弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
被告人は無罪。
理由
第1本件公訴事実
本件公訴事実の要旨は,被告人は,(1)平成14年4月14日午後3時30分頃
から同日午後9時40分頃までの間に,大阪市a区b丁目c番d号所在の本件マンショ
ン306号室(以下,単に「306号室」ということがある。)のA方において,その
妻B(当時28歳)に対し,殺意をもって,同所にあったナイロン製ひもでその頸部を
絞め付けるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を頸部圧迫により窒息死さ
せて殺害し,(2)上記(1)記載の日時場所において,A及びB夫婦の長男である
C(当時1歳)に対し,殺意をもって,同所浴室の浴槽内の水中にその身体を溺没させ
るなどし,よって,そのころ,同所において,同児を溺死させて殺害し,(3)本件
マンションに放火しようと考え,同日午後9時40分頃,306号室6畳間において,
同所にあった新聞紙及び衣類等にライターで火をつけ,その火を同室の壁面及び天井等
に燃え移らせ,よって,Aらが現に住居として使用する本件マンションのうち306号
室の壁面及び天井等を焼損し,もって,本件マンションを焼損した,というものである
(以下,これを「本件事件」ということがある。)。
第2争点及び審理経過
1争点
被告人は,Aが子供の頃にその実母Dと婚姻し,養父(昭和56年11月養子縁組)
としてAを育て,かつては,同居するDと共に,A家族との交流があったが,Aの借金
問題,女性問題等をきっかけに,A家族との関係は悪化し(Aは一方的に平成13年1
0月30日付け協議離縁の届出をしている。),A家族が平成14年2月末(以下,月
日のみ記載しているものは,平成14年の出来事である。)に本件マンションに転居し
た際には,その住所を知らされていなかった。本件公訴事実となっている事件は,Aの
留守中に発生したもので,火災の消火活動に際してBとCの遺体が発見されたことから
発覚した。
上記公訴事実につき,検察官は,その指摘する多くの間接事実を総合すれば被告人の
犯人性は優に認定できる旨主張するのに対し,被告人は,本件事件当日まで事件現場で
ある本件マンションにA家族が住んでいたことを知らず,本件事件当日及びそれ以前を
含めて,その敷地内にも立ち入ったことはないと主張し,弁護人は被告人が犯人である
ことを争っている。争点は,被告人の犯人性である。
2被告人に対する裁判の推移
(1)平成17年8月3日に言い渡された差戻し前第1審判決は,本件マンション
の道路側にある階段の1階から2階に至る踊り場の灰皿(以下「本件灰皿」という。)
内から,本件事件の翌日にたばこの吸い殻72本が採取され,その中に被告人が好んで
吸っていた銘柄(ラークスーパーライト)の吸い殻が1本(以下「本件吸い殻」とい
う。)あり,これに付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液中のそれと
一致していることなどから,被告人が,本件事件当日に本件マンションに赴いた事実を
認定できるとし,その他の証拠上認定できる被告人の犯人性を推認させる幾つかの間接
事実が,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めており,結局,被
告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされてい
るとして,ほぼ上記公訴事実と同じ事実を認定し,被告人を無期懲役に処した。
平成18年12月15日に言い渡された控訴審判決は,被告人の控訴趣意のうち,事
実誤認の主張については差戻し前第1審判決の判断がおおむね正当であるとした上,同
判決が認定した罪となるべき事実を前提に,検察官が主張する量刑不当の控訴趣意に理
由があるとして,同判決を破棄し,被告人を死刑に処した。
(2)以上に対し,平成22年4月27日に言い渡された上告審判決は,差戻し前
第1審判決及び控訴審判決は,被告人の犯人性推認の間接事実に関して十分な審理を尽
くさず,その結果事実を誤認した疑いがあるとして,これらを破棄し,更に審理を尽く
させるために大阪地方裁判所に差し戻した。その理由の要旨は,以下のとおりである。
ア状況証拠によって事実認定すべき場合は,状況証拠によって認められる間接事実
中に,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,
少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要するものという
べきである。
イ差戻し前第1審判決による間接事実からの推認は,被告人が,本件事件当日に本
件マンションに赴いたという事実を最も大きな根拠とする。その事実が認定できるとす
る理由の中心は,本件吸い殻に付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液
中のそれと一致した事実からの推認である。この点について,被告人は,差戻し前第1
審当時から本件吸い殻が,携帯灰皿を経由してBによって捨てられた可能性があると反
論し,控訴趣意においても同様の主張をしていたところ,原判決は,本件吸い殻の形状
等からその可能性はないとした。しかし,その形状等から本件吸い殻が携帯灰皿を経由
して捨てられた可能性を否定することはできないし,本件吸い殻は,本件事件翌日に撮
影された写真において既に茶色っぽく変色していることがうかがわれ,この変色は,本
件吸い殻が捨てられた時期が本件事件当日よりもかなり以前の事であった可能性を示す
ものとさえいえる。この問題点について,原判決の説明は採用できず,本件吸い殻が携
帯灰皿を経由して捨てられた可能性を否定する原審の判断は不合理であり(差戻し前第
1審判決が上記可能性を排斥する理由も採用できない。),DNA型の一致からの推認
について,差戻し前第1審及び原審において,審理が尽くされているとは言い難い。
そうすると,その他の間接事実の評価如何にかかわらず,被告人が本件事件当日に本
件マンションに赴いたという事実は認定できない。
ウ仮に,被告人が,本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとし
ても,差戻し前第1審判決で認定された他の間接事実を加えることによって,被告人が
犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困
難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある。
エ本件事案の重大性からすれば,上記観点に立った上で,差戻し前第1審が有罪認
定に用いなかったものを含め,他の間接事実についても更に検察官の立証を許し,これ
らを総合的に検討することが必要である。
(3)当審での審理の概略
ア当裁判所は,上告審判決が指摘した点を踏まえた審理を進めるため,本件を期日
間整理手続に付した。
イ検察官は,証明予定事実記載書面において,本件は,被害者に近しい関係にある
者による犯行であり,その中で犯行の機会が認められるのは被告人のみであること,被
告人は,本件事件当日,本件マンションに赴き,306号室に立ち入ったこと,そのこ
とを被告人が合理的な理由なく殊更に否認していることといった事実の他,被告人が犯
人であることを示す複数の間接事実を指摘した上,このように複数の間接事実が重なり
合うこと自体,被告人が犯人でないとするならば合理的に説明できない事実であると主
張し,本件吸い殻の変色の原因や被告人が306号室に立ち入ったことを推認させる事
実などに関して,新たな証拠の取調べを請求した。
ウ当裁判所は,上告審判決がDNA型の一致からの推認について十分な審理が尽く
されていないと指摘したことや本件の証拠構造に鑑み,本件吸い殻の変色の原因,本件
吸い殻がBにより本件灰皿に投棄された可能性の有無,及び被告人が本件事件当日に3
06号室に立ち入ったことを推認させる事実に関して証拠調べを行った(なお,検察官
請求証拠の一部を却下したが,その理由は適宜後述する。)。
(4)証拠の紛失
アところで,上告審判決は,DNA型の一致からの推認について審理が尽くされて
いるとはいい難いとする事情の一つとして,本件灰皿に存在したたばこの吸い殻の中に
は,Bが吸っていたたばこと同一の銘柄(マルボロライト〔金色文字〕)のもの4個が
存在し,これらの吸い殻に付着する唾液等からBのDNA型に一致するものが検出され
れば,Bが携帯灰皿の中身を本件灰皿内に捨てた可能性が極めて高くなるのに,この点
について鑑定等を行ったような証拠が存在しないことを指摘していた。
イしかし,当審における最初の打合せ期日(平成22年7月13日)において,上
記たばこの吸い殻は,差戻し前第1審当時において既に紛失していたことが検察官によ
って明らかにされた。本件灰皿内から採取されたたばこの吸い殻を含めた現場資料等は,
当時捜査本部が設置されていた大阪府a警察署内において保管されており,平成14年
12月18日から検証調書添付の採取資料一覧表との照合作業が行われていたところ,
同月22日には存在が確認されていた上記吸い殻の入った段ボール箱1箱が,同月25
日午前11時頃には無くなっていることが判明し,その後捜索が行われたものの,前記
段ボール箱は未発見のままである,というのが捜査官による紛失の経緯についての説明
であり,当審公判における証拠調べの結果によっても,それに副う事実が認められる。
ウしたがって,上告審判決の指摘にもかかわらず,本件灰皿内に存在したたばこの
吸い殻に付着する唾液等に含まれる細胞のDNA型等の鑑定は,これを実施することが
できなかった。
第3当裁判所の判断
当裁判所は,被告人が,本件事件当日,306号室に立ち入ったとの事実は認定でき
ず,本件マンションへ赴いたとの事実についても,本件吸い殻が携帯灰皿を経由してB
によって捨てられたものである可能性が高いとさえいえることからすると,合理的な疑
いを差し挟む余地のない事実として認定することは著しく困難であると判断した。そし
て,検察官が主張するその他の間接事実は,被告人の犯人性を推認させるものとして強
力な証明力を有するということはできず,状況証拠によって認められる間接事実中に,
被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なく
とも説明が極めて困難である)事実関係が含まれているといえるかについても疑問が残
ると判断した。
以下,検察官の主張に即し,結論に至る過程を説明する。
第4被告人が本件事件当日に306号室内へ立ち入ったとの事実について
検察官は,①306号室に入ったことがないと述べている被告人が,本件事件当日に
おける306号室内の様子を知っていたこと,②被告人が本件事件当日に履いていた靴
内から,306号室で飼われていた犬の毛とその細胞のDNA型が一致する犬の毛が採
取されたこと等4つの事実関係を指摘し,被告人が本件事件当日に306号室内に立ち
入ったと主張する。
1被告人が本件事件当日における306号室内の様子を知っていたことについて
検察官は,本件事件当日から2か月余り後の平成14年6月16日の取調べの際に被
告人が作成した306号室内の図面(以下「本件現場室内図」という。)の記載内容や,
306号室内の家具の配置等についての被告人とのやり取りに関するA供述などからす
ると,306号室に入ったことがないと述べている被告人が,306号室内の家具の配
置等を知っていたという事実が認められ,このことは被告人が306号室内に立ち入っ
た事実を推認させると同時に,被告人が犯人でないとすれば,合理的に説明できず,あ
るいは説明することが著しく困難な事実である旨主張する。
(1)関係証拠によれば,以下の事実が認められる。
ア306号室内の間取り等
306号室は,別紙1「見取図」【省略】のとおり,台所のある板の間(以下「ダイ
ニングキッチン」という。),6畳間,4.5畳間,浴室,便所によって構成され,ダ
イニングキッチン北西角部分は玄関土間となっており,鉄製の玄関ドアを介して同室北
側に東西に延びる通路に繋がっている。浴室及び便所はダイニングキッチンの西側に配
置されている。ダイニングキッチンの南側は,6畳間(東側)と4.5畳間(西側)が
東西に並んでおり,それらの二つの部屋が南側のベランダに面していた。
イ本件事件後の306号室内の状況
別紙1「見取図」記載のとおり,本件事件直後,306号室内のダイニングキッチン
と6畳間の境の6畳間側には,横の長さ160㎝,縦の長さ70㎝,背もたれの高さ8
0㎝のソファー(以下「本件ソファー」という。)が座面を南側に向けた状態で東西方
向に置かれており,その南側には座卓が置かれていた。
ウAが仕事に出掛ける際の306号室内の状況
本件事件当日の朝,Aが仕事に出掛ける際,本件ソファーは,306号室のダイニン
グキッチンに,その南端が6畳間北西角にかかる状態で,座面をダイニングキッチン北
東隅に置かれたテレビに向ける形で南北方向に置かれ,座卓は,本件ソファーとテレビ
との間に置かれていた。
エ306号室内の様子に関するAと被告人とのやり取り及び本件現場室内図が作成
されるまでの経緯
306号室内の様子に関するAと被告人とのやり取りについては,Aと被告人の供述
に食い違いがある。しかし,概ね以下の事実は認定できる。
