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判決平成14年3月6日神戸地方裁判所平成10年(ワ)第639号損害賠償
請求事件
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は,原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告は,原告A1に対し7676万9307円,原告A2,同A3,同A4に対
しそれぞれ2292万3102円及びこれらに対する平成9年8月18日から支払
済みまで年5分の割合による金員をそれぞれ支払え。
2 訴訟費用は,被告の負担とする。
3 1につき仮執行宣言
第2 事案の概要
 本件は,亡甲(以下,「甲」という。)の夫及び同人らの子である原告ら
が,甲が被告経営のB病院(以下,「被告病院」という。)において第4子を分娩
する際,被告病院の医師らが,無痛分娩のための硬膜外麻酔を行った後に甲の容態
が急変して呼吸不全が生じたにもかかわらず,早期に適切な処置をとらなかったこ
とが原因で,甲及びその胎児が死亡したと主張して,かかる被告病院医師らの不法
行為につき,被告に対し,使用者責任に基づく損害賠償を求める事案である。
1 前提となる事実(末尾に証拠等の記載のない事実は,当事者間に争いのない
事実か,明らかに争わない事実である。)
(1)当事者等
 被告は,キリスト教の一派であるセブンスデー・アドベンチストの教義を
普及すること等を目的として設立され,その事業の一環として,B病院を経営する
宗教法人である。被告病院の産婦人科は,分娩の手法として,妊婦に硬膜外麻酔を
施した上で陣痛促進剤を投与して分娩させる手法(無痛分娩かつ計画分娩)を採用
している。
 甲は,第3子を被告病院で上記手法により分娩した経験を持ち,第4子を
出産するために被告病院を受診していた者であるが,平成9年8月18日,その分
娩のため被告病院に入院し,被告病院の医師により無痛分娩の準備として硬膜外麻
酔を受けたところ,その後に容態が急変し,同日被告病院で死亡した(当時38
歳)。
 原告A1は甲の夫であり,原告A2,A3,A4らは,甲と原告A1との間の子
である。
(2)硬膜外麻酔施行までの甲の診療経過
ア 診療経過
 平成9年1月31日,甲は被告病院で受診し,産婦人科のC医師の診察
を受けたところ,第4子を懐胎していること(妊娠第10週1日)が判明し,分娩
予定日は同年8月28日とされた。この日の身体検査では,甲は身長155㎝,体
重63㎏であり,これを基にするとBMIは26であった(BMIとはボディー・
マス・インデックスの略称で,身長と体重の比を表す指数である。女性の場合の正
常値は22くらいとされ,24を超えると過体重とされる(証人C)。)。
 同年2月17日(妊娠第12週4日),膣内から超音波検査をしたとこ
ろ,絨毛膜下出血様の像が認められため,C医師は甲に血液凝固系の検査を行っ
た。もっとも,この日甲に明らかな性器外出血が認められていたわけではなかった
(証人C)。
 同年3月6日(妊娠15週0日),この日はC医師の上司であるD医師
(被告病院の産婦人科部長兼名誉院長)が甲を診察した。D医師は,上記2月17
日の血液凝固系の検査結果が出血時間30秒,APTT34.2秒であったこと,
甲に血圧の上昇が認められていたこと等から,甲に血液凝固の亢進があると判断し
て小児用バッファリンの投薬を行った(乙20,証人D)。
 同年3月27日(妊娠18週0日),C医師が再度甲に超音波検査を実
施したところ,絨毛膜下出血様の像は消失していたため,小児用バッファリンの投
与を中止した。
 同年7月14日(妊娠33週4日),甲の下肢に浮腫が出現したため,
C医師は減塩食を摂ることを指示した。
 同年7月28日(妊娠35週4日),甲の下肢の浮腫が増悪したことか
ら,C医師は五苓散(漢方薬)を投与した。
 同年8月13日(妊娠37週6日),C医師の内診によると,甲は子宮
口1指開大,子宮膣部の展退なし,児頭は下降してステーション±0,子宮膣部は
口唇の硬さという状況であった。この状況を踏まえ,C医師は,子宮口を熟化させ
るためにマイリス200㎎を静注し,同年8月18日に計画分娩することを甲に勧
め,その理由等を説明した。甲はこれに同意し,8月18日に入院・分娩すること
になった。
イ 甲の血圧・体重等の推移
 甲が被告病院を受診してから分娩のために入院するに至るまでの,甲の
血圧,体重,浮腫の有無・程度,尿蛋白の有無,尿糖の有無に関する推移は下表の
とおりであった(なお,下表における「-」とは,それぞれ浮腫,尿蛋白,尿糖が
認められないことを表し,「+」は浮腫等が認められること,「++」はその程度
がより強いことを表す。)(8月13日につき,甲18)。
│ │血圧:㎜Hg│体重│浮腫│尿蛋白│尿糖│
│ │(収縮期/拡張期):㎏││││
│1月31日│104/60│63│-│-│-│
│3月 6日│124/80│63│-│-│-│
│3月27日│102/68│64│-│-│-│
│4月24日│110/80│65│-│-│-│
│6月 5日│110/70│66│-│-│-│
│6月23日│127/72│66│-│ ±│-│
│7月14日│114/64│67.5│ +│-│-│
│7月28日│109/63│68│ ++│-│-│
│8月 4日│112/68│68│ ++│-│-│
│8月13日│113/64│68│ +│││
ウ 硬膜外麻酔の施行
 平成9年8月18日(妊娠第38週4日)午前8時5分ころ,甲は原告
節雄に付き添われて,計画分娩を行うため被告病院に入院し,分娩予備室に入室し
た。
 この日は,E看護婦とF助産婦の2人が分娩予備室(及び分娩室)を担
当しており,Fは入室した甲に問診票を記載してもらった(甲9の5枚目,甲1
0,証人D,同E)。甲は,「今までにアレルギー体質だと言われたことがありま
すか。」との問診票の問いに対し,「いいえ」と回答した(甲10)。
 同8時20分ころ,プロスタグランディンE2(陣痛誘発剤)2錠,ア
タラックス(精神安定剤)1錠が甲に経口投与された。
 この後,E看護婦が甲の剃毛・浣腸を行った(証人E)。
 同8時50分ころ,甲にベッドに横になってもらい,分娩監視装置がつ
けられた。このころ,D医師が来室して内診を行い(子宮口は3㎝開大であっ
た。),甲を含む分娩予定の妊婦が計画分娩を行うことに支障がない状態であるこ
とを確認し,その後,外来診療のために分娩予備室を出ていった(甲18の2枚
目,証人C,同D)。
 同9時ころ,甲にマルトース注ML(輸液)500ml,VtB1(ビタ
ミンB1)50㎎,カルチコール(カルシウム製剤)5ml,アトニンO(陣痛促進
剤)2.5単位の混合液の点滴が,毎時80mlの速度で開始された。同時にソルラ
クトD(輸液)500mlの点滴も開始された。点滴開始後にマイリス200㎎が側
管から静脈注射された。このころに測定された甲の心拍数は毎分72回,血圧は1
08㎜Hg/62㎜Hg(収縮期/拡張期。以下同様である。)であった。
 同9時過ぎころ,C医師が甲の無痛分娩を行うために分娩予備室に来室
した(証人C)。
 同9時5分ころ,C医師により,甲の腰部硬膜外麻酔が開始された。
(3)硬膜外麻酔について(甲25の2,31,乙10,11及び証人C)
 硬膜外麻酔とは,局所麻酔薬を脊髄の硬膜外腔に注入して脊髄神経を麻痺
させ,無痛と筋弛緩を得る麻酔方法である。このうち,腰部(背中側)に穿刺して
行うのが本件で行われた腰部硬膜外麻酔であり,第3腰椎の棘突起と第4腰椎の棘
突起の間(以下,「L3-4」という。)から,順に皮膚,皮下組織,棘上靱帯,
棘間靱帯,黄靱帯を突き抜けて硬膜外腔に達する。
 硬膜外腔は脊椎に沿って上下に伸びる脊柱管内の細長い空間で,その外壁
である黄靱帯及びその内壁である硬膜により仕切られている。腰椎付近の容積は約
15㏄,幅は数㎜ほどである。硬膜外腔のさらに内側には硬膜(及びクモ膜)を隔
ててクモ膜下腔が存在し,その腔内は髄液で満たされている(脊椎麻酔の場合は,
このクモ膜下腔に局所麻酔薬を注入する。)。
 硬膜外麻酔に必要な麻酔薬の量は,脊椎麻酔に必要な量に比べ多量であ
り,このような多量の局所麻酔薬を誤ってクモ膜下腔に注入すると,高位脊椎麻酔
