第2外科
のホームページ)の指摘
膵嚢胞性疾患とは,膵臓に嚢胞(様々な液体の入った袋状のもの)が
できた疾患であり,以前は仮性嚢胞が大部分を占めていたが,近年の画
像診断の発達により,腫瘍性嚢胞の発見が増えている。
膵嚢胞性疾患は,非腫瘍性と腫瘍性のものに分けられ,非腫瘍性のも
のとしては,仮性嚢胞,貯留嚢胞,先天性嚢胞,膵リンパ上皮性嚢胞が,
腫瘍性のものとしては,漿液性嚢胞腫瘍,粘液性嚢胞腫瘍,膵管内乳頭
粘液性腫瘍などがある。このうち,膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)
は,粘液を産生する膵管上皮が乳頭状に増殖した膵管内腫瘍であり,膵
管内に粘液が充満するため,膵管がブドウの房のように拡張するのが特
徴である。高齢の男性に多くみられ,主膵管型と分枝膵管型に分類され
る。悪性例はしばしばみられ,膵がん全体の数パーセントを占める。い
わゆる膵がんよりは予後良好とされ,治療としては,腫瘍が小さい場合
は経過観察することもあるが,基本的には手術をする。
(ウ)P85ほか「膵嚢胞性病変の鑑別診断のポイントは?」(平成16
年,甲C4)の指摘
膵管内乳頭腫瘍は,粘液貯留による主膵管拡張や分枝膵管の嚢胞状拡
張などの所見を呈する比較的予後の良い膵上皮性腫瘍である。
一般的には,主膵管型,分枝型,混合型の3類型に分類されているが,
外の膵嚢胞性疾患との鑑別を要するのは分枝型膵管内乳頭腫瘍である。
膵管内乳頭腫瘍の臨床的特徴は,平均67歳と比較的高齢の男性に多
発しており,随伴性膵炎,膵管との交通,膵管内進展を認めるが,被膜
を認めないことが多い。また,画像上の特徴は,主膵管型膵管内乳頭腫
瘍においては,CT,超音波内視鏡検査(EUS)などで主膵管の著明
な拡張を認めることができ,内視鏡的逆行胆管膵管検査(ERCP)で
は,主膵管内の粘液が確認され,粘液分泌によるVater乳頭の開大
と粘液の流出が確認されれば診断は確定する。
分枝型膵管内乳頭腫瘍は,拡張した分枝膵管の集簇で,ブドウの房状
の形態と表現される辺縁凹凸のある腫瘍である。嚢胞の形態的には分葉
状で不整型を呈し,膵管壁に乳頭状の粘膜増生を伴うものが多い。特に
粘液性嚢胞腫瘍の鑑別に重要である膵管との交通の有無の判定には,E
RCPが必要とされることが多い。
この他の嚢胞性病変として最も多くみられるのは仮性嚢胞であり,こ
れは単房性であることが特徴である。
(エ)P86「粘液嚢胞性腫瘍(MCN)と膵管内乳頭粘液性腫瘍(IP
MN)」(平成17年,甲全69号証)の指摘
IPMNには,病理学的に過形成から腺腫,異形性,上皮内がんから,
進行がんなど広範囲な組織型が含まれている。中には病理学的診断のか
なり難しいものも含まれ,構造異型,細胞異型等による腫瘍・非腫瘍の
診断や良悪性の診断が困難であることも稀ではない。主膵管の拡張を主
体とする主膵管型と,膵管分枝の拡張を主体とする分枝型に2大別され,
悪性度を主膵管型と分支型とで比較すると,主膵管型に悪性のものが多
く約80パーセントは悪性である。分枝型では,上皮内がんや腺腫が有
意に高率に認められ,悪性の頻度は20パーセントである。治療方針と
しては主膵管型は80パーセントが悪性なので手術適応となり,分枝型
では壁在結節のあるものや,径が3センチメートルを超えるものが手術
の適応となる。すなわち,分枝型の約20パーセントががん,約60パ
ーセントが経過観察の対象となる。
イ1審原告P4の罹患している疾病はIPMNか
前記のとおり,1審原告は自分が罹患している疾病はIPMNである旨
主張するのに対し,1審被告らは同原告の膵臓病変は良性の仮性嚢胞であ
る旨主張するので,まずその点について判断する。
前記認定したところによれば,膵嚢胞性疾患とは膵臓に嚢胞ができた疾
患であり,非腫瘍性のものと腫瘍性のものに分けられ,非腫瘍性のものと
しては仮性嚢胞,貯留嚢胞等があり,腫瘍性のものとしては粘液性嚢胞腫
瘍,膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)等があること,IPMNは粘液を
産生する膵管上皮が乳頭状に増殖した膵管内腫瘍であり,膵管内に粘液が
充満するために膵管がブドウの房のように拡張するのが特徴であるとされ
る点については確立した知見といえる。
そして,証拠(甲C2,6)によれば,1審原告P4は,昭和59年1
1月13日,P87病院で被爆者検診を受けたが,このころには既に左腹
部から左背部に痛みがあり,昭和60年1月,P83病院において主治医
であるP84医師によるCT,超音波,ERCPなどの検査を受け,主膵
管と交通する膵嚢胞(15×10ミリメートル)と診断され,膵酵素(血
清アミラーゼ,エラスターゼ1)や腫瘍マーカー(CEA,CA19-
9)の上昇は認められないものの,脂肪分の多い食事や過食をした後に症
状が増強することから,慢性膵炎の定義には合致しないが,慢性膵炎とし
ての治療を開始することになり,膵嚢胞については,画像診断検査による
経過観察となったこと,その後も腹痛などの自覚症状は持続していたが,
服薬により軽快傾向にあったこと,平成4年2月4日,P83病院におい
てP84医師によるEUSを受けたが,その結果,同人の膵嚢胞が多房性
であることが判明し,同月10日に実施したERCPの結果,嚢胞の大き
さが25×18ミリメートルと増大傾向にあることが認められたため,粘
液性膵嚢胞腺腫が疑われたこと,EUSでは,壁在結節や主膵管拡張は認
められなかったが,悪性化の可能性があるとして,同医師から手術を勧め
られたが,1審原告P4の希望により引き続き経過観察となったこと,P
84医師は,平成4年ころは1審原告P4の膵嚢胞を粘液性膵嚢胞腺腫
(MCTまたはMCN)と考えていたが,当時,同疾病と膵管内乳頭粘液
性腫瘍(IPMTまたはIPMN)とが混同されており,その後,両者が
明確に定義されて過去の症例が見直されるようになったので,改めて1審
原告P4の膵嚢胞について鑑別をした結果,1審原告P4が高齢の男性で
あること,嚢胞が多房性であること,主膵管との交通が存在していること
などから分枝型膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)であると診断したこと,
以後,定期的にCT,ESUを実施して経過観察を継続しているが,平成
17年9月の時点まではサイズの変化や壁在結節の出現,主膵管拡張など
の変化は認められていないことが認められ,これらの事実からすると,1
審原告P4の罹患している疾病はIPMNであると認められる。
これに対し,1審被告らは,1審原告P4のCT像からは多房性の病変
は認められず,1審原告P4の膵嚢胞はIPMNではなく非腫瘍性の仮性
嚢胞であると主張し,P88医師もCT像からは多房性であると判断する
ことはできない旨供述する(乙C4,7,原審における証人P88)。し
かし前記証拠によれば,P84医師は,CT像による検査では分かりにく
いが,その後,当時新しい検査方法であったEUSを実施し,その結果同
原告の膵管部の病変は多房性であることを確認しており,確かにEUS検
査の際に取得した写真によればそれが確認されることからすれば,CT像
のみに基づく前記P88証言は採用し難く,1審被告らの前記主張は理由
がない。
ウIPMNの放射線起因性に関する知見
IPMNに関する文献をみると,前記のとおり平成3,4年ころまでは,
IPMNと粘液性嚢胞腫瘍(MCN)とが混同されるなどしていたため,
膵嚢胞性病変の鑑別診断についての文献は種々存在するものの,IPMN
自体が放射線に起因するものであることを直接示す知見は見当たらず,ま
た,膵嚢胞を含む腫瘍性嚢胞について放射線との有意な関係を示す疫学的
知見も見当たらない。
しかしながら,IPMNと放射線起因性の関係についての直接の知見が
ないからといって,それだけで起因性が否定されるわけではなく,その他
の知見や資料に基づいてIPMNに放射線起因性が認められるかどうか検
討しなければならない。そこで,以下,検討する。
(ア)1審原告P4は,IPMNは悪性腫瘍と類似性を有する疾病であり,
膵がんに類似した特性を有しているので,膵がんと放射線との関係を類
推してその放射線起因性を認めるべきである旨主張するので,その点に
ついて検討する。
確かに,前記認定したところからすると,IPMNの中には,病理学
的には過形成から腺腫,異形成,上皮内がんから進行がんなど広範囲な
ものが含まれており,IPMNのうち1審原告P4の罹患している分枝
型膵管内乳頭粘液性腫瘍は主膵管型のものよりは良性のものが多いがそ
れでも20パーセントが悪性のものであるとの知見などに代表されるよ
うに,IPMNには良性のもののみならず悪性のものまで含まれるとい
う点においてはほぼ確立した知見ということができる。
これに対し,1審原告P4は,IPMNは,WHO分類による,組織
学的分類によると,良性と悪性の「境界」に分類されていることやIP
MNは前がん病変であることを根拠に,1審原告P4のIPMNは悪性
の腫瘍であり膵臓がんに似た性質があることから,膵臓がんと放射線と
の関係を類推して,放射線起因性を検討すべきであると主張する。
そして,証拠(甲C3,11)によると,平成8年のWHOの膵外分
泌腫瘍の組織学的分類による悪性度において膵管内乳頭粘液腺腫は「良
性」に,細胞が中程度異形性を有する膵管内乳頭粘液性腫瘍は「境界」
に,膵管内乳頭粘液がんは「悪性」に分類されていることが認められる
が,同分類によっても「境界」と分類されるのは細胞が中程度に異形成
を有するIPMNであり全てのIPMNではないこと,平成12年に定
められた我が国における膵腫瘍の組織型分類(膵癌取扱い規約・最終
案)によると,上皮性腫瘍は外分泌腫瘍,内分泌腫瘍など6種に分類さ
れ,外分泌腫瘍は,さらに,漿液性囊胞腫瘍,粘液性膿瘍腫瘍,膵管内
腫瘍,異形過形成及び上皮内がん,浸潤性膵管がん,腺房細胞腫瘍の6
種に分類され,IPMNは,膵管内腫瘍の中に分類されていること,各
腫瘍は,腺腫とがんに分類され,がんはさらに,非浸潤性と微小浸潤性
に分類されることが認められるが,IPMNを含む膵管内腫瘍について
は腺腫やがんに分類されていないことが認められ,IPMNが「境界」
に分類されるという見解は一つの見解としてはあり得るとしても,膵腫
瘍に関する悪性度及びその分類について病理所見を重視する我が国にお
いて,確立した知見といえるかどうかについては疑問がある。
また,1審原告P4が主張するように,IPMNが前がん病変である
との知見(カレント・メディカル診断と治療,平成15年,甲C5)
や,膵がん,IPMN,膵管内腫瘍由来の浸潤がんの生物学的相違を考
察することを目的に,術前未治療の膵がん14例,IPMN23例,前
記浸潤がん4例につき,抗cyclinB1抗体(以下「抗体1」とい
う。),抗14-3-3σ抗体(以下「抗体2」という。),抗p53
抗体(以下「抗体3」という。)を用いた免疫組織化学法により蛋白発
現を検討したところ,膵がんでは,抗体1は14例中5例,抗体2は全
例で発現陽性,抗体3は14例中6例で発現陽性,IPMNでは,抗体
1は23例中3例,抗体2は23例中14例で陽性であったが,抗体3
は全例で陰性,また,前記浸潤がんでは,抗体1は4例中1例で,抗体
2は全例,抗体3は4例中1例で陽性発現したことが認められ,抗体3
の蛋白発現異常は膵がんにおける腺腫がんの後期に起こる変化であると
考えられる一方,抗体1,抗体2の蛋白発現異常は発がん段階の初期に
起こることが考察されたとの指摘(CanncerSciennce
Vol.95・平成16年・甲C11資料1)もある。しかしながら,
前記知見を総合しても,IPMNの中には悪性のものも含まれていると
の知見は確立したものであるということができるが,各種のがんとは異
なり,IPMNが全て悪性であるとか,IPMNは良性のものであって
も必ず悪性化してがんに変化していくとか,IPMNは膵臓がんと連続
的な関係にあるというような知見が確立しているとかあるいは有力であ
るとまでは認め難く,前記蛋白発現異常の点についても,IPMN全て
について異常が認められるわけではない。
そして,IPMNは一般的には良性腫瘍とされていることや,仮に,
WHOの前記組織学的分類にしたがってIPMNが悪性と良性の「境
界」に属するという見解に従ったとしても,「境界」とされるのは前記
のとおり細胞が中程度異形性を有する膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPM
N)の場合であるところ,1審原告P4の病変に組織学的検査によって
細胞に中程度異形性が認められることを示す証拠はないこと,同人の主
治医であるP84医師が昭和60年に1審原告P4を初診して同人に膵
囊胞が存在することを確認して以降,平成17年までの約20年間,定
期的に種々の検査をするなどして経過を観察してきたものの現時点にお
いては悪性を示唆する所見を認めないとの診断をしていることからする
と,1審原告P4のIPMNは良性の可能性が相当高いものと認められ
る。したがって,1審原告P4の罹患しているIPMNは悪性の腫瘍で
あり膵がんに似た性質を有するから膵がんあるいは上皮性腫瘍と放射線
との関係を類推して判断すべきであるとの1審原告P4の主張は採用し
難い。
(イ)次に,1審原告P4は,IPMNが良性のものであるとしても,良
性腫瘍にも放射線起因性が認められるから,大腸ポリープなどの放射線
起因性との比較検討によって,1審原告P4のIPMNに放射線起因性
が認められると主張するので,以下検討する。
a良性腫瘍と放射線起因性に関する知見
まず,良性腫瘍と放射線起因性に関する知見としては次のようなも
のがある。
Ⅰ成人健康調査第6報(昭和61年)(甲C9で以下「第6報」と
いう。)の指摘
リンパ,造血系を除く全がんの場合と同様,良性腫瘍については,
線量とともに有病率が増加する所見が得られた。被爆線量が200
ラド以上の群では,有病率が0ラド群の2倍に達している。年齢別
にみると,線量の増加に伴う増加はどの群でも観察されるが,被爆
年齢時10歳代及び20歳代では一貫性が高い。
良性腫瘍は女性に圧倒的に多く(有病率は男性の3ないし4倍),
子宮筋腫が女性の良性腫瘍の6割近くを占め,増加傾向は最近の周
期に著しい。年齢別では,被爆年齢時10歳から29歳のものに関
連性が最も強い。胃良性腫瘍のほとんどは胃ポリープで,症例数が
比較的多く,ことに,男性では2,3の周期では約半数を占め,広
島で,ごく最近の周期に線量に伴って軽度の増加がみられるが,長
崎ではその傾向はない。性差は明らかではないが,年齢別には,示
唆された線量との関連では,最若年者に限定されている。しかし,
剖検例では,放射線による影響は観察されていない。脂肪腫は,男
性にあっては胃ポリープに次ぐ頻度を有し,合併すれば,良性腫瘍
の大部分を構成し,女性にも比較的頻度が高い。被爆線量に伴う増
加傾向は最近の何周期かにみられるが,他の良性腫瘍ほど明白では
ない。
ヒトの良性腫瘍と放射線の関係は,マーシャル住民の放射性降下
物による甲状腺のアデノーマ(腺腫),原爆被爆者においても唾液
腺の良性腫瘍の増加などが指摘されている。今回の解析によって,
全般的な所見としてはがんと同一であったことは注目に値する。し
かし,これらの腫瘍が良性であるという性質上,大多数は臨床診断
のみに終わってしまうため,真の腫瘍か否か確実性に欠けるなど,
様々な問題点を有するが,一般的な傾向は観察し得ると考えられる。
腫瘍登録による発生率の調査もこの結果を強く裏付けるものである
が,登録そのものが不備なため,検出のバイアスを否定し得ない。
良性腫瘍と子宮筋腫については,なお検討中であるが,バイアスだ
けでは説明できない有意差があるといえる。いずれにしても,放射
線の催がん性,催腫瘍性の見地からは重大な知見である。
Ⅱ「原爆放射線の人体影響1992」(平成4年,乙全14,乙3
2)の指摘
原爆放射線が多くの部位の悪性腫瘍の発生を増加させるというこ
とは,広く認められた事実であり,今なお,様々な角度からの研究
が続けられている。一方,放射線と良性腫瘍の関連については,現
状では,その研究成果は極めて乏しく,はっきりした結果は得られ
ていない。これは,良性腫瘍が致命的な疾患ではなく,研究の動機
づけが難しいことや,疫学的な研究を行う際にも把握率という重大
な問題があるため,確固たる研究が実施しにくいという事情がある
ためである。放射線ががんの発現に及ぼす主要な機構としては,遺
伝子の傷害が考えられているので,良性腫瘍においても,放射線が
同様の作用を及ぼすことは十分に考えられる。放影研では,第6報
において,初めて良性腫瘍の有病率の解析を行い,放射線量に伴っ
て良性腫瘍の有病率が有意に増加したことなどを確認しているが,
上述のとおり,良性腫瘍の疫学的研究は,その把握率が大きな影響
をもつため,その解釈は難しい。しかし,成人健康調査では一定の
基準で診断を行っているため,その信頼性は高いと思われる。この
ように原爆放射線によって良性腫瘍の発症も増加していることが示
唆される結果となっているが,良性腫瘍のみられる臓器や組織は様
々であり,比較的高頻度にみられる臓器の良性腫瘍は,消化管ポリ
ープ,子宮筋腫,卵巣腫瘍である。
以上のとおり,原爆被爆者における良性腫瘍についての研究は,
いろいろな実施上の問題があるため困難であるものの,そのような
中で行われている研究成果によって,子宮筋腫や卵巣腫瘍など一部
の良性腫瘍については,放射線被爆との関連が示唆されてきている。
しかし,これを確認するためには,さらなる検討が必要である。良
性腫瘍のあるものは,悪性腫瘍との関連も強く,正常から悪性への
過程とも考えられるので,放射線による腫瘍発生の機構を検討する
うえでも,被爆者における良性腫瘍の研究は重要であると思われる。
b検討
以上を前提に検討するに,第6報では,良性腫瘍の有病率について
解析が行われ,放射線による有意な増加が確認されたとの報告がなさ
れていることは前記認定のとおりである。しかしながら,前記結果に
ついて,一般的傾向は観察し得るとしながらも,同報自体,これらの
腫瘍が良性であるという性質上,大多数は臨床診断のみに終わってし
まうため,真の腫瘍か否か確実性に欠け,把握率という点で問題点を
有すること,腫瘍登録数等の不備なため,検出のバイアスを否定し得
ないとしていること,良性腫瘍のみられる臓器や組織は様々であると
ころ,被爆者に比較的高度にみられる臓器の良性腫瘍は,消化管ポリ
ープ,子宮筋腫,卵巣腫瘍であって,IPMNは,個別にその発症と
放射線との関係が研究,検討されている疾病ではないこと,これまで
膵臓の嚢胞性腫瘍と放射線との関連性を指摘した報告等は発表されて
いないこと(原審における証人P88),組織の放射線感受性は,細
胞分裂頻度の高いものほど高いとされており,これを「最も高い」,
「高度」,「中等度」,「かなり低い」,「低い」という5段階に分
けて評価すると,細胞分裂頻度の低い膵臓上皮放射線感受性は「かな
り低い」と評価されていること(「放射線の基礎医学第10版」平成
16年初版・乙全90)などに照らすと,本件全証拠によっても,I
PMNが良性腫瘍であり,良性腫瘍に放射線による有意な増加が認め
られることを根拠として,IPMNに放射線起因性を認めることは困
難である。
(ウ)また,1審原告P4は,放射線起因性が認められている副甲状腺機
能亢進症を発症した可能性が高く,前記症状が原因で,高カルシウム血
症を発症し,これがIPMNの症状に影響を与えている可能性が考えら
れ,副甲状腺機能亢進症が1審原告P4のIPMNに影響を与えている
ことは否定できないと主張する。
そこで,検討するに,証拠(甲C11の資料6,7,乙C12の1,
2)によると,高カルシウム血症とは,血清カルシウム値が正常上限を
超える血清カルシウム値をみる場合をいい,臨床検査の場合,正常値は
8.8から10.4ミリグラムパーデシリットルとされていること,高
カルシウム血症と診断されるためには,相当程度,数値が正常上限値を
超えていることを要すること,血清カルシウム値が10.3ミリグラム
パーデシリットル以上であれば,高カルシウム血症を疑い,10.5ミ
リグラムパーデシリットル以上であれば,確実であるという医学書もあ
ること,1審原告P4の血清カルシウム値は,昭和60年2月9日に1
0.5ミリグラムパーデシリットル,平成5年9月22日に10.7ミ
リグラムパーデシリットル,平成19年9月19日に9.5ミリグラム
パーデシリットルであることが認められる。以上によると,昭和60年
と平成5年には,臨床検査の場合の正常値を超えているものの,平成1
9年には正常値の範囲内にあり,血清カルシウム値が相当程度,正常上
限値を超えているとは認め難い。
この点について,1審原告P4は,腹痛を訴えており,膵炎に罹患し
ていたとし,同人の膵炎は高カルシウム血症による症状であると主張す
る。
しかしながら,証拠(甲C11の資料8)によると,高カルシウム血
症の症状として,血中カルシウム値が12ミリグラムパーデシリットル
以上になると,ガストリン分泌亢進により胃酸分泌亢進を,さらに消化
性潰瘍や膵炎を合併することがあるものと認められるとの説明がなされ
ているところ,1審原告P4の血中カルシウム値が前記値を超えたこと
を認めるに足りる証拠はないから,1審原告P4の前記主張は採用し難
い。
また,1審原告P4は,膵炎を発症していた場合,血清カルシウム値
が低値を示すことが指摘されているところ,1審原告P4は膵炎発症後
に血清カルシウム値が正常値を示したとも考えられ,これによれば,同
人は,副甲状腺機能亢進症である疑いが高いと主張する。
しかしながら,1審原告P4は,前記認定のとおり,昭和60年ころ
には激しい強い腹痛を訴えて,P83病院への通院を開始して,精密検
査の結果,膵臓に嚢胞があることが発見されているというのであるから,
膵炎を発症したのであるとすれば,その時期は,昭和60年ころか,こ
れに近接した時期であったものと推認される。したがって,1審原告P
4が膵炎を発症したのであれば,その発症時期と推認される昭和60年
ないしこれと近接した日時に,同人の血清カルシウム値は,低下して正
常値を示すものと考えられるところであるが,1審原告P4の血清カル
シウム値は,昭和60年2月のみならず,平成5年9月の検査でも,正
常値の範囲を超えた値を示していたのに対し,平成19年9月には正常
値の範囲内となっているのであるから,1審原告P4が膵炎に罹患した
と考えられる時期と血清カルシウム値との関係は整合していない。その
うえ,証拠(甲C11の資料6)によれば,平成19年9月19日にお
ける同人の副甲状腺ホルモン(PTH-1)の数値は,基準値の範囲内
に収まっていることが認められるので,同人の副甲状腺機能は正常であ
るものと認められる。したがって,1審原告P4の前記主張も採用し難
い。
この点について,P48医師は,1審原告P4が甲状腺組織について
腺腫,過形成及びがんを有していた可能性が高いとする(甲C11)が,
これを裏付けるような,1審原告P4の医学的な検査所見は本件証拠上
見当たらないことに照らして,前記P48医師の見解は,採用の限りで
はない。
これに対し,1審原告P4は,同人には血清カルシウム値が高値とと
もに血清リン値が低値であることが認められ,血清リン値が低値を示す
病態としては,副甲状腺機能亢進症が強く疑われるから,同人は副甲状
腺機能亢進症である可能性が高いと主張する。確かに,同人の昭和60
年2月9日及び平成19年9月19日の検査結果によると,血清リン値
が正常値を下回っていることは認められる(甲C11の資料6,乙C1
2の1)。
他方,証拠(甲C11の資料8)によると,原発性甲状腺機能亢進症
の診断をするに際に考慮すべき要素として,第1に高カルシウム血症の
発症,すなわち実測カルシウム濃度に一定の補正を加えた補正カルシウ
ム濃度が10.2ミリグラムパーデシリットルを超えること,第2に血
中PTHが高値を示すこと,その他として,軽度の低リン血症などがあ
げられているが,前記のような症状が現れる機序として,腸からのカル
シウム吸収が上昇することに起因して血中カルシウム値が上昇,リン値
が下降すること,副甲状腺におけるPTHが上昇することに起因して,
一つには骨吸収が上昇し,それに起因して血中カルシウムの上昇などを
誘発し,あるいは腎におけるリンの排泄を上昇させて,腎でカルシウム
の再吸収が上昇し,それに起因して血中カルシウムの上昇などを誘発す
るものと認められる。したがって,甲状腺機能亢進症の診断には,少な
くともPTH値が上昇していることを要するというべきである。しかし
ながら,前記認定のとおり,平成19年9月19日の検査結果では,同
人の副甲状腺機ホルモン値(PTH値)は正常の範囲内にあり,前記の
とおり,同人の血中カルシウム値も高カルシウム血症の発症を基礎づけ
る程度の高値を示すものとも認められないこと,他に同人の副甲状腺機
能に異常があることを裏付ける検査所見も見当たらないことに照らすと,
1審原告P4の前記主張は,同人が副甲状腺機能亢進症であるという点
において前提を欠くもので,採用の限りではない。
以上より,1審原告P4の前記主張は採用し難い。
(5)総合判断
ア1審原告P4は,IPMNと放射線との関連性に関する知見が十分とは
いえなくとも,同人の被爆当時の年齢,被爆線量等や遺伝子の傷害という
観点からその発生機序が合理的に推認され,がんとも一定の類似性が認め
られるIPMNを発症していることなどを総合的に判断することによって,
放射線被爆が1審原告P4のIPMNの発症や促進に影響を与えているこ
とは優に認められると主張する。
確かに,旧審査の方針においてもこのように原爆放射線起因性に係る肯
定的な科学的知見が立証されておらず,原因確率を設けていない疾病につ
いても,そのことに留意しつつ,なお当該申請者に係る被爆線量,既往歴,
環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を判断するも
のとしているので,その観点に立って検討するに,まず,上記の観点から
総合判断をする場合にも,前記判示のとおり申請疾病と原爆放射線との間
の法的因果関係の立証の程度は,単に申請疾病と原爆放射線との間に関連
性がある蓋然性が認められるという程度では足りず,その間に高度の蓋然
性が認められなければならないものであることが前提となる。そして,1
審原告P4がIPMNの放射線起因性を裏付ける知見ないし事実として種
々主張する点については,前記のとおり確かに同原告の主張に沿う知見が
存在することも認められるが,それらについてはそれぞれ前判示のような
問題点があることに加え,IPMNは放射線被爆がなくても発症し得る疾
病であり,前記認定のとおり男性の高齢者(平均発症年齢67歳)に多く
発症する疾病であること,1審原告P4が発症したのも60歳になった昭
和59年ころであって前記平均発症年齢とも大きく矛盾しないことなどを
合わせ勘案すると,前記認定のように1審原告P4の被爆線量は旧審査の
方針により計算されたものよりも多いことが認められることや,IPMN
についてはそもそも知見が少なく,最近になってようやく病像が少しづつ
明らかになってきており,今後の研究によっては,放射線との関係が明ら
かになる可能性があることを考慮に入れても,いまだ1審原告P4の罹患
しているIPMNと原爆放射線との間に因果関係があることが高度の蓋然
性をもって立証されたものとは認め難いといわざるを得ない。
イまた,1審原告P4は,1審被告厚生労働大臣が定めた新審査の方針で
は,一定の被爆状況にある被爆者については,悪性腫瘍等の一定の疾病に
ついての申請があった場合には,格段に反対すべき事由がない限り,当該
申請疾病と放射線との関係を積極的に認定するというものであり,同人に
ついては新審査の方針が定める被爆距離に関する要件が満たされているこ
とから,このような事実は1審原告P4の申請疾病に放射線起因性を肯定
する1要素であると主張する。
確かに,新審査の方針は,爆心地から一定の距離の範囲内で被爆した者
や一定の条件を満たす入市被爆者について,一般的に放射線起因性が推認
