弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1被告は,原告らに対し,それぞれ220万円及びこれに対する平成14年6
月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3訴訟費用はこれを10分し,その9を原告らの負担とし,その余を被告の負
担とする。
4この判決の主文1項は,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1被告は,原告らに対し,それぞれ3918万5537円及びこれに対する平
成14年6月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2訴訟費用は被告の負担とする。
3仮執行宣言
第2事案の概要
1事案の要旨
本件は,原告らの子で当時4歳であったDが,被告の経営する埼玉県a市所
在のE歯科医院において虫歯治療を受けた際に,局所麻酔剤を原因とするアナ
フィラキシーショックにより呼吸循環不全に陥り,搬送先の病院で死亡したの
は,被告が局所麻酔剤投与後にDのバイタルサインを観察する義務を怠ったこ
と又は被告が迅速かつ適切な救急処置を怠ったことが原因であるとして,原告
らが,被告に対し,不法行為又は債務不履行に基づき,それぞれ3918万5
537円及びこれに対するDが死亡した日である平成14年6月15日から支
払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案であ
る。
2前提事実(争いがないか,後掲の証拠及び弁論の全趣旨により認められる事
実)
(1)当事者
ア原告A及び原告Bは,Dの両親である。
イ被告は,埼玉県a市において,E歯科医院を開設して経営する開業歯科
医師である。
(2)診療経過
アDは,初診日である平成14年5月14日以降,E歯科医院において歯
科治療を受けていた。
原告Bは,同年6月15日午後4時20分ころ(以下,時刻のみを記載
する場合は,同日の時刻を指すものとする。),予約をした上で,Dを連
れてE歯科医院を訪れ,被告にDの治療を依頼した。
被告による診察の結果,Dは,右下顎第2乳臼歯の治療が必要であると
診断された。
イそのほか,平成14年5月14日から同年6月15日までのE歯科医院
におけるDの診療経過は,別紙診療経過一覧表「日時診療経過」欄(た
だし,下線部は除く。)記載のとおりである。(別紙診療経過一覧表「証
拠」欄記載の各証拠)
ウE歯科医院に到着した救急車は,Dを収容して午後5時6分にE歯科医
院を出発し,午後5時7分にF病院に到着した。
同病院到着時,Dは心肺停止状態であった。同病院において,Dに気管
内挿管,エピネフリン投与,心マッサージ等の心肺蘇生術が施されたが,
午後5時42分,Dの死亡が確認された。(甲A7)
(3)Dの死因
Dの死因は,E歯科医院で使用された歯科用局所麻酔剤オーラ注カートリ
ッジ(以下「オーラ注」という。)を原因とするアナフィラキシーショック
による呼吸循環不全であった。
(4)医学的知見(甲A1,A2,B1ないしB8,B14の2,B15(G医
師作成の意見書。以下「G意見書」という。),乙B1,B3,B6,鑑定
人Hの鑑定結果(以下,同人作成の鑑定書及び同人に対する補充鑑定の結果
を総称して「H鑑定意見」という。),鑑定人Iの鑑定結果(以下,同人作
成の鑑定書及び同人に対する補充鑑定の結果を総称して「I鑑定意見」とい
う。))
アアナフィラキシーショック
(ア)アナフィラキシーショックとは,肥満細胞や好塩基球に結合してい
る抗体に抗原が結合することで起こる即時性反応により細胞内からヒス
タミンやSRS−Aなどのケミカルメディエーターが遊離され,気管支
の強い収縮,血管床の拡大をもたらし,高度の呼吸困難や血圧の低下か
らショック症状を発症させる状態をいい,重篤な状態になると急激な死
亡に至る。(甲A2,乙B6)
(イ)アナフィラキシーショックの発症にはIgE抗体が関与し,もとも
と素因をもつ患者に薬剤を投与すると,初回投与後に体内にIgE抗体
が産生され,肥満細胞や好塩基球に結合する。2度目に投与される同種,
同系の薬剤が抗原となり,IgE抗体に対してアレルギー反応を起こす。
IgE抗体と結合した肥満細胞や好塩基球が活性化され,ヒスタミン,
セロトニンなどの化学物質を放出し,血管,粘膜,平滑筋などに作用し
て,以下の臨床症状を呈する。
アナフィラキシーショックの前駆症状として,口腔内の違和感,舌の
熱感,四肢のしびれ,冷汗,生あくびの連発,皮膚症状などが発現する。
自覚症状には,顔面・全身の熱感,掻痒感,口唇・舌・四肢のしびれ,
悪心,嘔気,呼吸困難感,視力減弱感,めまい感,頭痛,耳鳴り,全身
虚脱感,尿意,便意などがある。他覚症状には,蕁麻疹,固定疹,水疱
性発疹,血管神経性浮腫,嘔吐,下痢,失禁,気管支喘息様発作,チア
ノーゼ,咽頭・喉頭浮腫,呼吸不全,頻脈,不整脈,血圧低下,全身痙
攣,意識消失,心停止などがある。もっとも,アナフィラキシーショッ
クの症状は様々であり,これらの症状がすべて発現するとは限らない。
(甲B3,B6)
(ウ)歯科治療に使用する局所麻酔剤及び局所麻酔剤に添加されている防
腐剤(メチルパラベン),酸化防止剤(ピロ亜硫酸ナトリウム)は,ア
ナフィラキシーショックを引き起こす可能性がある。局所麻酔剤による
アナフィラキシーショックの症状は,注射後2,3分から15分で現れ
ることが多い。(甲B3,B5,乙B1)
重篤なアナフィラキシーショックでは症状の進行が非常に早く,局所
麻酔剤投与から心停止までの時間の中央値は5分から15分である。
(G意見書)
イ局所麻酔剤使用上の留意点(甲B4)
オーラ注は,その投与によりまれにショックあるいは中毒症状を起こす
ことがあるので,使用の際には,常時,直ちに救急処置のとれる準備をし
ておくことが望まれる。
また,オーラ注の投与に際し,副作用を完全に防止する方法はないが,
ショックあるいは中毒症状をできるだけ避けるために,患者の全身状態の
