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平成17年5月30日判決言渡
平成16年(ワ)第175号 医療過誤による損害賠償請求事件
判決
主文
1(1) 被告は,原告Aに対し,金2557万9294円及びこれに対する平成
8年8月9日から支払済みまで年5分の割   合による金員を支払え。
 (2) 被告は,原告Bに対し,金850万9764円及びこれに対する前同日
から支払済みまで年5分の割合による金員   を支払え。
 (3) 被告は,原告Cに対し,金850万9764円及びこれに対する前同日
から支払済みまで年5分の割合による金員   を支払え。
 (4) 被告は,原告Dに対し,金850万9764円及びこれに対する前同日
から支払済みまで年5分の割合による金員   を支払え。
2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は,これを5分し,その1を原告らの負担とし,その余を被告の負担
とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
  被告は,原告Aに対し,金3395万0226円及びこれに対する平成8年8
月9日から支払済みまで年5分の割合によ る金員,原告B,原告C,原告Dに対
し,各金1131万6741円及びこれに対する平成8年8月9日から支払済みま
で 年5分の割合による金員を,それぞれ支払え。
第2 事案の概要
 本件は,狭心症の発作を起こして被告の経営する病院を受診し,通院治療中の
患者が,自宅で発作を起こし死亡したこと から,患者の妻及び子らが,担当医師
には,①発作を訴える患者に対して入院検査を怠った過失,②投薬上の説明を怠っ
た 過失,③投薬の継続が必要であったにもかかわらず,これを中止し,もしくは
変更した過失,④病院内における引継ぎを怠 った過失があったなどと主張し,被
告に対し,主位的に不法行為,予備的に債務不履行に基づき,損害の賠償を請求し
た事 案である。
1 争いのない事実等
 (1) 当事者等
  ア 被告は,医療法人E病院(以下「被告病院」という。)及び医療法人F
クリニック(以下「被告クリニック」とい    う。)を経営する医療法人であ
る。G医師,H医師,I医師及びJ医師は,いずれも被告病院及び被告クリニック
の    勤務医である。
   イ 原告Aは,亡Kの妻であり,原告B,原告C及び原告Dは,いずれもK
の子である。Kは,平成8年8月11日午    前5時20分,満66歳で死亡
した。
(2) 診療契約の成立
Kは,平成8年7月3日,胸痛発作を訴えて被告病院救命救急センター
 を受診し,被告との間で診療契約を締結した。
(3) 事実経過(以下,特に断りのない限り,平成8年中の出来事である。)
  ア Kは,7月3日午前10時ころ,L眼科において胸痛発作を生じ,ニトロ
グリセリンの舌下投与を受けた上で,Mク   リニックに搬送された。Mクリニ
ックにおいて心電図検査を受けた結果,同クリニックの医師から精密検査を勧めら
    れ,被告病院を紹介された。
  イ同日午後1時ころ,Kは被告病院救命救急センターを受診し,G医師の診
察を受けた。診察後,G医師は,ニトログ   リセリンを処方した上で,帰宅す
るよう指示した。
  ウ Kは,7月4日午前6時50分ころ,自宅で胸痛発作を生じたが,1分程
度で自然軽快した。また,Kは,同日午前   8時ころ及び同月5日午前7時こ
ろにも,自宅で胸痛発作を生じたが,いずれもニトログリセリンを舌下投与したと
こ   ろ,まもなく軽快した。
  エ Kは,7月5日午前11時ころ,被告病院救命救急センターを受診してH
医師の診察を受け,心電図検査及びトレッ   ドミル検査の一部を施行された。
H医師は,アイトロール錠20ミリグラム及びアダラート10ミリグラムを処方し
た上で,帰宅するよう指示した。
  オ Kは,7月5日午後11時ころから激しい腹痛及び下痢を発症したため,
同月6日は,アイトロール錠及びアダラー   トの服用を中止した。
  カ Kは,7月7日午前7時35分ころ,自宅で強度の胸痛発作を起こして失
神状態に陥ったが,ニトログリセリンを舌   下投与したところ,まもなく軽快
した。
  キKは,7月9日午前11時ころ,被告クリニックを受診し,H医師の診察
を受けた。その際,K,原告A及び原告B   が,同月7日の発作の様子を説明
