弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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○主文
一原告A、同Bの訴えをいずれも却下する。
二原告C、同D、同E、同F、同Gの請求をいずれも棄却する。
三訴訟費用は原告らの負担とする。
○事実
、、。以下の事実摘示及び理由説示中の略称は各該当箇所で注記するほか次のとおりとする
一箕面市=市。社会福祉法人箕面市社会福祉協議会=市社会福祉協議会。箕面市福祉事
務所=市福祉事務所。箕面市補助金交付規則(昭和四六年三月三一日箕面市規則第二号)
=市補助金交付規則。
二財団法人日本遺族会=日本遺族会。大阪府遺族会(のちに大阪府遺族連合会と改称)
=府遺族会。箕面市戦没者遺族会=市遺族会。箕面地区戦没者遺族会=区遺族会。日本遺
族厚生連盟(財団法人日本遺族会の前身)=遺族連盟。右日本遺族会、府遺族会、市遺族
会及びその他各都道府県の遺族連合会並びに各市町村の遺族会の総称=各遺族会。
三別紙物件目録一記載の土地=本件土地。同目録二記載の物件=本件忠魂碑。なお、本
件忠魂碑が、本件土地に移設される以前のものを旧忠魂碑という。旧帝国在郷軍人会=在
郷軍人会。旧帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会=分会。
四昭和五一年度箕面地区戦没者慰霊祭=本件慰霊祭。本件慰霊祭を含む本件忠魂碑前で
行われていた箕面地区戦没者慰霊祭の総称=碑前慰霊祭。
五大日本帝国憲法=帝国憲法「国家神道、神社神道二対スル政府ノ保證支援保全、監。

並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二〇年一二月一五日連合国総司令部から日本政府に対」
する指令)=神道指令「公葬等について(昭和二一年一一月一日発宗第五一号内務次。」
官、
文部次官通牒)=公葬等について。
六最高裁判所昭和五二年七月一三日大法廷判決(民集三一巻四号五三三頁)=津最判。
〔当事者の申立〕
一原告ら
1被告は、箕面市に対し、金四四万九七〇四円及びこれに対する昭和五二年七月六日か
ら支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
2訴訟費用は被告の負担とする。
3仮執行宣言
二被告
(第一次的答弁)
主文同旨
(第二次的答弁)
1原告らの請求をいずれも棄却する。
2訴訟費用は原告らの負担とする。
〔当事者の主張〕
第一請求原因
一当事者
1原告らは、いずれも箕面市の住民である。
2被告は、後記本件補助金交付(支出)及び本件書記事務従事がなされた当時、
箕面市の市長であつたものである。
3市遺族会は、市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区
域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置している。
二本件補助金交付(支出・本件書記事務従事の存在)
1本件補助金の交付・配分
(一)被告は、箕面市の昭和五一年度一般会計予算から、市社会福祉協議会に七六一万
二〇〇〇円の補助金(以下「市補助金」という)を交付した(以下、これを「市補助金。

付」という。。)
(二)市社会福祉協議会は市補助金から、市遺族会に四四万五〇〇〇円の補助金(以下
「本件補助金」という)を配分した(以下、これを「本件補助金配分」という。。。)
(三)本件補助金は、形式的・手続的には、市補助金交付・本件補助金配分という流れ
によつて市遺族会に交付されたものであるが、実質的には市の支出当初から市遺族会への
配分が予定されていたものであり、その意味で、市から市遺族会への直接の補助金交付と
同視しうるものである(以下、前者のような形式的・手続的側面に着目した本件補助金交
付の法律関係を「本件補助金交付」といい、後者のような実質的側面に着目した本件補助
金交付の法律関係を「本件補助金支出」という。。)
2本件書記事務従事
(一)市遺族会は、従来から、市福祉事務所の所員である市の一般職の職員に同会の書
記を委嘱し、被告は、同職員が、同会の書記に従事すること及び勤務時間中に同会の事務
を処理することを指揮または命令し、その事務に従事した時間についても給与を支給して
きた。
(二)昭和五一年四月一日以降昭和五二年六月三〇日までの右書記事務のうち、後記本
件慰霊祭及び昭和五二年度碑前慰霊祭の準備又は執行の補助事務を除いた事務に従事(以
、「」。)、。下これを本件書記事務従事というした時間は少なくとも一四時間以上である
(三)昭和五一年当時の市の一般職の一時間あたりの給与額は、少なくとも三三六円以
上であるから、本件書記事務従事につき支給された給与の金額は、少なくとも四七〇四円
以上である。
三市遺族会に対する援助の政教分離原則違反
1市遺族会の宗教団体性
(一)日本遺族会と市遺族会との関係
市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、団体としての性格は日本遺族会と同一であ
る。すなわち、日本遺族会は、
各都道府県に独立した法人格を持つた遺族会を組織し、これを支部としており、また各都
、、道府県遺族会はその支部としての市町村遺族会を組織しているところ市遺族会の会長は
府遺族会箕面支部の支部長として、当然に府遺族会の評議員となり、また府遺族会で選出
された者が日本遺族会の評議員となるなど、これらの組織は、役員構成の面で密接なつな
がりを有していること、また、現実の活動方針の決定にあたつても、本部たる日本遺族会
の決定事項の遂行にあたつては、支部は本部の決定事項に従うことが要請され、支部独自
の立場は制約されることなどからすれば、市遺族会、府遺族会、日本遺族会は、全国的に
一体の組織であることが明らかであつて、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、
本部たる日本遺族会とその性格を同じくすることが明らかである。
(二)日本遺族会の性格、活動
日本遺族会は、以下に述べるとおり、戦没者遺族のうち、公務死と認定された戦没者が靖
国神社に神として祀られているという信仰を持つ人々によつて構成され、靖国神社の教義
に基づき、靖国神社の祭神たる英霊の慰霊・顕彰をすることを目的とし、靖国神社におけ
る英霊の祭祀を維持、継続しこれに参加することを主な事業とし、靖国神社に対する内閣
総理大臣の公式参拝によつて靖国神社信仰に対する国家的支持を公証させ、さらには、靖
国神社の国家護持による靖国神社の公営化と靖国神社信仰の国教化を策動し、これの実現
に向けて運動している靖国神社崇敬者(信徒)の団体である。
(1)靖国神社の性格、活動等
靖国神社は天皇のために戦死した者を忠死した神霊すなわち忠霊忠魂やがて英、、、、(「
霊」と呼ばれるようになる)として祀り、それを祭神とする神社であり、その意味で、。

治政府によつて確立された国家神道の軍国主義的側面を体現する天皇軍の宗教施設とし
て、
国家神道の要を構成するものであつた。その祭祀の主要なものは、招魂式、霊璽奉安祭、
、、、合祀祭春秋の例大祭等であるがこれら靖国神社の祭祀及び国家神道の教義の背景には
招魂、すなわち、国事殉難者の霊を天から招き降ろして鎮祭するという観念があり、これ
は、敵味方を問わず、戦争等の死者の怨霊を慰撫、弔う御霊信仰とは異質な、単なる宗教
習俗とは異なる、明らかな宗教観念である。なお、戦後、制度としての国家神道は解体し
たが、右招魂の思想に基づく、
宗教としての国家神道は、今も靖国神社の中に生き続けている。その教義を要約すれば、
「イ人間の死後、死者の霊が存在する。ロ戦争において天皇に忠節を尽して国に殉じ
た者は、靖国神社の祭神とされる。ハ戦没者の霊は、靖国神社の合祀の祭において招き
降ろされ、祭神として本殿に鎮められる。ニ英霊は、靖国神社の祭祀において戦死に至
るまでの忠節を表彰され、感謝される。英霊は、これを喜び、慰められる。ホ慰霊祭に
参列した者は、英霊の殉国の精神を継承することを英霊の前に誓い、英霊の加護を祈念す
る」というものである。。
(2)日本遺族会と靖国神社との関係
日本遺族会は、以下に述べるとおり、右(1)のような靖国神社の教義を信奉し、その信
仰の共通性によつて成り立つている靖国神社の信徒団体である。
(1)敗戦後もなお、靖国神社の伝統と祭祀を支持し、それが国家事業であることを求
める一部の戦没者遺族が、同胞援護会や、地方世話部職員の援助によつて組織したのが遺
族連盟であり、日本遺族会であるところ、靖国神社の祭祀を支持する日本遺族会の会員た
る遺族は、靖国神社の崇敬者(信徒)であるといわざるを得ない。すなわち、靖国神社の
、、、規則三条には同神社の目的として同神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化
、、育成するとの規定があるところ靖国神社の祭祀を支持する日本遺族会の会員たる遺族は
まさに同神社を信奉する祭神の遺族に該当する。
(2)日本遺族会の英霊顕彰事業の実態
日本遺族会の寄付行為によれば、その最重要な活動目的は英霊の顕彰であり、現実の活動
方針も、英霊の顕彰を最大の事業としているところ、右英霊の顕彰の具体的内容は、戦没
者が靖国神社や護国神社に祭神として祀られていることを前提にした上で、靖国神社及び
護国神社の例大祭等への奉仕、毎年の慰霊祭執行、遺族、遺児への靖国神社参拝の組織と
世話等、靖国神社等への合祀にはじまり、毎年の例大祭で繰り返される戦没者慰霊の祭祀
、()()をますます盛んにしそれゆえにそれを執り行う靖国神社護国神社の国家都道府県
護持を実現することにある。なお、昭和五一年、日本遺族会が中心となり、英霊顕彰、靖
国神社等における慰霊顕彰、靖国神社公式参拝実現等を目的事業とする英霊にこたえる会
を結成したが、日本遺族会は、その中央本部を引き受け、右事業を推進したものであり、
両会は事実上一体の関係にある。
(3)その他、日本遺族会主催の慰霊祭と靖国神社の例大祭とは、その祭祀形態、祭文
等が、まつたく同じであること、日本遺族会は、その成立過程からも靖国神社と密接なつ
ながりがあるのみならず、その後も、日本遺族会の歴代の会長が、靖国神社の責任役員に
就任するなど、靖国神社の構成員、機関としても重要な役割を果たしていること、さらに
現在、日本遺族会は、みずからを英霊につながる精神団体と規定し、遺族会の趣旨に賛同
するものは、戦没者遺族であると否とを問わず、すべて遺族会の会員とすべきであるとし
ていること等をも合わせ考えれば、日本遺族会が靖国神社の信徒の団体であることは明ら
かである。
(三)市遺族会の性格、活動
市遺族会は、以下に述べるとおり、もつぱら宗教的活動たる靖国神社、大阪護国神社、忠
魂碑における英霊の顕彰と慰霊の事業を目的とし、また現実の活動としている宗教上の組
織または団体である。
(1)市遺族会の目的、活動
、、、市遺族会の第一の目的は英霊の顕彰であるが市遺族会は右英霊顕彰事業の一環として
次の宗教的活動を組織的に常時又は定期に継続して行つている。すなわち、市遺族会の活
動は、本件土地上の本件忠魂碑を御霊代として、これに戦没者を英霊として合祀し慰霊祭
紀する事業、本件忠魂碑による神式又は仏式の戦没者慰霊祭の例年執行、毎年度の靖国神
社への集団参拝の事業、大阪護国神社の毎年春秋例大祭への団体協賛と役員及び会員の集
団参拝並びに同大祭への神饌料の奉献を主とするものであるが、これらは、日帰りで行わ
れる秋季バス慰安旅行を除き、いずれも宗教活動であつて、かつこれらの活動以外には、
みるべき活動がない。
(2)忠魂碑の宗教施設性
、、、、忠魂碑の建碑の目的は地元出身戦没者の霊を慰めその事蹟を英霊忠魂として顕彰し
同時に、戦死者の多くが、直系の子孫のない若者であることから、無縁となることのない
ようこれを祀ることにあつたが、その後、軍国主義、国家神道と結び付き、天皇のために
忠義を尽して戦死した者を英霊、忠魂として崇め祀るために建てられた碑との観念が定着
し、忠魂を顕彰する記念碑としての性格を持つとともに、靖国神社の祭神である戦没者の
霊を祀るという意味で、霊魂の存在を推知させる礼拝の対象としても機能する社会的存在
となつた。この意味で、忠魂碑は、
「村の靖国」としての性格を持ち、天皇のため死んだ者を神として祀り、またあとに続く
、。者に忠君愛国の精神を鼓舞する国家神道の宗教施設でありかつ軍国主義教化施設である
、、。本件忠魂碑もこのような性質を持つ宗教施設でありその性質は戦後の今も変わらない
なお、本件忠魂碑が、宗教施設であることは、その移設に際し、脱魂式、入魂式が行われ
たこと、また、本件忠魂碑には、それ自体、超自然的なものの具象化である神体としての
霊璽を内蔵していることからも明らかである。
(3)碑前慰霊祭の性格
市遺族会は、本件忠魂碑を含も箕面市内の各地区における忠魂碑の維持(護持)と右各忠
魂碑前での慰霊祭の挙行による英霊の祭祀の執行を行つている団体であつて、右各忠魂碑
の前でする戦没者慰霊祭を今後ますます盛んにすることを会の方針とし、また、箕面地区
出身の戦没者で靖国神社祭神となつている二九八柱の英霊を本件忠魂碑に合祀し、その前
でこれを祭紀する儀式(碑前慰霊祭)を毎年一回定期的に挙行し、右のような祭礼時又は
平常時の礼拝若しくは参拝の対象物としているものであるところ、右碑前慰霊祭は、靖国
神社に合祀された祭神が同様に祀られていると観念されている忠魂碑前で、忠魂を慰める
ことを目的として行われるものであつて、靖国神社の祭祀と同根同質の、同神社の教義に
基づく宗教儀礼である。
(四)市遺族会の宗教団体性
(1)憲法八九条前段の解釈
憲法の定める政教分離原則は、帝国憲法下での国家神道体制が招来した宗教弾圧、思想弾
圧、軍国主義体制の歴史の深刻な反省の上に立つて立法され、信教の自由を保障し民主主
義を確立することによつて、政府の行為によつて再び戦争の惨禍を起こさないようにする
ことを目的としており、そのためにこそ国家と宗教とを完全に分離することを理想として
規定されたものであるところ、憲法八九条前段は、右のごとき趣旨を有する政教分離原則
を財政面から規定した条項である。したがつて、右前段の「宗教上の組織若しくは団体」
の解釈としては、宗教団体はもちろんのこと、広く宗教に関係ある事業若しくは活動その
ものを指すと解すべきであり、このことは、憲法二〇条一項の「宗教団体」の解釈にもあ
てはまる。
(2)市遺族会は、靖国神社崇敬者の団体である日本遺族会の箕面市における支部であ
り、支部の活動としても、本件忠魂碑の碑前での慰霊祭のほか、
靖国神社の参拝、大阪護国神社における英霊合祀への参加とこれの維持(護持)への協力
等の活動を行つており、右のような組織及び事業の実態からすれば、憲法八九条前段にい
う「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」に該当
することは明らかである。
3なお仮に右宗教上の組織若しくは団体及び宗教団体の解釈につき一()、「」「」、「
、、、、」定の教義を有しこれを布教宣伝することを目的とする教団教派教会等の宗教団体
という最も狭い解釈をとつたとしても、市遺族会は、日本遺族会の支部として、靖国神社
の祭神に対する信仰を広め、礼拝活動を盛んにし、同神社の社会的地位の向上に努めてい
るという意味で、同神社の宗教を布教宣伝する「宗教上の組織若しくは団体」に該当する
し、また右「宗教上の組織若しくは団体」あるいは「宗教団体」を、それよりゆるやかに
「信仰についての一般的な意見の一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合」と
解釈すれば、市遺族会に参加している遺族は、靖国神社を崇敬するという点で共通の意見
を持つており、同神社の信仰を目的とする団体を構成していることは疑問の余地がないか
ら、結局、市遺族会は、いずれにせよ、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」
あるいは同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当するといわなければならない。
2本件各行為と憲法二〇条一項後段、同条三項、八九条前段違反
(一)憲法二〇条一項後段、同法八九条前段違反
前記のように、市遺族会は、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」及び同法二
〇条一項後段の「宗教団体」に該当するものであるところ、本件補助金支出と本件書記事
務従事(以下、これらを「本件各行為」という)が、右両法条に違反することは以下の。

おりである。
(1)憲法二〇条一項後段違反
本件補助金支出が、憲法二〇条一項後段の特権に入ることは明らかであり、また本件書記
事務従事も一般人には認められていない特定人に対する特別の利益の供与であつて、特権
の付与にあたることは明らかである。なお、その他、市遺族会は、市福祉事務所をその事
務所とし、公金を投じて購入された市有地を同会の忠魂碑敷地として無償使用し、同碑前
での慰霊祭では、市の人的物的施設を使用し、それに市の幹部職員らが、参拝するなど、
平素かつ従前から、
、、。、市から特別の地位と利益を得ているものでありその特権性は顕著で明白であるまた
右特権付与は、まさに靖国神社を国教のように取り扱うものであり、この面からも、同条
項の趣旨に反する。
(2)憲法八九条前段違反
本件補助金支出が、憲法八九条前段の禁止する公金の支出にあたることは明らかである。
なお、同条は、直接の補助の場合のみならず、特別の団体を設置し、その団体を通じて補
、、、、助する場合を含もものであるし本件では市社会福祉協議会はトンネルであり実体は
本件補助金は、市の支出当初から、市遺族会への配分を予定していたものである(本件補
助金支出。)
本件書記事務従事は、本来、市遺族会がその賃金を支払うべきところ、市がこれを支払つ
たのであるから、実質的には補助金の支出と同じである。また、右労務は、有償の役務と
、、、、して財産上の利益であり公の財産であるし仮にそうでなくても便益の供与であつて
これを宗教上の組織若しくは団体である市遺族会のため、その利用に供することは、憲法
八九条前段に違反する。
(二)憲法二〇条三項違反
本件書記事務従事により、市は、市遺族会の宗教活動たる英霊顕彰事業の事務を担当し、
また、本件補助金支出により、その活動費の一部を負担した。これらは、市が、慰霊祭実
行組織の一部となつてみずから英霊顕彰の宗教的活動をしたことにほかならず、憲法二〇
条三項に違反する。
四本件補助金交付と憲法八九条後段違反、社会福祉事業法五六条一項違反
1条例の欠缺による憲法八九条後段違反等
(一)市補助金は、社会福祉事業法五六条一項に基づき、社会福祉法人たる市社会福祉
協議会に交付されたものであるが、本件補助金交付当時、市では、同条一項に定める条例
を制定しておらず、右補助金交付(市補助金交付)は、市補助金交付規則に基づきなされ
た。
(二)社会福祉事業法五六条一項は、憲法八九条後段が禁止した「慈善、教育若しくは
博愛の事業(以下「慈善・博愛事業」という)に対する助成を条件付きで解除し、国」。

たは地方公共団体に社会福祉法人に対する補助金交付の権能を与える規定であるところ、
社会福祉事業法五六条一項が、地方公共団体が社会福祉法人に補助金を交付する手続を定
める法形式として条例を指定しているのは、それが地方公共団体の基本たる自治規範であ
ること、憲法八九条後段の趣旨からみて、
社会福祉法人に対する補助金交付については、通常の場合よりも、一層厳格、慎重な手続
を要するという立法者の判断に基づくものであるから、これに違反した市補助金交付は、
重大かつ明白な憲法違反の瑕疵があるといわざるを得ず、無効である。
2間接補助による憲法八九条後段違反等
仮に市遺族会が、社会福祉団体であつて、慈善・博愛事業に含まれるとすれば、市社会福
祉協議会を通じての本件補助金交付は、間接補助であり、公の支配に属しない慈善・博愛
事業に対する財政援助であつて、憲法八九条後段に違反する。すなわち、社会福祉事業法
五六条二項以下は、間接補助先への監督権限の規定を欠いており、間接補助先の市遺族会
に同条二項以下を適用することは不可能であるし、そもそも、同法は、間接補助を全く想
定しておらず、憲法八九条後段の公の支配という要件の重要性に鑑み、直接補助に限定し
ていると解される。
したがつて、本件補助金支出は、公の支配に層しない団体への補助金支出であり、憲法八
九条後段に違反する。
五本件各行為と地方自治法二三二条の二違反
1地方自治法二三二条の二は、普通地方公共団体は、公益上の必要があるときは寄付又
は補助をすることができる旨を定めているところ、本件補助金支出が右規定の適用を受け
るものであることは明らかであり、また本件書記事務従事も、市がその職員を私人の事務
に従事させ、その給与を負担するという無償の利益の供与であり、右法条にいう寄付又は
補助にあたる。
2右地方自治法二三二条の二の公益上の必要性の判断は、自由裁量ではなく、客観的に
認められることが必要であり、裁判所の事後的な司法審査に服するものであるところ、市
遺族会は、以下のように、反憲法的性格、したがつて反公益的性格を持つ団体であり、補
助の公益上の必要性を欠く。なお、その活動の中には、前記のように宗教上の活動が明白
なものもあり、これについては、公益上の必要を論じるまでもなく、補助が許されない。
(一)日本遺族会の反公益的性格
市遺族会は日本遺族会の支部であるところ、日本遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデ
オロギー及び国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰することを本質的な体質とする
ものであり、また、同会は、単に過去の戦没者の慰霊、顕彰を目的としているばかりでな
く、英霊に対する応答、英霊に対する誓いという形で、
将来の世代による殉国の精神の継承、将来の戦争における戦没者の慰霊、顕彰をも視野に
入れ、自衛隊とのきずなを強め、防衛意識、国家意識の向上を説き、防衛力増強等の軍備
強化を推進し、さらに英霊をひたすら顕彰することを防衛意識の向上に役立てようとして
いる。これらは、戦前の決戦思想に奉仕し、いざという場合に、天皇のため忠死していく
者を作ろうとする極めて危険な思想である。
このような日本遺族会の主張、思想、観念は、日本国憲法の根本規範に反し、国民主権の
否定、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与するものといわなければなら
ない。
(二)また、本件忠魂碑は、宗教施設であるとともに、絶対君主神権天皇に対する滅私
奉公のため勇躍死に赴いたことを賛美する忠君思想を表わし、天皇への忠義に殉じた武勇
を公衆に広く顕彰しようとする、全体主義的軍国主義と主権在君の思想を表現し、これを
広くかつ永遠に宣布伝承する働きを客観的に持つものであるところ、市遺族会は、本件忠
魂碑を祭儀の中心とし、これを平常礼拝し、またこれにより、毎年、慰霊祭を執行するな
ど、それ自体でも、憲法理念に反する活動を重ねてきたものであり、このような性格を有
し、活動を行つている団体は、団体そのものが反憲法的であり、したがつて反公益的であ
ると評価せざるをえない。
(三)よつて、このような市遺族会に対する援助である本件各行為は、地方自治法二三
二条の二に違反する。
六本件各行為及び本件補助金交付のその他の違法
1本件書記事務従事の地方公務員法三五条違反
本件書記事務従事は、地方公共団体の処理すべき事務ではなく、また法律にこのような便
宜供与を許容する規定もないのであるから、これを市の職員の職務として、規則上の職制
または職務命令により割り当てることができない。それにもかかわらず、本件書記事務従
事をなさしめる職務割り当てないし職務命令は、地方公務員法三五条の職務専念義務に違
反する違法な行為である。
2市補助金交付の市補助金交付規則違反
被告は、箕面市長として補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律と同じ趣旨を目
的として、市補助金交付規則を定め、これに従い補助金行政を執行しているところ、被告
のした市補助金の交付には、以下のとおり、右規則違反(該当条項は括弧内に摘示のとお
り)があり、被告がそれを取消し、返還を命じなかつたことは、
右取消、返還を定めた同規則一五条及び一六条に違反する。
(一)市補助金交付申請手続の違法
(1)補助金交付申請書に補助事業の目的及び内容、補助事業の経費の配分、経費の使
、(、用方法補助事業の完了の予定期日その他補助事業遂行に関する計画同規則四条一項二
三号)がいずれも記載されなかつた。
(2)補助事業の経費のうち、補助金によつてまかなわれる部分以外の部分の負担者、
負担額及び負担方法(同規則四条二項一号、補助事業の効果(同規則四条二項二号)を)

載した書類の添付がなかつた。
(二)市補助金交付決定手続の違法
(1)申請手続の適法性、補助事業の目的及び内容が適正であるかどうか、補助事業の
経費の配分、経費の使用方法、補助事業の完了の予定期日、その他補助事業の遂行に関す
る計画の存否とその内容、補助事業の経費のうち補助金によつてまかなわれる部分以外の
部分の負担者、負担額及び負担方法、補助事業の効果等が適正であるかどうかを審査しな
かつた(同規則五条一項。)
(2)交付の決定にあたり、補助事業に要する経費の配分の変更をする場合、補助事業
の内容の変更をする場合、補助事業を中止しまたは廃止する場合には、いずれも市長の承
認を受けるべきこと、また補助事業が予定の期間に完了しない場合、または補助事業の遂
行が困難となつた場合に速やかに市長に報告しその指示を受けるべきことの条件を付さな
かつた(同規則六条一項。また付すべき条件を市社会福祉協議会に通知しなかつた(同)

則七条。)
(三)市補助金の額の確定等の手続の違法
補助事業が完了したとき補助事業の成果を記載した補助事業実績報告書に、市長の定める
書類を添えてしなければならない報告を受けず(同規則一二条、同報告書の書類の審査)

をせず、補助事業の成果が補助金の交付の決定の内容及びこれに付した条件に適合するか
どうかの調査をせず、同調査結果に基づき適合すると認めて交付すべき補助金の額を確定
しこれを市社会福祉協議会に通知することをしなかつた(同規則一三条。)
3本件補助金使用の違法
市遺族会の昭和五一年度の歳入、歳出状況は、別紙市遺族会会計状況一覧表の原告ら主張
欄記載のとおりであり、同会は、右一覧表(原告ら主張欄を指す。以下同じ)の「歳入。

部」記載のとおり、本件補助金四四万五〇〇〇円を他の収入とともに歳入総額の一部とし
て受け入れたうえ、
これを同一覧表の「歳出の部」記載のとおり使用した。これによれば、本件補助金は、す
べての歳出項目の原資として使用されたとみるほかないが、その中には、前記のように宗
教活動等の違法な使途があるほか、以下のように、違法な使途、あるいは補助の必要のな
いものが含まれており、被告は、市補助金交付規則一五条、一六条に従い、その違法な使
用を原因として、少なくとも本件配分にかかる補助金の決定を取消し、これを市に返還さ
せるべきところ、右返還命令を怠り、同返還請求権を時効消滅させ、市に損害を与えた。
(一)分担金・負担金(同一覧表歳出の部の1)に使用した違法性
自己の上部組織やその所属あるいは加盟する団体への会費、分担金、負担金等は、自益的
、。、組織費として自己財源でなすべきでありその使途が公益性を有するとはいえないまた
、、、、府遺族会や日本遺族会への分担金会費は中央での政治及び宗教活動費の分担であり
政治連盟入会金は明らかに政治活動費である。また、市社会福祉協議会への会費を、同協
議会からの市補助金の配分をもつて補助することは無意義である。よつて、これらの補助
金使用は、いずれも違法である。
(二)地区活動費の配分(同一覧表歳出の部の2)の違法性
地区配分金の使途について、市の行政当局はこれを把握しておらず、監督せず、また監督
、。、しようともせずその報告を徴することもしていないこのような無統制な補助金の交付
配分、使用、監督はいずれも違法である。
(三)地区活動費の使用内容の違法性
区遺族会では、地区活動費としての右配分金七万九六〇〇円(同一覧表歳出の部の2の
(1)は、本件慰霊祭のための費用に使用された。仮に、同配分金が慰霊祭費用に使用(

れなかつたとすれば、それは蓄積されたことになり、配分の目的に適合しないし、その蓄
積された資金の収支及び残高内訳はきわめて不明瞭であり、決算上も確認できない。この
ような実態しかない地区活動費のなめに市補助金が使用されることは違法である。
(四)事業費(同一覧表歳出の部の3)の使用内容の違法性
右事業費のうちの支出項目で宗教上の目的に関しないものはなく、これに補助金をもつて
充てることはできず、かつ、右以外に活動費を必要とした同会の事業は存在せず、市が補
助金を支出してこれを補給する必要のある事業は認められない。
(五)(5)一般管理費(同一覧表歳出の部の4)使用の違法性
そもそも補助金は、対象事業を前提として対象事業者に対し、その事業費の一部を補給す
るものであるから、事業費でない一般管理費(会の一般運営事務の経費)は、補助対象と
なりえない。仮に、その事務を事業の一環ととらえることができるとしても、それはその
会議費や交通費の支出にかかる会議や連絡により補助事業の協議執行がなされたことが認
められなければならないところ、本件では、そもそも補助対象となるべき事業が認められ
ないのであるから、それの協議執行をすべき一般管理事務も存在せず、よつて、一般管理
費に本件補助金を使用することも違法である。
(六)靖国神社参拝基金への繰入れ(同一覧表歳出の部の5)の違法性
本件補助金は、同基金を積み立てることを目的としたものではないから、これ使用するこ
とは違法である。
(七)剰余金(同一覧表歳出の部の6)
剰余金は、収入財源中の不要金を意味する。すなわち、市遺族会の歳出金は、仮にすべて
が適法な補助対象経費であつたとしても、少なくとも一一万二九八六円は補助の必要がな
かつた。このほか、地区活動費として配分された歳出金は、各地区において剰余金(箕面
地区では二四万八二八〇円)として未使用のまま繰越されたので、やはり剰余金相当額に
つき、補助の必要がなかつた。さらに過去の剰余金の蓄積として、相当額の靖国神社参拝
基金があり、これをも合わせ考えると、同年度において、市遺族会の他の経費もこれを補
助する必要はなかつた。
七損害の発生
1市補助金交付による損害
市補助金は、社会福祉事業法五六条一項及び憲法八九条後段あるいは市補助金交付規則に
違反して違法に市社会福祉協議会に交付されたものであるから、右交付決定によつて、市
は、右補助金七六一万二〇〇〇円と同額の損害を被つた。本訴において原告らが市に代位
して請求しているのは、そのうち市遺族会に配分された四四万五〇〇〇円である。
2本件補助金支出による損害
本件補助金は、憲法二〇条一項後段、八九条前段、二〇条三項、八九条後段あるいは地方
自治法二三二条の二に違反して違法に支出されたものであるから、市は右補助金支出決定
によつて、本件補助金四四万五〇〇〇円と同額の損害を被つた。
、、、、3仮に市補助金交付本件補助金支出自体が損害でないとしても被告は市長として
市補助金交付規則一五条、一六条に従い、その違法な交付・支出あるいは前記のような本
件補助金の違法な使用を原則として、本件補助金の支出決定を取消し、これを市に返還さ
せるべきであつたにもかかわらず、右返還命令を怠り、右返還請求権を時効消滅させ、市
に本件補助金と同額の損害を与えた。
4本件書記事務従事による損害
(一)本件書記事務従事により、その労働役務が市の事務以外のものに費消され、また
は違法な事務に使用されたため、市はその労務の効用たる利益を逸失した。労働役務は、
その対価たる給与を超える効用が当然に予定されて、その担い手たる職員が雇用されてい
るものであるから、それを浪費したことによる逸失利益は、少なくともそれに支給された
給与以上であり、市は、本件書記事務従事により、これに支給された給与相当額たる、四
七〇四円以上の損害を被つた。
(二)本件書記事務従事は、違法な事務ないし職務外の事務への従事であり、市の職員
の適法に割り当てられた職務としてなすことのできないものであり、右事務に従事した時
間は、その本来の職務に従事しなかつたものとして、給与減額の対象とならざるを得ない
ところ、同時間分についても、減額されることなく給与が支給されたので、市は右減額す
べき給与相当額の損害を受けた。なお、仮に、これにより市は受給者たる職員に対し、過
払分の給与の返還請求権を取得したとしても、同請求権は、すでに時効消滅したので、市
の右損害は確定した。また、仮に、右事務に従事した職員が職務命令に従つてこれに従事
したとの理由により、右従事時間分の給与請求権を有するものとすれば、市は、本来支払
義務を負うべきでない同請求額の支払義務を負担すること自体により、同給与相当額の損
害を被つたものである。
八被告の責任
地方自治法二四二条の二第一項四号の地方公共団体の職員の賠償責任の主観的要件として
は、故意または過失で足りると解されるが、仮に、故意または重過失を要するとしても、
本件で、被告は、前記各違法性を基礎づける市遺族会の活動実態や、それに対する援助の
政教分離原則違反、また、社会福祉事業法五六条の条例欠缺等を知つていたか、あるいは
容易に知りうべき立場にあつたものであり、被告は、故意または重過失により、市補助金
交付あるいは本件補助金支出を行いまたは本件書記事務従事を命じ、
市に前記損害を与えたといわなければならない。
九監査請求
原告らは、昭和五二年四月五日、市の監査委員に対し、前記市が被つた損害を補填する措
置を講ずるよう請求したところ、同監査委員は、同年六月三日、その理由若しくは必要が
ないとして、その旨を原告らに通知した。
一〇住民訴訟の原告適格について
住民訴訟は、公益の擁護を目的とする客観かつ民衆訴訟であり、その当事者適格たる住民
の資格は、他の住民意思を反映、代表し、自己の利益にかかわらない公益的性格を有する
ものであるから、訴訟係属中に住民たる資格を喪失しても、原告適格は失われるものでは
ない。そうでなければ、訴訟係属中は、別訴が禁じられているため、原告が訴訟係属中に
住民たる資格を喪失したために訴えを不適法として却下しなければならないとすれば、訴
訟参加を行えるのみの他の住民の利益が阻害されるし、また、裁判には期間がなく、長期
化するのであるから、この場合、原告転居の故に不適法却下をすると改めて監査請求から
始めなければならないが、監査請求の対象となる行為があつた日または終わつた日から一
年が経過することにより原則として監査請求はなしえず(地方自治法二四二条二項、ひ)

ては住民訴訟も提起しえず、住民訴訟の権利はまつたく否定されてしまうという極めて不
合理な結果を招来する。
したがつて、原告A、同Bは、市から転出したとしても、依然、原告適格を有するもので
ある。
一一よつて、原告らは、被告に対し、地方自治法二四二条の二第一項四号の規定に基づ
き、市に代位して、被告に対し、本件補助金交付(支出)による損害四四万五〇〇〇円及
び本件書記事務従事による損害四七〇四円の合計四四万九七〇四円及びこれに対する昭和
五二年七月二日付準備書面送達の日の後である同月六日から支払済まで、民法所定の年五
分の割合による遅延損害金の支払を求める。
一二なお、原告らの市遺族会の宗教団体性と反公益的性格及び本件各行為の違憲性に関
する主張の詳細は、別紙一のとおりである。
第二本案前の答弁の理由
地方自治法二四二条の二に基づく住民訴訟においては、原告が弁論終結時まで、当該地方
公共団体の住民であることがその適法要件であるが、原告A、同Bは、既に箕面市から転
出しているから、右原告らの訴えは不適法である。
第三請求原因に対する認否
一1請求原因一の1の事実中、原告A、同Bが箕面市の住民であることは否認するが、
その余の事実は認める。
2同一の2、3の事実は認める。
二間二の事実について
1同二の1の(一(二)の事実は認める。)、
2同二の2の(一(二)の事実は認めるが、同二の2の(二)の事実は否認する。)、
三同三の事実について
1間三の1の主張について
(一)同三の1の(一)の事実は否認し、その主張は争う。
市遺族会は、日本遺族会や遺族連合会とは全く別個の組織であり、独自の財源と機関で運
営されているものである。
(二)同三の1の(二)の事実は否認し、その主張は争う。
日本遺族会を含も各遺族会は、その目的、事業内容からして、戦没者遺族の福祉増進及び
相互扶助というもつぱら世俗的な目的を有し、これを具体化する事業に従事してきたもの
であり、沿革、組織からしても、信仰の一致した者によつて組織されたものではなく、か
つ、特定の宗教に関する宗教活動を行つたことも行う予定もなく、宗教上の組織、団体に
あたらない。また、日本遺族会の行つている英霊顕彰事業は、その全体の事業のごく一部
であるうえ、その大半は、靖国神社とは関係のない戦没者慰霊行事であるところ、戦没者
慰霊行事は、宗教団体に限らず、政府等によつても行われる世俗的行為である。
(三)同三の1の(三)の事実は否認し、その主張は争う。
()、。1市遺族会は日本遺族会と一体となり宗教事業ないし運動を行なつたことはない
市遺族会は、箕面市に居住する戦傷病者遺族等援護法二四条等に定める戦没者遺族及びこ
れに準ずる者(戦没者が靖国神社に合紀されているかどうかは問うところではない)を。

員として組織された団体である。その目的は、箕面市戦没者遺族会会則三条に定める会員
の慰問激励と、その厚生の方法を講じ、もつて遺族の福祉向上に資することであり、同会
則四条に定める事業を行うことにしている。現に市遺族会が行つているのは、遺族の慰藉
激励、遺族の処遇改善の推進、政府主宰全国戦没者追悼式参列、戦跡慰霊巡拝参加、戦没
者遺骨収集参加、大阪府主催戦没者追悼式参列等の案内、申込み取りまとめ、市主催戦没
者追悼式参列、戦傷病者戦没者遺族等援護法の遺族に対する周知徹底、遺族の実態調査、
生活・職業その他厚生福祉に関する研究指導等の事業である。
市遺族会は、かような事業を行つて、遺族援護行政に協力し、これを補完しているのであ
る。このように、市遺族会の活動の実態も遺族の福祉増進及び相互扶助に関する事業であ
つて、その性格は世俗的なものである。
(2)遺族が、戦没者を慰霊し、顕彰する行事を行うのは、当然かつ極めて自然なこと
であり、慰霊行事を行うから宗教上の組織、団体というのはおかしいし、戦没者碑の前で
行われる慰霊祭は、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする記念の式典で
あり、その本質は、習俗化した社会倫理の儀札的表出であり、宗教的な儀式の執行も、演
出効果を高める副次的要素にすぎないのであるから、このような慰霊祭を挙行することを
もつて、市遺族会を宗教上の組織若しくは団体ということはできない。なお、碑前慰霊祭
は、民間団体である市遺族会の下部組織である区遺族会が挙行したものであり、市遺族会
自体は、前記のとおり宗教上の組織でも団体でもない。したがつて、右慰霊祭への市の関
与行為を目して、市が宗教活動をしたり、宗教上の組織若しくは団体に財政的援助をした
ということはできない。
(3)いわゆる忠魂碑は、明治一〇年ころから、全国的に、特定の宗教、宗教のいかん
にかかわりなく、人間の自然の心情の発露である死者の追悼・慰霊の観念に基づき、戦没
者を記念するために、戦没者出身地の有志により建設されはじめたものである。旧忠魂碑
は、分会が、大正五年ころ箕面村出身の戦没者を追悼・慰霊し、記念するため建立したも
ので、一般の忠魂碑と別段異なるところはなく、その意味において、忠魂碑(本件忠魂碑
を含む)は、政府、地方公共団体、都道府県遺族会等が、戦後、沖縄、南方諸島等に建。

した戦没者慰霊碑等となんら異なるところはない。分会の会員は、予備役、後備役等であ
り、成人男子のほぼ全員が一度はその構成員となるものであつた。旧忠魂碑も、右のよう
な民間有志によつて建立された死者に対する追悼・慰霊のための記念碑であるというべき
である。原告らは、本件忠魂碑を忠霊塔と混同しているものであり、本件忠魂碑は、地域
出身の戦没者を追悼・記念するための記念施設にすぎない。
政府は、当時、右のような忠魂碑の建設に対しては消極的な態度をとり、むしろこれを制
限、抑制しようとさえした。ところが、昭和一四年七月七日、陸軍を推進母体とし、
当時の首相を名誉会長とする大日本忠霊顕彰会が発足し、忠霊顕彰のため、一市町村一基
の忠霊塔建設を計画した。右忠霊塔は、靖国神社の祭神の遺骨を安置して永遠に祀り、七
生報国の精神の昂揚を期するものであつて、忠魂碑とは著しくその性格を異にする。本件
忠魂碑前で、宗教儀式を伴う慰霊祭が行われることは、本件忠魂碑の宗教施設性を基礎づ
けろものではない。すなわち、塔、碑、像等の前で特定の宗教、宗派の宗教儀式を伴う死
、、、、、没者慰霊行事が行われていてもそれら塔碑像等をもつて宗教施設といわないのが
社会一般の通念である。なお、民間団体が主催し、地方公共団体が助成し、公務員が参列
する行事として、広島市平和記念公園内原爆供養塔前での原爆死没者供養行事(毎年八月
六日に教派神道、神社庁、キリスト教両派及び仏教がそれぞれ宗教儀式を主宰)等がある
が、これら塔、碑、像等も宗教施設と考えられていない。また、本件忠魂碑に内蔵されて
いるのは、戦没者の俗名を記した霊爾であり、靖国神社の祭神たる霊璽ではない。
(四)同三の1の(四)の主張は争う。
なお、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」は「信仰についての一般的な一、

があり、そのような信仰を目的とする人的集合」と解すべきである。
2同三の2の主張は争う。
仮に、本件各行為が、宗教とかかわり合いをもつものと評価される点があるとしても、市
遺族会の性格、実態は、原告ら主張のようなものでないこと、これらの関与行為は、市が
遺族授護行政の一環として行つたものであり、決して、特定の宗教を援助、助長するよう
な行為ではないこと、この程度の関与は、全国多数の地方公共団体においてもなされてい
、、ることその関与の程度においても社会通念上相当と認られる範囲にとどまるものであり
その効果において特定の宗教を援助、助長、促進又は他の宗教に圧迫、干渉を加えたりす
るものではないこと、以上を総合すると、右各関与行為は、わが国の社会的・文化的諸条
件に照らして相当とされる限度を逸脱して宗教活動にかかわつたものとはいえない。すな
わち、前記各関与行為は、それ自体何ら宗教的意義をもつものではなく、その効果が宗教
に対する援助、助長、促進、圧迫、干渉等になるような行為でもない。市は、本件各行為
を遺族援護施策ないし福祉施策の一つとしてなしたものである。
四同四の主張について
1同四の1の主張は争う。
市において、本件補助金交付当時、社会福祉事業法五六条一項に定める条例が存在してい
なかつたことは認めるが、それにより、本件補助金交付が無効であるとの主張は争う。右
条例は、地方公共団体が、社会福祉法人に対して、補助、助成をするについての手続を定
める条例に過ぎず、同法五六条一項の規定は訓示的規定であり、右手続上の瑕疵は、補助
金交付の実体的効果に影響を及ぼさない。また、市では、昭和五一年当時、右条例の内容
を実質的に取り入れた市補助金交付規則が存在し、本件補助金交付は、右規則に従つてな
されたものであり、実質的にも違法性はない。なお、元来、普通地方公共団体は、公益上
必要がある場合には、地方自治法二三二条の二に基づき、直接、補助金の交付をなしうる
ものであるところ、本件で、市遺族会への補助金交付が右公益上の必要性を満たすことは
後記のとおりである。
2同四の2の主張は争う。
「公の支配」は、国または地方公共団体が直接に補助、助成する社会福祉法人に対する関
係で確保されていれば足りる。
五同五の主張は争う。
遺族援護行政は、国民的合意に基づくものであり、また国会決議等の正式な手続により、
国の重要な施策として行われてきたものであり、地方公共団体が、地域の遺族に対し、地
域の特性に応じた遺族援護の施策をとることも、当然必要性と公益性が認められるもので
ある。
六1同六の1の主張は争う。
2同六2の事実のうち、被告が市補助金交付規則を定め、それに基づき補助金行政を執
行していることは認めるが、市補助金交付が右規則に反するとの主張は争う。
3同六の3の事実は否認し、その主張は争う。
なお、市遺族会の昭和五一年四月一日から昭和五二年三月三一日までの会計状況は、別紙
市遺族会会計状況一覧表の被告主張欄記載のとおりである。また、原告は、靖国神社参拝
基金への繰入れの違法性を主張するが、そもそも市遺族会において特に右名称の基金を設
け、特定の趣旨目的を持つた特別の資金をプールしている訳ではなく、折りに触れ、会員
各位から受けた寄付金を、一般会計に組入れる場合の組入れ科目の名称として使用してい
るにすぎない。
七同七の主張は争う。
八同八の主張は争う。
仮に、被告の本件各行為が違憲・違法であるとしても、
地方自治法二四二条の二第一項四号による損害賠償責任については、故意または重過失が
責任要件と解されるが、被告には、右各行為が違憲・違法であることにつき、故意、重過
失はない。すなわち、戦没者遺族に対して、相応の援護措置を講ずることは、国の責務と
して行うべき施策であり、被告が、地方公共団体においても国の場合と同様に、地域の実
情に応じた遺族援護措置をとりうると考えることは当然である。また、遺族会に対する補
助金の交付は、ほとんどの地方公共団体で行われているうえ、箕面市における遺族会への
補助金の交付は、被告が市長となる以前から連綿として行われていたから、被告が、その
前例を踏襲して、条例のないまま、遺族会に補助金を交付したのも無理からぬところであ
る。なお、従前、地方公共団体の遺族会に対する補助金の交付が違法とされた実例がない
ことも考慮されなければならない。
九同九の事実は認める。
一〇同一〇の主張は争う。
一一なお、被告の市遺族会の性格及び本件各行為の合憲性、適法性に関する主張の詳細
は、別紙二のとおりである。
第四証拠(省略)
○理由
以下の理由説示中、書証の成立(写しについては原本の存在を含む)については、争い。

ないものはその旨の記載を省略し、争いのあるものはその成立(写しについては原本の存
在を含も)を認めうる証拠を括弧内に表示する(なお、括弧内に「原本」とあるは、写。

を原本として提出された書証である。。)
第一本件訴えの適法性
一原告適格
、、1原告らの本訴請求は地方自治法二四二条の二の規定に基づく住民訴訟であるところ
住民訴訟は、地方公共団体の執行機関又は職員による同法二四二条一項所定の一定の財務
会計上の違法な行為又は怠る事実が当該地方公共団体の構成員たる住民全体の利益を害す
ることに鑑み、これを防止ないし是正するため、法律をもつて住民に対して右違法な行為
又は怠る事実の予防ないし是正を裁判所に請求する公法上の権限が付与されているもので
あるから、住民訴訟の原告は、訴え提起時だけでなく、訴訟係属中も当該地方公共団体の
住民たる資格を要すると解され、訴訟係属中に、住民の資格を失つた場合には、原告適格
を欠くに至るというべきである。
2原告らは、住民訴訟が公益の擁護を目的とするいわゆる客観訴訟、民衆訴訟であるこ
とから、
訴訟係属中に住民たる資格を喪失しても原告適格は失われない旨主張するが、地方自治法
二四二条の二の規定に基づく住民訴訟は、公益的性格を有するとはいつても、住民に訴え
提起の義務が課されているわけではなく、訴えを提起すると否とは住民各自の自由な判断
、、、に任されておりその取下についても他の住民の同意を必要とする等の制約はないなど
制度的、手続的にみれば、通常の民事訴訟と特に異なる面はなく、原告適格に関する民事
訴訟の原則を排除する特段の規定もないことに加え、住民訴訟が、もつぱら、特定の自治
体の自治権の範囲内に関する訴訟であるところから、同じく民衆訴訟であつても国家的法
益に属する選挙の公正を目的とする選挙訴訟とは同一に論ずることができないことなどを
考慮すると、住民訴訟が、客観訴訟、民衆訴訟であるということから、住民訴訟の原告適
格について、通常の民事訴訟と異なる解釈に立ち、原告が住民であることが本案判決の要
件ではないと解することは困難であるといわなければならない。
3原告A、同Bを除く原告らが箕面市の住民であることは当事者間に争いがないが、被
告の昭和六二年七月一四日付上申書添付の住民票によれば、原告A、同Bは、本訴訟の口
頭弁論終結前に、箕面市から転出し、その住民たる資格を喪失していることが明らかであ
るから、右原告らの本件訴えは、いずれも不適法として、これを却下すべきものである。
二監査請求の経由
原告らが、請求原因九のとおり、市の監査委員に対し、監査請求をなし、同監査委員が右
各請求に理由若しくは必要がないと判断したことは当事者間に争いがなく、したがつて本
件各訴えは、監査請求の手続を経由したものというべきである。
第二本訴請求について
一当事者
被告は、本件補助金交付(支出)及び本件書記事務従事がなされた当時、箕面市長であつ
、、、たこと市遺族会が箕面市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり
市の区域を箕面、萱野、豊川及び止々呂美の四地区に分けて、各地区毎に支部を設置して
いることは当事者間に争いがない。
二市補助金交付・本件補助金配分と本件書記事務従事の存在及びその事実関係
1市補助金交付・本件補助金配分の存在とその事実関係
(一)市補助金交付・本件補助金配分の存在
被告が、市の昭和五一年度一般会計予算から、
市社会福祉協議会に七六一万二〇〇〇円の補助金を交付したこと(市補助金交付、市社)

福祉協議会が、右補助金から市遺族会に四四万五〇〇〇円の補助金を配分したこと(本件
補助金配分)は、当事者間に争いがない。
(二)市補助金交付の事実関係
乙第八九号証、第九〇号証の一ないし一四、第九〇号証の一五の一ないし三、第九〇号証
の一六ないし二四、第九一号証の一、二に弁論の全趣旨を総合すれば、市補助金交付につ
いて、以下の事実が認められる。
(1)昭和五一年当時、市の予算編成は、前年の一〇月初めからスタートし、市補助金
は、箕面市福祉事務所によつて予算要求書として具体化するが、それは前年の実績、事業
内容、物価上昇率等を勘案してその額が決定されていたもので、右予算要求は、企画部等
の各担当者の予算査定を経て、市長等の査定を経由し、一般会計予算に組み込まれ、三月
の定例市議会の議決により予算として成立していた。
(2)市社会福祉協議会は、昭和五一年六月一日(受付は同月四日、市福祉事務所を)

じて、市に対し、同年度の補助金として七六一万二〇〇〇円の交付申請をした。右申請書
の添付書類は、以下のとおりである。
イ昭和五〇年度事業活動報告書
ロ同年度一般会計及び各種特別会計決算書・精算書
ハ市社会福祉協議会什器・備品目録、同貸借対照表
ニ監査結果報告書
ホ昭和五一年度事業計画書
へ同年度一般会計及び各種特別会計予算書
ト同年度各種福祉団体に対する市補助金配分表
なお、右トの各種福祉団体に対する市補助金配分表には、市遺族会を含む市社会福祉協議
会への加盟一六団体(及び市社会福祉協議会並びに同協議会の運営する心配ごと相談所)
に対する昭和四三年度から昭和五〇年度までの市補助金の配分実績及び昭和五一年度にお
ける市補助金の配分予定額が記載されており、同協議会への補助金交付に際し、市は、市
補助金が、同協議会を通じて、同協議会加盟のいかなる団体に、いかなる金額、割合で配
分されるのかを知りうるようになつていた。
(3)被告は、箕面市長として、昭和五一年六月一六日、右補助金(市補助金)交付を
決定し、同月一七日、その支出命令を発した。右支出命令書によれば、右補助金は市の同
年の予算中、一般会計の(款)民生費(項)社会福祉費(目)社会福祉総務費(節)、、、

担金補助及び交付金、
(種別)補助金として支出されている。
(4)市社会福祉協議会は、社会福祉事業法に基づく社会福祉法人であり、それに対す
る市補助金の交付は、同法五六条一項に基づくものであるところ、同条項は、国又は地方
公共団体は、必要があると認めるときは、省令又は当該地方公共団体の条例で定める手続
に従い、社会福祉法人に対し、補助金を支出することができる旨を規定しているが、市補
助金交付当時、市では、同法に基づく条例は制定しておらず、市補助金交付規則及び市補
助金交付要綱によつて、本件補助金を交付したものである。
(三)本件補助金配分の事実関係
甲第一二号証、乙第二六号証(原本、第五〇号証の一、二(弁論の全趣旨、第五六号))

(弁論の全趣旨、第八七号証、第九〇号証の三、第一〇八、第一〇九、第一二八、第一)

九号証(いずれも弁論の全趣旨)によれば、本件補助金配分について、以下の事実が認め
られる。
(1)市社会福祉協議会の歳入源としては、昭和五一年当時、財産収入(基本財産及び
運用財産からのもの、寄付金(一般寄付金及び指定寄付金、補助金(大阪社会福祉協))

会からのものと市からのもの)及び事業収入(受託事業収入からのもの、会費収入等が)

つたが、市社会福祉協議会では、そのうちの市からの補助金については、それを市社会福
祉協議会の一般運営費及び同会で行つている心配ごと相談所の運営費や、福祉活動専門員
設置費等にあてるほか、その約半額を、その会員となつている団体(以下「加盟団体」と
いう)へ配分していたものであり、昭和五一年度における市遺族会への配分額は、四四。

五〇〇〇円であつた(右市遺族会への配分額は当事者間に争いがない。なお、同年度。)

おける箕面市からの市社会福祉脇議会への補助金総額は、七六一万二〇〇〇円であり、う
ち、各加盟団体への配分総額は、三四二万四〇〇〇円であつて、当時の同協議会への加盟
団体は「民生委員協議会「母子福祉会「身体障害者福祉会「肢体不自由児父母の、」、」、」、
会「手をつなぐ親の会「老人クラブ連合会「保護司会「更生保護婦人会「B」、」、」、」、」、

S会「赤十字奉仕団「原爆被害者の会「更生保護協会「献血推進協議会「青」、」、」、」、」、

年赤十字団「傷痍軍人会」と市遺族会の一六団体であつた。」、
(2)市社会福祉協議会は、市からの補助金の加盟団体への交付、
配分額を決めるについて、毎年四月ころ、各加盟団体の長を集め、それに市の福祉部社会
課社会係の職員も出席のうえ「福祉団体長会議」を主催していた。右会議の主要な案件、
は、
市補助金の配分と、社会福祉協議会助成金の配分であるが、その招集通知書には、あらか
じめ用意された、各加盟団体(市社会福祉協議会及び同協議会の営も心配ごと相談所を含
も)へのその年度の市補助金の配分案が添付されている。なお、市社会福祉協議会は、。

からの補助金以外にも、前記のようなその独自収入の一部を、各加盟団体に補助金、助成
金として交付しているところ(右独自収入からの昭和五一年度の市遺族会への補助金は、
五万円であり、助成金は、四万五〇〇〇円である、市社会福祉協議会から各加盟団体。)

交付される金員について、市からの補助金に基づくものと、それ以外の財源に基づくもの
とは明確に区別されている。
()、、、()()3その後市社会福祉協議会は右会議で決定した額に基づき前記二の2
のとおり、同協議会への各加盟団体に対する補助金配分表を添付して、市に市補助金の交
付申請をし、また、右各加盟団体は、市社会福祉協議会へ補助金交付申請をして、補助金
の配分を受けることになる。なお、右各加盟団体から同協議会への補助金交付申請書の表
題には「昭和五一年度箕面市補助金の交付申請昭和五一年度箕面市から(社会福祉協、

会に)対する補助金について、下記のとおり、交付方申請します」と記され、下記とし。
て、
「1申請金額、2添付書類(1)昭和五〇年度事業報告書及び歳入歳出決算書各一
部(2)昭和五一年度事業計画書及び歳入歳出予算書各一部」と記されており、申請、

あたつては、これらの書類を添付するようになつていた。
(4)以上のような市から市社会福祉協議会に対する市補助金交付と市社会福祉協議会
から各加盟団体に対する右補助金配分の審査、決定手続の過程において、市は、市から同
協議会に交付した補助金の相当部分が同協議会を通じてその各加盟団体に配分されること
及びその配分金額、割合等を知りうる仕組みになつていたものであつて、市は、本件の市
補助金七六一万二〇〇〇円のうち三四二万四〇〇〇円については、当初から同協議会の各
加盟団体に配分されることを予定し、また、うち、本件補助金四四万五〇〇〇円について
は、
市遺族会へ配分されることを予定してこれを市社会福祉協議会に交付したとみられるが、
市から右各団体に直接補助金を交付することなく、このように市社会福祉協議会を通じ、
間接的に補助金を交付する方法をとるのは、同協議会に加盟する各受交付団体の意向をで
きる限り反映させることによつて右各団体に対する補助金の合理的配分を期する目的に出
たものである。なお、大阪府下の二四の市(大阪市は入つていない)の各市遺族会への。

助金交付状況は、原則的に直接交付している市が、一七であり、原則的に社会福祉協議会
を通じて交付している市が七である。
2本件書記事務従事の存在とその事実関係
(一)本件書記事務従事の存在
、、、市遺族会が市福祉事務所の所員である市の一般職の職員に同会の書記を委嘱し被告は
同職員が同会の書記に従事すること及び勤務時間中に同会の事務を処理する(本件書記事
務従事)ことを指揮または命令し、その事務に従事した時間についても給与を支給したこ
と、昭和五一年当時の市の一般職の一時間あたりの給与額は、少なくとも三三六円以上で
あることは当事者間に争いがなく、また、乙第二六号証(原本)によれば、本件書記事務
従事の時間は、同年四月一日から昭和五二年六月三〇日までの間、少なくとも一四時間以
上(一か月につき一時間以上)であることが認められる。
(二)本件書記事務従事の事実関係
甲第一六ないし第二一号証、第二七、第二八、第三四、第三五、第四〇、第四一、第六七
号証、乙第九号証、第二六号証(原本、第五七号証の一、二及び証人Hの証言を総合す)

ば、以下の事実が認められる。
(1)市では、昭和五一年当時、市の市民福祉部の中に福祉事務所を設置していたもの
であり、右福祉事務所設置条例施行規則二条二項には、福祉事務所の社会福祉係の分掌す
る事務として「社会福祉団体に関すること」との規定があるところ、市では、市遺族会を
他の一三の団体(それは概ね前記市社会福祉協議会の加盟団体と同じであるが、前記加盟
団体のうち「身体障害者福祉会「肢体不自由児父母の会「手をつなぐ親の会」は、、」、」、

、、「」祉事務所で事務を扱う社会福祉団体の中には入つておらずまた逆に傷痍軍人妻の会
は、加盟団体には入つていないが、福祉事務所では社会福祉団体としてその事務を扱つて
いる)とともに、社会福祉団体と位置付け、右分掌事務規定に基づき、。
それに関する事務を行つていたものである。
(2)昭和五一年当時の市福祉事務所の職員数は、三名であり、受け持つ社会福祉団体
は、一四であつて、一人の職員で、四つくらいの団体の事務手続をしていた。うち、市遺
族会関係の事務としては、遺族年金、公務扶助、特別給付金等の申請、国や府が行う戦跡
巡拝、遺骨収集、戦没者追悼式の参加者の選定、戦死の事務手続の手伝い等の、国あるい
は府との関係における遺族援護事務や、公的行事に関する事務のほか、市遺族会の各会員
らに対する、慰問品配布の手伝いや、また、市遺族会の行う各種慰霊、追悼行事や親睦行
事に関する通知、案内、すなわち、本件慰霊祭や靖国神社参拝旅行の通知、案内文書の作
成、発送等の事務も行つていた(なお、その他に、市福祉事務所の職員が市遺族会の関係
で従事していた仕事には、本件慰霊祭及び昭和五二年度碑前慰霊祭関係の会場設営の準備
その他の事務、手伝いがあつたが、右各慰霊祭関係の業務は本件書記事務従事として、原
告が主張する中には含まれていない。。)
(3)右市遺族会の各種行事の通知、案内にあたつては、昭和五一年当時、市福祉事務
所では、市遺族会に代わつてこれらの文書をすべて作成し、その保管する市遺族会の会員
、、の名簿と過去帳に基づいてそれを同会の各会員あるいは役員に郵送していたものであり
右郵送にあたつては、市の封筒を用い、切手代も市が負担していた。その他、市遺族会の
決算等についても、決算書の原稿は、市遺族会の方で作つていたが、それを正式な形にま
とめ、清書するのは、福祉事務所の方で行つていた。
3市補助金交付・本件補助金配分(本件補助金交付)と本件補助金支出との関係
(一)原告らが本件の補助金交付に関する違憲・違法事由として主張するところは、多
岐にわたるが、その中には、本件補助金を含も市補助金が、市から市社会福祉協議会に交
付され(市補助金交付、さらに市遺族会へ配分された(本件補助金配分)という補助金)

付の形式的・手続的側面に着目した主張(本件補助金交付)と、市補助金のうち、本件補
助金は、当初から市遺族会への配分を予定されており、その意味で、市から市遺族会への
直接交付と同視しうるという補助金交付の実質的側面に着目した主張(本件補助金支出)
の両者が含まれている。すなわち(1)請求原因三の1・2の憲法二〇条、八九条前段、

反等の主張、
(2)同四の2の間接補助による憲法八九条後段違反の主張(3)同五の地方自治法二、

二条の二違反の主張は、いずれも後者を前提としての主張であるし(4)同四の1の社、

福祉事業法五六条一項に定める条例の欠缺による違法の主張(5)同六の2の補助金交、

規則違反の主張は、いずれも前者を前提としての主張であり、また(6)同六の3の本、

補助金使用の違法の主張は、必ずしも明確ではないが、一応、後者の面に着目した主張と
解される。
(二)そこで、これらの主張相互の関係について検討するに、本件補助金につき、その
形式的・手続的側面をとらえて、市補助金が市社会福祉協議会に交付され、そこかも本件
補助金が市遺族会に配分されたとする主張(本件補助金交付)と、右実質的側面に着目し
て、本件補助金は、当初から市遺族会への配分を予定され、その意味で、市から市遺族会
への直接の補助金交付と同視しうる(本件補助金支出)という主張とは、本来、法律的観
点が相反するものであり、並列的に両立しうる関係にはないと考えられる。すなわち、法
律的にみた場合、市補助金中の本件補助金に相当する部分が、市から市社会福祉協議会に
交付されたと同時に市から市遺族会にも交付されたとはいえないことは明らかであつて、
本件補助金につき、その形式的・手続的側面を踏まえて、市から市社会福祉協議会に交付
され、そこから市遺族会に配分されたとする以上、問題となるのは、市から同協議会への
補助金交付の手続的・実体的適法性のみであり、同協議会から市遺族会への補助金の配分
は、市以外の第三者の行為であつて、右配分の違法性について、市長たる被告にその責任
を問うことはできないといわざるを得ない。また、逆に、本件補助金支出につき、市から
市遺族会に直接交付されたとみる以上、問題となるのは、そのような直接の補助金支出の
手続的・実体的適法性のみであり、たとえその中間に市社会福祉協議会が介在していたと
しても、右直接の補助金支出が手続的・実体的に適法になされたとみられる以上、市社会
福祉協議会への交付に関する瑕疵は直接には、右補助金支出の適法性及び効力に影響を及
ぼさないといわざるを得ない。
したがつて、本件の補助金をめぐる法律関係につき、右のような形式的・手続的側面に着
目する以上、争点は、もつぱら市社会福祉協議会への市補助金交付の適法性であり、市遺
族会の宗教団体性や、
市遺族会に対する補助の公益上の必要性は検討するまでもないこととなるし、逆に、右の
ような実質的側面に着目する以上、争点は、市遺族会への本件補助金支出の適法性に尽き
るのであつて、市社会福祉協議会への市補助金交付についての手続的瑕疵は、本件補助金
支出の適法性及び効力に影響を及ぼさないことになる。
(三)ところで、前記1認定の市補助金交付、本件補助金配分に関する事実関係に照ら
せば、市補助金のうち本件補助金に相当する部分は、形式的・手続的には、市から一旦市
社会福祉協議会に交付され、同協議会から市遺族会に配分されたものではあるが、当初か
ら、市において、市遺族会へ配分されることを予定して支出されたもので、市が補助金交
付につき市と受交付団体との中間に市社会福祉協議会を介在させたのは、単に、市が一定
の総額を定めて予算化する補助金を各種団体に対して合理的に配分するための手段とする
趣旨に出たものにすぎないと認められるから、本件補助金は、実質的にみて、市から市遺
族会に直接交付されたものとみるのが実態に合うというべきであつて、本訴における原告
らの主張も、その最も中心となる点は、このような補助金交付の実質的側面に着目したう
え、それが政教分離原則に違反するというものであり、それに対する被告の主張も、本件
補助金交付の実質的法律関係を前提とした上で、それが政教分離原則に違反せず、手続的

