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平成27年8月20日判決言渡同日原本受領裁判所書記官
平成26年(行ケ)第10182号審決取消請求事件
口頭弁論終結日平成27年7月2日
判決
原告サントリーホールディングス株式会社
同訴訟代理人弁護士仁田陸郎
同萩尾保繁
同山口健司
同石神恒太郎
同伊藤隆大
同訴訟復代理人弁護士青木修二郎
同訴訟代理人弁理士福本積
同古賀哲次
同胡田尚則
同渡邊陽一
同中島勝
同池田達則
被告特許庁長官
同指定代理人村上騎見高
同辰己雅夫
同井上猛
同根岸克弘
主文
1特許庁が不服2012-6456号事件について平成26年6
月9日にした審決を取り消す。
2訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
主文1項と同旨
第2事案の概要
1特許庁における手続の経緯等
(1)原告は,平成17年6月30日,発明の名称を「日中活動量の低下およ
び/又はうつ症状の改善作用を有する組成物」とする発明について特許出
願(以下「本願」という。)をし,平成23年7月11日付けで拒絶理由通
知を受けたことから,同年9月15日付け手続補正書により特許請求の範
囲を補正したが,同年12月16日付けで拒絶査定を受けた。そこで,原
告は,平成24年4月10日,これに対する不服の審判を請求するととも
に,同日付け手続補正書により特許請求の範囲を補正した(以下「本件補
正」という。)(甲1,6,8~10,13)。
(2)特許庁は,前記(1)の審判請求を不服2012-6456号事件として審
理し,平成26年6月9日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との別
紙審決書(写し)記載の審決(以下「本件審決」という。)をし,その謄本
は,同月24日,原告に送達された。
(3)原告は,平成26年7月24日,本件審決の取消しを求める本件訴訟を
提起した。
2特許請求の範囲の記載
(1)本願発明
本件補正前の特許請求の範囲の請求項4の記載は,平成23年9月15日
付け手続補正書(甲8)により補正された次のとおりのものである。以下,
この請求項4に記載された発明を「本願発明」といい,本願に係る明細書
(甲1)を「本願明細書」という。
【請求項4】
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで
成る,日中活動量の低下および/又はうつ症状の改善のための医薬組成物。
(2)本願補正発明
本件補正後の特許請求の範囲の請求項4の記載は,次のとおりである(甲
13)。以下,この請求項4に記載された発明を「本願補正発明」という。
【請求項4】
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで
成る,うつ症状の改善のための医薬組成物。
3本件審決の理由の要旨
(1)本件審決の理由は,別紙審決書の写しのとおりである。要するに,①本
願補正発明は,特表2004-501969号公報(甲2。以下「引用例
1」という。)に記載された発明又は特開2003-48831号公報(甲
3。以下「引用例2」という。)に記載された発明に基づいて当業者が容易
に発明をすることができたものであるから,特許法29条2項の規定により,
特許出願の際独立して特許を受けることができないものであって,本件補正
は,平成18年法律第55号による改正前の特許法17条の2第5項におい
て準用する同法126条5項の規定に違反するので,特許法159条1項の
規定において読み替えて準用する同法53条1項の規定により却下すべきも
のである,②本願発明は,上記各発明に基づいて,当業者が容易に発明をす
ることができたものであるから,特許法29条2項の規定により特許を受け
ることができない,というものである。
(2)本件審決が認定した引用例1に記載された発明(以下「引用発明1」と
いう。),本願補正発明と引用発明1との一致点及び相違点は,次のとおりで
ある。
ア引用発明1
任意の精神医学的,神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経系
疾患,特に精神分裂病,うつ病,双極性障害の治療のための,エイコサペ
ンタエン酸(以下「EPA」ということがある。)または任意の適切な誘
導体を,アラキドン酸(以下「AA」ということがある。)または任意の
適切な誘導体と組み合せることにより調製され,前記EPAおよびAAが
生物学的に同化可能である形態であり,最終投与形態中に混入される前に
各々が少なくとも90%の純度である薬学的配合物。
イ本願補正発明と引用発明1との一致点
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸である誘導体を含んで成る,
精神医学的疾患の症状の改善のための医薬組成物
ウ本願補正発明と引用発明1との相違点
(ア)相違点A
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸である「誘導体」につい
て,本願補正発明では,「トリグリセリド」と特定しているのに対し,
引用発明1では「任意の適切な誘導体」とされている点
(イ)相違点B
引用発明1では,「エイコサペンタエン酸(EPA)または任意の適
切な誘導体」を組み合わせることが特定されているのに対し,本願補正
発明ではそのような特定はされていない点
(ウ)相違点C
「精神医学的疾患の症状」について,本願補正発明では,「うつ症状」
と特定しているのに対し,引用発明1では「うつ症状」とは表現されて
いない点
(3)本件審決が認定した引用例2に記載された発明(以下「引用発明2」と
いう。),本願補正発明と引用発明2との一致点及び相違点は,次のとおりで
ある。
ア引用発明2
アラキドン酸及び/又はアラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物を含ん
で成る,脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患の予防又は改善作用を
有する組成物であって,前記アラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物が,
アラキドン酸のアルコールエステル又は構成脂肪酸の一部もしくは全部が
アラキドン酸である,トリグリセリド,リン脂質もしくは糖脂質である,
医薬組成物。
イ本願補正発明と引用発明2との一致点
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含
んで成る,脳機能の低下に起因する症状の改善のための医薬組成物
ウ本願補正発明と引用発明2との相違点(相違点α)
「脳機能の低下に起因する症状の改善のための」について,本願補正
発明では,「うつ症状の改善のための」と特定しているのに対し,引用発
明2ではそのような表現では特定されていない点
4取消事由
(1)本願補正発明についての引用発明1に基づく進歩性判断の誤り(取消事
由1)
(2)本願補正発明についての引用発明2に基づく進歩性判断の誤り(取消事
由2)
第3当事者の主張
1取消事由1(本願補正発明についての引用発明1に基づく進歩性判断の誤
り)について
〔原告の主張〕
(1)相違点Bに関する判断の誤り
ア本件審決は,本願補正発明と引用発明1との対比において,「引用発明
1では,「エイコサペンタエン酸(EPA)または任意の適切な誘導体」
を組み合わせることが特定されているのに対し,本願補正発明ではその
ような特定はされていない点」を相違点Bとし,この相違点Bについて,
「本願補正発明では,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であ
るトリグリセリドを含んで成る」としており,アラキドン酸のトリグリ
セリド以外の成分も含むことは除外していない。むしろ,本願明細書に
「アラキドン酸含有油脂(トリグリセリド)」にエイコサペンタエン酸
およびドコサヘキサエン酸を含有する油脂を混合した後にビタミンE油
を混合した上でソフトカプセルを製造した実施例5が記載されている
(【0055】~【0056】)ことも参酌すると,エイコサペンタエ
ン酸(EPA)を含むことは本願補正発明でも任意の選択肢として意図
されていると言える。よって,相違点Bは,実質的な相違点であるとは
いえない。」と判断した。
イしかし,本願明細書の実施例1で製造されたトリグリセリドは,約40
重量%のアラキドン酸(AA)を含み,エイコサペンタエン酸(EP
A)を全く含まないところ,次に,実施例3では,実施例1で得たAA
含有トリグリセリドにビタミンE油を混合して混合物(内容物1)を得,
この内容物1を含むソフトカプセルを形成し,最後に,実施例4におい
て,実施例3で得たソフトカプセルをヒトに投与して,うつ症状の改善
効果を確認していることから,本願補正発明においては,EPAを投与
することなく,AA含有トリグリセリドのみで,うつ症状の改善効果が
得られることが明らかである。
そして,本願補正発明が任意成分としてEPAを意図していないことは,
本件補正後の請求項10~12に任意成分として「ドコサヘキサエン酸
及び/又はドコサヘキサエン酸を構成脂肪酸とする化合物」が記載され
ているが,いずれの請求項においても,EPAについては全く記載され
ていないことから明らかであるばかりか,むしろ本願明細書の「脳のリ
ン脂質膜にはエイコサペンタエン酸の割合が非常に低いことから,ほと
んどエイコサペンタエン酸を含まないアラキドン酸とドコサヘキサエン
酸を組み合わせがより望ましい。」との記載(【0043】)によれば,
任意成分としてEPAを使用することは望ましくないことが強調されて
いる。なお,本願明細書の【0055】~【0056】は,EPAに言
及しているが,任意成分として「ドコサヘキサエン酸」が好ましいので,
ドコサヘキサエン酸を豊富に(26.5%)含む魚油を,ドコサヘキサ
エン酸の工業的に実用可能な給源として使用した際に,好ましくないエ
イコサペンタエン酸が少量(5.1%)不所望の成分として随伴したに
すぎない。そして,エイコサペンタエン酸を工業的に実用できる給源と
しては魚油以外にはないが,魚油に含まれるエイコサペンタエンサンの
存在形態は主としてトリグリセリドであって,魚油に含まれるトリグリ
セリドからエイコサペンタエン酸を含むトリグリセリドを分離除去する
ことは極めて困難であり,工業的には不可能に近い。
ウこれに対し,引用例1には,一般的記載として,精神分裂症状の改善の
ために,AA及びEPAの組合せが有効であることが記載されているが,
AAが単独でも有効であることは全く示唆されていない。そして,請求
項1,【0001】,【0005】及び【0012】によれば,EPA
とAA(又はその前駆体)との組合せが必須であることが繰り返し記載
され,さらに【0032】~【0034】の記載によれば,精神分裂病
患者にAAを単独で投与すると精神分裂症状は悪化すること,精神分裂
症状の改善のためには,AAとEPAは不離一体のものとされている。
加えて,引用例1には,EPAとAA(又はその前駆体)との組合せが
必須であることを前提とし,配合物の実施例でもEPAとAAの混合物
に関する記載があるが,実験データのほとんどがEPAの単独投与によ
る精神分裂症状の改善効果であり,その対比としてEPAを伴わないA
Aの単独投与による症状悪化が示されているにすぎず,引用例1におい
て,EPAとAAとの併用が記載されているのは,【0034】の「E
PAを既に摂取中であった患者2名に1g/日の用量でAAが投与され
た場合,彼らは,AAが単独で投与された場合に認められるいかなる悪
化も伴わずに,実質的な更なる改善を経験した。」という極めて抽象的
な記載のみであり,実施内容や効果についての具体的数値を含むデータ
等は何ら開示されていないばかりか,試験対象としての患者も2名と絶
対的に少なく,研究対象の比較検討等がおよそ不可能であって,実験結
果自体信憑性が極めて低いことから,引用例1はEPAとAAの併用に
よる精神分裂症の改善という発明が記載されている刊行物であると認め
ることはできない。
エこのように,引用例1には,所望の目的を達成するために,EPA又は
任意の適切な誘導体と,AA又は任意の適切な誘導体若しくはその前駆
体との組合せが必須であることが繰り返し記載されているのに対して,
本願補正発明は,うつ症状の改善のために,「構成脂肪酸の一部又は全
部がアラキドン酸であるトリグリセリド」のみで十分であって,「EP
A」(又はその前駆体)は必須ではなく,本願明細書の【0043】に
よれば,むしろ望ましくないことを特徴としており,活性成分に関し,
本願補正発明と引用発明1とは,明らかに実質的に異なる。
そうすると,相違点Bが実質的な相違点ではないとする本件審決の前記
アの判断は誤りである。
(2)相違点Cに関する判断の誤り
ア本件審決は,本願補正発明と引用発明1との対比において,「「精神医学
的疾患の症状」について,本願補正発明では,「うつ症状」と特定してい
るのに対し,引用発明1では「うつ症状」とは表現されていない点」を相
違点Cとし,この相違点Cについて,「引用発明1は「任意の精神医学的,
神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経系疾患,特に精神分裂病,
うつ病,双極性障害の治療」を解決しようとする課題とするものであり,
引用例1には精神分裂病の治療に対する有効性を示す実施例も記載されて
いる。一方,本願補正発明は「うつ症状の改善」を解決しようとする課題
とするものであるところ,本件補正後の請求項9に「前記うつ症状の原因
が精神疾患(統合失調症,うつ病など)である,請求項1~8のいずれか
一項に記載の医薬組成物。」とあることにも示されるように,その「うつ
症状」には,「精神疾患(統合失調症,うつ病など)」を原因とするもの
が包含されている。引用発明1により精神分裂病(統合失調症に同義)や
うつ病の治療が奏功すれば,当然,それらを原因とするうつ病は改善され
ると解されるから,相違点Cは,実質的な相違点であるとはいえない。」
と判断した。
イしかし,本件審決の「引用例1には精神分裂病の治療に対する有効性を
示す実施例も記載されている。」という場合の有効性は,前記(1)ウのと
おり,引用発明1においてEPA単独投与の場合及びEPAとAAの併用
の場合の有効性であり,本願補正発明のようにEPAとの併用を意図しな
い(又は必要としない)AAにより得られる有効性ではない。
そうすると,相違点Cが実質的な相違点ではないとする本件審決の前記
アの判断は誤りである。
(3)以上のとおりであるから,相違点B及びCに関する本件審決の判断は誤
りであり,本件審決は取り消されるべきである。
〔被告の主張〕
(1)相違点Bに関する判断について
ア原告の主張(1)イについて
(ア)本願補正発明では,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸で
あるトリグリセリドを含んで成る」としており,文言上,アラキドン酸
のトリグリセリド以外の成分も含むことを除外していない。そして,原
告の摘示する本願明細書の【0043】の記載は,構成脂肪酸の一部又
は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドとともにそれ以外の成分を
含むものも選択肢として示すものにほかならない。
したがって,本願補正発明のうつ症状の改善のための医薬組成物では,
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドのみを
含むもの以外に,構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリ
グリセリドとともにそれ以外の成分を含むものも,選択肢として意図さ
れている。本願補正発明が,アラキドン酸含有トリグリセリドのみでう
つ症状の改善効果を得るものとの原告の主張は,特定の実施例に基づく,
特許請求の範囲の記載に基づかない主張であり,理由がない。
(イ)原告の摘示する本願明細書の【0043】には末尾に「より望まし
い。」との記載があることから,ほとんどエイコサペンタエン酸を含ま
ないアラキドン酸とドコサヘキサエン酸との組み合わせ以外に,エイコ
サペンタエン酸を含む選択肢のあることを示すものであるし,本願明細
書には,エイコサペンタエン酸が含まれると好ましくないことを示す記
載はない。むしろ,本願明細書の【0055】,【0056】には,「ア
ラキドン酸含有油脂(トリグリセリド)」にエイコサペンタエン酸およ
びドコサヘキサエン酸を含有する魚油を混合した後にビタミンE油を混
合した上でソフトカプセルを製造した実施例5が記載されており,そこ
でも,エイコサペンタエン酸について特段,除去等の処理はされていな
い。さらに,本件補正により,請求項1に係る発明については「エイコ
サペンタエン酸をほとんど含まない」との発明特定事項が加えられた一
方,本願補正発明に対しては同じ発明特定事項を加えることができたに
もかかわらず,あえてかかる発明特定事項が加えられなかったことをも
参酌すると,特許請求の範囲全体の記載の中で,本願補正発明では,エ
イコサペンタエン酸を含むことは任意の選択肢として意図されていると
解さざるを得ない。
イ原告の主張(1)ウについて
(ア)本件審決が認定した引用発明1は,前記第2の3(2)アのとおりで
あって,引用発明1が,エイコサペンタエン酸(EPA)又は任意の適
切な誘導体と組み合わせることなく,アラキドン酸(AA)又は任意の
適切な誘導体から調製された薬学的配合物であるとの認定はしていない。
原告の主張は,本件審決が,引用例1に,アラキドン酸又は任意の適切
な誘導体が単独でも有効であることが記載されている点を認定したこと
を前提とした主張であり,本件審決の認定事実と相違し,前提において
失当である。
(イ)確かに,引用例1には,EPA及びAAを併用投与した場合の効果
について,何らかの具体的数値により表現される評価結果等のデータは
示されていない。
しかし,引用例1の記載,特に【請求項1】,【請求項12】,【000
1】及び【0005】からは,特許法2条1項にいう「発明」,すなわ
ち「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」が十分把
握できる。また,引用発明1の奏する効果について何らかの具体的数値
により表現される評価結果等のデータが示されていないことや,引用例
1に記載される実施例における対象患者数が少ないことが,当業者によ
る引用発明1の把握ができないことの根拠になるものでもない。
したがって,原告のこの点に関する主張には理由がない。
ウ原告の主張(1)エについて
前記アのとおり,本願補正発明のうつ症状の改善のための医薬組成物で
は,構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドのみ
を含むもの以外に,構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリ
グリセリドとともにそれ以外の成分を含むものも,選択肢として意図され
ており,エイコサペンタエン酸を含むことは任意の選択肢として意図され
ている。一方,引用例1の【0005】,【0032】及び【0034】に
示されるように,引用発明1におけるアラキドン酸(AA)又は任意の適
切な誘導体が活性成分であることは,引用例1には十分記載されており,
EPAはAAのレベルを高めるものであることも記載されている。
そうすると,原告主張のように,本願補正発明ではエイコサペンタエン
酸又は任意の適切な誘導体あるいはその前駆体は必須ではなく,むしろ望
ましくないことを特徴としているのであり,活性成分に関し,本願補正発
明と引用発明1とは,明らかに実質的に異なると解することには根拠がな
く,相違点Bは,形式上の相違点となるものの,実質的な相違点でないと
した本件審決の判断は妥当である。
(2)相違点Cに関する判断について
前記のとおり,本件審決が認定した引用発明1は,前記第2の3(2)アの
とおりであって,引用発明1が,エイコサペンタエン酸(EPA)又は任意
の適切な誘導体と組み合わせることなく,アラキドン酸(AA)又は任意の
適切な誘導体から調製された薬学的配合物であるとの認定はしていないし,
引用発明1におけるアラキドン酸(AA)又は任意の適切な誘導体が活性成
分であることは,引用例1には十分記載されており,EPAはAAのレベル
を高めるものであることも記載されている。そして,引用例1の記載,特に
【請求項1】及び【請求項12】から,引用発明1は「任意の精神医学的,
神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経系疾患,特に精神分裂病,う
つ病,双極性障害の治療のため」のものと認定でき,引用例1の記載,特に
【0024】~【0034】から,引用発明1には精神分裂病の治療に対す
る有効性もあることが認定できるところ,引用発明1により精神分裂病(統
合失調症に同義)やうつ病の治療が奏功すれば,当然,それらを原因とする
うつ症状は改善されると解される。
したがって,相違点Cは,形式上の相違点となるものの,実質的な相違点
でないとした本件審決の判断に誤りはない。
(3)以上のとおりであるから,原告主張にかかる取消事由1は理由がない。
2取消事由2(本願補正発明についての引用発明2に基づく進歩性判断の誤
り)について
〔原告の主張〕
(1)本件審決は,本願補正発明と引用発明2との対比において,「「脳機能の
低下に起因する症状の改善のための」について,本願補正発明では,「うつ
症状の改善のための」と特定しているのに対し,引用発明2ではそのような
表現では特定されていない点」を相違点αとし,この相違点αについて,①
引用例2には,アラキドン酸含有トリグリセリドが,モリス型水迷路試験の
結果を改善することが記載されている,②モリス型水迷路試験は,モデル動
物の記憶・学習能力,認知能力等を調べるために広く用いられているもので
ある,③記憶・学習能力,認知能力の低下がうつ病で見られることは,技術
常識であるから,④引用例2に記載されたモリス型水迷路試験の実験データ
(アラキドン酸含有トリグリセリドが,モリス型水迷路試験の結果を改善す
ること)から,うつ病の改善効果が推認できる,⑤うつ病の治療が奏功すれ
ば,当然,それらを原因とするうつ症状は改善されると解されるから,引用
発明2によるうつ状態の改善を予測することは困難である旨の原告の主張は
受け入れられない,と判断した。
(2)しかし,上記③は明らかに誤りであり,さらに,③から④の結論を導く
のも誤りである。また,モリス型水迷路試験の結果がうつ病の存否を示すか
否かについては,改めてその客観性を吟味する必要がある。
アすなわち,「記憶・学習能力,認知能力の低下」と「うつ病」とは全く
異なる症状/疾患である。このことは,各症状/疾患で使用される治療薬
の「抗うつ薬」と「抗認知症薬」とで作用機序及び化学構造が全く異なる
ことからも明らかである(甲18,19)。
したがって,記憶・学習能力,認知能力の低下がうつ病で見られること
が技術常識であるとの前記(1)③の本件審決の認定は明らかに誤りである。
イまた,記憶・学習能力,認知能力の低下があれば当然にうつ病やうつ症
状の存在を意味するものではない。したがって,引用例2に記載されたモ
リス型水迷路試験の実験データが,アラキドン酸トリグリセリドの投与に
より記憶・学習能力,認知能力の低下が改善されることを示しているとし
ても,このことは,アラキドン酸トリグリセリドの投与によりうつ病やう
つ症状が改善されることを意味するものではない。そうすると,引用例2
に記載されたモリス型水迷路試験の実験データ(アラキドン酸含有トリグ
リセリドが,モリス型水迷路試験の結果を改善すること)から,うつ病の
改善効果が推認できるとの前記(1)④の本件審決の認定は誤りである。
ウモリス型水迷路試験結果がうつ病の存否を示すか否かの客観性について
(ア)引用例2は,原告の特許出願に係る特許公開公報であり,その特
許出願(原出願)に対する拒絶査定(甲21)において,「本願の発明
の詳細な説明には,…アラキドン酸を含有するトリグリセリド…が,モ
リス型水迷路試験において,学習能力を改善したことが示されるのみで
あり,「感情障害,知的障害,うつ病及び痴呆」の予防または改善に関
して,これらの用途に適用し得ることを直接裏付ける薬理データは何ら
記載されていない。…本願の発明の詳細な説明には「アラキドン酸また
はアラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物」が,学習能力改善の他に,
「感情障害,知的障害,うつ病及び痴呆から成る群から選択される脳機
能の低下に起因する症状あるいは疾患の予防又は改善」に適用し得ると,
一般に認識できる程度に,データまたは理論的な説明が記載されている
とはいえない。よって,本願の上記請求項に係る発明について,発明の
詳細な説明に当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載されている
とも,十分な裏付けをもって記載されているとも認められず,本願発明
の詳細な説明の記載は,特許法第36条第4項第1号に規定する要件を
満たしておらず,また,上記請求項の記載は,特許法第36条第6項第
1号に規定する要件を満たしていないといえる。」と指摘された。
上記指摘がされた拒絶査定を受けて出願した分割出願において,
「脳機能の低下に起因する症状」を,モリス型水迷路試験結果により直
接支持される「記憶・学習能力の低下」に限定することにより特許がさ
れた。
原出願の拒絶査定においてされた上記の指摘は,当業者の認識でも
あるから,引用例2を見た当業者は,AAグリセリドの投与によりうつ
症状が改善される可能性を予測しないはずである。
(イ)引用例2記載のモリス型水迷路試験は専ら記憶・学習能力を測定
する試験であって,うつ病やうつ状態を評価することはできない。これ
に対して,実験動物を用いてうつ状態を評価する方法はいくつか知られ
ているが,最も汎用されているのは「強制水泳試験」である。そして,
モリス型水迷路試験は1981年に,強制水泳試験は1977年にそれ
ぞれ開発された試験法であり,両試験の方法や適用可能対象症状の相違
などは,本願出願前に当業者によく知られていたから,モリス型水迷路
試験に基いて,記憶・学習能力の低下の予防又は改善のためにAA含有
トリグリセリドが有効であることを知った当業者が,うつ症状の改善の
ためにAA含有トリグリセリドが有効であると予測することはない。
(ウ)引用例2には,アラキドン酸等を投与することによりうつ病が改
善されることを示す実験も理論的な説明も記載されていないから,うつ
病の改善効果(うつ病の治療の奏功)を推認できる程度に,技術的事項
が開示されているとはいえない。したがって,引用例2における「うつ
病」への言及は,特許法29条2項の前提である同条1項3号における
「発明」とはいえない。
エ被告の主張について
(ア)被告が,「記憶・学習能力の低下,認知能力の低下」も「うつ病」
も「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」であることの根拠と
して引用する乙1~3には,うつ病患者は,記憶や認知の障害を有す
ることが多いことが記載されているだけであり,記憶や認知の障害を
改善すればうつ病が改善(治療)される旨の記載や示唆は存在しない。
うつ病患者が,記憶や認知の障害を有しているのであれば,うつ病が
改善されれば,その結果として,うつ病患者が有する記憶や認知の障
害も改善されるといえなくもないが,それとは逆に,記憶や認知の障
害が改善されれば,その結果として,うつ病が改善されるとはいえな
い。したがって,引用例2に,アラキドン酸含有トリグリセリドによ
り,学習能力や認知能力が改善されることが記載されていても,この
事実から,アラキドン酸含有トリグリセリドにより,うつ症状が改善
されることを予測することは極めて困難である。
(イ)被告は,本願出願時において,ラットの水迷路試験により抗うつ薬
のスクリーニングやうつ病モデル動物の適合性の検証ができることが
当業者に知られていたことの根拠として乙4及び5を引用する。
しかし,乙4は,モリス型水迷路試験において被験動物としてOBラ
ットを使用して抗うつ病薬候補テストを行なうことができる可能性を
示唆するものではなく,「モリス型水迷路に見られるうつ症状」に言及
されているのではないから,うつ症状と記憶障害(モリス型水迷路に
よる)とが一緒に現れるとしても,うつと記憶障害との相互関係の有
無を論ずるには疑問がある。
また,乙5で提案されているうつ症状を観察するための学習性絶望惹
起方法は,逃避台として直径10㎝のものを使用した方法のみであり,
乙5で使用された動物は「マウス」であり,動物の大きさ(体重)が
20倍も相違するラットを使用した引用例2と,逃避台の直径など,
装置の寸法を対比して論ずることは無意味である。したがって,引用
例2と乙5の両方に接した当業者が,引用例2のモリス型水迷路試験
の結果(アラキドン酸含有トリグリセリドが老齢ラットの学習・認知
能力を改善すること)に基づいて,アラキドン酸含有トリグリセリド
がうつ状態を改善することを,想到することは困難である。
(3)以上のとおりであるから,相違点αについての本件審決の判断は誤って
おり,本件審決は取り消されるべきである。
〔被告の主張〕
(1)ア原告の主張(2)アについて
本件審決は,「うつ病」と認知症(「痴呆」)が同じ疾患であるとは認定
していない。本件審決は,「うつ病」の患者には記憶・学習能力,認知能
力の低下が見られることが技術常識であるとしたものであって,認知症
(「痴呆」)には言及していない。「うつ病」の患者,特に高齢の「うつ
病」の患者には記憶・学習能力,認知能力等の低下が見られることは,
本願出願時における技術常識である(乙1~3)。
したがって,原告の主張(2)アは理由がない。
イ原告の主張(2)イについて
本件審決は,記憶・学習能力,認知能力の低下があれば「うつ病」や
「うつ症状」の存在を意味するとは認定していない。
引用例2の記載,特に【0001】の記載から,引用例2においては
「記憶・学習能力の低下,認知能力の低下」も「うつ病」も「脳機能の
低下に起因する症状あるいは疾患」として記載されているのであり,こ
れは,本願出願当時の当業界における認識とも一致する(乙1~3)。そ
して,引用例2に記載されたモリス型水迷路試験では,高齢者のモデル
動物であることが明らかな老齢ラットを対象として,アラキドン酸又は
アラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物の,脳機能の低下に起因する症
状である記憶・学習能力,認知能力の低下に対する効果の実験データが
示されているのであるから,同じく脳機能の低下に起因する疾患である
「うつ病」に対する,アラキドン酸又はアラキドン酸を構成脂肪酸とす
る化合物による改善効果が推認できる。そうすると,「構成脂肪酸の一部
又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで成る,脳機能の
低下に起因する症状の改善のための医薬組成物」である引用発明2によ