される悪性腫瘍(固形がんなど),白血病,副甲状腺機能亢進症,放射線
白内障(加齢性白内障を除く。)及び放射線起因性が認められる心筋梗塞
についての申請がある場合には,格段に反対すべき事由がない限り,前記
の申請疾病と被爆した放射線との関係を積極的に認定するとしている。
しかしながら,新審査の方針においても,当該申請疾病についての放射
線起因性を原爆症認定の要件としていることに変わりはないものであり,
原爆症の認定においては,申請者の申請疾病ごとにその放射線起因性を判
断するという制度は維持されているものである。したがって,申請者が,
新審査の方針の定める爆心地からの距離以内の地点で被爆したという要件
が満たされている場合であれば,当該申請疾病が前記のような一般的に放
射線起因性が認められている疾病以外のものであっても,当然にその申請
疾病の放射線起因性を肯定する趣旨であるとまでは解されず,また,当該
疾病と原爆放射線との関係が否定できない限り当該疾病と原爆放射線との
因果関係を肯定することを定めたものとも解されない。したがって,この
点に関する1審原告P4の主張も採用し難い。
(6)結論
以上によれば,1審原告P4は,本件1審原告P4却下処分当時,原爆症
認定申請の対象とされるべき疾病について,放射線起因性を具備していたも
のとは認めるに足りないから,本件1審原告P4却下処分は適法というべき
である。
第81審原告らの1審被告国に対する損害賠償請求について
1本件各却下処分の違法と国家賠償法1条1項の違法性
(1)本件訴訟において,原審は,1審被告厚生労働大臣が,1審原告P2に対
してした原爆症認定申請却下処分(以下「本件1審原告P2却下処分」とい
う。)及び1審原告P3に対してした原爆症認定申請却下処分(以下「本件
1審原告P3却下処分」という。)をいずれも違法であるとして取り消し,
本件1審原告P1却下処分及び本件1審原告P4却下処分は適法であると判
断したところ,1審原告ら及び1審被告らがいずれも敗訴部分を不服として
控訴をした。その後,1審被告厚生労働大臣は,1審原告P2について,新
審査の方針によって平成20年6月18日,本件1審原告P2却下処分を取
り消し,原爆症認定処分がなされ(甲D29),また,平成21年8月11
日,1審原告P2及び1審原告P3に対する控訴を取り下げたので,同人ら
に対する原審の判断が確定した。そして,当裁判所は,1審被告厚生労働大
臣が,1審原告P1に対してした本件1審原告P1却下処分は違法であるか
ら取消しを免れないものと判断し,1審原告P4に対してした本件1審原告
P4却下処分は適法であると判断するものである。
そうすると,1審原告P4の1審被告国に対する誤って却下処分をしたこ
とを理由とする損害賠償請求については,その余の点について判断するまで
もなく理由がないことに帰する。
(2)次に,1審被告厚生労働大臣は1審原告P2及び1審原告P3に対する控
訴をいずれも取り下げているから,当裁判所は本件1審原告P2却下処分及
び本件1審原告P3却下処分の適法性については判断をしないが,本件1審
原告P2却下処分,本件1審原告P3却下処分及び本件1審原告P1却下処
分については,結果として,違法な処分であったことに帰する。しかしなが
ら,行政機関が行った行政処分が,前提事実の誤認や処分要件を欠くために
違法と判断されて当該処分が取り消され,これによって,仮に,申請者の権
利ないし利益を害することがあったとしても,そのことから直ちに当該行政
処分が国家賠償法1条1項が定める違法な処分であったものと評価すべきも
のではなく,当該行政機関が資料を収集し,これに基づき前提事実及び処分
要件を認定,判断するうえにおいて,職務上通常尽くすべき注意義務を尽く
すことなく漫然と行政処分をしたものと認められるような事情がある場合に
限り,当該行政処分は国家賠償法1条1項の定める違法な処分との評価を受
けるものと解するのが相当である(最高裁平成5年3月11日第1小法廷判
決)。
そして,前記(付加訂正後の原判決)認定のとおり,1審被告厚生労働大
臣は,1審原告P2について,平成9年6月3日付けで本件1審原告P2却
下処分をし,これに対する異議申立てに対して,平成15年1月9日に異議
申立却下処分をし,1審原告P3について,平成15年2月3日付けで本件
1審原告P3却下処分をし,1審原告P1について,同年1月28日付けで
本件1審原告P1却下処分をしている。
したがって,前記各却下処分が,国家賠償法1条1項により違法と評価さ
れるかどうかを判断するためには,被爆者援護法11条1項に基づく認定に
関する権限を有する1審被告厚生労働大臣が,前記却下処分をするに際し,
職務上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく,漫然と前記各却下処分を
したものであるか否かについて判断しなければならないことになる。
21審原告らは,1審被告厚生労働大臣には,平成12年最高裁判決などで確
立した司法判断を尊重すべき義務があったのに,1審原告らの原爆症認定申請
に対して,重大な欠陥があることが明らかであった旧審査の方針を,その欠陥
を知りながら,あるいはこれを知り得たのに,機械的に適用して申請を却下し
たこと,行政手続法5条1項が規定する審査基準を定めることなく,1審原告
らに対する申請却下処分をしたこと,また,同法8条1項が規定する却下処分
に対する理由の付記をしなかった点で違法であるとして,各却下処分によって
1審原告らが被った精神的苦痛に対する損害を賠償すべき義務があると主張す
るので,以下検討する。
(1)1審原告らは,1審被告厚生労働大臣は,平成12年最高裁判決及びいわ
ゆるP101訴訟判決(平成12年▲月▲日大阪高等裁判所判決)で確定し
た司法判断に従う義務がある旨主張し、前記各判決においてはDS86や一
定線量以上の放射線を浴びないと人体に影響がないというしきい値理論に基
づく原爆症認定行政が非科学的、かつ、不合理であるとされたにもかかわら
ず、旧審査の方針においても抜本的な改革を行わなかったのは、前記義務に
違反したものであるとする。
上記2つの訴訟の確定判決は,いずれも旧審査の方針が平成13年に定め
られる以前の却下処分に関するものであり,確かに,各判決の理由中で,1
審被告国が主張の根拠としたDS86による被爆線量の評価及びしきい値は
絶対的なものであるとはいえず、それらを機械的に適用することは相当では
ない旨を説示しているところがある。しかしながら,両判決はDS86線量
評価システム及びそれを前提とするしきい値理論とを全体的に否定したもの
ではなく、一定の問題点を含みながらもそれなりに信頼に足りるものである
と認めているものであるとともに、平成12年最高裁判決は,爆心地から2
400メートルの地点で被爆し,爆風で飛んできた瓦が頭部に当たり,頭蓋
骨陥没骨折等の傷害を受けた長崎原爆の被爆者が,右半身全片麻痺及び頭部
外傷を申請疾病として原爆症認定申請をした事案において,放射線起因性が
あるとした福岡高等裁判所の判断を是認し得ないものではないとした事案で
あり,また,平成12年▲月▲日の大阪高等裁判所判決は,爆心地から18
00メートルの地点で被爆した広島原爆の被爆者が,肝機能障害及び白血球
減少症を申請疾病として原爆症認定申請をした事案において,放射線起因性
があるとした原審の判断を支持した事案であって,いずれも,個別具体的事
件における放射線起因性について判断を示したものであり、原爆症認定審査
における一般的な審査基準を示したものではない。
したがって、1審原告らの前記主張は前提を欠き,採用できない。
(2)次に,1審原告らは、DS86及びこれを前提とする原因確率論には重大
な欠陥があり、1審被告厚生労働大臣はこれを認識し、あるいは認識し得た
にもかかわらず,旧審査の方針においてこれを適用したのは違法であると主
張するのでその点について検討するに、旧審査の方針における原爆放射線の
被爆線量の算定基準となっているDS86にはそれが理論的な計算に基づく
ものである点において自ずから限界があるのみならず、残留放射能や放射性
降下物の評価についても問題点があり、その計算値が,少なくとも,爆心地
から1400メートル以遠においては,実測値より過小評価となっている可
能性があることは前記認定のとおりである。
しかしながら,申請疾病の原爆放射線起因性を判断するについては申請者
の被爆線量を考慮に入れなければならないことは当然のことであって、旧審
査の方針策定時において、DS86あるいはこれを前提とするDS02より
も優れた線量評価体系は存在しなかったものであり、それ自体問題点を含み
ながらも優れた知見であり、それなりの信頼性があることは否定し難いもの
である。また、原因確率の点についても,放影研による長年の疫学調査の結
果と寄与リスクに関する当時におけるP51論文等の高度な知見に基づくも
のであって、これについても前記のとおり問題点がないではないが、相当な
合理性があるものといえる。したがって、旧審査の方針が、原爆症認定に際
して申請者の原爆放射線の被爆線量を推定し,これを審査の方針の定める原
因確率表に当てはめ,当該申請者の申請疾病の原因確率を算出したうえ,こ
れを一つの目安とし、参考として、当該申請疾病など原爆放射線起因性に係
る高度の蓋然性の有無を判断するという方式を取ったからといって、国家賠
償法上,直ちに違法性があるとまではいうことはできない。
したがって,この点に関する1審原告らの主張は理由がない。
(3)さらに、1審原告らは,1審被告厚生労働大臣は,旧審査の方針を機械的
に適用して1審原告P2らに対する却下処分を行ったと主張し、その根拠と
して医療分科会における1件当たりの審査の時間の短さや認定件数の少なさ
を指摘する。
そこで,検討するに,証拠(甲全156,220,乙全194)及び弁論
の全趣旨を総合すると,平成8年ないし平成11年当時の医療審議会におい
ては,審議会は年4ないし5回の頻度で開催され,各審議会において1日
(5時間程度)当たり,約70ないし80件の原爆症認定申請について審議
がなされていたこと,また,平成13年度から平成17年度までの審査総件
数3655件のうち,原因確率10パーセント未満のもので原爆症に認定さ
れた案件は2件にすぎないものと認められる。しかしながら,証拠(乙全3
8,194)によれば,審議会ないし医療分科会では,放射線医学等の専門
家が関与し,事務局が準備した一定の資料及びこれに加えて然るべき書類の
提出を求めるなどして,これらの資料に基づいて,疾病についての専門の委
員が事前に検討をしたうえ,審議会や医療分科会の審議がなされていたこと
が認められ,審議会等における審議の時間やその結果のみで,当時の原爆症
認定申請に対する審査が形式的,機械的になされていたとの事実を推認する
に足りず,本件全証拠によっても,これを認めるに足りる証拠はない。
(4)また,1審原告らは,行政庁が行政手続法5条1項が規定する審査基準を
定めなかったことを国家賠償法1条1項の違法行為の根拠として主張するの
でその点について検討する。
原爆症認定申請について審査するに当たり,行政手続法5条1項所定の審
査基準が存在しないことについては,当事者間で争いはない。
ところで,行政手続法5条1項が行政庁に対して申請に対する処分の審査
基準を設定することを義務付けている趣旨は,それによって行政庁による行
政処分を公正,適正なものとし,その判断過程の透明性の向上を図り,また
被処分者にとっても,処分を受けることができるかどうかの予測を容易にし
て便宜を図るところにあると解されるから,そもそも,当該許認可等の性質
上,個々の申請について個別的,具体的な判断をする必要があるものであっ
て,法令の定め以上に具体的な基準を定めることが困難であるような場合に
は,同条1項所定の審査基準を定めることを要しないと解すべきである。
これを原爆症認定申請に対する審査についてみるに,原爆症認定における
放射線起因性及び要医療性については,医学的知見,疫学的知見等を基に,
高度に科学的及び専門的な判断がなされるのであり,かつ,その判断はその
性質上,個々の申請について個別的,具体的になされる必要があるのであっ
て,それについて被爆者援護法10条1項の規定以上に具体的な基準を定め
ることは困難であるといわざるを得ないものであるから,行政手続法5条1
項所定の審査基準を定めることを要しないと解するのが相当である。
したがって,本件各処分に行政手続法5条1項違反があるということはで
きず,1審原告らの前記主張を採用することはできない。
(5)さらに,1審原告らは,国家賠償法1条1項の違法行為の根拠として,1
審被告厚生労働大臣が本件拒否処分をするについて行政手続法8条1項が規
定する拒否処分の理由付記をしなかったことを
挙げるので検討する。
行政手続法8条1項が,行政庁において申請により求められた許認可等を
拒否する処分をする場合に,当該処分の理由を申請者に示すことを義務付け
ている趣旨は,それによって行政庁が慎重に判断をすることを求め,その判
断の公正性や妥当性を担保して恣意的な判断を抑制するとともに,処分理由
を申請者に知らせることによって,不服申立てに便宜を与えることにあると
解される。
これを本件についてみるに,本件における却下処分の通知書に記載された
処分理由は,放射線起因性の要件を示したうえ,例えば,1審原告P3につ
いては「先般,疾病・障害認定審査会において,申請書類に基づき,貴殿の
被爆状況が検討され,そのうえで貴殿の申請に係る疾病の原因確率(疾病等
の発生が,原爆放射線の影響を受けている蓋然性があると考えられる確率を
いう。以下同じ。)を求めました。そこで,この原因確率を目安としつつ,
これまでに得られた通常の医学的知見に照らし,総合的に審議されましたが,
貴殿の申請に係る疾病については,原子爆弾の放射線に起因しておらず,ま
た,治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受けてはいないものと判断されま
した。」(甲A1の2)と記載され,他の1審原告らの通知書にもほぼ同様
の記載がなされていることが認められ(甲B1,甲C1の2,甲D4),そ
の各記載から,医療分科会において,被爆状況,医学的知見を基にした検討
がされたこと,申請疾病については放射線起因性の要件が認められないと判
断されたこと,1審被告厚生労働大臣が,医療分科会の答申を受けて却下処
分を行ったことを知ることができるので,上記の程度の理由の記載があれば,
行政手続法8条1項の前記趣旨を満たすものといえ,同項に違反するという
ことはできない。したがって,1審原告らの前記主張は採用できない。
3よって,1審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求はいずれも理由がな
い。
第9結論
以上より,1審被告厚生労働大臣のした1審原告P1に対する本件1審原告
P1却下処分は,違法な処分であるから,これと結論を異にする原判決を取り
消し,1審被告厚生労働大臣のした本件1審原告P1却下処分を取り消し,1
審原告P1のその余の控訴及びその余の1審原告らの控訴はいずれも理由がな
いから,これを棄却することとして,主文のとおり判決する。
名古屋高等裁判所民事第3部
裁判長裁判官高田健一
裁判官尾立美子
裁判官上杉英司
1審原告らの当審における主張
第1被爆の実相と原爆症認定
1原爆の実相
アメリカ合衆国は,昭和20年8月6日広島に,同月9日長崎に,原子爆弾
を投下した。原爆被害は,人類にとって未経験のものであり,かつ,科学的に
未解明部分を多く含むという点,原爆被害が多重性,複合性を有するものであ
る点,原爆被害の中でもとりわけ,深刻かつ,重大である被害が放射線被害で
あるという点に特色がある。
2科学的未解明性
アメリカ合衆国が広島と長崎に投下した2発の原爆は,人類が初めて経験す
る核兵器による攻撃であり,原子爆弾が兵器として使用された例は,その後,
現在に至るまで世界中どこにもない。
この原爆による被害について,原爆投下直後の熱線,それに起因する火災,
衝撃波,爆風という物理的な威力については,これを目撃した者に,人類が今
まで体験したこともないような惨状を見せつけた。原爆は,人間,街,全ての
ものを焼き尽くし,生命あるものを殺し尽くしたのである。
原爆被害は,また,物理力による惨状にとどまらず,放射線による被害をも
たらした。原爆の核分裂の連鎖反応により,莫大な数の中性子線,ガンマ線,
その他の放射線が放射され,これらの中性子線,ガンマ線は,大気中や地上の
原子核に散乱し,吸収されて,線量を減少させながら地上に到達した。大量の
ガンマ線を吸収して作られた火球からもガンマ線が放出され,空気中の原子核
が放出された中性子線を吸収したりして放射性原子核となると,そこからもガ
ンマ線が放出された。また,火球に含まれていた様々な放射性物質が,黒い雨
や黒いすすあるいは放射性微粒子となって,広範囲にわたり地上に降り注いだ。
これらの放射線により,被爆者は,様々な急性症状を発症し,今なお,後障害
に苦しめられている。しかしながら,原爆投下直後,人類にとって経験のない
被害であったことや,入市被爆のメカニズムについて全く知られていなかった
ことなどのため,被爆者を診察した医師にとっても,理解不能な症状が多く現
れ,医師が被爆患者に適切な治療を施すことなど不可能な状況であった。
このように,被爆者らは,甚大な損害を被っているにもかかわらず,その被
害の全体像は必ずしも明らかにされてこなかった。その理由は,アメリカ軍占
領機関による原爆被害の隠蔽及び日本政府による放置の結果,被爆直後の原爆
被害の調査が極めて限定的にしか行われなかったこと,従前に例のない被害で
あるため,放射線による被害,とりわけ,内部被爆による被害の機序や程度に
ついて,科学的に解明,実証がなされず,科学的知見が確立されているとはい
い難いのが現状であること,最も過酷な被害を受けた直接被爆者の多くが死亡
したことなどの事情により,被害の再現が困難であることなどにある。
3被害の多重性,複合性
原爆による被害は,被爆者の身体に生じる身体被害,長く被爆者の心に残る
心の傷,健康不安等の精神的被害に加え,生活基盤の破壊,困窮等の社会的被
害といった何重もの被害が複合的に生じているのが特徴である。身体に生じた
被害については,死亡,熱線ないし爆風による傷害及び後遺障害,放射線によ
る障害及び後遺障害が存する。精神的被害については,被爆者は,身体のあら
ゆる部分をがんをはじめとする様々な疾病に襲われ,不安を持っている。多く
の被爆者は,一時的に小康状態を保っていたとしても,いつ,どこで,どのよ
うな疾病に罹患するかもしれないという一生消えることのない不安を抱きなが
ら生活をしている。また,被爆者は,被爆直後,まさにこの世の地獄のような
惨状や苦しみながら人々が死亡していく様を目撃し,一生,忘れ去ることなど
できない,そのときの恐怖心とともに生活をしている。また,被爆者は,被爆
直後から,いわれのない様々な差別を受けてきた。
4原爆放射線被害の未解明性
放射線被害については,細胞レベルにおける放射線によるDNA損傷等のメ
カニズムはある程度明らかにされつつあり,また,放影研の疫学調査によって,
放射線の影響のある疾患が,非がん疾患を含めて徐々に疫学的に明らかにされ
ている。また,疫学的に原爆放射線により免疫機能の低下や体内における炎症
反応の継続等に線量反応関係があることも明らかにされつつある。
しかしながら,このような免疫機能の低下などが,どのように後障害と関連
するのかは十分に明らかになっているわけではない。原爆による放射線被爆に
よって,それぞれ障害を受けた細胞間や臓器間の相互作用,免疫機能の低下,
ホルモンとの関係,放射線の外部被爆と内部被爆との相互関係がどのようなメ
カニズムによって最終的に人体に影響を及ぼすかなどは,科学的に明らかにさ
れているわけではない。このように原爆放射線の影響が科学的に未解明である
理由は以下の点にある。すなわち,医療放射線による被爆が局所的なものであ
るのに対し,原爆放射線被害が全身被爆であることから,全身に照射された放
射線が相互にどのような作用をするのかについては,全くといってよいほど判
明していないことによるものである。また,人体に影響を与えた原爆放射線は,
初期放射線のみならず,残留放射線(放射性降下物,誘導放射能による。)が
あり,残留放射線による被爆には,外部被爆のみならず,内部被爆もあり,さ
らに,残留放射線による持続的な低線量被爆が,高線量放射線による短時間被
爆よりも深刻な障害を引き起こす可能性があることも指摘されていることなど,
様々な放射線被害が複合的に発生していることによるものである。加えて,原
爆は,爆心地付近では,数千度に及ぶ熱線,衝撃波,爆風を生み出し,これに
放射線による被害が付加されるという複合的な要因によって被害が発生してい
ることによるものである。また,被爆から長時間経過した後に,原爆放射線被
爆に起因する疾患が発生する場合も多く,このことは,ある一定時点において,
統計上,特定の疾病について被爆者の中に有意な増加が認められないとしても,
それは,その時点において,放射線に起因する症状が発現していないだけであ
る可能性があり,直ちに,放射線起因性が否定されるということにはならない
ということによるものである。
5原爆症認定制度の趣旨について
1審原告らの申請疾病について,放射線起因性の有無を判断するに当たって
は,被爆者援護法の前文に記載された原爆被害の異常さや甚大さに対する理解
と同法が承継した原爆医療法及び原爆措置法の趣旨,目的,その下で行われて
いた行政活動,従前の原爆症認定に関してなされた判決の内容などを理解した
うえで判断がなされるべきである。
第2原爆放射線被爆について
1原爆による放射線の影響について
(1)1審被告らの主張の不合理性
1審被告らは,DS86の線量評価を誤りがないものとしたうえで,疫学
的な解析結果に基づいて作成された原因確率を用いて,被爆者らの負傷及び
疾病の放射線起因性を判断することが合理的,かつ,科学的であり,従来の
審査の方針は誤りではないと主張する。しかし,このような主張は,後述す
るとおり,不合理な主張であり,原爆被爆が,全身被爆であること,残留放
射線による内部被爆や持続性のある被爆であること,放射線被爆とともに,
熱線,爆風がもたらした熱傷,外傷,感染症を伴う複合的な被爆であること,
被爆後,長期間が経過した後に疾病が発現することなどの原爆被爆の実態や,
日本の学者が被爆者に対する調査を実施することによって得られた結果を無
視するものであって,以下のとおり,科学的合理性を欠くものである。
アDS86及びDS02の問題点
もともと,DS86の計算値については,近距離で過大評価,遠距離で
過少評価となる傾向があることが指摘されていたところ,爆心地から遠距
離の地点で,一定の核種(コバルト60,ユーロピウム152)の測定値
がDS86の計算値を上回っているなど,DS86による初期放射線の測
定値は,遠距離において系統的に過小評価されている点で問題である。
また,原爆投下後に実施された様々な調査によって,遠距離被爆者に脱毛
等の急性症状が発現しているところ,このような急性症状の発症原因は,
後述のとおり,原爆放射線に起因するものといわざるを得ない。ところが,
DS86による計算値によると,遠距離被爆者が原爆放射線によって急性
症状を発症している事実を合理的に説明することができない。このような
問題点はDS02による計算値においても基本的に解消されていない。
イ原因確率の問題点
審査の方針が採用している原因確率は,放影研が収集した疫学データを
ポアソン回帰分析の方法を用いて得られたものであるが,その方法は,被
爆線量ごとにグループを作り,グループごとに疾病によるリスクを求める
ことで,被爆線量と疾病との間のリスクの組合せのデータが得られ,固形
がんの場合,これらのデータと最も適合するように,被爆線量とリスクの
関係式を1次関数の形式で表すというものである。ところで,放影研の疫
学調査では,被爆線量として残留放射線が一切考慮されていないので,被
爆線量ごとに被爆者のグループを作った時点から,それぞれのグループの
被爆線量は過小評価されていることになる。そうすると,本来,残留放射
線による影響を,被爆していない場合のリスク,すなわちバックグラウン
ドリスクに含めてはならないのに,回帰分析を行う前提となる被爆者グル
ープごとの被爆線量評価の段階で,残留放射線による線量がバックグラウ
ンドリスクに含まれて算出されてしまうことになって,バックグラウンド
リスクは本来より大きく算出される結果,寄与リスクが過小評価されるこ
とになる。このように,原因確率自体,もともと誤ったデータを基にして
解析をしたことによる影響(バイアス)が存在することを否定し得ない。
また,原因確率論は,原爆放射線を原因として発生する疾病数の増加の割
合を問題としているところ,疾病数自体は増加しないものの,原爆放射線
が他の要因と相まって疾病の発生を促進するという場合を考慮に入れてい
ない点で問題があり,原爆放射線が疾病に対して促進要因として作用する
場合があることも否定できないことからすると,原因確率が低いからとい
って,被爆者に生じた疾病と放射線とが無関係であるとすることはできな
いのである。
(2)遠距離被爆について
1審被告らは,DS86,DS02で示されている被爆線量評価は,実際
の測定結果からも裏付けられており,科学的かつ合理的なものであって,1
審原告らの被爆線量は,放射線障害を生じさせる程度の高線量のものではな
いし,1審原告らに現れたという身体症状も放射線に起因するものではない
と主張するが,以下のとおり,その主張は誤りである。
ア放射性降下物について
(ア)放射性降下物による被爆の影響が大きいことについて
広島及び長崎原爆において,原爆によって発生した火球には大量の放
射性原子核が含まれており,火球が膨張することで上昇して温度が下が
ると,放射性原子核は,電子を捉えて放射性の原子となり,原子相互,
あるいは大気中の酸素や窒素と結合して分子となり,さらに合体して放
射性微粒子となった。放射性微粒子を核として,大気中の水蒸気が水滴
を作って原子雲を形成し,その中央部分に生じた激しい上昇気流によっ
て水滴が大きくなり,放射性微粒子が,いわゆる黒い雨となって地上に
落下し,あるいは,下降気流に乗って下降するに伴う温度上昇によって,
水分を蒸発させ,原子雲の下の大気中に充満した。このように,放射性
降下物は,黒い雨に限られず,目に見えない放射性微粒子としても存在
していたのであり,これらが降下した範囲は黒い雨が降下した範囲より
広範囲にわたるものであった。
この点について,1審被告らは,広島及び長崎原爆の爆発は,上空で
起こったものであることを根拠に,未分割の核物質や核分裂生成物の大
半は,瞬時に蒸発して火球とともに上昇し,成層圏に達した後,上層の
気流によって広範囲に拡散したもので,広島市内及び長崎市内に降り注
いだ放射性降下物は微量であったと主張する。
しかしながら,原爆爆発のメカニズムからすると,核分裂連鎖反応が
終了した100万分の1秒後には,爆弾容器はほぼ原形をとどめており,
その内部には,核分裂で生成された放射性の核分裂生成物,核分裂しな
かったウラン235(長崎原爆ではプルトニウム239),核分裂で生
じた中性子によって誘導放射化された爆弾容器などがあったのであり,
放射性物質は,火球表面のショックフロントを起源とする衝撃波や爆風
によって吹き飛ばされることはなかったのだから,1審被告らの主張は
失当である。
(イ)放射性降下物の影響を物理学的に測定することには限界があること
P89らが昭和20年8月9日に広島で採取した土壌中のセシウム1
37をP9らが測定した結果によると,1審被告らが放射性降下物が最
も多く降り注いだ地域であると主張する己斐・高須地区における測定値
より,高い測定値を示した地域(爆心地の西南西2000メートルの地
点で,西大橋東詰の観音本町)がある。また,前記P89により採取さ
れた試料についても,広島では,放射性物質を多く含んだ降雨域と,火
災を原因として発生した降雨域とが重なった結果,後者の降雨により放