したところ,H医師から,「アイトロールとアダラートは中止しないように。」と
の   指示を受けた。同日,H医師は,Kに対し,ニトログリセリンを処方し
た。
  ク Kは,7月17日から同月18日にかけて,被告クリニックにおいてホル
ター心電図検査を受け,同月19日にはG   医師の診察を受けた。また,同月
25日には第2回目のトレッドミル検査を施行された。
  ケ Kは,8月9日に被告クリニックを受診してJ医師の診察を受け,「病歴
と対応」と題する書面を提出した。J医師   は,アダラートの服用を中止し,
アイトロール錠の服用量を10ミリグラムに減量するように指示した。同日以降,
K   はこれに従って服用量を変更した(以下「本件投薬変更」という。)。
  コ Kは,8月11日早朝,自宅で,これまでにない激しい胸痛発作を起こ
し,同日午前5時20分ころ,Mクリニック   において死亡した。死因は,急
性心不全であった。
(4) 医学的知見
ア 冠れん縮性狭心症の病態(甲B1ないし3)
   冠れん縮性狭心症とは,病態の観点から分類した狭心症の一類型であり,心
筋酸素需要とは無関係に生じる冠動脈の異  常収縮(冠れん縮)により,冠血流
の絶対的減少をきたし,虚血を生じるもので,発作は多くの場合安静時に出現し,
出  現頻度は夜間から早朝に多く,日中は少ない。
   発作時の心電図でST上昇を伴う異型狭心症においては,特に発作時に重症
不整脈を伴いやすく,失神をきたすことも  あり,さらに心筋梗塞や死亡に至る
こともある。特に,新たに起こった狭心症で,発作が15分以上と長く,ニトログ
リ  セリンの効果が不十分な場合には,不安定狭心症として,突然死,心筋梗塞
の危険性が高く,緊急入院の対象とされる。
   冠れん縮性狭心症の診断は,心電図検査,ホルター心電図検査,負荷心電図
検査,冠動脈造影検査などにより行うが,  これらの検査を行う以前に,発作時
の症状から一応の診断をすることも可能とされる。症状からの診断においては,①
発  作が安静時に出現し,また夜間から早朝に多く,日中には少ないこと,②労
作が誘因となって生じる発作の場合,午前中  にはわずかな労作でも発作が生じ
るのに対し,午後はかなりの労作でも生じにくいこと,③発作が労作中に生じた場
合,  労作を続けると発作が自然緩解することがあること,④発作が生じやすい
時期と,そうでない時期があること,⑤発作が  過換気負荷により誘発されるこ
と,⑥発作はCa拮抗薬により予防されるが,β遮断薬単独では予防されず,むし
ろ悪化  しやすいことが臨床的特徴であり,以上①ないし⑥のうち1つでも認め
られれば,冠れん縮性狭心症との一応の診断が可  能とされる。
 イ 薬物療法
   冠れん縮の予防には,Ca拮抗薬及び持続性亜硝酸薬が有効であり,発作が
頻発する場合は,両者を併用するが,そう  でない場合はCa拮抗薬の単独投与
でも足りる。投薬は,日内変動を考慮して,就寝前及び起床時の1日2回とされる
こ  とが多いが,日中にも発作が起きる例では,1日4回投与する場合もある。
投薬効果の判定は,自覚症状のみでなく,ホ  ルター心電図検査の結果により判
定し,発作が完全に予防された場合は,投薬量及び回数を減らすとされる。 
   Ca拮抗薬には,アダラート,ヘルベッサー,ワソランなどがあり,冠れん
縮予防には前二者がよく用いられるが,い  ずれも血圧低下を伴うため,過度に
血圧の低い患者については,慎重投与が必要とされる。また,Ca拮抗薬の投与を
急  に中止した場合,症状が悪化した症例が報告されているため,休薬を要する
場合は徐々に減量し,観察を十分に行うとと  もに,患者に,医師の指示なしに
服薬を中止しないように注意する必要があるとされる。
   持続性亜硝酸薬には,ニトロール,フランドル,アイトロールなどがあり,
血圧低下を伴うため,低血圧症の患者につ  いては,慎重投与が必要とされる。
また,硝酸・亜硝酸エステル系薬剤を使用中の患者で,急に投薬を中止したとき症
状  が悪化した症例が報告されているので,休薬を要する場合は他剤との併用下
で徐々に投与量を減じ,患者に医師の指示な  しに中止しないよう注意する必要
があるとされる。
2 争点
 本件における争点は,①被告病院及び被告クリニック医師らが,遅くとも7
月9日時点でKを入院させ,精密検査を実  施しなかったことに過失があるか否
か,②アイトロール錠及びアダラートを処方するに当たり,被告病院及び被告クリ
