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平成19年1月31日判決言渡同日原本領収裁判所書記官
平成17年(ワ)第771号損害賠償請求事件
口頭弁論終結日平成18年11月2日
判決
主文
1被告は,原告Aに対し,1671万0096円及びこれに対する平成15年
11月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2被告は,原告Bに対し,2002万0129円及びこれに対する平成15年
11月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
4訴訟費用は,被告に生じた費用の8分の1と原告Aに生じた費用の4分の1
を同原告の,被告に生じた費用の16分の1と原告Bに生じた費用の8分の1
を同原告の,その余を被告の各負担とする。
5この判決は,第1項及び第2項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告らに対し,それぞれ2310万円及びこれらに対する平成15
年11月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,C(昭和6年11月24日生。)の相続人である原告らが,Cが死
亡した(平成15年11月11日)のは,①被告病院の医師,看護師及び准看
護師が,術後に適切な経過観察をしなかった,②被告病院の医師が,Cの呼吸
困難の際に迅速に気道確保をしなかった,③同医師が,術後に適切なドレーン
を選択しなかったなどの過誤によるものであると主張して,被告病院を開設・
運営する被告に対し,主位的には不法行為(使用者責任)に基づき,予備的に
は診療契約上の債務不履行基づき,損害賠償及び上記死亡日から支払済みまで
民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
1前提事実(当事者間で争いのない事実,後掲各証拠及び弁論の全趣旨により
明らかな事実。以下,平成15年の出来事については,原則として月日のみで
表示する。)
(1)当事者等
ア原告Aは,Cの妻であり,原告Bは,C及び原告Aの間の子である。
原告らは,Cの死亡に伴い,それぞれ2分の1の割合でCの権利義務一
切を承継した。
イ被告は,被告病院を開設・運営している。
(2)被告病院における手術に至るまでの診療経過
アCの症状
Cは,平成5年ころ,声帯の手術を受けた際,合併症として左反回神経
麻痺を発症し(甲A3,乙A3の37頁),平成7年ころ,声帯にシリコ
ンを注入する処置を受け,そのころから呼吸苦を訴えていた(乙A1の3
頁,3の37頁)。
Cは,8月8日,声が出にくいとしてDクリニックを受診し(乙A1の
7,8頁),同月11日には,頸部前屈の制限,前屈時の呼吸苦の増強及
びフラフラする感覚などの症状を訴えて,被告病院耳鼻科を受診し,同月
29日,造影CT検査などを受けた(同2ないし4頁)。
イ被告病院の受診
被告病院耳鼻科E医師は,Cの症状として,左反回神経麻痺による左声
帯の固定を確認するとともに,椎体の骨性病変及び咽頭後壁に突出の所見
を認めたため,9月3日,被告病院整形外科F医師に相談した。F医師は,
9月10日,E医師に対し,Cにはエックス線写真及びCT画像上,著明
な頸椎骨棘形成があり,それにより気管を圧排していると回答した(乙A
1の10頁)。そして,F医師は,Cを強直性脊椎骨増殖症(ASH)と
診断し,頸椎骨切除手術を実施することにした。
ウ被告病院入院から手術前日まで(本項においては,乙A3について頁数
のみで表記する。)
(ア)Cは,11月7日,被告病院に入院し(1頁),被告との間で,AS
Hの治療に関する診療契約を締結した。
Cは,同日,胸部エックス線検査,安静時心電図検査,血液検査を受
けた(11頁)。血液検査の結果は,総タンパクが6.2(以下,単位
はアルファベットで表記することがある。g/dl),アルブミンが3.
8(前同),ALPが341(U/l),ASTが96(前同),AL
Tが47(前同)であった。このうち,AST及びALTの数値は基準
値より高く,アルブミンの数値は基準値より低かった(23頁)。また,
Cの血圧は右側が132/60(収縮期/拡張期の順。mmHg),左
側が138/66(前同),脈拍は84回/分,体温は36.6度であ
り,Cから痛みがあるとの訴えはなかった(46頁)。
さらに,Cは,11月1日,Dクリニックで肝機能検査を受けたとこ
ろ,その検査数値は,総タンパクが6.1(g/dl),アルブミンが
3.8(前同),ASTが44(U/l),ALTが30(前同),γ
−GTPが234(前同)であった。このうち,総タンパクの数値は基
準値と比べて低値であり,AST及びγ−GTPの数値は高値であった
(5頁)。
(イ)Cは,同月9日,F医師から手術についての説明を受け,同医師に対
し,手術同意書を交付した(30頁)。
(ウ)Cは,同月10日,呼吸困難及び水分も含めた嚥下困難の症状を訴え
ていた(12頁)。
同日には,Cに対する動脈血ガス分析検査(ルームエアーの条件下)
が実施され,Phが7.350,PCO(二酸化炭素分圧)が44.2
1(mmHg),PO(酸素分圧)が102.5(前同),BE(B2
2aseExcessの略。)が−1.9(mmol/l),SaO
(動脈血酸素飽和度)が97.6パーセントであった。なお,上記検査
項目の被告病院における基準値は,Phが7.42±0.04,PCO
が39±7(mmHg),POが91±17(前同),BEが0±222
(mmol/l),SaOが94±2パーセントである(28頁)。2
また,肺機能検査が実施されたところ,特段の異常は見られなかった
(22頁)。
(3)医学的知見
ア強直性脊椎骨増殖症(ASH)
前縦靱帯を中心に傍脊柱靱帯に広範な骨化を生ずる疾患であり,50歳
以上の男性に発症することが多い。頸椎椎体前縁に骨棘が形成され,続い
て前縦靱帯へ骨化が伸展し,椎体間に前方へ突出した骨性架橋が発生する
という形で病態が進行する。そして,著しく前方へ突出した前縦靱帯の骨
化により,嚥下障害,嗄声等の症状が生ずるとされている(甲B1)。
イ反回神経麻痺
反回神経は,迷走神経が胸腔内に入ってから出る枝で,右側は鎖骨下動
脈を,左側は大動脈弓を下から後ろに廻り,次に両側とも気管と食道との
間の溝を上行し,下咽頭収縮筋の下縁で下喉頭神経となって多くの枝に分
かれ,輪状甲状筋を除くすべての喉頭筋及び喉頭下半の粘膜に分布し,ま
た上喉頭神経の内枝と結合する(甲B11)。
反回神経麻痺は,声帯麻痺,喉頭麻痺とも呼ばれ,迷走神経の分枝とし
ての内喉頭筋を支配する反回神経の麻痺を指し,臨床的には主として声帯
運動障害とそれに起因する諸症状を含む病態である。症状としては,声門
閉鎖不全による嗄声と誤嚥が主であり,まれに両側性の場合には呼吸困難
を呈することもある。
2本件の争点及び争点に関する当事者の主張(なお,本項以下において,平成
15年11月11日の出来事については,原則として時間のみで表記する。)
(1)争点1(Cの死因とその予見可能性の有無について)
(原告らの主張)
アCの死因
Cは,頸椎骨切除術後の出血により,①反回神経の圧迫及び麻痺に起因
する声帯閉塞,②咽喉頭部の術後出血に由来する血腫を原因とする軟部組
織の腫脹による上気道閉塞(器質的な上気道閉塞),③迷走神経圧迫に起
因する神経性ショックのいずれかを原因として,呼吸不全となり死亡した
ものである。その際,呼吸抑制という重大な副作用を有するセルシンが看
護師によって投与されたことが,死亡という結果に影響を与えた可能性も
否定できない。なお,反回神経の圧迫部位は,術創付近であり,被告が主
張するような肺門付近ではない。
また,午後9時ころに見られたCの体動についても,上記原因に基づく
ものである。術後出血が原因となり,何らかの機序で声門狭窄等の異常事
態が発生したからこそ,Cが不穏状態に陥り,激しく体動したと理解する
のが当然である。仮に,頸部への衝撃を伴うほどの激しい体動・不穏があ
ったというのであれば,そのこと自体で,重篤な術後合併症としての異常
出血が発生したと推認する方がはるかに合理的である。
イ予見可能性の存在
頸椎前方アプローチの術後合併症には,種々の疾患が指摘されているが,
特に本件で問題となる呼吸障害については,多くの医学文献が指摘すると
ころであり,とりわけ血腫や浮腫による上気道狭窄に注目する必要がある
とされている。
また,Cの剖検所見によれば,血塊が確認された気管周囲の上縁は,声
門のレベルに相当する部位であり,それ故,喉仏周辺を上縁として肺門に