か全脊椎麻酔(いわゆる全脊麻)となって呼吸抑制等が生じ得る。また,多量の局
所麻酔薬を誤って硬膜外静脈叢に注入してしまうと,血管内注入となって中毒を起
こすことがある。
 したがって,硬膜外麻酔における穿刺針の針先が適切に硬膜外腔内にある
かどうか,意図せずにクモ膜下腔や血管内に入っていないかどうかを確認すること
が極めて重要であり,そのため本格的麻酔の前に少量の麻酔薬を注入して,上記の
ような誤注入がないか,さらにはアレルギーが生じないかなどを確認する試験的な
麻酔(テスト麻酔)が行われる。
 C医師は,硬膜外麻酔については,被告病院での勤務を始めてから本件当
時までの約6年間,月に10件以上を施行してきた経験を持っていた。
(4)甲の容態急変と死亡
 C医師が,甲の腰部硬膜外麻酔において,テスト麻酔として0.25%マ
ーカイン(局所麻酔薬)2ml(5mg)と生理食塩水8mlとを混合して注入したとこ
ろ(以下,「本件テスト麻酔」という。),甲が歯をグッと咬みくわえて,その容
態が急変した(この容態急変の時刻については争いがある。)。
 そこで,D医師が応援に呼ばれ,その指示の下,各種の処置が施された。
途中,甲はベッドごと分娩室に移送され,治療が継続されたが,血圧測定不能とな
るなどした。
 同9時30分ころには内科医のG医師が,続く同9時50分ころには麻酔
科の堀口医師がそれぞれ応援に到着し,H医師の下で気管内挿管が行われた。
 同9時51分ころ,いったん帰宅していた原告A1が同A3及び同A4を連れ
て再び来院し,事態の急変を聞いて分娩予備室に来室した。
 同10時3分,血圧測定不能となり,心マッサージを停止すると心拍数は
50台からフラット(心拍数ゼロ)になってしまう状態となった。
 その後も心マッサージをしながらボスミン,メイロン等の薬剤を注入した
が,甲の血圧は上昇せず,心臓も動こうとしなかった。
 同10時45分,甲の蘇生が断念され,死亡が確認された。午前9時5分
の麻酔開始からわずか1時間40分後であった。
 甲の死後,解剖は行われず,死亡診断書には,甲の直接死因として「脳出
血」,その原因として「妊娠中毒症」が記載された(甲5)。
2 争点
(1)本件テスト麻酔後から,甲に気管内挿管が行われたころまでの間に,甲の
症状はどのように経過し,これに対して被告病院医師らがどのような処置を行った
か(特に,甲の容態急変の時刻及び呼吸不全の継続の有無について)(争点1)。
(2)甲の死亡原因は何か(争点2)。
(3)容態急変後の甲に対する処置において,被告病院の医師らに過失がある
か,また過失があるとして死亡との因果関係があるか(争点3)。
(4)原告らの損害額(争点4)
3 争点に対する当事者の主張
(1)本件テスト麻酔後の経過(争点1)
(原告らの主張)
ア 経過について
 平成9年8月18日午前9時5分ころ,C医師は甲に腰部硬膜外麻酔を
開始し,本件テスト麻酔を行った。
 これに引き続いて,甲の容態が急変したのは,同9時10分ころであっ
た。痙攣発作が発生し,歯をグッと咬みくわえ,咽頭痙攣が生じて呼吸困難な状態
となり,呼吸が停止した。そこで,E看護婦がすぐに下顎を強力に挙上したとこ
ろ,甲は呼吸を開始した。
 E看護婦はまた呼吸が止まるかもしれないと思い,自発的にアンビュー
バッグを取りに行き,甲に装着して酸素投与を開始した。
 しかし,甲は,呼吸はしているものの弱々しい呼吸であり,バッギング
開始後も意識がなく,「うーうー」とうなり声を出して,四肢のチアノーゼも著明
で,呼吸状態の改善はみられなかった。
 同9時15分ころ,D医師は甲の症状を子癇発作と判断し,アタラック
スP(精神安定剤)25㎎が静注された。
 同9時17分ころ,容態急変後1回目の胎児心音のチェックが行われ,
毎分120回であった。甲は分娩予備室から分娩室にベッドごと移送された。
 同9時20分ころ,甲に自動血圧計と心電図モニターが装着された。甲
の血圧は自動血圧計では測定不能であり,触診により手首の動脈がかすかに触れる
程度で,心拍数は毎分40回台の後半であった。また,呼吸不全は継続していた。
 このころマグネゾール(子癇発作に有効とされる薬剤)20mlが静注さ
れた。このころから同9時30分ころまでの間,甲の心拍数は一時的に毎分70回
から80回台に上昇した。
 同9時30分,G医師が応援に到着し,アトロピン(術中の徐脈の治療
に有効な薬剤)0.3mgが静注された。
 同9時45分,さらにマグネゾール20mlが点滴に混注され,同時にカ
タボン(昇圧剤)が毎時10mlの速度で投与開始された。
 同9時50分,H医師が応援に到着した。甲の呼吸不全が継続し,全身
状態が悪いため同医師によって気管内挿管がされた。
 同10時,C医師がようやく2回目の胎児心音のチェックを行ったとこ
ろ,胎児の心音が消失した。
イ 乙7号証の信用性について
 乙7号証は,本件訴訟開始後になって,D医師がE看護婦からの事情聴
取に基づいて,本件診療経過を整理したものであるが,その作成過程には,甲の主
治医であり,甲に生じた異変の一部始終を見ていたC医師を関与させていない。ま
た,その内容は,カルテ等に比べて,甲の痙攣発作から死亡に至るまでの時間を短
縮し,チアノーゼなどの重要な臨床所見を脱落させ,胎児心音のチェックに関する
新たな事実を付け加えるなどしている。
 これは,甲の痙攣発作から死亡までが急激な転帰をたどったことを印象
づけることにより,甲を子癇と決めつけて他の疾病又は合併症の可能性を含めた治
療をしなかったC医師及びD医師の過失を否定する意図で作成されたものであり,
その信用性はない。
(被告の主張)
ア 経過について
 平成9年8月18日午前9時5分ころ,C医師は,甲にアレルギーがな
いこと及び第3子分娩時の硬膜外麻酔で特段の異常がなかったことを確認した上
で,甲に腰部硬膜外麻酔を開始した。
 まず,1%キシロカイン2mlにより穿刺部位の皮膚麻酔を施行した。こ
の際,吸引を行っても出血は認めなかった。
 次に,硬膜外麻酔専用針を硬膜外腔に入れた。この際も,吸引により出
血や髄液漏出を認めなかったため,針先が血管やクモ膜下腔に入っていないことが
確認された。
 そこで,本件テスト麻酔として,0.25%マーカイン2mlを生理食塩
水8mlに混ぜて,注射器のピストンの押し引きを数回繰り返して注入した。その
後,持続硬膜外カテーテルを脊椎の尾側へ向けて挿入し,再度注射器で押し引きし
て,出血や髄液漏出がないことを確認した。
 ところがその後,突然,甲が「うーうー」とうなり声を出して,口を強
く閉じた状態となった。この容態急変の時刻は,C医師が上記の作業を行うのに1
5分から20分ほどかかることからすると,同9時20分ころである。
 甲には咬筋の小痙攣が生じ(子癇発作第1期の誘導期),頸部の強直性
痙攣が生じ,意識が消失し,(一時的な)呼吸停止状態となって,チアノーゼがみ
られた(子癇発作第2期の強直性痙攣期)。そこで,直ちに甲の下顎を挙上する
と,自発呼吸を開始した。
 E看護婦が甲にアンビューバッグを装着して酸素加圧を行うと,しばら
くしてうなり声は消え,自発呼吸もしていた。この時,E看護婦とともに分娩予備
室に来室した手術室主任の田尻看護婦が甲の下肢の運動を認めた(子癇発作第3期
の間代性痙攣期)。
 同9時22分,C医師の連絡を受けたD医師が分娩予備室に到着した。
D医師はアンビューバッグを外して呼吸の確認と気道の確保を行った。D医師が診
察した時点では,甲の意識は全くなかったが,安定した呼吸をしており,呼吸障害
は継続しておらず,顔面チアノーゼ,喘鳴などの呼吸器症状はみられなかった(子
癇発作第4期の昏睡期)。D医師は,甲が子癇発作であると判断し,アタラックス
P25㎎の静注と,マグネゾール20mlの静注及び点滴を指示した。
 同9時23分,D医師の上記指示を受けて,アタラックスP25㎎の静
注が行われたが,マグネゾール20mlの静注はすぐにできなかった。
 しばらく用手的に気道を確保・保持していたが,甲の意識は回復せず,
血圧も低下していた。
 同9時27分,D医師は,甲には痙攣発作はなく,呼吸不全や顔面の状
態の悪化もなかったが,覚せいもまたなかったことから,急性心不全か脳内出血を
疑い,甲を分娩室に移送することを指示した。
 同時に,甲に自動血圧心電計を装着すること,内科のG医師の応援を要
