弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
本件上告を棄却する。
当審における未決勾留日数中380日を本刑に算入する。
理由
弁護人佐武直子の上告趣意は,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違
反,事実誤認,量刑不当の主張であり,被告人本人の上告趣意は,憲法違反,判例
違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であって,いずれも
刑訴法405条の上告理由に当たらない。
なお,所論にかんがみ,職権により判断する。
1原判決及び記録によれば,本件の事実関係及び審理経過等は,次のとおりで
ある。
(1)ア被告人は,両親方で生活していたところ,平成12年11月ころ,階下
の住民とのトラブルから自宅に引きこもるようになった。平成14年夏ころから,
窓から通行人めがけてエアガンの弾を発射するようになり,平成15年2月,統合
失調症の疑いと診断され,措置入院となった。主治医は,被告人を「特定不能の広
汎性発達障害」と診断し,同年3月に措置解除となって退院した。被告人は,同年
5月,自宅から近所の女性をねらってエアガンの弾を撃ち,同女の右大腿部に命中
させるなどして逮捕され,同年6月から8月まで措置入院となったが,これに先立
つ精神保健指定医2名の診断は,「1主たる精神障害反社会的行為,2従た
る精神障害広汎性発達障害の疑い」,「1主たる精神障害人格障害,2従
たる精神障害『妄想』の疑い」というものであった。主治医は,1回目の入院時
と同じで,被告人を「広汎性発達障害」と診断した。
イ被告人は,2回目の退院後,同年9月から,祖母方で母親と3人で生活する
ようになり,しばらくは落ち着いていたが,平成16年3月ころから再び精神状態
が悪化し,隣家に住む男性(以下「被害者」という。)の長男が被告人がドライブ
から帰ってきたら「チェッ」と言っていた,上記長男が盗聴し,家の中をのぞきに
来ているなどと言い出し,被害者方の家族から嫌がらせを受けていると思い込んで
悪感情を抱くようになり,無断で被害者方2階に上がり込んだり,被害者方の玄関
ドアを金属バットでたたいたりしたことがあり,その際,被害者からしっ責され,
通報を受けて臨場した警察官の聴取を受けるなどした。
ウその後,祖母方から両親方に戻って生活するようになった被告人は,友人と
ドライブをした際,同人から,被害者方に上がり込んだ時に手を出したのかと尋ね
られると,「手は出していない。そういうことをしたら捕まってしまう。」と答え
た。
同年6月1日午後10時過ぎころ,被告人が金属バットを振り上げて被害者方に
向かって来たため,被害者の妻が警察に通報する一方,被害者が玄関ドアを開け,
被告人に対しなだめるように話しかけると,被告人は,金属バットを下ろし,自動
車に乗って走り去った。被告人は,同月2日午前1時45分ころから上記友人とド
ライブをしたが,その途中,被害者方近くにしばらく自動車をとめてたばこを吸う
などした。
被告人は,同日午前3時45分ころ,上記友人と別れ,午前4時過ぎころ,金属
バットとサバイバルナイフを持って被害者方に向かい,被害者とその妻が在室する
1階寝室の無施錠のサッシ窓を開けて,淡々とした低い声で「お前が警察に言うた
んか。」と言いながら,同室の中に入り,被害者の頭部を金属バットで殴り付けた
後,2階に逃げた被害者を追いかけ,同所において,被害者の二男の右頸部を上記
ナイフで切り付けるなどし,さらに,被害者の頭部,顔面を同ナイフで多数回にわ
たって切り付け,その胸部等を突き刺すなどして同人を殺害した(以下,上記殺
人,殺人未遂,銃砲刀剣類所持等取締法違反の犯行を「本件犯行」という。)。
被告人は,被害者方に駆け付けた母親に連れられて祖母方に戻り,自首するよう
に言われたが,母親が電話で警察に通報している間に,上記ナイフとは別のサバイ