射性降雨のもたらした放射性物質の大部分が流失してしまった可能性が
強い。さらに,被爆後相当期間を経過した後に採取された土壌等による
測定値についても,原爆投下後,試料が採取されるまでの間に,台風や
降雨により,放射性降雨が浸透した表面部の土壌の多くが流失した後の
土壌等による測定値である。このように放射性降下物の量を推測させる
測定値が,実際の放射性降下物の量を反映したものではない可能性が高
い。しかも,原爆による被爆が,内部被爆あるいは持続性のある被爆で
あるという特色があることからすると,原爆被爆による人体影響を明ら
かにするには,物理学的測定結果のみに依拠することは不適切であり,
実際に被爆者に起こった被爆実態,すなわち,急性症状の発症率,染色
体異常の頻度,晩発性障害の発症,あるいは死亡の相対リスク等による
生物学的方法によるほかはない。
(ウ)放射性降下物による被爆影響は生物学的方法により推定することが
可能であり,その影響が極めて大きいこと
P33らは,1998年,寿命調査集団の脱毛発症率の爆心地からの
距離ごとのデータをそのまま示した報告をしている。一方,放影研のP
90及びP44が,1950年前後ころにABCCが行ったLSS集団
の重度脱毛調査を基に,DS86による初期放射線被爆線量と脱毛発症
率の関係を調査しているが,このP90及びP44による調査は,DS
86による被爆線量を前提としているため,放射性降下物による被爆線
量が考慮されていない。そこで,P33らの調査による脱毛発症率の距
離ごとのデータと,P90及びP44によるそれとの差が,放射性降下
物の影響によるものと考えられるので,そこから放射性降下物線量を推
定することができる。そのことを表した図が,LSS集団広島の脱毛発
症率(1審原告ら控訴審11準備書面12pの図4)と題する図であり,
これにより得られる被爆線量を,全放射線量,初期放射線被爆線量,放
射性降下物線量に分けて表すとLSS集団広島の脱毛発症率による被爆
線量と題する図(1審原告ら控訴審11準備書面13pの図5)となる。
これによると,放射性降下物による被爆線量は,爆心地から1200メ
ートルにおいて,初期放射線による被爆線量と交わり,1200メート
ル以遠では,初期放射線量より極めて大きな値を示し,爆心地から12
00メートルないし1500メートル地点でピークに達し,その線量は
約1.7グレイとなる。このように,遠距離被爆者についても,1審原
告らが主張するよりはるかに高線量の放射線被爆の受けていたことが明
らかである。このような結果は,紫斑,下痢の発症率に関する調査結果
とも一致している。
そして,長崎原爆においても,その爆発威力が広島原爆より勝ること
を考慮すると,上記と同様のことがいえる。
イ誘導放射化物質について
火球と衝撃波の外にあって原爆から放射された中性子線により誘導放射
化した地上の誘導放射化物質(誘導放射能)は,衝撃波と爆風により爆心
地から粉砕・飛散したものと考えられ,これが残留放射能として影響を与
えたことは否定できない。このような誘導放射化物質は,原爆爆発後に発
生した火災により,広範囲に降下したものと考えられる。この点について,
P29は,原爆爆発後,経過した日数ごとに,爆心地から1000メート
ル以内に入市した被爆者に発症した急性症状の発症率を調査している。こ
の調査によると,中性子によって誘導放射化された残留放射能の影響につ
いて,内部被爆の影響も含めて知ることができ,地上1メートルで,ガン
マ線から外部被爆として受ける被爆線量を物理的に計算したDS86によ
る誘導放射化物質からの放射線量値より,数倍から数十倍以上の線量値が
得られている。このことは,残留放射線被爆の場合,ガンマ線だけではな
く,ベータ線による近接外部被爆及び内部被爆の影響が重要であることを
示しているといえる。
ウ残留放射線の測定例について
(ア)台風後の測定
残留放射線に関する1審被告らの根拠として,原爆投下後の放射線直
接測定あるいは土壌中のセシウム137の測定のデータが,己斐・高須
地区(広島),西山地区(長崎)以外では,低い値を示しているという
点がある。しかし,これら放射線測定については,その多くは,昭和2
0年9月17日の枕崎台風,さらには同年10月9日の台風の後に測定
されたデータであり,土壌中の放射性物質はその多くが既に洗い流され
ており,データの正確性には多大な疑問があることは前記のとおりであ
る。このことは,DS86自体が,「測定の正確性に関する多くの要素
は,爆弾投下後40年たっても良く知られておらず,したがって,被爆
の推定線量は大まかな近似にならざるを得ない。」として,これを認め
ている。
(イ)P89試料とP9論文
なお,台風の影響については,1審被告らは,昭和20年8月9日に
採取された土壌サンプル(P89試料)についてのP9らの分析結果が,
台風後の直接測定結果と一致すると反論する。しかし,上記のP9らの
分析でも,被爆3日後に採取された試料では,西大橋東詰(観音本町)
の測定値(番号7)が高須地区(番号12)の20倍以上となっており,
これからみれば,台風後の測定では,洪水に見舞われた観音本町ではも
はや高い放射能は検出されず,山の手の高須地区では,流出を免れてP
9らの測定と変化のない結果が出たと考えられるのであって,P89試
料は台風の影響を明確に示すものとなっているのであるから,1審被告
らの前記反論は失当である。
(3)入市被爆者への残留放射線の影響
ア誘導放射化物質
1審被告らは,放射化された地上の物質等の元素もごく限られている,
あるいは炭素などはほとんど放射化されない等と主張する。
しかしながら,1審被告らの主張の根拠は,土壌中の物質の誘導放射
化が中心であり,生活の場であった広島・長崎両市のあらゆる物質の検
討をしておらず不当であり,炭素のように,核断面積が小さく放射化し
にくい物質であっても,総量が大量であれば大量の放射性物質が生じる
のである。結局,初期放射線により誘導放射化された放射性物質の量も
看過し得ない多量のものであり,誘導放射化された土壌からの土ぼこり,
建築資材,家屋の木材が焼けたすすなどは,原爆による衝撃波や火災の
影響もあって大量に上空に舞い上がり,原爆本体由来の放射性微粒子と
ともに,単に地上から外部被爆をするだけではなく,皮膚に付着しある
いは体内に取り込まれて,そこで影響を与えることがある。
また,誘導放射化物質が,ごく短期の半減期のものであるとは限られ
ておらず,地上の誘導放射化物質により持続的に被爆した場合には大き
な影響を受けることがあり得るから,1審被告らの前記主張は失当であ
る。
イ放射性降下物
入市被爆者についても,放射性降下物が影響を与えたと考えられる。
すなわち,新審査の基準が一つの目安としている原爆投下後100時間
の時点では,ベータ崩壊系列の途中であり,ベータ線が放射し続けられ
ている。
ベータ崩壊中の放射線の強度は,最初に出される放射線の強さと比較
して,減衰しないどころか,かえって増強することもあるとされる。例
えば,親原子の放射性半減期が娘原子の半減期より長い場合には,崩壊
後の娘原子の崩壊は短い半減期を持つにも拘わらず,親原子の半減期に
従う(これを,「放射平衡を形成する場合」という)。そして,崩壊前
の親原子の放出する放射線と,崩壊後の娘原子の放出する放射線は,最
初の崩壊の場合だけの強度の2倍以上の値に近づいていく。なお,これ
は,崩壊系列が2つの崩壊プロセスだけであると仮定した場合の試算で
あるが,広島原爆の場合,平均4回の崩壊を起こしており,仮に放射平
衡を形成する放射系列が4回続くとすると,放射線強度は最初だけの放
射の場合の4倍以上となる場合もある(甲全67のP25意見書)。
他方,第1の崩壊半減期の方が短い場合は放射平衡を形成せず,第1
の原子の放射線が減衰しきっていない時間内は,最初から第2の半減期
の崩壊が行われたと仮定した場合の放射線強度よりわずかに高い放射線
強度を示し,その後第2の長い方の半減期に従う放射線強度となる。こ
のように,放射平衡を形成する場合も放射平衡を形成しない場合も,放
射系列の最長半減期に従う崩壊(放射線放射)が起こるものであり,放
射平衡を形成する場合は特に,初期の放射線強度を上回る強度を示す。
すなわち,核分裂で生まれた最初の原子の半減期が短いことはほとんど
関係なく,系列の最長半減期が重大な意味を持つのである。
(4)原爆放射線被爆の複雑さ
原爆放射線は,以下のとおり,極めて複雑な被爆態様であったことは明ら
かである。
ア初期放射線と残留放射線
原爆による放射線被爆の特徴として,初期放射と残留放射の複合被爆で
あり,かつ,全身被爆であることが挙げられる。
イ残量放射線の複雑さ
残留放射能による被爆は,放射性降下物と誘導放射化物質の両者を含む
(しかも,外部被爆と内部被爆による。)極めて複雑な被爆態様であるこ
とに大きな特徴がある。
放射性降下物には,核分裂生成物,未分裂のウランとプルトニウム,誘
導放射化された原爆容器があり,広島原爆の場合,ウランは約40種類に
分裂し,約80種類の放射性核種を生じ,これらのうちの多くが一連の崩
壊により,平均4種の放射線核種を生成したため,約300種類を超える
核種が生成されたものである。原爆被爆は,このような様々な放射性核種
による被爆であり,多数の放射性核種が,経口摂取,吸入,外傷からの侵
入という様々な態様で体内に取り込まれ,様々な化学的性質に従って,体
内を移動,蓄積することで,予想し得ない影響を被爆者に与えたものと考
えられる。この点において,単一核種であるセシウム137のみによる放
射線事故であり,経口摂取のみが主として問題となったゴイアニア放射線
事故と原爆被爆とでは被爆形態が異なる。
ウ誘導放射能,残留放射能による被爆について
原爆は高線量の中性子を放出し,その結果,爆心地付近の様々な物質を
誘導放射化し,誘導放射能を生成したものであり,広範囲の地域にわたる
相当高線量の残留放射能の影響も無視し得ないものがある。
エ内部被爆,持続被爆について
原爆被爆の場合は,多種多様な放射線核種から構成される残留放射能に
より,空気,大地,人体が汚染されたが,その際,汚染を除去する処置が
取られないまま,持続的に内部被爆をしたという点に特徴がある。ところ
で,IAEAレポートによれば,汚染型被爆の場合には,放射能の拡散防
止と汚染除去が当初の重要な問題となり,さらに,内部に蓄積した放射能
を体外へ排出する努力がなされることを要するとされている。ところが,
原爆被爆者らは,放射性物質で汚染された被爆地にとどまったり,進入し
たりし,原爆被爆当時,被爆者はもちろん,医療機関も患者が放射線に被
爆しているという知識を欠いていたため,体内,体表面から放射性物質を
除去するという努力は一切なされなかったのである。
また,原爆被爆の場合は,外傷,火傷と複合して,放射線被害を受けて
いるという点に特徴がある。ところで,IAEAレポートによれば,放射
性核種は,洗浄,溶解あるいは剥離物質の皮膚への塗布により,除去され
るべきであり,全身への汚染の拡大を防がなければならないとされ,その
ため,皮膚を通じての物質の通過を促進する物質を使用してはならず,主
要な皮膚の汚染除去は,その部分だけで行われるべきであるとされており,
細心の注意を払って外傷を生じさせないことの必要性が強調されている。
ところが,原爆被爆当時,医療施設の破壊が伴ったこともあり,被爆者ら
は,満足に外傷,火傷の治療も受けられず,上記のとおり放射線核種の除
去という処置も一切なされず,被爆状態が持続した。
以上のような特徴を有する原爆放射線被爆は,医療事故はもちろん,チ
ェルノブイリ,ゴイアニア,P46などの放射線事故とは異なる被爆状況,
被爆態様であった。
(5)原爆被爆者の急性症状について
ア1審被告らの主張について
1審被告らは,P47証言あるいはP45証言を根拠に,被爆による急
性症状は,人種,性別そのときどきの健康状態,栄養状態,放射線感受性,
被爆態様がどのようなものであっても,共通した,しきい線量,発症する
症状の内容,発症時期,程度,回復時期などの明確な特徴があるとの知見
が確立していることを根拠に,このような知見に照らすと,1審原告らに
現れた身体症状は,放射線に起因する急性症状ではないとし,被爆直後の
身体症状に関する調査も,放射線に起因する急性症状を示すものではない
と主張する。
イしきい線量と症状経過について
急性症状を発症した者について,急性症状を発症させるに足りる相当の
被爆があったと考えることは,合理的であるが,同じ被爆状況で,急性症
状を発症しなかった者に被爆がなかったとすることは合理的ではないとい
うべきである。同じ線量を被爆しても,急性症状を発症する者としない者
があることは,各種調査結果に基づく確立した知見である。
これに対し,P47作成の「放射線による急性障害に関する意見書」
(乙193で,以下「P47意見書」という。)が依拠するIAEAレポ
ートで用いられている「急性放射線症」という概念は,透過性の放射線に
よる外部被爆のうち,全身を被爆した場合,その結果起こる血液・骨髄障
害の治療を中心とする概念として用いられているものであり,原爆被爆者
にそのまま適用することはできない。また,IAEAレポートは,放射線
障害の診断,経過観察,治療について重要な情報を提供したとされる事故
として,チェルノブイリ,ゴイアニア,サンサルバドルの事故が参照され
ているが,原爆被爆とこれらの被爆事故とでは,被爆状況が異なり,した
がって,被爆者の症状経過も異なるものであるから,同レポートの定義に
よる急性放射線症と,原爆で認められる急性症状とでは,自ずから内容や
程度が異なるものであって,原爆被害に適用性があるのかは極めて疑問で
ある。さらに,ゴイアニアの放射線事故のレポートによれば,事故被害者
に現れた生物学的影響から被爆線量を推定する手法を用いて,その後の医
療処置の必要性を判断しているのであって,事故の経過や状況から直接線
量評価がなされているものではない。セシウム137による放射線事故で
あるゴイアニア事故においても,セシウム137ではなく,コバルト60
によって得られた線量曲線を補正して線量推定が行われているのであり,
正確な線量評価に基づくデータが得られているわけではない。このように,
放射線事故においては,外部被爆線量を測定することすら困難な場合があ
り,同レポートが,内部被爆の場合で,異なる放射線核種が様々に分布す
る場合には,いつでも線量評価ができるわけではないと指摘しているよう
に(甲全133の1,2),内部被爆が問題となる汚染事故とされるもの
については,線量評価をすること自体,困難である。そうすると,放射線
事故における線量評価の困難性,事故態様の相違からすると,これらの放
射線事故に関するレポートによって,臨床症状に関して,線量に対応した
急性放射線症の統一的な知見が確立されたというわけではない。
以上より,P47意見書などが強調する急性放射線症は,その基礎とす
る知見が,外部被爆を想定し,少数の事故による不確かなデータに限定さ
れた概念である。したがって,IAEAレポートに記載されている症状と
原爆被爆者に現れた身体症状が一致しないからといって,後者が放射線に
起因する急性症状ではないとするのは,論理の飛躍であり,到底受け入れ
難い。
具体的な身体症状については以下のとおりである。
ウ脱毛について
1審被告らは,P47証言を根拠に,脱毛のしきい値は3グレイである
ところ,脱毛よりしきい値の高い症状である下痢が,脱毛のしきい値より
低い線量を被爆したものに発症するという逆転現象が発生していること,
1審原告らの訴える脱毛の症状が,被爆に起因する場合の脱毛の症状(ほ
とんど丸坊主の状態となったのち,2ないし3か月後に発毛するという症
状)と合致しないことや発症時期が異なることなどを根拠に,DS86で
3グレイ未満,とりわけ爆心地から1500メートル以遠で被爆した者に
みられる脱毛は,放射線に起因する急性症状ではないと主張する。
しかしながら,前記のとおりIAEAレポートの急性症状概念や臨床上
のしきい値は,透過性の放射線,外部被爆による傷害を伴う臨床症状を基
礎に構築されたものであって,原爆被爆に直接適用され得るものではない
し,前記のとおりの原爆被爆の複雑性に照らすと,原爆被爆者にみられる
様々な脱毛は,放射線に起因するものと理解することができ,これは,以
下の文献によっても裏付けられている。
(ア)原爆放射線の人体影響1992について
放射線被爆による主要な急性症状には脱毛などがある。脱毛の発生率
は,総線量50ラド(0.5グレイ)における5ないし10パーセント
から約300ラドにおける50ないし80パーセントまでほとんど直線
的に増加し,それ以上の線量においては,しだいに横ばいになっていた
との報告がなされている。
(イ)東京帝国大学医学部医療班の「原子爆弾災害報告書」の「P27・
P91報告」について
放射能症例909例中,脱毛は707例に認められており,しかも,
そのうち,1100メートル以遠で被爆した者は475名(67.2パ
ーセント)に及ぶ。脱毛のしきい値が3グレイであるとすると,DS8
6で3グレイの線量被爆がある地点は,広島では爆心地から1050メ
ートル以内の地点であり,1100メートル(2.37グレイ)以遠で
は脱毛は生じないこととなるが,これは前記の調査結果と整合していな
い。
(ウ)「P90・P44論文」について
この論文は,放影研の寿命調査集団について,3分の2以上の重度脱
毛についてDS86による線量相関を調べ,DS86とT65Dの比較
により生物学的効果比(RBE)を調査しようとするものである。その
結果,0.75グレイの傾斜あたりにおける著明な増加及び2.5グレ
イ付近の水平への移行と,最終的な反応の減少から非線形を示すとされ
ている。そして,「本論文の後半において,モデル構築の努力をDS8
6全体のうちのほぼ0.75から2グレイの線量の範囲に集中する。そ
こでの線量モデルが線形(正比例の意味)である部分がとても適切であ
ると思われる。」と報告している。
加えて,放影研では,この内容を,ヒト細胞組織を移植した重度複合免
疫不全マウス(以下単に「マウス」という。)に,頭皮組織を移植して,
ヒトにおける放射線誘発脱毛の病理学的機序について,線量依存関係を調
べている(甲全140で,以下「P50論文」という。)ところ,3グレ
イまでの範囲において,P90・P44論文による前記の研究結果と極め
て近似した結果が得られており,また,脱毛のメカニズムについては,あ
る特定の線量まで,全く変化がないというのではなく,毛の幅が線形(線
量に比例するという意味。)に減少していて,しきい値がないとされてい
る。ところで,P50論文では,マウスモデルは,ヒトの研究で得られた
データを補充するものであろうとされていることからすると,放影研が,
放射線による脱毛のしきい値について,P90・P44論文によって発表
した重度脱毛の線量反応について,マウスを用いて検討をしたことは明ら
かである。そうすると,放影研が,少なくとも被爆者の脱毛が初期放射線
3グレイをしきい値と考えていないことは明らかである。
なお,脱毛発症に関する調査報告の信用性の点について,1審被告らは,
前記調査報告が,アンケート調査によるもので,調査に伴う偏りや記憶の
不確かさがあると主張する。その根拠となっているものにP34らによる
研究(乙全157)があるところ,前記研究によれば,脱毛の発症率が以
前の調査に比較して,増加傾向にあることを指摘し,被爆者の急性症状の
記憶は不確かなものであると主張する。
しかしながら,被爆直後の日米合同調査団の調査等は,入院患者などを
中心に調査がなされたもので,極めて信憑性は高いものと考えられる。し
かも,P34は,平成18年6月,日米合同調査団による調査結果と,昭
和35年から昭和40年の原爆手帳取得時の情報を照合した結果,急性症
状に関する一致率が極めて高いことが明らかになったとしていることに照
らして,前記研究の信憑性には疑問がある。確かに,1950年代に行わ
れたABCC調査については,被爆者間にABCCに対する拒否反応が強
かったことから,被爆を隠す傾向があり,低い数値に偏る可能性があった
とも考えられるのであり,これらを踏まえることなく,調査に偏りがある
とするのは相当ではない。
エ下痢について
1審被告らは,P47証言等を根拠に,原爆による急性症状としての下
痢には,4ないし5グレイで出現する前駆症状としての下痢と,8ないし
10グレイで出現する主症状としての下痢があり,主症状としての下痢が
出現した場合には,予後が極めて悪いこと,とりわけ,主症状としての下
痢の場合は,今日の医学でも救命することができない放射線による消化管
障害であるから,重篤な皮膚障害が発症していて然るべきところ,被爆者
に発症した下痢には,このような特徴はみられず,下痢の発症者に重篤な
皮膚障害が発症したという事例は報告されていないので,被爆者に発症し
た下痢は,原爆による急性症状としての下痢に該当しないと主張する。
しかしながら,前記の主張は,原爆被爆者における内部被爆を含む残留
放射線による被爆態様を無視した議論であり,不適切なものであることは,
脱毛について述べたところと同様である。そして,原爆被爆の場合には,
体外からの透過性の被爆に限定されず,放射性物質を取り込み,その放射
性物質が体内から消化管に直接触れるような状況,すなわち,アルファ線
やベータ線,ガンマ線を放出する放射性物質を経口摂取し,これが胃腸管
を通過して直接胃腸管粘膜の細胞に影響を与えることで下痢を起こすこと
が考えられ,持続的にこのような物質を摂取することによって,持続的に
下痢を発症することも考えられる。また,様々な被爆形式により,ホルモ
ンの異常を来して,これに伴う自律神経の変化により下痢が生ずることも
考え得るし,各種の調査結果によると,下痢の発症率については,放射性
降下物による影響が大きい遠距離では,脱毛や紫斑などの他の急性症状の
発症率よりもかなり高く,初期放射線による外部被爆が大きい近距離では,
逆に,前記他の急性症状の発症率より低いという特徴が共通して示されて
いる。このことは,下痢の発症には,透過性の高い高線量の外部被爆と,
透過性が必ずしも高くない放射線による内部被爆の両者によるものがある
ことが示唆されているといえる。
オ白血球異常について
1審被告らは,白血球数は3000でも正常値であり,3000以下に
なったからといって,それが放射線による影響の結果であるとはいえない
と主張する。
しかしながら,陸軍軍医学校報告(乙全137)には,9月6日に出血
斑の出現を軍医から指摘され,同月24日の検査時に白血球数が3200
と低下した軍人の存在や,被爆4日後に入市して作業した者の白血球数が,
2500(9月5日),その後,3700から4700と白血球数が回復
したことが記録されている事例がある。これらの事例は,1審被告らの主
張及び審査の方針別表によれば,残留放射線量が0とされる者にみられて
いる。また,前記報告では,原爆直後の8月15日ころまでに広島市内で
行動したδ村の住民についても調査がなされ,黒い雨にあわなかったのに,
相当期間経過後も白血球数の減少や急性症状を呈するものがあることが指
摘されているのであり,1審被告らの主張は失当である。
カ他原因論(心理的・精神的影響論)について
1審被告らは,控訴審になって1審原告らが放射線による急性症状と主
張する症状を心身症ないし心理的影響から説明が可能であると主張するに
至った。そして,P46事故において,身体症状を発症するような放射線
被爆をしていない者が,事故後2年以上経過しても様々な身体症状を発症
している事実を指摘する。
しかし,本当にP46事故について放射線の影響ではないと断定するこ
とができるのか,その断定は現時点ではいまだ困難である。
ところで,調査主体,調査規模,調査時期が異なる日米合同調査,東京
大学報告,陸軍軍医学校による調査,P29報告のいずれにおいても,広
島においても,長崎においても,爆心地から2000メートル以遠で被爆
した者に,脱毛や紫斑ないし皮下出血が生じていること,これらの症状を
生じたとする者の割合が,被爆距離に応じて減少していること,地形や遮
蔽による相違による発症率の相違がみられるとの結果が得られている。こ
のような調査結果からすると,これらの急性症状が発症した原因が,1審
被告らの主張する心因,感染,栄養失調にあるとすることは説明不可能で
あり,むしろ,放射線に起因するものとしか説明がつかないのであるから,
1審被告らの主張は失当である。
(6)内部被爆について
アホット・パーティクル論について
1審被告らは,ホット・パーティクル論(わずかな放射性物質でも体内
に摂取された場合,アルファ線等による高線量の被爆をもたらすとするも
の)について,専門家の間では一切通用しない異説にすぎない,あるいは
ホット・パーティクル理論の提唱者によると,ロッキーフラットの軍事工
場の事故で被爆した者は全員肺がんとなると予想されていたところ,結局
その後も,これらの者に肺がんが発症しなかったことから否定された等と
主張する。
1審原告らは,アルファ線のみに依拠して議論をしているわけではなく,
同じく体内で被爆した場合に大きな影響を及ぼすベータ線,ガンマ線の影
響も主張しているものである。そして,一定範囲で直接被爆していない細
胞の周囲に遺伝的不安定性をもたらすバイスタンダー効果や,遺伝的不安
定性にむしろ注目が集まりつつあることを考慮すべきである。
また,1審被告らは,内部被爆を評価するうえで着目すべき放射線核種
は,セシウム137とストロンチウム90であり,これらの放射線核種は
体内から早く排除されるので,内部被爆を考慮する必要はないと主張する。
しかし,放射性降下物による内部被爆では,半減期が短く,線量率(単位
時間当たりの被爆線量)が高い放射線核種も問題となるのであって,これ
らは,半減期が比較的長いセシウム137,ストロンチウム90と異なり,
人体に取り込まれてから体外に排出されるまでの間に,急速に崩壊し,多
量の放射線を放出するものであるから,セシウム137などより,人体の
影響は大きいものとなる。
イ低線量被爆の影響
さらに,低線量被爆の問題がある。低線量被爆の人体影響については,
現在においても未解明な部分が多くを占めている。これは,低線量被爆の
人体影響を疫学的に証明するためには,1000万人規模の疫学調査が必
要となり,疫学的側面からの裏付けが事実上不可能だからである。しかし,
細胞レベルや動物実験レベルにおける研究においては,逆線量率効果(単
位時間当たりの放射線量が低いほどリスクが上昇する効果のこと。),バ
イスタンダー効果(アルファ線照射を受けた細胞に隣接し,照射を受けて
いない細胞に遺伝的効果が生ずること。),ゲノム不安定性(低線量領域
で,DNAの突然変異によりも,悪性形質転換の頻度が圧倒的に高いこ
と。)等の現象が報告されており,これらの現象は低線量被爆の危険性を
示唆するものである。
2判決からみた放射線被爆の認定について
1審被告らは,一貫して,放射線による急性症状は,最低でも1グレイ程度
以上,脱毛は頭部に3グレイ程度以上,下痢は腹部に5グレイ程度以上被爆し
なければ発症しないこと,この点は,今日における放射線医学の常識であると
主張し,新審査の方針採用後も,放射線影響の範囲に関する主張を変更しない。
そして,DS86ないしDS02による線量評価を基礎にして,1500メー
トルないし2000メートル以遠での被爆者に認められた身体症状も,原爆の
初期放射線に起因するものとはいえないと主張する。
しかしながら,平成19年7月までに出された同種訴訟における6つの地方
裁判所の判決は,それぞれ被爆者に生じた健康被害の実態に基づいて,旧審査
の方針の形式的な適用を強く批判した内容である。その後も,平成20年▲月
▲日に大阪高等裁判所,同月▲日に仙台高等裁判所,平成21年▲月▲日に東
京高等裁判所などで判決が言い渡され,これらの判決は,いずれも,DS86
の初期放射線の線量評価の問題点を指摘し,遠距離被爆者,入市被爆者にみら
れた身体症状を放射線に起因する急性症状であると認定して,これらの原爆被
爆者について,残留放射線による被爆や内部被爆の可能性が考慮されるべきで
あることを指摘したものであり,個々の原爆症認定申請者についての原爆症該