請することを指示し,その後再度アンビューバッグを装着して,甲を分娩室に移送
した。
 同9時29分,G医師が分娩室に到着し,D医師がG医師に甲の急性シ
ョック状態を告げた。心拍数は手動で毎分40回台で,血圧は測定不能であった。
もっとも胎児の心拍数は正常であった。
 同9時41分,自動血圧心電図による計測を開始した。心電図には,軽
度のAVブロックが認められた。また,D医師が同9時22分に指示を出していた
マグネゾール20mlの静注がこのころに行われた。
 同9時50分,胎児心音があったために,その後の全身管理と帝王切開
による分娩に備えて,甲に気管内挿管を行った。その際,気管内と呼吸には異常が
なかった。このころ,まだ胎児心音は正常であった。
 同9時59分,帝王切開を断念し,カタボン及びメイロンを静注した。
 同10時,胎児心音の消失が確認された。
イ 乙7号証の信用性について
 甲に痙攣性の発作が発生した後の治療と時間の経過についてC医師,D
医師,E看護婦の3者間で記憶に相違があり,実際の治療経過とカルテ等の記載と
の間に食い違いがあることが判明したため,上記3者にその他の応援の医師等も含
めて検討した結果,以下の事実が判明した。
(ア)数名の助産婦によると,通常,C医師による硬膜外麻酔の所要時間は
15分から20分である。
(イ)甲の容態が急変してから9時30分ころまでの間,甲に対応していた
看護婦はE看護婦だけであったことから,同人は対処に追われ,メモを取る暇がな
かった。したがって,上記時間帯の各処置に関する看護記録の時刻の記載は,同人
が後に自己の記憶のみに基づいて記載したものであって,不正確である。
(ウ)同9時30分以降の看護記録の記載は,応援の看護婦のメモ等に基づ
くものであるから正確である。
(エ)C医師のカルテの時刻の記載は,上記E看護婦作成の看護記録に基づ
いて作成されているので,E看護婦の記載を参照した部分については不正確であ
る。
 そこで,以上の事実を踏まえて事実を整理し,作成されたのが,乙7号
証の「患者 甲様の経過記録」であり,ほぼ正確な治療経過を記載している。C医
師には,カルテの記述と実際の治療経過との間に食い違いがあった旨を伝えて,そ
の内容に同意を得たものである。
 よって乙7号証の内容に,信用性に欠けるところはない。
(2)甲の死亡原因(争点2)
(原告らの主張)
ア 本件において,甲の死亡原因として考え得るのは,<1>局所麻酔薬の
クモ膜下注入による全脊麻,<2>局所麻酔薬の血管内注入による局所麻酔薬中
毒,<3>誤嚥を合併した子癇発作,<4>脳内出血,<5>肺血栓塞栓症又は羊
水塞栓症であるが,特に<1>ないし<4>のいずれかであった可能性が高い。
イ 局所麻酔薬のクモ膜下注入による全脊麻
 硬膜外麻酔においては脊椎麻酔の場合よりも大量の麻酔薬が使用され
る。そのような大量の局所麻酔薬が誤ってクモ膜下に注入されたら,間違いなく高
位脊椎麻酔か全脊椎麻酔になる。このような状態になると,呼吸筋にも麻酔が及
び,さらに中枢性の呼吸麻痺や循環抑制,痙攣などが生じる。
 本件では,C医師が甲に硬膜外麻酔を施行した後に呼吸抑制等が生じて
いることなどからすると,C医師が誤って麻酔薬をクモ膜下に注入してしまったた
め,甲が全脊麻となり,その結果呼吸抑制等が生じて死亡した可能性が最も高い。
ウ 局所麻酔薬の血管内注入による局所麻酔薬中毒
 妊娠時の硬膜外腔の静脈叢は通常より怒張しているため,麻酔薬注入用
カテーテルを留置したときに血管損傷を起こしてカテーテルが血管内に迷入しやす
い。そして,局所麻酔薬が血管内に注入され,麻酔薬の血中濃度が5mcg/ml以上に
なると局所麻酔薬中毒となり,中枢神経刺激症状として興奮,痙攣,錯乱が生じ,
さらに濃度が高ければ中枢神経抑制作用により意識消失,呼吸筋の痙攣による換気
障害が生じる。
 本件では,C医師が甲に硬膜外麻酔を施行した後に,最初に痙攣が生
じ,その後に呼吸抑制や血圧下降が生じていることからすると,C医師が誤って麻
酔薬を甲の血管内に注入して局所麻酔薬中毒に陥らせ,その結果甲に呼吸抑制等が
生じて死亡した可能性が十分にある。
エ 誤嚥を合併した子癇発作
 子癇は重症の妊娠中毒症の場合にしばしば発生する。
 しかし,甲は妊娠中も極めて健康であった。確かに,拡張期血圧が上昇
したり体重が増加したりしたが,これらは一時的なものにすぎなかった。軽度の浮
腫があったのも妊娠末期においてはめずらしいことではないし,妊娠中毒症の症状
である尿蛋白も認められなかった。よって,そもそも甲は妊娠中毒症ではなかった
し,仮に妊娠中毒症という診断が可能だとしても極めて軽症であった。
 また,子癇は初回出産に起こりやすく,以後の出産でも反復しやすいと
いわれるが,甲は第1子と第2子の出産時には子癇はなかった。その上,子癇単独
で本件のように急激に死亡することは少ない。
 以上からすると,本件で子癇が発生した可能性は低い。
 もっとも,子癇発作に誤嚥などの事故が加わった場合には,気道閉塞に
より呼吸困難となって死亡する危険はある。そして本件で甲に呼吸障害が継続して
いたことからすると,誤嚥を合併した子癇発作が死亡原因となった可能性は否定で
きない。
オ 脳内出血
 午前9時10分の発症からわずか1時間35分で死亡に至った本件にお
いては,脳内出血による死亡の転帰としては時間が短すぎる。
 もっとも,気道の確保と換気が適切に行われずに低酸素血症,高炭酸ガ
ス血症,高マグネシウム血症等が同時に存在していれば,不整脈による心肺停止か
ら本件のような短時間でも死亡に至り得る。
 そして本件では,午前9時50分に気管内挿管がされるまで,血圧及び
呼吸のコントロールが適切にされなかったことからすると,脳内出血が発症し,そ
の後の不適切な処置が重なって急激に死亡するに至った可能性がある。
(被告の主張)
 解剖がされていないため断言はできないが,甲は,妊娠中毒症に起因する
子癇発作を経て,脳内出血を合併したことにより死亡した可能性がある。
 すなわち,子癇については,現在のところ,妊娠中毒症によって起こる意
識障害を伴う突発的痙攣発作であり,妊娠中毒症の純粋型や混合型の区別なく,ま
た妊娠中毒症の軽重を問わず起こり得ると考えられている。そして,甲には軽症の
妊娠中毒症が発症していたこと,甲に痙攣発作が生じてからの状況も子癇発作の症
状に当てはまることなどからして,甲に起こった痙攣発作は子癇発作であったとい
える。
 また,発作直後の血圧下降,脈拍下降から,脳内出血が疑われ,統計的に
も,妊婦については,脳内出血後24時間以内に死亡する急激な臨床経過をたどる
症例が多いのである。
 なお,局所麻酔薬中毒及び全脊麻は,ともに初発症状として呼吸困難がが
あり,気道閉塞とアレルギー反応が続発するものである。しかし本件では,甲の気
道に異常はなかったこと,胎児心音があったことなどからして母体の酸素欠乏はな
かったといえるのであって,甲の死亡原因が局所麻酔薬中毒又は全脊麻であるとは
いえない。
(3)被告病院の医師らの過失及び因果関係(争点3)
(原告らの主張)
ア 各原因が疑われた場合に必要な措置
(ア)局所麻酔薬の血管内注入による局所麻酔薬中毒
 気道確保を十分に行うこと,ジアゼパム等の投与により痙攣を止める
こと,低血圧の場合は投薬により血圧を上昇させることなどが必要であるが,特に
呼吸管理が重要である。
 仮に局所麻酔薬中毒になっても,そのことを理解し,全身管理が適切
になされれば死亡等の重大な結果は回避できる。
(イ)局所麻酔薬のクモ膜下注入による全脊麻
 局所麻酔薬中毒の場合と同様,全脊麻の場合も気道確保と全身管理が
重要であり,それらが適切になされれば重大な結果を回避できる。
(ウ)誤嚥を合併した子癇発作
 気道内吸引と気管挿管による気道確保が重要である。
(エ)脳内出血
 血圧や呼吸のコントロールが適切に行われるかどうかが予後に大きく
影響することから,脳内出血が疑われる場合には,直ちに気管内挿管による気道確
保や循環のモニターなどをしなければならない。
イ 呼吸管理及び全身管理が遅れた過失
 甲は,痙攣発作が発生して呼吸が停止し,その直後から,アンビューバ
ッグで酸素投与を受けたにもかかわらず,呼吸不全が継続し,チアノーゼも改善し
なかった。その上,容態の急変から10分後ころには,血圧の測定も不能な状況に
なっていた。