及ぶ長大な血腫,血塊が形成されなかったなどということはあり得ない。
そして,剖検所見で血腫,血塊が確認された長さ15センチの気管周囲は,
反回神経の分布領域と完全に一致しているから,被告病院の医療従事者が,
Cの頸部の手術創の経過観察を慎重に行い,その腫脹形成に気付けば,当
然,反回神経麻痺の危険性に想到したはずである。
(被告の主張)
アCの死因
Cの死因としては,血液が反回神経を圧迫したことによる反回神経麻痺
あるいは気管内挿管に伴う反回神経麻痺のいずれかに確定できないとして
も,肺門付近に及んだ凝血に起因する反回神経麻痺により健側の声帯が閉
鎖したことによる呼吸不全の可能性が高い(ただし,断定はできない。)。
気管はガラス質の気管軟骨によって保護されているため,血腫によって局
所的に気管が閉鎖するに至る事態は考え難い(現に,病理解剖によっても
解明できていない。)上,凝血による気道閉塞であれば,徐々に進行し,
SpO(経皮的酸素飽和度)が95ないし96パーセントを維持しつつ,2
突然に心肺停止に至ることはまれである。なお,セルシンの投与は,静脈
注射ではなく,筋肉注射であるため,即効性はなく,その作用により15
分後の呼吸抑制が起こったものではない。
本件では,頸部前方アプローチによる手術に伴う合併症として発症した
呼吸不全ではあるものの,通常の気道の浮腫や血腫による気道狭窄ではな
く,通常では予見し得ないような極めてまれな機序によって発生したもの
と評価される。
また,午後9時ころのCの不穏の原因については,①全身麻酔剤の影響
の残存,②呼吸障害による低酸素,③痰の喀出不良,④体温低下と疼痛に
よるシバリング,⑤ICU症候群などが考えられ,SpOの推移やCの2
発声の事実に照らせば,原告主張のように,声門狭窄等の異常事態による
ものと一義的に確定できるものではない。そして,これらの原因による体
動に伴う頸部への衝撃や急激な血圧上昇により,再出血が惹起され,これ
が縦隔に流入したことによって,反回神経麻痺に至ったと考えるのが合理
的である。
イ予見可能性の不存在
凝血による反回神経麻痺による声門閉鎖は,理論的には起こり得ること
であったとしても,臨床医が現実にそれを経験することはなく,本件で具
体的に予見することは不可能である。Cに認められた頸部の腫脹も,気道
圧迫を来すほど高度なものではなく,直ちに反回神経麻痺を想到すべきと
の原告の主張は理由がない。
また,挿管チューブによる反回神経麻痺についても,1000例ないし
2000例に1例と報告されている上,その発生時期を具体的に予見する
ことは困難である。
もっとも,頸部前方アプローチの手術において,気道トラブルから呼吸
障害が起こりやすいという一般的な予見可能性はあるが,本件では,それ
を踏まえて,Cの血圧やSpOを経時的に測定していたところ,午後92
時20分ころまでは,後者は95ないし96パーセントを維持しており,
呼吸障害を直ちに疑う所見はなかった。
(2)争点2(呼吸管理に関する経過観察義務懈怠の有無)
(原告らの主張)
ア呼吸管理に関する一般的注意義務
(ア)本件手術を含め,頸部の中枢部に前方からアプローチする手術を実施
した際は,術後出血に伴う凝血,浮腫,分泌物等の生成により,咽頭腔
の圧迫や,気道狭窄により呼吸困難を来す一般的可能性及び危険性があ
ることは,経験則上明らかである。
特に,Cの場合,術前から見られた反回神経麻痺のために片側声帯に
可動性がなく,声門の半分が閉塞状態にあったので,呼吸困難から呼吸
停止に進行する危険性が極めて高い症例である。他方,呼吸困難が急速
に進行する場合は,気道確保が救命の唯一の道である。
したがって,被告病院の医療従事者としては,Cが気道狭窄又は気道
閉塞を原因とする呼吸困難から呼吸停止に進行することを未然に防止す
るとともに,低酸素血症による心機能及び脳機能の悪化・障害を未然に
防止するために,気道確保の時期を失しないよう,Cの呼吸状態を厳重
に観察すべき注意義務があったというべきである。
(イ)頸椎前方アプローチ手術の術後呼吸困難の観察ポイントは,発声の状
態及び嗄声の有無である。患者に声をかけて深呼吸を促し,息苦しくな
いかなどを尋ね,呼吸音,胸郭の動き,呼吸数,チアノーゼの有無,頸
部の異常(胸鎖乳突筋の緊張,鎖骨上窩陥凹,頸静脈の怒張の有無)等
を観察・観測し,聴診を行うことが基本である。吸気時に鳥の鳴くよう
な呼吸音や喘鳴が聞こえるときは,声門の狭窄が考えられる。低酸素血
症の徴候としては,頻脈,高血圧,不整脈,興奮,朦朧,呼吸困難及び
チアノーゼ等が挙げられるが,これらの徴候が認められた場合は,聴診
器で呼吸音を聴取することで,咽頭部の分泌物の存在や,上気道狭窄を
覚知できる。
また,頸部は血流量が多い部位であることから,術後出血には最も注
意深い観察が必要になる。具体的には,両耳下腺部から前頸部にかけて
の腫脹・圧痛の有無,創部ガーゼの出血汚染の程度,呼吸状態,創部ド
レーンの排液量・性状等を注意深く観察する。
そして,呼吸困難の症状の多様性及び専門性に鑑みるならば,看護師
が患者の呼吸状態を観察した際,少しでも不穏な呼吸困難の状態を確認
したのであれば,直ちに担当医師に上申し,気管内挿管や気管切開の準
備をすべきであるとともに,医師は自らその診察に当たり,患者の呼吸
状態を具体的に把握すべきである。
イ看護師等による注意義務懈怠
しかるに,被告病院の看護師及び准看護師(以下「看護師等」とい
う。)は,午後7時15分から午後9時ころの間,Cの容態を全く観察し
なかった。午後9時以降も,看護記録には,「体動」,「不穏」といった
表現が記録されているにすぎず,かかる記載は,呼吸状態を直接叙述する
ものではなく,その間の症状の推移は全く不明であるから,看護師等は,
経過観察を怠っていたといわざるを得ない。
なお,仮に午後7時15分から午後9時ころまで,G准看護師が経過観
察をしていたとしても,Cがリカバリールームに戻ってから約4時間もの
間,単独で観察していたことになる。G准看護師は,麻酔科看護師補助の
経験もなく,頸椎の前方アプローチの術後患者の観察をした経験もほとん
どない。しかも,本件事故当時,Cに反回神経麻痺の現病歴があるがゆえ
に気道閉塞の合併症の危険性が高いことについて全く知らされていなかっ
た。このような准看護師1人に,Cの術後管理を任せ,術後の不穏の原因
等を独自に判断させる状態に置いたこと自体がそもそも間違っており,病
院の術後管理体制の在り方として,旧保健婦助産婦看護婦法に違背する。
また,看護師等は,午後9時以降についても,Cの吸痰が困難な状況と
なり,徐々に体動が激化し,収縮期血圧が117から166mmHgへと
急上昇することで,Cに呼吸困難・上気道閉塞・低酸素血症の徴候が認め
られたにもかかわらず,上記アのような対応を採っていない。
ウ医師による注意義務懈怠
他方,被告病院の医師は,午後5時45分の時点でCに発声困難をうか
がわせる異常が認められ,その約30分後には,Cが自力で痰を喀出する
ことが困難な状態であったにもかかわらず,午後9時25分ころに至るま
で,Cの術後経過を全く観察していない。
特に,F医師は,午後9時10分ころ,G准看護師からCが不穏状態で
あることの連絡を受けた際も,自らCの呼吸状態を確認することがなく,
もとより頸部正面及び側面レントゲン撮影の実施も指示していない。
また,午後9時の時点で,Cに血圧の急上昇が確認されているにもかか
わらず,直ちに血液ガス分析が行われていない上,SpOが約95パー2
セントに急落した段階でも血液ガス分析が実施されていない。しかも,午
後9時20分まで心電図モニターすら行われていないのである。
さらに,本件の場合,第3頸椎から第7頸椎までを手術しているので,
術後出血による凝血,浮腫及び分泌物等によって気管(下気道)狭窄に至
っている可能性を否定できない。したがって,気道確保の要否,その手技
の選択,方法等を判断するためには,頸部正面及び側面のレントゲン撮影
により,声門下及び下気道の浮腫の有無及び程度並びに各部位の変形及び
奇形の有無を確認する必要があったというべきである。
特に本件では,看護師等が,F医師の指示の下,Cにセルシンを投与し
ているところ,呼吸障害のある患者に対してセルシンを投与する場合には,
呼吸抑制の副作用を念頭において,セルシンの投与後しばらくの間は医師
が患者の呼吸状態を厳重に観察すべき注意義務があるとともに,万一,呼
吸抑制を生じた場合には,速やかに気管内挿管等の気道確保の処置ができ
るよう待機するなどの厳戒態勢を採るべきであったにもかかわらず,これ
らが全くなされていない。
(被告の主張)
ア呼吸管理に関する一般的注意義務