当性の有無を判断するに当たっても,原爆時の状況,被爆後の行動,被爆後の
現れた急性症状,被爆前の健康状態や生活状況,被爆後の健康状態や生活状況,
申請疾病の内容や発症経過を考慮し,原爆被害がなければこのような病気にな
ることはなかったということに通常人が疑いを差し挟まないかどうかを,被爆
者援護法の精神に則って判断すべきであるとして,総合判断の重要性を指摘す
るものである。これらの判決を十分斟酌して,1審原告らの申請疾病と放射線
起因性の判断がなされるべきである。
第31審原告らの原爆認定症要件の検討
11審原告P1について
(放射線起因性について)
(1)1審原告P1の被爆状況とその後の健康状態について
1審原告P1は,原爆投下当日,爆心地から約3100メートルの地点で
被爆し,その後,爆心地から約600メートルの地点まで,病院を探して歩
行し,黒い雨を浴び,同月15日ころまで長崎市内にとどまっていた。
同人は,被爆するまでは,健康体であったが,被爆後,以下のとおりの症
状を発症し,これらは典型的な被爆による急性症状に該当する。
ア脱毛
1審原告P1は,遅くとも昭和20年8月20日ころには,頭をなでる
という軽い刺激で,頭髪が何本も抜けるような状態となり,1週間もしな
いうちにほとんど丸坊主になり,1か月後には完全な丸坊主になった。
イ出血傾向
1審原告P1は,同月17日ころから鼻血が出るようになった。それも,
黒い鼻血の固まりが大量に出るという態様であり,同月23日ころまで続
いた。また,同月23日ころから,血便が出始め,ほとんど尿のように肛
門から血が噴き出すような状況で,1日に7ないし8回もトイレに行かな
ければならないような状態であった。その後,血便は,しだいにどす黒い
粘り気けのある血の塊のようなものに変わっていき,排便の際にはみぞお
ちあたりに激しい痛みを伴い,レバーのような血の混じった下痢は,その
後,2か月ほど続いた。
さらに,1審原告P1は,昭和21年当初ころから歯のぐらつきや歯茎
から出血するようになった。
ウ吐血
1審原告P1は,同月25日ころ,どろりとした痰のような血の塊を口
から吐くようになり,吐血は2日間ほど続き,3ないし4回,親指ほどの
大きさの血の塊を吐いた。
エ易出血性
同月25日ころ,1審原告P1は,皮膚に対するわずかの刺激で,紫色
の痣が広がり,容易に内出血するような状態となっていた。
オリンパの腫れ
1審原告P1は,同年9月中旬ころ,両耳の下のリンパ腺が腫れた。
カ月経異常
1審原告P1は,被爆直後から無月経の状態が続いた。
キ易疲労性
1審原告P1は,被爆後,身体がだるくて脂汗が出る状態で思うように
仕事ができない状況が続いていた。
(2)1審原告P1の被爆線量について
1審原告P1は,原爆投下後,2ないし3時間経過後,爆心地付近に進入
しており,爆心地付近での誘導放射能の影響は,原爆投下に時間的に近接す
ればするほどその影響が大きいことに照らすと,相当程度の誘導放射能に被
爆していることは容易に推定できる。また,同人は,8月15日ころまで,
長崎市内にとどまり,誘導放射線や放射性降下物を浴び,放射能に汚染され
た食物等を体内に摂取するなどして内部被爆をしていること,重篤な被爆に
よる急性症状を呈していることなどからすると,相当程度の高線量の放射線
被爆をしていることは明らかである。
(3)白内障の放射線起因性について
ABCCでは,昭和38年(1963年)から平成14年(2002年)
までの間,原爆白内障について,多数の被爆者を対象とした調査を3回行っ
た結果,新たな知見が得られている。すなわち
ア1960年代までの調査
「原爆放射線の人体影響1992」第6章原爆白内障に関する研究報
告によれば,原爆に起因する白内障の特徴として,水晶体後嚢下混濁,
被爆後数年以内の発症と停滞性,DS86線量で1.75シーベルトに
しきい値を持つ確定的影響を受けるというものである。ただし,前記の
ような原爆白内障の特徴とされる病理象や発症経過は,調査対象が19
60年代までの白内障発症事例に限定されるという時間的制約のあるも
のであった。
イ1980年代までの調査
P92は,放影研第2回目調査(1978年から1980年)の筆頭
報告者であり,その間の研究成果(以下「P92報告」という。)を,
次のとおり報告している。すなわち,被爆時年齢と水晶体の放射線感受
性に関して,水晶体の放射線感受性は若年時被爆に極めて高いことを明
らかにし,このことによって,放射線白内障(後嚢下混濁)発症のしき
い値線量が可変的であること,あるいはその可能性があることを示すと
ともに,水晶体の加齢現象である老人性白内障の頻度が被爆者に高いか
どうかの検討が必要であることを指摘した。
ウ2000年代までの調査
原爆被爆者における眼科調査(広島医学57巻4号所収の論文で,以
下「P74論文」という。)は,広島,長崎放影研の成人健康調査対象
者のうち,被爆時の年齢が13歳未満の者全員及び昭和53年(197
8年)から昭和55年(1980年)の間に眼科調査を受けたものにつ
いて,平成12年(2000年)6月から平成14年(2002年)9
月までに,細隙灯顕微鏡検査,写真撮影等の眼科調査を行い,873名
について統計的解析を行った調査結果を報告した論文である。P74論
文では,原爆白内障では,1.75シーベルト未満の被爆線量では発症
しないとする従来の原爆白内障に対する考え方が妥当しないことを明ら
かにし,被爆時年齢13歳未満の者が,被爆後10数年を経過して水晶
体後嚢下に混濁を発症した場合,放射線との有意な関係が認められると
し,また,老人性白内障に現れやすい皮質混濁と放射線との間に有意な
関係があるとして,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係におい
て,遅発性の放射線白内障及び早発性の老人性白内障に有意な相関が認
められたと結論づけている。
また,「原爆被爆者における白内障有病率の統計解析2000-20
02」(長崎医学会79巻所収の論文で,以下「長崎医学」という。)
は,白内障線量関係の統計的解析及び白内障線量反応におけるしきい値
を検討した論文であり,同論文によれば,皮質混濁,後嚢下混濁では線
量効果は有意であることに加え,皮質混濁と後嚢下混濁では線量反応に
しきい値は存在しないことを明らかにしている。
そして,P74論文は,広島大学,長崎大学の各眼科教室及び放影研
等の放射線に起因する疾病に関する専門家集団が多数参加した共同プロ
ジェクトによって作成され,厳密な医学的,疫学的検証が要求される国
際的学術専門誌で発表されたものであって,長崎医学,P93やP94
による論文でも同趣旨の報告がなされている。このように,P74論文
が示した前記知見は,国内的にも国際的にも普遍性を持つ知見である。
以上のとおり,放射線に起因する白内障に関する知見によれば,従来の
早発性,かつ,高線量被爆をした被爆者に発症してきた白内障に加えて,
遅発性の後嚢下混濁白内障が存在することが認められるようになっている
のである。
(4)1審被告らの主張に対する反論
これに対し,1審被告らは,P74論文では,中間危険因子で調整した場
合の1シーベルト当たりのオッズ比(危険因子非暴露群の罹患のリスクに対
する暴露群の罹患のリスクの比である相対危険度の近似値)が,皮質混濁及
び後嚢下混濁で1.3程度で高くはないこと,P74論文では,核色調につ
いて放射線との相関が認められないとの結果が示されていることをもって,
放射線白内障の所見である色閃光を呈する限局性の混濁,すなわち後嚢下混
濁についても放射線との相関が認められないということになって従前の放射
線白内障に関する知見と齟齬すること,遅発性白内障の発生機序が不明であ
ることなどから,P74論文の信用性を否定し,P74論文をもって,1審
原告P1に発症した白内障が放射線に起因することを根拠づけることはでき
ないと主張し,P76教授の意見書(乙全81で,以下「P76意見書」と
いう。)を挙げる。しかしながら,P76意見書を根拠とする1審被告らの
前記反論は,以下のとおり,いずれも理由がない。
アオッズ比が低値であるとの点について
P76意見書では,後嚢下混濁の被爆者1シートベルト当たりのオッズ
比が1.3程度と高くないことを理由に,遅発性放射線白内障の発症を疑
問視する。しかしながら,統計学的数値は,その疫学的有意性によって決
せられるべきであり,P74論文では,P<0.001とされている。P
値とは,その影響がどの程度の偶然によって説明し得るかを示すものであ
り,前記の場合,偶然に生じる確率が0.1パーセント未満であることを
示しているのであるから,分析結果の信用性は高いものといえ,1審被告
の反論は失当である。
イ核色調について放射線量との相関が認められないとの結果が示されてい
る点について
確かに,P74論文では,核色調と被爆線量とが相関関係を示していな
いとの結果となっているが,核色調とは,水晶体中心部にある核の部分の
色調をいうのであって,後嚢下混濁にみられる反射光(色閃光)とは別物
であって,P74論文では,後嚢下混濁と被爆線量とが相関していること
を示しているから,この点に関する1審被告の反論は失当である。
ウ発生機序が不明であるとの点について
P76意見書では,遅発性原爆白内障の発生機序が不明であることを理
由に,P74論文をもって1審原告P1の白内障が放射線に起因している
ことを基礎づけることはできないと主張する。しかしながら,放射線によ
る後嚢下混濁の機序は,厚生労働省の委託研究事業である「電離放射線障
害に関する最近の医学的知見の検討」(甲全85の28)によると,水晶
体の上皮細胞のゲノムの遺伝子の変異が原因とされている。そして,P9
5らの論文によると,放射線白内障では,遺伝子異常が早期に発現する場
合と,数十年以降に発現する場合が指摘されている(甲B7)。確かに,
放射線が,実際にどのように水晶体上皮細胞の遺伝子を障害するのかは,
いまだ完全には解明されていないが,遺伝子変異が原因であることについ
ては,相当程度の研究がなされているのであり,P74論文では,放射線
被爆以外の危険因子(交絡因子)を除外して分析がなされおり,放射線被
爆が原因となって,遅発性放射線白内障が発生するという点については,
明確に肯定されているのであるから,1審被告らの反論は失当である。
(5)原判決が放射線起因性を否定した理由とこれに対する反論
ア原判決が1審原告P1の白内障について放射線起因性を否定した理由
原判決は,1審原告P1の被爆線量は相対的に限定されたものであると
して,被爆線量を過小評価し,同人に発症した老人性白内障と区別するこ
とが困難であること,また,原爆白内障における放射線との関係は,一定
の被爆線量(しきい値)以下では発症しないという確定的影響の関係にあ
るか否かは,今後の調査研究に待たなければならないとして,1審原告P
1の申請疾病について放射線起因性を否定した。
イしかしながら,1審原告P1の被爆線量については,(2)記載のとおり,
相当高度の線量を被爆しているというべきである。
ウまた,1審原告P1に発症した白内障が老人性白内障と区別することが
困難であるという点については,1審原告P1には,水晶体の後嚢下に混
濁が初発しているのであるから,原爆白内障の特徴的な所見を示していた
ものであり,老人性白内障との区別は可能である。また,原爆被爆者にお
ける老人性白内障(皮質混濁)にも,しきい値のない線量反応関係が有意
に認められる知見(P74論文)が得られるに至っているのであるから,
白内障の放射線起因性を判断するに際して,老人性白内障との区別をする
必要はない。
エ原爆白内障における放射線との関係が,確定的影響の関係にあるか否か
という点については,(3)に記載のとおり,P74論文及び長崎医学によっ
て,遅発性放射線白内障発症(後嚢下混濁発症)には,原爆白内障が1.
75シーベルトのしきい値による確定的影響の関係にあるとの従来の知見
が当てはまらず,むしろ,確率的影響の関係が認められるとの知見が得ら
れているのであるから,この点をもって,1審原告P1の白内障が放射線
に起因することの証明が不十分であるとするのは不当である。
(6)小括
以上より,原爆白内障において,遅発性の後嚢下混濁白内障が確率的影響
の関係にあるという知見が認められるようになったことに加え,1審原告P
1の被爆線量が相当程度高度なものであり,原爆白内障に特徴的な水晶体後
局部後嚢下に混濁が初発していることから,1審原告P1に発症した白内障
が原爆放射線に起因することは明らかである。
(要医療性について)
1審原告P1は,両目に原爆放射線白内障を発症した後,片目について手術
をしたが,その後投薬治療を受けるなどしており,要医療性を有する。
21審原告P4について
(放射線起因性)
(1)1審原告P4の被爆状況及びその後の健康状態について
1審原告P4の被爆状況及びその後の健康状態に関する原審の事実認定は,
基本的に,1審原告P4の主張のとおりである。すなわち,1審原告P4は,
被爆当時20歳で,原爆投下当日,爆心地から約1500メートルの地点で
被爆し,その後も爆心地周辺で相当期間作業を行い,様々な身体症状を発症
した。同人は,被爆するまでは,健康体であったが,被爆後,以下のとおり
の症状を発症し,これらは典型的な被爆による急性症状に該当する。
(2)1審原告P4の被爆線量について
1審原告P4の被爆状況,被爆後の救護活動の状況,その間黒い雨に打た
れていること,被爆直後から発症した急性症状の程度,状態からすると,1
審原告P4が,初期放射線,放射性降下物や誘導放射能によって外部被爆及
び内部被爆した被爆線量は相当高線量であったものというべきであり。この
点については,原判決が認定するとおりである。
(3)1審原告P4の申請疾病はIPMNであることについて
1審被告らは,1審原告P4の膵臓病変について,囊胞に多房性が認めら
れないこと,膵管の拡張が認められないことを理由にIPMNであることを
争い,仮性囊胞にすぎないと主張する。
しかしながら,1審原告の主治医は,1審原告P4の膵臓病変について,
平成4年の超音波内視鏡検査で多房性であることを確認し,ERCPで主膵
管との交通を認め,囊胞のサイズが増大傾向にあることを認めたとしており
(甲C2),実際,超音波内視鏡検査の写真によっても,多房性であること
が確認できる(甲C6)。また,膵管の拡張が認められないとの点について
は,IPMNは,必ずしも,膵管の拡張を伴わない症例もある(甲C3)。
したがって,1審原告P4の申請疾病である囊胞性膵腫瘍がIPMNであ
ることは明らかであって,1審被告らの主張は失当である。
(4)IPMNと放射線との関係
アIPMNと悪性腫瘍との類似性について
IPMNは,悪性化の過程にある腫瘍であり,少なくとも,悪性化の可
能性のある腫瘍であることは,以下の知見に示されるとおり,医学的に一
般的な知見である。
(ア)「見直される膵腫瘍ー2001年ー特に囊胞性膵腫瘍について」
(甲C3)によれば,IPMNは,良性から軽度悪性化した組織,そし
て全くがんとなった場合まで含まれ,がん化への移行過程にあるという
点に特質があるとされている。
(イ)「カレント・メディカル診断と治療第42版」(甲C5)では,
一般的考察としてIPMNが前がん病変であると明示されている。
(ウ)「粘液囊胞性腫瘍と膵管内乳頭粘液性腫瘍」(甲全69)によれば,
IPMNには,病理学的に過形成から腺腫,異形性,上皮内がんから進
行がんなど,広範囲の組織型が含まれ,分枝型では,上皮内がんや腺腫
が有意に高率に認められ,分枝型の悪性の頻度は約20パーセントであ
るとされている。
(エ)近年の学会の報告では,IPMNががんにみられる特質などを持っ
ていることなど,がん関連の遺伝子変化やがん関連の蛋白の発現異常が
IPMNに認められることが報告されており,IPMNの病態が初期の
発がん段階であることが示唆されている(甲C11)。
また,WHOの分類すなわち,組織学的な観点からすると,IPMN
は,悪性と良性との境界に分類される。そして,近年の遺伝子解析技術
の進歩によって,大腸粘膜や大腸ポリープのがん化の過程として,正常
遺伝子段階,異常遺伝子の出現段階,浸潤性増殖あるいは移転を示す複
数異常遺伝子の蓄積段階をたどることが解明され,固形がんは,一般的
にこのような経過をたどるものと理解されている(甲C12)。このよ
うな理解によると,IPMNも,前記と同様のがん化の過程をたどるも
のと理解することができ,IPMNと膵臓がんとの差異は,異常遺伝子
が蓄積した程度の差に由来するものと理解することができる。したがっ
て,IPMNと膵臓がんとは,連続的で非常に類似した特性を有するも
のと理解される。
イ1審原告P4のIPMNも膵癌と類似した特性を有しており,悪化の可
能性があること
前記のとおり,1審原告P4の申請疾病はIPMNであり,がん化への
移行過程にある病変であるという特質を有し,主治医は,1審原告P4の
IPMNについて悪化の可能性を否定できないから,経過観察をしている
のである。
これに対し,1審被告らは,1審原告P4の主治医が,病変について積
極的な切除手術を要するとの判断をするに至らなかったのは,病変につい
て悪化の見込みがないと判断しているからであって,1審原告P4の病変
には悪化の可能性はないと主張する。
しかしながら,主治医,1審原告P4の病変について,悪性と判断した
ものではないが,それは,悪性と診断するだけの判断材料がなかったこと
によるもので,悪性化の見込みがないと判断したものではない。また,手
術適応の点についても,主治医は,膵嚢胞性病変に対する下穿刺吸引組織
生検診法による組織採取は,現時点で危険性が大きく,原則禁忌とされて
いることによるものであって,悪性の見込みがないと判断したからではな
いから,1審被告らの主張は失当である。
また,1審被告らは,1審原告P4の病変が,IPMNであったとして
も,悪性と判断されない以上,良性のものであると主張する。
しかしながら,現在の医学的,科学的知見は,固形がん一般について,
良性でも悪性でもない「境界」というカテゴリーやがん化の移行過程にあ
る前がん病変というカテゴリーを認めているのであり,IPMNは,組織
学的な観点からすると「境界」に属することは前記のとおりであるから,
1審被告の前記主張も失当である。
ウ膵癌と放射線との関係について
(ア)IPMNと悪性腫瘍との類似性による対比からすると,IPMNに
放射線起因性が認められる。すなわち,IPMNは前がん病変であり,
近年の研究によれば,IPMNに膵癌と類似した特性が認められる。そ
して,IPMN自体については放射線起因性を研究したものがないので,
IPMNの放射線起因性については,これと類似した特性を有する膵癌
との比較検討によってこれを決することが科学的,合理的である。
(イ)膵癌の放射線起因性について
膵癌について,放射線被爆の影響を肯定する知見は,以下のとおり,
多数存在する。
a放影研寿命調査第9報第3部には,長崎原爆被爆者の腫瘍発症に関
して,膵癌の過剰相対リスクが統計的に有意であったとされている
(甲C8,乙全12)。
b広島大学原爆放射線医学科学研究所によると,被爆者の膵癌に関す
る過剰相対リスクに有意性が認められたとされている(甲C10)。
c放影研寿命調査第13報(以下単に「13報」という。)では,ど
の固形がんも被爆による発症のリスクは同様である可能性が指摘され,
放影研「被爆者の固形がん発症率調査」では,膵,前立腺,腎でのが
ん発生について,線量反応の統計学的有意性は示されていないが,こ
れらの臓器における過剰相対リスクは固形がん全体の場合と同じであ
るとされ,放影研LSS第14報(以下単に「14報」という。)で
は,13報で指摘された結果を裏付けるものとなったとされている。
また,13報では,5大病理組織分類,扁平上皮がん,腺がん,他
の上皮がん,肉腫,他の非上皮がんの分類から発がんリスクを検討し
た場合,全ての病理組織でリスク増加が認められたとされている。
(ウ)これに対し,1審被告らは,前がん病変については,一般に放射線
との関連を示す知見がない以上,がんと同様に考えることは科学的に誤
りであり,原則として放射線との関連性は否定されるべきであると主張
する。
しかしながら,IPMNががんと類似性を有することは前記のとおり
である。また,知見がないという場合であっても,前がん病変について
は,知見を得るための研究が,そもそも,なされていないということに
よるものである。このような研究の欠如による不利益を原爆被爆者に負
わせることは,被爆者援護法の趣旨に反するものであり,知見がないの
であれば,他の参考となる知見から類推して判断することが合理的であ
り,このような観点からは,IPMNについては膵臓がんとの比較検討
をすることが最適であることも前記のとおりであるから,1審被告らの
主張は失当である。
(エ)1審原告P4の場合について
IPMNそのものと放射線との関連性に関する知見が存在しないとし
ても,これを肯定することが可能な相応な知見があること,爆心地から
1500メートルという近距離で直接被爆したこと,1審原告P4の被
爆状況及びその後の急性症状の発現状況などを勘案すると,同人が相当
高線量の被爆をしていることが認められることなどを総合的に判断すれ
ば,1審原告P4の申請疾病に放射線起因性は認められる。
エ良性腫瘍と放射線の関係について
1審原告P4のIPMNが良性のものであったとしても,良性腫瘍につ
いても放射線起因性は認められる。すなわち,良性腫瘍と放射線に関する
知見には以下のようなものがある。
(ア)放影研「成人健康調査第6報」(甲C9で,以下「第6報」とい
う。)によると,良性腫瘍について,線量とともに有病率が増加する所
見は,リンパ,造血系を除く全がんの場合と同様であるとされ,このよ
うな傾向は,全般的にも両市,両性ともにみられ,200ラド以上の群
では0ラド群の2倍に達し,この傾向は近年に至るほど強くみられ,線
量に伴う増加はどの年齢群にも観察されるが,被爆時年齢が10歳代な
いし20歳代では一貫性が高いことが指摘されている。
(イ)原爆放射線の人体影響1992(乙全14)によると,第6報にお
ける前記の知見について,良性腫瘍の疫学研究については,把握率が大
きな影響を持つことから,一定の疑義を挟みながらも,成人健康調査は
常に一定の基準によって診断が行われてきていることから,信頼性が高
いものと評価している。また,爆心地から1500メートル以内で被爆
した人と,非被爆者との間に良性腫瘍の罹患率について有意な差がみら
れたとの報告もなされている。そして,放射線ががんの発現に及ぼす主
要な機構としては,遺伝子の傷害が考えられているので,良性腫瘍につ
いても放射線が同様の作用を及ぼすことは十分に考えられるとして,発
生機序の面からも肯定が可能であるとの考察を行っている。
以上のような研究結果からすると,放射線被爆と良性腫瘍の発生につ
いては,有意な関連が示されているといえる。
オ1審原告P4の副甲状腺機能亢進症について
1審原告P4は,副甲状腺機能亢進症,高カルシウム血症を発症してい
た可能性が高く,これらが1審原告P4のIPMNに影響を与えている可
能性がある。
(ア)1審原告P4に高カルシウム血症及び副甲状腺機能亢進症が認めら
れること
1審原告P4には,血清カルシウム値が高く,血清リン値が低いこと
が認められる。血清カルシウム値を上げ,血清リン値を下げる作用とし
ては,副甲状腺ホルモンの作用増大が考えられる。そして,平成19年
9月19日には,血清リン値が2.1ミリグラムパーデシリットルと低
値を示しており,副甲状腺機能亢進症以外に血清リン値が低値を示す病
態は極めて限られているので,1審原告P4は,副甲状腺機能亢進症を
発症していたことが強く疑われる。
この点について,1審被告らは,高カルシウム血症が疑われると診断
するためには,血清カルシウム値が,相当程度,上限正常値を超えてい
る必要があると主張する。
しかしながら,1審原告P4の血清カルシウム値は高い値を示してい
る。仮に,そうでないとしても,膵炎を発症していた場合,血清カルシ
ウム値が低値を示すことが指摘されているところ,後記のとおり,1審
原告P4は,膵炎を発症していたと考えられるので,膵炎発症後に,血
清カルシウム値が正常値を示したということは,副甲状腺機能亢進症を
併発していた可能性が高いというべきである。
(イ)高カルシウム血症,副甲状腺機能亢進症及び膵炎の関係について
高カルシウム血症では,カルシウムが誘因となって潰瘍や膵炎の症状
を繰り返すことが知られている(甲C11)ところ,1審原告P4は,
腹痛を繰り返していた。したがって,1審原告P4は,高カルシウム血
症によって膵炎を発症して腹痛を起こしていた蓋然性が高い。そして,
膵壊死の臨床所見を示す患者において,正常血清カルシウム値は潜在的
副甲状腺機能亢進症を探る手掛かりとなると指摘されている(甲C1
2)ところ,1審原告P4の血清カルシウム値は,正常値より高値を示
していたのであるから,副甲状腺機能亢進症を発症していた蓋然性が高
いというべきであり,1審原告P4が高カルシウム血症を発症した原因
は,副甲状腺機能亢進症を発症していたことにある可能性が高い。
この点について,1審被告らは,膵炎を発症するには,血中カルシウ
ム値が12ミリグラムパーデシリットル以上の値を示すことが必要であ
ると主張する。しかしながら,前記のとおり,急性膵炎の発症によって
血中カルシウム値が低値を示すので,腹痛発作を繰り返していた1審原
告P4は,高カルシウム血症によって膵炎を発症し,そのために血中カ
ルシウム値が低値を示していたもので,同人の血中カルシウム値の測定
値が12ミリグラムパーデシリットル以下の値を示していたことをもっ
て,1審原告が膵炎を発症していたことを否定する理由にはならない。
1審原告P4が副甲状腺機能亢進症を発症していた点について,1審
被告らは,1審原告P4の副甲状腺ホルモンは正常値であることを理由
に,これを否定する。
しかしながら,血清副甲状腺ホルモン及び血清カルシウム値がともに
正常値の上限であっても,副甲状腺機能亢進症を否定し得ないことは,
一般的に知られた事実である(甲C11)から,1審被告らの前記主張
は失当である。
(ウ)高カルシウム血症,副甲状腺機能亢進症と放射線との関係について
機序は明らかになっていないが,原爆被爆者の血清カルシウム値は,
ホルモンの影響をなくして血清カルシウム値との線量の相関を取っても
被爆線量と統計学的に有意な相関関係を示すことが明らかになっている
(甲C11)。1審原告P4の血清カルシウム値は,被爆者の平均的増
加よりも常に高い値を示しており,1審原告P4は,副甲状腺機能亢進
症及び高カルシウム血症を発症し,また,これらは原爆放射線に起因す
るものと認められる。
また,副甲状腺機能亢進症は,典型的な原爆症の一つであり,新しい
審査の基準では,原則として原爆症と判断される症状である。
(エ)IPMNに高カルシウム血症が影響していることが推測されること
IPMNの症状は,腹痛が52パーセントと最も多く,その他の症状
としては,易疲労感,体重減少,発熱などがみられ,臨床経過中に急性
膵炎を発症する頻度が高く,臨床的特徴として随伴性膵炎が指摘されて
いる。他方,高カルシウム血症の主要症状としては,消化性潰瘍,膵炎,
食欲不振,易疲労感,倦怠感などの一般症状が指摘されている。このよ
うに,高カルシウム血症の主要症状は,IPMNの随伴症状と重なって
おり,特に,高カルシウム血症が膵炎を引き起こすことについては,I
PMNの症状を増悪させることにほかならない。
そして,1審原告P4は,副甲状腺機能亢進症である可能性が高いと
ころ,これは,高カルシウム血症の原因となる。そうすると,副甲状腺
機能亢進症を発症すると,高カルシウム血症を起こし,IPMNの症状
に影響を与えるという因果関係の存在が推測される。
(オ)小括
1審原告P4は,放射線に起因して,副甲状腺機能亢進症を発症した
可能性が高く,前記症状が原因で,高カルシウム血症を発症し,これが
IPMNの症状に影響を与えている可能性が十分に考えられる。
カ上皮性腫瘍と放射線の関連について
IPMNは,今日,診断と分類方法が研究開発の途上にあり,膵癌全体