(ア)Aは,Bらの葬式のあった日である4月17日から,被告人方で,被告人及
びDと同居するようになった。
(イ)被告人は,同日以降間もない時期に,Aから306号室の間取り等の簡単な
説明を受けた。
(ウ)被告人は,5月4日,第1回目のポリグラフ検査を受けた際,Aから伝え聞
いた話の内容として,「位置はよく分からないが,その位置にソファがあったはずだ」
と説明しながら,別紙2「質問票⑴の提示図」【省略】のとおり,ソファーの位置とし
て図面の中央やや左寄りにやや縦長の楕円形を記載した。
(エ)被告人は,ポリグラフ検査後,Aとの間で306号室内の家具の配置等に関
して会話を交わした。その際,Aは,被告人の顔色を見る思いもあって,ソファーは横
向き(東西方向)に置いていたことや6畳間や4.5畳間のカーテンの色は茶色かベー
ジュだったことなど,自己の認識とは異なる事実を伝えた。
(オ)被告人は,5月8日,捜査官に対し,Aや勤務先の同僚から伝え聞いた話や
新聞報道から知ることになったという306号室内の様子やBらが死亡していた状況を
説明する中で,Aから「Bは整理ダンスの上に五月人形のかぶとを飾るようなことを言
っていたが,飾っていたかどうか分からない。」と聞かされていたので,「かぶとにつ
いては当然飾っているものと思っていた」ため,ポリグラフ検査のときには,「木目調
の整理ダンスの上に飾っていると説明した」などと述べた。
(カ)被告人は,6月16日,捜査官から306号室内の様子を書くよう提案され
たことを受けて,ポリグラフ検査を受けた日の前後頃,Aから聞かされたり,生前Bと
電話で会話した際に聞かされたりしたことから知ったり推測した306号室内の様子と
して本件現場室内図を作成した。本件現場室内図の内容は,別紙3【省略】のとおりで
ある。
オなお,被告人は,本件事件後,306号室に立ち入ったことはない。
(2)ア検察官は,本件現場室内図のソファー①の位置は,本件事件発生直後に本
件ソファーが置かれていた位置と符合しており,このような記載ができるのは,本件事
件当日に306号室に入った者以外に考えられないと主張する。
(ア)この点,確かに,本件ソファーが本件事件当日に移動していたことは,Aも
知らなかった事実であるから,被告人がその移動先と符合する位置にソファー①を記載
している事実は,被告人が,本件事件当日,306号室内に入ったと推認する方向に考
慮してよい事実に見える。
(イ)しかし,本件事件後,被告人がポリグラフ検査を受けるまでの間に,Bがベ
ランダ近くの居間で首にひもが巻き付けられた状態で死亡していたことや,ひもの一部
がたんすの上部に残っていたことなどが報道されており,Aは,ポリグラフ検査後の被
告人に対し,本件ソファーを横向き(東西方向)に置いていたことや,Bがソファーに
しがみついて死んでいたことを話している。上記報道やAの説明を総合すると,ソファ
ーはたんすが置いてある畳の部屋に横向き(東西方向)にして置いてあったと推測して
もおかしくない。
また,本件現場室内図の6畳間を示す場所には「畳の部屋(布団万年床状態で3人川
の字で寝ていた)」との記載がある。被告人が,Aの説明を受けて,本件ソファーは畳
の部屋と台所を区切るものとして置かれていたと推測したとしても不自然ではない。ソ
ファー①の上部に「背中側?」とわざわざ「?」を記載しているのは,ソファーをその
ようなものと理解したことの表れとみることができる。
被告人が本件現場室内図にソファー①を記載したのは,被告人が6月16日の取調べ
の際に述べていたように事前に得ていた情報やポリグラフ検査後にAから受けた説明を
手掛かりに,ソファーの位置を推測したからだとみる余地は十分にある。
(ウ)検察官は,Aの説明内容等からすれば,ソファーはダイニングキッチンに置
かれていたと理解するはずであり,6畳間に置かれていたと勘違いすることなどあり得
ないなどと主張する。
しかし,Aは,特に図面等を用いることなく説明していたというのであり,被告人が
Aの説明を勘違いする状況があったことはA自身が認めるところである。被告人が勘違
いすることなどあり得ないとはいえない。
加えて,Aは,ポリグラフ検査後の被告人に306号室内の様子を説明する際,いく
つかうそをついていることがうかがわれる。うそを作出する過程で頭に思い描いた内容
と実際にした説明の内容との間で混乱が生じ,記憶に変容が生じることはありうること
である。したがって,Aの証言態度が真摯であるとか,捜査段階から一貫しているから
といって,その供述内容をそのまま事実として認定することは危険である。また,Aが
9年以上も前のことになる被告人に対する説明内容の詳細を記憶しているかどうかは疑
わしい。実際,Aは,Bがソファーにしがみついて死んでいたとうその説明をしたこと
を記憶していないし,カーテンの色が茶色系かベージュだとうその説明をしたことで,
4.5畳間のカーテンの色についての記憶がすり替わってしまっていることがうかがわ
れる。
(エ)以上によれば,本件現場室内図にソファー①の記載があるからといって,被
告人が本件事件当日に306号室内に立ち入ったと推認することはできない。
イまた,検察官は,本件現場室内図のソファー②,冷蔵庫,トイレ,洗面,風呂,
靴箱等の記載が,本件事件当日の朝までの306号室の状況と符合しているのは,被告
人が本件事件当日に306号室内に入り,その状況を目にしたからだと主張する。
(ア)しかし,前記のとおり,Aは,本件事件の3日後である4月17日から,被
告人方において被告人及びDと同居するようになっていたところ,関係証拠によれば,
本件事件の翌日から2週間後までには,Bが306号室のベランダ近くの居間でその首
に細いひもが二重に巻かれた状態で死亡していたことや,Cは服をきたまま玄関脇の風
呂場の浴槽の水に浮かんでいるところを発見されたこと,部屋の鍵も無くなっていたこ
となどが報道されていたことが認められる。被告人,A及びDが,本件マンションにお
けるAらの生活状況を話題にし,犯人像や殺害方法などを話し合う過程で,306号室
内の間取りや家具等の配置を話題にしていたとみても不自然ではない状況が認められる。
こうした状況を踏まえれば,本件事件当日に被告人が306号室内に立ち入っていな
かったとしても,本件現場室内図を作成することは十分可能である。
(イ)例えば,ソファー②の位置についてみると,台所南東角にはテレビが置かれ
ており,本件事件当日の朝まではテレビとソファーの間に座卓が置かれていたのである
から,Aらの家族はソファーに座ってテレビを見ていた様子がうかがえる。Aが本件マ
ンションでの生活状況を話題にする中で,テレビや座卓の位置を口に出すことはありう
ることであるから,そうした話を手掛かりに,被告人が,ソファーに座ってテレビを見
る位置としてソファー②の位置を推測したとみても不自然ではない。この点,被告人は,
ソファー②の位置を特定した理由として,当時Aが説明した家具の配置から推測した旨
述べるが,この被告人の供述は,上記状況に副うものであり,虚偽であるとして排斥す
ることは困難である。冷蔵庫の位置についても,本件マンションにおけるAらの生活状
況を話し合う中で,その位置が話題にのぼったとみる方がよほど自然であり,冷蔵庫の
位置をAから聞いたという被告人の供述は排斥できない。検察官が主張するように,物
色を装う偽装工作を行ったために冷蔵庫が印象に残っていたというのであれば,同じよ
うに偽装のために扉が開けられていたとされる電子レンジや台所の扉の位置が書き込ま
れていないことを説明する必要がある。
(ウ)また,トイレ,洗面,風呂,靴箱の位置及び鍵の置き場所についても上記で
指摘したところと同様である。Cが発見されたのは風呂場であるし,Aらの飼い犬はト
イレ内から発見されている。Bの首にひもが巻き付いていたことや306号室の部屋の
鍵が見付かっていないことも報道されていたのである。Aと被告人らとの間で,上記状
況に関連した場所としてトイレ,洗面,風呂の場所,犬のリードや鍵及びその置き場所
が話題になっていたとみても不自然ではない。Aが「手洗い場」として説明したとして
も,これを聞いた被告人が「洗面」の趣旨として理解し,記憶したとしても不思議では
ない。Aは,そのような話題を被告人の前でしたことを否定するが,その供述内容は,
上記状況とは整合的でない。
(エ)なお,検察官は,本件現場室内図に「靴箱か何か」と記載されていることを
指摘して,被告人が306号室に入ったことの証左であると主張する。しかし,関係証
拠によれば,306号室内の靴箱は,靴が入れられた状況を見れば,靴箱といって全く
おかしくない形状である。306号室に立ち入って靴箱を見た者が「靴箱か何か」と記
載する方が不自然である。この靴箱は実際には3段ボックスと2段ボックスを縦に並べ
たものである。被告人が「靴箱か何か」と記載したのは,Aからそのような説明を受け
たからだとみる方がよほど自然である。
ウさらに,検察官は,本件現場室内図に被告人が推測したものとして記載したカー
テンの色が,306号室の6畳間と4.5畳間に吊られていたカーテンの色と同じであ
るのは,被告人が,本件事件当日,306号室に入ってカーテンを見たからだと主張す
る。
(ア)しかし,この点について,被告人は,捜査段階からAらの前住居で見たカー
テンと同じものを使用しているのだと推測してカーテンの色は青色だと思っていたと述
べている。どの部屋に吊られていたものかはさておくとして,Aらの前住居では実際に
青色のカーテンが吊られていたのであるから,被告人の上記推測は特段不自然ではなく,
その供述は排斥しがたい。
(イ)また,検察官は,被告人が「(ブルー)と思っていた」とあえて記載したこ
とが不自然であるかのような主張をするが,前記のとおり,本件現場室内図は,被告人
が,A及び捜査機関から犯人ではないかと疑われる中で作成されたものである。本件現
場室内図に,Aから聞いたカーテンの色のみでなく,それまでの被告人の推測を記載し
た理由も,捜査官やAから,カーテンが青色であると特定できたことに不審の目を向け
られていたからだということで十分説明がつく。本件現場室内図のカーテンの色に関す
る記載内容は,被告人が本件事件当日に306号室に立ち入っていなかったとしても記
載することのできるものである。
エその他,検察官は,五月人形に関する被告人の供述がポリグラフ検査時とその後
とでは変遷しているとして,この変遷はポリグラフ検査時に,実際に五月人形の兜が出
されていた事実を認識していたことを表明してしまったことから,これを糊塗するため
にうそを重ねた結果であるとの趣旨の主張をするが,言葉尻をとらえて憶測に憶測を重
ねたものとしかいえないものであって,到底採用できないし,換気扇の位置についても,
関係証拠(当審甲66)によれば,本件マンションの廊下側からその位置を特定できな
いとまでは言えないから,外側から換気扇があるのを見てその位置を特定できたという
内容の被告人の弁解は排斥できない。
(3)小括
結局,306号室内の様子に関する被告人の認識は,それまでのマスコミの報道内容
やA及び生前のBから伝え聞いた内容,それらを踏まえた被告人の推測などによって生
じたものとみる余地が大いにあるのであって,本件現場室内図の記載内容などから,被
告人が306号室内に立ち入ったとの事実を推認することは到底できない。306号室
内の様子に関する被告人の認識が,306号室の状況と符合することは,被告人が犯人
でなくても容易に説明することが可能な事実というべきである。
そもそも,本件現場室内図は,当然のことながら,被告人自身が現認したものではな
く,Aから伝え聞いたことやそれから推測したものとして作成されたものであり,その
作成当時の被告人は現に捜査官から本件の犯人として疑われており,そのことを被告人
自身十分に意識していたのであるから,被告人が犯人であっても,そうでないとしても,
自分が犯人と疑われるような記載,すなわち,犯人であって初めて知り得る事柄は記載
しないように努めるのが通常であることからすると,本件現場室内図に犯人でなければ
知り得ないと考えられる記載がなされていたとしても,その記載がなされた理由につい
ては多義的な解釈が可能となる性格を有するものであり,このことは,被告人が当時ポ
リグラフ検査を受け,その際306号室内の様子,家具の位置について質問されている
ことを踏まえても変わらない。従って,本件現場室内図の記載を根拠にして被告人が3
06号室に立ち入ったことを立証しようとすることには基本的に無理があるといえる。
この点についての検察官の主張は採用できない。
2第2に,検察官は,306号室への立入りを推認させる事柄として,被告人が,
本件事件当日にBと会うことによって初めて知り得る事実を,それと知った上で行動し
ていたものと認められる事実関係があることを挙げ,その事実として,①被告人が,本
件事件の2日後の4月16日頃,Aらの前住居の管理会社代表者Eに連絡を取り,Aの
滞納家賃の支払期限という,Bから聞かなければ知り得ないはずの家賃の滞納があるこ
とを前提に,その支払期限の延長を申し入れていること,②被告人が,本件事件の4日
後である4月18日以降に,Aのためにケントスーパーライトロング(これは,本件事
件の4日前の4月10日にAとBが相談してそれまで吸っていたマルボロライトから,
より値段の安いケントスーパーライトに変えたものであり,Aはこの事実を被告人に伝
えていない。)を買ってきたことを指摘する。
(1)しかし,滞納家賃の点についてみると,上記滞納家賃の支払期限(本件事件