 このような状況においては,C医師及びD医師は,ジアゼパム等の抗痙
攣剤を投与して甲の痙攣を抑え,適切に気道を確保し,甲が血圧測定不能な状態に
なった時点では,人工呼吸器の気管内挿管を行い,カタボン等の昇圧剤を投与して
心肺蘇生術を実施するなど,早期に適切な呼吸管理及び全身管理を行い,その上で
バイタルサインをチェックしながら,甲の合併症の鑑別診断をすべき注意義務があ
った。
 しかるに,C医師及びD医師は,甲に抗痙攣剤を投与せず,甲が血圧測
定不能になった後も早期に気管内挿管や昇圧剤投与を行わないで,午前9時50分
の気管内挿管までの間,甲の症状を子癇発作と決めつけた治療しか行わず,合併症
を想定した治療を行っていない。かえって,循環抑制の副作用のあるマグネゾール
(子癇発作には有効な薬剤であるが,心抑制作用と血圧低下の副作用がある。)を
持続投与するなどしており,極めて不適切な治療をしている。
 その結果,甲の適切な呼吸管理及び全身管理が遅れ,甲を死亡させるに
至ったものである。
 なお,甲の死亡原因は具体的には特定できないが,甲の死亡原因が上記
アのいずれであっても,当該箇所に示したような措置が必要であったことからする
と,本件で早期に甲の呼吸管理及び全身管理がなされていれば,甲の死亡は回避で
きたはずである。仮に死亡が避けられなかったとしても,本件のように急激に死亡
するという結果は避けられたはずである。
ウ 不十分な人的物的体制下で硬膜外麻酔を施行した過失
 硬膜外麻酔を施行する医師は,局所麻酔薬中毒や全脊麻による呼吸麻痺
や痙攣が発生した場合に備えて,気管内挿管器具,吸引器,心電呼吸モニター,全
身麻酔器具,蘇生に必要な薬品等を準備し,かつ異常が発生した場合には直ちに対
処できる人員配置をしておくべき義務がある。
 しかるに,C医師及びD医師は,上記のような人的物的体制が不十分な
状況で甲に硬膜外麻酔を施行した。
 本件では,早期に適切な呼吸管理及び全身管理を行っていれば,甲の死
亡を回避できたにもかかわらず,上記の人的物的体制の不十分さのために甲の呼吸
管理及び全身管理が遅れ,甲を死亡させるに至ったものである。
エ C医師の麻酔手技上の過失
 仮に甲の死亡原因が局所麻酔薬中毒又は全脊麻であったとすると,C医
師には麻酔手技上の過失がある。
 すなわち,C医師は,甲に硬膜外麻酔を行うに当たっては血管内注入又
はクモ膜下注入をすることがないよう十分に確認しながら局所麻酔薬の注入を行う
べき義務があった。
 しかるに,C医師はこれを怠り,あるいは硬膜外麻酔を行うに当たって
要求される手技が未熟であったために,誤って麻酔薬を血管内又はクモ膜下に注入
して,甲を局所麻酔薬中毒又は全脊麻に陥らせ,その結果,呼吸抑制等を生じさせ
死亡させた。
(被告の主張)
ア 甲の痙攣は咬筋に硬直が出現する咬痙であって,全身性の痙攣ではなか
った。そして,C医師は,甲の咬筋の硬直が強かったため気道確保等のための開口
をうまくできなかったものの,下顎を挙上することで甲の自発呼吸が開始したこと
から,アンビューバッグによる呼吸管理としたものである。
 また,D医師が到着したときには,甲には自発呼吸もあり,呼吸困難,
喘鳴,チアノーゼ,痙攣発作はなかったし,アンビューバッグにより呼吸管理さ
れ,その後の超音波検査でも胎児に低酸素を疑うべき徐脈はなかった。ジアゼパム
については,重大な副作用として舌根沈下による上気道閉塞(呼吸抑制),循環性
ショック,新生児への悪影響等があるので,有益的に投与を行うべきでないと判断
した。
 そしてD医師は,あくまでも甲の症状に基づいて対処した。すなわち,
アナフィラキシーショックや全脊麻の可能性も考慮しつつ,最終的に子癇発作と判
断して,血管と気道を確保し,再度の痙攣発作に備えた処置をしている。その後,
循環系の異常を認めたことから,脳内出血か心筋障害を考えて内科医師の応援を依
頼したのである。
 また,胎児心音が認められたので帝王切開を考えて麻酔科医師に応援を
依頼したのであるが,それまでの間,呼吸不全とチアノーゼはなく,他方で血圧低
下などの循環系の異常がみられたことからすると,循環系の異常への対処に優先さ
せて気管内挿管を行うべき必要性はなかった。
 このように,D医師は子癇を第1に考えたが,子癇と決めつけた対処は
していない。
 以上から,被告病院の医師らに呼吸管理及び全身管理における過失はな
かった。
イ 人的物的体制については,被告病院では,分娩予備室・分娩室と手術室
とは隣り合わせの至近距離にあり,救急処置のための器具は共用しており,点検・
確認も毎日しており,あらかじめ救急事態に対する準備は整っていた。本件でも短
時間でアンビューバッグを装着しているし,直ちに気管内挿管の器具を含む救急用
カートを分娩室に運び込んでいる。また,必要ならば産科医師も内科医師も気管内
挿管をする技術を有していたのである。
ウ C医師は,硬膜外麻酔の経験が豊富であって,その手技が未熟であった
ということは全くない。また,本件テスト麻酔で,局所麻酔薬を血管内又はクモ膜
下に注入したことはなく,十分に確認した上で適切に硬膜外腔に注入している。
 よって,C医師に硬膜外麻酔施行における手技上の過失はない。
(4)原告らの損害額(争点4)
(原告らの主張)
ア 甲の逸失利益について
 甲は死亡当時38歳で教師をしており,平成8年度の年収は693万1
530円であった。これを基礎に生活費控除割合30%,労働可能年数29年に対
応する新ホフマン係数を乗じて計算すると,甲の逸失利益は9553万8615円
である。
イ 原告A1の損害額(合計7676万9307円)
(ア)慰謝料
 原告A1は,甲とともに教師として共働きをしながら,3人の子に恵ま
れ,円満幸福な生活を送っていた。分娩直前まで元気だった甲が4人目の子ととも
に帰らぬ人となり,原告の傷心は言葉に言い尽くせないものがある。よって,その
精神的苦痛を慰謝するには2000万を要する。
(イ)甲の逸失利益の相続分
 上記甲の逸失利益9553万8615円のうち,法定相続分相当額
(2分の1)は4776万9307円である。
(ウ)葬儀費用
 原告A1は,甲と胎児の葬儀費用として200万円以上を支出した。少
なくとも200万円が損害である。
(エ)弁護士費用 700万円
ウ 原告A2,A3,A4の損害額(各合計2292万3102円)
(ア)慰謝料
 母親と兄弟となるべき胎児を一度に失った子らの悲しみを慰謝するに
は,少なくともそれぞれ500万円を要する。
(イ)甲の逸失利益の相続分
 各自の法定相続分相当額(6分の1)は1592万3102円であ
る。
(ウ)弁護士費用 それぞれ200万円
(被告の主張)
 すべて否認ないし争う。
第3 争点に対する判断
1 争点1(本件テスト麻酔後の経過)
(1)乙7号証について
 同号証は,被告病院の医師らが本件訴訟開始後に甲の診療経過について整
理・作成したものであること,そこでは,カルテ及び看護記録(乙1,2)に記載
された甲の容態急変の時刻(午前9時10分)を午前9時20分に訂正し,これに
伴って,容態急変後の各処置等の時刻についても10分前後遅らせていること,そ
の他カルテ等に記載のある事項について付加訂正,削除等した内容となっているこ
とは,被告自身が認めるところである。
 また,証拠(甲7,8,証人C,同D,同E)によると,看護記録を記載
したE看護婦は,甲の容態が急変してから9時30分ころまでの間,メモを取る余
裕がなかったこと,よって,上記時間帯の記録は,後に自己の記憶のみに基づいて
記載したこと,C医師は看護記録の時刻を参照してカルテに記載したことが認めら
れる。
 かかる乙7号証の信用性については,原告らから疑問が提示されており,
当裁判所としても,その作成経過からみてその信用性を検討する必要があると考え
る。
 よって検討するに,同号証を除く前掲各証拠によると,乙7号証に記載さ
れた甲の容態急変後の状態,診療経過は,時刻の点を除けば,カルテ等に記載のあ
る状態,診療経過と一致する点が多いこと,C医師の硬膜外麻酔の手技からして,
麻酔施行開始から本件テスト麻酔の注入まで5分もかかっていないというのは認め
難く,かえって少なくとも10分程度の時間がかかっていることが推認され,これ
らの点を考慮すると,乙7号証はそれなりに合理性のある内容であるといえる。し
たがって,本件訴訟提起後に作成されたということを考慮に入れても,その信用性
