弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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     目     次
    主  文
    理   由
 第一 本件の審理経過等
  一 はじめに
   1 本件の公訴事実
   2 被告人の身上関係
  二 第一次第一審
   1 審理経過
   2 判 決
  三 第一次控訴審
   1 審理経過
   2 判 決
  四 上告審
  五 原 審
   1 審理経過
   2 判 決
 第二 当裁判所の判断
  一 破棄判決の拘束力について
   1 原判決の説示
   2 右に対する判断
  二 事実誤認の論旨について
   1 論旨の大要
   2 右に対する判断
   3 補 説
 第三 結 語
         主    文
     本件控訴を棄却する。
         理    由
 本件控訴の趣意は、弁護人嶋倉・夫作成名義の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に
記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官左津前武作成名義の答弁書に記
載のとおりであるから、これらを引用する。
 論旨は、要するに、被告人は甲を殺害してはおらず、真犯人は被告人の前夫乙1
であつて、被告人は無罪であるとして原判決の事実誤認を主張するものである。
 第一 本件の審理経過等
 一 はじめに
 1 本件の公訴事実
 本件の公訴事実は、「被告人は、かねてから父甲(当七一年)と不仲であつたと
ころ、昭和五〇年一一月一四日夜病気入院中の母丙1のことで右甲と言い争いをし
て同人から押し殴るの暴行をうけたうえ、翌一五日にも言い争いを重ねていたもの
であるが、同日午後七時三〇分ごろ、北本市大字ab番地のcde団地f街区g号
h号室の自宅において、右甲に対する憎悪の念がこうじて、にわかに同人を殺害し
ようと決意し、手提鞄の中にあつた果物ナイフを右手に持ち、風呂場入口付近にう
しろ向きに立つていた同人の背後から、右ナイフで同人の背部を一回突き刺し、よ
つて、同人をして即時同所において、胸大動脈刺切により失血死させて殺害したも
のである」というのである。
 2 被告人の身上関係
 被告人は、昭和二四年六月二二日東京都文京区において母丙1(大正六年二月一
日生)と氏名不詳の外国人との間の子として生まれ、丙1の私生児として届け出ら
れたが、丙1はのちに甲と結婚し、甲は、同三三年八月二〇日丙1を入籍するに際
し、被告人を長女として認知した。
 被告人の本名は丁であるが、「丁」という通称を用い、家族や友人は右通称によ
つて被告人を呼んでいた。
 被告人は、昭和四八年二月ころから大田区iのアパートで乙1(昭和二四年七月
三日生)と同棲していたが、両名は、昭和五〇年七月半ごろから公訴事実記載のe
団地f街区g号h号室の甲方に同居するようになり、同年一〇月二三日婚姻の届出
をし、乙1は乙2の氏を称することとなつた。同年一一月一五日夜、本件が発生
し、被告人は、翌一六日午前三時一五分、殺人罪で緊急逮捕され、同年一二月六日
同罪で浦和地方裁判所に公訴を提起された。
 被告人は、同庁における第一次第一審判決(昭和五三年九月二六日)の後である
昭和五三年一二月二二日乙1と協議離婚し、乙1は乙1の姓に復した。
 被告人は、原審(第二次第一審)係属中の昭和五八年二月一六日乙3(昭和三一
年四月二四日生)と婚姻の届出をし、乙3姓を称するに至つた。
 二 第一次第一審(浦和地方裁判所昭和五〇年(わ)第一四六〇号)
 1 審理経過
 被告人は、昭和五一年二月六日の第一回公判期日において、犯行当日は鎮痛剤の
丙2を飲んでいたので、何でこういうことをしたか判然しないが、私が刺したこと
により父が死んだことは間違いないと思う、しかし、「殺害しようと決意し」とあ
る点は違う、手提鞄の中にあつた果物ナイフを出してやつたことは間違いない、甲
が風呂場入口付近にうしろ向きに立つていたこと、ナイフで同人の背部を一回突き
刺したことは、そのとおりだと思う旨、本件が自己の犯行であることを認める供述
をした。
 主任弁護人は、被告人がナイフで父を刺して父が死んだという事実関係は間違い
ないと認めたうえ、当時被告人は長期間に亘る丙2の濫用により心神喪失の状態に
あつたものである旨主張した。
 弁護人は、乙2の司法警察員及び検察官(二通)に対する各供述調書の認否を留
保したため、検察官の申請により証人乙2が採用されたが、同年三月一九日の第二
回公判期日において、弁護人が右各調書を証拠とすることに同意したため、検察官
は右証人申請を撤回し、弁護人から「被告人の犯行当時の精神状況等について立証
のため」改めて証人乙2を申請し、採用され、同日、同証人の尋問が施行された。
同証人に対する尋問はなお続行される予定であつたが、同証人は第三回公判期日
(同年五月一四日)に出頭せず、所在不明となつたため、第四回公判期日(同年七
月一四日)において、弁護人は同証人に対する残余の尋問権を放棄し、検察官はこ
れに対する反対尋問権を放棄した。
 被告人は、第五回公判期日(同年九月一日)において、弁護人の質問に対し、生
い立ちからの経歴を詳細に供述し、犯行前夜の甲との喧嘩や当日朝から犯行直前の
夕食時の状況について述べたのち、裁判長から第一回公易期日における被告事件に
対する陳述部分を読み聞かせて「どこか訂正するようなところはないか」と問われ
たのに対し、「あります」と答えてこの日の供述を終つている(これより先、被告
人は、被告人の取調べを担当した大山泰造検事に対し呼出願を出し、同年七月一九
日付で二七枚に及ぶ犯行否認の調書を作成してもらつている。)。同年九月二一
日、被告人は、乙2の選任にかかる私選弁護人二名の解任届を提出したので、裁判
長は、同年一〇月一二日被告人のため新たに国選弁護人を選任した。
 被告人は、第七回公判期日(同年一一月二四日)以降、犯行否認の供述をするに
至り、その後は本件が自己の犯行であることを一切認めていない。被告人の否認供
述の骨子とするところは、犯行当日午後三時ころから甲の作つてくれたおでんを三
人で二、三時間かけてゆつくり食べ、テレビの相撲中継などを観ていたが、被告人
はそのうち眠り込んでしまつた、テレビの「丙3」の丙4の笑い声で目を覚ます
と、被告人ひとりになつており、一〇分位すると乙1が被告人の黒い中国服と黄土
色の半ズボンを着て入つて来て、「甲をやつちやつた」と言い、右手に持つていた
ナイフを示して「洗つて来い」と命じたので、これを受け取り、台所の流しへ持つ
て行つて洗つて来た、その間に乙1は着替えをし、「ナイフを隠せ」と言うので、
仏壇の隠し抽斗の中に隠した、乙1は、俺は男だから死刑か二〇年位刑務所に行か
なくてはならない、女なら二、三年で済むなどと言うので、被告人は、自分が代り
に行くと言い、乙1に言われて、風呂場の甲の死体を見た後、一一〇番で警察に事
件を知らせ、取調べに対し自己の犯行であるように申し立てた、というのである。
 裁判所は、被告人質問、取調べに当たつた捜査官などの証人尋問、現場検証など
を施行したのち、第二〇回公判期日(昭和五三年三月七日)に証拠調べを終り、論
告、弁論、最終陳述を経て結審したが、その翌日、検察官からかねて所在捜査中の
乙2の所在が判明したので、弁論再開と同人の証人尋問を請求する旨の申立がなさ
れ、裁判所はこれを容れて同月一〇日に第二一回公判期日を指定し、証人乙2を勾
引した。
 裁判所は、証人乙2を三開廷に亘り尋問し、被告人質問などを経たうえ、第二六
回公判期日(同年七月二五日)に弁論を終結し、第二七回公判期日(同年九月二六
日)において、被告人に無罪を言い渡した。
 2 判 決
 第一次第一審判決の無罪理由の骨子は、次のとおりである。
 本件の積極証拠は、被告人の捜査段階における自白供述(司法警察員に対する供
述調書一〇通、検察官に対する供述調書三通)並びに乙2の捜査段階(司法警察員
に対する供述調書一通、検察官に対する供述調書二通)及び当公判廷における各供
述であるが、右各供述には、いずれも信用性が認められず、他に被告人を本件殺人
の真犯人と認定すべき充分な価値ある証拠も存しないから、本件公訴事実について
は犯罪の証明が充分でない。
 すなわち、被告人の自白供述中、本件犯行の動機に関するものは、他の証拠と対
比してその前提事実を認め得ないか(甲の母や祖母に対する暴力、被告人の入浴中
