弁護士法人ITJ法律事務所

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         主    文
     第一審判決中判示第二の窃盗、第三の強盗殺人に関する部分を破棄す
る。
     被告人を懲役六月に処する。
     本件公訴事実中強盗殺人の点については被告人は無罪。
         理    由
 本件控訴の趣意は、弁護人小河虎彦、同小河正儀および被告人が旧二審に提出し
た控訴趣意書のほか、同趣意書を補充する意味で当審で援用した(一)被告人およ
び弁護人小河虎彦、同小河正儀両名提出の上告趣意書、(二)同阿左美信義、同原
田香留夫連名提出の上告趣意書、同正誤表、同阿左美信義外四名連名の同補充書、
(三)同青木英五郎、同沢田脩、同熊野勝之、同原滋二四名の上告趣意書、同青木
英五郎外一八名連名の同補充書、(四)同西嶋勝彦提出の上告趣意書、同正誤表、
同補充書、(五)同渡辺脩提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、(六)同石田
亨提出の上告趣意書、同補充書、(七)同及川信夫提出の上告趣意書、(八)同佐
藤久提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、(九)同原田敬三提出の上告趣意
書、同正誤表、(10)同榎本武光提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、
(二)同寺田熊雄提出の上告趣意書、同補充書、(三)同井貫武亮提出の上告趣意
補充書(但し、旧二審判決に対する批判攻撃のみにかかる趣旨のものは除く)の記
載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は旧二審における控訴趣意書に対す
る答弁書並びに右答弁を補充する意味で当審で援用した上告審における検察官の答
弁書および当審における検察官の答弁書(二通)記載のとおりである。
 ところで、本件は上告審からの差戻事件であるので、従来の審理経過の概略を述
べることとする。
 (一) 本件起訴にかかる公訴事実の要旨は
 被告人は
 (1) 昭和二七年七月中ごろ、窃盗の目的で、山口県吉敷郡a町b食料品、雑
貨商A方に侵入し、金品を物色中、家人に発見されて逃走し、その目的を遂げなか
つた(昭和三〇年一〇月三一日起訴、以下甲事件と略す)
 (2) 昭和三〇年六月中ごろ、大阪市c区d町e番地B方前路上で大阪市所有
の孔鉄蓋(時価一、五〇〇円相当)を窃取した(同年一二月一〇日起訴、以下乙事
件と略す)
 (3) 昭和二九年一〇月二〇日頃郷里山口県に帰り、同県吉敷郡a町近辺を徘
徊の末、同月二六日午前零時頃、同町大字fg番地(現在は山口市に編入)のA1
方堆肥場にあつた唐鍬を携えて、同人方母屋に至り、土間物置内の金品を物色して
いた際、同人の妻A2(当時四二年)に気付かれ、誰何されるや、茲に同家家人を
殺害して金品を強取しょうと決意し、奥六畳間に入り、起き上ろうとする同女の頭
部を所携の唐鍬で乱打し、続いてその傍に就寝中のA1(当時四九年)および同人
の五男A3(当時一一年)、隣室表下六畳間に就寝中の三男A4(当時一五年)お
よび四男A5(当時一三年)の各頭部を順次同様乱打し、次いで納戸四畳半の間に
入り、起き上ろうとするA1の母A6(当時七七年)を押し倒し、その頭部を同様
乱打して、再びA1夫婦の寝室に引返し、なおも同人の頭部を同様乱打して、右六
名にそれぞれ瀕死の重傷を負わせた上、同室の本箱の抽斗にあつたチヤツク付財布
内及び納戸にあつた箪笥の小抽斗内より合計約七、七〇〇円を強取し、最後に台所
にあつた出刃庖丁をもつて右六名の頸部を順次突き刺すと共にA1夫婦及びA6に
対してはその胸部をも突き刺し、以上の各損傷による失血のためそれぞれ死に致し
て殺害したうえ、A1夫婦の寝室に掛けてあつた洋服上衣一着を強取した(昭和三
一年三月三〇日起訴、以下強盗殺人事件という)
 というのである。
 (二) 一審判決の要旨
 右強盗殺人事件の公訴を受理した一審合議部は昭和三一年三月三一日、既に単独
部に係属していた甲、乙事件をも併合審理する旨決定し、同年五月二日以降その審
理に当つたのであるが、被告人は、甲、乙両事件については全く事実を争わず自白
したものの、強盗殺人の事実については強く否認し、同犯罪発生の当時大阪市h公
園を離れ、山口県下に帰来したことはないと主張し、捜査機関に対する自白は強
制、拷問、誘導による虚偽の自白であるとしてその任意性、信用性を否定してき
た。これに対し、一審は被告人の司法警察員に対する供述調書は任意性に疑がある
として証拠能力を否定したが、検察官に対する供述調書および検察官に対する供述
を録取した録音テープの内容たる自白は、任意性、信用性に缺けるところがないと
認め、そのほか多数の証拠を掲げ、かつ、詳細な証拠説明を加えて、昭和三七年六
月一五日、被告人をいずれも有罪と認め、中間確定裁判の関係で甲事件につき懲役
四月、乙事件および強盗殺人の事実につき死刑を言渡した。
 (三) 差戻前の二審(以下旧二審という)判決の要旨
 右一審判決中、懲役四月を言渡した甲事件については、適法な控訴がなく確定し
たが(昭和三七年九月一二日その刑の執行も終了した。)、乙事件の窃盗は強盗殺
人の事実と併合罪として一個の刑が言渡されている関係でともに控訴されたのであ
る。
 旧二審においても一審同様窃盗の事実関係については全く争いがなく、専ら、強
盗殺人の事実について新らたに証拠調や弁論が行われたが、旧二審は昭和四三年二
月一四日、次のような理由で控訴棄却の判決を言渡した。即ち、まず、一におい
て、拷問、強制を理由に自白の任意性、信用性を争い事実誤認を主張する論旨に対
し、被告人の検察官に対する自白および検察官に対する供述を録取した録音テープ
の内容たる自白が、被告人の取調に当つた司法警察員の拷問又は強制に由来する不
任意性のものであるとの事実を肯認すべき証拠はないとして弁護人等の主張を排斥
し、特に、一審判決が任意性に疑があるとした司法警察員に対する被告人の供述調
書および録音テープもその内容自体や、証人C等多数の証人の証言等に徴し、任意
性を缺くものとは認められないとし、自白の信用性、真実性についても、自白の裏
付けとなる数多くの間接事実、補助事実を認定挙示し、それらと自白内容の符合す
ることを理由に、自白の真実性信用性にも疑がないとして事実誤認の主張を排斥
し、一審判決の事実認定を維持し、ついで二において、別件逮捕、不当長期勾留、
弁護人選任妨害、さらには違憲の論旨及びこれを理由とする自白の証拠能力の缺如
等の論旨に対し、事実上ないし法律上の判断を示して弁護人等の主張を斥け、さら
に三において、量刑不当に基づく職権破棄を求めた弁護人の要請に対し、その必要
はない旨説示している。
 (四) 上告審判決(以下差戻判決という)の要旨
 右旧二審判決に対し、被告人から上告の申立がなされた結果、上告審である最高
裁判所第二小法廷は昭和四五年六月一二日、一三日の両日にわたり、双方の弁論を
きいた上、同年七月三一日次のような理由で「原判決を破棄する。本件を広島高等
裁判所に差戻す。」との判決を言渡した。即ち、本件強盗殺人事件をめぐつては他
に若干の重要な論点もあるが、審判の核心をなすものは、本件犯行の外形的事実と
被告人との結びつき如何であり、右結びつきに関し、直接役立つ物的証拠は発見さ