ニ  ック医師らが服用上の注意ないし指示を十分に行わなかった過失があるか否
か,③J医師が本件投薬変更を行ったことに  つき過失があるか否か,④J医師
は,G医師,H医師及びI医師らの診察内容,診療情報を確認しないまま診察を行
った  過失があるか否か,⑤損害額,の5点である。
3 争点に関する当事者の主張
(1) 争点1(入院及び精密検査を怠った過失)について
(原告らの主張)
ア 患者が胸痛発作を訴える場合,これを受けた医師は,問診,胸痛の鑑別
   診断,各種検査を行った上で,狭心症ないしその疑いの診断がなされた場
   合には,さらにその病態,重症度を確認した上で,治療方針を立てるべき
   義務がある。
  イ Kは狭心症を疑われて前医の紹介により被告病院を受診したものであった
こと,被告病院受診開始後も,数回にわた   り心臓発作を起こしていたこと,
上記発作はアイトロール錠及びアダラートの服用開始前及び服用中止時に顕著であ
    り,服用を継続していた期間には1回も発作を生じていないことなどから
すれば,被告病院医師らは,遅くとも7月9   日の時点で,冠れん縮性狭心症
の確定的診断をすることが可能であった。また,仮に同日時点で確定的診断までは
でき   なかったとしても,狭心症を疑わせる所見があったことは被告も認める
ところであるから,これを前提として,早急に   冠動脈造影などの精密検査を
行うべきであった。さらに,Kは,7月3日,同月5日及び同月9日の3回にわた
り,被   告病院医師らに対し,入院による精密検査を強く要請していたのであ
るから,被告はより一層,精密検査を行うべきで   あった。そして,上記精密
検査は,入院によらなければ実施できないから,被告はKを入院させるべきでもあ
った。
  ウ 被告が7月9日の時点でKを入院させ,十分な精密検査を行っていれば,
より早期に重篤な狭心症であるとの診断を   して,外科的療法を含む適切な治
療を開始することが可能だったのであり,適切な治療が開始されていれば,Kの死
亡   は回避可能であった。
  (被告の主張)
    7月3日の胸部単純X線検査及び心電図検査の結果によれば,Kには心肥
大もなく,心臓に有意な異常は認められな   かった。また,同月5日の心電図
検査の結果においても冠動脈疾患に特有なST変化は見られず,また,トレッドミ
ル   検査は目標値の75パーセントまでしか実施しなかったものの有意な異常
は認められず,狭心症よりもむしろ筋骨格系   の痛みが疑われる状況であっ
た。したがって,同月9日時点においては,入院して精密検査を実施する必要性は
なかっ   た。また,患者本人が強く希望したとしても,そのことから患者を入
院させるべき義務が生じることはない。さらに,   仮に被告が7月9日にKを
入院させていたとしても,8月11日の発作による死亡は,回避し得なかった可能
性が高    い。
(2) 争点2(服用上の注意ないし指示を怠った過失)について
  (原告らの主張)
  ア アイトロール錠及びアダラートは,服用を急に中止した場合,症状が悪化
し,大発作を招来する危険性があるから,   医師は,これらの治療薬を外来で
処方するに当たっては,患者に対し,服用の中止ないし減量に伴う危険性を説明
し,   医師の指示なしに服用を中止しないよう,厳重に注意ないし指示を与え
るべき義務がある。
  イ H医師は,7月5日にはじめてアイトロール錠及びアダラートを処方した
際,Kに対し何ら服用上の指示をしておら   ず,同月7日にKが激しい発作を
起こしたのを受けて,同月9日に診察した際も,「アイトロールとアダラートは中
止   しないように。」との指示を行ったのみで,服用の中止ないし減量に伴う
危険性については全く説明をしなかった。ま   た,G医師及びJ医師も,何ら
注意ないし指示を与えたことはないから,被告病院医師らは,上記の注意ないし指
示を   与えるべき義務を怠った。
  ウ H医師が,服用の中止ないし減量に伴う危険性につき十分に説明していれ
ば,Kは,本件投薬変更後もニトログリセ   リンの携帯を中止することはなか
ったのであり,そうしていれば,8月11日朝の発作の際も,即座にニトログリセ
リ   ンを舌下投与することにより,死亡を回避することが可能であった。
(被告の主張)
  H医師は,7月5日にアイトロール錠及びアダラートを処方するに当たり,K
