弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1被告人を罰金5万円に処する。
未決勾留日数のうち,その1日を金5000円に換算してその罰金額に
満つるまでの分を,その刑に算入する。
2本件公訴事実中,平成24年2月13日付け訴因変更請求書記載の公訴
事実第1(傷害致死)及び同日付け予備的訴因変更請求書記載の公訴事
実第1(自動車運転過失致死)の点については,被告人は無罪。
理由
(犯罪事実)
被告人は,平成23年1月22日午後11時46分頃,大阪市中央区内の路上で
普通乗用自動車を運転中,Aを轢過して同人に外傷性くも膜下出血兼脳挫傷などの
傷害を負わせる交通事故を起こしたものであるが,交通事故を起こしたことを認識
していたにもかかわらず,その事故発生の日時,場所など法律の定める事項を,直
ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかった。
(証拠)
省略
(平成24年2月13日付け訴因変更請求書記載の公訴事実第1(傷害致死)及び
同日付け予備的訴因変更請求書記載の公訴事実第1(自動車運転過失致死)につい
て)
第1公訴事実の要旨
平成24年2月13日付け訴因変更請求書記載の公訴事実第1(以下「傷害
致死被告事件」ともいう。)の要旨は,「被告人は,平成23年1月22日午
後11時45分頃,普通乗用自動車を運転中,大阪市中央区内の交差点の南詰
停止線から南方約27.7m付近で信号待ちのため先行車両に追従して一旦停
止後,その交差点を南から北に発進・進行する際,自車運転席側ドアノブをつ
かむなどしながら自車右側方を併走しているA(当時39歳)に対し,自車の
走行によってAに傷害を負わせるような近い位置にAがいるかもしれないと
思いながら,あえて,自車を走行させた上,自車進行方向に停止していた車両
の側方を通過するために左転把した後に右転把して時速約37㎞に加速しつ
つ走行させる暴行を加え,その交差点内でAを路上に転倒させた上,Aの身体
を自車右後輪で轢過して,Aに外傷性くも膜下出血兼脳挫傷などの傷害を負わ
せ,その結果,同月25日午前7時58分頃,大阪市中央区内の病院において,
Aを前記傷害により死亡させた。」というものである。また,平成24年2月
13日付け予備的訴因変更請求書記載の公訴事実第1(以下「自動車運転過失
致死被告事件」ともいう。)の要旨は,「被告人は,平成23年1月22日午
後11時45分頃,普通乗用自動車を運転し,大阪市中央区内の交差点の南詰
停止線から南方約27.7m付近で信号待ちのため先行車両に追従して一旦停
止後,その交差点を南から北に発進・進行するに当たって,自車の走行によっ
てAに傷害を負わせるような近い位置にはAがいないと思っていたものであ
るが,それに先立ち,Aが,自車を運転中の被告人からクラクションを鳴らさ
れて立腹し,自車右側方を併走しながら,自車のガラス窓を手で叩き,自車運
転席側ドアノブをつかむなどしていたことを認識していたのであるから,自車
右側方を目視するなどして自車の走行によってAに傷害を負わせるような近
い位置にAがいるかどうかを確認し,もしその位置にいるのであればAの動静
を注視してその安全を確認しながら発進・進行すべき自動車運転上の注意義務
があるのにこれを怠り,その場から走り去ることに気を取られ,自車右側方を
目視等により注視することなく,Aが自車運転席側ドアノブをつかむなどしな
がら併走していることに気付かず,自車を走行させた上,自車進行方向に停止
していた車両の側方を通過するために左転把した後に右転把して時速約37
㎞に加速しつつ走行させた過失により,その交差点内でAを路上に転倒させた
上,Aの身体を自車右後輪で轢過して,Aに外傷性くも膜下出血兼脳挫傷など
の傷害を負わせ,その結果,同月25日午前7時58分頃,大阪市中央区内の
病院において,Aを前記傷害により死亡させた。」というものである。
第2争点等