れておらず、その直接証拠は被告人の捜査機関に対する自白およびこれに類するも
ののみであると前提し、
 (1) まず、旧二審判決が被告人の検察官に対する供述調書のほか、司法警察
員に対する供述調書の記載内容ならびに録音テープ、図面、手記の存在及びその内
容、自白のなされた状況に基いて被告人の自白を信用出来ると認めた点について、
被告人の捜査機関に対する各供述調書を見ると、詳細で、且つ、迫真力を有する部
分もあり、また、犯人でなければ知りえないと思われる事実についての供述を含
み、さらに、客観的事実に符合する点もなしとしないのであるが、他面、供述内容
が、取調の進行につれてしばしば変転を重ね、強盗殺人という重大な犯行を自供し
たのちであるにかかわらず、犯人ならば間違えるはずがないと思われる事実につい
て、いくたびか取消や訂正があり、また一方、現実性に乏しい箇所や、不自然なま
でに詳細に過ぎる部分もあるなど、その真実性を疑わしめる点も少なくない。供述
中には、終始不動の部分もあるが、それは主として捜査官において本件発生当初か
ら知つていたと思われる事実についてのものであり、はたして、被告人のまぎれも
ない体験であるが故に動揺を見せなかつたのか、捜査官の意識的、無意識的の誘
導、暗示によるものであるのか他の証拠と比較して軽々に断じ難い。そのほか、被
告人の手記、手紙、和歌等については旧二審判決のごとく一義的に解釈することに
は問題があり、さらに自白がなされた状況に関する証拠も明確を缺くところが多
く、結局、供述調書の記載自体に徴し、あるいは関連証拠等によつて、本件犯行に
ついての被告人の自白には信用性、真実性が認められるとした原審の判断は肯認し
難いとし、
 (2) さらに進んで、旧二審判決が多くの間接事実、補助事実を認定挙示し、
自白の内容がそれらと符合するが故に自白の信用性、真実性に疑がないとした点に
ついて、そのうち最も重要な六つの点即ち、
 (イ) 被告人が本件発生の時期の前後に亘り、当時の居住場所である大阪市内
h公園に居なかつた事実。
 (ロ) 被告人が本件発生の日の数日前にi近辺において二人の知人(C1、C
2)に姿を見せた事実。
 (ハ) 被告人が本件犯行前数日間徘徊した経路として供述した内容には、当
時、被告人が現にそのように行動したのでなければ知りえない情況が含まれている
かに関して旧二審判決の挙示した
 (1) jのC3経営の菓子店
 (2) D駅付近のルーフインーグ葺の小屋
 (3) k川橋際の散髪屋の前の店
 (ニ) 被告人は、A1方の被害品と認められる国防色の上衣を所持していた
か。
 (ホ) 犯行現場に遺留されていた藁縄は、A7方の農小屋から持ち出されたも
のであることが、被告人の自供に基づいて判明したか。
 (ヘ) 被告人が本件発生の時期において所持、着用していた地下足袋は裏底に
波形模様のあるE印の十文半若くは十文七分のものであつたか。
 以上(イ)乃至(ヘ)の事実はいずれも証拠上確実であるとはいい難く、これに
よつて被告人を本件犯行の犯人と断定することができないのはもちろん、旧二審判
決の如く、これを被告人の自白の信用性、真実性を裏付ける資料とすることも困難
であると説示し、結局本件記録にあらわれた証拠関係を検討すれば、本件犯行の外
形的事実と被告人との結びつきについて、合理的な疑を容れる幾多の問題点が存
し、旧二審判決がその説示するような理由で、本件犯行に関する自白の信用性、真
実性があるものと認め、これに基づいて本件犯行を被告人の所為であるとした判断
は、支持し難い。されば、旧二審判決には、いまだ審理を尽さず、証拠の価値判断
を誤り、ひいては重大な事実誤認をした疑が顕著であつて、このことは判決に影響
を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認
められるというのである。
 そこで当審は、前記各控訴趣意書や答弁を中心に記録を検討し、特に最高裁判所
の差戻判決の指摘する前記六点を中心に、さらに検証、証人尋問、書証、物証の取
調など審理を尽した結果、次のような判断に到達したので、以下順次これを説示す
る。
 法律点の論旨について
 第一、 控訴趣意の大意
 一審判決は、本件強盗殺人事件(以下単に強殺事件ともいう)の証拠として被告
人の検察官に対する供述調書七通および検察官採取の録音テープ三巻(以上いずれ
も自白)を掲げているが、これらは違法な別件逮捕勾留中弁護人の選任権を妨害
し、かつ、捜査官による強制、拷問、脅迫の影響下に作成、採取されたもので、か
かる憲法違反の重大な違法手続により収集された自白は証拠能力を欠くというので
ある。
 第二、 捜査の経緯
 そこで以下論旨に対する判断を示すこととするが、その前提として、強殺事件発
生以来その犯人として被告人が起訴されるに至るまでの捜査経過を記録並びに関係
証拠にてらし調査するのに、その概要は左のとおりと認められる。
 (一) 事件発生から被告人逮捕に至るまで
 (1) 昭和二九年一〇月二五日夜から二六日早朝にかけて本件強殺事件が発生
し、同日午前通報をうけた警察は怨恨説および物盗り説の両面から捜査を進め、物
盗り説からの容疑者として土地勘を有し、窃盗の前歴のある者、兇暴性のある者等
の条件にそう約一六〇名をリストアツプした。
 (2) 右リストの中に被告人の名前もあがつていたが、間もなく被告人が最近
帰郷していないということで一応被告人に関する捜査は打ち切られた。
 (3) 同年一二月二四日怨恨説による被疑者としてA1方隣家のC4が逮捕、
勾留されたが、翌三〇年一月一五日釈放された。
 (4) その後は物盗り説の線で捜査が進められ、右(1)の容疑者リストのう
ち行方不明の者についてアリバイを捜査し、その判明したものについて順次容疑を
消していつた。
 (5) しかし被告人はいぜん行方不明であつてそのアリバイ確認ができなかつ
たところがら、昭和三〇年四月一一日、被告人が昭和二八年農事試験場で窃盗した
との被疑事実で逮捕状を請求し、その発付を得、強殺事件の重要参考人の含みで全
国に指名手配した。
 (6) 同年七月一五日右農事試験場の事件につき被告人のアリバイが明白とな
つたので、昭和二七年七月中旬に発生したA方への住居侵入、窃盗未遂の事実につ
き逮捕状を請求し、その発付を得、全国に指名手配をした。
 (7) 右指名手配の当時捜査当局が被告人に関し得ていた主たる資料として
は、被告人がi村出身者で窃盗の前科があることのほか、被告人が友人のFに「A
方に入つたとき電燈かついて顔を見られたら主人をばらしたかも知れない」旨話し
兇暴な放言をしていたこと、被告人が昭和二八年四月下旬家出して郷里を出、兵庫
県方面で働いていたこと、昭和二九年一一月中頃山口市内G製材所に立ち寄つたと
いう聞込みのあつたこと等であり、被告人が逮捕されるまでそれ以上の資料は何ら
得られなかつた。
 (8) 昭和三〇年八月下旬ころまでには前記(1)の容疑者リストのうち行方
不明の者は被告人のみとなりその余の者のアリバィは一応すべて成立した。
 (9) 昭和三〇年九月末頃天王寺警察署所属H巡査は当時大阪市h公園内でバ
タや生活をしていた被告人をマンホール蓋の窃盗事件で取調べたが、その際被告人
は本籍、氏名、生年月日をいつわりA1と称していた。
 (10) 同年一〇月一九日H巡査は被告人と当時同棲していたF1から被告人
の転出証明書を見せられて被告人の氏名、本籍、生年月日を知つたので念のため前
科の有無を調べたところ、全国指名手配中であることを知り、直ちに被告人逮捕に