実体的にも適法であるとするものであり、このような双方の主張をも考慮すれば、本件補
助金に関する法律関係については、その実質的側面を重視し、市から市遺族会に直接交付
されたものと評価、判断した上で(本件補助金支出、その手続的・実質的適法性を検討)

べきものであり、以下、このような観点から、原告ら主張の本件補助金支出及び本件書記
事務従事(本件各行為)の違憲・違法事由について検討を加えることとする。
三本件各行為の政教分離原則違反の主張について
原告らは、市遺族会は、宗教団体である日本遺族会と一体の組織であるうえ、それ自体に
おいても、宗教的活動を行つている団体であり、憲法二〇条一項後段の「宗教団体、同」

八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」に該当するし、市は、本件各行為によつて、
みずから本件慰霊祭、市遺族会の英霊顕彰の宗教的活動をしたことになり、憲法二〇条三
項に違反する旨主張するので、以下この点につき検討する。
1日本遺族会と市遺族会との関係
原告らは、市遺族会は、日本遺族会と一体の組織であることを前提に、市遺族会は、宗教
団体たる日本遺族会の一地方支部として宗教団体にあたる旨主張するので、まず右両会の
、()、、、、つながりについて検討するに甲第六〇号証原本第六七第二四八号証乙第八一
第八二号証及び証人Iの証言を総合すれば、以下の事実が認められ、この認定を左右する
に足る証拠はない。
(一)各遺族会の組織には、全国単位のものとして財団法人日本遺族会(日本遺族会)
があるが、そのほか、各都道府県単位にも法人格(大分県の場合は社会福祉法人、その他
の都道府県の場合は財団法人)を持つた遺族連合会等があり(大阪府の場合には大阪府遺
族会、のちに大阪府遺族連合会と改称、さらに各市町村単位にも遺族会が存在する(大)

市の場合には、大阪市の各区、府下の各都市及び各郡単位に遺族会が存在する)が、こ。

らの組織のうち、実際に会員を有する組織体は、各市町村の遺族会のみであり、日本遺族
会及び各都道府県の遺族連合会には、独自の会員というものはない。ただ、全国の各市町
村遺族会の徴収した会費の一部は、各都道府県の遺族連合会や、日本遺族会に納入されて
おり、これらの会費が、右各遺族会の運営資金の一部になつている。なお、日本遺族会で
は、各都道府県遺族会を日本遺族会からみて支部としており、また、府遺族会(各都道府
県の遺族連合会も同様と考えられる)では、その傘下の各市町村遺族会をさらにその支。

としており、市遺族会の会則上、市遺族会の会長は府遺族会箕面支部長を兼ねることが定
められている。
(二)日本遺族会の最高議決機関は、評議員会であり、評議員会において執行機関であ
る理事会の構成員である理事を選任し、かつ会長、副会長を指名するが、右評議員は、府
遺族会はじめ各都道府県単位の遺族会で選出された者等から構成されている。また、府遺
族会の場合も通常の業務決定・執行機関は理事会であるが(寄付行為の変更等の重要事項
については評議員会で決する、右理事会の構成員たる理事や同会の会長は評議員会で。)

出されるものであり、評議員は、府下市町村遺族会の会長らから構成されている(なお、
このような関係は、他の都道府県の場合も基本的に同様であると考えられる。。)
(三)日本遺族会は、その決定した事業方針、活動目標等を全国の各都道府県遺族会、
さらに各市町村遺族会に伝達しているところ、各都道府県及び市町村遺族会においては、
それぞれの立場、地域特性に応じた活動をしているものの、日本遺族会の決定した事業の
基本方針については、これに従うことが要求され、支部(各都道府県遺族会)として、そ
れと異なる独自の立場をとることは制約される。なお、日本遺族会は、昭和三五年に、英
霊の顕彰事業推進のため、その内部に基本問題調査部を設置し、その結果を英霊精神に関
する報告書という文書にまとめたが、右調査部会において、遺族会のあり方を考える場合
に、特に留意すべき事項として、話し合われた事項として「1)遺族会の本部、各支、(

は協力して戦没者遺族の物心両面の安定を期するため、靖国神社の国家護持の実現(地方
の護国神社の都道府県による護持の実現)及び戦没者遺族の処遇改善につとめること。
(2)遺族会の本部、各支部は、遺族会の目的が下部に浸透徹底するよう努力し、その組
織の整備強化をはかること」という点が挙げられている。また、日本遺族会は、昭和四。

年七月、今後の長期ビジヨンの確立、組織の改革案等について検討するため、同会内部に
特別委員会を設置し、そこでとりまとめた「新体制確立特別委員会報告書」のうち「日、

遺族会の今後のあり方(以下、右報告書のこの部分を「新体制報告書」という)につ」。

ては、同年一〇月の理事会、評議員会で承認し、会の今後の方針として決定したが、右報
告書においては、遺族会の存立の基礎は、各市町村における組織であり、遺族のよりどこ
ろとして遺族会の全国組織を支えているのはこの単位組織であること、各都道府県遺族会
及び日本遺族会の機能と役割は、この基礎のうえに、いかに遺族一人一人の問題をくみと
り集約し、方向付け、会員を結集して問題の解決を図るかにあること並びに遺族会の各都
道府県支部は、その独立性の面と、日本遺族会の支部としての両面を持つており、右各支
部は、本部の決定に基づき、都道府県の立場でその遂行にあたり、また都道府県の立場で
独自の活動を行うこと、なお、本部決定事項の遂行については、支部はあくまで支部とし
ての立場であり、独自の立場は制約されるものであり、支部の特殊事情のために決定事項
が実行されなかつたり、実行への熱意を欠くことは是認しがたいことが指摘されている。
以上の事実が認められ、これらの事実によると、
日本遺族会と各都道府県遺族連合会及び各市町村遺族会は、本部・支部という組織的つな
がりを持つた団体であり、役員構成の面でも密接なつながりを有するうえ、その事業活動
の面でも、遺族会全体としての基本的な活動方針、事業目的等の面では、本部たる日本遺
、、族会の決定に従うことが要求されていることが明らかでありこれらの諸事実からすると
日本遺族会、各都道府県遺族連合会及び市遺族会を含も各市町村遺族会は、全体として一
、、、、体の組織であつて市遺族会は日本遺族会の一地方支部といわざるを得ずその意味で
市遺族会は、基本的に、日本遺族会と同一の性格を有する団体であると認められる。
2日本遺族会の性格、活動状況等
(一)日本遺族会の発足の経緯及び遺族連盟の活動状況
甲第一六五号証、第二三八、第二三九号証の各一、二、第二四〇号証、乙第八〇、第八一
号証、第九三号証の一ないし三の各一ないし四、第九三号証の四、五の各一、二、第九三
号証の六、九、第九八号証及び証人I、同Jの各証言に歴史上公知の事実を総合すれば、
以下の事実が認められる。
(1)昭和二〇年八月一五日の敗戦に伴い、日本の社会は、物心両面で著しい混乱状況
に置かれたが、その中でも、戦没者遺族特に戦争未亡人及び未成熟の子供らの多数は、甚
だしい生活の困窮状態に置かれ、その日の生活にも事欠くような事態に陥り、しかもその
数は全国で相当多数に達していたが、当時は、政府自体も体制の変革期に伴う混乱状態に
あつたこと、さらに日本を占領していた連合国総司令部は、戦前の日本の軍人階級に対す
る優遇措置とくに軍人恩給が日本の軍国主義を助長した大きな要因であるとの認識に立
ち、
社会的困窮者に対する公的援助の必要性は認めながらも、それが軍人階級とその遺族に対
する優遇措置という形ではなされるべきでないという考えであつたうえ、戦没者遺族の団
体が結成されることは軍国主義の復活につながるのではないかとの懸念を持つていたこと
などから、これら遺族らの困窮状態に対し、政府は、なんら有効な公的扶助等の措置をと
りえず、また戦没者遺族の自主的な組織結成も困難な状況にあつた。また、昭和二一年一
一月一日には「公葬等について」の通牒が発せられ、地方公共団体は、公葬その他宗教、

儀式及び行事等(慰霊祭、追悼式)は、その対象のいかんを問わず挙行してはならないと
され、
さらに民間団体が行う戦没者の葬儀、慰霊祭等に対し、地方公共団体が、これを援助しそ
の名において敬弔の意を表明することも禁止された。
(2)そのような中で、一部の戦争未亡人が、社会的に似たような境遇にある遺族らの
連帯と相互扶助を呼びかける趣旨で、第一次世界大戦後世界に流行した「幸運の葉書」を
真似た形式で「七人の遺族に呼びかける団結の葉書」を昭和二〇年一〇月に各地に発送、
し、
それが相当の反響を得たこと、さらに、昭和二一年二月にNHKの「私達の言葉」が、武
蔵野母子寮長Kの、全国に向かつて戦争犠牲者遺家族同盟の組織と戦争犠牲者救援会の結
成を呼びかけた投稿をそのまま全国放送したことなどがきつかけになり、戦争犠牲者遺族
の全国組織結成の気運が生まれ、右武蔵野母子寮に同年三月以来、戦争犠牲者遺族同盟結
成準備会の事務所が設けられて、それを戦前の組織である恩賜財団軍人援護会の新組織で
ある同胞援護会(総裁L殿下)が支援し、同年六月、右戦争犠牲者遺族同盟の結成大会が
開かれ、その後、同胞援護会を通じての各都道府県への連絡等がなされて、昭和二二年五
月右同盟の第二回地方代表者会議が開かれたまたそれとは別に同年六月には全、。、、、「
国平和連盟東京都本部」と称する会名で、各都道府県の遺族会や、都道府県の関係部課に
参集を呼びかけ、同年七月準備会が開催され、このような動きの中で次第に戦没者遺族の
全国的組織結成の気運が高まり、最終的に、右全国平和連盟東京都本部が母体となつた形
で、同年一一月一七日、日本遺族厚生連盟(遺族連盟)が発足した。
(3)その後、遺族連盟が、発展的に解消して、昭和二八年三月一一日、財団法人日本
遺族会が発足した。財団法人化を進めた主たる理由は、国から旧軍人会館(現九段会館)
の無償貸付を受ける関係で、法人化が必要となつたことが大きい。右旧軍人会館は、在郷
軍人会によつて、九段に建てられていたものであるが、昭和二八年八月に「財団法人日本
遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」が公布され、日本遺族会に無償貸与さ
れることになつた。右法律の一条では、日本遺族会が「途中略)もとの軍人・軍属で、(

務により死亡した者の遺族の福祉を目的とする事業の用に供するときは、遺族会(日本遺
族会を指す。以下同じ)に対し、その建物及び国有財産たる別表第二の土地(別衷略)。

うち、
その建物の使用に必要な部分を他の法令の規定にかかわらず、無償で貸付けることができ
る」と規定されており、また、その二条一項では「遺族会は、前条の規定により貸付。、

受けた財産を左に掲げる事業以外の事業の用に供してはならない。一、遺族に無料又は低
額な料金で宿泊所を利用させる事業。二、遺族に無料又は低額な料金で集会所、食堂、理
容室、洗濯所等の施設を利用させる事業。三、遺族に生活必需品を実費で販売する事業。
四、無料又は低額な料金で遺族の生活及び結婚に関する相談に応ずる事業。五、遺族の育
。、。」英を行う事業六その他遺族の福祉を目的として行う事業で厚生大臣の指定するもの
と規定されている。
(4)遺族連盟の活動は、もつぱら遺族の経済的困窮の改善に向けられていたが、その
遺族援護に関する各種活動の大きな成果としては、国会で次第に遺族の問題が取り上げら
れるようになり、昭和二七年四月三〇日戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立するに至つた
ことが挙げられる。また、遺族連盟ではかねてから戦没者の慰霊行事等は一般文民と同様
の扱いをすることとの要望もしていたが、その運動の成果として、昭和二六年には、戦没
者の葬儀等に対する公務員等の出席等に関する通牒が一部変更された。なお、遺族連盟時
代の昭和二七年に、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することの決議がなされているとこ
ろ、これが日本遺族会の靖国神社国家護持運動の出発点となつた。
(二)日本遺族会の寄付行為・組織
甲第一六七号証の一ないし三、乙第九六、第九八号証によれば、昭和二八年三月に発足し
た日本遺族会の当初の寄付行為は「第二条この会は戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉、

済の道を開くとともに、道義の昂揚、品性の涵養に努め、平和日本の建設に貢献すること
を目的とする、第三条この会は前条の目的を達戊するために次の事業を行う。一、遺族
の生活相談事業、二、上京遺族の宿泊所の斡旋、皇居の清掃、拝観その他国会見学等の連
絡指導、三、遺族の表彰その他連絡指導、四、機関紙の発行、五、その他目的達成のため
必要と認める事業」というものであつたが、同年一一月に一部改正がなされ「第二条、

の会は、英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進(~以下改正前に同じ、第三条こ。)

会は~(前同)一、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、二、遺族の処遇向上に関する
事業、三、遺族の生活相談事業、
、、、、、、、四遺児の育成補導五上京遺族の宿泊所の斡旋皇居の清掃拝観その他連絡指導
六、遺族の表彰その他連絡指導、七、機関紙の発行、八、その他目的達成のため必要と認
める事業」というようになり、以後、細部の改正はあるものの、会の目的としては、基本
的に右のような内容のものになつている。
なお、日本遺族会と各支部との組織関係は前記1のとおりであるところ、日本遺族会の傘
下の単位遺族会(支部)の数は、昭和五三年当時で、一万四〇〇支部である。また、日本
遺族会では、その傘下の単位遺族会の会員資格については、特に寄付行為等で、統一的な
規定を置いていないが、旧軍人・軍属あるいはこれに準ずるものの遺族ということが当然
の前提になつていると解される(なお、遺族連盟は、その規約第三条において「本連盟、

戦争犠牲者及び社会公共の為の殉職者の遺族を会員とした団体を以て組織する」との規。

を置いていたが、右規定は、日本遺族会の寄付行為には引き継がれていない。また、。)

のような日本遺族会(傘下の単位遺族会、以下同じ)の会員資格を有すると考えられる。

族世帯のうち、同会に加入しているものの割合については、正確な数値は不明であるが、
同会の発表によれば、同会への会費納入世帯は、昭和五三年の調査で、右の全遺族世帯数
一八五万世帯のうち一〇四万世帝であるとされている(以下、このような、日本遺族会の
傘下の単位遺族会への会費納入者及びその家族を「日本遺族会の会員」という。。)
(三)日本遺族会の事業の概要
甲第五七号証の一ないし六、第一六七号証の一ないし三、第二〇五号証の一ないし三〇、
、、、第二四〇ないし第二四八号証第二五九号証の一ないし五第四二六号証の一ないし一一
第四二六号証の一二の一、二、第四二六号証の一三ないし二二、第四九二号証の一ないし
六、乙第八一号証、第九三号証の七、八、第九三号証の一〇ないし二九の各一、二、第九
三号証の三〇ないし三七、第九三号証の三八、三九の各一、二、第九三号証の四〇ないし
四九、第九五号証の一、二、第九八号証、第九九号証の一ないし六、第一〇〇号証の一、
二、第一〇一号証、第一〇四号証(原本、証人I、同Jの各証言を総合すれば、日本遺)

会の事業の概要(但し、靖国神社国家護持運動等については、後記(5)のとおり)とし
て、以下の事実が認められる。
(1)日本遺族会は、
その機関紙として日本遺族通信(以下「遺族通信」という)を毎月二回刊行していると。

ろ、右通信は、その発行時点における日本遺族会の活動方針、運営状況を反映した記事を
掲載しているものであるが、右遺族通信の標語(題字の下)が、一六一号(昭和三九年五
月一日号)から、それまでの「われわれは遺族の相互扶助、慰藉救済の道を開き道義の昂
揚、品性の涵養に努め、平和日本建設にまい進すると共に、戦争防止、ひいては世界恒久
平和の確立を期し以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」から「日本遺族会。、
は、
英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くと共に、道義の昂揚、品性
の涵養に努め、平和日本の建設に貢献することを目的とする」と変わつており、日本遺。

会が、このころから英霊の顕彰事業ということに力を入れ始めた様子が窺われる。また、
昭和四〇年代に入つてくると、遺族通信には、靖国神社関係とくにその国家護持関係の記
事が多く、かつ紙面の中心的記事として扱われるようになつてくると同時に、遺骨収集、
戦跡巡拝等の記事も次第に増えてきて、英霊の顕彰と言う点が、遺骨収集や戦跡巡拝等と
ともに、次第に遺族会の中心的な運動方針になつてきたという感じは否めない。このよう
な傾向を端的に表わしているのが、昭和四六年に遺族通信に発表された前記新体制報告書
であり、ここでは遺族会という組織の性質上、先細りの危惧を「英霊につながる精神団体
一として活路を見出す方針をはつきり打ち出し「英霊につながるものはすべて遺族であ、
る」とまで述べられ、戦没者の肉親という遺族概念をも放棄するかのような姿勢が打ち。

されている。もつとも、現実にその後、このような形の遺族概念に立つて、日本遺族会の
運営がなされているとは認めがたく、同会の会員資格としては、依然、戦没者遺族である
ことが要件のようである。
なお、昭和五六年三月一五日付の遺族通信に掲載された同年度の日本遺族会の活動方針、
事業計画をみると、活動方針の大綱としては「1英霊顕彰の推進、2戦没者遺族の福、

増進、3組織強化と財政基盤の確立」が挙げられ、また事業計画としては「1靖国神、

国家護持の推進、2戦没者遺族の処遇改善、3戦没者遺骨収集と戦跡巡拝の実施、4組織
強化対策の推進、5支部事務局の強化、6その他の事業」が挙げられている。
(2)また、
日本遺族会発行の「日本遺族会の歩みとその概要」-昭和五五年一〇月発行-によつて、
日本遺族会が対外的に明らかにしている最近の活動状況は、以下のようなものである。
イ英霊顕彰の事業-靖国神社国家護持の推進、各種英霊顕彰事業の実施
ロ戦没者遺族の福祉増進に関する事業(戦没者遺族に支給されている恩給等の増額をは
じめ、国家処遇の改善を図るとともに、本会が各支部を通じて行う遺族援護の強化対策事
業、老人福祉対策事業などを行う)。
ハ遺骨収集事業-海外における遺骨収集事業について、政府の行う事業に対して、民間
団体として団員を派遣して協力している。
ニ戦跡巡拝の実施-本会主催により外地戦域において、戦没された英霊の慰霊巡拝事業
ホ機関紙の発行-本会の機関紙である日本遺族通信を毎月発行している。昭和五五年三
月の発行部数は、約一八万部である。
へ奨学資金、福祉基金の貸付-本会資金によつて、戦没者遺児に対する奨学資金の貸付
及び遺族に対する福祉基金の貸付を行つている(奨学資金については遺児の在学者がなく
なり、現在の貸付はない)。
ト婦人部活動-約四〇万人の戦没者の妻による婦人部が結成されており、活動を続けて
いる。
チ青年部活動-戦没者遺児による青年部が結成されており、登録制度により部費徴収し
て独自の活動を続けている。昭和五五年三月現在の登録者は、七万二〇〇〇人である。
リ九段会館の経営-九段会館を経営し、遺族の利用に供するとともに、その事業収益に
よつて、遺族の福祉増進をはかつている。
ヌその他関連事業
(3)なお、日本遺族会の昭和五七、五八年度の会計の種類及びその収支決算状況の概
要は、以下のとおりである。
日本遺族会の右両年度の会計は、一般会計、処遇改善特別会計、奨学金等特別会計、青壮
年部特別会計、福祉事業特別会計、創立三五周年記念事業特別会計(これは昭和五八年度
はない、戦没者遺児記念館調査特別会計に分かれているところ、右一般会計の歳入は、。)
主として、支部寄付金と基本財産の利子収入及び九段会館特別会計からの繰入れからなつ
ており、その歳入金額は、昭和五七年度で約一億七一〇〇万円、昭和五八年度で一億一五
〇〇万円であつて、そのうち、いわゆる英霊顕彰の費用(戦没者追悼式関係費用及び外地
戦跡巡拝費用を含む)としては、歳出中の事業費の中から、昭和五七年度で、。
四一三万六八二一円(うち祭祀費は一八万九〇〇〇円、昭和五八年度で三八七万一一五)

円(うち祭祀費は一六万円)が支出されている。もつとも、後記のように「英霊にこた、

る会」は、実質的に日本遺族会と一体となつて英霊顕彰活動を行つている組織であるとこ
ろ、右両年度とも、処遇改善特別会計から「英霊にこたえる会」分担金として各一〇〇万
円が支出されている。
このようにみると、英霊の顕彰ということ自体の費用としては、歳出に占める割合が少な
いが、ただ靖国神社国家護持、公式参拝等の運動に関する経費は、これら英霊顕彰の費用
としてではなく、むしろ日本遺族会の日常の活動の費用すなわち一般会計中の事務費、会
議費組織対策費研修費等あるいは処遇改善特別会計中の陳情費会議費渉外費等英、、、、(「
霊にこたえる会」の分担金が処遇改善特別会計に含まれていることからすれば、靖国神社
国家護持、公式参拝関係の運動費も右会計で処理されている可能性が大きい)として計。
上、
処理されているとみられるが、その具体的な金額は確定しがたい。なお前記のように、日
本遺族会の機関紙である遺族通信なども、最近ではもつぱら靖国神社公式参拝等に関する
記事が多いが、右遺族通信の発行、配布費用等は福祉事業特別会計から支出されており、
右福祉事業会計は、必ずしも文字通りの福祉事業に関する支出のみではない。
(4)日本遺族会は、毎年、政府の予算編成に際し、戦没者遺族の処遇改善に関する要
望書を提出しているが、その昭和五六年度から昭和五九年度の要望書によれば、最近の右
、、、、、、、要望事項の大綱は1公務扶助料遺族年金の増額2特別弔慰金の継続・増額3
遺族処遇の不合理是正及び福祉対策の強化、4、戦没者遺児記念館(仮称)建設の促進、
5、遺骨収集、戦跡慰霊巡拝事業の拡充強化並びに慰霊碑の建立、6、全国戦没者追悼式
国費参加者の増員等が挙げられている。また、そのほかの日本遺族会の最近の運動として
、、、、は恩給受給資格の拡大原爆被害者一般被災者らの処遇改善問題への取り組みのほか
中国残留孤児への援助も行い、また、日本遺族会が主体となつての戦争資料館(平和祈念
総合センター)建設構想なども打ち出されている。
(四)日本遺族会の英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業甲第二四八号証、第四九二号証
の一、乙第八一、第九八号証によれば、
日本遺族会の英霊顕彰事業並びに慰霊に関する事業の具体的内容の概要は、以下のとおり
であることが認められる。
(一)日本遺族会の英霊顕彰事業の概要
日本遺族会の英霊顕彰事業の内容は、昭和三七年ころまでは、靖国神社の春秋の大祭、臨
時大祭等に奉仕をすること、その各都道府県支部において、それぞれ護国神社において、
毎年慰霊祭を執行し、また、遺族団及び遺児の靖国神社参拝の世話をすることなどが中心
であつたが、昭和四六年ころからは、そもそも英霊の顕彰の意義は「1、国家存立の基、

、、、、、たる道義確立をめざす2英霊にこたえ真の平和国家の実現と世界平和をめざす3
民族の歴史、伝統を重んじ民族本来の精神の覚醒をめざす」ことにあるとされ、その具体
的内容としては、靖国神社国家護持の推進、護国神社・慰霊塔・旧陸海軍墓地などの維持

奉賛、各種慰霊行事の奉賛、外地遺骨収集の完成実施(政府事業への協力)及び慰霊塔の
建立の推進、靖国神社団体参拝・戦跡巡拝の実施、戦没者の遺影・遺品などの収集、遺書
などの記録保管と公開、戦没者叙勲の完全実施「戦没者慰霊の日」制定運動等が挙げら、
れ、
それが英霊の顕彰事業の内容としてほぼ定着したとみられる。なお、のちに右「戦没者慰
霊の日」は「英霊の日」となり、また昭和五一年ころ以降は、英霊顕彰事業の内容とし、
て、
「英霊にこたえる会」とともに、靖国神社に対する閣僚らの公式参拝実現をめざすことも
これに付け加わつている。
(2)日本遺族会の慰霊に関する事業
前記のように、日本遺族会は、靖国神社の春秋の大祭、臨時大祭に奉賛等するほか、戦争
終結後二〇周年あるいは三〇周年等のときには、靖国神社において、その主催で慰霊祭を
挙行しているが、右二〇周年のとき(昭和四〇年一〇月)の祭式は、修祓の後、海山の幸
、、、を神前に献じ斎主である靖国神社宮司の祝詞奏上日本遺族会会長の祭文奏上が行われ
次いで来賓が玉串を奉奠し、遺族代表らを含む参列者が昇殿参拝するというものであり、
また、三〇周年のとき(昭和五〇年一一月)の祭式は、日本遺族会会長が祭文を奏上、特
別奉迎者の昇殿と右会長の玉串奉奠にあわせて拝礼、続いて各都道府県の遺族代表の昇殿
参拝という形であつた。
(五)日本遺族会と靖国神社との関係
甲第六〇号証(原本、第八五、第一〇九号証、第一三三ないし第一三五号証(いずれも)

論の全趣旨、第一四九、)
第一六九、第二二九号証、乙第九八、第一〇一号証及び証人Jの証言を総合すれば、以下
の事実が認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。
(1)前記のように、日本遺族会の前身である遺族連盟は、昭和二二年一一月発足した
ものであるが、その結成にあたつては、当時靖国神社の嘱託であつたMが各地方を巡歴し
て、遺族の組織結成の勧奨をし、また、同人は、同月一七日の遺族連盟の創立総会にも出
席して、参加者に静岡県遺族会長N(元貴族員議員)を紹介するなどし、結局、右Nが、
初代の連盟の理事長になつた。また、昭和二八年の日本遺族会の発足当時の一二名の理事
の中に、靖国神社の初代代表役員である宮司(宮司は靖国神社の最高責任者であり、規則
で代表役員が宮司になるとされている)のOが入つており、逆に、靖国神社が、前記の。

うに、戦後法人組織になつてからの最初の責任役員(当時四名)のうちの一人が、遺族連
盟の理事であるP(のちに日本遺族会副会長となる)であり、その後も、日本遺族会の。

、、、代の会長は大体靖国神社の責任役員に就任するなど日本遺族会はその発足の当初から
靖国神社と密接な関係を保ち、日本遺族会の前身である遺族連盟は、昭和二七年一一月、
その第四回大会で、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することを決議し、政府と国会に要
望書を提出し、これが靖国神社国家護持運動の出発点となつた。
(2)日本遺族会の発足後、靖国神社の支援、協力組織として、昭和二八年一一月に靖
国神社奉賛会が発足し、その常務理事には、日本遺族会の初代会長であるQが就任し、ま
た全国四七都道府県の各遺族会会長は、自動的に右奉賛会の理事となることとされたが、
右奉賛会が実質的にどこまで活動したかは明らかでない。その後、昭和三一年ころから、
日本遺族会では、靖国神社法案の草案の検討を開始するとともに毎年、全国戦没者遺族大
会等で、靖国神社の国家護持に関する決議を繰り返し、その署名運動などをしていたが、
昭和三八年には、その内部に「靖国神社国家護持に関する委員会」を設置し、その調査研
、、、「」、究の結果を発表しさらに昭和三九年靖国神社国家護持に関する調査会を設置し
そこで作成された「靖国神社国家護持に関する調査会報告書」に基づき、遺家族議員協議
会のR議員を通じて、衆議院法制局に靖国神社法案の要綱作戊を依頼し、
昭和四一年五月、三浦衆議院法制局長の私案の形で「戦没者等顕彰事業団(仮称)法案、

綱」を得たが、右要綱は、靖国神社の宗教色を排除する趣旨のものであつたため、日本遺
族会や靖国神社側からの強い不満の声が挙がり、最終的には、当時のS自民党政調会長の
私案という形で、その一条を「靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対す、

国民の尊崇の念を表わすため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式
行事等を行ない、もつてその偉業を永遠に伝えることを目的とする」とする法案がまと。

り、昭和四四年六月、第六一国会に靖国神社法案として提出された。
(3)前記の靖国神社法案は、国会に提出されたものの、結局、廃案となり、その後、
、、、、右法案は昭和四五年以降昭和四九年まで毎年提出されたが可決されるに至らずまた
客観的な諸情勢からも、右法律の成立がただちには期待できない状況にあつたことなどか
ら、日本遺族会では、昭和五〇年の理事会で、靖国神社問題が一般国民からやや浮き上が
つた感じを与えていることは否めない事実であるとの情勢分析に立つた上で、基本的には
靖国神社国家護持の基本目的を堅持し、靖国神社法の成立を目標としながらも、あわせて
段階的前進についても考慮し、諸般の情勢に鑑み、新たに全国民的な英霊顕彰組織の結成
を推進し、国民的運動の展開を期するとの運動方針を審議・決定し、右新組織は、同年中
、、、に発足させることを目標としそのための実行委員会を設置し関係団体等とも協議して
具体案の策定にあたることになつた。
(4)このように日本遺族会が中心となり、その他靖国神社国家護持を目指す諸団体も
そこに結集して、昭和五一年六月二二日「英霊にこたえる会」の結成大会が開かれた。、

会の会則によれば、その事業目的は「一、英霊顕彰及び英霊にこたえる各種啓蒙宣伝活、
動、
二、靖国神社等における戦没者の慰霊顕彰行事、三、靖国神社における公式参拝の実現、
四「英霊の日」制定運動、五、戦没者遺骨収集に対する積極的協力、六、その他本会の、

的達成のため必要な事業」とされている。なお「英霊にこたえる会」中央本部の副会長、
は、
日本遺族会副会長のJであり、また、市遺族会の会長であり府遺族会の評議員でもあるT
は「英霊にこたえる会」大阪府本部の理事であつて「英霊にこたえる会」の中央本部、、

事務局の住所は、
、、東京都千代田区<地名略>の日本遺族会気付けでありまたその地方本部の住所も大半は
各都道府県の遺族会の事務局の住所と同一である。また、日本遺族会の昭和五六年度の事
業計画の筆頭には、靖国神社の国家護持の推進が掲げられているが、その具体的な運動と
しては「1、靖国神社国家護持の方途を研究する。2、八月一五日を目途に公式参拝実、

のなめ英霊にこたえる会とともに全国的規模の運動を実施する。3、公式参拝実現のため
地方議会の請願決議の促進を徹底する。4、英霊の日実現のための運動を推進する。5、
その他英霊顕彰のための施策を企画実施する」とされており「英霊にこたえる会」と。、

協力関係がうたわれている。
3市遺族会の性格、活動状況等
(一)市遺族会の組織
市遺族会が、箕面市内に居住する戦没者遺族を会員として組織された団体であり、市の区
域を<地名略>、<地名略>、<地名略>及び<地名略>の四地区に分けて、各地区毎に
支部を設置していることは当事者間に争いがなく、甲第七〇号証及び弁論の全趣旨によれ
ば、その設立時期は、昭和二七年ころであり、また、その現在の会員数は、約五〇〇名で
あることが認められる。
(二)市遺族会の目的
1甲第六七号証に弁論の全趣旨を総合すれば昭和五一年当時の市遺族会の会則甲()、(
第六七号証)には、同会の目的は「会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福、

向上に資するをもつて目的とする(同会則三条)ことにあり、右目的を達成するため。」

事業活動として「1、遺族の実態調査、2、生活、職業その他厚生福祉に関する研究指、
導、
、、、、、、、3講習会講演会慰安会等の開催4関係当局に対する意見具申及び情報提供5
靖国神社参拝に関する事項、6、その他必要な事項(同会則四条)が挙げられているこ」

が認められる。
(2)もつとも乙第四八号証の一(弁論の全趣旨)によれば、市遺族会の会則(乙第四
八号証の一)には、前記四条の事業活動の5項が、前記(1)の「靖国神社参拝に関する
事項」ではなく「上京旅行に関する事項」となつており、また、二七条の二の規定が、、

()()、「()記1の会則甲第六七号証では書記は社会課抹消のうえに福祉事務所と記載
職員中から会長が委嘱する」となつているのに対し「書記は会長が指名する」となつ、。

いるものがあることが認められるが、甲第二〇、第三三、第三四、第四二号証によれば、
少なくとも昭和五〇年一二月ころまでは、市遺族会から各評議員宛の右旅行に関する案内
文書は「靖国神社参拝について」という表題になつており、市遺族会の役員会の開催通、

書、報告書等でも同様の表現が使われていたことが認められるうえ、右の二つの会則中の
相違点は、いずれも本件訴訟でその違法性が問題とされている事項に関するものであるこ
となどからすれば、後者の会則(乙第四八号証の一)は、本訴提起後に一部改正がなされ
、、、た後のものと推認され結局本件各行為の行われた昭和五一年当時の市遺族会の会則は
前記(1)の会則(甲第六七号証)であると認めるのが相当である。
(三)市遺族会の事業、活動の実態
、(、、、、、、甲第一第四号証いずれも弁論の全趣旨一第一六第一八第二〇第二七第二九
第三三、第三四、第四〇号証、第四二ないし第四四号証、第六〇、第六二号証(いずれも
原本、第六九号証、第一三八、第一三九号証(いずれも弁論の全趣旨、乙第二六号証))
(原
)、、、、()、本第七六第七七号証の各一ないし三第七八第七九号証いずれも弁論の全趣旨
第八三号証の一ないし二二(第八三号証の一〇ないし一二、一五、一七ないし二二につい
ては弁論の全趣旨、第九二号証、第一一二号証(弁論の全趣旨、第一二七号証(原本)))
及び証人U、同Hの各証言を総合すれば、以下の事実が認められる。
(1)市遺族会の年間の主要な行事、事業活動等
昭和五一年度の市遺族会の総会資料(乙第九二号証)に示された、同年度の市遺族会の事
業活動計画案は「市内各地区慰霊祭参列、箕面市戦没者遺族会理事会、箕面市戦没者遺、

会総会、大阪府遺族会主催による春季遺族上京旅行参加、大阪府主催による戦没者追悼式
典参列、全国戦没者追悼式典参列、大阪護国神社秋季大祭参加、大阪府遺族会主催による
秋季遺族上京旅行参加、箕面市主催による戦没者追悼式典参列、戦没者遺家族に対する年
末慰問品配布、箕面市戦没者遺族会靖国神社参拝旅行」となつており、これらは、同総会
資料に記載されている昭和五〇年度の市遺族会の事業活動報告と全く同一であつて、これ
らに国あるいは大阪府主催の戦跡巡拝への参加や、大阪護国神社の春季大祭参加、また、
四天王寺の英霊堂での慰霊行事に協賛(なお、その「英霊お盆大祭」は、府遺族会が四天
王寺と共催、さらに市遺族会青年部による靖国神社参拝研修等を加えたものが、)
市遺族会の昭和五一年当時の主要な年間行事であつた。なお、右「市内各地区慰霊祭」と
は、前記市遺族会の四地区でそれぞれ行われる慰霊祭(<地名略>地区のものが、本件忠
魂碑前での慰霊祭)であり、形式上は、各地区遺族会が主催し、市遺族会(の本部)は、
これに参列するという形になつているが、右各地区は、市遺族会の内部組織にすぎず、そ
れも市遺族会自体の主催とみざるを得ないことは後記のとおりである。また「大阪府遺、

会主催による春季遺族上京旅行」とは、千鳥が淵戦没者墓苑の参拝等を主たる目的とする
ものである。
右のような行事のほかの市遺族会の日常的な事業活動としては、右各慰霊祭や大阪護国神
社の大祭並びに右各旅行の案内、参加者のとりまとめ、国、府等主催の戦没者追悼式典及
び戦跡巡拝についての、参加の案内及びその出席者の銓衡、とりまとめ、府による各遺族
への年末慰問品や、大阪護国神社の神社暦の配布の手伝い、戦没者遺族実態調査表(府)
の配布の手伝い等や、本件忠魂碑の維持、管理があり、ほかに、遺族援護等に関する法律
の改正があつたときには遺族会の会議でその周知徹底を図ることも行われていた。
(2)市遺族会の歳出状況
次に、市遺族会の歳出面から、その事業活動を検討すると、本件補助金が交付された昭和
五一年度の歳入歳出決算報告書乙第一二七号証及び同年度の市遺族会の金銭出納帳乙()(
第七六号証の一ないし三一によれば、同年度の市遺族会の歳入・歳出状況の内訳は、別紙
市遺族会会計状況一覧表の原告主張欄記載のとおりであり、その決算状況は、ほぼ同一覧
表の被告主張欄記載のとおり(なお、右決算報告書では、歳出中の雑費が、二万五〇九〇
円となつているが、右は、右一覧表の被告主張欄記載のとおり、三万五〇九〇円であると
認められる)であつて、右両者の対応関係は、同一覧表の「両者主張の対比」欄記載の。

おりであるが、右歳出の概要を摘記すれば、以下のとおりである。
(1)活動費二〇万五二二二円
イ会議費一九万一三八二円
総会、理事会、評議員会の費用である。なお、昭和五一年度の総会は、奈良若草山でする
などしたため、実質的には懇親会的な費用が含まれていると思われる。なお、会則二一条
に、総会及び臨時総会は評議員会をもつてこれにあてるとの規定があり、
総会とはいつても実質は評議員会である。
ロ旅費一万三八四〇円
具体的な明細は不明である。
(2)事業費七二万七九九六円
イ神社仏閣参拝費三五万九二四二円
秋季慰安旅行(府遺族会の主催と思われる)の負担金及び靖国神社参拝旅行の費用であ。
る。
ロ負担金一万八〇〇〇円
府遺族会分担金、市社会福祉協議会年会費及び四天王寺の英霊堂護持会費である。
ハ弔費六万二一〇〇円
死亡遺族の香料代及び各地区慰霊祭の供花料・樒代である。
ニ青年部活動費二万九六四円
日本遺族会青年部会費、青年部壮行費及び青年部会議費である。
ホ地区活動費一八万二六〇〇円
市内四地区の活動費として各地区に交付される分である。
へ青年部靖国神社参拝研修費五万円
具体的な内容は不明である。
ト雑費三万五〇九〇円
大阪護国神社春秋例大祭神饌科、護国神社暦初穂料、日本遺族政治連盟入会金、府遺族会
ブロツク会議費用、事務用品費及び広告科である。
(3)基金会計へ戻入れ五万円
基金会計については後記のとおり
(4)次年度繰越一一万二九八六円
(5)以上の歳出合計一〇九万六二〇四円
ちなみに同年度の歳入の概要を摘記すれば、次のとおりである。
(1)会費三三万九〇〇円
会員からの会費収入である。
(2)市からの補助金四四万五〇〇〇円
本件補助金である。
(3)市社会福祉協議会からの補助金及び助成金九万五〇〇〇円
(4)利益配分金三万二六三六円
府遺族会の経営する住之江会館の利益配分金である。
(5)雑収入七万五八九四円
寄付金、お供え収入、篤志献金、府遺族会からの旅費支給、
旅行費還元、利息収入、銀行預金利息等である。
(6)基金会計から繰入れ五万円
基金会計については後記のとおり
(7)繰越金六万六七七四円
前年度繰越金である。
(8)以上の歳入合計一〇九万六二〇四円
なお、右「基金会計」なるものの性格、それを設けた趣旨を明らかにする証拠はないが、
前記金銭出納帳に「基金会計から繰入れ(靖国参拝」等と記されていることなどからす)

ば、市遺族会に対する会員等からの寄付金を一時そのような名称の基金としてプールして
おき、必要に応じて、それを市遺族会の会計ことに靖国神社参拝関係の費用等に補填する
こととして、会計処理に柔軟性を持たせようとしたのではないかと考えられるが、客観的
にこれを明らかにする資料は見当たらない。
また、本件慰霊祭関係の費用は、上記歳出中の地区活動費一八万二六〇〇円中の箕面地区
への配分金七万九六〇〇円(その算出根拠は、会員数二九八人×二〇〇円十二万円)から
支出されている。
(四)本件忠魂碑について
前記(三)認定のように、市遺族会は、本件忠魂碑前で慰霊祭を挙行(碑前慰霊祭)して
、、、、、いるほか日常同碑を維持管理しているので市遺族会の性格を判断する前提として
本件忠魂碑の歴史及びその現況について以下に検討する。
(1)本件忠魂碑の歴史
、()、()、甲第一六ないし第一八号証第六〇号証原本乙第二ないし第四号証いずれも原本
第三四ないし第三六号証、第五二号証(原本)によれば、以下の事実が認められ、この認
定を左右するに足る証拠はない。
()、、()、1旧忠魂碑は大正五年四月ころ帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会分会が
西南戦争、日清、日露戦争の戦没者を追悼するため、建てたものであり、その敷地は、分
会が、箕面村に対し、当時、村役場敷地内の不用地であつた大阪府豊能郡<地名略>(一
)、、、反三畝一〇歩のうち四九坪の無償貸与を申入れ村において村議会の議決を経たうえ
右土地を無償かつ無期限で貸付けたものである。
(2)敗戦後、後記のような神道指令及びそれを受けた「公葬等について」及び「忠霊
、」、、、塔忠魂碑等の措置についての通牒が出されそれに伴い旧忠魂碑は昭和二二年三月
その碑石部分だけがとりはずされて、
忠魂碑の前の敷地部分に埋められ、基台部分は、そのままの状態で放置された。右撤去費
用を負担したのは箕面村であつたようである。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、占領軍が
箕面村から引き揚げを始めた後の昭和二六年五、六月ころ、右碑石は、掘り出され、旧忠
魂碑が元通り再建された。右再建の主体は必ずしも明らかでない。
(3)その後、区遺族会の会員が旧忠魂碑を清掃管理し、市遺族会の支部たる区遺族会
が昭和三〇年ころから右碑前で、慰霊祭を原則として年一回開催していたが、旧忠魂碑の
建つていた役場用地は、それに隣接する箕面小学校の児童数の増加により、これを学校用
地に編入する必要に迫られたため、箕面市は、昭和五〇年一月ころから分会の旧忠魂碑の
所有権及びその敷地利用権を承継取得しなとみられる市遺族会を相手に忠魂碑の移転につ
、、、、、いて折衝しその結果同年五月二一日市遺族会との間で旧忠魂碑を現状有姿のまま
かつ碑前で慰霊祭を行うにつき必要な広さを確保するなどの条件で、本件土地の南隅に移
、、()。設する合意をし同年一二月二〇日旧忠魂碑を右土地に移設・再建した本件忠魂碑
なお、本件忠魂碑の移設・再建工事を請負つた不動建設株式会社は、移設工事前に旧忠魂
碑の前で、移設・再建工事後に本件忠魂碑の前で、それぞれ神官を呼び、玉串奉奠等の儀
式を伴う神式の祭儀を行い、その費用を負担したが、その際、市遺族会の側では、その儀
式を旧忠魂碑の前でのものを移築報告祭あるいは脱魂式と、また本件忠魂碑前でのものを
移築竣工祭あるいは入魂式と呼んだ。もつとも、右脱魂式、入魂式というのは、本来は、
仏教用語であり、仏像の清掃、仏壇の移動等の際用いられる言葉である。
(2)本件忠魂碑の現況
甲第六一、第六二号証(いずれも原本、第九七号証の一、二、本件忠魂碑付近を昭和五)

年四月五日に元原告Vが撮影した写真である検甲第一ないし第三号証(撮影者、撮影年月
日は弁論の全趣旨、本件忠魂碑付近を昭和五二年四月五日に元原告Vが撮影した写真で)

る検甲第八号証(同、本件忠魂碑前での慰霊祭の状況を昭和五七年八月一五日に元原告)

が撮影した写真である検甲第一六号証(弁論の全趣旨、本件忠魂碑内の丸杉板の状況を)

和六〇年九月二五日に被告代理人Wが撮影した写真である検乙第二一号証の一ないし七
(同)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(1)本件忠魂碑は、二重の石積の基台の上に、台石を配し、その上に高さ約二・五メ
ートルの碑石が安置されており、地上から碑石最高部までの高さは約六・三メートルであ
る。また、その周囲は、切石積で囲まれ、正面と両側面の一部には御影石の玉垣が巡らさ
れており、右切石積の囲い内部には、かいずかいぶき、松等の喬木やサツキ等のかん木が
随所に植えられ白砂利が敷き詰められているなお本件忠魂碑の碑石の表面には忠、。、、「
魂碑」と刻されているが、右題字の揮毫者は、在郷軍人会の当時の副会長であり陸軍大将
であつたXである。
(2)昭和四一年ころ、当時の市遺族会の会長であつたYは、旧忠魂碑に、市遺族会の
各地区で保管していた戦没者の過去帳から戦没者の氏名を丸杉板及び「霊爾」と印された
本柱に移記し、これらを本件忠魂碑の基礎台中に納めたが、納めるに際し、特に儀式等は
行わず、そのせいもあつて、遺族会の会員の中でも、右の丸杉板や「霊爾」の存在を知る
ものは少なかつた。なお、右の丸杉板や「霊爾」が納められた経過は必ずしも明らかでな
いが、右Yが、沖縄の「浪花の塔」に戦没者の名前を紙に書いて納めてあるのを参考にし
たものである。
(五)本件慰霊祭及び碑前慰霊祭について
前記(三)認定のとおり、市遺族会は、本件忠魂碑前で、毎年、慰霊祭(碑前慰霊祭)を
挙行していることが明らかである。
(1)碑前慰霊祭の主催者
被告は、右慰霊祭は箕面地区遺族会(区遺族会)の主催であり、市遺族会の主催ではない
と主張するが、前掲甲第六七号証によれば、市遺族会の会則上、同会は「本会は箕面市、

居住する戦没者遺族をもつて会員とする(五条)として、箕面市全域に居住する戦没。」

、、「(、、、)遺族を会員としておりまた右会則上本会は各地区毎箕面萱野豊川止々呂美
に支部を組織する」と規定して、区遺族会が、市遺族会の一支部であることを明記して。

ることが認められること、区遺族会を含も各地区遺族会において、市遺族会の右会則のほ
かに、独自の会則、規約等を有しているとは認められないこと、さらに、乙第七七号証の
二によれば、区遺族会の昭和五一年度の金銭出納帳に記載されている区遺族会の昭和五一
年度の金銭の収支は、同年四月五日に行われた本件慰霊祭に関する金銭の収支のみである
ことが認められ、
それ以外には区遺族会として独自の活動を行つている形跡は全く窺われないことなどから
、、。、すれば区遺族会は単に市遺族会の一支部組織であることは明らかであるそうすると
現実に本件慰霊祭及び碑前慰霊祭の実行の中心となつたのは区遺族会であつたとしても、
、、それは市遺族会の支部の活動とみられるのであるからその正式な主催団体・挙行主体は
市遺族会であるとみるほかはない。
(2)碑前慰霊祭の沿革等
乙第四、第五二、第七五号証(いずれも原本)によれば、旧忠魂碑の建立以後、分会は、
右忠魂碑の前で、昭和一四、一五年ころまで、毎年、慰霊祭(大正一三年ころ以降は、神
式、仏式隔年交替であつたようであるが、それ以前の形式は定かではない)を挙行して。

たが、その後は戦争が激しくなつて慰霊祭は中断されたこと、また、前記(四)の(1)
の(2)のとおり、同碑は、敗戦後、一度地中に埋められ、昭和二六年ころ復旧されたも
のであるが(本件忠魂碑、その後昭和三〇年ころから再び、右碑の前で慰霊祭が行われ)

、、、、ようになり右慰霊祭は当初はずつと仏式で行われていたものののちに戦前と同じく
隔年で神式、仏式交替で行われるようになつたことが認められる。
(3)本件慰霊祭及び碑前慰霊祭の祭式
甲第二五、第二六号証(いずれも弁論の全趣旨、第六二号証(原本、乙第七五号証(原))
本、本件忠魂碑及びその周辺を昭和五一年四月五日に元原告Vが撮影した写真である検)

第一ないし五号証(撮影者、撮影年月日は弁論の全趣旨)及び証人U、同Zの各証言を総
合すれば、本件慰霊祭の祭式(神式)及びその前後の年に行われた碑前慰霊祭の祭式(仏
式)は、以下のようなものと認められる。
(1)神式の場合(本件慰霊祭)
神主は、阿比太神社からくる。
〔式次第〕
開会の辞
修祓の儀
降神の儀
献饌
祝詞奏上-斎主(神職)
慰霊の詞-市遺族会会長(今日の故国の平和と繁栄は、身をもつて国難に殉ぜられたあ「

た方の尊い命の礎の上に築かれていることを~」という内容のもの)。
追悼の辞-箕面市長、箕面市議会議長
玉串奉奠
撤饌
昇神の儀
謝辞-市遺族会長(この忠魂碑を守り、祭祀を怠りなくやつていき、これに合紀されて「

る二九八柱の英霊の顕彰をする事業をますます盛んに~」という内容のもの。)
閉会の辞-箕面地区遺族会長(支部長(この忠魂碑を守神として祭祀を怠りなくいた)「

覚悟。この忠魂碑を守り、来年もこの立派な忠魂碑を拝み、皆様の御協力を得て盛大に忠
魂碑前で慰霊祭~」という内容のもの)
〔会場設営の状況〕
本件忠魂碑正面の玉垣の内側に設けられた机の上の中央部に神籬(ヒモロギー切紙をつけ
た榊を立てた木製のやぐらで、神が降下して宿る所を意味する)が立てられ、その少し。

の段の白布に覆われた机(机は二段になつている)の上には祭壇が設けられ、その上に。

それぞれ神酒、餅、果物等の神饌が盛られた七基の三方が置かれた。玉垣の外側には、左
右に一脚ずつ白布をかぶせた長机が置かれ、それぞれその上に数十本の玉串(榊の小枝に
切紙をつけかもの)が載せられた。そして祭壇に向かつて左右それぞれに参列者用の椅子
が並べられた。
(2)仏式の場合(昭和五二年度等)
開式の辞
黙祷
表白-導師の立場から、追悼法要の趣旨を明らかにする(ここに忠魂のために慰霊法要「

執り行う。国の鎮めの礎となり、そして平和と繁栄を招来した御身らの尊い御行事は、大
乗ぼさつの悲願にも似て我らの永えに忘れ得ない勲である。~」という内容のもの。)
読経-曹洞宗、浄土宗、浄土真宗の寺院の僧侶が出席し、まず、三部経(1阿弥陀如来の
、、)入場をお願いする2釈迦如来の入場3常住諸仏の入場をお願いするという内容のお経
を読経し、その後に阿弥陀経を読経して、念仏、回向する。
焼香-香を焚いてその煙りで仏に供養する。
慰霊・追悼の辞等
閉式の辞
4国家神道の歴史と靖国神社の性格並びにそれらと忠魂碑及び忠魂碑前での慰霊祭との
関係等
原告らは、日本遺族会は、靖国神社の教義を信奉し、その信仰の共通性によつて成り立つ
ている靖国神社の信徒団体であるところ、右靖国神社の教義とは、今日も残存している宗
教としての国家神道であること、なお、市遺族会の維持、管理している忠魂碑は「村の、

国」としての性格を持つ国家神道の宗教施設であり、その碑前での慰霊祭も、靖国神社の
祭祀と同根同質のものである旨主張するので、以下、まず国家神道の歴史と靖国神社の性
格並びにそれらと忠魂碑及び忠魂碑前での慰霊祭との関係等を検討する。
(一)国家神道の歴史と性格及び戦後の状況
甲第八五、第一六八、第二二九、第二五六、第三四一、第三四二、第三六三、第四四八、
第四五二、
第四六〇、第四六二、第四六九、第四七〇、第四九三号証にわが国の歴史上顕著な事実を
総合すれば、以下の事実が認められる(なお、議論の混乱を避けるため、一般に広く国家
神道と呼ばれているもののうち、神社神道から祭祀の面のみを切り離し、それを国家祭祀
として国教化し、それに伴い神社界を公権力的に編成して、神社に対する国家的庇護を行
「」、、、つていたという面を制度的国家神道と呼びその背景となりまたそれを支えていた
天皇の神聖絶対性を主軸とする、宗教と政治的イデオロギーの入り混じつた思想、観念を
「実質的国家神道」と呼ぶ。なお、単に「国家神道」というときは、その両者を含めた概
念として用いる。。)
(1)制度的国家神道体制
明治元年、新政府は、祭政一致を布告し、神祗官を再興し、全国の神社・神職を新政府の
直接支配下に組み入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連のいわゆる神仏判然令を
もつて神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、仏教に打撃を与え、他方、キリスト教に
対しては、幕府の方針をはとんどそのまま受け継ぎ、これを禁圧した。明治三年、大教宣
布の詔によつて神惟の道が宣布され、明治五年、教部省は、教導職に対し三条の教則(第
一条敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事第二条天理人道ヲ明ニスベキ事第三条皇上ヲ奉
戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事)を達し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思」

の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。また、明治四年、政府は、神社は
()、、国家の宗紀であり一人一家の私有にすべきでないとし太政官布告第二三四号さらに
「官社以下定額及神官職員規則等(太政官布告第二三五号)により、伊勢神宮を別とし」
て、
神社を官社(官幣社、国幣社、諸社(府社、藩社、県社、郷社)に分ける社格制度を定)
め、
神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。明治八年、政府
は、神仏各宗合同の布教を差し止め、各自布教するよう達し、神仏各宗に信仰の自由を容
認する旨を口達しながら、明治一五年、神官の教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないもの
とする旨の達(内務省乙第七号、丁第一号)を発し、神社神道を祭祀に専念させることに
よつて宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する制度的国家神道体制を固め
た。明治二二年、帝国憲法が発布され、その二八条は信教の自由を保障していたものの、
その保障は、
「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限二於テ」という制限を伴つていたばか
りでなく、法制上は、国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、
右のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした制度的国家神道の
体制が確立しており、神社を崇敬奉戴すべきは国民の義務であるとされ、神社参拝等が事
実上強制されていたために、信教の自由は著しく侵害され、極めて不完全なものであるこ
とを免れなかつた。さらに、明治三九年法律第二四号「官国幣社経費ニ関スル法律」によ
り、官国幣社の経費を国庫の負担とすることが、また同年勅令第九六号「府県社以下神社
ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」により、府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の
負担とすることが定められ、ここに神社は国または地方公共団体と財政的にも完全に結び
付くに至つた。このようにして、昭和二〇年の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的
地位を保持した。その間に、大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団など
は、厳しい取締、禁圧を受け、その信者の中には、その信条のゆえに死を余儀なくされる
人々も出た。
(2)このように政府は、神社神道を、実体は宗教でありながら、国家の祭祀であると
、、、して宗教ではないとの態度をとり続け国民に対する制度的国家神道の強制を合理化し
正当化したものであるが、それが可能となつた背景には、日本では、国土、人種、言語の
自然形成的な統一が早くから成立しており、また、近代以前には、生産力の飛躍的な発展
がなく、これを反映して、変革の各時期に権力の交代が不徹底であり、重層的に旧権力が
温存されて、宗教的権威としての天皇制が存続し続けたこと等のほか、以下のような、制
度的国家神道の主体をなす神社神道の宗教としての特異な性格があつたことが挙げられ
る。
すなわち、神社神道は、基本的に、日本の原始社会で成立した原始神道の性格をそのまま
受け継いでいるものであるところ、原始神道は、稲作りのための農耕儀礼である春の予祝
祭、秋の収穫祭等、定時、臨時の祭りを主軸として発展したものであり、もともと教義と
呼ぶに足る観念的な体系のない原始的な宗教観念にすぎず、教義と呼ぶべき体系が現れる
のは、神道が仏教、儒教等の外来宗教の支配的な影響下に置かれてからであり、特に仏教
との習合は著しく、このような中で、神道は、
、、、宮中祭祀たる皇室神道等特定の立場に立つものを除いては観念の上でも儀礼の上でも
仏教、儒教等と完全に習合し、溶け合つていたものであり、このような神道の、仏教ある
いは儒教との親和性が、そのほとんどが仏教徒であり、また儒教に基づく徳目を道徳、倫
理観念の基本としていた当時の日本国民に違和感なく受け入れられる素因となつた。
(3)原始神道は、当初は、特定の建造物は建てられなかつたものの、その祭りが規模
を拡大し、複雑化するとともに、祭りのたびに仮屋が作られるようになり、やがて有力な
神のために恒久的な社殿が作られるようになり、その中に鏡や岩石等の自然物が神体とし
て置かれるようになつて、宗教施設としての神社の基本型が成立し、神社神道へと発展し
ていつたものであるところ、その神観念は、大陸及び南方系の稲の農耕儀礼を中心とする
、、、、神々と北アジア及び大陸系のシヤーマニズム系統の神々の複合であり自然神観念神
人格神、祖先神の各系列があつたが、古代天皇制国家の整備に伴い、記紀神話を中心とし
て神々が天神地祇に序列化され八百万神、八十万神群がつくられ、天皇の祖先神アマテラ
スオオミカミは、日本の最高神に高められていつた。平安中期には、のちに招魂社の発生
にも結び付く御霊信仰が生まれた。御霊とは、もともと人間の霊魂の美祢であるが、平安
中期には、地方政治の混乱と政争の激化に加えて自然災害や疾病が猛威をふるつたため、
これらの災厄を強い霊の崇りと畏怖して、御霊を祀り鎮める神事として御霊信仰が発生し
たものであり、とくにすぐれて個性的な働きをした人間や、正常でない死に方をした人間
の御霊は、死後も強い霊威をもつ神となつて、人間に働きかけると信じられていた。
(4)制度的国家神道は、基本的には神社神道を母胎とするものではあつたが、前記の
ように、神社神道自体、統一された明確な教義を持つていたわけではなく、また、その中
の祭祀のみを切り離したものが制度的国家神道であつたというその性格上、民族宗教とし
て発展してきた従来の神社神道とは異質な面があり、それはその祭祀面をみても、一種の
創唱宗教としての要素をも持つものである。すなわち、その祭祀は、宮中祭祀を中心に組
み立てられたものであるところ、その主要な内容と形式は、明治四一年の皇室祭祀令によ
つて確定したものであるが、
そのうち明治維新前から行われていた祭祀はごく少数であり、紀元節祭、神武天皇祭、天
長節祭、先帝以前三代の例祭等は、すべて新たに作り出された祭祀であり、これらは、天
皇の祖先の祭りと記紀神話に依拠する政治色の強い祭りであり、天皇崇拝を積極的に押し
出すために明治中期までに制定されていつたものである。そして、これら宮中の祭祀に従
い、国民の祝祭日が定められるとともに、伊勢神宮以下、一般の神社の祭祀も整備され、
全国の神社で、宮中祭紀に見合う儀礼が営まれるようになつていつた。
(5)制度的国家神道における祭祀が、必ずしも従来の神社神道と一致するものではな
く、創唱宗教としての面を持つたのと同様、制度的国家神道の背景となり、またそれを実
質的に支えた宗教観念(実質的国家神道)も、従来の神社神道と必ずしも一致するもので
はなく、一種の創唱宗教としての面を持つていた。すなわち、それは、基本的には前記の
ような伊勢神道や復古神道の教学に基づく面が多いが、それらにとどまるものではなく、
天皇を絶対的中心とする中央集権的国家体制の確立のための政治的・思想的イデオロギー
をもそこに織り交ぜ、民族宗教たる民間の神道とは異なる要素を強く持つていたものであ
り、その最も要となる宗教思想は、天皇は、惟神の道の創唱者であり、また皇祖神は最高
の絶対神であつて、その皇祖神の唯一の祭祀者であることによつて、天皇みずからも現人
神であるとする観念であり、その根拠は、記紀神話にあるとされた。
明治政府は、明治二二年二月一一日、帝国憲法を発布(翌明治二三年一一月二九日施行)
したが、その告文では「皇朕レ、謹ミ畏ミ、皇祖皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク。皇朕レ、天、

無窮ノ宏謹ニ循ヒ、惟神ノ賓祚ヲ承継シ、舊圖ヲ保持シテ、敢テ失墜スルコト無シ。顧ミ
ルニ、世局ノ進運ニ贋リ、人文ノ発達ニ随ヒ、宣ク皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ、典憲ヲ成
立シ、條章ヲ昭示シ、内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ、外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ、
永遠ニ遵行セシメ、益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ、八州民生ノ慶福ヲ増進スヘシ。茲ニ皇室
典範及憲法ヲ制定ス」として、帝国憲法を皇祖皇宗の神霊と一体化した天皇の宗教的権。

、、「」によつて絶対化するとともにその一条では大日本帝國ハ萬世一系の天皇之ヲ統治ス
と規定して皇統の万世一系を強調し、その三条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」、

して、
その神聖不可侵性を規定して、前記のような天皇の神性を法的に明確にした。また、明治
二三年に発布された教育勅語では「朕惟フニ、我力皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、、

ヲ樹ツルコト深厚ナリ、我力臣民、克ク忠ニ、克ク孝二、億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ
済セルハ、此レ我カ国体ノ精華ニシテ、教育の淵源亦実ニ此ニ存ス」として、臣民の忠孝
こそ国体の精華であり、教育の淵源も国体にあるとしたうえ、さらに「父母ニ孝ニ、兄弟
、、」、、ニ友ニ夫婦相和シ~と儒教的な徳目を列挙してこれを守り行うことを命じたのち
「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」として、戦争等の
非常事態にさいして、天皇制国家のためにすべてを捧げることを国民に命じ、孝を中心と
する国民道徳を、天皇への忠節を基本とする国家道徳に包含、拡大するとともに、これら
を守り実践することは「独り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕、

スルニ足ラン」として、儒教に基づく封建的忠誠の観念と、日本人の宗教的伝統に根差す
祖先崇拝との観念とを結合させ、実質的国家神道に基づく教育理念を公的に官萌した。
(6)なお、昭和一九年に神祇院が刊行した「神社本義」には、実質的国家神道の宗教
思想及びそれと各神社との関係が端的にまとめられており、その要旨は以下のようなもの
である「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇給うた国であつて、その神裔にあらせ。