る治療により,「うつ病」の患者に見られる,脳機能の低下に起因する
「記憶・学習能力,認知能力の低下」が改善するならば,引用発明2に
よる治療により,引用例2において,同じく脳機能の低下に起因すると
理解される「うつ病」のうつ症状が改善されると解される,と判断した
ものである。
したがって,原告の主張(2)イは理由がない。
ウ原告の主張(2)ウについて
(ア)原告主張に係る引用例2の特許出願(原出願)に対する拒絶査定
(甲21)において,原告が摘示する箇所は,その審査段階で提出され
た意見書で,「記憶・学習能力の改善」と「感情障害,知的障害,うつ
病及び痴呆から成る群から選択される脳機能の低下に起因する症状ある
いは疾患の予防又は改善」とは異なるとの原告の主張を前提として(審
査官は異なるか否かの判断はしていない。),その主張が正しいと仮定す
ると,本願の発明の詳細な説明の記載は,特許法36条4項1号に規定
する要件を満たしていないと判断されることになるとの審査官の見解を
示すにとどまるものである。しかも上記見解は,原告主張に係る引用例
2の特許出願(原出願)とは異なることの明らかな本願において,異な
る場面である特許法29条2項の規定を適用するに当たっての刊行物に
記載された発明の引用例適格性を示すものではないから,引用例2の記
載に接した当業者がアラキドン酸トリグリセリドの投与によりうつ症状
が改善される可能性を予測しないことの根拠となるものではない。
(イ)前記イのとおり,引用例2においては「記憶・学習能力の低下,認
知能力の低下」や「うつ病」はいずれも「脳機能の低下に起因する症状
あるいは疾患」として記載されており,これは,本願出願時の当業界に
おける認識とも一致する(乙1~3)。したがって,引用例2の記載に
接した当業者が,脳機能の低下に起因する症状の改善のための医薬組成
物である引用発明2を,脳機能の低下に起因する「記憶・学習能力の低
下,認知能力の低下」には効果を奏するものの,同じく脳機能の低下に
起因する「うつ病」には効果を奏しないものとして把握するとは認めら
れない。
しかも,本願出願時において,ラットの水迷路試験により抗うつ薬の
スクリーニングやうつ病モデル動物の適合性の検証ができることは,当
業者に知られていたから(乙4,5),引用例2には強制水泳試験の結
果が記載されずに老齢ラットを対象としたモリス型水迷路試験の結果が
記載されているとしても,原告が主張するような,記憶・学習能力の低
下の予防又は改善のためにアラキドン酸含有トリグリセリドが有効であ
ることを知った当業者が,うつ症状改善のためにアラキドン酸含有トリ
グリセリドが有効であると予想できないことの根拠になるものではない。
(ウ)引用例2の記載,特に【請求項1】,【請求項2】,【請求項14】,
【請求項16】,【0001】,【0013】,【0027】,【0047】~
【0053】,【0058】~【0066】からは,特許法2条1項にい
う「発明」,すなわち「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高
度のもの」が十分把握できる。また,引用発明2の奏する効果について,
強制水泳試験の結果が記載されずに老齢ラットを対象としたモリス型水
迷路試験の結果が記載されていることが,当業者による引用発明2の把
握ができないことの根拠になるものではない。
(エ)したがって,原告の主張(2)ウ(ア)ないし(ウ)は,いずれも理由が
ない。
(2)以上のとおりであるから,相違点αについての本件審決の判断に誤りは
なく,原告主張に係る取消事由2は理由がない。
第4当裁判所の判断
1本願補正発明について
(1)本願補正発明の特許請求の範囲は,前記第2の2(2)記載のとおりである
ところ,本件補正後の本願明細書(甲1,13)の特許請求の範囲及び発
明の詳細な説明には,おおむね,次の記載がある。
【特許請求の範囲】
【請求項4】
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含んで
成る,うつ症状の改善のための医薬組成物。
【請求項5】
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドの,アラ
キドン酸の割合が,トリグリセリドを構成する全脂肪酸に対して10重
量%以上であることを特徴とする請求項4に記載の医薬組成物。
【請求項6】
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドが,モル
ティエレラ(Mortierella)属,…に属する微生物から抽出したもので
(あ)る請求項4又は5に記載の医薬組成物。
【請求項7】
前記トリグリセリドが,1,3-位に中鎖脂肪酸を有し且つ2-位にアラ
キドン酸を有するトリグリセリドを5モル%以上含有する,請求項1~6
のいずれか1項に記載の医薬組成物。
【請求項9】
前記うつ症状の原因が精神疾患(統合失調症,うつ病など)である,請求
項1~8のいずれか1項に記載の医薬組成物。
【請求項10】
さらにドコサヘキサエン酸及び/又はドコサヘキサエン酸を構成脂肪酸と
する化合物を含んでなる,請求項1~9のいずれか1項に記載の医薬組成
物。
【請求項11】
ドコサヘキサエン酸を構成脂肪酸とする化合物が,ドコサヘキサエン酸の
アルコールエステル又は構成脂肪酸の一部もしくは全部がドコサヘキサエ
ン酸であるトリグリセリド,リン脂質又は糖脂質である請求項10に記載
の医薬組成物。
【請求項12】
上記アラキドン酸とドコサヘキサエン酸の組み合わせにおいて,アラキド
ン酸/ドコサヘキサエン酸比(重量)が0.1~15の範囲にあることを
特徴とする請求項10又は11に記載の医薬組成物。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は,日中活動量の低下および/又はうつ症状の改善作用を有する組
成物に関する。
【背景技術】
【0002】
高齢者において,日中活動量の低下やうつ症状が認められることは良く知
られている。こうした日中活動量は,睡眠と密接な関係があり,睡眠障害
により日中活動量が低下することは良くあるし,日中活動量が夜間の睡眠
の質や量と相関するとする報告もある…。
【0003】
一方で,老化だけでなく,様々な精神疾患も直接あるいは睡眠障害などの
症状を介して,日中活動量の低下やうつ症状を引き起こすと考えられてい
る。たとえば,統合失調症患者では,急性増悪期における入眠困難,中途
覚醒などの不眠だけでなく,生活パターンの変化や不規則な日常生活など
睡眠・覚醒リズムの乱れに起因すると考えられる睡眠障害が知られている。
また,感情障害は精神疾患の中でも高率に睡眠障害とうつ症状を合併する
が,単極型うつ病では,入眠困難,中途覚醒,早朝覚醒,熟眠感の欠如や
睡眠時間の短縮などの不眠症状を示し,双極型うつ病病相期は単極型うつ
病と同様の不眠症状を示すが,双極型うつ病の特徴として,単極型うつ病
に比べて昼寝の繰り返しなどによる過眠が認められることが多い。この他
にも様々な神経疾患により睡眠障害やうつ症状が認められるが,睡眠障害
を伴うことが多い神経疾患として,脳変性疾患,認知症,Parkinson症候群,
致死性家族性不眠症,睡眠関連てんかん,睡眠時てんかん性発作波重積,
睡眠関連頭痛などが挙げられる…。
【0005】
また,こうした睡眠障害や心身機能の低下による日中活動量の低下やうつ
症状に対する治療法としては,精神療法的アプローチ,非薬物療法,薬物
療法がある。非薬物療法には高照度光照射があり,現在では,季節性感情
障害や日内リズム睡眠障害の治療に積極的に用いられている。睡眠障害や
うつ症状に対する薬物療法には,ビタミンB12,ベンゾジアゼピン系睡眠
薬などが利用されているが,いずれも確実に効果をもたらすとは言い難く,
薬物療法の確立が待たれている。また,感情障害や神経疾患の治療には,
抗うつ薬や抗精神薬と睡眠薬を併用するのが一般的である。しかし,安全
で有効な睡眠障害や心身の機能の低下による日中活動量の低下やうつ症状
に対する治療効果を有する化合物がないのが現状である。
【0006】
睡眠や行動を制御する化合物としてカンナビノイドが知られている。カン
ナビノイドは,脳内のカンナビノイド受容体を介して記憶・学習…や摂食,
リラックス,睡眠などの行動…に影響を与えることが報告されている。ヒ
トの生体内における内因性のカンナビノイドとしては,アナンダミドや2
-アラキドノイルモノグリセロールなどのアラキドン酸を含有する化合物
が知られているが,これらのカンナビノイドを経口摂取しても,加水分解
されるためにそのまま吸収されることはなく,これまでの報告も,インビ
トロあるいはレセプター阻害剤の投与による実験にとどまっている。
すなわち,これまでにアラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物をヒトに摂
取させた時に低下した日中活動量やうつ症状に影響を与えるかどうかは全
く明らかでなかった。
【発明が解決しようとする課題】
【0008】
従って本発明は,アラキドン酸及び/又はアラキドン酸を構成脂肪酸とす
る化合物を含んで成る,日中活動量の低下および/又はうつ症状の改善作
用を有する飲食品及びその製造方法を提供しようとするものである。より
詳細には,アラキドン酸,アラキドン酸のアルコールエステル並びに構成
脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド,リン脂質及
び糖脂質の群から選ばれた少なくとも1種を有効成分とする,精神疾患
(統合失調症,うつ病など),神経疾患(脳変性疾患,認知症,Parkinson
症候群,致死性家族性不眠症,睡眠関連てんかん,睡眠時てんかん性発作
波重積,睡眠関連頭痛など)または老化に伴う心身機能の低下による睡眠
障害に起因する日中活動量の低下および/又はうつ症状に対する予防又は
改善作用を有する飲食品及びその製造方法を提供しようとするものである。
【課題を解決するための手段】
【0009】
本発明者等は,アラキドン酸及び/又はアラキドン酸を構成脂肪酸とする
化合物を有効成分とする,日中活動量の低下およびうつ症状の改善効果を
明らかにする目的で鋭意研究した結果,驚くべきことに,アクチグラフに
よる測定値を指標に評価することで,アラキドン酸を構成脂肪酸とする化
合物の老人介護施設に短期入所している高齢者の日中活動量の低下および
うつ症状に対する改善効果をヒトで明らかにした。
【0010】
従って本発明により,アラキドン酸及び/又はアラキドン酸を構成脂肪酸
とする化合物を有効成分とする,日中活動量の低下および/又はうつ症状
の改善剤,並びに日中活動量の低下および/又はうつ症状の改善作用を有
する組成物及びその製造方法を提供する。より詳細には,アラキドン酸,
アラキドン酸のアルコールエステル,構成脂肪酸の一部もしくは全部がア
ラキドン酸であるトリグリセリド,リン脂質又は糖脂質の群から選ばれた
少なくともひとつを有効成分とする,精神疾患(統合失調症,うつ病な
ど)による睡眠障害,神経疾患(脳変性疾患,認知症,Parkinson症候群,
致死性家族性不眠症,睡眠関連てんかん,睡眠時てんかん性発作波重積,
睡眠関連頭痛など)による睡眠障害または老化に伴う心身機能の低下によ
る睡眠障害に起因する日中活動量の低下および/又はうつ症状の改善剤,
さらには予防又は改善作用を有する組成物及びその製造方法を提供する。
【発明を実施するための最良の形態】
【0011】
本発明は,アラキドン酸及び/又はアラキドン酸を構成脂肪酸とする化合
物を有効成分とする,日中活動量の低下および/又はうつ症状の改善剤,
並びに日中活動量の低下および/又はうつ症状の予防又は改善作用を有す
る組成物及びその製造方法に関するものである。
日中活動量の低下および/又はうつ症状低下の原因としては,精神疾患
(統合失調症,うつ病など)による睡眠障害,神経疾患(脳変性疾患,認
知症,Parkinson症候群,致死性家族性不眠症,睡眠関連てんかん,睡眠時
てんかん性発作波重積,睡眠関連頭痛など)による睡眠障害または老化に
伴う心身機能の低下による睡眠障害などを挙げることができるが,これら
症状あるいは疾患に限定しているわけではなく,日中活動量の低下および
/又はうつ症状に関係する症状あるいは疾患はすべて含まれる。
【0012】
本発明の有効成分はアラキドン酸であって,アラキドン酸を構成脂肪酸と
するすべての化合物を利用することができる。アラキドン酸を構成脂肪酸
とする化合物には,アラキドン酸塩,例えばカルシウム塩,ナトリウム塩
などを挙げることができる,また,アラキドン酸の低級アルコールエステ
ル,例えばアラキドン酸メチルエステル,アラキドン酸エチルエステルな
どを挙げることができる。また,構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン
酸であるトリグリセリド,リン脂質,さらには糖脂質などを利用すること
ができる。なお,本発明は上記に挙げたものに限定しているわけではなく,
アラキドン酸を構成脂肪酸とするすべての化合物を利用することができる。
【0014】
従って本発明においては,本発明の有効成分である構成脂肪酸の一部又は
全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含有するトリグリセリド(ア
ラキドン酸を含有するトリグリセリド)を使用することができる。アラキ
ドン酸を含有するトリグリセリドとしては,トリグリセリドを構成する全
脂肪酸のうちアラキドン酸の割合が20重量(W/W)%以上,好ましく
は30重量%以上,より好ましくは40重量%以上である油脂(トリグリ
セリド)が食品を適用する場合には望ましい形態となる。したがって,本
発明において,アラキドン酸を含有する油脂(トリグリセリド)を生産す
る能力を有する微生物を培養して得られたものであればすべて使用するこ
とができる。
【0023】
このように,アラキドン酸含有油脂に選択的加水分解を行って得たアラキ
ドン酸を高含有する油脂(トリグリセリド)を本発明の有効成分とするこ
とができる。本発明のアラキドン酸を含有する油脂(トリグリセリド)の
全脂肪酸に対するアラキドン酸の割合は,他の脂肪酸の影響を排除する目
的で高いほうが望ましいが,高い割合に限定しているわけでなく,実際に
は,食品に適応する場合にはアラキドン酸の絶対量が問題になる場合もあ
り,10重量%以上のアラキドン酸を含有する油脂(トリグリセリド)で
あっても実質的には使用することができる。
【0024】
さらに,本発明では構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリ
グリセリドとして,1,3-位に中鎖脂肪酸が,2-位にアラキドン酸が結
合したトリグリセリドを使用することができる。また,1,3-位に中鎖脂
肪酸が,2-位にアラキドン酸が結合したトリグリセリドを5モル%以上,
好ましくは10モル%以上,さらに好ましくは20モル%以上,最も好ま
しくは30モル%以上含む油脂(トリグリセリド)を使用することができ
る。上記トリグリセリドの1,3-位に結合する中鎖脂肪酸は,炭素数6-
12個を有する脂肪酸から選ばれたものを利用できる。炭素数6-12個
を有する脂肪酸として,例えば,カプリル酸又はカプリン酸等を挙げられ,
特に1,3-カプリロイル-2-アラキドノイル-グリセロール(以後「8
A8」とも称す)が好ましい。
【0025】
これら,1,3-位に中鎖脂肪酸が,2-位にアラキドン酸が結合したト
リグリセリドは,高齢者を対象とした場合には,最適な油脂(トリグリセ
リド)となる。一般に油脂(トリグリセリド)を摂取し,小腸の中に入る