に対して1パーセント程度の発生率であること,予後が比較的良好で,死
亡と結びつきづらいことなどから,IPMNとして臨床統計を取ったとし
ても,線量反応関係において統計学的な有意性は現れにくいと考えられる。
一方,個別臓器を超えて,同種類の細胞種(組織種)ごとに,放射線と
の関連性をみることは可能であり,これによれば,IPMNのように臓器
別疾患としては,放射線との関連性が明らかになりにくい疾病についても,
病理組織と放射線との関連性が明らかになる。したがって,IPMNにつ
いては,その病理組織である上皮性組織あるいは腺組織と放射線との関連
性を調査することで,IPMNと放射線被爆との関連性を明らかにするこ
とができる。
そこで,第13報では,5大病理組織分類から発がんリスクを検討した
場合,全ての病理組織で,リスク増加が認められたと指摘されている。そ
うすると,1審原告P4のIPMNが腺がんとしてがん化する場合でも,
他の上皮性がんとしてがん化する場合でも,放射線被爆は,その病理組織
の発がんを増加させる方向で関与することが明らかである(甲C11)。
以上より,IPMNについて細胞腫と放射線との関連性をみた場合,I
PMNががん化して膵癌を発症すれば,そこには,放射線被爆の影響が認
められ,IPMNは前がん病変と考えられるので,放射線の影響が推測さ
れる。
(5)新しい審査方針との関係
1審被告厚生労働大臣は,原爆症認定について,新しい審査の方針を定め
た。新審査の方針では,一定の被爆状況にある被爆者については,悪性腫瘍
等の一定の疾病についての申請があった場合には,格段に反対すべき事由が
ない限り,当該申請疾病と放射線との関係を積極的に認定するというもので
あり,そのような方針を定めた理由は,被爆者援護法の趣旨に則り,より被
爆者救済の立場に立つという点と,原因確率により原爆症を認定する点を改
め,被爆の実態に一層即したものとすることにあり,1審被告らは,従来の
原因確率による原爆症の認定が,被爆の実態に十分即していないことを自認
したうえで,新審査の方針を定めたものと理解するのが相当である。そうす
ると,被爆者援護法の解釈適用に当たっては,前記趣旨が十分に考慮される
べきである。また,上記に該当する疾病以外の疾病に基づく申請についても,
放射線起因性について,総合的な判断がなされるべきである。
以上からすると,1審原告P4は,爆心地から約3.5キロメートル以内
の1.5キロメートルの地点で被爆し,原爆投下より約100時間以内に爆
心地から約2キロメートル以内に入市し,IPMNを申請疾病として,原爆
症の認定の申請をしているのであるから,新審査の基準が,原爆症認定の基
準とする条件を満たしている。したがって,同人の申請疾病であるIPMN
は前がん病変であるから,これを悪性腫瘍に準じて評価し,同人について,
新審査の基準に基づき,放射線起因性を認めるのが相当である。
(6)知見が十分にない場合の総合判断の必要性
1審原告P4については,膵癌との対比,類推によって放射線起因性を肯
定することができる。もっとも,1審原告P4の申請疾病であるIPMNと
原爆放射線との関連性を直接調査研究したものはなく,これを直接示す知見
はない。ただし,調査研究それ自体がなされていないことから,これを示す
知見がないのであり,IPMNと放射線との関連性が否定されているわけで
はない。このような場合,総合判断を行う以外,被爆者援護法の趣旨に沿っ
て同法を執行することはできないというべきである。
そして,1審原告P4の申請疾病であるIPMNと放射線との関連性に関
する知見が十分とまではいえなくとも,IPMNの放射線起因性を肯定する
方向での相応の知見があることに加えて,同人の被爆状況や,同人が被爆直
後,様々な急性症状を発症していることなどから,相当高線量の放射線被爆
をしていること,良性腫瘍と放射線との関係について,特にその関連性が高
く認められるとされている被爆当時の年齢や被爆距離と,同人のそれらとが
近似していること,1審原告P4は,遺伝子の障害という観点から,その発
生機序が合理的に推認され,がんとも一定の類似性が認められるIPMNを
発症していることなどを総合的に判断すれば,放射線被爆が1審原告P4の
IPMNの発症や促進に影響を与えていることは優に認められる。
(7)原判決の問題点
原判決は,IPMNを良性腫瘍ととらえたうえ,放射線被爆によって膵臓
組織に何らかの異常が生じることを認めるに足りる医学的知見がないこと,
良性腫瘍と放射線被爆との関連に関する知見が不十分であるとして,放射線
起因性を否定し,また,IPMNが前がん病変であるとしても,膵臓がんと
放射線との関連性が肯定されないとして放射線起因性を否定した。
しかしながら,IPMNが単純な良性腫瘍ではなく,膵臓がんなどの悪性
腫瘍と類似の特性を有する疾病であり,悪性化の可能性のある腫瘍(前がん
病変)であることは,前記のとおり,十分な医学的根拠がある。そもそも,
新審査の方針において,膵癌は悪性腫瘍の一つとして積極認定の対象とする
こととされているのであり,膵癌が放射線起因性を有することは明らかであ
る。また,良性腫瘍に関する知見についても,前記のとおり,放射線起因性
を肯定的にとらえる知見が得られている。
原判決は,知見が十分に確立したものかどうかという点に過度にこだわり,
相応の知見が得られていることを軽視し,総合判断を怠ったもので,到底受
け入れ難い。
(要医療性)
1審原告P4のIPMNについて,主治医は,現在処方している内服薬を中
止すると,従来認められている自覚症状が悪化することなどから,引き続き治
療が必要であり,悪性化の可能性が否定できない以上,今後も,画像診断検査
等による経過観察を継続することが重要であり,医療を要するとの意見である。
したがって,1審原告P4に要医療性が認められることは明白である。
第4国家賠償について
11審被告厚生労働大臣に課せられた義務
(1)被爆者援護法の趣旨,目的
被爆者援護法は,原爆が被爆者に「生涯いやすことのできない傷跡と後遺
症を残し,不安の中での生活をもたらした」ことから,「国の責任におい
て」,「被爆者に対する保険,医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講
じ」るとし,国家補償の精神を明らかにしている。さらに,被爆者援護法は,
「原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争
被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ,高齢化の進行している被
爆者に保険,医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ」ると宣言する
ことで,国は,原爆症の特殊性とその科学的な未解明性及び被爆者の高齢化
を十分に尊重し,速やかに被爆者の救済を行わなければならないことも明ら
かにしている。このような被爆者援護法の趣旨,目的からすると,原爆症認
定行政において,1審被告厚生労働大臣は,原爆症の特殊性とその科学的な
未解明性を十分に考慮して放射線起因性を判断し,原爆放射線の被爆に苦し
み,高齢化の進む被爆者を速やかに原爆症と認定して救済を図らなければな
らない。
(2)確立した司法判断の尊重
平成13年5月の「旧審査の方針」策定時には,平成12年最高裁判決,
P101訴訟大阪高裁判決によって,1審被告厚生労働大臣が原爆症認定行
政において負うべき義務の内容がさらに具体的に明示されていた。すなわち,
原爆症認定をめぐっては,「旧審査の方針」の策定前である平成12年7月
18日には,平成12年最高裁判決が,同年▲月▲日にはP101訴訟の大
阪高裁判決がそれぞれなされ,国側の敗訴が確定していたところ,これらの
判決は,以下のとおり,DS86や一定線量以上の放射線を浴びないと人体
に影響がないというしきい値理論に基づく原爆症認定行政が非科学的,かつ,
不合理であり,1審被告厚生労働大臣は,被爆者の身体に生じた実際の症状
等の具体的事実を重視して放射線起因性等の判断を行わなければならないこ
とを明示していたのである。
ア平成12年最高裁判決について
平成12年最高裁判決は,DS86がなお未解明な部分を含む推定値で
あり,現在も見直しが続けられていること,DS86としきい値理論とを
機械的に適用することによっては,放射線による急性症状の一つの典型で
ある脱毛について,説明がつかないとして,被爆の実態や被爆者に生じた
身体的な影響を考慮して,放射線起因性の有無を判断することが必要であ
る旨を判示し,松谷に対する却下処分を取り消した原審の判断を是認した
のである。
イP101大阪高裁判決
P101を1審原告とする訴訟の大阪高裁も「T65D方式によって推
定されたP101の被爆放射線量は,過小に推定されたことになるとし,
DS86にも一定の誤差があることは厚生労働大臣らも認めているところ
であり,その推定被爆線量が近距離では過大評価,遠距離では過小評価と
なっているとし,DS86の被爆線量推定方式は,それなりに信頼に足り
るものであろうが,遠距離被爆について問題点が指摘されており,絶対的
なものとはみなし難いこと,一定線量以上の放射線を浴びないと人体に影
響がなく,何らかの損傷があっても回復し,何らの後遺症が生じることが
ないとのしきい値理論も,絶対的なものとは受け取り難いと判示したうえ,
P101の「造血機能障害」による白血球減少症について,具体的な経過
を分析したうえで,放射線起因性のある疾病と認め,厚生労働大臣の却下
処分を取り消している。
ウ小括
以上のとおり,前記平成12年最高裁判決等は,DS86等による初期
放射線の数値計算のみに基づく原爆症認定のあり方を否定し,放射線によ
る急性症状などや被爆後に生じた体調不良といった被爆者(申請者)に生
じた具体的な事実を重視し,これらの被爆前後の被爆者に生じた客観的な
間接事実を前提として,経験則による事実上の推定により判断をするとい
う方法を明確に示した。これらの判決を受けて,被爆者らは,1審被告厚
生労働大臣に対し,再三にわたり,DS86の線量評価としきい値論の機
械的適用を排して,平成12年最高裁判決が示した認定基準に改めるよう
申し入れていた。司法判断に従うべき厚生労働大臣としては,DS86や
しきい値理論に基づく原爆症認定行政が正当なものといえるかどうかを改
めて検討し,その正当性に疑問があるものであることを当然に認識して,
平成12年最高裁判決が示した認定基準へと改善すべきであった。すなわ
ち,1審被告厚生労働大臣は,「旧審査の方針」が策定された平成13年
5月当時,上記の確立した司法判断に従って,DS86やしきい値理論に
基づく従来の原爆症認定行政を抜本的に改めるべき義務を負っていたので
ある。
(3)上記義務の違反が国賠法1条1項の違法に該当すること
法治主義の下では,行政が司法判断に従うべきことは当然の義務であり,
上記の1審被告厚生労働大臣の義務はこれに当たる。そして,このような1
審被告厚生労働大臣の義務は,厚生労働大臣がその職務上通常尽くすべき注
意義務に該当し,1審被告厚生労働大臣が上記義務を尽くすことなく却下処
分を行えば,国賠法1条1項にいう違法に該当する。
21審被告厚生労働大臣の義務違反
1審被告厚生労働大臣が「旧審査の方針」を原爆症認定の審査に用いたこと
や,それに基づいて1審原告らの原爆症認定申請を却下した処分をしたことは,
以下のとおり上記義務に違反したものである。
(1)旧審査の方針について
旧審査の方針の中核をなすのは,アメリカの核実験データを基にした線量
推計システムであるDS86と放影研及びその全身であるABCCによる疫
学調査の結果を組み合わせた原因確率論である。1審被告厚生労働大臣が平
成13年から適用してきた「旧審査の方針」は,認定申請をした被爆者の被
爆線量について,DS86の推定するガンマ線と中性子線の吸収線量とを単
純に加算して求め,次いで,この吸収線量を疾病の種類,被爆時の年齢及び
性別ごとに作られた表に当てはめて原因確率を算出し,この原因確率が50
パーセント以上であれば,申請した疾病が放射線に起因した可能性が高いと
して認定し,原因確率が10パーセント以下であれば,放射線に起因した蓋
然性は低いとして,ほとんどそのまま申請を却下するというものであった。
旧審査の方針を平成12年最高裁判決の1審原告やP101訴訟の1審原告
に当てはめると,両名とも原爆症認定の対象とはならず却下処分を受ける結
果となってしまうのであり,これは,旧審査の方針策定以前に確立されてい
た司法判断と相容れないものであり,このような方針を策定して審査に用い
ること自体許されないし,まして審査において,これを機械的に適用するこ
となど論外である。しかしながら,1審被告厚生労働大臣は,旧審査の方針
に重大な欠陥があることを認識していたか,容易に認識し得たにもかかわら
ず,これを策定したうえ,機械的に同方針を適用して,被爆者の申請を却下
してきたのであるから,1審被告厚生労働大臣に課せられた前記の義務に違
反したものにほかならない。
(2)旧審査の方針には重大な欠陥があること
アDS86を用いていることの誤り
原因確率の算出の基礎として用いられているDS86は,爆心地から2
キロメートル以遠の線量値と実測値との誤差が大きい点,残留放射線によ
る線量評価をほぼ欠落している点,内部被爆を無視している点において既
に科学性を喪失しており,放射線起因性判断の基準となし得ないものであ
ることは,前記のとおりである。遠距離被爆者や入市被爆者の認定申請が
ことごとく却下され,その却下処分が裁判所によって取り消されてきたと
いう経緯に照らしても,DS86を用いた原因確率を放射線起因性の判断
基準となし得ないことは明らかである。
イABCCの調査報告(疫学的基礎データ)における対照者群(非暴露
群)選定の誤りについて
原因確率の算出は疫学調査に基づいており,非被爆者群(非暴露群)と
被爆者群(暴露群)とを比較し,放射線を浴びた程度ごとに,特定の疾病
について,非被爆者よりも,どの程度増加したかを示す過剰相対リスクを
基礎にしている。したがって,その際に最も重要な点は,バイアスを排除
するために,被爆者群(暴露群)と比較する対照者群としての非被爆者群
(非暴露群)をどのように選択するかという点にある。ところが,原因確
率算出の基礎となっている放影研の疫学統計では,線量別被爆者群,非被
爆者群の設定にDS86を用いた結果,遠距離被爆者や入市被爆者は,対
照者群(非暴露群)の設定の際には,真実は被爆者であるにもかかわらず,
非被爆者(非暴露群)として扱われていることがある。そして,原因確率
は,基礎データとなった放影研の調査報告における対照者群(非暴露群)
の選定の誤りをそのまま受け継いでいる。また,旧審査の方針策定時には,
既に,平成12年最高裁判決などにより,DS86に限界があることは明
らかにされていた。したがって,1審被告厚生労働大臣は,DS86を基
礎として放影研の調査報告が,完全な非被爆者を対照群としていないとい
う欠陥を有していることを当然に認識していたか,容易に認識し得たにも
かかわらず,漫然とそれを基礎とする原因確率を審査に適用した。
ウ認定申請者についてDS86を適用した誤りについて
前記のように,対照者群設定を誤っているDS86を基礎として,原爆
症認定申請者の被爆線量が評価されるために,当該申請者について,被爆
線量評価の誤りが拡大した。
エ直爆線量以外の要素の軽視
また,原因確率論では,被爆線量の算出に,放射性降下物と誘導放射能
による体外及び体内被爆が実質的に考慮外とされたため,入市被爆者のよ
うに,直接被爆がないものについて急性症状が多数出現しているのに,こ
れと放射線起因性との関係を全く説明することができず,これらの被爆者
に原爆症認定がなされない結果を招来している。
オ生物学的効果比を無視した誤り
中性子線は,ガンマ線に比べて,人体に対する影響すなわち生物学的効
果比がはるかに大きい。したがって,放射線の人体影響を算定するに当た
っては,中性子線の生物学的効果比を考慮に入れて,線量当量として算定
する必要がある。そして,放影研の基礎データは,この線量当量により算
定されているが,原因確率の算定に当たっては,人体に対するガンマ線と
中性子線との前記のような影響力の違いを無視して,中性子線とガンマ線
の吸収線量を単純に加算した吸収線量を用いている。
カ小括
以上より,DS86と原因確率に基づく旧審査の方針は,被爆の実態と
放射線の人体に対する影響を全く無視しているという重大な欠陥があり,
これを機械的に適用するか否かに関わらず,原爆症認定の審査基準として,
旧審査の方針を用いること自体,義務違反に当たる。
(3)旧審査方針策定時にその欠陥は明らかであったこと
前記のような旧審査の方針に重大な欠陥があることは,現在になって明ら
かになったものではなく,平成12年最高裁判決などによって指摘され,司
法判断として既に確立していたのであるから,1審被告厚生労働大臣として
は,旧審査の方針が策定された平成13年5月には,DS86による線量評
価やしきい値理論に基づく旧審査の方針に重大な欠陥があることについて認
識していたか,少なくとも,容易に認識することができたものである。
(4)旧審査方針が機械的に適用されてきたこと
しかるに,1審被告厚生労働大臣は,旧審査の方針に重大な欠陥があるこ
とを認識していたか,認識し得たにもかかわらず,旧審査の方針を機械的に
適用し,1審原告らの原爆症認定申請を却下したものである。この点,原判
決は,1審原告らの申請に対する審査において,旧審査の方針を機械的に適
用したと認めることができないとするが,審査の実態を無視した判断である。
1審被告厚生労働大臣が,原爆症認定に当たり,原因確率を機械的に当ては
めて審査をし,処理をしてきたことは,医療分科会における審査では,申請
者1人当たりにつき,平均して5分弱の時間しかかけられていない(甲全1
54)ことや,医療分科会では,平成13年に旧審査の方針を採用した以降,
平成17年までの間に3655件の審査をし,そのうち910件について原
爆症と認定したが,そのうち原因確率が10パーセントで,原爆症と認定さ
れた件数はわずかに2件にすぎない(甲全156)ことなどからも裏付けら
れている。このような処理がなされていた根底には,財政的考慮に基づく認
定被爆者の人数制限,使用後60年以上が経過しても,人類に不可逆的な障
害を与え続ける核兵器の残虐性を認めないアメリカ合衆国の意向や,原発や
その放射性廃棄物の処理などの対策強化を余儀なくされることを回避しよう
とする動機があったものと推認される。
(5)結論
以上によれば,1審被告厚生労働大臣は,DS86や原因確率の理論に重
大な欠陥があることを認識し,または認識し得たにもかかわらず,これらを
基にして旧審査の方針を策定し,これを1審原告らの申請疾病について,機
械的に前記方針を適用して,本件各却下処分をしたものであり,このような
1審被告厚生労働大臣の行為は国賠法上,違法と評価されるべきものである。
3行政手続法5条1項違反
行政手続法5条1項の趣旨は,行政運営における公正の確保と透明性(行政
上の意思決定について,その内容及び過程が国民にとって明らかであること)
の向上を図り,もって国民の権利利益の保護に資することを目的とするもので
あり,処分庁の判断の客観性,合理性を担保して,その恣意を抑制するととも
に,申請をする国民が審査基準を知ることによって必要な準備をし,不測の理
由によって却下処分がされないことを保障する趣旨である。
そして,原爆症認定に必要な審査基準が定められておらず,同法5条におけ
る審査基準が定められていないことは,1審被告らが自認するところである。
同法5条1項の審査基準を定めることなく,行政庁が処分を行ったときは,そ
の処分は原則として違法と判断されるものであるから,1審被告厚生労働大臣
が,同法5条1項の審査基準を定めることなく,本件却下処分を行ったことは,
国賠法上,違法と評価されるべきものである。
4行政手続法8条1項違反
行政手続法8条1項の趣旨は,許認可などの申請に対して行政庁が拒否処分
をする場合に,行政庁の判断の慎重,合理性を担保し,申請者に訴訟提起の便
宜を図ることにあり,また,許認可などの申請に対する拒否処分には,聴聞,
弁明手続の適用がないため,拒否処分の理由が開示されることが,手続保障手
段となっている。そうすると,拒否処分に付記すべき理由としては,いかなる
事実に基づき,いかなる判断経過によって,原爆症認定が拒否されたのか,申
請者がその記載自体から了知することができるものでなければならないという
べきである。ところが,1審原告らに対する却下決定通知には,審査会におい
ていかなる事実を前提に,いかなる審議がなされ,却下処分に至ったのかなど,
実質的な却下処分の理由は全く記載されていない。これでは,1審原告らの拒
否処分の当否について争う権利は著しく害されるし,手続保障の観点からも極
めて不当であるから,1審被告厚生労働大臣が具体的な処分理由を全く明示す
ることなくした1審原告らに対する本件各却下処分は,同法8条1項,同条2
項に違反しており,国賠法上,違法と評価されるべきものである。
51審原告らの被った損害について
被爆者は,原爆投下によって被った物質的,人的な被害に加え,被爆後63
年にわたって,多かれ少なかれ,様々な健康被害に悩まされ続けてきた。その
ために,結婚や就職に支障を来すなど,経済的にも精神的にも苦しい生活を余
儀なくされた者も少なくない。被爆者は,原爆投下によって,家屋を破壊され,
肉親を失ったため,悲惨な生活を強いられたのみならず,一般の戦災者と異な
り,原爆放射線の影響によって被爆後,急性症状にとどまらず,ほとんどの被
爆者が長年にわたって倦怠感や疲労感に苛まれ,ときどき原因不明の病気に見
舞われるなど,健康を害され続けてきた。昭和60年の厚生労働省の調査によ
り,入通院者の率は,一般国民に比して約2,3倍にのぼることが明らかにさ
れ,その比率は年々増え続けている。健康を害された被爆者にとって,安定し
た職に就くことがいかに困難であったかは容易に理解されるところであるが,
就職できたとしても,ひとたび病気が発症した場合には,退職,転職を余儀な
くされた者が数多くおり,被爆者の中には,結婚できないまま一生を過ごした
者も少なくない。このような背景の中で,被爆者は高齢化し,その平均年収は,
現在,200万円ほどに過ぎず,生活保護受給者も多く存在する。そうした被
爆者に対して,国の責任として何をすべきかを定めたのが被爆者援護法であり,
原爆症認定は,被爆者援護法の趣旨,目的に沿って行われなければならない。
被爆者は,原爆放射線の影響を受けた恐れがあることから,その影響が自分
の身体にどのような影響を及ぼし,いつ,いかなる病気となって現れるのか,
常に不安と恐れを抱いて生きてきたものである。その被爆者が,ある日,一定
の病気を発症し,医師から放射線に起因するものと考えられるという診断を受
けたときに受けるショックには,想像を超えるものがある。いよいよ自分にも
来たかと感じ,地獄の底に突き落とされるように感じたという被爆者もいる。
被爆者は,病気に苦しみ,精神的にも打撃を受けながら,専門の医師が自分の
病気を原爆症に起因するものと認めて意見書を書いてくれた以上,原爆症の認
定を申請すれば,厚生労働大臣は,必ずや被爆者援護法の趣旨,目的に沿った
処分を誠実に実行してくれるものと信じて,国が自分の病気を原爆症と認め,
特別医療手当を支給してくれるものと期待することも無理からぬものがある。
被爆者にとって,自分の病気が国によって原爆症と認められるということは,
金銭的なものを超えた,いわば被爆者としての証しであり,病気と闘うための
最後の救いなのである。
そうした被爆者の確信と期待が踏みにじられ,1審被告厚生労働大臣からの
一片の書面によって却下通知を受けたときの被爆者の落胆と怒り,それによる
精神的なダメージは,病気を宣告されたときのショックに勝るとも劣らないも
のである。却下処分を受けた被爆者の多くが,被爆者として苦しみながら生き
てきた自分の一生を,全て否定されたかのように感じたと語っていることから
も,1審被告厚生労働大臣による却下処分は,被爆者に強烈な精神的苦痛を与
えるものであり,医療特別手当が支給されないことによる経済的な打撃も,健
康を害して働けない被爆者にとって深刻なものがある。また,このような精神
的,経済的な打撃が,肉体にも影響を及ぼし,病気を悪化させ,寿命を縮める
者もあり,その損害は,月額13万円余の医療特別手当が過去に遡って支給さ
れることで回復されるものではない。
また,1審被告厚生労働大臣が,裁判の過程で,「審査の方針」を変更し,
いったんは却下処分をした者に対して,新たに原爆症と認定し,申請時に遡っ
て医療特別手当を支給したからといって,却下処分によって被った前記のよう
な精神的,肉体的,物質的な損害が償われるものではない。
この間,平成12年最高裁判決を始め,多くの判決が,1審被告厚生労働大
臣の原爆症認定申請に対する却下処分を違法であると判断し,1審被告らは敗
訴を繰り返しているのに,1審被告厚生労働大臣は,これらの判決を無視し,
何ら反省をすることもなく,多くの判決によって退けられた主張に固執し,無
駄な訴訟活動を行っており,そのこと自体,法治主義をないがしろにするもの
で不当であり,そのことによる1審原告らの精神的苦痛も計り知れないものが
ある。このような1審被告らの不正義と司法判断を無視する態度をただすため
にも,1審原告らの1審被告らに対する国家賠償請求は認容されるべきである。
1審被告らの当審における主張
第1原爆症認定制度の概要と審査の方針
1被爆者援護法に基づく原爆症認定審査と審査の方針
(1)認定制度の概要
ア被爆者の意義
被爆者援護法における「被爆者」とは,同法1条各号のいずれかに該当
する者,すなわち,同条1項のいわゆる直接被爆者,同条2号のいわゆる
入市被爆者,同条3号のいわゆる救護被爆者,同条4号のいわゆる胎児被
爆者のいずれかに該当するものであって,被爆者健康手帳の交付を受けた
者をいう。そして,同法は,各給付等の趣旨,目的に基づき,放射線によ
る健康被害について,放射線の影響の可能性や蓋然性の程度に従って,そ
れぞれその程度に応じた給付等を行うため,その実体上の要件の仕方に差
異を設けている。すなわち,被爆者は,原子爆弾の放射線との関連の程度
に応じて各種の援護を受けることができ,被爆者であれば,健康管理とし
ての健康診断及び健康指導,原爆症と認定された疾病(いわゆる認定疾
病)以外の負傷又は疾病(一般疾病)に対する医療費(一般疾病医療費)
の支給を受けることができるほか(同法7条,9条,18条),原子爆弾
が投下された際,爆心地から2キロメートル以内の区域内に在った者又は
その当時その者の胎児であった者は,保健手当の支給を受けることができ
る(同法28条)。そして,被爆者のうち,造血機能障害等の一定の疾病
にかかっている者は,原爆の放射線の影響によるものでないことが明らか
であるものを除き,月額3万3000円の健康管理手当の支給を受けるこ
とができるのであり(同法27条),1審被告厚生労働大臣の原爆症認定
を受けることにより,月額13万5400円の医療特別手当を受けること
ができることとされている(同法10条,24条)。したがって,原爆症
認定の要件である放射線起因性は,科学的知見に基づき高度の蓋然性をも
って立証されなければならない。
イ認定の要件
原爆症認定の要件として,申請疾患が現に医療を要する状態にあること
(要医療性),現に医療を要する負傷又は疾病が原子爆弾の放射線に起因
するものであるか,又は上記負傷又は疾病が放射線以外の原子爆弾の傷害
作用に起因するものであって,その者の治癒能力が原子爆弾の放射線の影
響を受けているため上記状態にあること(放射線起因性)を医療給付の要
件とし(同法10条),これらを原爆症認定の要件としている(同法11
条)。
ウ認定手続
被爆者から,医師の意見書等が添付された一定の事項が記載された認定
申請書が1審被告厚生労働大臣に提出されると,同大臣は,原爆症認定を
行うに当たり,申請疾患が原子爆弾の傷害作用に起因すること又は起因し