に入つて来ること、犯行前夜の喧嘩の原因、その際の甲の被告人に対する暴行の点
など)、あるいは、甲と被告人との間には一般の親子の間に見られると何ら変りの
ない愛情が存在していたと認められ、犯行当日も、前夜の親子喧嘩にもかかわら
ず、平静、円満な状態に回復していたと認められることに徴すると、殺害の動機と
するに足りないものであつて、直ちに信用することはできない(判決理由第五の
(一))。
 次ぎに、被告人の自白供述(これに照応する乙2の供述を含む。)中、本件犯行
の状況(同第五の(二))及び本件犯行直後の状況(同第五の(三))に関するも
のは、「1」その重要部分(兇器の出所、扼頸の有無、刺切の部位、被告人の犯行
時の着衣、乙1が被告人が兇器を手にしているのを目撃したことの有無など)につ
き、真犯人ならば、あるいは妻の犯行を知つた夫ならば、誤解や記憶違いなどおよ
そ考え得べくもない点についてまで、重大な供述の変遷があり、かつ、その変遷の
理由につき何ら合理的な説明をなし得ていないこと、「2」被告人と乙1の供述に
くいちがいの存すること(乙1が被告人に自首を勧めたことの有無、被告人が乙1
に言われて改めて死体の状況を見に行つたことの有無など)、「3」供述内容が客
観的状況と符合しないなど、不合理、不自然であること(兇器の握り方、自白どお
りの犯行態様では、浴槽の蓋の上に付着した血痕の説明がつかず、被告人の着衣に
返り血を浴びていないのも不自然であること、被告人が、乙1の聞いている被害者
の呻き声や倒れる物音を全く聞いていないのは不可解であることなど)に照らし、
その真実性、信用性に疑問がある。
 乙2の公判廷供述(第二回、第二一回ないし第二三回)は、同人が公判中約二年
間に亘り所在不明となつた理由について人を納得せしめるに足りる理由の説明がな
く、本件犯行に関する重要な事項につき供述を変転させているばかりか、被告人が
乙1が真犯人であるとしてその金銭的動機を指摘しているのに対し、自己の不明朗
な金銭的処理についての弁明はきわめて暖味な態度に終始しており、その信用性に
強い疑問があり、本件犯行の直接証拠としてはもとより、被告人の自白供述に対す
る補強証拠としての価値すら有しない(同第六)。
 以上のとおり、被告人の自白の真実性にはいまだ合理的な疑いが残り、その信用
性に強い疑問が存するうえ、これを補強すべき乙2の捜査、公判段階における各供
述も、その信用性に強い疑問が存するところ、他に有罪の証拠はないから、本件公
訴事実については犯罪の証明不充分として、被告人に対し無罪を言い渡すものとす
る。
 三 第一次控訴審(東京高等裁判所昭和五三年(う)第二三八九号)
 1 審理経過
 検察官は、右第一審判決に対し、昭和五三年一〇月九日控訴を申し立て、原判決
の事実誤認を主張した。
 裁判所は、同五四年一〇月三日から同五五年一〇月二九日まで一六回の公判期日
を開き、検察官の請求により証人乙1及び被告人の浦和拘置支所における同房者で
ある証人乙4、同乙5、同乙6、同乙7その他の証人並びに書証及び証拠物(被告
人の手帳)を、弁護人の請求により原審において被告人が無実を訴え、弁護を依頼
しようとした弁護士二名の証人並びに書証及び証拠物(被告人の書簡等)を取り調
べ、被告人質問を施行するなどの事実の取調べを行い、双方の弁論を聴いたのち、
昭和五六年二月九日の第一八回公判期日において、「原判決を破棄する。本件を浦
和地方裁判所に差し戻す」旨の判決を言い渡した。
 (なお、被告人は、昭和五六年一月三一日丙5に対する監禁、強制猥褻事件を犯
して同年三月一一日勾留、同月三〇日横浜地方裁判所に公訴を提起され、同年六月
一二日同庁において懲役一年六月、未決勾留日数中六〇日算入の判決を受け、同年
六月二〇日から右刑の執行を受けて同五七年六月一〇日笠松刑務所を仮出獄し
た。)
 2 判 決
 第一次控訴審判決の要旨は、次のとおりである。
 (一) 客観的な状況事実から判断すると、甲の殺害犯人は被告人か乙1かのい
ずれかであつて、それ以外の第三者による犯行と認むべき証跡は全くない。両名の
いずれが犯人であるかを直接明らかにする物的証拠は殆ど存在しないから、被告人
の自白供述を除いては、乙1の供述が証拠として最も重要な意味を有する(判決理
由第四の一)。
 乙1の捜査段階における供述ことにその中軸となる検察官に対する供述調書の骨
子は、ク食後ベツドで仮眠していると風呂場か便所の方で「ウワーツ」という大き
な声と「ドーン」というドアに何かがぶつかつたような大きな音が聞こえ、音のし
た方へ行こうとすると、被告人が勝手の方から右手に果物ナイフを握つて入つて来
たが、その手のあたりに血が付いているのを見て、大変なことをしたのではないか
と思い、便所、風呂場のドアを開けてみると風呂場の中で甲がドアに背を向けても
たれるようにし、既に死亡しているのを発見した、寝室に引き返すと、被告人が部
屋の真中に坐り込んで呆然としており、果物ナイフは見当らなかつた、被告人に対
し、「すぐ警察に電話しろ」と言うと、「水が欲しい」と言うので、コツプに水を
汲んで来てやつた、その後被告人は、警察に電話して「父が死んだから来て欲し
い」と連絡したというのであつて、右供述内容は、証拠上認められる客観的な状況
事実ともよく符合し、とくに不自然、不合理な点はなく、本件犯行直後に臨場した
警察官や取調べに当つた司法警察員も、乙1の供述態度に不自然なところはなかつ
たと証言している点に徴しても、充分信用に値する(同第四の二)。
 第一審判決が乙1の供述の信用性を否定する根拠として指摘する諸点は、いずれ
も理由がない。すなわち、「1」乙1は、捜査段階及び第二回公判廷では被告人が
右手に血の付いた果物ナイフを持っているのを見たと供述しながら、第二一回公判
廷以降ではナイフを見たとする供述と見なかつたとする供述を変転させているのは
不可解であるとする点は、当審における乙1の供述をも斟酌して考察すると、第二
一回公判廷の冒頭では、長期間の空白による記憶の薄れと妻のため不利益な供述を
避けるという心情から刃物を持つていなかつたことは間違いないと述べたものの、
検察官の尋問で、被告人が身代り犯人であることを主張し、乙1が真犯人であると
述べていることを指摘されてからは、やはり従前どおり真実を述べようとの心境に
なつたものと見られ、かかる供述心理の変化に思いを致さず、被告人が真犯人であ
るとする乙1の証言の信用性まで疑問があるとしたのは、証拠の評価を誤つたもの
である。「2」乙1は、捜査段階における供述では、本件犯行当時の被告人の着衣
につき「分からない」と述べていながら、犯行後二年余も経た第二一、第二二回公
判廷では下半身は紺色のジーパン、上半身は記憶がない、第二三回公判廷でに下半
身はジーパン、上半身はTシヤツ様のものだが色は覚えていない旨供述しており、
供述変転の経過が不自然であり、上半身が黒色の中国服、下半身がカーキ色(黄土
色)の半ズボンである旨の被告人の自白供述ともくいちがつているとの点は、乙1
の供述は、要するに当時の被告人の着衣については明確な記憶がないという一点で
一貫しており、妻が殺人の大罪を犯したとすればその時の印象が強く記憶に残る筈
であることは第一審判決の指摘をまつまでもないところであるが、それ故に、当時
の妻の着衣についても記憶があるべきだとするのはいささか短絡的であり、突然の
出来事に動転し、着衣についての印象が残らなかつたとしても不自然ではなく、日
時の経過につれ記憶を整理し、当時の着衣について思い出すことも充分あり得るこ
とである(なお、乙1は、当審の事実取調べに際しては、犯行前の夕食時に被告人
は黒色の中国服と黄土色半ズボンを着用していたことを思い出したとし、かつ、捜
査段階において警察からこれらの任意提出を求められた当時においても、犯行時に
着ていた証拠品だから渡すとまずいと考えていたことを肯定しており、第一審公判
廷での供述は、記憶が定かでないのに問い詰められて咄嗟にいい加減なことを言つ
たと弁解している。)。要するに、着衣に関する供述に変転や暖味な点があるから
といつて、乙1の供述をすべて信用できないとすることは相当でない。「3」乙1
が第二回公判期日以降長期に亘り所在不明となつたことの説明が人を納得せしめる
に足りないとの点は、全く生活力のない乙1が甲の死亡と被告人の勾留とによつて
生活の基盤を失うに至つた事情を考慮すれば乙1の弁解は単なる作りごととは解さ
れず、第一審判決の説示には合理性がない。「4」乙1が被告人に自首を勧めたこ
との有無につき両者の供述が対立しているとの点は、各供述を仔細に検討すると、
乙1が勧めたのは自首ではなく警察への通報であり、被告人が一一〇番へ通報した