観察を十分行うことに留意する必要がある。
ウバイタルサイン(甲B2)
(ア)バイタルサインとは,いわゆる生命の徴候のことであり,その確認
は,意識があるかないか,呼吸をしているかどうか,血液の循環がある
かないかの3点を把握することで行う。
(イ)意識の確認には,痛みの刺激に対する患者の反応を見る方法が汎用
されるが,歯科治療中は,呼びかけに対する反応を見る方法もある。
呼吸の確認は,歯科治療のために患者を座位や水平位にしている場合
には胸郭の動きを観察して行う。また,低酸素症のサインであるチアノ
ーゼの場合には口唇あるいは四肢の爪が青紫色に変化することから,こ
れらの部位を観察する。また,手を患者の口や鼻の上にかざして呼気を
直接感じたり,呼吸音,呼吸数も把握する。
循環動態の確認は,患者の身体に触り脈拍等を把握することで行う。
脈拍は,通常は橈骨動脈を触診して把握する。脈拍からは,患者の緊張
感,身体のリズム,脈拍数などがわかり,さらに皮膚の性状や温冷感,
浮腫の有無や皮膚弾性など,多くの所見から全身状態が推察できる。ま
た,患者の顔色,動作などを観察することで,血色や運動機能,体格や
四肢の動かし方など,心拍出量や血行動態の推定に必要な所見を得るこ
とができる。
エアナフィラキシーショックに対する処置(甲B3,B5,B7)
アナフィラキシーショックの症状の発現と同時に薬剤の投与を中止し,
以下のとおり,呼吸・循環器系に対する処置を迅速に行う。アナフィラキ
シーショックの症状を疑った場合には,早期に,緊急薬剤投与のための静
脈路確保の準備,エピネフリン,ステロイド静注の準備,気道確保と人工
呼吸,酸素投与の準備を整える。
(ア)循環器系症状に対する処置
血圧上昇と心拍数増加を目的としてエピネフリン(ボスミン)1筒(1
ml,1mg)を10倍に希釈(1筒を生食液10mlに希釈)し,1
ml(0.1mg)ずつ緩徐に静注する。静脈路の確保が困難な場合や
確保する時間がない場合は,希釈せずに0.3∼0.5mlを筋注する。
(甲B3)
あるいは,1000倍希釈のエピネフリン(0.3mg)を筋注また
は静注する。症状の改善のないときはこれを5∼10分ごとに4∼5回
投与する。(甲B5)
頸動脈の拍動を触知せず,血圧測定不能の場合には,非開胸式心マッ
サージを行う。
(イ)呼吸器系症状に対する処置
気道閉塞,呼吸停止の場合には,気道の確保を行う。徒手あるいはマ
スク・バッグ,エアウェイ,気管内チューブなどを用いるが,浮腫が原
因で気道確保に難渋する場合は,直ちに副腎皮質ステロイド(ソル・コ
ーテフ)100∼200mgを静注または筋注する(なお,浮腫が強い
場合などでは大量投与が推奨されており,1度に1000mgを静注す
る。)。
喘息様症状に対しては,アミノフィリン(ネオフィリン,1アンプル
250mg)を生食液または糖液に希釈し,10∼15分間を要して緩
徐に静注する。
オ心肺蘇生法(甲B3,乙B3)
(ア)気道確保
気道とは,鼻腔・口腔,咽頭,喉頭,気管,気管支,肺胞からなる空
気の通り道である。気道の確保とは,何らかの原因で閉塞している気道
を開通させ,その状態を保つことである。人工呼吸に際しては,確実に
気道が開通されていなければならない。
気道が確保された時点で自発呼吸がなく,呼吸停止や心停止が認めら
れたならば,速やかに人工呼吸,非開胸式心マッサージを行わなければ
ならない。
(イ)人工呼吸
口対口人工呼吸法では,まず患者を頭部後屈,あご先挙上の状態にし
て気道を開通させ,拇指と示指で患者の鼻腔を塞ぎ,吹き込んだ空気が
鼻腔から漏れないようにし,それから他方の手の拇指で患者の下唇を開
いて開口させる。術者は十分に呼気をためて患者の口を完全に被い,胸
郭の上がり具合を見ながら呼気を吹き込む。
バッグ・マスクは,自動的にふくらむバッグとマスク及びこれを接続
する非再呼吸弁からなる人工呼吸器を用いて行う人工呼吸法である。バ
ッグ後部の酸素取り入れ孔を酸素ボンベに接続すれば,高濃度酸素の供
給が可能となる。
(ウ)非開胸式心マッサージ
非開胸式心マッサージは,胸骨から脊柱方向に圧迫する力を加え,胸
郭内の心臓を間接的に圧迫し,心室から肺動脈・大動脈へ血液を送り出
す方法である。
非開胸式心マッサージは,患者を水平伏臥位とし,術者は患者の胸骨
の中央部あるいはそのやや下方の部位に手の基部を当て,他方の手をそ
の上に交叉させて行う。術者は肘を伸ばし,肩の位置が患者の胸骨の真
上にくるように胸骨から脊柱の方向へ垂直に力を加える。この圧迫を1
分間に80から100回の割合で繰り返す。
3争点
(1)バイタルサインを観察する義務を怠った過失
(2)迅速・適切な救急処置を行うべき義務を怠った過失
(3)過失とDの死亡との因果関係,相当程度の可能性
(4)損害額
4争点に対する当事者の主張
(1)争点(1)(バイタルサインを観察する義務を怠った過失)について
ア原告らの主張
歯科治療の大部分は,患者の生体に対する侵襲となり,様々な生理的変
化を引き起こし,生命を維持するための恒常性に影響を及ぼすものである。
とりわけ局所麻酔剤投与後は,患者がアナフィラキシーショックを起こす
可能性があるから,歯科医師は,患者の意識,呼吸,循環等のバイタルサ
インを観察し的確に把握しなければならない。オーラ注の使用説明書(甲
B4)にも,「まれにショックあるいは中毒症状を起こすことがあるので,
局所麻酔剤の使用に際しては,常時,直ちに救急処置のとれる準備が望ま
しい。」と記載されており,また,「重大な副作用」として,ショックが
現れることがあるので患者の全身状態の観察を十分に行うべきことが明記
されている。
さらに,Dは当時4歳であり,自己の状態を説明する能力が十分であっ
たとはいえないこと,ラバーダムは患者の全身状態の把握に不向きである
ことからすれば,被告は,Dに対してラバーダムを使用するに際しては,
Dと会話するよう心がけて,Dの意識・呼吸・循環の消失を直ちに把握で
きるように十分な観察をすべきであった。
患者のバイタルサインの確認は,意識があるかないか,呼吸をしている