本件の争点は,①傷害致死被告事件及び自動車運転過失致死被告事件に共通
して,Aが被告人が運転している普通乗用自動車(以下「被告人車両」という。)
に轢過されて死亡したと認められるか,②傷害致死被告事件に関して,被告人
に暴行の故意が認められるか,③被告人に暴行の故意が認められなかった場合
には,自動車運転過失致死被告事件に関して,被告人に,自動車の運転に関し
過失が認められるか,④傷害致死被告事件及び自動車運転過失致死被告事件に
共通して,被告人の行為が正当防衛といえるかの4点である。
当裁判所は,上記各争点について,①については,Aは被告人車両に轢過さ
れて死亡したと認められる,②については,被告人に暴行の故意があったとは
認められず,傷害致死罪は成立しない,③については,被告人には過失が認め
られる,④については,正当防衛が成立する,とそれぞれ判断し,被告人は無
罪であると判断した。以下,詳述する。
(なお,以下では,大阪市中央区内の駐車場(別紙①)を①駐車場,大阪市中
央区内の路上(別紙②)を②地点,大阪市中央区内の路上(別紙③)を③地点,
大阪市中央区内の交差点(別紙④。公訴事実記載の交差点とは別の交差点であ
る。)を④交差点,大阪市中央区内の交差点南方約27.7m手前付近(別紙
⑤)を⑤地点,同交差点(別紙⑥。公訴事実記載の交差点である。)を⑥交差
点とそれぞれ呼称する。)
第3Aが被告人車両に轢過されて死亡したかについて
1証人Bは,法医学の専門家で司法解剖の経験も豊富であるが,Aの死因に関
する証言は,遺体の顔面の状況や頭部及び胸部の骨折や出血の状況など司法解
剖の結果を踏まえたものであり,専門的知見に基づく極めて合理的なものであ
る。したがって,B証言は信用でき,同証言によれば,Aの遺体の顔面にタイ
ヤマークと呼ばれる皮下出血が明らかに認められることなどから,Aは,走行
する自動車のタイヤによって右前胸部,右側頭部及び右顔面部分を轢過され,
外傷性くも膜下出血兼脳挫傷などの傷害を負い,死亡したことが認められる。
また,防犯カメラの映像,証人Cの証言や遺留品の状況等の関係各証拠によ
れば,被告人車両は,⑥交差点に進入する直前から加速し,その際,Aは,被
告人車両運転席ドアノブ付近をつかむなどしながら少し前傾姿勢となり,駆け
足のような状態で同車両運転席側付近を併走していたこと,Aの身体は,⑥交
差点中央付近で浮いたように見える状態となった後,ちょうど被告人車両右後
輪が通過している辺りの路上に落下し,その後,回転しながら⑥交差点北東角
付近まで移動して停止したこと,Aの身体が⑥交差点北東角付近に移動して停
止する直前に⑥交差点内を走行していた車両は被告人車両のみであったこと
が認められる。以上の各事実を併せて考えると,Aは,被告人車両運転席ドア
ノブ付近をつかんで併走していたものの,その後,被告人車両の右後輪が通過
している辺りの路上に落下し,その際に,右前胸部,右側頭部及び右顔面部分
を被告人車両の右後輪に轢過され,その後回転しながら⑥交差点北東角付近ま
で移動して停止したと認められる。
なお,C証人は,Aの身体によって被告人車両右後輪ホイールが見えなかっ
た旨証言しているが,轢過が一瞬の出来事であることや,Aの轢過されていな
い身体部分の動きを考えると,上記証言は,前述した認定と矛盾するものでは
ない。
2弁護人は,以上の点に関し,被告人車両右後輪がAを轢過することは不可能
であるとして,種々主張する。
そこで検討すると,まず,被告人車両右後輪の前部に位置する風切板に轢過
の痕跡がない点は,Aの身体が被告人車両と路面との間に入る際の体勢や動き,
両者の位置関係については様々な可能性が考えられるところ,風切板が設置さ
れた位置に照らすと,Aの身体が風切板と接触しないで,Aの右前胸部,右側
頭部及び右顔面部分が被告人車両右後輪に轢過された可能性は十分に考えら
れるから,この点は,前記認定と矛盾するものではない。次に,自動車に轢過
された人体が,轢過後に進行方向に移動することはないとする点や,1秒に満