に対し十分な薬剤情報を提供した。また, G医師及びJ医師も,それぞれの診察
の際に説明を行っている。
(3) 争点3(本件投薬変更を指示した過失)について
(原告らの主張)
  ア アダラートなどのCa拮抗薬を処方するに当たっては,服用の中止により
症状が悪化する危険性があるため,原則と   してみだりに休薬すべきではな
く,やむを得ず休薬する場合には,医師による厳重な経過観察下で行う必要があ
る。
  イ Kは,8月9日の本件投薬変更の時点で冠れん縮性狭心症の診断が可能な
症状を呈しており,7月6日にアイトロー   ル錠及びアダラートの服用を中止
したところ,同月7日に重篤な発作を生じていたのであるから,上記事実経過から
し   ても,本件投薬変更を行えば,重大な発作を誘発する危険性があり,従前
の投薬を継続すべき状態であった。しかる    に,J医師は,上記の事情を看
過し,安易に狭心症の疑いを否定して,本件投薬変更を指示したものである。
  ウ Kは,7月10日から8月8日まで,アイトロール錠20ミリグラム及び
アダラート10ミリグラムを服用していた   期間には,一度も発作を起こして
いないことからすれば,従前の投薬を継続していれば,8月11日の発作は生じな
か   った。
(被告の主張)
  ア Kは,血液検査,ホルター心電図検査及びトレッドミル検査のいずれにお
いても陰性との検査結果が出ており,既往   歴,家族歴などからも,狭心症を
含む心疾患の可能性は低く,むしろ筋骨系あるいは神経症の痛みと考えられる状態
で   あった。したがって,狭心症の可能性を前提として,アイトロール錠及び
アダラートの服用を継続する必要性はなかっ   た。
  イ むしろ,Kは,7月25日時点で,収縮時血圧が110mmHg,拡張時
血圧が60mmHgと低血圧の状態であ    り,8月9日時点でも,降圧作用
のあるアダラートの服用を継続させれば,心疾患に劣らぬ重篤な脳梗塞,緑内障等
を   引き起こすおそれがあったから,J医師の本件投薬変更は適切であった。
(4) 争点4(前任医らの診察内容等の確認を怠った過失)について
 (原告らの主張)
  ア 狭心症の診断,治療方針の決定には,継続的な問診が重要であり,同一の
医師が継続して診察を担当できない場合,   後任医は,前任医の従前の診 療
経過,診断及び治療方針等の診察内容を十分に確認しておくべき義務がある。
  イ本件では,8月9日以前はG医師,H医師が直接の診察を行い,I医師が
指導的立場で診察に関与していたものであ   るところ,J医師は,8月9日に
初めてKの診察を担当するに当たり,各前任医の診察内容等をいずれも確認しなか
っ   た。
  ウJ医師が各前任医の診察内容等を確認していれば,冠れん縮性狭心症の可
能性を考慮して,従前の投薬を継続したは   ずであり,そうしていれば8月1
1日朝の発作は生じなかった。
(被告の主張)
  J医師は,従前のカルテの記載,検査結果を確認した上でKの診察に当たって
いるので,原告ら主張の過失はない。
(5) 争点5(損害額)について
(原告らの主張)
  本件医療事故によって,Kは以下の損害を被った。(合計6790万0451
円)
  ア 逸失利益   3012万5973円(内訳は,年金収入分2484万6
185円,労働収入分358万3198    円,雑収入分169万6590
円,平成7年度のKの収入額(年金収入327万5100円,労働収入79万20
00   円,雑収入37万5000円)を基礎収入とし,年金収入については平
均余命を16年間,労働収入及び雑収入につい   ては,就労可能期間を8年
間,生活費控除率はいずれも30パーセントとして,中間利息をライプニッツ式で
控除して   算定。)
 イ 死亡慰謝料  3000万円
 ウ 葬儀費用   150万円
 エ 証拠保全関係費用
   10万1712円(カメラマン費用及び記録謄写費用)
 オ 弁護士費用  617万2766円(原告Aにつき308万6384円,原
告B,原告C及び原告Dにつき各102万   8794円)
 (被告の主張)
  争う。
第3 当裁判所の判断
 1 認定事実
  後掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の各事実が認められる。
 (1) Kは,平成6年5月24日午前6時20分ころ及び平成7年7月21日
午前6時20分ころ,自宅で胸痛発作を起    こし,同日Mクリニックを受診