と膵リパーゼで加水分解されるが,この膵リパーゼが1,3-位特異的であ
り,トリグリセリドの1,3-位が切れて2分子の遊離脂肪酸ができ,同時
に1分子の2-モノアシルグリセロール(2-MG)が生成する。この2
-MGは非常に胆汁酸溶解性が高く吸収性が良いため,一般に2-位脂肪
酸の方が,吸収性が良いと言われる。また,2-MGは胆汁酸に溶けると
界面活性剤的な働きをして,遊離脂肪酸の吸収性を高める働きをする。
【0034】
特に構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドの場
合に,油脂(トリグリセリド)の用途に関しては無限の可能性があり,食
品,飲料,化粧品,医薬品の原料並びに添加物として使用することができ
る。そして,その使用目的,使用量に関して何ら制限を受けるものではな
い。
【0039】
アラキドン酸およびアラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物の主薬効成分
はアラキドン酸にある。アラキドン酸の一日あたり食事からの摂取量は関
東地区で0.14g,関西地区で0.19-0.20gとの報告がある…。
高齢者の場合には油脂の摂取量が低下する点,膵リパーゼ活性が低下する
点などから相当量,さらにはそれ以上,アラキドン酸を摂取する必要があ
る。したがって,本発明のアラキドン酸およびアラキドン酸を構成脂肪酸
とする化合物の成人(例えば,体重60㎏として)一日当たりの摂取量は,
アラキドン酸量換算として,0.001g~20g,好ましくは0.01
g~10g,より好ましくは0.05~5g,最も好ましくは0.1g~
2gとする。
【0041】
本発明の組成物を医薬品として使用する場合,製剤技術分野において慣用
の方法,例えば,日本薬局方に記載の方法あるいはそれに準じる方法に従
って製造することができる。
本発明の組成物を医薬品として使用する場合,組成物中の有効成分の配分
量は,本発明の目的が達成さえる限り特に限定されず,適宜適当な配合割
合で使用可能である。
【0042】
本発明の組成物を医薬品として使用する場合,投与単位形態で投与するの
が望ましく,特に,経口投与が好ましい。本発明の組成物の投与量は,年
齢,体重,症状,投与回数などのより異なるが,例えば,成人(約60㎏
として)一日当たり本発明のアラキドン酸及び/又はアラキドン酸を構成
脂肪酸とする化合物を,アラキドン酸量換算として,通常約0.001g
~20g,好ましくは0.01g~10g,より好ましくは0.05~5
g,最も好ましくは0.1g~2gを一日1回-3回に分割して投与する
のがよい。
【0043】
脳のリン脂質膜の主要な脂肪酸はアラキドン酸並びにドコサヘキサエン酸
であり,バランスを考えた場合,ドコサヘキサエン酸との組み合わせが望
ましい。また,脳のリン脂質膜にはエイコサペンタエン酸の割合が非常に
低いことから,ほとんどエイコサペンタエン酸を含まないアラキドン酸と
ドコサヘキサエン酸を組み合わせがより望ましい。そして,アラキドン酸
とドコサヘキサエン酸の組み合わせにおいて,アラキドン酸/ドコサヘキ
サエン酸比が0.1~15の範囲,好ましくは0.25~10の範囲にあ
ることが望ましい。また,アラキドン酸の5分の1(重量比)を超えない
量のエイコサペンタエン酸の配合した飲食物が望ましい。
【実施例】
【0044】
次に,実施例により,本発明をさらに具体的に説明する。しかし,本発明
は,実施例に限定されない。
実施例1.アラキドン酸を含有するトリグリセリドの製造方法
アラキドン酸生産菌としてモルティエレラ・アルピナ(Mortierella
alpina)CBS754.68を用いた。…
【0045】
…得られた油脂(トリグリセリド)をメチルエステル化し,得られた脂肪
酸メチルエステルをガスクロマトグラフィーで分析したところ,全脂肪酸
に占めるアラキドン酸の割合は40.84重量%であった。
【0046】
なお,パルミチン酸,ステアリン酸,オレイン酸,リノール酸,γ-リノ
レン酸,ジホモ-γ-リノレン酸などが,それぞれ11.63%,7.4
5%,7.73%,9.14%,2.23%,3.27重量%であった。
さらに,上記アラキドン酸含有油脂(トリグリセリド)(SUNTGA40
S)をエチルエステル化し,アラキドン酸エチルエステルを40重量%含
む脂肪酸エチルエステル混合物から,定法の高速液体クロマトグラフィー
によって,99重量%アラキドン酸エチルエステルを分離・精製した。
【0047】
実施例2.8A8を5モル%以上含有するトリグリセリドの製造
イオン交換樹脂担体(DowexMARATHONWBA:ダウケミカル)100gを,
Rhizopusdelemarリパーゼ水溶液(タリパーゼ現末,12.5%:田辺製
薬(株))80mlに懸濁し,240mlの冷アセトン(-80℃)を攪拌し,
減圧下で乾燥させて固定化リパーゼを得た。
【0048】
次に,実施例1で得たアラキドン酸を40重量%含有するトリグリセリド
(SUNTGA40S)80g,カプリル酸160g,上記固定化リパー
ゼ12g,水4.8mlを30℃で48時間,撹拌(130rpm)しながら
反応させた。…8A8を含有する油脂(トリグリセリド)を得た。…
【0049】
そして,ガスクロマトグラフィー及び高速液体クロマトグラフィーにより,
得られた8A8含有油脂(トリグリセリド)中の8A8の割合を調べたと
ころ,31.6モル%であった(なお,8P8,8O8,8L8,8G8,
8D8の割合はそれぞれ0.6,7.9,15.1,5.2,4.8モ
ル%であった。トリグリセリドの2-位結合する脂肪酸P,O,L,G,
Dはそれぞれパルミチン酸,オレイン酸,リノール酸,γ-リノレン酸,
ジホモ-γ-リノレン酸を表し,8A8は1,3-カプリロイル-2-パル
ミトレイン-グリセロール(判決注:【0024】の記載に照らし,「1,3
-カプリロイル-2-アラキドノイル-グリセロール」の誤記と認める。),
8O8は1,3-カプリロイル-2-オレオイル-グリセロール,8L8は
1,3-カプリロイル-2-リノレオイル-グリセロール,8G8は1,3
-カプリロイル-2-γ-リノレノイル-グリセロール,8D8は1,3-
カプリロイル-2-ジホモ-γ-リノレノイル-グリセロールをいう)。な
お,得られた8A8含有油脂(トリグリセリド)から定法の高速液体クロ
マトグラフィーによって,96モル%8A8を分離・精製した。
【0050】
実施例3.試験カプセルの製造
ゼラチン100重量部及び食添グリセリン35重量部に水を加え50~6
0℃で溶解し,粘度2000cpのゼラチン被膜を調製した。次に実施例1
で得たアラキドン酸含有油脂(トリグリセリド)にビタミンE油0.05
重量%を混合し,内容物1を調製した。この内容物1を用いて,常法によ
りカプセル成形及び乾燥を行い,一粒200㎎の内容物を含有するソフト
カプセルを製造した。人試験用の擬似カプセルとして,内容物をオリーブ
油としたソフトカプセルを同時に製造した。
【0051】
実施例4.老人介護施設に短期入所している高齢者の日中活動量の低下
およびうつ症状に及ぼすアラキドン酸含有食用油脂カプセル摂取試験
日中および夜間の活動量の測定は,活動量測定用のセンサーを内蔵した腕
時計型の測定機器アクチグラフを非利き腕に装着し,1週間連続で昼夜通
して活動量を測定した。このアクチグラフの測定結果をコンピューターソ
フトで解析し,日中活動量,夜間の睡眠の質などを評価した。なお,本発
明のヒト試験は,ヘルシンキ宣言の精神に則り十分な配慮の下に実施した。
【0052】
試験参加同意の説明を行い,同意を得られた老人介護施設に短期入所して
いる高齢者7名をAとBの2群に分け(A:N=4,B:N=3),A群に
は一日アラキドン酸240㎎を摂取できるように,実施例3で調製したア
ラキドン酸含有食用油脂カプセル(アラキドン酸として80㎎/粒)3粒
を1ヶ月間服用させ,B群には擬似カプセル3粒を服用させた。カプセル
の摂取前後で,アクチグラフを非利き腕に装着して1週間連続で昼夜通し
て活動量を測定した。A群,B群の被検者には,その後,2週間,カプセ
ルの摂取を止めてウォッシュアウト期間とした。ウォッシュアウト後,A
群には擬似カプセルを,B群にはアラキドン酸含有食用油脂カプセルを1
ヶ月間服用させ,カプセルの摂取前後で同様にアクチグラフを非利き腕に
装着して1週間連続で昼夜通して活動量を測定した(二重盲検,クロスオ
ーバー試験)。
【0053】
同時に各カプセルの摂取前後で,抑うつ症状の程度を判定するための
Zung抑うつ尺度による検査を実施した。このZung抑うつ尺度による評点
(40点以上:軽度の抑うつ症状,50点以上:中等度の抑うつ症状)を
用いて抑うつの程度の変化を評価した。
カプセル摂取前後の日中の平均活動量の変化を図1に,Zung抑うつ尺度
による評点の変化を図2(判決注:別紙本願明細書の図の図2に示す。)に
示す。擬似カプセル摂取時には,日中の平均活動量もZung抑うつ尺度によ
る評点も有意な変化は認められなかったが,アラキドン酸含有食用油脂カ
プセルを摂取することで,日中の平均活動量が有意に19.1counts/
day増加し,Zung抑うつ尺度による評点が有意に3.2点改善することが
明らかとなった。
【0054】
次に,日中の平均活動量とZung抑うつ尺度による評点との相関を最小二
乗法に基づく一次近似曲線で求めた(図3)。日中の平均活動量とZung抑
うつ尺度の評点との間に有意な相関(相関係数R=-0.561)が認め
られ,元々のZung抑うつ尺度による評点の平均が37.6点と軽度の抑う
つ症状に達しない程度ではあるが,抑うつの程度の軽減により日中活動量
が増加することが明らかとなった。このように,アラキドン酸含有食用油
脂を服用することで日中活動量の低下およびうつ症状が改善することを初
めて明らかにし,その効果はアラキドン酸によることが初めて証明された。
【0055】
実施例5.アラキドン酸を含有する油脂(トリグリセリド)配合カプセ
ルの調製例
ゼラチン100重量部及び食品添加物用グリセリン35重量部に水を加え
50~60℃で溶解し,粘度2000cpのゼラチン被膜を調製した。次に
実施例2で得た8A8を32モル%含有する油脂(トリグリセリド)にビ
タミンE油0.05重量%を混合し,内容物2を調製した。実施例1で得
たアラキドン酸含有油脂(トリグリセリド)50重量%と魚油(ツナ油:
全脂肪酸に占めるエイコサペンタエン酸およびドコサヘキサエン酸の割合
は,それぞれ5.1%および26.5%)50重量%で混合し,ビタミン
E油0.05重量%を混合して内容物3を調製した。
【0056】
アラキドン酸含有油脂(トリグリセリド)80重量%と魚油(ツナ油:全
脂肪酸に占めるエイコサペンタエン酸およびドコサヘキサエン酸の割合は,
それぞれ5.1%および26.5%)20重量%で混合し,ビタミンE油
0.05重量%を混合して内容物4を調製した。実施例1で得た99%ア
ラキドン酸エチルエステルに,ビタミンE油0.05重量%を混合し内容
物5を調製した。これら内容物2から5を用いて,常法によりカプセル成
形及び乾燥を行い,一粒当たり180㎎の内容物を含有するソフトカプセ
ルを製造した。
【0057】
実施例6.脂肪輸液剤への使用
実施例2で得た8A8を96モル%含有する油脂(トリグリセリド)40
0g,精製卵黄レシチン48g,オレイン酸20g,グリセリン100g
及び0.1N苛性ソーダ40mlを加え,ホモジナイザーで分散させたのち,
注射用蒸留水を加えて4リットルとする。これを高圧噴霧式乳化機にて乳
化し,脂質乳液を調製した。該脂質乳液を200mlずつプラスチック製バ
ッグに分注したのち,121℃,20分間,高圧蒸気滅菌処理して脂肪輸
液剤とする。
【図面の簡単な説明】
【0059】
【図2】図2はZung抑うつ尺度を用いて評価したアラキドン酸含有油脂の
高齢者の抑うつ症状に及ぼす影響を示す図である。
(2)前記(1)によれば,本願明細書には,本願補正発明に関し,以下の点が開
示されていることが認められる。
本願補正発明は,うつ症状の改善のための医薬組成物に関する(【000
1】)。
従来,高齢者において,日中活動量の低下やうつ症状が認められることは
良く知られ,日中活動量は睡眠と密接な関係にあるところ,睡眠障害の発
生率は加齢に伴って顕著に増加する。また,老化だけでなく,様々な精神
疾患も直接あるいは睡眠障害などの症状を介して,日中活動量の低下やう
つ症状を引き起こすと考えられており,統合失調症や感情障害である単極
型うつ病においても,睡眠障害が認められる(【0002】,【0003】)。
うつ症状に対する治療法としては薬物療法があるが,睡眠障害やうつ症状
に対する薬物療法としてビタミンB12,ベンゾジアゼピン系睡眠薬,感情
障害や神経疾患の治療には,抗うつ薬や抗精神薬と睡眠薬を併用するのが
一般的であるが,安全で有効な睡眠障害や心身の機能の低下による日中活
動量の低下やうつ症状に対する治療効果を有する化合物がないのが現状で
ある(【0005】)。また,睡眠や行動を制御する化合物である内因性カン
ナビノイドとして,2-アラキドノイルモノグリセロールなどのアラキド
ン酸を含有する化合物が知られているが,これまでにアラキドン酸を構成
脂肪酸とする化合物をヒトに摂取させた時にうつ症状に影響を与えるかど
うかは全く明らかでなかった(【0006】)。
そこで,本発明者は,アラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物に,老人介
護施設に短期入所している高齢者のうつ症状に対する改善効果があること
を見出し,本願補正発明を完成した(【0009】)。
本願補正発明は,構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグ
リセリドを有効成分とする,うつ症状の改善のための医薬組成物を提供す
るものであり(【請求項4】,【0010】),高齢者におけるうつ症状だけで
なく(【0002】,【0009】),精神疾患(統合失調症,うつ病など)に
よる睡眠障害などの様々な原因によるうつ症状の改善を目的とするもので
ある(【請求項9】,【0010】,【0011】)。
本願補正発明に含まれる有効成分の構成脂肪酸の一部又は全部がアラキド
ン酸であるトリグリセリドにおける主薬効成分はアラキドン酸であり(【0
039】),全脂肪酸に対するアラキドン酸の割合は,他の脂肪酸の影響を
排除する目的で高いほうが望ましいが,高い割合に限定しているわけでは
なく(【0023】),例えば,1,3-位にカプリル酸又はカプリン酸等の
中鎖脂肪酸が,2-位にアラキドン酸が結合したトリグリセリドを5モ
ル%以上含むトリグリセリドを使用することができ(【0024】),また,
脳のリン脂質膜における脂肪酸と同様に「ほとんどエイコサペンタエン酸
を含まないアラキドン酸とドコサヘキサエン酸の組み合わせ」がより望ま
しい(【0043】)。
具体的には,実施例1,3,4において,老人介護施設に短期入所してい
る高齢者(7名)に対して,全脂肪酸組成として,パルミチン酸,ステアリ
ン酸,オレイン酸,リノール酸,γ-リノレン酸,ジホモ-γ-リノレン
酸などを,それぞれ11.63%から2.23%含み,アラキドン酸を40.
84重量%含む,アラキドン酸含有食用油脂(トリグリセリド)を含有する
カプセルを1ヶ月間服用させたところ,当該カプセルの摂取前後で,抑う
つ症状の程度を判定するためのZung抑うつ尺度の評点が,有意に3.2点
改善することを確認している(【0044】~【0046】,【0050】~
【0054】,図2)。
実施例5には,上記のアラキドン酸含有食用油脂と,魚油(全脂肪酸に示
すエイコサペンタエン酸及びドコサヘキサエン酸の割合が,それぞれ5.