一般論として,術後患者の容体が安定するまでの間,厳重なドレーン管
理を行い,患者の容体経過を厳重に観察する義務があることは認めるが,
後記のとおり,被告病院の医師らは厳重な観察を実施していた。
なお,午後5時45分の時点でのCの発声困難は,抜管による一時的な
影響によるものである可能性が高い。気管内挿管の場合には,挿管チュー
ブによる声帯圧迫等が生じ,抜管後に一時的に発声しづらいことがあるの
は珍しいことではない。また,頸部の手術後は,痛みのため痰の喀出に困
難を伴うのも珍しいことではなく,痰の喀出困難が呼吸障害を意味するも
のではないから,直ちに気道確保の措置が必要というわけではない。
イ被告病院の看護師等による経過観察
Cが手術後に収容されたリカバリールームは,ナースステーションに隣
接し,両者を隔てる壁はガラス張りになっており,患者の容体変化はナー
スステーションから常に監視できる状況にある。看護師等は,午後7時1
5分から午後9時までの時間帯でも,ナースステーションからガラス越し
にCの容体を観察しており,かつ,時々リカバリールームを訪室しては,
Cに声を掛けるなどして経過を観察している。また,被告病院では,全身
麻酔下での手術を受けた患者については,帰室後15分後,1時間後,2
時間後に容体を観察し,その後は3時間ごとに容体を観察し,記録するこ
とになっている。この術後の観察頻度は多くの病院で共通するものである。
看護記録に記載がないのは,午後7時15分以降,容体が安定しており,
特に記載すべき事項がなかったからにすぎない。
午後9時以降も,G准看護師は,Cの呼吸状態の変化を速やかに把握し,
モニターの装着を行っている。また,頸部の腫脹を観察するために,あえ
て当てガーゼを外す必要はない。もっとも,G准看護師が,Cの声帯の片
方が固定されていることを知らなかったとすれば,カルテの検討が不十分
であったといわざるを得ないが,声帯の片方が固定されている場合でも,
観察すべき内容は同じである。
なお,G准看護師は,Cの帰室後のインスピロンによる酸素投与,自動
血圧計の装着,サチュレーションモニターの装着,帰室後30分,同60
分,同120分の経過観察(観察項目は,バイタルサイン,SpO,尿2
量,経鼻チューブからの排液,疼痛,出血等)について医師から包括的な
指示を受け,「診療の補助」としてこれを実践していたものであり,旧保
健婦助産婦看護婦法には違反しない。
ウ医師による経過観察
反回神経麻痺による気道閉塞は,具体的に予見することが困難であり,
また急激に起こるため,あらかじめこれに備えていつまでも院内に待機す
ることは現実的とはいえないところ,Cの主治医のF医師及び執刀医のH
医師は,術後3時間程度の間,被告病院内において急変に備えていた。
すなわち,F医師が午後8時ころにリカバリールームを訪れた際,Cは
「大丈夫です。」と話していた。F医師は,Cを診察した後,原告Aとナ
ースステーションで,Cの頸部から切除した標本を病理に提出すること,
学会発表用に標本を写真撮影してよいか,標本を翌朝にCに見せましょう
かと話している。H医師も,午後8時20分ころに,リカバリールームに
寄ってCと話をしており,その際,Cは「呼吸が楽になりました。」と述
べ,この時点でもCの容体は安定していた。
また,F医師は,午後9時10分ころ,G准看護師からCの不穏状態に
ついて報告を受けるや,ギャッジアップ及びセルシンの投与を指示してお
り,また,看護師等3名が対処していることから問題ない。
さらに,セルシンについて呼吸抑制の副作用があることは認めるが,そ
のような副作用は,静脈注射をする際に起こりやすいとされている。本件
では,上記のとおり,筋肉注射をしており,セルシンの呼吸抑制が15分
後の心肺停止に影響したとは認め難く,経過観察義務に影響はない。
(3)争点3(気道確保のための処置の適否)
(原告らの主張)
ア患者の気道閉塞の危険が差し迫っており,直ちに気道確保をしなければ,
生死に関わると判断される場合,気管内挿管や気管切開等により直ちに気
道確保をすべきは当然であり,特に,Cのごとく,反回神経麻痺の既往等
により自ら気道確保が十分にできず,気道の吸引・吸痰や洗浄が必要であ
る患者については,安全性を重視して,なるべく早期に気道を確保すべき
である。
イCは同日午後9時ころ,血圧が上昇するとともに,体動が徐々に激しく
なって不穏状態に陥っていたのであるから,被告病院の医師としては,こ
の時点で,Cが気道狭窄を来して呼吸困難の状態にあることを認識し,気
道閉塞を来して呼吸停止又は心停止に至ることも予見して,即時に,気管
挿管又は気管切開などの処置を執るべき注意義務があったというべきであ
る。
また,F医師は,午後9時10分ころには,CのSpOが95ないし2
96パーセントに低下して(なお,このことから,医療従事者としては,
酸素分圧(PaO)も約15パーセント程度低落したものと推認すべき2
である。)不穏状態が常態化し,気道閉塞の徴候を確認することができた
のであるから,遅くとも上記時点では,上記の認識・予見をもって上記処
置を採るべき注意義務があったというべきである。
さらに,午後9時15分以降の血圧がモニタリングされていないので,
いつの時点でショックの診断基準を満たしたかは不明確であるが,遅くと
も心拍数が毎分100台から30ないし40台に低落した午後9時20分
の時点では,ショック状態に陥っていたことは自明である。
ウしかるに,本件では,被告病院の看護師等がほとんど無意味な経鼻エア
ーウェイをやみくもに挿入しているにすぎず(これにより,かえってCの
気道閉塞を助長した可能性を否定できない。),医師も,午後9時25分
に至るまで気道確保の処置をとらず,上記注意義務を怠ったものである。
当然のことながら,喉頭鏡や喉頭ファイバースコープ等による上気道の観
察も行われていない。また,呼吸停止が認められた午後9時25分の時点
でさえも,直ちに気管内挿管されず,その約10分後にようやく挿管され
ていることなどから,挿管準備の懈怠も自明である。
(被告の主張)
ア本件のように,声帯閉塞による気道閉鎖とは予見していない状況におい
て,気道狭窄であれば,最初にマスク・アンド・バッグ(アンビュー)に
よ人工呼吸で呼吸不全の改善を試みるのは当然の発想である。
確かに,回顧的な立場からの検討では,速やかに気管内挿管を試みれば
良かったということは可能であるが,臨床現場では,呼吸不全に対して,
マスク・アンド・バッグを行い,これでも改善しない場合に気管内挿管を
試み,これが困難な場合に気管切開を行うのが通常である。
イ気管内挿管は,必ずしも1分かそこらでできる処置ではない。本件でも,
8.5フレンチのチューブでの挿管が困難であったため,6フレンチのチ
ューブに取り替えて挿管を行っている。そして,挿管を繰り返すと,出血,
分泌物,浮腫が新たに生じて,気道がより塞がってしまうことがあると指
摘されているように,誰でもが成功するとは限らない。
ウそもそも,反回神経麻痺による声帯閉塞が生じた直後には,声帯を超え
てチューブを挿入することができず,気管内挿管を行うことは不可能であ
る。したがって,仮に当直医師が直ちに気管内挿管を試みたとしても,声
帯の弾性が残っている時点では,これは奏功せず,気管切開を行わざるを
得なかった可能性が高いところ,ここまで行って呼吸を確保するためには,
3分ないし5分の時間では不可能である。
(4)争点4(頸部ドレナージの適否について)
(原告らの主張)
ア頸部ドレーンの選択上の誤り
一般に,頸部の筋肉は血管網が発達しているため,頸椎骨切除手術の術
後には,頸部筋肉からの後出血や滲出液の貯留が当然に予想されるところ,
ペンローズタイプの開放型ドレーンは,凝血により閉塞しやすく,かつ,
毛細管作用によって貯留液を排出するだけなので,内腔から貯留液を排出
するには内腔圧がドレーン内の抵抗より強くなければならず,その意味で
排液吸引力が弱い等,多くの欠点があるため,頸椎骨切除手術の頸部ドレ
ーン方法として不適当である。
したがって,本件頸椎骨切除手術後,頸部筋肉からの術後出血や滲出液
を確実に排出するための頸部ドレーン方法として,原則として,陰圧をか
けることで持続吸引が可能な閉鎖型ドレーン(J−VACドレーンなど)
を選択・使用すべき注意義務があったというべきである。
しかるに,被告は,Cの骨除去部からの術後出血に対するドレナージと
して,持続吸引可能な閉鎖型のものを選択せず,不適当なペンローズドレ
ーンを選択し,頸部ドレーン選択に関し最善の措置を尽くすべき注意義務
を怠ったものである。
イドレーン管理の不適切
本件においては,頸椎骨切除手術後に予防的ドレナージが行われている