の翌日である平成14年4月15日頃である。)は,家賃の保証人となっていた被告人
が,Eと交渉して設定し,もしそれまでにAらから支払がないのであれば,自分が代わ
りに支払うと約束していたという経緯がある上,本件事件の翌日(4月15日)の夜に
は仮通夜が営まれ,その中でAと被告人らの間で被害者らの葬式の段取りや費用の話が
話題に出ているのである。Aの借金問題もあってAが被告人を避けるようになっていた
という当時の状況も併せると,葬式の段取りなどを話し合う過程で,Aの費用負担能力
に話題が及んだとみても不自然ではない。Aが,その翌朝(4月16日)に債務整理を
依頼していた弁護士に電話を架けているという事実も,上記のような話題が出たことを
うかがわせるものである。
そうすると,被告人が本件事件の2日後に滞納家賃の支払期限の延長を申し込んでい
るという事実は,被告人が上記話合いの中でAから滞納家賃を支払っていないことを聞
き及んだからだとみるほうが自然である。検察官が主張するように,この事実から被告
人が本件事件当日Bから家賃未払いの事実を聞いたと推認することはできない。
(2)次に,Aが吸うたばこの銘柄を知っていたことについてみる。本件事件の翌
日(仮通夜),翌々日(通夜)とAは被告人と行動を共にし,その後は被告人方で同居
するようになり,その間,Aは,1日1箱くらいのペースでたばこを吸っていたことが
認められる。被告人と共にコンビニエンスストアに入り買い物をしている状況もうかが
える。こうした状況からすると,被告人がAの吸うたばこの銘柄を知っていたのは,本
件事件後,Aが被告人の前でケントスーパーライトロングを吸い,あるいはその銘柄の
たばこを購入したことがあったからだとみる余地が十分にある。
この点,検察官は,Aの証言に基づいて,被告人がAにケントスーパーライトロング
を買ってくる以前に,Aが被告人の前でその銘柄のたばこを吸ったことはないと主張す
る。しかし,そもそも,Aの記憶は,被告人がAにたばこを買ってきた時期も正確に特
定できない曖昧なものである。また,Aは,差戻し前第1審において,本件事件以降に
吸ったたばこの銘柄について事細かに証言しているが,特段の理由があって意識的に記
憶していたという事情があるのであればともかく,頻繁にたばこを吸っていたAが,い
つどのような銘柄のたばこを吸ったのかを事細かに記憶しているとは到底思えない。A
が被告人に対する疑念を抱いたのは,被告人からたばこを渡された時点であり,しかも
その疑念を抱いた理由も,たばこの銘柄を変えたことを被告人には伝えていなかったは
ずだというものであって,その時点までに吸っていたたばこの銘柄を全て想起した上で
そのような疑念を抱いたというものではない。さらに,A自身もよくよく考えてみると
不審に思ったと供述しているのである。Aは当時,被告人が犯人でないかと疑っていた
というのであるから,本件事件以降に吸ったたばこの銘柄についても,自分の思う結論
に副うような形で記憶を想起し,捜査機関に供述することで,その記憶を固定化してい
ったとみる余地も十分にある。Aの供述をそのまま信用することはできない。
(3)以上のように,検察官が指摘する事情は,いずれもBに会っていなくても被
告人が知ることができたといえるものであり,本件事件当日にBと会っていなければ知
りえない事実を被告人が知っていたとの評価につながるものではない。
したがって,これらの事情は,被告人が本件事件当日に306号室に入ったとの事実
を推認させるものではない。
3第3に,検察官は,被告人が本件事件当日に履いていた靴内に,306号室で飼
われていた犬の毛とその細胞のDNA型が一致する犬の毛が付着していたことを,被告
人が306号室に立ち入った事実を推認させるものとして主張する。
(1)関係証拠によれば,以下の事実が認められる。
ア被告人は,平成14年5月2日,本件事件当日に履いていた靴(黒色運動靴)を
任意提出し,同月5日,その靴の写真撮影が行われた。
イ本件事件の再捜査に従事していた警察官Fは,平成22年5月10日,本件事件
の現場資料が入れられた段ボール箱約100箱の中身を確認し,「鑑定資料」と記載の
ある段ボール箱から,「○○【※被告人の名前】くつ底獣毛」と記載がある茶色封筒を
発見した。その茶色封筒の中には,「左靴底内」との記載のあるチャック付きビニール
袋があり,その中には白色の毛様のもの1本がセロテープで留められた紙1枚と「左靴
底内」と記載があり毛様のものが付着したアセテート紙1枚が入っていた。
ウFは,平成22年6月25日,Gに対し,上記紙に留められた白色の毛様のもの
1本及び上記アセテート紙1枚に付着していた獣毛様のもの2本のほか,当時306号
室内にあった犬の服から採取した獣毛様のもの等を鑑定資料として,そのDNA型鑑定
等による異同識別の鑑定を嘱託した。
エGは,前記鑑定資料について,犬のミトコンドリアDNAのtRNA遺伝子とD
ループ領域の配列解析によりDNA型の分析を行ったところ,上記犬の服から採取した
獣毛様のもの2本と,アセテート紙に付着していた獣毛様のもの1本(以下「本件獣毛
様のもの」という。)の型が,Cf04型で一致した。Gが行った調査結果によると,Cf04
型の出現頻度は8.7パーセントである。
(2)以上の事実は当審で取り調べた関係証拠から認定できるところ,検察官は,
平成14年当時大阪府警察本部刑事部鑑識課に所属していたHの証言内容によれば,上
記アセテート紙1枚に付着していた獣毛様のものは,任意提出された被告人の左足靴の
中敷き部分から採取されたものだと主張する。
しかし,採取経過については客観的な資料に乏しい。この点,Hは,左靴底内を目視
で確認して白い毛1本をピンセットで採取した後,アセテート紙で靴の中敷き部分の微
物を採取したと証言するが,白い毛を採取する時の状況やアセテート紙で微物を採取す
る状況を撮影した写真等は存在しておらず,その際採取された毛様の物が,靴のどの部
分にどのような状態にあったのかを裏付ける客観的な証拠は全くない。Hは,実際に微
物採取を行ってから8年以上も経過した後にその時の状況を記憶喚起しているのであり,
日頃から鑑識業務に従事していることも踏まえると,年月の経過に伴う記憶の減退や記
憶の混同の可能性は否定できない。その上,Hは,微物採取の際,靴の写真撮影を行っ
たと述べ,その具体的な状況を証言するが,その写真は残っていないのであり,写真が
廃棄されたかどうかが明らかになっていないことからすると,他の鑑識事例と混同して
いる可能性も否定できない。毛様のもの採取時の状況に関するHの証言内容をそのまま
信用することはできない。
(3)また,検察官は,Gが行った鑑定の結果は正確なものであり,被告人の靴内
から採取された本件獣毛様のものの細胞のDNA型と306号室内で飼われていた犬の
毛のそれが一致した事実は,被告人が306号室に立ち入った際にそこにあった犬の毛
が付着し,それが靴内に残ったことを強くうかがわせると主張する。
アしかし,Gが行ったのはミトコンドリアDNA型鑑定である。G自身が証言する
ように,ミトコンドリアは母性遺伝をし,母方が同じであれば突然変異がない限り,ミ
トコンドリアDNA型は一致するというのであるから,本件鑑定で用いられたミトコン
ドリアDNA型の解析で個体識別することは著しく困難といわざるを得ない。鑑定結果
も,その結論部分は,本件獣毛様のものと,306号室内にあった犬の服から採取され
た獣毛が,同一個体由来であることを除外(否定)できないというにとどまるものであ
る。
しかも,Gは,上記DNA型(Cf04)の出現頻度は8.7パーセントであるとするが,
これはGが血縁関係の認められない犬999個体(雑種を含め68犬種)を調査して得
た105種類のミトコンドリアDNA型塩基配列の中での出現頻度にすぎないものであ
る。Gが述べるように,このデータベースは十数年前から構築し始めたもので,今なお
データを収集中のものである。実際,本件鑑定においても,他の鑑定資料から既知の型
とは異なる新規な型が発見されている。さらに,Gは,データベースを外部に公表して
いるわけではなく,他のデータベースが存在するかも定かではない。結局,Gのデータ
ベースが客観性を有し,その出現頻度が正確であるかどうかについては疑問が残るとい
わざるを得ない。そもそも母方が同じである犬を含めると,上記の出現頻度自体より大
きな数値となることは明らかである。
結局,上記鑑定結果から,本件獣毛様のものが306号室内で飼われていた犬の毛に
由来するものと認定することは著しく困難というほかない。
イさらに,関係証拠によれば,306号室で飼われていた犬は,2月中旬頃から3
月初旬頃まで,被告人の弟I方に預けられていたこと,本件事件の翌日である4月15
日に被告人が上記I方を訪れ,Aの事情聴取が終了するのを待っていたことなどの事実
が認められる。そうすると,仮に本件獣毛様のものが,本件事件当日に被告人が履いて
いた靴内から採取されたものであり,それが306号室で飼われていた犬の毛に由来す
るものであると認定できたとしても,その犬の毛は,I方で付着したとみる余地は十分
にある。本件獣毛様のものは,極めて微細なものであるから,それがI方で約2か月間
残留し,被告人の足のみならず,着衣や携帯品等に付着し,これらを介するなどして被
告人が本件事件当日に履いていた靴内に入った可能性を排除できないことから,被告人
が,任意提出した靴とは異なる靴でI方を訪れたというような事情があったとしてもこ
の結論は変わらない。
また,被告人の靴が任意提出されてから微物採取に出されるまでの保管状況は全く明
らかになっておらず,コンタミネーションの可能性はないと断言できる状況でもない。
そうすると,被告人が306号室に立ち入らなくても,被告人の靴内に306号室で
飼われていた犬の毛が付着する機会は十分にあったといえる。
(4)小括
以上のとおり,本件獣毛様のものが被告人の靴内から採取されたという事実すら明ら
かでない上,鑑定結果を基に本件獣毛様のものがAの飼い犬に由来するということもで
きない。また,本件獣毛様のものは306号室以外の場所で被告人の靴内に付着した可
能性もある。
以上のことからすると,本件獣毛様のものを根拠に被告人が306号室へ立ち入った
と推認することは,およそできないといわざるを得ない。
4検察官は,被告人が,3月上旬頃,Aらの前住居の管理会社従業員から転居先住
所として,本件マンションの所在地,名称,室番号を聞いていたと主張する。しかし,
関係証拠によれば,被告人は,3月14日にBから転居先を聞き出そうとしていたこと
が認められ,そうすると同日時点において,被告人はBらの転居先を知らなかったもの
と推認できるのであり,検察官が主張するように被告人が3月上旬頃,同会社従業員か
ら連絡があった際,Aの転居先を聞いたと思う旨供述しているからといって,被告人が
Aらの転居先を知っていたものと推認することはできない。また,被告人の認識を推認
させるものとして検察官が指摘する諸事情を総合しても,被告人がAらの住居を知って
いたとしてもおかしくない状況,あるいはEやAの友人であるJに電話をして問い合わ
せることによって知り得る状況があったといえるにとどまり,知っていたと断定できる
ものではない(被告人がこれら関係者に連絡をしてAの住所を聞いたことを認めるに足
る証拠はない。)。そして,これらの状況にあることは,被告人が本件マンションに赴
き,306号室に立ち入ったことを積極的に推認させるものではなく,他に306号室
内への立入りを推認させる事実があるときに,その信用性を補強する程度の証明力を有
するにとどまるというべきである。
5まとめ
以上検討してきたとおり,被告人が本件事件当日の306号室の様子を知っていたと
思わせる行動をとったのは,Aの説明を勘違いしたり,Aからの話や報道の情報を基に
306号室の様子を推測していたからであるとみる余地が多分にあり,本件現場室内図
の記載などから,被告人が,本件事件当日,306号室に立ち入ったという事実を推認
することはできない。
また,家賃の滞納があったことやAが吸うたばこの銘柄を変えていたことは,いずれ
も本件事件当日にBに会っていなくても被告人が知り,あるいは推測することができた
といえるものであり,被告人が本件事件当日にBと会っていなければ知りえない事情を
知っていたとの評価につながるものとは到底いえず,被告人が本件事件当日に306号
室に立ち入ったとの事実を推認させるものではない。
さらに,本件獣毛様のものを根拠に被告人が306号室へ立ち入ったと推認すること
はおよそできない。
加えて,被告人が,本件事件当時,Aらが本件マンションで暮らしていることを知っ
ていたと断定できるものはなく,被告人が本件マンションを知っていた可能性がある,
あるいは問い合わせることによって知ることができる状況にあったという事実のみから,
被告人が306号室に立ち入ったと推認できるものでもない。
結局,検察官が主張する個々の間接事実を総合しても,被告人が,本件事件当日,3
06号室に立ち入ったとの事実は認定できない。
第5被告人が,本件事件当日,本件マンションへ赴いたとの事実について
検察官は,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を本件灰皿に投棄したことなど4つの
事実から,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実を認定でき,そ
れにもかかわらず,被告人が本件マンションに赴いたことを否定している事実は,被告