1%及び26.5%)を,50重量%:50重量%の割合で混合した内容
物3,または,80重量%:20重量%で混合した内容物4を用いて製造
したソフトカプセルが記載されている(【0055】,【0056】)。
実施例2,6では,1,3-カプリロイル-2-アラキドノイル-グリセ
ロール(8A8)を96モル%含有するトリグリセリドを含む脂肪輸液剤
が記載されている(【0047】~【0049】,【0057】)。
2取消事由1(本願補正発明についての引用発明1に基づく進歩性判断の誤
り)について
(1)引用例1の記載
引用例1(甲2)には,おおむね,次の記載がある。
【特許請求の範囲】
【請求項1】
エイコサペンタエン酸(EPA)または任意の適切な誘導体を,アラキ
ドン酸(AA)または任意の適切な誘導体と組み合せることにより調製さ
れ,前記EPAおよびAAが生物学的に同化可能である形態であり,最終
投与形態中に混入される前に各々が少なくとも90%の純度である薬学的
配合物。
【請求項2】
EPA対AAの比が1:1~20:1である請求項1に記載の薬学的配
合物。
【請求項12】
任意の精神医学的,神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経系疾
患,特に精神分裂病,うつ病,双極性障害および,アルツハイマー病およ
びその他の痴呆症ならびにパーキンソン病を含む脳の変性障害の治療のた
めの請求項1~11のいずれかに記載の薬学的配合物。
【発明の詳細な説明】
【0001】
ヒトには2系列の必須脂肪酸(EFA)が存在する。それらは,哺乳類に
おいてdenovoで合成され得ないため,「必須」と呼ばれる。それら
の代謝経路は,図1(判決注:別紙引用例1の図表の図1に示す。)に示さ
れている。これらの脂肪酸は一系列内で相互変換されるが,ヒトにおいて
は,ω-6(n-6)系列はω-3系列に変換され得ないし,ω-3(n
-3)系列はω-6系列に変換され得ない。食餌中の主要EFAは,ω-
6系列のリノール酸およびω-3系列のα-リノレン酸である。しかしな
がら,大多数のそれらの生物学的作用を履行するためには,これらの
「親」EFAは,図1に示された他の脂肪酸に代謝されなければならない。
各脂肪酸は,おそらくは,身体内で特異的役割を有する。n-6系列で特
に重要なのはジホモガンマリノレン酸(DGLA,20:3n-6)およ
びアラキドン酸(AA,20:4n-6)であり,一方,n-3系列で特
に重要なのはエイコサペンタエン酸(EPA,20:5n-3)およびド
コサヘキサエン酸(22:6n-3)である。この特許明細書は特に,A
AおよびEPAの組合せに関する。
【0002】
AAは,すべての細胞膜の,特に神経細胞の細胞膜の重要な成分とみなさ
れている。それは,多数の異なる形態の細胞刺激により活性化される多数
のシグナル伝達系の重要な構成成分である。AAは,通常はリン脂質の形
態で細胞中に見出される。…さらにAAは,エイコサノイドの一般名で公
知のより活性でさえある膨大な種類の誘導体に転化され得る。これらの例
としては,プロスタグランジン,ロイコトリエン,トロンボキサン,種々
の種類のヒドロキシ酸,リポキシン,ヘポキシリンおよび多数のその他の
化合物が挙げられる。これらの物質はしばしば,炎症および血栓反応に関
与し,頻繁にそれら全体の作用に有害であるとみなされる。この有害な印
象は,その血栓作用のために静脈内AAがしばしば致死的であるという事
実により説明され,また,特に抗炎症作用のために広範に用いられている
ステロイドがホスホリパーゼによるAAの放出を遮断するという事実によ
り説明される。…
【0003】
AAの潜在的な毒性についてのこの概念は,十分確立されるようになった。

【0004】
AA毒性のこの一般的見解に対して,ISSFALおよびNIHの専門家
は,ヒトの健康のためのn-3EFAs,特にEPAおよびDHAの価値
を増進するのに熱心であった。EPAおよびDHAは細胞膜リン脂質中の
AAに取って代わり,またリノール酸からのAA合成も低減するであろう
という見解がなされた。EPAおよび/またはDHAによるAAレベルの
低下は,ヒトの健康に広範な有益な作用を及ぼすと期待された。
【0005】
本発明は,この見解が誤りであり得ることを示唆する本発明者の最近の意
外な観察から生じたものである。一般的な専門家の見解に反して,AAは
望ましくないというより非常に望ましく,EPAと連携してAAを投与す
ることは有用であり得ることがここに見出された。本発明は,この組合せ
治療を提供するものである。
【0012】
EPAは,好ましくは50%またはそれ以上の純度の,さらに好ましくは
90%より高い純度のトリグリセリドまたはエチルエステルで構成される。
有用な脂肪酸のその他の形態は,遊離酸,塩,あらゆるタイプのエステル,
アミド,モノグリセリド,ジグリセリド,トリグリセリド,リン脂質また
は体内組織中へのEPAの組入れを導くことができる任意のその他の形態
を包含する。リン脂質が考えられる場合,2つの異なる脂肪酸を含有する,
すなわちEPAおよびAA(またはAA前駆体)の両方を含有するリン脂
質が用いられるものは,本発明から特定的に排除される。しかしながらE
PAを含有するリン脂質は,AAまたはAA前駆体を含有するリン脂質と
組合された場合に,本発明の配合物中に用いることができる。
【0013】
本発明の配合物は,
任意の精神医学的,神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経系疾患,
特に精神分裂病,うつ病,双極性障害およびアルツハイマー病およびその
他の痴呆症ならびにパーキンソン病を含む脳の変性障害,
喘息およびその他の呼吸器疾患,
炎症性腸疾患および過敏性腸症候群を含む消化管の疾患,
任意の系を冒す炎症性疾患,
心臓血管性疾患(cardiovasculardisease),
異脂肪血症(dyslipidaemia),任意の形態の糖尿病または任意の形態の代
謝性疾患,
任意の形態の皮膚科学的疾患(dermatologicaldiseases),
腎臓または尿路疾患,
肝臓疾患,
乳房または前立腺などの男性または女性生殖器官の疾患,
癌または癌悪液質,
口および歯を含む頭部および頚部の疾患,眼の,または耳の疾患,
ウイルス,細菌,真菌(fungi),原生動物(protozoa)またはその他の生
物体による感染,
を含む広範囲の疾患および障害の治療に用いることができる。
【0014】
それらは,一般的栄養サプリメントとしても摂取することができる。
【0019】
多すぎるEPAは膜からのAAの損失を引き起こしやすいため,EPA対
ω-6脂肪酸の比は重要であり,一方,多すぎるAAは,エイコサノイド
へのAAの過剰転化のために,悪影響をもたらし得る。したがって,EP
A対AAまたはDGLAまたはGLAの比は,決して1:1未満にすべき
でなく,好ましくは20:1~1:1の範囲,さらに好ましくは5:1~
1:1の範囲にすべきである。これらの組合せは,AAおよびその前駆体
の供給が,過剰のEPAが単独で与えられた場合に起こり得るAA枯渇を
防止するために,EPAの有益な作用が強化され,相対的に高EPA用量
でも維持されることを保証する。
【0024】
実施例配合物
(a)10部の95%純度のエチル-EPA対2部の95%純度AAの混
合物500㎎または1000㎎を各々含有する軟質または硬質ゼラチンカ
プセル。
(b)(a)と同様であるが,AAおよびEPAエチルエステルが,任意の
その他の適切な生物同化可能形態での脂肪酸,例えば遊離酸,トリグリセ
リド,ジグリセリド,モノグリセリド,その他のエステル,ナトリウム,
カリウムまたはリチウム塩などの塩,アミド,リン脂質または任意のその
他の適切な誘導体で置換される。…
【0025】
実験データ
抗精神分裂病薬クロザピンも摂取中である患者の精神分裂病の治療におい
て,プラセボ,1g,2gおよび4g/日の3つの異なるEPA用量の投
与の試験を実施した。以前のパイロットスタディは,EPAが所望の作用
を有し,EPAの用量が高いほど作用は良好であるとの予測を示唆した。
試験に参加した31名の患者で,12週間追跡調査した。精神分裂病に関
する陽性・陰性症状評価尺度(PANSS)を用いて,ベースラインおよ
び12週で,彼らを評価した。ベースラインからの改善パーセンテージを,
表1に示す。プラセボはわずかな効果を生じ,1g/日はより大きい効果
を生じ,2g/日は,精神分裂病のための既存の薬剤により生成されるこ
の評価尺度での通常の15~20%改善と比較して,26.0%という大
きい効果を生じた。4g/日は最良の効果を生じ得ると予測されたが,こ
れは起きなかった。しかるにそこで4g/日の効果は,2g/日の効果よ
り実質的に低く,1g/日の効果に匹敵した。
【0026】
表1:プラセボ,1g/日,2g/日または4g/日のエイコサペンタエ
ン酸エチルエステル投与患者における精神分裂病に関する陽性・陰性症状
評価尺度(PANSS)に関するベースラインから12週の改善パーセン
テージ
【表1】(判決注:別紙引用例1の図表の表1に示す。)
【0027】
これらの患者において,ならびにさらなるシリーズの患者においても,D
GLA,AA,EPAおよびDHAのレベルを,治療開始前および12週
間後にヒト赤血球で測定した。結果は,一部は予測され,一部は意外であ
った。その結果を表2に示す。予測した通り,用量が多いほどより高くな
るEPAの用量依存上昇が認められた。EPA用量が大きいほど,AAの
低下も大きいAAの漸進的減少があることも予測された。しかしながらこ
れは起きなかった。1g/日のEPAはAAのわずかな増加を生じたが,
2g/日は大きい増加を生じた。4g/日EPAはAAの予測された低下
を生じた。
【0028】
表2:プラセボあるいは1g/日,2g/日または4g/日のエチル-E
PA投与精神分裂病患者の4群における赤血球中のエイコサペンタエン酸
(EPA)およびアラキドン酸(AA)の赤血球濃度(μg/g)におけ
るベースラインから12週の変化。+は増加を,-は低下を意味する。
【表2】(判決注:別紙引用例1の図表の表2に示す。)
【0029】
精神分裂病症状の改善は,EPAの変化よりAAの変化により関連してい
るように思われた。これはより大型シリーズの患者で試験し,PANSS
の改善はすべての主なEFAsにおける変化と相関した。その関係につい
ての統計学的な有意性とともに,相関係数rに関する値を表3に示す。r
値1.0は,2つのパラメータが完全に関連することを意味し,0.0は,
いかなる場合でも関連がないことを意味する。
【0030】
表3:総PANSSスコアに関するベースラインから12週の変化と種々
の必須脂肪酸の赤血球濃度におけるベースラインから12週の変化との間
の相関。rは線形回帰分析(linearregressionanalysis)からの相関係
数を示す。pはその関係の統計学的有意性である)
【表3】(判決注:別紙引用例1の図表の表3に示す。)
【0031】
表から,断然最強の関係はAAに関してであり,2番目に強い関係はDG
LAに関してであることは明らかである。これら2つの脂肪酸の増大は,
PANSSスコアの低下,それゆえ陰性相関関係(thenegative
correlations)より示されるように,精神分裂症状の改善と強く関連する。
これに対して,高用量のEPAが,赤血球AAレベルの低下および臨床効
果の損失に関連するために,EPAとの関係はほとんど認められない。
【0032】
これらの結果は全く予測されなかった。細胞膜中の最も望ましい脂肪酸で
あるEPAそれ自体とは全く異なり,AAおよびDGLAはより有用であ
ると思われる。これについて最も有力な解釈は,AAが膜リン脂質中に保
持され,潜在的に危険なエイコサノイドに転化されない場合,AAが望ま
しいということである。EPAの作用は,ホスホリパーゼを抑制し,した
がってAAをリン脂質形態で保持することである。しかしながら極高用量
のEPAは,AAに取って代わり,治療効果が失われる。
【0033】
この解釈は,AAそれ自体が5名の精神分裂病患者に投与されたパイロッ
トスタディにより支持された。予測は彼らが改善されるということであっ
たが,実際は彼らの症状は悪化した。ホスホリパーゼを抑制するためのE
PAを伴わないAAの投与は,リン脂質へのAAの組入れというよりむし
ろ,エイコサノイドの形成増大をもたらす。
【0034】
これらの試験から引き出される結論は,EPAが望ましいが,それ自体が
望ましいのではなく,それが膜リン脂質中のAAレベルを上げるために望
ましいということである。高用量のEPAは,それ自体で有益であるのと
全く異なり,それらが膜からのAAの過剰損失をもたらすために望ましく
ない。この問題を克服するため,かつEPAの明らかに望ましい効果を高
めるための方法は,比較的低用量のEPAを維持することであるが,AA
あるいはその前駆体であるDGLAまたはガンマ-リノレン酸GLAのう
ちの1つのいずれかとともにEPAを投与することにより,AAのレベル
を高めることでもある。3ヶ月間2g/日のEPAを既に摂取中であった
患者2名に1g/日の用量でAAが投与された場合,彼らは,AAが単独
で投与された場合に認められるいかなる悪化も伴わずに,実質的なさらな
る改善を経験した。
【0036】
文献の再検討により,ここに記載された現象が,精神分裂病について真実
だけでなく,EPAが治療的に有用であるいくつかの障害についても言え
ることが示唆される。…
【図面の簡単な説明】
【図1】
2系列の必須脂肪酸の代謝経路。
(2)引用例1に記載された発明の認定
前記(1)の記載によれば,引用例1に記載された発明については,おおむ
ね,次の事項が記載されていることが認められる。
ア含有される成分について
引用例1の特許請求の範囲に記載された発明は,アラキドン酸が潜在的
な毒性を有するという一般的な専門家の見解に反して,アラキドン酸は
望ましくないというより非常に望ましく,エイコサペンタエン酸と連携
してアラキドン酸を投与することは有用であり得ることを発明者が見出
し,エイコサペンタエン酸とアラキドン酸との組合せ治療を提供するも
のである(【0003】~【0005】)。
実施例では,エイコサペンタエン酸とアラキドン酸は,トリグリセリド
等の任意の適切な誘導体として用いることができるとされている(【請求
項1】,【0012】,【0024】)。
さらに,エイコサペンタエン酸:アラキドン酸の比は,決して1:1未
満にすべきではなく,好ましくは20:1~1:1の範囲にすべきであ
る(【請求項2】,【0019】)。
イ治療可能な疾患又は症状について
(ア)引用例1の実施例においては,以下の①ないし③の事項が具体的に
確認されている。
①抗精神分裂病薬クロザピンを摂取中である精神分裂病患者31名に
対して,エチル-EPA(エイコサペンタエン酸エチルエステル)を
2g/日,12週間(3ヶ月間)投与すると,精神分裂病に関する陽
性・陰性症状評価尺度(PANSS)の数値(以下「PANSSスコ
ア」ということがある。)のベースラインからの改善パーセンテージ
が26.0%であり,精神分裂病の既存の薬剤により生成されるこの
評価尺度での通常の15~20%の改善と比較して大きい効果を生じ
(【0024】~【0026】),PANSSスコアの低下は精神分裂
症状(精神分裂病の症状)の改善と強く関連すること(【0031】)。
②5名の精神分裂病患者にAA(アラキドン酸)それ自体を投与した
パイロットスタディでは,症状が悪化したこと(【0033】)。
③3ヶ月間2g/日のEPAを既に摂取中であった患者2名に1g/
日の用量でAAを投与したところ,AAが単独で投与された場合に認
められるいかなる悪化も伴わずに,実質的なさらなる改善を経験した
こと(【0034】)。
上記①ないし③によれば,エチル-EPAと同時にAAを摂取すると,
PANSSスコアのベースラインからの改善パーセンテージが,エチル