赴き、同日午後〇時三〇分大阪市c区l町m番地先路上で被告人を逮捕し、天王寺
警察署に連行して身柄を同署留置場へ収容した。
 (二) 被告人逮捕後、右逮捕事実で起訴されるまで
 (1) 被告人は、右逮捕当夜留置場内で同房者F2らに「窃盗未遂でつかまつ
たが、三人の口と六人の口がばれんかなあ、向こうのでよう次第によつては言わに
や仕様がない、今度はちよつと帰られん」と話し、このことは翌一〇月二〇日F2
から天王寺警察署員に通報された。
 (2) 一方被告人逮捕の知らせを受けた山口警察署ではC警部補、C5巡査部
長を身柄引取りに出発させ、両名は翌二〇日午前一〇時四〇分天王寺警察署におい
て被告人に対しA方への住居侵入、窃盗未遂の逮捕状を示して弁解録取書を作成
し、右事実についての自白調書を作成した。なお弁解録取書には「弁護人のことは
よく分つています。今は何とも申されません」と記載されている。
 (3) 同日夜右両名警察官は被告人を護送して大阪を出発し、翌二一日朝山口
警察署留置場第六房に収容し、被告人は同日午後身柄付きで送検されて検察官の弁
解録取書が作成されたが、これには「父が会つてくれるなら父と相談して弁護人の
ことは考えます」と記載されている。翌二二日右逮捕事実により勾留請求がなさ
れ、山口地方裁判所で裁判官の勾留質問後勾留状が発せられたが、右勾留質問の際
勾留通知先として「父親Iにお願いします」とのみ供述し、弁護人のことには一切
触れていない。そして同日午前一〇時四〇分勾留状の執行をうけた。
 (4) 被告人は翌二三日から二五日に至る間C警部補(主任)等により強殺事
件当時の被告人のアリバイ捜査の一環として、昭和二八年四月被告人が郷里を出て
から逮捕されるまでの生活状態について取調をうけたが、その間終始帰郷の事実は
否定していた。
 (5) 一〇月二六日H1巡査部長により勾留事実につき被告人の経歴、職歴、
家族等に関する調書が作成され、同月二九日山口区検察庁で同事件につき検察官の
取調べをうけ供述調書を作成されたが、これまでの取調方法は公正で紳士的であ
り、何ら不当な点はなかつた。
 (6) 一〇月二六日C6警部(係長)、H2巡査部長、C7巡査の三名は大阪
市に出張し、同月三一日までの間被告人のアリバイの有無について裏付け捜査を行
つた。その結果被告人が昭和二九年一〇月中にJ銀行に売血に行つた形跡がなく、
またh公園で被告人の近くて生活しでいたC8から被告人が一〇月頃大阪にいなか
つたことがある旨の聞きこみを得、さらにF2から前記(1)の話を聞いたほか、
前記(一)(9)の窃盗事件の参考人K等を調べ、一一月一日山口警察署に帰つ
た。
 (7) 右大阪出張の間被告人の取調は行なわれず、専ら被告人が帰郷した事実
があるか否かについてi村近辺を中心に聞き込み捜査が行われ、C1から被告人と
G1製材所で会つたとの情報を得た。
 (8) 検察官は一〇月三一日山口地方裁判所に逮捕、勾留事実で被告人に対し
公訴を提起し、起訴状謄本、弁護人選任に関する通知および照会書は一一月四日山
口警察署署長に送達された。
 (三) 起訴後強殺事件に関する最初の自白調書が作成されるまで
 (1) 一一月二日から再び被告人の取調が開始され、C主任らは前記大阪にお
けるアリバイの調査により得た資料と被告人の供述の矛盾そごする点を中心に昭和
二八年出郷以来の詳細を質問し、これに対し被告人はあいかわらずJ銀行に毎月二
回以上行つていて大阪を離れたことはないと否認した。
 (2) そこでC主任らは一一月四、五日頃から一一月一〇日に至るまで被告人
に対し人間として真実を述べるよう説得したり、天王寺警察署留置場で同房者に語
つた内容について問いただしたりし、J銀行に一〇月中行つていない以上大阪を離
れて山口に帰り重罪を犯しているのではないかもしくは本件を表に出しA1の六人
殺しをやつたのではないかときびしく追及した。
 (3) その間被告人は一一月七日には一〇月中J銀行に行かないことを認めた
ものの依然として出阪の事実は言わず、一一月九日には再びJ銀行に行つていた旨
前の供述をひるがえす一方、明日必ず真実を述べると約束し、一一月一〇日再び明
日真実を話すから今日は留置場に入つて考える旨申し出た。
 (4) なお、一一月八日、九日の両日にわたりC主任は被告人が昭和二八年四
月山口を出て以来逮捕に至るまでの生活状態についての供述調書を作成し、また一
一月八日に前記起訴状謄本、弁護人選任照会書が被告人に交付され、同日被告人に
おいて右照会書の回答欄に自筆で「唯今は自分は金が無いため裁判所で弁護人をお
願い致します」と書き、右書面は一一月九日裁判所に送付された。
 (5) 山口地方裁判所は一一月八日右起訴事件の公判期日を一一月二九日と指
定し、被告人に対する公判期日召喚状は一一月一〇日山口警察署署長に送達され
た。
 (6) 一一月一〇日夜C主任は被告人の挙措態度から自殺のおそれがあるとみ
て、取調べを中止した後は留置場に看守二名を増員して不寝番をたて翌朝まで監視
を続けた。
 (7) 一一月一一日午後二時三〇分頃被告人からの申し出に基づいてC主任ら
が被告人の取調を開始したところ、大阪を出て山口地方に来たことは供述したが、
それ以上のことはC主任らの「主任さんにおすがりするよりほかにどうにもなら
ん」「やつた行為そのものはやはりお断りしなくちやいけない」とか「せつかく今
そこまで話したんじゃから今ついでにいうて」等の説得、追及にもかかわらず供述
しようとせず、取調を一旦中止し、その夜午後八時頃から再び取調を始めたとこ
ろ、「nに行つて強盗をした」「A1の家をおそつた」等ほぼ本件犯行をにおわす
ような供述をするに至つた。そこで更にo山からA1方へ行つた道順につき追及を
はじめたところ、「命を早める」とか「もう一日安心させる」「はあ休まにややれ
ん」「かんにんして明日話す」とか言つて供述を拒否する態度に出、なおも「今日
はそのことだけはかたをつけにやいけんで、いずれ話をせにやけりやいけないんだ
から」等の説得を続けるも「必ずあした話す」と約束して結局その日は午後一一時
半頃までで取調を終つた。
 (8) 翌一二日も取調べたが、結局前夜同様供述を拒否し、「留置場へ入れ
て」という発言が何回もあつて、なお取調が続いた後ようやくその日の取調を終え
た。
 (9) 翌一三日には取調がなく、一四日には被告人の申し出により取調が開始
され、C6係長も加つたところ、概略次のとおり、すなわち、「このたびのiのA
1の六人殺しというような事情について自分が大阪を出てからこっちへいつ帰つて
山まで行つた話をして、A1の家のどこから入つてどこからどういう物を持つて出
たことにつきどうしてもいわにやならんことになつており、こないだからその気に
なつて一等役者みたいに犯人になつたろうと思つて供述して来たが、A1のうちそ
のものが分らんのでこれ以上話ができない」と供述し、結局C主任は「この話はて
んから問題にならんじゃないか」と、C6係長は「始めから考え直しなさい。そり
やもうそういう話だつたらいくら聞いたところでおんなじことだ」と言つてその日
の取調を終えた。
 (10) 同日検察官は山口地方裁判所に対し先に指定された公判期日を「当職
さしつかえのため」との理由で変更されたい旨請求し、即日同裁判所は被告人に対
し右期日変更についての意見を求め、一六日被告人は「意見はありません。」と自
署した回答書を提出したので、裁判所は一七日公判期日を変更し、期日は追つて指