を否定するまでには至らないというべきである。
(2)認定事実
 前記前提事実,証拠(甲6ないし11,13,31,乙1ないし3,7,
10,11,13,17,31の2,32,33及び証人C,同D,同E)及び弁
論の全趣旨によると,次の事実が認められ,これを覆すに足りる証拠はない。
ア 硬膜外麻酔の施行
 平成9年8月18日午前9時5分ころ,被告病院の分娩予備室におい
て,C医師が甲に腰部硬膜外麻酔を開始した。開始に当たって,それまで甲に装着
されていた分娩監視装置は取り外された。
 甲があらかじめ回答しておいた問診票によると,甲はアレルギー体質だ
と言われたことはないとの回答であったが,C医師は,いつものとおり念を入れて
自ら口頭で問診を行い,過去に喘息やアトピーがなかったか,薬剤アレルギー等が
ないかなど既往歴について確認し,甲はアレルギー体質と言われたことがない旨答
えた(なお,甲が第3子出産時に被告病院で回答した問診票には,アレルギー体質
だと言われたことがある旨の回答がされていたが,C医師はこの時点ではそのこと
は認識していなかった。)。
 問診が終わると,C医師は穿刺の準備に取りかかった。甲の体位は,ベ
ッドの上で身体の右側を下に横向きに寝て,へそを見るように背中を丸めた姿勢で
あり,穿刺を行う背中側にC医師が位置した。E看護婦は甲の顔が見える側から,
甲が背中を丸めた姿勢を保ちやすいように甲の肩と尻ないし足にかけての部分を支
えていた。
 C医師は,甲の穿刺部位(L3-4)を手で確認し,まず硬膜外麻酔専
用のTuohy針を穿刺する準備として,1%キシロカイン(即効性の麻酔薬)2
mlで穿刺部分の皮膚の麻酔を行った(Tuohy針は,通常の針よりも径が大きい
ためそのまま刺すと痛みが強い。)。
 その後,C医師が甲の腰椎(L3-4)にTuohy針で穿刺を開始し
た。まず抵抗消失法により穿刺を行い,針先が硬膜外腔に入ったことを確認した
(抵抗消失法とは,生理食塩水を入れた注射器を用いて,ピストンを押しながら穿
刺を行い,黄靱帯の強い抵抗を貫通した後に針先が硬膜外腔に入ると,押している
ピストンの抵抗が急激に消失することを利用した確認方法である。)。
 次に,注射器のピストンを数回引いてみて,針先が硬膜外腔を越えてク
モ膜下に入り込んでいないかの確認を行った。この時,注射器には,髄液も血液も
戻ってこなかった。
 以上のように,針先が適切に硬膜外腔内に入っているかどうかの確認を
した後,C医師は,本件テスト麻酔を行った。すなわち,0.25%のマーカイン
2ml(5mg)を生理食塩水8mlと混ぜて甲に注入した。
 それから,持続的に硬膜外麻酔を行うことができるように,穿刺したT
uohy針を通してカテーテルを硬膜外腔に挿入し,尾側(仙骨裂孔)の方に向け
て6㎝進めた。この際も吸引や加圧を行って,血液や髄液が戻ってこないかを確認
した。
イ 甲の容態の急変
 同午前9時15分から20分ころ,C医師が,カテーテルを留置して,
Tuohy針を抜き,カテーテルが抜けたりしないようにテープで固定しようとし
ていた矢先に,甲が歯をグッと咬みくわえて呼吸を詰めたような痙攣発作様の状態
となった。もっとも,てんかんの大発作のように全身に及ぶものではなく,咬痙
(咬筋が硬直する症状)であった。
 C医師は,気道の確保,呼吸状態の確認等のために甲の顔側に回り込ん
だ。甲は意識がなく,非常に強力に歯を食いしばって閉口しており,「うーうー」
とうなり声を上げていた。E看護婦は甲が呼吸をしていないように感じたため,甲
の下顎を強力に挙上した。C医師は,甲が舌を咬みまないようにバイト・ブロック
を入れようとしたが,開口させることはできなかった。
 甲は,不十分ながらも下顎が挙上されたことによって,弱々しく自発呼
吸はできるようになった。このころ,甲は仰臥位にされた。
 C医師は,外来診療中のD医師や麻酔科のH医師を呼ぶように指示を出
し,さらにD医師には重ねて自ら電話で応援を要請した。
 E看護婦はしばらく下顎を挙上していたが,自分の判断で分娩予備室近
くの手術室にアンビューバッグを取りに行き,すぐに手術室主任のJ看護婦ととも
に戻ってきてこれを甲に装着した。このころ,E看護婦が見たところでは,甲の手
の爪の色が悪くなっており,チアノーゼであると判断された。アンビューバッグを
装着するころには,甲の咬痙も治まってきていた。
 D医師は,甲の容態の急変を聞いて,すぐに外来診療から分娩予備室に
やってきた。この時点から,C医師はD医師の補助役に回った。D医師が観察した
ときには,甲の顔にはチアノーゼはなかったものの,意識は全くなかった。また,
蕁麻疹,発疹,喘鳴等は観察されなかった。甲のアンビューバッグを取って下顎を
挙上して鼻と口に手を当てると,呼気があり,呼吸がなされていることが確認でき
た。
 そして,下顎挙上の際に,頸部硬直が観察されたため,D医師は甲の症
状を子癇による咬筋の緊張であると判断した。
 そこで,D医師は鎮痛,鎮静目的でアタラックスP25㎎の静注と,子
癇発作の再発を予防する目的でマグネゾール20mlの静注を指示した。これを受
け,アタラックスP25㎎が直ちに静注された。
 D医師は,気道閉塞を防止するために下顎を挙上して気道を確保してい
たが,しばらくしても甲の意識が回復しないため,血圧と心拍数をチェックしたと
ころ,心拍数は毎分60回から70回と少なく,血圧も低下していた。そこで,同
医師は,胎児の救命を考慮して甲を分娩室に移送する指示を出し,同時に,脳内出
血や心筋障害の合併を疑ったことから,自動血圧心電図計の装着と,内科のG医師
の応援要請の指示を出した。また,D医師の指示の下,C医師が超音波検査で胎児
心拍数を調べると,毎分120回台であったことから,同医師は,D医師に対し正
常である旨報告した。
 再びアンビューバッグを装着し,甲をベッドごと分娩室に移送すると,
自動血圧心電図計が装着された。また,分娩室では,甲に自発呼吸があったので,
酸素マスクが装着された。このころ,甲の心拍数は毎分40回台の後半で,血圧は
測定不能であった。先にD医師から指示されていたマグネゾール20mlの静注がま
だされていないことが判明して,ようやくこのころマグネゾール20mlが静注され
た。
ウ 内科医師到着後の経過
 同午前9時30分ころ,内科のG医師が分娩室に到着し,D医師は母体
の心臓,脳,全身状態の管理をG医師に委ね,自分はそのまま胎児の管理を担当し
た。
 G医師は,甲の心拍数及び血圧の低下に対してアトロピン(徐脈の治療
に有効な抗コリン作動薬)0.3㎎の静注を指示し,直ちに静注が開始された。
 同9時41分,自動血圧心電図計の計測が開始された。心拍数は,毎分
82回であった。
 同9時45分ころ,マグネゾール20mlが点滴に混注され,同時にカタ
ボン(昇圧剤)が毎時10mlの速度で投与開始された。心拍数は毎分51回,血圧
は72㎜Hg/48㎜Hgであった。その後,甲の全身の循環状態が悪いため,気管内
挿管を考えて麻酔科のH医師に応援が依頼された。
 同9時50分,麻酔科のH医師が到着し,気管内挿管が行われ,アトロ
ピン0.2㎎が追加で静注された。心電図ではAVブロック様の波形がみられた。
このころ,まだ胎児心音は正常であった。
 同9時51分ころ,心拍数は毎分44回,血圧は138㎜Hg/51㎜
Hgであった。いったん帰宅していた原告A1が同A3及び同暖冬を連れて再び来院
し,事態の急変を聞いて分娩予備室に来室し,D医師から甲の容態について説明を
受けた。D医師は,胎児を救命できる可能性もあるとして帝王切開を勧めつつも,
そうすると母体の方が危険になる可能性があることを告げ,原告A1の判断を仰い
だ。原告A1は,母体の救命を優先することを希望した。
 その説明の間,心拍数は毎分39回となり,帝王切開に備えて心マッサ
ージが開始された。
 同9時59分,心拍数は毎分67回で,血圧は130㎜Hg/29㎜Hgで
あった。母体の救命を優先するため帝王切開が断念され,カタボン(前記のとおり
昇圧剤であるが,体内の血流量が少なくなるため胎児には悪影響がある。)が毎時
30mlの速度に増量され,メイロン(酸素欠乏に対する薬剤で,呼吸停止に伴う蘇
生措置の一環として血液中のpHを調整するもの)1アンプルが注入された。
 同10時,ボスミン(完全に心拍を回復させ,血圧を上げるための薬剤