かどうか,血液循環があるかないかの3点を把握することで足り,その観
察方法についても,高度な技術や機器が必要とされているものではなく,
むしろ極めて簡単かつ当然のことが要求されているに過ぎない。
被告は,Dにオーラ注を使用するに当たって,アナフィラキシーショッ
クが起こりうることを予測して,Dのバイタルサインを観察すべき注意義
務を負っていたにもかかわらず,Dにオーラ注を投与した後,Dが急にお
となしくなったのを眠ったものと軽信し,上記注意義務を怠った。
被告は,統計上局所麻酔剤によるアナフィラキシーショックの発症確率
が低いことをもって被告にアナフィラキシーショックを予見して治療に当
たる義務はなかった旨を主張するが,アナフィラキシーショックにより患
者の死亡という重大な結果がもたらされる危険があることからすれば,発
症確率が低いなどという理由で上記注意義務を免れることができないこと
は明らかである。
イ被告の主張
平成14年当時の医療水準では,一般の歯科医師は,アナフィラキシー
ショックの発症を抽象的に予見できたとしても,極めて発生率の低いアナ
フィラキシーショックの発症を予見して治療に当たることは困難であっ
た。
アナフィラキシーショックの典型的な症状には,顔面から胸部にかけて
の蕁麻疹・掻痒感などの皮膚症状,嘔吐・失禁などの消化器症状,気管支
喘息・呼吸困難などの呼吸器症状,血圧低下などの循環器症状があるとこ
ろ,被告は,Dがアレルギー体質でないことの確認を行った上で治療を開
始し,さらに,オーラ注1.0mlのうちごく少量を試験的に注射してD
の様子を観察し,Dに上記アナフィラキシーショックの典型的な症状を含
むアレルギー症状,中毒症状等が発症していないことを確認して残りのオ
ーラ注を注射した。
その後,被告は,Dが麻酔の影響で眠ったものと判断して治療に専念し
た。Dの治療中は,バイトブロック(開口状態を保持するため口腔内に入
れておく器具)を抑えるため手をDの下顎に触れさせ,これによりDの温
もりを感じながら身体的変化を確認していたが,Dに身体的変化はなく,
痙攣や喘息のような臨床症状もなかった。
また,被告は,Dに装着していたラバーダム(治療歯を唾液から守り,
口唇,頬,舌などの障害物から隔離するゴム製シート)を外そうとした際
に,Dの口周辺の異常を発見したが,この時点までに,Dに蕁麻疹,呼吸
困難,血圧低下及びそれに伴う顔面蒼白,痙攣などのアナフィラキシーシ
ョックの臨床症状は,全く現れていなかった。なお,司法解剖では,Dに
喉頭浮腫が生じていたことが明らかとなったが,同症状は体表に発生した
ものではないから,被告がこれを認識することは不可能であった。
以上のとおり,本件では,被告にDのバイタルサインの観察を怠った過
失はない。
(2)争点(2)(迅速・適切な救急処置を行うべき義務を怠った過失)について
ア原告らの主張
被告は,アナフィラキシーショックへの対処として,症状発現と同時に
薬剤の投与を中止し,血圧上昇と心拍数増加のためエピネフリンを投与し,
気道閉塞,呼吸停止の場合には徒手,マスク・バッグ,エアウェイ,気管
内チューブを用い,浮腫が原因で気道確保に難渋する場合には直ちにステ
ロイド剤を投与すべきであった。これらの処置は,歯科医学文献(甲B3)
で必要とされているものであり,本件においても全て実施されて然るべき
ものである。
しかるに,被告は,Dの異変に気付いた後,エア・ウエイ等の使用によ
る気道・呼吸の確保やエピネフリン等による循環の確保を行わずに,Dの
下を離れて酸素吸入器を取りに行ったもので,Dに迅速・適切な救急処置
を行うべき注意義務を怠った。
イ被告の主張
被告は,Dの異常事態に気付いた後,直ちにDの口腔内に異物がないこ
とを確認し,Dの体位を仰臥位としてオトガイ挙上にして人工呼吸を行っ
た。その後,被告は,患者としてE歯科医院に来院していた看護師のJが
被告に代わってDの人工呼吸を始めたことから,酸素吸入器を取りに行き,
これを組み立てて使用したが,Dが自発呼吸をしていなかったため,酸素
吸入器の使用を中止してDに心マッサージ等の救急処置を行った。このよ
うに,被告は,Dに対し,一時的救命処置である気道の確保,人工呼吸,
心マッサージを行っており,平成14年当時の医療水準において,歯科医
師としてなし得る救急処置を尽くした。
これに対し,原告らは,エア・ウエイの使用やエピネフリンの投与をす
べきであった旨主張するが,これらは二次的な救命処置であって,歯科医
師が行うには限界があるし,オーラ注はそれ自体エピネフリンを含有する
ところ,Dに生じた異常の原因が不明であるのにエピネフリンを投与する
ことは,逆に救命可能性を著しく下げかねない行為である。
また,原告らは,被告がDに気管内挿管をすべきであった旨主張するが,
平成14年当時,気管内挿管を歯科医師が行うことは医師法違反であり,
また,歯科医師は気管内挿管の訓練を受けておらず,気管内挿管に必要な
医療器具も備え付けていない。
以上のとおり,本件では,被告に迅速・適切な救急処置を行うべき義務
を怠った過失はない。
(3)争点(3)(過失とDの死亡との因果関係,相当程度の可能性)について
ア原告らの主張
(ア)因果関係
Dは,午後4時36分の時点で呼吸困難により泣いて暴れていたのが
その後急におとなしくなったこと,Dの異常発見後,Dが救命処置に全
く反応しなかったことからすれば,午後4時36分の時点においてDが
アナフィラキシーショックを発症しており,それから被告が治療を中断
するまでの約20分もの間,Dが意識消失の状態にあったことは明らか
である。被告は,オーラ注を使用した後,Dのバイタルサインを観察す
る義務を怠ったため,その後治療を中断するまでの約20分もの間,D
の異常に気づかず,アナフィラキシーショックの初期症状を看過したの
である。
医学文献(甲B6,B8)には,アナフィラキシーショックに陥った
患者の94%は完全な回復を示し,死亡率はわずか4.8%であること,
発症後5分間の処置が予後を決定づけることが記されている。