定する旨決定し、一八日右変更決定は山口警察署署長に送達された。
 (11) 被告人は(9)の否認後しばらくこれを維持し、その間一一月一六日
にはマンホール蓋窃盗事件につき供述調書が作成され、またC主任ら警察官の被告
人に対する人間性にたち帰つて真実を話せとの説得が続けられた
 (12) 一一月一八日ごろから被告人は再びi付近の徘徊状況、逃走経路等に
つき供述をはじめ、一一月二一日までには侵入口、逃走口、兇器を含めて犯行状況
をほぼ全面的に供述するに至り、一一月二二日には強殺事件について最初の自白供
述調書が作成された。
 (13) 一一月二日から一一月二二日までの二一日間のうち被告人は少くとも
一八日間取調をうけ、そのうち少くとも八日間は夜間取調であり、その取調開始時
刻は、午後八時か九時頃からで、終了時刻が午後一〇時ないし一一時半頃までのも
のがほとんどであり、その取調方法は常に二人ないし三人の警察官がこもごも尋
問、説得し、あるいはリレー式に前の警察官に述べた供述を後の警察官にくり返し
供述させるというものであつた。
 (四) 最初の自白調書作成後強殺事件について起訴されるまで
 (1) 一一月二三日からも被告人の取調はほとんど連日行われ、一二月三一日
まで取調がなかつた日と思われるのは四日間位であり、このうち夜間取調もひんぱ
んにあり(明らかなもの一八回)、徘徊、逃走経路、国民服、犯行状況のほかとく
に被告人の着衣の処分先について取調が行われた。
 (2) 被告人は一二月八日「明日必ず真実を話すから休ませてくれ」と言つて
その翌九日「今迄述べたことはすべてうそである」旨否認したことがあり、また一
二月一六日徘徊経路について当初の自白と全く異る供述をし、着衣の処分先につい
ては何回も供述を変更し、p峠で焼いたと言つたり、q峠で焼いたと言つたり、r
川に流したと言つたりその都度警察官において被告人を連行しその指示する場所を
捜索したが、遂に着衣は発見されなかつた。なお、右期間中作成された供述調書は
八通でいずれも自白調書である。またこの期間の取調方法も前記(三)の(13)
と全く同様であつた。
 (3) 警察官は右被告人取調のほか、大阪アリバイ関係の参考人C9、C8等
の取調を行なうとともに、一二月一日頃類似わらなわの所在についてA7方に、一
二月三日国民服上衣の存否についてC10方に、一二月八日頃地下足袋販売店の所
在について名古屋駅裏のC11方に、一二月二七日から三〇日にかけ被告人が寝た
場所等につきD駅付近にそれぞれ係官を派遣し、被告人の供述の裏付け捜査を行な
つた。
 (4) 被告人は一二月二日歯痛により歯科医師C12の、また一二月二〇日下
痢により内科医師C13の各診療をうけているが、その他に治療をうけ、薬を服用
した形跡はない。
 (5) 一二月一〇日検察官は被告人に対しマンホール蓋窃盗事件につき公訴を
提起し、同起訴状謄本、弁護人選任に関する照会並びに通知書は同月一三日山口警
察署署長に送達され、被告人は一二月一八日「私は貧困して現在金がないので裁判
所で弁護人をお願い致します」との回答をした。なお右事件については前記住居侵
入、窃盗未遂事件と併合して審理する旨の併合決定が一二月一五日されている。
 (6) 一二月三一日被告人の理髪、着がえ(警察官からのシヤツの差し入れ)
が行なわれ、被告人はその心境を記した短歌を提出した。
 (7) 昭和三一年に入つてからも警察官による被告人の取調べは続行され、一
月八日、一五日、二三日にC6係長による供述調書が作成され、また徘徊経路に関
する裏付け捜査が行なわれた。なお、これと並行して一月一一日頃から検察官検事
C14は前記山口警察署二階の取調室で検察事務官のほかC5巡査立会の上被告人
の取調を開始した。
 (8) その後右検察官は一月一三日、一四日は午前一〇時頃から午後七時前ま
で、二七日は午後三時頃から午後七時頃までいずれも被告人を取調べて供述調書
(いずれも自白)を作成し、被告人の身柄は二月一日山口警察署から山口刑務所に
移監されたが、その直前被告人はC6係長の子供から菓子をもらつたお礼と心境を
記した子供宛の手紙を出している。
 (9) 刑務所移監後は家族との面会も自由で、被告人の姉、母等がひんぱんに
訪れ、(二月一六日、二月二〇日、二月二五日)その際被告人は私選弁護人の選任
についてすすめられたのにその都度起訴になつてからでよい旨答えている。
 (10) 右検察官は刑務所内でも午後五、六時頃から二、三時間被告人を取調
べ、二月七日、八日、一五日、一九日にそれぞれ供述調書を作成したが、その後三
月二二日は強殺事件全般について被告人の供述を録音することにつき被告人の同意
を得て刑務所内で午後一時から午後五時ごろまて三巻の録音テープを採取し、翌二
三日A7方農小屋からA1方までの道順、A1方での犯行の状況につき検証を行な
い、検証調書が作成された。
 (11) 検察官は三月三〇日山口地方裁判所に強殺事件につき公訴を提起する
とともに、同事実についての勾留状発付を求め、裁判官は被告人を勾留質問(否
認)のうえ勾留状を発付し即日執行されたが、右起訴状謄本、弁護人選任通知書も
右勾留質問の機会に送達された。
 (12) 山口地方裁判所は三月三一日強殺事件に前記住居侵入、窃盗未遂事件
を併合して審理する旨決定し、四月二日強殺事件等につき国選弁護人として竹内俊
平弁護士を選任したが、これは被告人の強殺事件についての弁護人選任に関する照
会に対する回答(貧困のため弁護人を裁判所で選任してくれと記されている)が裁
判所になされる(四月七日)前であつた。
 (13) その後被告人は四月二〇日弁護士小河虎彦、小河正儀を弁護人に選任
する旨の選任届を裁判所に提出し、同日竹内弁護人は解任された。
 以上の事実が認められる。
 右認定事実中(二)(1)、(三)(2)、(7)、(9)の認定についてはと
くに被告人、弁護人において強く争つているところであり、また趣意に対する判断
上も重要であると思われるので、認定理由を説明しておく。
 (イ) (二)の(1)すなわち、被告人が逮捕直後天王寺署の同房者に対し
「三人口」とか「六人口」とか話した事実について、被告人は一審以来右事実はな
かつた旨供述している。しかし、被告人の言葉が一語一句間違いなく正確に同房者
に伝えられたかどうかはともかく、被告人が全く話さなかつた虚偽の事実をF2ら
同房者が山口署員でなく天王寺署員にわざわざ申告する理由は見当らず、被告人が
入房当時逮捕事実以外に何らかの重大な犯罪をおかしていて或いは虚勢を張つて重
大犯罪をおかしているように装い同房者にそれらしい話をもらすことは十分考えら
れ、この点に関するF2らの証言は信用できる。
 もつとも右言葉の意味は三人組或いは六人組による犯罪というのであるか、三人
殺し、六人殺しという意味であるか必ずしも明らかでなく、このときの被告人の言
葉がいわゆる自白にあたるか否かは確定できない。
 (ロ) (三)の(2)すなわちC主任らが被告人に対しいわゆる本格的取調を
開始したのが、一一月四、五日ごろからであるか、或いは検察官主張のように、一
一月七日からであるかについて、本件証拠上は必ずしも明確でなく、ただ証二七号
(捜査日誌)一一月四日の取調中の態度の項に「天王寺警察署において殺しのこと
を云々しているが、このようなことは全然語らず」と記載されていて、この日にす
でに「六人殺しのことを天王寺署でも言つているではないか」と追求したともみら
れるし、一一月五日の取調中の態度の項に「人格的人間性について説明し真実性あ