れる万世一系の天皇が皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめ給う。これ万
邦無比の我が国体である。我が国にあつては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせら
れ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給い、国民はこの
仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉つて、
忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆるこ
となき国家の生命が、生々発展し続けている。これが我が国体の精華である。この万世易
ることなき尊厳無比なる国体に基づき、太古に肇まり無窮に通じ、中外に施して悖ること
なき道こそは、惟道の大道である。しかして惟神の大道が、最も荘厳にして尊貴なる姿と
して現れたものに神社がある。伊勢の神宮を始め奉り、各地に鎮まります神社は、尊厳な
る我が国体を顕現し、永久に皇国を鎮護せられているのである。。」
(7)このように実質的国家神道体制下においては、国家の主権者たる天皇が精神的権
威と政治的権力を一元的に保有しており、単なる法機構上のみならず、内容的価値(真善
美)の実体たるところに支配根拠を置き、そこでは、国家的社会的地位の価値基準はその
社会的機能よりも、天皇という絶対的価値体への距離の近さにあつた。そして、国家が国
、、、、体の名において倫理的実体として価値内容の独占的決定者であつた以上国法は学問
芸術、宗教等の精神領域にも自由に浸透しうろことになり、このような面でも、昭和二〇
()、、年の詔勅天皇の人間宣言で天皇の神性が否定され実質的国家神道が解体するまでは
真の意味の信教の自由は存在しえなかつた。また、国家の主権者たる天皇が、みずからの
うちに絶対的価値を体現している以上、道義は、こうした国体のうちにあり、国家活動は
常に大義であつて、軍隊は、皇軍として国体の精華を外に広めるものとされ、戦争は聖戦
であり、それを超える道義的基準は存在せず、そのような意識が、日本軍の今次の戦争で
の種々の暴虐行為につながつていつた面のあることも否定できない。また、太平洋戦争末
、、「」期にはそれがより極端な形で現れ日本書記中の神武天皇の詔からとられた八紘一宇
の教義すなわち全世界を天皇に帰一させるという主張や、敗戦色濃厚になつてからは、日
本を神の国であるとして神州不滅が叫ばれるなど、実質的国家神道は、戦前の日本の超国
家主義・軍国主義を支える精神的基盤ともなつていた。なお、帝国憲法下では、軍隊は、
天皇に直属するものとされ、また国家機能の上でも中枢的地位にあり、その天皇への直属
性によつて、他の国家機関に比し優越的地位にあり、軍人も、このような究極的価値の体
現者たる天皇への近さによつて、一般人よりも優越的地位を占めていた。日本軍の戦争遂
行過程での戦死者が、神として靖国神社に肥られていたことは後記のとおりであるが、こ
のように戦死者が尊び、崇め記られたゆえんは、それが単に国策遂行上の犠牲者であり、
社会公共の利益のために尽したからということにとどまるものではなく、天皇の軍隊にお
いて、天皇が体現している大義の遂行過程で、天皇のため死に至つたものであるという理
由によるところが大きい。
(8)実質的国家神道の宗教的性格
前記のように国家神道の内容、性格は、建前としては、
単に国家の祭祀であり宗教ではないとされたが、実体は、天皇崇拝と神社信仰を主軸とす
、、、る宗教であり一見宗教性が明らかでないようにみえるのは創唱者が特定できないこと
体系的な教義が存在しないこと、民族宗教を超えた普遍性がみられないこと、職業的宗教
家による積極的組織的な布教活動がなかつたことなどのほか、その中には儒教に基づく封
建的忠誠の観念や、日本人の宗教的伝統に根差す祖先崇拝の観念も結合し、しかもそれら
家父長制的家族道徳の延長、拡大として、天皇を中心とする国家体制が存在し、宗教的観
念と国民道徳とが分かちがたく結び付いていたことによるが、その国民道徳的な側面も究
極的には、天皇の神聖絶対性に収斂するものであつて、客観的にみる限り、これら一見国
民道徳、社会倫理とみえるものも、その意味において宗教たる国家神道の中に包含される
というほかはない。なお、戦前の神道学者であつたP1は、国家神道(実質的)は一見す
ると国民道徳とか国家の典礼と考えられがちで、宗教ではないようにみえるのは、それが
神人同格教であり、かつ国民的宗教であることによるものであつて、このような現象を国
家的神道の倫理的変装というとしている。
(9)昭和二〇年八月一五日、日本は、敗戦を迎えたが、連合軍総司令部は、制度的・
実質的国家神道こそ日本の軍国主義を支えた大きな要因であつたとの認識から、その早急
な除去・解体を目指し、同年一〇月「政治的、社会的及宗教的自由に対する制限除去」、

覚書を発して、信教の自由の確立や、治安維持法、宗教団体法等の弾圧統制法規の撤廃等
を指示し、また、同年一二月一五日には、神道指令を発した。同指令は、国家と神社神道
を含もあらゆる宗教との完全な分離によつて制度的国家神道の解体を目指すとともに、軍
国主義的ないし超国家主義的イデオロギー及びそれらと分かちがたく結び付いた天皇の神
性を基礎とする実質的国家神道の打破を目指したものであり、その具体的な方策として、
神社神道に対する国家・官公吏の特別な保護監督の停止、公の財政的援助の停止、神祷」
、、、の廃止神道的性格を持つ官公立学校の廃止一般官公立学校における神道的教育の廃止
教科書からの神道的教材の削除、学校、役場等からの神棚等の神道的施設の除去、官公吏

一般国民が神道的行事に参加しない自由、役人の資格での神社参拝の廃止、
さらに日本が神国であるとの観念に立つ用語の使用禁止等の具体的な措置を明示してお
り、
これに基づき、同月二八日、宗教団体法が廃止され、それに代わつて緊急勅令で宗教法人
令が公布施行された。また、翌昭和二一年二月二日、神祇院官制をはじめ、すべての神社
関係法令が廃止され、制度的国家神道は、ここに解体し、また実質的国家神道もその消滅
が図られることとなつた。
(10)昭和二一年一月一日、天皇は、年頭にあたつて詔書を出し、その中で「朕ト、

等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ
依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル
民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ(人。」
間宣言)と述べ、みずから自己の神性及びそれに基づく日本国民の他民族に対する優越性
。、、、、、を否定したさらに昭和二一年一一月三日象徴天皇制国民主権基本的人権の尊重
永久平和主義をうたつた日本国憲法が公布され、翌昭和二二年五月三日から施行され、そ
の前文では、新憲法の理念である平和主義、国民主権に反する一切の憲法、法令及び詔勅
の排除が宣言され、民主主義体制への変革が始まつた。もつとも、このような体制の変革
が直ちに徹底され、新憲法の理念が浸透していつたわけではなく、文部省は、敗戦後も、
依然、教育勅語を国民教育の淵源とするかのような通達を出すなどしていたため、昭和二
三年六月には、衆議院で「教育勅語の排除に関する決議」が、また、参議院で、同じく、
「教
育勅語等の失効確認に関する決議」がなされるなどした。
(11)戦前の日本において、神たる天皇が、精神的権威と政治的権力を一元的に保有
しており、すべての権力の源であるとともに、すべての価値体系の基準であつたことは前
記(7)認定のとおりであるが、人間宣言及び新憲法のとる象徴天皇制によつて、権力体
系としての天皇制が否定されたのはもちろん、価値体系の根源としての天皇制も否定され
たとみるはかなく、その意味で、戦前のように、国家のためということは天皇のためとい
うことと同義であり、愛国心はすなわち天皇への忠節であるという観念も否定されたとい
うほかない。むろん、後者は国民名自の倫理的・心理的側面に属する要素を持つのであつ
て、それらの意識の問題に帰する側面があるのであるから、
一律にその変容の有無を決せられないことはいうまでもないが、人間宣言及び新憲法の公
布以後、一般的かつ大多数の国民の意識としては、そのような天皇の神性を基盤として、
天皇がすべての価値体系の根源であるとの意識は、もはや存在しなくなつていると考えら
れる。もつとも、実質的国家神道は、その中に、儒教思想に基づく封建的忠誠の観念や、
日本人の宗教的伝統に根差す祖先崇拝の観念をもこれに結合させ、それによつて孝を家父
長制度的家族道徳の基本とし、それを家族国家観にそのまま拡大したという面を持つので
あつて、実質的国家神道のこれら道徳的、倫理的側面は、それらが、永きにわたつた日本
人の伝統的思考様式であつたこともあり、未だ多くの人々の意識の中に残存していると考
えられるが、これらもその宗教性を基礎づけていた天皇の神聖絶対性と切り離してみた場
合、もはや宗教というより、単なる道徳的・倫理的観念とみられるのであつて、結局、こ
、。れら天皇制をめぐる変革により宗教としての実質的国家神道は消滅したというほかない
なお、今日、一部の人々の間には、天皇の地位を単なる象徴の地位にとどめず、名実とも
、、、、に国の元首としようとの動きやさらに戦後の今も天皇こそは国民道徳の中心であり
愛国心はすなわち天皇への敬愛心であるとし、また、そのような考えを積極的に広めよう
とする動きがあることは否定できないが、それが、大多数の国民の一般的な支持を得てい
るとは未だ認めがたいうえ、そのような観念も、天皇の神性をその根源に置いているとは
認めがたい以上、それは宗教を離れた政治的・道徳的イデオロギーの領域に属するものと
いわざるを得ず、それをもつて、ただちに実質的国家神道の残存あるいは復活とはいえな
いと考えられる。
(二)靖国神社の起源と歴史
甲第八五、第一〇八号証、第一三三ないし第一三五号証(いずれも弁論の全趣旨、第一)

九、第一六八、第一六九、第二二九、第三三八、第四四八、第四五二、第四六〇号証、乙
第一〇二号証によれば、以下の事実が認められる。
(1)靖国神社の前身は、東京招魂社であるところ、招魂社とは、文久二年(一八六二
年)に、京都にいた志士の有志が京都東山の霊明舎で、国事に倒れた殉難者のために慰霊
祭を行い、さらに翌文久三年に京都祇園社内に小祠を建て、招魂祭を執行するなどしてい
たのが、その起源とされ、その後明治元年、
「癸丑以来殉難者ノ霊ヲ京都東山ニ祭祀スル件「伏見戦争以後戦死者ノ霊ヲ京都東山ニ」
祭祀スル件」との太政官布告が出され、それに基づき各藩でも招魂社を設立するようにな
り、その数は、一〇五に達した(これがのちに護国神社となる。なお、右布告には、。)

祀の趣旨が「忠魂」を慰めることにある旨の記載「其志操ヲ天下ニ表ハシ其忠魂ヲ被慰度
今般東山~」があり、招魂社の創立の趣旨が、天皇への忠誠を尽して死んだ者を祀ること
にあることが明記されている。一方明治元年、江戸城に入城した有栖川宮熾仁親王は、各
所で陣没した将士のため招魂祭を行うべき旨の沙汰を出すとともに、その人数の調査を命
じ、戊辰の役陣没者に対する招魂際が江戸城内で、次いで京都でも行われた。
(2)翌明治二年、東京遷都が行われ、招魂社が東京に建立されることになり「招魂、

ヲ東京九段坂上ニ営ミ戊辰以来戦死ノ士ヲ祭ル」との太政官布告が出されて、ここに東京
招魂社が創建され、戊辰の役の戦没者三五八八柱が合紀され、東京招魂社は、永代祭祀料
。、、、、として一万石を下付されたその後明治一二年六月明治天皇の思召で東京招魂社は
社号を靖国神社と改め、別格官幣社とされた。右改称に際しての「社号改称・社格制定、

御祭文」では、その改称と靖国神社の発足の趣旨が、天皇のために戦つた戦死者を祀るこ
とにあることが明らかにされている。なお、靖国神社の霊璽(神体)は、神剣及び神鏡で
あり、副霊璽は合記者の官位、姓名を列記した霊璽簿である。
(3)その後、明治二〇年、神官制度が神職制度に改正された際、靖国神社の神職の任
免権は、内務省から陸・海軍省に移管されるに至り、また、昭和一四年、地方招魂社が内
務省管下の護国神社に改編され、府県社に準ずる指定護国神社と村社に準ずる指定外護国
神社の制度が設けられた際、護国神社の祭神はそれぞれの地域に関係のある靖国神社の祭
、、、神とすることが定められ靖国神社は制度的国家神道の中核的施設として位置付けられ
このような社格上からも、また、明治、大正、昭和を通じ、歴代の天皇が、全国の神宮、
神社の中で、最も数多くみずから参拝(親拝)を重ねた(なお、昭和一三年以降は、毎年
の春秋の臨時大祭に欠かさず天皇が親拝するようになり、それは敗戦後の昭和二〇年一一
月まで続いた)という点でも、靖国神社は、制度的国家神道体制の中で極めて重要の地。

を占めていた。
(4)前記のように、靖国神社の創建の趣旨は、明治維新前の天皇軍の殉難者及び将来
、、国家のために殉難死する者を神霊たる忠魂として合紀することにありその特色としては
他の別格官幣社は、功臣を祭紀する神社であるが、その祭神は、いずれもある特定の個人
に限られたものであつて、多数者を合祀するために一社を創建されるということはなかつ
たのに対し、靖国神社はこの慣例を超えて、広く国家の大事に際して一身を捧げ尽した多
数の死者を神霊として合わせ祭祀(合祀)するものであり、そのような性格上、神社の祭
神は、固定したものではなく、将来増え続けることが予定されていた。なお、このような
靖国神社建立の背景にあつた招魂の観念は、沿革的には、前記の神道の歴史の中での御霊
信仰の系譜を引くものと考えられるが、御霊信仰の場合には、必ずしも敵味方を問わず、
非業の死を遂げた者を手厚く鎮めるというものであるのに対し、招魂の観念は、もつぱら
天皇軍の死者のみを手厚く弔祭するという点で、御霊信仰とはやや異なる面をもつ観念で
ある。
(5)前記のように、靖国神社は、制度的国家神道の中で重要な地位を占める神社であ
つたが、それは同時に実質的国家神道の普及、拡大という面でも重要な役割を果たしてい
た。すなわち、戦没者が靖国神社に神として祀られ、尊拝されるゆえんは、もちろん、そ
れらの人々が、戦争という国策遂行上の犠牲者であり、国民一般のために尽したという面
もあつたにはせよ、決してそれのみにとどまるものではなく、むしろ、天皇の軍隊たる皇
軍において、大義の遂行たる聖戦で、天皇に忠節を尽して死んだという面によるところが
大きく、また、そのような戦没者は、生前の所業一切を不問に付されて同神社に神として
祀られ、国民から永く尊拝されるのみならず、絶対的価値体現者たろ天皇みずからの参拝
を受けて慰霊されるという、当時の価値体系からすれば、抜きん出た栄誉を与えられてい
たものであり、このような靖国神社の祭祀の性格が、国民に天皇への忠節が至上の美徳で
あるとの観念を植え付け、実質的国家神道の普及、拡大に寄与するとともに、戦場での死
を美化することによつて、戦争に向けての国民の意思を統合する機能、役割を果たし、ひ
いて軍国主義の拡大に寄与する面を持つていたことは否定できない。
(6)このような靖国神社の性格及びその創建の趣旨が本来的に忠魂すなわち天皇に忠
節を尽して死んだ者を祀ることにあつたことから、同神社への合祀手続は、天皇あるいは
、、、その勅使が参拝し神前に祭文を奏上する儀式を経ることが必要とされかつその基準は
聖戦とされた戦争において、天皇の軍隊たる皇軍の一員として、天皇のために忠誠を尽し
て戦い、死ぬことにあつた。なお、日清戦争直後まで、戦病者は、合祀の対象になつてい
なかつたが、明治三一年に至つて、天皇の特旨という形で合祀が認められ、以後は、戦病
者も合祀が認められるようになつていつたが、単なる戦争被災者、戦争で捕虜となつて死
、。、、亡した者等は戦後の今も合祀の対象とはなつていない右合祀の式次第は要約すれば
祭典の前に修祓式(清はらい)があり、ついで招魂式(戦没者の霊魂を靖国神社の境内に
招き降ろし、霊璽簿と呼ばれる戦没者名簿に乗り移らせる儀式)があり、その後、霊璽奉
安祭(霊が乗り移つた霊璽簿を御羽車で移動し、本殿に奉遷し、内陣に奉安する儀式)を
行う。ついで、その翌日、天皇の勅使あるいは天皇みずからが参拝し、神前に祭文を奏上
する儀式が行われ、これらの手続を経て戦没者の霊は、はじめて正式に祭神とされ、すで
に祀られている祭神とともに、合紀される。これで、合祀の手続が終了し、翌日から臨時
大祭が行われるが、その期間は、合紀される祭神数により長短がある。なお、狭議の合祀
祭とは右翌日以降の儀式のみをいうが、広義では、右招魂祭や霊璽奉安祭をも含めて合祀
祭という。
(7)ところで、本来の神道自体にも、また、実質的国家神道にも、体系的な教義(宗
教思想)が存在しないことは前記のとおりであり、その一宗教施設たる靖国神社について
も、その宗教思想を明確な形で特定することは困難であるが、以上述べてきたようなその
沿革、創建の趣旨、合祀祭の祭式等に照らせば、靖国神社は、人間の死後も霊魂が存在す
るという観念のうえに立ち、それを招き降ろして神社に神霊として祀るという宗教儀礼を
行う面では、神社神道の一系譜たる御霊信仰に結び付く宗教思想を持ち、また、神として
、、、の天皇のために死んだ者をその忠義のゆえに他の戦死者及びその他の死者と区別して
特に神霊と崇め、称えるという面においては、まさに天皇崇拝を主軸とする実質的国家神
道の宗教思想の上に立つものであり、この両者が、
、、渾然一体をなしていたものが制度的・実質的国家神道下における靖国神社の祭祀を支え
その存立の基礎となつていた宗教思想であると考えられ、それは、基本的に、前記のよう
な招魂祭、招魂社の背景となつた招魂の観念を発展、整備したものであり、その祭祀の趣
旨を一言でいえば、忠魂を慰めるということにあると解される。
(8)このように靖国神社は、制度的にも、またそれを基礎づける宗教思想の面でも紛
れもなく特定の宗教施設であつたが、制度的・実質的国家神道体制下での教育の浸透と国
家的祭祀の普及につれ、一般国民にとつては、戦没者の靖国神社への合祀ということが、
次第に特に宗教的意識を伴うことなく自明のこととして受け止められるようになり「死、
んだら靖国で会おう」ということが出征者の合言葉のようになつていき、その言葉に示さ
れるように、戦死者の霊魂の帰一するところは、靖国神社のほかにはないというように考
えられるようになつた。このような風潮と、靖国神社が、国営の祭祀施設であつたという
性格から、太平洋戦争の終結までは、戦没者の追悼、慰霊は、靖国神社の存在と切り離し
ては考えられず、靖国神社に神として合祀されることがすなわち戦没者の真の意味の慰霊
であり、追悼であるとされた。
()、「」9右のように靖国神社への戦没者の合祀が一般化するに伴い戦没者の霊を英霊
と呼称することも次第に一般化していつた。なお「英霊」という言葉は、もともと霊魂、

美祢であるが、幕末に、水戸藩のP2が「文天祥の正気の歌に和す」と題する漢詩で、、
「英
霊いまだかつて泯びず、とこしえに天地の間にあり」と歌い、この漢詩が志士の間で愛唱
されて以来、用いられるようになつた言葉であり、それが戦没者の霊を呼ぶ言葉として一
般化したのは、明治四四年、当時の靖国神社宮司であつたP3が「靖国神社誌」を刊行、

た際、その序文で、靖国神社の祭神を「英霊」と呼んでいることや、後記のように、戦没
者を記念、追悼する碑の名称として「英霊碑」という名称のものは、昭和期になつてから
、。、「」、次第にあらわれたことなどからして日露戦争の前後と考えられるなお英霊とは
国すなわち天皇のために戦つて死んだ者の魂ということであつて、実質的に「忠魂」とい
う言葉と同義であり、靖国神社の祭神ともほぼ一致するものであるが、そのような用語が
次第に一般化し、広く使われるようになつたのは、
天皇への忠誠が、日本国民にとつて当然の行為であるとする天皇制教育が浸透するととも
に、戦没者個々の忠誠に力点を置いた忠魂という言葉よりも、より個性のうすい抽象的な
美称である「英霊」という語が適当とされたことによるのではないかと推測される。
(10)昭和二〇年八月一五日の敗戦に伴い、連合軍総司令部は、同年一二月一五日、
神道指令を発し、国家と神社神道との完全な分離等を命じ、翌昭和二一年二月二日には、
神祇院官制をはじめ、神社関係の全法令が廃止され、ここに制度的国家神道は解体したこ
とは前記(一)の(9)のとおりであり、皇室神道も公的性格を喪失し、宮中祭紀は、天
皇の私的行為となつた。それに伴い、神祇院廃止の翌日である同月三日、民間の宗教団体
として神社本庁が設立され、また同月二二日には、宗教団体法にかわる宗教法人令が公布
され、全国の神社の大半は、順次、包括的宗教法人である神社本庁に帰属し、神祇院の管
、、。轄下にあつた各護国神社も届け出を行つて宗教法人となり神社本庁に帰属していつた
その中で、靖国神社は、第一、第二復員省(旧陸軍省及び海軍省の事務を引継いだ)の。

轄下にあつたという特殊性もあり、神社本庁には所属せず、東京都の単立宗教法人となつ
。、、、、たなお敗戦後の昭和二〇年一一月靖国神社では第二次世界大戦での戦没者につき
個々の戦没者を特定しない形で、一括合祀を行い、また翌昭和二一年四月、宗教法人とな
つて最初の霊璽奉安祭を行つたが、同年秋に予定していた霊璽奉安祭は、総司令部によつ
て禁止され、その後昭和二七年の講和条約発効までは、合祀の祭典を挙行することは不可
能になつたが、その間も靖国神社では、右各省及び宮内庁の支援を受けて、さきに一括合
紀した戦没者の個別の合祀手続を進めていた。
()、、、11その後昭和二七年一月二八日宗教法人令の廃止と宗教法人法の施行に伴い
靖国神社は、同年九月、単立の宗教法人となつたが、右法人の規則(同年九月制定)三条
によればその目的は「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基き、国事、

殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神
の遺族その他の崇敬者を教化育威し、社会の福祉に寄与しその他神社の目的を達するため
の業務を行うことを目的とする」とされ、その創建の趣旨は明治天皇の聖旨を継承しな。

らも、
奉斎する祭神としては「国事殉難者」という必ずしも天皇とのかかわりを持たない一般、

な表現にし、やや姿を変えた形で、存続することになつた。右崇敬者とは、氏子、信者又
は信徒と同義である。
(12)ただ、戦後においても、現実の合祀者の選定基準は、戦前のそれと基本的には
変わらず、軍人、軍属、準軍属の戦死者(この中には、平和条約一一条により死亡した者
すなわち極東軍事法廷処刑者も含まれる、戦傷死者、戦病死者等のほか、軍の要請に。)

づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷又は疾病により死亡した者や、国家総動員法
に基づく徴用又は協力中の死没者、さらに船舶運営会の運航する船舶の乗組員の死者等が
あるが、いずれも、直接、間接に積極的に戦争において戦い、それに協力した者であり、
単なる戦争被災者等は、それに含まれていない。まだ、自衛隊発足後は、その訓練中の公
務死者等も、合祀の対象となつているようである。また、これら戦没者を合祀する合祀祭
、、。の式次第も天皇の臨席等を除けば前記認定のような戦前の祭式と基本的に同一である
ただ、合祀者の選定手続は、戦前は、戦没者が生じた時点において、陸・海軍省大臣官房
内に審査委員会が設置され、高級副官を委員長とし、各部将校を委員に任命し、出先部隊
長又は連隊区司令官からの上申に基づき、個別審査の上、陸海軍大臣から天皇に上奏御裁
可を経て、合祀者が決定され、官報で発表、合祀祭が執行されるという段取になつていた
が、戦後は、決定された合祀者名簿を天皇に差上げ、上覧に供するという形に変わつてい
る。もつとも、合祀に際しては、合祀される遺族の意思は、反映される余地がなく、その
意味で遺族の好むと好まざるとにかかわらず、合祀する側で、一方的に合祀の適格者を選
び、合紀された場合、その旨を遺族に通知するという方式には変わりがない。
(13)右(12)のように、靖国神社の祭祀は、戦前と変わらず、その合祀基準も基
、、、本的に変化はないが前記のような実質的国家神道の解体・消滅に伴いその祭祀を支え
その存立の基礎となつている宗教思想のうち、御霊信仰の系譜を引く観念は、そのままで
あるにしても、実質的国家神道に基づく部分には、一定の変容があるのではないかと推測
される。すなわち、戦前において、戦没者が英霊として尊拝され、靖国神社に神として祀
られたのは、国策の遂行過程において、
国民一般のために犠牲となつたという面もあるにせよ、天皇の軍隊たる皇軍において、天
皇が体現している大義の遂行過程で、天皇のため死に至つたというその忠節のゆえによる
ところが大きかつたが、天皇の神性が否定され、実質的国家神道も国民一般の意識からは
消滅した今、いかに靖国神社が、天皇によつて創建され、またその創建の趣旨を今日に受
け継いでいるとはいつても、戦没者が、同神社に神として祀られるゆえんをもつぱら天皇
の神性とそれに対する忠節で基礎づけようとすることはできないし、またそうすることが
戦没者遺族を含む一般国民の支持を得られるかは疑問であつて、同神社の目的たる「国事
に殉ぜられた人々を奉斎し」という場合、その国事殉難者とは、必ずしも、天皇のためと
同義ではなく、国家のためという言葉本来の意義に近くなつていると考えられる。
(14)なお、英霊という観念は、実質的国家神道下において、天皇のために戦つて死
んだ者の魂ということであり、忠魂と同義であつたこと、またそれは靖国神社の祭神とも
ほぼ一致していたことは、前記(9)のとおりであるが、実質的国家神道の消滅に伴い、
靖国神社の宗教的性格の変化の有無はともかく、同神社と切り離してみた場合、英霊及び
その顕彰という観念の宗教性には変容があることは否定しえない。すなわち、天皇の神性
が消滅し、天皇に対する忠義、忠節を至上の美徳とする観念が一般的には失われた今、英
霊を英霊たらしめ、それが尊拝されるゆえんを天皇への忠義、忠節で基礎づけられないこ
とはいうまでもなく、とすれば、今日、英霊とは、一般的にいつて、国家のために命を捧
げた死者という意味での戦没者に対する美祢として用いられているとみざるを得ず、それ
が、死者に霊が存在するとの観念を前提としているかのように思われる点では、宗教性を
帯びる余地がないではないにしても、もはや、かつてのような実質的国家神道と結び付い
。、「」た意味での宗教性は失われたというほかないなお日本遺族会及び英霊にこたえる会
が、現在、靖国神社の国家護持や、同神社への公式祭祀を含む英霊の顕彰事業を積極的に
維持、推進していることは前記2の(四)認定のとおりであるが、右両会が英霊顕彰事業
を推進している理由を、検討しても、それが天皇のために忠義、忠節を尽したがゆえに、
顕彰されるべきであるとしていることを窺わせる証拠はなく、
それらの事業・運動の趣旨は、結局、戦没者が、国家の要請により、国家のために一命を
捧げた以上、戦没者に対する国のかかわりと責任を明確化することを希求する趣旨から、
国家の手で英霊として祀られ、それを通じて広く生き残つた全国民に感謝を捧げられてし
かるべきであると主張していると解される。
(三)忠魂碑の歴史及び靖国神社との関係
甲第五八号証(弁論の全趣旨9、第六四号証(原本、第一六九、第三四一、第三四二号)
証、
乙第五第六号証いずれも原本第八八第一〇二号証第一〇三第一〇七号証い、()、、、、(
ずれも弁論の全趣旨、第一二五号証の一ないし五(同、第一二六号証(同)によれば、))
以下の事実が認められる。
(1)忠魂碑の起源と戦前の歴史
(1)前記(二)の(1)認定のように、忠魂碑の「忠魂」という名辞は、幕末期の殉
難者を京都東山に祭祀するために発せられた明治元年五月一〇日付の太政官布告中に、祭
祀の性格が忠魂を慰めることにあると記載され、殉国の将士と王事に尽くした者に対して
「忠魂」をもつて呼称したことに始まり、忠魂碑の起源も、幕末明治維新期における国事
殉難者の慰霊のため建てられた招魂碑、招魂墓碑がその源流と考えられる。なお、右碑の
中で、遺体が実際に埋葬されたものが招魂墓碑であり、埋葬されていないものが招魂碑で
ある。これらの碑は、招魂社、招魂場の建立と密接に結び付いており、京都大雲院内の招
魂社の例のように招魂社といつても招魂碑があるだけのものもあり、またこれらの碑の前
では招魂祭が行われることが多かつたようである。なお「忠魂碑」と題された一番最初の
碑は、現在岡山城外に存在している「官軍備州忠魂碑」であり、この碑は、明治元年、天
皇軍のため勇戦した岡山藩の戦死者のため藩主が作らせたものであつて、それには、戦死
者二八人の姓名が一人一人記入されている。
(2)明治七年の佐賀の乱から明治一〇年の西南戦争といつた一連の士族の反乱で死亡
した政府軍の死者のために各地で碑が建てられた。その例としては札幌護国神社境内にあ
る「屯田兵招蒐之碑、靖国神社境内に現存する「表忠碑、名古屋の「名古屋鎮台戦死」」

紀念碑、大阪中之島公園内の「明治記念標」などがあるが、この時期のものは、ほとん」

、、。、が招魂碑の系列のものであり招魂墓碑の系列のものはほとんど見当たらないその後
日清戦争(明治二七年~二八年、)
日露戦争(明治三七年~三八年)の遂行に伴い、ことに日露戦争では、多くの戦死者が出
たため、戦後、帰還、復員した戦友や遺族を中心に、戦死者の勲功を顕彰し、その霊を慰
めるための多数の碑が全国に建てられ、忠魂碑建設ブームが到来した。このころまでの碑
の建立の主体は、郡市町村や、地元の有力者あるいは仏教会等の民間団体等と様々であつ
たが、後記のように、明治四三年に存郷軍人会が設立されてからは、もつぱら同会の分会
が建立を推進し、また既設のものをも含めて管理するようになつた。
(3)碑の名称は、明治初年は「招魂碑」が圧倒的に多かつたが、次第に「征清記念、
碑、」
「日清戦役従軍記念碑「日露戦役記念碑「彰功紀念碑「忠勇紀念碑」などの名称」、」、」、

みられるようになり、それが、日露戦争後は「忠魂碑」という名称が多く用いられるよ、

になり、それが定着していく。碑の名称としては、ほかにも「忠勇義烈頌功碑「赤心」、

国碑」などもみられたが、これらは大半が明治末期までで、大正、昭和期(昭和二〇年ま
で)は非常に少ない。そのほか「表忠碑「彰忠碑」は、明治期全般にみられるが、大」、
正、
。、「」、「」、、昭和期にも僅かなからみられるなお忠霊碑英霊碑などは明治期には少なく
昭和期になつてみられるようになつたものであり、これは「忠魂塔「英霊塔」などの、」、

を冠したものも同様である(なお「塔」は、もともとは「卒塔婆」のことであるが、時代
の変化につれ、石塔は「いしぶみ」たる碑になり、碑との区別は薄れ、これらの「塔」、

いう名称のものも形態的には他の碑と特に変わらない。。)
(4)これら碑の形状はまちまちであり、材料となる石材も、自然石をそのまま使い、
、、、ほとんど人工加工をしないものからある程度加工を施したもの表面を滑らかに研磨し
人為的に規則正しい形にしたもの、その上に金属性の装飾をとりつけたものなど多岐にわ
たつているが、形状はさらに多様であり、自然石の形そのままのものや、普通の角柱式の
もの、先端が尖つた角柱式のもの、円柱式のもの、尖塔式のもの、楼閣式のもの、砲弾を
模したもの等種々様々であり、台石も、平たい自然石を二、三層積み重ねた簡単なものか
ら、石垣状のもの、方形の基檀を備えているもの、石段がついているもの等多様である。
また、碑文についてみると、日清戦争までの碑文は、概ね表題だけでなく、
碑の由来を記した文章が刻されていたが、忠魂碑という名称が定着した日露戦争後は、多
くが、いわゆる標題碑文といわれるものであり、碑の表面に「○○碑」と縦書きに大きく
陰刻され、その傍らに揮筆した者の姓名を小さく記し、裏面は、建立年月日以外は何も記
、。、、さないのが普通であるが戦没した兵士の名を録することもあつたなお碑の揮筆者は
大体が陸軍の将官で、P4、P5などが目につくが、在郷軍人会設立後は、その歴代の会
長、副会長が書くことが多かつた。
()、、5在郷軍人会の発祥の由来は必ずしも明らかでないが明治二〇年ころから各地で
軍人協会等の私設団体が相次いで生まれ、それが明治四三年一一月三日、在郷軍人会とし
て統一的な組織として発足した。在郷軍人会の目的の一つに「会員相互の扶助及び慰藉の
」、、方法を講ぜしめることという点がありその一環である戦没者の慰霊・顕彰事業として
忠魂碑の建設が盛んに行われるようになつた。その後大正四年の第一次世界大戦、大正七
年のシベリア出兵等の海外出兵があり、それらの戦役事変の戦没者についての忠魂碑も各
、、、地に建てられたがさらに昭和六年満州事変が勃発し次いで第一次上海事変が起こつて
遺族や、帰還した在郷軍人を中心に、各地に忠魂碑建設の動きが活発になり、それは昭和
一二年の支那事変の発生によつて一段と盛んになつたが、後記忠霊塔建設運動に伴い、忠
魂碑としての建設は下火になつた。
(2)招魂社、護国神社、忠霊塔の歴史と忠魂碑による招魂祭、慰霊祭
(1)明治一二年に東京招魂社が別格官幣社たる靖国神社となつたことは前記(二)の
(2)認定のとおりであるが、従来種々の社号を用いてきた各地の招魂場も、明治八年、
名称を招魂社と統一されて内務省の管轄下に置かれ、明治三四年には、それまで官費でま
かなわれていた招魂社とそうでないものとを分け、前者を官祭招魂社、後者を私祭招魂社
というようになつた。これら招魂社の多くは靖国神社祭神中、その地方に縁故ある殉難・
戦没者を祀るものであるが、日露戦争後、急速に広がつた忠魂碑建設の動きに歩調を合わ
せる形で、私祭招魂社創建の動きも盛んになつた。これに対し、内務省神社局は、明治四
〇年二月二三日秘甲第一六号内務省神社局長依命内牒「招魂社創立ニ関スル件」で「近、

各地方ニ於テ招魂社ノ創立ヲ発企シ、往々出願ノ向モ有之候処、官祭私祭ヲ不問、
招魂社ノ現存セル地方ニ於ケル戦病死者ハ之ニ合祀ヲ許スヘキ途有之候ニ付、新ニ設立ス
ル必要無之・若シ既設ノ招魂社ナキカ、又ハ之レアルモ位置偏倚シ極メテ不便ヲ感スル等
特設ノ必要アルト認メラルル場合ニ在リテハ、其事由及左記ノ事項ヲ具シ稟議相成度」。

、、、。の招魂社設置基準を定めかつその祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加えた
これは、招魂社の乱立による、運営、維持の困難ということを念頭においていたものとみ
られる。
(2)その後、昭和三年、政府は、招魂社創立内規を定め、招魂社の創立を「市町村、

円ヲ崇敬者区域トスルコト」として、一市町村一社を目指したが実効は挙がらず、その後
も私祭招魂社は、正式な届出をしていないものも含め、次第に数が増えていつた。そのよ
うな中で、政府は、昭和九年「招魂社創立内規ニ関スル件」の通牒で、一府県一社の原、

を立て、それが、昭和一四年の「招魂社ノ創立ニ関スル件(同年二月三日発社第三〇号」

社局長通牒)をもつて、官祭・私祭の招魂社をすべて護国神社とし、二、三の例外を除い
て各都道府県に一社に限つてこれを指定護国神社として創立を許可する制度の発足に結び
付くが、このように、一府県一社という統一のとれた招魂社制度を確立し、それによつて
特定の神社に崇敬を集めようとする内務省神社局の方針に対し、それでは日常の参拝とい
うことは困難になるし、広く戦没社の霊を郷士に祀るという趣旨がかなえられなくなると
いう面からの反対意見も根強かつた。
(3)このような背景のもとで、満州事変で戦没した人々を慰霊・顕彰するための碑・
塔建設の動きも強まつてきたため、昭和一四年一月、内務省神社局や、陸軍省、海軍省等
が打ち合わせた結果、同年二月「支那事変ニ関スル碑表(碑・塔の法令上の用語)建設、

件」とする警保局長神社局長通牒を出し、内務省神社局は、一市町村を単位として一基に
限り、忠魂碑等の記念碑又は戦没者の遺骨を納める忠霊塔のいずれかの建設を許可する方
針を立て、さらに同月同じく「支那事変ニ関スル碑表建設ノ件」と題する陸軍省副官通牒
が出され、陸軍省は、各市町村を単位とし戦没者の遺骨を納める忠霊塔の建設運動を積極
的に支援する姿勢を打ち出した。そして、同年五月、戦死者の遺骨の合祀、忠霊の顕彰を
目的として、陸軍、海軍、
内務省その他の省庁を共同所管とする財団法人として大日本忠霊顕彰会(名誉会長はとき
の平沼首相)が発足し、以後は右会が中心となつて忠霊塔の建設運動が進められた。
(4)この大日本忠霊顕彰会は、発足と同時に精力的な活動を開始した。これに対し、
仏教界は、それ以前から戦没者を合紀し、またその遺骨を納める施設を独自に建設してき
たことなどもあつて、積極的にその運動を支援する態勢をとつたが、それに対して、神社
側は、忠霊塔が参拝の対象となることによつて、神社祭祀の純粋性が侵されあるいは国民
の間で混乱が生ずることを懸念し、忠霊を祀る公式祭祀は、靖国神社、護国神社という国
家的な祭祀としてなされるべきであるとしてこれに抵抗を示し、神社側と仏教界側との間
に論争が起きたが、結局、昭和一四年九月に、大日本忠霊顕彰会幹部と神社界首脳との協
議で、忠霊塔は、公営墳墓としての性格のものであること、それへの参拝は、参拝者の自
由であり、宗派を超越したものとすること等で妥協が成立した。
(3)忠魂碑の碑前での招魂祭、慰霊祭
()、、、1前記のような忠魂碑等の碑は招魂社と起源を同じくする面はあるものの本来
参拝の目的物あるいは神社的な性格のものとして建立されたわけではなかつたが、現実に
は、かなり早くから、その前で神式あるいは仏式の祭儀が行われていたようであり、明治
三一年四月三日、埼玉県は、神社境内地の建碑について、内務省社寺局に「征清ノ役、従
軍死亡者ノ為メニ神事トシテハ招魂碑、仏事トシテハ忠魂碑等ト称スル建碑ヲ参拝ノ目的
物トナシ、神事又ハ仏事ニヨリ其ノ祭事ヲ経営セントスルノ主旨ヲ以テ、該碑建設ノ儀ヲ
伺出タルモノアリ。右等建碑ヲ参拝ノ目的トナスコトハ、総テ不相成方ニ可有之哉」と。

照会をし、これに対し、同省社寺局長は、同月二二日付局第一六号回答として「本年四月
五日乙第六四六号ヲ以テ招魂碑忠霊碑等建設ノ義ニ付御照会ノ趣了承・右等建碑ヲ参拝ノ
目的物トナシ、神事又ハ仏式ニヨリ其ノ祭事ヲ経営セントスルハ許可難相成義ト存候」。

して、これら碑を参拝の目的物とすることには消極的な結論を出している。
(2)右(1)のように、内務省神社局は、招魂碑、忠霊碑等を参拝の目的物とし、神
事又は仏事によつてその祭事をすることは許可できないとの回答を出していたが、在郷軍
人会では、忠魂碑を建立した際、除幕式あるいはこれと共に招魂祭、
慰霊祭等を行つていたほか、その建立後は、その前で、招魂祭、慰霊祭あるいは追悼会、
供養会等が挙行される場合が多かつた。これは、前記のように、内務省神社局の側では、
戦没者の祭祀施設たる護国神社の創立を原則として一都道府県一社に限定するという方針
であつたのに対し、一般国民あるいは在郷軍人会等では、各地域の戦没者の霊を郷土であ
る各市町村に祀り、そこに慰霊の場を設けたいという希望が強かつたこと、その場合、戦
没者を記念する碑の前が一番招魂祭の祭場にふさわしいと考えられたことによる。
(3)右忠魂碑等の碑前での慰霊の祭式は、追悼会、供養会等の場合は仏式のものが多
かつたが、招魂祭、慰霊祭の場合は、神式あるいは神仏併用または神仏隔年交替で行われ
た。神式の場合には、忠魂碑等の碑の前に神霊の依代である神籬を立てて、その前に祭壇
を設け、その都度招霊して祭典を持ち、神仏併用の場合には、神式の祭典に引き続いて仏
式で各宗僧侶の読経による供養が行われた。神社界は神仏併用の招魂祭は好ましく思つて
いなかつたが、現実には広くこれが挙行されていたようである。このような忠魂碑前での
招魂祭あるいは慰霊祭は、満州事変以後、ますます活発になつていき、戦没者遺族等にと
、、、どまらず一般住民及び児童生徒もそれに参列して参拝するようになり昭和一〇年には
内閣書記官長の通達によつて、国体の本義を明徴にし、これに基づいて教育の刷新をはか
るため、児童生徒に忠魂碑への参拝をさせることが学校長に命じられ、以後、終戦まで、
児童生徒の忠魂碑への参拝が励行されていたのはもとより、その前での拝礼も日常化され
た。
(4)戦後の忠魂碑とその前での慰霊祭の状況
()、、、1昭和二〇年一二月一五日連合軍総司令部は前記のような神道指令を発したが
政府は右指令を受けて、昭和二一年一一月「公葬等について」の通牒を発した。右通牒、
は、
その一項から三項までにおいて、地方公共団体等が慰霊祭等宗教的行事にどこまで主催、
関与しうるか、戦没者に対する葬儀等に対する地方公共団体等の援助等の限界等を定めた
後、その四項において、
「忠霊塔、忠魂碑その他戦没者のための記念碑、銅像等の建設、並びに軍国主義者又は極
端な国家主義者のためにそれらを建設することは今後一切行わないこと。現在建設中のも
のについては直ちにその工事を中止すること。
なお現存するものの取扱は左によられたい。
イ学校及びその構内に存在するものは、これを撤去すること。
ロ公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極
端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものはこれを撤去すること。
前項のことは、戦没者の遺族が私の記念碑、墓石等を建立することを禁止する趣旨ではな
い」とし、またその五項において、。
「一般文民の功労者、殉職者等のための記念碑、銅像等を建設することや、その保存事業
を行うことは差支えない」としている。。
さらに政府は、昭和二一年一一月二七日、警保局長通牒「忠霊塔、忠魂碑等の措置につい
て」を発したが、その内容は、以下のとおりである。
「本月一日発宗第五一号内務文部両次官通牒「公葬等について」の内第四項中現存する忠
霊塔、忠魂碑、銅像等の措置については左記に拠られたい。
記一学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する。
二公共の建造物及びその構内または公共用地に在るもので明白に次のような軍国主義的
又は超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは撤去する。
イ日本天皇は其の祖先、家柄及び特殊なる起源の故を以て他国の元首に優越するとの教

ロ日本国民は其の祖先、家柄又は特殊の起源の故を以て他国民に比し優越し居れりとの
教義
ハ日本諸島は特殊の起源の故を以て他国に比し優越し居れりとの教義
ニ日本国民を欺瞞し以て侵略戦争に導入し又は他国との紛争解決の為道具としての武力
行使を賛美するに役立つ其の他の教義
単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者の為の碑であることを示すに止るものは原
則として撤去の必要はない。
(三項以下略)
(2)このように神道指令及びそれを受けた日本政府の通牒の趣旨は、忠魂碑等でも、
軍国主義、超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするもののみを規制の対象とするもので
あつたが、各地では、占領軍による処罰等をおそれ、これら通牒等に過剰に対応し、学校
構内等にあるもののみならず、公共建造物及び公共用地に建てられていた忠霊塔、忠魂碑
の多くが撤収された。しかし、これらの碑は、撤収されたといはいつても、すべて破壊さ
、、()れたわけではなく地中に穴を掘つて埋めたりあるいは目立たない私有地寺院や神社
に移転して維持を図つたり、碑文や碑銘の模様替え(平和塔、
供養塔等)をして維持を図つたりしたものも多かつた。
(3)昭和二七年四月二八日対日講和条約が発効して、連合国の日本占領が終了したの
に伴い、戦没者の慰霊・顕彰の営みも自由になり「忠霊塔・忠魂碑等の措置について」、

よつて撤収させられた既設の忠霊塔、忠魂碑の類いが相次いで復元、再建され、また、そ
れと平行して新規の建設も続々と計画、実行されるようになつた。建碑の主体は、概ね遺
族会と戦友会であり、それを地方公共団体が側面から援助するというのが一般的なやり方
であつたが、中には自治体の方が主体となつて、進められた事例も見受けられた。この時
期のものは地域単位のほかに、戦没地、部隊、艦艇等単位でも数多く建てられている。
また、この時期の碑や塔も素材や形状が非常に多岐にわたり、石材も自然石のままのもの
や、ある程度加工を施したり、表面を研磨して規則正しい形にしたものなどがあり、また
形状も角柱式、円柱式、尖塔式、楼閣式さらに五輪塔を模したもの、またパゴダ式のもの
等種々様々である。なお、碑銘の揮筆者は、旧軍人もあるものの数はすくなく、圧倒的に
政治家が多く、そのほかでは、神職・僧侶や文化人が多い。碑文は、口語体が多く、また
、「」、「」、「」、「」、碑銘については慰霊碑慰霊塔が圧倒的に多いがほかにも招魂碑彰忠碑
「英魂碑「雄魂碑「彰魂碑、さらに「殉国碑「殉国慰霊碑「殉国英霊碑」など」、」、」」」、

碑銘もみられ、また「忠魂碑「忠霊碑」等と銘されたものもあるなど、多岐にわたつ」、

いる。
文部省は、このような建碑状況のもとで、昭和二七年九月一九日「戦没者の記念碑等に、

いて(地調第三六号富山県総務部長宛文部省調査局長回答)を出し「宗教施設又は宗」、

的行事を伴う施設でない限り、公の機関が殉職者(戦没者を含む)等の記念碑等を建設す
ることは、政教分離の原則に抵触しないものと考える。ただし「忠霊塔「忠魂碑」等、」、

解を招きやすい語はなるべく避けられたい」とし、その後も同旨の回答を繰り返してい。

が、この趣旨は必ずしも守られず、その後に建設された碑の中にも「忠霊塔「忠魂碑」」、
等と題されたものも多かつた。なお、これらの碑の前では、建設当初から、神式または仏
式あるいは神仏合同形式による戦没者慰霊祭が営まれる場合が多く、それは現在に至るま
で続いている。
(4)碑、塔調査結果の概略
箕面市は、
昭和五八年二月一日を基準日として全国三二五五市町村を対象に行つた碑・塔調査結果に
基づく合計二六九九市町村の回答結果により、次の集計を得た。すなわち、戦争に起因し
て建立された碑・塔は二六九九市町村において合計一万三四四基が現存し、その内訳は、
忠魂碑四〇八八基、慰霊碑九二七基、忠霊塔六八五基その他であり、そのうち昭和二〇年
八月一五日以降に建立されたものは、忠魂碑九八七基、慰霊碑八三〇基、忠霊塔四一四基
であること、また、これらの碑・塔に関し、追悼式、供養祭等の名称のいかんにかかわら
ず、戦没者・戦争犠牲者等に対して行われる慰霊・顕彰のための慰霊祭が実施されている
ものは六〇五二(約五八・五パーセント)あり(不明三一五〇基、そのうち慰霊祭の形)

の判明している碑・塔五四四九基の内訳は、仏式二五八九基(約四七・五パーセント、)

式一九八五基(約三六・四パーセント、神仏合同方式二七八基(約五・一パーセント、))
キリスト教式一五基(約〇・三パーセント、無宗教方式五八二基(約一〇・七パーセン)
ト)
であり、これを忠魂碑二二六七基に限つてその内訳をみれば、仏式一〇九七基(約四八・
四バーセント、神式八六〇基(約三七・九パーセント、神仏合同方式一二六基(約五))

六パーセント、キリスト教式二基(約〇・一パーセント、無宗教方式一八二基(約八))

〇パーセント)となつていること、慰霊祭の行われている六〇五二基のうち、慰霊祭の主
催者は、主なものは、遺族会が一五七〇基(約二六・〇パーセント、市町村が六六〇基)
(約
一〇・九パーセント、自治会が五七二基(約九・五バーセント、奉賛会が三六五基(約))
六・〇パーセント、社会福祉協議会が三四三基(約五・七パーセント、これらの主催))

を含む複数の主体による共催が四三六基(約七・二パーセント、その他が八〇八基(約)

三・三パーセント、主催者不明が一二九八基(約二一・四パーセント)であり、これを)

、()、魂碑二四八五基に限つてその内訳をみれば遺族会が七〇一基約二八・二パーセント
市町村が二六四基(約一〇・六パーセント、自治会が二四〇基(約九・七パーセント、))
奉賛会が一六四基(約六・六パーセント、社会福祉協議会が一五八基(約六・四パーセ)

ト)であり、これらの主催者を含む複数の主体による共催が一八二基(約七・三パーセン
ト、その他が二七〇基(約一〇・九パーセント、))
不明が五〇六基一約二〇・四パーセント)であること、慰霊祭が碑・塔の前で実施されて
いる割合は、忠魂碑二四八五基中一一八八基(約四七・八パーセント、慰霊碑五五一基)

二五三基(約四五・九バーセント、記念碑二一五基中九五基(約四四・ニパーセント、))
忠霊塔四八三基中二三四基(約四八・四パーセント、慰霊塔四二〇基中二三九基(約五)
六・
九パーセント)であり、全体としてみると、慰霊祭の行われている碑・塔合計六〇五二基
()、中二九四二基約四八・六パーセントにつき碑・塔の前で慰霊祭が実施されていること
以上のとおりである。
(5)右調査は、箕面市が、全国の市町村に「碑・塔に関する調査票」を配布し、各市
町村からの回答結果を集計する方法で行われたが、甲第三四二号証(P6作成の鑑定書)
が指摘するとおり、調査主体が箕面市という訴訟当事者であり、また、調査票の記載も正
式な公文書として作成されたものではないうえ、調査票の様式等に照らしても記載内容の
正確性が必ずしも十分に担保されているとはいいがたいこと、さらに右調査は、全国の市
町村から回答を得たものではなく、碑・塔が相当数存在すると考えられる東京二三区を除
外していることなど、種々の面で誤記入等の存在する可能性もあり、必ずしも全国のこれ
ら碑・塔の状況を正確かつ客観的に示すものとはいいがたい面があるが、他方、右調査内
容は比較的単純な事項で、記載者の主観に左右されるようなものではなく、また、その調
査範囲も右一部を除いてはとんど全国の都道府県にわたつており、その調査対象がかなり
広範囲かつ大量であることに鑑みれば、内容にある程度誤記入等があるとしても、総合的
な平均値としてみた場合、この種の碑・塔のおおよその実態と傾向を知るうえでは、一つ
の参考になると思われる。
5憲法八九条前段及び同法二〇条一項後段の解釈
(一)原告らは、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」及び同法二〇条
一項後段にいう「宗教団体」とは、広く宗教に関係ある事業ないし活動そのものを指すと
解すべきである旨主張する。
(二)しかしながら、憲法八九条前段、二〇条一項後段の政教分離規定は、憲法二〇条
一項前段の定める信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離
を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするもので
ある。したがつて、
右政教分離規定は、国が財政面・社会面、文化面において宗教とのかかわり合いを持つこ
とを全く許さないとする趣旨ではなく、国が特定の宗教団体に財政的・社会的・文化的な
、、、援助をするときには国が特定の宗教を選別しさらには国教を認めるという事態が生じ
ひいては信教の自由を侵害する結果に至ることに鑑み、右援助・特権の付与を禁止してい
るものと解される。
憲法八九条は、このような観点から、その前段においては、宗教上の組織若しくは団体に
ついては、その事業の如何を問わず、公金その他の公の財産を当該組織若しくは団体の使
用、便益若しくは維持のために支出すること等を禁止しているのに対し、その後段におい
ては、公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業については、その主体如何にか
かわらず事業そのものに着目して財産上の援助を禁止しており、また、同法二〇条一項後
段も、同法八九条前段と同様に、その事業の如何を問わず、宗教団体に対し、国・地方公
共団体が特権を付与することを禁止していると解される。
(三)そして、前記のような各規定の趣旨、文言、体裁からすれば、憲法八九条前段に
いう「宗教上の組織若しくは団体、同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」とは、信仰」

ついて意見の一致する者によつて結成された宗教的活動を目的とする団体と解するのが相
当であり、以下、このような観点から市遺族会が右にいう「宗教上の組織若しくは団体」
あるいは「宗教団体」にあたるか否かについて検討する。
6日本遺族会とのつながりにおける市遺族会の宗教団体性
原告らは、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、日本遺族会と性格を同じくする
ものであるところ、日本遺族会は、靖国神社を崇敬するという点で共通の意見を持つた遺
族の集合体であり、同神社の教義とこれに対する信仰を広める宗教的活動を目的とする団
体であるから、憲法八九条前段、二〇条一項後段につき、前記5の(三)のような解釈を
とつても、右各法条にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは「宗教団体」に該当す
る旨主張するので、この点につき検討する。
(一)日本遺族会の宗教団体性に関する事実関係
前記1に認定、判断したとおり、日本遺族会と各都道府県遺族連合会及び各市町村遺族会
は、全体として共通の目的を有する一体の組織であり、市町村遺族会の一つである市遺族
会も、
日本遺族会の組織の一部たる一地方支部と解され、その意味で日本遺族会の団体としての
、、()、性格は基本的に市遺族会の性格となつているというべきところ前記2及び4の一
(二)認定の各事実によつて認められる日本遺族会の性格、活動状況、同会と靖国神社と
の関係及び靖国神社の性格等の概要及びその特質は、以下のようなものである。
(1)日本遺族会の性格、活動状況等
日本遺族会の事業活動を通観すると、同会の前身である遺族連盟のころは、靖国神社の慰
霊行事を国費で支弁する決議をするなどしていたとはいえ、その事業の中心は、もつぱら
遺族の経済的な困窮の改善を目指す遺族援護に関する各種活動にあつたこと、また昭和二
八年に発足した日本遺族会もその当初から、靖国神社の国家護持を初めとする英霊の顕彰
運動も事業目的の一つにしていたとはいえ、初期の事業の中心は、公務扶助料の増額等遺
族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くことにあつたこと、その後、同会の運動の成果もあ
つて、遺族に対する経済面の処遇が次第に改善されるにつれ、遺族の精神的慰藉の面を持
つ英霊顕彰事業(慰霊事業を含もことは前記のとおり)にも重点が置かれるようになつて
きたこと、右英霊顕彰事業の中心は、昭和三七年ころまでは、靖国神社・護国神社の例大
祭等への奉讃や、各護国神社での慰霊祭執行、靖国神社参拝に関する業務等であつたが、
それ以後は、靖国神社国家護持や、公式参拝実現運動が最も中心となる運動になつている
こと、日本遺族会の主催する慰霊大祭は、靖国神社において、靖国神社の祭式に従つた形
で行われていること、もつとも、このように、日本遺族会は、次第に英霊顕彰事業にその
事業の重点を移してきたとはいえ、戦没者遺族に対する各種給付金の増額、支給範囲の拡
大等の運動も、同会の重要な事業として継続しているほか、最近では、平和記念総合セン
ターの建設構想や、原爆被害者、一般被災者らの処遇改善問題への取り組みも、その事業
方針に含めていること、なお、前記のように、同会の英霊顕彰事業の中心は、靖国神社と
の関係にあるとみられるが、それに尽きるものではなく、同事業の一環として、外地遺骨
収集の完全実施及び慰霊塔の建立の推進、戦跡巡拝実施、全国戦没者追悼式国費参加者の
増員、戦没者の遺影・遺品などの収集、遺書などの記録保持と公開や、
戦没者叙勲の実施あるいは英霊の日制定を目指す運動等もその中に含まれていることが明
らかである。
(2)日本遺族会と靖国神社との関係
次に日本遺族会と靖国神社とのつながり、かかわり合いについてみると、日本遺族会の前
身である遺族連盟の結成にあたつては、当時の靖国神社の嘱託であつたMが、各地方を巡
歴して、遺族の組織結成の勧奨をするなど、その発足に尽力し、また、その後も、日本遺
族会の理事と靖国神社の責任役員との間には、交流関係が続き、日本遺族会は、その成立
の当初から、靖国神社と密接なつながりを持つていたこと、さらに、日本遺族会は、遺族
連盟時代の昭和二七年一一月に、靖国神社の慰霊行事を国費で支弁することを決議して、
政府と国会にその旨の要望書を提出し、さらに日本遺族会として発足後まもなくの昭和二
八年一一月には、日本遺族会及び各都道府県の遺族会の会長らが理事となつて靖国神社奉
賛会が設立され、昭和三一年ころからは、日本遺族会独自で、靖国神社法案の草案の検討
、、、を開始するとともに毎年の全国戦没者遺族大会で靖国神社の国家護持に関する決議や
またそれに基づく署名運動などを繰り返し、そのような運動や、遺家族議員協議会を通じ
、、、、、ての運動の結果昭和四四年には靖国神社法案の国会提出に至りまた右法律の可決
成立は、当面客観的諸情勢から難しいとみるや、運動方針を一時変更し、靖国神社の公的
地位向上を主目的とする全国民的な英霊顕彰組織の結成を呼びかけ、日本遺族会が中心と
なつて「英霊にこたえる会」を結成し、以後は、右会と協力関係を保ちつつ、引き続き、
靖国神社公式参拝の要求等の靖国神社の公的地位向上の運動を続けていることが明らかで
ある。もつとも、これら日本遺族会が、靖国神社と深いかかわり合いを持ち、その国家護
持運動等を進めるゆえんが、同神社の神社としての隆盛、発展、あるいは同神社の教義と
これに対する信仰の普及、拡大自体を目指しているとは必ずしも解されず、要は、戦没者
が国家のために一命を捧げた以上、戦没者に対する国のかかわりと責任を明確にし、その
遺族に対しては、国家として公的な慰藉を示すべきであり、そのための戦没者の慰霊の場
としては、歴史的沿革からも、遺族の心情からも靖国神社がもつともふさわしいという趣
旨に出ているものと解される。
(3)靖国神社の性格及びその特質
また、靖国神社の性格、
宗教的特質としては、以下の事実が認められる。
(1)靖国神社の起源は、幕末から明治維新にかけての国事殉難者を祀つた招魂社にあ
るが、靖国神社は、明治一二年、東京招魂社の社号を改め、別格官幣社として発足したも
のであり、その創建の趣旨は、天皇のために戦つた戦没者を肥ることにあつた。また、同
神社の創建の趣旨及び祭祀の背景となつている宗教思想は、人間の死後も霊魂が存在する
との観念のうえに立ち、それを招き降ろして神霊として祀るという招魂の思想に基づく面
と、天皇のために戦い、死んだ者を、他の戦死者等と区別し、特に神霊として祀るという
天皇崇拝を主軸とする実質的国家神道の思想に基づく面を持ち、この両者が渾然一体をな
していたものであり、それを端的にいうならば、その宗教思想は「忠魂」を称え、慰め、

ことにあつたといえる。
()、、、2このように靖国神社はその祭祀の面でもそれを基礎づける宗教思想の面でも
まぎれもなく特定の宗教施設であつたが、制度的・実質的国家神道の浸透につれ、戦没者
の慰霊すなわち靖国神社への合祀というように受け止められるようになつた。なお「英、
霊」という言葉は、そのような国家神道の背景下で、戦争において積極的に戦い、死んだ
戦没者の霊魂を指すものとして使われるようになつたものであり、実質的には、忠魂と同
義であつて、その顕彰の中心は、靖国神社に祭神として祀られることにあつた。
(3)敗戦とそれに伴う制度的国家神道の解体により靖国神社の国家的祭祀施設として
の地位にも変化がみられるのはもちろんであるが、同時に、その宗教思想についても、前
記のような実質的国家神道に基づく面は、一部変容したものと考えられ、今日、同神社に
英霊として合紀されるゆえんは必ずしも天皇のために忠義、忠節を尽したからというより
、。、は国家のために死亡した者を祀るというような形に変わつてきていると思われるまた
右靖国神社の宗教思想の変容の有無はともかく、英霊という言葉の宗教性には、変容があ
ることは否定しえない。すなわち、英霊という言葉は、かつて忠魂と同義であり、天皇の
ために忠義を尽して死んだ者の魂という意味であつて、その面で実質的国家神道及び靖国
、、、神社の宗教思想と密接に結び付いた言葉であつたが実質的国家神道の消滅に伴い今日
それは国家のために命を捧げた死者という意味での戦没者に対する一般的美祢として用い
られているとみざるをえず、右言葉自体の宗教性は希薄になつていると解される。
(二)日本遺族会の宗教団体性についての判断
日本遺族会が靖国神社の崇敬者団体であると考えられる余地があり、また同会が靖国神社
の教義とこれに対する信仰を広める等宗教とかかわり合いのある活動を行つているとみら
れないではない点としては、次の諸事実が挙げられる。
(1)靖国神社規則との関係
靖国神社規則三条には、同神社の目的として「本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇、

者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他神社の目的を達成するための業務を行うこと
を目的とする」との規定があり、靖国神社の崇敬者(信者・信徒)は、同神社に祀られ。