また,Dの体内から検出された高濃度のヒスタミン値は,Dの死亡後
の細胞崩壊によってヒスタミン濃度が急激に上昇した結果であり,Dの
アナフィラキシーショックが重症であったことを示すものではない。D
の解剖所見(甲A2)からは,気道を塞ぐほどの浮腫の存在は認められ
なかったことなどからして,Dのアナフィラキシーショックは軽度のも
のであった。
したがって,被告がDのバイタルサインを観察していれば,Dの呼吸
が停止した時点で直ちにDの異常を発見し,Dを救命することは十分可
能であったし,被告がDの異常を発見してから直ちにエア・ウェイの使
用及びエピネフリンの吸入ないし皮下注射等を行うことによっても,D
の救命は可能であった。
(イ)相当程度の可能性
仮に,被告の過失とDの死亡との間に因果関係が認められないとして
も,上記(ア)の事情に加えてアナフィラキシーショックが生じた場合に
早期の対処により多くの事例において患者の救命がなされていることな
どからすれば,本件では,適切な医療が行われていたならばDがその死
亡時においてなお生存していた相当程度の可能性は,十分に認められる。
イ被告の主張
(ア)因果関係
原告らが根拠として挙げる救命割合のデータは,一般病院と専門病院
の区別,救急救命処置のための専門設備の有無等をすべて捨象したもの
であり,本件事案においてDの救命可能性があったことを基礎付けるも
のではない。
本件では,Dのアナフィラキシーショックがどの時点で,どの程度重
篤化していたかは証拠上明らかにされていないのであるから,被告が注
意義務を尽くしていれば実際よりも早くDの呼吸循環不全に気づいてい
たとか,実際よりも早くDが搬送されていれば救命が可能であったなど
と断定することはできない。
Dの体内で高濃度のヒスタミンが測定されていることなどからして,
Dのアナフィラキシーショックは重症だったのであり,本件において被
告がDの異常に気がついたときはもちろん,仮に,被告がDの異常によ
り早く気がついてから直ちに救命処置を施していたとしても,Dの救命
可能性はなかった。
(イ)相当程度の可能性
仮に,被告が実際よりも早期にDの異常に気づき,救命処置を施して
救急搬送をしていたとしても,Dが生存していた相当程度の可能性はな
かった。
(4)争点(4)(損害額)について
ア原告らの主張
(ア)逸失利益3177万1074円
Dは,死亡当時満4歳であり,被告の医療過誤により死亡しなければ
18歳から67歳まで49年間は就労可能であったと考えられる。そこ
で,賃金センサス平成14年第1巻第1表(産業計,全労働者)に基づ
き,Dの就労可能期間における逸失利益を計算(ライプニッツ方式,生
活費控除3割として算定)すると,3177万1074円(494万6
300円×(1−0.3)×9.176)となる。
(イ)慰謝料2800万円
被告の医療過誤により幼くして命を奪われたDに対する慰謝料として
相当な額は2800万円を下回らない。
(ウ)葬儀費用150万円
(エ)弁護士費用610万円
医療過誤訴訟は,弁護士に依頼せずに遂行することは困難であり,原
告らが本件訴訟の終了後までに支払う弁護士費用のうち,上記(ア)ない
し(ウ)の1割に相当する610万円については,被告の過失と相当因果
関係がある。
(オ)原告ら固有の損害各550万円
a慰謝料
幼い子の生命を奪われた原告らの精神的苦痛は,筆舌に尽くしがた
く,少なくとも各500万円を下回らない金額によって慰謝されるべ
きである。
b弁護士費用
上記(エ)と同様に,上記aの1割に相当する50万円は,被告の過
失と相当因果関係がある。
(カ)以上によれば,上記(ア)ないし(エ)のDに生じた損害額の合計は6
737万1074円であるところ,原告らは,Dの父母として相続によ
り,各2分の1ずつDの損害賠償債権を承継した。これに上記(オ)の原
告ら固有の損害額である各550万円を加算すると,原告らは,被告に
対し,それぞれ3918万5537円の損害賠償請求権を有することと
なる。
イ被告の主張
損害についてはいずれも不知ないし争う。
第3当裁判所の判断
1認定事実
(1)証拠(甲A1ないし7,乙A1ないし8,証人J,証人K,原告A本人,
被告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア原告Bは,平成14年5月14日,Dと共に,初診としてE歯科医院に
来院し,被告の歯科治療を受けた。
被告は,同日,Dの歯科治療に先立ち,診療アンケート(乙A1)を実
施してDのアレルギーの有無について確認したところ,Dに薬物アレルギ
ーはないとの回答があった。
イ原告Bは,E歯科医院に電話をし,Dの歯科治療を同年6月15日午後
4時20分に行うとの予約を入れた。
原告B及びDは,同日,E歯科医院に来院し,4時20分ころ,E歯科
医院の診療室に入室した。
ウ診療室に入室した際のDは,少し泣いている様子であった。
被告は,Dを診療台に座らせ,E歯科医院の歯科助手であるKに対し,
Dをタオルケットでくるむように指示をした。Kは,被告の指示を受け,
Dの体の下にタオルケットを敷き,その両端を左右からDの上に掛けてD
の体をくるんだ。
診療台の上でタオルケットにくるまれたDは,診療を嫌がるように首を
揺すってむずがる様子を見せていた。
原告Bは,被告から指示を受け,Dの診療中,診療台の横に膝をついて
座り,Dの足下の方からDの体を押さえていた。
エ被告は,午後4時25分ころ,Dに対し,オーラ注1.0mgのうちご
く少量を注射し,約30秒後,Dに異常な徴候が生じないことを確認し,
さらに残量を注射した。
被告は,午後4時26分ころ,Dにラバーダムを装着しようとしたが,
なかなかラバーダムを装着することができず,同日午後4時33分ころに
なってようやくDに緑色のラバーダムを装着した。
ラバーダム装着後,被告は,Dの歯科治療を開始した。
オ午後4時40分にE歯科医院で歯科治療を受ける予約をしていたJは,
午後4時36分にE歯科医院に到着した。同時刻ころ,Jは,E歯科医院