たないごくわずかな時間で轢過することはできないとする点であるが,この点
に関する証人Dの証言は,轢過地点等に関する前記認定事実と異なる事実を前
提にしていたり,轢過前後のA及び被告人車両の動きや体勢,双方の位置関係
等について様々な可能性が考えられるにもかかわらず,考えられる一つの仮説
にすぎない状況を前提事実として轢過が不可能であると主張するものであっ
て,合理的な説明とはなっておらず,したがって,いずれの主張も採用するこ
とはできない。そして,弁護人のその余の主張も,轢過地点等の前提事実が前
記認定事実と異なっており,いずれも採用できない。
3以上によれば,Aは,被告人車両の右後輪により轢過されて死亡したと認め
られる。
第4被告人に暴行の故意が認められるかについて
1検察官は,被告人は,⑤地点から発進,進行する際,被告人車両の走行によ
ってAに傷害を負わせるような近い位置にAがいるかもしれないと思いなが
ら被告人車両を走行させていたから,暴行の故意が認められると主張する。そ
れに対し弁護人は,被告人は,⑥交差点手前において,Aらが被告人車両付近
にいないと認識していたから,暴行の故意は認められないと主張する。
2防犯カメラの映像によると,Aは,⑥交差点南側停止線付近において,被告
人車両の運転席側第2列席ドアの右側のすぐ近くを,被告人車両の運転席側ド
アノブ付近に右手を伸ばしてつかみながら,上半身をやや前傾した姿勢で少な
くとも数秒間被告人車両と併走していたことが認められる。このような状況に
照らすと,常識的に考えて,まず,被告人は,⑥交差点に進入する時点では,
被告人車両右側方を併走するAを現実に認識していたのではないかという可
能性が考えられる。
そこで検討するに,④交差点を左折した直後の時点から,被告人車両の運転
席側ドアミラーは前方に倒れ,後部を確認できない状態になっていた。そうす
ると,⑤地点付近を被告人車両が発進し,⑥交差点に進入する頃,Aが運転席
側ドアノブ付近をつかんで被告人車両の右直近にいたとしても,Aが,上記の
ような併走状態であったとすると,運転席にいる被告人が身体をねじって右後
方を確認しない限り,Aを認識できない状況にあった可能性が十分にある。
次に,被告人車両が④交差点を左折した直後の時点では,Aは被告人車両の
運転席側ドアノブ付近をつかむなどして運転席のすぐ横におり,被告人は,そ
のAを認識していたといえるが,その後,Aが,⑤地点直前までの間,そのよ
うな状態のまま被告人車両の直近を併走し続けていたと認めることには,合理
的な疑問が残る。すなわち,④交差点の左折直後の地点及び⑥交差点南側停止
線付近の状況については防犯カメラの映像で分かるものの,両地点の間の状況
については証拠上明らかでない。そして,両地点の間の距離やその間の所要時
間,両地点における被告人車両の速度及びAの併走状況等を考えると,被告人
車両は,④交差点を左折した後に加速し,その結果,Aが一旦被告人車両から
離れた合理的な可能性は否定できないといえる。
さらに,その後Aは,遅くとも⑥交差点南側停止線手前付近では,被告人車
両に追いついているが,その時点でのAの怒号や被告人車両への殴打あるいは
ドアノブをガチャガチャする等Aが被告人車両に追いついたことを被告人が
認識できるような状況は,証拠上明らかではない。
これらからすると,被告人が,⑤地点付近から発進し,⑥交差点に進入する
際,Aが被告人車両のドアノブ付近をつかんで被告人車両の右側方を併走して
いたことを現実に認識していたと認めるには,合理的な疑問が残るといわざる
を得ない。
3(1)次に,被告人車両が④交差点を左折した後の加速時間はその距離から考え
て短時間であり,その後,被告人車両は減速し,⑤地点付近でほぼ停止状態
となったと考えられるから,Aが再度被告人車両に追いつくことは可能であ
り,現に,Aは,遅くとも⑥交差点南側停止線付近では,被告人車両に追い