ことを、乙1は自己の勧告によるものと考え、被告人は自発的にしたと思つている
に過ぎず、この点の乙1の供述を第一審判決のいうほど不自然、不合理とするには
当たらない。
 以上のとおり、乙1の公判廷供述には、表現の暖昧未熟、若干の動揺・変更はあ
るものの、被告人を庇おうとした点を除けば、努めて真実を吐露した事跡が窺わ
れ、内容的には捜査段階の供述の基本線に沿つて一貫したものと理解でき、しかも
被告人側の反対尋問にも耐えたのであつて、優に信用するに足りる(同第四の
四)。
 (二) 被告人の捜査機関に対する昭和五〇年二月二一日以降の自白供述及び同
年一二月四日付実況見分調書中における犯行状況の再現、演述内容は、証拠上認め
られる客観的事実とよく符合し、乙2の捜査機関に対する供述調書の内容とも照応
するものであつて、信用性の高いものと評価し得る。
 すなわち、まず、本件犯行の直接の動機が犯行前夜における被告人と甲との間の
親娘喧嘩にある旨の自白供述について検討すると、被告人の検察官に対する昭和五
〇年二月二九日付供述調書中の右喧嘩の原因やその状況に関する供述は、右喧嘩の
仲裁に臨場した警察官乙8の一審証言や同人作成の捜査報告書の記載内容とよく符
合しており、これによれば、被告人は、甲が精神病者である被告人の母丙1を一旦
入院させたというものの、その真偽の程も分からず、甲がいつ母を自宅に引き取る
かも分からないという不安を募らせていたものであり、そのことを原因とする当夜
の喧嘩は、甲が被告人の髪の毛を引張るなどしたり、被告人が一一〇番通報をした
り、興奮の余り自傷行為に出るなど、きわめて激しいものであつたことが推認され
る。そして、本件犯行当日、被告人と甲との関係が一応平静、円満な状態を回復し
た事実は認められるが、そのことによつて被告人の甲に対する殺害の動機が解消し
たと見るのはいささか皮相的であり、本件犯行当日においても、甲が母を連れ帰る
かも知れないという不安感、不信感が全く解消されていないことに、被告人の短気
で激し易い性格、幼時からの甲に対する憎悪感、甲を殺してやりたい旨の被告人の
手帳の記載、本件の約三か月前における被告人の甲に対する刃傷行為などを併せ考
慮すると、被告人の甲に対する不満はいつ爆発するかも分からない状況にあつたこ
とが認められる(第一審判決が、本件を激情型の犯罪でないとしている点は明白な
誤りである。)。従つて、被告人には、甲殺害の充分な動機があり、この点に関す
る自白供述は信用するに足りる(同第五の一)。
 本件犯行の状況に関する被告人の司法警察員に対する昭和五〇年一一月二一日
付、検察官に対する同月二二日付各供述調書、司法警察員作成の同年一二月四日付
実況見分調書中の被告人の犯行現場における犯行の再現、演述内容は、自然かつ合
理的なものであり、客観的事実と符合し、乙2の司法警察員及び検察官に対する各
供述調書の供述内容とも照応するものであつて、信用性は高いと評価し得る。第一
審判決は、「1」被告人の供述による殺害方法では、浴槽の蓋の上の血痕の付着を
合理的に説明できず、また、「2」犯行時の被告人の着衣(ネグリジエ又は中国服
に黄土色半ズボン)に血痕の付着が見られないことの合理的説明ができないと説示
しているが、右「1」の点については、甲が風呂場内で背部を刺されたのち、ドア
を背にして倒れるまでの間に、背中が浴槽の方を向いて、吹き出した血液が浴槽の
蓋の上に飛散したと見ることも充分可能であり、右「2」の被告人の着衣について
は、当審証人乙1は、犯行後被告人が着衣を着替えて(被告人も、自白供述中で着
替えの事実を認めている。)、犯行時の着衣を洗濯機で洗つたような気がすると述
べており、新鮮な被害者の血液(丙8型)が洗い流されて古い被告人の血液(O
型)の付着のみが残る可能性も考えられ、また、風呂場出入口前の通路及び同所の
足拭きマツト上の血痕の付着状況からすれば、そもそも被告人の立つていた方向に
は血液が飛散して来なかつたとも認め得るのであつて、いずれも被告人の犯行状況
に関する自白供述の信用性を疑う根拠とするに由ないところである(同第五の
二)。
 被告人の犯行直後における自白供述(司法警察員に対する昭和五〇年一一月一六
日付供述調書二通)には、供述内容に甚だしい動揺や相違が見られるのみならず、
犯行方法についても証拠上認められる客観的事実と明らかに反するものがあるが、
これらは、犯行直後の極度の興奮や丙2服用の影響、犯行を否定したい心理と所詮
はこれを認めざるを得ないという追い詰められた心境などの心理状態に起因するも
のと認められ、これらと、平静を取り戻したのちの同月二一日以降の自白供述とを
彼此対照し、その間の矛盾、混乱を理由に後の自白供述の信用性まで疑うことは、
正しい証拠判断の方法とは思われない(同第五の三)。
 (三) 被告人の検察官に対する昭和五一年九月一九日付供述調書及び第一審第
七回公判期日以降の否認供述は、本件は夫乙1の犯行であつて、被告人はその身代
りであるというものであるが、その供述内容は、不自然、不合理であり、客観的事
実に反する点もあつて、真実性に疑問がある。すなわち、「1」乙1が、わざわざ
被告人の中国服及び黄土色半ズボンを着用して犯行に及んだとする点は、いかにも
唐突、不可解であり、被告人に罪を着せることを企ててまで甲を殺害しなければな
らない動機、原因はない。「2」被告人が、乙1が「甲をやつちやつた」というの
を聞き、血の付いた果物ナイフを見せられて、特段驚く様子も、殺害の事実を確か
めることもなく、乙1に同情して身代りを承知したというのは、不自然である。
「3」その際、いかに被告人が社会常識に乏しいとはいえ、男なら死刑か、そうで
なくても一〇年か二〇年の刑、女なら二、三年ですむ、金を作つて半年後位には迎
えに行く旨の乙1の言辞を容易に信用したとは到底考えられない。「4」身代りを
決意したのち、一一〇番通報をする前に予行演習として叔母丙6に電話したという
のも不自然であり、同人の第一審証言とも相反する。「5」被告人が、乙1の犯行
動機として指摘する甲の預金や生命保険金についての乙1の関心は、被告人の否認
供述中に述べられているのみであつて、何らの裏付けもないのみならず、仮りに乙
1が甲の金銭や保険金目当てに犯行に及んだものとすれば、第三者の犯行を仮装す
るならともかく、妻である被告人に嫌疑をかけるような仮装をしたり、被告人に身
代りを依頼し、犯行後間もなく警察に通報させるなどの所為に出ることは理解し難
いところである(同第六の一)。
 当審で取り調べた浦和拘置支所における被告人の同房者乙4、乙5、乙9こと乙
7の各証言によれば、被告人は、当初、右同房者らに対し、自己が本件の犯人であ
る旨、前記自白供述と同趣旨の話をしていたが、乙1が全然面会に来なくなり、手
紙も寄越さないようになつたことに憤慨し、自分の執念で乙1に仕返しをしてや
る、自分の代りに拘置所にぶち込んでやるなどと口癖のように言うようになり、乙
4に相談し、事実及び証拠関係を詳細に同女に説明し、同女から乙1を犯人とした
場合に不合理となる点や証拠関係と矛盾する点の有無を検討するなどの助力を受
け、同女の担当弁護士の示唆により、自己の担当検察官に上申書を提出する一方、
乙5に対し、検察官から取調べを受けたら、乙1がやつたように話すよう依頼した
りしたことが認められ、これに対し、被告人は、当審公判廷において、乙4に話し
たのは本件の「真相」であつて、乙1を犯人に仕立てる相談をしたのではないと弁
明しているが、被告人のいう「真相」が客観的な真実であり得ないことは明らかで
ある。なお、被告人が甲に対する別件傷害事件を自発的に供述している点は、乙1
が従前から甲に対し殺意を有していたものである如く印象付け、本件の犯人が乙1
であることを裏付けるために、右傷害事件を利用したとの疑いがあり、却つて乙1
犯人説の虚偽性を示すものである(同第六の二)。
 (四) 以上のとおり、「1」被告人の昭和五〇年一一月二一日以降の自白供述
の真実性には合理的疑いがあるとはいえず、充分信用に値し、「2」乙2の捜査段
階における供述及び第一審第二一回ないし第二三回公判廷における証言(但し、一
部を除く。)は、充分に信用でき、かつ、被告人の右自白を補強するに足りる証拠
価値を有し、「3」これに反し、乙1が本件の真犯人であり、被告人はその身代り
である旨の否認供述は、その信用性に強い疑問がある。そして、右「1」「2」及
びその余の関係証拠を総合すれば、「甲を殺害した犯人は被告人であることが認め
られる。」
 然るに、第一審判決が右「1」「2」はいずれもその信用性に強い疑問があり、
