弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     原判決中、上告人敗訴の部分を破棄する。
     前項の部分につき、本件を大阪高等裁判所に差し戻す。
         理    由
 上告代理人藤原忠、同森川憲二の上告理由第一の一について
 一 原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
 1 上告人は、昭和五九年八月二一日、有限会社Dとの間で、期間を一五年間、
賃料を月額一六二万円、敷金を四五〇〇万円と定めて、上告人が本件建物(スタジ
オ)をDに賃貸する旨の本件賃貸借契約を締結した。なお、後に、賃料は月額一五
五万円に、敷金は三〇〇〇万円に変更された。
 2 本件賃貸借契約については、右同日付けの建物賃貸借契約書(以下「旧契約
書」という。)が作成された。
 3 さらに、上告人は、同月三〇日、Dとの間で、賃貸借期間中に賃借人である
Dの都合により本件賃貸借契約を解除する場合には、賃貸借開始の日からの期間に
応じて、(1) 五年以内の解除の場合は一〇〇パーセント、(2) 八年以内の解除
の場合は八〇パーセント、(3) 一〇年以内の解除の場合は四〇パーセント、(4)
 一五年以内の解除の場合は二〇パーセントというように、一定の割合による金額
を敷金から控除し、その残額をDに返還することを約した(以下「本件特約」とい
う。)。
 4 上告人とDは、右同日、改めて本件特約を記載した建物賃貸借契約書(以下
「新契約書」という。)を同月二一日付けで作成した。
 5 ところで、被上告人は、同年九月七日、Dに対して二〇〇〇万円を貸し付け、
あわせて、Dとの間で、本件賃貸借契約に基づくDの上告人に対する敷金返還請求
権を目的として質権設定契約を締結した。
 6 Dの代表者Eの夫であるF(以下「F」という。)は、上告人に対し、さき
に被上告人から交付を受けていた質権設定承諾書の用紙を提示し、これに署名押印
して質権設定を承諾するよう求めていたが、上告人は、右同日、「昭和五九年八月
二一日附賃貸借契約書の各条項により敷金より控除した残額について質権設定を異
議なく承諾いたします」との条項を付加した上、右承諾書に署名押印し、Fはこれ
を被上告人に交付した。
 7 ところが、上告人としては、右承諾書と共に本件特約の記載されている新契
約書が被上告人に交付されると思っていたのに、Fは、本件特約の記載されていな
い旧契約書を被上告人に交付した。
 8 本件賃貸借契約で定められた敷金三〇〇〇万円は、同年一二月までに、全額
がDから上告人に差し入れられた。
 9 本件賃貸借契約は、昭和六一年四月下旬に当事者間の黙示の合意解約によっ
て終了し、Dは、昭和六二年四月末日、上告人に対し本件建物を明け渡した。
 二 本件訴訟は、右のとおり、貸金債権を担保するためにDの上告人に対する敷
金返還請求権に対して質権の設定を受けた被上告人が、質権に基づく取立権(民法
三六七条)により、上告人に対して右敷金返還請求権のうち自己の債権額に相当す
る部分の支払を請求し、これに対して、上告人が敷金の控除に関する本件特約の存
在等を主張して争うものである。
 原審は、前記一の事実関係の下において、次のとおり判示して、上告人は本件特
約をもって被上告人に対抗し得ないとした上、本件建物の賃料相当損害金のみを敷
金から控除し、被上告人の請求の一部を認容した。
 1 上告人が質権設定を承諾した際、Fを介して、承諾書と共に本件特約の記載
されていない旧契約書が被上告人に交付されたから、右の承諾は異議をとどめない
承諾であったと認められる。
 2 上告人が質権設定を承諾したのは、本件特約を質権者である被上告人に対し
て主張し得ると思っていたからであり、本件特約をもって被上告人に対抗すること
ができない以上、上告人には錯誤があったことになるが、その錯誤は承諾の意思表
示をするに至った動機における錯誤であって、承諾の意思表示自体の錯誤ではない。
 3 動機の錯誤は、その動機が表示されて相手方が認識しているときに限って要
素の錯誤として法律行為を無効とするが、本件の場合には、右の動機は何ら表示さ
れていないから、要素の錯誤があったと認めることはできない。
 4 したがって、上告人は、Dに対して主張し得る本件特約をもって、質権者で
ある被上告人に対抗することはできない。
 三 しかしながら、上告人の質権設定についての承諾に関する錯誤が、動機の錯
誤にすぎず、要素の錯誤に当たらないとした原審の右判断は、是認することができ
ない。その理由は、次のとおりである。
 質権設定についての第三債務者の承諾は、債権者のために債務者の第三債務者に
対する債権を目的として質権が設定された事実についての認識を表明する行為であ
って、いわゆる観念の通知の性質を有するものであり、これについても意思表示の
錯誤に関する民法の規定が類推適用されると解される。原審の確定した事実関係に
よれば、上告人は、敷金返還請求権に対する質権設定を承諾するに当たり、本件特
約について異議をとどめて承諾をするつもりであったが、その承諾書を持参したF
が本件特約の記載されていない旧契約書を被上告人に交付したため、異議をとどめ
ない承諾がされる結果となったものである。すなわち、右の承諾については、上告
人の認識と被上告人に対する表示との間に質権の目的である敷金返還請求権に本件
特約が付されていたか否かの点に関して不一致があったものであり、上告人に錯誤
があったものである。
 ところで、本件特約は、前記一3のとおり、賃借人であるDの都合により五年以
内に本件賃貸借契約を解除する場合であれば一〇〇パーセント、八年以内にこれを
解除する場合であれば八〇パーセントというように、敷金から控除される金額の割
合を定めるものであって、返還の対象となる敷金の額と密接なかかわりを有する約
定である。そうすると、右の錯誤は、質権の目的である債権の重要な属性に関する
錯誤であるから 承諾をするに至った動機における錯誤ではなく、承諾の内容自体
に関する錯誤であるとみるのが相当である。
 そして、本件特約の付されていない敷金返還請求権を目的として質権を設定する
というのであれば、社会通念に照らして、上告人が質権設定を承諾しなかったこと
が容易に推察されるから、右の錯誤は民法九五条にいう要素の錯誤に当たるものと
いうべきである。
 四 以上と異なる原審の判断には民法九五条の解釈適用を誤った違法があり、右
違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨はこの趣旨をいうも
のとして理由があり、上告人のその余の論旨について判断するまでもなく、原判決
中、上告人敗訴の部分は破棄を免れない。そして、本件については、その余の点に
ついて更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すこととする。
 よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判
決する。
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    尾   崎   行   信
            裁判官    園   部   逸   夫
            裁判官    可   部   恒   雄
            裁判官    大   野   正   男
            裁判官    千   種   秀   夫

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