ところ,ドレーンからの排液量,性状を術後2,3日目まで頻回に監視す
ることが重要であり,ドレーンを定期的にミルキング(術後など腹腔内に
ドレーンが留置されている場合,浮遊物がドレーンを詰まらせてしまう可
能性があるところ,その場合にドレーンが詰まらないようにローラーや手
で抜く作業)してドレナージが効いていることを確認すべきである。
また,ドレーンは,ドレーン自体の屈曲や凝血塊などにより閉塞するの
で,術創に異常所見がないことを視診,触診で確認すべきである。
特に,本件の場合,上記のとおり,術後に出血が予想されるにもかかわ
らず,陰圧で吸引する能動的ドレーンではなく,排液効果が乏しく,ドレ
ーン閉塞を起こしやすい,受動的なペンローズドレーンが採用されていた
のだから,仮に当該ドレーンの採用が過失でないとしても,ドレーンから
の出血が確認できない場合には,その原因としてドレナージ不奏功を直ち
に疑い,術創に異常所見がないか否か確認するなど,ドレナージ不奏功の
原因を検索すべきであるにもかかわらず,これらの措置が講じられていな
い。
(被告の主張)
ア頸部ドレーンの選択上の誤りの不存在
原告は,比較的広い術創か,術後に出血,滲出液,リンパ液等の貯留が
予想される場合は,閉鎖吸引式のドレーンを使用すべき旨主張するが,こ
れは,手術部位,ドレーン留置部位,出血状況等を全く考慮しない抽象論
にすぎず,頸部前方アプローチの手術におけるドレーン留置に関しては,
現在のところ,ガイドラインも科学的根拠も存在しない。
現に,アメリカでは頸部前方アプローチの手術におけるドレーン留置に
ついて,多数の臨床試験が実施されている。その臨床試験の結果,ドレー
ン留置群と非留置群とで血腫形成について有意な差は認められず,また,
ドレーン留置群でも,ペンローズドレーンと閉鎖吸引式ドレーンの間にも
血腫形成について有意な差は認められないとの結果が報告されている。
同じ頸部の手術でも,後方アプローチによる手術の場合には,頸部後方
は死腔が多く,そこに血液が貯留するため,閉鎖吸引式のドレーンを留置
することでドレナージが期待できる。一方,前方アプローチで頸部の手術
を行う場合,ドレーン留置部位である頸部前方周辺には,様々な筋繊維が
縦横に走行し,結合織も多い反面,死腔は乏しい。出血した血液は,筋繊
維や結合織中に入り込む。また,閉鎖吸引式ドレーンを留置しても,ドレ
ーンの孔に筋繊維や結合織が張り付いてしまうことで,十分な吸引効果が
得られない。
イドレーン管理の適切さ
本件においては,ドレーンからの血性排液が認められたが,このような
場合でも,直ちに処置が必要というわけではない。出血が凝血を形成し,
気道狭窄での換気不全を起こすような状況に至ることが予測される場合に,
縫合部の開放,気管内挿管の実施,あるいは再手術による止血や凝血塊の
除去等の処置が必要となる。
気道周辺に気道狭窄による換気不全をもたらすような血腫が形成された
場合,頸部が著明に腫脹する。このため,ドレーン排液の観察のみならず,
頸部の腫脹や呼吸状態についても併せて観察すべきところ,本件では,医
師及び看護師等は,これらの点についても十分な観察を行っていた。
(5)争点5(因果関係の存否)
(原告らの主張)
ア経過観察義務違反と結果との間の因果関係
被告病院の医師及び看護師等が適切な経過観察をしていれば,Cの呼吸
状態を適切に把握し,適時に気管内挿管等を行うことにより気道を確保し,
Cを救命することができた蓋然性が高い。
イ気管内挿管ないし気管切開の懈怠と結果との間の因果関係
本件において,気管内挿管は,呼吸停止,心停止の後で開始されており,
その遅れは致命的であったというべきである。上気道閉塞の場合,酸素不
足によるショック状態が起きた時点で気道確保しても手遅れとなる場合が
多く,ショック状態が起こる前に,気管内挿管・気管切開により気道確保
すべきであった。そして,適時に気管内挿管ないし気管切開による気道確
保ができていれば,Cを救命することができた蓋然性が高い。
ウドレーン選択と結果との間の因果関係
本件で,仮に適正な閉鎖吸引式ドレーンを使用していれば,陰圧を利用
した持続的吸引による強度の排液効果が機能し,術後気管内に発生した大
量の凝血塊の発生を回避できた蓋然性は高いと推認される。
(被告の主張)
ア経過観察義務違反と結果との間の因果関係の不存在
反回神経麻痺による声帯閉塞の場合には,声帯によってほぼ完全に気道
が閉塞される。しかも,神経麻痺による症状であるため,閉塞は急激に生
じると考えられる。
Cの場合,呼吸状態が変化するまでは発声が認められており,この時点
では,声帯閉塞は起こっていない。また,呼吸状態が変化する直前まで,
SpOが95ないし96パーセントを示していたこともこれを裏付ける。2
加えて,本件では,反回神経麻痺から心停止に至るまでの症状の悪化が
急激であったという点に留意しなければならない。この点が,Cの救命を
困難にした最大の理由と考えられる。
イ気管内挿管ないし気管切開の懈怠と結果との間の因果関係の不存在
夜勤体制の下では,患者の容体急変に対し,当直医に報告するのが通常
の手順であり,当直医が病棟に到着して気管内挿管を行うのに一定の時間
を要することはやむを得ない。本件では,当直医に連絡し,当直医が駆け
つけるまで2,3分程度であり,通常,心肺停止から3ないし5分以内に
心拍を再開して酸素を送らないと,脳細胞が不可逆的なダメージを受ける
といわれていることからすれば,当直医がCの病室に到着した段階で,脳
はすでに不可逆的なダメージを受けてしまっている。
したがって,本件において,より早期に気管内挿管ないし気管切開が行
われたとしても,Cの救命については,高度の蓋然性はもとより,相当程
度の可能性を認めることも困難である。
ウドレーン選択と結果との間の因果関係の不存在
前記のとおり,ペンローズドレーンと閉鎖吸引式ドレーンに有意差がな
いとされている以上,後者を使用していたとしても,結果発生を回避でき
た高度の蓋然性があるとはいえない。
術後比較的短時間で血腫が形成され,気道圧迫が生じるような症例では,
ペンローズドレーンでも閉鎖吸引式ドレーンでも排液は到底間に合わない。
この場合には,頸部の縫合部を開放して減圧したり,気管内挿管等の処置
が必要である。本件の場合にも,午後9時ころから体動が激しくなり,血
圧の上昇や患部への衝撃等により再出血を来したと考えられる。その出血
が縦隔に及び,反回神経麻痺に至ったとすれば,かような急激な出血に対
しては,ペンローズドレーンであっても閉鎖吸引式ドレーンであっても,
縦隔への流入を防ぐことは困難であった。
したがって,仮にドレーン選択に過失があるとしても,死の結果との因
果関係は存在しない。
(6)争点6(損害額)
(原告らの主張)
アCは,被告の行為により,以下のとおり,合計4620万円の損害を被
った。
(ア)逸失利益1900万円
337万2600円(Cの厚生年金受給年額)×0.6(生活費控除
40パーセント)×9.3935(平均余命13年のライプニッツ係
数)=1900万円(1万円以下切捨て)
(イ)慰謝料2200万円
(ウ)葬儀費用120万円
(エ)弁護士費用400万円
イ原告らは,Cの死亡により,Cの権利義務をそれぞれ2分の1の割合で
相続した。
ウなお,原告Aの遺族年金受給額については,平成15年12月から平成
16年3月までが48万6650円,同年4月から平成18年3月までが
年額194万0700円,同年4月以降は年額193万4800円である。
(被告の主張)
Cの死亡後に遺族年金として原告らに支給されたものがあれば,逸失利益
から控除されるべきである。また,Cの生活費控除割合については,少なく
とも5割を下回るものではないと考える。さらに,名古屋弁護士会報酬基準
規定は,弁護士法改正に伴い廃止されている。
その余の主張(原告Aの遺族年金受給の事実を除く。)についても争う。
第3当裁判所の判断
1争点1(Cの死因と予見可能性の有無)について
(1)剖検の所見
本件では,Cの剖検が行われているところ,これを担当した被告病院のI
医師作成の剖検診断書(甲A3)によれば,以下の所見が認められる。
剖検時,Cの左側頸部に9センチの手術痕があり,ドレナージチューブが
挿入されていた。術創を切開すると,頸椎切除部から肺門の高さまで(長さ
約15センチ)気管を囲むように厚さ約1センチの凝血が見られた(量とし
ては200ないし300ml程度)。気管周囲の筋は散在性に変性していた。
気道の閉塞は剖検時には見られなかった。心臓はTTC(染色法の一種)を
用いた結果,梗塞は否定できた。心室拡大はなく,肝臓の所見から不整脈な