した。
 (2) Kは,平成8年7月1日にL眼科において右眼白内障の手術を受けた
後,同月3日午前10時ころ,同所において    胸痛発作を起こし,心拍数が
28に低下し,心電図上のST低下を生じた。L眼科の医師がニトログリセリンを
舌下    投与すると発作は2,3分で軽快したが,L眼科の医師は狭心症を疑
って,KをMクリニックに転送した。
(3) Kは,Mクリニックで心電図検査を受けた後,同クリニックの医師から
被告病院を紹介され,同日午後1時22分    ころ,被告病院救命救急センタ
ーを受診し,当時研修医であったG医師の診察を受けた。G医師が胸部単純X線検
査    を実施したところ,心肥大は認められなかった。G医師は,Kの胸痛に
つき,非定型的胸痛で,筋骨格系痛の疑いが    あり,心由来痛,狭心症,不
整脈の鑑別診断及び基礎心疾患の精査が必要である旨診断した。同日の被告病院の
診療    録「傷病名」欄には,「狭心症」との記載が存在する。K,原告A及
び原告Bは入院を希望したが,G医師は,胸痛    が非典型的であり,症状か
らは狭心症の可能性はあるが,はっきりしないとの説明をして,帰宅を指示した。
なお,    被告病院においては,研修医が診察を行う場合,診察状況を当時被
告病院総合内科部長であったI医師に内線電話     で連絡し,I医師の判断
により治療方針等が決定されていた。
(4) Kは,7月4日午前6時50分ころ,自宅で胸痛発作を生じたが,1分
程度で自然軽快した。また,同日午前8時    ころ及び同月5日午前7時ころ
にも,自宅で胸痛発作を生じたが,いずれもニトログリセリンを舌下投与したとこ
     ろ,まもなく軽快した。
(5) Kは,同日午前11時23分ころ,被告病院救命救急センターを受診し
て,当時研修医であったH医師の診察を受    け,同日午後に心電図検査及び
第1回目のトレッドミル検査を施行された。ただし,トレッドミル検査は,白内障
手    術後の眼の安静のためとのK本人の希望により,75パーセントまで実
施された時点で終了し,検査中の最大心拍数    は135であった。また,心
電図検査の結果,心拍数は57で,ST変化は認められなかったが,運動により胸
痛が    出現した。H医師は,アイトロール錠20ミリグラム及びアダラート
10ミリグラムを処方し,経過観察の上で,眼    科医師が許可したら再度ト
レッドミル検査を行う旨決定した。K,原告A及び原告Bは入院を希望したが,H
医師は    帰宅するよう指示した。
 (6) Kは,同日夜11時ころから激しい腹痛と下痢を起こしたため,同月6
日は,アイトロール錠及びアダラートの服    用を中止した。Kは,同月7日
午前7時35分ころ,自宅で胸痛発作を起こして失神状態となったが,ニトログリ
セ    リンを舌下投与すると,まもなく軽快した。
 (7) Kは,予約していた同月9日午前11時ころ,被告クリニックを受診
し,H医師の診察を受け,同月7日の胸痛発    作の発生を報告した。H医師
は,Kの症状につき,冠れん縮性狭心症の可能性が高い旨診断し,同月17日にホ
ルタ    ー心電図検査を,眼科医の許可があり次第トレッドミル検査をそれぞ
れ実施する旨,決定した。同月9日の被告クリ    ニックの診療録「傷病名」
欄には,「狭心症」及び「不整脈」との各記載が,H医師による記載部分には,
「Ang    ina(狭心痛の意)」「アイトロール+アダラートで良好」
「vasospastic(冠動脈れん縮性の意)で    ある可能性高い」と
の各記載がそれぞれ存在する。
     同日もK,原告A及び原告Bは,入院の希望を伝えたが,H医師は,
「アイトロールとアダラートは中止しないよ    うに。」と注意した上で,帰
宅するよう指示した。
(8) 同月10日から8月8日までの間,Kはアイトロール錠20ミリグラム
及びアダラート10ミリグラムの服用を継    続し,上記期間中には胸痛発作
は1回も生じなかった。
(9) Kは,7月17日午前10時20分から,同月18日午前9時24分に
かけて,被告クリニックにおいてホルター    心電図検査を受けた。上記ホル
ター心電図検査の結果,-2.00mm以上のST変化は認められなかったが,徐
脈    が記録された。なお,上記ホルター心電図検査の平成13年8月7日付
け解析サマリー(解析チャンネルCH1)に    は,「治療検討が必要な不整