いる戦没者の遺族であることが明らかであるところ、日本遺族会の会員である遺族は、旧
軍人・軍属等の遺族であつて、その戦没者の大多数が、靖国神社に祭神として祀られてい
ると考えられること、また、それらの会員は、靖国神社の国家護持運動等、靖国神社の地
位向上につながる日本遺族会の方針を積極的に支持しあるいは少なくとも黙示的に支持し
ていると考えられること、日本遺族会は、その前身である遺族連盟を含め、その発足の当
初から、靖国神社と密接な人的つながりを有すること。
(2)靖国神社の国家護持運動等と日本遺族会
日本遺族会はその前身である遺族連盟時代の昭和二七年一一月に、靖国神社の慰霊行事を
国費で支弁することを決議して、政府と国会にその旨の要望書を提出して以来、毎年の全
国戦没者遺族大会で、靖国神社の国家護持に関する決議や、それに基づく署名運動などを
、、、、繰り返しそのような運動や遺家族議員協議会を通じての運動の結果昭和四四年には
日本遺族会が実質的な推進母体となつて、靖国神社法案の国会提出に至り、また、右法律
の成立が、当面難しいとみるや、運動方針を一時変更して、全国民的な英霊顕彰組織の結
成を呼びかけ、日本遺族会が中心となつて「英霊にこたえる会」を結成し、以後は、右会
と協力関係を保ちつつ、引き続き、靖国神社公式参拝の要求等の靖国神社の公的地位向上
の運動を続けていること。
(3)日本遺族会の英霊顕彰事業の内容等
日本遺族会は「英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業(以下、これらを「英霊顕彰事業」、」
という。
)ということを遺族の処遇改善、福祉の向上と並んで、その主要な事業活動、運動方針に
、、、、しているところ現在における右英霊顕彰事業の内容としては外地遺骨収集戦跡巡拝
戦没者の遺骨・遺品の収集等必ずしも靖国神社・護国神社に関連しない活動もあるもの
の、
やはりその主体は、靖国神社、護国神社への参拝の推進とその護持・奉讃、中でも靖国神
社の国家護持、公式参拝実現を目指す運動が主要な内容になつていること、また、日本遺
族会の英霊顕彰事業の将来的な目標は、靖国神社を国営化あるいは公的な参拝の場とし、
それについて全国民の合意、支持を得ることにあること、また、右日本遺族会主催の慰霊
大祭は、靖国神社において、かつ靖国神社の祭式にしたがつた形で行われるなど、その英
霊の顕彰の内容は、現実の内容面においても、そのかなりの部分が靖国神社及びその地方
分社的性格を有する護国神社の護持や、その祭式にしたがつた慰霊行事が中心となつてい
ること。
(4)英霊顕彰事業の性格、宗教性
右(3)に述べたとおり、日本遺族会の英霊顕彰事業は、靖国神社あるいは護国神社の護
持等の運動並びにその祭祀と密接に結び付いたものであるが、それは「英霊の顕彰」とい
う観念が持つ歴史的性格に由来する面も大きいと考えられること、すなわち前記認定のよ
うに「英霊」という言葉は、必ずしも戦死者の霊一般を指すものではなく、本来、実質、

、(。)、、国家神道のもとにおいて天皇のためそれはすなわち国家のためであつたに忠義
忠節を尽して死に、それゆえに靖国神社に神として祀られた戦没者の霊魂ということを指
す言葉であり「忠魂」という語と同義であつて、それは形式的・実質的国家神道の体制、

で、一般化した用語であり、また、その顕彰ということも、単なる死者の追悼というにと
、、、どまらず靖国神社に祭神として祀られることを本義とするものであつたこともつとも
制度的・実質的国家神道の浸透につれ、英霊という呼称は、広く戦没者の霊一般を指すも
のと受け止められるようになり、また、戦没者の霊魂の帰一するところは、靖国神社のほ
かにないとの観念が一般化するに伴い、靖国神社における英霊の顕彰こそが真の意味の戦
没者の追悼・慰霊であると考えられるようになつたうえ、制度的国家神道の解体とそれに
伴う実質的国家神道の消滅に伴い、今日、英霊という観念自体の宗教性は、
希薄になつていることはたしかであるが、しかし、少なくとも日本遺族会あるいは「英霊
にこたえる会」が英霊の顕彰という場合、そこには種々の活動が含まれるにしてもその中
心的な活動は、靖国神社の国家護持等にしても、靖国神社・護国神社等の宗教行事への奉
賛にしても、戦没者の霊を神道の宗教法人たる靖国神社に神として祀り、あるいは祀るべ
きであるとする宗教思想を基盤とするものであつて、このような英霊の顕彰という観念の
持つ歴史的性格が、日本遺族会の英霊顕彰事業と靖国神社とを結び付ける大きな要因にな
つていることは否定しえず、その意味で、日本遺族会の行う英霊顕彰事業は、本質的に靖
国神社の祭祀及びその宗教思想と親和性を有し、結び付きやすい性向を有すること。
しかしながら、以上の諸点は、日本遺族会が宗教団体であるとする原告らの主張を肯認す
るに足る事情ということはできない。その理由は、以下のとおりである。
(1)たしかに靖国神社規則三条の規定からみる限り、日本遺族会は同神社の祭神であ
る戦没者の遺族の団体としての性格を持つようにみえるけれども、その由来、経緯を考え
ると、そもそもの日本遺族会の発足の経緯は、広い意味での戦争犠牲者の遺族一般を対象
として組織されたものではなく、もつぱら旧軍人、軍属等の遺族の集合体であり、このよ
うな遺族の肉親たる戦没者は、戦前の国家神道体制下及び戦後の一括合祀あるいは個別合
祀で、好もと好まざるとにかかわらず、いわば自動的に、靖国神社に祭神として祀られた
ものであつて、かつ、それが戦没者にとつても遺族にとつても名誉であり、真の慰霊であ
るとされてきたこと、今日でも日本遺族会に結集する遺族の大多数は、靖国神社を信奉す
る者が多いことは推測に難くないが、その遺族らの同神社を信奉するゆえんはもつぱら右
のような歴史的経緯に基づくものと認められ、みずから進んで、その教義に対する信仰を
、、、求めそこに慰霊の場を求めるに至つたものではなくまた制度的国家神道の解体に伴い
靖国神社の国営祭祀施設としての性格が失われ、また実質的国家神道も消滅した今、右の
ような遺族らと靖国神社との結び付きもかつてのような強固さを失つていると考えられる
こと、なお、靖国神社を信奉する戦没者の遺族らの意識としては、その神社としての宗教
的性格、その教義に対する信仰のゆえに同神社を信奉するというより、
むしろ親しい肉親に会いに行くという心情を持つているものが多いと思われること(もつ
とも、その場合でも靖国神社は、その肉親をまさに神として祀る神社である以上、その参
拝の宗教性は否定しうべくもないのであるが、しかし、この点は、同神社の崇敬者といえ
るか否かについての判断にあたつては考慮されるべき事情であると思われる、さらに、。)
、、「」日本遺族会は結果的にみて靖国神社規則三条にいう靖国神社を信奉する祭神の遺族
が集合した団体としての性格を持つものではあつても、そのような崇敬者団体たることを
目的として発足したものでないことはもちろん、個々の遺族らにおいて、肉親が国の手に
よつて、かつ、好むと好まざるとにかかわらず、そこに祀られており、それゆえにそこに
参拝するという意識を超えて、靖国神社の教義を信じ、同神社の発展を積極的に願うとい
う気持がどこまであるかは極めて疑問であることなどを総合的に考慮すれば、結局、右規
則の規定をもつて、日本遺族会が靖国神社の崇敬者の団体であるとまでいうことはできな
い。また、日本遺族会と靖国神社との人的なつながりの深さについては、前述のとおりで
あるが、靖国神社創建の趣旨は、本来的に、戦没者の霊を祀ることにあり、特定の地域に
結び付いた氏子等を支持基盤とするものではない以上、制度的国家神道が解体した戦後に
おいて、同神社の存立を支えるものとしては、そこに神として祀られている戦没者遺族を
おいてはなく、また、そのような事情もあつて、前記のような靖国神社規則が制定される
に至つたのではないかと考えられるところ、一方、日本遺族会及びその前身たる遺族連盟
も、旧軍人、軍属の遺族という、戦前の国家神道体制下であるいは戦後の一括合祀で、そ
のほとんどが靖国神社に合紀された戦没者の遺族が結集した団体という性格を持つのであ
つて、このように両者は、いわばその母体集団を共通にする関係に立ち、事の是非はとも
かく必然的にある程度のつながり、かかわり合いを伴いやすい関係にあると考えられるの
であり、これらの事実に照らせば、日本遺族会の発足当初あるいはその後の同会の組織構
成の上で、靖国神社と密接な人的つながりがあることをもつて直ちに日本遺族会が靖国神
社と組織的同一性を有し、あるいはその崇敬者団体であることを基礎づける事情とするこ
とはできないというべきである。
(2)日本遺族会の靖国神社国家護持運動あるいは公式参拝要求運動等をみると、あた
かも、同会が、靖国神社の隆盛あるいはその教義に対する信仰の発展、拡大それ自体を会
の目的としているかのようにも受け止められる要素がないではないが、日本遺族会が、靖
国神社の国家護持あるいは公式参拝運動等を行つている趣旨が、戦前のような同神社の国
営祭祀施設としての性格の復活あるいは同神社の宗教思想の国教化を目指すものとは解さ
れず、要は、国家の要請により、国家のために身命を賭して戦地に赴き、国家に殉じて死
亡した戦没者に対し、国として公的に慰霊する場を設けないのは、そのような戦死者に対
し、非礼であるという考えに基づくものと思われるし、その場を靖国神社とすることにつ
いても、そのような戦没者が、戦地に出征するに際し、死んだら靖国神社で会おうという
ことを相言葉のようにして赴いていつたという歴史的経過や、戦没者遺族らの多数にとつ
て、靖国神社は、今日もなお身近な慰霊の場と考えられていること、さらに、国としても
前記のような相言葉のもとに、出征者を戦争に送り出しながら、しかも靖国神社自体は依
然存続しているにもかかわらず、国家体制が変わつたからといつて、その約束を守らない
のは、国家の死者に対する背信であるとの意識等に基づくものと考えられるのであつて、
事柄を客観的にみた場合、これらの活動が靖国神社自体の隆盛、発展を目指し、あるいは
同神社の教義に対する信仰の普及、拡大を図る意図の下になされているとは認めがたい。
(3)日本遺族会は、現在、英霊の顕彰事業を主要な活動目的とし、現実の事業として
いるとはいえ、その発足の経緯は、戦没者遺族等の困窮の中で、その処遇改善、福祉の向
上を目指して結成された団体であり、本来、英霊の顕彰事業自体を目的として設立された
団体ではなく、現実の活動面も当初は、ほとんどもつぱらそのような事業のみであり、か
つ、その運動の成果もあつて、各種遺族援護法の成立等遺族の処遇改善の措置が図られる
に至つたと認められること、かつ、このような遺族の処遇改善、福祉向上の事業は、今日
も、なお、日本遺族会の事業の目的とされているばかりでなく、現実にも英霊顕彰事業と
並ぶ、日本遺族会の主要な事業となつていること、また、右英霊顕彰事業の内容も、靖国
神社に関係する部分が多いとはいえ、決してそれに尽きるものではなく、
外地での戦跡巡拝や遺骨収集等の活動とそれへの協力、慰霊塔の建立の推進、戦没者の遺
、、「」(「」)骨・遺品等の収集・保管戦没者叙勲の完全実施戦没者慰霊の日のも英霊の日
等必ずしも靖国神社あるいはそれと系列を同じくする護国神社等に関係しない部分もそれ
に含まれているのであり、これらを考え合わせれば、日本遺族会全体の事業の中で、これ
ら靖国神社等に関係して宗教的性格を帝びる活動の割合が必ずしも絶対的に高いとはいえ
ないと考えられる。そのうえ、日本遺族会が、靖国神社に関係する部分を含む英霊顕彰事
業を会の活動内容としている経緯、動機、目的を検討しても、それが靖国神社の隆盛ある
いはそれを通じての靖国神社の神社としての発展あるいはその信仰(宗教思想)の普及そ
れ自体を目的としているとは認めがたく、むしろ、戦没者の集合体としての日本遺族会の
活動の一つとして、戦没者の追悼行事を行うべきであり、かつそれが遺族の精神的慰藉に
つながるという方針に基づくものであり、かつ靖国神社をその慰霊の場の中心に置いたこ
とも、かつての制度的・実質的国家神道体制下で、死んだら靖国神社に神として祀られる
と信じて戦地に赴いた戦没者及び死を名誉の死として称えられていた遺族の心情を思え
ば、
客観的にみた事の当否はともかく、無理からぬところがあると考えられるのであり、これ
ら英霊顕彰事業の経緯、動機、目的からすると、日本遺族会の右事業をもつて、同会が主
として宗教的活動を目的とする団体であるとみることはできない。
(4)さらに、英霊及びその顕彰という観念の歴史的性格及びそれが本質的に靖国神社
と結び付きやすい性格を有することは前記のとおりであるが、しかし、敗戦に伴う神道指
令とそれに引き続く天皇の人間宣言によつて制度的国家神道が解体し、実質的国家神道の
消滅した今、これら英霊及び英霊の顕彰の宗教性が希薄となつているとみられることは前
記のとおりであり、このように英霊の顕彰ということ自体は、今日必ずしも宗教的性格を
持つ観念ではないとの点からみても、日本遺族会が英霊顕彰事業を行つていることから、
直ちに同会の宗教団体性を認めることは困難であるといわなければならない。
(5)もつとも、かつての制度的国家神道の時代に生まれ育ち、そのもとで教育を受け
た人々にとつて、意識は、一朝一夕に変わるものではなく、それらの人々の中には、靖国
神社を依然、
国家的な祭祀施設と受け止め、その宗教的性格を、かつてのように天皇の神聖性に結び付
けて考え、それゆえに絶対的な尊敬を捧げ、英霊という観念についてもその延長線上のも
のとして受け止めている人々もいるであろうことは想像に難くなく、また、前記認定のよ
うに、実質的国家神道はその中に、封建的忠誠の観念や、日本人の宗教的伝統に根差す祖
先崇拝の観念をもこれに結合させ、それによつて、孝を家父長制的家族道徳の基本とし、
それを家族国家観にそのまま拡大したという面をも持つのであつて、これらの家父長制的
家族道徳やその国家的延長線上にある、国家のために尽くすことが人間の至上の生き方で
あり、その死は、至上のものとして称えられるべきであるといつた観念は、未だ多くの人

の意識の中に残存していると考えられ、これらが、天皇の神聖性、絶対性が崩壊した今日
でも、戦没者の霊を英霊と呼び、その靖国神社における顕彰が叫ばれる一つの要因になつ
ていると考えられるが、前記のように、靖国神社及び英霊の宗教的性格を戦前と同じよう
な意識で受け止める考えかたが、国民の一般的な意識とは認めがたいし、また、右のよう
な国家至上主義ともいうべき考え方も、その宗教性を基礎付けていた天皇の神聖絶対性と
切り離してみた場合、もはや、宗教というより、政治的、道徳的観念、価値判断の領域に
属するというほかない。
また、靖国神社が、かつては制度的・実質的国家神道の中核的施設であり、軍国主義、超
国家主義思想の拡大に寄与する役割を果たし、そのような国家神道に支えられた軍国主
義・超国家主義体制の赴くまま引き起こされた今次の大戦が、隣接のアジア諸国等の人々
に甚大な被害をもたらしたことはもとより、国内的にも、靖国神社に合紀されるような戦
没者のみならず、原爆被害者や直接戦地となつた沖縄の住民ら多数の戦争被災者・犠牲者
を出したこと、また、直接の戦争犠牲者以外にもそのような体制下において、その思想・
信条のゆえに思想的・宗教的弾圧を受け、死を余儀なくされた人々も決して少なくはない
こと、これらの人々及びその遺族らにとつて、国家神道を基盤として拡大していつた超国
家主義・軍国主義の忌わしい思い出は容易に消え去るものではなく、それらの人々の中に
は、そのような体制と密接に結び付いていた靖国神社に対し、前記のような戦没者遺族ら
とは全く相反する認識、
感情を持つ人々もいることを考慮すれば、そのような人々にとつては、あたかも日本遺族
会が、戦前のような靖国神社の国営祭祀施設としての地位の復権や国家神道の実質的復活
を目指す一つの宗教団体であるかのような観を呈し、さらにそのような運動等を通じ、現
実にも、再び同神社を中心として国家神道が復活し、軍国主義へと結び付いていくのでは
ないかとの懸念を抱くこともあながち無理からぬ面もあると考えられる。
しかしながら、前記のとおり、客観的にみれば、日本遺族会の右活動は、靖国神社を戦前
のような国家神道の中心的施設に復活させるとか、軍国主義、超国家主義を鼓吹すること
を目指すものとは解されず、むしろ前記の歴史的経緯に基づく遺族の素朴な心情を基礎と
するものと思われるから、結局、これらの点も、靖国神社の宗教的崇敬及び英霊の顕彰と
いう観念や日本遺族会の右活動の宗教性に関する前記判断を覆すに足るものではない。
以上の諸事実を総合考慮すれば、日本遺族会は、原告ら主張のように、靖国神社を崇敬す
るという点で共通の意見を持つた遺族の集合体であり、同神社の教義とこれに対する信仰
を広める宗教的活動を目的とする団体であるといえないことは明らかである。
したがつて、日本遺族会をもつて、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」
あるいは同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」にあたるとすることはできないから、そ
の支部である市遺族会も、右日本遺族会の支部として「宗教上の組織若しくは団体」あ、

いは「宗教団体一にあたるということばできない。
7市遺族会の目的、事業活動と宗教団体性
原告らは、市遺族会に参加している遺族は、靖国神社を崇敬するという点で共通の意見を
持つており、同神社の信仰を目的とする団体を構成しているから、それ自体の性格からし
ても、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段
の「宗教団体」に該当する旨主張するので、以下、この点につき検討する。
(一)市遺族会の宗教団体性に関する事実関係
(1)市遺族会の目的、事業活動等
前記3、4の(三)の認定事実によれば、市遺族会は、各会員の慰問激励とその厚生の方
法を講じ、遺族の福祉向上に資することをもつてその目的とする団体であるところ、右目
的を達成するための現実の事業活動を大別して整理すれば、以下のようなものであり、
その昭和五一年度の歳入歳出状況は、別紙市遺族会会計状況一覧表の原告主張欄記載のと
おりである。
(1)戦没者の追悼、慰霊事業及びそれに関わる事業
イ靖国神社参拝を主目的とする上京旅行(これは同時に、会員相互の親睦、慰安事業で
もあると考えられる)。
ロ本件慰霊祭を含む各地区遺族会(支部)慰霊祭の挙行
ハ全国、または府の戦没者追悼式への参加及びそのとりまとめ
ニ大阪護国神社春秋大祭参加(集団参拝)
ホ四天王寺の英霊堂での慰霊行事に協賛
(2)会員相互の親睦、慶弔事業
イ靖国神社参拝を主目的とする上京旅行
ロ大阪府遺族会の春秋上京旅行参加
ハ死亡遺族への弔慰金の支出等
(3)国、大阪府との関係における遺族援護行政にかかわる事業
イ遺族援護関係法律の改正点等の周知、徹底
ロ戦跡巡拝、遺骨収集の参加者とりまとめ等
ハ府の年末慰問品配布及び戦没者遺族実態調査票配布の手伝い
(4)その他の事業
イ市遺族会の活動、運営に関する事業(評議員会、理事会等の開催、青年部会議等、会
計、一般事務、広告関係の仕事)
ロ他団体とのつながり、交際関係の事業
ハ府遺族会との連絡、会議、日本遺族会等への会費納入等
ニ青年部による靖国神社参拝研修
ホ神社暦の配布
ヘ本件忠魂碑の維持、管理
これらの諸活動のうち(1)のニ、ホは、その全部が(1)のイ(2)のイ(4)、、()、

ニは、少なくとも靖国神社の参拝については、宗教にかかわる活動であることは明らかで
、()、()、、()、、、()、、、、ありまた1のハ2のロハ3のイロハ4のイロハホは
それ自体では、宗教にかかわる活動とはいえない(なお(4)のホの神社暦の配布及びそ
、、。)の使用は今日ではもはや宗教的意味を持たない世俗的な行為と認めるのが相当である
と考えられる。もつとも、市遺族会が、これら宗教にかかわる活動を行つているのは、戦
没者遺族の集合体としての性質上、右遺族らの精神的慰藉を図る目的によるものと考えら
れ、それを超えて宗教的活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡
大を目的としていることを窺わせる事実はない。なお(1)のロの本件慰霊祭を含め市、

族会が毎年本件忠魂碑前で行つている戦没者慰霊祭の性格、その宗教性と(4)のへの、

件忠魂碑の維持、管理が、
宗教的活動にあたるといえるか否かの点についての判断は、後記のとおりであるが、これ
ら碑前慰霊祭の挙行及び本件忠魂碑の維持、管理も、市遺族会の会員たる遺族らの精神的
、、、、慰藉を図る目的から地域戦没者の追悼慰霊行事を施行するとともに戦没者たる親子
兄弟等を想起してその事蹟を永く記念するという意味で行われていると認められ、それを
超えて、宗教的活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大を目的
としているとは認めがたい。
(2)忠魂碑一般の性格及びその碑前での慰霊祭の歴史、特質等
前記4の(三)の認定事実によれば、忠魂碑一般の性格及びその碑前での慰霊祭の歴史、
特質等は、以下のとおりである。
(1)初期の忠魂碑あるいはその源流となつたと考えられる招魂碑の性格は、招魂墓碑
としての性格を持つ系統のものもあり、一方で単なる事蹟、あるいはそれに関連する人名
等を書きとどめるものもあり、その名称が区々であるように、その性格を一義的に決する
ことはできず、具体的にその設立の趣旨、目的によつてその性格を判断するほかないが、
基本的には、招魂碑(のちに招魂社となり、そのうち、東京招魂社は靖国神社となり、各
都道府県のそれは護国神社となる)とその起源を同じくするものである。。
(2)日露戦争後、戦没者の慰霊・顕彰のための碑として忠魂碑という名称が定着する
とともに、在郷軍人会を中心に、各地でその建設運動が進められたが、他方、戦没者の慰
霊・顕彰という面では招魂社も同一の機能、役割を持つものであつてその建設も各市町村
で盛んになつた。このような状況下で、政府(内務省神社局)は、招魂社が多数乱立する
ことはその運営上あるいは崇敬の対象が分散することから好ましくないとして、その設立
を抑制する方策をとつたが、戦没者遺族、地域住民らは、各地域の戦没者の霊を郷土であ
る各市町村に祀り、そこに慰霊の場を設けたいという希望が強く、忠魂碑等の建立を進め
るとともに、各地区の忠魂碑等の前で、神式あるいは仏式の招魂祭あるいは慰霊祭を催し
てきた。
(3)満州事変の勃発に伴い、戦没者が急増した昭和一〇年ころから、もつぱら陸軍の
支援により、各地で遺骨を納めて合紀するための忠霊塔の建設が進められ、以後あらなな
忠魂碑の建設は少なくなつたが、忠魂碑が忠霊塔にすべて置き換わつたというわけではな
く、
忠魂碑は忠魂碑として在郷軍人会等による維持、管理がなされていたことはもとより、戦
時色が強まるにつれ、小、中学校の児童、生徒等に対する忠魂碑への参拝の指導、強制、
またそれら児童、生徒による忠魂碑の清掃、拝礼も日常化されていつた。
(4)敗戦後、神道指令により、制度的国家神道の解体が図られ、また軍国主義・超国
家主義に結び付く実質的国家神道も打破されることとなつたが、忠魂碑のすべてが軍国主
義的、超国家主義的思想の宣伝、鼓吹を目的とするものあるいは政教分離原則に反するも
のとされたわけではない。また、その後講話条約の発効を機会に忠魂碑が再建、復元、あ
るいは新設されたが、必ずしもそれらの前で慰霊祭が行われるというわけでもなく、行わ
れる場合にも、その祭式は、特定の宗教、宗派によるとは限らず、その主催者も多様であ
る。
(二)忠魂碑の宗教施設性及び忠魂碑前での慰霊祭の宗教性
(1)忠魂碑の宗教施設性
原告らは、忠魂碑は、天皇のために忠義を尽して戦死し、靖国神社に祭神として祀られて
いる戦没者を、地域において、慰霊、顕彰するために建てられた石碑であるところ、それ
は、霊魂の存在を推知させる礼拝の対象としても機能する社会的存在であり、この意味に
おいて、天皇のため死んだ者を神として祀り、あとに続く者に忠君愛国の精神を鼓舞する
国家神道の宗教施設であり、軍国主義教化施設である旨主張するので、以下、この点につ
いて検討する。
(1)まず、前記4の認定事実によれば、忠魂碑の「忠魂」という名辞は、本来、天皇
に忠義を尽した戦死者の魂という意味であり、日露戦争後に一般化した名称であるが、そ
の背景には、このように累次の内戦及び日清、日露戦争で、天皇に忠義を尽した(それは
国家のためということと同義であつた)戦死者を慰霊・顕彰する碑の名称としては、そ。

が最もふさわしいと考えられたという事情があつたところ、明治維新後、同じく戦死者を
慰霊・顕彰するという目的のために招魂社が建てられ、それが東京招魂社から靖国神社へ
と、また各地の官祭・私祭招魂社から指定・指定外護国神社へと発展していつたこと、ま
た、靖国神社と護国神社とは本社、分社の関係にはないものの祭神を共通にするものであ
り、その祭神とはまさに天皇のために忠義を尽して死んだ戦死者であつたことが明らかで
あつて、これらの事実に照らせば、忠魂碑は、その建立の経緯、
動機においてこれら靖国神社、護国神社と共通の宗教的、思想的基盤を有していたことは
否定できず、そこでいう宗教、思想とは、靖国神社の宗教思想と同じく招魂の観念と、天
皇の神聖絶対性を前提とし、その威徳を広めるための聖戦において、戟死することを無上
のものとして称える実質的国家神道の宗教思想とが渾然一体となつたものであると考えら
れる。
(2)また、忠魂碑は、本来は、単なる記念碑であつて、それ自体は、宗教施設的性格
を持つものではないが、忠魂碑前での参拝に関する通達、通牒等の存在することから明ら
かなように、現実には、当時忠魂碑等の碑の前で、招魂祭、慰霊祭等が広く行われていた
こと、その背景には、忠魂碑は、その建立の経緯からしても、招魂社と同じく戦没者を追
悼、慰霊するという面があり、本質的に戦没者の追悼、慰霊行事と結び付きやすい性格を
有していたうえ、神社側は、戦死者を祀る正式の施設たる招魂社を各市町村ごとに設立す
ることには消極的であつたのに対し、戦争の激化に伴い、各市町村の戦没者の数も増え、
また在郷軍人会の組織化等により、それら地域ごとの戦死者の慰霊、顕彰の必要が高まつ
たため、各地で招魂祭、慰霊祭が行われることが多かつたが、その際、招魂社に代わる場
、(、、所としては一般の神社その由来は種々雑多なようであるがその土地に土着の神社は
通常は、豊作祈願等その地域の平穏無事を願うものが多く、戦死者との結び付きは希薄で
あると思われる)よりは、戦死者のために建てられた碑であることが明確な忠魂碑等の。

前が最もふさわしいと考えられたこと、そのような状況を背景にして、満州事変に始まる
、、、、、、一連の戦争が拡大激化長期化しまた戦没者の数も増加していく中でそれに伴い
軍を中心とする政府は、忠魂碑を軍事政策の上で意図的に利用し、愛国心・忠誠心を高揚
すべく、戦没者は郷土の英雄であり、その死は無上のものとして称えられるべきであり、
各地域でそのような戦没者にならうという意味を込めて、忠魂碑を礼拝の対象とさせるよ
うになり、児童、生徒に対する参拝、日常の拝礼の強制等、忠魂碑自体を神社等の宗教的
、、な施設のように扱いそれを軍国主義の精神教育に利用するという面も生じたのであつて
これらの事実からすれば、忠魂碑が、公式的見解、法制上の扱いはともかく、事実上、地
域の戦没者を祀る施設であり、
そこには戦没者の霊魂が鎮座しているという観念が広く浸透し、本来の国家神道上の宗教
施設たる招魂社、護国神社さらには靖国神社と同様の意識で受け止められ、軍国主義の精
神的基盤たる実質的国家神道を支え、助長する機能を果たしてきたことは否定できない。
(3)しかし、このように忠魂碑が、靖国神社、護国神社と宗教的・思想的基盤を共通
にしていたとはいつても、他面、忠魂碑は、いしぶみたる碑としての本来の性格、すなわ
、、、、ち戦死者を記念するという面を持つていたことも確かであるうえ建立の経緯動機は
戦没者の慰霊、顕彰という面では、靖国神社、護国神社と共通な面を有するとはいえ、忠
魂碑の建立にあたり、戦没者の霊魂を靖国神社等に合祀するのと同じような形で、地域の
戦没者の霊魂を忠魂碑に合紀する祭式がとられていたわけではなく、その面で、たとえ、
忠魂碑に戦没者の霊魂が祀られていると観念されていたとしても、それは忠魂碑自体の本
来的性格からするものではなく、むしろその前での慰霊祭等の挙行を通じて次第に人々に
そのように観念されるに至つたものと考えられること、そして、神社側は、忠魂碑等の戦
没者碑を参拝の対象とすることには一貫して否定的であり、少なくとも神社側(内務省神
社局等)からそれら碑を祭祀施設として位置付けようとした事実はないこと、また、碑の
外観、形状等も、日露戦争後の碑は忠霊塔を除き、遺骨等が現実に埋葬された碑はほとん
どないこと等その施設自体も祭祀施設たることを予定していなかつたことが明らかであ
る。
なお、忠魂という言葉の持つ意味及びそれと招魂社、靖国神社等との関係については、前
、、、、記のとおりであるがしかし他面戦前においても戦没者を記念する碑の名称としては
、、必ずしも忠魂碑に限らず種々の名称の碑が存在していたことは前記認定のとおりであり
かつその間に特に碑の宗教的性格として有意な差異があるとも認めがたいのであつて、こ
のことは、忠魂碑が、本来的には、他の戦没者碑と同様、戦没者を記念する碑としての性
格を持つことを示すものと考えられる。
(4)このように、忠魂碑は、その字義からも、現実の機能からも、事実上、制度的・
実質的国家神道上の宗教施設たる招魂社、あるいは招魂場に類似した性格を有し、また、
それに近い役割を果たしてきたものであり、その面では、たしかに靖国神社、護国神社と
同様の性質、
機能を持つていた事実は認められるものの、他方、忠魂碑は、前記のように、それ自体に
おいては、宗教施設たる要素を本質的に備えているものではなく、その面では靖国神社、
護国神社等の本来的な宗教施設とは本質的に異なる性格を有するものであることも否定で
きないのであつて、結局、忠魂碑を宗教的な施設たらしめていた要因を分析すれば、戦前
の日本における軍国主義的国家体制と、その基盤をなし、広く国民の間に浸透していた制
度的・実質的国家神道及びそのもとで、挙行されていた碑前での招魂祭、慰霊祭等の儀式
が挙げられるのであり、それらを通じて、本来は、戦没者を追悼、記念する碑であつた忠
魂碑が、参拝、拝礼の対象とされ、また、各地域の戦没者の慰霊、顕彰の祭祀の中心とし
、、、て位置付けられ宗教施設化していつたものと考えられるのであつて忠魂碑それ自体が
それらの諸要因を離れても独立に宗教施設として存続し続けるような客観的要素は見当た
らない。
()、、、、5敗戦後前記のように神道指令により国家と神社神道は完全に分離されまた
神社とともに、軍国主義的、超国家主義的思想を支える機能を果たしてきた忠霊塔、忠魂
碑等も、その撤去が指導され、実行されたが、右措置も、忠魂碑が神社等と同様の性格を
、、持つ宗教施設であると認識しての措置とみるよりはそれが前記のように過去に軍国主義
超国家主義の鼓吹に利用されていたという面に着目したと解する方が自然であると思われ
る。また、講話条約発効後、戦没者を記念する忠魂碑、慰霊碑、忠霊塔等多種多様の碑・
塔が遺族団体等によつて建立されることが多くなり、しかも、碑・塔の前で数種の宗教の
形式をもつて、あるいは無宗教形式で、遺族会、市町村、自治会等各種団体が主催して慰
霊祭を行うことも多くなつたが、これらは、戦没者を慰霊・顕彰する碑・塔は、その銘文
のいかんにかかわらずもはや特に宗教、ことに実質的国家神道とかかわり合いのあるもの
ではなく、また、過去のように、軍国主義・超国家主義思想を宣伝鼓吹する目的を持つも
のではなく、もつぱら記念碑としての性格を有するものであるとの共通の認識のもとにな
されたものであると解される。
(6)そして、わが国は、新憲法のもと、平和主義及び国民主権の理念に立ち、軍国主
義的国家体制は解体され、それに伴つて実質的国家神道も少なくともその宗教的側面は、
国民一般の意識において消滅したとみるべきことは前記のとおりであり、このような政治
体制の変革に伴い、本来は、戦没者の事蹟を記念し顕彰するための碑であつた忠魂碑を宗
教施設化させていた諸制度とこれを支えていた宗教的基盤は、少なくとも一般大多数の国
、、、、民の中にはもはや存在しないことが明らかでありとすれば戦後においては忠魂碑は
右に述べたような国家神道上の宗教施設としての性格は消滅したかあるいはほとんど希薄
になつたといわなければならない。もつとも、前記認定のような本件忠魂碑の移設の際の
儀式及び本件慰霊祭の状況等をも考えれば、今日でも、忠魂碑は戦没者の霊魂を祀つたも
のであるとか、あるいはその前での慰霊祭は、戦没者の霊魂を招き降ろし、慰めるもので
あるというような宗教的感情は、未だ多くの人々の心の中に意識的あるいは無意識的に存
在していると考えられ、その意味では忠魂碑が、今日もなお宗教にかかわる碑であること
は否定しえないところであるが、しかし制度的国家神道の解体した今、それらの宗教的感
情を忠魂碑への日常の拝礼、参拝等に公的・強制的に結び付けろ要素はもはや存在しない
こと、また、右のような宗教性も、その内容において、天皇の神聖絶対性を基盤とする実
質的国家神道に結び付くものとは認めがたいのはもちろん、他の死者を追悼、記念する碑
や塔一般に対して一般人が抱く宗教的感情と特に異なつたものがあるとも認めがたいので
あつて、これらに制度的国家神道の解体した今、忠魂碑への拝礼、参拝等を公的に強制す
る要素は全く存在しないことをも考慮すれば、それをもつて忠魂碑が今日もなお宗教施設
としての性格を有するとはいえないと考えられ、結局、今日、忠魂碑は、もつぱら戦没者
を追悼、顕彰するための記念碑としての性格のものとみざるを得ない。
(7)また、戦後においても、忠魂碑等の碑銘を持つ碑が各地で建設され、その前で、
種々の方式で追悼式、慰霊祭等が行われていることは前記認定のとおりであり、それらは
忠魂碑等の碑が招魂祭等の祭祀の中心となる施設であつた戦前の状況と外見は一見類似す
るものの、右のようにそれを取り巻く政治的諸制度、宗教的諸要素は大きく変わつたのみ
ならず、それに参加する遺族等の意識の面でも、従来、軍国主義、超国家主義的思想を支
えてきた国家神道の教義は、今日、親子間の礼節といつた一般社会倫理、道徳といえる面
では、
人々の意識の中に、意識的あるいは無意識的に残存しているとしても、少なくとも、天皇
の神聖絶対性を前提とするその宗教的側面は、もはや一般的には消滅したと認められるの
であるから、今日、忠魂碑等の碑前で慰霊祭等を挙行あるいはそれに参加する遺族らの一
般的意識としては、その慰霊祭を、戦没者が、天皇のために一命を捧げたことを称揚し、
その忠君愛国の精神、天皇に対する忠義の故に戦没者を神霊として遇すると観念して施行
しているものではなく、むしろ、それらは、その主催者、形式にかかわりなく、儀式を通
じて親子、兄弟等肉親である戦没者の生前を想起し、故人を偲ぶという要素が強い(もつ
とも儀式の実質的な意味がこのようなものであるからといつて、それが、神式あるいは仏
式の宗教儀式として行われる以上、その宗教性を全く否定することができないことは明ら
かであるが)と考えられるのであり、とすれば、前記のような今日の忠魂碑前での慰霊。

等の挙行をもつて、今も、忠魂碑に宗教施設としての性格が残存しているということはで
きない。
(8)もつとも、忠魂碑という碑の宗教的性格がこのように変容したとはいつても、忠
魂という言葉自体の字義そのものまでが変わつたわけではないのであつて、忠魂碑という
碑の本来的性格が、戦争犠牲者一般と対比して、天皇に忠義を尽して死んだ人々を、その
忠義の故に、特に称え、尊拝する碑であるという面には変わりはなく、そして、このよう
な碑の前で行われる慰霊祭も、その祭式が神式であるか仏式であるかはともかく、おのず
と単なる慰霊碑一般の前で行われる追悼式等とは異なり、戦没者をそのような死に様の故
に特に褒め称え、その死を尊ぶという面のあることは否定できないのであるが、しかし、
実質的国家神道の消滅した今、英霊という観念に変容のみられるごとく、忠魂碑の前での
慰霊祭についても、前記認定の本件慰霊祭の状況にみられるように、もはや天皇の神聖絶
対性を前提とし、天皇のために忠節を尽したがゆえに戦没者を称えるというのではなく、
むしろ国家のために尽して一命を失つた戦没者の犠牲の上に今日の民主的で平和な社会が
築かれるに至つたとの観点から、戦没者を尊拝し、美称を使つて敬意を表しているとみざ
るを得ないのであるから、この点も忠魂碑の宗教的性格に関する前記判断を覆すに足るも
のではない。
(2)忠魂碑等の前での慰霊祭の性格
原告らは、
忠魂碑等の碑前での慰霊祭は「忠魂を慰める」ことを目的とする招魂の観念に基づくも、

であり、靖国神社の祭祀と同根同質の宗教儀礼である旨主張するので、この点につき検討
する。
(1)忠魂碑等の碑の建立の動機とその性格及びそれらの碑の前で招魂祭、慰霊祭が挙
行されるようになつた経緯、背景は、右(1)に述べたとおりであり、これらによれば、
忠魂碑等の碑は、戦前において、宗教施設たる靖国神社、護国神社の延長線上にあるもの
と受け止められ、また、その前で招魂祭、慰霊祭等が広く挙行されていたこと、なお、右
招魂祭、慰霊祭は、地域の戦没者の霊を郷土である各市町村に祀り、そこに慰霊の場を設
けたいとの各住民の気持に基づくものであること、そして、それらの慰霊祭は、神式、仏
式いずれの祭式によるかを問わず、戦没者に対する当時の一般的風潮と同様に、その忠君
愛国の精神を称えるという要素を持つていたことからすれば、基本的には、前記のような
招魂の思想及び実質的国家神道の宗教思想に結び付く面のあつたことは否定できず、その
意味で、戦前におけるこれら碑の前での慰霊祭が、靖国神社の宗教思想、その祭祀とつな
がる面のあることは否定しえない。
(2)しかし、戦前においても、これら忠魂碑等の碑の前での慰霊祭等が、もつぱらこ
れら招魂の思想あるいは実質的国家神道に基づく天皇崇拝の観点からのみ行われていたと
は必ずしも認めがたく、それは同時に、各遺族らの各人各様の思いで、それぞれ戦没者の
生前を想い起こして、故人を追悼するという面も持つていたと思われるが、それはさてお
、、、いてもそれら慰霊祭等と靖国神社の祭祀との共通基盤となつていた宗教的要素のうち
実質的国家神道に基づく天皇の神聖絶対性の観念がもはや国民一般の意識としては、消滅
したとみざるを得ないこと、今日、それらの碑の前で慰霊祭等を挙行あるいはそれに参加
する遺族の一般的意識として、その慰霊祭を、戦没者が天皇のために一命を捧げたことを
称揚し、その忠君愛国の精神、天皇に対する忠義のゆえに戦没者を神として遇するという
()、、意識をもつて施行するとは考えられないことは右1に述べたとおりでありとすれば
今日、これら碑の前で行われる慰霊祭をもつて、忠魂を慰めることを目的とするものとは
認めがたく、靖国神社が今も戦前と同じく、
右のような意味での忠魂を慰めることを本旨とする宗教思想を維持しているか否かはとも
かく、これら碑の前での慰霊祭をもつて、それが右のような意味での同神社の宗教思想と
結び付く、同神社の祭祀と同根同質の宗教儀礼であるとはいえないことは明らかである。
(3)もつとも、今日においても、これらの碑に死者の霊魂が宿り、あるいは慰霊祭に
おいて、死者の霊をその碑に招き降ろし、慰めるというような観念は、今なお、多くの人

の間に残存していると考えられるところ、これらは、招魂の思想あるいはその源流となつ
た御霊信仰に基本的に結び付くものであつて、その意味では、これら慰霊祭が、靖国神社
の宗教思想とその根底において共通する面があることは否定しえないが、しかし、それら
は、天皇への忠義、忠節を無上の徳として称えるという実質的国家神道が消滅した今、そ
れが直ちに忠魂を慰めるという靖国神社の宗教観念に結び付くものでないことはいうまで
もないのであつて、この点も前記の判断を覆すに足るものではない。
(三)市遺族会の宗教団体性についての判断
(1)市遺族会の目的、事業活動の概要
前記のように、市遺族会の目的は、会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉
向上に資することにあるが、その事業活動をみると、本件慰霊祭を含む各地区(支部)霊
祭の挙行、大阪護国神社春秋大祭への参加、四天王寺英霊堂での慰霊行事に協賛し、ある
いは靖国神社参拝を主目的とする上京旅行を行うなど、たしかに宗教にかかわる事業の比
重が大きいことは否定しえないが、しかし、決してそれのみに限られるわけではなく、遺
族援護関係法律の周知、徹底、戦跡巡拝、遺骨収集の参加者とりまとめ、府の年末慰問品
配布や戦没者遺族実態調査票配布の手伝い等、国、大阪府の遺族援護行政の補完的活動あ
るいはその上部団体である府遺族会主催の上京旅行参加など会員相互の親睦事業も、同会
の事業の中である程度の割合を占めていることが明らかであり、また、それら宗教にかか
わる活動も、宗教的活動それ自体あるいはそれを通じて特定の宗教、宗派の教義、信仰の
普及、拡大を目的とするものではなく、もつぱら戦没者遺族の精神的慰藉を目的とするも
のである。
(2)本件忠魂碑の性格、宗教性
()()、、、1前記3の四の認定のとおり旧忠魂碑は大正五年に分会によつて建立され
昭和一〇年代までは、毎年、
その前で慰霊祭が神式又は仏式によつて挙行され、戦後は、一度碑銘部分だけが地中に埋
められたが、その後、昭和二六年に再建されて、市遺族会の清掃管理するところとなり、
碑前慰霊祭が行われるようになつたものであつて、たしかに戦前においては、一時期礼拝
の対象とされていたことはあるものの、旧忠魂碑の建立の経緯や、その碑の形状等も、他
の一般の忠魂碑と特に異なるところはないといわなければならない。
(2)もつとも、前記認定事実によれば、本件忠魂碑の移設・再建工事を請負つた不動
建設株式会社は、移設工事前に旧忠魂碑の前で、移設・再建工事後に本件忠魂碑の前でそ
れぞれ神官による神式の祭儀を行い、その費用を負担したが、その際、市遺族会及び右会
員は、右儀式を、旧忠魂碑前でのものを移築報告祭・脱魂式と、本件忠魂碑前でのものを
移築竣工祭・入魂式と称したこと、さらに、昭和四一年ころ、当時の市遺族会の会長であ
つたYは沖縄の浪花の塔を参考にして過去帳記載の戦没者の氏名を丸杉板及び霊、「」、「
」、、爾と印された氷柱に移記しこれを本件忠魂碑の基礎台中に納めたことが明らかであり
()、、、また甲第六〇号証原本及び証人Uの証言によれば市遺族会の役員会員らの中には
本件忠魂碑に戦没者の霊が祀られていると観念しているものも相当数存在することが認め
られ、これらの諸事実に照らせば、本件忠魂碑が、もはや、それ自体で戦前のような意味
、、での宗教施設とまではいえないにしてもやはり単なる記念碑としての性格にとどまらず
戦没者を祀つた碑であり、そこに霊魂が存在すると観念されるという意味では、宗教にか
かわる碑であることは否定しえない。
(3)しかし、右脱魂式等の儀式は、本件忠魂碑の移設前後にそれぞれ営まれた神式の
祭祀であるにもかかわらず、遺族会会員は、これを仏教用語である脱魂式、入魂式と呼ん
でいたことからも明らかなように、その儀式本来の宗教的教義に従つたわけではなく、死
者にかかわる土木工事を行う業界の通例として行われる世俗的な行事としての面が強いこ
と、また、前記「霊爾」についても、前記認定事実によれば、これらは、宗教上の手続に
則つて納められたものではないうえ、それを特に遺族関係者らに知らせる措置もとられな
かつたため、市遺族会の会員すら、その存在を知らないままに経過したこと、さらに、
本件忠魂碑に戦没者が祀られているとの受け止め方についても、前記(二)の(2)で述
べたように、これら死者を記念、追悼するために建立される碑について、それがなんらか
の意味で死者の霊と結び付く存在であると受け止めることが比較的一般の考えであると思
われ、それが宗教観念であることは否定できないにしても、それが実質的国家神道と結び
付くものでないことはもとより、その宗教性は、忠魂碑特有のものというより、むしろ死
者を追悼、記念する碑一般に対し、多数の日本人が抱くような宗教的感情に近いと考えら
れること(なお、証人Uは、本件忠魂碑には父親が祀られていると考えるが、他方、同人
は、千鳥が淵戦没者墓苑へ行つても、なにわの塔に行つても同じことを考える旨証言して
いる)等に照らせば、これらの諸事実も、本件忠魂碑が他の忠魂碑一般と異なり、特に。

教施設としての機能、性格を持つていることを示すものということはできない。
(4)また、前記認定の本件忠魂碑の構造、様式は、たしかにある種の荘厳さを感じさ
せるものではあるが、死者とりわけ戦没者、遭難者等非業の死を遂げた者を慰霊・追悼す
る目的で建立される施設については、忠魂碑に限らず、多かれ少なかれ荘重かつ厳粛な雰
囲気が生ずるように構造上・様式上の配慮がなされることは死者に対する自然な敬弔の念
のしからしめるところと解され、本件忠魂碑に右のような荘厳さがあるからといつて、そ
れゆえに本件忠魂碑が、右のような死者を慰霊・追悼する施設と性格を異にする宗教施設
であるということはできない。なお、本件忠魂碑の碑前で、戦前も戦後も年一回の割合で
慰霊祭が挙行されてきたことは前記認定のとおりであるが、慰霊祭をその死者のゆかりの
碑・塔の前で挙行することは、本件忠魂碑に限らず、種々の死者を記念・追悼する碑につ
いて行われていることは公知の事実であつて、これらはそのような碑の前で慰霊・追悼の
、、、式典を行うことが荘重かつ厳粛な雰囲気を作るために効果的であるという面とそれが
なんらかの意味で死者の霊に結び付く場と考えられていることに基づくものと考えられる
が、しかし、このような慰霊祭の行われる碑・塔が一般に宗教施設であると認識されてい
ないことは明らかであつて、結局、この点も本件忠魂碑の宗教施設についての前記判断を
左右するに足るものではない。
(5)このように、本件忠魂碑は、
戦没者を紀つな碑であると観念されるという意味において、宗教とかかわりのある碑であ
ることは否定しえないが、前記のように、それらの観念は、忠魂碑に限らず、他の死者を
、、、追悼記念する碑に対して多数の日本人が抱く宗教的感情に近いものと考えられること
なお、市遺族会の会員らが、本件忠魂碑を維持、管理するゆえんは、その宗教的性格もさ
ることながら、それが地域の戦没者を記念する碑であるとの意味合いも含まれていると考
えられること、また、本件忠魂碑前で年に一回慰霊祭が挙行されていることは前記のとお
りであるが、市遺族会において、それを超えて、日常的にその碑前でなんらかの宗教的行
事を営もとか、同碑を利用して対外的な宗教的活動を行つているとは認めがたいこと等に
照らせば、市遺族会が、本件忠魂碑を単に現状のままで維持、管理することをもつて、た
だちに宗教的な活動とはいいがたいと考えられる。
(3)碑前慰霊祭の性格、宗教性
(1)前記認定事実に照らせば、碑前慰霊祭は、その祭式が神式あるいは仏式のそれぞ
れの宗教儀式に則り、神官あるいは僧侶によつてとり行われるものであつて、いずれにせ
よ宗教儀式そのものであり、宗教的活動であることは明らかである。なお、被告は、この
ような碑前慰霊祭は、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにする記念の式典
であり、その本質は、習俗化した社会倫理の儀札的表出であり、宗教的な儀式の執行も、
演出効果を高める副次的要素に過ぎない旨主張しているところ、たしかに、碑前慰霊祭の
趣旨が、実質的にみて、儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにするという点
にあることは認められるにしても、正式の宗教家たる神官あるいは僧侶が儀式を司どり、
かつ、その宗教の祭式に則つた儀礼で行われる碑前慰霊祭が、もはやその宗教性を失い、
単なる社会倫理の儀札的表出にすぎず、宗教的活動にあたらないといえないことはいうま
でもない。
(2)なお、原告らは、本件慰霊祭を含む碑前慰霊祭は、忠魂を慰めることを目的とし
て行われるものであつて、靖国神社の祭祀と同根同質であり、同神社の信仰に基づく宗教
儀礼である旨主張しているところ、そもそも靖国神社が戦後においても、原告ら主張のよ
うに「忠魂を慰める」ことをもつて本旨としているか否かは疑問であるが、それはさて、

いても、これら忠魂碑等の碑の前での慰霊祭の性格が、
戦前においては、たしかにそのような靖国神社の祭祀につながる要素があつたことは認め
られるものの、今日、一般的にみてそのような側面が残存していると認めがたいこと、た
だ、これら忠魂碑の碑前での慰霊祭は、戦没者をその死に様のゆえに称え、尊拝するとい
う面のあることはたしかであるが、実質的国家神道が消滅し、英霊たるゆえんを天皇への
忠義、忠節で基礎づけられなくなつた今、それをもつてただちに忠魂を慰めることを目的
とする宗教儀礼といえなくなつたことは前記(二)の(2)のとおりであり、そのような
事情は、本件慰霊祭を含む碑前慰霊祭についても特に変わりはないと認められるのであつ
て、むろんその儀式が神式あるいは仏式の正規の祭式に従つて行われている以上それが宗
教的儀式であることは否定できないが、それを超えて原告ら主張のように、それが、忠魂
を慰めることを目的とする宗教儀礼であるといえないことは明らかである。
(4)市遺族会の性格、宗教団体性
以上の諸事実に照らせば、市遺族会は、碑前慰霊祭、靖国神社参拝旅行、護国神社の大祭
への集団参拝、四天王寺の英霊堂での慰霊行事に協賛する等宗教にかかわる活動を毎年継
続していること及びそれらの活動は、同会の年間の事業活動の中で、相当の比重を占めて
いることは否定できないが、他方、同会も、その発足の経緯、目的は、戦没者遺族の処遇
改善、福祉の増進にあつたもので、これらは現在も会の存立目的として維持されているの
みならず、現実の事業活動としても継続されているのであつて、これらを全体としてみる
と、もつぱら宗教にかかわる事業活動のみを目的とする団体であるとはいえないこと、ま
た、右のような各種の宗教にかかわる活動の動機、目的についてみても、市遺族会は、戦
没者の遺族の集合体としての性格から、おのずと戦没者の追悼行事がその目的に含まれて
くる性質を持ち、そのような関係で、全国又は府の戦没者追悼式への参加等と同じく、戦
没者の慰霊行事を行つているものであり、その場合に、歴史的経過もあり、国家的には、
靖国神社を慰霊の場とし、地域的には、大阪護国神社への参拝や、四天王寺英霊堂での慰
霊行事の協賛を行い、また、さらに身近な慰霊の場を本件忠魂碑とその前での慰霊祭に求
めているとみられるのであつて、このような各会員の肉親たる戦没者を追悼、慰霊すると
いう意識、目的を超えて、
宗教的活動それ自体あるいはそれを通じての特定の宗教の教義、信仰の布教、拡大を目的
としているわけではないこと、なお、右のような宗教にかかわる活動の性質も、慰霊祭を
除いては、参拝等の行事が主体であり、積極的に宗教の宣伝、流布活動を含むものではな
く、碑前慰霊祭についても、それが神式あるいは仏式で挙行されているという意味で、宗
教行事であるにしても、その趣旨は、基本的に戦没者の生前を想起し、その記憶を新たに
するとの意味合いで行われており、特に靖国神社に対する信仰の拡大、発展を目指す等、
特定の宗教の宣伝、流布活動ではないこと、さらに、本件忠魂碑も、戦没者を祀つた碑で
あると観念される意味においては宗教とかかわりを持つ碑であることは否定しえないにし
ても、今日では、靖国神社に対する信仰につながる宗教性を持つものとはいえないうえ、
その維持・管理の目的や、そのかかわり合いの程度、態様等に照らせば、それをもつてた
だちに宗教的活動とはいえないことなどが認められ、これらの事実からすれば、市遺族会
は、それ自体の目的、事業活動に照らしても、原告ら主張のように、靖国神社の信仰を目
的とする団体を構成しているといえないことはもとより、宗教的活動を目的とする団体と
もいえないことが明らかであり、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるい
は同法二〇条一項後段の「宗教団体」にあたらないといわなければならない。
8まとめ
(一)以上のとおり、市遺族会は、日本遺族会の支部としての性格においても、また市
遺族会それ自体の性格としても、宗教的活動を目的とする団体とはいいがたく、この意味
で、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段の「宗
教団体」にあたるとはいいがたいと考えられるが、これを、各会員の有する宗教、信仰の
共通性という面からみても、たしかに、会員たる遺族らは、靖国神社に戦没者の霊が祀ら
れているという意味で、同神社の存在を支持し、そこに参拝する者が大多数であることは
事実であるが、それも前記のような、好むと好まざるとにかかわらず、遺族らの肉親であ
る戦没者が、いわば自動的にそこに合紀され、かつそれが戦没者にとつても遺族らにとつ
てもなによりの名誉とされたという歴史的経過に基づくつながりによるものであり、これ
を超えて、
靖国神社に対する信仰やその祭祀それ自体を積極的に支持しようとする意識をもつている
とは必ずしも認められず、むしろ、各遺族らは、それぞれの有する宗教、信仰は、それと
して、このような過去における歴史的経過に基づくつながりにおいて、その限度で、靖国
神社あるいはその系列にある護国神社に参拝しているとみられるのであつて、とすれば、
このような遺族らの集合体である市遺族会をもつて、信仰について意見の一致する者の組
織体ということも困難であり、この面からも、市遺族会が、憲法八九条前段の「宗教上の
組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」ということはできな
い。
(二)したがつて、本件各行為が、憲法八九条前段、二〇条一項後段に違反する旨の原
告らの主張は理由がない。
9本件各行為の憲法二〇条三項違反の有無
原告らは、市は、本件書記事務従事により、市遺族会の宗教活動たる英霊顕彰事業の事務
を担当し、また、本件補助金支出によつて、その活動費の一部を負担することにより、み
ずから英霊顕彰の宗教活動をしたことになるから、本件各行為は、憲法二〇条三項に違反
する旨主張するので、以下、この点につき検討する。
(一)憲法二〇条三項の解釈
憲法二〇条三項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはな、

ない」と規定し、いわゆる政教分離原則を定めているところ、憲法の政教分離原則は、。

家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを
持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目
的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いがわが国の社会的・文化的諸条件に照らし信教
の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認
められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきであつて、このような見地か
ら憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」の意義を考えると、それは、国及びその機関の活
動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、当該行為の目的が宗
教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるよう
な行為をいうと解すべきである。
(二)これを本件についてみると、
前記二の1、2認定の本件補助金支出及び本件書記事務従事の事実関係及び前記三の3の
(三)の(2)認定の本件補助金の交付された昭和五一年度の市遺族会の歳入歳出状況並
びに乙第二六号証(原本)及び証人Hの証言によれば、本件各行為のうち、本件補助金支
、、、出はたしかにその交付によつて結果的に市遺族会の宗教にかかわる活動に対する援助
助長の効果を伴う面を持ち、また、本件書記事務従事も、その事務の中には、靖国神社参
拝旅行、大阪護国神社の春秋慰霊大祭等の通知、出欠の案内等の文書の作成、発送等、宗
教的な行事にかかわる事務も含まれていたことが明らかであり、これらの行為が、結果的
にみて、市遺族会の宗教にかかわる活動の援助、助長の効果を伴つていたことは否定しえ
ない。しかしながら、本件補助金支出及び本件書記事務従事それ自体は、なんら宗教的意
義を持つ行為ではなく、被告が箕面市長として本件各行為を行つた目的は、遺族の処遇改
善、福祉の向上及び戦没者の慰霊顕彰による遺族の慰藉等を目的とする世俗的団体である
、、市遺族会に対し遺族の福祉増進の見地から行う援助というもつぱら世俗的なものであり
その効果も、市遺族会を援助することによつて間接的にその行う宗教にかかわる活動にも
援助の効果が及ぶ経過となつたにすぎないうえ、市遺族会が行う宗教にかかわる活動も、
同会が戦没者の遺族の集合体であることから、おのずとその事業の中に含まれる追悼、慰
霊等遺族の精神的慰藉のための活動の一環としてのものにすぎず、特定の宗教、宗派の教
義、信仰の普及、拡大といつた宗教的活動自体を目的とするものではないこと、さらに、
右補助金支出については、それによる収入は、市遺族会の昭和五一年度の全歳入の半分以
下であり、もつぱら右補助金によつて、市遺族会の運営がなされているとはいえず、社会
的に不相応な金額ともいえないし、また、右書記事務従事についても、それは市遺族会の
宗教にかかわる活動それ自体を直接援助し、あるいは手伝うというものではなく、それら
の活動の通知、案内文書の作成、発送という間接的な援助にとどまることが認められるの
であつて、これらの事実によれば、本件各行為の目的はもつぱら世俗的なものであり、そ
の効果も神道、仏教等特定の宗教を援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加
えるものとは認められず、したがつて、本件各行為は、
宗教とのかかわり合いが、わが国の社会的・文化的諸条件に照らし信教の自由の保障の確
保という制度との根本目的との関係で未だ相当とされる限度を超えるものとしては認めが
たく、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないというべきである。
(三)したがつて、本件各行為が、憲法二〇条三項に違反する旨の原告らの主張は、理
由がない。
四本件各行為の憲法八九条後段、社会福祉事業法五六条一項違反の主張について
1(一)原告らは、本件補助金は、憲法八九条後段が禁止した「慈善、教育若しくは博
愛の事業」に対する助成を条件付で解除し、地方公共団体に社会福祉法人に対する補助金
交付の権能を与える規定である社会福祉事業法五六条一項に基づいて、市社会福祉協議会
に交付されたものであるところ、同条項は、地方公共団体が、社会福祉法人に補助金を交
付する手続を定める法形式として条例を指定しているにもかかわらず、市では、本件補助
金交付当時、右条例を制定していなかつたから、本件補助金交付は、重大かつ明白な憲法
違反の瑕疵があり、無効である旨主張する。
(二)しかし、前記の二の3で述べたように、原告らの右主張は本件補助金交付の形式
的・手続的側面にのみ着目した主張であるが、本件補助金は、実質的にみて市から市遺族
会に直接交付されたものと評価、判断すべきものであつて、市が補助金交付につき市と受
交付団体との中間に、形式上、市社会福祉協議会を介在させたのは、単に、市が一定の総
額を定めて予算化する補助金を各種団体に対して合理的に配分するための手段とする趣旨
に出たものにすぎないと認めるられから、市から市社会福祉協議会への本件補助金交付に
その手続を定める条例欠缺の瑕疵があるとしても、右の瑕疵は、市から市遺族会への本件
補助金支出がその性質上条例に基づくことを要しないものである以上、その適法性及び効
力に影響を及ぼすものではないといわなければならない。そして、本件補助金が市から市
遺族会に直接支出されたとみる以上、右支出は、地方自治法二三二条の二の規定に基づく
補助としてなされたものとみるべきであるところ、この場合、同法条のほかに、特に補助
金支出についての法律ないし条例による授権あるいは手続規定が憲法上あるいは法律上必
要であるとは解しがたいから、本件補助金支出の適法性は、
同法条の定める補助の要件である公益上の必要性の有無にのみかかるものであるといわな
ければならない。
(三)したがつて、原告らのこの点に関する主張は理由がない。
2(一)次に、原告らは、仮に市遺族会が、社会福祉団体であつて、憲法八九条後段
にいう「慈善、博愛の事業」にあたるとすれば、市社会福祉協議会を通じての本件補助金
支出は、間接補助であり、この場合、間接補助先の市遺族会に社会福祉事業法五六条二項
以下の監督権限を行使することは不可能であるから、結局、右補助金支出は、公の支配に
属しない団体への補助金支出であり、憲法八九条後段に違反する旨主張する。
(二)しかしながら、憲法八九条後段にいう「慈善、博愛の事業」とは、肉体的又は経
済的な弱者(老幼者・病人・貧困者等)を宗教的あるいは人道的な見地から主として物質
的に援助する事業をいうと解すべきところ、前記三の3認定の事実によれば、市遺族会の
事業は、国に対し、遺族援護行政の拡大、増進を要求する活動あるいは右遺族援護行政の
補完的活動ないしは市遺族会の会員相互の互助的活動が主体であり、それらの諸活動を全
体としてみた場合、戦没者遺族一般の福祉向上に寄与しているという面で公益性を有する
ことは後記のとおりであるが、右福祉増進の対象は、市遺族会の会員たる遺族ら及びそれ
と同様な地位、立場にある遺族らであつて(戦没者の追悼、慰霊行事もそれによつて、精
神的充足を得られる者は遺族以外にはないと解される、そのような同質的な集団を超。)

て、対外的に社会的弱者に対する援助活動を行つていろといえないことは明らかであるか
ら、結局、市遺族会の活動は、同法条にいう「慈善、博愛の事業」にはあたらないとい、

ほかない。
(三)したがつて、原告らのこの点に関する主張も理由がない。
五本件各行為の地方自治法二三二条の二違反の主張について
原告らは、市遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデオロギーである国家神道の中心的施
設たる靖国神社を信仰することを本質的な体質とする日本遺族会の支部であり、また、そ
れ自体においても、全体主義的軍国主義と主権在君の思想を表現し、これを広くかつ永遠
に宣布伝承する本件忠魂碑を平常礼拝し、それにより毎年慰霊祭を執行するなど、憲法理
念に反する活動を重ねてきた団体であり、日本国憲法の根本規範に反する反憲法的・反公
益的団体であるうえ、
その活動の中には明白な宗教的活動も含まれ、補助金が宗教活動資金となるおそれもある
から、このような市遺族会への援助たる本件各行為は、地方自治法二三二条の二の公益上
の必要性を欠くもので違法である旨主張し、これに対し、被告は、遺族援護行政一般の必
要性、公益性を前提に、本件各行為もその一環として、同法条にいう公益上の必要性を有
する旨主張するので、以下この点について判断する。
1本件各行為のうち、本件補助金支出が、地方自治法二三二条の二にいう補助にあたる
ことは明らかであり、また本件書記事務従事も、本来は、市遺族会がみずからの費用と労
力で行うか、あるいは対価を支払うべき労務を無償で提供されたのであるから、その実質
は補助にあたると解される。
2ところで、地方自治法二三二条の二の公益上の必要性の判断にあたつては、その補助
金支出の趣旨・目的、補助金を交付される団体の目的・活動状況、右団体の過去における
公益活動の実績・公益活動計画と公益外活動の程度等を検討し、当該補助金が、その団体
の公益活動にどの程度役立つか、団体の公益外活動に流れるおそれがないか等諸般の利害
得失を比較総合して判断するのが相当であると解されるところ、前記三の2、3の認定事
実に照らせば、市遺族会及びそれがその組織の一部となつている日本遺族会の諸活動につ
いて公益性が問題になるのは、もつぱら、国・地方公共団体の遺族援護行政の補完的側面
あるいは遺族の処遇改善・福祉向上に向けての活動であると考えられるので、以下、まず
これら遺族援護行政あるいは遺族の処遇改善等の活動が公益性を有するといえるか否かに
ついて検討する。
戦後における遺族らの置かれた状況及びその中で日本遺族会が組織、結成された状況並び
にその後の日本遺族会の活動、果たした役割は、前記三の2認定のとおりであり、また、
乙第八〇号証(厚生省援護局編「引揚げと援護三十年の歩み、以下「歩み」という)」。