であるが,胎児には血流障害が起きて死産になる効果も持つ。)及びメイロン各1
アンプルが静注された。胎児の心音が消失した。
 同10時3分,血圧測定不能となり,心マッサージを停止すると心拍数
は50台からフラット(心拍数ゼロ)になってしまう状態となった。
 同10時10分,ネオフィリン250㎎が静注された。
 その後も心マッサージをしながらボスミン,メイロン等の薬剤を注入し
たが,甲の血圧は上昇せず,心臓も動こうとしなかった。
 同10時45分,甲の蘇生が断念され,死亡が確認された。C医師によ
る麻酔開始からわずか1時間40分後であった。
 甲が死亡した後,ポータブルのレントゲン装置で,甲の頭部レントゲン
が撮影された。被告病院は甲の死亡原因を明らかにするため解剖を望んで原告A1に
その旨を伝えたが,原告A1の同意が得られなかったため解剖はされなかった。
(3)当裁判所が認定した事実は以上のとおりであって,甲はいったん呼吸困難
に陥ったがその後自発呼吸が回復していたものと認められるのであるが,以下この
点について補足しておくこととする。
 看護記録(甲8,乙2)によると,C医師及びE看護婦は,甲の痙攣発作
直後から気道確保のための下顎の挙上やアンビューバッグによる呼吸管理を行うな
ど,甲の呼吸状態に注意していたことが認められるから,その後の甲の呼吸状態に
無関心であったとは考え難い。また,看護記録及び証人Dの証言によると,甲の治
療には,C医師のみならず,途中でD医師が治療に参加して指揮を執り,さらにそ
の後,内科のG医師が治療に参加して全身状態の管理の指揮を執ったことが認めら
れるところ,このように複数の医師が異なる時点でイニシアティヴを持って治療に
参加していながら,呼吸不全を見落しているというのも通常は考えにくい。
 さらに,乙13号証によると,非常に未熟な胎児等を除いて,母体の低酸
素血症に対する胎児の反応は徐脈の発生であることが認められるところ,分娩室へ
の移送前(看護記録によっても異常発生から約7分後,四肢のチアノーゼ著明とさ
れる時点から約4分後)の胎児の心拍数は毎分120回(甲7,乙1)である。ま
た,看護記録及び証人Dの証言によると,D医師は胎児の救命に備えて甲を分娩室
に移送しながら,直ちに帝王切開等を行っていないこと,D医師は原告A1が分娩予
備室に駆けつけた際に帝王切開を勧めたことが認められ,したがって,分娩室移送
後も胎児の状態は比較的良好な状態が続いていたこと,容態急変から20分以上た
ってもなお胎児を救命する可能性があったこと,すなわち胎児が母体の低酸素状態
に起因する酸素欠乏症に陥っていなかったことがうかがわれる。
 以上からすれば,甲は,いったん呼吸困難に陥ったものの,その後自発呼
吸が回復しており,呼吸状態を優先した処置を行うまでの状況にはなかったとみる
のが自然である。
 このことは,看護記録において,午前9時50分に甲に気管内挿管がされ
た理由として「全身の循環状態悪いため」と明示されており,呼吸不全に対する対
策というよりも,甲の血圧の低下や心拍数の減少など循環状態の改善が主要な課題
であったことからも裏付けられる。
 なお,鑑定意見は,気管内挿管が行われたということのみを理由に,挿管
の時点において呼吸不全があったとしているが,以上に述べた点からすれば,これ
をそのままに採用することはできない。
2 争点2(甲の死亡原因)
(1)局所麻酔薬のクモ膜下注入による全脊麻
ア 医学的知見等
 証拠(甲25の1及び2,乙30ないし34,鑑定の結果)によると,
以下の医学的知見及び事実が認められる。
(ア)硬膜外麻酔に必要な麻酔薬の量は,脊椎麻酔に必要な量に比べた量で
ある。そのような多量の局所麻酔薬を誤ってクモ膜下腔に注入すると,間違いなく
高位脊椎麻酔か全脊椎麻酔(全脊麻)となる。
(イ)全脊麻になった場合には,呼吸筋にも麻酔が及んで無呼吸となる。さ
らに上方にまで麻酔薬が及ぶと,中枢性の呼吸麻痺や循環の抑制,痙攣などが発症
することもあり得る。
(ウ)全脊麻になると,呼吸筋を含む全身の筋弛緩が生じる。中枢神経系に
おいては,意識消失,呼吸停止,各種反射消失が生じ,循環系においては,循環抑
制,血圧降下,心拍数減少がもたらされる。全過程を通じて昏睡様の外見を呈す
る。
(エ)クモ膜下穿刺部位は,下位胸椎位以下への穿刺では高位脊椎麻酔にと
どまる(そのため,治療として全脊麻にする場合には,上位胸椎位への穿刺が選択
される。)。
(オ)L3-4からのカテーテル挿入で,0.5%ブピバカイン(マーカイ
ン)15~20mg程度をクモ膜下腔内に投与しても,麻酔の高さはT4(第4胸
椎)以上のレベルには通常は達しない。
(カ)0.5%マーカイン脊麻用(マーカインと同じ成分)を脊椎麻酔に用
いる場合に通常使用される用量は,4ml(20mg)以下とされている。
 マーカイン何mgで全脊麻が生じるかについては不明であるが,全脊麻
を目的として麻酔を行う場合に,1.5%メピバカインを約30ml(450mg)使
用するとの報告がある(マーカインの力価はメピバカインの約4倍であるから,こ
れをマーカインの相当量に換算すると約112mgということになる。)。
(キ)治療として行う全脊麻のための局所麻酔薬の投与量としては,1.0
~2.0%リドカインを体重1kg当たり0.3~0.6mlを使用するという報告
と,1.5%メピバカイン20ml(300mg)を使用するという報告がある(上記
(カ)と同様にして,メピバカイン300mgをマーカインの相当量に換算すると約7
5mgである。)。
イ 鑑定意見等
(ア)この点に関する鑑定意見は次のとおりである。
 本件テスト麻酔で注入された量が0.25%マーカイン2mlのみであ
れば,試験的注入量にとどまり,これがクモ膜下腔に注入されても通常の脊椎麻酔
の効果にとどまる。
 カテーテル挿入前に硬膜外腔を拡大する目的で生理食塩水10ml程度
を注入することは一般的な手技である。そしてカテーテル挿入後に局所麻酔薬の試
験的注入を行うのが適切である。すなわち,穿刺後に生理食塩水を注入し,カテー
テルを挿入し,その後に局所麻酔薬の試験的注入を行う。本件テスト麻酔はこれら
を同時に行ったものと解釈できるが,一般的な方法ではない。
 本件テスト麻酔で注入された局所麻酔薬の量(生理食塩水希釈による
0.05%マーカインとして10ml)は,誤ってクモ膜下腔に注入されてしまうと
安全な量(体積単位)とはいえない。
(イ)乙31の2に記載のC医師の意見は次のとおりである。
 全脊麻では筋弛緩による呼吸筋の麻痺が症状であるので,本件のよう
な口を開けられないような筋緊張状態とは症状が相入れない。また,長時間にわた
る高度の呼吸抑制がなかったことからも全脊麻は否定される。
(ウ)乙30及び32に記載のD医師の意見は次のとおりである。
 本件では,初発症状に呼吸困難がなく,痙攣が生じ,チアノーゼが消
失し,正常な自発呼吸が回復していることから,全脊麻は否定される。なお,全脊
麻の場合でもチアノーゼが発生して咬痙や頸部硬直が生じることはあり得るが,そ
れは呼吸不全が継続して脳内の酸素欠乏が持続した場合に初めて生じるものであ
る。
ウ 検討
 以上の医学的知見等及び争点1における認定事実からすると,本件テス
ト麻酔で注入されたマーカイン5mgでは全脊麻となるには足りないと考えられる。
また,本件で甲に筋弛緩が生じたとの所見はなく,歯をグッと食いしばった咬痙か
ら異常が始まっており,全脊麻の症状とは考えられない。
 以上によれば,本件で甲が全脊麻になっていたとは認められず,他にこ
れを認めるに足りる証拠はない。
 なお,鑑定書には,本件テスト麻酔の注入量でも量的に全脊麻になり得
るとの記載部分があるが,鑑定意見のいう一般的な手法を順に行ったとしても本件
テスト麻酔とほぼ同量の生理食塩水及び局所麻酔薬が前後してクモ膜下腔に入り得
ることや,通常の脊椎麻酔を目的として使用する局所麻酔薬の量が,本件テスト麻
酔で注入された量(5mg)の4倍となることもあり得ることなどからすれば,上記
記載部分は前記結論を左右しない。
(2)局所麻酔薬の血管内注入による局所麻酔薬中毒
ア 医学的知見等
 証拠(甲25の1及び2,31,乙19,31の2及び3,鑑定の結
果)によると,以下の医学的知見及び事実が認められる。
(ア)局所麻酔薬による副作用の原因としてはアナフィラキシーなどのアレ