脈,もしくは虚血性心疾患の疑いがあります。」との記載部分があるが,平成14
年4    月11日付け解析サマリー(解析チャンネルCH2)には,上記記載
部分は存在しない。
(10) Kは,同月25日午前10時30分ころから,被告クリニックにおい
て,第2回目のトレッドミル検査を施行され    た。上記トレッドミル検査の
結果,ST変化は認められず,検査結果は陰性とされた。
 (11) Kは,8月9日に被告クリニックを受診し,J医師の診察を受けた。J
医師は,Kの担当ではなかったが,担当予    定の医師が不在であったため,
代診として担当した。J医師は,診察前に7月9日以降の被告クリニックの診療録
を    確認したが,同日以前の被告病院救命救急センターの診療録は,確認し
なかった。
     上記診察の際,Kは「病歴と対応」と題する書面を提出したが,J医師
は,ホルター心電図検査の結果及びトレッ    ドミル検査の結果に異常がない
旨報告し,冠れん縮性狭心症の可能性は低いと診断して,本件投薬変更を指示し
た。    なお,この際,J医師は,投薬の中止ないし変更による症状悪化の危
険性についての説明を行わなかった。
(12) 同日以降,Kは,J医師の指示に従い,アダラートの服用を中止し,ア
イトロール錠の服用量を10ミリグラムに    変更した。また,従前携帯して
いたニトログリセリンを,自宅1階に保管するようになった。
(13) 同月11日早朝,Kは自宅2階で激しい胸痛発作を起こし,ニトログリ
セリンを舌下投与した上でMクリニックに    救急搬送されたが,午前5時2
0分ころ死亡した。死因は急性心不全と診断された。
(14) 被告病院においては,平成14年4月25日に,本件診療についての説
明会が実施された。上記説明会の席上で,    G医師は,7月19日時点の診
断名につき,「狭心症」「冠れん縮性狭心症」と述べ,その理由につき「症状があ
っ    て,薬を飲むと明らかに症状が治まっている。その効き方が顕著であ
る。」と説明した。他方,J医師は,8月9日    時点の診断名につき,「狭
心症ではないと考えていた。」「心臓の異常ではないと考えました。」「発作は心
臓が原    因ではないと考えました。」と述べ,その理由につき「トレッドミ
ル検査の結果で厳しいものはない,循環器の方に    回していない,非典型の
胸痛である,危険因子がない。」「心臓が原因であれば最初の時点で,入院させる
と思う。    そのまま外来で診れるという状態は,心臓の可能性は低いと判断
されたのではと思いました。」と説明した。
2 争点1ないし4(過失の有無)について
 (1) 前記認定事実によれば,Kは,7月6日にアイトロール錠及びアダラー
トの服用を一時中止したところ,同月7日    に強度の発作を生じた一方,同
月10日から8月8日まで,アイトロール錠及びアダラートの服用を継続していた
期    間においては,一度も発作を起こしていないこと,発作はいずれも午前
中の比較的早い時間帯に生じていることが認    められる。上記各症候は,前
記第2(4)ア記載の医学的知見における冠れん縮性狭心症の臨床的特徴のうち,
①及    び⑥に該当するものである。
    また,実際の診療経過においても,7月5日時点で,H医師が冠れん縮性
狭心症の可能性が高いとの診断をしてお     り,同月19日時点では,G医
師も,冠れん縮性狭心症との診断をしていたのであるから,以上の各事実を総合す
れ    ば,8月9日時点においても,Kの症状が冠れん縮性狭心症であった可
能性が高い。
 (2) J医師は,8月9日の診察に先立ち,被告クリニックにおける診療録を
確認しているところ,同診療録の7月9日    の「傷病名」欄には,「狭心
症」及び「不整脈」との記載が,H医師による記載部分には,「Angina(狭
心痛    の意)」「アイトロール+アダラートで良好」「vasospast
ic(冠動脈れん縮性の意)である可能性高     い」との各記載が存在した
にもかかわらず,J医師の陳述書には,「担当するはずだった医師が重篤な心疾患
を考え    てないからだろうと」考えて,心疾患の可能性は低いと診断した旨
の記載部分が存在する。
    上記記載部分が,診療録の各記載を看過したとの趣旨か,記載自体は確認
したものの,自らの診察内容とあわせて検    討した結果,心疾患の可能性は
低いと判断したとの趣旨かは判然としないが,前者であれば,そのこと自体,前任