る人間として真の声を聞かすよう説得し、被告人も感涙しあるいは神妙な態度であ
つた」と記載されていて、強殺事件についての取調が本格的になつてきたことをう
かがわせるものがあり、また(二)の(8)のごとく、一一月四日に山口警察署署
長にまで送達された起訴状謄本が(三)の(4)のとおり一一月八日に初めて被告
人に交付されていること、警察官は当時大阪出張の結果および一一月二日からの復
習的取調の結果から被告人の強殺事件の容疑についてかなり強い心証を得ていたと
うかがわれること等諸般の状況にてらし、強殺事件についての本格的取調が一一月
四、五日ごろからであつた蓋然性が強いと認められる。もつとも右本格的というの
が強殺事件の被害者や件名等を明示してA1の六人殺しをやつたのではないかと追
及した取調であつたのか、単にアリバイに関する被告人の供述の矛盾を追及し山口
に帰つて何か悪いことをしたのではないかというように取調べたものであるかは必
ずしも明らかでない。取調警察官はいずれも被告人が自白するまで強殺事件の件
名、内容を表に出さなかつたと証言し、被告人も「何で取調をうけているのか分ら
なかつたので同房者に最近大きな事件はなかつたかなど聞いてはじめてiの六人殺
しを知つたのである」と供述し、また警察官による録音テープ中一一月一一日の分
と考えられる一巻ないし七巻の警察官の質問には強殺事件を表に出したものが全く
存在しないので、これらをあわせ考えると、その頃の取調では強殺事件の名前は終
始表に出さなかつたようにも思われる。しかし他方アリバイの追及自体強殺事件発
生の日時を言わなければ意味をなさないし、また単に何か事件を起したのではない
かとだけ追及する取調というものが実際上可能であるか疑問であるし、被告人はこ
の点で「iの六人殺しを一口言えと言つて責められた」と供述し、また警察官録音
一〇巻で(三)の(9)のように「このたびのiのA1の六人殺しというような事
情についていわにやならんことになつていますが……」と供述していることからみ
ると、本格的取調に入つてからは大阪を出iに帰つて六人殺しをしたのではないか
と追及したとも考えられる。或いは当初は強殺事件の名を表に出さず中途から名前
を出して取調べたものとも考えられ、そうすると、被告人の矛盾したような供述
(一方では事件名を出して責められたと言い、他方では事件名が分らなかつたと言
う)も時期を異にした取調状況を言つたものとして理解できなくはなく、被告人が
事件名を聞いたという同房者がF3とすると同人が山口署留置場に入監したのは一
一月五日夜であるから、少くとも同日以前の取調では事件名は表に出なかつたこと
となり、一一月六日以降iの六人殺しをしたのではないかとの追及が始まつたもの
とみられなくはない。ところが、F3は被告人から「何か大きな事件はなかつた
か」と聞かれたのでなく、iの六人殺しの日はいつだつたかと聞かれただけである
旨証言しているので、この証言が真実とすると、被告人の何の事件か分らなかつた
との供述自体その信用性が疑わしいこととなる。結局本件証拠上は本格的取調にお
ける質問の具体的内容についてこれが明確となつていないといわざるを得ない。
 (ハ) (三)の(7)すなわち被告人が本件犯行をにおわす供述をしたのが二
月一一日であることは警察官録音テープ一巻ないし七巻および捜査日誌の同日の項
の記載により認められる。被告人は自白の日時を一一月一四、五日と供述主張する
のであるが、旧二審公判では一一月一〇日であるとも供述していて、右一四、五日
と主張する根拠は必ずしも明白でなく、一一月一一日に採取された警察官録音テー
プ一巻ないし七巻の内容と明らかに食い違つている。もつとも弁護人らは右一巻な
いし七巻が一一月一一日以降に採取されたものと入れ替えられていてその全部が同
日に採取されたものでないと主張するのであるが、警察官による録音採取が一一月
一一日から始まつたものであることは当審証人C15の証言するところであり、他
に録音の始まつた日が別の日であることをうかがわせる資料が全くないから、右証
言を真実と認めるほかなく、そうすると前記一巻ないし七巻の内容がその余の録音
テープの内容或いは被告人の供述調書の記載内容と対比して最も初期のものと推定
され、かつ一巻ないし七巻の中に明らかに他の日に採取されたと認められるものが
含まれておらず、その内容において合理的な説明をなしうる程度に継続性、統一性
を有するなら、一巻ないし七巻は一一月一一日に採取されたものと認められるの
で、以下この点について検討する。
 先ず一巻の内容は、「大阪を二回出たことがあり、一回目は一〇月五、六日頃広
島まで行き、二回目は佐波郡からiを通つて小郡から大阪に帰つた」というもの
で、二回目いつ大阪を出たかについて答えようとせず、ついで録音中断があつて、
はいていたスボンの色についての応答で終つている。
 次に二巻は「手荷物はないんか」との質問で始まり、ついで「二へん目大阪をい
つ出たんか」との質問になつてまた被告人は答えず、ただ二回目大阪を出た目的の
み答えて終つている。
 三巻はC主任の「崇高な心になれ」という説教に始まり、一とき休めということ
で雑談になり、「そいじや約束したでよし」というC5巡査の発言で録音中断し、
次に「パンは食べたか」の問答後再び録音中断し、その後「心を落ちつけて話しな
さい」「話します」という問答から始まつて、「二三日大阪を出、五日の晩iにお
り青かんし、nへ行つて強盗をやり、二八日大阪に帰つた」「A1方に行つて金を
にぎつて大阪に帰つた」「sからt、u、v、iの製材所を経て二六日の日にA1
の家をおそうてD1駅の上側を通つてwにまわつた」との供述があり、C主任らか
ら「A1方に何があつた、何を持つて出た、入るところはどこ、出たところをどこ
と話さなくては」と聞かれ、沈黙のまま終つている。
 四巻はC5巡査の「ようのう話してくれたのう」「あの仏に対して君が謝らなく
ちやいけない」という言葉で始まり、「どこから入つた」との質問に被告人が全く
答えず、C5巡査、C主任の「それだけ言え」という執拗な説得のあと、被告人の
「口から出したらいけんのじや」等の答えがあつて終つている。
 五巻は「のうもうひと押しじやろうが」とのC主任の説得に始まり、大阪を出た
状況、そのときの服装(地下足袋を含む)、防府に下車してからの状況、iに入つ
てo山に行つた状況についてのくわしい供述の後、「ほんのひとつ調子でちょうな
を持つとつたんや、事の成り行きがあねいなつた」との発言があり、o山からどう
行つたかとの質問でまた答えがつまり終つている。
 六巻は「そこまで言つて途中で止まつちやいけんわなあ、話をせにや」との説得
が続いて録音が中断し、「命がちぢまる」「どうも統一がとれん」とかため息が続
いて再び録音中断し、「房に入つて地図を書く」「nが目の前に写つて自分では話
せん」という発言が続き終つている。
 七巻は「一日だけ安心させる」との被告人の発言に始まり、「iのどことどこに
行つた」という質問に答え、「どつちから行つてどう出た」との質問には全く答え
ず、結局「一日だけ迷うてみたい」との発言で録音中断し、右中断後は「あしたに
なつたら話す言つたな、あすこの山からおりたところから話しなさい」との問に始
まつていて明らかに一日後の録音であることを示している。
 以上概略その内容を摘記したところを通覧すれば、その内容は明らかにその余の
録音内容と対比して最も初期のものであり(ことに二回大阪を出たこと、逃走経路