ルギー反応や局所麻酔薬の代謝産物による反応などもあるが,臨床上は局所麻酔薬
中毒反応が最も多い。これは,局所麻酔薬の高い血中濃度による中毒反応である。
(イ)局所麻酔薬中毒の原因としては,大量(基準最高用量以上)の局所麻
酔薬の使用,血管の多い部位での使用又は血管内注入,高濃度の局所麻酔薬の使
用,毒性の強い局所麻酔薬の使用,患者の身体状態・反応性の変化が挙げられる。
 なお,基準最高用量は,使用法,使用薬剤の濃度,使用部位などによ
って基準量が異なる。また誤って血管内に注入されると,少量でもたちまち重篤な
反応が起こる。
(ウ)9287例の臨床経験に基づく海外の報告(1977年)では,成人
では,ブピバカイン(マーカイン)400mg,エチドカイン450mg,メピバカイ
ン500mg以下では使用量,身体状態と局所麻酔薬中毒反応との間には明確な関係
はなかった。また,全例中9例で血管内注入があり,うち8例で急速な血中濃度の
上昇による中毒反応が起こった(7例が痙攣,1例がめまい。)。さらに同報告で
は,血管内に入ると痙攣を起こし得る量は基準最高用量よりもはるかに少ないとさ
れている。
(エ)ブピバカイン(マーカイン)は局所麻酔薬の中でも強力な麻酔薬であ
る。
(オ)局所麻酔薬中毒を,その起こり方によって分類すると,速発型は,局
所麻酔薬の血管内注入により生じ,注入から秒単位で意識消失,呼吸停止,痙攣,
ショックなどが起こり,その起こり方も激烈である。遅発型は,主として局所麻酔
薬の吸収により血中濃度が高まることで生じる。5分から30分後に生じ,起こる
症状も千差万別で主に中枢神経系,循環器系,消化器系,呼吸器系の症状がある。
起こり方は穏やかである。その他,複数回の注入により局所麻酔薬が蓄積すること
で血中濃度が高まって生じる蓄積型がある。
(カ)局所麻酔薬中毒70例(ただしマーカインの症例は含まない。)につ
いて,その主要症状は,痙攣,興奮,意識消失,めまいなどの中枢神経症状が39
例,呼吸困難,チアノーゼなどの呼吸系症状が13例,悪心,嘔吐などの消化器系
症状が9例,低血圧などの循環系症状が7例,その他が2例であったとの報告があ
る。これらのうち,死亡例は2件であり,いずれも痙攣を起こしていた。
(キ)妊娠による腹腔内圧の上昇によって硬膜外腔の静脈系は拡張してお
り,分娩時の硬膜外麻酔には局所麻酔薬の血管内注入や血管内カテーテル挿入の危
険が増加している。そのため,20㎎以上のブピバカイン(マーカイン)の単回注
入は避けるべきとされている。
(ク)たとえ血管内に針が入っていても吸引で血液が戻ってこないことがあ
り,吸引だけでは完全に血管内注入を防止し得ないことがある。
イ 鑑定意見等
(ア)この点に関する鑑定意見は次のとおりである。
 本件テスト麻酔で注入されたマーカインは0.25%2ml相当であ
り,この全量が血管内に混入したとしても直接に呼吸中枢や心臓に影響を及ぼす量
ではなく,よって,本件でマーカインの直接作用による死亡は否定できる。
(イ)乙31の2に記載のC医師の意見は次のとおりである。
 本件テスト麻酔で注入されたマーカイン(5mg)の血中濃度からすれ
ば,本件で局所麻酔薬中毒の発生は否定される。
(ウ)証人Dの結果に現れた同人の意見は次のとおりである。
 胸椎より上の部位での硬膜外麻酔の場合,誤って血管内に麻酔薬が注
入されると,そのまま心臓に入るので,少量でも麻酔薬中毒が起こる可能性がある
が,本件は腰椎に対する硬膜外麻酔であるから,誤って血管内に麻酔薬が注入され
たとしても,肝臓を通ることにより非常に希釈されて全身に回るから,局所麻酔薬
中毒の可能性はない。
ウ 検討
 以上の医学的知見等及び争点1における認定事実からすると,本件で局
所麻酔薬が血管内に入り込んだ可能性を全く否定することはできないが,他方,文
献等に紹介されている中毒例には,直ちに死亡につながらないものも多く含まれて
いること,本件で甲に注入されたマーカインの量は上記ア(キ)の指摘する量の4分
の1であることなどからすると,本件テスト麻酔の注入量では死亡するに至る程度
の中毒が生じるほどの血中濃度には至らないと推認するのが相当である。
 よって,本件で甲が局所麻酔薬中毒により死亡するに至ったとは認めら
れず,他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(3)誤嚥を合併した子癇発作
 子癇発作の有無を論ずるまでもなく,本件全証拠によっても,甲に誤嚥等
の気道の異常があったと認めるに足りる証拠はない。
(4)肺血栓塞栓症・羊水塞栓症
 本件全証拠によっても,甲の死亡原因が肺血栓塞栓症又は羊水塞栓症であ
ったとは認めるに足りる証拠はない。
(5)脳内出血
ア 医学的知見等
 証拠(甲19,乙8,24)によると,以下の医学的知見及び事実が認
められる。
(ア)平成3年及び同4年の総出生数約240万例のうち,母体死亡例は2
30例であり,うち調査可能な197例中27例(約13.7%)が脳出血による
死亡であった。この27例のうちでは,25例(約92.6%)が原発性(他の疾
患に随伴してではなく,また合併症としてではなく,発症すること)と考えられ,
さらにその原発性の症例25例中20例に既往歴がなかった。
(イ)上記27例のうち,20例(約74.1%)が脳内出血,7例(約2
5.9%)がクモ膜下出血であった。それぞれの好発時期としては,脳内出血は主
に妊娠中,クモ膜下出血は主に産褥期という傾向がみられた。
(ウ)上記27例の初発症状としては,突然の意識消失,痙攣発作,呼吸停
止で発症したのが13例(約48.1%),頭痛,嘔吐で発症したのが8例(約2
9.6%),運動障害,発語障害などの神経障害で発症したのが6例(約22.2
%)であった。
 また,27例中5例(約18.5%)に妊娠中毒症が認められ,その
程度は3例が軽症,2例が重症であった。
(エ)上記27例のうち,24時間以内の死亡が11例(約40.7%),
発症後1週間以降の死亡が13例(約48.1%)であった。
(オ)なお,妊娠中毒症とは,妊娠に高血圧・尿蛋白・浮腫の1つ若しくは
2つ以上の症状がみられ,かつこれらの症状が単なる妊娠偶発合併症によるもので
ないものをいう。本症の誘因としては,①15歳以下の若年婦人,35歳以上の高
年者,②肥満,③高血圧症の家系,④初妊婦又は妊娠中毒症の既往歴のある経産
婦,⑤多胎妊娠,羊水過多症,⑥慢性腎炎や糖尿病の合併,⑦寒冷期,⑧職業婦人
などの事情が挙げられる。
 妊娠中毒症の軽症・重症判定基準としては,<1>高血圧について
は,「妊娠により拡張期血圧に15㎜Hg以上の上昇があった場合」などに軽症,
「収縮期血圧160㎜Hg以上若しくは拡張期血圧110㎜Hg以上の場合」は重症に
該当する。<2>蛋白尿については,一定の検査方法に基づいて,「30mg/dl以
上及び200mg/dl未満の蛋白が検出された場合」に軽症,「200mg/dl以上の
蛋白が検出された場合」に重症に該当する。<3>浮腫については,「指圧により
脛骨稜に陥没を認め,かつこの妊娠の最近1週間に500g以上の体重増加のあっ
た場合」をいうが,浮腫が全身に及んでいなければ軽症,全身に及んでいれば重症
に該当する。
イ 鑑定意見等
(ア)この点に関する鑑定意見は次のとおりである。
 頭蓋内出血の発症から死亡までの臨床経過は一般的には日単位であ
る。また,脳ヘルニアや誤嚥による呼吸停止など,呼吸の問題が関与した場合には
急激な臨床経過をたどる可能性があるが,病院で発生したような場合には呼吸管理
が可能であるから,常識的には急激に死亡に至ることはない。
 本件では死亡後に撮影された頭部の単純レントゲン写真があるが,こ
れだけで頭蓋内出血の診断をすることは困難であり,本件では頭蓋内出血の可能性
を肯定も否定もできない。
(イ)乙30及び32に記載のD医師の意見は次のとおりである。
 本件では,突然の意識消失と痙攣発作で症状が始まり,呼吸困難とチ
アノーゼの持続がなかったこと,妊娠中毒症が認められていたこと,初発症状から
短時間で死亡していることから,死亡原因としては子癇発作に続いた頭蓋内出血の
合併であると考えられる。そして,脳内出血が妊娠と合併している場合には,妊婦
の循環血流量が20%以上増加しているので急激な経過をたどり得る。
ウ 検討
(ア)妊娠中毒症