び第九八号証(日本遺族会十五年史)によれば、右公益性判断の重要な手掛かりとなると
考えられる戦後の国の遺族援護行政の概観として、以下の事実が認められる。
(一)経済的面での遺族援護行政
(1)遺族援護法の成立、提案理由等
(1)昭和二七年、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「遺族援護法」という)が成。

した。その提案理由(同年の第一三回国会)は、以下のようなものである。
「、、、これらの戦傷病者戦没者は過去における戦争において国に殉じたものでありまして
これらの者を国が手厚く処遇するのは、元来、国としての当然の責務であります。敗戦に
よるやむを得ざる事情に基づき、国が当然になすべき義務を果たしえなかつたのは、誠に
遺憾の極みと申さねばなりません。しかしながら、すでに平和条約は締結せられ、その効
力発生の時期は、目しようの間にせまつているのであります。この講和独立の機会に際し
まして、これらの戦傷病者、戦没者遺族等に対し、国家補償の精神に立脚して、これらの
者を援護することは、平和国家建設の途にあるわが国といたしまして、最も緊要事である
ことはいうをまたないのであります。これが、この法律により、戦傷病者、戦没者遺族等
の援護を行うという根本的趣旨であります」。
(2)遺族援護法は、社会保障の色彩を加味した年金案として提出されたが、国会で種

修正、審議された結果、最終的に、社会保障的な面を持つとはいつても、困窮等の程度に
かかわらず、またその調査も行わず一律に同額を支給するという、むしろ弔慰金的なもの
として成立した。なお、右法律は、その一条で「この法律は、軍人軍属等の公務上の負、

若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基き、軍人軍属等であつた者又はこれら
の者の遺族を援護することを目的とする」とし、また、右軍人とは「恩給法の特例に。、

する件(昭和二一年勅令第六八号)一条に規定する軍人及び準軍人並びに内閣総理大臣の
定める者以外のもとの陸軍又は海軍部内の公務員又は公務員に準ずべき者」をいい、軍属
とは「もとの陸軍又は海軍部内の有給の嘱託員、雇員、よう員、工員又は鉱員」をいう、
(同
法二条一項)として、法律の趣旨が、国家補償の精神、すなわち国が使用者としての立場
から、公務たる軍事関連業務に起因する災害についての救済措置を講ずることにあること
を明らかにしている。
(3)もつとも、日本遺族会等では、当初から、旧軍人恩給の実質的復活を遺族の処遇
改善運動の主眼に置いていたことから、右法律は、あくまで差し当たりの措置としてしか
受け止めておらず、引き続き右公務扶助料の支給を求める運動を続け、これらの運動の結
果、昭和二八年には、恩給法の一部改正法が成立し、現在、遺族援護法の対象からは、恩
給による受給資格者、すなわち旧軍人の大部分が除かれるに至つている。また、
昭和三一年、遺族援護法及び恩給法を補完するものとして「旧軍人等の遺族に対する恩給
等の特例に関する法律」が制定されており、その後、右遺族援護法は、成立以来昭和五三
年ころまで、三十数次に亙つて改正が加えられ、年金等の増額、支給対象の拡大、公務傷
病範囲の拡大、遺族範囲の拡大等援護措置の拡大強化がはかられている。
(2)各種特別給付金の制度及びその立法理由
右遺族援護法のほかの戦没者遺族に対する経済的援助としては以下のような制度がある。
(1)戦没者等の妻に対する特別給付金支給法(昭和三八年法律第六一号)
(2)戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法(昭和四〇年法律第一〇〇号)
(3)戦没者の父母等に対する特別給付金支給法(昭和四二年法律第五七号)
なお、右各法律にいう戦没者の範囲は、遺族援護法の対象者の拡大とともに逐次拡大され
ているが、基本的には、旧軍人・軍属ないしそれに準ずるものがその対象であることには
変わりがない。
(3)そのほか、戦傷病者に対しては、昭和三八年に戦傷病者特別援護法が、また、昭
和四一年には、戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法(法律第一〇九号)が、成立し
、、。ているがそれについては財団法人日本傷痍軍人会の強い働きかけがあつたようである
なお、右にいう戦傷病者の範囲も基本的に遺族援護法のそれと同様である。
(二)経済面以下での遺族援護行政
(1)戦没者遺骨の収集
第二次世界大戦による内外の戦没者は、軍人・軍属約二三〇万名、外地で非命に倒れた一
般邦人約三〇万名、戦災死没者約五〇万名、あわせて約三一〇万名にのぼり、うち、日本
本土以外の各戦域における戦没者は、約二四〇万名であり、これら海外戦没者の遺骨は、
一部の持ち帰られかもの以外は、海外の旧戦域に放置されていたことから、昭和二七年の
国会でこの問題が取り上げられ、同年六月「海外地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び
送還等に関する決議」が衆議院において採択され、また、それに先立つ同年一月から四月
までの遺骨調査団の調査結果に基づき、同年一〇月二三日「米国管理地域における戦没、

の遺骨の送還、慰霊に関する件」の閣議了解が行われ、これに基づき海外戦没者の遺骨を
収集し、現地において慰霊を行ない、さらに小規模の慰霊碑を建立することを決め、相手
国の承認を得次第、政府派遣団を海外に派遣することになつた。
このような経過で、以後、昭和二八年から昭和五〇年まで、第一次から第三次まで、遺骨
収集が行われ、昭和五一年度以降は、それまでの計画期間中に相手国の事情から遺骨収集
が不許可となつた地区等について、補完的遺骨収集を継続して実施することになつた。
(2)戦跡慰霊巡拝
第三次計画の終了による計画的遺骨収集の終了に伴い、遺骨収集の概ね終了した地域及び
遺骨収集が望めない海上における戦没者を対象として、昭和五一年度から、新たに計画的
に、遺族を主体とした戦跡慰霊巡拝が行われることになつた。
(3)戦没者慰霊碑の建設
前記(1)のように、遺骨収集に際しては、小規模の慰霊碑を建立することとされたが、
昭和二九年に厚生省の定めた「海外戦没者遺骨の収集等に関する実施要綱」でも、現地に
おける遺骨収集に際して、建碑及び追悼の式を行うものとされた。
、「」、、、その後昭和四六年三月に硫黄島に硫黄島戦没者の碑が建立され遺族ら国会代表
政府関係者らが出席して、竣工並びに追悼式が行われたのを皮切りに、遺族の心情及び国
民感情を十分考慮して海外の主要戦域に逐次慰霊碑を建立することとし、昭和四六年七月
に慰霊碑建設要領が策定され、右要領に基づき、その後、昭和四八年三月「比島戦没者、

碑」が、フイリピン共和国ラグナ州に、昭和四九年三月「中部太平洋戦没者の碑」が、、

イパン島に、それぞれ建設され、その竣工にあたつても、遺族代表ら、日本国政府関係者
らが出席のうえ、竣工式及び追悼式が行われている。
(4)全国戦没者追悼式
政府は、昭和二七年、わが国が独立を回復するとともに、他のあらゆる行事に優先する形
で、平和条約発効祝賀式典の前日である同年五月二日、東京新宿御苑において、天皇皇后
両陛下が臨場し、総理大臣らが参列して、遺族代表らを招いて、全国戦没者追悼式を実施
した。なお、右追悼式は、宗教的儀式を伴わないものとするため、中央に戦没者の霊を象
徴する白木の追悼の標柱を立て、黙祷、奏楽、追悼の辞、献花を行う形式がとられ、これ
が、その後、この種の政府行事の式典の典型となつた。その後、しばらくは、追悼式は挙
行されていなかつたが、昭和二八年の旧軍人恩給の復活等、経済面の遺族援護措置は次第
に充実してきたが、反面、精神的慰藉の援護に欠けているという意見が国会方面から起こ
り、また、国家的行事として、
全戦没者の追悼行事を行いたいという要望が、各方面から出てきたため、政府は、昭和三
八年五月一四日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」で、式典実施を決め、
同年八月一五日、日比谷公会堂で、政府主催で、前記昭和二七年の追悼式の例にならつて
全国戦没者追悼式を挙行し、以後、同様の閣議決定に基づき、毎年八月一五日、全国戦没
者追悼式を挙行している右式典の戦没者の範囲は支那事変以後の戦争による死没者軍。、(
人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命に倒れた者、内地における戦災死没者等を
も含む)とされており、また、その場所は、昭和三九年においては、遺族等の強い要望。

あつたことから、靖国神社境内地で挙行されたが、その後、昭和四〇年からは、毎年、日
本武道館で行われている。なお、式典の中心となる中央の式檀には、中央に戦没者の霊を
象徴する白木の追悼の標柱が立てられ、その文字は、当初は「全国戦没者追悼之標」と、

されていたが、その後遺族会等の強い要望があつて、昭和五〇年の追悼式からは「全国、

没者之霊」と改められた。
(5)千鳥が淵戦没者墓苑の建設及びその前での拝礼式
(1)前記のように政府は、昭和二八年当初から、海外の各主要戦域に残されている戦
没者の遺骨を収集するため、戦没者遺骨収集団を海外に派遣したが、故国に迎えたこれら
遺骨のうち、氏名が判明しないため、遺族に引き渡すことのできない遺骨等をどうするか
について、種々の論議があり、同年一二月の閣議において、国が建立する「無名戦没者の
墓(仮称)に収納し、国の責任において、これを維持管理する方針が決定され、以後、」

の敷地、規模、構造等について、検討の結果、現在の東京都千代田区<地名略>に、墓苑
を建設することとなり、昭和三四年三月、竣工し、同月の閣議決定で「千鳥が淵戦没者、

苑」との呼称が正式決定した。なお、右墓苑は、諸外国における無名戦士の墓にあたるも
のと考えられたことから、その建設にあたつては、アメリカ合衆国ワシントン郊外所在の
アーリントン軍人墓地内の無名戦士の墓、イギリスのウエストミンスターアベニユーの無
名戦士の墓等の実情、特色の調査を国会図書館に依頼している。
(2)千鳥が淵戦没者墓苑の竣工にあたつては、遺族代表、政務関係者らが出席、参列
のうえ、昭和三四年三月二八日、竣工並びに追悼式が挙行された。その後、
海外から持ち帰られた遺骨で、遺族に引き渡すことができず、厚生省に仮安置されていた
、、、遺骨を墓苑に収納する必要があつたため戦争終結後二〇周年にあたる昭和四〇年三月
、、、、厚生省主催による納骨式と天皇皇后両陛下が臨場して同墓苑の拝礼式が行われ以来
、、、。毎年春に皇族の臨席のうえ政府主催で千鳥が淵戦没者墓苑拝礼式が実施されている
右式典の内容は、厚生政務次官の開式の辞に始まり、国歌斉唱のあと厚生大臣の式辞及び
、、、、納骨があり次いで皇族の拝礼が行われ警視庁音楽隊による奏楽のあと内閣総理大臣
遺族代表等来賓が墓前に花を献げ、最後に厚生事務次官の閉式の辞をもつて式典は終了す
る。この式典には、東京都を初め、近県の遺族代表と来賓ら約五〇〇名が参列して行われ
ていたが、昭和四八年から戦没者遺骨収集は、日本遺族会や戦友会等の民間団体にも協力
を要請して実施したため、昭和五一年ころからは、これら遺骨収集協力者も多数参列する
こととなつた。
(三)国の日本遺族会に対する処遇等
旧軍人会館であつた九段会館が、昭和二八年八月に、日本遺族会に無償貸付されたこと及
びそれについては「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」が、

、()()、、定されたこと等は前記三の2の一の3認定のとおりであるが右法律の趣旨は
その一条にみられるように、日本遺族会が、戦没者遺族の福祉を目的とする事業を行う団
体であるという面に着目し、その事業に対し、またそのような事業に限つて国として援助
するため同会館を無償貸与するというものである。
3右2認定の諸事実に照らせば、旧軍人・軍属等の戦傷病者・戦没者遺族らに対する各
種給付金の支給等の経済的側面からの遺族援護業務が、国の重要な施策として行われてき
たこと、その背景には、右戦傷病者・戦没者は、過去における戦争において、国に殉じた
ものであり、これらの者及びその遺族らを国が手厚く処遇するのは、国としての当然の責
務であり、また、国家補償の精神にも沿うとの考えがあつたこと、さらに、昭和二八年こ
ろ以降、海外での遺骨収集と慰霊碑の建設、戦跡巡拝及び全国戦没者追悼式の挙行、千鳥
が淵戦没者墓苑の建設とその前での拝礼式等の精神的側面からの遺族援護業務も、国家施
策として推進されてきたが、その背景には、過去の戦争において、
これら戦傷病者・戦没者を始めとする多くの犠牲者があつたことを全国民が銘記するとと
もに、国としてこれら犠牲者に追悼の意を表すべきであり、それが、遺族の慰藉にもつな
がり、また、今後の国の平和を祈念することにもつながるという観点からなされているこ
とが明らかであり、少なくとも国家行政の分野では、このような遺族らに対する経済的・
精神的援護とそれを通じての福祉の増進の必要性ということが、広く承認されていたこと
が明らかである。
4もとより、地方自治法二三二条の二の公益性は、単に国家施策として行われていると
いうだけで、無条件にそれが認められるものでないことはいうまでもないが、しかし、こ
れら遺族援護行政の背後にある、過去の戦争において公務として軍事関連業務に従事し、
その結果、死亡し、あるいは身体障害、疾病の身となつた犠牲者ら及びその遺族に対し、
応分の援護をなすべきことが国の責務であり、国家補償の精神にも沿うものであるとする
考えは、憲法の理念に照らしても、十分に尊重されるべきものと考えられ、結局、遺族の
経済的・精神的援護とそれを通じての遺族らの福祉の増進ということは、国・地方公共団
体の本来的に果たすべき責務であり、公益性を有する事業であるといわざるを得ず、それ
を補完する役割が公益性を持つことは明らかである。また、そのような遺族らが、日本遺
族会及びその支部たる各遺族会のような互助的な組織を結成し、それを通じて遺族らの処
遇の改善と福祉の向上を図る活動も、本来、国・地方公共団体によつて、社会福祉、社会
保障の充実が図られるべき人々が、自主的な活動を通じて、その福祉の増進を図るという
面においては、単に遺族らの私的な利益を図る活動というにとどまらず、公益的側面をも
持つことは否定できないのであつて、国による、日本遺族会に対する九段会館の無償貸付
も、このような考慮の下になされたものと考えられる。
なお、戦争犠牲者は、これら旧軍人・軍属等の戦傷病者・戦没者及びその遺族らに尽きる
ものではなく、今次の大戦においては、戦争被災者始め数多くの戦争犠牲者が出たことは
公知の事実であるが、右戦没者遺族らもむろん戦争犠牲者の一員であるうえ、その多くは
生命の危険にさらされながら苛烈な環境下において戦いをなさざるを得ない立場に置かれ
たものであることから、
国家による補償の程度に戦没者遺族らと他の戦争被災者らとの間に差異があつても必ずし
も不合理とはいえず、それが立法政策上許容される裁量の範囲を逸脱しているともいいが
たいことなどを考慮すれば、そのことのゆえに、これらの遺族に対する各種援護措置及び
これら遺族の行うその補完的活動とそれらを通じての遺族らの福祉の増進ということが公
益性を有しないということはできないし、また、前記認定のように、日本遺族会に加入し
ている遺族は、旧軍人・軍属等の遺族等、その会員たる資格を有する者の半分位に過ぎな
いものではあるけれども、そのこれまでの活動及び現在の活動は、遺族の福祉増進ことに
経済的処遇の改善といつた面においては、必ずしも同会に所属する遺族のみのためになさ
れているわけではなく、このような意味での全遺族のためになされているのであるから、
この点も、日本遺族会及びその支部の各遺族会の行う遺族援護行政の補完的活動の公益性
を否定する理由にはならないと考えられる。
5そこで、以下、これら遺族援護一般の公益性を前提として、前記2の基準に従い、本
件各行為が公益上の必要性を有するか否かについて検討する。
(一)本件補助金支出、本件書記事務従事の趣旨・目的
乙第二六号証(原本)及び証人Hの証言によれば、市遺族会への本件補助金支出及び本件
書記事務従事の趣旨・目的は、もつぱら市遺族会の会員たる遺族らの福祉の増進と、市遺
族会が遺族援護行政の補完的役割を果たしているという見地からなされていると認められ
るし、また、右各援助に伴い、不可分的に宗教にかかわる活動に対する援助の効果が生ず
るとしても、その活動は前記三の9で述べたように、市遺族会が戦没者の遺族の集合体で
あることからおのずとその事業に含まれる追悼、慰霊等遺族の精神的慰藉のための活動の
一環としての行事にすぎず、特定の宗教、宗派の教義、信仰の普及、拡大といつた宗教的
活動自体を目的とするものではないことが明らかである。
(二)市遺族会の目的・活動状況等
前記認定のとおり、市遺族会の目的は「会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族、

福祉向上に資する」ことにあると認められ、また、その活動状況のまとめは、前記三の。

の日の(1)のとおりであつて、戦没者の追悼、慰霊事業と、会員相互の親睦事業がかな
りの比重を占めているとはいえ、
これらも遺族らの精神的慰藉による援護につながるという意味では、必ずしも公益的側面
を有しないとはいえないし、遺族援護関係法律の改正点等の周知、徹底、戦跡巡拝、遺骨
収集の参加者とりまとめ等、国、大阪府との関係における遺族援護行政の補完にかかわる
事業も会の活動内容に含まれていること、さらに市遺族会もその組織の一部を構成してい
る日本遺族会の目的・活動状況は、前記三の2のとおりであり、同会は、英霊の顕彰事業
にかなりの力点を置いているとはいえ、それと並んで、遺族の処遇改善事業、遺族の生活
相談事業、遺児の育成、指導等の事業をその事業目的としていること、また、その現実の
活動も、英霊顕彰事業とともに、遺族の処遇改善・福祉増進に向けての諸活動すなわち各
種立法及び行政措置の実現に向けての働きかけ等を行つているほか、右英霊顕彰事業の内
容としても、国の行う外地遺骨収集に対する協力活動や、同会の主催する戦跡巡拝等もそ
れに含まれているうえ、その靖国神社等に関する宗教にかかわる活動についても、その国
家護持運動等については、本来的には、それがもつぱら宗教的活動それ自体あるいは特定
の宗教、宗派に対する援助、助長ないしその普及の趣旨でなされているわけではなく、も
つぱらそれが遺族らの精神的慰藉につながるという見地からなされていることが認めら
れ、
これらを全体としてみた場合、遺族援護行政の補完と遺族の経済的・精神的な福祉増進を
図る事業活動がその主体になつているといわざるをえない。
(三)市遺族会の過去における公益活動の実績、公益活動計画
市遺族会それ自体としての過去における公益活動としては、同会の結成以来、ほぼ前記の
ような遺族援護行政の補完的活動を続けてきたと認められるし、市遺族会もその組織の一
部となつている日本遺族会の過去における事業内容等の概要は、前記三の2の(三)県認
定のとおりであり、戦後の物心ともに困窮した戦没者遺族等の処遇改善、福祉の向上に果
たした役割は、大きなものがあつたと認められる。そして、日本遺族会及び市遺族会が、
現在でも、遺族援護行政の補完的役割を果たしていると認められることは右(二)のとお
りであつて、今後もそのような基本的な活動方針に大幅な変更があるとは考えられない。
(四)公益外活動の程度
前記のとおり、遺族の福祉増進を目指す諸活動が公益性を有するとはいつても、
市遺族会の諸活動のうち、青年部による靖国神社参拝研修までもがこれにあたるとは認め
がたく、また、市遺族会もその組織の一部を構成する日本遺族会の諸活動のうちにも、靖
国神社国家護持あるいはその公式参拝運動のように、精神的な遺族の援護、福祉の増進に
つながる面のあることは否定できないにしても、そこからややはみ出ているといわざるを
得ない活動もあるのものの、市遺族会及び日本遺族会のそれら宗教にかかわる英霊顕彰事
業も、本来的には、宗教活動それ自体あるいは特定の宗教、宗派に対する援助、助長ない
しはその普及を目的としているわけではなく、むしろ戦没者の追悼、慰霊行事の一環とし
ての宗教とのかかわり合いであること等を考慮すれば、これらを全体としてみた場合、市
、。遺族会の諸活動において必ずしも公益外活動が多くの比重を占めているとはいいがたい
(五)(1)なお、原告らは、日本遺族会は、超国家主義と軍国主義のイデオロギーと
国家神道の中心的施設である靖国神社を信仰することを本質的な体質とするばかりでな
く、
英霊に対する応答・誓いという形で、将来の戦争における戦没者の顕彰、慰霊をも視野に
入れ、防衛意識、国家意識の向上を説き、軍備強化を推進するなど、憲法の根本規範たる
国民主権、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与する団体であるところ、
市遺族会は、そのような日本遺族会の一地方支部であり、また、それ自体においても、軍
国主義と主権在君の思想を表現する本件忠魂碑を祭儀の中心とし、これを礼拝し、その碑
前で慰霊祭を挙行するなど、憲法理念に反する活動を重ねてきたものであり、反憲法的団
体である旨主張する。
(2)しかしながら、靖国神社が、戦前において、制度的・実質的国家神道の中心的施
設であり、その面で、超国家主義及び軍国主義と結び付く面のあつたことはたしかである
が、しかし、戦争の終結と神道指令、そして天皇の人間宣言に伴い、制度的国家神道が解
体し、実質的国家神道も、消滅した今、靖国神社の性格としても実質的国家神道に基づく
面は、一部変容がみられるのではないかと考えられるが、それはさておいても、少なくと
も、今日、日本遺族会とその各地方支部に結集している遺族らを含む一般人の意識に、超
国家主義・軍国主義の基盤となつた実質的国家神道の宗教思想が残存し、右遺族らが、そ
のゆえに、靖国神社を信奉しているとは認めがたいし、
また、本件忠魂碑の性格にも、戦後、同様の変化があつたとみざるを得ないことは前記の
とおりであり、これらの諸事実に照らせば、結局、日本遺族会及び市遺族会が現在も靖国
神社とのかかわりを持ち、また市遺族会が本件忠魂碑を維持、管理し、碑前慰霊祭を行つ
ていることが、実質的国家神道を受け継ぐものであり、超国家主義と軍国主義に結び付く
活動であるとはいえないことは明らかであつて、日本遺族会及びその地方支部たる市遺族
会が、原告ら主張のような反憲法的性格、したがつて反公益的性格を有する団体であると
は認めがたい。
(3)もつとも、甲第一三四、第一三五号証(いずれも弁論の全趣旨、第四九二号証)

三ないし六によれば、原告ら主張のように、日本遺族会及びそれとほぼ一体的な組織であ
る「英霊にこたえる会」は、英霊に対する誓いという形で、将来の世代による殉国の精神
を継承させ、また、それを通じ、国家意識、防衛意識の向上ということを意図しているよ
うに窺われる点もないでもないが、それがただちに国家の自衛、防衛の必要性及び愛国心
の涵養といつた一般論を超えて軍国主義・超国家主義に結び付くとまでいえるか否かは疑
問であるうえ、それらが日本遺族会の現実的な運動、事業内容の中で相当程度の割合を占
めているとも認めがたいのであつて、この点も日本遺族会が、基本的に、遺族らの精神的
援護につながる面のある英霊の顕彰活動と、遺族らの福祉の増進を目的とする団体である
との前記認定を覆えすに足るものではない。
6右5に述べたような、本件補助金支出及び本件書記事務従事の趣旨・目的、市遺族会
の目的・活動状況等、市遺族会の過去における公益活動の実績と公益活動計画、公益外活
動の程度等を総合考慮し、また、市遺族会及びそれがその組織の一部となつている日本遺
族会が、原告ら主張のような反憲法的・反公益的性格を有する活動を行つている団体とは
いえないことをも考えれば、市遺族会に対する本件補助金支出及び本件書記事務従事は、
公益上の必要性に基づくものと認めるのが相当である。
したがつて、原告らの右主張は理由がない。
六その他の違法事由について
1地方公務員法三五条違反について
原告らは、本件書記事務従事は、地方公共団体の処理すべき事務ではなく、また法律にこ
のような便宜供与を許容する規定もないのであるから、市の職員の職務として、
規則上の職制又は職務命令により割り当てることもできないものであり、それをなさしめ
る職務命令等は、地方公務員法三五条の職務専念義務に違反する違法な行為である旨主張
する。
しかし、前記五に述べたとおり、本件書記事務従事が地方自治法二三二条の二に基づく公
益上の必要ある補助と認められる以上、市がその事務を行うことも地方公共団体の処理す
べき事務として適法であることはいうまでもなく、とすれば、市がその職員をして右事務
に従事させたことが違法となるいわれはないから、この点に関する原告らの主張は理由が
ない。
2市補助金交付規則違反について
原告らは、本件補助金交付手続は、市補助金交付規則に違反する旨主張する。
しかしながら、前記二の3のとおり、本件補助金をめぐる法律関係については、その形式
的・手続的側面(本件補助金交付)ではなく、その実質的側面(本件補助金支出)に着目
して判断すべきであると考えられるのであり、この場合、前記四の1のとおり、市から市
社会福祉協議会への本件補助金交付の手続的瑕疵は、市から市遺族会への本件補助金支出
の適法性に影響を及ぼすものではないし、本件補助金支出について、地方自治法二三二条
の二のほか、さらに個別の法律あるいは条例による授権あるいは手続的規制が憲法上ある
いは法律上必要であるとは解しがたいから、本件補助金を市から直接市遺族会に交付する
について、直接には、市補助金交付規則の手続に従わなかつたからといつても、本件補助
金支出が前記法条に定める補助の実体的要件に適合してなされたものであるうえ、前記二
の1の事実によれば、市は、市補助金の市社会福祉協議会への交付にあたつては、市補助
金交付規則の定めに従い、右補助金の使途、配分先の団体、その配分の金額、割合等を事
前に審査したうえでこれを支出していたのであつて、補助金に係る予算の適正な執行に欠
ける点はなかつたと認められるし、原告ら主張の右規則違反の点は、本件補助金支出の適
法性及び効力に影響を及ぼす手続上の瑕疵とまでいうことはできないと解されるから、原
告らのこの点についての主張は理由がない。
3本件補助金使用の違法について
原告らは、本件補助金は、宗教活動等の違法な使途に使われ、あるいは本来補助の必要性
を欠くにもかかわらず支出された旨主張している。
しかしながら、補助金が、違法に使用され、
あるいは結果的にみて補助の必要性がないことが明らかになつたからといつて、当然にそ
の交付決定までが違法になるものでなく、それが違法であるというためには、交付者にお
いで、当該補助金が違法な使途に使われあるいは補助が不要であることを知りながら支出
することが必要であることはいうまでもないが、前記五で述べたように、本件補助金支出
、、、は地方自治法二三二条の二に基づく適法な補助であるうえ同五の5のく認定のように
その交付の目的は、もつぱら市遺族会の会員たる遺族らの福祉の増進と市遺族会が遺族援
護行政の補完的役割を果たしているという点に着目し、そのような活動を援助する趣旨で
支出されていると認められるのであるから、仮に本件補助金の一部が右補助の趣旨に反す
る使途に用いられ、あるいは結果的に不要であつたからといつて、右補助金交付決定自体
が直ちに違法になるとは解しがたい。
なお、原告らは、被告は、本件補助金の違法な使用を原因として、市補助金交付規則一五
条、一六条に基づき、本件補助金の支出決定を取消すべきであつた旨主張するが、前記の
ように、市遺族会の事業活動のうちには、本件補助金が交付された昭和五一年度について
も、たしかに宗教にかかわる事業が含まれていたことは否定できないにしても、それは、
特定の宗教、宗派の教義、信仰を普及、拡大することを目的とする活動ではなく、戦争で
死亡した親子、兄弟等肉親の追悼、慰霊行事等を実施することによつて遺族の精神的慰藉
を図るという目的に出たものであつて、遺族の福祉向上という補助金交付の趣旨に反する
活動とまでいうことはできず、このような見地から、市遺族会の昭和五一年度の活動状況
と歳出状況を検討しても、本件補助金が、全体としてみて、補助の趣旨に反した用途に使
、。用されたといえないことは明らかであるからこの点に関する原告らの主張も理由がない
七以上の次第で、本件補助金支出あるいは本件補助金交付及び本件書記事務従事が、憲
法八九条前段、同法二〇条一項後段、同条三項、同法八九条後段、社会福祉事業法五六条
一項、地方自治法二三二条の二、地方公務員法三五条、市補助金交付規則等に違反すると
の原告らの主張は、理由がない。
第三よつて、原告A、同Bの訴えは原告適格を欠くからこれを却下し、原告C、同D、
同E、同F、
同Gの請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟
法七条、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官山本矩夫及川憲夫徳岡由美子)
物件目録
一大阪府箕面市<地名略>
宅地九一四・七八平方メートル
二右土地のうち南隅の部分一七八・五一平方メートル上にある忠魂碑と刻された碑(切
石積、玉垣、樹木等の物件を含む)。
別紙一市遺族会の宗教団体性と反公益的性格及び本件各行為の違憲性
第一日本遺族会及び市遺族会の性格・活動実態
日本遺族会は、みずからを英霊につながる精神団体と規定している(甲第二四八号証の日
本遺族通信掲載の「新体制確立特別委員会報告書。したがつて、英霊につながるもの」)

すべて遺族であり、遺族会員たるべきものであつて、遺族会の趣旨に賛同するものは、戦
没者遺族であるとないとを問わず、すべて会員とすべきであるとしている(同報告書。)

遺族会はそのような日本遺族会の一地方支部である。
一戦後史における日本遺族会
1敗戦直後の占領軍の政策と戦没者遺族の動き
(一)国民にとつての敗戦
政府は、国体護持を唯一の目的として降伏を決定し、これは、国民には、まつたく秘密の
うちに、かつ唐突に実現したため、敗戦そのものによつては、政治構造や、社会構造も、
国民一般の意識も何も変わらなかつた。このように、支配層は、みずから終戦の幕を引く
ことによつて、国民の覚醒と戦争責任の追及を回避するのに成功し、引き続き占領政策か
ら国体を護持することに全力を挙げた。このように敗戦直後のわが国は、社会構造の面で
も、国民意識の点でも、敗戦前と明確な連続性を有したままであり、その連続性を断ち切
り、改革をもたらすきつかけとなつたのが、占領軍の諸政策と新憲法であり、国民自身に
よる諸変革は、新憲法の諸価値の実現と維持の闘いの中で徐々に達成され、定着していく
ことになる。
(二)占領軍の政策
日本に進駐した連合国総司令部(以下「GHQ」ともいう)は、昭和二〇年一二月一五。
日、
神道指令を発し、同指令によつて、
「日本政府ノ法令ニ依ツテ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神
道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神
道ノ一派(国家神道或ハ神社神道」は、国家から分離され、軍国主義・過激な国家主義)

要素を剥奪された後に、信奉者が望も場合には、一宗教として認められることとなつた。
この指令との関連で、国家神道の中心的施設である靖国神社の処置について、同指令の一
一日前に、GHQと日本政府の終戦連絡事務局との間で交渉がもたれ、GHQ側は、宗教
施設か戦没者追悼の記念碑的なものにするかの二者択一を提示したのに対し、日本側はあ
くまで宗教施設として存続させる道を選んだ。こうして、靖国神社は、国家との結び付き
を完全に断たれた上で、昭和二一年九月七日、単立の宗教法人としての登記を完了し、戦
没者遺族を中心とする個人の信仰の対象としてのみ存続することとなつた。
神道指令を受けて、同年一一月一日には、政教分離の見地から「公葬等について」の通牒
が発せられ(1)地方公共団体主催の公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追弔、

等)は、その対象のいかんを問わず禁止すること(一項(2)地方公共団体が個人又)、

民間団体で行う戦没者に対する葬儀その他の儀式及び行事を援助し、又はその名において
敬弔の意を表明することを禁止すること(三項(3)忠霊塔、忠魂碑等の建設禁止、)、

、()。設中のものの工事中止学校及びその構内に現存するものの撤去等四項が命じられた
次いで、同月六日、GHQは、隣組等による神道援助禁止の覚書を発し、これを受けた内
務省と文部省は、次官通牒で、神道国教化以来広く行われていた、神社奉納金の集金、神
社の頒布を町会等が行うことを禁止するに至つた。
同月三日に公布され、昭和二二年五月三日から施行された日本国憲法にも、政教分離の明
文が置かれた。
このように、明治以来、対外戦争に国民を動員するための精神装置をなしてきた国家神道
は、国民意識の変革はその後の課題として残されたが、制度としては完全に廃止された。
敗戦までのわが国においては、戦争政策の遂行の必要上、傷痍軍人や戦没者遺族に対する
特別の援護の制度が設けられていた。GHQは、このような特別の援護の廃止を求め、要
保護者に対する保護は、無差別平等であるべきとし、敗戦まで傷痍軍人の療養、
職業保護その他の援護や、戦没者遺族の援護に関する事項を所管していた軍事保護院は、
昭和二〇年一一月廃止され、同院関係の病院等の施設は、厚生省に移管された。かくて、
傷痍軍人療養所は国立療養所として、陸海軍病院は、国立病院としてそれぞれ経営される
こととなり、広く一般市民にも開放されることとなつた。
さらに、昭和二一年二月一日、勅令六八号「恩給法ノ特例ニ関スル件」が、公布、実施さ
れ、これによつて軍人・軍属の恩給及び軍人・軍属の遺族に対する扶助料が停止された。
この処置の趣旨をGHQは次のとおり説明している「今回の命令は、日本の軍国主義が。

の国民に負わしめた巨大な負担を軽減する目的への新しい重要な措置である・・・・・。

日本に於ける軍人恩給制度は他の諸国に類をみない程大まかなものであつたが、この制度
こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略戦争の大
きな源となつたものである。日本人の一部が軍人となることに魅力を感じている主たる理
由の一つは恩給がよいということにある。他の階級に比べて生活の苦しい農民は、恩給が
あるが故に、その子弟を軍隊に送つたのであつた・・・・・・もつとも、われわれは。、

幸なる人々に対する適当な人道上の援助に反対するものではない。養老年金や各種社会的
保障の必要は大いに認めるが、これらの利益や権利は日本人全部に属すべきであり、一部
少数の者のものであつてはならない。現在の惨たんたる窮状をもたらした最大の責任者た
る軍国主義者が、他の犠牲において極めて特権的な取扱いを受けるがごとき制度は廃止さ
れなければならない。われわれは、日本政府がすべての善良なる市民のための公正なる社
会保障計画を呈示することを心から望もものである」。
(乙第八〇号証二三六頁)
このような占領開始直後の占領政策とこれを受けた日本政府の処置は、まさにわが国の軍
国主義を根底から解体するものであつた。
(三)戦没者遺族の動き
敗戦後の生活難は、戦没者遺族であるとないとを問わず、すべての国民を襲つた。
ところで、戦没者遺族は、敗戦までは、一般の国民や戦争被災者と区別されて特別の援護
を受けていた。すなわち、昭和一二年に日中戦争が始まり、戦没者が急増する中で、その
年それまでの軍人援護関係の諸団体を統合して恩賜財団軍人援護会が設立され、各都道府
県にその支部が置かれ、
かくて戦没者の遺族、傷痍軍人並びに出動軍人の家族等に対する物心両面の援護は、遺憾
なく行われていたが、敗戦後、軍人援護の事業は廃止され、恩賜財団軍人援護会は、恩賜
財団同胞援護会(総裁L、以下「同胞援護会」という)となり、軍人援護会の資産をそ。

まま引き継いで活動を開始し、各都道府県の軍人援護会支部は、同胞援護会の各都道府県
支部となり、支部長には、地方公共団体の知事、常任幹事には、厚生課長が就任し、事務
所は厚生課内に置かれた。
戦没者の遺族も、戦災者、引揚者、傷痍軍人等と同じく、敗戦後の生活難に立ち向かうに
ついて不利な条件を背負わされていたが、一般の戦災者と異なり、敗戦までの特別の援護
の記憶が、戦没者遺族の不満感を一層強いものにしていた。戦後改革の中で中止された扶
助料復活の要求も切実ではあつたが、それにもまして、戦没者遺族を「誉れの家」とみな
す扱いが一転し、公葬等も行われなくなつたことに対する不満がうつ積していた。このよ
うな遺族の不満を組織することに積極的に取り組んだのが、軍人援護会を引き継いだ同胞
援護会であり、その後押しにより、東京都内の軍人援護会直営母子寮や遺族職業補導所な
どにいた遺族未亡人たちが中心になつて昭和二一年三月以来、戦争犠牲者遺家族同盟結成
準備会の事務所を設け、活動を開始し、同年六月九日には、結成大会を開催し、さらに同
月一二日右同盟から同胞援護会の各都道府県支部の幹事宛、右結成大会の報告とともに、
地方遺族団体の組織についての依頼状が出され、また同胞援護会からも各都道府県宛に同
趣旨の連絡がなされた。同胞援護会の支部幹事としての厚生課長とともに地方で遺族の組
織化に力のあつたのは、当該地方連隊区司令部が敗戦後改組された地方世話部(後の民生
部世話課)や市町村役場の兵事課職員であつた。
一方、同じころ、靖国神社嘱託Mも、各地をまわり、国家から切り離された靖国神社の存
立を戦没者遺族の崇敬と支持によつて確保するべく遺族の組織結成を勧奨して歩いてい
た。
昭和二二年七月、全国平和連盟東京都本部の名称で、遺族会総本部をもうけるための準備
会の開催が全国に呼びかけられ、同月一三日、全国三三都道府県の代表が芝の増上寺に集
合し、同月一四日には、皇居で、天皇・皇后に会見した。このことは遺族の組織化がその
出発の当初から深く天皇、皇室と結び付いていたことを示している。
この会議は「全国平和連盟総本部規約」を審議したが、遺族組織未結成の府県も多く、、

国組織の結成には至らず、同年秋に再度会議を持つことを取り決めて解散した。
同年一一月、全国二八都道府県の代表が東京都に集まり、ようやく戦没者遺族の全国組織
である日本遺族厚生連盟(遺族連盟)の結成にこぎつけた。結成大会には、前記靖国神社
嘱託Mが参加しており、同人が元貴族院議員Nを理事長に推薦、選出された、。
、、()、()、このように日本遺族会は同胞援護会旧軍人援護会地方世話部旧連隊区司令部
靖国神社という旧戦争推進三勢力の直接的介入と支援によつてはじめて昭和二二年遺族連
盟として発足しえた。
2遺族連盟から日本遺族会へ
(一)占領政策の転換と講話条約調印、再軍備
敗戦後の日本に様々な変革をもたらしたGHQの政策も、すでに芽生えつつあつた米ソ対
立を反映し、民主化一本とはとらえ切れない面があつた。すなわち、民間諜報を担当する
GHQの参謀二部の実権は、P7少将が握つていたが、同人は、反共主義者であり、その
仕事のために戦後解体された筈の特高、憲兵、日本軍諜報機関などを雇用、吸収し、日本
、、。側の引揚援護庁復員局は旧軍人のいわばかくれみのになり日本再軍備の温床になつた
昭和二五年に朝鮮戦争が勃発すると、占領政策は大きく変わり、同年七月八日、P8は、
警察予備隊の創設を日本政府に指令し、同月二四日にはレツドパージが始まり、再軍備右
傾化の方針が徐々に打ち出され、昭和二六年九月には、対日講和条約の調印と同時に日米
安全保障条約の調印がなされ、昭和二八年八月一日には、恩給法改正による軍人恩給が復
活した。そして昭和二九年六月九日には自衛隊が発足する。
(二)互助組織、平和団体の装いを捨て、愛国的精神運動へ
結成直後の厚生連盟は、占領軍の目を恐れ、広く戦争犠牲者一般(戦没者と戦災死者等の
遺族)の互助組織としての装いをこらし、その目的を「遺族の相互扶助、慰藉救済の道を
開き道義の昂揚品性の涵養に努め、平和日本建設に溝進すると共に、戦争の防止、ひいて
は世界恒久平和の確立を期し以て全人類の福祉に貢献することとし国会に対し戦、」、、「
争犠牲者遺族の援護強化に関する請願」等を行つていた。占領軍は、戦争遺族が組織を作
ることは好ましいことではないとしていたが、
一般の戦災死者等の遺族をも加えるという条件をつけただけで、結成そのものを強いて禁
止はしなかつた。
朝鮮戦争の勃発と日本の再軍備の動きは、遺族連盟の運動にも大きな転機となつた。政府
にとつて、戦没者の処遇についての不満を無視したままで、再軍備を進めることは不可能
であつた。国会内の情勢の変化をみた遺族連盟は、昭和二六年二月、第一回全国遺族代表
者大会を開催し、戦没者遺族に対する国家補償を要求する決議を採択し、昭和二七年一月
の第三回大会では、遺族補償について抜本的対策を要求するとともに国及び都道府県が主
催して戦没者の慰霊行事をその費用で行うことを決議した。
このように次第に要求を高めてきた遺族連盟は、同年一一月の第四回大会で、靖国神社並
びに護国神社の行う慰霊行事は、国または地方費をもつて支弁するよう措置することを初
めて決議し、以後靖国神社における慰霊顕彰事業の国家護持運動を公然かつ本格的に展開
していくことになる。そして、いつのまにか戦災死者の遺族の問題は、遺族連盟の問題意
識から消えていく。
靖国神社国家護持運動は、昭和二八年三月、日本遺族会が発足することによつて、飛躍的
に高まつていく。旧軍人会館の払下等を受けるために法人化を急いでいた遺族連盟は、関
係官庁の指導の下、同月一一日、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉、救済の道を開くこと
を目的とする(寄付行為二条)財団法人日本遺族会として設立を認可され、同年八月一二
日、同会館の無償貸付を受けるや、直ちに寄付行為を改正し、目的を「この会は、英霊の
顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開く・・・・・・」と変え、同会の本
質的性格を明確にするとともに、会の行うべき事業のうちに、その第一として「英霊の顕
彰並びに慰霊に関する事業」を導入し、以後、まつしぐらに靖国信仰の公認に向け、活動
を展開していつた。
折しもこの年、防衛庁設置法、自衛隊法の防衛二法案が閣議決定され、昭和二九年六月に
公布され、七月一日から施行され、その後自衛隊は、年々装備と人員を拡大していくが、
このような軍備増強と呼応して、日本遺族会の援護費増額要求に対する政府の対応も甘く
なつていき、昭和三三年には、遺族援護費が三〇〇億円に増額されるが、その背景には、
戦没者及びその遺族に対する国家補償の充実こそ国民の防衛意識の向上の基盤であるとの
政策的考慮があつた。
遺族援護費の大幅増額を勝ち取り、政治的圧力団体としてその目的を一応達した日本遺族
会は、昭和三四年六月、その将来の活動の在り方について再検討を加えるため、機構等刷
新特別委員会を設置した。同委員会は、同年八月「真の愛国的精神運動を積極的に展開す
。」、、、べきであるとの答申を提出し理事評議員合同会議で承認されここに日本遺族会は
はつきりと精神団体として存続・発展することを図つたのである。同答申は、次のように
規定している(甲第四九二号証の六「基本方針-本会は、設立の趣旨に鑑み、英霊の)。

神を体し、平和日本再建のため真の愛国的精神運動を積極的に展開する・・・・・・1

神運動-本会は本部支部相携えて相互扶助の徹底を期し、その結束を強化し、愛国的精神
運動を積極、強力に推進すべきである。この愛国的精神運動は、国家民族の繁栄を念じて
散華せる英霊の遺志を顕彰し、すべての国民とともに英霊に感謝敬仰の誠を捧げ、対立と
抗争を繰り返しているわが国の現状を正し、運命共同体としての民族意識を高揚し、以て
郷土を愛し国を愛する真実の平和日本を再建することを本質とし・・・・・・」
この後、同答申は、愛国的精神運動として今後行うべき事業の基調として「英霊の顕彰、

びに慰霊に関する事業、具体的には、靖国神社の国家護持、英霊感謝の日の制定、靖国」

社の団体参拝の三大事業のほか、護国神社の護持奉讃、各種慰霊行事の主催又は協賛、忠
魂塔・記念碑・旧陸海軍墓地の管理護持、忠魂録の作成等を列挙している。このうちの靖
国神社・護国神社の国家・都道府県護持については、全国的な署名運動の展開を提起し、
靖国神社参拝については、すべての国民が参拝するという気風を作り出すことをうたつて
いる。
以後、日本遺族会は右の答申に従つて活動を展開していき、昭和三五年一月末までに靖国
神社の国家護持について二八〇万の賛成署名を集めた。また、安保改定の年である同年二
月、日本遺族会は、基本問題調査部会を設置して「英霊精神とは何か」を諮問し、二年、

をかけて審議決定されたその報告書は「英霊精神とは民族のため身命を捧げた人を尊び、
感謝することにほかならない」と断じている。。
以上、日本遺族会は、日本の再軍備政策の進展とともに、その互助団体的・平和団体的装
いをかなぐり捨て、靖国神社と切つても切れない精神団体としての性格を顕著にしていつ
たのであり、
そのような同会の性格は、国家神道を奉じる宗教団体のそれにほかならないことは後記の
とおりである。
二日本遺族会の性格とその活動実態
往々にして、日本遺族会は、遺族全体の組織であるかのように取扱われるが、これは全く
の誤りであり、事実は、同会自身の主張でも、同会は、遺族のうち、靖国神社の祭祀を積
極的もしくは消極的に支持する約半数の部分を組織し得ているにすぎず、同会の思想と活
動に積極的もしくは消極的に反対する遺族もほぼ同数いることを忘れてはならない。戦没
者の遺族としての共通の立場にもかかわらず、このような分裂状態が存在するのは、同会
、。の持つ特定の宗教性思想性とそれに染まつた活動の実態がもたらした当然の結果である
1日本遺族会は靖国神社の信徒の団体
靖国神社は、明治天皇の聖旨に基づき、戦没者を神として祀つてきた神社である。戦争に
敗れ、日本国憲法が制定されるという大きな社会変動があつた後においても、この靖国神
社の祭祀をすべての国民あるいはすべての遺族が支持しているとみることの誤りは明らか
である。しかるに敗戦後もなお、靖国神社の伝統と祭祀を支持し、それが国家事業である
。、、ことを求める一部の戦没者遺族がいたそれらの遺族が皇族を総裁と仰ぐ同胞援護会や
、。地方世話部職員の絶大な援助によつて組織したのが遺族連盟であり日本遺族会であつた
靖国神社の祭祀を支持する日本遺族会の会員たる遺族は、靖国神社の崇敬者にほかならな
い。宗教法人靖国神社の規則三条は、その目的として「本法人は、明治天皇の宣らせ給、

た安国の聖旨に基づき、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳を
広め、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者(以下「崇敬者」という)を教化、。

成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務を行うことを目的と
する」として、このことを明確に定めている。。
崇敬者とは、神社の信徒と同義であり、神社の信徒の別名である(甲第四四八号証。崇)

者としての遺族は、単に靖国神社による教化育成の対象なるにとどまらず、同神社の構成
員、機関としても重要な役割を果たしている。すなわち、靖国神社の執行機関は役員会で
あるが(前記規則八条、役員会を構成する五人の責任役員(同四条)のうち一二名は、)
「本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者」の中から任命されなければならないとさ
れている(同五条二項二号。さらに、代表役員(宮司)の委嘱に基づき、崇敬者中から)

敬者総代一〇名が選ばれ、最高議決機関である崇敬者総代会を組織する(同一六条、一四
条。事」のように「本神社を信奉する祭神の遺族」は、崇敬者の筆頭として靖国神社の)

織において最も重要な地位を占めている。
靖国神社が戦後宗教法人組織に衣替えをした最初の責任役員の少なくとも一名が、遺族連
盟の理事であつたのも、その後も現在に至るまで、P9が会長に就任した昭和三七年以降
は間違いなく、日本遺族会の歴代の会長が継続的に靖国神社の責任役員に就任してきたの
も、同会が靖国神社の崇敬者の団体であつたことによる。
一方、靖国神社も、敗戦後、同神社の存続の基盤を確保するため、崇敬者の組織化に極め
て熱心で、遺族連盟の発足そのものに、すでに重要な役割を果たしていた。すなわち、当
時の靖国神社の事務総長であつたMは、敗戦直後から全国各地を巡歴して遺族の組織を結
成するよう勧奨して歩いていた。そして、同人は、昭和二二年一一月、連盟の結成大会に
出席し、新たに結成される遺族の全国組織の理事長として、元貴族院議員のNを推薦、就
任せしめたことは前記のとおりである。
、、、Mはその後連盟が日本遺族会に組織替えになつてからも長く遺族会の運動にかかわり
影響カを行使した。さらに昭和二八年の日本遺族会発足当初の一二名の理事の中に、靖国
神社の初代代表役員である宮司Oが入つていることも見落とせない。同宮司は、その後日
本遺族会の寄付行為が改正され、理事の改選があつてからも、しばらくは議長指名理事と
して名を連ねていた。
日本遺族会発足後、昭和二八年一一月、日本遺族会と靖国神社が中心となつて、戦没者の
合祀費用を調達するため、靖国神社奉讃会を設立した。同会の理事長には、富山県遺族会
会長、日本遺族会理事兼靖国神社崇敬者総代のPが就任し、常務理事には、主として他の
崇敬者総代と権宮司、前記M事務総長など、同神社の要職にある者が就任した。その他の
理事は、全国都道府県の遺族会長がそのまま奉讃会の理事となる仕組みで、靖国神社奉讃
会の実働部隊は、日本遺族会が担当した。右奉讃会は昭和三六年に合祀が概ね完了し、目
的を達したとして解散するまで、
八年間存続した。
以上のとおり、日本遺族会が戦没者を祀る靖国神社の祭祀を支持し、同神社を信奉する者
の団体であるという意味において、同神社の崇敬者、信徒の団体であることに疑いの余地
はない。
2日本遺族会の活動実態
(一)日本遺族会の英霊顕彰事業の実態
日本遺族会の最重要な目的は英霊の顕彰であり、同会の寄付行為二条は「この会は、英、

の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進・・・・・・を目的とする」とそのことを明確に規。

している。なお、府遺族会の寄付行為一条にも「この財団法人は、英霊の顕彰、戦没者、

族の慰藉激励とその厚生の方途を講じ・・・・・・ることを目的とする」と英霊の顕彰。

第一とする同様の規定がある。
日本遺族会の現実の活動方針も、英霊の顕彰を最重要の目的としている。昭和三七年、日
本遺族会は「英霊精神に関する報告書」と題する文書を発表した。この報告書は、同会の
理事会によつて設置された基本問題調査部が、約二年の歳月をかけて検討した結果をまと
めた重要文書であり、右報告書は、その冒頭で「英霊の顕彰ということは、日本遺族会、

主なる目的であり、従つてまず英霊精神を現代に則して解明しなければならない」と指。

。、「」、「、しているまた前掲新体制確立特別委員会報告書の冒頭部分でも英霊の顕彰は
本会の根本的な目的であり、永遠の使命である」と英霊顕彰事業が同会の根本的な目的。

あることがうたわれている。このように日本遺族会が何よりもまず英霊の顕彰を目的とす
る組織であることは疑いの余地もない。
英霊の顕彰を目的とする日本遺族会の最大の事業は、当然のことながら「英霊の顕彰」、

「慰霊」であり、同会の寄付行為三条は「この会は、前条の目的を達成するために次の、

業を行う。一、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、二、遺族の処遇向上に関する事業」
とこのことを明確に規定しており、府遺族会の寄付行為二条にも同様の規定がある。
さて、この英霊の顕彰と慰霊の事業の具体的内容を、乙第九八号証(甲第一四八号証に同
じ)の日本遺族会十五年史によつてみると、それは(1)靖国神社及び護国神社の例。、

祭等への奉仕(2)毎年の慰霊祭執行(3)遺族、遺児の靖国神社参拝の組織と世話、、

ある。
また前記新体制確立特別委員会報告書は、英霊顕彰事業の内容として(1)靖国神社国、

護持の実現(2)護国神社、慰霊搭、、
旧陸海軍墓地などの護持、奉讃(3)各種慰霊行事の奉讃(4)外地遺骨収集の完全、、

施及び慰霊塔の建立の推進(5)靖国神社団体参拝、戦跡巡拝実施を挙げている。、
このように、日本遺族会のいう英霊顕彰、慰霊の事業とは、何よりもまず、靖国神社(護
国神社)への合祀にはじまり、毎年の例大祭で繰り返される戦没者慰霊の祭祀をますます
盛んにすることであり、それ故に、これを執り行う靖国神社(護国神社)の国家(都道府
県)護持を実現することである。
(二)英霊にこたえる会と日本遺族会の一体性
日本遺族会は、早くから、英霊顕彰と慰霊の事業の中心的内容として、靖国神社の国家護
持推進を打ち出してきた。靖国神社国家護持ないし靖国神社公式参拝の実現の運動は、同
会の総力を挙げてきわめて積極的に取り組まれてきた。昭和五一年には、日本遺族会が中
心となつて、英霊顕彰、靖国神社等における慰霊顕彰、靖国神社公式参拝実現等を目的事
業とする「英霊にこたえる会」が結成された。日本遺族会は、その中央本部を引き受け、
両会の中央・地方の各組織が緊密に連携して右事業を推進しており、両会は事実上一体と
みてよい。
「英霊にこたえる会」という新国民組織の狙いは、国会と相呼応して国民運動を展開し、
国民的な関心を喚起するとともに、靖国神社国家護持の既成事実を作り上げていくことで
あり、具体的には、天皇や総理、国賓等の公式参拝の実現、慰霊の日制定、憲法解釈の是
正、靖国神社における国民的大慰霊祭、靖国神社国家護持に関する啓蒙宣伝活動を通じ、
従来は日本遺族会の運動により、靖国神社法制定一本槍で、正面突破による靖国神社の国
家護持実現を目指していたのを、今後は迂回作戦で、同神社の国家護持を実現しようとい
うのである。
なお、日本遺族会副会長は「英霊にこたえる会」中央本部の副会長となり、府遺族会会、
長、
副会長(二名、支部長(三名、婦人部長、青年部長は、それぞれ「英霊にこたえる会」))
大阪府本部の副会長、理事(二名、評議員(五名)となり、市遺族会も、会長はじめ役)

の多くが箕面市の「英霊にこたえる会」の副会長その他の役員となり、それぞれ相携えて
英霊顕彰事業を行つているちなみに市遺族会会長でかつ府遺族会副会長であるTは英。、「
霊にこたえる会」の府本部理事であり、市遺族会及び府遺族会の青年部長を兼任している
Uは、
「英霊にこたえる会」府本部の評議員としてそれぞれ活動している。このような実態に照
らしてみれば「英霊にこたえる会」と各遺族会とは一体不可分であつて「英雲にこた、、

る会」の目的、事業はすなわち日本遺族会の目的、事業にほかならない。
なお、日本遺族会も「英霊にこたえる会」発足という新事情を踏まえて、近年、その事、

計画として、靖国神社国家護持の推進、具体的には(1)靖国神社国家護持の方途を研、

する(2)八月一五日を目途に同神社への公式参拝実現のため「英霊にこたえる会」と、

もに全国的規模の運動を実施する(3)右公式参拝実現のため地方議会の請願決議の推、

を徹底する(4「英霊の日」実現のための運動を推進する(5)その他英霊顕彰のた、)、

の諸策を企画実施する等、英霊にこたえる会の事業計画と同一のものを挙げている。
三市遺族会の性格とその活動実態
1市遺族会は、日本遺族会の一地方支部であり、日本遺族会の宗教的、反憲法的性格を
共有せざるをえない立場にある。
(一)寄付行為、規約等にみる組織的つながり
日本遺族会は、各都道府県に独立した法人格をもつた遺族会を組織しており、これを支部
と呼んでいる。府遺族会は、大阪府に置かれた日本遺族会の支部であり、大阪市の各区、
、、、、衛星都市郡に単位遺族会を組織しておりこれをやはり支部と呼んでおり市遺族会は
府遺族会の箕面支部である。府遺族会の寄付行為(乙第八二号証)の四条には「2この、

は、大阪市の区、衛星都市及び郡を単位として支部を置く。支部に関する規定は、別に定
める」と定められている。すなわち、遺族会の組織は、日本遺族会-府遺族会-市遺族。

という一体不可分の構造をなしている。
この構造を役員の面から観察すると、末端の最小単位の遺族会である市遺族会の会長は、
府遺族会箕面支部の支部長であり、当然に府遺族会の評議員となる。府遺族会をはじめと
、。、する各都道府県単位の遺族会で選出された者が日本遺族会の評議員になる右評議員は
評議員会を構成し、この評議員会が執行機関である理事会構成員である理事を選任し、か
つ会長、副会長を指名する権限を有する最高議決機関である。
よつて、日本遺族会、府遺族会、市遺族会は、一体的全国組織及びその各レベルにおける
部分であり、市遺族会は、日本遺族会の一地方支部である。
(二)活動方針にみる組織的つながり
「」、、、前掲英霊精神に関する報告書は遺族会のあり方について項目を設け遺族会の本部
各支部は協力して、戦没者遺族の物心両面の安定を期するため、靖国神社の国家護持の実
現及び戦没者遺族の処遇改善に努めること並びに遺族会の本部、各支部は、遺族会の目的
、、、が下部に浸透徹底するよう努力しその組織の整備強化を図ることを指摘しておりまた
昭和四六年に、日本遺族会の新体制確立特別委員会のとりまとめた「日本遺族会の今後の
あり方」という報告書(前掲新体制確立特別委員会報告書の一部)には、遺族会の存立の
基礎は各市町村における組織であること、遺族のよりどころとして、遺族運動の原動力と
して遺族会の全国組織を支えているのはこの単位組織であること、なお、本部と支部の関
、、、、係については各支部は本部の決定に基づき都道府県の立場でその実行にあたりまた
都道府県の独自の立場において会の目的に沿つた活動を行うこと、本部決定事項の遂行に
おいては、支部はあくまで支部としての立場であり、独自の立場は制約されること、支部
の特殊事情のために決定事項が実行されなかつたり、実行への熱意を欠くことは是認しが
たく、それは全国組織の崩壊につながることが述べられている。
このように、遺族会の活動は、不可分一体の全国的組織として展開されており、会の基礎
をなす市町村遺族会の重要性は認識されているが、支部はあくまで支部であり、独自の立
場は制約されるのであり、特に、英霊の慰霊・顕彰すなわち靖国神社の国家護持及び護国
神社の都道府県護持と、遺族の処遇改善という基本事業については、支部が独自の立場を
とることは許されないのである。
2市遺族会の活動実態
市遺族会が日本遺族会の一地方支部として、同会の方針と指示に従い積極的に靖国神社国
家護持運動などの英霊顕彰事業や処遇改善事業を分担・展開していることはいうまでもな
い。この他、市遺族会は、様々の支部としての事業を行つている。しかしそれらの支部事
業の内容も、結局のところ日本遺族会の英霊顕彰事業の範疇に含まれるものであり、市遺
族会が、日本遺族会と異なつた性格を有する団体であることを意味しない。
(一)日本遺族会の地方支部としての活動
前記のようなピラミツド型の組織体制のもとで、日本遺族会の全体としての活動の方針及
び内容が決定され、その活動の方針及び内容は、
府遺族会を通じて市遺族会に浸透、徹底され、実行に移される。
経済面に目を向けると、市遺族会は、その収入の一部を支部分担金として、府遺族会に上
納し、青年部会費を日本遺族会と府遺族会に納入し、日本遺族政治連盟に支部として組織
加入し、処遇改善要求のための運動資金を会員から徴収してこれを府遺族会に納入するな
どして、日本遺族会と府遺族会の組織の維持発展に大いに寄与している。
(二)市遺族会の英霊顕彰事業
市遺族会は、英霊顕彰事業の一環として、以下の各活動を組織として常時又は定期的に継
続して行つてきた。
(1)本件忠魂碑を御霊代として、これに戦没者を英霊として合祀し、慰霊し、祭紀す
ること
(2)同碑により神式または仏式の慰霊祭を例年執行すること
(3)毎年度靖国神社へ集団参拝すること
(4)大阪護国神社と毎年春秋各例大祭を共催すること及び同神社へ役員、会員が集団
参拝すること並びに神饌料を奉献すること
(5)毎年一二月初旬、大阪護国神社発行のいわゆる神社暦を会員に配布し、同神社に
対し、初穂料を奉献すること
(6)大阪市<地名略>の四天王寺の英霊堂の護持を目的とする事業に参加し、四天王
寺の英霊お盆大祭に協賛して、支部として、これに集団参拝し、英霊堂に燈明料を供える
こと
(三)市遺族会のその他の活動
それ以外の市遺族会の活動としては、毎年日帰りで行われる秋季バス慰安旅行のほかはみ
るべきものはない。なお、右各英霊顕彰事業に伴う経費の使用状況は、別紙市遺族会会計
状況一覧表記載のとおりであり、これによれば、市遺族会の事業のほとんどは、靖国神社
の崇敬者団体としての英霊顕彰事業であることが明らかである。
3市遺族会は、社会福祉団体か
被告は、当初、市遺族会は、社会福祉団体であると主張し、次に要福祉団体、さらに社会
福祉的団体と主張している。そこで、以下、これらについて反論する。
(一)遺族の処遇改善事業について
市遺族会のいう処遇改善事業とは、同会の会員自身のためにする各種法律による国家補償
の制度の新設、増額、継続の要求にすぎず、なんら自己以外の社会的弱者のための活動で
はない。
なお、日本遺族会がその復活を渇望していた軍人恩給等が、敗戦後、一時停止されていた
こと、その処置の趣旨こそ、まさに社会福祉上の配慮によるものであつたことは、前記一
の1の(二)のとおりであるが、
日本遺族会は朝鮮戦争後の占領政策の変化と日本の再軍備政策の推進の中でその組織力に
ものをいわせて、それを復活させた。しかし、これら、軍隊における階級を基準に支給さ
れる給付金が、社会福祉の理念に基づくものといえないことは明らかである。
なお、日本遺族会にとつて、これら経済的要求は、英霊顕彰事業とは別個独立のものとは
意識されておらず、同会が処遇改善というときの処遇とは、あくまで国家による戦没者の
位置付け、ひいては遺族の位置付けの問題であり、その改善の要求は、単に経済的要求に
とどまらず、いわば戦没者の名誉の全面的回復の要求である。すなわち、経済的要求は、
戦没者が敗戦までと同じように国家護持された靖国神社において公的な祭祀によつて慰霊
されることの要求と切つても切れないものであり、政府と全国民が戦没者に英霊として感
謝の誠を捧げるべきだとする思想に、その正当性の根拠を置いているのであり、それは国
家神道の復活の要求そのものである。
(二)その他の事業について
市遺族会が、同会会則三条、四条に規定する目的と事業は、いずれも社会福祉の目的、事
業ではない。
(1)会員の慰問等という目的
同会会則三条にいう「会員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉向上に資す、
る」という目的は、会員相互のいわゆる互助会、共済会としての目的であり社会福祉で。