-EPA単独の場合の26.0%よりもさらに改善され,精神分裂病の
既存の薬剤(15~20%)に比べ,精神分裂病の症状が大きく改善さ
れたことが記載されていることから,精神分裂病の治療のためには,エ
チル-EPAとAAを併用することが適切であることが認識できる。
(イ)一方,引用例1には,薬学的配合物を適用できる症状又は疾患とし
て「任意の精神医学的,神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経
系疾患,特に精神分裂病,うつ病,双極性障害およびアルツハイマー病
およびその他の痴呆症ならびにパーキンソン病を含む脳の変性障害」を
含む広範囲のものが記載されている(【請求項12】,【0013】)。
しかし,実施例は,精神分裂病患者に関するもののみであって,うつ
病及び双極性障害の患者に関するものについては全く記載がない。そし
て,実施例において改善効果が確認された精神分裂病と,うつ病や双極
性障害は,精神医学的疾患という点では共通しているものの,一般には,
それらの疾患は,疾患の原因や治療法がそれぞれ異なる別の疾患と認識
されているのであって,精神分裂病の治療に効果があることが確認され
た医薬組成物が,直ちにうつ病や双極性障害の治療に用いることができ
るとの技術常識が存在することを認めるに足りる証拠はない。まして,
精神分裂病の治療に効果があることが確認された医薬組成物が,アルツ
ハイマー病及びその他の痴呆症やパーキンソン病を含む神経学的あるい
はその他の中枢又は末梢神経系疾患の治療にも用いることができるとの
技術常識が存在することを認めるに足りる証拠もない。
また,引用例1の【0036】には,「文献の再検討により,ここに
記載された現象が,精神分裂病について真実だけでなく,EPAが治療
的に有用であるいくつかの障害についても言えることが示唆される。」
との記載があるものの,EPAが治療的に有用であるいくつかの障害に,
うつ病や双極性障害,アルツハイマー病及びその他の痴呆症やパーキン
ソン病を含む神経学的あるいはその他の中枢又は末梢神経系疾患・障害
が含まれるとの技術常識が存在することを認めるに足りる証拠はない。
したがって,引用例1の記載に接した当業者は,エチル-EPAとA
Aを摂取すると精神分裂病の症状が改善したとの実施例の結果に基づい
て,EPAとAAの併用を,うつ病や双極性障害を含む「任意の精神医
学的,神経学的あるいはその他の中枢または末梢神経系疾患」の治療に
も用いることができることを,合理的に予測することはできない。
ウそうすると,引用例1に記載された発明における治療可能な疾患又は
症状を,本件審決のように,「任意の精神医学的,神経学的あるいはそ
の他の中枢または末梢神経系疾患,特に精神分裂病,うつ病,双極性障
害」と広く認定することは相当ではなく,その適用は精神分裂病の治療
に限られるというべきである。
したがって,引用例1に記載された発明は,「精神分裂病の治療のた
めの,エイコサペンタエン酸(EPA)又は任意の適切な誘導体を,ア
ラキドン酸(AA)又は任意の適切な誘導体と組み合せることにより調
製された薬学的配合物。」(以下「引用発明1’」という。)と認定すべき
である。
エ原告は,この点について,引用例1において,EPAとAAとの併用
が記載されているのは,【0034】の「EPAを既に摂取中であった
患者2名に1g/日の用量でAAが投与された場合,彼らは,AAが単
独で投与された場合に認められるいかなる悪化も伴わずに,実質的な更
なる改善を経験した。」という極めて抽象的な記載のみであり,実施内
容や効果についての具体的数値を含むデータ等は何ら開示されていない
ばかりか,試験対象としての患者も2名と絶対的に少なく,研究対象の
比較検討等がおよそ不可能であって,実験結果自体信憑性が極めて低い
ことから,引用例1はEPAとAAの併用による精神分裂症の改善とい
う発明が記載されている刊行物であると認めることはできない旨主張す
る。
しかし,前記のとおり,引用例1には,「本発明は,この見解が誤り
であり得ることを示唆する本発明者の最近の意外な観察から生じたもの
である。一般的な専門家の見解に反して,AAは望ましくないというよ
り非常に望ましく,EPAと連携してAAを投与することは有用であり
得ることがここに見出された。本発明は,この組合せ治療を提供するも
のである。」(【0005】)と記載され,【請求項1】においても,有効
成分として「エイコサペンタエン酸(EPA)または任意の適切な誘導
体を,アラキドン酸(AA)または任意の適切な誘導体と組み合せるこ
と」を特定した上で,精神分裂病患者31名に対するエチル-EPAの
単独投与(【0024】~【0026】)及び5名の精神分裂病患者に対
するAAの単独投与(【0033】)の各結果を踏まえて,さらにEPA
を既に摂取中であった患者2名へのAAの投与を行い,その結果,「A
Aが単独で投与された場合に認められるいかなる悪化も伴わずに,実質
的なさらなる改善を経験した」(【0034】)ことが記載されている。
したがって,当業者であれば,引用例1の上記各記載から,エイコサ
ペンタエン酸とアラキドン酸を,それらの適切な誘導体として組み合わ
せたものは,精神分裂病の症状を改善できるものであって,精神分裂病
の治療という医薬用途を有することを,合理的に推論することができる
から,引用例1に精神分裂病の治療に関する発明が記載されているとい
うべきである。試験対象としての患者が2名と少なく,実験データの結
果等の具体的な実施内容等についての言及がないことは,上記判断を左
右するものではない。
よって,原告の上記主張は採用することができない。
(3)本願補正発明と引用発明1’との対比
本願補正発明には,「構成脂肪酸の一部がアラキドン酸であるトリグリセ
リドを有効成分とする,うつ症状の改善のための医薬組成物」と,「構成脂
肪酸の全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを有効成分とする,うつ
症状の改善のための医薬組成物」との二つの発明が含まれているところ,
事案に鑑み,引用発明1’との対比においては,「構成脂肪酸の一部がアラ
キドン酸であるトリグリセリドを有効成分とする,うつ症状の改善のため
の医薬組成物」を用いることとする。
そして,上記の本願補正発明(「構成脂肪酸の一部がアラキドン酸」であ
るもの)と引用発明1’とを対比すると,本願補正発明の「トリグリセリ
ド」は,引用発明1’の「適切な誘導体」に相当し,引用発明1’の「薬
学的配合物」は本願補正発明の「医薬組成物」に相当する。
したがって,本願補正発明と引用発明1’との一致点及び相違点は,次の
とおりである。
ア一致点
構成脂肪酸の一部がアラキドン酸である適切な誘導体を含んで成る,医
薬組成物。
イ相違点
(ア)相違点A’
適切な誘導体が,本願補正発明は「トリグリセリド」であるのに対し,
引用発明1’は,具体的に特定していない点。
(イ)相違点B’
構成脂肪酸が,本願補正発明は「一部がアラキドン酸である」のに対
し,引用発明1’は「エイコサペンタエン酸及びアラキドン酸を組み合
わせた」ものである点。
(ウ)相違点C’
医薬組成物が,本願補正発明はうつ症状の改善のためのものであるの
に対し,引用発明1’は精神分裂病の治療のためのものである点。
(4)各相違点について
ア相違点A’について
引用例1には,適切な誘導体としてトリグリセリドが例示されているこ
とから(【0012】,【0024】),引用発明1’の「適切な誘導体」と
してトリグリセリドを選択することは,当業者が適宜なし得ることであ
る。
したがって,引用発明1’において,「エイコサペンタエン酸のトリグ
リセリド」と「アラキドン酸のトリグリセリド」とを組み合わせること
は,当業者が容易に想到することができたものというべきである。
イ相違点B’について
(ア)本願明細書には,アラキドン酸以外の脂肪酸について,カプリル酸
やカプリン酸等の中鎖脂肪酸(【請求項7】,【0024】,【0049】
の実施例2,【0055】の実施例5の内容物2,【0057】の実施例
6),ドコサヘキサエン酸(【請求項10】~【請求項12】,【004
3】,【0055】及び【0056】の実施例5の内容物3,4),パル
ミチン酸やステアリン酸等(【0046】,【0050】及び【005
2】の実施例1,3,4)の様々な脂肪酸が記載されている。
また,エイコサペンタエン酸については「ほとんどエイコサペンタエ
ン酸を含まないアラキドン酸とドコサヘキサエン酸を組み合わせがより
望ましい。」(【0043】)と記載されているが,これは単に望ましい場
合を記載したにすぎず,エイコサペンタエン酸が含まれてはならないこ
とを意味するものではない。【0055】及び【0056】の実施例5
の内容物3,4において,ドコサエキサエン酸とエイコサペンタエン酸
を含む魚油をアラキドン酸含有トリグリセリドと併用していることから,
本願補正発明のトリグリセリドの構成脂肪酸としてエイコサペンタエン
酸は排除されておらず,その存在は許容されていると認められる。した
がって,本願補正発明においては,アラキドン酸以外の脂肪酸の種類に
ついて何ら特定されてはいない。
また,【0023】の「本発明のアラキドン酸を含有する油脂(トリ
グリセリド)の全脂肪酸に対するアラキドン酸の割合は,他の脂肪酸の
影響を排除する目的で高いほうが望ましいが,高い割合に限定している
わけでなく」との記載によれば,本願補正発明におけるアラキドン酸と
その他の脂肪酸の比率も何ら特定されていない。
そうすると,本願補正発明の「構成脂肪酸の一部がアラキドン酸であ
る」ことに関して,アラキドン酸以外の脂肪酸については,その種類や
含有比率等については何らの特定もされていないことから,引用発明
1’の「エイコサペンタエン酸及びアラキドン酸を組み合わせた」もの
を包含しているといわざるを得ず,相違点B’は実質的な相違点である
ということはできない。
(イ)原告の主張について
原告は,この点について,引用例1には,所望の目的を達成するため
に,EPA又は任意の適切な誘導体と,AA又は任意の適切な誘導体若
しくはその前駆体との組合せが必須であることが繰り返し記載されてい
るのに対して,本願補正発明は,うつ症状の改善のために,「構成脂肪
酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」のみで十分で
あって,EPA(又はその前駆体)は必須ではなく,本願明細書の【0
043】の記載によれば,むしろ望ましくないことを特徴としており,
活性成分に関し,本願補正発明と引用発明1とは明らかに実質的に異な
る旨主張する。
しかし,本願補正発明と引用発明1’の発明特定事項を対比した場合
に,相違点B’が実質的な相違点であるといえないことは,前記(ア)の
とおりであり,本願補正発明と引用発明1’の技術思想が,エイコサペ
ンタエン酸を必須としないか,必須とするかの点において異なるとして
も,それは相違点B’が実質的な相違点に当たらないとの前記(ア)の判
断を左右するものではない。
したがって,原告の上記主張は採用することができない。
ウ相違点C’について
一般に,統合失調症の主な症状として,幻覚・妄想・思考障害などの陽
性症状と,感情平坦化・会話困難・意欲減退などの陰性症状があり,こ
のうち陰性症状には,うつ症状と似た症状があるが,これらのどのよう
な症状が主症状となるかは,患者の状態によって様々であることが知ら
れている(加藤正明ほか編「新版精神医学事典」(平成23年,弘文
堂)56頁,加島敏ほか編「現代精神医学事典」(平成5年,弘文堂)7
9,755頁参照)。
また,引用例1の実施例においては,エチル-EPAとAAを併用する
と,統合失調症に関する陽性・陰性症状評価尺度(PANSS)の数値
が改善したことが記載されている。この陽性・陰性症状評価尺度(PA
NSS)は,主に統合失調症の精神状態を把握するための評価尺度であ
って,精神症状を,陽性症状尺度として7項目(妄想,概念の統合障害,
幻覚,興奮,誇大性,猜疑心,敵意),陰性症状尺度として7項目(情動
の平板化,情動的ひきこもり,疎通性の障害,受動性・意欲低下による
社会的ひきこもり,抽象的思考の困難,会話の自発性と流暢性の欠如,
常同的思考),総合精神病理評価尺度として16項目(心気症,不安,罪
責感,緊張,衒奇症と不自然な姿勢,抑うつ,運動減退,非協調性,不
自然な思考内容,失見当識,注意の障害,判断力と病識の欠如,意志の
障害,衝動性の調節障害,没入性,自主的な社会回避)の全30項目に
分類し,重症度は1点(なし)から7点(最重度)の合計210点で評
価するものである(前掲「現代精神医学事典」1040頁)。
しかるに,前記(2)イ(ア)のとおり,引用例1の実施例において,患者
2名の陽性・陰性症状評価尺度(PANSS)の数値が改善したとの記
載からだけでは,PANSSの評価尺度のうち,陽性症状尺度,陰性症
状尺度及び総合精神病理評価尺度の中のどの項目において改善が認めら
れたのかが不明であるから,統合失調症の陰性症状のうち,うつ症状と
似た症状が改善したかどうかを確認することはできない。そうすると,
引用例1には,構成脂肪酸がEPA又は任意の適切な誘導体を,AA又
は任意の適切な誘導体と組み合わせることにより調製された医薬組成物
を投与することによって,統合失調症における陰性症状のうち,うつ症
状と似た症状が改善することについては,記載も示唆もないというほか
ない。
そうすると,引用発明1’には,うつ症状が改善されることについての
記載も示唆もないから,本願補正発明と引用発明1’との相違点C’は,
実質的な相違点というべきであり,この相違点C’に係る本願補正発明
の構成に至ることが容易であると認めるに足りない。
したがって,本件審決は,相違点についての判断を誤るものである。
(5)小括
以上によれば,原告主張の取消事由1は理由がある。
3取消事由2(本願補正発明について引用発明2に基づく進歩性判断の誤り)
について
(1)引用例2の記載
引用例2(甲3)には,次の記載がある。
【特許請求の範囲】
【請求項5】構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセ
リドを含有するトリグリセリドを含んで成る,脳機能の低下に起因する症状
あるいは疾患の予防又は改善作用を有する組成物。
【請求項6】構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセ
リドを含有するトリグリセリドの,アラキドン酸の割合が,トリグリセリド
を構成する全脂肪酸に対して10質量%以上であることを特徴とする,請求
項5に記載の組成物。
【請求項8】構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセ
リドを含有するトリグリセリドが,エイコサペンタエン酸をほとんど含まな
いトリグリセリドである請求項5~7のいずれかに記載の組成物。
【請求項11】脳機能の低下に起因する症状が記憶・学習能力の低下であ
る,請求項1~10のいずれかに記載の組成物。
【請求項12】脳機能の低下に起因する症状が認知能力の低下である,請
求項1~10のいずれかに記載の組成物。
【請求項13】脳機能の低下に起因する症状が感情障害又は知的障害であ
る,請求項1~10のいずれかに記載の組成物。
【請求項14】脳機能の低下に起因する疾患がうつ病又は痴呆である,請
求項1~10のいずれかに記載の組成物。
【請求項15】痴呆がアルツハイマー型痴呆又は脳血管性痴呆である,請
求項14に記載の組成物。
【請求項16】組成物が,食品組成物又は医薬組成物である請求項1~1
5のいずれかに記載の組成物。
【発明の詳細な説明】
【0001】
【発明の属する技術分野】本発明は,アラキドン酸及び/又はアラキドン酸
を構成脂肪酸とする化合物を有効成分とする,脳機能の低下に起因する症状
あるいは疾患の予防又は改善作用を有する組成物及びその製造方法に関する