人が犯人でないとするならば合理的に説明できず,あるいは説明することが困難な事実
であると主張する。
1被告人が本件吸い殻を本件灰皿に投棄したことについて
本件吸い殻に付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液中のそれのDN
A型と一致していることは証拠上明らかである。本件吸い殻が本件灰皿内にあったとい
う事実は,第三者による投棄の可能性が否定されるのであれば,被告人が本件マンショ
ンに赴いたことを推認させる事実といえる。
しかし,被告人は,本件吸い殻について,差戻し前第1審当時から,自分がB夫婦に
対し,自らが使用していた携帯灰皿を渡したことがあり,Bがその携帯灰皿の中に入っ
ていた本件吸い殻を本件灰皿内に捨てた可能性がある旨の反論をしていた。
上告審判決は,前記(第2の2(2))のとおり,本件吸い殻がBにより本件灰皿に
投棄された可能性を否定する原審及び差戻し前第1審の判断は不合理であり,本件吸い
殻の変色の原因を合理的に説明する根拠は記録上見当たらないことなど,DNA型の一
致からの推認について審理が尽くされているとはいえないと指摘した。
当審では,上告審判決の指摘を受け,本件吸い殻の変色の原因や本件吸い殻がBによ
り本件灰皿に投棄された可能性の有無について証拠調べを行った。
(1)本件吸い殻の変色について
上告審判決は,本件吸い殻の変色について,「水に濡れるなどの状況がなければ短期
間でこのような変色は生じないと考えられるところ」,採取時に本件灰皿内が濡れてい
た様子はないようであるから,「この変色は,本件吸い殻が捨てられた時期が本件事件
当日よりもかなり以前の事であった可能性を示すものとさえいえるところである」とし,
被告人が本件事件当日に本件吸い殻を捨てたとすれば,そのときから採取までの間に水
に濡れる可能性があったかどうかの検討が必要であると指摘した。
検察官は,本件吸い殻が,採取されるまでの間に水に濡れる可能性があったかどうか
については何ら立証を行わなかったが,本件吸い殻の着色は,上告審判決が指摘するほ
ど濃いものではなく,着色の理由については様々な説明が可能であり,短時間で着色す
ることもありうるのであるから,上告審判決の指摘は相当ではなく,本件吸い殻は本件
事件当日に投棄された吸い殻と認められると主張する。
ア本件吸い殻の変色の程度について
(ア)関係証拠【検証調書〔差戻し前第1審甲5号証〕添付の写真(以下「採取時
の写真」ということがある。),当審甲11号証〔前記写真を拡大複製したもの〕,差
戻し前第1審甲252号証添付写真(以下「唾液鑑定時の写真」ということがある。)
及び当審甲12号証】によれば,本件吸い殻は,本件事件の翌日に採取された当時から
既に茶色っぽく変色しており,その変色は吸い口部分のみならず吸い口とは反対の吸い
残された先端部分までのほぼ全体に及んでいること,また,その変色の度合いは,採取
時の写真において,他のたばこの吸い殻(特に本件吸い殻の上下あるいは左側にあるた
ばこの吸い殻)と比較すると,一見して明らかな程度のものであることが認められる
(なお,ラークスーパーライトのフィルター部分が,他のたばこのフィルター部分と比
較して,当初から茶色っぽいことをうかがわせる証拠はない。)。また,本件吸い殻の
変色の程度は,唾液鑑定時の写真とそれから9年以上を経た現時点(当審平成22年押
第65号の69)とで顕著な変化はないように見える(印刷されたLARKの黒色文字
は現時点の方が薄くなっている。)。
(イ)この点,検察官は,唾液鑑定時の写真は,色や濃度に補正がかけられおり,
実際よりも着色が濃く見え,また,採取時の写真と唾液鑑定時の写真を比較すると,本
件吸い殻の変色の度合いは,採取された時よりもその1か月半後の唾液鑑定時の方が着
色の度合いが進展しているように見えると主張する。
しかし,当審甲12号証や甲13号証によれば,色や濃度に補正を加えていない写真
によっても本件吸い殻に変色が生じていることは明らかに見てとれるし,そもそも,採
取時の写真と唾液鑑定時の写真とでは,その撮影場所も,撮影距離も,背景も明らかに
異なっており(前者は本件吸い殻採取現場付近のコンクリート床上にブルーシートを敷
き,その上に他のたばこの吸い殻等本件灰皿内の在中物多数を一緒に並べて撮影したも
のであるし,後者はおそらく室内で接写台を用いグレーと思われる台板上に本件吸い殻
のみを置いて撮影されている。),それ故おそらくは主光源も異なっていると思われる。
このように,そもそも撮影条件が異なっている以上,採取時の写真と唾液鑑定時の写真
との比較だけで,本件吸い殻の変色の度合いが進展したとはいえない。
前記のとおり,採取時の写真によれば,その上下あるいは左側のたばこの吸い殻との
比較において,本件吸い殻に変色があることは一目瞭然であり,これによると,本件吸
い殻の変色の程度は当初から大きかったというべきである。
上記検察官の主張は採用できない。
イ本件吸い殻の変色の原因について
(ア)上告審判決以後,大阪府警察本部内で,本件吸い殻の変色の原因を究明する
プロジェクトチームが編成され,そのチーム内での協議の結果,①7通りの条件による
たばこの吸い殻の変色実験(以下「7通りの変色実験」という。当審甲20),②警察
官51名が喫煙したたばこの吸い殻の変色実験(以下「警察官51名による変色実験」
という。当審甲18),③自動喫煙器によるたばこフィルターの変色実験(以下「自動
喫煙器による変色実験」という。当審甲17)などが行われた。
上記各実験の概略及び結果の要旨は以下のとおりである。
a7通りの変色実験(当審甲20)は,ラークスーパーライトと形状等が似ている
たばこ(マイルドセブンエクストラライト)7本を使用して,いずれも途中まで喫煙し
たたばこを金属製灰皿の上に置き,①フィルターの巻紙(アセテートフィルター。以下
同じ。)部分に唾液を多めにつけて立ち消えにする,②立ち消えにしてフィルター部分
に水をかける,③立ち消えにしてフィルター部分にコーヒーをかける,④立ち消え前に
フィルター部分に水をかける,⑤立ち消え前にフィルター部分にコーヒーをかける,⑥
刻みの部分を水で濡らした他のたばこの吸い殻の上に,立ち消えにした吸い殻のフィル
ター部分を置く,⑦乾いた他のたばこの吸い殻の上に,立ち消えにしてフィルター部を
水で濡らした吸い殻を置く,という各条件により約12時間放置して,フィルター部分
の変色の程度を明らかにするものである。
約12時間放置後,①から⑦までの実験により生じたたばこの吸い殻のフィルター部
分はいずれも乾いており,コーヒーをかけたもの(③及び⑤)は,コーヒーが浸潤した
部分のフィルター表面が「茶色く」変色した。また,唾液を多めにつけたもの(①)は
唾液が浸潤した部分のフィルター表面が,水をかけたもの(②及び④)はフィルター表
面の刻み部分の端付近の一部分が,いずれも「薄茶色」に変色した。水で濡らした他の
たばこに置いたもの(⑥)は,接触部分を中心に,水分が浸潤した部分のフィルター表
面が「茶色く」変色した。乾いた他のたばこの吸い殻の上に置いたもの(⑦)は,下に
なっていた刻み部分の端に近いフィルター表面の一部分が「薄茶色」に変色した。
b警察官51名による変色実験(当審甲18)は,警察官51名が,①日頃の吸い
方,②フィルター部を深く口にくわえ唾液を多めにつける吸い方,というそれぞれの方
法で喫煙したたばこ(マイルドセブンエクストラライト)の吸い殻を,本件灰皿と同型
のスタンド型灰皿内に投棄し,自然乾燥するまで放置した場合に,①,②のたばこの吸
い殻が変色するかどうかを明らかにする実験である。
喫煙から約4時間経過後にそれぞれの吸い殻をブルーシート上に並べて全体の写真撮
影を行ったところ,①の方法では4本が薄茶色に,②の方法では30本が薄茶色又は濃
い茶色に変色した。
なお,通常のたばこの吸い方の詳細や,たばこにつけた唾液の量の詳細などは明らか
でない。
c自動喫煙器によるたばこフィルターの変色実験(当審甲17)は,自動喫煙器を
用いて,A1:普通の状態でたばこ(マイルドセブンエクストラライト。以下同じ。)
を吸引する,A2:チップペーパー(巻紙に包まれたたばこの刻み部分とフィルター部
分の双方を巻いている紙)へ水を塗布してたばこを吸引する,A3:チップペーパー及
びアセテートフィルターに水を塗布してたばこを吸引するという3種類の実験条件で,
B1:標準シガレットホルダーを使用して開孔部を覆わない,B2:特殊シガレットホ
ルダーを使用して開孔部を覆うという2種類の方法によりそれぞれ実験を行い,チップ
ペーパーのフィルター部分の変色の状況を明らかにする実験である。なお,塗布した水
は蒸留水を用い,その量はいずれも25μ
マイクロ
リットルである。
実験の結果,開孔部を覆わない状態(B1)で吸引を行った場合は,全ての条件でフ
ィルター部分に変色は生じず,開孔部を覆う状態(B2)で喫煙した場合は,全ての条
件でフィルター部分が黄色く変色した。
(イ)上記各実験の内容は,科学者,専門家,あるいは科学捜査研究所の技官に助
言等を求めた上で決められたものではなく,科学的知見に基づく実験内容とは言い難い。
また,警察官51名による変色実験(当審甲18)や7通りの変色実験(当審甲20)
は,たばこにつけた唾液やコーヒー等の水分量が明確でなく,再現が困難であることな
どの問題点がある。さらに,実験の結果を撮影した写真と,本件吸い殻を撮影した写真
(特に唾液鑑定時の写真)とでは,それぞれ撮影距離や背景の明るさなどの撮影条件が
異なっている。
したがって,これらの実験の結果やその際撮影された写真等を根拠にして,本件吸い
殻の変色の原因について確定的なことをいうことはできない。
しかし,上記実験の結果及び関係証拠によれば,一応以下の諸点を指摘できる。
a7通りの条件によるたばこの吸い殻の変色実験(当審甲20)のうち,コーヒー
をかけたフィルター(③及び⑤)及び水で濡らした他のたばこの吸い殻に置いたものの
フィルター(⑥)の各表面のコーヒーないし水が浸潤した部分は,一見して明らかな程
度に茶色く変色しており,その変色の濃さ・程度は,実験当時(当審甲20添付写真)
及び現時点のいずれにおいても,本件吸い殻(唾液鑑定時の写真及び現時点)のそれと
似ている。一方,唾液や水をかけたフィルター(①,②及び④)に見られる変色は,前
記のとおり「薄茶色」と表現されるものであり,実験当時の写真からは一見して明らか
な程度に濃く変色しているとまではいえず,現時点においても,本件吸い殻のそれと比
べると,それほど濃くない。
b警察官51名による変色実験(当審甲18),自動喫煙器による変色実験(当審
甲17)のうち開孔部を覆う方法によるもの及び7通りの変色実験(当審甲20)のう
ち,唾液を多めにつけたもの(①),水をかけたもの(②及び④),乾いた他のたばこ
の吸い殻の上に置いたもの(⑦)で使用したたばこの吸い殻の変色は,実験当時よりも
現時点の方がいずれも濃くなっている。また,自動喫煙器による変色実験のうち開孔部
を覆わない方法により吸引したたばこのフィルター部には,当初は変色が見られなかっ
たが,現時点においては薄茶色く変色している。
警察官51名による変色実験(当審甲18)で変色が生じたとされるたばこの吸い殻
は,現時点においては一見して明らかな程度に変色しており,本件吸い殻の変色の程度
と似ている。
c以上のことからすると,たばこの吸い殻をコーヒーに浸す,あるいは刻みの部分
が水で濡れたたばこに接触するという状況があれば,短期間でも本件吸い殻と同程度に
変色するといえそうである。他方,水で濡らしたり,唾液を多めにつけただけでは,短
期間では本件吸い殻と同程度に変色しないようである。また,唾液や水をフィルターに
付けると茶色く変色することがあり,その変色の程度は時間的経過によって進展する場
合が多いといえる。
(ウ)検察官は,警察官51名による変色実験(当審甲18),自動喫煙器による
変色実験(当審甲17)の結果など,当審で取調べられた関係証拠によれば,水に濡れ
たり時間が経過しなくても,一般的な喫煙行為によりたばこの吸い殻が変色することは
明らかであり,本件吸い殻の変色は時間的経過を示すものとはいえないと主張する。
aしかし,警察官51名による喫煙実験は,たばこの吸い殻に変色が生じるかどう
か自体を明確にするために行われた実験である上,つけた唾液の量やたばこのくわえ方
など喫煙方法の詳細は不明であり,本件吸い殻の変色の程度やその原因を科学的見地か
ら明らかにする内容ではない。
実験の結果,唾液を多めにつけて喫煙した場合は,たばこの吸い殻51本中30本に
薄茶色あるいは茶色く変色がみられたとされるが,そのたばこの吸い殻全体を写した写
真によると,その変色の程度は,本件吸い殻採取時の写真とは異なり,いずれも変色が
生じていない他のたばこの吸い殻と比較して一目瞭然といえる程度に濃いものではない。
もちろん,上記実験は,本件吸い殻の変色の程度や状態との比較を意識して行われたも
のではなく,その意味で,本件吸い殻の変色の原因を解明するものとしては甚だ不十分
な実験であり,上記写真自体も,喫煙実験から4時間余りが経過した時点で撮影された
ものであり,本件吸い殻が採取された直後に撮影された写真とは撮影条件が異なってい
るのであるから,写真の内容のみでこのように断定できるものではない。
bまた,自動喫煙器による変色実験の結果,開孔部を覆う状態での吸引方法の場合
には,たばこの吸い殻に変色が生じたとされているが,もともとたばこの開孔部は,た
ばこの煙を希釈するために設けられたものであり,それを覆った状態で喫煙を行うとい