つきその右側を併走する状態となっている。そして,被告人は,④交差点左
折後もAが被告人車両直近を併走していることを知っており,自車の走行状
況も把握していたから,自身が公判廷で供述し,また被告人がクラクション
を鳴らし続けていたことから明らかなとおり,Aが被告人車両を追いかけ,
このままでは再度被告人車両に追いつくかもしれないと切迫した心理状態
になっていたことが認められる。そうすると,被告人は,それまでの状況か
ら,⑤地点付近において,被告人車両の近くにAがいるかもしれないと考え
ていたと認めることができる。
(2)ところで,本件は,追いかけるAから遠ざかろうとして被告人車両が走行
していたという特徴があるが,そのような場合,被告人車両の走行に際して
被告人に暴行の故意が認められるには,理論的に考えて,単に車の近くにA
がいるかもしれないという認識では足りず,自車の走行によってAに傷害を
負わせるような近い位置にAがいるかもしれないという認識が必要となる。
しかしながら,被告人が前述のとおり被告人車両の近くにAがいるかもし
れないと思っていたとしても,それは,⑤地点付近において,このままでは
Aに追いつかれてしまうという意味で幅のある近い位置であって,それ以上
に,被告人においてAが具体的にどのような位置にいると考えていたか,そ
の位置が自車の走行によってAに傷害を負わせるような近い位置なのかと
いったことは,証拠上認定することはできないといわざるを得ない。
この点に関し,検察官は,被告人が,(1)Aが③地点で被告人車両に追い
ついて以降④交差点に至るまで,「降りてこい。」などと怒鳴りながら,被
告人車両運転席側窓ガラスを殴打したり,運転席ドアノブを引っ張ったりす
るなどして被告人車両の走行によって傷害を負わせるような近い位置にい
たこと,及び(b)被告人車両が④交差点を左折した直後も,Aは,被告人車
両運転席側ドアノブ付近をつかんでその直近におり,被告人車両の走行態様
によっては傷害を負うような近い位置にいたことを,それぞれ認識していた
ことを指摘する。
しかしながら,前述のとおり,被告人車両が④交差点を過ぎた後に急加速
して,Aが一旦被告人車両から離れた合理的可能性は否定できないから,被
告人車両が③地点から④交差点左折直後まで走行した際の状況が,そのまま
⑤地点付近まで継続していたとはいえない。また,被告人車両が④交差点を
左折し加速した後に,Aの怒号や被告人車両への殴打あるいはドアノブをガ
チャガチャするといった,被告人においてAが被告人車両に追いついたこと
を具体的に認識できるような状況は証拠上認められない。したがって,被告
人が上記(a),(b)を認識していたとしても,被告人が,⑤地点付近において,
被告人車両の走行によってAに傷害を負わせるような近い位置にAがいる
かもしれないと考えていたとするには,合理的な疑いが残るといわざるを得
ない。
なお,検察官は,タクシーの後ろで止まったときにAに追いつかれ,その
際,Aは被告人車両運転席横にいて怒鳴っていたとする証人Eの証言から,
被告人も,⑤地点でAが被告人車両運転席横にいることに気付いたとも主張
するが,同証人が,個々の出来事のあった地点については明確に覚えていな
い旨証言していることや,同証人が被告人車両運転席横にいるAに気付いた
としても,そこから直ちに被告人もAに気付いたとはいえないことからすれ
ば,同証言をもって,被告人が,⑤地点で,Aが被告人車両運転席横にいる
ことに気付いたと認めることはできない。
4以上によれば,証拠上,被告人が,被告人車両と併走するAを現実に認識し
ていたとは認められないし,被告人車両の走行によってAに傷害を負わせるよ
うな近い位置にAがいるかもしれないと思っていたことも認められないから,
被告人に暴行の故意があったとは認められず,傷害致死罪は成立しない。
第5被告人が被告人車両を運転する際に過失があったといえるかについて
前述のとおり,Aは,⑥交差点南側停止線付近では,すでに被告人車両の運