どの心臓性突然死の可能性はない。声帯には肉眼的に明らかな異常はなかっ
た。
(2)医師による意見書
アT大学法医学教室J医師作成の意見書(甲B8)には,Cの死因として,
①骨の除去部からの出血による反回神経の圧迫,麻痺による声帯の不完全
閉塞部に痰が詰まったことによる窒息,②反回神経の圧迫,麻痺による声
帯の不完全閉塞部に,手術操作・気管挿管・循環障害により粘膜浮腫が生
じていたために完全閉塞してしまったための窒息(解剖時には心停止して
いるため声帯浮腫は顕著な所見として認められないことも十分に考えられ
る。),③迷走神経反射による心停止,の可能性を挙げ,これらについて
そのうちの1つを断定はしないが,上記のいずれにしても直接的な原因は
頸椎骨切除手術後の頸部後出血に起因する旨の記載がある。
イI医師の陳述書(乙A7の1)には,「肺門部まで及んだ凝血が,声帯
の動きを司る反回神経を圧迫するなどして麻痺させ,健側の声帯を麻痺さ
せた可能性が高いと考えるようになりました。反回神経が麻痺されると,
声帯が動かなくなり,声門が閉鎖するなどして,換気が急激に悪化します。
反回神経は,気管の後方,縦隔を走行していますので,障害を受けやすい
とされています。縦隔の腫瘍,あるいはリンパ節腫大などでも,反回神経
が圧迫され麻痺が起こることは文献上も記載されていますので,頸部から
肺門部に至る凝血が反回神経を圧迫し,麻痺を起こすことが考えられま
す。」との記載がある。
ウU大学病理病態学講座生体反応病理学K教授の意見書(乙B8)には,
Cの死因は凝血塊によって生じた呼吸不全と考えるのが妥当とし,機序と
しては,①気管周囲性の凝血塊による反回神経圧迫による麻痺とそれに続
く声帯の閉鎖,②気管周囲性の凝血塊による静脈圧迫に基づく咽頭浮腫,
③凝血塊による気道の直接の圧迫,が考えられ,そのうち①の可能性が最
も高い旨の記載がある。
エU大学整形外科学教室L講師の意見書(乙B9)には,①頸椎前方部の
手術を300例行ってきたが,今まで本件のような血腫で気管が圧迫狭窄
を受け,換気障害を起こした経験はなく,1センチほどの血腫で圧迫狭窄
を受けるほど気管は弱くない,②咽頭浮腫については,死後すぐに行われ
た解剖所見で浮腫を認めなかったことから今回の原因としては否定的であ
る,③迷走神経反射での心停止は起こり得る,④反回神経が凝血によって
麻痺し,右声帯を麻痺させることによって換気不全を生じたという仮説が
考えやすいが,実際の経験はなく,また,1センチ程度の後縦隔へ広がっ
た血腫が反回神経麻痺を起こすかどうかの可能性については言及できない
旨の記載がある。
オU大学医学部法医学教室M教授の意見書(乙B16)には,本件は,比
較的少量のコントロールされた出血であったが,たまたま凝血が反回神経
を圧迫したために神経障害によって死亡した公算が大きい旨の記載がある。
(3)死因の推論
この点,県立V病院院長N医師の意見書(乙B17)には,上記のような
経過をたどり呼吸困難となって死亡することは理解し難い旨の記載があるが,
他方では,理論上可能性があるともしている。
そこで,次に,それ以外の死因の可能性について検討するに,まず,凝血
塊による気道圧迫については,剖検記録(甲A3),剖検時の気道周辺の写
真(甲B8に添付)からすると,確かに気道周辺に1センチ程度の血腫が見
られるものの,上記意見書等の中でも,この程度の血腫では気道は圧迫され
ないとされていることから,気道自体を血腫が圧迫したことによる気道閉塞
の可能性は低いと判断できる。粘膜浮腫についても,剖検時において浮腫の
所見はなかったことが認められることから(乙A7の1),死因に寄与した
とは認め難い。さらに,反回神経麻痺に加えて痰が詰まったことも複合的な
原因と考えられるという見解については,午後9時以降,あまりCの痰を吸
引できなかった一方で,解剖所見でも痰が体内に認められなかったことから,
Cの声帯及び気道には気道閉塞させるほどの痰が詰まっていたとは認められ
ない。
以上を総合すると,Cの死因としては,複数の医師が本件で最も可能性が
高いと判断しているとおり,手術部位の出血が凝血塊となり,これがその周
辺の反回神経を圧迫・麻痺させ,声帯が閉塞したことにより呼吸困難が生じ
たと認めるのが相当である。
(4)気道閉塞が生じた時点
次に,反回神経麻痺に起因する気道閉塞が生じた時点について検討するに,
原告Bは,病室に到着した午後8時45分ころ,Cが息苦しいと訴えていた
のを聞いたと述べていること(乙A3の57頁,原告B本人),G准看護師
も,午後9時以降,Cの体動が徐々に激しくなったと述べていること(乙A
3の61頁,証人G)からすれば,反回神経麻痺による呼吸困難が生じたの
は,遅くとも午後9時ころであったと認められる。
被告は,このころのCの体動について,全身麻酔の残存,体温低下,疼痛
によるシバリング及びICU症候群といった他の原因による不穏であった可
能性を主張するが,それらの可能性が相当程度存在することを示すような証
拠はないから,被告の上記主張は採用できない。
また,被告は,反回神経麻痺は急激に進行するところ,午後9時ころにお
いては,いまだそのような状態にはなかったと主張するが,甲B8には,反
回神経麻痺でも即座に呼吸困難を来すものではないとの記述がある上,午後
9時25分には心停止に至っている(乙A3の62頁)ことに照らすと,遅
くとも午後9時ころに反回神経の麻痺が生じたとの上記認定を妨げるもので
はない。
(5)予見可能性の有無
進んで,上記の死因,機序の予見可能性の有無について判断するに,証拠
(甲B2,7,8,16ないし19)には,食道癌手術,甲状腺手術,胸腔
内手術,頸椎前方固定術等の際,合併症として反回神経麻痺を生ずる可能性
があること,特に両側性麻痺は重篤な呼吸困難を来すことがあるから,嗄声
の有無や呼吸状態の観察を定期的に行い,致命的な結果を招く前に,気管内
挿管や気管切開の措置が必要となることがあることなどと記載されているこ
とが認められる。
そうすると,反回神経麻痺による声帯閉鎖に起因する呼吸不全が急激に生
ずることが知られており(乙B8),反回神経がこのような形で換気不全を
起こした経験はなく(乙B9),比較的少量の出血においても時に発生する
反回神経麻痺を予見して的確に対処することはそれほど容易なことではなく
(乙B16),凝血で反回神経が麻痺することは,これまでの数百例の甲状
腺癌の手術において実際に経験したことがない(乙B17)としても,少な
くとも相当規模,施設を有する総合病院(甲A1)の医療従事者にとって,
上記の予見可能性が存在したと判断するのが相当である。
2争点2(呼吸管理に関する経過観察義務懈怠の有無)について
(1)11月11日(手術当日)の経過について判断の基礎となる事実
前記前提事実に,証拠(甲A4,5,6,乙A1,2,3,証人G,原告
A本人。ただし,認定に反する部分を除く。)及び弁論の全趣旨を総合すれ
ば,以下の事実が認められる(乙A3については,原則として頁数のみで表
記する。)。
アCは,被告病院において,手術前に頸部CT検査,肝機能検査を受けた
ところ,肝機能検査の結果は,ALPが314,ASTが44,ALTが
41,γ−GTPが234であった(24頁)。
イCは,午前11時においては,血圧132/74(mmHg),脈拍7
8回/分,体温36.4度であり,午後1時においては,血圧160/8
4(前同)であった(53頁)。
ウCは,午後1時30分に手術室に入室し,モニターを装着した。そして,
同39分,気管内挿管が行われた後全身麻酔が施され,午後2時29分か
ら午後4時20分までの間,頸椎骨切除手術(気管及び食道を圧排してい
た第3頸椎から第7頸椎の隆起した巨大骨塊をノミで削り落とし,出血部
位をボーンワックス(骨蝋)で可及的に止血した後,ペンローズドレーン
を創部に留置するというもの。)を受けた(16,18頁)。術者はH医
師,助手はF医師,麻酔医はO医師であった。
Cの血圧は,麻酔導入時にいったん低下したが,その後,収縮期血圧は
86から114で推移した(20頁)。手術による出血量は127gであ
り,また,Cが手術室を退室する時点での臨床症状は,血圧が116/6
5(mmHg),脈拍が57回/分,体温が35.2度,SpOが992
パーセントで,術後,気管内挿管については抜管された(18,19頁)。
エCは,午後5時15分,手術を終えてリカバリールームに戻った。リカ
バリールームは,ナースステーションの隣にあり,ナースステーションと
はガラスで隔てられている(乙B2,3)ので,そこに待機している看護
師等は,容易に患者の様子を把握することができた。
この時点で,Cの意識は覚醒していた。Cには自動血圧計が装着され,