うこと自体特殊な喫煙方法である。実験の間中,チップペーパー表面がたばこの煙にさ
らされ続けることになることなど,実際に人が喫煙する場合と明らかに異なる条件下で
の結果という問題点も指摘できる(なお,本件吸い殻が,上記のような特殊な方法・条
件下で喫煙されたものであるかについては何ら立証がなされていない。)。のみならず,
上記実験も,本件吸い殻の変色の程度や状態との比較を意識して行われた実験ではない。
本件吸い殻の変色の原因を解明するものとして不十分な実験であることは,警察官51
名による変色実験と同様である。
c結局,上記各実験の結果は,本件吸い殻の変色の原因を解明するものとはいえず,
本件吸い殻の変色は時間的経過を示すものとはいえないとの検察官の主張は採用できな
い。
dところで,上記実験で変色が生じたと指摘されたたばこの吸い殻は,いずれも実
験当初より現時点の方が変色の程度が濃くなっている。その中には,変色が生じていな
いたばこと比較すると,一見して明らかな程度に変色しているものがある。関係証拠に
よれば,この変色の程度の変化は,時の経過に伴って,たばこの吸い殻に付着した煙成
分が酸化するなどしたことによって生じたと考えることができる。前述のとおり,本件
吸い殻は,採取された直後において既に,他のたばこの吸い殻と比較すると一目瞭然と
いえる程度に変色が生じており,上告審判決は,この変色は本件吸い殻が捨てられた時
期が本件事件当日よりもかなり以前の事であった可能性を示すものといえると指摘して
いるのである。上記実験後のたばこの吸い殻の変色の程度の変化は,上告審判決の指摘
を裏付けているともいえる。
(エ)次に検察官は,被告人がコーヒーを飲みながらたばこを吸うことがあったこ
とやその吸ったたばこの吸い殻のフィルター部分には唾液が多めに付着していたことを
指摘し,コーヒー等の有色成分やたばこの吸い殻に付いた水分(唾液)に本件灰皿内の
壁面・底面や他のたばこの吸い殻のタール成分が付着することにより,たばこの吸い殻
に変色が生じたとしても不自然でないと主張する。
aしかし,本件吸い殻の全体に唾液が付着していることを認める証拠はない。かえ
って,関係証拠によれば,本件吸い殻の唾液鑑定の際に切り取られた吸着試験の対照部
位からは,唾液が検出されなかったことがうかがわれるのであり,本件吸い殻全体に唾
液がついていたとみることはできない。また,被告人が,フィルター部分全体を覆うよ
うにして,たばこを口にくわえて吸っていたことをうかがわせる証拠はなく,また,コ
ーヒーを飲みながらたばこを吸うことがあったとしても,フィルター部分の表面全体に
コーヒーが付くとはいえない。本件吸い殻は,そのほぼ全体が茶色っぽく変色している
から,変色の原因を,本件吸い殻に付着した唾液等に他のタール成分が付いたとみるこ
とは困難である。
bまた,コーヒー等の有色成分の付着による変色の可能性についてみると,7通り
の変色実験からは,たばこの吸い殻をコーヒーに浸すという状況があれば,短期間でも
本件吸い殻と同程度に変色するといえそうである。しかし,コーヒーを飲みながらたば
こを吸っただけで,フィルター部分がコーヒーに浸されたと同じような状況になるかに
ついては明らかになっておらず,本件吸い殻がコーヒーに浸される状況があったかどう
かについては何ら立証がされていない。また,そもそも,本件吸い殻からコーヒー等の
有色成分が検出されるかどうかについては何ら立証がなされていないのである。
cさらに,他のたばこの吸い殻や本件灰皿壁面等に接触したことによる変色の可能
性についてみると,確かに,7通りの変色実験からは,刻みの部分が水で濡れたたばこ
に接触することで,短期間でも本件吸い殻と同程度に変色するといえそうである。しか
し,変色は接触した部分を中心として水分が浸潤した範囲にとどまる。関係証拠によれ
ば,本件灰皿内には他のゴミもあり,その壁面や底面はさびなどで平らではないことが
明らかであり,仮に本件吸い殻が,他のたばこの吸い殻や灰皿の壁面等に接触していた
としても,接触部分は一部分にとどまるとみる方が自然であるから,本件吸い殻のほぼ
全体が変色していることを合理的に説明できるか疑問がある。
ウ小括
以上検討してきたとおり,本件吸い殻の変色は,採取された当初から,他のたばこの
吸い殻と比較すると一見して明らかな程度に濃いものであると認められる。
また,本件吸い殻についての検察官の主張は,結局のところ,本件吸い殻の変色の程
度や状態を考慮せずに一般的にたばこの吸い殻が短期間のうちに変色することがあると
いうことを示すにすぎないものであるか,具体的な根拠に基づかずに変色の可能性を示
すにすぎないものであって,本件吸い殻の変色の程度や状態を踏まえた上で,その原因
を説明するものではない。
むしろ,当審における証拠調べの結果(当裁判所が領置した実験に供されたたばこの
吸い殻のその後の変色状況を含む。)は,本件吸い殻の捨てられた時期が,本件事件当
日よりもかなり以前の事であった可能性があることを裏付けているといえる。
(2)本件吸い殻が携帯灰皿を経由して本件灰皿に投棄された可能性について
ア被告人は,Bと最後に会った2月19日から20日にかけて,青と白のツートー
ンの携帯灰皿(以下「ツートーン携帯灰皿」という。)をBと一緒に使った可能性や,
当時使用していた白色ビニール製携帯灰皿をBに渡した可能性があると具体的に指摘し
て,本件吸い殻がBにより本件灰皿に投棄された可能性があることを主張する。
(ア)関係証拠によれば,本件事件後,306号室ダイニングキッチンの台所部分
の電子レンジや炊飯器が置かれていた3段ラック最上段から,使い捨てガスライター1
4個とともに,ツートーン携帯灰皿が発見されている。このツートーン携帯灰皿は,平
成11年の6月か7月頃,被告人夫婦,A及びBが岡山に行った際,DがBに渡し,B
がそのまま持ち帰ったものである。また,306号室6畳間からは,Bの吸っていたた
ばこの銘柄であるマルボロライトの吸い殻が入ったCABIN(キャビン)のロゴが表
示された黒色金属製携帯灰皿も発見されている。さらに,Aによれば,Bはスノーボー
ドをする際に携帯灰皿を使用していたとのことである。
こうした状況に照らせば,Bが携帯灰皿を使う習慣があったとまではいえないにして
も,携帯灰皿を使用していたことは明らかである。特に,ツートーン携帯灰皿は,Bに
渡された経緯や306号室から発見された状況に鑑みると,Bにより普段から使用され
ていたとみてもおかしくはない。Aは,Bがツートーン携帯灰皿を使用しているのを見
たことがないと述べるが,上記状況とは整合的でない。
(イ)また,本件灰皿は,本件事件当日以前から長期間清掃されたことがなく,そ
の内容物には相当古いものも含まれていることがうかがわれる。加えて,本件灰皿内か
らは,Bが吸っていたたばこの銘柄と同一のものが4個採取されている。前記(第2の
2(4))のとおり,証拠の紛失があったことから,採取された上記たばこの吸い殻の
鑑定を実施することは不可能となり,これらからBのDNA型に一致するものが検出さ
れるかどうかは分からなくなってしまった。しかし,本件灰皿は,本件マンションの道
路側にある階段の1階から2階に至る踊り場に置かれており,この場所は,自転車で出
掛けるのでなければ,Bの外出帰宅経路の途中に位置するとみることができる。上記た
ばこの吸い殻が,Bにより投棄された可能性があることは否定できない。
なお,Kは,平成14年当時マルボロライトを吸っていて,本件マンションの友人宅
を訪れた際などに,たばこの吸い殻を本件灰皿に投棄したことがあると述べる。しかし,
Kは友人宅がどの階にあったのかを覚えていない。また,本件灰皿の形状を実際とは異
なる形状のものとして記憶している。8年以上前の事柄について正確に記憶しているか
疑わしい。最初に記憶を喚起された際に,警察官から,「本件灰皿内にたばこの吸い殻
を捨てたことがあるか」と質問を受けたというのであるから,この質問により,他のス
タンド灰皿に投棄した際の記憶と混同が生じた可能性もある。Kの供述態度は真摯であ
るが,その供述内容を簡単に信用することはできない。また,本件灰皿内から採取され
たマルボロライトの吸い殻は4個ある。仮にKがマルボロライトの吸い殻を本件灰皿に
投棄したことがあったと認定できたとしても,前記のとおり,証拠の紛失によりマルボ
ロライトの吸い殻4個のDNA鑑定を実施できない以上,これら4個をKが投棄したも
のと特定することはできず,結局,上記可能性は否定されないこととなる。
(ウ)さらに,関係証拠によれば,被告人は,常時携帯灰皿を持ち歩き,その灰皿
をD及びBが共同して使用したことがあったこと,Bが時としてその共同使用していた
携帯灰皿を持ち帰ったことがあったこと,被告人は,2月19日,被告人との連絡を絶
ったAらを探すために立ち寄った不動産屋(ライフホーム)で偶然B及びCと遭遇し,
被告人の運転する車で被告人方に立ち寄り,Aを警察署に出頭させるなどした後,20
日の明け方に至るまで,ホテルの一室等でBとともにAの今後の生活設計等について話
合いをした事実が認められる。
(エ)以上のように,Bが携帯灰皿を使用していた状況があること,本件灰皿内に
本件吸い殻とともにBが吸った可能性のあるたばこの吸い殻があったこと,2月19日
から20日にかけて被告人とBはある程度の時間を一緒に過ごしていることなどの事実
は,被告人の反論と整合的な事実といえるものである。
イ(ア)以上に対し,検察官は,携帯灰皿内のたばこの吸い殻は,自宅で捨てれば
よく,あえて外の灰皿に投棄しなければならない理由はないと主張する。
しかし,外出中に携帯灰皿内がたばこの吸い殻等で一杯になったことに気付いたとい
う状況でもあれば,中身を家まで持ち帰るのではなく,途中で目に付いた灰皿に投棄す
るということは一般人の行動として通常ありうることであって,特異な行動とはいえな
いであろう。Bには吸い殻を台所の流し内に捨てる習慣があったとしても,このような
状況においてもなお,Bは携帯灰皿内のたばこの吸い殻を目に付いた灰皿に投棄するこ
とはないと断言できる証拠関係にはない。
(イ)また,検察官は,ツートーン携帯灰皿を介した投棄の可能性について,①B
は2月19日から20日頃ホテル暮らしをしており,およそツートーン色携帯灰皿を持
ち出していたとは考えられない,②仮にBがツートーン色携帯灰皿を持ち出すことがあ
ったとしても,2月20日に携帯灰皿に捨てられたたばこの吸い殻を,3月2日(Bが
本件マンションへ引っ越しした日)までの間捨てずにそのままにしておくことは考えが
たいと主張する。
しかし,①の点についてみると,前記のとおり,ツートーン携帯灰皿は,平成11年
頃DからBに渡され,本件事件後,306号室ダイニングキッチンの台所部分の3段ラ
ックの最上段から使い捨てライター14個とともに発見されたものである。Bがツート
ーン携帯灰皿を持ち出し,ホテル暮らしをしているときも身近な所に置き,使用してい
たとみても不自然ではない。ホテル暮らしをしていても,外出の際に携帯灰皿を持ち出
し,使用することはありうる。また,②の点についてみると,携帯灰皿を持ち出したと
しても必ず使うとは限らないし,Aによれば,Bがたばこを吸うペースは3日に1箱と
いうもので,頻繁なものではない。そして,6畳間から発見されたCABINのロゴ入
り携帯灰皿には,Bの吸っていたマルボロライトの吸い殻と共にDが吸っていたたばこ
の銘柄であるショートホープライトの吸い殻が入っていた。DがBに会ったのは2月2
0日が最後であり,以後2人は会っていない。このショートホープライトの吸い殻が,
Dの吸ったものと断定できないが,その可能性も否定しきれないことからすると,少な
くとも,検察官が主張するようにはいえないであろう。10日程度の間であれば同じた
ばこの吸い殻が携帯灰皿内に残っていたとみても,不自然・不合理とまではいえない。
(ウ)第3に,検察官は,被告人がBに対し白色ビニール製携帯灰皿を渡した可能
性について,①そもそも2月19日は被告人が携帯灰皿を持ち出す状況ではなかった,
また,②白色ビニール製携帯灰皿はBに渡されてはおらず被告人方にあったと主張する。
しかし,当時の被告人方には複数の携帯灰皿が置いてあり,Dは,被告人に対し,ク
リスマスのプレゼントとして携帯灰皿を贈ったことがある。また,Dによれば,被告人
はたばこの吸い殻をポイ捨てするようなことはしなかったようである。これらのことか
らすると,被告人が携帯灰皿をよく使用していたとの主張を排斥することは困難である。
検察官が指摘するところを踏まえても,被告人が2月19日に携帯灰皿を持ち出すこと
はなかったとか,それを使用しなかったと断定することはできない。
また,白色ビニール製携帯灰皿についてのA及びDの証言はいずれも曖昧なものであ
る。それほど特徴的とはいえない携帯灰皿が何時どこにあったかということは,印象的
な事柄とはいえない。時の経過に伴う記憶の減退・変容の可能性もある。A及びDの供
述に基づいて確実な事をいうことはできない。さらに,携帯灰皿が高価なものではなく,
失いやすいものであることからすると,白色ビニール製携帯灰皿が,本件事件直後に3
06号室から発見されなかったからといって,被告人がBに渡した可能性が否定される
ものではない。
(エ)第4に,検察官は,本件吸い殻がほぼフィルター部分しか残っていないこと
やチャコールフィルター先端部が焦げ付いた状態になっていること,また,フィルター
表面に灰が付着しておらず,折れ曲がってもいないと指摘して,本件吸い殻の形状は携