 前記前提となる事実(2)によると,甲は,妊娠により拡張期血圧に少な
くとも20㎜Hgの上昇があり,6月23日から7月14日までの3週間で体重が
1.5kg増加し,7月14日に浮腫があったのであるから(なお,年齢,体重等か
らの誘因も認められる。),上記ア(オ)に照らし,軽症の妊娠中毒症であったとい
うべきである。
(イ)脳内出血
 上記認定の各事実,すなわち,平成3年及び同4年の統計によれば,
母体の死亡原因として脳出血は約14%を占め,そのうちの約93%は原発性であ
ったこと,脳出血の初発症状として約半数に突然の意識消失,痙攣発作,呼吸停止
などがみられたこと,脳出血があった例の20%弱に重症軽症を問わず妊娠中毒症
が認められたこと,妊娠中はクモ膜下出血よりも脳内出血の比率が高いこと,他
方,甲には突然の意識消失と痙攣発作があったが,その後継続して呼吸不全があっ
たとは認め難いことなどからすれば,甲の死亡原因が脳内出血であったと考えても
矛盾はない。
 また,本件全証拠によっても子宮収縮剤の過量投与によるショック,
過強陣痛又は子宮破裂があったとは認められない。
 よって,他に蓋然性のある死亡原因が認められない本件においては,
甲の死亡原因は脳内出血であったと推認するのが相当である。
(6)死亡原因についてのまとめ
 麻酔薬が注入された直後に甲の容態が急変し,わずか2時間足らずの間に
死亡に至っていることからみて,原告らが,被告病院の医師らによる麻酔薬の使用
に原因があったと考えることはまことに無理からぬものがあるといえる。
 しかしながら,解剖が行われておらず,死因について推測を重ねるしかな
い本件においては,前述のとおり,甲の死亡原因は脳内出血であったと推認するの
が相当であり,上記推認を覆すに足りる証拠はない。
3 争点3(被告病院の医師らの過失及び因果関係の有無)
(1)呼吸管理及び全身管理が遅れた過失
ア 医学的知見等
 証拠(乙24及び鑑定の結果)によると,前記争点2の(5)で認めた点の
他に,以下の医学的知見及び事実が認められる。
(ア)前記争点2の(5)における妊産婦の脳出血死亡例27例について,専門
医からなる委員会がそれぞれの症例における救命可能性を検討した結果,救命可能
性がある(「救命不可能」と判定した委員が0で,かつ,「ある程度救命可能」と
判定した委員が総数の70%以上であるという設定である。)と結論づけられた症
例は1例のみであった。
(イ)上記の検討結果を踏まえた上で,既往歴など脳出血発症以前の管理を
改善するなどの対応により,少なくとも27例中8例(約29.6%)は救命可能
性があったと推測されるとの意見もある。
(ウ)上記脳出血死亡例27例についての検討を踏まえて,平成11年2月
に発表された意見は,産婦人科医の多くは,妊娠・産褥期に頭痛,嘔吐,痙攣,意
識消失をみると,妊娠中毒症や子癇発作と考えてその治療を優先させるところ,こ
の治療方針自体は正しいとする。しかし同時に,脳出血を見逃して母体を死亡に至
らせてはならないことから,今後の課題としては,妊娠中毒症や子癇発作と異なる
症状が出現したら,早期に画像診断を行い,脳出血を鑑別する必要があるとしてい
る。
(エ)頭蓋内出血の予後は不良であり,救急処置が適切であっても死亡の転
帰となることが多い。
(オ)救急処置としては,気管内挿管による気道確保が第1の選択である。
気道確保と全身管理により全身状態の小康を得た後,CTやMRIによる診断が行
われる。診断が得られれば,高次の医療機関に搬送される。呼吸管理や全身管理に
おいては,血液ガスの測定,経皮酸素飽和度,心電図,血圧測定が重要である。
(カ)分娩を取り扱う施設のすべての医師が,気管内挿管の技術を備えてい
るわけではなく,また備えることを義務づけられてもいない。血液ガス測定装置や
経皮酸素飽和度モニターの設置も義務づけられていない。よって,脳内出血による
死亡を前提とした場合,現状において,上記の処置や検査を行えなかったとしても
救急処置を怠ったとはいえない(医師が積極的に関与した結果生じる麻酔合併症の
救急処置は別論である。)。
イ 鑑定意見
 本件において,死亡までの時間が余りにも早く,診断を行うための時間
がなかったことは理解できる。しかし,一般的には頭蓋内出血の死亡に至る経過は
本件ほど早くはないので,もっと早期に気管内挿管による気道確保が行われていれ
ば,本件でも診断を行う時間は生じたと考えられる。
ウ 検討
 医師は,患者の状態が悪化するなどした場合には,患者の状態を的確に
把握し,状態の変化に応じて適時に適切な処置を行い,その回復に最大限努力すべ
き義務を負うところ,本件においても,被告病院の医師らは,突如容態の急変した
甲に対して,上記義務を負っていたというべきである。
 そして,上記ア及び争点2の(5)における脳内出血等に関する医学的知見
等並びに争点1における認定事実からすると,被告病院の医師らに,上記義務違反
があったとは認められない。
 すなわち,C医師は,甲の痙攣発作や呼吸不全に直面して,直ちに気道
確保等を行い,上司であるD医師への応援を要請している。そしてD医師は甲の症
状を子癇発作であると判断しつつも,甲の容態が改善されないため直ちに内科医の
応援を要請し,同時に分娩室への移送も行っており,これらのことからすると,こ
の時点でD医師が他の合併症の可能性(心機能不全や脳内出血など)を念頭に対処
していたこと及び胎児の救命についても考慮していたことが認められるのであっ
て,D医師の処置が子癇発作との決めつけに基づく処置であったとは認められな
い。
 また,甲には自発呼吸が回復していたことからすると,直ちに気管内挿
管をすることまでせず,酸素マスクによる管理としたことが不適切とまではいえな
い。
 そして,本件は,甲の救命だけでなく,同時に胎児の救命も考慮しなけ
ればならない状況であったことからすると,カタボンやボスミンの投与が遅れたと
まではいえない。
 以上によれば,被告病院の医師らに,甲の呼吸管理及び全身管理を怠っ
た過失があるとは認められない。
 なお,原告の主張するジアゼパムの不投与については,その後に甲に痙
攣がみられていないことからすると,それによって結果が左右されたとはいい難
い。また,前記争点2の(5)のとおり,甲の死因は脳内出血であったと推認されるの
であるが,脳内出血は救急処置が適切でも死亡の転帰となることが多いこと,鑑定
意見によっても,仮に早期の気管内挿管を行っていても診断を行う時間ができたと
いえるにとどまることに照らせば,仮に被告病院の医師らの治療に不十分な点があ
ったとしても,甲を救命できた高度の蓋然性は認められず,また,本件で甲が死亡
した時点でなお生存していた高度の蓋然性も認められない。
(2)不十分な人的物的体制下で硬膜外麻酔を施行した過失
 この点についての原告の主張は,甲の死亡原因が局所麻酔薬中毒又は全脊
麻であったことを前提としているところ,本件では,前述のとおり,甲は脳内出血
により死亡したと推認されるのであって,原告の主張はその前提を欠き,認められ
ない。
 ところで,当裁判所は,甲の死因は脳内出血にあると推認するものである
が,甲の容態急変に対し,被告病院の体制が不十分であったとは認められないし,
また,鑑定意見を考慮すれば,病院のすべての部屋に気管内挿管のための用具や救
急処置の準備をする義務があるとまでは認められず,至近距離に共有の器具があれ
ば十分とされるところ,証人Eの証言及び弁論の全趣旨によれば,至近距離の手術
室に救急処置の準備がされていたことが認められるのであって,救急処置の対応に
手落ちがあったともいえない。
 よって,被告病院が人的物的に不十分な体制で硬膜外麻酔を施行したとの
原告らの主張は採用できない。
(3)C医師の麻酔手技上の過失
 この点についての原告の主張に理由がないことは上記(2)と同様である。
4 争点4(原告らの損害額)
 以上に検討してきたところからすれば,被告に原告らの損害を賠償すべき責
任は生じないから,原告らの損害額について検討する余地はない。
第4 結論
 以上のとおりであって,原告らの請求は理由がないからそれぞれ棄却し,主
文のとおり判決する。
神戸地方裁判所第1民事部
裁判長裁判官  古川行男
裁判官西村欣也
裁判官竹村昭彦

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