他に被告人を本件の犯人と認定すべき充分な価値ある証拠も存しないとして、被告
人に対し無罪を言い渡したのは、証拠の評価を誤つた結果事実を誤認したものであ
る。
 よつて、第一審判決を破棄し、「本件については、原審で主張されている被告人
の犯行当時の責任能力に関する点を含めて、さらに原裁判所において審理を尽くす
必要があると認め」、本件を浦和地方裁判所に差し戻す。
 四 上告審(最高裁判所昭和五六年(あ)第五六五号)
 右破棄差戻判決に対し、被告人は、昭和五六年二月一〇日上告の申立をした。
 弁護人らは、被告人の無実を主張して三四四頁に及ぶ上告趣意書を提出したが、
最高裁判所第三小法廷は、同五七年一二月七日、「上告趣意は、事実誤認、単なる
法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない」として上告棄
却の決定をしたため、本件は再び第一審の浦和地方裁判所に係属するに至つた。
 五 原審(浦和地方裁判所昭和五八年(わ)第四六号)
 1 審理経過
 差戻し後の第一回公判期日(昭和五八年七月六日)において、原裁判所は、差戻
し前の第一審及び控訴審の手続を更新したところ、被告事件に対する陳述におい
て、被告人は、「父の殺害については、私は全くやつていません」と申し立てた。
 原裁判所は、被告人の本件犯行時の精神状態及び現在の精神状態につき鑑定人丙
7による精神鑑定を施行したほか、被告人の身上、前科関係に関する証拠書類及び
情状に関する証人五名を取り調べ、本人質問を施行した。本人質問の内容は、鑑定
人丙7作成の精神鑑定書中に記載されている、鑑定の基礎とされた個々の事実に対
する被告人の弁明ないし反論がその大半を占めている。
 原審第七回公判期日(昭和六〇年二月二七日)において、検察官は、論告を行
い、懲役一〇年を求刑し、同第八回公判期日(同年三月一三日)の弁論において、
弁護人は、被告人の無罪を主張し、併せて前記精神鑑定書を批判し、被告人が有罪
であるとしても、犯行時には心神喪失又は心神耗弱の状態にあつた可能性に論及し
た。
 2 判 決
 同第九回公判期日(同月二七日)において、原裁判所は、公訴事実につき被告人
を有罪と認め、心神喪失又は心神耗弱に関する主張を排斥して、「被告人を懲役七
年に処する。未決勾留日数中八〇〇日を右刑に算入する。押収してある果物ナイフ
一丁(同庁昭和五八年押第一四号の一)を没収する。」旨の判決を言い渡した。
 第二 当裁判所の判断
 一 破棄判決の拘束力について
 1 原判決の説示
 原判決は、「弁護人の主張に対する判断」の項において、被告人は甲を殺害して
おらず、本件公訴事実につき無罪である旨の弁護人の主張に対し、第一次控訴審の
破棄判決を援用して、大要次のような説示をしている。
 第一次控訴審判決は、その理由中て、「1」被告人の司法警察員に対する昭和五
〇年一一月二一日付、同月二二日付、同年一二月三日付、同月四日付(二通)、同
月五日付及び検察官に対する同年一一月二二日付、同月二九日付、同年一二月五日
付各供述調書中の自白供述の真実性には、合理的な疑いがあるとはいえず、充分信
用に値する、「2」乙2の司法警察員に対する昭和五〇年一一月一五日付及び検察
官に対する同年一二月四日付、同月八日付各供述調書中の供述内容並びに第一次第
一審第二一回ないし第二三回公判調書中証人乙2の供述記載(但し、本件犯行直後
被告人が寝室の六畳間に入つて来たとき、果物ナイフを手に持つていなかつた、な
いし持つているのを見た記憶がない旨の供述及びその時の被告人の服装に関する供
述を除く。)は、充分信用することができ、かつ、被告人の右自白を補強するに足
りる証拠価値を有する、「3」これに反し、乙1が本件殺人の真犯人であり、被告
人はその身代りであるとする被告人の検察官に対する昭和五一年七月一九日付供述
調書中の否認供述及び第一次第一審第七回ないし第九回、第一七回ないし第一九
回、第二四回各公判調書中の被告人の供述記載並びに被告人の当審公判廷における
供述は、いずれもその信用性に強い疑問がある、「4」そして、右「1」「2」の
各証拠にその余の関係証拠を総合すれば、甲を殺害した犯人は被告人であることが
認められる旨判示し、第一次第一審判決を破棄しているのである。
 原判決は、右のように説示した後、更に次のような結論を示している。
 「そうすると被告人が甲を殺害したという事実判断は当裁判所を拘束するものと
いわなければならないから、当審において取り調べた新たな証拠によつて、あるい
は、右新たな証拠と既に控訴審までにおいて取り調べられた証拠とを総合して、右
控訴審認定の事実と異なる事実が認定されるのであれば格別、そうでなければ、右
判断と異なる認定をすることは許されない。そこで当審において取り調べた証拠を
検討しても、その中に右控訴審の認定を覆えすに足りる新たな証拠を見出すことは
できない。したがつて、本件犯行の真犯人は乙1であつて、被告人は無罪であると
の弁護人の前記主張は理由がなく、これを採用することはできないい。」
 2 右に対する判断
 <要旨第一>(一) 破棄判決の破棄の理由とされた事実上の判断が拘束力を有す
ることはいうまでもないところ、その拘束力は、破棄の直接の理由、す
なわち原判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであり、右判断を
裏付ける積極的肯定的事由についての判断は、何ら拘束力を有するものではない
(最高裁判所昭和四三年一〇月二五日第二小法廷判決、刑集二二巻一一号九六一
頁)。このことは、上級審の裁判所の裁判における判断に拘束力を認める(裁判所
法四条)趣旨が、上級審の裁判所と下級審の裁判所との間の判断の不一致により事
件が際限なく審級間を上下することによる遅延を防止するにあることから当然に導
かれる帰結といえよう。けだし、右の目的を達するには、当該不一致の部分、すな
わち、上級審の裁判所が下級審の裁判所の判断に否定的消極的判断を示した部分に
限り、上級審の裁判所の判断に優越性を認めれば足りるからである。
 (二) これを本件について見るに、第一次控訴審判決が破棄の直接の理由とし
ているのは、第一次第一審判決が「丙8」被告人の自白供述及び「丙9」乙2の捜
査、公判段階における各供述の信用性には強い疑問があるとした判断を誤りである
とする消極的否定的判断であり、従つて拘束力を生ずる範囲は、右の判断部分に限
られるものと解すべきである(第一次第一審判決は、さらに、「丙10」右「丙
8」「丙9」の各証拠を除いては、他に被告人を本件殺人の真犯人と認定すべき充
分な価値ある証拠も存しない旨の判断をも示しているが、第一次控訴審判決は、右
「丙8」「丙9」の各証拠を除外すること自体を誤りとしているため、前提を異に
する右「丙10」の判断については、肯定も否定もしていないから、この点に関し
ては拘束力を生ずる余地がない。)。
 これに対し、原判決の援用している第一次控訴審判決の前記1の「1」「2」の
判断、すなわち右「丙8」「丙9」の各供述の信用性を肯認できるとして説示して
いる諸点(なお、同「3」の判断、すなわち被告人の否認供述の信用性には強い疑
問があるとする点は、右「1」「2」の判断と表裏一体の関係にあるものであ
る。)は、前記消極的否定的判断を導き出すための前提として、あるいは、右判断
を正当ならしめるための縁由として説示された積極的肯定的判断であつて拘束力を
有するものではない。従つて、右「1」ないし「3」から導びかれる結論としての
同「4」の積極的肯定的判断、すなわち「甲を殺害した犯人は被告人であることが
認められる」とする点については、拘束力を生ずべきいわれはないものというべき
である。
 <要旨第二>(三) してみると、原判決が、第一次控訴審判決の「被告人が甲を
殺害したという事実判断は当裁判所を拘束するものといわなければなら
ないから、(中略)右判断と異なる認定をすることは許されない」と判示している
点は、拘束力に関する法令の解釈を誤つたものであることが明らかである。
 そして、第一次控訴審判決中拘束力を有するものと認められる判断部分、すなわ
ち、被告人の自白供述及び乙2の捜査、公判段階における各供述の信用性には強い
疑問があるとした第一次第一審判決の判断を誤りとして否定している点について考
察すると、右の判断が、第一次第一審における弁論終結時までの証拠関係を前提と
して、第一次第一審裁判所のしたそれらの証拠に対する価値判断ないしは証明力の
評価の当否を事後的に審査した結果を示したものであることは、刑事控訴審の構造
に照らし、自明のことであり、第一次控訴審裁判所のした事実の取調べは、刑訴法