医    の診察内容等の確認を怠った過失(争点4)があるといわざるを得な
い。
    一方,後者の趣旨であった場合,上記前任医の診断を前提として,なお,
「ホルター,トレッドミルなど異常所見も    なく危険因子もないことから,
心疾患の可能性はとても低い」とした判断の適否が問題となるので,以下に検討す
     る。
(3) ホルター心電図検査は,安静狭心症,異型狭心症及び胸痛を伴わない虚
血発作(無痛性心筋虚血)を捕らえるのに    最も有用な検査方法とされ,自
然発作時の虚血性ST変化において,水平型又は右下りスロープ型の1㎜以上のS
T    低下又は2㎜以上のST上昇が確認された場合,狭心症の確診が可能と
される。もっとも,ホルター心電図記録中に    自然発作を捉えることは必ず
しも容易ではなく,自然発作時の心電図変化が記録できない場合は,負荷心電図検
査等    を行うとされる。
    本件では,7月17日から同月18日にかけて行われたホルター心電図検
査の結果によれば,-2.00㎜以上のS    T変化は認められないが,上記
検査はアイトロール錠及びアダラートを服用した状態で実施されたものであり,検
査    中に自然発作が生じたことはないのであるから,前記判断基準を適用す
べき前提を欠くことは明らかである。したが    って,上記ホルター心電図検
査の結果,-2.00㎜以上のST変化が認められなかったとしても,狭心症の可
能性    を除外することはできない。
     また,トレッドミル検査は,負荷心電図検査の一種であり,目標最大心
拍数(220-年齢×0.9)まで漸増性    に負荷をかけて,ST変化を測
定し,1㎜以上のST下降があれば,陽性とされる。本件では,7月5日と同月2
5    日の2回にわたりトレッドミル検査が実施されており,同月5日の検査
は75パーセントまで実施した時点で中止さ    れたが,同月25日の検査は
終了まで行われ,結果は陰性であったことがそれぞれ認められる。もっとも,冠れ
ん縮    性狭心症の場合,負荷中に軽い胸痛と軽度のST上昇が認められたが
(Kも,第1回目のトレッドミル検査の際に,    運動負荷により胸痛を訴え
ている。),負荷を継続すると症状が消失し,ST上昇も回復した例もあり,この
ような    場合は,検査結果としては陰性になることもあり得ると考えられる
から,トレッドミル検査の結果が陰性であったこ    とをもって,狭心症の可
能性を確実に除外することもできない。
    さらに,Kには高血圧,喫煙,高脂血症,糖尿病,肥満,虚血性心疾患ま
たは突然死の家族歴等,冠危険因子は特に    なかったと認められるが,上記
危険因子が存在しないことから,直ちに狭心症の可能性を否定できるものではない
こ    とはいうまでもない。
(4)  以上を総合すれば,8月9日時点で存在した検査結果等からは狭心症の
可能性を確実に除外することはできなかっ    たのであり,このことと,前任
医がいずれもの冠れん縮性狭心症の可能性があるとの診断をしていたこととを併せ
考    えれば,J医師は,少なくとも冠れん縮性狭心症の可能性が存在するこ
とを前提に治療方針を決定すべきであったの    に,これを怠り,安易に本件
投薬変更を指示した過失(争点3)があるというべきである。
(5)  加えて,前記争いのない事実等によれば,アダラートについては,投与
を急に中止したとき,症状が悪化した症例    が報告されているため,休薬を
要する場合は徐々に減量し,観察を十分に行うべきとされる。
    J医師は,アダラートの投与を中止するに当たり,一時的にKを入院させ
る等の観察を十分に行ったと認めることは    できないから,十分な観察をし
ながら投薬変更をすべきであったのに,これを行わなかった点においても過失(争
点    3)があるといわなければならない。
6)  そして,アダラートの投与を急に中止した場合,症状が悪化した症例が存
在すること,Kはアイトロール錠及アダラ    ートの服用を継続していた期間
には1回も発作を生じていなかったにもかかわらず,7月6日にアダラートの服用
を    中止したところ,直後の同月7日に強度の発作を生じたとの経緯がある
ことからすれば,J医師が従前どおりアダラ    ートの投与を継続していれ
ば,8月11日早朝の発作は発生せず,Kの死亡は回避可能であったと認められる