の待合室の椅子に座るとすぐに,診察室の方向からDの泣き声がするのを
耳にした。
その後,Dは,歯髄除去が行われる午後4時38分ころには泣きやんだ。
同時刻ころ,被告は,Dがいつの間にか泣きやんだことに気がついたが,
オーラ注の影響によりDが眠ったものと判断し,Dが眠っている間に治療
を進めようと考え,呼びかけに対する反応を確認することはせず,また,
Dが鼻や口から呼吸をしているかどうかを確認したり,Dの脈を取ること
もなく,Dの治療を継続した。
カDは,午後4時38分ころ,オーラ注を原因とするアナフィラキシーシ
ョックを発症し,直ちにアナフィラキシーショックを原因とする呼吸停止
状態から低酸素血症による血圧低下を起こし,同時に,循環虚脱に陥り心
肺停止状態となった。なお,Dのアナフィラキシーショックは,皮膚・粘
膜等に症状が発現する間もなく,直ちに呼吸停止から循環虚脱に陥る重篤
なものであり,Dにアナフィラキシーショックの皮膚所見は現れなかった。
被告は,Dの治療中,治療器具を変える度にDの顔や唇を観察し,手を
Dの下顎に触れながらDの治療を行っていたが,午後4時57分ころまで
の間,Dの異常に気がつかなかった。
キ被告は,午後4時57分ころ,Dの顔面が蒼白になっていることに気が
つき,Dのラバーダム及びバイトブロックを外して口腔内に異物がないか
どうかを確認した。被告は,午後4時58分ころ,歯科助手に救急車を呼
ぶよう指示した。
同時刻ころ,看護師経験のあるJは,被告の上記指示を聞きつけ,「看
護師です。」と言って診療室に入室した。Jは,Dの症状について,顔面
蒼白,白目,口唇チアノーゼ,呼吸停止があることを認め,Dの頸動脈が
触れておらず,心肺停止状態であることを確認し,Dにマウス・ツー・マ
ウスによる人工呼吸を施した。
被告は,E歯科医院の納戸に酸素吸入器を取りに行ったが,Dが自発呼
吸をしていなかったため,酸素吸入器は使用せず,E歯科医院に救急車が
到着する午後5時2分までの間,Jと共に,Dに人工呼吸及び非開胸式心
マッサージを施した。
ク午後5時2分,E歯科医院に救急車が到着し,被告及び救急隊員により
アンビューバッグによる人工呼吸が行われた。
E歯科医院に到着した救急車は,午後5時6分,Dを収容してE歯科医
院を出発し,午後5時7分にF病院に到着した。
F病院では,Dに対し,気管内挿管,エピネフリン投与,心マッサージ
等の心肺蘇生術が施されたが,午後5時42分,Dの死亡が確認された。
ケ平成14年6月17日午前10時10分から午後12時16分までの
間,L法医学講座解剖室において,Dの司法解剖が行われた。
司法解剖の結果,Dには,喉頭入口部の粘膜に軽度の浮腫が認められた
ほか,強度の肺水腫,広範囲にわたる肺出血,分泌物による気管の閉塞が
認められた。また,免疫組織科学的検査では,Dの肺組織内の肥満細胞の
顆粒及び静脈血内のヒスタミンの増加が認められた。Dの心臓血の血漿中
のヒスタミン濃度は260nMol/L(正常値の170∼350倍程度)
であった。
(2)アナフィラキシーショックの発症時点
ア上記(1)の認定に対し,被告は,Dのアナフィラキシーショックが治療中
のどの時点で発症したかは明らかではないと主張する。
そこで検討するに,前記認定事実のとおり,本件では,被告が,治療中
にDの顔や唇を観察していたにもかかわらず,午後4時57分ころまでの
間,発疹等の皮膚所見を認めていないことから,本件でDが発症したアナ
フィラキシーショックは,皮膚所見を伴わないものであったと認められる
ところ,発症から短時間で死亡に至る重篤なアナフィラキシーショックで
は,担当細胞(肥満細胞又は好塩基球)や化学伝達物質が皮膚症状を発現
するような生体反応の時間がなく,皮膚所見が現れないことがあること(G
意見書),Dは,オーラ注の注射から約30分後に被告及びJによる人工
呼吸や心マッサージが行われたにもかかわらず,約75分後に死亡してい
ることなどからすれば,Dのアナフィラキシーショックが通常よりも重篤
なものであったことは明らかである。
イそして,前記医学的知見アのとおり,通常,局所麻酔剤によるアナフィ
ラキシーショックは,注射後2,3分から15分以内に発症し,その中で
も重篤なアナフィラキシーショックは,局所麻酔剤投与後5分から15分
で心停止に至ることが多いとされていることからすると,Dは,遅くとも,
オーラ注が注射された午後4時25分ころから15分後である午後4時4
0分ころまでにはアナフィラキシーショックを発症していたことが推察さ
れ,さらに,本件では,Dが午後4時38分ころに泣きやんで静かになり,
その後,Dの状態の変化をうかがわせる事情が認められないことを併せ考
えると,Dのアナフィラキシーショックは,午後4時38分ころに発症し
たとみるのが最も合理的である。
また,Dは,午後4時58分ころの時点で口唇チアノーゼを呈しており,
同時刻ころより前に心肺停止状態に陥っていたことは明らかであるとこ
ろ,上記のとおり,皮膚所見を伴わない重篤なアナフィラキシーショック
は,局所麻酔剤投与後15分以内に心停止に至ることが多いとされている
ことに加えて,重篤なアナフィラキシーショックについては,異常発見時
に既に心肺停止状態であった症例が相当数報告されていること(甲B7)
に照らせば,Dは,アナフィラキシーショックにより,直ちに呼吸停止状
態から低酸素血症による血圧低下を起こし,同時に,循環虚脱から心肺停
止状態に至ったとみるのが相当である。
ウ以上によれば,前記認定事実のとおり,Dは,午後4時38分ころ,オ
ーラ注を原因とするアナフィラキシーショックを発症し,直ちにアナフィ
ラキシーショックを原因とする呼吸停止状態から低酸素血症による血圧低
下を起こし,同時に,循環虚脱に陥り心肺停止状態となったことが認めら
れるのであって,発症時点が明らかでないとの上記被告の主張は,採用す
ることができない。
2争点(1)(バイタルサインを観察する義務を怠った過失)について
(1)注意義務の存否及び内容
アナフィラキシーショックが重篤な状態になると,患者が呼吸停止,心停