この時点での血圧は111/59であり,SpOは100パーセント,2
体温は35.7度であった。Cには,疼痛や外部から認識できるような出
血は見られなかったが,起き上がろうとすることがあった。また,Cに対
し,インスピロンを使用して,毎分4リットル,濃度40パーセントの酸
素が流入された。この時点では,創部に留置されたドレーンからの排液は
なく,バルーンカテーテルからの排液が200mlあった(61頁)。
オCは,午後5時25分,動脈血を採取され,動脈血ガス分析が行われた
(28頁)。
カ午後5時30分ころ,F医師が,原告Aに対し,予定どおり頸椎の増殖
骨を切除したこと及び術後に喉頭違和感,疼痛出現の可能性があることを
説明するとともに,術前術後のレントゲン及び切除した骨を見せ,学会に
紹介してもいいかどうか尋ねた(なお,この点について,被告は午後8時
過ぎころの事実であると主張するが,下記のとおり,原告Aはその時刻こ
ろには被告病院にいなかったと認められるので,上記のとおり,認定し
た)。
キ午後5時45分ころ,上記(オ)の動脈血ガス分析結果が判明し,Phが
7.386,PCOが48.9,POが162.1,BEが3,SaO22
が99.3であった(28頁)。2
また,同時刻でのCの血圧は119/58(mmHg),SpOは92
9パーセント,体温は35.4度で,疼痛はなく,創部からの軽度の出血
が見られた。そして,G准看護師が,Cに対し,苦しさや痛みはないか尋
ねると,苦しくないという意味でうなずいた上,大丈夫,楽になったと話
した。その際のCの声は,聞き取りづらさはあったものの,G准看護師に
は通じた。G准看護師は,カルテに「出血軽度あり。注意し,観察必要」,
「術後に嗄声↑」と記載し,観察を続行することとした。(13,63頁,
証人G)
クCは,午後6時15分の時点で,血圧が118/58(mmHg),S
pOが98パーセント,体温が35.1度で,疼痛はないものの,創部2
からの出血が見られた。Cから,痰が絡んで自力で喀出できないとの訴え
があったため,G准看護師が痰を吸引し,白色痰を少量吸引した。なお,
喘鳴及び疼痛は見られなかった(61頁)。
ケ午後7時15分のCの血圧は117/67,SpOは99パーセント,2
体温は35.3度であり,疼痛はなく,創部に当てていたガーゼに出血が
認められた。Cは,咳漱とともに自力で痰を喀出でき,落ち着いた様子で
あり,「痰が出た,大丈夫。」と述べた。G看護師は,症状の観察を続行
することとした(61頁)。
コ原告Aは,午後6時ころ,被告病院を出ていったん自宅へ戻っていたと
ころ,午後7時7分に会社を出て,地下鉄伏見駅を同27分に発車した電
車に乗った原告Bから電話を受け,豊田市駅まで迎えに来てもらうように
頼まれた。
原告Bは,午後8時12分に豊田市駅に到着し,同25分ころ,迎えに
来ていた原告Aの運転する自動車に乗って被告病院に向かい,同45分こ
ろ,到着した(甲A4,5,6の1・2,原告B本人)。
サG准看護師は,午後9時前ころ,原告Bと共にリカバリールームを訪れ,
Cに対して「また痰が出ますか。」と尋ねた。
Cは,「起きる,起きる。」と繰り返し述べ,ベッド上で起き上がろう
とした。G准看護師は,Cが自力で痰を喀出できていないと考えて,痰を
吸引しようと試みたが,少量しか吸引できなかった。そこで,G准看護師
は,「もっと奥の方に痰があるかもしれないですね。」と述べ,また,C
がインスピロンを外そうとしたため,蒸留水吸入を行った。このころのC
の血圧は166/68(mmHg),SpOが98パーセント,体温が2
36.9度であった。(甲A4,乙A3の61頁,8)
しかし,Cは,苦しい,苦しいと述べていた(甲A4,乙A3の57頁,
原告B本人)。
シCは,午後9時10分ころ,「水が飲みたい,起きる。」と述べた。そ
れに対し,G准看護師は,ガーゼを濡らし,Cの口唇と舌を拭いた。Cは,
その後も,「起きる,横になる。」と言って起き上がろうとした(甲A4,
乙A3の61頁,8)。
G准看護師は,Cの発言を聞き,病棟巡回中のP看護師のところに行っ
て,Cを側臥位にしてよいか確認したところ,P看護師は,側臥位にする
ことは可能である旨返答した(乙A8)。
G准看護師は,P看護師と共にリカバリールームに戻った。さらに,Q
看護師も処置に加わった。P看護師は,原告Bに対し,「横を向けると痰
が出やすくなると思うので横を向けますね。」と説明した。それに対し,
原告Bは,「お願いします。」と答えた。G准看護師ら3名は,Cの患部
を支えながら,Cを右下側臥位に体位変換したが,Cは,起き上がったり,
仰臥位に戻ろうとし,また,「死ぬ,死ぬ。」と述べたりしていた。その
間,原告Bは,Cの右手を持ち,「起き上がっちゃ駄目よ。」と説得した。
しかし,結局,P看護師,Q看護師及びG准看護師の3名は,Cの言動か
ら側臥位にしておくことは適切ではないと判断し,Cを仰臥位に戻した。
その後もCは,起き上がろうとしたが,G准看護師ら及び原告Bによって
制止された(乙A8)。
Cの様子を心配した原告Bが,看護師等に対し,酸素が本当にCに入っ
ているのか尋ねると,P看護師は,インスピロンマスクから細かい霧が出
ているのを見せながら,「ここに酸素が通って,水蒸気と一緒に出ていま
す。ほら,霧が見えるでしょう。」と説明した(乙A8)。
Cの血圧は,170ないし180(mmHg)で推移するようになり,
時には190台(前同)まで上昇した。原告Bが,血圧計のモニターの数
値を見て,「これは何ですか。」と質問したところ,P看護師は,「血圧
です。腕に力が入ると高く出てしまう,血圧が高くなると,余計に出血し
やすくなる。」旨説明した。さらに,原告Bが「大丈夫ですか。」と問う
と,P看護師は,SpOが95ないし96パーセントであることを確認2
し,原告Bに対し,「手も温かいでしょ,触ってみて,これは手の先まで
酸素がいっている証拠だから,大丈夫ですよ。」と述べるとともにSpO
について説明した(甲A4,乙A3の61頁,8)。2
G准看護師は,この間にも口腔,鼻腔から痰の吸引を試みたが奏功せず,
喉の奥に痰があって喀出できないのではと考えた。Cは,痰を吸引する際
は体動が治まっていたが,吸引後は再度起き上がろうとしていた。また,
Cに経鼻エアウエイを挿入し,痰を吸引しようとしたが,これも奏功しな
かった(61頁)。
看護師ら3名は,相談の上,医師へ上申することとし,G准看護師が,
電話で,F医師に対し,Cの血圧が150ないし160台(mmHg)で
あること,SpOが96ないし95パーセントであること,痰があり,2
起き上がろうとする動作があって不穏状態であること,側臥位への体位変
換,蒸留水吸入を実施しても痰は少量しか引けないことなどを説明し,ギ
ャッジアップしてもよいか尋ねた。それを聞いたF医師は,ギャッジアッ
プを20度することを許可し,それでも不穏が続く場合にはセルシン10
mgを1A筋肉注射することを指示した(乙A3の61頁,8,証人G)。
そして,P看護師は,原告Bに「ベッドを20度上げる許可をもらいま
した,その方が痰が出やすいと思いますよ。」と述べ,G准看護師は,他
の看護師と共にベッドを20度ギャッジアップし,痰の喀出を促した。C
は,咳を軽く2回したが,痰がらみの咳が出るだけで,喀出できなかった。
その後もCの体動は続き,インスピロンを外そうとする動作をしていた。
スそこで,看護師ら3名は,セルシンの投与の準備を始めたところ,原告
Bが「何の注射ですか?」と尋ねたので,P看護師は,「本人が興奮され
ているので,それを抑える薬です。」と答えた(乙A8)。
G准看護師は,午後9時13分,Cに対し,「ちょっと痛いですよ。」
と声をかけ,セルシン1A(10mg)を左腕に筋肉注射した(乙A3の
62頁,8)。
セ午後9時15分ころ,Cの血圧は158/62であり,SpOが952
ないし96パーセントであった。Cは,この時点でも起き上がろうとする
動作を続けていたため,看護師等は,Cの手足をさすったり,痰を吸引し
ようとしたが,少量吸引できただけであり,吸引カテーテルは途中で止ま
って入らなかった(62頁)。このころ,P看護師は,病室を巡回するた
め,いったん退室した。
ソCの呼吸状態は,セルシンの投与後数分したところで,深い吸気と短い
呼気というように変化した(乙A8,証人G)。それを見たG准看護師は,
ナースステーションに心電図モニターを取りに行き,午後9時20分ころ,
Cにこれを装着した。すると,当初は毎分100回台であった心拍数が徐
々に毎分30ないし40回台に低下していった(乙A3の62頁,乙A
8)。
タCは,午後9時25分ころ,深い吸気のまま呼吸停止した。Q看護師は,