転席側第2列席ドアの右側のすぐ近くを,運転席側ドアノブ付近に右手を伸ば
してつかみながら,上半身をやや前傾した姿勢で少なくとも数秒間は被告人車
両と併走していたことが認められる。
ところで,被告人は,③地点から④交差点を左折した直後までは,Aが徐行
のような状態で進む被告人車両の直近で,被告人車両を殴打したり,車内にい
る被告人らに対して罵声を浴びせるなどしながら併走していたことを認識し
ており,また,④交差点を左折し加速したことによってAが被告人車両から離
れたと思った後も,加速できた距離や時間から,Aに追いつかれるとの切迫し
た心理状態になっていたことが認められる(現に,その不安は的中し,Aはそ
の後被告人車両に追いついている。)。
そのような被告人の認識あるいは心理状態を考えると,⑤地点付近を発進し
加速し⑥交差点に進入する時点で,被告人は,Aが,被告人車両の右側直近を
併走していること,あるいはAが被告人車両の走行によって傷害を負わせるよ
うな近い位置にいることは,十分に想定することが可能であったといえる。
そして,そのようなことを想定すれば,自ら右側方及び右後方を確認するな
り,同乗者に確認させるなりして,被告人車両右側方を併走しているAを認識
することができたと認められ,Aを認識すれば,Aがそれまで被告人車両を殴
打したりし,内部にいる被告人らに暴行を加える気勢を示していたとしても,
車内にいる被告人が,被告人車両直近を併走するAに対する危険が生じないあ
るいはより危険が少ない速度や方法で運転することは可能であったといえ,そ
のような行動を取ることができない特段の事情は認められない。
そうすると,被告人には,⑤地点付近を発進し⑥交差点に進入するまでの地
点で,自らの右側方及び右後方を確認するなどして被告人車両の走行によって
Aに傷害を負わせるような近い位置にAがいるかどうかを確認し,そのAの動
静を注視してその安全を確認しながら発進,進行すべき自動車運転上の注意義
務があったと認められる。そして被告人が,右側方及び右後方を確認すること
なく,被告人車両運転席ドアノブ付近をつかむなどしながら併走しているAに
気付かず,被告人車両を発進,進行させた上,⑥交差点付近において,時速約
37㎞に加速しつつ走行させた行為は,上記注意義務に違反した行為というこ
とができる。
第6正当防衛が成立するかについて
1当事者の主張
検察官は,①被告人は,Aが近い位置にいるとは思っていなかったから,A
に対して何らかの行為に出ることが正当化される緊急状態ではなく,②被告人
がAに対して行った行為は,やむを得ず身を守るためにしたものとして相当な
範囲を超えているとして,正当防衛も過剰防衛も成立しないと主張する。それ
に対し,弁護人は,①被告人は危険が差し迫っていると認識していたから,緊
急状態であったといえるし,②被告人がAに対して行った行為の程度も,上記
相当な範囲を超えていたとはいえないとして,正当防衛が成立すると主張する。
2当裁判所の判断
(1)認定事実
関係各証拠や前記第3ないし第5の検討によれば,以下の事実が認められ
る。
ア被告人は,被告人車両を運転して①駐車場を出発して左折し,そのまま
直進していたところ,同車両の前をAの関係者であるFが歩行していたの
で,クラクションを鳴らし,②地点において,道路の脇に移動して立ち止
まったFやAらを追い抜いた。その後,Aは,被告人車両を追いかけ,被
告人車両が③地点で停止した頃,被告人車両に追いついた。
Aは,低速で走行する被告人車両とともに移動しながら,大声で「殺す
ぞ。」,「降りてこい。」,「出てこい。」などと怒鳴りながら,被告人
車両運転席側窓ガラスを何度も手拳で殴打したり,運転席ドアノブを引っ
張ったり,運転席側のドアを蹴ったり,被告人車両の運転席側で路上にあ
った自転車を胸の辺りまでかつぎ,ドア付近に下ろす感じで当てようとす
るなどしており,被告人も,これらの事実をおおよそ認識していた。その
後,Gも被告人車両に追いつき,同様に怒鳴ったり,被告人車両を損壊し