なく、これを目的とする事業は、社会福祉の活動ではない。
(2)遺族の実態調査
会則四条一号の遺族の実態調査は、それ自体、社会福祉の事業ではないし、しかも、せい
ぜい数年に一回官製の調査票を配布、回収する程度のものであつて、到底社会福祉の活動
とはいえない。
(3)厚生福祉に関する研究指導
会則四条二号の、生活、職業その他厚生福祉に関する研究指導は、実際にはなされていな
いし、少なくとも本件補助金交付年度になされた事実はない。また専門のカウンセラー等
。、、を委嘱する事業計画もない仮に会員相互に生活相談や職業研究指導を行つたとしても
それは互助、共済活動であつて社会福祉の活動ではない。
(4)講習会等
会則四条三号の講習会、講演会、慰安会等が開催されたことはないし、そのような計画、
予算が組まれたこともない。ただ、選挙の講演会に利用されたことはかなり以前にある。
一般会員に対し、教養、娯楽の行事を催すことを目的としても、それは趣味、教養の会に
すぎず、
教養娯楽の機会の欠乏する老人ホームや、身体障害者の施設で催されるものとはその性質
を異にする。
(5)情報提供
会則四条四号の関係当局に対する意見具申及び情報提供は、その性質上、社会福祉の事業
とはいえない。またそれは、現実に上部組織である日本遺族会に統合され、精力的な運動
として展開されている遺族の処遇改善及び英霊顕彰と靖国神社国家護持の要求に限られて
いる。これらが、自益的政治運動及び思想的・宗教的政治活動であることはいうまでもな
い。
(6)靖国神社参拝
会則四条五号の靖国神社参拝の行事は、社会福祉活動ではなく、宗教的活動であり、それ
が、仮に、同神社参拝の行事を含も「上京旅行に関する事項」に変更されたとしても、そ
れは一般会員の趣味、娯楽の趣旨が加わつたにすぎず、それによつて社会福祉の事業とな
るわけではない。
(三)市遺族会は要福祉団体か
日本遺族会は、英霊につながる精神団体であり、その地方支部たる市遺族会の結合の原理
も同様である。市遺族会の会員である遺族は、戦没者の遺族であり、英霊精神の信奉者で
あるという共通点を有するのみで、身体的、経済的、社会的弱者の団体とはいえない。戦
没者の遺族という最も基本的な共通点が放棄されたのは、前記昭和四六年の日本遺族会の
新体制確立特別委員会報告書の決定以来(遺族以外の者で、遺族会の趣旨に賛同する者に
対しても、適正な詮衡のルールを定め、参加を認めることを考慮する)のことである。。

没者の遺族であるというだけで、その会員たる遺族の範囲も限定されず、個々の生活実態
も問題とされないとすれば、仮に、市遺族会が、今でも、遺族であることをその会員資格
として堅持しているとしても、それのみで同会を要福祉団体というわけにはいかない。
第二戦没者慰霊及び靖国神社の性格
一市遺族会の活動の枢要部分を占める英霊顕彰事業における英霊とは何か、忠魂碑によ
つて執行される慰霊祭における慰霊とは何か、また靖国神社集団参拝における靖国神社と
は何か、これらの問いを一言でいえば、わが国における戦没者慰霊とは何かということで
あり、これをどう理解するかが、市遺族会の性格をどう判断するかの決め手になる。
二慰霊と追悼
言葉本来の意味から言えば、慰霊は、本来、宗教たる神道系統の観念であり、超自然的、
超人間的存在の確信に基づく行為であつて、無宗教の慰霊祭というのは、
本来概念矛盾であり、今日俗に慰霊祭と呼ばれている儀礼は、それが超自然的、超人間的
存在の確信に基づいてなされていない限り、追悼式と呼ぶ方が正確である。ところが、被
告は、右のとおり誤用あるいは転用された慰霊の例を列挙することをとおして慰霊一般を
慰霊・追悼として論じる。すなわち、能う限り水増しされた慰霊一般を論じて追悼と同一
化し、これを市遺族会のなす忠魂碑前慰霊祭における慰霊と同じとし、この慰霊は、どこ
、、でも誰でもやつている現象とし人々に違和感なく受け入れられているという判断を下し
それ故に、習俗とか儀礼とか論結する。しかしわが国における戦没者慰霊の実態は、世界
中、わが国にしかなく、一定の思想、信条、宗教を持たない限り行いえない、特異な心情
、、、、に基づくものであり到底自然の心情・精神作用であり人間性のあらわれであるとか
普遍人類的な感情とかいいうるものではなく、被告の論理は、詭弁というほかない。
三わが国において、戦没者慰霊とはなにか
1戦没者慰霊祭の起源と歴史
現在までにわが国で行われている戦没者慰霊祭の起源と歴史をたどることによつて、それ
が、一定の宗教観念に基づくものか、そうではなくて普遍性を持ち、単なる習俗や、社会
儀礼かどうかが明らかになる。
(一)御霊信仰
日本人は、古来、特に、非業の死を遂げた者につき、霊を観念し、丁重に弔う習慣をもつ
ていたとされる。そして、非業の死によつて恨みをのんで死んだと考えられる人々が、そ
のものの相手方とされている者や、共同体あるいは家族、子孫、さらに不特定の人々に崇
つて不幸をもたらし、時には人を呪い殺す程の霊力を持つとして恐れられ、その霊力を人
間の幸福をもたらすものに転化させようとして、これを鎮め神として祀る信仰が、いわゆ
る御霊信仰と呼ばれるものである。御霊信仰は、政争の激しかつた平安時代に、仏教と習
合し、やがて、神道とも習合する。非業の死、恨みを残す死の中でも、特に戦争による死
亡の場合、敵方の将兵あるいは敵味方を問わず、その霊の崇りは、生き残つた者達の恐怖
であつたことから、敵方あるいは味方をも含めて怨霊を慰撫する儀礼が伝統的に行われ、
古代末期から戦国時代に至るまで、戦乱が起こるたびに戦闘のあとでは、崇りを恐れて戦
死者に手厚い弔いが行われた。この御霊信仰は、いわゆる民間信仰とされているが、既に
述べたところから明らかなように、
単に死を悲しみ記念するといつた思想、信条、宗教の壁を超えて見られる人間として極め
て自然な心情の表出というレベルとは異なつた、霊が崇るという固有の要素、観念が主に
なつて成立しているものであり、それは、超自然的、超人間的存在の確信そのものという
ほかない。今日行われている多くの戦没者慰霊祭の起源は、この御霊信仰の系譜に行き着
くことは疑いない。
(二)招魂
ところで、この御霊信仰としての戦没者慰霊の伝統は、幕末から、明治初期にかけて変容
する。いわゆる尊皇攘夷派は、自派の犠牲者の名誉回復を図り、自派の志士たちの忠誠心
を高め、戦意を高揚させるため、自派の犠牲者のみを霊魂招集し、礼をもつて収葬し、子
孫をもつて祭祀せしめる招魂祭を相次いで挙行するようになつた。この招魂祭の在り様が
明治政府に受け継がれ、祭政一致、神祀官再興の布告による神道国教化の基本方針のもと
で招魂儀礼の場としての東京招魂社の創建へと導かれることになる。招魂の思想は、天か
ら死者の霊を招き降ろして鎮祭するという観念であつて、これはいうまでもなく、超自然
的、超人間的存在の確信によつて成立する思想であるとともに、味方の死者のみを国事殉
難者として弔祭し、反対派の死者は、一顧だにしないという思想であつて、従来の御霊信
仰とは異質な人間観、霊魂観に基づくものであつた。これによつて、日本人が歴史ととも
にはぐくんできた御霊信仰に内在する人間観、霊魂観は歪められ、招魂の思想は、宗教的
観念としては特異な政治的・軍事的次元の観念として、その後暴威を振るうこととなる国
家神道の成立の下地を作ることとなる。仮に、御霊信仰については、これを宗教習俗と表
現する余地がありえても、招魂の思想に至つては、極めて特殊で固有の要素が加わつてお
り、およそ普遍性はなく、これを習俗とみることはできない。わが国における戦没者慰霊
祭の内実は、右のような招魂の思想に基づく招魂祭そのものである。
(三)東京招魂社から靖国神社へ
東京招魂社が明治一二年六月に靖国神社と改称されるまでの一〇年程の期間に、右招魂の
思想は、一定の観念体系としてほぼ整備されていくことになる。この間、佐賀の乱や西南
戦争等の内乱があり、内政は危機的状況を経たが、この状況に対応するためにも、右招魂
、。の思想は天皇への忠誠を基準とする新たな観念体系・神道に整備されねばならなかつた
天皇の古代的・宗教的権威を基盤に成立した新政府は、国民のあらゆる行動の究極的価値
基準を天皇への忠誠に置く国民教化を強引に推進したのである。こうして、各地に設置さ
れた招魂場を政府が直接管轄する中央集権的態勢がとられ、招魂社と名称を統一するとと
もに、これらは中央の招魂社である東京招魂社の地方分社に作り替えられることとなり、
幕末維新の国事殉難者を東京招魂社へ集中合祀する体制が整備される。また、南朝の忠臣
達をはじめとする歴代の臣下たちを祭神とする諸神社が創建され、これらは、別格官幣社
の社格を与えられ、また歴代の天皇自身を祭神とする諸神社も次々に創建される。もとよ
り、この間に天皇軍の戦死者を祀る招魂祭は繰り返し行われ、その儀礼も定型化され、整
備されていく。
、、、、この過程で天皇軍の戦死者は天皇のために忠死した神霊・忠霊とされ忠魂と呼ばれ
やがて英霊とも呼ばれるようになるが、これらが、超自然的、超人間的存在の確信に基づ
いて成立する概念であることはいうまでもない。
こうして、東京招魂社は、神霊が常在する靖国神社となり、別格官幣社に列格される。か
ようにして整備されていつた一定の観念体系が、宗教そのものであること、しかも、特殊
かつ固有な宗教であることは自明である。
(四)忠魂と靖国神社
忠魂という言葉は、前記招魂の思想が定着しはじめたころから、招魂の思想の要を構成す
、()、る言葉として使われるようになつたものであり一八六八年慶応四年一月明治天皇が
薩摩藩主島津忠義に下した沙汰書や、同年五月、太政官が、一八五三年以来の国事殉難者
を京都東山に祠宇を設けて合紀する旨の布告中にもその用例がみられる。
靖国神社は、このような「忠魂を慰める」という招魂の思想を体現した神社であり、この
ことは、陸軍大臣官房・海軍大臣官房監修、靖国神社編の「靖国神社忠魂史」の冒頭に、
「靖
国神社は明治天皇の深き叡慮に依て創建せられた神社であります。畏くも忠魂を慰むる為
に神社を建てて永く祭祀せしむ、益々忠節を抽んでよ、との御趣旨を体して、当時田安台
と称した大段坂上の東京招魂社を建てられ」等とあることからも明らかである。
このような忠魂を慰める招魂の思想によつて、宗教の社会的統合機能は、国内統合の機能
を十分に果たしていくことになる。招魂祭が、その機能を全うさせるための不可欠の儀礼
であつたことはいうまでもない。
(五)聖戦下の招魂祭
このような経過で、戦没者慰霊の儀礼は、靖国神社、招魂社による忠魂を慰める靖国神社
方式による慰霊に統一される。靖国神社は、後記のような国家神道の軍国主義の側面を体
現した天皇の軍隊の宗教施設として、戦没者の追悼あるいは、国民個々の宗教による祀り
や供養等のすべてを、一定の観念体系に基づく慰霊によつて独占することになり、宗教の
機能は、国内統合の機能を経て、またそれと併せ、国家神道体制のもと、侵略主義、排外
主義を導いていき、その中で、靖国神社は、天皇の軍隊による聖戦で、続々と生じていく
戦没者を、次々と合祀していく。
これに呼応し、招魂社も増え、市町村のレベルでは、招魂碑、忠魂碑等が続々と建てられ
ていく。招魂社の創建と忠魂碑の建立が、国家神道の国民への浸透によつて、これと全く
同質の思想に基づいてなされたことはいうまでもない。また、明治四〇年に内務省が発し
た「招魂社創建に関する件」により「祭神は、別格官幣社靖国神社合祀の者に限る」こ、

になり、祭神を通じて招魂社と靖国神社は一層直結し、昭和一四年には、招魂社は、護国
神社となる。
このように旧憲法下におけるわが国の戦没者慰霊(招魂)祭はすべて国家神道の一定の観
念ないし観念体系に基づく一定の儀礼であり、市町村レベルであつても、共同体において
施行される慰霊祭がこれを免れることはありえず、それは、宗教色の強い儀礼であり、ま
た、そこでは「英霊」が一定の宗教観念に基づく言葉として使われていた。、
(六)敗戦後の戦没者追悼と戦没者慰霊
敗戦後戦没者追悼の形式は多様な形式をとるようにはなつたがしかし右の慰霊招、、、、(
魂)祭の系譜が敗戦後今日まで続いていることも疑う余地がないのであり、このことは、
新雑祭祝詞大成(甲第五六号証の一、二)を一読しただけでも明らかである。国家体制が
変わるということと国家の内実が変わるということは、もとより同じではなく、むしろ国
家体制が変わるということは、人間の在り様にとつて、ましてや個人や共同体の思想、宗
教にとつて一部を規定するにすぎない。国家体制が変わつても、招魂の思想は生き続け、
絶えることのない生命力を持ち、後記のような戦後の国家神道や日本遺族会は、右一定の
宗教観念を培養し、招魂の思想による慰霊のみを正当といい、他の多様な形式を排斥する
姿勢をとつている。
右のような状況のもと、
我が国の戦没者慰霊祭は、そのほとんどすべてが、右招魂の思想という、一定の極めて特
殊な固有の宗教観念に基づく宗教儀礼であり、今日もその系譜は存在している。市遺族会
のなす本件忠魂碑による慰霊祭も、右観念に基づく宗教儀礼以外のものとしてこれを位置
付けることができない。
2戦没者慰霊の背景-国家神道・宗教国家
前記のような性格の戦没者慰霊を宗教でないと強弁するには、戦没者慰霊の歴史的性格を
、、、切断して無視するかその歴史的性格を歪めるかの方法しかありえないが後者の方法は
神社神道・国家神道非宗教論そのものであり、前者の方法もこれに通じる。そこで、神社
神道、国家神道が、宗教であることをもう一度確認しておく。
(一)神社神道、皇室神道
明治政府がその成立の基盤とした天皇の古代的・宗教的権威とは、古代国家成立の頃、天
皇の祖先神を、高天原を主宰するアマテラスオオミカミとし、天皇家の宗教が国家的祭紀
(皇室神道・宮中祭祀)となつて祭政一致の観念が政治の基本とされ、これによつて政治
支配が正当化された時代の産物にほかならない。明治政府は、それを近代的な装いで復活
させた。それがすなわち、日本固有の民族宗教である神社神道と皇室神道の結合を核とす
る国家神道の成立である。
そもそも、日本固有の民族宗教である神社神道は、縄文時代のアニミズム、自然崇拝の時
代を経て、農耕の定着した弥生時代前期に、共同体の農耕生産、生活の維持繁栄を目的と
する農耕儀礼を中心として成立した原始神道を直接受け継いでいる。神社神道は、古代・
中世・近世を通して、仏教・道教・儒教等と習合して多様な発展を遂げたが、その民族宗
教としての骨格は、地域と結び付いた神社の存在によつて維持されていた。
他方、皇室神道は、天皇を農耕儀礼を主宰する国の最高祭紀とするものであるが、古代天
皇制以降、曲折、断絶を経ながらも、宮中祭祀として、それなりに維持されてきたもので
ある。これに加え、明治政府は、皇室祭祀の意義を全国民に普及徹底させ、国民教化の実
を上げるため、さらに新たな宮中祭紀を作り出した。例えば、皇霊祭は、明治一一年に新
設されたものであるが、これは、天皇が国民に祖先崇拝の範を示すものとされ、日本人の
宗教生活の中でおおもね仏教によつて担われてきた祖霊崇拝の観念を天皇への忠へと一体
化せんとするためのものであつた。また記紀神話に基づく祭祀、
すなわち神武天皇祭、紀元節祭等を新たに定めた目的が、国民に対する記紀神話の普及徹
底及びそれに基づく国家意識の高揚にあつたことはいうまでもない。
神社神道と皇室神道を結合し、宮中祭紀を基準に神宮、神社の祭祀を組み立てていつたと
き、全国の大小の神社は、その歴史的な差異を喪失し、天皇の祖先神を祀る伊勢神宮を本
宗として、全国の神社がピラミツド型に統一編成され、天皇と全神社が直結することにな
る。こうして神社神道が有していた民族宗教としての骨格は、全国民的規模に及んでいく
ことになる。
(二)国家神道体制
(1)祭祀と宗教の分離
いわゆる祭神論争(伊勢派と出雲派間の、幽冥界の主宰神オオクニヌシノミコトを祀るべ
きか否かの論争)を経て、神道界においては、神社神道を一般宗教から分離し国家の祭祀
としての地位を確保しようとする意見が支配的となつたが、明治一五年、政府は、神道界
の動向にこたえ、祭祀と宗教を分離する方針を定めた(内務省の神官の宗教活動を禁止す
る通達。こうして、神社神道は、祭祀のみの宗教となり、神社神道と神道系各教(教派)

)、。、道は明確に区別され宗教ではないという建前の国家神道体制が成立する国家神道は
右建前のもと、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基三教の上に君臨していくこ
とになる。
(2)軍人勅諭
明治一五年「陸海軍軍人に賜はりなる勅諭(以下「軍人勅諭」という)が発布され、、」。

の性格が、天皇の軍隊として規定され、天子たる天皇が最高位の軍人として、陸・海軍を
統率することが宣言され、これによつて、天皇の宗教的権威と軍事力の独占者としての地
位との合体が明確に宣言された。
(3)大日本帝国憲法
明治二二年、大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布される。帝国憲法は、近代国家の憲法と
しては類例がないほど強烈な宗教的性格を持ち、いわば宗教国家の樹立を内外に宣言した
文書でもあつた。なお、冒頭には、皇室典範と帝国憲法の制定を、皇祖(アマテラスオオ
ミカミから神武天皇の祖先、皇宗(第二代綏靖天皇以後の歴代の天皇、皇孝(天皇の))

孝明天皇を指す)の神霊に告げる告文が掲げられているところ、右告文は、神霊に告げ。

ことを目的とする明白な宗教文書であり、帝国憲法の宗教的性格を端的に示していた。ま
た、帝国憲法の第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と述べ、記紀神話、

よつて、
天皇の統治権を根拠付けるとともに、その第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」、

規定して、天皇の宗教的権威を公法上で位置付けた。
こうして、神社神道が、近代国家の装いの中に組み込まれることによつて、国家神道体制
、、、は国家秩序の根幹になり神社神道の民族宗教としての骨格がそのまま生かされた上で
特殊な創唱宗教が生れた。もとより、これは、極めて特殊で固有な宗教以外のなにもので
もない。
(4)教育勅語、御真影
次いで、明治二三年、教育勅語が発布された。教育勅語は、その冒頭で、国体を賛美し、
、、「、」教育はすべてこの国体に発するとしてのちつづいて父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ・・・
と儒教的な普遍的徳目を列挙して、その遵守を国民に命じ「常ニ国憲ヲ重ジ、国法に遵、
ヒ、
一旦、緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と、戦争、内乱等の
非常事態に際しては、天皇と国のためにすべてを捧げることを命令していた。教育勅語の
主眼は、そこで列挙したすべての徳目を、戦争などに際して、天皇のために忠死する行為
に収斂し、天皇への忠誠を教育の最終目標として設定することにあり、教育勅語は、これ
らの徳目を守り、天皇に忠誠を尽すことは「忠良ノ臣民」であるだけでなく「爾先祖、、

遺風ヲ顕彰スル」ものであると評価し、天皇への忠誠と先祖崇拝とを巧妙に結合し、一体
化していた。また、その後段では、これらの道徳を「皇祖皇宗ノ遺訓」として宗教的、、

史的に権威付けるとともに「之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ」とし、
て、
時間を超越し、日本のみでなく、全世界に通用する人類の普遍的道徳であると位置付け、
天皇による全世界の統治という排外侵略思想と、世界を征服する使命を持つ日本民族とい
う選民思想に聖なる根拠を与えた。
こうして、教育勅語は、義務教育を通じて、全国民に組織的に普及され、国家神道の教典
としての役割を担うことになつた。教育勅語の発布に伴い、全国の小学校に、順次、教育
勅語と御真影が下賜された。御真影は、天皇、皇后の写真で事実上の聖像であり、礼拝対
象であつた。
大日本帝国の天皇は、国の元首であるとともに、普遍的価値を主張する宗教的権威を体現
した現人神であり、同時に、軍を統率する最高位の軍人でもあつた。
(5)国家神道の国民への浸透
こうして、国家神道の体制は整い、日本の国民は幼い子供の頃から、
右のような国家神道の教義の布教以外の何ものでもない教育を徹底され、国民の中に国家
神道は、根深く、しかもすみずみに至るまで浸透していくことになる。
戦没者慰霊及び憲法の政教分離を考えるにあたつては、このような事態の把握が必要不可
欠であるといわなければならない。
(三)国家神道の教義
国家神道の教義は、記紀神話によつて、日本は、万世一系の天皇が統治するとし、天皇の
存在を神聖不可侵として、その崇拝を強制し、これに、絶対随順し、皇運を扶翼し、身命
を捧げることにあり、国体の教義こそは、国家神道の教義である。
このような観念を国家成立の前提とする国家体制は、いうまでもなく、超自然的、超人間
、、、的存在の確信によつてのみ成立する国家体制であつてその意味で旧憲法下のわが国は
文字通り宗教国家と呼ぶほかない存在であつた。すなわち、民族宗教としての骨格が全国
民的規模で成立したのである。
このような教義が、聖戦にいたる大きな要因であることは否定の余地がない。すなわち、
宗教国家であるがゆえに、天皇の権威を全世界に及ぼすための戦争が、聖戦として遂行さ
れたのである。こうして植民地、占領地域等にも、神社が創建されていき、国家神道は、
フアシズムの観念的支柱、その根幹となつて、侵略主義、排外主義が「八紘一宇」の観、

のもとに正当化され実行されていつた。
要するに、国家神道は、政治的、軍事的次元の観念と宗教観念とが密接不可分に合体した
宗教にほかならず、その混交こそが国家神道の本質であるといわなければならない。そし
て前記招魂の思想こそは、宗教的観念でありながら、政治的軍事的観念であるという本質
において、国家神道の中核に位置付けられたということができる。
(四)神社神道、国家神道の宗教性
既に述べたとおり、神社神道が儀礼中心の民族宗教であることは明らかであるが、国家神
道は、それが近代的装いを受けて変容したものである。なお、前述のとおり祭祀と宗教と
の分離が、国家神道体制を現実に可能にしたものであり、政府の公式見解は、神社は宗教
に非ずとするものであつた。しかし、祭祀と宗教の分離といつても、それは国家の官職に
属する神官が、教化活動、葬儀から手を引き、国家の祭祀にのみ専念することを意味した
にすぎないのであり、そこでいう国家の祭祀は、前記宮中祭祀を基準とする祭祀であり、
いうまでもなく超自然的・超人間的存在の確信に基づいてなされているものであつて、神
社神道・国家神道が、宗教以外の何者でもないことは明らかである。
今日もなおこの宗教観念は、近代的装いによる変容を経、現代的変容を模索しながら、脈

と生きている。
以上のように、わが国における戦没者追悼(広義)が、国家神道という極めて特殊で固有
の一定の宗教観念に刻印され、特殊な宗教としてのみ存在してきたことは明らかである。
四靖国神社とはなにか
1靖国神社の性格
東京招魂社の創建は、当時の軍務官によつて行われ、靖国神社として別格官幣社に列する
にあたつては、内務、陸軍、海軍の各省の管理下に入つたが、明治二〇年、内務省の神官
任免権が、海軍省の神職任免権に改められて以降は、一貫して陸軍省・海軍省の管理する
ところとなつた。
靖国神社は、招魂の思想に基づき、国家神道の軍国主義的側面を体現した天皇軍の宗教施
、、、、設にほかならず同神社は別格官幣社の中にあつても国家神道の要を構成するが故に
、、、臨時大祭ごとに天皇の参拝がなされる例で別格中の別格の扱いを受けたが右のように
名実ともに、軍の宗教施設であつたという点でも、他の神社と別格であり、さらに同神社
は、先にみたとおり、多数の祭神を祀り、しかもその祭神がいわば無限に増え続けるとい
う構造を持つ意味でも正に特異な性格を持つ神社である。
同神社は、天皇軍の忠死者のみを合紀するが、前記招魂の思想及び国家神道の教義からす
れば、これこそは同神社の性格の根幹部分である。いわば無名の国民が神となるのは、靖
国神社に祀られることによつてのみであり、そのためには天皇軍の忠死者になるほかない
という構造は、天皇と国民を結び付ける機能を果たし、その教化効果は絶大であつた。
敗戦後、靖国神社は、一箇の神社として単立の宗教法人となるが、単なる戦没者追悼施設
とはならず、宗教施設の途が選ばれたのは、国家神道の中で占めるその宗教的地位の大き
さによる。
このような靖国神社の性格は、今日に至るまで、全く変わつていない。例えば、その性格
の根幹部分をなす合祀基準は、敗戦後も、旧陸海軍の取扱つた前例を踏襲している。甲第
二七〇号証の「遺族として靖国を問う」によれば、その合祀対象は、主として軍人・軍属
の中で、1、戦地、事変地及び終戦後の外地において、戦死、戦傷死、戦病死したもの、
2、戦地、
事変地及び終戦後の外地において、公務に起因して受傷罹病し、内地に帰還療養中にこれ
により死亡した者、3、満州事変以降、内地勤務中公務のため受傷罹病し、これにより死
亡した者、4、平和条約第一一条により死亡した者、5、未帰還者に関する特別措置法に
よる戦時死亡宣告により、公務上負傷し、または疾病にかかりこれにより死亡したものと
みなされた者である。ここから明らかなように、たとえ戦争のゆえに亡くなつた者であつ
ても、戦災によつて死亡した民間人は合紀されない。また、戦前の合祀の手続は、出先部
隊長または連隊区司令官からの上申に基き、陸海軍省の審査委員会で個別審査の上、陸海
軍大臣から天皇へ上奏、裁可を経て、合祀が決定された。したがつて、当該兵士が合紀さ
れるためには、その上官によつて、戦死、戦傷死、戦病死のいずれかと認定されなければ
ならず、軍規に背いた、または上官の命令に服従しなかつたとみなされた者は、たとえ戦
闘中に死亡しても戦死とは認められず、合紀されないことになる。上官への服従とこれを
通じて示される天皇への忠誠こそが、合祀の基準の核心といえよう。
このような靖国神社の性格が、憲法の理念に明確に反するものであることは多言を要しな
い。
2靖国神社の宗教性、教義
宗教法人靖国神社の目的は「本法人は明治天皇の宣せられ給うた安国の聖旨に基き国事、
に殉じられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭
神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与し、その他神社の目的を達成す
るための業務を行う」というものである。前記甲第二七〇号証によれば、靖国神社の教。

の中身は次のようなものである。
(一)人間の死後、死者の霊が存在する。
(二)戦争において天皇に忠節を尽して国に殉じた者は靖国神社の祭神とされる。
(三)戦没者の霊は、靖国神社の合祀の祭において招き降ろされ、祭神として本殿に鎮
められる。
(四)英霊は靖国神社の祭祀において、戦死にいたるまでの忠節を表彰され、感謝され
る。英霊はこれを喜び、慰められる。
(五)慰霊祭に参列した者は、英霊の殉国の精神を継承することを英霊の前に誓い、英
霊の加護を祈念する。
ここにみられる靖国神社の教義は、正に超自然的、超人間的存在の確信そのものであるば
かりでなく、忠魂という言葉が、
招魂の思想に伴つて用いられだした頃の観念とも同じであり、つまりは、忠魂を慰める招
魂の思想そのものであり、それは国家神道の教義と同根同質である。
国家神道は、国家体制としてのそれは解体したが、しかしその宗教の教義は、宗教である
以上今も生きていることは疑いなく、その教義の継承という意味において、現在の靖国神
社は、戦後の国家神道と呼んで差し支えない存在である。
、、、、むろん宗教である以上これも信教の自由の見地から尊重されるのは当然でありまた
いかに反憲法的思想・観念であつても憲法上それも許容されるが、しかし、この宗教観念
は、公と癒着しようとする根強い志向性を持つており、この宗教の信徒団体は、もつぱら
政教癒着に向けての運動を展開しており、これこそが、招魂の思想・国家神道によつて生
み出された同神社に刻印された抜き難い性向といわねばならず、しかも、この宗教の教義
が示唆するところは、今も軍の宗教施設たることであつてみれば、その政教癒着の危険性
は明らかであり、この政教一致こそは、憲法が決して許容することのないものである。
3本件忠魂碑前の慰霊祭と靖国神社
被告は、本件忠魂碑及びこれによる慰霊祭と靖国神社との切り離しを図つているが、その
論理の一つは、忠魂碑は、靖国神社等とは、別個の系列下の記念碑だとする主張であり、
もう一つは、靖国神社という宗教の宗教儀礼なら、神仏交替形式になるはずがないという
議論である。
しかし、前者は、忠魂という言葉の歴史的性格等に目をつぶらない限り、主張しようのな
い立論であるし、また、後者は、各々「神式「仏式」の宗教儀礼であつてみれば、宗」、

性否定の根拠にならないことは明らかである。なお国家神道下の市町村レベルでの招魂祭
として神仏併用形式が存在していたことからすれば、靖国神社が戦後の国家神道であると
き、市町村レベルでの慰霊祭が、国家神道下において神仏併用であつたその形式をそのま
ま引き継ぎ、神仏交替であつたとしても、なんら不思議はなく、むしろ、神仏交替という
形式の上に君臨する戦後の国家神道の姿が見えてくるというべきである。実際、御霊信仰
の系譜を継ぐ招魂の思想自体は、神・仏それぞれの宗教からの培養によつて成立した宗教
観念であつて、少なくとも神仏併用形式によつて、招魂の思想の宗教性が減殺されろこと
はない(もつとも、聖戦下での最も狂言的な時期においては、
神道形式の慰霊祭・招魂祭が多かつたであろうことは想像に難くない。。)
ともあれ、靖国神社に合祀された祭神が同様に祀られていると観念され、その忠魂碑前で
行われ「忠魂」にこだわつて行われる忠魂を慰める慰霊祭は、靖国神社の祭祀と同根同、
質、
すなわち、招魂の思想・靖国神社教義に基づく英霊(=忠魂)信仰の宗教儀礼というはか
なく、このことは、本件慰霊祭における市長の式辞、神職の祝詞等からも明らかである。
以上のとおり、市遺族会のなす慰霊祭は、戦没者慰霊を規定づけたその背景、起源、歴史
的沿革等に照らし、招魂の思想・靖国神社(その性格・宗教性・教義)による戦没者慰霊
祭と同根同質の宗教儀礼であり、決して、習俗や、慣習化した社会儀礼等ではないし、ま
た、その宗教性が、風化によつて希薄化しているということはできない。被告の、戦没者
慰霊を宗教ではないとするその姿勢こそが、現在の国家神道、招魂の思想(宗教)の倫理
的変装であり、市遺族会のなす戦没者慰霊こそは、倫理的変装を試みる宗教そのもの(招
魂の思想、国家神道)であるといわなければならない。
第三本件忠魂碑の宗教施設性と反憲法的性格
市遺族会は、本件忠魂碑を含も箕面市内の各地区における忠魂碑の維持(護持)と各忠魂
碑前での慰霊祭の挙行による英霊の祭祀の執行を行つている団体であつて、忠魂碑の前で
、、する戦没者慰霊祭を今後ますます盛んにすることが会の方針であるところ本件忠魂碑は
以下のようにそれ自体宗教施設であり、また反憲法的性格を持つものである。
一忠魂碑一般の起源と歴史
1敗戦までの歴史と取扱い
(一)忠魂碑の起源
、、、忠魂碑の文字を刻した戦没者碑は明治一〇年の西南の役後各地で建立されはじめたが
当時は戦争といつても内戦によるものであり、総数も少ないうえ、忠魂という用語自体も
それほど普及していなかつたため、戦没者碑を特に忠魂碑と銘するものはそれほど多くは
なく、それが一般化するのは、日清、日露戦争後である。忠魂碑は、当初、地元有力者が
中心となつて建立されたが、明治四三年に在郷軍人会が組織されて後は、在郷軍人会の各
分会が中心となつて市町村単位に、市町村有地や、神社境内に建立されていつた。
(二)忠魂碑建立の目的
忠魂碑の建立目的は、地元出身の戦没者の多くが直系の子孫のない若者であつたから、
後年無縁となることのないようにこれを祀るということもあつたが、より重要でかつ核心
、。、、、、的な設立目的は招魂祭の例年執行にあつたすなわちそれは村や部落単位で毎年
忠魂碑による招魂祭を行い、靖国神社の祭神となつた戦没者の霊を慰め、その戦死を偉業
として顕彰する儀式を繰り返すことによつて、天皇、国のため、命を惜しまない軍人精神
を教育することであり、このため、招魂祭の執行には、在郷軍人会が中心的な役割を果た
し、それは同会の最重要な活動の一つであつた。そのような建立目的との関係で、忠魂碑
に刻される文字は、多く陸軍大将等の現役軍人が揮毫した。
(三)靖国神社とのつながり
前記第二で述べたように、靖国神社は、明治二年に創建された東京招魂社がその前身であ
り、明治一二年それが別格官幣社たる靖国神社に改められ、明治維新前後からの戦没者の
、、()、、霊を祭神としこれを合祀したものでありその霊璽神体は神剣及び神鏡であるが
副霊璽は、合祀者の官位、姓名等を列記した霊璽簿である。
東京招魂社が創建されたことにより、これにならつて国難に殉じた人々の霊を祀る施設と
して、各藩により招魂場が建てられた。明治四年の廃藩置県によつて、これら招魂場は、
政府の管掌下に置かれ、招魂社と名称が統一された。九万という空前の死者が出た日露戦
争後、全国各地で建立を競うように招魂社、忠魂碑が建てられたが、招魂社は、ほぼ府県
単位で、忠魂碑は、ほぼ市町村単位で建立された。明治政府は、これを民心の至情の現れ
だとして評価する一方、明治四〇年の「招魂社創建に関する件」と題する内務省神社局長
内牒により、招魂社の設置基準を定め、祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加え、
これら招魂社を政府の統制の下に置くことにし、その後各地に招魂社費が交付された。
さらに昭和一四年、各招魂社は、護国神社と改称され、例祭等には神瞑幣帛料が供進され
ることとなり、政府の統制下に完全に神社化された。このように靖国神社と護国神社との
系列化が進も中で、忠魂碑による招魂祭はますます盛んになつていき、忠魂碑は、いわば
地域の靖国神社たる地位を占めるに至つた。このように忠魂碑を参拝の対象とすることが
一般化してくると、神社は宗教にあらずとの建前をとつていた内務省神社局は、神社行政
上の立場から、神社と宗教との混同を避けるため、
神社境内地に忠魂碑等参拝の目的となる碑を建設することを禁止する通牒を出さざるをえ
ない程であつた。
(四)忠霊塔との関係
軍は、昭和一四年、内閣総理大臣を名誉会長とし、陸軍大将を会長等とする財団法人大日
本忠霊顕彰会を発足させた。これは、戦地で軍によつて建立され、遺骨等を納める墳墓と
しての性格を持つ忠霊塔と同様の碑を一市町村一基の割合で建設して、戦死者の忠霊を顕
彰しようとするものであつたが、忠霊塔は戦没者の遺骨や遺品を納めるという点で墳墓と
しての性格をも有しており、従前の忠魂碑とは異なる面が見られる。しかし、忠魂あるい
は忠霊を顕彰し、礼拝の対象にする点では、靖国神社信仰そのものであり、忠魂碑と変わ
りはなかつた。その後、遺骨を納める扱いをした忠魂碑もみられるようになつたが、その
なめに忠魂碑が忠魂碑としての意義を失つたわけではない。
(五)忠魂碑参拝を強要
昭和一〇年、内閣書記官長白根竹介は、通達をもつて「国体ノ本義ヲ明徴ニシ之ニ基キ、

教育ノ刷新ト振作トヲ図」るため、忠魂碑参拝を実施するよう学校長に強制した。そして
中国大陸での戦火が拡大し、戦時色が濃くなるにつれ、各地域での忠魂碑前での招魂祭も
ますます盛んに行われるようになつた。これら招魂祭は、例外なく軍将校、戦没者遺族ら
、、が参列する中で毎年神式又は仏式で盛大に催され軍国主義と皇国史観で教育された児童
生徒、地元民の多くが参拝した。
(六)礼拝の対象物としての社会的機能の定着
以上のような経過の中で、忠魂碑は、天皇のために忠義を尽して戦死し、靖国神社に祭神
として祀られている戦没者を地域において、慰霊、顕彰するために建てられた石碑として
の認識が、広く一般に行きわたり、忠魂碑という形態の戦没者碑は、特定の時期、場所に
おける特定の戦死を記念する碑というより、個性を奪われた地域出身の戦没者全員、忠魂
を祀るという意味で、霊魂の存在を推知させる礼拝の対象としても機能する社会的存在に
なつた。
2敗戦後の歴史と取扱い
(一)敗戦直後
(1)通牒、通達の解釈
昭和二〇年一二月一五日神道指令が発せられたが、その主題はまさに国家神道の解体にあ
つた。それは、国家と神社神道との分離であり、また神社神道と密接不可分であつた軍国
主義及び極端な国家主義の否定である。右指令を受けて、その一一か月後の昭和二一年一
一月一日には、政教分離の見地から、
「公葬等について」の内務・文部次官通牒が発せられ、その四項で忠霊塔、忠魂碑等の措
置が命ぜられた。その取扱いの内容は、以下のとおりである。
続いて、右通牒の二六日後「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」の内務省警保局長通達、
で、
前記現存するものについての通牒解釈の具体化が示された。その内容は、以下のとおりで
ある。
、、、右通達によると学校・学校の構内及び構内に準ずる場所以外の公共の建造物その構内
又は公共地に「現存」する場合、単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者のための
碑であることを示すに止まるものは原則として撤去の必要はないとされた。
、、、しかしここから公共の建造物等に存する単に忠魂碑等と刻した碑が撤去を免れたのは
それが宗教施設でも、軍国主義的碑でもないからだとする論理展開には基本的な誤りがあ
る。まず、この論理展開は、右通牒、通達が指示する八場面のうちのわずか一場面の事例
を取り出し、それを根拠に忠魂碑の全体的性格を決め付けている点にある。もし、単に忠
魂碑と刻した碑は宗教施設でも軍国主義的碑でもないという論法でいくのであれば、なぜ
学校構内において建設予定のものが存続が許されないのか、また、建設中のものの続行が
なぜ許されないのか、さらに現存のものもなぜ存続が許されないのか、全く説明に窮する
し、公共の建造物においても、なぜ建設予定のものが、建設を許されないのか、ここでも
説明に窮するのである。
これら通牒、通達を全体として考察すれば、忠魂碑の敗戦前の実態を踏まえて、これが参
拝の対象となつた宗教施設であり、また軍国主義の施設と認識されていたことは明らかで
ある。
(2)日本国憲法下での行政解釈
、、、、新憲法下でも忠魂碑は明らかに宗教施設ないし軍国主義的施設として認識解釈され
公共施設との結び付きを否定されており、これは、昭和二六年のいわゆる講和条約締結後
も全く変わつていない。すなわち、昭和二七年六月一八日の文部省初等中等教育局長回答
「公立小学校校地内の忠魂碑建立について」は、公立の学校内に忠魂碑等を建立すること
は、信教の自由や、政教分離を規定する憲法や地方自治法の精神に反するおそれもあり、
あるいはその本来の趣旨を誤解される場合も考えられるので、これを避けた方がよいとし
ているし、
同年一〇月一三日の文部省調査局長の回答「戦没者の葬祭などについて」は、公共団体が
公共のための功労者、殉職者(戦没者等を含む)等を記念する碑像等を建設することは一
般的に差し支えないが、公立学校の校地に建設される場合は、教育上の見地から判断され
なければならない、なお、忠魂、忠霊等の文字は避けられたいと明確に忠魂碑を一般の記
念碑と区別し、公共団体がする建立を否定しており、さらに同年一一月六日の文部省調査
局長回答「昭和二七年法津第八六号について」は、公共団体が公の功労者、殉職者(戦没
者等を含も)等を記念する碑、像、塔等の建設を行うことは、それが特定の宗教施設でな
、、。い限り差し支えないが忠霊忠魂の文字は用いないことが望ましいとの解釈をしていた
(3)まとめ
、、、、、、こうして敗戦直後にあつては法制上も実態的にも忠魂碑は宗教施設でありまた
軍国主義的教化施設として公とのかかわりを否定されていたのであり、新憲法も、その趣
旨に沿つて政教分離原則が樹立され、公的解釈は、忠魂碑と国・地方公共団体等とのかか
わりを明確に否定した。
(二)再軍備以後現在まで
前記第一の一の2で述べたような、朝鮮戦争後の政治的・社会的反動化の中で、忠魂碑が
息を吹き返し、再登場してきた。たとえば、昭和二八年建立の東海村の忠魂碑についてみ
ると、その碑文作成者の徳富蘇峰は、天皇主義・国家主義者であり、右碑文では、一五年
戦争を日本軍による侵略戦争とは全くみず、アジアの解放と位置付け、戦争賛美の思想に
、、貫かれ君国のためにあとに続けと鼓舞する目的で建てられたことを明白にうたつており
忠魂碑の軍国主義的性格が最も鮮明にあらわれている。また、日本遺族会は、昭和五七年
六月二八日、忠魂碑護持と参拝を推進すべく、各支部に対し、天皇のために死んだ英霊を
顕彰する目的で、戦前各地に建てられた忠魂碑、忠霊塔の初の大掛かりな実態調査を要請
した。このように、靖国神社国家護持、英霊顕彰を推進する宗教団体たる日本遺族会が忠
魂碑を市町村レベルでの慰霊行事の中心と位置付け、画策していることは、まさに忠魂碑
が戦前と同じく「村の靖国」としての存在であり、宗教施設であることを如実に示してい
る。
(三)まとめ
以上の事実からすれば、忠魂碑が、天皇のため戦死した者を忠魂として称え、これを神と
して祀り、
後に続くものに忠君愛国の精神を鼓舞する宗教施設であり、また軍国主義教化施設である
ことは明らかである。
二本件忠魂碑の歴史と慰霊祭の実施状況
1建立
旧忠魂碑は、大正五年ころ、当時の箕面村の有志によつて建立された。碑の表面の忠魂碑
の文字は、当時の在郷軍人会副会長X陸軍大将が揮毫したものである。本件忠魂碑は、敗
戦直後廃棄された旧忠魂碑を昭和二七年以後復建したもので、昭和四一年までの間に、太
平洋戦争までの従軍戦没者が同碑に合祀された。
2神式・仏式交替による慰霊祭
、、、旧忠魂碑の前でも神式又は仏式による慰霊祭が定例的に挙行されてきたが市遺族会は
毎年一回、本件忠魂碑の前で、専門の宗教家である神社神職又は僧侶の主宰のもとに、そ
れぞれの儀式に則り、本件忠魂碑を礼拝する慰霊祭を営んでいる。なお、現在、市遺族会
は、訴訟対策として、本件忠魂碑前での慰霊祭を控えているが、場所を変えてやはり毎年
一回、本件忠魂碑の拓本を掲げて慰霊祭を行つており、市遺族会と忠魂碑とは分かちがた
く結び付いている。
3本件忠魂碑の形状等
本件忠魂碑は、玉垣で囲まれ、その内部には、白砂利が敷き詰められ、種々の喬木、潅木
が随所に植えられ、その区画の中央に二重の基台を設置してその台石を配し、忠魂碑と大
きく刻した高さ約二・五メートルの碑石が安置され、地上からの高さは六・三メートルに
も及ぶ巨大なものである。このような構造、様式によつて、本件忠魂碑及び玉垣内は、侵
しがたい聖域的雰囲気をかもし出し、神社境内と同じ荘厳さ、神秘性を感じさせる。
さらに本件忠魂碑には、それ自体超自然的なものの具象化である神体としての霊璽を内蔵
しており(現在、市遺族会は、訴訟対策として、これを抜き取つている、戦没者遺族。)
は、
本件忠魂碑に霊魂が宿ると観念して、移設・再建の際、神式で行われた祭祀を脱魂式や入
魂式と呼び、本件忠魂碑に対して超自然的なものの存在を観念している。
三忠魂碑前での慰霊祭の宗教性
忠魂碑前での慰霊祭(招魂祭)の沿革、性格及び本件忠魂碑前での慰霊祭と靖国神社との
関連等については、前記第二の三の1及び四の3のとおりである。
四忠魂碑の宗教施設性
1忠魂碑は、三重の意味で宗教施設である。第一は、天皇の命令に従つて戦死した死者
の魂が祀られていると観念され、参拝の対象になつているという意味で。これは、
人の死後も魂という超自然的存在を確信して始めて成り立つ。第二は、国家神道の物的象
徴という意味で。キリスト教における十字架が神の子イエスの犠牲の死=「愛」というキ
リスト教における最も重要な教義の象徴であるように、忠魂碑は、神の子天皇に対する犠
牲の死=「忠節」及びその忠節の故に天皇によつて神とされ靖国神社に祀られる「忠魂」
という国家神道における最も重要な教義の物的象徴であり、その教義を宣布する機能を有
している。象徴という以上に教義そのものを二義を許さず示し、巨石の質量感によつて、
教義に重厚感を与えている。第三は、忠魂碑は、それ自体とそれを取り巻く玉垣、樹木に
よつて、宗教儀礼のために聖別された空間を構成しているという意味で。
2本件忠魂碑は、小学校の正門前に緑の樹々に囲まれてそびえたつており、朝夕の登下
校時はもとより、校庭からも否応なく目に入る。この巨石の持つ質量感とたたずまいが小
学生の深層心理に働きかける効果は絶大である。たとえそこを遊び場としても、無意識の
、、。うちに忠節忠死が価値あるものとして植え付けられ権威への服従の土台が形成される
3被告は、忠魂碑は、記念碑であるから、宗教施設ではないという二者択一の議論をす
るが、記念碑性と宗教施設性とは二律背反の関係にあるものではない。すなわち、記念碑
の最小限の要件は、過去の出来事をそれを知つている人に想起させるものであるが、通常
は、それにとどまらず、過去の出来事をそれを知らない人にも知らせるものである。
本件忠魂碑も、最小限、主観的記念碑としての意味を持つているが、そのことと宗教施設
性は、なんら矛盾するものではない。本件忠魂碑には、戦死者の氏名や、戦死年月日等は
なに一つ記されていないのであり、したがつて、記念碑の通常の意味である客観的記念碑
としての意味はなく、ただ抽象化された戦死が忠魂として顕彰されているのであるが、抽
象化の故に限りなく教義の物的象徴に近付く。
また、記念は、言葉の論理的意味として、過去の出来事を記念する。すなわち記念碑建立
以前の出来事が記念されるのであつて、建立時に、将来起こり得べき事態を記念するとい
うことは不可能である。しかしながら、本件忠魂碑で記念されている戦死者の圧倒的多数
は、建立後の戦死者であり、このような戦死者を記念することは、合祀という宗教上の手
続を経なければ、
主観的記念碑とは成りえないのである。
五本件忠魂碑の反憲法的性格
1前記第二の三の1で述べたように、忠魂という言葉は、招魂の思想の要となる言葉で
あるが、それは他の内外戦争犠牲者と差別して、忠死者を選別し、天皇の命令を絶対のも
のとし、これに殉ずることを至高のものとし、戦争を肯定・美化する、好戦的・排外的・
侵略的・軍事的・政治的な意図を示す反人間的な思想であり、国際信義に基づく絶対平和
主義、国民主権に基づく象徴天皇主義、基本的人権の保障などの憲法の理念に真つ向から
対立するものである。
2忠魂碑は、戦争に赴き、死んだという死者の行為を忠として積極的に評価するもので
あり、それは戦没者への一定の価値観による評価のシンボルである。戦没者の死を忠魂の
語により積極的に評価するものである以上、それは立派な死として称賛し、少なくとも感
謝するものであり、そのような評価は、現在でも、本件忠魂碑による戦没者顕彰行事の中
で敷延され具体化されているところ、そこには、日本の国が行つた過去の戦争に対する反
省の意識を全く欠いている。戦争が害悪であつたという意識からは、到底その遂行のため
に死んだ者の功績を称え、これに感謝することはできず、また戦争一般に対する厳しい忌
避の意識にも欠けている。戦争に出征し、輝かしく、勇ましく交戦し、雄々しく散つたこ
とによつて今日の祖国日本の平和と繁栄が招来されたことを死者の功績として称える論理
は、戦争が自国とアジア諸国に絶大な犠牲と荒廃のみをもたらした現実を隠す欺まんであ
り、戦争を祖国の平和と興隆の手段と考えるものであつて、まさに軍国主義そのものであ
り、少なくとも戦争賛美であることを否定できない。
3右2のような評価は、戦没者の死に関し、人権抑圧の事実を無視した不当な虚構であ
る。戦没者のほとんどは、徴兵によつて死地に赴くことを強制され命を奪われた哀れな天
皇制軍国主義の犠牲者であり、後ろ髪引かれる思いで戦場に狩り出され、天皇の命令によ
つて戦い、人を殺し、みずからも殺されたものであり、進んで命を捧げたものではない。
もとより、志願兵等のように、皮相的には、進んで命を捧げたと見られるものがあるのは
事実であるが、しかし、それも結局は、天皇制軍国主義の皇国民思想教育の犠牲であり、
これを「勇戦奮闘され散華された」と称賛し、大きな功績と評価することなど許されるこ
とではなく、
そのような評価は、死者を正当に遇し、追悼する態度ではない。
4忠魂碑は、このように、軍国主義、戦争賛美の碑であり、戦死を美化し、人権と自由
を抑圧して、苦役と忠死を心理的に強制し、また、従順で真撃な青少年を皇国民に仕立て
上げた社会教育的装置であり、これを維持保存する事業は、憲法理念に反し、反公益的で
あるというほかない。
第四市遺族会の宗教団体性及び反公益的性格
一憲法八九条前段の解釈
1政教分離原則の立法趣旨
憲法八九条前段の公金支出禁止の規定は、同法二〇条一項、三項の規定とともに、政教分
、、離の原則を財政面からうたつたものでありまず信教の自由を保障するために必要とされ
つぎに、それは、国民の多様な価値観ないし良心が単一化されることを防止し、民主主義
が確立されるために不可欠である。さらに、わが国における政教分離原則特有の立法趣旨
として、国家神道が再び公認され極端な国家主義・軍国主義が復活することに対する防波
堤の役割を果たすことである。憲法の定める政教分離原則は、帝国憲法下での国家神道体
制が招来した宗教弾圧、思想弾圧、軍国主義体制の歴史の深刻な反省の上に立つて立法さ
れ、信教の自由を保障し民主主義を確立することによつて、政府の行為によつて再び戦争
の惨禍を起こさないようにすることを目的としており、そのためにこそ国家と宗教とを完
全に分離することを理想として規定されたものである。
2宗教上の組織若しくは団体の解釈
憲法八九条前段は、右のような趣旨を有する政教分離原則を財政面から規定した条項であ
る。国家と宗教との特別の関係は、財政政策的、法制度的、人的等様々な形態で起こりう
る。その一部は、これを国家による特権の付与又は宗教による政治上の権力の行使ないし
国家自身の宗教的活動として、憲法二〇条一項後段及び同条三項によつて規制することが
できる。この規制の網から漏れるものについては、右の宗教と国家との特別の関係のいず
れの場合にも、究極的には国費の支出ないし公有財産の供用を伴うことが予想されるとこ
ろから、重ねて本条を設け、公金支出等をメルクマールとして国家と宗教との癒着を防止
せんとしたものと解される。
したがつて、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」の解釈としては、宗教団体
はもちろんのこと、広く宗教に関係ある事業もしくは活動そのものを指すと解すべきであ
る(以下、
これを「広義の宗教団体」という。なぜなら、もしも本条が厳格な意味におけろ宗教。)

体、すなわち本来それ自身宗教的事業ないし活動を目的とする団体に着目した規定である
とするならば、形式的には非宗教団体として設立されている団体でさえあれば、その行う
宗教的事業・活動に対する援助や便宜の提供は禁止されないこととなり、本条の趣旨が失
われることとなるからである。これに対して、字義にこだわり「宗教上の組織若しくは、

体」を極めて狭く「一定の教義を有し、これを布教、宣伝することを目的とする教団、教
派、教会等の宗教団体」のみに限定して解釈する説がある(以下、これを「最狭義の宗教
団体」という。あるいはせいぜい「信仰についての意見の一般的な一致があり、その。)、

うな信仰を目的とする人的集合」という程度に解釈する説もある(以下、これを「狭義の
宗教団体」という。狭義の宗教団体には、教団、教派、教会等の信者団体や、奉讃団。)

が含まれるであろう点で、最教義の宗教団体との間に違いがある。しかし、最狭義の宗教
団体、あるいは狭義の宗教団体の解釈では、不十分であることは以下の例により明らかで
ある。たとえば、町内会が、土地の氏神の祭礼を行う費用につき、国ないし地方公共団体
から補助金の交付を受けた場合、それはそのような氏神信仰を有しない国民ないし住民の
納付した税金を、それらの人々の承認しえない目的のために使用したことになる。それと
ともに、氏神信仰が公認の信仰であるかのごとき外観を作り出し、その他の宗教、信仰を
有する者や、どのような宗教をも信じない者を疎外してしまい、気付かないうちに、政治
の世界に深刻な紛争を持ち込む結果となる。そこで、このような補助金支出は禁止される
べきであるが、その際、政教分離の見地から、当該町内会を端的に「宗教上の組織若しく
は団体」ととらえ、憲法八九条前段を適用するのが最も適当な処理であろう。また、かつ
て自衛隊内部で、自衛官有志が、隊内に神社を建立したため、憲法問題として世論に批判
、、、、され上官の命によりこれを取壊した事件があつたがこの場合にも当該自衛官有志が
神社信仰の教義を受け容れ、これを布教宣伝することを目的とする「組織」又は「団体」
(最
教義の宗教団体、もしくは神道の信徒団体又は奉讃団体と把握しうるもの(狭義の宗教)

体)を結成していたとは受け取れないのであつて、この場合、
このようなことを許容することは、公の財産を宗教に関係ある活動に利用せしめるものと
して、憲法八九条前段に違反すると解されたものと推測され、結局、自衛官有志の集まり
が、広い意味で「宗教上の組織若しくは団体」に該当すると判断されたものとみること、

できる。
憲法の条文にも、原則規定と例外規定があり、およそ法における原則規定は、その立法趣
旨に反しない限りで、できるだけ広い解釈をとるべきである。原則規定を形式的に狭く解
、。、釈することは脱法行為を許すことにつながるからである日本国憲法の人権保障規定は
そのほとんどすべてが、人権保障のための原則規定であり、これらの規定をそれぞれの立
法趣旨に従つて広く解釈することは、脱法的人権侵害を防止し、基本的人権の保障を厚く
することであり、合理的理由がある。
二日本遺族会の宗教団体性
前記第一の一、二で述べたような日本遺族会の性格・活動実態及び第二で述べたような戦
没者慰霊の本質及び靖国神社の性格からすれば、日本遺族会は、まぎれもなく宗教法人靖
国神社の信徒(崇敬者)団体である。日本遺族会に参加している遺族たちが、会の方針と
して、英霊の顕彰と慰霊こそ永遠の使命と考え、戦没者が靖国神社に奉斎され、祭祀が行
、、、われることを期待しこれを支持し同神社の国家護持の運動を強力に展開している以上
それらの遺族こそ同神社の信徒と呼ぶにふさわしい。
次に、以下、日本遺族会のいう英霊の顕彰と慰霊が、靖国神社において実際にどのように
行われているかを明らかにし、それによつて、同神社の教義を浮き彫りにし、同時に日本
遺族会に参加する遺族たちが共有する信仰の内容を明らかにする。
1合祀祭
日本遺族会のいう英霊の顕彰と慰霊は、戦没者の霊が、靖国神社の祭神とされ、すでに、

られている祭神とともに合祀されることによつて始まる。この合祀の祭りは、靖国神社の
重要な祭祀である。ところで、靖国神社において、合祀祭という言葉は、広義と狭義、二
通りに使われている。広義の合祀祭とは、前夜に行われる(1)招魂式と(2)霊璽奉安
祭、及びこれらの祭りを受けて(3)翌日に天皇の参拝を中心として行われる祭りの全、

を指す。狭義の合祀祭とは(3)のみである。ここでは、合祀祭を広義・狭義の両方に、

たつて観察する。
(一)招魂式
招魂式は、合祀祭の前夜に執り行われ、
合祀される戦没者の霊魂を靖国神社の境内に招き降ろし、霊璽簿と呼ばれる戦没者名簿に
乗り移らせる儀式である。祭場は、靖国神社の北隅の招魂斎庭であり、そこには、祭神の
名前を記した霊璽簿が御羽車の中に奉安されており、御霊をここで招き奉る。
(二)霊璽奉安祭
招魂式に続いて、霊璽奉安祭が行われる。これは、霊が乗り移つた霊璽簿を御羽車で移動
し、本殿の内陣に納め、安置する儀式であり、その意義は、戦没者の霊を靖国の社に鎮座
せしめることにある。中国大陸や東南アジアで戦死した死者の霊が靖国神社の境内に招か
れて降り来り、霊璽簿に寄り付き、本殿に鎮座するということは、誰もが信じうることで
はなく、それはある宗教的信仰をもつてはじめて受け入れることができる一つの教義とい
わねばならない。
(三)狭義の合祀祭
最後に、狭義の合祀祭が行われる。これは、招魂式と霊璽奉安祭が行われた夜の翌日に執
り行われる。その合祀祭に勅使(時には天皇みずから)が、参拝し、神前に祭文を奏上す
る。戦没者の霊は、天皇(またはその代理)の参拝を受けてはじめて正式に祭神とされ、
すでに祀られている祭神とともに合祀される。祭神の決定が天皇の裁可を必要とするのと
同様に、現実の合祀においても、戦没者の霊が神霊とされることを認証する天皇の行為、
すなわち参拝が必要とされるのである。日本遺族会は、靖国神社国家護持に関連して、合
祀祭には、戦前と同じく、天皇の御使をもつて祭主とすることを主張している。
以上から明らかなように、広義の合祀祭の中に含まれる教義は、戦没者の霊がこの祭祀を
、、。とおして靖国神社に招かれ鎮座せしめられ天皇によつて神とされるというものである
2例大祭
英霊の顕彰と慰霊において、靖国神社への合祀はあくまで条件の整備、永遠に続けられる
。、。べき祭祀の始まりにすぎない合祀された英霊に対しては毎年春秋の例大祭が行われる
その祭式は次のとおりである。まず、清祓(神職、殿舎、諸祭具を祓い清める儀式)が行
われる。当日、祭には、遺族その他の崇敬者、政財界の代表等が拝殿に多数参列する。奉
楽とともに本殿の内陣の扉を開き、神霊を招き出す。泰楽とともに幣帛(神に捧げる布・
糸など)と神饌(山海の食物)が神前に献げられる。続いて宮司が祝詞を奏上し、次に勅
使が幣物をたずさえて参向し、祭文を奏上する。鎮魂頌の斉唱の後、宮司が玉串を奉り、
拝礼する。
続いて、参列者がつぎつぎと本殿に昇つて玉串を奉り、拝礼して退場する。最後に直会祭
(供え物を折ろして飲食する)を行い、例大祭を終わる。この例大祭を毎年盛んにする。

とによつて、英霊は慰められ、また後に触れるように、英霊の加護が期待できるとされて
いる。これもまた一つの宗教観念であり、靖国神社の教義ということができる。
3日本遺族会主催の慰霊祭
日本遺族会が主催または共催して靖国神社で行う慰霊祭の祭式も右例大祭のそれとほぼ同
様である。昭和四〇年一〇月二日、日本遺族会は、靖国神社において「終戦二〇周年全、

戦没者大慰霊祭」を主催したが、この時の進行の次第は、つぎのとおりであつた。
、、「」各都道府県から集まつた遺族と来賓が参列する中航空自衛隊音楽隊による海ゆかば
の奏楽があり、つぎに修祓が行われる。その後「山の幸」奏楽のうちに、献饌があり、、

いて宮司の祝詞奏上及びP9会長の祭文奏上が行われ、この後「靖国神社の歌」が奏楽、

れ、最後に「鎮魂歌」の曲が流れる中をP9会長、来賓、遺族代表らが順々に昇殿し、、

串を奉奠して拝礼する。こうして慰霊祭は終了した。
P9会長は、この時の祭文において神霊に次のように語りかけた。
戦没者遺族が戦後の苦境から立ち直ることができたのは「いま靖国のみやしろに神鎮ま、
るわが夫、子、父そして兄弟の比類のない献身の至情」が心の支えになつたからである。
今日のわが国の平和と繁栄は「諸霊の尊き犠牲と献身によつてもたらされた」ものであ、
る。
政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、戦没者に対する叙勲が実施されたことは「日本、

民の英霊に対する変わることのない感謝敬仰の精神」のあらわれとして感激にたえない。
私達遺族は、いつそう英霊の顕彰に努め、諸霊におこたえすることを誓う。神霊の御加護
を祈念する。
昭和五〇年一一月二一日、日本遺族会主催の「終戦三〇周年記念全国戦没者大慰霊祭」が
。、。同じく靖国神社で行われたこの時のP9会長の祭文は次のような趣旨のものであつた
わが国未曾有の難局に際し、敢然として第一線に赴き、勇戦奮闘、遂に散華され祖国のい
しずえとなられた尊き御遺徳をしのび、感慨一入である。私たち遺族は、戦後、逆境にあ
つても「御英霊のお心を心の支えとして」歩んできた。これひとえに「御英霊の御加護の
賜」であり、感謝にたえない。今日わが国は、
他に比類のない繁栄と平和と自由を享受しているが、他方「国民的自覚の欠如」は憂慮、