ものである。より詳細には,アラキドン酸,アラキドン酸のアルコールエス
テル並びに構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド,
リン脂質及び糖脂質の群から選ばれた少なくとも1種を有効成分とする記
憶・学習能力の低下,認知能力の低下,感情障害(たとえば,うつ病),知
的障害(たとえば,痴呆,具体的にアルツハイマー型痴呆,脳血管性痴呆)
の予防又は改善剤,さらには予防又は改善作用を有する組成物及びその製造
方法に関するものである。
【0002】
【従来の技術】近年,医療の進歩に伴って急激な高齢化社会に向かっている。
それに伴って老人性痴呆者数も増加している。…人は歳を重ねるにつれて,
脳梗塞がある程度発症するが,痴呆の発症は例えば頭を使うことによって予
防することが可能である。このことから,治療のみならず予防を目指した薬
剤の開発も十分,可能と考えられる。しかしながら,乳幼児から老人まで手
軽に飲用でき,かつ安全であり,脳機能の低下を抑制し,脳機能の低下に起
因する症状あるいは疾患を予防し,さらに改善効果を有する薬剤は,これま
でのところほとんど開発されていない。
【0005】脳は脂質の塊のような組織であって,例えば,白質においては
1/3が,灰白質においては1/4がリン脂質で占められている。脳細胞の
各種細胞膜を構成しているリン脂質中の高度不飽和脂肪酸は,アラキドン酸
とドコサヘキサエン酸が主である。…このようにアラキドン酸が脳の機能維
持に重要な役割をはたす可能性を示唆するものの,アラキドン酸の十分な供
給源がなかったことから,具体的な実証がなされていなかった。
【0011】したがって,脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患を予防
し,さらに改善効果を示し,医薬品,さらには食品への適用に優れたより安
全な化合物の開発が強く望まれている。
【0012】
【発明が解決しようとする課題】従って本発明は,アラキドン酸及び/又は
アラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物を有効成分とする,脳機能の低下に
起因する症状あるいは疾患の予防又は改善剤,並びに脳機能の低下に起因す
る症状あるいは疾患の予防又は改善作用を有する飲食品及びその製造方法を
提供しようとするものである。より詳細には,アラキドン酸,アラキドン酸
のアルコールエステル並びに構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であ
るトリグリセリド,リン脂質及び糖脂質の群から選ばれた少なくとも1種を
有効成分とする記憶・学習能力の低下,認知能力の低下,感情障害(たとえ
ば,うつ病),知的障害(たとえば,痴呆,具体的にアルツハイマー型痴呆,
脳血管性痴呆)の予防又は改善剤,さらには予防又は改善作用を有する飲食
品及びその製造方法を提供しようとするものである。
【0013】
【課題を解決するための手段】本発明者等は,アラキドン酸の又はアラキド
ン酸を構成脂肪酸とする化合物の脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患
に対する予防又は改善効果を明らかにする目的で鋭意研究した結果,驚くべ
きことに,20ヶ月齢を超える老齢ラットをモリス型水迷路試験に供し,ア
ラキドン酸又はアラキドン酸を構成脂肪酸とする化合物の効果を行動薬理学
的解析で明らかにした。さらに,本発明者等は,アラキドン酸を20質量%
以上含有するトリグリセリドの微生物による工業生産に成功し,本発明の効
果試験に供することが可能となり,該トリグリセリドの効果を明らかにした。
さらに,本発明者等は,酵素法により1,3-位に中鎖脂肪酸が,2-位に
アラキドン酸が結合したトリグリセリドを含む油脂を製造することに成功し,
本発明の効果試験に供することが可能となり,該トリグリセリドの効果を明
らかにした。
【0017】より具体的には,本発明の組成物は,加齢に伴う脳機能の低下
に起因する症状あるいは疾患の予防又は改善作用を有するもので,記憶・学
習能力の低下,認知能力の低下,感情障害(例えば,うつ病など),知的障
害(例えば,痴呆であり,具体的にはアルツハイマー型痴呆,脳血管性痴
呆)の予防・改善(あるいは治療)などを目的とした飲食品,医薬品,医薬
部外品,さらには,物忘れ予防,ボケ予防,記憶力の維持・向上,集中力の
維持・向上,注意力の維持・向上,頭をすっきりさせること,頭が冴えわた
ること,若返りなどを目的とした飲食品,健康食品,機能性食品,特定保健
用食品,老人用食品などとして有用である。
【0046】実施例1
(アラキドン酸を含有するトリグリセリドの製造方法)アラキドン酸生産菌
としてモルティエレラ・アルピナ(Mortierellaalpina)CBS754.6
8を用いた。…アラキドン酸含有トリグリセリド(アラキドン酸はトリグリ
セリドの任意な位置に結合)150㎏を得た。得られた油脂(トリグリセリ
ド)をメチルエステル化し,得られた脂肪酸メチルエステルをガスクロマト
グラフィーで分析したところ,全脂肪酸に占めるアラキドン酸の割合は40.
84質量%であった。なお,パルミチン酸,ステアリン酸,オレイン酸,リ
ノール酸,γ-リノレン酸,ジホモ-γ-リノレン酸などが,それぞれ,1
1.63,7.45,7.73,9.14,2.23,3.27質量%であ
った。…
【0050】実施例3
(モリス型水迷路試験によるTGA40Sの学習能評価)老齢ラットの実験
群として,18ヶ月齢雄性Fischer系ラット16匹を対照飼料群(8匹:O
C群)とTGA40S配合飼料群(8匹:OA群)の2群に分け,それぞれ
の群に,…対照飼料およびSUNTGA40S配合飼料を与えた。そして,
若齢ラットのコントロール群(YC群)として,4ヶ月齢雄性Fischer系ラ
ット8匹に…対照飼料を与えた(YC群)。なお,TGA40S配合飼料に
使用したTGA40Sは実施例1で得たものを使用した。
【0052】ラット1匹当たりの1日の摂餌量は約20gであるから,TG
A40Sのラット1匹当たりの1日の摂取量は0.1gとなる。TGA40
Sに結合する全脂肪酸の内,40質量%がアラキドン酸であることから,ラ
ット1匹当たりの1日のアラキドン酸の摂取量は40㎎となる(グリセロー
ル骨格部分の質量については,便宜上無視して計算)。この40㎎は人の摂
取量に換算すると133㎎/60㎏/日に相当する。
【0053】飼育3ヶ月目(老齢ラットの場合は21ヶ月齢,若齢ラットの
場合は7ヶ月齢)の前後でモリス型水迷路学習試験を実施した。モリス型水
迷路試験は,水槽(直径120㎝,高さ35㎝)に墨汁で黒く濁った水を入
れ(液面の高さ20㎝),ラットがかろうじて立てるくらいの大きさの逃避
台(直径11.5㎝,高さ19㎝)を入れておき(逃避台は水面下にあり,
水槽内で泳ぐラットには逃避台は見えない),学習を行うラットを,この水
槽の決められた位置より入れ(出発点),逃避台まで泳がせる空間認識によ
る学習試験で,記憶を司る脳海馬との関連が認められ,欧米で広く使われて
いる。モリス型水迷路試験に用いる装置の概略説明図を図1(判決注:別紙
引用例2の図表の図1に示す。)に示す。回数をこなすとラットは逃避台の
位置を学習していく。ラットの学習は次のようにして行った。すなわち,ラ
ットをモリス型水迷路試験装置の出発点から放し,60秒間経っても,ラッ
トが逃避台に到達できない場合には,ラットを逃避台の上に載せてやること
により,見えない逃避台の位置を学習させた。この学習を1日2回を限度に,
2週間続けた。ラットを出発点から放して,出発点から逃避台に向かう±1
5℃の角度の範囲を遊泳した時間の,全遊泳時間に対する割合(Hit%,図
2(判決注:別紙引用例2の図表の図2に示す。)参照)を,学習の指標と
した。若齢ラットに比較して,老齢ラットの学習の獲得率は明らかに低下す
るが,TGA40Sつまりアラキドン酸を与えることで,若齢ラットのレベ
ルに近づき改善した(図3(判決注:別紙引用例2の図表の図3に示す。))。
図3において,横軸は4試行,すなわち,2日分を1目盛りとして表した。
【0054】次に,学習の獲得の度合いを計るため,プローブテストを,前
記2週間の学習の翌日,すなわち,15日目に実施した。学習を獲得した後,
逃避台を取り去ると,ラットは以前にその逃避台のあった場所を泳ぎまわる。
このような逃避台の位置を記憶して,あった場所を泳ぎ回っている時間(水
槽を4区画に分けて,逃避台のあった区画(1/4)にいた時間(秒)で評
価)で,学習の獲得の度合いを評価することができる。YC群,OA群およ
びOC群のNo.1とNo.2のラットの遊泳の軌跡を示す(図4(判決
注:別紙引用例2の図表の図4に示す。))。なお,ラットは個体により出発
点を変更して学習させたため,図4における出発点(S)および逃避台のあ
った区画は,ラットの個体により異なる。また,図5(判決注:「図4」の
誤記と考えられる。)において,targetquadrantは,逃避台のあった区画
(1/4)を表す。OC群のラットOC-1は明らかに迷走しており,逃避
台のあった区画にいたのはわずか2.4秒であった。プローブテストの結果
を表2(判決注:別紙引用例2の図表の表2に示す。)にまとめた。
【0055】
【表1】(判決注:【表2】の誤記と考えられる。)
【0057】表2をグラフで表すと(図5(判決注:別紙引用例2の図表の
図5に示す。)),老齢ラットにTGA40Sを与えたOA群については,逃
避台のあった区画の滞在時間(逃避台の場所を記憶して,あった場所を泳い
でいる時間)は有意に長いことがわかる。チャンスレベルの15秒は,ラッ
トを60秒間泳がせて滞在時間を測定しているので,偶然に滞在する可能性
を示すものである。棒グラフはラットの逃避台のあった区画の平均滞在時間
を示している。
【0058】次に,モリス型水迷路試験に供したラットから,脳海馬を摘出
し,Folch法にて全脂質を抽出した。そして,薄層クロマトグラフィーで脂
質を分画し,リン脂質画分を掻き取って,エタノールとの共沸で水を除去し
た後,10%塩酸-メタノールで脂肪酸メチルエステルとして,ガスクロマ
トグラフィーで分析した。水迷路学習のパラメータ(「逃避台への到達時間
(短いほど良い)」「逃避台に向って泳いでいる割合(Hit%,大きいほど良
い)」)と脳海馬中のアラキドン酸量との相関を最小二乗法に基づく一次近似
曲線で求めた結果(図6(判決注:別紙引用例2の図表の図6に示す。)),
逃避台への到達時間では,海馬アラキドン酸量と負の相関(相関係数R=-
0.38)が,遊泳軌跡のHit%とは正の相関(相関係数R=0.32)が
認められた。図6において,縦軸は海馬組織1g当たりのアラキドン酸の㎎
を表す。このように,TGA40Sを与えることで,学習能あるいは認知能
力が改善することを初めて明らかにし,その効果はアラキドン酸によること
が初めて証明された。
【0070】
【発明の効果】本発明により,アラキドン酸またはアラキドン酸を構成脂肪
酸とする化合物を有効成分とする,脳機能の低下に起因する症状あるいは疾
患の予防又は改善剤,並びに脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患の予
防又は改善作用を有する飲食品及びその製造方法を提供することができ,高
齢化社会に向かう人類において特に有用である。
【図面の簡単な説明】
【図1】図1はモリス型水迷路試験に用いる装置の概略説明図を示す。
【図2】図2は学習の獲得(Hit%)を説明する。
【図3】図3はラットの試行回数に対する学習の獲得(Hit%)を示すグラ
フである。
【図4】図4は学習の獲得の度合いを計るためのプローブテストにおいて,
ラットが泳いだ60秒間の軌跡を示す図である。
【図5】図5は,学習の獲得の度合いを計るためのプローブテストの結果を
示すグラフである。
【図6】図6は,学習のパラメータと脳海馬中のアラキドン酸量との相関を
求めた結果を示すグラフである。
(2)引用例2に記載された発明について
ア前記(1)の記載によれば,引用例2に記載された発明について,おおむ
ね,次の事項が記載されていることが認められる。
引用例2の【請求項5】を引用する【請求項16】には,「構成脂肪酸
の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含有するトリグリ
セリドを含んで成る,脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患の予防又
は改善作用を有する医薬組成物」が記載されている。また,引用例2には,
「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」について,「加齢に伴う」
脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患として,「記憶・学習能力の低
下,認知能力の低下,感情障害(たとえば,うつ病),知的障害(たとえ
ば,痴呆,具体的にアルツハイマー型痴呆,脳血管性痴呆)」(【請求項1
1】~【請求項15】,【0001】,【0012】,【0017】)が記載さ
れている。
一方,引用例2の実施例3では,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキ
ドン酸であるトリグリセリド」に相当するTGA40S(全脂肪酸に占め
るアラキドン酸の割合が40.84質量%)を3ヶ月間老齢ラットに与え
たところ,モリス型水迷路試験における記憶・学習能が,若齢ラットのレ
ベルに向かって有意に改善し(【0050】,【0052】~【0055】,
図3,図5),モリス型水迷路試験に供した老齢ラットから摘出した海馬
組織のアラキドン酸含有量が多いほど,記憶・学習能が高くなっていたこ
とが確認されている(【0058】,図6)。
これは,加齢に伴う脳機能の低下に起因する症状の一つである「記
憶・学習能力の低下」が,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸で
あるトリグリセリド」により改善されたことを意味するものと認められる。
イうつ病及び記憶・学習能力の低下に関する技術常識について
(ア)乙1(日本神経精神薬理学雑誌第24巻第5号273-275頁,
平成16年10月25日発行)には,おおむね,次の記載がある。
a「要約:高齢者のうつと認知機能についての最近の知見を,病態を
中心に整理しレヴューした。高齢者には,主に器質的疾患の合併の有
無で,正常から重度痴呆までさまざまな認知レベルの状態にあり,そ
れぞれにうつ病が合併していることが知られている。その中でも特に,
血管性うつ病とアルツハイマー病に合併するうつ病について取り上げ
た。若年うつ病での各種脳機能画像研究から,海馬~前頭葉(特に前
部帯状回など)の神経ネットワーク内の相互作用の異常が,精神運動
速度の低下などの認知障害ばかりでなく,認知様式の歪みの形成にも
関与している可能性が示唆されている。アルツハイマー病での高いう
つ病の合併率は,その神経ネットワークがアルツハイマー病に特徴的
な病理によって早期から徐々に冒されていくために生じている可能性
が示唆される。」
b「一般的にうつ病患者は,抑うつ気分,興味または喜びの消失など
基本症状のほかに,記憶や集中力,判断力の低下など,認知の障害を
訴えることがある。…認知障害がうつ病研究で重要と考えられる理由
として次のようなことが考えられる。1)認知障害を訴える患者は,
その程度が抑うつ気分,興味の消失などの基本症状の程度と相関する
ことが多い…。3)認知機能に重要と考えられる脳器官(例えば海馬
や前頭葉)がうつ病にも本質的に関与する可能性がある。…4)…実
際,この認知の歪みを標的にした認知行動療法はうつ病治療に有効で
あることが証明されている…。」
c若年者のうつ病と認知障害