ようとしたりしており,この頃,被告人車両のリアワイパーは引きちぎら
れた。Aは,④交差点で被告人車両から一旦離れたにもかかわらず,被告
人車両が④交差点を左折した直後には被告人車両運転席側ドアノブ付近
をつかんでその直近におり,それまでと同様,運転席側のドアを殴ったり,
大声で怒鳴ったりしており,被告人も,これらの事実をおおよそ認識して
いた。
イ被告人車両は,④交差点左折後に短時間加速したが,その後,⑥交差点
進行方向の信号機が赤色表示となっており,また,被告人車両前方にはタ
クシーが走行していたことから減速し,⑤地点付近でほぼ停止状態となっ
た。この頃,被告人は,Aが被告人車両を追いかけており,このままでは
再度被告人車両に追いつくかもしれないと切迫した心理状態になってお
り,追いかけるAから遠ざかるために被告人車両を走行させる進路を確保
しようとして,クラクションを鳴らし続けていた。
この頃,⑥交差点進行方向の信号機が青色表示となり,被告人車両の2
台前を走行する黄色タクシーが左折し,その直後を走行する黒色タクシー
が被告人車両に進路を譲るために⑥交差点内で右側に寄って停止したこ
となどから,被告人車両の前方の空間があいた。被告人車両は,⑤地点付
近でのほぼ停止した状態から発進,進行して加速し,時速約18㎞で⑥交
差点に進入し,黒色タクシーをかわすなどするため多少左右に転把しなが
ら時速約37㎞まで加速して走行した。Aは,少なくとも⑥交差点南側停
止線手前付近では,被告人車両運転席ドアノブ付近をつかんで併走してい
たが,その後,⑥交差点内において,被告人車両の右後輪が通過している
辺りの路上に落下し,その際に,右前胸部,右側頭部及び右顔面部分を被
告人車両の右後輪に轢過された。
(2)被告人に,生命や身体などに対する差し迫った危険があることを認識し,
それを避けようとする心理状態,すなわち,刑法上の防衛の意思がなかった
といえるかについて
前記のとおり,Aらは,被告人車両が③地点から④交差点左折直後まで進
行する間,執ように,被告人らに対して「殺すぞ。」,「降りてこい。」な
どと怒鳴ったり,被告人車両の運転席側窓ガラスを殴る,運転席側ドアノブ
をガチャガチャするなどして,窓ガラスやドアノブ等を損壊して被告人らを
引きずり出そうとしたりしていた。したがって,被告人車両が④交差点を左
折した直後までの時点においては,被告人らへの生命や身体に対する危険が
現に存在し,被告人がAに対して何らかの行為に出ることが正当化される緊
急状態であったといえる。そして,被告人車両が④交差点を左折した後に加
速し,その結果,Aが一旦被告人車両から離れたとしても,その加速時間は
短時間で,その後,被告人車両は減速し,⑤地点付近でほぼ停止状態となっ
ており,遅くとも⑥交差点南側停止線手前付近では,現に,Aは,被告人車
両に追いついていて,被告人車両運転席側ドアノブ付近をつかんで併走して
いた。また,Aは,③地点から④交差点に至るまで執ように攻撃等を継続し
ており,④交差点で被告人車両が左折した際に被告人車両から一旦離れた際
にも,すぐに被告人車両に追いついて攻撃等を継続していた。したがって,
⑤地点付近においても,Aが被告人車両を追いかけ,追いつけば以前と同じ
ような行動を再開することは十分に考えられる。そうすると,客観的にみる
と,⑤地点付近においても,被告人らの生命や身体に対する危険が差し迫り,
被告人がAに対して何らかの行為に出ることが正当化される緊急状態は終
了したとはいえず,なお継続していたといえる。
そして,被告人も,③地点から④交差点左折直後までのAの上記の行動を
おおよそ認識していたし,前記第4の3のとおり,⑤地点付近で被告人は,
Aがいる具体的な位置については分からなかったものの,Aが近い位置にい
るかもしれず,Aは被告人車両を追いかけ,このままでは再度被告人車両に
追いつくかもしれないと考えていたのである。その上で,被告人は,追いか
けるAから遠ざかるために,被告人車両を走行させる進路を確保しようとし