ないことが明らかな場合を除き,疾病・傷害認定審査会の意見を聴かなけ
ればならないとされている(法11条2項)。これは,申請疾患が原爆放
射線によるものかどうかの判断は極めて専門的なものであるため,医学・
放射線防護学等の知見を踏まえて判断する必要があるとの趣旨によるもの
である。そして,審査会は,学識経験のある者のうちから1審被告厚生労
働大臣によって任命された30人以内の委員により組織され,また,審査
会には,医療分科会を始めとする分科会が設置されているところ,医療分
科会の委員及び臨時委員は,放射線学者や,現に広島・長崎において被爆
者医療に従事する医学関係者,内科,外科等の分野の専門的医師等から指
名された者であり,疾病の放射線起因性や要医療性の判断について高い識
見と高度の専門性を備えた専門家であり,1審被告厚生労働大臣は,この
ような委員を構成員とする医療分科会の意見を慎重に検討したうえで,当
該認定申請について,原爆症認定処分あるいは却下処分を行っている。
エ申請疾病の特徴
被爆後,数十年も経過して発症したという1審原告らの申請疾病は,被
爆者であろうとなかろうと加齢等の要因により国民一般に広くみられるも
のである。これらの疾病に,放射線被爆特有の症状が現れるわけではない
ため(ただし,放射線白内障には特有の所見がみられる。),当該被爆者
個人の健康状態や被爆状況等のみを分析しても,その疾病が放射線被爆に
よって生じたものか否かを個別的に判別することは極めて困難である(た
だし,その疾病の発症要因が合理的に特定でき,放射線起因性がないと判
断できる場合はある。)。また,1審原告らと全く同じような状況で被爆
したにもかかわらず,1審原告らが訴えるような申請疾病等にかからない
者も多数存在し,むしろその方が圧倒的に多いことも明らかである。その
意味で,原爆放射線と申請疾病との関連性はもともと極めて希薄というべ
きものである。
(2)審査の方針(平成20年以前のもの)の概要
医療分科会は,放射線起因性及び要医療性の判断の方針として,審査の方
針を定め,確率的影響(放射線による健康影響のうち,被爆した放射線量が
多いほど影響が出現する確率が高いものをいい,がんなどがこれに当た
る。)に係る疾病,確定的影響(放射線による健康影響のうち,ある一定の
線量以上の放射線に被爆すると影響が出るものをいい,放射線白内障,放射
線による急性症状等がこれに当たる。)に係る疾病,原爆放射線起因性に係
る肯定的な科学的知見が立証されていない疾病に分けて,原爆放射線起因性
の判断をしている。このような審査の方針は,原爆症認定に当たって目安と
なる方針であって,医療分科会の委員が審査に当たり,共通の認識として活
用する趣旨のもので,長年にわたる様々な分野の科学的知見を集積したもの
である。具体的な審査方針の内容は以下のとおりである。
ア審査の方針は,DS(DOSIMETORY.SYSTEM)86に基
づいて作成された広島・長崎原爆の初期放射線による被爆線量に,放射性
降下物による被爆線量及び誘導放射線による被爆線量を加算して得られた
原爆放射線の被爆線量を前提として,申請疾病における原因確率及びしき
い値を目安として,当該申請疾病の原爆放射線起因性に係る高度の蓋然性
の有無を判断することとしている。そして,原因確率とは,疾病等の発生
が,原爆放射線の影響を受けている蓋然性があると考えられる確率をいい,
確率的影響に係る疾病の放射線起因性を判断する目安とされており,しき
い値とは,一定の被爆線量以上に放射線に曝露しなければ,疾病等が発生
しない値をいい,確定的影響に係る疾病の放射線起因性を判断する目安と
されている。
イ確率的影響に係る疾病の場合は,原因確率を用いて判断する。そして,
原因確率は,申請疾患,申請者の性別の区分に応じて適用される審査の方
針別表1ないし8により,申請者の推定被爆線量と被爆時の年齢によって
算定され,前記各別表に基づいて求められた原因確率がおおむね50パー
セントを超える場合は,当該申請疾患について,原爆放射線による一定の
健康影響の可能性があると推定する一方,原因確率がおおむね10パーセ
ント未満である場合には,当該可能性が低いものと推定することとしたう
えで,これらを機械的に適用して判断するのではなく,高度に専門的な見
地から,さらに当該申請者に係る既往歴,環境因子,生活歴等も総合的に
勘案したうえで判断を行うものとしている。
なお,原因確率に関する知見は,放影研が何万人もの被爆者を対象とし,
何年にもわたって疾病等の発生状況を観察した世界的にも例がないほど高
度の精度を備えた専門的かつ実証的な疫学研究(いわゆるコホート研究)
に基づくものであり,これに勝る科学的知見は存在しない。
ウ確定的影響に係る疾病の場合は,しきい値を目安として判断する。確定
的影響に係る疾病ごとにしきい値が設けられ,放射線白内障については,
1.75シーベルトと定められている。
エ原爆放射線起因性に係る肯定的な科学的知見が立証されていない疾病の
場合は,原因確率,しきい値が設けられておらず,このような疾病に係る
審査に当たっては,当該疾病等には原爆放射線起因性に係る肯定的な科学
的知見が立証されていないことに留意しつつ,高度に専門的な見地から,
当該申請者に係る被爆線量,既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案
して,個別にその起因性を判断するものとされている。
2申請疾病の放射線起因性の判断に当たり,被爆線量を把握することの必要性
及び重要性について
(1)原爆の放射線には,初期放射線と残留放射線がある。そして,初期放射線
とは,原爆のウランあるいはプルトニウムが臨界状態に達し,爆弾が爆発す
る直前に,瞬時に放出される放射線であり,その主要成分はガンマ線と中性
子線からなり,とりわけガンマ線を主要成分とする。原爆の放射線の中でも,
初期放射線の放射線量が圧倒的に大きい。次に,残留放射線の一つは,原爆
の核分裂によって生成された放射性物質(放射性降下物でフォールアウトと
もいう。)から発せられる。核分裂により生ずる放射性物質は,約200種
類以上に及ぶが,その大部分は短寿命核種であるため,その放射能は急速に
減衰し,放射線量も急速に減衰する。残留放射線のもう一つは,地上に到達
した初期放射線の中性子が,建物や地面を構成する物質中の一定の種類の原
子核と反応を起こし,これによって生じた誘導放射線である(審査の方針で
は,誘導放射線を残留放射線と呼称している。)。しかし,爆心地から60
0ないし700メートル程度を超えると初期放射線の中性子はほとんど届か
ないため,それ以遠の地点では誘導放射化が起こることは,ほぼ,なかった
のであり,また,誘導放射化された地上の物質等の元素もごく限られており,
半減期も短いものである。
(2)次に,人体への放射線被爆の形態は身体の外部から放射線を浴びることに
よる外部被爆と,呼吸,飲食,外傷,皮膚などを通じて体内に取り込まれた
放射性物質が放出する放射線による内部被爆に大別される。そして,原爆放
射線による外部被爆は,初期放射線によるものと,残留放射能をもつ放射性
物質から放出される残留放射線によるものとに分けられ,内部被爆は,残留
放射線,中でも放射性降下物による放射線によるものである。
(3)原爆の放射線に被爆したか否か,被爆したとしてどの程度の放射線量の被
爆をしたか否かを検討することが,放射線起因性を判断するに当たって最も
重要となるのであって,被爆線量を具体的に検討することなく,申請疾病の
放射線起因性を判断することは,客観的かつ公正な原爆症認定を不可能とす
るものであり,これを許容することはできない。したがって,原爆放射線起
因性の判断に当たっては,初期放射線による被爆線量,残留放射線による被
爆線量及び放射性降下物による被爆線量の算定を,科学的知見に基づいて客
観的に推定して行うこととされている。
3新しい審査の方針と被爆者援護法の解釈について
なお,平成20年3月17日,医療分科会は,申請疾病の放射線起因性につ
いて,従来の審査の方針に代わるものとして,新たに「新しい審査の方針」
(乙全200で,「新審査の方針」という。)を策定した。そして,新審査の
方針が策定された経緯に照らすと,同方針が策定されたのは,旧審査の方針が
科学的,法的に誤っていたためではなく,あくまでも,行政上の判断から被爆
者の救済範囲を可及的に拡大する政策が新たに採用されたからにほかならない。
したがって,新審査の方針は,被爆者援護法11条1項の解釈を変更したもの
ではないし,新審査の方針が策定されたのは,旧審査の方針が前提としている
科学的知見や従前の審査方針に基づいてされた原爆症認定申請却下処分に誤り
があったためではない。
第2DS86による初期放射線線量評価の正当性について
1初期放射線量の推定誤差は健康影響を判断するうえで無視できること
(1)1審原告らの主張
1審原告らは,DS86に基づく原爆の初期放射線量の線量評価について,
DS86による初期放射線量の計算値は,遠距離被爆者に現れた急性症状や
物理的な測定値を合理的に説明することができず,むしろ遠距離において被
爆線量を過小評価していることが理解され,このことは,DS02による計
算値においても同様であるとともに,幾多の裁判例によって肯定されており,
もはや決着済みの問題であると主張する。
しかしながら,遠距離被爆者に原爆放射線に起因する急性症状が生じてい
たと認めることができないことは,後記のとおりであり,DS86及びDS
02による初期放射線の計算値と実測値に乖離があるという1審原告らの主
張も,人の健康への影響という視点からは,絶対値でみれば無視し得る程度
の乖離の問題を指摘しているにすぎない。
(2)DS86などに基づく計算値と実測値の乖離の程度について
まず,ガンマ線の線量評価の点についてみると,1審原告らがDS86の
計算値と実測値が乖離していることの根拠とするP6らの報告(甲全28)
によっても,広島の爆心地から2050メートルの地点において熱ルミネッ
センス法により測定された原爆のガンマ線の初期放射線の実測値は,0.1
20グレイ程度にすぎないのに対し,DS86による同地点における計算値
は,0.0605グレイであり,その差は,人の健康に対する影響という観
点からみた場合,絶対値でみれば無視し得る程度のものでしかなく,その乖
離は有意なものではない。また,長崎においてもこれと大差はない。また,
原爆の初期放射線の成分として中性子線もあるが,主要成分はガンマ線であ
り,中性子線量の全線量に対する割合は,広島の場合,1000メートルで
5.8パーセント,1500メートルで1.7パーセント,2000メート
ルで0.5パーセントと非常に低く,長崎の場合はさらに低いとされている。
したがって,仮に中性子線量について計算値と実測値に不一致がみられたと
しても,被爆者の全体の被爆線量にはほとんど変化は生じない。そして,D
S02においては,速中性子線量に関する計算値の正確性を検証するために,
銅が速中性子線により誘導された場合に生成されるニッケル63の量の実測
値とDS86,DS02による計測値の乖離及びその程度を比較検討した結
果,ニッケル63の原子数で比較した場合には,実測値と計算値とが完全に
一致しているわけではないが,これを速中性子線量に換算して比較すると,
人の健康への影響という視点からは,絶対値でみれば無視し得る程度の計算
値と実測値の乖離があるにすぎない。また,DS02では,熱中性子線に関
する計算値の正確性を検証するために,コバルト60及びユーロピウム15
2について,両者の比放射能(放射性核種の単位質量当たりの放射能の強さ
を表すもの。)を求めたものと,DS86,DS02において推定された熱
中性子線量を基に計算により得られた両者の比放射能とを比較検討したとこ
ろ,両者とも,比放射能で比較した場合には,実測値と計算値が完全に一致
しているわけではないが,これを熱中性子線量に換算して比較すると,いず
れも人の健康への影響という視点からは,絶対値でみれば無視し得る程度の
計算値と実測値との乖離があるにすぎない。
2初期放射線量の推定誤差の問題は既に解決済みであること
確かに,以前,DS86による初期放射線の線量推定値は,遠距離地点にお
いて,被爆時の屋根瓦などから得られた実測値に基づく推定値よりも過小であ
るとされ,この点が平成12年最高裁判決においても指摘されていたところで
ある。しかしながら,その後も研究が続けられた結果,平成15年3月に公表
された新しい原爆放射線の線量評価システムであるDS02において,改めて
DS86の正確性が検証され,DS86に基づいて初期放射線の被爆線量を推
定する旧審査方針の合理性が確認されている。すなわち,DS02において,
各測定値の検証やバックグランド(測定に当たって,対象とする放射線源以外
から計測される数量値で,主に宇宙からのものや地表からのものによる。)に
よる測定自体の誤差等が検討され,バックグラウンドによる影響を極めて低く
した精度の高い測定を行うなどした結果,測定値とDS86による計算値とが
よく一致していることが判明している。つまり,1審原告らが指摘するDS8
6による計算値と実測値の乖離は,測定に当たって対象外の放射線源から発せ
られる放射線(常に自然界に存在する放射線等)が測定されるという測定方法
に問題があったことによるものであって,DS86の初期放射線の被爆線量評
価体系自体に欠陥があるわけではなかったことが判明したのである。
3小括
以上より,DS86に基づく計算値と実測値との乖離が認められるとしても,
その程度は,人の健康への影響という観点からみた場合,絶対値でみればこれ
を無視し得る程度のわずかな差異があるにすぎないのであって,DS86の,
初期放射線量を推定する計算方式としての科学的合理性を左右するほどの問題
ではないとみられるうえ,後の研究の結果,むしろ実測値の正確性に問題があ
ったことが判明し,DS86に基づいて初期放射線の被爆線量を推定すること
の合理性が確認されている。
第3放射性降下物による被爆線量評価は正当であること
1放射性降下物による被爆線量推定は科学的知見に基づいた適切なものである
こと
(1)放射性降下物及び誘導放射線については,原爆投下直後から複数の測定者
が放射線量の測定を行っており,早いものでは,昭和20年8月9日,爆心
から5キロメートル以内の28か所の地点で土壌が,同月11日,広島市内
数か所から砂が,同月13日及び14日には,広島市内の内外100か所か
ら数百の試料が採取されて,原爆由来の放射性物質(残留放射能)が調査さ
れ,また,同年9月3日及び4日,広島市内外に残留するガンマ放射線の強
度が測定器を使用して測定され,同年9月から10月にかけては,マンハッ
タン技術部隊が,同年10月から11月にかけては,日米合同調査団が広島,
長崎において放射能測定を行うなどしている。このような調査の結果,広島
の己斐・高須地区,長崎の西山地区では,放射線による影響が比較的顕著に
みられることが分かり,放射性降下物によるものであることが確認された
(乙全14の348ないし349頁)。そして,長崎の西山地区で実施され
た初期測定における線量率(単位時間当たりの放射線量)に基づいて,爆発
後1時間から無限時間まで同地区に留まり続けたことを想定した場合の,地
上1メートルの位置における放射性降下物のガンマ線の積算線量は,20な
いし40レントゲンとなり,昭和31年(1956年)に採取されたセシウ
ム137の測定データに基づく推定値によっても,その積算線量は40レン
トゲン(0.24グレイ)となることが明らかになり,また,広島の己斐・
高須地区で実施された初期測定における線量率に基づいて,爆発後1時間か
ら無限時間まで同地区に留まり続けたとことを想定した場合の,地上1メー
トルの位置における放射性降下物のガンマ線の積算線量は,1ないし3レン
トゲン(0.006ないし0.02グレイ)となることが明らかとなり(乙
全14,16,100,154),その他の地域で,仮に放射性降下物が降
下したとしても,この数値を超えることはないことが放射線物理学上明らか
になっているのである。
(2)また,一口に核爆発による放射性降下物といっても,実際にどの程度の放
射性物質が降下するかは,当該爆弾が地上付近で爆発したものか,上空で爆
発したものかによっても大きく左右される。すなわち,ビキニ環礁における
水爆実験では,大量の放射性降下物が発生し,広範囲に被害を及ぼしたが,
これは,地上において核爆発を引き起こした結果,大量の土砂を巻き上げ,
未分裂の核物質や核分裂生成物とともに,放射性降下物としてこれを周辺に
拡散させたからである,これに対し,広島,長崎の原爆では,上空で爆発し
たものであり,未分裂の核物質や核分裂生成物の大半は,瞬時に蒸発して火
球とともに上昇し,成層圏まで達した後,上層の気流によって広範囲に拡散
したのであって,広島,長崎市内に降下した放射性降下物は極めて少なかっ
たのである。
以上のとおり,広島,長崎の原爆から放出され,地上に降下した放射性降
下物の量が極めて少なかったことは,原爆投下後に測定された実測値に基づ
いて客観的に明らかにされており,このことは,広島,長崎の原爆の爆発状
況からしても明らかである。
(3)このようなことから,審査の方針では,放射性降下物による被爆線量につ
いて,「原爆投下の直後に特定の地域に滞在し,又はその後,長時間にわた
って当該地域に居住していた場合について定めることとし,その値」を,広
島の己斐・高須地区で0.6ないし2センチグレイ,長崎の西山3,4丁目
又は木場地区で12ないし24センチグレイとしているのであり,これに勝
る科学的知見は存在しない。
2放射性降下物による被爆線量推定を批判する見解はその基礎となった科学的
知見を正確に理解しないものであること
これに対し,1審原告らは,原爆投下後に測定された値について,台風等の
降雨により,放射性降下物が流出したため,被爆線量が過小評価されている可
能性があること,セシウム137のデータだけでは全核分裂物質による被爆線
量を評価することができないこと,ガンマ線量しか推定しておらず,被爆線量
が過小評価されている可能性があること,地上1メートルでの線量評価では,
被爆線量が過小評価されている可能性があること,黒い雨の降雨域が実際には
より広範囲であり,これを考慮しないことにより被爆線量が過小に評価されて
いる可能性があると批判する。しかしながら,このような批判は,DS86報
告書第6章策定以後の科学的研究の発展とその結果を考慮しない不適切なもの
である。
(1)すなわち,まず,雨の影響との関係についてみると,平成8年,P9らは,
昭和20年8月9日に爆心地から5000メートル以内で採集された土壌試
料を用い,セシウム137を測定し,全ての核分裂生成物による累積線量を
換算したところ,その累積線量は,広島市に台風が襲来した同年9月下旬以
降に採取された試料による測定結果に基づく累積線量と類似していることが
明らかとなった(甲全13の2,乙全194)。仮に,1審原告らが想定す
るように,台風や降雨の影響で放射性降下物が希釈されたとすれば,台風等
の襲来以前に採取された試料による被爆線量と,台風等の襲来後に採取され
た試料による被爆線量との間に有意な差が生じてしかるべきであるが,その
ような有意な差はなかったことが明らかとなっているのであるから,1審原
告らの想定する前提が誤っていることに帰する。さらに,P9らは,放射性
降下物が最も多く降下した高須地区の家屋の内壁に残っていた黒い雨の痕跡
に含まれているセシウム137の濃度を測定する調査も行っているが,この
調査で使用された試料には,家屋内の壁に流れ込んで黒い雨が付着したもの
のうち,黒い雨を拭き取ったものと,拭き取らずに数十年間,黒い雨が付着
したまま保存されていたものがあったが,後者の被爆線量は前者のそれに比
べて高くなかった。
以上から,DS86策定後のこれらの最新の調査結果をも考慮すれば,台
風や降雨(黒い雨を含む。)の影響により,線量が過小評価されることにな
るほど放射性降下物が流出し,あるいは希釈されることはなかったことが科
学的にも明らかとなっている。仮に,降雨によって,放射性降下物が多少,
移動したことがあったとしても,被爆線量が有意に変わるほどの影響があっ
たとは想定し難く,このことは前記のP9らの研究結果によって裏付けられ
ている。
(2)次に,セシウム137のデータのみでは,全核分裂物質による被爆線量を
評価することができないとの点についてみると,核分裂の際に生成される物
質は,全て物理法則に従って生成されるものであり,核分裂によって生ずる
全核種とその割合は定まっていて,これらが気象条件によって左右されると
いうことはあり得ず,それらの核種から受ける放射線量も算出可能である。
ただし,生成された核分裂生成物の降下量の多寡は,気象条件によって変わ
り得るが,これは,セシウム137の測定データにより求めることが可能な
のであるから,1審原告の主張は失当である。
(3)放射性降下物による被爆線量を評価するに当たり,ガンマ線量しか推定し
ておらず,被爆線量が過小評価されている可能性があるとの点についてみる
と,体内の臓器の疾病について放射線起因性を判断するに当たり,ガンマ線
以外のアルファ線やベータ線からの外部被爆を考慮しなければならない理由
や,仮にアルファ線等からの被爆量を考慮したとしても,どの程度の被爆線
量となるのかについて,1審原告らは具体的な主張をしない。仮にこの点を
ひとまず置くとしても,アルファ線及びベータ線は飛距離が非常に短く,ア
ルファ線は皮膚表面にしか作用せず(しかも,皮膚障害さえも起こさな
い。),ベータ線も枢要な臓器には到底及ばないから,そもそも,体外から
の被爆であれば,ベータ線による皮膚障害を除き,人の健康への影響という
観点からは考慮する必要性がない(乙全159)。したがって,1審原告ら
の主張は失当である。
(4)地上1メートルでの線量評価では,被爆線量が過小評価されている可能性
があるとの点についてみると,広島,長崎における放射性降下物の量自体が
極めて少なかったことが明らかである以上,仮に,身体等に放射性降下物が
付着したからといって,その量は一層少なく,かつ,一時的なものにすぎな
いのであるから,無限時間を想定した積算線量を超えることは考え難く,地
上1メートルの線量評価では被爆線量が過少評価されているということは考
え難い。また,1審原告らが前記主張の根拠とするのは,被爆線量が線源か
らの距離に反比例するという法則に基づくものと解されるが,放射性降下物
からの外部被爆線量を評価する場合には,前記法則は当てはまらない。すな
わち,点線源からガンマ線が放出される場合,ガンマ線は距離に応じて拡散
していくため,対象物が点線源に近いほど,多くのガンマ線を受け,点線源
から離れるほど,受けるガンマ線の量は少なくなり,前記法則が当てはまる
ことになるが,放射性降下物が地表に拡散降下した場合のように,点線源が
多数環境内に散布された場合(これを「面線源」という。),ある一つの点
線源からのガンマ線には被爆しなくとも,他の点線源からのガンマ線に被爆
することとなり,結局,あたかもガンマ線を平行線束と考えるのに近似し,
どの点線源との間の距離が変わろうとも,単位面積当たりのガンマ線はほぼ
均等になるため,地表面に近づこうが,離れようが,地上1メートル程度で
受ける被爆線量と有意な差異はない。したがって,1審原告の主張は失当で
ある。
(5)黒い雨の降雨域問題について
1審原告らは,黒い雨の降雨領域の広狭を問題とし,放射性降下物による
被爆の影響を重視する根拠とするが,上記のとおり,様々な測定の結果,放
射性降下物の被爆線量が高くないことが明らかである以上,仮に,広島で己
斐・高須地区,長崎で西山地区以外の場所で放射性降下物がみられたとして
も,人体への影響を考慮するに当たって有意な被爆となるとは考え難い。
なお,放射性降下物は「黒い雨」と呼ばれることがあるが,「黒い雨」と
放射性降下物とを同視する見解は間違いである。黒い雨と呼ばれるものは,
火災により燃え上がったすすが雨とともに降下したことによるものであり,
すすは炭素であって,核分裂生成物ではない。また,炭素は極めて放射化し
にくい物質であるから,炭素を主成分とするすすは,ほぼ誘導放射化しない。
したがって,黒い雨を浴びたということ自体によって,多量の被爆をしたこ
とにはならない。
3放射性降下物が皮膚,衣服に付着したことによる被爆の影響を重視すること
は誤りであること
1審原告らは,被爆者が黒い雨を浴び,放射性降下物が皮膚,衣服に付着し
たことによる被爆の影響を重視するようであるが,失当である。なぜなら,広
島,長崎の原爆から放出されて地上に降下した放射性降下物の量は極めて微量
であったので,その一部が被爆者の衣服や身体に付着したとしても,その量自
体は限られたものであった。したがって,放射性降下物の一部が被爆者の衣服
や皮膚に付着したとしても,無限時間を想定した積算線量を超えることはあり
得ず,その被爆線量は無視し得る程度のものであったからである。このことは,
P96らの「広島原爆の放射化土壌によるベータ線及びアルファ線皮膚線量の
評価」(甲全124の3)からも明らかである。すなわち,前記論文によれば,
原爆が爆発した瞬間から爆心地にいて,そのまま1週間,爆心地に留まり,人
体の皮膚一面に,直接,誘導放射化した土壌が付着し続けたという現実にはあ
り得ない事態を想定したうえで,地面からの被爆線量と皮膚に付着した土壌か
らの被爆線量を合計したところ,爆心地ですら,皮膚に付着した土壌からの被
爆線量は全体の1パーセントであり,0.00936グレイにすぎないことが
判明した。また,同様の条件で,爆心地から500メートルの地点での皮膚の
線量は,0.001339グレイ,爆心地から1キロメートルの地点でのそれ
は,0.0000329グレイとなるというのであるから,皮膚に放射性物質
が付着したとしても被爆線量は高くならないということが実証されたものとい
える。
確かに,放射性降下物を含む降雨等が直接皮膚に付着することにより,被爆
する可能性は否定できないが,その場合,放射性降下物から発せられる放射線
はアルファ線,ベータ線及びガンマ線が想定されるものの,アルファ線及びベ
ータ線は飛距離が非常に短く,皮膚表面より内部の皮下組織には到達しないし,
ガンマ線においても,皮膚表面から深部に到達する過程で線量は著しく減少す
るから,皮膚表面における被爆線量が最も高いことに変わりはない。そうする
と,高線量の放射性降下物を含んだ降雨や灰が,皮膚に直接付着することによ
る被爆であれば,まずは皮膚障害が生じるはずであるが,1審原告らにそのよ
うな障害は生じていないのである。したがって,放射性降下物を含む降雨等が
直接皮膚に付着することにより人体への影響が生じるような被爆をすることは
なかったというべきである。
第4旧審査方針における誘導放射線による被爆線量評価は正当であること
1誘導放射線の線量推定は科学的知見に基づいた適切なものであること
原爆の誘導放射線は,原爆の初期放射線の中性子に起因するものであるから,
誘導放射線量も,爆心地からの距離に応じて急激に低減し,爆心地から600
メートルないし700メートル程度を超える地点には,初期放射線の中性子は
ほとんど到達しないため,それ以遠の地点では放射化が起こることはほとんど
なかった。この点については,P10ら複数の研究者による,広島,長崎の実
際の土壌に中性子を照射して誘導放射線量を測定した結果によって裏付けられ
ている。P97らは前記の調査結果を総括し,爆発直後から無限時間まで爆心
地に留まり続けたという現実にはあり得ない想定をした場合でも,爆心地にお
ける積算線量は,広島について約80レントゲン,長崎について30ないし4
0レントゲンであると推定され,これを組織吸収線量に換算すると,広島につ
いては約50ラド(0.5グレイ),長崎については18ないし24ラド(0.
18グレイから0.24グレイ)になると結論づけている(DS86報告集第
6章で乙全16)。また,P15らにより,広島,長崎における土壌中の元素
の種類,含有量及びこれらの元素の放射化断面積を基に生成された放射能量が
計算されているが,放射化された地上の物質等の元素のうち,特に半減期が2.