がD1駅の上を通つていること、o山を降りてからA1方へ行く道を答えていない
ことは初期の供述であることをうかがわせる)、しかも各巻の最終と次巻の冒頭に
連絡があり、内容は継続していて統一性もある。もつとも一一月一一日の取調内容
が残りなく全部採取されたものとは認め難く、採取もれのあることは否定し難い
が、だからといつて後日録音のものを意図的に前につぎたし編集するといつた操作
をしているとも認め難い。たとえば一巻に被告人が佐波郡を通つた話が出て、その
後その話は一二月一七日付供述調書まで出ていないが、「二回目に出たとき佐波郡
に入つて」と明らかに被告人自ら一個の文章で供述していて、二回出たことが最初
の供述と認められる以上同じ文章の中の佐波郡の供述を後日の分であるといえない
こと明白であり、また「きべまで行つたんか」との質問はなく、「きべまで行つた
んです」と被告人自ら言つたことが一巻の録音を聴取すれば明らかである。さらに
一巻末の服装に関する問答は二巻の冒頭とつながつていること前記内容にてらし明
らかで、ただこの部分はある程度質問応答が録音上省略ないし採取もれされている
だけと考えられる。また一巻ないし七巻の中には被告人がすらすらよどみなく供述
している部分とひどく言いしぶり、ため息ばかりといつた部分とが交互に出て来て
一種の統一性を欠いているといえないことはないが、右部分を仔細にみるとすらす
ら供述しているのは、着衣、道順、逃走経路等であり、しぶつているのは二回目大
阪を出た日時、o山からA1方への道順、侵入口等であり、質問事項のいかんによ
つて供述態度の変化するのは不自然といえない。次に三巻と五巻に柱時計の音が録
音されており、弁護人主張のごとく両方とも一〇の音に聞えるなら、どちらか一方
は明らかに他日のものといえるのであるが、三巻の柱時計の音は検察官主張のよう
に九の音に聞えないことはなく、右音が聞こえるのが三巻の再度の録音中断後取調
べを再開して間もなくであり、六巻の中の被告人の「八時になつたら出ようと思と
つた」との供述にてらし右音が九時を示すものと認められ、三巻と五巻の内容が別
の日に録音されたものであることを示すほど明らかに食い違つているとはいえな
い。結局以上検討したとおり一巻ないし七巻については一一月一一日に録音された
ものと認められるから、弁護人らの主張は採用できない。
 (二) (三)の(9)すなわち一一月一四日に被告人が否認したことがあるか
の点について、この問題は結局警察官録音テープ一〇巻が一一月一四日に採取され
たものであるか否かというに帰するのであるが、この内容は前記(三)の(9)に
摘記したとおりであつて、これによると、被告人は強殺事件の犯行をほぼ認めた
が、いまだA1方への侵入経路、侵入口を供述していない段階に否認したことが明
らかで、この段階はまさに一巻ないし七巻(その内容は右(ハ)の概要のとおり)
および翌一二日に録音したとみられる八巻、九巻(その内容は七巻の続きで、o山
からA1方にどう行つたかについて答をしぶり結局言わないで取調を終つている)
の内容の続きをなすもので、一〇巻中に「きのうお休みのときだろうと思つたけ
ど」との供述にかんがみると、一二日の翌日一三日(日曜)が取調べを休んだ日
で、一〇巻が一四日に採取されたことが自から明らかである。
 第三、 弁護人選任権侵害の主張に対する判断
 (一)この点に関する論旨は要するに、被告人は住居侵入、窃盗未遂事実で逮捕
されて以後弁護士の名前をあげて弁護人依頼の申し出をしたのに捜査官は全くこれ
に取り合おうとしなかつたものであり、また右事実で起訴された後被告人は国選弁
護人選任を希望する書面を差し出しているのに、裁判所は強盗殺人事件についての
起訴があるまで選任しようとせず、また検察官が第一回公判期日の変更申請をし、
裁判所がこれを認めたのは、国選弁護人の選任をことさら遅延させその選任権を侵
害したものであつて、これら弁護人依頼権、選任権の侵害は憲法三四条、三七条三
項に違反するというのである。
 (二) 先ず被告人が捜査段階において私選弁護人を依頼したい旨捜査官に申し
出たことの有無について検討するのに、(1) 被告人は前記第二の(二)の
(2)、(3)のとおり逮捕勾留された段階ではまた私選弁護人のことは捜査官に
も裁判官にも申し出ていないこと、(2)被告人は第二の(三)の(4)のとおり
昭和三〇年一一月八日付で、同(四)の(5)のとおり同年一二月一八日付で、同
(四)の(12)のとおり昭和三一年四月七日付でそれぞれ裁判所からの弁護人選
任に関する通知および照会書の回答欄に「貧困のため国選弁護人をお願いします」
との趣旨の回答をしていること、(3)被告人は同(四)の(9)のとおり刑務所
に面会に来た姉や母に対しそのすすめにもかかわらず私選弁護人の選任は起訴にな
つてからでよい旨しばしば述べていることの諸事情に照らすと、旧二審証人C14
の「被告人の取調べ中誰からも弁護人選任の申し出も相談も受けたことはない」と
の証言、当審証人Cの「被告人は国選弁護人を頼むということは言つていたが、私
選弁護人を頼むとは言つてなかつた」との証言はいずれも信用でき、被告人の「小
河弁護人を頼みたいとたびたび警察官に言つたが、警察はお前は金がないのに私選
を雇うとはもつてのほかだと言つて書類を出してくれなかつた」旨の供述は信用で
きない。所論は、いまだ強殺事件について取調をうけることを知らなかつた逮捕、
勾留の当初或いはすでにやむなく自白していた刑務所移監後における被告人の言動
からは、強殺事件について本格的取調が始まつたころの被告人の意思を推定するこ
とはできないと主張するのであるが、勾留の当初はともかく、検察官の取調を受け
ていてまだ起訴されるか否か定まつておらず、ことに検察官において起訴すべきか
否か迷つているようにさえうかがえる被告人の運命を決する最も大切な時期に、し
かも被告人も元警察官としてそのことを十分了解していると思われるのに、面会に
来ていた母や姉からすすめられても私選弁護人の依頼をしなかつたことにかんがみ
ると、捜査段階において被告人にいかなる理由からにせよ私選弁護人を依頼するつ
もりがあつたものとは認め難く、右主張には賛成できない。
 (三) 次に国選弁護人選任権侵害の有無について検討するのに、被告人が最初
の起訴後である昭和三〇年一一月八日付で国選弁護人選任の請求をしているのに、
翌三一年四月二日に至るまでこれが選任を行なつていないことは前記第二にてらし
明らかで、刑事訴訟規則一七八条三項に違反しているのであるが、捜査段階におけ
る国選弁護人の選任が認められていない現行法のもとでは、国選弁護人は公判段階
における被告人の弁護活動にあたるため選任されるものと解せぜるを得ないから、
通常第一回公判期日前に公判準備に支障のない余裕をもつて選任されれば被告人の
防禦権は全うされるといい得、本件第一回公判期日は昭和三一年五月二日であるか
ら、本件国選弁護人の選任をもつて、あえて憲法三七条三項に反するものとまでは
いうことはできない。もつとも起訴されることによつて被告人は検察官と対等の当
事者たる地位を取得し、他の余罪について取調をうけていようといまいと右地位を
失うことはなく、起訴の時点からその事実につき迅速な裁判をうける権利を有し期
日の変更についても重大な利害関係を有するから、起訴事件についてもそのような
決定がなされる事態が生じたときは被告人の正当の権利を擁護すべき弁護人の存在
することが望ましく、ことに被告人が余罪について取調をうけているときは当初の