帯灰皿に入れられていたものではないと主張する。
しかし,たばこの吸い差しをそのままの状態で置いておくと,本件吸い殻のような状
態になることは,当審で取り調べた関係証拠から明らかである。外出先でたばこを吸っ
ている途中に話に夢中になったり,携帯電話でメールを打つなどして,たばこの吸い差
しをそのままの状態で置くということは通常あり得ることである。検察官は,当審甲2
9号証によれば喫煙中のたばこの表面は高温になり,フィルター部が溶融して自然鎮火
するまで口にくわえたり,手に持ったりすることは不自然かつ困難と主張するが,当審
甲29号証によれば,最高温度75度を計測したのは,実験に供したたばこの刻みがほ
ぼ燃え尽きる第4箇所において,その燃焼部位からわずか約6ミリメートルの位置であ
って,たばこの刻みの燃焼部位との関係からみて,常識的に考えてそのような位置でた
ばこを持ったり,口にくわえたりすることなどおよそあり得ないといえるものである。
その他の測定値は31度ないし58度にすぎない。そもそも検察官の主張によると,通
常の吸い方では,たばこの刻みが無くなるまで吸うことができなくなってしまうことに
なり,その主張自体において不合理というほかない。本件吸い殻のフィルター表面に灰
が付着していないという点も,そもそも携帯灰皿に入れられたたばこの吸い殻に必ず灰
が付着するとはいえないし,仮に灰が付着したとしても,投棄されてから採取されるま
での間に,付着した灰が落ちる可能性もある。携帯灰皿を経由したものでないことを示
すものとは到底いえず,その根拠にはならない。
ウ結局,本件吸い殻がBにより本件灰皿に投棄された可能性があるという被告人の
主張は,検察官の主張立証を踏まえても排斥できないというべきである。
(3)1(被告人が本件吸い殻を本件灰皿に投棄したことについて)のまとめ
以上検討してきたとおり,本件吸い殻の変色は,他のたばこの吸い殻と比較すると一
見して明らかな程度に濃いものであると認められる。その変色の原因は明確にならなか
ったが,当審における証拠調べの結果は,本件吸い殻が捨てられた時期が,本件事件当
日よりもかなり以前の事であった可能性があることを裏付け,これを示唆するものとい
える。
また,被告人は,本件吸い殻について,Bにより投棄された可能性があると反論して
いたところ,その反論と整合的な事実が認められる一方,検察官の主張は,それ自体本
件吸い殻がBにより本件灰皿に投棄された可能性は低いというにとどまり,その可能性
を完全に否定するものではない。本件吸い殻の変色は,本件吸い殻が捨てられた時期が
本件事件当日よりもかなり以前の事であった可能性を裏付けこれを示唆するものといえ
ることを併せると,本件吸い殻がBにより本件灰皿に投棄された可能性は,むしろ高ま
ったともいえる。そして,上告審判決が「これらの吸い殻に付着する唾液等からBのD
NA型に一致するものが検出されれば,Bが携帯灰皿の中身を本件灰皿内に捨てたこと
があった可能性が極めて高くなる。」と指摘して,そのDNA鑑定を実施すべきことを
示唆したマルボロライト(金色文字)の吸い殻4個は,こともあろうに捜査機関の不手
際によって本件灰皿内の他の吸い殻と共に,既に差戻し前第1審当時から紛失してしま
っており,鑑定を実施しようにもそのすべがないことが当審に至って初めて明らかにな
ったのである。
結局,検察官の主張を踏まえ,本件の全証拠関係をつぶさに検討しても,本件吸い殻
がBにより本件灰皿に投棄された可能性を完全に否定することは困難であって,本件吸
い殻が本件灰皿内にあったという事実から,被告人が本件吸い殻を本件灰皿に投棄した
という事実を推認することは著しく困難というほかない。
(4)なお,検察官は,Lの供述により,Bが日頃携帯灰皿を使用する習慣がなか
ったことを立証しようとしたが,検察官及び弁護人の証拠調べ請求に際しての各意見を
踏まえると,Lは,Bと常に一緒に行動している訳ではなく,そもそもBが喫煙してい
るところを1度しか見ていないようである。AやDに加えて証拠調べを行う必要性に乏
しい。
また,証人Mにより携帯灰皿の構造等を立証しようとするが,検察官の意見書をみて
も,携帯灰皿の構造等と携帯灰皿を介して投棄された可能性との関連性は明らかでない。
さらに,検察官は,甲30号証により火のついたたばこをスタンド灰皿内に投棄すると,
フィルター部分まで燃え尽きることを立証しようとするが,当然あり得ることであるか
ら,取り立てて証拠調べをする必要性はない。また,期日間整理手続における検察官及
び弁護人双方の主張を前提にして検討すると,本件灰皿に投棄された後に巻紙の経年劣
化以外の理由で本件吸い殻に変色が生じた可能性を否定できない状況にあり,この経年
劣化以外の理由による変色の可能性如何がこの問題の中心的争点となることが明らかで
あったので,検察官の立証趣旨によると,本件吸い殻の変色の原因が巻紙の経年劣化に
よるものでないことを立証するための甲41,42は取調べる必要がないと判断した。
それぞれの証拠調べ請求を却下したのは,以上のような考慮に基づいてのものである。
2その他の間接事実について
関係証拠によれば,①本件事件当日午後3時40分頃から午後8時頃までの間,被告
人が当時使用していた自動車と同種・同色の自動車が,本件マンションから北方約10
0mの地点に駐車されていたこと,②被告人自身,捜査段階において,本件事件当日に
自己の運転する自動車を同地点に駐車したことを認めていたこと,③本件事件当日午後
3時過ぎないし午後3時半頃までの間に,本件マンションから北北東約80mに位置す
るバッティングセンターにおいて,被告人によく似た人物が目撃されたこと,④被告人
は,本件事件当日はAないしA宅を探してa区内ないしその周辺に自動車で赴いたこと
を自認していることが認められる。
しかし,これらを総合的に評価しても,上告審判決が説示するとおり,被告人が本件
事件当日に本件マンションに赴いたとしてもおかしくない状況があるといえるにとどま
り,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたことを推認することはできない。
そして,前記のとおり,当審において実施した証拠調べの結果を併せてみても,結局,
本件吸い殻がBにより本件灰皿に投棄された可能性を否定できず,かえって,その可能
性が高いとさえいえることからすると,本件吸い殻が本件灰皿から採取された事実を併
せてみても,被告人が,本件事件当日,本件マンションに赴いたという事実を推認する
ことはできないというべきである。
3乙14号証について
(1)なお,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたことについては,こ
れを認める内容が記載された被告人の8月17日付警察官調書(差戻し前第1審乙14
号証)が作成されている。乙14号証の任意性につき,差戻し前第1審判決はこれを肯
定し,控訴審判決はこれを否定した。上告審判決には,乙14号証の任意性及び信用性
につき再検討が必要だという趣旨の意見及び反対意見もあり,検察官は,当審において,
乙14号証の任意性に関して新たな証拠の取調べを請求した。
しかし,次のとおり,乙14号証に独立の証拠価値を認めることは困難である。
(2)ア被告人は,本件事件の2日後から,本件事件当日の行動やA及びBらとの
関係について警察官から事情聴取を受け,本件事件当日にAないしA宅を探してa区内
ないしその周辺に自動車で赴き,本件マンションから北方約100mの地点に自己の運
転する自動車を駐車したことは認めていたものの,乙14号証が作成されるまでは,本
件マンションに赴いたことを否定していた(当然のことながら,本件事件の犯人である
ことも否定していた。)。
被告人に対する2回目のポリグラフ検査が行われた7月6日以降,被告人に対する事
情聴取は行われていなかったところ,7月23日,本件吸い殻に付着していた唾液中の
細胞のDNA型が,被告人の血液のそれと一致したという鑑定結果が出たこともあって,
捜査官は,8月17日,被告人方の捜索差押えを実施するとともに,被告人を被疑者と
してa警察署に任意同行して取調べを行うことになり,乙14号証はその取調べの中で
作成された。
イそして,8月17日の取調べは,被告人を取調べた警察官N自身が作成した捜査
報告書(差戻し前第1審甲326号証)及び同人の証言によっても,3人の警察官(取
調べ担当N警察官,同O警察官,筆記担当P警察官)により,午前8時15分頃から午
後10時40分頃までの14時間以上にわたって実施されたものであり,その間トイレ
休憩の外には30分ずつの休憩を2回取ったにとどまり,午後8時40分頃まで,被告
人が拒んだからにせよ,被告人は飲まず食わずの状態で取調べを受けていたというので
あり,その取調べの冒頭,犯行を否認する被告人に対し,警察官は,「君がやったと,
俺は確信している。今日は・・・どうして二人を殺したのか,つまり動機を聞く日
や。」と告げるなどして取調べを始め,その後も犯行を否認し本件マンションに立ち入
ったことも頑なに否定する被告人に対し,被告人が犯人であると決めつけ,これを前提
に繰り返し誘導尋問を行い,B及びCの死亡後の開眼写真を示しながら追及し,その過
程で「マンションの中から被告人のDNAに合うものが出ている。」と告げ,「動かせ
ない事実や。中に入ったんや。」と被告人が本件マンションに立ち入ったと決めつけた
尋問を繰り返すなど,強制的要素が極めて強いものであったことが認められる。
同日午後8時40分頃以降,被告人の取調べに関与し,取調官として乙14号証を作
成した警察官Qは,休憩後の午後9時10分頃(前記N警察官作成の報告書)に再開さ
れた取調べの際,被告人が「入ったかもしれない」と供述し始めたことから乙14号証
を作成したと証言するが,それまで12時間にもわたる追及にもかかわらず,頑強に本
件マンションへの立ち入りを否定していた理由や,その供述を変遷させて立入りを認め
るに至った理由,更に306号室へ立ち入ったかどうかについて等通常であれば当然な
されるはずの質問すらしていないというのであって,その作成経緯に関する証言内容は
不自然というほかない。
ウそして,乙14号証の内容自体,「本年4月14日は,Aの事が色々心配で午前
中もe方向等をさがし,午後2時ころ,自宅マンションを出て,Aをさがしに行ってい
ます。そして,時間ははっきり覚えていませんが,午後5時前ころに,A夫婦の姿がな
いか,さがすために本件マンションに入っていると思います。このマンションは4階建
てで道路からマンション敷地内に入り,すぐの所にある入口を入って階段を上っていま
す」という供述を含む,わずか3頁足らずの極めて簡単なものである。被告人が,本件
事件当日に本件マンションに立ち入ったことを認める部分以外は,それまでの捜査で明
らかになっていることばかりであり,本件マンションへの立入りを認める部分について
も,上記のとおりであって,秘密の暴露に当たるような,その供述の信用性を担保する
ものは一切ない。
(3)以上のような,8月17日の取調べまでの経緯,その日の取調状況,乙14
号証の作成経緯・内容などに照らせば,乙14号証の作成経緯に関する被告人供述の信
用性如何,従ってその任意性の如何にかかわらず,乙14号証の内容のうち,本件事件
当日に本件マンションに立ち入ったことを認める供述部分の信用性は極めて乏しく,こ
れが信用できるかどうかは,結局は本件吸い殻が本件灰皿から採取されたという事実か
ら被告人が本件マンションに立ち入ったと推認できるかどうかにかかっているとさえい
える。そのような推認ができないのであれば,前記のような経緯で本件吸い殻から被告
人のDNAが検出されたことを前提に被告人を追及した結果得られた本件マンションへ
の立入りを認める供述の信用性に疑問が生じるのは理の当然であって,乙14号証に独
立の証拠価値を認め,これによって被告人が本件マンションに立ち入ったとの事実を認
定することは到底できないというべきである。
(4)当裁判所は,以上のような考慮から,検察官の乙14号証の任意性立証に関
する新たな証拠は,証拠調べの必要がないと判断していずれも却下した。
4第5(被告人が,本件事件当日,本件マンションへ赴いたとの事実について)の
まとめ
被告人のDNAが付着した本件吸い殻が本件灰皿内にあったという事実は,本件吸い
殻が第三者によって本件灰皿に投棄された可能性が否定される限り,被告人が本件マン
ションに立ち入った事実を証明するものである。しかし,本件吸い殻が本件事件当日よ
りかなり以前に投棄された可能性があることなど,本件吸い殻がBにより本件灰皿に投
棄された可能性が高いといえる状況があり,本件吸い殻が本件灰皿内にあったという事
実から,被告人が本件マンションに赴いたと推認することは困難であるといわざるを得
ない。そして,本件マンションに赴いたことに関するその他の間接事実は,いくら総合
的に評価してみても,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたとしてもおかし
くない状況があるといえるにとどまるものである。結局,これらをいくら総合してみて
も,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたとの事実は推認(認定)できない。
また,いずれの事実も,被告人が犯人でないとしても説明が可能な事実ばかりであり,
これらの事実を総合してみても,被告人が犯人でないとすれば合理的に説明できない