2分と短いアルミニウム28が放出する誘導放射線を含めた線量率を,爆発直
後に遡って合理的に算定したところ,爆発直後から無限時間を想定した爆心地
における積算線量は,広島で0.48グレイとなるという結果が得られており,
P15らの前記研究によって,前記P97らの前記研究の正確性が裏付けられ
ている。そのうえで,P15らの前記研究結果に基づき,残留放射線(誘導放
射線)による被爆線量は,別表10によるものとの審査の方針を定めたのであ
るから,これを用いて,誘導放射線による被爆線量を算定することが最も合理
的である。
2誘導放射線の線量推定を批判する見解はその基礎となった科学的知見を正確
に理解しないものであること
これに対して,1審原告らは,誘導放射線量を特定するに当たりDS86が
基礎としたP10らの研究について,土壌以外の物質を考慮していない点で,
線量評価が不十分であること,人体に対する誘導放射化の点が十分に考慮され
ておらず,線量が過小評価されている可能性があると主張する。しかしながら,
1審原告らのこのような主張は,以下に述べるとおり,理由がない。
(1)P10らによる研究について
P10らは,土壌のみならず,屋根瓦,煉瓦,アスファルト,木材及びコ
ンクリートブロック片を試料として選択し,これらに中性子線を照射して,
どのような放射線核種が生じるかを検証した結果,土壌だけではなく,様々
な建築資材の存在を考慮してみても,発生した誘導放射線量は,わずかなも
のにすぎなかったという研究結果を得ているのであるから,1審原告らの主
張は,その前提を欠いている。また,1審原告らは,土壌よりも,屋根瓦や
煉瓦の方がマンガンの含有量が多いと主張しているが,重要な点は,マンガ
ンの含有量の多寡ではなく,その物質から放出されるガンマ線量の多寡であ
るところ,P10らの研究によれば,対象となった試料のうち最もマンガン
が含まれていた屋根瓦から放出されるガンマ線量は,土壌から放出されるガ
ンマ線量の半分以下なのである(乙全190)。したがって,最もガンマ線
量の高い土壌から誘導放射線を考慮することが被爆した人体の被爆線量を高
く評価することになる。したがって,1審原告らの主張は失当である。
(2)人体の誘導放射化について
人体の誘導放射化を重視する見解は,P98らによる生体誘導放射能の調
査(甲全111の13)を根拠とするようであるが,この調査は,放射化し
た遺体が,第三者に対して健康に影響を与えるほどの被爆線源となることを
明らかにした調査ではなく,人体そのものが放射能汚染される一般的現象を
明らかにしたにすぎない。そして,同調査で計測された,各臓器から放出さ
れるベータ線の数は,広島で毎分18個とされているベータ線の自然計数と
比較すると,それほど多いものとはいえないうえ,ベータ線の飛程距離は,
空気中では1ミリメートルに満たないので,仮に,遺体の当該臓器や骨に直
接触れた場合,接触者の皮膚にわずかに影響を与えることがあったとしても,
枢要な臓器が被爆するということはないし,臓器や骨が露出していない遺体
に触れた場合には,接触者の皮膚は被爆しない。したがって,前記調査の結
果によれば,むしろ遺体からの被爆を重要視する必要はないものと評価でき
るのであり,前記見解は失当である。
3結論
以上のとおり,審査の方針における誘導放射線の評価線量は正当である。
第5内部被爆による被爆線量を考慮する必要がないこと
1内部被爆による影響は健康影響を考えるうえで考慮する必要がないこと
内部被爆の影響は無視し得ることが実証されている。すなわち,原爆による
内部被爆は,放射性降下物が鼻や口から吸い込んだ空気や飲食物を介するなど
して,直接身体に侵入して発生する場合が最も考えられるが,その影響につい
ては,長崎大学のP97らによって,放射性降下物が最も多く堆積し,原爆に
よる内部被爆線量が最も高いものと見積もられる長崎の西山地区の住民を対象
として,昭和44年と昭和56年の2度にわたり,ホールボディカウンターを
用いた実測値を基に,昭和20年から昭和60年までの40年間の内部被爆線
量を積算したところ,男性では0.0001グレイ,女性では0.00008
グレイにすぎないことが明らかにされている(乙全16)。この線量は,自然
放射線による年間の内部被爆線量が0.0016シーベルト,全てガンマ線量
であった場合,0.0016グレイであることと比較しても,格段に小さいも
のであるから,審査の方針において内部被爆を考慮しないとされていることは
何ら不合理ではない。
2原爆被爆者において内部被爆の影響を重視することは誤りであること
(1)内部被爆の影響を重視することは誤りである。
内部被爆に着目し,その影響を強調する見解が依拠する理論的根拠は,古
い時代の仮説に過ぎず,その仮説は,現在,論理的に誤りであることが証明
され,かつ,実証的にも否定されている。したがって,内部被爆による影響
を重視することは許されない。
また,内部被爆の態様で被爆をしたとしても,その被爆量は物理的にみて
極めてわずかな量にすぎない。例えば,単純計算をすれば,1センチグレイ
の内部被爆をもたらすためには,原爆投下直後に数百グラム単位で,爆心地
付近の放射性物質を一度に摂取しなければならないということになるのであ
って,およそ,現実的には想定し難い事態である。それだからこそ,原爆症
認定のための申請疾病に対して内部被爆が有意な影響を与えているというた
めには,わずかな放射性物質を取り込んだだけでも健康に悪影響を及ぼすほ
どの被爆をもたらすことになることが根拠づけられなければならないことに
なり,いわゆるホット・パーティクル理論の正当性が実証されることが不可
欠の前提となる。
そこで,1審原告らは,臓器単位で被爆線量を平均化する見解は線量を過
小評価していると主張し,細胞単位で被爆線量を考慮することを提唱し,特
にアルファ線によって,放射性物質がわずかでも体内に摂取された場合には,
細胞が高線量で被爆するというホット・パーティクル理論を根拠に,わずか
でも放射性物質が体内に摂取された場合には健康に悪影響を及ぼすほどの被
爆をもたらすと主張するのである。
しかしながら,そもそも,ホット・パーティクル理論は,細胞のDNA細
胞が破壊され,修復される仮定で異常が生じ,がん化し得ることを理論的に
説明しようと試みるもので,がん以外の疾病についてまで適用される理論で
はない。また,ホット・パーティクル理論は何ら実証的に明らかにされたも
のではないし,理論的にみても誤っている。すなわち,同理論は,被爆線量
を臓器単位で平均化せずに,細胞単位でみれば,わずかな放射性物質が沈着
するだけでも,当該細胞に相当な被爆をもたらし,がん化のリスクが高いと
いう理論であるが,そもそも,放射性物質が沈着した細胞は相当の被爆によ
り死滅し,がん化することなどないのに,細胞の死滅に影響した被爆線量ま
で考慮に入れて,細胞ががん化するリスクが高くなることを説明しようとす
ること自体,不適切なものであることは明らかである。
(2)被爆者が内部被爆の影響を受けていないことは,チェルノブイリ事故との
比較によっても明らかであること
まず,放射性物質の中には,放射性ヨウ素が甲状腺に,ストロンチウム9
0が骨に集積する性質がある(乙全194,乙全228)というように,そ
れぞれ特異的に集積する臓器が決まっているものがある。1審原告らがいう
ように,原爆の放射線による内部被爆の影響が有意なものであるとしたなら
ば,これらの被爆者らにも,甲状腺がんや骨がんのように特定の臓器に発生
するがんが顕著にみられるはずであるが,遠距離被爆者,入市被爆者にみら
れるがんも,被爆者ではない一般日本国民にみられるがんと同様,多種多様
であり,内部被爆の影響が有意なものであったとは考え難い。この点は,チ
ェルノブイリ事故との比較によっても明らかである。すなわち,同事故は,
昭和61年4月26日に発生し,同年5月6日にかけて300メガキュリー
もの膨大な量の放射性物質(核分裂生成物)が放出されたという事故である
(乙全229)。この事故により,原子力発電所の炉心が溶け,ヨウ素とい
う,熱により拡散しやすい揮発性の放射性物質が大量に放出された。そして,
同事故発生後10年を経過したあたりから,甲状腺がんの有意な増加がみら
れるようになり,同事故の一般住民に対する身体的影響は,原爆被爆者の場
合とは異なり,甲状腺がんの発生が顕著に認められ,特に,小児甲状腺がん
が多発している(乙全228)。これは,同事故により揮発性のヨウ素が拡
散し,これが牧草に取り込まれ,牧草から乳牛,牛乳,人間という食物連鎖
を通じて人体内に取り込まれた結果,放射性ヨウ素による内部被爆による影
響が顕著に表れた結果である。しかるに,原爆の被爆者には,内部被爆によ
り,このような特定の臓器についてがんが多発したという傾向は全くみられ
ないのであるから,原爆による内部被爆の影響は無視し得る程度のものであ
ったものといえるのである。
3低線量被爆について
1審原告らは,低線量被爆の人体影響については現在においても未解明な部
分が多く,逆線量率効果,バイスタンダー効果あるいはゲノム不安定性などの
指摘があることなどから,低線量被爆による人体の影響を否定することはでき
ないと主張する。しかし,放射性物質を体内に取り込んだとしても,その量が
少なければ,被爆線量が高くなるということはないのであり,外部被爆であろ
うと,内部被爆であろうと,全身や組織,臓器が受ける放射線の量が同じであ
れば,人体影響に差異はない。確かに,がんのような,原因確率が適用される
確率的影響に係る疾病についてはしきい線量がないという前提で放射線起因性
が判断されており,1審被告らとしても,低線量被爆のリスクを否定するもの
ではないが,被爆線量が低ければ,被爆後,数十年経過後にがんなどの健康影
響が発症するリスクも極めて低くなることが,放影研が実施した疫学調査の結
果によって明らかにされている。1審原告らが指摘する理論も,細胞レベルで
の現象を説明した一つの考え方に過ぎず,低線量の被爆であれば,内部被爆で
あってもがんが発症するリスクはほとんどないという確立した知見を否定する
ものではない。
4小括
以上によれば,汚染された物質を体内に取り込むなどしたことで,それらに
含まれていた放射性物質により,人体影響に有意な程度の内部被爆をしたとい
う主張は誤っている。結局のところ,放射線被爆による健康影響は,外部被爆
であろうと内部被爆であろうと,被爆線量の多寡によって決まるのであり,内
部被爆であることのみから危険性が高まるというものではないうえ,内部被爆
による被爆線量はどのように見積もってもごくわずかな被爆線量にしかならな
いのであるから,内部被爆の問題は人体の健康影響を考慮するに当たっては無
視し得るものというべきである。
第6遠距離・入市被爆者にみられた被爆後の身体症状は放射線被爆による急性症
状ではないこと
11審原告らの被爆後の身体症状の存否及び程度を認定するに当たっては,現
在の供述の信憑性を慎重に検討すべきである。
これまで,原判決及び同種の訴訟の判決では,その原告らの被爆後60年以
上も経過した現在の供述に基づき,被爆後に下痢,脱毛といった様々な身体症
状が発症したとの事実が認定され,これが被爆による急性症状と評価されて,
これを根拠に原告らが相当程度の被爆をしたものと結論づけられてきた。しか
しながら,同種訴訟の判決における原告らについて,ABCC調査により明ら
かになった身体症状の存否,内容と,現在の供述とが大きく食い違っているこ
とが明らかとなった。そして,ABCC調査では,各被爆者の具体的な被爆状
況及び被爆後の身体症状等を正確に把握することを目的として,被爆者宅を日
本人調査員が訪問して,被爆者本人あるいは被爆者本人の被爆状況を知る家族
に対して任意で聞き取りを行ったものであり,調査時期も被爆後まもないもの
である。しかも,同調査では,単に身体症状の有無や程度のみならず,家族構
成,被爆場所,被爆態様,外傷や熱傷の有無,程度,調査時の健康状態など様
々な事項について調査がなされており,それぞれ真剣に回答がなされ,調査者
による信憑性評価もなされていることからすると,同調査の記載内容は,対象
者の被爆状況や被害状況を端的に示すものとして極めて信頼性の高いものであ
るということができる。そうであれば,信頼性の高い同調査記録の記載に反す
るような,被爆から60年以上経過した現在の供述の信頼性は一般的に低く,
これを重視すべきではない。また,被爆直後の身体症状に関する被爆者の記憶
が不確かなものであるという現状にかんがみると,仮に被爆による急性症状を
問題にするにしても,現在の供述と被爆者健康手帳交付申請書や原爆症認定申
請書の記載内容との齟齬や変遷がないかどうかが慎重に検討されるべきであり,
検討の結果,身体症状の存在が肯定されたとしても,当該身体症状が被爆によ
る急性症状としての特徴を備えているかどうかが判断されるべきである。そし
て,被爆者は,被爆者健康手帳などに,これまでの悲惨な体験をつづり,被害
を訴えるのが通常であるから,これらの書類に身体症状に関する記載がないの
であれば,原則として,被爆直後に身体症状はなかったものと認定するのが合
理的である。
2身体症状の存在から直ちに被爆による急性症状を認定することは誤りである
こと
今日では,様々な被爆事故の経験から,放射線被爆による急性症状には,そ
の発症時期,程度,回復時期等に極めて明解な特徴があることが確定した知見
として明らかになっている(乙全156,193,194,甲全85)。すな
わち,被爆による急性症状としての脱毛は,3グレイ程度被爆した場合に毛母
細胞が放射線により障害されて生じる症状であり,被爆後,8ないし10日後
から出現し,ほとんどの毛髪が抜けるまで,2,3週間続き,見た目にはほぼ
全ての毛髪が脱落したように見え,頭髪の一部だけが抜けたり,少量ずつ抜け
たりするということはないし,8ないし12週間後には発毛がみられる。なお,
内部被爆の場合,頭部の毛根に集積し,脱毛に寄与する放射性物質はない。ま
た,被爆による急性症状としての下痢は,5グレイ程度被爆した場合,まず,
前駆症状としての下痢が少なくとも被爆の当日中(被爆の3ないし8時間後)
に起こり,その後,一時的に症状が消失し(潜伏期),さらにその後,被爆に
よる主症状としての下痢(消化管障害)が起こるという急性症状として極めて
特徴的な経過をたどる。そして,腸管細胞が死滅して,再生不能となると血便
に至り,現代の医学上,死滅した腸管細胞を再生することは不可能であるから,
予後は極めて悪い。さらに,被爆による急性症状としての皮下出血は,1ない
し2グレイ程度被爆した場合に,骨髄が障害され,血小板が一時的に減少する
ことによって生じる症状である。そして,血小板は,一般に,被爆直後には変
化が生じず,回復可能な障害の場合,被爆後10日過ぎころから低減し,30
日前後で最も低下するがまもなく回復する。したがって,皮下出血や紫斑の出
現も,被爆後3週間経過後ころから出現し,血小板の回復とともに消失するも
のであり,長時間継続することは考えられない。以上のように,被爆による急
性症状の発症過程(しきい線量,発症時期,程度,回復時期等)には明解な特
徴があり,被爆による急性症状が,放射線被爆により,組織,臓器を構成する
細胞の数十パーセント以上の細胞が死滅した結果,発症する器質的機能障害に
属するものであるから,その発症のメカニズムに照らしても,それぞれの急性
症状について,それ以上の線量により発症するという,しきい線量があること
が明らかにされており,これらは,チェルノブイリ事故を始め,これまでの多
くの被爆事故事例からも実証的に裏付けられているし,国際原子力機関(IA
EA)や国際放射線防護委員会(ICRP)により,確立した知見としてとり
まとめられている。
したがって,個々の被爆者にみられる身体症状が,被爆による急性症状であ
るかどうかは,単に症状が存在するということで判断できるものではなく,そ
の症状の発症時期,程度,回復時期等の発症過程が,被爆による急性症状にみ
られる特徴的な発症過程に沿うものであるかどうか,また,当該被爆者に,被
爆による急性症状がみられるだけのしきい線量を満たす被爆の事実があるかど
うかを総合的に考慮して判断する必要がある。
これに対し,P48は,原爆被爆者の被爆態様が,原爆以外による被爆態様
と異なることを理由に,世界的に確立した被爆による急性症状の特徴が原爆被
爆者に当てはまらない旨の意見を述べる。しかしながら,P48が指摘する原
爆被爆者の特異な被爆態様なるものは,他の放射線事故とどのように異なるの
か不明であるうえ,被爆態様が異なれば,なぜ,被爆による急性症状の特徴が
異なるのかについて,合理的な説明がなされていない。そもそも,チェルノブ
イリ事故等の多数の放射線事故における被爆態様は一様ではないにもかかわら
ず,共通した,しきい線量がみられ,かつ,発症した身体症状に共通した特徴
がみられたのであり,仮に,P48が指摘するように,原爆放射線被爆による
被爆態様と他の放射線事故のそれとが異なっていたとしても,それゆえに,原
爆被爆者に限って,被爆による急性症状の特徴が大きく異なるということは到
底考えられないのに,この点についても,P48は合理的な説明をしていない
のであるから,P48の意見は到底受け入れ難い。
また,P23は,遠距離,入市被爆者の下痢や脱毛が急性症状であると評価
する前提として,急性症状にしきい線量はない旨の意見を述べ,急性症状を発
症する線量はしきい線量より低いことがある根拠として,「個人差」を挙げる。
しかしながら,被爆による急性症状にしきい線量があることは,前記のとお
り,複数の放射線事故の際に生じた急性症状により実証的に裏付けられている
うえ,発症のメカニズムからしても当然の理であり,人種間の放射線感受性の
違い,被爆者の体質やその時の健康状態などの個人差を考慮してもなお,被爆
による急性症状には明解なしきい線量が認められるということは,世界的に確
立した知見でもある。また,P23が被爆による急性症状にしきい線量はない
ことを根拠づけるものとして挙げるデータ(P99の「核戦争と放射線」で甲
全124)は,昭和42年に発表されたもので,相当古いものであるうえ,P
23が遠距離被爆者にみられた被爆による急性症状を調査したという日米合同
調査団報告(甲全77の11)の内容とも整合していない。さらに,P23は,
急性症状にしきい線量がないことを前提に,遠距離,入市被爆者の急性症状を
放射線被爆の態様,すなわち,爆心地の距離と関係なく,放射性降下物が降下
したことに起因する被爆の可能性によって十分に説明ができる旨の意見を述べ
るが,その主張の根拠として引用する論文も,その内容を検討すると,必ずし
もその主張を裏付けるものともいえない。仮に,P23の主張のとおり,被爆
による急性症状の発症が,爆心地との距離と無関係に降下した放射性降下物に
起因するのであれば,その発現率は,爆心地からの距離とは無関係に不規則に
増減するはずである。ところが,1審原告らがその主張を裏付けるものとして
挙げる日米合同調査報告などの調査結果を検証しても前記のような特徴や傾向
は,一切窺われず,むしろ,身体症状の発現率は,爆心地から距離が離れるに
つれて,低下しているのであるから,P23の前記意見は,前記のような遠距
離被爆者の急性症状の発現率を合理的に説明することができないことは明らか
であって,到底受け入れ難い。
3遠距離・入市被爆者に被爆による急性症状がみられた根拠として引用される
各調査報告はいずれも被爆による急性症状を明らかにしたものではないこと
1審原告らは,被爆者の身体状況を調べた様々な調査結果を根拠に,遠距離
被爆者や入市被爆者にも被爆による急性症状がみられたと主張する。しかしな
がら,P47の証言等によれば,こうした調査が示した結果は,被爆による急
性症状ではないことが明らかである。この点,遠距離被爆者の身体症状を調査
したものとして代表的に取り上げられる日米合同調査報告及びP29報告でと
りまとめられた結果には以下のとおりの問題点が挙げられる。すなわち,日米
行動調査報告及びP29報告には,被爆による急性症状の発症過程で現れる明
解な特徴が示されていないことから,明らかに被爆による身体症状でない身体
症状が含まれている。また,被爆による急性症状としての嘔吐,脱毛,下痢は,
そのしきい線量に着目すると,嘔吐が最も低く,次いで,脱毛,下痢の順にし
きい線量が高くなるので,下痢のしきい線量を被爆した集団を観察すると,発
症率の高さは,しきい線量の低い嘔吐が最も高く,脱毛,下痢の順に発症率が
低下することになるはずである。したがって,日米合同調査報告及びP29報
告が示した身体症状が被爆による急性症状であれば,前記の順に従った発現率
となるはずである。ところが,これらの報告では,広島でも長崎でも,ほぼ全
体で下痢の発現率が最も高く,次いで,脱毛,嘔吐の順であると評価でき,完
全な逆転現象が生じているのであるから,これらの報告で示された身体症状は,
被爆による身体症状であるとは考え難い。また,日米合同調査報告では,脱毛
と紫斑(皮下出血)が起きていると報告されていることを根拠に,これらの症
状が被爆による急性症状であると主張されることがあるが,このような理解は
間違っている。すなわち,日米合同調査報告では,脱毛のみ,紫斑のみ,脱毛
及び紫斑を発症したものを合算して調査しているところ,被爆による急性症状
としての脱毛のしきい線量は3グレイ程度,紫斑のそれは2グレイ程度である
から,急性症状としての脱毛が発症していたとすれば,それよりも低いしきい
線量で発症する紫斑も併発すると考えるのが自然であるから,脱毛と紫斑につ
いて,被爆による急性症状として評価し得るのは,これを併発している場合と
いうことになる。ところが,1600メートルないし5000メートルの調査
対象者のうち,脱毛と紫斑を併発して発症している者の占める割合はわずか0.
8パーセントにすぎないのであるから,脱毛と紫斑が併発して発症しているこ
とを根拠に,被爆による急性症状がみられたと評価することは不合理である。
4遠距離・入市被爆者が急性症状が生じる程度の被爆をしたとは考えられない
こと
放射線による急性症状は,最低でも1グレイ程度以上,脱毛は頭部に3グレ
イ以上,下痢は腹部に5グレイ以上被爆しなければ発症しない。この点は,前
記のとおり世界的に確立された知見に基づくものである。しかし,原爆の初期
放射線の被爆量は,DS86に基づいて策定された審査の方針別表9のとおり,
広島では爆心地から1100メートル以遠,長崎では同じく1250メートル
以遠では,3グレイに満たなくなっているから,放射線被爆による下痢はもち
ろん脱毛が生ずることはなかった。そうである以上,原判決が指摘するアンケ
ート調査等において報告されている,爆心地から1500ないし2000メー
トル以遠にみられたとする急性症状も,原爆の初期放射線に起因するものとは
いえないし,爆心地から遠距離になるほど発症率が低くなるなどということも
ない。実際,爆心地から1500ないし2000メートル以遠をみる限り,そ
の距離が離れるに従って発症率が低くなるという関係にはなっておらず,原爆
の初期放射線が影響を及ぼしているものとは考え難い。また,原爆の放射性降
下物の影響も,最大限見積もっても,広島で0.2グレイ,長崎で0.24グ
レイに過ぎず,この程度の被爆線量で被爆による急性症状を発症させることは
あり得ない。また,誘導放射線の影響についても,爆心地から600ないし7
00メートル以遠では,原爆の初期放射線の中性子がほとんど到達せず,それ
以遠の地点では誘導放射化が起こることは,ほとんどなかったのであり,誘導
放射線の影響が最大となる爆心地においてその被爆線量を最大限見積もっても,
広島で,0.5グレイ,長崎で0.24グレイにすぎないことからしても,誘
導放射線によって急性症状が生じたものとは考え難い。
以上より,客観的な実測値に基づいて明らかになっている広島,長崎原爆に
よる放射線と,被爆による急性症状のしきい値との関係からして,遠距離被爆
者,入市被爆者に放射線被爆を原因とする急性症状が発症したとは到底考え難
い。
5自然災害,P46臨界事故などでも,被爆による影響ではないことが明白な
嘔吐,下痢,出血等の発症が確認されていること
原爆被爆者にみられた様々な身体症状と同様の症状は,放射線被爆をしてい
ないことが明らかな事案においても具体的に確認されているのであって,こう
した事実に照らすと,遠距離被爆者や入市被爆者にみられたとされる身体症状
が,衛生環境及び栄養状態の悪化や精神的影響に起因するものであることは明
らかである。そして,最近の研究によれば,P46臨界事故の際,施設の周辺
住民は,身体症状を発症する程度の放射線被爆をしていないことが明らかであ
るにもかかわらず,事故後2年以上が経過してもなお,様々な身体症状を発症
している者がおり,その発症率はP46施設から離れるに従って減少していく
ことが統計的に有意に認められている(乙全221)。このような周辺住民に
認められた身体症状は,自分も被爆をしているのではないかといった不安感,
風評被害などに基づく精神的影響によるものと考えられ,その精神的影響は施
設から離れるにしたがって逓減し,その結果,施設から離れるに従って身体症
状の発現率が低下していったものと理解できるのである。したがって,日米合
同調査報告などの古い調査結果が,たまたま爆心地からの距離や遮蔽の有無で
身体症状の発現率に差があることを示したからといって,それを根拠に被爆に
よる急性症状を明らかにしたものであると認めることには合理性がない。
6平成12年最高裁判決が基礎とした事情は,現在の知見に基づけば,大きく
変動していること
(1)平成12年最高裁判決の内容
平成12年最高裁判決は,長崎の爆心地から2400メートルの地点で被
爆し,爆風で飛んできた瓦が頭部に当たり,頭蓋骨陥没骨折等の傷害を受け
た原告が,右半身不全片麻痺及び頭部外傷を申請疾病として,原爆症認定申
請をした事案において,放射線起因性があると判断した福岡高等裁判所の判
断を是認し得ないものではないと結論づけたものである。そして,平成12
年最高裁判決がその前提とした事実関係は,同判決の原審である福岡高等裁
判所に,平成9年当時,明らかになっていた証拠に基づくものにほかならな
いところ,放射線の人体影響や放射線の線量評価の研究は,日進月歩で進め
られており,放射線の人体影響に関しては,様々な被爆事故の経験から,被
爆による急性症状には,その発症時期,程度,回復時期等に極めて明解な特
徴のあることが確定的な知見として明らかとなり,平成12年最高裁判決が
前提とした報告書は,被爆による脱毛を的確に把握したものではないことが
判明しているのである。このことは,平成12年最高裁判決で指摘された脱
毛に関する調査報告書の調査対象者の多くが,調査ごとに脱毛の有無につい
ての回答内容を変えていたことや,爆心地から2000メール以遠において
観察された脱毛が放射線の影響か否か判断できないとされていることが,平
成12年最高裁判決後に新たに発表されていることからも裏付けられている。
(2)結論
以上のとおり,平成12年最高裁判決が前提とした事実関係には大きな変
動が生じているというべきであり,そうである以上,遠距離被爆者に生じた
脱毛等の身体症状が被爆による急性症状であると認めた,同判決の原審にお
ける事実認定も再検討されなければならないのは当然であり,本件では,現
時点において明らかになっている証拠関係に基づいて,遠距離,入市被爆者
に生じた脱毛等の身体症状が被爆による急性症状と認められるかどうかが判
断されなければならない。
7小括
以上のとおり,遠距離被爆者や入市被爆者にみられたとされる身体症状につ
いて,被爆による急性症状に明解にみられる特徴やしきい線量との関係を考慮
することなく,これを,被爆による急性症状と認定することは誤りであり,ま
して,遠距離被爆者や入市被爆者にみられたとされる身体症状が,被爆による
急性症状と認定されることを根拠として,1審被告らが主張する被爆線量評価
の合理性を否定することは,本末転倒というべきで失当である。
第71審原告らの申請疾病の症状・経過を個別にみると放射線起因性を認めるこ
とはできないこと
11審原告P1について
1審原告P1(昭和▲年▲月▲日生まれ,女性)は,相当程度高線量の被爆
をしていること,同人の白内障と老人性白内障との区別は可能であり,放射線
量と白内障の関係について,確定的影響ではなく,確率的影響の関係にあるこ
とは明らかであるとし,同人の申請疾病である白内障に放射線起因性が認めら
れる旨主張する。しかしながら,1審原告P1の主張は以下のとおり理由がな
い。
(放射線起因性について)
(1)1審原告P1の被爆状況と線量について
1審原告P1は,長崎の爆心地から3100メートル離れた長崎市水ノ浦
のP59P60工場の事務所内で被爆したものであるから(乙b3),その
距離からしても,遮蔽の存在からしても原爆による初期放射線による被爆を
ほとんどしていない。次に,残留放射線による被爆線量についてみると,同
人は,認定申請書(乙b1)で,被爆時の状況や被爆後の行動について詳細
に記載しているものの,黒い雨に打たれたということは全く記載していない。
ところが,陳述書(甲b3)では黒い雨に打たれたこと,黒い雨は粘度が高
く,腕についた黒い雨をぬぐうことができなかった,黒い雨が目にも入った
などと記載しているが,特徴的,象徴的な体験が認定申請書に記載されてい
ないということ自体不可解であって,前記供述内容の信用性は極めて疑わし
い。この点をひとまず置くとしても,審査の方針によれば,残留放射線によ
る被爆線量は0.01グレイにすぎない。また,原爆直後にみられた「黒い
雨」は,火災によるすすが巻き上げられ,雨と一緒に降下したことによるも
のであるところ,すすの主要成分は炭素であり,炭素は極めて誘導放射化し
にくい性質をもっているので,すすを主成分とする黒い雨は放射性物質とは
必ずしも同じものではない。そうすると,仮に,1審原告P1が浦上駅付近
で黒い雨に降られたことがあったとしても,場所的に,放射性降下物が最も
降下した西山地区におけるものではないうえ,時間的にも一時的なものにす
ぎないのであるから,西山地区における無限時間を想定した積算線量(0.