起訴事件についての審理が遅延するおそれが多大であるからなおさら弁護人の早期
選任が望ましいと考えられる。そうすると、山口地方裁判所が第一回公判期日の指
定後も、その期日変更の申請をうけた際も、追起訴があつた際も国選弁護人の選任
を行なわず、強殺事件の起訴後はじめて選任したのは妥当の措置とはいえない。な
お所論は、期日変更の措置をとつたことをもつてことさら国選弁護人の選任を遅延
させようとしたものであると主張するが、期日変更の有無にかかわらず国選弁護人
は起訴後いつでも選任され得るのであるから、裁判所が期日変更したことをもつて
ことさら国選弁護人の選任を遅延させようともくろんだものとはいえない。
 第四、 任意性についての判断
 (一) この点に関する論旨は要するに、被告人は警察官により強制、拷問、脅
迫をうけて自白したものであり、被告人の検察官に対する供述調書七通、検察官採
取の録音テープ三巻はその影響のもとに作成、採取されたものであり、かつ、不当
な長期勾留の後得られたものであるから、右自白は憲法三八条二項に違反するとい
うのである。
 (二) そこで先ず警察官による強制、拷問、脅迫等任意性を疑わせる事実があ
つたか否かについて判断する。
 (1) 被告人は一審以来当審に至るまで終始警察官よりはげしい拷問をうけた
と供述し、その内容として、長時間正座させられ、体がしびれ小便が出ても分らん
ようになつたこと、かわるがわる打つ、蹴る、殴る、耳をねじまげる、鼻をはじ
く、投げ飛ばす、指の間に鉛筆をいれてねじあげる、頭をひもで後ろのズボンにく
くりつけて頭をそらせる、顔を箒で逆なでする、正座した膝の上にのる、寒中にや
かんの水を首筋にたらしうちわであおぐ、金だらいで冷やす等の暴行を加えられ、
そのため歯ぐきから血がみ切れない位出たり、頬の一方がよおけはれて青くなつた
り、着衣が破損したこと、食事も満足に食べさせられず、昼食は晩に、晩食は夜中
一二時頃に食べさせられ、幾晩も留置場に帰らせてくれなかつたこと等をあげてい
る。
 これに対し、被告人を取調べた警察官C6、C、C5、C7、C16は、一審、
旧二審、当審においていずれも「被告人の供述するような拷問を行なつたことは全
くなく、任意性を疑われないよう十分注意した」旨証言している。
 (2) そこで被告人の右供述を裏付けるものとして提出された各証拠について
順次検討する。
 (イ) 一審証人C17の証言(五の一六四六―五冊一六四六丁の意、以下同
じ)。その要旨は、「Lらの山林詐欺事件の山口署員の調べをうけていたとき、被
告人が、七、八名の刑事に連れられて取調室に入るのを見た。その際右部屋から
三、四人のどなりつける声が聞え、『あいたた』とうなるような声が聞えた。机を
叩くバタバタとする音や大声が聞えた。」というのである。しかし、当審証人C1
8の証言、C17の司法警察員に対する供述調書抄本六通、検察官に対する供述調
書抄本五通、M作成の送付書によると、Lらの山林詐欺事件でC17が山口署に出
頭した期間は昭和三〇年一〇月一七日から同月二二日までで二三日以後は山口署で
取調を受けてないことが認められ、他方被告人は一〇月二一日山口署に引致された
ばかりで、二二日には裁判官の勾留尋問を受けている段階であり、その頃の調べに
ついては被告人さえ取調が紳士的であつたと供述しているのであるから、C17の
証言はおよそ信用できない。
 (ロ) 一審証人C19の証言(五の一六六四)。その要旨は「山口署でLの詐
欺等事件で調べを受けていたとき、二階の講堂の向いの一〇畳か一五畳位の部屋の
取調室の中から二、三大きな声をされたのを聞いた。このようなことを聞いたのは
一日だけである。」というのである。しかし当審証人C18の証言、C19の司法
警察員に対する供述調書抄本三通、検察官に対する供述調書抄本四通、同人作成の
上申書謄本一通によると、C19が山口署に出頭した期間は昭和三〇年一〇月九日
から同月二三日までであり、以後山口署で取調を受けていないことが認められ、そ
うすると、(イ)のような被告人の取調状況と対比しC19の証言も信用できな
い。
 (ハ) 一審証人C20の証言(四の一五五八)。その要旨は「自分が昭和三一
年三月頃山口署に勾留された翌朝被告人も留置されていた。そのとき被告人は相当
弱つていて向つて右のこめかみが赤く血がにじんではれ上つていたので、私がどう
したのかと聞くと、何か訳のわからんことで毎日殴られたり叩かれたりして調べら
れている。何の目的で調べられるか分らんと言うので、お前六人殺しの容疑を知ら
んかと言うと、知らんと言うので、私はこんなところで頑張つているとやられるか
らうそでも早くはつきり言つて未決にまわれと言つた。私は二号房で被告人は四号
房にいたが、その頃暴力団関係者が大勢入つていて、N、Nと騒ぐので、被告人は
八号房に変つた。深夜一二時頃か一時頃房へ帰つて来たのを見た。その後一、二ヶ
月して私が山口刑務所に未決で収容されているとき被告人に会つたが丸々と太つて
いて早く刑務所にまわつてよかつたとも言つていた。」というのである。しかし、
C20の整理原票謄本二通、同人の勾留者整理原票謄本二通、同人の指紋票謄本、
証三七号(留置人名簿)、三九号(留置人現在簿)によると、C20は昭和三〇年
一〇月二七日職業安定法違反で山口署留置場第四房に収容され、同月二九日第三房
に、同月三〇日第四房に戻され、一一月七日山口刑務所に移監されたこと、C20
は右勾留中一〇月二九日賍物罪で逮捕され、一一月九日公判請求されたが、一一月
一六日釈放されたこと、C20が刑務所に移監された被告人と会うことができた機
会としては、C20が傷害事件で逮捕され刑務所に勾留された昭和三二年一月一〇
日から同月一九日までの間で、その他に両者が日時を同じくして勾留されていた形
跡のないことが認められる。また、証三九号、当審証人C21の証言によると、被
告人が第六房から他房に移つた事実がなく、また、一〇月二七日から一一月七日ま
での留置人は毎日一〇人足らずで暴力団員は誰も収容されていなかつたことが認め
られる。そしてこれら事実と右C20の証言とを対比すると、右証言中C20が山
口署に勾留された日時、被告人が留置場内で房を変えたこと、暴力団員が多数入つ
ていたこと、最初被告人に会つてから一、二ケ月後刑務所でまた被告人に会つたこ
とはいずれも虚偽であることが明らかであり、さらにC20が留置された翌日とす
るとそれは昭和三〇年一〇月二八日で、被告人がまだ本格的取調を受けていない段
階であるし、C20の勾留期間中のことであるとしても被告人自身こめかみに傷を
うけたことはないと当審で供述しているので、かかる多くの虚偽の事実を含むC2
0の右証言はその余の部分についてもそのままは信用できない。
 (ニ) 一審証人C22の証言(五の一六三六)。その要旨は、「昭和三〇年一
一月二七日頃から約一ケ月山口署留置場第四房に留置されていたことがあるが、そ
のとき被告人は第六房にいた。当時被告人は大変やつれており、夜の一二時すぎて
房に帰つて来たことが一、二回あつたと思う。」というのである。なるほど証四〇
号(留置人現在簿)によると、C22は昭和三〇年一一月二七日から一二月二四日
まで山口署留置場第三房もしくは第四房に留置されていたことが認められ、被告人
の様子を見聞する機会があつたことは明らかであるが、当審証人C21の証言によ
ると、留置場内に時計の備え付けはなく、腕時計等の携帯も許されていなかつたの
で、C22の右証言中「一二時すぎ」との時刻の点についてはその正確性に疑問が