べきものがあり、楽観を許さない。私たち遺族は、わが民族の歴史と伝統と文化を継承す
ることによつて「御英霊におこたえする」決意である。、
4日本遺族会主催の慰霊祭と靖国神社の例大祭との類似
右にみたように、日本遺族会が主催する慰霊祭は、その祭祀形態において、靖国神社の例
大祭と基本的に同じである。靖国神社において、靖国神社の神職の奉仕によつて行われる
以上、これは当然のことであろう。また、靖国神社の祭祀が神社神道の形をとつているか
ら、日本遺族会の慰霊祭も神社神道の祭祀と基本的に同じ祭式に従つているのである。換
言すれば、日本遺族会は、その慰霊祭の祭式を通して、戦没者の霊を、神社神道が諸神を
祀るのと同じ仕方で祀り、崇敬しているのである。
5祭文にみる英霊の顕彰の思想内容
さらに日本遺族会は、祭文奏上により、戦没者の生前の行為を称え、感謝している。前記
のように、彼らの従軍と戦闘が、祖国の安泰と繁栄のために必要かつ有意義な行為であつ
たと評価される。それゆえに、国民は、英霊を感謝敬仰の念をもつて記念するというので
ある。
このことからすれば、日本遺族会のいう英霊の顕彰とは、英霊の遺徳を顕彰することであ
り、遺徳とは戦争における将兵としての勇敢な戦闘と戦死を道徳的に意義づけた言葉にほ
かならない。顕彰とは、功績などを一般に知らせ、表彰することである。したがつて、英
霊の顕彰とは、慰霊祭によつて勲功のあつた者の功績を天下に表すことであり、その事績
を称えることである。
6英霊の顕彰と慰霊の関係
右に見た慰霊祭の次第とその祭文及び日本遺族会の諸文書からすれば、慰霊は、英霊の顕
彰と分離して別個に行われるものではなく、顕彰が同時に慰霊と考えられていることは明
らかであり、英霊の遺徳を顕彰することが、英霊を慰めることになるのである。国の平和
と安全のために戦没者が尊い生命を捧げたことが、慰霊祭を通して広く国民に知られ、国
民がこれを感謝し、英霊に敬意と追慕の念を表すこと、それが英霊にとつて慰めとなるの
である。そして何よりも、天皇が、靖国神社に参拝し、英霊に拝礼することが、慰霊の誠
を尽したことになり、神霊はこれを特別の喜びとし、光栄とするのである。現在は、靖国
神社の例大祭も日本遺族会の慰霊祭も民間団体主催の儀式にすぎず、
天皇の靖国神社参拝も私的な行為にすぎないが、いつか靖国神社国家護持が実現した暁に
は、天皇が首相、閣僚らと共に、公的資格で慰霊祭に臨席することが期待されている。
7日本遺族会の英霊の顕彰と慰霊の教義
以上にみたとおり、靖国神社の例大祭と日本遺族会の慰霊祭において、表現される中心的
内容は、英霊の顕彰・慰霊であり、これこそ右各祭祀を貫いて流れる根本の観念にほかな
らない。
この観念は、次のように要約できる。すなわち「英霊は、靖国神社の祭祀によつて、神、

して遇され、奉仕を受ける。そして、かつての戦争における英霊の忠勇と献身が明らかに
され、誉めたたえられ、感謝される。英霊は天皇はじめ国の代表及び国民からこのように
されることを喜び、慰められる」。
靖国神社の右のような祭祀によつて、生者が、死者の霊と相まみえることができ、両者の
間に精神的交流が行われ、その結果、死者の霊が慰められるという観念は、誰もが理解し
納得しうることではなく、それを受け入れるためには、現世を超えたものの存在を信じ、
また死者の霊が慰められるという超自然的な出来事が可能であると信じなければならず、
したがつて、この観念は、特定の宗教的教義であるといわねばならない。
8殉国と英霊の加護の教義
前記3の祭文にみられるように、日本遺族会の慰霊祭においては、英霊にこたえることの
。、、、誓いが表明されているその誓いとは戦争において生命を捧げることを厭わない精神
すなわち殉国の精神を国民に継承させることであり、このように、日本遺族会は、単に過
去の戦没者の顕彰、慰霊を目的としているばかりでなく、英霊に対する応答、英霊に対す
る誓いという形で、将来の世代による殉国の精神の継承、将来の戦争における戦没者の顕
彰、慰霊をも視野にいれている。死者の霊に対してこたえ、誓うという形をとつて表白さ
れる殉国の精神の継承は明らかに宗教的性格を帯びている。
、、、さらに前記のような祭文に表明されたもう一つの事実は英霊の加護への信仰すなわち
戦後日本の復興と遺族の生活の安定が、英霊の加護の結果と信じられていることである。
神霊の加護とは、神とされた死者の霊が現世に生きている遺族及び国民を守り、平和と繁
栄を享受できろよう助力することである。慰霊が生者の死者に対する働きかけであるとす
れば、これは死者の生者に対する働きかけであり、
このようなことが可能であると信じるか否かは、まさに各人の宗教的信仰に委ねられるよ
りほかない。すなわち、神霊の加護への信仰も、靖国神社の祭祀に関連して日本遺族会の
信奉している教義の一部であるといえる。
9日本遺族会の教義のまとめ
以上、日本遺族会が靖国神社の祭祀の中に含まれている宗教的観念をどのように理解して
いるかをまとめると、前記第二の四の2のとおりであり、そこに掲げた思想は、どの項目
においても、死者の霊の存在についての確信を前提とし、生者と死者が靖国神社の祭祀を
通して精神的な交流をすることができるという、超自然的な観念に基づいている。このよ
うな現世を超えた存在や、超自然的な出来事を認める観念は、宗教的教義といわざるを得
ない。
ここにおいて、靖国神社の教義が明らかになると同時に、日本遺族会もまた右のような教
義を信奉し、その信仰の共通性によつて成り立つている靖国神社の信徒団体であることが
明らかとなつた。
この信徒団体は、単に靖国神社による教化・育成の対象なるにとどまらず、みずからきわ
めて積極的に、靖国神社の教義と同神社に対する信仰を国民の間に広める役割を果たして
きた。すなわち、毎月定期に機関紙「日本遺族通信」を発行し、これを会の内外に広く配
布することにより、また、靖国神社国家護持や公式参拝を要求する様々な集会その他の運
動を組織し、さらに「英霊にこたえる会」を設立してその実働部隊の役割を果たすことに
よつてこれを行つてきた。
右に詳細にみたように、日本遺族会に参加する一部の遺族は、より多くの国民、究極的に
は、全部の国民が、自分たちと同じように考え、同じように靖国神社を崇敬することを求
め、戦後一貫して靖国神社国家護持の運動を熱心に展開してきたものであり、全国民が靖
国神社は、全戦没者を祀るわが国唯一の霊場であるとの信仰を持たなければ、戦没者の慰
霊と顕彰は完全ではなく、遺族である自分たちも慰藉されることがないというのが、その
心理と論理である。
日本遺族会がこのような団体であつてみれば、前記の宗教団体のいかなる定義を用いると
しても、同会は「宗教上の組織若しくは団体」に該当することは明らかである。、
三市遺族会の宗教団体性
市遺族会は、右のような靖国神社の信徒団体である日本遺族会の一地方支部であり、支部
として、それ自体も「宗教上の組織若しくは団体」であることを免れない。
ところで、市遺族会は、靖国神社における英霊顕彰と慰霊の事業のほか、支部の活動とし
て大阪護国神社と本件忠魂碑をはじめ、市内の忠魂碑による地域出身の戦没者の慰霊・顕
彰事業を行つてきたこと、これら靖国神社、大阪護国神社、忠魂碑における英霊の顕彰と
慰霊の事業以外には、同会の活動としてみるべきものがないことは前記第一の三で述べた
とおりであり、なおその処遇改善事業なるものも、究極的には、英霊の顕彰と慰霊の事業
と切り離しては存在価値がないとされているのである。したがつて、このような団体に地
方公共団体が公金を支出したり、便益を供与することがあれば、そのような行為は、広義
の宗教団体に対する援助として憲法八九条前段に違反することになる。
このように、最狭義、狭義、広義のたとえどのような立場に立とうとも、市遺族会は、憲
法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」であり、この結論を否定することはできな
い。
四日本遺族会と市遺族会の反憲法的、反公益的性格
日本遺族会は、同会が昭和三七年に発表したその基本問題調査部の報告書「英霊精神に関
する報告」にも示されているように、わが国の引き起こした戦争をすべて「国難」ととら
え「自然の災厄」と同視し、戦争が無数のアジア諸国民にもたらした被害のことは念頭、

なくかえつて戦争はアジア諸民族に自信を与えたものと積極的に評価し戦没者は愛、、、「
国心」から進んでその身命を国家と民族に捧げたものととらえ、そのような「愛国心」は
現代にも通じるものと積極的に肯定している。すなわち、右報告書は、戦争の惨禍が政府
の行為によつてもたらされた人為的なものであることの認識をまつたく欠いており、戦死
を無条件に愛国心の発露と賞賛することによつて、同じ過ちの再現への道を準備している
のである。これは、超国家主義と軍国主義のイデオロギー、国家神道の中心的施設である
靖国神社を信仰する日本遺族会の本質的な体質であるといわなければならない。同会にと
つて、民族の伝統、民族精神、愛国心の尊重をうたうことと、戦没者を民族の伝統に従つ
て靖国神社に祀り崇敬することを要求することとは表裏一体の主張なのである。
このような日本遺族会の主張、思想、観念は日本国憲法の根本規範に反し、国民主権の否
定、個人の尊厳と基本的人権の軽視、軍国主義の復活に与するものといわなければならな
い。
市遺族会は、
そのような性格を有する日本遺族会の一地方支部であり、支部としても、本件忠魂碑によ
り、毎年前記のような内容の慰霊祭を執行するなど憲法理念に反する活動を重ねてきた。
このような性格を有し、活動を行つている団体は、団体そのものが反憲法的であり、した
がつて、反公益的であると評価せざるを得ない。
第五本件各行為の違憲性
一政教分離原則違反
1憲法二〇条一項後段、三項、同法八九条前段違反
(一)憲法二〇条一項後段違反
憲法二〇条一項後段は、国が宗教団体に特権を与えることを禁止しているものであるが、
それはその趣旨からみて、国の外郭団体である公法人等や地方公共団体が宗教団体に特権
を付与することをも禁止するものであることはいうまでもないから、市の市遺族会に対す
る本件補助金支出が、憲法で禁じられている宗教団体に対する特権の付与であることは明
白であり、また、本件書記事務従事も、一般人には認められていない特定人に対する特別
の利益の供与であつて、これも市からの特権の付与にあたる。
しかも、これらの特権の付与は、それぞれ単独になされたものではなく、市遺族会は、市
役所(市福祉事務所)を事務所とし、市の職員を事務局とし、市の人的物的施設を随時使
用し、総経費の五割以上を市補助金で賄い、七八〇〇万円の巨額の公金を投じて購入され
た市有地を、同会の忠魂碑敷地として無償で独占使用し、同碑前における同会主催の毎年
の戦没者慰霊祭では、市及び学校の物品、施設をほしいままに使用し、その準備、参拝者
送迎、祭事執行に多数の市職員を動員し、それに市長、市議会議長、同議員、市教育委員
会、教育長、市立学校長、その他の市の幹部職員が大挙参拝する。
これらの事実は、市遺族会が、平素かつ従前から、市の機関と癒着し、人事、施設、財政
、、、の各部面において市から特別の地位と利益を得ている実態の表れでありその特権性は
顕著で明白であるといわなければならない。
なお、靖国神社は、旧憲法下において、国体の宗教的基礎づけの役割を果たし、狭義の戦
没者を神と崇める点で、まさに国教であつたものであり、憲法二〇条一項後段は、靖国神
、、、社に対するかかる特権的取扱いを禁止するものであるところ市遺族会は前記のとおり
靖国神社の信徒の団体であり、これに対する本件補助金支出及び本件書記事務従事は、前
記のような数々の特権の付与の一環としてなされたものであり、
これらの特権の付与は全体としてみれば、まさに靖国神社の信徒団体としての市遺族会へ
の特権の付与によつて、靖国神社信仰を国教のように取扱うものであつて、憲法の趣旨に
反すること甚だしいものがある。
よつて、本件補助金支出及び本件書記事務従事は、憲法二〇条一項後段に違反する。
(二)憲法二〇条三項違反
市遺族会は、前記第一の三のような宗教的活動たる英霊顕彰事業を、同会の主要な事業と
して常時または定期に継続して行つてきたものであり、一方、市は、本件書記事務従事に
より、その職員を同会の右宗教活動たる英霊顕彰事業の執行の事務を処理する唯一の事務
局員としてこれに就任させ、同事業執行の事務を担当させるとともに、本件補助金支出に
よつて、その活動費を負担した。
これは、市が、慰霊祭実行組織の一部となつて、みずから英霊顕彰の宗教的活動をしたこ
とにほかならず、憲法二〇条三項に違反する。
(三)憲法八九条前段違反
市遺族会が、憲法八九条前段にいう「宗教上の組織若しくは団体」である以上、本件補助
金支出が、同条の禁止する公金の支出にあたることは明らかである。なお、憲法八九条前
段が、国又は地方公共団体が直接に補助する場合のみならず、補助助成を行う特別の団体
(市社会福祉協議会)を設置してその団体を通じて補助する場合を含むことは議論の余地
がない。次に市遺族会の書記事務に従事する書記に対しては、本来、市遺族会がその時間
の賃金を支払うべきものである。ところが、本件では、市がこれを支払つているのである
、、。、からこの時間の賃金支払は実質的には補助金の支出となんら変わることがないまた
市職員の労務は、市が対価を支払つて得ている有償の役務として財産上の利益であり、公
の財産であるから、本件書記事務従事は、これを宗教上の組織若しくは団体である市遺族
会の「便益若しくは維持のため、その利用に供していることになり、これを禁止する憲」

八九条前段に違反する。仮に、文字通りそうでなくとも、本件書記事務従事は、政教分離
、、原則の趣旨から一定の宗教活動に対して便益を与えることにほかならないという意味で
同条前段に違反する。
(四)まとめ
以上のとおり、原告らは、本件各行為については、市遺族会及びその活動、事業の宗教的
性格についての客観的事実の認定に基づいて直ちに憲法違反との判断をすべきものと考え
るが、
さらに本件各行為の実質に立ち入つて判断すれば、その違法性は、より一層明らかとなる
ので、以下、本件各行為につき、宗教的中立性・非宗教性、目的、効果及び過度のかかわ
り合いなどの基準に照らし、その実質に立ち入つてさらにその違憲性を検討する。
2宗教的中立性・非宗教性
(一)宗教的中立性
国家の宗教的中立性が、政教分離原則の要請であると考え、これを基準として考慮する立
場は、政教分離原則の歴史とともにあつたが、ただ、それが、一宗教を他の宗教より優越
することを禁止するのか(宗派間中立・非優先の理論、宗教を非宗教よりも優遇するこ)

をも禁止しているのか(宗教・非宗教間中立)という点について過去に争いがあつた。国
家の宗教的中立についての右の議論の相違点は、結局すべての宗教を優遇することは、政
教分離原則に反するかという点にある。
これについて、アメリカ合衆国の連邦最高裁では、修正一条の宗教条項の目的は、宗教に
対するあらゆる形態の公の援助と支持とを包括的に禁止し、多数派の宗教の国教化の危険
をあらかじめ排除し、少数者を生ぜしめないことにあるとの分離ないし中立の原則が明示
されており、宗教・非宗教間中立の原則はすでに確立されたものと考えてよい。
(二)「特定の宗教」論
被告の主張は、要するに本件忠魂碑は、特定の宗教の宗教施設ではなく、本件慰霊祭は特
定の宗教の宗教儀式ではなく、市遺族会は、特定の宗教の組織・団体ではないから、市の
本件各行為も政教分離原則に反しないとするものであり、本件各行為を単なる死者の追悼
一般の水準に引き下げて論じるとともに、神道・仏教の隔年交替式という祭祀方法に着目
して宗教一般に対する援助にすりかえてしまおうとする巧妙な詭弁である。忠魂碑とその
慰霊祭を死者の追悼一般として論じる立場はそのまま靖国神社信仰を死者の追悼一般とし
て論じる立場に通じる。現に、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書は、戦没者
の追悼一般と靖国神社における戦没者の追悼とを無媒介に等置している。
このように靖国神社における参拝の宗教性の問題を「戦没者の追悼」一般の非宗教性をも
つて乗り切ろうとする論理は、甚だしく危険な詭弁である。神道・仏教の隔年交替式につ
いても、これは、国家神道のもとにおいて仏教が靖国神社信仰を強制され、これを受容し
たことの結果として生まれた妥協の産物であり、
仏教の参加によつて靖国神社の信仰の宗教性が忠魂碑から除かれるものではない。また、
神道・仏教の二つの特定の宗教にかかわりあう宗教行為若しくは援助として、その宗教性
をいささかも減少させるものではなく、違憲性を緩和するものでもない。このように被告
の唱える「特定の宗教」論は誤りであり、しかも利用される危険性の高い詭弁であるので
徹底的に排除する必要がある。
(三)靖国神社信仰の公定
本件各行為が、市の宗教的中立性・非宗教性を損なうものであることを論じる場合、これ
が靖国神社信仰を公定し、靖国神社祭神たる英霊を「公の神様」にするものであることを
みればよい。市遺族会の事業は、靖国神社の参拝旅行、大阪護国神社の例大祭の共催など
靖国神社信仰に関するものが大半である。本件忠魂碑は、箕面市の戦没者を神として祀つ
たものであり、その存在そのものが、この事実を表現しており、慰霊祭によつて祀られて
いる英霊が慰められるという信仰に基づいて祭祀されている宗教施設である。かかる宗教
施設を地方公共団体が維持(護持)するということは、とりもなおさず、この碑に戦没者
の英霊が祀られており、その英霊は慰霊祭によつて慰められるという信仰を市が認めるこ
とを意味する。
このように、市が宗教上の観念や儀式に支持の公証を与えることは、政教分離の最も排除
すべき事態である。靖国神社は、敗戦前における国家神道の中心的役割を担つた施設であ
り、護国神社は、都道府県における靖国神社の分社である。在郷軍人会は、靖国神社の管
理者である軍が、徴兵期間中に靖国神社信仰を植え付けた兵隊たちに、除隊後もその信仰
(軍人精神)を失わせないようにするために組織したものであつて、同時に一般市民に靖
国神社信仰を植え付ける機能を果たしたものであるが、多くの場合、忠魂碑は、この在郷
軍人会の分会によつて、靖国神社の地方分社としての意義をもつて建立され、靖国神社の
教義に基づき、靖国神社の祭神たる英霊を合祀し、その祭祀としての慰霊祭を継続してき
た宗教施設であつて、本件忠魂碑もまたその一つである。靖国神社祭神なる英霊は、国家
神道の下においては、まさに公の神様であつた。
敗戦直後、国家神道の解体に伴い、靖国神社、護国神社は、それぞれ国家から独立した一
宗教法人となり、忠魂碑は、日本全土において、一旦、解体、廃棄されたが、その少なか
らざる部分が再建された。現在、
日本遺族会は、靖国神社の公式参拝によつて、靖国神社教義の公的支持を獲得し、さらに
靖国神社の国家護持(公営化)の実現、靖国神社信仰の国教化を策動している。この靖国
神社の崇敬者(信者)団体である日本遺族会の箕面市における支部である市遺族会が、靖
国神社参拝旅行を行い、大阪護国神社の例大祭を共催し、本件忠魂碑を護持し、碑前での
神式、仏式慰霊祭をますます盛んにしようとする活動を援助したのが本件補助金支出であ
り、本件書記事務従事である。
これは、靖国神社信仰の公定・公営化の地方における試みとして、靖国神社信仰の国教化
を先取りするものである。すなわち、敗戦前において「公の神様」とされ、その信仰が、

制されていた靖国神社・護国神社・忠魂碑を現在において再び「公の神様」にしようとい
う団体があり、その団体の要求に基づいて、その活動を援助するため、補助金を支出し、
その書記事務を代行したというのが本件の事件であり、これは、一地方公共団体において
一つの信仰を公定するものであるとともに、国家の規模における公定=靖国神社の国家護
持への一段階である。
3目的の基準
以下、津最判の基準に従つて、本件各行為の目的、効果を検討することとする。
(一)行為者の意図、目的まず、市が本件補助金をいかなる目的をもつて交付、支出し
たのかについて検討するに、本来、補助金は、その性質上、補助の目的を少なくとも建前
あるいは表面上は明らかにして交付されるべきものであり、これによつて、一応、市の意
図、目的を知りうるものであるが、本件において市は、本件補助金を交付するにあたつて
補助の目的を明確にしなかつたばかりか、明確にしようとする努力すらせず、被告は、補
助金の交付申請書や配分の申請書に付された資料から、勝手に判断してくれという態度を
取り続けている。
(二)世俗的目的の主張責任
憲法二〇条一項、三項、同法八九条前段は、本来、国家または地方公共団体と宗教とのか
かわり合いを禁止しているところ、目的、効果のテストは、そのかかわり合いの目的が、
宗教的意義をもたず、またその効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等
にならない場合には、そのかかわり合いを許容するという憲法の禁止を緩和する基準であ
る。
したがつてそれは、そのかかわり合いが、国または地方公共団体と宗教とのかかわり合い
であつても、
憲法に違反しないと主張する側において、そのかかわり合いの目的が宗教的意義を持たな
いものであること及びその効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等にな
らないことを主張、立証すべきである。
本件で、原告らは、本件各行為が、市遺族会という「宗教上の組織若しくは団体」との広
範かつ深いかかわり合いの重要な一部であること、さらにはそれが、市と靖国神社、大阪
護国神社及び本件忠魂碑とのかかわり合いであり、靖国神社信仰とのかかわり合いである
ことを主張、立証してきなのであり、被告が、目的、効果の基準によるかかわり合いの許
容を主張するのであれば、被告において、その目的が宗教的意義を持たない世俗的なもの
であること及びその効果が宗教に対する援助、助長等とはならないことを主張すべきであ
るにもかかわらず、被告は、本件各行為の目的、すなわち、本件補助もしくは援助の目的
たる補助対象事業を原告らの釈明要求にかかわらず明らかにしない。
被告が、本件各行為の目的を特定して主張し、その世俗性を立証しない以上、目的、効果
の基準は適用の余地がない。しかも目的、効果の基準は、目的が宗教的意義を持たないこ
と及び効果が宗教に対する援助、助長等にならないことの二要件を充足して初めて成立す
る抗弁事項であるから、その一方である目的の基準の適用の前提たる要件事実としての世
俗的目的を主張しない以上、目的、効果の基準の適用を援用することは主張自体失当であ
る。
(三)客観的評価
仮に、被告のいうように被告提出の書証から、客観的にその目的を判断すれば、本件補助
金は、市遺族会の全事業、活動の援助及びそのような活動を行つている市遺族会そのもの
の維持、存続を目的として交付されたとみるほかなく、本件書記事務従事についても同様
であるところ、市遺族会の全事業、活動の中の主要なものの実態は、前記第一の三の2で
述べたとおり、その全部が宗教活動であり、それへの援助が、宗教的意義を有することは
明らかであつて、本件各行為は、これを客観的に評価すれば、その目的は宗教的意義を有
し、その余の点について考察するまでもなく、目的の基準に適合するものとはいえない。
(四)戦没者の追悼、遺族の精神的慰藉
津最判は、地鎮祭の挙行の目的を、建築着工に際し、土地の平安堅固、工事の無事安全を
願い、
社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという点で世俗的なものと評価しているところ、本
件各行為についても、この見解を誤用して、戦没者の追悼、遺族の慰藉という世俗的目的
でなされたという弁解がなされる。
しかし、地鎮祭の場合の土地の平安堅固、工事の無事安全という目的は、それ自体として
は、世俗的で宗教的意義をもたない現世利益であつて、宗教儀式は、その世俗的目的達成
のための手段と評価する余地がある。しかし、本件では、目的自体が、単なる世俗的追悼
を超え、戦没者の慰霊、すなわち靖国神社祭神たる英霊を慰める、死者の霊魂の救済とい
うまさに宗教の領域に属するものであり、遺族の慰藉も、英霊を慰める行為によつて死者
が慰められるとする遺族の宗教感情の喚起と充足を意図したものであり、補助金の現実の
使途も靖国神社参拝のような宗教活動そのものに限られている。
このように本件各行為の目的としての戦没者の追悼、遺族の精神的慰藉の具体的内容は、
それ自体がすでに宗教的意義を持つているのであり、地鎮祭におけるような現世利益とは
異なるのであつて、それを世俗的目的とするのであれば、宗教の多くが個人の精神的救済
を目的とするところ、この精神的救済は世俗的目的であつて、宗教活動は、この世俗的目
的を達成するための手段であるということになり、ほとんどすべての宗教の活動がこの基
準を通過してしまうことになり、その詭弁性は明らかである。
(五)宗教的意識
本件各行為について、市長たる被告が宗教的意識を有していたかどうかについて検討する
に、市が市遺族会の事業、活動について十分把握していたことは被告の自認するところで
あり、靖国神社に参拝することや大阪護国神社の例大祭を共催すること及び本件忠魂碑及
びその碑前での慰霊祭が、葬儀などと異なる重要な宗教儀式であることなどからすれば、
被告がそれについて宗教的意識を欠いていたといえないことは明らかである。
、、、、「」さらに市長たる被告は市遺族会が英霊の慰霊・顕彰事業の一環として村の靖国
たる忠魂碑を維持し、その祭祀を行つていること、靖国神社祭神たる英霊は、国家及びそ
の機関によつて祭祀され、公の神様として祀られることによつて最もよく慰められるとす
る靖国神社の教義を信仰し、これを実現しようとして靖国神社の国家護持の運動をしてい
る団体であること、したがつて、忠魂碑が地方公共団体によつて維持され、市長、
教育長らの公式参拝によつて、英霊が慰められるという信仰を持つている人々の団体であ
ることをよく承知していたものであり、全体としての市遺族会の事業についてもその宗教
的意義を十分に認識していたことは明らかである。
(六)遺族の要請
津最判が、地鎮祭について「工事関係者の要請に応じ(行つた」と判示した点を考慮、)

れば、本件各行為は、国家の誤つた政策に基づく戦争の犠牲者としての戦没者遺族が、戦
没者の追悼と遺族の精神的慰藉を要求するのにこたえた措置としての側面を有するとの弁
解がでるおそれがある。
しかし、狭義の戦没者(公務死者)は、爆撃による被災者のような一方的被害者あるいは
犠牲者と比べると、その中には、みずからも戦争政策を積極的に推進した職業軍人など、
戦争責任を負うべき者もおり、その区別をつけないまま、その全員が犠牲者のように振る
舞うのは許されない。
また、憲法の政教分離原則からすれば、たとえ、国家の誤つた政策による犠牲者等であつ
ても、国家・地方公共団体に対し、宗教的慰霊、宗教的慰藉を求める権利を有しないこと
及び国家はこれを与えてはならないことが明らかであり、戦没者の死を悼もことはあくま
で非宗教的な追悼行事として行われるべきである。
また、戦没者遺族らが、誤つた国家の政策による犠牲者の相続人として、国家に対し、精
神的慰藉を請求する権利を有するとしても、それは、世俗的慰藉に限定され、しかも原則
として、金銭賠償等によるべきとするのが法制の基本である。
よつて遺族の要請は、本件各行為によつて市遺族会の行う宗教的事業を援助し、市遺族会
の存続を支持する弁解とはなりえない。
なお、本件で宗教的活動を行つたのは、遺族自身であるから、それらは、市遺族会会員ら
、、、、の宗教的自由という弁解があるかも知れないがそれは本件各行為が遺族個人に支給
供与されたのでないこと、かつ、市に居住する全遺族に平等に支給、供与されたのでない
ことからして通らない論理である。
(七)代替手段の問題
国・地方公共団体の一般的施策として、戦没者に対する追悼の行事を行うこと自体は非難
されるべきでないし、それに対する援助も可能である。しかし、その場合、その追悼行事
は、世俗的なものに限定し、宗教色を帯びることのないよう最大限の措置を講じなければ
ならない。たとえば、広島市主催の原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、
名称に慰霊の言葉をもちいているほかは、宗教色を帯びることのないよう注意が払われて
いる。
戦没者追悼という、それ自体は正当な目的をもつた行為であつても、その実現のための手
段を誤つた場合には、その目的ではもはや正当化されないのであり、本件各行為もこの場
合の典型例である。
4効果の基準
次に、本件補助金支出等の効果が、宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等に
あたるか否かを検討する。
(一)一般的プログラムの一環
アメリカの連邦最高裁の判例は、宗教的機関に対する援助などのかかわり合いについて、
その行為が、一般的プログラムの一環として行われたものである場合には、宗教に対する
援助等にならないとしている。
津最判の多数意見は、目的・効果基準のみを採用しているが、右基準によつて検討する上
でも、これと共働する基準とすべき一般的プログラムの一環の基準を要素の一つとして考
。、、、慮する意味は大きいもつともこの一般的プログラムの一環という場合プログラムは
政府の特定の行政措置が、一般的基準の下で、住民全体の福祉の達成のために実施される
場合をいい、本件各行為の場合、このような住民全体の福祉の達成というものではない点
に重大な問題がある。
すなわち、本件各行為は、そのいずれをとつても、市出身もしくは当時在住の戦争犠牲者
またはその遺族等に対する一般的な戦没者の追悼、遺族の慰藉のプログラムによるもので
、、(、)、はなくすべての戦争犠牲者のうち狭義における戦没者戦死戦病者など公務死者
また靖国神社祭神とされている戦没者の遺族のうち、靖国神社信仰を持つ遺族の組織であ
る遺族会に対する援助であつて、その目的が、遺族に対する精神的援助にあるとしても、
あまりに不公平で差別的な援助である。
本件各行為によつて、精神的慰藉を受けるのは、靖国神社や本件忠魂碑に戦没者が祀られ
ているという観念を持ち、さらに本件忠魂碑の維持、碑前慰霊祭の挙行あるいは靖国神社
に参拝する等によつて、戦没者が慰められるという信仰を有する人々だけであり、右信仰
を受け入れない人間にとつては、慰藉の効果がないばかりか、かえつて不快感を与えるば
かりであり、さらに、市が公に認めていることを認めない者として、社会の中で異端化さ
せるものである。
(二)世俗的機能の分離可能性
本件各行為が宗教に対する援助、助長、促進等にあたらないといえるためには、
そのかかわり合いの世俗性を確保することが絶対に必要である。
本件では、市が市遺族会のいかなる機能に着目し、援助する目的で、本件各行為を行つた
のかは全く明らかにされておらず、市遺族会の全事業に対する援助とみざるを得ないこと
は前記のとおりであつて、市遺族会の行つている宗教活動、宗教行事に対する援助をもそ
の目的とするものと評価されるのであり、かかる宗教活動、宗教行事と世俗的目的との分
離可能性について論ずるまでもない。
また、市遺族会が世俗的機能を有するとすれば、それは世俗的意味に限定された遺族の精
神的慰藉という点であろうが、かかる世俗的機能としての遺族の精神的慰藉を宗教的機能
、、、から分離して援助することが可能かについて検討しても市遺族会は靖国神社抜きでは
戦没者の追悼も慰藉もありえないという状態であつて、靖国神社の教義が、その組織全体
にくまなく浸透しているのであり、世俗的な戦没者の追悼、遺族の慰藉のみを分離して取
り出し、これを援助するというようなことは不可能である。
(三)世俗性の確保
仮に市遺族会の事業から世俗的追悼、慰藉の機能を分離することが可能とした場合、分離
された世俗的機能とのみかかわり合い、宗教的機能に対する援助等の効果をもたらさない
、。ためにはかかわり合いの世俗性を確保するための措置がなされていることが必要である
ところが、本件で、移設、再建された本件忠魂碑は、
(1)碑のセツテイングそのものが、玉砂利等宗教的な環境(聖域的雰囲気)を醸し出
すような環境で作られている。
(2)市遺族会は、前述のとおり、宗教上の組織、団体である。
(3)本件忠魂碑は、その前で、毎年一回宗教儀式である慰霊祭が行われる。
(4)本件忠魂碑には、世俗性を明示するプレートが付けられていない。
このように本件忠魂碑には、世俗性確保のための最低限の措置をとつた形跡すら認められ
ず、かえつて宗教性を高めるように援助しているのが実情である。
被告は、忠魂碑の歴史的性格は風化し、その性格は世俗的なものに変化していると主張す
るが、それは、現実に世俗性を確保するための様々な措置を講じ、厳格な条件付けをする
ことで確保されなければならず、それをしないで主張するのはごまかしでしかない。
本件各行為についても、事情は変わらず、むしろそれ以上に甚だしいものがある。なぜな
らば、
市遺族会の見るべき活動といえば、靖国神社への参拝旅行のような、宗教的活動であるこ
とが一見して明白なものが大部分であるのに、これらの活動への補助金の流用を防止する
措置を講じておらず、また、書記に就職した市の職員は、市遺族会の唯一の書記として、
その事務全部を担当しているからである。
以上の検討の結果からすれば、本件各行為の効果が、宗教を援助、助長、促進するもので
あることは否定できない。
(四)一般人の宗教的評価及び本件各行為の一般人に与える影響
津最判の多数意見は、国家と宗教とのかかわり合いの問題を考えるうえで、一般人の見解
を考慮に入れなければならないとするが、政教分離に関して、一般人の見解を考慮に入れ
ることは問題の解決を誤る可能性が高い。
仮に、一般人の宗教的評価を論ずるとしても、一般人がそこに宗教を感じるとか、宗教と
思うかというような問題の立て方をしてはならない。このような問題の立て方によつて浮
かび上がつてくるのは、わが国の大衆がいかに神社非宗教論に毒されているかということ
のみである。
、、、そこで一般人の宗教的評価を論ずるにあたつてはそれを宗教と思うかどうかではなく
一般人がその行為からどういう印象を受け、どのように考えるかをみた上で、それが、客
観的に見て宗教に対する援助、助長、促進等になつているかどうかを確認すべきである。
市遺族会の活動が、靖国神社、大阪護国神社及び本件忠魂碑と密接な関係があることは明
らかであり、そこで、本件では、これらの神社、忠魂碑そのものについて、あるいはこれ
らの施設に遺族が参拝することについて一般人がどのような印象を受け、どのように考え
るかを見なければならない。
これらに参拝する各人個々の思いとは別に、人々は、靖国神社・護国神社・忠魂碑が、戦
争で死ぬことを称え、戦没者を神として祀るものであることを知つているし、日本遺族会
が、そのような考え方を持つ団体であることを知つている。また、忠魂碑については、そ
れらの持つ意味を忘れかけた人々がいるかも知れないが、それらの人々に、その持つ意味
を思い出させるのが、本件忠魂碑の移設・再建であり、そういう本件忠魂碑をみて、一般
の民衆は、戦没者がそこに英霊、神として祀られていたことを思い出す。かかる状況のも
とで、市が市遺族会に対して、靖国神社に参拝したり、
本件忠魂碑前での慰霊祭を挙行したりする活動を援助するなら、一般人は、市が靖国神社
の信仰を援助、助長しているとみるであろうことは疑いの余地がない。
日本遺族会や市遺族会が「宗教上の組織若しくは団体」であるということは、事実を知ら
されていない大衆の常識には反するものがあるかも知れないし、仮に事実を知つたとして
も靖国神社すら宗教ではないという観念が、民衆の中には根強く残つており、このような
中で市遺族会を市が援助することが憲法に反するとの判断は、一時は反撥を受けるかも知
れないが、それは、政教分離についてのアメリカの詣判例もかつて経験したことである。
しかし、政教分離原則の適用の場面では、常識的な宗教意識をはつきり批判しなければな
らないのであり、右原則に忠実な裁判所の判断が、国民に政教分離の何たるかを示すべき
であり、それによつて憲法の保障が守られるのである。
5過度のかかわり合い
(一)過度のかかわり合いの基準
津最判の多数意見は、目的・効果の基準によつてその判断を下した。この目的・効果の基
準は、アメリカの連邦最高裁の形成した判例理論の中かも採られたものと推測されるが、
アメリカの判例法は目的・効果の基準だけでなくこれに過度のインタングルメントか、、(
かわり合い)の基準を加えた三重の基準で判断している。津最判はこの基準を用いていな
いが、この世俗的目的を持ち、宗教的機関の世俗的機能に限定された援助も、それが国家
と宗教との過度のかかわり合いとなるときは、それが直ちに宗教の国定をもたらすもので
なくとも、宗教の国定が現実の危険となるという考察は正当であり、わが国の政教分離の
判断の基準としても考慮されるべきである。
この基準の適用については、連邦最高裁のP10首席裁判官は「利益を受ける機関の性、

と目的「国が供与する援助の性質「結果としてもたらされる政府と宗教団体との関」、」、
係」の三点を示しており、これらを本件につき順に検討する。
(二)利益を受ける機関の性格と目的
日本遺族会は、靖国神社を崇敬する者の集まりとして、靖国神社の教義に基づき、靖国神
社の祭祀を通じて、靖国神社の祭神である英霊の慰霊顕彰を主な事業とし、その最重要な
目的として、靖国神社の国家護持を要求する団体である。靖国神社もまた、遺族をみずか
らの崇敬者と位置付け、
日本遺族会の会長を責任役員に迎えるなど両者の関係は密接であり、日本遺族会は、靖国
神社の崇敬者団体になつている。また「英霊にこたえる会」は、実質的には、日本遺族、

を主たる構成部分としながら遺族以外の靖国神社崇敬者を英霊精神の伝道者及び信者とし
て包含した団体であり、この両者は、靖国神社という教団の不可欠の構成要素である。
市遺族会は、このような日本遺族会の市における支部であり「英霊にこたえる会」箕面、

部とほとんど同一の組織である。このような市遺族会の強い宗教的性格、とくに靖国神社
との深い関係、靖国神社の教義である英霊精神の積極的布教伝道の組織であること、遺族
会の目的が靖国神社国家護持、靖国神社信仰の国教化であることからすれば、市が市遺族
会を援助することは、靖国神社の信仰に市が強くかかわり、その宗教的課題である靖国神
社の国家護持、公式参拝を市の段階で先取りしようとするものにほかならず、まさに国教
を定立する可能性を強く持つた、国教を定立するための一段階としてのかかわり合いを生
ぜしめるものである。
(三)援助の性質
本件各行為による援助の性質は、市遺族会の事業全体への援助であり、市遺族会の維持、
存続そのものへの援助であつて、その英霊の慰霊、顕彰の事業への援助も含もことからす
れば、靖国神社の参拝旅行等の宗教的活動や、靖国神社の国家護持運動のようなイデオロ
ギー的性格を持つかかわり合いが生じている。
、、特に靖国神社の国家護持運動は単に政教分離原則に対する直接の挑戦であるのみならず
天皇のため国のため命を捨てることを慫慂するという、反憲法的イデオロギーの鼓吹であ
り、公益上の必要生を欠く。
、、、また援助の外形的性質は補助金は毎年前年の何パーセント上乗せという形で執行され
書記事務従事に至つては、市遺族会を市が運営しているといつても過言ではないほど、市
と市遺族会との継続的、永続的かかわり合いを生じ、しかも、市遺族会の経済的負担、事
務的負担のすべてを市が負つているまでのかかわり合いとなつている。
また、市は、忠魂碑の敷地提供、慰霊祭に対する援助等をしており、これらを全体として
みれば、市自身がみずから慰霊祭実行組織の一員として慰霊祭を挙行していると評価でき
る程のものである。
かくて市がみずから宗教的活動をしたと同視できるほどの市と本件忠魂碑あるいは市と市
遺族会ひいては靖国神社との深く強いかかわり合いが生じており、これらのかかわり合い
は、総体としてみれば、市が市遺族会の各事業、活動を直接行つているのと同様の強いか
かわり合いであり、過度のインタングルメントを生じていると評価される。
(四)結果としてもたらされる政府と宗教団体との関係
国も地方公共団体も、戦没者を公の神様として祀るべきだし、そう祀られることで戦没者
は、もつともよく慰められるという遺族の信仰を市は、公に認めてしまつている。そうで
あればこそ、遺族が靖国神社に参拝することや、大阪護国神社の例大祭の共催や忠魂碑前
での慰霊祭というような事業を援助するのである。
、、また本件忠魂碑をめぐる事実関係からすれば本件忠魂碑はまさに公の神様となつており
その一般事務すら市の職員に行わせているとなれば、これはもはや特権の付与といわなけ
ればならず、これ以上の過度のかかわり合いは、市の公教化以外にない。
(五)政治的あつれき
過度のかかわり合いの基準は、そのかかわり合いから政治的あつれきが発生する可能性を
もその検討の要素にしている。
市遺族会は、日本遺族会の支部であつて、日本遺族会は、靖国神社を崇敬するという特定
の信仰を同じくする者の集まりである。日本遺族会は、その設立の当初から、靖国神社信
仰に基づく英霊の慰霊・顕彰をその中心たる事業としていたが、これを隠し、宗教と関係
なくすべての戦没者遺族を結集すべきものとして設立され、国から九段会館の無償貸付と
いう特別の援助を受けたが、その関係もあつて、当初は、日本遺族会にも右の表面上の趣
旨を信じて入会した靖国神社信仰を持たない人々がおり、その構成員になつていた。
しかし、靖国神社信仰を隠す必要がなくなり、公然と靖国神社国家護持運動ができるよう
になると、靖国神社信仰を持つ多数派は、小数者の立場を無視するようになり、遺族であ
ればすべて靖国神社を信仰するのが当然という態度で、靖国神社の国家護持運動などを進
めてきた。
その結果、この信仰を同じくしない人は、日本遺族会から離れ、キリスト者遺族会、旭川
平和遺族会、真宗遺族会などをつくり、ついにはこれらが集まつて全国的な団体として平
和遺族会を設立するとごろまできた。靖国神社問題は、
愛する者を亡くした遺族の共通の悲しみの中に大きな分裂を引き起こしたのである。
このような分裂的状況のもとで、その一方である日本遺族会を援助することは、靖国神社
信仰を持つ者を支援し、その信仰を助長することは明らかであるし、それ以前に、このよ
うな宗教の政治問題化や、宗派をめぐる政治的分裂こそ、政教分離原則が予防しようとす
るものにほかならない。遺族の多数が靖国神社信仰を持つていても、靖国神社国家護持を
主張しなければ、それは信教の自由の領域であり、分裂も生じないが、遺族の靖国神社信
仰を利用しようとする人々の策謀がかかる分裂と対立を引き起こしているのである。
なお、靖国神社信仰の信者の多くの部分は、民族的排外主義の傾向が強く、キリスト者に
対する不寛容、無理解には、甚だしいものがあり、靖国神社信仰を批判する者は、キリス
ト教徒か、共産主義者で、非国民あつかいの攻撃がなされる。
このような靖国神社国家護持の問題によつて引き起こされた対立、あつれきこそは、政教
分離原則が排除しようとしたものであり、決して多数決によつては解決しないし、多数決
に委ねてはいけない性質のものであり、裁判所の憲法判断に委ねられるべきものである。
(六)侵害の拡大
本件各行為が、裁判所によつて容認されれば、全国の市町村において、それぞれの単位遺
族会への公の援助の強化を求める動きがつよまり、しかも市町村の単位遺族会が靖国神社
の参拝旅行や、護国神社の例大祭の共催、忠魂碑前での慰霊祭を行うについて市町村の補
助その他の援助を要求し、その多くが目的を遂げるであろう。
しかもことはそれにとどまらず、靖国神社国家護持、靖国神社信仰の国教化、そして国家
神道の復活へとつながることは明らかである。
(七)まとめ
以上の要素の検討は、本件各行為が、市と市遺族会すなわち市と本件忠魂碑、大阪護国神
社及び靖国神社、これらの信仰との過度のかかわり合いであることを示し、本件各行為の
容認は、靖国神社信仰の国教化をもたらすほどの重大な危険につながることが明らかであ
る。
6結論
以上、津裁判所の判示した基準及び判断要素あるいはアメリカの連邦最高裁の判例論の基
準及び認定要素といずれの点からみても、本件各行為は、政教分離原則に反するものであ
る。
二憲法八九条後段違反、
社会福祉事業法五六条違反
1憲法八九条後段の解釈
(一)立法趣旨
憲法八九条後段の趣旨は、私人が経営する慈善、教育若しくは博愛の事業(慈善・博愛事
業)に対し、国や地方公共団体が、公金その他の公の財産を支出または供用すると、おの
ずから、その事業の自主性、自律性を侵害するおそれがあり、憲法八九条後段の規定は、
このおそれに鑑みて、公の支配に属しない慈善・博愛事業に対する公金その他の公の財産
の支出又は供用を禁止したものである。これが主たる立法趣旨である。
また副次的には、公金その他の公の財産は、主権者たる国民の国家に対する信託財産であ
り、それを支出又は供用することは、結局国民あるいは住民の負担に帰することになると
ころ、私人が経営する場合であつても、慈善・博愛事業というものは、事業の性質からみ
て、援助の名において公金等の支出が行われやすく、憲法は、かかる認識に基づき、私人
の経営する慈善・博愛事業に対する公金等の支出、供用を規制している。
右の趣旨に照らせば、私人の経営する慈善・博愛事業に対して、公金その他の公の財産を
支出、供用する場合は、他の一般の事業に対して、公金その他の公の財産を支出、供用す
る場合よりも、その支出、供用する公益上の必要性の認定が、一層厳格、慎重な手続で行
われなければならない。このような趣旨で憲法八九条後段は、慈善・博愛事業に対する公
金の支出を原則的には禁止するものであつて、例外的に公の支配に属さしめた上で、禁止
を解除し、公金その他の公の財産の支出、供用を許容するものである。
(二)慈善・博愛事業
、、、、憲法八九条後段にいう慈善の事業とは老幼病弱貧困などによる社会的困窮者に対し
慈愛の精神に基づいて援護を与える事業をいい、博愛の事業とは、疾病、天災、戦禍、貧
困などに苦しも者に対し、人道的な立場から救済や援護を行う事業をいう。ただし、右の
、、、、二者はその基づく精神が共通でありまたその目的対象においても共通の領域があり
性質上、その区別は必ずしも明確ではないし、また強いて区別する必要もない。
(三)公の支配の意義と内容
憲法八九条後段における公の支配とは通常の事業(たとえば、公企業-電気事業法による
電気事業、地方鉄道法による鉄道事業等)に対する国や、地方公共団体の監督、規制、統
制よりもさらに強い影響力を及ぼすようなコントロールであつて、その事業体の構成、
人事、財政、事業の運営、もしくは遂行そのものに対して特に強い影響力を及ぼすような
ことを公の支配という。
2社会福祉事業法五六条の解釈
(一)立法趣旨(憲法八九条後段との関係)
社会福祉事業法上の社会福祉事業が、憲法九八条後段にいう慈善・博愛事業であり、社会
福祉法人が、慈善・博愛事業を行うことを目的とするものであることは異論がない。した
がつて、国や地方公共団体が公の支配に属しない社会福祉法人に助成することは同条後段
に違反する。
社会福祉事業法五六条一項は、同条二項以下により助成主体の機関(厚生大臣または地方
公共団体の長)に対し、特別の監督権限を付与することによつて助成しようとする社会福
祉法人を憲法八九条後段にいう公の支配に属せしめて、国等が、助成することを許容した
ものである。社会福祉事業法五六条二項の特別監督権限を同法五四条の一般的監督権限と
比較すると、権限の中身においても、予算の変更勧告権、役員の解職の勧告権などその強
度においても大きな差異がある。このようなことから社会福祉事業法五六条二項以下の特
別監督権限は、憲法八九条後段の公の支配という要請を満たすものとして制定された。
しかし、右監督権のみでは、公の支配というに足りず、憲法違反との見解も有力である。
したがつて、社会福祉事業法五六条二項以下の規定は、法律の要件を満たすための最低限
であつて、その解釈、適用にあたつては、当該助成が、他の憲法上の要請に基づくなどの
高度の公益上の必要があり、かつ右公益目的に反する不正な助成の申請、公金の使用等を
防ぎ、助成の目的が効果的に達成されるに必要なだけの公の支配が確保されるよう留意し
なければならない。
(二)社会福祉事業法五六条一項の条例による交付手続を経ない補助金交付
社会福祉事業法五六条一項は、地方公共団体が社会福祉法人に補助金を交付する手続を定
める法形式として条例を指定しており、地方公共団体は、補助金交付申請から補助金交付
の意思決定手続をも含めて交付決定に至るまでの手続を定めなければならないが、本件補
助金交付当時、右条例は存在しなかつた。したがつて市は、社会福祉法人である市社会福
祉協議会に助成をすることができなかつたにもかかわらず、これを無視して一般的な補助
金交付規則を根拠に本件補助金交付を決定、支出したものであり、かかる補助金交付決定
は明白に違法である。
同法五六条一項が、条例を指定しているのは、それが地方公共団体の基本の自治規範であ
ること、憲法八九条後段の趣旨からみて、社会福祉法人に対する補助金交付については、
、、通常の場合よりも一層厳格慎重な手続を要するという立法者の判断に基づくものであり
これに違反した本件補助金交付は重大かつ明白な憲法違反の瑕疵があり、無効である。
なお、社会福祉事業法五六条一項は、憲法の議会中心財政主義の原則に照らせば、地方公
共団体に対し、その議会の意思により、助成をなすべき権能を授与したものと解すべきで
あり、この面からしても、かかる議会の意思としての条例を欠缺したことは重大な違法と
いわざるをえない。
3条例がなくても公の支配を及ぼしうるか。
社会福祉事業法五六条一項に従い、その条例の定める手続に従つて補助金が交付された場
合には、当該社会福祉法人は、同条二項の定める特別監督権限に服し、公の支配に属する
ものとされている。しかし、本件補助金交付のように、その条例が存在しない状態でなさ
れた本件補助金交付は、重大かつ明白な違法の瑕疵を帯びたものであつて無効であり、同
条一項の規定によりなされたものということはできないから、同条二項ないし四項の公の
、。支配の規定が働く余地がなく公の支配に属しない事業に対する助成といわざるを得ない
被告は、市補助金交付規則には、同法五六条二項以下に定める権限と概ね同内容の監督権
限が定められており、それによつて公の支配の要件を満たしていると主張するが、これら
の規定は、市が私人の事業に対して補助をするに際し、補助自体に付した付款にすぎず、
これを超えて当該受益者そのものの運営を監督する性質のものではない。ちなみに、公の
支配の中核的監督権限とされている予算変更勧告権、役員解職勧告権は、同規則に定めが
ない。
また同法五四条の一般的監督が、合法性の確保を目的とするのに対し、同法五六条二項の
特別監督権限は助成の有効性の確保を目的とする点にみられるように、両者は、性質が異
なるものであり、市補助金交付規則は、公金使用の適正化を目的とするものであるから、
その性質及び強力さのいずれにおいても、同法五六条二項以下にまつたく及ばないもので
ある。
なお、私人の事業に公の支配を及ぼすことは、国が国民に義務を課し、自由を制限する権
力作用(侵害行政)であり、被告のとる侵害留保説からしても、
これらの事項は法律(条例)で定められなければならず、市長の制定する規則で、公の支
配が定められたとすれば、同規定は無効である。
4市遺族会に対する公の支配
本件補助金は、市から市社会福祉協議会に交付された後、同協議会において市遺族会に配
分されたものであり、右配分を当初から予定して交付されている。
(一)政教分離原則違反
本件で、市社会福祉協議会は、市が市遺族会に補助金を出すためのパイプ役を果たしてい
るにすぎず、実体は、市が市社会福祉協議会をトンネルとして、市遺族会に補助金を交付
したものである。かかる補助金支出は、憲法八九条前段に違反する。
(二)憲法八九条後段違反
仮に、市遺族会が、被告の主張するような社会福祉団体であつて、憲法八九条後段の慈善

博愛事業に含まれるとすれば、市社会福祉協議会を通じての本件補助金支出は、公の支配
に属しない慈善・博愛事業に対する間接補助の形態による財政援助であつて、同条に違反
する。
社会福祉事業法五六条二項以下は、憲法八九条後段の公の支配に属せしめるための特別監
督権限として立法されているものであるところ、社会福祉事業法五六条二項以下は、間接
補助先への監督権限の規定を欠いており、地方自治法二二一条二項が間接補助先への監督
権限を明定しているのと比較対照すれば、かかる明文の規定なくして間接補助先に監督権
限が及ばないことは明瞭であるし、そもそも社会福祉事業法五六条は、間接補助を全く想
定しておらず、憲法八九条後段の公の支配という要件の重要性に鑑みて、直接補助に限定
していると解される。
よつて、市遺族会が慈善・博愛事業に該当するとすれば、間接補助先である市遺族会に社
会福祉事業法五六条二項以下を適用することが不可能であるから、本件は、公の支配に属
しないにもかかわらず補助金を支出したものであり、違憲である。
被告は、公の支配は、国又は地方公共団体が直接に補助する社会福祉法人に対する関係で
、、、確保されていれば足りるとするがその主張のようにすれば公の支配の要件を欠く事業
団体に対しては、社会福祉法人あるいは他の団体をトンネルとして間接助成をすればよい
ことになり、脱法の可能性を無限に許す結果になり、公の支配の確保を目的としたとされ
る社会福祉事業法五六条二項以下の規制は意味を持たないことになるのであつて、このよ
うな解釈は採りえない。
三地方自治法二三二条の二違反
1公益上の必要性の判断は自由裁量ではない。
地方自治法二三二条の二は「普通地方公共団体は、その公益上の必要がある場合におい、

は寄付又は補助をすることができる」と規定しているところ、本件補助金支出も右規定。

適用があることは当事者間に争いがない。
したがつて本件補助金支出は、公益上の必要に基づくものでなければならないが、この公
益上の必要は、客観的に認められなければならず、裁判所の事後的な司法審査に服するも
のである。
2名古屋高裁判決の検討
名古屋高等裁判所昭和五一年四月二八日判決は、地方自治法二三二条の二の公益上の必要
の認定について「政治的団体に対する補助金支出の適否を判定するにあたつては、当該、

方公共団体の補助金支出の目的、趣旨ならびに当該政治的団体の目的、構成員、幹部、資
産、財政、活動状況、他の団体との関係、特に過去における公益活動の実績、公益活動計
画、同団体のなす政治活動の程度等を検討した上で、当該補助金が右団体の公益活動にど
の程度役立つか、同団体の政治資金に流れるおそれがないか等の利害得失を比較総合して
判断するのが相当であると解する」と判示し、当該補助金が、団体の公益活動にどの程。

役立つか、同団体の政治活動資金に流れるおそれがないかなどについて見極めるため、以
下のような検討項目を挙げている。
第一に、当該地方公共団体の補助金支出の目的、趣旨
第二に、補助金を交付される団体の目的、組織、財政
第三に、過去における公益活動の実績、公益活動計画
第四に、公益外活動
右判決は、この四つの項目を検討した上で、当該補助金が当該団体の公益活動にどの程度
役立つか、団体の政治活動資金に流れるおそれがないかを判断して、公益上の必要を認定
すべきであるとしている。
ただ、右判決が、政治活動資金に流れるおそれがないかどうかという点を利害得失の一つ
として比較対照しているのは相当でない。政治活動資金に流れるおそれのある場合には、
比較するまでもなく、補助金を支出してはならないと考えられるからである。
これを本件についてみるに、本件では、市が本件補助金を交付した趣旨、目的を特定する
ことは不可能であり、結局、市遺族会の全事業を補助の対象としたと理解せざるをえない
ところ、市遺族会の事業の中には、宗教活動であることが明白なものも含まれており、
、。これに対しては補助金支出が許されないのであるから公益上の必要を論じるまでもない
地方公共団体の補助金が政治活動資金に流れるおそれがある場合には、もはや比較総合の
余地なく補助金を支出してはならないのと同様、憲法は、宗教活動への公金支出を明確に
禁止しているのであるから、いささかでも宗教活動資金に流れるおそれのある場合には、
補助金を支出してはならないことは明らかであり、あまつさえ、本件のように、補助の対
象事業を特定もせず、宗教活動をも含む市遺族会の活動全体を補助するような補助金交付
は、公益上の必要を論じる余地がない。
3補助金の交付と法律留保論
被告は、帝国憲法下における行政法学界の通説であつたいわゆる侵害留保説に立ち、国・
、、、地方公共団体が補助金交付のような授益的行政を行うには法律の規定を要しないとし
、、行政は法律の授権規定がなくても本来的に自由な補助金交付権限をもつているとするが
これは、敗戦後の憲法の相違と行政法学の進歩を無視した議論であり、現在は、法律の留
保を厳格に解する立場が大半である。
また補助金は、国民等の租税等が原資であつて、公共信託財産であり、補助金の交付決定
は、その支給を請求する権利を与えることで、そのような行為については、民主的にコン
トロールする必要があり、またその交付の目的、要件、手続等を具体的に定めれば、補助
、、。金交付について国民に申請権が発生することになり行政が公正に行われるようになる
、、、、立法者も右と同一趣旨の下に地方自治制度を制定するに際し侵害留保説を採用せず
地方自治法二四四条の二では、公の施設の設置をも条例事項とし、同法二三二条の二も、
公益上の必要という客観的要件を課しており、少なくとも地方自治に関する限り、行政の
自由裁量をいう余地はない。
別紙二市遺族会の性格及び本件各行為の合憲性、適法性
第一市遺族会の性格
一はじめに
1憲法八九条にいう「宗教上の組織若しくは団体」とはなにか。
これを広い意味での宗教団体すなわち宗教法人法にいう宗教法人にとどまらず、信仰につ
いての意見の一般的な一致があり、そのような信仰を目的とする人的集合と定義する多数
説と「宗教上の組織」を「宗教の信仰、礼拝または普及を目的とする事業ないし運動、、」
「宗
教上の団体」を「宗教の信仰・礼拝または普及を目的とする人の結合体」と定義する少数
説とがあり、
原告らは、右少数説を主張している。しかし、右少数説は、憲法の成立過程や、憲法改正
議会での政府見解に照らしても、無謀な解釈であり、これを採りえない。
2原告らは、市遺族会を日本遺族会等と一体的組織と誤解して、組織全体としても、市
遺族会としても、宗教事業ないし運動を行つているから、本件各行為は違憲であるとする
が、市遺族会は、日本遺族会や、遺族連合会とはまつたく別個の組織であるし、それらと
一体となり、あるいは市遺族会独自で、宗教事業ないし運動を行つた事実はない。
また、原告らは、市遺族会を、信仰についての意見の一般的な一致がある人的集合として
の宗教上の組織若しくは団体に該当すると主張するが、市遺族会を構威する遺族は、種々
の宗教徒または非宗教徒から成り、市遺族会を信仰についての意見の一般的な一致がある
人的集合ということは不可能である。
3以下では、日本遺族会、市町村遺族会等が、世俗的性格を持つ団体であつて、信仰に
ついての意見の一般的な一致がみられないうえ、組織としても個々の団体としても宗教事
業ないし運動を行つた事実がないこと、したがつて、前記多数説、少数説いずれの見解か
らも、宗教上の組織若しくは団体と呼ぶことは不可能であることを論証する。
二各遺族会の組織と宗教上の組織、団体(結成目的、現在の目的、事業等)
1日本遺族会の沿革
()、、。、、一戦前戦没者遺族は物心両面から手厚い保護を受けていたところが敗戦後
公務扶助料停止、戦没者の葬儀及び慰霊祭には、公務員の出席もできない等精神的にも物
質的にも惨たんたる境遇に陥つた。
()、、「」二昭和二〇年一〇月戦争未亡人の中から七人の遺族に呼びかける団結の葉書
運動が起こり、その運動が、昭和二一年二月八日のNHK放送のKの戦争犠牲者遺家族同
盟の結成の呼びかけとも合流し、同年六月九日、戦争犠牲者遺族同盟が結成された。右同
盟の結成は、各都道府県においても戦没者遺族の全国組織を求める声を高め、こうして昭
和二二年一一月一七日、日本遺族厚生連盟(遺族連盟)が誕生した。
遺族連盟の目的は、会員の相互扶助と福利の増進であり、その実現目標は、戦災者・引揚
者との間に存する差別を打破し、これらの者と同等の援護を享受しようということにあつ
た。
(三)その後、遺族連盟は、総司令部や国会等に陳情や請願を続ける運動を積極的に展
開した。その内容は、
遺族、遺児の年金制度の設置、戦争未亡人への住宅、職業の世話、遺族への農地の返還、
配給に際して戦没者遺族を戦災者、引揚者と同等に扱うべきことなど、もつぱら戦没者遺
族の公的処遇の改善を求めるものであり、また、遺族連盟が実際に行つた事業は、生活相
談所の開設、物資の払い下げを受け、会員に配分すること、製紙、蓄産事業、機関紙の発
行、共同募金配分団体としての認定運動など、もつぱら会員の相互扶助と福利の増進を目
的とするものであつた。
遺族連盟のこれらの活動は、戦傷病者戦没者遺族等援護法による遺族年金、弔意金の支給
の実現、恩給法の一部を改正する法律による公務扶助料の復活、政府主催の全国戦没者追
悼式の実現、旧軍人会館(現九段会館)の無償貸付の実現、戦没者の葬儀及び慰霊祭に公
務員が出席し弔意を示すことの許容などの形で次々と結実していつた。
(四)日本遺族会は、九段会館の無償貸付を受けるにあたり、法人格の取得が必要とな
つたことなどから、遺族連盟を発展的に継承し、昭和二八年三月一一日、財団法人として
設立されたものであり、その目的は、基本的には、遺族連盟のそれと全く変わらず、現在
でも遺族の処遇改善に関する事業が中心的位置を占め、かつ、歳出の大半は、一般会計中
の遺族援護費、処遇改善特別会計、奨学金等特別会計、福祉事業特別会計などもつぱら遺
族の福祉増進を目的とする事業に費されている。
(五)以上のように、日本遺族会は、その沿革からすれば、戦没者遺族という特定の境
遇に属する者が、特定の宗教、宗派とは無関係に、もつぱら戦没者遺族の相互扶助と公的
処遇の実現を目指して自発的に組織し、かつ運営してきた世俗的団体である。
2各遺族会の組織
(一)戦没者遺族会の組織としては、日本遺族会を全国的組織とし、その支部として各
都道府県に遺族連合会、各市町村に遺族連合会の支部として市町村遺族会があり、財団法
人大阪府遺族連合会(府遺族会)は、都道府県遺族連合会に、箕面市戦没者遺族会(市遺
族会)は、市町村遺族会に各該当する。
(二)日本遺族会は、会長一名、副会長三名、理事約六〇名、監事五名、評議員約一〇
〇名を役員として置く財団法人であり、個々の戦没者遺族を会員と呼ぶこともあるが、そ
もそも財団法人は会員の観念を伴わないものであり、結局、市町村遺族会が、氏名を把握
し、
会費を受け入れている遺族を会員と俗称しているにすぎない。もつとも、これら会員と称
される者は、種々の雑多な宗教の信者、または非信者であり、信仰についての意見の一般
的一致はない。
(三)遺族連合会の多くも、会長、副会長、理事、監事、評議員を役員とし、評議員会
及び理事会を持つ財団法人であり、個々の戦没者遺族から会費は徴収していない。
()、、四市遺族会は箕面市に在住する戦没者遺族を会員とする権利能力なき団体であり
同会の会員約五〇〇名は、個人としては、それぞれ独自の信仰を有しており、信仰につい
ての意見の一般的な一致はない。同会は、会員から会費を徴収し、会員の中から、会長一
名、副会長四名、支部長四名等を選任し、意思決定機関として総会及び評議員会を、執行
機関として理事会を設置して運営している。同会は、箕面、萱野、豊川、止々呂美の各地
区毎に地区遺族会を設置しているが、これらは、市遺族会の内部組織にすぎず、財政上の
独自性はない。
(五)原告らは、日本遺族会、遺族連合会、市町村遺族会を全国一体の組織とするが、
、。、、、事実に反する遺族連合会の多くは独自の財源と機関で運営され日本遺族会の指揮
命令に服することはない。また市町村遺族会も、独自の財源と機関を持ち、独自の事業計
画で運営される独立した団体であり、日本遺族会または遺族連合会は、他の団体との関係
では、あくまで連絡調整の役割を果たしているにすぎない。
(六)以上のように、日本遺族会及び遺族連合会は、宗教法人ではなく、財団法人であ
り、信徒とか会員とかの人的要素はない。仮に、会員と俗に称されているものを人的要素
とみても、これらの者は、独自の信仰を持つものであり、信仰についての意見の一般的な
一致はない。
なお、市遺族会には会員はいるが、やはり信仰についての意見の一般的な一致はないので
あり、これらの団体は、組織面からいつても、世俗的な団体というほかない。
3各遺族会の事業
(一)日本遺族会は「英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開く、