(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するということは困
難である。
第6以上までで検討してきたとおり,被告人が本件事件当日に306号室に立ち入
ったとの事実は勿論,本件マンションに赴いたとの事実についても認定することはでき
ない。
そして,検察官が主張するその他の間接事実は,いずれも差戻し前第1審で立証が尽
くされてきた事実である上,被告人の犯人性を推認させるものとして強力なものとはい
えず,306号室への立入り,あるいは少なくとも本件マンションに赴いたという事実
が認められて初めて犯人性を推認させる事実として意味を持つものばかりである。
結局,それらの間接事実をいくら総合してみたところで,被告人が犯人であると推認
することはできないというべきであるが,以下,検察官の所論に鑑み,それぞれの間接
事実について検討を加える。
1被告人が本件犯行の犯人像に合致するという点について
(1)関係証拠によれば,本件マンションは部外者が簡単に各室の玄関までたどり
つくことのできる構造であり,犯人が宅配便業者や居住者が警戒を解き易い身分の者
(電力・ガス会社の社員,水道局等の職員)を装えば,Bが強い警戒心をもって扉の開
閉に気を配っていたとしても,玄関ドアの施錠を外すことは十分あり得る。Bが玄関ド
アの施錠を外して犯人を306号室に招き入れたという事実が仮に認められるとしても,
その事実だけでは,本件の犯人がBと近しい関係にある者であると断定することはでき
ない。
(2)また,関係証拠によれば,306号室の鍵置き場に残されていた鍵は,車の
鍵や物置の鍵といえる形状のものばかりである。他方,306号室の鍵は居宅の鍵とい
える形状のものであることが明らかであり,Aによれば,Bが使っていた306号室の
鍵には,他の家の鍵と共にキーホルダーが付けられていたというのである。こうした状
況に照らせば,被害者と近しい関係にない者であっても,鍵の形状やキーホルダーを頼
りに306号室のかぎを識別することは容易である。犯人が306号室の鍵をその他の
鍵と区別して持ち出すことができたからといって,被害者と近しい関係にない者が犯人
である可能性が否定されることにはならない。
(3)さらに,本件殺害行為が日曜日の午後4時ないし午後6時頃という夕食前の
通常家族がそろっている時間帯に行われたものであり,しかも犯人は,室内の状況から
Bに夫がいていずれ帰宅することは容易に想像できるのに,306号室からの出火が確
認された午後9時45分頃近くまで長時間306号室内にとどまっていることといった
事情は,被告人が自宅カレンダーにしていた書き込みにより,被告人がAの定休日は水
曜日であり,仕事を終えて帰宅する時刻は午後10時か11時頃だと知っていたと認め
られることからすると,被告人が犯人であるとすれば合理的に説明できる事情であると
もいえるが,かといって,第三者がBを付け狙い,被害者らの生活状況を把握した上で
犯行に及んだ可能性も否定できないことからすると,犯人は被害者と近しい関係にある
者と断定できるほどの事情ではない。被告人が犯人だとすると,Aと鉢合わせになる可
能性が高まる時刻近くまで306号室内にとどまるのかといった疑問を提起することも
できる。
(4)関係証拠によれば,本件事件直後,Bはパンティだけを着けた状態であった
ものの,性的犯罪の被害を受けたことをうかがわせる形跡はないこと,犬のリード付き
胴輪の端が6畳間のたんすにはさまれていたこと,6畳間の整理ダンスの引き出しなど
が開けられているものの,クレジットカード,キャッシュカード,貴金属類は306号
室に残っていたことなどが認められ,これらは,それぞれ,性的犯罪,自殺,財物目当
ての物色を装ったものとみることができる状況である。仮にこれらが偽装工作であると
して,そのような工作がなされた理由としては,確かに検察官が主張するように,捜査
機関をして犯人が被害者と無関係な第三者であると誤認させようとしたからだとみる余
地はある。しかし,電子レンジの扉や冷蔵庫の扉など,およそ金品が入っているはずの
ない場所の扉も開いていたことや,上記のように,相互に矛盾する内容の偽装工作がな
されていることからすると,犯人は相当狼狽していたことがうかがえる。そうすると,
例えば,強姦目的で306号室に侵入した犯人が,Bから抵抗を受けて予想外に殺害す
ることになったことから,捜査機関に犯人像を絞らせないため,物盗りを装う偽装工作
をしたものの,狼狽していたため,このように矛盾する不完全なものになってしまった,
あるいはこの逆の想定も可能であって,そのように狼狽した犯人が,最終的には本件マ
ンションに放火して徹底的な罪証隠滅を図ったとみる余地がないとはいえない。いずれ
にしても,上記のような偽装工作がなされているからといって,検察官が主張するよう
に,その偽装工作の存在自体が,犯人が被害者と無関係の第三者ではないことを強く推
認させるなどとはいえない。
(5)そして,幼いCまで殺害していることも,仮に被告人が犯人であれば,Cか
ら犯人であると特定されることを恐れて殺害したとみても不自然ではないが,通り魔が,
抵抗するBのただならぬ気配を察して泣き叫ぶCを黙らせるために殺害したという見方
も十分可能であり,通り魔による殺人の可能性を排除するものではない。少なくとも,
幼いCまで殺害しているという事実から直ちに,犯人が被害者らと近しい関係にある者
だと推認することには論理の飛躍がある。
(6)以上のように,本件が被害者らと近しい関係にある者による犯行であるとす
る検察官主張の根拠となる事実関係は,被害者らと近しい関係にある者が犯人であって
も矛盾しないか,犯人であるとすると合理的に説明できるという程度の事情にとどまる
というべきであり,他方で,通り魔による犯行である可能性を排除するものではなく,
被告人が犯人でなくても,やはり合理的に説明することができる事実関係ばかりである。
(7)結局,第三者による犯行の可能性は否定できず,被害者らと近しい関係にあ
る者による犯行であるとは断定できない。そうすると,仮に被害者らと近しい関係にあ
る者の中で本件事件当時のアリバイがなく犯行を行ない得たのは被告人だけであるとい
えたとしても,この事実だけでは被告人が犯人である可能性があるといえるにとどまり,
被告人が犯人であることを推認させる事実とまではいえないし,被告人が犯人でないと
すれば合理的に説明することが極めて困難な事実ともいえない。
(8)なお,当裁判所は,第三者による犯行の可能性がないことに関する検察官の
証拠調べ請求を,いずれも却下した。理由は以下のとおりである。
検察官は,本件事件発生後の捜査状況や,被告人を犯人と特定した経緯等をRの供述
により立証しようとした。しかし,検察官の証拠意見によると,Rは本件事件の捜査を
指揮した警察官であり,R自身が捜査を行ったわけではない。したがって,Rの供述に
より個々の捜査やその経緯が適切であったかどうかが明らかになるわけではない。R供
述により明らかになるのは,通り魔による犯行の可能性を考慮して捜査を行ったが,直
接犯人に結び付く情報は得られなかったということにとどまるものであり,通り魔によ
る犯行の可能性を否定するものではない。そのような捜査経緯については,差戻し前第
1審における証人Sの証言により立証が尽くされているというべきである。
また,被告人がAの勤務日や帰宅時間を認識していたことは,既述のとおり,関係証
拠により推認できるのであり,被告人の認識がどのようなものであったかをAやDの供
述により立証する必要性は低い。
さらに,Jに本件事件当日のアリバイがあるかどうかは重大な争点ではなく,証人J
の取調べに加えてT(甲9号証)を取り調べる必要性は乏しい。
以上のような考慮から,証人R(及び当審甲1号証),当審甲2号証(証人Aの甲2
号証に関する尋問事項),当審甲112号証(当審甲2号証の添付資料),当審甲7号
証(証人Dの甲7号証に関する尋問事項)及び証人T(当審甲9号証)の各証拠調べ請
求を却下した。
2次に,被告人の当日の行動についての説明についてみると,確かに,被告人は,
当日の行動について,客観的裏付けを欠き,曖昧で漠然ともいえる供述をし,供述内容
にも変遷がみられる。
しかし,被告人によれば,本件事件当日の午後は,Aらと再会するため,長時間にわ
たり考え事をしながらよく知らない地域を車で探し回っていたというのであるし,その
途中で立ち寄ったという建物も,当時A宅として抱いていた抽象的なイメージに合致す
るという程度の印象しかなく,いずれも本件事件当日に初めて訪れた場所だというので
ある。この供述を前提にすれば,どのような場所を訪れたのか確定できず,供述内容が
曖昧で漠然なものになったとしても不自然ではないといえる。確かに,特にあてもなく
長時間にわたりよく知らない地域を探し回るというのは,容易に得心しにくい行動とい
えるが,かといって,そのような行動に出ることはおよそありえないと断言できるもの
でもない。
検察官が主張する捜査段階から公判にかけての供述内容の変遷は,上記被告人の弁解
を前提にする限り,そもそも変遷とは評価できないものや,供述の重要部分とはいえな
い部分についての変遷との説明が可能であり,また,犯人として追及されている者の立
場からすると,犯人とされないように自己に有利と思われる内容を,意識的あるいは無
意識的に,虚実を織り交ぜるなどして供述することはありうることであるから,被告人
の供述内容に虚偽があるからといって,そのことをとらえて犯人性を推認させるものと
即断することはできない。すなわち,仮に本件犯行時間帯前後の行動に関する被告人の
供述に虚偽があったとしても,虚偽を述べる理由は様々なことが想定できるのであり,
例えば,本件事件当日における犯行時刻頃の行動を明確にすることにより,自己に不利
益な事実を自認することにつながり,犯人とされてしまうことをおそれて虚偽を述べる
ということも考えられる。本件は極刑も想定される重大事犯である上,被告人は一人で
A宅を探していたというのであり,当日のアリバイを裏付けるものはなく,被告人とA
やBらとの間には,検察官が主張するような本件犯行の動機となりうるような背景事情
もうかがわれるのである。犯人でなかったとしても犯人とされることにつながるような
情報を隠すことは十分考えられる。もちろん,検察官が主張するように,被告人が虚偽
を述べる理由は,自己にとって都合の悪い行動を隠すためだとみることは十分可能であ
るが,かといって,被告人にとって都合の悪い行動を,306号室内への立入りや本件
マンションに赴いたことだと断定することはできない。
要するに,本件事件当日の行動に関する被告人の供述は,不自然さや不合理さを指摘
できるにとどまり,虚偽であると断定できるものではないし,仮に犯行時間帯前後にお
ける行動についての供述に虚偽があったとしても,虚偽を述べたこと自体をとらえて,
被告人が本件事件当日に306号室に立ち入ったことや本件マンションに赴いたことを
直接推認することはできない。結局,被告人が,本件事件当日の行動について,曖昧で
不自然かつ不合理な供述をしているという事実は,他の証拠関係から本件マンションに
赴いたことや306号室に立ち入ったことを認定できない以上,被告人の犯人性を推認
させるものとしては間接的なものにとどまるといわざるを得ない。
3被告人が犯行時刻頃に携帯電話の電源を切っていたという点については,そもそ
も被告人が本件事件当日に携帯電話の電源を切っていたことが,なぜ被告人が犯人であ
ることと整合する事実なのか,納得できる説明はされていない。
この点,検察官は,被告人がA方を訪問すること自体を秘密にしておきたかったとす
れば,携帯電話の電源を切って連絡を遮断する行動に出るのは自然であると主張する。
しかし,被告人がA方を訪問したことは,後日Bを通じてDに知らされる可能性が考え
られる。被告人が携帯電話の電源を切っていても,それだけではA方への訪問を秘密に
することはできない。A方の訪問を秘密にするためという理由は説得的であるとは思え
ない。
また,検察官は,BとCの死亡推定時刻が本件事件当日の午後4時から午後6時頃の
間と推定できること,被告人は遅くともDが発信したメールが受信されなかった午後5
時15分頃から,このメールが受信された午後11時過ぎ頃までの間,自らD宛てにメ
ールを発信し(午後5時52分),電話を架けた(午後10時過ぎ)時を除き,携帯電
話の電源を切っていたと認められると指摘して,殺害後の偽装工作をするに当たって外
部との連絡を遮断するために携帯電話の電源を切ったと考えられると主張する。しかし,
偽装工作をするに当たって,なぜ外部との連絡を遮断する必要があるのかその理由は明
確でない。着信音が出ないようにする必要があることを意味するのであれば,マナーモ
ードにしておけばよいだけであるし,偽装工作に専念するため,着信すること自体の煩
わしさを避けたかったというのであれば,前記のとおり,被告人が午後5時52分頃に
自己の携帯電話からDの携帯電話に「ごめん迎えにいけません」との表題で,「また連
絡しますね。」との内容のメールを送信していることをどのように説明するのかも明ら
かではない。
結局,検察官の主張は,被告人が犯人であることを前提とした上での推測に基づくも
のでしかなく,被告人が犯行時刻頃に携帯電話の電源を切っていた事実は,被告人が犯
人であることと整合する事実とまではいえず,犯人性を積極的に推認させるものと位置
付けることはできない。
4犯行動機の点は,仮に,検察官が主張するとおり,被告人に,Bとの間のやり取
りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Bに対して怒りを爆発
させてもおかしくない状況があったとしても,その状況自体は何ら被告人の犯人性を推
認させるものではなく,被告人が本件事件当日にBと会ってやり取りをしたことなどが
推認できて初めて犯人性を推認させる間接事実の一つとなるものにすぎないものといえ
る。本件マンションに赴いたという事実すら認定できない本件証拠関係のもとでは,上
記の状況があるからといって,検察官が主張するように,これを被告人が犯人であるこ
とに整合する事実とまではいえない。
5(1)検察官が不自然であると指摘する被告人の各行動についてみる。本件事件
当日の夜,被告人方マンションの駐車場に着いてから約15分間帰宅しなかった点につ
いては,マンション駐車場に着いてから帰宅するまでに多少の時間が掛かることは通常
でもありうることであるから,約15分間帰宅しなかったことをとらえて特に不自然な
どということはできないし,その間,被告人が何をしていたかについては全く明らかに
なっていないから,犯人であれば整合する事実ということはできない。また,事件の連
絡を受けてから約7時間以上にわたってDに連絡しなかったという点については,被告
人は,Dにどのように告げるか迷っていたと供述しており,この供述は,被告人とDら
との関係に照らせば特に不自然といえるものではない。さらに,被告人自身がa警察署
に問い合わせなかった点についても,I方でAの事情聴取が終了するのを待ち,a警察
署へはIが連絡を取り,その場で待つよう指示を受けていたという事情があることから
すると,不自然であるとまではいえない。遺体を引き取るよう警察署から連絡が入った
際,被告人はBの実家と電話中であったのであり,遺体の引き取りに同行することを被
告人が拒んだというような事情は認められない。検察官が不自然だと指摘する被告人の
各行動は,経緯や背景事情を踏まえると,不自然とまで評価できるものではなく,被告
人を犯人とすると整合する事情とまではいえない。
(2)犯行の痕跡とされる点についてみる。被告人の左上腕部のあざやデニムシャ
ツの絞りじわについてのDの証言は,差戻し前第1審判決が指摘するとおり,その供述
経緯に照らすと相当に不自然である上,その内容自体,合理的に説明することが困難で
不自然といえる証言もしているのであり,上記各証言の信用性には疑いを差し挟む余地
が十分にある。仮に上記証言が信用できるものであったとしても,関係証拠上,犯人の
腕にあざが残り,あるいは,犯人の肘から下の部分が濡れるような犯行状況だったと断
定することはできない上,Dがあざや絞りじわを見たのが本件事件の数日後であること
からすると,上記あざやデニムシャツの絞りじわが犯行の痕跡に直ちに結び付くものと
いえるかは疑問がある。指の切り傷についても,犯人が指にけがを負う状況だったのか
については何ともいうことができないし,職場でけがをしたという被告人の供述を排斥
できるものでもない。
結局,犯行の痕跡があったという検察官の主張も,そのように断定できるものではな
い以上,被告人が犯人であることと整合する事実とはいえない。
(3)検察官が,犯人ならではの心理の現れとして指摘する被告人の言動について
は,いずれもせいぜい被告人が犯人だとすると,そのように解する余地もあるといえる
程度のものにすぎず,被告人が犯人でないとしても十分説明が可能なものばかりであっ
て,到底犯人性に結び付く事情といえるものではない。すなわち,被告人によれば,本
件事件当日は,Aらと再会するため,長時間にわたり考え事をしながらよく知らない地
域を車で探し回り,自分の行動を裏付けるものは何もないと思っていたというのである
から,そのような状況にある被告人が,EにA方住所を聞いていないことを念押しした
り,Dや職場の上司ら周囲の者にアリバイがないことなどを強調したとしてもおかしく
はないし,もともと曖昧な記憶に基づくものであるから,上司に対する説明が二転三転
したとしても不自然ではないという見方も可能である。また,被告人は,当初は警察官
の事情聴取等に協力的に応じていたものの,警察官から嫌疑を深められ,その対応に不
満を訴えていたというのであるから,犯人でなかったとしても,そのような不満から捜
査に非協力的な態度を示すことはありうることであるし,法要の席でのBの両親に対す
る言動についても,Bの両親からAの責任を追及するかのような言動を受けてなされた
ものであるから,被告人がA及びBとの関係で知っていることを全て説明したにすぎな
いとみることも可能であろう。本件事件後は浴槽につからなくなったことも,単に面倒
だったという被告人の主張を排斥できるものではない。結局,検察官が指摘する事情は,
いずれも,犯人ならではの心理の現れと断定できるようなものではなく,これらを被告
人が犯人であるとすると整合する事情ということは到底できない。
(4)Dが被告人を犯人と確信して家出をしたという点についてみる。仮に,Dが
被告人を犯人と確信する過程で聞知した事実が,全く犯人性を推認させるものではなか
ったり,その程度の低いものばかりである場合は,Dの属性をいかに強調したとしても,
Dが犯人と確信したという事実は,被告人の犯人性に結び付くものではないであろう。
犯人と確信したという事実が意味を持つのは,その確信に至る過程や根拠が,一般人に
対しても納得のいくものであったり,説得力があるような場合であり,そのような場合
でなければ,犯人と確信したこと自体は,犯人性を推認させるものではないというべき
である。そして,犯人と確信するに至る過程や根拠が説得力を持つ場合というのは,犯
人と確信するに至る過程で聞知した諸々の事実が,そもそも虚偽や誤解に基づくもので
なく,犯人性を推認させる程度の高いものであり,これらの事実を総合して推認した過
程が説得的である場合にほかならない。結局,犯人性を推認させる間接事実として意味
を有するのは,あくまで個々の間接事実であり,Dが犯人として確信したという事実自
体は,被告人の犯人性に結び付くものではないというべきである。なお,Dは5月中旬
頃,警察官から,被告人が犯人である旨告げられた上,自首するよう被告人を説得して
欲しい旨申し向けられ,警察はよほど調べたのだと思ったと証言しているのであり,被
告人が犯人であるとのDの確信は,警察官からの強い誘導の影響を受けて形成されたこ
とがうかがえるのである。
以上によれば,Dが被告人を犯人と確信し家を出た事実は,被告人が犯人であること
と整合する事実ということはできない。
(5)なお,検察官は,当審において,Dの供述等により,Dが腕のあざやデニム
シャツの絞りじわの存在を捜査官に伝えた経緯,被告人を犯人と確信した経緯,被告人
が必ずしもCをかわいがっていなかったことなどを立証しようとしたが,それらの事項
は,既述のとおり,犯人性を推認させる間接事実としては相当に間接的なものにとどま
り,また差戻し前第1審において十分に尋問がなされている。当審において,改めてこ
れらの事項に関し証拠調べをする必要は乏しいことから,上記事項に関する検察官の証
拠調べ請求をいずれも却下したものである。
6最後にポリグラフ検査の結果についてみる。
(1)被告人に対して実施されたポリグラフ検査は,差戻し前第1審判決が指摘す
るように,①警察署の取調室で検査が行われ,特に外界からの影響を遮断する工夫が施
されていなかったこと,②裁決項目が二つ存在する質問もあること,③検査結果に関す
る資料としては鑑定書及びチャートしか残されておらず,検査官の記憶にも曖昧な部分
が多いことから,鑑定内容の正確な検証が不可能であることといった問題がある。
(2)また,被告人は,ポリグラフ検査が実施される5月4日までの間に,新聞報
道やAから聞いた話を基に犯人像を推測するなどしており,「Bの遺体の頭の方向」,
「Bの遺体に対する行為」,「現場での行為」という各質問に関連するものとして,A
の話や報道内容からBの遺体の頭の方向を推測していたこと,Aから,現場の床には衣
類等が散乱していたこと,Bが部屋の模様替えをしていたこと,部屋の中にある何かが
動かされていたことなどを聞いたと供述している。
ポリグラフ検査では,実際に体験をしていなくても,知識や推測に基づいて反応が出
ることがあり,そのどちらであるかの見極めはできないというのであるから,被告人の
上記供述内容を前提にすると,被告人が犯人でなくても,「東向き」,「衣類を敷く」,
「家具を移動する」といった検察官が指摘する質問の裁決項目に,顕著な特異反応が出
ることは十分ありうるというべきである。また,被告人は上記認識内容を検査官にも伝
えた旨供述しており,検査官とのやり取りに関する被告人の供述を前提とすると,ポリ
グラフ検査の各質問が適切なものであったかについても疑問が残るというべきである。
なお,上記ポリグラフ検査を実施したU検査官は,上記各質問に関し,被告人から特異
反応を生じさせる要因となり得るような内観報告はなかった旨証言する。しかし,U検
査官は被告人とのやり取りをほとんど記憶していない上,内観報告は,U検査官が重要
だと判断するものだけを記載する方針であったこともあって,鑑定書の記載やU検査官
の証言のみでは,検査の際に具体的にどのような内観報告が被告人からなされたのか全
く明らかでない。被告人の上記供述内容は具体的かつ詳細であって,被告人がAから現
場の様子をある程度聞いていたことはU検査官の証言からもうかがわれることからする
と,被告人の供述内容を虚偽であるとして排斥することはできない。
(3)さらに,Bの遺体を発見した消防署救助隊員によれば,Bの遺体には布団か
タオルのようなものがかぶせられていたというのである。Bの遺体に対する行為という
質問に対する回答として,「布団をかける」という項目に何ら反応を示していないのは,
被告人が犯人であることとは整合しない事実ともいいうる。
(4)以上のとおり,上記ポリグラフ検査は,多くの問題を含んでいる上,ポリグ
ラフ検査の際に被告人が認識していたことや推測していたことを踏まえると,被告人が
犯人でなかったとしても,検察官が指摘する質問の裁決項目に顕著な特異反応が出るこ
とはありうるというべきである。また,被告人が犯人であることとは矛盾するともいい
うる検査結果も出ている。ポリグラフ検査の結果をもって,被告人が犯人であることと
整合する事実ということはできない。
第7結論
以上検討してきたとおり,被告人が,本件事件当日,本件マンションに赴き,306
号室内に立ち入ったとの事実はいずれも認定できない。また,本件が被害者らと近しい
関係にある者による犯行であるとは断定できない。被告人の当日の行動についての説明
は,不審を抱かせるものといえても,虚偽であると断定できるわけではないし,仮に虚
偽であるといえたとしても,そのことから本件マンションに赴いたことや306号室に
立ち入ったことを推認できるものではない。犯行動機に関しては,あくまでも犯行動機
となりうる背景事情が存在するという程度にとどまる。その他の間接事実は,被告人が
犯人であるとするならば検察官が主張するような説明や評価ができるといいうるにとど
まるものであり,いずれも被告人の犯人性を積極的に推認させる事実ではなく,それら
の事実のみで被告人を有罪と認定することは著しく困難である。
そして,本件証拠関係から認められる間接事実は,いずれも被告人が犯人でなくても
説明可能な事実であり,被告人と被害者らとの間に一定の関係があることからすると,
そのような事実が複数認められたとしても不自然ではない。そうすると,状況証拠によ
って認められる間接事実の中に,被告人が犯人でないとすれば合理的に説明できない
(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するといえるかどう
かには疑問が残るというほかない。
したがって,被告人に対する本件公訴事実については,結局,犯罪の証明がないこと
になるから,刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(求刑:死刑)
なお,証拠の紛失に関して付言する。
上告審判決が,そのDNA鑑定の必要性を示唆したたばこの吸い殻が差戻し前第1審
当時において既に失われていた事実が当審において初めて明らかとなったことは既に説
示したとおりである。弁護人の指摘を待つまでもなく,この事実が差戻し前第1審当時
に明らかになっておれば,上告審判決の内容はもとより,上告審を含め差戻し前の審理
の帰趨自体が別のものとなっていた可能性も否定されない。このような事態が繰り返さ
れてはならないことは改めて指摘するまでもない。
また,当審における証拠調べの結果からすると,本件証拠紛失が明らかとなって以降
の,その紛失経緯を究明するための活動は,遺憾ながら不十分なものに止まったといわ
ざるを得ない。その原因を究明することは,再発防止を図る出発点である。DNA鑑定
等の科学捜査の重要性を踏まえると,その前提となる物証の適切な保存管理は今後の捜
査の最重要課題といって過言でない。今一度,本件証拠紛失の経緯を再検討し,個人の
責任を追及するのではなく,組織のありようや物的施設のありようをも含めた総合的観
点から再発防止策が採られることを切に希望する。
平成24年3月19日
大阪地方裁判所第15刑事部
裁判長裁判官水島和男
裁判官和田将紀
裁判官長峰志織

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