それを見て,ナースステーションでモニターを見ていたG准看護師を呼ん
だ。G准看護師は,ギャッジアップしていたベッドを下げ,Q看護師に心
臓マッサージを指示し,Q看護師は心臓マッサージを開始した。G准看護
師は,リカバリールームを出て,病棟巡回中のP看護師に応援を依頼し,
かつ当直医及びF医師に連絡した(乙A8)。
P看護師は,リカバリールームに戻ってアンビューバックを開始した。
そのころ,当日の当直医であったR医師もリカバリールームに駆けつけた。
また,原告Bは,廊下を歩いていた被告病院のS医師と出会い,父親の急
変を告げたところ,S医師も,リカバリールームへ駆けつけた。そして,
アンビューバックと心臓マッサージを続ける間に,気管内挿管の準備を進
めた(乙A3の62頁,乙A8)。
チ医師らは,午後9時35分ころ,気管内挿管を試みたところ,最初に使
用した8.5フレンチのチューブでは通過しなかったため,6フレンチの
チューブに取り替えて,ようやく通過した。このころのCのSpOは62
7パーセントであり,心電図は平坦であった(62頁)。
Cは,午後9時40分ころ,人工呼吸器を装着され(62頁),同42
分にはボスミン3Aを静脈注射された。この時点でのCのSpOは632
ないし66パーセントであり,同47分には心拍数が毎分120台(mm
Hg)となって,鼠径動脈に触れることができた。ただ,対光反射及び腱
反射はなく,瞳孔は散大していた。この時点で一度,心臓マッサージを中
止した(64頁)。
同52分,Cの心電図は平坦であったが,蘇生術が再開された。同53
分にはボスミン1Aが静脈注射され,同55分には更に1Aが静脈注射さ
れた。その結果,同58分には,SpOが56パーセント,心拍が毎分2
100回台となり,鼠経動脈に触れることができた(64頁)。
ツCは,午後10時05分ころ,右大腿部付近でアンギオ18Gを静脈内
に留置され,また,ヴィーンF500mlを投与された。さらに,同8分
には,ボスミン2Aが静脈注射され,カコージン3パーセント液を20m
l/H投与された。同10分には右鼠径部で大腿静脈と中心静脈が確保さ
れ,ヴィーンF500mlを投与された。同13分には,ボスミン2Aが
静脈注射され,同25分にもボスミン3Aが静脈注射され,頸部X線検査
(ポータブル)が実施された(66頁)。
テF医師は,午後10時40分ころ,Cにボスミン3Aを静脈注射すると
ともに,原告らに対し,午後9時20分ころCの呼吸が停止したこと,現
在気管内挿管の上心肺蘇生術を行っていること,呼吸停止の原因は分から
ないが,可能性として血腫による気管の圧排が考えられることを説明した。
F医師は,午後11時35分,原告らに対し,2時間近くCの心肺蘇生
を試みているが,非常に厳しい状態であること,心臓マッサージと薬剤で
辛うじて心臓が動いている状態であり,心肺回復の可能性は厳しいことを
説明した(57,66頁)。
トCは,午後11時50分,死亡が確認され,その後病理解剖が行われた
(甲A3,乙A3の66頁)。
(2)呼吸管理に関する経過観察の適否
ア甲B16の26頁によれば,甲状腺腫瘍全身麻酔手術患者の看護につい
て,手術当日の術後観察においては,バイタルサインのチェック,全身状
態の観察(出血・腫脹の有無,リリアバックの排液量・性状の観察,呼吸
状態の観察,悪心・嘔吐の観察,疼痛の有無,手指のしびれの有無),頸
部の安静保持,安楽な体位の工夫,輸液管理が必要とされている。この文
献は甲状腺腫瘍におけるものではあるが,頸部手術として本件と共通の性
質を有している上,同25頁には,甲状腺疾患は手術侵襲は少ないが,術
後の生体の急激に変化しやすい時期は他の疾病と変わらず,一般状態の観
察はもちろん,術後起こり得る合併症として,術後出血,呼吸困難,低カ
ルシウム血症などの観察にポイントを置き,援助しなければならない旨の
記載があることから,本件における経過観察についても一般的に妥当する
と考えられる。
そして,同27頁によれば,①血圧・脈拍については,術後全覚醒まで
は15分ごとのチェックを行い,変動がなければ30分ないし1時間ごと
に観察し,術前の血圧のレベルを確認して,変動の有無をチェックする,
②呼吸管理については,インスピロンによる酸素吸入を行い,深呼吸の助
言やセミファウラー位にするなど,呼吸筋の緊張を和らげ,十分な換気が
できるようにすることが大切であり,術後においては,特に反回神経麻痺
による喘鳴や狭窄音の有無を観察して異常の早期発見に努める,③術後の
急激な出血は気道を圧迫し,呼吸困難を起こすことがあるため,呼吸と出
血状態の観察を併せて行うことが大切である,④呼吸困難については,発
声の状態・嗄声に注意し,吸気音が強い,あるいは鼻翼呼吸を伴ったチア
ノーゼが見られる場合は,両側反回神経麻痺が考えられるので医師に連絡
をする,⑤枕の高低によって,また創部ガーゼの圧迫が強すぎる場合にも
呼吸困難を訴えるので,必要に応じて調節する,などの観察をすべきとさ
れている。
上記の知見を基に,被告病院の医師及び看護師等による経過観察の適否
について検討する。その際,Cの体動が激しくなったことが明らかな午後
9時ころ以降とそれ以前とに分けて検討する。
イ午後9時ころまで
(ア)前記認定事実(1)エのとおり,ナースステーションとリカバリールー
ムとは隣り合わせでかつガラスで隔てられており,看護師等は,ナース
ステーションにいながらCの状態を容易に観察し得る状況にあったこと
が認められる。
そうすると,G准看護師による午後7時15分までの経過観察は,上
記アの知見に照らしても,特に問題がないといえる。
(イ)それ以降については,G准看護師が,カルテには記載がないものの,
観察は続けていたと証言しているところ,同人が午後7時15分以降も
Cの症状観察を続行するとカルテに記載していること,ナースステーシ
ョンとリカバリールームの位置関係及び構造からCの状態をナースステ
ーションからでも容易に観察できる状況にあったこと,被告病院での術
後対応として,看護師等は,手術直後,15分後,1時間後,2時間後
に患者の状態を観察するように指示されており,その後は2時間ごとに
観察することとされていた(証人G)ことからすれば,その間の観察内
容については,特に問題のある症状などが見られなければ必ずしもカル
テに記載しなかったとしても不自然ではないと考えられることなどに照
らせば,同証言は信用できるといえる。とすれば,G准看護師は,午後
7時15分から午後9時ころまでの間も,Cの状態を継続して観察して
いたと認められる。
そして,G准看護師は,経過観察に際して,呼吸状態,出血,頸部の
腫脹,痰,麻酔からの覚醒状況及びバイタルサインといった点を見なけ
ればならないと認識していたと認められる(証人G)ことからして,実
際の経過観察に際しても,これらの点を意識していたことが推認される。
(ウ)このようにG准看護師が経過観察を続けていた以上,その時点でのC
の状態を併せ考慮すれば,医師による直接観察の有無にかかわらず,被
告病院における経過観察義務懈怠の点が存在したと判断することはでき
ない。
ウ午後9時ころ以降
(ア)前記認定のとおり,午後9時ころにおけるCの体動の原因は,反回神
経麻痺に起因する呼吸困難であったと認められるところ,午後9時以降
のCの症状及びそれに対する被告病院医師及び看護師等の対応は上記
(1)で認定したとおりであり,午後9時10分の段階で,SpOが92
5ないし96パーセントまで低下している上,午後9時ころからCの血
圧が上昇し,体動が激しくなっており,看護師等が痰を吸引したり体位
変換をしてもその状態が改善しなかったといった状況も見られている。
しかるところ,乙A9によれば,F医師は術前,呼吸困難の可能性を
も考えていたことが認められ,特にCには,術前から片側反回神経麻痺
が認められており,両側反回神経麻痺による呼吸困難の可能性は通常よ
り高いことが予見し得る状況であった。
これらの事情を併せて考えれば,被告病院の医療従事者としては,遅
くとも午後9時10分ころにおいては,Cの呼吸困難の可能性を考えた
対応措置を速やかに講ずる必要があったと判断できる。
(イ)しかるところ,本件においては,F医師がG准看護師から上申を受け
た際に聞いた内容は前記(1)シのとおりであるところ,脈拍数や呼吸数
については具体的な数値は明らかでなく,そのような情報量では,Cの
体動が呼吸困難によるものか別の原因によるものか,確定的な判断がで
きるだけの情報が得られたとはいい難い。そうだとすれば,F医師とし
ては,指示を与える前提として,まず,体動の原因を判断し得るだけの
症状を確認するよう看護師等に指示すべきであった。加えて,呼吸困難