三九三条一項但書による場合をも含め、右の事後審査のために行われたものである
こともいうまでもないところである。ところで、原裁判所は、公判手続の更新に準
ずる手続により、右第一次控訴審における事実の取調べの結果を被告事件について
の証拠として取り入れているほか、新たに証拠書類及び人証の取調べ並びに被告人
の精神状態の鑑定を施行している(前記第一の五の1)。そして、原裁判所が新た
に取り調べた証拠の大半は犯行時における被告人の責任能力及び情状に関するもの
であるとはいえ、その中には、第一次控訴審判決が前示の消極的否定的判断をする
に際し縁由とした事項と相反するもの、たとえば、第一次控訴審判決が、犯行時の
被告人の着衣に血痕の付着が認められないことを説明する理由の一つとして、同審
における事実の取調べの際、証人乙1が、被告人が犯行後着替えをして犯行時の着
衣を洗濯機で洗つたような気がすると述べている事実を援用しているのに対し、炊
事、洗濯等すべて父がやつてくれたので、米のとぎ方、炊飯器のスイツチの入れ
方、洗濯機、掃除機の扱いを知る努力もせず、これらの機器に触つたこともなく、
父が何度か教えようとしたが、「いいよ、難かしいわよ」と断つていた旨の被告人
の供述(原審第六回公判廷、記録第一三冊二九四八丁の七四裏ないし七五裏)など
が含まれているのである。このように、原裁判所としては、被告人の自白供述並び
に乙2の捜査段階及び第一次第一審公判段階における各供述の信用性に関しても、
新たに証拠調べをしているのであるから、これらの点についても、第一次控訴審判
決に示されたものとは異なる縁由的事実を認定し、もつて右自白ないし供述の信用
性を否定する自由が残されていたものであり、従つて、関係証拠を総合評価して、
公訴事実につき犯罪の証明が充分でないと判断することが可能であつたものといわ
なければならない。
 (四) 以上のとおり、原判決は、破棄判決の拘束力に関する解釈を誤つたもの
である。しかし、原審における訴訟手続及び原判決の構成を見れば明らかなよう
に、原裁判所は、原審第一回公判期日において第一次控訴審の手続を含めて従来の
公判手続を更新し、自ら取り調べた証拠に基づいて独自に心証を形成したうえ、罪
となるべき事実を認定判示し、証拠の標目を掲げ、法令を適用して主文の有罪判決
を導いているのである。結局、原判決は、その「弁護人の主張に対する判断」の中
では破棄判決の拘束力につき誤つた説示をしているが、判決書全体の構成を見れ
ば、右説示にもかかわらず、関係証拠を仔細に吟味検討し、独自に心証を形成して
いるのであつて、右心証形成過程に拘束力に関する誤解が介在していたとしても、
後記のように、原判決の事実認定が支持するに足りるものである以上、右訴訟手続
の法令違反は、いまだ判決に影響を及ぼすことが明らかであるというを得ず、原判
決破棄の理由とはなし得ない。
 二 事実誤認の論旨について
 1 論旨の大要
 論旨は、要するに、甲を殺害した犯人は乙2(乙1)乙1であつて被告人ではな
いから、本件控訴事実につき被告人は無罪である、というのである。
 所論は、本件においては、被告人又は乙1のいずれが犯人であるかの決め手とな
るような物証を欠き、本件を被告人の犯行であるとする被告人の自白供述及びこれ
に沿う乙1の供述と、これを乙1の犯行であつて被告人はその身代りであるとする
被告人の否認供述とが完全に対立しており、従つて、そのいずれに信用性を認める
かによつて有罪、無罪の結論を異にする関係にあるところ、およそ供述の信用性を
判断するに当たり最も重要なことは、当該供述において語られている事実と客観的
に痕跡として残されている事実との整合性を科学的に検証することであるとして、
被告人の自白供述及び乙1の供述中所論の整合性に欠ける部分を個々に指摘し、そ
の信用性を争つている。すなわち、(一)被告人の自白供述に関しては、「1」被
害者は、被告人がその背中を突き刺した果物ナイフを引き抜いた後も、中腰の姿勢
のまま立つていたというが、そのようなことは、力学的に見て絶対にあり得ない
(そのことにつき鑑定を求める。)、「2」被告人の述べる犯行態様からは、浴槽
の蓋の上に付着した血痕の成因を説明することはできない、右血痕は、犯人である
乙1が犯行後被害者の様子を見るため浴槽の蓋の上に登つた際、手にしていたナイ
フから滴下したものと考えるのが合理的である(右血痕が、第一次控訴審判決の指
摘するように被害者の創口から飛散した飛沫痕か、血の付いたナイフを持つた乙1
が浴槽の蓋の上に登り、身体の向きを変えた際の運動等による滴下痕であるかの鑑
定を求める。)、「3」風呂場出入口のマツト付近に血液の滴下痕のあることか
ら、犯人は犯行後血の付いたナイフを手にして同所に佇立していたことが窺われる
から、被告人が犯人であるとすれば、自白供述にあるように、ナイフを引き抜いた
後の被害者の様子を見ていないとか、その呻き声や倒れる音を聞いていないという
ことはあり得ない(右血痕が滴下痕であることの鑑定を求める。)、(二)乙1の
供述に関しては、鑑定の結果、被害者の死因が胸大動脈刺切による失血と判定され
ていることに鑑み、犯行直後に乙1が被害者の様子を見に行つた際、同人が既に完
全に死んでいたというのは明らかに不合理である(右の創傷による失血の場合、ど
の位の時間的経過によつて乙1の供述するような死体の状態になるかについての鑑
定を求める。)、などがその主要な点である。
 2 右に対する判断
 記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて原審事実認
定の当否を審査するに、原判決の挙示する関係証拠を総合すれば、本件が被告人の
犯行にかかるものであるとの点を含め、原判示事実は優に肯認するに足りるのであ
つて、所論に鑑み、その指摘する諸点を充分吟味、検討してみても、いまだ右の判
断に合理的疑いをさし挿むに由ないところである。以下、その理由につき補説す
る。
 3 補説
 (一) 本件が発生したのは昭和五〇年一一月一五日であり、同年一二月六日の
公訴提起以後一〇年有余を経過し、四回に亘る各審級の審判を通じて、本件が被告
人の犯行にかかるものであるか否かが一貫して争われて来たのである。
 そして、従前の審理経過からも明らかであり、かつ所論も指摘しているように、
本件においては、「1」これを被告人の犯行であるとする被告人の捜査段階におけ
る自白供述及び第一次第一審第一回公判期日における一部自白の供述(犯行自体は
認め、動機については不明、殺意は否認するという。以下、両者を併せて「被告人
の自白供述」と総称する。)並びにこれに沿う乙2(乙1)乙1の捜査、公判段階
における各供述と、「2」本件の真犯人は乙1であり、被告人はその身代りである
とする被告人の検察官に対する昭和五一年七月一九日付供述調書及び第一次第一審
第七回公判期日以降における各公判供述(以下両者を併せて「被告人の否認供述」
と総称する。)とが対立しており、従つて、右各供述に対する信用性の評価が争点
の中心となつているのである(もとより、信用性の評価といつても、右「1」
「2」を単純に比較するのではなく、右「1」については、それが有罪認定を支え
るに足りる程度の信用性を有するか否か、「2」については、それが有罪認定に対
する合理的疑いとなり得る程度の信用性を有するか否かが問われることはいうまで
もない。以下、これらの供述の信用性を論ずる際も、当然右の趣旨である。)。
 (二) 所論は、被告人の自白供述及びこれに沿う乙1の供述中、客観的に痕跡
として残されている事実と整合性を有しないと見られる諸点を指摘しており、これ
らについては後に判断を示すこととするが、従来右各供述及び被告人の否認供述に
関して論じられて来た点は右に尽きるものではなく、きわめて多岐に亘つている
(所論は、これらの論点に触れている上告趣意書についても論及しているが、それ
が控訴趣意として上告趣意書の記載を引用する趣旨であるとすれば、かかる引用は
不適法である。)。
 そして、一般に、信用性の高いと見られる供述であつても、それが全面的に客観
的真実と合致するものとは限らず、供述者の知覚、記憶、再現の不正確(錯覚、記
憶違い、叙述の不正確など)あるいは故意による虚構などにより、一部客観的真実
に反する部分が混入することも稀ではない。そのような場合であつても、客観的真
実に反する部分が特定され、その原因が明らかであり、かつ、それが供述の他の部
分の真実性に影響を及ぼさないことが確定できれば、供述全体の信用性が否定され
ることにはならないのである。換言すれば、所論のように、供述の一部に客観的事