バルナイフを持って逃走し,約1kmほど離れた路上で警察官らに見つかり,「散歩
ですか。」と声を掛けられると,同ナイフを腰の辺りに構えて警察官らを威嚇し,
「おれは人を刺してきたんや。おれはもうどうなってもいいんや。」「けん銃で撃
ってくれ。殺してくれ。」などと言って,同ナイフを振り回すなどしたものの,警
察官らに制圧され,同日午前4時56分,本件犯行等により現行犯逮捕された。
(2)捜査段階で精神鑑定を担当した医師中山宏太郎は,その作成に係る精神鑑
定書及び第1審公判廷における証言(以下「中山鑑定」という。)において,被告
人を人格障害の一種である統合失調型障害であり,広汎性発達障害でも統合失調症
でもないとした上で,被告人は本件犯行当時に是非弁別能力と行動制御能力を有し
ており,その否定ないし著しい減弱を考えさせる所見はなかったが,心神耗弱とみ
ることに異議は述べないとする。
第1審判決は,中山鑑定を基本的に信頼できるとしながらも,統合失調型障害と
までは断定できないとして,被告人は,統合失調症の周辺領域の精神障害にり患
し,本件犯行時,是非弁別能力及び行動制御能力がある程度減退していたが,それ
らが著しくは減退していなかったことが明白であるとして完全責任能力を認め,被
告人に対し懲役18年を言い渡した。
(3)原審で裁判所から被告人の精神鑑定を命じられた医師佐藤忠彦は,その作
成に係る精神鑑定書及び原審公判廷における証言(以下「佐藤鑑定」という。)に
おいて,被告人は,本件犯行時,妄想型統合失調症にり患しており,鑑定時には残
遺型統合失調症の病型に進展しつつある旨診断した。そして,被告人には,平成1
6年3月ころから妄想型統合失調症の病的体験が再燃し,同年4月中旬ころから同
年5月ころにかけて被害者方がその対象となって次第に増悪し,犯行時には一過性
に急性増悪しており,本件犯行は統合失調症の病的体験に直接支配されて引き起こ
されたものであり,被告人は,本件犯行当時,是非弁別能力及び行動制御能力をい
ずれも喪失していたとする。
原判決は,被告人は是非弁別能力ないし行動制御能力が著しく減退する心神耗弱
の状態にあったとして,第1審判決を事実誤認を理由に破棄し,被告人に対し懲役
12年を言い渡した。原判決の理由の要旨は次のようなものである。
中山鑑定は,統合失調症かどうかの判断の基礎となる十分な資料を収集できてい
ないため,同鑑定から被告人が統合失調症にり患していなかったと断ずることはで
きないが,佐藤鑑定は,十分な診察等を経た上で本件犯行当時に被告人が統合失調
症にり患していたと診断したものであることなどからすると,被告人は本件犯行当
時,統合失調症にり患していたと認められる。そして,佐藤鑑定は,本件犯行の前
から,被告人の注察妄想,被害妄想と幻聴が顕在化・行動化し,病的体験が被害者
方に向けられるようになり,犯行時にはそれが一過性に急性増悪し,本件犯行は,
統合失調症の病的体験に直接支配されて引き起こされているとする。しかしなが
ら,佐藤鑑定は,状況を正しく認識していることをうかがわせる本件犯行前後の被
告人の言動についての検討が十分でない上,犯行の直前及び直後にはその症状はむ
しろ改善しているように見受けられるとしているのに,本件犯行時に一過性に幻覚
妄想が増悪しそれが本件犯行を直接支配して引き起こさせたという機序について十
分納得できる説明をしていない。また,被告人の幻覚妄想の内容は,被害者の長男
からテレパシーでおちょくられるなどしていたというものであって,通常相手方を
殺傷しようと思うような非常に切迫したものとまではいえず,前記の「お前が警察
に言うたんか。」との発言等に照らすと,被告人が幻覚妄想の内容のままに本件犯
行に及んだかどうかにも疑問の余地がある。そして,これらの諸点に加え,被告人
の統合失調症の病状の程度,被告人の公判供述から認められる本件犯行の動機,従
前の生活状況から推認される被告人の人格傾向等の諸事情を総合考慮すると,本件