止から急激な死亡に至ることがあるが,患者がこれらの重篤な症状に陥った
場合でも,患者の気道を確保し,人工呼吸等により患者に酸素を投与した上
で,静脈路を確保してエピネフリンを投与するなど,早期に緊急の救命処置
を施すか,これらの処置を施すことのできる病院に患者を直ちに転送するこ
とにより患者の救命可能性が高まるということは,本件訴訟の証拠として提
出された複数の医学文献及び鑑定結果から明らかである。
そして,アナフィラキシーショックを発症した患者に対してこのような緊
急の救命処置やそのための患者の転送を行うためには,患者のアナフィラキ
シーショックの症状を早期に確知認識していることが前提となるところ,一
般に,ショック症状などの偶発的症状を早期に確知認識するには,バイタル
サインを中心とした患者の全身状態の観察が必要であるとされており(甲B
3),オーラ注の使用説明書(甲B4)にも,「使用上の注意」として,「シ
ョックがあらわれることがあるので観察を十分に行い,血圧降下,顔面蒼白,
脈拍の異常,呼吸抑制等があらわれた場合には,直ちに投与を中止し,適切
な処置を行うこと。」と明記されている。
したがって,歯科医師は,副作用としてアナフィラキシーショックを発症
する可能性のある局所麻酔剤を歯科治療に使用する場合には,治療中,患者
が重篤なアナフィラキシーショックを発症した場合でもその症状を早期に確
知認識することができるように,患者の観察等によりバイタルサインを確認
すべき注意義務(以下「バイタルサイン観察義務」という。)を負っている
というべきである。
(2)注意義務違反の有無
そこで,本件において,被告がバイタルサイン観察義務を尽くしていたか
について検討する。
ア前記認定事実のとおり,被告は,初診時に診療アンケートを実施し,D
のアレルギーの有無を確認しているが,そもそもアンケートにより局所麻
酔剤に対するアレルギーの有無を確認することは困難であることに加え
て,局所麻酔剤によるアナフィラキシーショックはアレルギーの既往がな
くても発症するとされていることからすれば(I鑑定意見),上記診療ア
ンケートを行ってDのアレルギーの有無を確認したことにより被告がバイ
タルサイン観察義務を免れるということにはならない。
また,被告は,Dの治療に当たって,オーラ注を1.0mlのうちごく
少量を試験的に注射してDのアレルギー反応がないことを確認している
が,この試験的な注射によりアレルギー反応がないことから直ちにその後
の治療中にもアレルギー反応が現れないということにはならないから(H
鑑定意見),上記確認により被告がバイタルサイン観察義務を免れないこ
とは明らかである。
イ次に,前記認定事実のとおり,被告は,Dの治療中,手をDの下顎に触
れているが,これは被告がDの体温の温もりを感じ,Dのバイタルサイン
を把握しながら治療を行うことを目的とした被告の治療上の配慮であると
いうことができる。
しかしながら,前記医学的知見ウのとおり,バイタルサインの確認は,
意識,呼吸状態,循環動態の3点を把握することで行うものとされている
ところ,体温のみからは,バイタルサインのうち特に呼吸状態を十分に把
握することは困難であるし,循環動態についても,治療により手が動いた
り,治療に集中することでDの変化を十分に把握できない状態及び時間帯
が容易に生じうるのであるから,上記治療上の配慮により,被告がバイタ
ルサイン観察義務を尽くしていたとはいい難い。
ウ本件では,Dの治療のためにバイトブロック及びラバーダムが使用され
ており,これらの器具を治療に使用している場合には,ラバーダムにより
患者の顔の一部,特に口唇が隠れ,さらにバイトブロックにより患者の下
顎の開閉運動が制限され疼痛時の反応や睡眠中の不随運動が判明しにくく
なるのであるから(I鑑定意見),被告は,通常よりも注意深くDのバイ
タルサインを観察し,さらに観察以外の方法も併用することにより,Dの
バイタルサインを把握しておく必要があったというべきである。
特に,午後4時38分ころには,それまで泣いていたDが泣きやんだの
であるから,同時刻ころにこのようなDの変化を察知した被告としては,
Dに声をかけて無理に反応を見ようとする必要まではなかったものの,バ
イトブロック及びラバーダムを着用した状態のDの顔や唇を観察するだけ
ではなく,Dの変化が入眠したことによるものなのか,何らかの異常が生
じたことによるものなのかを鑑別すべく,Dの鼻や口に手をかざすなどの
方法によりDが鼻や口のすき間から呼吸をしているかどうかを確認し,場
合によっては手を止めて脈を取るなど,入念にDのバイタルサインの確認
を行う必要があった。
しかるに,被告は,これらの方法によりDが泣きやんだ原因を確認する
ことなくDが入眠したものと判断し,治療を継続したというのであるから,
本件において,被告は,バイタルサイン観察義務を怠ったといわざるを得
ない。
エなお,被告は,統計上局所麻酔剤によるアナフィラキシーショックの発
症確率が極めて低いことをもって,その発症を予見することは困難であっ
たと主張するが,前記医学的知見ア及びイのとおり,局所麻酔剤の副作用
としてアナフィラキシーショックが生じうることは当時の医学的知見とし
て確立しており,また,その発症により死亡という極めて重大な結果にま
で発展しうることに照らせば,その発症確率の大小を問わず,被告が,D
の治療に局所麻酔剤を使用する場合に,Dのアナフィラキシーショックの
発症を予見して治療に当たらなければならなかったことは明らかである。
(3)以上によれば,本件において,被告には,Dのバイタルサイン観察義務を
怠った過失が認められる。
3争点(2)(迅速・適切な救急処置を行うべき義務を怠った過失)について
(1)注意義務の存否及び内容
ア前記医学的知見エのとおり,本件当時の医学文献によれば,治療中に患
者がアナフィラキシーショックに陥った場合には,医師は,早期に,徒手
あるいはマスク・バッグ,エアウェイ,気管内チューブなどを用いて患者
の気道を確保し,人工呼吸,酸素投与,非開胸式心マッサージを行い,か