てクラクションを鳴らし続け,⑤地点付近から被告人車両を発進,進行させ
たのである。
そうすると,被告人には,生命や身体などに対する差し迫った危険がある
ことを認識し,それを避けようとする心理状態,すなわち,刑法上の防衛の
意思があったと認められる。
(3)被告人の行為が,やむを得ず身を守るためにしたものとして相当だと考え
られる範囲を超えていたかについて
アまずAらの被告人らに対する行為を検討する。
Aらは,証拠上,クラクションを鳴らされたこと以外に原因が認められ
ないにもかかわらず,被告人車両が③地点から④交差点左折直後まで進行
する間,被告人らに対して「殺すぞ。」,「降りてこい。」などと怒鳴り,
被告人車両の運転席側窓ガラスを殴る,運転席側ドアノブをガチャガチャ
するなどして,窓ガラスやドアノブ等を損壊して被告人らを被告人車両か
ら引きずり下ろそうとしており,これらの行為は相当執ように続いた。確
かに,客観的に見ると,被告人らは自動車内におり,引きずり出される可
能性は必ずしも高かったとはいえないものの,Aらの行為は,車内にいた
被告人らが生命や身体に相当に恐怖を感じる危険なものであった。また,
Aは,遅くとも⑥交差点南側停止線手前付近では,被告人車両に追いつい
ており,被告人車両運転席側ドアノブ付近をつかんで併走しているし,被
告人も,⑤地点付近においても,Aが被告人車両を追いかけており,この
ままでは再度被告人車両に追いつくかもしれないと考えていた。
イこれに対する被告人の行為やその認識を検討する。
(ア)前記第4のとおり,被告人は,⑤地点付近を発進し⑥交差点に進入す
る際,被告人車両の直近を併走しているAを認識していたとはいえない
し,また,被告人車両の走行によってAに傷害を負わせるような位置に
Aがいるかもしれないと考えていたとも認められない。このような被告
人の認識を前提にすると,被告人が⑤地点付近から被告人車両を加速さ
せ⑥交差点に進入した行為は,追いかけてきているがまだ追いついてい
ないAから,さらに被告人車両を遠ざけようとする行為であって,Aの
身体に具体的な危険が生じるような行為とはいえない。また,被告人は,
Aが被告人車両を追いかけ,このままでは再度被告人車両に追いつき,
攻撃してくるかもしれないという切迫感を感じていたのであるから,さ
らに加速して⑥交差点に進入し,時速約37㎞で通過したことも,追い
かけてきたAから逃げようとしている者が取る行動として十分にあり
得る行動である。このように被告人の認識を前提にして考えると,被告
人の行為は,やむを得ず身を守るためにしたものとして相当な範囲を超
えていたということはできない。
(イ)ところで,被告人が⑤地点付近から被告人車両を加速させ⑥交差点に
進入した行為は,Aがドアノブ付近をつかむなどして直近を併走してい
る状況下で,被告人車両を短時間のうちに時速約18㎞,時速約37㎞
へと加速させ,左右に多少転把したものであって,そのような速度で進
行する自動車の威力を考えると,客観的には身体や生命に対する危険性
が高い行為である。そして前記第5で検討したとおり,被告人には,被
告人車両運転席ドアノブ付近をつかむなどしながら併走しているAに
気付かずに被告人車両を走行させた点に過失が認められる。そこで,本
件において,客観的な危険性の高さと過失の点を考慮して,被告人の行
為を,やむを得ず身を守るためにした行為として相当なものではないと
いうことができるかについて検討する。
本件におけるAらの被告人車両に対する攻撃は,前記認定のとおりで
あって,やはり尋常ではなかったといわざるを得ない。そして,それに
対する被告人の行為は,③地点から⑥交差点までの間一貫してAから遠
ざかるために被告人車両を走行させたというだけで,Aらに直接的に向
けた攻撃を一切加えていない。にもかかわらず,Aは,被告人車両に攻
撃を加え続け,④交差点左折後に引き離された後も追いかけ追いつき,
走行する被告人車両のドアノブ付近から手を離さず併走したのであっ