から,    その余の争点(争点1,2)について検討するまでもなく,被告
は,不法行為に基づき,原告らに対し,Kの死亡に    よって生じた後記損害
を賠償すべき責任がある。
4 争点5(損害額)について
  Kが本件医療事故によって被った損害は,以下のとおりであると認めることが
できる。(合計4655万8588円)
(1) 逸失利益(合計2295万6876円)
    Kは,平成7年度において,建築設計事務所「N」における事業専従労働
収入として年額79万2000円,講演料    等の雑収入として,年額37万
5000円,年金収入として年額327万5100円の収入を得ていたことが認め
ら    れる。冠れん縮性狭心症の根治は困難であるとしても,アイトロール錠
及びアダラートを服用している限りにおいて    は特に生活に困難な状況があ
ったとは認められないこと,労働収入及び雑収入は比較的少額であり,特段重度の
労働    によるものとは考えられないことなどからすれば,Kは66歳以降も
相当期間にわたり,従前とおりの収入を得るこ    とができた蓋然性が高いと
認められる。
     したがって,上記金額を基礎とし,就労可能期間を平成8年度簡易生命
表における66歳男性の平均余命である1    6.22年の2分の1である8
年間(1年未満切捨て)として,逸失利益をライプニッツ方式(16年の係数は1
     0.8377,8年の係数は6.4632)により算定することにな
る。なお,本件当時のKの家族形態等にかんが    みると,就労可能期間であ
る8年間については,生活費控除率を40パーセントとするのが相当であるが,そ
の後の    期間は年金収入のみとなるので,生活費として60パーセントを控
除して算定するのが相当である。
    以上を前提として逸失利益を算定すると,以下に記載したとおり(1円未
満切捨て)となる。
ア労働収入分及び雑収入分
 (79万2000円+37万5000円)×(1-0.4)×6.4632
   =452万5532円
イ 年金収入分
   327万5100円×(1-0.4)×6.4632=1270万0575

   327万5100円×(1-0.6)×(10.8377-6.4632)
   =573万0769円
    1270万0575円+573万0769円=1843万1344円
(2) 慰謝料
     本件事案の内容,診療経過,結果の重大性,Kの家庭内における立場そ
の他一切の事情を考慮すると,Kが被った    精神的損害に対する慰謝料は,
少なくとも2200万円を下らないものと認めるのが相当である。
(3) 葬儀費用
  Kの死亡にかかる葬儀費用は,150万円を本件と相当因果関係のある
損害と認めるのが相当である。
 (4) 証拠保全関係費用
    本件訴え提起に先立つ証拠保全における費用については,カメラマン費用
及び現像費用として6万6332円,記    録謄写費用として3万5380円
の合計10万1712円を本件と相当因果関係のある損害と認めるのが相当であ
る。
(5) 損害賠償額
      原告らは,上記(1)ないし(4)の合計金額である4655万85
88円を相続分に従って相続したことにな   るから,被告に負担させるのが相
当な損害賠償額は,原告Aについては,2327万9294円に弁護士費用230
万   円を加算した2557万9294円,原告B,原告C及び原告Dについて
は,いずれも775万9764円(1円未満   切捨て)に弁護士費用75万円
を加算した850万9764円となる。
第4 結論
  よって,原告らの請求は,被告に対し,原告Aが,2557万9294円及び
これに対する平成8年8月9日から支払済 みまで民法所定の年5分の割合による
遅延損害金の支払を求め,原告B,原告C及び原告Dが,各850万9764円及
び これに対する前同日から支払済みまで前記同様年5分の割合による遅延損害金
の支払を求める限度でそれぞれ理由があるか ら,その限度でこれを認容し,その
余の各請求はいずれも理由がないから,これを棄却することとし,訴訟費用の負担
につ き,民訴法61条,64条本文,65条1項本文を,仮執行宣言につき同法
259条1項を,それぞれ適用して主文のとお り判決する。
千葉地方裁判所民事第2部
裁判長裁判官小磯武男
裁判官田原美奈子
裁判官阿保賢祐

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