ともに道義の昂揚、品性の涵養に努め、平和日本の建設に貢献することを目的」とし、右
目的を達成するための事業として、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、遺族の処遇向上
に関する事業、遺族の生活相談事業、遺児の育成、補導、機関紙の発行、九段会館の経営
などを行つている。そして、右事業中、
歳出の大半は、一般会計中の遺族援護費、処遇改善特別会計、奨学金等特別会計、福祉事
業特別会計などもつぱら遺族の福祉増進を目的とする事業に使われている。
(二)遺族連合会も、日本遺族会とほぼ同様の事業を行つている。例えば、財団法人大
阪府遺族連合会は「英霊の顕彰、戦没者遺族の慰藉激励とその厚生の方途を講じ、遺族、

祉の向上に資するとともに、社会の福祉増進に貢献することを目的」とし、生活困難者に
対する生活の相談に応ずる事業、英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業、遺児の育成・補導
に関する事業、遺族の処遇向上に関する事業、関係機関及び団体との連絡調整などの事業
を行つている。
三市遺族会もこれらとほぼ同様の事業を行つているすなわち市遺族会は会()、。、、「
員の慰問激励とその厚生の方法を講じ、遺族の福祉向上に資するをもつて目的」とし、遺
族の実態調査、生活・職業その他厚生福祉に関する研究指導、講習会、講演会、慰安会等
の開催、関係当局に対する意見具申、情報提供、上京旅行に関する事項などをその事業と
して行つている。またそのほかにも、遺族援護関係法についての会員への周知活動、戦没
者追悼式及び外地戦跡巡拝についての案内、参加申込のとりまとめ、会員相互の親睦活動
などを実際に行つている。
(四)以上、各遺族会の中心となる事業は、歳出実績からいつても、活動状況の実際か
らいつても、戦没者遺族の福祉増進及び相互扶助に関する事業であり、これら諸団体の性
格は、もつぱら世俗的なものである。
4各遺族会の英霊顕彰事業に関する原告らの誤解
原告らの主張は、各遺族会の行う事業のうち、英霊顕彰・慰霊事業という一部を不当に誇
張し、かつ英霊顕彰・慰霊事業を靖国神社への合祀奉斎と取り違える誤つた事実認識のう
えに立つものであり、到底是認できない。そこで、以下に、遺族会の事業における英霊顕
彰・慰霊事業の実態とその具体的内容を明らかにし、右原告らの見解が全くの独断である
ことを明らかにする。
(一)遺族会の事業における英霊顕彰・慰霊事業の実情
日本遺族会は、その寄付行為の三条一号に同会の事業として「英霊顕彰並びに慰霊に関す
る事業」を規定しているが、これを冒頭に挙げているのは、国の犠牲となつた戦没者の問
題を下に書くことは非礼という意識によるものであり、事業の実情の反映ではない。
事業実態の客観的な指標は、
歳出の金額であるところ、日本遺族会の昭和五八年度の一般会計歳出一億六〇三万七三三
一円のうち、遺族援護費は、一二三〇万六〇〇〇円、英霊顕彰費(慰霊に要する費用を含
も。以下同じ)は、三八七万一一五一円であり、英霊顕彰費は、一般会計全歳出中、三。

六パーセントにすぎない。また、特別会計歳出のうち、英霊顕彰費は、遺骨収集戦跡巡拝
関係費二〇二万一一七四円、英霊にこたえる会分担金一〇〇万円の一・九パーセントのみ
である。これに対し、特別会計中の処遇改善特別会計一七九〇万七五〇四円、奨学金等特
別会計一〇七八万三二九三円、青壮年部特別会計五一四五万五五一五円、福祉事業特別会
計五七五三万七九三五円、戦没者遺児記念館調査特別会計一九〇七万三〇〇〇円となつて
いる。
このように、日本遺族会は、遺族の福祉増進のための歳出にもつとも重いウエイトを置い
ていることが明らかである。これに対し、英霊顕彰費は、全歳出二億六二七九万四五七八
円のうち、六八九万二三二五円の二・六パーセントであり、極めて僅少である。このよう
に、遺族会のもつとも重要な事業は、遺族の福祉増進に関する事業であり、英霊顕彰、慰
霊事業は、全体のごく一部であつて、原告らの日本遺族会の最も重要な事業は英霊顕彰・
慰霊事業であるとの主張は、日本遺族会の事業実態に全く反するものである。
(二)遺族会の英霊顕彰、慰霊事業の具体的内容
日本遺族会の決算報告書によれば、一般会計中の英霊顕彰費三八七万一一五一円の内訳は
次のとおりである。
(1)祭祀費一六万円
(2)戦没者追悼式関係費一一九万六〇〇〇円
(3)外地戦跡巡拝費二五一万五一五一円
このほか特別会計(歳出)中の英霊顕彰費は次のとおりである。
(4)遺骨収集戦跡巡拝関係費二〇二万一一七四円
(5)英霊にこたえる会分担金一〇〇万円
以上、右決算報告書からも明らかなように、日本遺族会は、英霊顕彰、慰霊事業を、遺骨
収集、戦跡巡拝、戦没者追悼式への協賛などおよそ戦没者の追悼に関する一切の事業とい
う広い意味で用い、靖国神社への合祀奉斎という意味で用いているのではないことが明ら
かである。
また、個々の支出項目を検討しても、英霊顕彰費の大半は、靖国神社とは全く無縁の支出
である。なお(1)の祭祀費は、靖国神社の春秋の祭典の際の榊料、御霊祭の献燈料、
外地慰霊塔や千鳥が淵戦没者墓苑への献花料等であつて、日本遺族会の靖国神社への支出
、、。は年間七万円足らずであり戦没者にかかわる団体同士の社会儀礼的な支出にすぎない
また、英霊にこたえる会分担金も、靖国神社とは別団体に支出される金員であり、本来的
には、靖国神社に対する支出ではない。
5まとめ
以上、各遺族会は、その目的、事業内容からして、戦没者遺族の福祉増進及び相互扶助と
いうもつぱら世俗的な目的を有し、これを具体化する事業に従事しているとしかいえない
のであり、沿革、組織の面から検討しても、信仰について意見の一致した者によつて組織
されたものではなく、かつ、特定の宗教に関する宗教活動を行つたことも、行う予定もな
いのであるから、宗教上の組織若しくは団体にあたらないことは明白である。
三各遺族会の事業と宗教事業ないし運動
日本遺族会の行う英霊顕彰・慰霊事業の内容を仔細に検討しても、それは、宗教事業ない
し運動に該当するものではないし、また、原告らの重視する慰霊祭並びに靖国神社国家護
、、。持及び公式参拝の運動も宗教事業ないし運動にあたらないことは以下のとおりである
1英霊顕彰・慰霊事業と宗教事業ないし運動
(一)遺骨収集及び戦跡巡拝が、宗教事業にあたらないことは明らかである。なお、日
本政府も三次にわたり、外地における遺骨収集を実施し、また、昭和五一年以降、毎年外
地戦跡巡拝を実施し、参加遺族に対し、三分の一の国庫補助を行つている。
(二)政府主催の全国戦没者追悼式が、憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」にあたら
ないことは異論がなく、したがつて、日本遺族会が、これに協力参加するからといつて、
「宗
教事業ないし運動」を行つていることにはならない。
(三)日本遺族会の祭祀料の支出についても、その内訳は、靖国神社の春秋の祭典の際
の榊料、御霊祭の献燈料、外地慰霊塔や千鳥が淵戦没者墓苑への献花料などであり、およ
そ宗教色の有無にかかわらず、戦没者の追悼を目的とするものであれば、一般的に支出す
るという方針が窺われ、右各支出の目的は、特定の宗教団体を援助、助長しようというも
のではなく、むしろ戦没者一般に対し、宗教宗派の分け隔てなく弔意を示そうという普遍
的、道義的動機に基づくものであること、またその支出額も最高でも三万円という低額の
ものであること、さらに我が国では、社団、財団が、
地域社会と常識的な付き合いをしていくために、地元の神社等の祭りに祭し、榊料や献燈
料を支出する慣行があることなどからすれば、これらの支出は、日本遺族会が、戦没者に
かかわる問題を扱う団体として社会に存続していくうえで不可欠な社会儀礼的な出費とい
うべきである。なおわが国の民間企業でも、このような意味で、榊料等を支出することは
よく見られることであるが、そのような支出があることをとらえて、その会社の事業目的
が宗教的事業であるとはいわない。
2戦没者慰霊祭と宗教事業ないし運動
(一)原告らは、靖国神社での招魂祭は、人霊である戦没者を国家神である神霊に転化
する同神社特有の儀式であり、遺族会がいう慰霊祭は、招魂祭などの靖国神社固有の宗教
儀式を意味すると主張する。
したがつて、もし、遺族会が「靖国神社の宗教と教義に対する信仰を高め、礼拝活動を、

んにし、その社会的評価と地位の向上をはかる布教宣伝活動を担つている宗教団体であ
る」というのであれば、遺族会の個々の遺族は、靖国神社固有の教義と同神社での招魂。

が持つ独自の宗教的意義を当然理解し、これを布教宣伝する宗教徒でなければならないは
ずであり、また、遺族会が行う慰霊祭も、靖国神社固有の教義に裏打ちされ、かつ同神社
の祭式に則つた宗教儀式でなければならないはずである。
(二)ところが、個々の遺族は、靖国神社固有の教義に裏打ちされた、人霊、神霊の区
別を知らず、かつ、靖国神社の招魂祭の持つ独自の宗教的意義すら認識していない。遺族
が靖国神社を参拝するとしても、それは、血を分けた父親や、最愛の夫がそこにいるから
であり、いわゆる「神霊」なるものが鎮座しているからではない。また、日本遺族会が、
慰霊祭を靖国神社固有の儀式で行うと決議したことや、英霊とは靖国神社固有の儀式を経
て神霊となつたものをいうと定義づけたこともない。招魂祭なる特殊な儀式は、あくまで
靖国神社が独自の判断で行つている同神社固有の宗教儀式であつて、かかる儀式を日本遺
族会が主宰した事実はない。そればかりか、日本遺族会は、靖国神社から合祀の是非につ
き相談を受けたことも、合祀の結果につき報告を受けたこともない。要するに、個々の遺
族は、靖国神社の教義すら理解しておらず、また、遺族会の行う慰霊祭も靖国神社の祭式
に則つた宗教儀式ではない。したがつて遺族会が、慰霊祭を行うからといつて、
靖国神社の教義を布教し、あるいは招魂祭その他同神社固有の宗教儀式を行つたことには
ならない。
(三)なお、霊に関する事業を行う以上、遺族会は、宗教事業ないし運動を行つている
という反論もあるかもしれないが、後記四のとおり、戦没者慰霊祭の本質は、戦没者に対
して敬意を表するという世俗的な行為であり、宗教事業ないし運動にはあたらない。
3靖国神社国家護持・公式参拝実現運動と宗教事業ないし運動
原告らは、日本遺族会が、靖国神社国家護持・公式参拝実現運動をしたことをもつて、遺
族会は、靖国神社の教義の布教宣伝活動をするものと主張する。
しかしながら、日本遺族会の右運動の趣旨は、国のため社会のため非業の死を遂げた戦没
者の施設は、国で維持管理し、国として相当の敬意を払うべきであるとの道義的希求にあ
るのであり、同会は、靖国神社の神社という点にはこだわらず、憲法に違反してまで同神
社の国営化を求めるわけではない。右運動は「父ちやんが死んだら靖国に来い「死ん、。」

らお互いに靖国で会おう」といつて出征し、不幸にも戦没者となつたという事実がある。

だから、その場所を大切にするのが送り出したものの責任の取り方だという素朴な感情に
根差している。
このような発想は、イデオロギーや宗教の違いを越え、国民の中に等しく享有されている
のである。
原告らは、その趣旨であれば、千鳥が淵戦没者墓苑で足りるとするが、右墓苑は、引き取
り手のない遺骨を収める場所で対象が限られている。また、前記のような出征当時の経緯
を考えれば戦没者遺族が靖国という場を求めたいという気持を持つことも誠に無理からぬ
ことといわなければならない。その気持を実現させようという運動は、靖国神社の教義、

布教活動とは次元の異なる一種の社会的、政治的運動であり、宗教事業ないし運動という
ことはできないといわなければならない。
なお、周知のように、各種政治団体、経済団体その他もろもろの団体が右運動の推進、賛
同者となつているのであつて、原告らの主張では、これらすべてが宗教事業ないし運動を
、、。営んでいることになるがこうした見方はわが国の社会通念に著しく反するものである
4以上のように遺族会は、原告らのいうような宗教事業ないし運動を行つているもので
はなく、宗教上の組織、団体にはあたらない。
四戦没者慰霊祭の本質
原告らは、
戦没者遺族が各地の忠魂碑等の戦没者慰霊碑の前で戦没者慰霊祭を行い、また、日本遺族
会等の遺族会が「英霊の顕彰」を事業目的として掲げていろことをもつて、遺族会が宗教
団体であり、戦争を賛美する反公益団体であるとするが、戦没者遺族が、肉親たる戦没者
、、、を記念顕彰し記念追悼の行事を行うのは戦没者遺族としてのごく自然の行為であつて
これをもつて遺族会を宗教団体、戦争賛美の反公益団体というのは、いわれのない曲解で
ある。以下に述べるとおり、戦没者慰霊祭は、戦没者に対して敬意を表する儀礼的行為で
あり、本質的に世俗的行為である。
1原告らは、戦没者慰霊祭をもつて戦争を賛美する宗教行為とする。
しかしながら、国家に貢献した死者に対する慰霊、追悼、顕彰の行事は、唯物史観の国家
のソ連や中国、政教分離を重んずるアメリカなどを含む世界中の国々で行われているので
あり、そこでは、宗教家が司式するか否かにかかわらず、荘厳な雰囲気を現出し、公の性
格を象徴的に示す地位ないし役割の人物と一般社会の普通人が参加し、共同体の永続性が
確認されるのであり、我が国政府が、講和条約成立直後の昭和二七年五月二日、天皇の臨
席のもとに、全国戦没者追悼式を行つたのも、このような背景があるからである。
原告らは、戦没者慰霊祭においては、戦没者を称える挨拶が述べられるなどの点から、戦
没者慰霊祭は、旧憲法下における天皇制軍国主義を賛美するものと主張するが、戦争とい
う難局に身命を賭して立ち向かい、不幸にも命を落とした戦没者に対し、敬意を表し、そ
の苦労を偲び、称えることは残された者として極く自然の心情に基づくものである。
2戦没者慰霊行事は、宗教団体に限らず、政府、地方公共団体を含も世俗的団体によつ
ても広く行われていることは周知のところである。そして、世俗機関が主催しても、宗教
団体が主催しても同じような儀式として、厳粛に遂行されるのである。
忠魂碑等戦没者のための碑・塔についても、その前で各種の団体により、広く戦没者慰霊
祭が行われている。箕面市の調査により確認された戦没者のための碑・塔の合計は、一万
三四四基であるが、そのうち、六〇五二基について慰霊祭が行われていることが判明して
いる(行つていないことが判明したものは、一一四二基、不明が三一五〇基である。。)

して、碑前慰霊祭の形式は、一つの宗教で行われることもあり、
複数あるいは無宗教で行われることもあり、また、宗教式の場合も、仏式、神式、キリス
ト教式等種々であり、その主催者も遺族会のほかに自治体、自治会の場合も相当数ある。
3以上の諸点からみれば、忠魂碑等の戦没者碑の前で行われる慰霊祭は、戦争による死
者に対し、生前は御苦労様というために、市町村、遺族会、自治会など死者の身近な共同
体の人々が、形式を整えて挨拶する儀式にほかならず、儀式を通じて戦没者の生前を想起
し、記憶を新たにする記念の式典というべきである。
つまり、慰霊祭は、共同体の一体感を再確認する倫理感の劇場的表現であつて、個人の信
仰の表現たる宗教とは本質的に異なるものである。
わが国で、政府等が戦没者慰霊祭を行う場合は、いわゆる無宗教式によつているが、世俗
の機関による無宗教式によつても慰霊祭が行われうるのは、その一義的な目的が、戦没者
の記念にあり、世俗性が強いものだからである。
4要するに、慰霊行事の本質は、習俗化した社会倫理の儀礼的表出であり、宗教行為で
はない。
それゆえ、そこに神官や僧侶が参加し、宗教的に儀式を執行しても、それは、演出効果を
。、、高める副次的な要素にとどまるまたそれだからこそ本件忠魂碑の前で行われたように
神式と仏式の隔年交替の慰霊祭が可能なのである。
五忠魂碑の性格
原告らは、忠魂碑を戦争賛美の宗教施設であるとし、この点を一つの基礎として、遺族会
が宗教団体であり、半公益団体であると論じている。そこで、以下、忠魂碑の性格を解明
し、原告らの主張が、失当であることを明らかにする。
1忠魂碑の歴史と現状
(一)忠魂碑の歴史
(1)発生期
忠魂碑、招魂碑等の文字を刻した碑は、幕末期から明治初年にかけ、国事殉難者に対する
慰霊顕彰運動を背景に各地で建立され始めた。当時の碑は、墓碑の性格を持つ招魂墓碑の
系統のものと、死者に対する頌徳、弔慰の意を表する記念碑の系統のものとが混在してい
た。しかし、明治二年に東京招魂社ができ、明治七年以降、各地の招魂社、官修墳墓の制
度が整備拡充されたことによつて、招魂墓碑は建てる特段の必要がなくなり、その後に建
てられた碑は、記念碑の系統のものになつたとされている。
(2)第一次建碑ブーム
、、、、忠魂碑は西南の役日清戦争による戦没者のためにもかなり建てられたが日露戦争後
碑の建立は、一つの頂点に達し、
忠魂碑という銘題もこのころ定着するに至つた。建碑は、明治三〇年代には、尚武会、軍
人協会などの私設軍人団体が中心となつて行つていたが、明治四三年の帝国在郷軍人会設
立後は、その分会が建てることが多くなつた。
これらの碑は、戦死した同郷出身者を顕彰し、記念する目的で村落共同体単位に自然発生
的に建設されていつたもので、特定の神社、寺院その他の宗教団体が唱道して建設された
ものではなかつた。また碑の形態も、種々雑多であり、鳥居・仏像・十字架のように、一
般人がそれをみて、特定の宗教宗派を想起するとはいいえないものである。
忠魂碑等の碑は、法制上「碑表、ときには「記念碑」と呼ばれ、内務省社寺局あるい、」

神社局は、これを祭祀の対象とすることに否定的であつた。もつとも現実には、戦没者遺
族などが、在郷軍人会の分会などの支援を受けて、神式、仏式等の碑前招魂祭を行う例も
みられた。
(3)第二次建碑ブーム
その後、昭和六年の満州事変、昭和一二年の日華事変に伴い、忠魂碑等の碑の第二次建設
ブームが到来した。以後、次第に戦時色が濃くなつていくなかで、行政機関、教育機関に
よつて、小中学校の児童生徒に対する忠魂碑への参拝、礼拝が励行された。その方法は、
上体を約三〇度前屈させる立札であつた。
他方、軍は、昭和一四年七月七日、内閣総理大臣を名誉会長とし、陸軍大臣P11を会長
とし、各省大臣、陸軍大将、海軍大将が役員として名を連ねた財団法人大日本忠霊顕彰会
を発足させ、戦地において、軍によつて建てられ、遺骨等を納める墳墓としての性格を持
つ忠霊塔と同様な塔を国内一市町村に一基の割合で建設する運動を始めた。このため、昭
和一五年から敗戦時までは、忠霊塔の建設が一つのブームを形成し、忠魂碑の建設は下火
になつた。
(4)戦後の忠魂碑並びに第三次建碑ブーム
戦後、占領軍は、軍国主義の徹底的解体と政教分離を目指した神道指令を発した。神道指
令のもとでは、忠魂碑等の碑のうち、明白に軍国主義的または極端な国家主義的思想の宣
伝鼓吹を目的とするものはすべての公有地からの撤去が求められたが、単に忠魂碑との碑
題を持つものについては、そのような目的のものとはみられず、学校構内等教育の場にあ
るもののみが撤去の対象とされた(公葬等について」第四項ロ。しかし、現実には、「)

時の遺族らが、駐留軍の目を極度に恐れたことから、
表題碑文の碑が自発的に移転または埋土された例もあつた。
昭和二七年の占領解除後、忠魂碑等は、埋土されていた既設の碑が再建されるとともに、
新しい碑の建設も続々と行われ、その数は昭和二七年四月二八日から昭和五九年までの間
に新設分で四四四五基に及んでいる。これらの碑表の再建、新設の主体は、遺族会、自治
会、戦友会などであつた。その名称は「慰霊碑「慰霊塔「英霊碑」などが多いが、、」、」、
「忠
霊塔「忠魂碑」と称するものも相当数存在している。」、
また、国内での建碑のほか、国、地方公共団体、遺族会などは、沖縄とか、南洋諸島など
の海外主要戦域に新たに戦没者慰霊碑を建設するようになつた。
(5)以上のように、忠魂碑等の戦没者のための碑の建設は、明治初期に始まり、第二
次世界大戦における敗戦を経た今日に至るまで連綿として続き、そこで各種各様の慰霊行
。、、、事が営まれているのであるこの事実は忠魂碑等の戦没者碑の建設がその時々の政治
社会情勢の産物でも、宗教の産物でもなく、すなわち、忠魂碑が記念碑であること、最も
基本的な人間としての自然の心情、すなわち、肉親愛、隣人愛等によつて行われたことを
示すものといわなければならない。そして、このことは、忠告碑の研究家によつても確認
されているところである。
(二)忠魂碑の現況
忠魂碑等の戦没者碑がわが国の広範な地域にわたつて多数存在することはよく知られてい
るが、その正確な数、現状については、必ずしも明確とはいいがたい。しかし、忠魂碑に
ついては、近時その研究が進み、その研究の成果と箕面市が最近各地の地方自治体の協力
を得て調査した結果によれば、忠魂碑等の戦没者碑のおおよその実態、現況は次の通りで
ある。
(1)忠魂碑等の基数
全国の忠魂碑等戦争に起因する碑、塔の基数は、市の調査によつて判明しているだけで、
一万三三四基に及んでおり、このうち、忠魂碑の碑銘のものは四〇八八基である。
(2)敷地の所有区分
右一万三三四基について、その敷地の所有区分をみると、つぎのとおりである。
国有地二六六基(二・六パーセント)
都道府県有地四七基(〇・五パーセント)
市町村有地三二七一基(三一・六パーセント)
部落有地五六九基(五・五パーセント)
民有地四七四基(四・六パーセント)
寺社有地三一八一基(三〇・七パーセント)
区分不明二五三六基(二四・五パーセント)
これを忠魂碑の碑銘のものに限つてみるとつぎのとおりである。
国有地二八基(〇・七パーセント)
都道府県有地七基(〇・二パーセント)
市町村有地一三八五基(三三・九パーセント)
部落有地二六一基(六・四パーセント)
民有地一九〇基(四・六パーセント)
寺社有地一二三六基(三〇・二パーセント)
区分不明九八一基(二四・〇パーセント)
このように、敷地の所有区分が判明しているものについていえば、碑全体についても、そ
のうちの忠魂碑だけについても、半数近くが、公有地にあり、これに部落有地を加えると
全体の半数以上が、公共的な土地に建てられている。これは、忠魂碑等戦没者のための碑
が私的な個人のものというより、当該地域共同体の公共的な性格のものとして扱われてい
ることを窺わせるものである。
(3)碑の管理
現在、忠魂碑を管理しているのは主として遺族会である。遺族会は、戦没者遺族の公的処
遇と相互扶助を求めて設立された団体であり、その会員は、各種の宗教の信者や非信者で
構成されている。
(4)形態
忠魂碑の形態は、主として文字を刻した石造物である。その形状は、自然石のもの、角柱
式、円柱式、尖塔式、楼閣式、横長方形、円形、合掌した手・山・砲弾を模したもの、石
像・銅像を乗せたものなど多種多様である。このことは、忠魂碑等の戦没者碑が、特定の
規矩に従つて建てられたものではなく、建てる者の創意によつたものであることを窺わせ
るとともに、その形態からは、特定の宗教宗派との関連があるとは受け取られないことを
示している。
(5)碑銘、碑文
碑銘は多種多様である。多いものから列挙してみると、忠魂碑四〇八八基(三九・五パー
セント、慰霊碑九二七基(九・〇パーセント、忠霊塔六八五基(六・六パーセント、)))

霊塔五九一基(五・七パーセント、記念碑五二五基(五・一パーセント、殉国碑二六))

基(二・五パーセント、)
招魂碑二四〇基(二・三パーセント、英霊碑一八八基(一・八パーセント)等となつて)

る。碑題の揮毫者は、戦前は陸海軍の将官、戦後は首相、大臣、知事などの政治家がはと
んどである。
また、碑文としては、碑銘のみのものが圧倒的多数であるが、戦没者の氏名を刻んだもの
や被害の状況や戦没者を顕彰する文言を記載するものもある。
(6)建碑の目的
建碑の目的は、戦没者の追悼、記念、慰霊及び顕彰である。
(7)碑前慰霊祭
(1)碑前慰霊祭が行われる忠魂碑等の数
忠魂碑等戦没者を記念する碑等の前でどの程度慰霊祭が行われているかをみると、次のと
おりである。
慰霊祭を行つているもの六〇五二基(五八・五パーセント)
慰霊祭を行つていないもの一一四二基(一一・〇パーセント)
不明三一五〇基(三〇・五パーセント)
なお、忠魂碑の碑銘のものだけについてみると、四〇八八基のうち、二四八五基(六〇・
八パーセント)の前で慰霊祭が行われている。
(2)慰霊祭の形式
慰霊祭を行つているもののうち、その形式が判明した五四四九基のうち、形式の主なもの
をみると、つぎのとおりである。
仏式の慰霊祭を行うもの二五八九基
神式の慰霊祭を行うもの一九八五基
無宗教の慰霊祭を行うもの五八二基
神仏合同の慰霊祭を行うもの二七八基
これを忠魂碑でみると、形式の判明している二二六七基は次のとおりである。
仏式の慰霊祭を行うもの一〇九七基
神式の慰霊祭を行うもの八六〇基
無宗教の慰霊祭を行うもの一八二基
神仏合同の慰霊祭を行うもの一二六基
これらの中には、神仏隔年交替の形式をとるものも二五九基含まれている。慰霊祭の形式
は、碑の全体でみても、忠魂碑のみでみても、仏式が一番多いことがわかる。またこの数
字によれば、碑の前で行われる慰霊祭は、特定の宗教、宗派によつて営まれなければなら
ないという意識はないという実情が浮き彫りになつてくる。
(3)慰霊祭の主催者
慰霊祭を行つている六〇五二基について、その主な主催者をみると、次のとおりである。
遺族会主催一五七〇基
市町村主催六六〇基
自治会主催五七二基
奉賛会主催三六五基
社会福祉協議会主催三四三基
これを忠魂碑でみると次のとおりである。
遺族会主催七〇一基
市町村主催二六四基
自治会主催二四〇基
奉賛会主催一六四基
社会福祉協議会主催一五八基
慰霊祭の主催者の観点からみても、これが特定の宗教団体あるいは特定の宗教と結び付い
ているものではないことがわかる。
(三)本件忠魂碑の歴史と現況
(1)本件忠魂碑の歴史
(1)本件忠魂碑は、大正五年四月ころ、帝国在郷軍人会篠山支部箕面村分会(分会)
によつて建設された。箕面村は、これに先立ち、分会に豊能郡<地名略>の畑一反三畝一
〇歩のうち、一七八・五一平方メートル(旧敷地)を無償で貸与した。
(2)本件忠魂碑の前では、昭和一〇年代まで、毎年慰霊祭が挙行されていたが、その
後、敗戦まで、殆ど挙行されることがなかつた。
(3)本件忠魂碑は、昭和二二年三月ころ、分会の旧会員により、碑石部分だけが取り
外され、地中に埋め隠され、基台部分は、そのままの状態にされた。しかし、昭和二六年
五、六月ころ、箕面遺族会(後の箕面町戦没者遺族会、さらに箕面市戦没者遺族会=市遺
族会)会員の手により、碑石部分が引き上げられ、復旧された。
()、、()、4本件忠魂碑は昭和二七年九月以降箕面町戦没者遺族後の市遺族会により
清掃、維持、管理されている。また、市遺族会の下部組織である箕面地区遺族会は、昭和
三〇年ころから、毎年一回、その前で慰霊祭を実施してきている。
(5)本件忠魂碑は、昭和五〇年一二月二〇日、本件土地のうち南隅部分一七八・五一
平方メートルに移転された。清掃等の実施については、以前と同様である。なお、慰霊祭
については、昭和五八年四月から、碑前でなく、箕面農業協同組合二階会議室で実施され
ている。
(2)本件忠魂碑の現況
(1)建碑、管理の主体
かつては分会であり、今は遺族会である。分会は、箕面村の予備役、退役将校等を会員と
し、軍人精神を鍛錬し、軍事能力を増進することにより、社会の公益を図ることを目的と
する団体であつた。
(2)形態等
直方体の基台部分に四角の板状の碑石(高さ約二・五メートル)を乗せた石造物で、地上
から碑石最高部までの高さ六・三メートルである。周囲は砂利敷となつており、ヒマラヤ
シーダー、もくせい、桜などの灌木が植えられており、その周囲を玉垣が囲つている。
(3)碑銘、碑文
本件忠魂碑には「忠魂碑」という碑銘があるだけで、それ以外の文言の記載はない。、
(4)建碑の目的
本件忠魂碑は、地元出身者の追悼、記念、慰霊、顕彰のため建設されたものである。
(5)慰霊祭
本件忠魂碑の碑前では、昭和三〇年ころから、毎年一回、慰霊祭が実施されてきた。慰霊
祭は、当初、各派合同の仏式の形態で行われていたが、後に、神式、仏式の隔年交替の方
式が定着するようになつた。仏式の慰霊祭は、箕面地区内の宗派を異にする僧侶が都合の
許す限り参加している。
()、、。3以上本件忠魂碑はわが国によくみられる一般的な戦没者碑の一つにすぎない
2忠魂碑の性格
(一)忠魂碑の歴史と現況の分析からの帰結
(1)忠魂碑等の戦没者のための碑の建設は、明治初期に始まり、敗戦を経た今日に至
るまで連綿として続き、そこで各種各様の慰霊行事が営まれ、このことは、忠魂碑等の戦
没者碑の建設が、その時々の政治、社会情勢の産物とか、宗教の産物ではなく、もつと基
本的な人間としての自然の心情、すなわち、肉親愛、隣人愛等によつて建てられ、維持さ
れている記念碑であることを示す。
少なくとも、忠魂碑については、その建設者、維持者らの宗教的意見の一致による結果と
認める余地はない。
(2)神道指令からの帰結
忠魂碑が宗教施設でないことは「神道指令」及びこれを受けた「公葬等について」の通、

における忠魂碑の取扱いに照らしても明らかである。
これらは、軍国主義の解体と政教分離の確立を企図したものであり、仮に忠魂碑が宗教施
設、特に国家神道の宗教施設であると考えられたなら、およそ忠魂碑は、公有地上に存置
することが許されることはあり得ない。しかるに、忠魂碑は、学校構内及びそれに準ずる
場所にあるものについては、一切撤去が命じられたが、公有地内にある忠魂碑でも明白に
軍国主義を鼓吹するもの(本件忠魂碑のように、単に忠魂碑と表わされているものはこれ
にあたらないとされた)以外は撤去を命じられなかつた。これは、。
占領軍あるいはその政策意思を表現した神道指令及びこれを受けた「公葬等について」で
も忠魂碑は宗教施設とみられていなかつたことを示す。
(二)宗教学の見地からの帰結
(1)宗教性の有無の判断方法
ある物ないしある事象が宗教性をもつかどうかを法律判断の前提として客観的に判断する
について、宗教の定義を出発点とするのは、定義をする者あるいは選択するものの主観的
要因が強く出過ぎ、不適当であり、その判断をできるかぎり客観的に行うには、一般に宗
教といわれているものが共通的に帝有している諸要素を分析し、それに基づいて、当該物
。、ないし事象が宗教性をもつかどうかを検討することが適切であるとくにわが国のように
宗教現象類似の習俗的伝統が日常生活を取り巻き、これらが互いに融合し、あるいは反撥
しつつ共存しているところで、宗教現象と宗教類似現象を区別するには、こうした方法を
用いることが必要であるといわなければならない。
(2)宗教の共通要素
宗教には、その共通要素として、つぎの四つの要素があるといわれている。
(1)仏教、キリスト教とかの説く教え、すなわち教義
(2)当人がその教えを自分自身の生き方の原理、実践の原理とする、そして宗教的実
践のとくに定形化されたものとしての儀礼
(3)その教義とか儀礼といつた事象を文化現象として、世代から世代へと伝えていく
宗教的な社会集団、すなわち、教団
(4)教義、儀礼、教団などの集団現象の背後にある人間ひとりひとりの宗教体験
(3)宗教の共通要素と忠魂碑
(1)共通要素としての教義について
忠魂碑を宗教施設とする原告らの主張は、国家神道を念頭に置くものであるが、国家神道
の教義には、三つの異なつた系統に属する要素がある。その一つは、国が宣揚した国家主
義のシンボルの要素であり、政治的イデオロギーの部分である。二つめは、事蹟ないし事
業を記念する要素であり、この要素は、本来社会倫理的なものである。三つめは、死者と
この世に生きている者との相関関係である。
これらの要素は、靖国神社、忠魂碑、忠霊塔のいずれにもみられるが、靖国神社は、政治
的な目標を中心に置き、忠魂碑は、二つめの社会倫理的な要素が中心であり、忠霊塔は、
三つめの要素に重点がある。二つめの社会倫理的要素は、堤防建設の人柱となつたり、
村落全体のために命を捨てた犠牲者を記念する石碑等が建てられた伝統に根差しており、
これが自発的に戦没者のために建てられた忠魂碑の中にも生きている。戦前、戦中の一時
、、、、期忠魂碑にも一つめ三つめの要素が付随してきたことは認められるが明治元年から
今日に至るまで年々建立されてきた忠魂碑の本質は、二つめの事蹟記念ないし倫理的要素
にある。
(2)儀礼について
忠魂碑との関連で、儀礼に相当するものは、慰霊祭と児童等による拝礼である。しかし児
童等による拝礼は、世俗的な行政機関ないし教育機関の主導によつて行われたもので、こ
れを宗教儀礼とすることには無理がある。また拝礼は、当時の社会規範の確認であり政治
的な意図によるものであつた。なお、児童等による拝礼は、特定の宗教儀式の方式による
ものではなく、上体を約三〇度前傾させるいわゆる奉拝であつた。
また慰霊祭は、戦死者に対するものも、災害死亡者に対するものも、参加者の意識は哀悼
及び記念を内容とするものであり、宗教儀礼というよりは謝意と敬意を表明する社会儀礼
と考えるべきものである。
(3)宗教集団について
強いて宗教集団を見いだそうとすると、それは戦前の国家体制全体ということになるが、
忠魂碑については、国民の自発的なものであり、政府の側で抑制しようとした事実がある
から、国家制度全体を宗教集団とみることはできない。また忠魂碑を支える集団に合致宗
教集団的要素がある程度認められるとしても、それは、近代的な宗教集団として特定でき
るようなものではない。
また、在郷軍人会は、軍部の統制下に置かれた戦時動員を容易にするための官製組織であ
り、宗教集団の指導グループとの位置付けはできず、その活動もせいぜい政治的イデオロ
ギーの広宣活動に過ぎない。
(4)宗教体験について
宗教体験とは「人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にか、

わりを持つと人々によつて信じられている営み」と解されているが、忠魂碑によつてどの
ような宗教体験が得られるのか不明である。原告らは、聖域的雰囲気、荘厳さ等をあげて
いるが、それらは、無宗教方式による慰霊祭はもちろん一般に世俗的な行事とされている
、。、、ものにも感じられるものであり宗教体験とは関係がない忠魂碑によつて死を賭して
戦いに赴く決心がつくと信じている者はいない。以上のように、忠魂碑を巡る詣事情から
は、
宗教に共通する要素を認めることはできないのであり、忠魂碑を宗教施設たらしめる宗教
体系は存在せず、宗教学の立場から、忠魂碑を宗教施設ということはできない。
(4)宗教施設と宗教体系
忠魂碑を宗教施設であるとする立場からは、それがどのような宗教体系におけろ宗教施設
であるかを明確にする必要があるが、原告らはこの点を明らかにしえていない。特定のも
のを宗教的意義を持つた礼拝の対象とするのは、当然のことながら、それを聖なるものと
する特定の宗教体系が存在しなければならないのであり、特定の礼拝対象を定立する宗教
体系を限定することなく一般的にあるものが宗教的であるということはできない。
第二本件各行為の合憲性、適法性
遺族援護の必要性、公益性-遺族援護施策及び慰霊施策の必要性とそれが国の責務である
こと
1戦後の国の遺族援護行政の概観
(一)物的な面での遺族援護行政
()、、1物的な面での遺族援護行政は昭和二七年遺族援護法が成立したことに始まるが
国がこのような遺族援護施策をとつた理由は、過去における戦争において、国に殉じた者
を、国が手厚く処遇するのは、元来、国としての当然の責務であるとの認識に基づくもの
であり、同法は、その後、昭和五三年ころまで、三〇数次にわたり、改正が加えられ、年
金等の増額、その支給対象の拡大等援護措置の拡大強化が図られている。
()、、。2国は遺族援護法による援護施策に加えてさらに各種の物的援護施策を講じた
それが、各種の特別給付金の制度である。
(1)戦没者等の妻に対する特別給付金支給法(昭和三八年)
(2)戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法(昭和四〇年)
(3)戦没者の父母等に対する特別給付金支給法(昭和四二年)
これらの特別給付金支給制度は、戦争のために、夫あるいは子・孫等を国に捧げ、終戦以
来、言い知れぬ孤独感等と戦い、戦後の荒波の中で心身を消耗し尽してきた者に相当の慰
藉の措置を講じ、手厚い処遇を加えることが国の責任であるとの認識に立つて採られたも
のであり、遺族援護法と同じ立法精神によるものである。
(3)また、国は、昭和二八年、九段会館(旧軍人会館)について「財団法人日本遺、

会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」を制定して、同会館を無償貸付し、遺族の
利用に供するとともに、その事業収益によつて遺族の福祉増進に役立てている。
(二)精神的な面での遺族援護行政
精神的な面での遺族援護行政は、戦没者遺骨の収集、戦没者に対する慰霊、戦没者慰霊碑
の建設等の方法で行われている。
(1)戦没者遺骨の収集
第二次世界大戦における内外の戦没者は、軍人軍属・準軍属約二三〇万人、外地で非命に
倒れた一般邦人約三〇万人、戦災死没者約五〇万人合わせて約三一〇万人にのぼり、これ
、、。らの戦没者のうち日本本土以外の各戦域における戦没者の数は約二四〇万人であつた
これらの海外戦没者の遺骨の多くは、海外の旧諸戦域に残されたままとなつており、この
、、ことは遺族はもとより国民感情としても放置しておくことができない問題であつたため
昭和二七年六月一六日、衆議院は「海外諸地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び送還、

に関する決議」を採択し、これを受けて、同年一〇月「米国管理地域における戦没者の、

、」、、、骨の送還慰霊に関する件が閣議了解されこれに基づき海外戦没者の遺骨を収集し
現地において慰霊を行い、さらに小規模の慰霊碑を建立することが定められ、遺骨収集事
業が開始されることとなつた。右遺骨収集事業は、昭和二八年一月から、第一次計画が、
昭和四二年から昭和四七年にかけて第二次計画が、昭和四八年から昭和五〇年にかけて第
三次計画が、それぞれ立案、実行され、第三次計画の終わりによつて計画的な遺骨収集は
終了することになつたが、遺骨の所在が明らかになつた地区については、さらに補完的遺
骨収集を実施するものとされている。
(2)戦跡慰霊巡拝
第三次計画の終了による計画的遺骨収集の終了に伴い、遺骨収集の概ね終了した地域及び
遺骨収集が望めない海上における戦没者を対象として、昭和五一年度から、毎年、遺族を
対象として政府主催の戦跡慰霊巡拝が実施されており、参加遺族に対しては、三分の一の
国庫補助が行われている。
(3)戦没者慰霊碑の建設
前記昭和二七年一〇月の閣議了解においては、遺骨収集に際して慰霊をするとともに、小
型の慰霊碑を建立することとされ、昭和二九年七月六日の閣議了解に基づく「海外戦没者
遺骨の収集に関する実施要綱」も遺骨収集に際して、追悼の式を行うとともに、建碑を行
うものとされた。この結果、第一次遺骨収集計画の実施の際、南方八島において、八基の
慰霊碑が建立されたが、その後、昭和四六年三月、硫黄島における遺骨収集事業の完了に
際し、
「硫黄島戦没者の碑」が建立され、これを契機に、遺族の心情及び国民感情を十分に考慮
して、昭和四七年度以降計画的に海外の主要戦域に戦没者の慰霊碑を建立することが策定
された。これに基づき、フイリピン、サイパン島に慰霊碑が建立されている。なお、これ
らの碑の概要は以下のとおりである。
(1)硫黄島の慰霊碑
敷地は、七五〇平方メートルであり、石碑は、御遺骨を納める遺骨箱型で、これは勇敢に
戦い、祖国の礎となられた勇士の霊を象徴するものとされる。石材は、白い花こう岩で、
それを黒石の上に安置し、さらに重量感のあるどつしりとした台座に据えてある。碑の上
部には、鉄筋コンクリート製の長方形の上屋(日本遺族会が各都道府県の協力で建設し国
に寄付)があり、碑の周辺には自然石の割り石を敷き詰めている。碑の竣工並びに追悼式
は、昭和四六年三月二八日、Lの臨席のもとに遺族代表、国会代表、政府関係者、都道府
県知事代表等が参列して行われた。
(2)フイリピンの慰霊碑
敷地は、三六〇〇平方メートルであり、石碑は、硫黄島の場合と同じく、勇敢に戦い、祖
国の礎となられた勇士の霊を象徴する遺骨箱型であつて、石材は、白みかげ石、台石は、
黒みかげ石である。それを重量感のあるどつしりとした万成みかげ石の台座の上に安置し
ている。石碑後方には、鉄筋コンクリート製の後壁が作られ、タイル仕上げが施されてい
る。碑の竣工及び追悼式は、日比両国政府主催で、昭和四八年三月二八日挙行された。参
列者は、日本側遺族代表、厚生政務次官、在フイリピン大使、衆参社会労働委員長、厚生
省・外務省関係者等、フイリピン側P12大統領夫妻等であつた。
(3)サイパン島の慰霊碑
敷地は、四九〇〇平方メートルであり、石碑は、勇敢に戦い、祖国の礎となられた勇士の
霊を象徴する遺骨箱型である。石材は、万成みかげ石で、それを重量感のある浮金みかげ
石上に安置し、さらに万成みかげ石の台座の上に据えている。石碑の後方には、昇風型の
後壁があり、表面は、稲田みかげ石張り、裏面はタイル仕上げである。竣工式及び追悼式
、。、、、は昭和四九年三月二五日挙行された日本側からの参列者は遺族代表厚生大臣代理
衆参社会労働委員長、厚生省援護局長らである。なお、右の碑前においては、昭和五〇年
厚生省による「中部太平洋戦没者追悼式」が挙行され、遺族代表らが参列した。
なお、
海外主要戦域における政府建立の同様規模の慰霊碑としては、右の他にラバウル、ウエー
キ島にもあり、いずれも本件忠魂碑よりはるかに大規模である。また簡単な碑に至つては
激戦地に数多く建立されている。これらの敷地はそれぞれすべて無償で提供されている。
、、、その前では政府主催の追悼式が行われまた現地に赴いた遺族会・戦友会等民間団体は
その前で宗教儀式を伴う追悼式を行う。その意味で、これらの碑も、慰霊祭つきである。
(4)全国戦没者追悼式
(1)わが国政府は、第二次大戦の約三一〇万人にのぼる尊い戦争犠牲者に対し、国を
挙げて追悼の誠を捧げ、永世の平和を祈念するため、昭和二七年の独立回復とともに、あ
らゆる国の行事に優先して、全国戦没者追悼式を挙行した。この式は、天皇、皇后両陛下
臨席のもとに、行われ、その会場中央には、戦没者の霊を象徴する白木の追悼の標柱を立
て、黙祷、奏楽、追悼の辞、献花を行う形式がとられた。
(2)昭和三八年からは、政府主催の全国戦没者追悼式が毎年行われることになつた。
これは、わが国が戦後平和の礎の上に飛躍的な発展を遂げた陰には、過ぐる大戦に幾多の
尊い犠牲があつたことを国民が銘記し、国の平和を祈念し、多くの犠牲者の冥福を祈ると
、、、ともに遺族を慰藉し力付けるため国家的行事として行われることとなつたものであり
遺族代表のほか、天皇・皇后両陛下、内閣総理大臣等が参列するが、その式は、やはり中
央に戦没者の霊を象徴する白木の標柱を立てて行われる。
(5)千鳥が淵戦没者墓苑拝礼式
収集した遺骨のうち、氏名が判明しないもの、または遺族不明のため遺族に渡すことがで
きないものについての措置が検討され、この結果千鳥が淵戦没者墓苑が設けられることに
なつた。千鳥が淵戦没者墓苑においては、昭和三四年、竣工式並びに追悼式が行われ、そ
の後、昭和四〇年からは、毎年春に皇族の臨席のもとに、遺族代表、内閣総理大臣らが参
列して「千鳥が淵戦没者墓苑拝礼式」が行われている。、
()、。2一以上戦後における国の遺族援護行政を概観すると以下の事実が明らかである
(1)遺族援護行政は、今日の繁栄が、敗戦という悲劇を踏み台として築かれたもので
あるとの認識から、戦没者、戦傷病者等の遺家族に対し、国民世論を背景に行われている
こと。
(2)遺族援護行政が、
年金その他の給付金の支給といつたいわば物的な面での援護施策と戦没者の慰霊行事、慰
霊碑の建立といつたいわば精神的な面での慰霊施策の二つから成り立つていること。
(3)これら援護施策は、遺族援護法の提案理由のように、国の当然の責務として行わ
れているもので、国会決議、各法律、閣議了解という正式な手続に基づき、国の重要な施
策として行われていること。
(二)これらの国の援護施策が、わが国が独立を回復した昭和二七年以来、今日まで連
綿として行われていることは、国が戦没者等の遺家族等に対し、これらの援護事業を行う
ことの公益性、必要性が国民的支持を受けていることの証左といわなければならない。こ
の事実はまた、地方公共団体等が当該地域の遺族等に対し、当該地域の特性に応じ、遺族
援護の施策をとることの正当性を裏付けろものである。なお、大阪府も、府主催の追悼式
典・海外慰霊巡拝・年末慰問品の贈与等、府独自の遺族援護行政を行つている。
3以上の事実は、戦没者の慰霊そのものについて否定的な意味しか認めず、戦没者を少
しでも称えることを許さないとする原告らの考えが、遺族援護施策の分野における関係法
律・閣議了解等による国の施策の立場と大きく異なるものであり、地方公共団体の行政指
針として、到底採用できないものであることを示している。
二本件補助金交付手続の適法性について
1昭和五一年度の補助金の内容
(一)市遺族会の昭和五一年分についての受入額
(1)市社会福祉協議会に対する市補助金の総額は七六一万二〇〇〇円であり、このう
ち、三四二万四〇〇〇円が福祉団体補助金であつた。
(2)市社会福祉協議会は、右交付金のほかに、大阪府社会福祉協議会からの補助金、
赤い羽根共同募金の配分金その他の収入があり、昭和五一年度の歳入総額は、二〇五六万
三六四円であり、そのうち事業費が、一一七三万六六九四円であつた。この事業費中の三
四二万四〇〇〇円が、福祉団体補助金として市遺族会ほか一五団体に配分された。市遺族
会への配分は、四四万五〇〇〇円である。
また、市社会福祉協議会は、事業費の中から、福祉団体助成金として、九五万円を支出し
たが、この福祉団体助成金は、一九団体に配分され、市遺族会へは四万五〇〇〇円が配分
。、。された福祉団体補助金と同助成金を合わせた市遺族会への配分額は四九万円であつた
(二)市遺族会の収入及び支出の状況
(1)市遺族会の昭和五一年度の収入と支出の状況
市遺族会の昭和五一年度の収入・支出の状況は次のとおりであり(別紙市遺族会会計状況
一覧表の被告主張欄に同じ、助成金のほかに、会費・雑収入を加えた収入によつてま。)

なわれている。
(1)収入
補助金四四万五〇〇〇円
助成金四万五〇〇〇円
会費三三万九〇〇円
寄付金五〇〇〇円
雑収入一〇万三五三〇円
繰越金六万六七七四円
合計九九万六二〇四円
(2)支出
会議費一九万一三八二円
旅費一万三八四〇円
秋季バス慰安旅行二七万九四六〇円
靖国神社参拝等春季旅行七万九七八二円
負担金一万八〇〇〇円
弔費六万二一〇〇円
青年部活動費二万九六四円
地区活動費一八万二六〇〇円
雑費三万五〇九〇円
繰越金一一万二九八六円
合計九九万六二〇四円
(2)支出の説明
(1)会議費
市遺族会は、国、府、市の援護行政補完活動を行つているためもあつて、会議は頻繁に行
われる。そのための費用である。
(2)靖国神社参拝等春季旅行
、、、。一二泊の旅行をし戦没者の慰霊を行うとともに会員相互の親睦をはかるものである
、。、費用の大部分は参加者からの参加費用でまかなわれている昭和五一年度の参加人員は
六〇名から七〇名、一人当りの参加費用は、一万八〇〇〇円から二万円位であつた。市遺
族会からの補助は、費用の不足を補う形で行われており、その割合は、全費用の約六パー
セントにすぎない。
(3)秋季バス慰安旅行は、会員相互の親睦をはかるため、その費用の大部分を市遺族
会が負担して行われる。
(4)地区活動費は、市遺族会の傘下の四つの地区の遺族会に交付されるものである。
昭和五一年度の<地名略>地区遺族会への交付金は、七万九六〇〇円であつた。
(3)区遺族会の収支
区遺族会の昭和五一年度の収入は、一九万八一〇〇円(市遺族会からの交付金七万九六〇
〇円、慰霊祭当日の供え物一一万八五〇〇円)であつた。なお、
慰霊祭に関係する支出は、会食費、参列者への土産(粗供養)を含めて一〇万五一〇〇円
であり、慰霊祭費用は、当日の参列者供え物で全額まかなわれた。
2社会福祉事業法五六条一項の市条例欠缺と補助金交付の適法性
(一)昭和五一年当時、市においては、社会福祉事業法五六条一項にいう条例が未だ制
定されていなかつたことは、原告ら主張のとおりである。しかし、同法五六条一項にいう
条例は、地方公共団体が社会福祉法人に対して補助、助成の必要を認めた場合において、
その補助、助成をするための手続を定める条例にすぎないのであり、この条例の欠缺は、
直ちに市社会福祉協議会への補助金の交付を実体的に無効ならしめるものではない。した
がつて、本件補助金交付は、手続上の瑕疵はあつたが、その実体的効果には影響がない。
(二)社会福祉事業法五六条一項にいう条例が手続上の定めをする条例にすぎないこと
は、法文の規定及び同法五六条一項を受けて国が定めた厚生省令の内容に微すれば明らか
である。
すなわち、右厚生省令たる社会福祉事業法施行規則は、その五条に社会福祉法人に対する
補助、助成に関する規定を置いているが、その内容は、一項において「法五六条の規定、

より法人が国の助成を申請しようとするときは、申請書に左の書類を添付して厚生大臣に
提出するものとする。一、理由書、二、助成を受ける事業の計画書及びこれに伴う収支予
算書、四、財産目録及び貸借対照表」とし、またその二項では「前項に規定するものの、
外、
助成の種類に応じ必要な手続は、厚生大臣が別に定める」とし、さらにその三項で「第。、
一条の二第五項から第七項までの規定は、第一項の場合に準用する(第一条の二第五。」

から第七項までの規定はいずれも手続的規定である)としているのであつて、これが手。

的規定にすぎないことは明らかである。
(三)右のように、社会福祉事業法五六条一項にいう条例は、補助、助成に関する実体
的な規定を定める条例ではなく、単に補助、助成をするための手続を定める条例にすぎな
いから、その不存在は、直ちに補助金交付決定を違法ならしめるものではない。
なお行政法学上の通説である侵害留保説は、補助金交付のような授益的行政を行うについ
ては、法律の規定を要しないとしている。換言するならば、行政庁は、法律の授権規定が
なくとも、本来的に自由な補助金交付権限を有するのである。
そうでなければ、現代国家における複雑な行政需要に即応した行政の弾力的な運営は、到
底期待できない。
この通説的理解を前提にすれば、社会福祉事業法五六条一項の規定は、国または地方公共
団体に対し、補助金交付権限を新たに授権するものではないとするのが正当な解釈といわ
なければならない。
以上を合わせ考えれば、同項の条例を定めるべき規定は、訓示的規定の領域を出ないとい
うべきであり、右条例欠缺を理由に、本件補助金交付が違法であるとする原告らの主張は
失当である。
(四)(1)また、市では、昭和五一年当時、右社会福祉事業法五六条一項にいう条例
はなかつたが、その内容を実質的に取入れた市補助金交付規則が制定されており、社会福
、、、祉協議会への補助金の交付は右規則に従つてなされたのであるからこの点に徴しても
本件補助金交付は、実質的にも違法性がない。
(2)なお、右補助金交付規則の該当条項と、後日、市において社会福祉事業法五六条
一項の条例として制定された「社会福祉法人に対する助成の手続に関する条例」の内容を
比較検討してみると、特に相違はないのであつて、結局、右規則は、条例で定めるべき事
項を実質的に満たしており、補助金交付規則による運営には実質的違法性はない。
3本件補助金交付の実質的適法性について
(一)元来「普通地方公共団体は、公益上必要がある場合においては、寄附または補助
をすることができる(地方自治法二三二条の二)のであり、もともと市は市遺族会に。」

し、直接補助金の交付をなしうるものである。右補助金交付が公益上の必要を満たしてい
ることは各遺族会の性格、活動等から明らかである。
(二)各遺族会は、宗教上の組織若しくは団体ではないし、慈善、教育若しくは博愛の
事業主体でもない。
、、、、各遺族会を端的にいえば内部的には会員の相互扶助を主たる目的として対外的には
国における遺族援護行政を補完する重要な役割を果たしているものであり、地方公共団体
は、地方自治法二三二条の二に基づき、直接補助金を交付しうることは明白である。
(三)普通地方公共団体が、各遺族会に補助金を交付する場合の行政手続としては、直
接に交付する方法と社会福祉協議会を通じて交付する方法の二つが考えられるが、そのい
ずれの方法を選ぶかは行政裁量の問題であり、市では、昭和五一年当時、
法人たる社会福祉協議会が設立されていたことから、市遺族会等一六団体に交付する補助
金を右協議会に一括交付してきたにすぎない。
(四)実際、各都道府県市町村において戦没者遺族会に補助金交付が行われているが、
その手続については、二つの方法が併存している。大阪府についてこれをみると、各遺族
会に直接交付している市は、貝塚市、泉大津市、松原市、柏原市、羽曳野市、藤井寺市、
池田市、吹田市、茨木市等であり、社会福祉協議会を通じて交付している市は、高槻市、
枚方市、八尾市、岸和田市、和泉市等である。
(五)以上のように、各遺族会に対する補助金の交付は、一般的な補助金支出の問題と
して地方自治法二三二条の二に基づき行うことができるのであり、その支出については、
議会における予算審議過程におけるコントロールを経て、その支出手続としては、補助金
交付規則または補助金交付要綱といつた法規により、公金の適正使用を確保すれば足りる
といわなければならない。
本件では、条例欠缺という手続的瑕疵が問題となつているが、市遺族会に対する補助金交
、、、付は地方自治法二三二条の二によつて直接交付ができるのであるから実質的な問題は
「公益上の必要性」と「公金の適正使用」の問題に尽きるものであるところ、以下4で述
べるとおり、本件では、それらが確保されていたから、本件の補助金交付は適法である。
4市の予算成立過程と市社会福祉協議会による補助金交付申請手続等について
(一)(1)当時、市の予算編成は、前年の一〇月初めからスタートし、市補助金は、
箕面市福祉事務所によつて予算要求書として具体化していたが、それは前年の実績、事業
内容、物価上昇率等を勘案してその額が決定されていた。
(2)右予算要求は、市財政担当部である企画部・企画財政課の各担当者の予算査定を
経て、市長等の査定を経由し、市一般会計予算に組み込まれ、毎年三月の定例市議会の議
決により予算として戊立し、四月一日から予算執行に入ることになる。
(3)当時、箕面市の補助金の交付は、市補助金交付規則に定める手続に従つてなされ
ており、市社会福祉協議会への補助金交付も右規則に定める手続に従つてなされていた。
すなわち、市社会福祉協議会は、毎年六月初めころ補助金の交付を受けるべく箕面市福祉
事務所に補助金交付申請書を提出するが、その要領は、補助金交付規則四条に詳細に規定
され、
申請に際しては、申請書とともに以下の関係各書類が添付されることになつていた。
(1)前年度市社会福祉協議会事業報告書
(2)前年度一般会計・特別会計歳入歳出決算書及び精算書
(3)本年度社会福祉協議会事業計画書
(4)本年度一般会計・特別会計予算書
(5)各種福祉団体に対する補助金配分表
(6)その他、監査結果報告書
以上の各資料により、市は、市社会福祉協議会の行つている補助事業の目的、内容、経費
の配分、使用方法、その他補助事業の遂行に関する過年度の実績、本年度の計画等を審査
できるのであり、ひいては市が、補助金交付の決定をするに際し、補助金交付の目的、内
容等が適正であるか、金額の算定が相当か、使用目的が適正か等の補助金交付に必要な審
査が有効、的確になされる仕組みであり(市補助金交付規則五条、これにより、市の補)

金に係る予算執行の適正化が図られていた(同規則一条。)
また、市補助金交付規則では、補助金使用の適正を確保するために、様々な措置を講じう
るようになつている。すなわち、補助金交付についての条件(同規則六条、状況報告の)

求(同規則一〇条、実績報告の徴求(同規則一二条、是正措置(同規則一四条、交付)))

定の取消(同規則一五条、補助金の返還(同規則一六条)等である。)
(二)市社会福祉協議会から参加一六団体への補助金の交付手続について
(1)市社会福祉協議会は、社会福祉事業法にいう第二種の社会福祉事業を行つている
社会福祉法人であるが(同法二二条、その事業の一環として、社会福祉協議会の参加構)

員たる市遺族会を含む一六団体に対する育成と助成の強化のため、これらにたいして補助
金・助成金の交付を行つていた。
(2)市社会福祉協議会の一六団体に対する補助金配分に関しては、市社会福祉協議会
は、みずから申請手続を具体的に定め、濫費を防止し、経費の支出等の適正化を図つてい
る。
すなわち市社会福祉協議会の参加構成員が、同協議会に対して補助金の交付申請をする場
合、前年度決算報告書、事業報告書、当該年度の事業計画書、予算要求書等を提出して交
付申請をするものとされ、同協議会は、右一連の申請手続において、各団体の決算審査を
し、これを通じて、当該補助事業の目的・内容等が適正であるかどうか、補助金・助成金
の不適正使用があつたかどうか等諸般の審査をし、よつて、
市社会福祉協議会の事業目的が適正に遂行されたかどうかを審査、確認する仕組みであつ
た。
(三)補助金交付手続等のまとめ
右(一(二)にみたように、市においては、市から市社会福祉協議会への補助金の交)、

は、市補助金交付規則に定める手続に従つてなされており、市は、同協議会へ交付するに
際して、補助金の使用目的等を把握でき、また、交付後、不適正使用等がなかつたか等に
ついても十分審査できる体制にあり、さらに同協議会から一六団体へ交付される補助金に
ついても、市は社会福祉協議会に対する審査を通じてこれを把握できる体制であつたので
あつて、補助金に関する予算執行の適正の確保は十分図られていた。
5以上のとおり、本件補助金交付は、形式的には、社会福祉事業法五六条一項にいう条
例の制定がなかつたという瑕疵があつたとしても、右条例は、単なる手続条例であり、同
法の右規定は、訓示規定にとどまるものであり、また、本件補助金交付の必要性と公益性
が認められ、公金の適正使用も図られていたのであるから、結局、補助金の交付の効力に
影響を及ぼすような実質的な違法はない。
三本件書記事務従事について
原告らは、市福祉事務所職員が、市遺族会の会員等への案内状の宛名書等の書記事務に従
事したことは、違法であると主張する。しかし、本件書記事務従事は、戦没者遺族に対す
る援護として当然許容されるものである。
1国の遂行した戦争による犠牲者である戦没者の遺族に対しては、国は、物心両面にわ
たつて、きめの細かい援助をすることとされ、遺族援護の必要性、公益性が承認されてい
ることは前記一でみたとおりであり、とすれば、各地方公共団体が、当該地域の戦没者遺
族に対し、地域の特性に応じた相応の遺族援護を行うことも当然にその必要性、公益性が
認められるといわなければならない。
2しかも本件書記事務従事は、原告らの主張によつても、わずか一四時間というもので
あり、このことからみても、市福祉事務所の職員の行為は、市社会福祉協議会に属する他
の団体への手伝いと同等に市遺族会の書記事務を手伝つたにすぎないことは明らかであつ
て、この程度のことが、戦没者遺族に対する援助として許容されないはずはない。

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