12ないし0.24グレイ)を超えるものではあり得ず,放射性降下物によ
る被爆も,人体への健康影響を考慮するうえでは,無視し得る程度のもので
あったというべきである。
(2)1審原告P1の身体症状と急性症状との関係について
まず,1審原告P1の被爆線量は,前記のとおりであるから,同人に被爆
による急性症状が発症する余地はない。
仮に,同人に被爆直後,何らかの身体症状があったとしても,当該症状の
存在自体から被爆による急性症状があったものと推認することはできないの
であって,同人の身体症状に,現在確立した知見となっている被爆による急
性症状に顕著に表れる特徴が備わっているかどうかを検討する必要がある。
そこで,このような観点から同人の身体症状を検討すると,同人に認められ
る身体症状は,被爆による急性症状ではないことは明らかである。すなわち,
脱毛の点については,同人は,脱毛後,髪の毛が全部生えそろうまでに2年
以上かかったとするが,被爆による脱毛は毛母細胞が一時的に障害されるた
め,その時点で毛髪が脱落するもので,8ないし12週間経過後には発毛を
するのであって,2年以上も脱毛した状態が継続するということは考えられ
ない。次に,発熱の点については,同人は,8月末ころから,急に発熱し,
やがて脱毛しだしたとするが,被爆による急性症状における前駆症状として
の発熱は,被爆から数時間以内に発生するものであり,一定の潜伏期間をお
いて発症する脱毛と同時期に発症するということはあり得ない。さらに,出
血の点については,同人は,昭和21年正月ころ,歯茎がぐらぐらしだして,
歯茎から出血するようになったとするが,歯茎からの出血が,骨髄障害に基
づく血小板の減少に起因するものであったとすれば,血小板数がごく低値と
なる被爆から1か月前後で発症し,骨髄障害の回復とともに改善するはずで
あるが,同人の訴える身体症状はこれと一致しない。むしろ,同人の身体症
状は,口腔不衛生による歯周炎等に起因するものと考えられ,被爆による急
性症状とは無関係である。加えて,下痢の点については,同人は,昭和20
年9月始めころから,赤痢のようなひどい下痢が続き,血便が出始めたとす
るが,仮にこれが被爆による急性症状としての下痢であり,腸管細胞が障害
され再生不能となるために発症したものであるとすれば,現実的には極めて
予後は不良で,現代の医療技術をもってしても救済できないとされているこ
とと矛盾する。また,被爆に起因する急性症状であれば,5グレイ程度被爆
した場合に,前駆症状として被爆から数時間以内に一過性の下痢を発症する
はずであるが,同人の訴える身体症状はこれと一致しない。
以上より,1審原告P1が主張する身体症状が全て認められるとしても,
これらの症状は,被爆による急性症状ではない。
(3)1審原告P1の申請疾病(両目白内障)に放射線起因性は認められないこ

ア同人の両目白内障は老人性白内障であること
白内障とは,眼の水晶体が混濁した状態をいい,後天性の白内障で最も
多いのが,加齢による老人性白内障であり,一般に50歳以上からみられ,
60歳代以上では約70パーセント以上の確率でみられ,水晶体の混濁は
赤道部皮質や核,後嚢下から始まる。そして,老人性白内障では,混濁の
範囲は点状,塊状で限局されず,むしろ広がっていく。
一方,同人の両目白内障の特徴を列挙すると,同人は,平成9年ころか
ら視力低下に気付き,平成13年に視力が低下したというのであり,進行
性であることが顕著に示されている。そして同人の主治医は,平成9年当
初,後嚢下に混濁がみられたが,平成14年には,後嚢下混濁の範囲は著
しく大きく,顕著となったというのであり,後嚢下混濁自体,点状や塊状
に限局されず,大きな広がりをもち,後嚢下のみならず前嚢下にも混濁範
囲が広がったというのであるから,同人の白内障が進行性のものであるこ
とが裏付けられている。
以上の事実関係からすると,同人に白内障の症状が出始めたのは平成9
年ころ,すなわち同人が70歳になったころと認められる。このように,
同人の白内障の発症時期が被爆から相当長期間を経た後であり,発症時期
を考慮すれば,被爆者でなくとも,老人性白内障を発症していてもおかし
くない時期に発症している。また,同人の白内障は,前記のとおり明らか
に進行性のもので,老人性白内障の特徴とも矛盾しないものであり,同人
の白内障について老人性白内障であることを排斥すべき事情は皆無である。
なお,1審原告P1の主治医は,認定申請時に提出する意見書に,「前
嚢下で高度混濁」と記載したのは誤記であり,「後嚢下で高度混濁」の趣
旨であるとするが,後嚢下の混濁が顕著であり,同人に放射線白内障の特
徴的な病像を有していたとの認識を有していた主治医が原爆症認定のため
の申請書にこのような誤記をするとはにわかに考え難い。また,主治医に
よれば,主治医とは別人が作成したという同人の健康診断個人票(乙b
3)にも,「後嚢下」を「前嚢下」と誤記されていると主張するのである
が,前記健康診断個人票の記載内容に照らすと,主治医が作成した意見書
(乙b2)を資料として作成されたものではないことは明らかである。そ
うすると,主治医及び健康診断個人票の作成者がともに「後嚢下」を「前
嚢下」と誤記したということになるのであって,このような事態は不自然
きわまりないもので,むしろ,平成9年当初,同人に後嚢下混濁がみられ
たとする主治医の診断自体相当疑わしいというべきである。
イ1審原告P1の両目白内障は,放射線白内障としての特徴を持ち合わせ
ていないこと
放射線白内障は,審査の方針においては,しきい線量1.75シーベル
トとされた確定的影響によるもので,被爆後,数か月から数年以内に発症
し,被爆線量が高いほど発症までの期間が短く,重篤になる。また,多く
は,進展せず(停止性),視力障害を生じるような高度混濁となることは
稀であり,この点は,P92論文でも指摘されている。また,放射線白内
障の診断基準としては,後極部後嚢下にあって色閃光を呈する限局性の混
濁,若しくは後極部後嚢下よりも前方にある点状ないし塊状混濁があるこ
と,近距離直接被爆歴があること,併発白内障を起こす可能性のある眼疾
患がないこと,原爆以外の電離放射線を相当量受けていないこととされて
いる。
一方,1審原告の白内障は,進展性で広がりのある高度混濁を生じてい
るのであるから,放射線白内障の特徴を有しないし,放射線白内障の診断
基準も満たしていない。
(4)1審原告P1の白内障はP74論文によっても,原爆放射線に起因するも
のとは認められないこと
1審原告らは,P74論文によれば,13歳未満の幼年期で被爆した被爆
者が数10年経過して水晶体後嚢下混濁を発症した場合,放射線量との有意
な関係を認め,遅発性の放射線白内障が存在することがP74論文によって
示されたと主張する。しかしながら,1審原告は,被爆時18歳であったの
だから,P74論文が記載する基準には当てはまらない。この点をひとまず
置くとしても,P74論文には,以下のとおりその信頼性について疑問があ
る。すなわち,P74論文は,後嚢下混濁すなわち放射線白内障を特徴づけ
るものであり,皮質混濁すなわち老人性白内障を特徴づけるものであるとの
一種の擬制をしているが,後嚢下混濁は,放射線白内障にのみ生じる特異な
症状ではなく,老人性白内障にもみられる症状であって,この点において失
当である。また,P74論文のいう「遅発性放射線白内障」や「早発性老人
性白内障」といっても,いつからを遅発といい,あるいは早発というのか,
その区別の時期が全く示されていないうえ,調査時(被爆から55年経過
後)に後嚢下混濁が発症したことを前提として結論を導いているが,どのよ
うな検査,手段方法をもって被爆後55年経過した調査時点で後嚢下混濁が
発症したことを確定したのか全く不明であり,調査時点以前から調査対象者
に後嚢下混濁が発症していた可能性を否定できないことに照らすと,P74
論文による見解は仮説の域にも達しないものといわざるを得ない。
したがって,P74論文によっても,1審原告P1の白内障について,放
射線起因性を肯定することはできない。
(5)放射線起因性についての小括
1審原告P1の白内障については,同人がほとんど被爆しておらず,放射
線に起因する白内障を発症する余地はないこと,被爆後にみられたという同
人の身体症状の存在自体疑義があり,仮にこれが認められたとしても,被爆
による急性症状とは認められないこと,白内障の発症時期や症状等からして
も老人性白内障と診断するのが最も合理的であること,放射線白内障であれ
ばみられる特徴が認められないこと,1審原告らが主張するような遅発性放
射線白内障なる概念自体,確立した知見として認められないことから,1審
原告P1の白内障に放射線起因性を認めることはできない。
(要医療性について)
1審原告P1の白内障に必要とされる医療は手術である。特に放射線白内障
は投薬治療により改善することはなく,他方,手術は技術の進歩がめざましく,
日帰りでも対応可能となっているほど低侵襲で,改善可能性も高い。事実,1
審原告P1は,右眼については平成14年に手術を受けて視力の改善効果を得
ているのに,左眼については,手術に対する恐怖感を理由に,必要とされる手
術を受けていないというのであるから,平成14年の申請時に手術の必要性す
らなかったものと考えるのが妥当であるし,1審原告P1が医者から投薬治療
を受けているとしても,それは実質的な治療行為には当たらない。いずれにし
ろ,1審原告P1の左眼白内障に要医療性は認め難い。
(結論)
以上より,1審原告P1の申請疾病について1審被告厚生労働大臣がした却
下処分は適法である。
21審原告P4について
1審原告P4(大正▲年▲月▲日生まれ・男性)は,多量の放射線を浴びた
以上,被爆とは無関係に全く別の原因で発症したことが明らかな場合を除き,
放射線起因性が認められるべきであるとし,同人の申請疾病(良性の,のう胞
性膵腫瘍(膵囊胞))が分枝型膵管内乳頭粘液腫瘍(以下「IPMN」ないし
「IPMT」)であることを前提として,これに放射線起因性が認められる旨
主張する。しかしながら,同人の主張は以下のとおり理由がない。
(放射線起因性について)
(1)1審原告P4の被爆状況と被爆線量について
1審原告P4は,爆心地から1500メートル離れた広島市大須賀町所在
の兵舎内で被爆した。同地点における初期放射線の被爆線量は,0.5グレ
イであるが,建物による遮蔽を考慮して透過係数を0.7とすると,同人の
初期放射線の被爆線量は,0.35グレイと推定される。また,広島の爆心
地から700メートル以遠においては,誘導放射線による被爆を考慮する必
要がない。また,同人は,黒い雨に打たれた旨の供述をするが,同人が被爆
した大須賀町は,1審原告らが,黒い雨が広範囲に降ったことの根拠として
引用するいわゆるP17雨域(甲全86の9)によっても,降雨なしか,あ
ったとしても小雨程度の地域に分類されるのだから,同人の前記供述は信用
し難い。そして,広島,長崎の原爆から放出され,地上に降り注いだ放射性
降下物の量は極めて少なく,黒い雨が最も激しく降り,広島で放射性降下物
が最も降下したとされる己斐・高須地区の無限時間を想定した積算線量は0.
006グレイないし0.02グレイにすぎなかったことが実測の結果に基づ
いて明らかになっている。したがって,仮に,1審原告P4が供述するよう
な態様で黒い雨に打たれたことがあったとしても,場所的に,放射性降下物
が最も降下した己斐・高須地区におけるものではないうえ,時間的にも一時
的なものにすぎないのであるから,己斐・高須地区における無限時間を想定
した前記積算線量を超えるものではあり得ず,同人の放射性降下物による被
爆も,人体への健康影響を考慮するうえでは,無視し得る程度のものであっ
たというべきである。
(2)1審原告P4の身体症状と急性症状との関係について
まず,1審原告P4の被爆線量は,前記のとおりであるから,同人に被爆
による急性症状が発症する余地はない。
仮に,同人に被爆直後,何らかの身体症状があったとしても,前記のとお
り,同人の身体症状に,現在確立した知見となっている被爆による急性症状
に顕著に表れる特徴が備わっているかどうかを検討する必要がある。そこで,
このような観点から同人の身体症状を検討すると,同人に認められる身体症
状は,被爆による急性症状ではないことが明らかである。
1審原告P4は,被爆の2,3日後から,頭部,陰部,眉部の毛が抜け始
め,全身に紫斑が現れたこと,被爆当日から嘔吐があり,これが3週間程度
継続したこと,さらに,被爆当日から下痢を発症し,これが3週間程度継続
し,その間,血便であったと供述する。しかしながら,被爆後のABCCの
調査結果によれば,身体症状の有無,程度に関する被爆後60年以上も経た
現在の被爆者の供述は,一般的な傾向として主観的,かつ,不確かな記憶に
基づくものであることが判明している以上,その供述の信憑性は慎重に検討
される必要があるのであって,1審原告P4の供述どおりの身体症状が発現
していたともいい難いところである。この点をひとまず置くとしても,脱毛
及び紫斑が出現したとの点については,被爆による急性症状としての脱毛で
あれば,被爆から少なくとも8ないし10日後から発症し,紫斑についても,
被爆後1か月程度で血小板がごく低値になるのに前後して発症するものであ
る。また,嘔吐の点についても,これが被爆による急性症状の前駆症状とし
ての嘔吐であれば,3週間も継続するということはあり得ないし,下痢の点
についても,これが被爆による急性症状としての下痢であれば,被爆による
腸管細胞が障害され再生不能となったために生じるものであるから,予後は
極めて不良であって,下痢が長期間にわたって継続するということは考え難
い。したがって,同人にみられた身体症状は,前記のとおり,被爆による急
性症状にみられる明解な特徴を備えた症状ではないから,同人が主張する身
体症状が全て認められるとしても,これらの症状は,被爆による急性症状で
はない。
(3)1審原告P4の膵臓病変は良性の嚢胞であり,腫瘍ではないこと
1審原告P4は,同人の申請疾病はIPMN(分枝型膵管内乳頭粘液腫
瘍)であると主張する。そして,IPMNには嚢胞が多房性の形状をしてい
ること,膵管の拡張がみられることにその特徴がある。ところが,同人の膵
臓に係る病変部分は,単一の楕円形の病変(単房性)を示しており,IPM
Nの特徴である多房性病変は認められない。そして,単房性嚢胞の大半は良
性の仮性嚢胞であることからすると,同人の膵臓にみられた病変は良性の仮
性嚢胞であるとみるのが相当である。
仮に,同人の前記病変がIPMNであるとしても良性のものである。すな
わち,同人に関して,昭和60年ころの検査で既に,膵臓の腫瘍が見つかり,
検査手法や鑑別方法の発展により,平成17年,その腫瘍がIPMNである
ことが分かったが,主治医において,サイズの変化,壁存結節の出現,主膵
管拡張などの新たな変化は認められず,悪性を示唆しないとの診断をしてお
り,かつ,主治医による経過観察の結果,およそ悪性の可能性のないものと
診断されているものであるから,同人の膵臓の病変がIPMNであるとして
も良性のものであることは明らかである。
これに対し,1審原告P4は,申請疾病がIPMNであることを前提とし
て,その悪性度について,WHOが平成8年に提唱したIPMNの悪性度に
係る分類(甲C3の表1)に基づいて良性,悪性の判断をすべきであると主
張する。しかし,WHOの分類は,疾病が発生したもともとの正常細胞ない
し組織がそれぞれ異なる形状をもつことに着目して,疾病を分類するという
ものであるから,この分類に基づく判断をするためには,組織学的検査を実
施することが不可欠であるというべきところ,同人に対しては,組織学的検
査が実施されていないのであるから,WHOの分類に基づいて,同人の申請
疾病を良性,悪性あるいは境界性の各分類のいずれかに当たるかを鑑別する
ことはできないというべきである。
また,同人は,近時の学会の知見として,膵がんにみられる現象であるが
ん抑制遺伝子の欠損がIPMNにも高頻度に認められることや,膵がんの発
がん段階でみられる蛋白発現異常がIPMNにも認められることを指摘し,
これを根拠に,IPMNの病態が初期の発がん段階にあることが示唆される
と主張する。しかしながら,どのようなIPMNであっても,がん関連の遺
伝子変化や蛋白発現異常が認められると知見はないのであり,IPMNであ
ることから,一般論として,それが前がん状態にあるものとはいい難い。
結局,腫瘍が良性か悪性かの判断は,当該腫瘍が浸潤,移転するか否かに
よるのであるから,同人の申請疾病についても,その病変に浸潤,移転が認
められるかどうかが,良性か悪性かの判断をするに当たって最も重要な判断
基準となるというべきである。そして,同人は,昭和59年,被爆者検診を
受検し,膵嚢胞との指摘を受けた後,大学病院で様々な検査を定期的に受診
し,これらの検査により多角的な検討がなされ,複数の医師により推移が注
視されてきたにもかかわらず,その疾病について悪性化を具体的に示唆する
徴候は,昭和60年以来現在においても認められていないのであるから,同
人の申請疾病は,およそ悪性化の可能性がないものであって,良性であると
判断するのが相当である。このことは,同人について,昭和59年11月に
膵臓の病変が指摘された以降,主治医の意見書が提出された平成17年9月
までの間,同人の病変等を診察した医師のいずれもが,積極的な切除を要す
る旨の判断に至っていないところ,その理由としては,医師らが同人の病変
について悪性化の見込みがないものと判断していたからであると考えざるを
得ないことからも裏付けられている。
(4)良性のIPMNと放射線との関係について
1審原告P4の申請疾病は膵嚢胞であり,そもそも腫瘍ではなく,こうし
た膵臓病変に原爆放射線との関連性を示す知見は全くない。
仮に,同人の申請疾病がIPMN(腫瘍)であるとしても,良性であり,
膵臓の良性腫瘍と原爆放射線との関連性を示す知見は存在しない。
これに対し,1審原告らは,IPMNが前がん病変であることを前提とし
て,その放射線起因性を判断するに当たって,膵がんの放射線起因性の考え
方を参考にすべきであると主張するが,がんではない前がん病変ついて,一
般に放射線との関連性を示す知見がない以上,がんと同様に考えることは科
学的に誤りであり,原則として放射線との関連性は否定されていると考える
べきであるから,1審原告P4の前記主張は理由がない。
また,1審原告P4は,同人の申請疾病が良性のIPMNであるとしても,
良性腫瘍と放射線との関連性を一般的に肯定すべきであり,特に疫学調査に
より大腸ポリープの放射線起因性が肯定されている以上,これを参考にして
同人のIPMNの放射線起因性を肯定するべきであると主張する。しかしな
がら,良性腫瘍であるからといって当然に放射線との関連性が認められるわ
けではないし,1審原告らがその主張の根拠として挙げる「健康調査第6
報」(甲C9)についても,第6報が放射線との関連性を認めたのは,女性
の子宮筋腫であり,また,男性の良性腫瘍は,胃ポリープと脂肪種にほとん
ど限定されているのであるから,第6報による報告の当否を判断するまでも
なく,これをもって,1審原告P4のIPMNに放射線起因性を認める根拠
とはならない。また,同人がその主張の根拠の一つとして挙げる「原爆放射
線の人体影響1992」(乙全14の106頁)も,同人の主張を裏付ける
ものではなく,かえって,消化管ポリープ一般について放射線との関連性が
認められない旨が指摘されている(同108頁)。
以上より,同人の主張はいずれも理由がない。
(5)1審原告P4が高カルシウム血症であることを前提とする同人の申請疾病
について,放射線起因性を認めることはできないこと
ア1審原告P4の主張
1審原告P4は,副甲状腺機能亢進症である可能性が高いと主張し,そ
の根拠として1審原告P4には高カルシウム血症の症状がみられることを
挙げ,同血症がIPMNに影響している可能性があることや,同人にみら
れる同血症が原爆被爆の影響による可能性が高く,同人が相当高線量の放
射線を被爆したことを示す事情といえると主張する。
イ1審原告P4に高カルシウム血症に該当する症状はないこと
高カルシウム血症の診断は,血清カルシウム値に基づくが,同値の正常
値の上限値である10.4ミリグラムパーデシリットルを相当程度超えて
いる場合,高カルシウム血症と診断される。ところが,1審原告P4の血
清カルシウム値をみると,前記条件を満たしていない。
また,高カルシウム血症の原因の一つに,血中カルシウムを調節する副
甲状腺ホルモンの分泌が過剰となる副甲状腺機能亢進症があるところ,平
成19年9月19日に実施された1審原告P4の検査詳細情報によると,
同人の副甲状腺ホルモンの数値は,42pg/mlで,基準値(10ない
し65pg/ml)の範囲内に収まっているのであるから,同人の副甲状
腺機能が正常であることは一見して明らかである。この点について,P4
8医師は,1審原告P4が副甲状腺組織について線腫,過形成及びがんを
有していた可能性があると述べるが,1審原告P4には,副甲状腺が存在
する頸部に対して,線腫等の有無を簡便に診断できる超音波検査等の画像
検査は全く行われていないのであり,このような事実からすると,同人の
主治医らは,同人が副甲状腺機能亢進症を発症したとの疑いをもっていな
かったことが十分に推測される。
さらに,高カルシウム血症の主要症状として消化管潰瘍や膵炎が挙げら
れるが,それらの症状が発生する状況として血中カルシウム値が12ミリ
グラムパーデシリットル以上になることが前提となっている。ところが,
1審原告P4の血中カルシウム値は,前記値を超えてはいない。したがっ
て,1審原告P4に膵炎類似の症状があるからといって,これが高カルシ
ウム血症に起因するとの1審原告P4の主張は失当である。
加えて,高カルシウム血症は,胃酸分泌を亢進させることで膵炎を引き
起こすという経過をたどるものであって,膵炎の発症があるから高カルシ
ウム血症があるとの推論ができるものではないし,むしろ,一般的に,急
性膵炎を発症すると,血中カルシウム値は低値となることが指摘されてい
るのであるから,1審原告P4の前記主張はこのような医学的機序に沿わ
ないもので,理由がない。
そして,1審原告P4が申請疾病と主張するIPMNの随伴症状と,同
人が副甲状腺機能亢進症を発症した可能性のあることの根拠とする高カル
シウム血症との主要症状とが重なり合う,あるいは関連するとして,副甲
状腺機能亢進症とは異質の発生機序をもつ同人の申請疾病が原爆放射線に
起因しているという1審原告P4の主張もまた,それぞれの発生機序が異
なるものであることからして,理由がない。
ウ小括
以上より,1審原告P4は高カルシウム血症ではなく,したがってその
原因が副甲状腺機能亢進症であるとする主張は前提を欠くもので,理由が
ない。1審原告P4にみられた膵炎様の症状も,高カルシウム血症や副甲
状腺機能亢進症とは無関係であり,同人の申請疾病は,高カルシウム血症
とは関係がないものであるから,副甲状腺機能亢進症と関係づけて,同人
の申請疾病が放射線に起因するものとする同人の主張も理由がない。
(要医療性について)
1審原告P4の申請疾病は,前記のとおり腫瘍ではないし,腫瘍であると
しても悪性のものではなく,また,悪性化の過程にあるものでもない。また,
同疾病は,以前,切除可能として手術が検討されたにもかかわらず,長期間,
良性のまま経過しており,移転や増大の見込みはほぼ,ないのであるから,
同人の申請疾病には要医療性は認められない。
(6)1審原告P4の申請疾病と新審査の方針との関係について
1審原告P4は,新しい審査の方針が爆心地から約3500メートル以内
で被爆した等の形式的要件を満たす者が悪性腫瘍等一定の疾病を発症した場
合には,当該疾病の放射線起因性を積極的に認定することとしている点から,
1審原告らが,上記の要件に該当する場合には,科学的な線量評価上も,一
定の疾病を発症するに足りる放射線に被爆していることが推定されると主張
する。しかしながら,新審査の方針は,与党PT提言に由来するものである
ところ,これは,科学的知見に必ずしもこだわらず,また,申請者個人の被
爆線量や被爆後の身体症状の有無,疾病の種類等の個別的な事情については
考慮することなく,爆心地からの距離等によって形式的に放射線起因性を判
断するというものであり,政策的に可能な限り認定の範囲を拡大するという
観点から,放射線起因性を判断することとしたものである。そして,厚生労
働省は,前記提言に現れた政策的判断を尊重することとし,新審査のイメー
ジを作成してこれを医療分科会に示したが,この新しい審査イメージでは,
いわゆる確率的影響が問題となる疾病については,一定の形式的要件に基づ
き被爆者を救済することとしたものであるが,科学的知見に基づかずに,被
爆距離等の要件を満たせばこれらの疾病の放射線起因性が肯定されるとした
ものではない。また,新審査のイメージのうち,積極的認定は,被爆地点が
3500メートルの初期放射線の被爆線量は自然界で人が1年に浴びるとさ
れる1ミリシーベルトを超えるとされている点に着眼したものであるが,こ
れは1ミリシーベルトを超えれば,積極認定対象疾病の放射線起因性が科学
的に肯定されるとする趣旨ではないのであり,少なくとも,自然放射線にも
満たない被爆については,人体への影響を考慮する余地はないという限りで,
科学的知見を踏まえて,政策的配慮の限界を示したものである。
以上より,科学的知見に基づき申請疾病の放射線起因性が問題となってい
る本件において,1審原告P4が新審査の方針の積極的認定要件(被爆地点
や入市時期)に該当するからといって,そのことによって,1審原告P4が
申請疾病を発症すると認めるに足りる放射線に被爆したことを推測できるも
のではない。
さらに,1審原告P4の申請疾病は,前記のとおり,腫瘍ではないし,仮
に腫瘍であるとしても良性であり,同人の主張を前提としても前がん病変で
あり,悪性腫瘍ではないのであるから,新審査の方針が積極的に認定する対
象疾病には当たらない。
よって,1審原告P4の申請疾病の放射線起因性を判断するに当たり,新
審査の方針は関係がないから,同人の主張は理由がない。
第81審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求について
11審原告らに対する原爆症認定申請却下処分はいずれも適法であるから,1
審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求には理由がない。
国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個
別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反して当該国民に損害を加え
たときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するもので
ある。ところで,既に詳細に主張したとおり,1審原告らに対する原爆症認定
申請却下処分は,いずれも,1審被告厚生労働大臣が,旧審査の方針を目安と
してなされた医療分科会の答申を聴いたうえで,放射線起因性が認められない
とされたものである。そして,旧審査の方針及びこれに基づいて行われてきた
医療分科会の審査は,当時の科学的な知見を慎重に評価し,申請者ごとの個別
事情をも考慮して行われてきたものということができ,その判断が被爆者援護
法10条1項の趣旨に合致しない不合理なものとはいえないことは明らかであ
る。したがって,1審被告厚生労働大臣は,職務上,尽くすべき注意義務を十
分尽くしているのであるから,1審被告国は1審原告らに対して国家賠償法に
基づく責任を負うことはない。
これに対し,1審原告らは,1審被告厚生労働大臣の義務違反の内容の一つ
として,平成12年最高裁判決が出された後,司法判断に従って従来の原爆症
認定を抜本的に改めるべき義務があったのに,これを怠ったと主張する。しか
しながら,平成12年最高裁判決が前提とする事実関係と,本件とでは疾病の
種類や被爆状況等の事実関係が異なること,同判決はDS86の線量推定方式
としての科学的合理性を否定しているものではないこと,同判決が指摘したD
S86の見直しの結果,DS86の合理性が改めて確認されていて,同判決当
時と本件各却下処分当時とでは,その前提とする事実関係が大きく異なってい
ることなどに照らすと,1審原告らの主張は失当である。また,1審原告らは,
従前の審査の方針に重大な欠陥があり,1審被告厚生労働大臣は,これを認識
し又は認識し得たにもかかわらず,財政上の制約,アメリカ合衆国の意向,原
子力行政への影響回避を動機として,旧審査の方針を認定申請者に対して機械
的に適用して本件各却下処分をした点に,義務違反があると主張する。しかし
ながら,1審原告らが主張する動機はいずれも単なる憶測にすぎないし,医療
分科会では,旧審査の方針を原爆症認定の目安として用い,1審原告らが問題
とする原因確率10パーセント以下の申請者についても,被爆の程度,既往歴,
環境因子,生活歴等をも総合的に勘案して個別に判断していたのであるから,
1審原告らの主張はその前提を欠くもので失当である。
2本件各却下処分について行政手続法違反の事実は存在しないこと
(1)行政手続法5条1項に違反しないこと
行政手続法5条は,行政庁に対して審査基準設定義務を定めているが,同
条の趣旨,目的にかんがみると,許認可の性質上,個々の申請について個別
具体的に判断せざるを得ないものであって,法令の定め以上に具体的な基準
を定めることが困難であると認められる場合など,審査基準を設定しないこ
とに合理的な理由ないし正当な根拠があると認められるなどの特段の事情が
ある場合には,行政庁は,審査基準を設定することを要しないものと解する
のが相当である。そして,原爆症認定手続においては,審査基準を設定しな
いことには合理的な理由がある。すなわち,被爆者が被爆者援護法10条に
規定する医療給付を受けるためには,1審被告厚生労働大臣の認定を受けな
ければならないところ,原爆症認定のためには放射線起因性と要医療性の要
件を満たす必要がある。ところで,放射線の被爆に起因する疾病には被爆特
有の症状が現れるわけではないので,原爆症認定の申請者により申請された
疾病の放射線起因性を判定するには,疫学的方法により検討をするほかなく,
そして,当該被爆者の被爆線量を把握することが重要となるが,個々の被爆
者の被爆線量を直接測定することは不可能であるので,被爆者の個々具体的
な被爆当時の被爆状況等の事実関係に基づいて被爆線量を推定したうえ,最
新の医学,放射線防護学等の知見を踏まえて,科学的,専門的な判断を行う
ことになる。このような放射線起因性の判断の個別具体性にかんがみれば,
行政庁である1審被告厚生労働大臣が,被爆者援護法11条1項の定め以上
に具体的な基準を定めることは極めて困難であり,要医療性の判断について
も同様である。以上より,原爆症認定については,前記特段の事情が認めら
れるので,1審被告厚生労働大臣が,原爆症認定に関して審査基準を設定せ
ずにした本件各却下処分は,行政手続法5条に違反することはない。
(2)行政手続法8条に違反しないこと
法律が行政処分に理由の付記を要求している趣旨は,処分庁の判断の合理
性を担保して,その恣意的判断を抑制するとともに,処分の理由を相手方に
知らせて,不服申立てに便宜を与える趣旨であり,理由の付記に当たり,ど
の程度の記載をすべきかは,処分の性質や理由付記を命じた前記趣旨を勘案
して決定すべきものである。したがって,同法8条1項により求められる理
由付記の内容及び程度は,処分の根拠事実及び法規を,処分の相手方がその
記載自体から了知し得るものであれば足りる。これを本件各却下処分につい
てみると,被爆者援護法の求める審査会への諮問がなされたこと,審査会の
審査が,申請書に記載された事実関係に基づいていること,審査会では,専
門的知見に基づいて放射線起因性の判断がなされた結果,放射線起因性が認
められないと判断されたという内容の記載がなされているのであるから,処
分の根拠事実及び法規の記載として欠けるところはなく,付記されるべき理
由の記載について違法はない。

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