「若~中年者のうつ病患者の認知障害としては,一般的に,記憶障
害,注意の持続困難,精神運動速度の低下,遂行機能障害などが指摘
されてきた。…
注意の持続困難,精神運動速度の低下,遂行機能障害などは,前
頭葉-線条体系…の異常で生じているとされ,後述する高齢者の血管
性うつ病との関連もあり注目されている。…
一方,もう1つの認知障害である記憶障害は,その生物学的基盤
として,視床下部-下垂体-副腎系の異常の関与と,その障害部位と
して海馬周辺のグルココルチコイドによる損傷が想定されている。…
…認知機能に関わる脳部位は相互に関連・影響し合いながら,認知
障害のみならず,認知の歪みなど思考様式の異常にも関与する可能性
を示唆している。海馬~前頭葉の神経ネットワークの何らかの異常が
うつ病の発症に本質的に関わっているのかもしれない。」
d痴呆のない高齢者のうつ病と認知障害
「そこで判明したことをまとめると以下の三点になると思われる。
1)高齢者のうつ病患者においては統合失調症や健常対照者と比較す
るとMRI所見においては前頭葉深部白質病変が発見されることが多
い…。2)健常高齢者や皮質下痴呆患者の場合,深部白質病変は注意
障害や精神運動速度の低下などの前頭葉-線条体系の認知異常と相関
する…。3)注意障害や精神運動速度の低下は,高齢うつ病患者の認
知障害の中心的特徴である…。」
(イ)乙2(老年精神医学雑誌第15巻第11号1226-1230頁,
平成16年11月20日発行)には,おおむね,次の記載がある。
aうつ病自体による認知機能障害
「老年期うつ病について論じるまえに,まず,うつ病自体における
認知障害について述べる。うつ病の神経心理学的所見を検討した最近
の報告を総合すると,障害されやすい機能領域として,精神運動反応
速度,記憶,持続性注意,そしてワーキングメモリや複雑な問題解決
を含めた遂行機能があげられる。…
うつ病における記憶障害を生じる生物学的な脳基盤としては,視
床下部-下垂体-副腎系の調節障害の関与が想定され,グルココルチ
コイドによる神経毒性が海馬を含む神経回路を損傷すると考えられて
いる。また,うつ病患者が複雑な注意課題や遂行機能-前頭葉機能検
査で示す成績低下は,PETなどで示される前頭葉-線条体系の機能
異常との関連が示唆されている。」
b血管性うつ病と非血管性うつ病の認知機能障害の比較
「うつ病一般における認知機能障害と,白質病変に伴う認知機能障
害をあわせて考えると,血管性うつ病においても,その認知障害の主
体は注意・記憶・前頭葉機能-遂行機能の領域にあると推論でき
る。」
c脳血流所見からみた老年期うつ病
「うつ病においては,頭部CTや脳MRIといった形態画像に示さ
れる脳の構造的問題とともに,SPECTやPETの脳血流・代謝変
化に示される脳の機能的問題が指摘されている。」
(ウ)乙3(老年精神医学雑誌第15巻第11号1263-1270頁,
平成16年11月20日発行)には,おおむね,次の記載がある。
aSSRIやSNRIの認知機能に関する影響
「老年期うつ病において認知障害はしばしば認められる症状である。
高齢者の場合はうつと痴呆を明確に分別することはむずかしい。…
新規の抗うつ薬は認知障害とどのようにかかわっているのであろうか。
抗コリン作用をもつ従来の三環系抗うつ薬が認知障害をきたすことは
広く知られているが,その一方でSSRIやSNRIが認知障害をき
たさない薬物であることも多くの研究で明らかにされている。…正常
高齢者よりもうつ病患者ではMRIにて大脳皮質や海馬の萎縮,虚血
性脳血管病変をしばしば確認でき,これらの神経のダメージが老年期
うつ病患者の認知障害に関連している可能性が考察されている。また,
うつ病患者では高コルチゾール血症による海馬への障害なども明らか
にされ,認知機能へ与える影響が大きいことが推測される。」
b老年期うつ病に対する認知機能改善薬の可能性
「前述したように,老年期うつ病に対して抗うつ薬を使用すること
により,抑うつ気分をはじめとする精神症状の改善を図ることができ
るが,認知機能の完全な正常化を図ることはむずかしいようであ
る。」
(エ)甲18(南山堂「医学大辞典」18版,161-162頁・63
0頁・1360頁,平成10年1月16日発行)には,おおむね,次
の記載がある。
aうつ病(抑うつ症,メランコリーmelancholia)
「本来は躁うつ病のうつ病相を意味していたが,うつ状態と同義に
用いられることが多い。うつ病の主症状は,1)気分障害(感情障
害),2)思考障害,3)意欲・行為障害,4)身体症状に分けられ
る。1)気分障害の基本は抑うつ気分であり,程度が強くなると無感
動になる。…不安感や焦燥感が強いと不穏,焦燥,興奮状態を示すこ
ともある。…4)身体症状としては睡眠障害,食欲低下・体重減少,
性欲減退,自律神経機能の障害,頭痛・頭重,易疲労・倦怠感などの
頻度が高い。」
b抗うつ薬(感情調整薬thymoleptica)
「現在,抗うつ薬は,1)三環系抗うつ薬…,2)四環系抗うつ薬
…,3)その他の抗うつ薬…,4)MAO阻害薬…に分類されるが,
MAO阻害薬はわが国ではほとんど使われていない。1)三環系抗う
つ薬にはイミプラミン,アミトリプチリン…,クロミプラミン…アモ
キサピンやロフェプラミン…2)四環系抗うつ薬にはミアンセリン…
セチプチリン…マプロチリン…,3)その他の抗うつ薬にはトリアゾ
ロピリジン系のトラゾドン…がある。抗うつ薬の主な作用は抑うつ気
分の改善,思考・行動の抑制除去,抗不安・焦燥作用である。…」
c痴呆(器質痴呆organicdementia)
「発育過程で獲得した知能,記憶,判断力,理解力,抽象能力,言
語,行為能力,認識,見当識,感情,意欲,性格などの諸々の精神機
能が,脳の器質的障害によって障害され,そのことによって独立した
日常生活・社会生活や円滑な人間関係を営めなくなった状態をい
う。」
(オ)前記(ア)ないし(エ)の記載によれば,うつ病患者は,抑うつ気分な
どの基本症状のほかに,記憶や集中力や判断力の低下などの認知の障害
を訴えることがあり,認知機能に重要と考えられる脳器官(例えば海馬
や前頭葉)がうつ病にも本質的に関与する可能性が指摘されていたが,
うつ病と,記憶障害が中核症状である認知症(痴呆)とは,その病態が
異なり,認知症に有効な薬が当然にうつ病にも有効であるとの技術常識
があることを認めるに足りる証拠もないから,記憶・学習能力の低下を
改善する薬が,うつ病をも改善するとの効果を有するとの技術常識が,
本願出願日当時に存在していたと認めることはできない。
また,抑うつ様症状の評価法としては,強制水泳試験(動物に強制的
に水泳を負荷することで生じる行動抑制を抑うつ様症状の指標として評
価する試験(甲22・97頁右欄10~12行))等が汎用的であって,
記憶・学習能力に関する評価法であるモリス型水迷路試験から,抑うつ
様症状が評価できるとの技術常識があったと認めることもできない。さ
らに,うつ病と海馬組織中のアラキドン酸含有量との関連についての技
術常識があったことを認めるに足りる証拠もない。
ウ引用例2に記載された発明の認定
前記イ(オ)のとおり,本願出願日当時,記憶・学習能力の低下の改善と
うつ病の改善との関連,又は,うつ病と海馬組織中のアラキドン酸含有量
との関連についての技術常識があったと認めることができないことを前提
とすれば,引用例2に接した当業者は,引用例2の実施例3の老齢ラット
のモリス型水迷路試験の結果に基づいて,「構成脂肪酸の一部又は全部が
アラキドン酸であるトリグリセリド」を用いることにより,「記憶・学習
能力の低下」が改善されることは認識できるものの,さらに「うつ病」が
改善されることまでは認識することができないというべきであって,まし
て,「うつ病」を含む様々な症状や疾患が含まれる「脳機能の低下に起因
する症状あるいは疾患」全体が改善されることまでは認識できないという
べきである。
そうすると,引用例2に記載された発明の医薬組成物が予防又は改善作
用を有する症状又は疾患を,本件審決のように,「脳機能の低下に起因す
る症状あるいは疾患」と広く認定することは相当ではなく,その適用は脳
機能の低下に起因する記憶・学習能力の低下に限られるというべきである。
したがって,引用例2に記載された発明は,「構成脂肪酸の一部又は全
部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含有するトリグリセリドを含ん
で成る,脳機能の低下に起因する記憶・学習能力の低下の予防又は改善作
用を有する医薬組成物。」(以下「引用発明2’」という。)と認定すべきで
ある。
(3)本願補正発明と引用発明2’との対比
そうすると,本願補正発明と引用発明2’との一致点及び相違点は,次の
とおりである。
ア一致点
構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリドを含ん
で成る医薬組成物。
イ相違点
本願補正発明は,「うつ症状の改善のため」のものであるのに対し,引
用発明2’は,「記憶・学習能力の予防又は改善作用を有する」ものであ
る点(以下「相違点α’」という。)。
(4)相違点α’に係る容易想到性について
確かに,引用例2の【請求項1】~【請求項16】,【0012】,【001
7】には,「構成脂肪酸の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリ
ド」を用いて,「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」の予防又は改
善を行うことが記載され,当該症状あるいは疾患として,「記憶・学習能力
の低下,認知能力の低下,感情障害(たとえば,うつ病),知的障害(たと
えば,痴呆,具体的にアルツハイマー型痴呆,脳血管性痴呆)」等が記載さ
れている。
しかし,前記(2)ウのとおり,引用例2に接した当業者は,引用例2の実
施例3の老齢ラットのモリス型水迷路試験の結果に基づいて,「構成脂肪酸
の一部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」を用いることにより,
「記憶・学習能力の低下」が改善されることは認識できるものの,さらに
「うつ病」が改善されることまでは認識できないというべきである。
そして,前記(2)イ(オ)のとおり,うつ病と,記憶障害が中核症状である
認知症とは,その病態が異なり,本願出願日当時,記憶・学習能力の低下を
改善する薬が,うつ病をも改善するとの効果を有するとの技術常識が存在し
ていたとは認められないことからすれば,引用例2に接した当業者が,引用
例2に記載された「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」に含まれる
多数の症状・疾患の中から,特に「うつ病」を選択して,「構成脂肪酸の一
部又は全部がアラキドン酸であるトリグリセリド」を用いて,うつ病の症状
である「うつ症状」が改善されるかを確認しようとする動機付けがあるとい
うことはできない。
そうすると,引用例2に基づいて,相違点α’に係る本願補正発明の構成
に至ることが容易であるということはできず,本件審決のこの点に関する判
断には誤りがあるというべきである。
(5)被告の主張について
ア被告は,引用例2においては,「記憶・学習能力の低下,認知能力の低
下」や「うつ病」はいずれも「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾
患」として記載されており,これは,本願出願時の当業界における認識
とも一致するから(乙1~3),引用例2の記載に接した当業者が,脳機
能の低下に起因する症状の改善のための医薬組成物である引用発明2を,
脳機能の低下に起因する「記憶・学習能力の低下,認知能力の低下」に
効果を奏するならば,同じく脳機能の低下に起因する「うつ病」にも効
果を奏するものとして把握する旨主張する。
しかし,「記憶・学習能力の低下,認知能力の低下」及び「うつ病」が,
いずれも「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」であるとしても,
そのことから直ちに,前者の症状の改善のための医薬組成物が,後者に
対しても効果を奏することになるものではない。むしろ,前記(4)のとお
り,うつ病と,記憶障害が中核症状である認知症とは,その病態が異な
り,本願出願日当時,記憶・学習能力の低下を改善する薬が,うつ病をも
改善するとの効果を有するとの技術常識が存在していたとは認められな
いから,引用例2記載の医薬組成物を投与することにより記憶・学習能
力の低下が改善された実施例と同様の改善効果が期待できるものとして,
引用例2において「脳機能の低下に起因する症状あるいは疾患」として
例示された症状・疾患の中から,あえて「うつ病」を選択する動機付け
があるということはできない。
したがって,引用発明2’に基づいて,相違点α’に係る本願補正発
明の構成に至ることが,当業者にとって容易であったということはでき
ないから,被告の上記主張は採用することができない。
イ被告は,本願出願時において,ラットの水迷路試験により抗うつ薬の
スクリーニングやうつ病モデル動物の適合性の検証ができることは,当
業者に知られていたから(乙4,5),引用例2には強制水泳試験の結果
が記載されずに老齢ラットを対象としたモリス型水迷路試験の結果が記
載されているとしても,原告が主張するような,記憶・学習能力の低下
の予防又は改善のためにアラキドン酸含有トリグリセリドが有効である
ことを知った当業者が,うつ症状改善のためにアラキドン酸含有トリグ
リセリドが有効であると予想できないことの根拠になるものではない旨
主張する。
しかし,乙4には,嗅覚伝導を司る重要な脳部位である嗅球を外科的
に除去した嗅球摘出ラット(OBラット)は,モリス型水迷路試験に見
られる記憶の欠如等の行動変化が観察され,それらの変化の多くがうつ
病患者で観察されるものと質的に類似し,OBラットは,うつ病のモデ
ルとして結論づけられること,モリス型水迷路試験は齧歯動物における
空間航行のテストとして考案されたものであることが記載されているも
のの,モリス型水迷路試験により,うつ状態が直接観察できることが記
載されているわけではない。
また,乙5には,マウスを用いた水迷路学習場面において,底面の直
径が90㎝のプールにおける逃避台の直径を,15㎝又は20㎝ではな
く,10㎝とした場合には,一種のうつ状態と解釈される不動状態に陥
ることから,このマウスのうつ反応(学習性絶望)の観察方法は,強制
水泳試験よりも妥当性の高いうつの動物モデル作成法であり,抗うつ薬
スクリーニングに応用可能であることが記載されている。これに対して,
引用例2の実験は,底面の直径が120㎝のプールにおいて,逃避台の
直径を11.5㎝とする装置を用いて,マウスよりも遥かに大きなラッ
トで行った実験であって,乙5の実験条件とは大きく異なるから,引用
例2の実験においても,ラットに一種のうつ状態と解釈できる不動状態
が生じており,これを抗うつ薬のスクリーニングに応用できると認める
ことはできない。
したがって,乙4及び5を斟酌しても,引用例2のモリス型水迷路試
験の結果から,うつ病が改善されることを当業者が予測できるとはいえ
ず,被告の上記主張は採用することができない。
(6)小括
以上のとおりであるから,原告主張に係る取消事由2は理由がある。
4結論
以上によれば,原告主張の取消事由1及び2はいずれも理由があるから,本
件審決は取消しを免れない。
よって,原告の請求を認容することとし,主文のとおり判決する。
知的財産高等裁判所第4部
裁判長裁判官高部眞規子
裁判官田中芳樹
裁判官柵木澄子
別紙本願明細書の図
【図2】
別紙引用例1の図表
【図1】
【表1】
【表2】
【表3】
別紙引用例2の図表
【図1】
【図2】
【図3】
【図4】
【図5】
【図6】
【表2】

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