実と符合しない点があるというだけでは必ずしも供述全体の信用性を否定する論拠
とはなし得ないのであつて、そのためにはより全体的な考察が必要である。
 (三) 本件において、被告人及び乙1の供述の信用性を全体的に考察する上で
特に留意しなければならないのは、次の諸点である。
 (1) 被害者の死亡は他殺によるものであつて、自然死、事故死、自殺と認む
べき証拠はない。
 (2) 被害者が殺害されたのは、被害者方風呂場内であつて、他の場所で殺害
された後、同所に死体が搬入されたものと認むべき証拠はない。
 (3) 犯行時刻当時、被害者方内に居たのは、被害者の外、被告人とその夫乙
2のみであつて、第三者が浸入したものと認むべき証拠はない。
 (4) 右(1)ないし(3)から帰納される結果として、被害者を殺害したの
は、被告人及び乙1以外の者ではあり得ない。
 (5) 被告人と乙1とが実行共同正犯、共謀共同正犯、その一方が教唆犯ない
し幇助犯、その一方又は第三者が間接正犯であると認むべき証拠はない。
 (6) 以上の帰結として、本件の犯人は被告人か乙1かいずれか一方であり、
他方は犯人ではない。逆に、そのいずれか一方が犯人でない場合には、残つた方が
犯人である。
 もとより、以上は、事実関係を実体的に観察した場合のことであり、訴訟法的視
点を加えれば、右のほか、被告人及び乙1の双方につき、犯罪の証明が充分でない
として、有罪の裁判をなし得ない場合のあることも考慮する必要がある。しかし、
本件においては、被告人の自白供述及びこれを補強する乙1の供述に信用性が認め
られれば、被告人に対する有罪の証明としては充分であるし、乙1に対しては、も
ともと公訴が提起されていないのであるから、同人を有罪とするに足りる犯罪の証
明があるか否かを論ずる必要はなく、同人に対する犯罪の嫌疑が、被告人の有罪認
定を妨げる合理的な疑いの域に達しているか否かという観点から検討すれば足りる
のである。そして、所論も指摘しているように、被告人の自白・否認供述と乙1の
供述の信用性に対する判断は、表裏一体の関係にあるのである。
 (四) そこで、更に進んで、被告人と乙1のそれぞれにつき、本件犯行との結
び付きを示すものと見られる情況的事実の存否を検討する。
 (1) 被告人には、甲を殺害すべき動機があつたものと認められる。
 原判決は、被告人の犯行動機として、被告人は、犯行前日甲と喧嘩した際、同人
から髪を掴まれ、壁に押しつけられたうえ引き倒されるという暴行を受けたことを
思い出し、同人が、乙1との結婚に反対し、日ごろ乙1を馬鹿にしているほか、そ
の言行に不一致が見られるうえ、被告人の忌み嫌う精神分裂病の母丙1を病院から
連れ戻し、乙1との平穏な結婚生活を乱そうとしているのではないかと不安に駆ら
れ、甲に対する憎悪の念を高めるうち、同人を亡き者にすれば幸福な家庭を築き得
るものと考え、同人の殺害を決意したものと認定している。第一次第一審判決は、
これらの動機につき、前提となる事実関係を認め得ないとか、犯行前夜の喧嘩につ
いても、非は被告人の側にあり、甲を恨む理由にならないとか、その後平静、円満
な親子関係が回復されているので殺害の動機となり得ないなどの理由を掲げて否定
的判断を示しているが、第一次控訴審判決の指摘するように、犯行前日の喧嘩の原
因及び状況については、臨場した警察官乙8において甲らから直接事情を聴取し、
一部現認していることから、これを客観的に認定し得るし、一旦、円満な親子関係
が回復されたとしても、喧嘩の原因となつた丙1の帰宅問題に絡む被告人の不安が
全く解消されていないことも事実である。また、被告人が平素甲を憎悪し、しばし
ば親子喧嘩を繰り返していたことは、被告人の赤色表紙婦人手帳(当庁昭和六〇年
押第二〇九号の符号三一)の記載からも、看取するに難くないところである。もつ
とも、以上のような事情があるからといつて、それだけでは直ちに殺意の形成に結
びつくとは限らないけれども、これに、後記のような被告人の性格、性癖、丙2錠
の大量服用による薬物の影響などを併せ考えると、被告人の甲に対する不満はいつ
爆発するかも分からない状態にあり、同人殺害の動機があつたことは充分認められ
るとする第一次控訴審判決の指摘は正当である(ちなみに、本件は、激情型の犯罪
というよりも、冷静かつ計画的殺人ではないかとの疑いもある旨の第一次第一審判
決の指摘が的外れであることについても、第一次控訴審判決の説示するとおりであ
る。)。
 (2) 被告人は、短気で、激昂し易い性格である。
 このことは、関係者の供述にも現われているし、後記(3)の行動や、本件後に
おける丙5に対する監禁、強制猥褻事件にも現われている(ちなみに、原審におけ
る精神鑑定の結果によれば、被告人は、「知能がやや低く、顕示性(空想虚言性)
を主徴とし、爆発性、情性欠如性の傾向をも有する異常性格者」であるとい
う。)。
 (3) 被告人には、刃物を使用して自傷・他害行為に及ぶ性癖がある。
 まず、(イ)自傷行為としては、(1)昭和五〇年七月半ころ、甲が乙1との結
婚を認めてくれないことに抗議して、当時乙1と同棲中のi駅近くのマンシヨンで
カミソリで太股を切つたことがあり、そのことが契機となつて甲も乙1との結婚を
認め、両名を甲方に同居させるようになつたことがあるほか、(丙12)同年一一
月一四日、すなわち本件犯行前日、前示甲との喧嘩の際、興奮の余り、カミソリで
自己の左手首を切つている。次ぎに、(ロ)他害行為としては、(1)昭和四一年
三月七日、新宿区k町のジヤズ喫茶店の客席において丙11の左頸部に果物ナイフ
で切りつけて全治一〇日間の傷害を負わせ、東京家庭裁判所において保護観察処分
に付されているほか、(丙12)昭和五〇年八月六日、甲方六畳間(当時は同人が
使用しており、本件犯行当時は被告人夫婦が使用していた部屋)において、同人の
背後から小刀様の刃物でその背中を二回突き刺し、同人に対し加療一一日間を要し
た左肩部及び左肩甲部切挫創の傷害を負わせたことがある(甲が被害の原因を黙秘
したため、刑事事件となるに至らなかつた。)。
 (4) 被告人は、長期に亘り丙18、丙2等の薬物を濫用しており、本件犯行
当時も、丙2の作用により軽度の酩酊状態にあり、思慮、抑制力が多少低下してい
た。
 (5) 以上に対し、乙1には、甲を殺害すべき動機が認められない。
 すなわち、(イ)甲は、乙1がヒツピー風の風体で無為徒食の怠惰な生活を送つ
ていることを快く思わず、被告人や濱名喜美代に対し乙1の悪口を言つたり、乙1
に対し就職することを勧めたりしているが、乙1の方では、甲に対し反抗的言動に
出るようなことはなく、争いを起こしていない。犯行前日の親娘喧嘩の際も、甲
は、臨場した警察官に対し、「乙1は私の言うことをよく理解してくれる」旨語つ
ているのである。乙1と甲との間に、殺害の動機となるほどの不和があつたものと
は認められない。(ロ)これに対し、被告人は、乙1の金銭に対する執着心が、甲
を殺害した動機であるかの如く主張する。しかし、(1)本件犯行後の乙1の行
動、すなわち、甲の香典を生活費等に費消したこと、甲名義の丙13銀行丙14支
店の定期預金を解約して、l駅前付近の銀行に乙1名義の普通預金として預け入れ
たこと、甲所有の掛軸を鑑定名下に友人の親に預けていることなど(なお、被告人
の主張する、l駅前の銀行の被告人名義の普通預金を乙1名義に移し変えたとの点
は、銀行調査の結果、該当する取引のないことが明らかである。司法警察員作成の
昭和五三年七月三日付「検察官指示にもとづく調査結果について」と題する書面並
びに株式会社丙15銀行丙16支店長及び株式会社丙17銀行l支店長作成名義の
各回答参照)は、本件犯行前から乙1がそのような意図を有していたことの証拠と
なるものではない。(丙12)また、本件犯行前に、乙1が甲の資産等に異常な関
心を寄せていたとの証跡も窺い難い。たしかに、乙1は、甲の入院中に、同人がわ
ざわざ開けないようにと電話で指示して来たにもかかわらず、同人所有の革鞄を刃
物で切り開き、在中の書類や印鑑を調べるなどの所為に出ているが、、乙1の供述
によれば、それは被告人の出生関係を探るためであつたというのであり、資産関係
の書類が在中していたという証跡はない。また、被告人は、乙1が、甲の生命保険
のことをしきりに聞いていたと主張するが(乙1はこれを否定している。)、甲が
多額の生命保険に加入していた事実はなく(司法警察員作成の昭和五一年七月一六
日付「殺人被疑事件裏付捜査について」と題する書面参照)、乙1が、甲の生命保
険金の入ることをあてにしていたものと認むべき証拠はない。(iii)のみなら