犯行は暴力容認的な被告人の本来の人格傾向から全くかい離したものではなく,被
告人は,本件当日,被害者の長男の幻声(テレパシーで「おれはやくざだ。」,
「やったるで。」,「金属バット持って上がってこい。」などと語りかけてくるも
のであったという。)が聴こえ,被害者方への侵入を敢行し,その病的体験と上記
のような被告人の人格傾向に,以前に警察を呼ぶなどした被害者方に対する怒りが
加わり,本件犯行に及んだものであって,本件犯行は,統合失調症による病的体験
に犯行の動機や態様を直接に支配されるなどして犯されたものではなく,被告人は
是非弁別能力ないし行動制御能力を完全に失っておらず,心神喪失の状態にはなか
ったものの,本件犯行が被告人の病的体験に強い影響を受けたことにより犯された
ものであることは間違いなく,その能力が著しく減退する心神耗弱の状態にあった
と認められる。
2所論は,責任能力判断の前提である生物学的要素である精神障害の有無・程
度のみならず,これが心理学的要素に与えた影響の有無・程度についても,専門家
である佐藤鑑定の意見に従って,本件犯行当時,被告人は責任能力を欠いていたと
判断すべきであると主張する。
しかしながら,責任能力の有無・程度の判断は,法律判断であって,専ら裁判所
にゆだねられるべき問題であり,その前提となる生物学的,心理学的要素について
も,上記法律判断との関係で究極的には裁判所の評価にゆだねられるべき問題であ
る。したがって,専門家たる精神医学者の精神鑑定等が証拠となっている場合にお
いても,鑑定の前提条件に問題があるなど,合理的な事情が認められれば,裁判所
は,その意見を採用せずに,責任能力の有無・程度について,被告人の犯行当時の
病状,犯行前の生活状態,犯行の動機・態様等を総合して判定することができる
(最高裁昭和58年(あ)第753号同年9月13日第三小法廷決定・裁判集刑事
232号95頁,最高裁昭和58年(あ)第1761号同59年7月3日第三小法
廷決定・刑集38巻8号2783頁,最高裁平成18年(あ)第876号同20年
4月25日第二小法廷判決・刑集62巻5号1559頁参照)。そうすると,裁判
所は,特定の精神鑑定の意見の一部を採用した場合においても,責任能力の有無・
程度について,当該意見の他の部分に事実上拘束されることなく,上記事情等を総
合して判定することができるというべきである。原判決が,前記のとおり,佐藤鑑
定について,責任能力判断のための重要な前提資料である被告人の本件犯行前後に
おける言動についての検討が十分でなく,本件犯行時に一過性に増悪した幻覚妄想
が本件犯行を直接支配して引き起こさせたという機序について十分納得できる説明
がされていないなど,鑑定の前提資料や結論を導く推論過程に疑問があるとして,
被告人が本件犯行時に心神喪失の状態にあったとする意見は採用せず,責任能力の
有無・程度については,上記意見部分以外の点では佐藤鑑定等をも参考にしつつ,
犯行当時の病状,幻覚妄想の内容,被告人の本件犯行前後の言動や犯行動機,従前
の生活状態から推認される被告人の人格傾向等を総合考慮して,病的体験が犯行を
直接支配する関係にあったのか,あるいは影響を及ぼす程度の関係であったのかな
ど統合失調症による病的体験と犯行との関係,被告人の本来の人格傾向と犯行との
関連性の程度等を検討し,被告人は本件犯行当時是非弁別能力ないし行動制御能力
が著しく減退する心神耗弱の状態にあったと認定したのは,その判断手法に誤りは
なく,また,事案に照らし,その結論も相当であって,是認することができる。
よって,刑訴法414条,386条1項3号,刑法21条により,裁判官全員一
致の意見で,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官甲斐中辰夫裁判官涌井紀夫裁判官宮川光治裁判官
櫻井龍子裁判官金築誠志)

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