つ,静脈路を確保してエピネフリン,ステロイドを静注するなどの処置を
行わなければならないとされている。
もっとも,医師に要求されるべき治療行為の内容は,全国一律に定まる
ものではなく,当該医療機関の性格,所在地域の医療環境の特性等の諸般
の事情を考慮してこれを判断すべきであって,本件当時の医学文献に記載
されていた治療行為が,そのまま被告の行うべき治療行為の内容となるも
のではない。
イそこで,Dに上記処置を行うべき注意義務の存否につき,本件当時被告
が一般の開業歯科医師であったことを前提として検討するに,上記処置の
うち,徒手あるいはマスク・バッグ,エアウェイによる気道確保,酸素投
与,非開胸式心マッサージは,一般の開業歯科医師でも比較的容易になし
うる処置であることから,本件においても,被告は,Dの異常に気がつい
た後,直ちにDに対してこれらの処置を行うべき注意義務を負っていたと
いうことができる。
他方で,本件当時の一般の開業歯科医師は,静脈注射や筋肉注射を日常
的に行っていないため,患者の緊急時にこれらの処置を行うことができた
かどうかは疑問であること,気管内挿管についても,口腔外科医や歯科麻
酔医以外は大学卒前教育に受ける模型実習しか受けておらず,人体に緊急
的に実施することは極めて困難であること,静脈確保及びエピネフリンの
静注は,認定された救命救急士と医師にしか認められていない医療行為で
あって,歯科医師には行うことができないことなどからすれば(I鑑定意
見,H鑑定意見),本件において,一般の開業歯科医師である被告が,D
の異常に気がついた時点において,Dに直ちにエピネフリン,ステロイド
を静注し,気管内チューブを用いて挿管を行うべき注意義務を負っていた
とまではいい難い。
(2)注意義務違反の有無
以上を前提として,本件において,Dに適切かつ迅速な救急処置がなされ
たといえるかについて判断する。
ア上記(1)のとおり,被告は,Dの異常に気がついた後,Dにエピネフリン,
ステロイドを静注し,気管内チューブを用いて挿管を行うべき注意義務を
負っていたとはいえないのであるから,被告において,これらの処置が可
能な医療機関にDを搬送すべく,歯科助手に救急車を呼ぶように指示した
ことは,適切な判断である。
イまた,前記認定事実のとおり,Jは,被告がDの異常に気がついた直後
である午後4時58分ころに診察室に入室し,直ちにDにマウス・ツー・
マウスによる人工呼吸を施しているところ,被告がDのバイトブロック及
びラバーダムを外して口腔内の異物を確認する時間を考慮すれば,Dに対
する人工呼吸は,異常発見後迅速に行われたということができる。
なお,本件では,被告自らが異常発見後直ちに人工呼吸を行っていない
が,被告は,看護師経験のあるJが直ちにDの人工呼吸を開始したことを
確認し,非開胸式心マッサージ等の人工呼吸以外の心肺蘇生措置を試みて
いるのであるから,このような被告の一連の対応が,不適切であったとは
いい難い。また,被告が必要であると判断して取りに行った酸素吸入器は,
結果的には自発呼吸をしていないDの症状に適合しなかったが,緊急時で
あったことを考慮すれば,このような被告の判断が不適切であったとまで
はいえない。
そのほか,前記認定事実のとおり,被告は,納戸に酸素吸入器を取りに
行った後,Jと共に,E歯科医院に救急車が到着する午後5時2分ころま
での間,人工呼吸及び非開胸式心マッサージを施していることからすれば,
本件において,Dに対する気道確保,人工呼吸,酸素吸入及び非開胸式心
マッサージは,Dの異常発見後迅速かつ適切に行われたということができ
る。
(3)以上によれば,本件において,被告がDに対し,迅速かつ適切な救急処置
を行うべき注意義務を怠った過失は認められない。
4争点(3)(過失とDの死亡との因果関係,相当程度の可能性)について
(1)因果関係
本件では,争点(1)で判断したとおり,被告にはDのバイタルサイン観察義
務を怠った過失が認められるので,この過失とDの死亡との間に因果関係が
認められるかについて検討する。
ア前記認定事実のとおり,Dは,遅くとも午後4時38分ころまでにはア
ナフィラキシーショックを発症し,呼吸及び心肺停止状態に陥っていると
ころ,このうち呼吸停止の症状は,鼻や口に手をかざすなどの方法により
容易にこれを確知認識することができるのであるから,被告は,同時刻こ
ろ,それまで泣いていたDが泣きやんで落ち着いたことに気がついた後,
上記の方法によりバイタルサイン観察義務を尽くしていれば,遅くとも午
後4時40分までには,Dがアナフィラキシーショックを発症し,呼吸停
止状態に陥っていたことに気がつくことが可能であったということができ
る。
イそして,前記認定事実によれば,午後4時40分には,既にJはE歯科
医院に到着しているのであるから,上記アのとおり,被告がバイタルサイ
ン観察義務を尽くし,同時刻にDの異常に気がついた場合には,本件と同
様に,被告又はJにより,同時刻ころから直ちにDの人工呼吸及び心マッ
サージを行うことが可能であった。
また,本件では,午後4時57分ころに被告がDの異常に気がついてか
ら,直ちに救急車の出動を要請し,午後5時2分に到着した救急車にDを
乗せてから午後5時7分にF病院に到着するまでに約10分間が経過して
いること,心肺停止状態に陥った患者に対する救急処置の内容が早期発見
の場合とそうでない場合とで異なるとは考え難いことからすると,上記ア
のとおり,午後4時40分に被告がDの異常に気がついた場合には,その
約10分後の午後4時50分ころにDが同病院に到着し,その後,Dに対
し,エピネフリン投与等の救急処置が行われていた可能性が極めて高い。
ウそこで,上記イのとおりDの搬送及び救急処置が行われていた場合に,
Dの死亡時においてDが生存していた高度の蓋然性があるか否かについて
検討する。
(ア)まず,心マッサージは,単に心臓が止まっているという状態の患者
に対しては有効な措置であるが,本件のDのように,ショックにより循
環虚脱を起こしている場合には,相当量の輸液を行わなければ循環血液