ず、本件が、甲の生命保険金や預金その他の資産目当ての犯行であるとすれば、事
故死あるいは第三者の犯行による死亡であることを装おうための工作を行うのが当
然であり、同居の家族以外に犯人の居ないことが歴然としている本件のような犯行
態様となる筈がない。本件により、甲が死亡し、被告人が勾留されたため、もっぱ
ら甲の出費をあてにして無為徒食の生活を送つていた乙1はたちまち生活費に窮
し、前記(i)のような行動に出ているのであつて、求めてそのような窮地に陥る
ような犯行を企図するというのは不合理である。本件の犯行態様は、それ自体、本
件が金銭目当ての計画的なものではなく、激情による突発的犯行であることを示し
ている。(ハ)本件犯行当時は、被告人と乙1は互いに愛し合つていたのであつ
て、乙1が、被告人を陥れ、殺人の罪を被せるために犯行に出るという可能性も全
く考えられず、そのようなことをしても乙1は何ら得るところがない。また、その
ような目的であれば、乙1としては、被告人の裁判の帰趨に重大な関心を寄せる筈
であつて、裁判中に二年間も所在不明となり、自らに嫌疑を招くような行動に出る
というのも不自然である。以上のように、どのような観点からしても、乙1には本
件犯行に出るだけの動機が認められない。
 (6) 乙1には、刃物を使用して人を殺傷した前歴はない。
 (7) 長期間に亘り丙18、丙2などの薬物を濫用し、本件犯行当時も、丙2
の服用による影響を受けていた点では、乙1も被告人と同一の条件下にあつたもの
と認められる。
 (五) 以上は、できる限り被告人又は乙1の供述を用いず、客観的資料に基づ
き、本件犯行と両名の結びつきを示す情況的事実を検討したものであり、これによ
れば、乙1については、本件犯行との結びつきを示す情況が殆ど窺われないのに対
し、被告人が犯人であることを窺わせる情況の多いことは否めないところである。
 そこで、右(三)、(四)において考察した結果にも留意しつつ、被告人の自白
供述及びこれに沿う乙1の供述と、被告人の否認供述の信用性につき、検討するこ
ととする。
 これらの点については、既に第一次第一審判決及びその判断を誤りであるとする
第一次控訴審判決において詳しく論じられており、その概要は、さきに前記第一の
「本件の審理経過等」の項に摘記したとおりである(前記第一の二の2及び同三の
2参照)。そして、第一次控訴審判決のした判断は、その理由説明の細部につき若
干補説を要する点はあるにせよ、関係証拠に照らしてみて充分首肯するに足りるも
のがあり、その後になされた原審における証拠調べ及び当審における事実取調べの
結果を加えて更に検討しても、その結論に消長を来たすことはない。
 (1) すなわち、第一次控訴審判決は、乙1の第一次第一審第二一回ないし第
二三回公判廷における供述に関し、供述内容の変遷の経過及びその理由を詳細に検
討し、その一部(すなわち、本件犯行直後被告人が寝室の六畳間に入つてきたと
き、果物ナイフを手に持つていなかつた、ないし持つているのを見た記憶がない旨
の供述及びその時の被告人の服装に関する供述)を除き、その信用性を肯認してい
る。しかし、乙1は、甲の死亡と被告人の勾留とによつて生活の基盤を失つたこと
から、公判係属中の被告人を見捨てるような形で所在不明となつてしまつたもので
あり、少くとも手紙などによる激励くらいはできた筈なのにそれすらしていないの
であつて、被告人からその不実を責められても止むを得ない立場にある。そのう
え、所在不明となるまでの間に、甲の預金や香典まで生活費等に費消しているので
あつて、これらの点を追及されると自己弁護的な供述に終始している感を免れな
い。このように、被告人に対する一種の疚しさがあるうえ、事件発生後二年以上経
過し、当時の記憶も薄れた時点で事実関係の細部につき追及され、被告人から自己
が本件の真犯人であると指摘されていることまで告げられて問い詰められたため、
投げやりな供述や開き直りの供述をしている部分も多々見受けられる。従つて、乙
1の右公判供述中、第一次控訴審判決が明示的に除外した部分はもとより、捜査段
階で述べていなかつた本件公訴提起後の事情に関する部分及び捜査段階における供
述と異なる供述をしている部分の信用性も、さして高いものということはできな
い。しかし、これらの部分の信用性が低いことには判然した理由が認められ、従つ
て、それ以外の部分、すなわち捜査段階の供述と一致している部分の信用性に影響
を及ぼすものではない。第一次控訴審判決が、乙1の第一次第一審証言には、「表
現の暖昧未熟さがあり、また若干の点につき動揺・変更はあるものの(中略)、結
局、内容的には、さきに引用した同人の検察官に対する昭和五〇年一二月四日付供
述調書の基本線に沿つて一貫したものとしてこれを理解することができ、しかも、
被告・弁護人側の反対尋問にも耐えたもので、ゆうに信用することができる」旨説
示しているところは、当裁判所の右判断とおおむね一致するものと解し得るし、ま
た、その限度において支持するに足りるというべきである。
 そして、右と同様のことは、事件発生後四年余を経過した第一次控訴審第八回、
第九回各公判期日、同じく一〇年半余を経過した当審第二回公判期日における乙1
の各供述の信用性に関しても、一層強く当てはまるものというべきである。それ
故、当審弁護人が弁論要旨において援用しているように、乙1の当審供述中に従前
と異る供述が含まれているとしても、そのことから直ちに乙1の捜査段階における
供述の信用性が左右されることはない。
 なお、甲の傷害部位が心臓に近い胸部大動脈であることに鑑みると、所論(前記
第二の二の1の(二)参照)にもかかわらず、同所を刺切したことによる出血のた
め、速やかに失血死を来たす蓋然性は高いものと考えられ、同人の様子を見に行つ
た際、同人が既に完全に死亡していたという乙1の供述が明らかに不合理なもので
あるとはいい得ない。
 (2) 被告人の否認供述に信用性を認め得ないことについては、第一次控訴審
判決の詳細に説示するところであつて、これにとくに附加すべき事項はない。
 (3) 被告人の自白供述の信用性を肯認し得る理由についても、おおむね第一
次控訴審判決の指摘するとおりであるが、その信用性に疑いを抱かせる事由とし
て、所論(前記第二の二の1の(一)の「1」ないし「3」)等で指摘されている
諸点につき、項を改めて若干敷衍する。
 (六) はじめに留意しておかなければならないのは、被告人の自白供述は、犯
行の結果までをも含め、その一部始終を完全に再現したものではないということで
ある。従つて、それは、犯行現場に残された客観的状況のすべてを洩れなく説明し
尽くすものではなく、逆に、客観的状況の中に被告人の自白供述によつては説明し
切れない点が含まれているからといつて、直ちに右供述の信用性が失われるという
ことにはならないのである。
 以上の点を念頭に置きつつ、以下、所論につき順次考察する。
 (1) 所論は、被告人が力をこめて果物ナイフを背中に突き刺し、これを引き
抜くまでの間、甲が中腰のままで立つているということは、力学的に見て絶対にあ
り得ないことであると主張し、被告人の自白供述の信用性を疑う一つの理由として
いる。
 しかし、甲は、風呂場の内側に向かつて開かれたドア(蝶番は風呂場前の通路か
ら見て、向つて左側に付いている。)の外側で刺され、ドアの右端を回つてドアの
内側へ入り込み、閉まつたドアに内側から背をもたせかけるようにして倒れていた
のである。もとより、甲が刺されてから倒れるまでに具体的にどのような動きをし
たものであるかを示す証拠のないことはさきに指摘したとおりであるが、最小限、
右に述べたような動きがなければ、発見時のような状態とはなり得ない。してみる
と、甲は、その過程の途中までは立つた状態であつたものと考えられ、他方、被告
人が果物ナイフを突き刺してからこれを引き抜くまでの時間はさして長いものでは
ないことを考え併せると、刃物を抜いたときには甲はまだ倒れていなかつた旨の被
告人の自白供述は、不自然でも不合理でもなく、何ら怪しむに足りないところであ
る。
 (2) 次ぎに、第一次第一審判決以来問題とされている、浴槽の蓋の上の血痕
の付着原因について考察する。同判決は、その説明がつかないことを被告人の自白
供述の信用性を疑う重大な理由の一つとしている。これに対し、第一次控訴審判決
は、甲は、刺された後、風呂場内でドァを背にして倒れていることから、その間に
背中が浴槽に向いて、噴き出した血液が浴槽の蓋の上に飛散したとみることも充分
可能であると説明している。
 要するに、この点については、被告人は目撃していないのであるから、自白供述