かどうかを判断する際には,呼吸状態を視認したり聴診によって確認し
たりするなど,看護師等のみによっても把握できるものだけでなく,創
部や気道の状態を確認する際に場合によってはCTなどの使用も考えら
れることから,看護師だけでは対応できないものもある。特に,看護師
等は,Cの創部に留置されていたドレーンの当てガーゼを開けてはいけ
ないと指示されていた(証人G)のであるから,看護師等のみでは創部
の状態を十分確認できない。また,反回神経麻痺に起因する呼吸困難の
結果呼吸停止となった場合などでは,医師による気管内挿管又は気管切
開が必要となる可能性が高い。
とすれば,F医師としては,呼吸困難の可能性を踏まえて,その後の
急変に対応できるよう同医師自らがCの下へ向かうか,とりあえずは当
直医にリカバリールームへ来てもらうよう指示するなどして,医師が直
接観察し,必要な措置を採れる状態にしておくべきであったというべき
である。
(ウ)この点,被告は,乙A10によればSpOが90パーセント未満と2
なった場合にはサチュレーションモニターのアラームが鳴るとされてい
ることなどから,SpOが95ないし96パーセントの段階での対応2
としてはF医師及び看護師等に問題はないと主張する。しかし,直ちに
気管内挿管をすべきかどうかは別として,もともと98ないし99パー
セントであったものが95パーセント程度に下がってきていることから
すれば,換気状態が悪化している可能性を否定できるものではない。
また,被告は,Cの体動について呼吸困難以外の原因による可能性も
あると主張する。確かに実際に対応に当たっていた時点に立ってみれば,
そのような可能性を考えること自体問題というわけではない。しかし,
呼吸困難である可能性を否定するほどの事情は認められないのであり,
実際に呼吸困難に陥っていた場合の緊急性,結果の重大性にかんがみる
と,呼吸困難の可能性を上位に考えた対応をしておくべきであったとい
うべきである。
(3)担当医の注意義務懈怠
以上のとおり,F医師には,G准看護師から連絡を受けた午後9時10分
ころ,看護師等に対して体動の原因を明らかにするための更なる指示を与え,
同時に同医師自らあるいは当直医をしてCの呼吸状態等とともに術創の腫脹
などを確認すべきであったといえる。特に,看護師等は,前記のとおりCの
創部に留置されていたドレーンの当てガーゼを開けてはいけないと指示され
ていたのであるから,医師が直接創部の状態を確認すべきであったといえる。
その結果,Cが呼吸困難な状態に陥っていることを知ったのであれば,こ
れが反回神経麻痺に起因する可能性をも視野に入れ,不慮の事態が生じた時
には即時に気管内挿管や気管切開の措置を講ずることができるよう準備を進
めるべき注意義務があったといわざるを得ない。
しかるに,F医師は,G准看護師からの連絡を受けても,Cの体動が痰詰
まりと術後の通常の不穏と速断し,ギャッジアップとセルシンの筋肉注射を
許可ないし指示するにとどまったものであるから,Cに対する経過観察にお
いて,注意義務を懈怠する点があったと判断するのが相当である。
3争点5(経過観察義務懈怠と結果との間の因果関係の存否)について
午後9時10分ころにF医師がG准看護師から連絡を受けた際,Cの呼吸困
難の可能性を考え,体動の原因究明のための更なる指示を看護師等に与え,か
つ,いつでも気管内挿管や気管切開ができるよう準備するなどの適切な対応を
とっていれば,実際よりも早期にCの呼吸困難が判明し,気道確保に対する適
切な措置を執ることができたと考えられる。また,たとえその後にCが呼吸停
止に陥ったとしても,気管内挿管の実施は1分もあれば可能であること(証人
G)からすれば,即座に気管内挿管を実施することができたといえる(チュー
ブが適合しないことから,これを取り替えたとしても,致命的にならない短時
間内に実施できたと考えられる。また,声帯閉塞の場合に,気管内挿管が一定
の困難を伴うことは理解できるが,本件において,9時35分ころ,これが行
われていることに照らせば,被告主張のように,不可能であったとまでは認め
られない。)。
そして,そのような対応ができていたならば,Cの呼吸困難の原因が反回神
経麻痺による声門閉塞であって,気道さえ確保できれば心肺機能も回復した可
能性が高く,呼吸停止から脳の不可逆的損傷までに3分ないし5分要すること
(甲B22)も併せ考えれば,救命できた蓋然性が高いと認められる。
したがって,上記の経過観察義務懈怠と死亡との間に,因果関係の存在を肯
認するのが相当である。
4争点6(損害額)について
上記のとおり,F医師に経過観察に関する注意義務懈怠が認められるところ,
F医師は被告病院の医師であり,上記懈怠は被告の職務執行上のものであるこ
とが明らかであるから,その余の点について判断するまでもなく,被告は使用
者としての責任を免れない。
そこで,これによる損害額について検討する。
(1)逸失利益
損害算定の基礎となるCの年収(平成14年分)は,老齢(基礎及び厚
生)年金337万2600円と認められる(甲C1,2)。また,死亡当時,
Cは71歳であったことから,平均余命は13年であり,ライプニッツ係数
は9.3935である。さらに,生活費控除率については,Cが年金生活で
あったこと,原告Bは当時既に就職し,自らの生活費を捻出していたことが
認められることから,その割合としては50パーセントが相当である。
したがって,Cの逸失利益の額は,以下の計算式のとおり,1584万0
259円となる。
3,372,600円×9.3935×0.5=15,840,259円
(2)慰謝料
Cが死亡したこと,本件における過失の内容,Cの家庭における立場及び
その他本件に顕れた一切の事情を総合的に考慮すると,慰謝料としては20
00万円が相当と判断する。
(3)葬儀費用
本件と相当因果関係を有する葬儀費用として,120万円が認められる
(甲C3)。
(4)相続及び損益相殺
原告らがCを2分の1の割合で相続したことは明らかであるところ,上記
(1)ないし(3)を合計すると3704万0259円であるから,原告らはそれ
ぞれその半額である1852万0129円を取得したことになる。
ただし,原告Aについては,Cの死亡により遺族(厚生)年金を受給した
と認められるところ(甲C5ないし8),年金の受給者が不法行為によって
死亡した場合,その相続人が被害者の死亡を原因として遺族年金の受給権を
取得したときは,支給を受けることが確定した遺族年金の額の限度で,これ
を加害者の賠償すべき損害額から控除すべきである(平成5年3月24日最
高裁大法廷判決・民集47巻4号3039頁参照)。
しかるに,本件において原告Aが現在受領した額及び受領することが確実
であるとされる額(平成15年12月から最終口頭弁論期日の属する平成1
8年11月までの支給額。ただし,併給調整前の老齢年金を超える金額に限
る。)は,下記のとおり,合計301万0033円となる。したがって,こ
れについては,原告Aの損害額から控除されるべきものである。
ア平成15年12月から平成16年3月まで
(1,946,600円−936,700円)÷12×4=336,63
3円
イ平成16年4月から平成18年3月まで(なお,老齢年金についても改
定されていると考えられるが,資料を欠くことから,アと同額とした。)
(1,940,700円−936,700円)÷12×24=2,008,
000円
ウ平成18年4月から同年11月まで(前同)
(1,934,800円−936,700円)÷12×8=665,40
0円
(5)弁護士費用
原告らが,本件訴訟の提起,遂行のために弁護士である原告ら代理人に訴
訟委任したことは記録上明らかであるところ,本件事案の内容,本訴の経緯,
認容額等を総合すると,本件と相当因果関係を有する弁護士費用としては,
原告Aにつき120万円,原告Bにつき150万円をもって相当と判断する。
(6)賠償額
よって,被告が賠償すべき原告らの損害額は,原告Aにつき1671万0
096円,原告Bにつき2002万0129円となる。
5結論
以上の次第で,原告らの本訴各請求は,主文1,2項掲記の限度で理由があ
るからこれらを認容し,その余は失当として棄却し,訴訟費用の負担につき民
事訴訟法61条,64条本文,65条1項本文を,仮執行の宣言につき同法2
59条1項をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。
名古屋地方裁判所民事第4部
裁判長裁判官加藤幸雄
裁判官倉澤守春
裁判官奥田大助

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