量を保てず,心マッサージを行っても,有効な拍出量が出ずに血圧を保
つことができない(H鑑定意見)。したがって,本件において,上記イ
のとおりDに対する心マッサージの開始が早まったことにより,直ちに
Dの救命可能性が高まったとはいい難い。
これに対し,人工呼吸については,上記イのとおりDに対する人工呼
吸が行われていれば,その時点におけるDの喉頭,声門の状態が不明で
あること及び咽頭痙攣等の可能性を考慮したとしても,本件よりは早期
にDに酸素が供給されていたものと認められることから,Dの救命可能
性が高まることは否定できない。
また,ショックにより循環虚脱に陥った患者に対して有効な循環血液
量を確保するためには,静脈確保を行って輸液,エピネフリンを投与し,
血圧を上げる処置を講ずる必要があるところ(H鑑定意見),これらの
救急処置は,E歯科医院ではなく搬送先の病院でなされるものであるか
ら,上記イのとおりF病院への搬送が早まれば,それだけ上記救急処置
がなされる時間も早まり,Dの救命可能性が高まることは明らかである。
(イ)しかしながら,H鑑定意見によれば,心肺停止に対するエピネフリ
ンの投与は,心肺停止から2,3分以内に行われるのが効果的であると
ころ,エピネフリンの投与が心肺停止から約10分後に行われた場合に
は,その治療効果は不明であるとされていることに加えて,Dのアナフ
ィラキシーショックは,皮膚所見を経ることなく循環虚脱に至る重篤な
ものであり,また,アナフィラキシーショックにより循環虚脱が起きた
ときは,相当量の輸液を行わなければ循環血液量を保てず,血圧が上が
らないこととされていることなどからすれば,仮に,被告がバイタルサ
イン観察義務を尽くし,Dの心肺停止から約10分後にF病院への搬送
が行われ,同病院でエピネフリン投与等の救急処置が行われたとしても,
その結果を予測することは極めて困難であり,上記救急処置によりDを
救命し得たといえるかどうかについては,なお疑問が残るといわざるを
得ない。
エ以上によれば,被告がバイタルサイン観察義務を尽くしていれば,Dの
死亡時においてDが生存していた高度の蓋然性があるとはいえず,被告の
過失とDの死亡との間に因果関係は認められない。
(2)相当程度の可能性
ア一般に,心肺停止状態に陥った患者がその機能を完全に回復するには,
心肺停止から約4分までの間に心肺蘇生が行われる必要があり,4分を超
えると大脳皮質が機能しなくなって障害が残るが,心臓を動かしたり呼吸
をさせる働きをする脳幹部は,心肺停止からから10分ないし15分は維
持することができるため,脳幹部を維持できる間に心肺蘇生が行われれば,
心臓を動かすことは可能である。これに対して,心肺停止から30分ない
し1時間が経過すると,他の臓器が機能しなくなるため,心肺蘇生を行っ
ても患者の生命を維持することができなくなる(H鑑定意見)。
イしかるに,被告がバイタルサイン観察義務を尽くし,Dの心肺停止から
約10分後にF病院への搬送が行われ,その後直ちに同病院においてエピ
ネフリンの投与等の救急処置がとられた場合,上記アを前提とすれば,D
は,上記救急処置が開始された時点において,脳に障害が生じているもの
の,心肺蘇生を施すことにより脳幹を維持し,心臓を動かすことは可能な
状態にあったということができる。
そして,エピネフリンの投与が心肺停止から約10分後に行われた場合
には,その治療効果が不明であるとしても,これが全く奏功しないとの医
学的知見は見当たらないことからすれば,本件において,Dの心肺停止か
ら約10分後に行われるエピネフリン投与等の救急処置により再びDの心
臓を動かすことができた可能性を否定することはできないというべきであ
る(H鑑定意見によれば,仮に,本件のような重篤な症例に対して適切に
静脈確保を行うことができる麻酔科医が対応して上記救急処置を行えば,
5割以上は救命が可能であったとされている。)。
ウ以上によれば,被告がバイタルサイン観察義務を尽くしていれば,Dの
死亡時においてDが生存していた相当程度の可能性があったものと認める
ことができる。
したがって,被告は,Dが適切な医療を受けていれば,その死亡時にお
いてDが生存していた相当程度の可能性を侵害したといえることから,こ
れによってDが被った損害を賠償すべき不法行為責任を免れない(最高裁
判所平成12年9月22日第二小法廷判決,民集54巻7号2574号参
照)。
5争点(5)(損害額)について
Dは,本件当時わずか4歳であり,その生存可能性を侵害されたことによる
精神的苦痛は察するに余りあるが,他方で,被告がDのバイタルサインに全く
配慮していなかったとはいえないこと,Dのアナフィラキシーショックは重篤
であり,被告が注意義務を尽くしていたとしても救命可能性の程度は必ずしも
高かったとはいえないこと,また,仮に救命が可能であったとしてもDの完全
な回復は望めなかったことなど,本件に現れた一切の事情を斟酌すると,その
慰謝料額は400万円とするのが相当である(なお,原告らは,相続によりそ
れぞれ上記慰謝料に係る損害賠償債権の2分の1を取得したことになる。)。
また,本件訴訟は,高度の専門的知見を要する医療訴訟であり,原告らが弁
護士に依頼することなく本件訴訟を追行することは困難であると認められるこ
とから,原告らそれぞれについて,本件訴訟に係る弁護士費用のうち20万円
は,被告の不法行為による損害とみるのが相当である。
第4結論
以上によれば,原告らの請求は,それぞれ不法行為に基づく損害賠償金22
0万円及びこれに対するDの死亡した日である平成14年6月15日から支払
済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。
よって,原告らの請求を上記の限度で認容し,その余の請求を棄却すること
として,主文のとおり判決する。
さいたま地方裁判所第1民事部
裁判長裁判官佐藤公美
裁判官瀬木比呂志
裁判官川﨑慎介

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