の中にその説明が含まれていないからといつて、直ちに自白供述がその信用性を失
うこととはならないのである。ただ、自白供述に述べられている犯行態様からで
は、このような血痕の付着は起こり得ないことが明らかにされたとき、あるいは、
血痕の付着状況から、それが被告人以外の者(本件では、乙1以外には考えられな
い。)の犯行によつて付着したものであることが合理的に推認できるとき、自白の
信用性に対する合理的な疑いとなることがあり得るに過ぎない。
 所論は、乙1が、甲の様子を見るため、浴槽の蓋の上に登つたと述べている点を
重視し、蓋の上の血痕は、その際、真犯人である乙1が右手に握つていた果物ナイ
フから滴下したものと見るのが合理的であり、血痕の付着状況は、乙1が浴槽の方
に向かつて蓋の土に登り、次いで身体の向きを変えて甲の方を向く一連の動きによ
つて右手に握られた果物ナイフの描く軌跡と一致していると主張する。
 しかし、乙1が浴槽の蓋の上に登つた際、その右手に犯行の用に供した果物ナイ
フを握つていたというのは弁護人の単なる推測であつて、これを裏付ける証拠は全
くない。
 弁護人は、問題の血痕が、第一次控訴審判決の指摘するような被害者の創口から
飛散した血液によるものであるか、所論の推測するような乙1の動きに伴い果物ナ
イフから滴下した血液の痕跡と考え得るか否かについて、鑑定を求めるというので
ある。しかし、右事実の取調べの請求が刑訴法三八二条の二第三項後段所定のやむ
を得ない事由によつて原審で取調べ請求できなかつた旨の疎明を欠くものである点
は暫く措くとしても、右浴槽の蓋の上の血痕は、司法警察員作成の昭和五〇年一一
月二日付の検証調書では、その個数及び位置が現場見取図上に表示され、その大き
さが粟粒大と記されているのみであつて、その形状は不明であり、これを推知し得
るような写真も添付されていないのであるから、鑑定の基礎となる資料が不充分で
ある。のみならず、前記のように、甲が最終的に発見当時の状態となるまでの間に
どのように身体を移動させたかを確定するに足る証拠がない本件においては、仮り
に右血痕がいわゆる飛沫痕とは認められないとの鑑定結果が得られたとしても、そ
れは第一次控訴審判決の指摘した一つの可能性を排除するに過ぎず、また、仮りに
右血痕が所論のような滴下痕であるとする鑑定結果が得られたとしても、他の原因
によつて甲から滴下した可能性を排除するものではないから、それが直ちに果物ナ
イフから滴下したものであると断定するに由ないところである。それ故、所論鑑定
を実施したとしても、被告人の自白供述の信用性に対する合理的な疑いとなり得る
ような結果が得られるものとは考えられない。
 (3) 所論は、風呂場出入口のマツト付近にある血痕は滴下痕と考えられ、犯
人が血の付いたナイフを手にして同所に佇立していたことを窺わせるから、被告人
が犯人であるとすれば、ナイフを引き抜いた後の甲の様子を見ていないとか、同人
の呻き声や倒れる音を聞いていないということはあり得ないとして、自白供述の信
用性に疑問を呈している。
 しかし、(イ)右血痕が所論のとおり被告人の手にした果物ナイフからの滴下痕
であるとしても、現場に残された程度の血痕を生ずるのにさして長時間を要したも
のとは考えられない。被告人は、甲の背後から背中を一回突き刺し、そのナイフを
引き抜いた後、同人のその後の様子も見届けないまま、自室に引き返したと述べて
おり、それ自体異様な行動ではあるが、被告人の激情的性格と丙2の薬物中毒によ
る影響とを考慮すれば、理解できない行動であるともいい得ない。そして、ナイフ
を引き抜いた後、同所に暫時滞留していたものとしても、その間、甲の動静を注視
している必然性はなく、これを見ていないとする供述が、所論のいうほど不自然、
不合理であるものとは考えられない。また、被告人は、当時、前記薬物中毒の影響
下にあつたことに加えて、犯行直後の興奮状態下にあつたことが明らかであるか
ら、その知覚、記憶能力も完全であつたとはいい難く、甲の呻き声や倒れる音を耳
にしても、これを明確に意識せず、あるいは記憶に残していないことも充分考えら
れるのであつて、これらの事情から、被告人の自白供述の信用性を疑うに由ないも
のというべきである。(ロ)逆に、前記血痕が被害者の創口から飛散した血液によ
つて生じたものであるとすれば、所論の疑問とする点は解消する代り、いわゆる返
り血と被告人の着衣との関係が問題となる。この点は、所論とは関係ないが、従来
重大な争点の一つとされて来ているので、ここで併せて検討しておくこととする。
 然るところ、前記血痕は、風呂場のドアの前に敷いてあるマツトレスの全面に亘
つて付着している訳ではなく、風呂場に向つてその右端から更にその右方の通路上
にかけて付着しているのであるから、その位置関係に鑑み、飛散した血液が被告人
の着衣に付着しなかつた可能性は充分認められるのである。
 ところで第一次控訴審判決は、第一次第一審判決が、犯行当時被告人が着用して
いたと述べているどの着衣にも被害者の血液が付着していないことを被告人の自白
供述の信用性を疑う理由の一つに挙げているのに対し、被告人が犯行後に着衣を着
替えて洗濯機で洗つたような気がすると述べている乙1の第一次控訴審における供
述を援用し、これを否定する根拠の一つとしている。しかし、乙1の公判廷供述中
捜査段階における供述と異る供述の信用性がさして高いものと認められないことは
さきに指摘したとおりであるところ、乙1は、検察官に対する昭和五〇年一二月四
日付供述調書では、洗濯機で妻が物を洗つたことはないと述べているのである。そ
のことと、被告人が、原審公判廷において、洗濯機の動かし方を知らず、使つたこ
とはないと述べていること、犯行後警察官が臨場するまでの時間及びこの間におけ
る被告人の興奮状態に照らし、着衣を洗濯するような時間的・精神的余裕の認めら
れないこと、現場検証時における洗濯機の状況などを考え併せると、乙1の第一次
控訴審におけるこの点の供述は到底措信ずるを得ない。第一次第一審判決の判断を
否定する理由としては、前示のとおり第一次控訴審判決の挙げるもう一つの根拠、
すなわち、現場における血液の飛散状況に照らし、被告人の着衣に血液が付着しな
かつた可能性も認められるという点が妥当であり、かつ、それのみで充分である。
 (4) 弁護人は、控訴趣意補充書の末項(「結語」)において、被告人の語る
犯行状況が犯行後に残された痕跡と符合せず、あるいはこれを説明し得ていないと
する事項を七点に亘り列挙している。
 そのうち、「1」の浴槽の蓋の血痕についてはさきに判断したとおりであり、同
「3」ないし「7」は被告人の関知しない事項であつて、自白供述中にその説明が
ないからといつて何らその信用性を疑わしめるものとはいい得ない。
 そこで、残る「2」の点、すなわち、被害者居室の前の床上にあつた三個の血痕
について補説することとする。
 たしかに、本件犯行現場及び被告人が血の付いた果物ナイフを手にして歩いた経
路からすると、被害者居室前に血痕の付着する理由は全く認められない。しかし、
被告人は、前示のとおり、昭和五〇年八月六日にも、甲の背中を刃物で突き刺す傷
害事件を起こしているのである(前記第二の二の3の(四)の(ロ)の(丙12)
参照)。
 その際、甲は、犯行現場である被告人らの居室(当時の被害者居室)から被害者
居室(当時の被告人らの居室)に逃げ帰つた被告人の後を追うようにして同所に転
げ込んでいるのである(被告人の検察官に対する昭和五一年八月二六日付供述調
書)。してみると、前記血痕はその機会に付着したものと見るのが相当であり、右
血痕が人目を引くような大きなものでなく、同所付近の掃除もなされた形跡のない
ことからすると、それが本件犯行当時まで残存していたとしても異とするに足りな
いところである。そうだとすれば、右血痕の存在は、被告人の自白供述の信用性に
何らの消長をも及ぼすものではない。
 (5) 以上のとおり、被告人の自白供述の信用性に疑問はない。
 (七) 原判決に所論の事実誤認はなく、論旨は理由がない。
 第三 結語
 よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、同法一八一条一項但書を適用
して当審における訴訟費用は被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決す
る。
 (裁判長裁判官 船田三雄 裁判官 半谷恭一 裁判官 龍岡資晃)

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