て,自ら危険な状況に飛び込んだ,あるいはそのような危険な状況を自
ら作出したといえる。
これらの事情を考えると,本件ではAの行動そのものが大きな原因と
なっているといえるから,客観的な危険性の高さや過失の内容を理由に,
被告人の行為がやむを得ず身を守るためにしたものとして相当だと考
えられる範囲を超えていたということはできない。
ウ以上によれば,被告人の行為が,やむを得ず身を守るためにしたものと
して相当だと考えられる範囲を超えていたと認めることはできない。
(4)よって,自動車運転過失致死罪には正当防衛が成立するため,無罪である
と判断した。
第7結論
以上によれば,平成24年2月13日付け訴因変更請求書記載の公訴事実第
1(傷害致死)については犯罪の証明がないことになり,同日付け予備的訴因
変更請求書記載の公訴事実第1(自動車運転過失致死)については,罪となら
ないことになるから,刑事訴訟法336条により,被告人に無罪の言渡しをす
る。
(道路交通法違反被告事件に関する争点に対する判断)
1前述したように,Aの右前胸部,右側頭部及び右顔面部分は,被告人車両の
右後輪により轢過されたことが認められる。そして,証拠によれば,Aの胸板
の厚みは15㎝程度あり,頭部もそれなりの厚みがあることが認められるから,
Aを轢過した際,被告人は,右後輪の衝撃から,それなりの大きさの物体を轢
過したと認識したことが認められる。そうすると,Aの身体を轢過した際,被
告人には,少なくとも物を損壊したかもしれないという認識があったというこ
とができるから,交通事故の認識があったと認められる。そして,関係各証拠
によれば,被告人は,Aの身体を轢過した後,警察官に対し,交通事故が発生
した日時,場所など法律の定める事項を報告しなかったことが認められるから,
被告人には,道路交通法違反の罪(報告義務違反)が成立する。
2(1)もっとも,前述したように,被告人は,Aが被告人車両に併走していたこと
を認識していたとは認められないし,自車の走行によってAに傷害を負わせ
るような近い位置にAがいるかもしれないと思っていたとも認められない。
そして,被告人が,Aから遠ざかる方向に被告人車両を発進させ,それなり
の速度まで加速して走行させていたことからすれば,右後輪からの衝撃を感
じても,被告人が,Aを轢過したかもしれないと思わなかったとしても不自
然とはいえない。また,被告人車両は,進路前方に存在したわけでない高さ
15cm程度の轢過対象を右後輪のみで轢過したのであり,交通事故として
はかなり特異な態様であるから,被告人が,右後輪の衝撃だけで,人を轢過
したかもしれないと思ったと認めるには,合理的な疑問が残るといわざるを
得ない。
なお,被告人の検察官調書には,被告人が⑥交差点で人の足の甲か自転車
のタイヤのような高さと柔らかさのものを踏んだと思った旨の記載があり,
また,Eらに対して人の足を轢いたかもしれない旨話したところ,Eが自業
自得であると答えた旨の記載がある。しかし,いずれも多義的な評価のでき
る供述であって,前者は,検察官調書作成時点で本件前後の状況に関する被
告人の勘違いが影響している可能性があるし,後者についてもEの認識が必
ずしも被告人の認識とはつながらないから,いずれの記載を踏まえても,被
告人がAを轢過したことを認識していたとは認められない。
(2)以上によれば,被告人が,人を轢過したかもしれないと認識していたと認
めるには合理的疑問が残り,自己の運転に起因する人の死傷があったことの
認識があったとは認められないから,被告人には道路交通法上の救護義務違
反の罪は成立しない。
(法令の適用)
省略
(結論)
よって,主文のとおり,判決する。
(求刑:懲役5年)
平成24年3月16日
大阪地方裁判所第1刑事部
裁判長裁判官遠藤邦彦
裁判官近道暁郎
裁判官野口晶寛

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