ある。また「大変やつれていた」との証言については、その内容自体どのようにも
解されるし被告人の具体的様子は右証言のみでは明らかでないが、当時夜間取調も
かなり行なわれていた時期であるから一応の信用性があると考える。
 (ホ) 被告人着用の衣類が拷問により破損し、一部が行方不明になつていると
の被告人の供述。被告人の右行方不明になつた衣類を含む当時の着衣の種類、量に
関する供述は、一審以来当審に至るまで絶えず変転流動していてこれを矛盾なく理
解することはできない位であり、被告人においてことさら提出証拠にそうよう虚言
を弄しているのか、単に記憶が不確実であるにすぎないのか分らないけれども、い
ずれにせよこの点に関する被告人の供述をそのまま信用することはできないのであ
る。もつとも被告人撮影の写真(昭和三〇年一〇月二一日付、同年一一月四日付―
証四七号、昭和三一年一月頃―証四八号、証四九号、同年二月頃―証四一号)によ
ると、逮捕直後頃被告人の着用していた徳利シヤツ、開襟シヤツがその後の写真に
写つていないことが認められるが、右写つていないのはこれらが何者かにより処分
されたことによるのか、撮影時たまたま着用していなかつたことによるのか必ずし
も明らかでない。かりにこれが処分されたことによるとしても監獄法五三条により
留置人が着用している衣類については担当官に保管を委託しない限り留置人名簿に
記載しない建前である(同法五四条にいう「私に所持する物」とは所持を禁止され
た物をいうのであり、同法三三条により衣類は自弁が原則で、日常生活に必要な衣
類の着用は本人の自由に委ねられている)から、右名簿に廃棄等の記載がないこと
から直ちに着衣が拷問により破損したため警察官により勝手に処分されたものと推
定することはできない。また、旧二審および当審証人C5の証言によると、昭和三
〇年一二月末着古しの丸首シヤツ、緑色のチョッキ、薄ねずみ色のズボンを被告人
に与えたことが認められるが、それは被告人の汚なくて朽ちそうになつた着衣をみ
て同情して与えたものであるというのであつて、被告人の逮捕時における生活状
況、季節、勾留期間、差し入れ関係等を考慮すると、右一事をもつて拷問による衣
類の破損を推測することはできない。
 (ヘ) 被告人の受傷の有無、程度。被告人の供述するような拷問が真実そのと
おり行なわれたとすると、単に被告人の供述する程度の受傷にとどまつたものとは
考えられないばかりでなく、被告人の供述する頬がはれたというのは一審証人C1
2(歯科医師)によると虫歯による口内のはれであると診断されており、被告人の
こめかみに血がにじんでいたとの前記(ハ)のC20証言の信用できないことは
(ハ)に説示したとおりである。また捜査日記(証二七号)一一月二二日の項に
は、「被告人の両瞳、顔面がふくれ」との記載があるが、それは同所にも記載され
ているとおり睡眠不足の場合にもあり得、拷問の結果であるとまで認めることがで
きず、その他右(ホ)の各写真、一審証人C13(内科医師)の証言、当審証人C
21の証言に照らしても、当時被告人に外傷の存在はもちろん、拷問の結果とみら
れる身体的異常(小便のたれ流しを含む)のあつたことは認め難いのである。
 (3) 一審公判において検察官から自白の任意性立証のためとの趣旨で提出さ
れた警察官採取の録音テープ一巻ないし三〇巻について検討する(以下録音の引用
は便宜当審検察官作成にかかる録音テープ反訳綴の頁数によることとし、たとえば
「一―一C5」は「一巻一頁発言者C5巡査」の略記である)。
 右録音テープは警察官が隠しマイクにより被告人不知の間に録取したもので、昭
和三〇年一一月一一日から同年一二月二五日までの被告人取調の状況が録音されて
いるのであるが、遺憾なことに捜査官の判断により取捨選択が行なわれその全部が
録音されておらず、むしろ全取調時間に比すれば極く一部であり(たとえば、捜査
日誌記載の取調時間と対比しても、一一月一九日は同日誌で八時間、録音時間四五
分位、一一月二〇日は同日誌で三時間五〇分、録音時間二四分位、一一月二一日は
同日誌で五時間、録音時間二時間半位である)、その上新しくなされた重要な被告
人の供述或いは重要な供述の変更の際の経緯についての録音がほとんどなく(たと
えば徘徊コースの変更等)、明らかに復習と思われる録音がある(たとえば一四―
三〇四以下、一九―三九七以下、二二―四八七以下)ので、現存する録音テープに
あらわれた以外の具体的取調状況は右あらわれている部分とかなり異なるのではな
いかとの疑をいれる余地があり、任意性の判断にあたつてもこの点を看過できな
い。
 (イ) 「一服煙草をよばれてもよろしいですか」(一―一被告人)、「うん煙
草」(一―一C)、「吸いながらでいいからな、ほいでひざもなあくずしてなあ」
(一―二C)、「どうもひざくずします」(一―二被告人)、「お茶をついで、水
をやろうか、一服吸うて一息に話をしてしまえよ」(一―一九C5)、「ほいじや
あねちよつと休もうな、ここで一息しようや、お茶飲んでな」(二―二八C)、
「お茶飲むかお茶いれたろーの」(二―二八C5)、「まあ今一服煙草吸うての」
(二―三一C)、お茶をつぐ音(二―三一)、「お茶飲んだか」「あー」(二―三
二C5、被告人)、「朝主任さんに貰うたパンうまかつたですな」(二―四五被告
人)、「煙草もなくなつたらいえ、やるからの」「いいえもう」(三―五三C、被
告人)、「昨日も寒いといいよつたからあと毛布をちいと入れちやれやちゆうてな
そいで入れてもろうたんじや」「ええ毛布を入れてもらいました。それからパンを
入れてもろうて……初めて腹一杯あの大きなパンと餅を食べたんですよ、もろう
て」(三―五六以下C、被告人)、「ええパンでのうてもいいです。あの安い古い
のでもええですからね」(三―五八被告人)、「買うてあげるからね、ほいじゃ一
つ」(三―五九C)、「じゃあこれだけ吸うて」(三―六〇被告人)、「うんそれ
だけ吸うて帰んなさい」(三―六〇C)、「パンは食べたか」「はあ」(三―六二
C5、被告人)、「ちいともうちいと火鉢の方へもうちいと進めや」(三―七〇
C)、「一服吸いなさい。一服吸うてそれから話をしよう」(六―一二三C)、
「そいじや火鉢にもあたりなさい」(六―一三七C)、「ひざ組もうや、そがいに
ひざかしこまつているから話できん」(八―一六九C)、「煙草吸いよんなさい」
(一〇―二〇九C)、「たばこを吸いなさい、姿勢を楽にして、気にすることはな
いからね」(一二―二六一C5)、「お茶を飲みなさい。パンを食いなさい「(一
二―二六六H3)、「ひざくずしても」「うん」(一二―二六七被告人、H3)、
「ひざ組んでもええ、足が痛いのにむりをせんでも」(一二―二六七H3)、「煙
草を吸いなさい」(一三―二八四H3)、「もう夕飯も来ておるからね」(一三―
二九四H3)、「よしこれで煙草吸う吸うでもええ」(一四―三〇五C5)、「便
所へ行つてくるからな、お前行くか」「ええです」「ええか」「休みます」(一八
―三九二C、被告人)、「煙草を吸いながらでいいから」(一九―三九八H3)、
「足が痛けりや座つてもいい。楽な姿勢でのう」(一九―三九八C5)、「よし食
事にしてもらいなさい」(二〇―四四一C)、「ひざをくずして、話しなさい」
(二一―四五三C7)、「ふ―んひざを組め、足が痛けりや」「はあ」(二五―五
二八H3、被告人)、「おいひざくみよれや」「はあ」(二九―六一六C5、被告
人)、「ままたべたか」「はあ」(三〇―六一九C5、被告人)
 以上のような発言内容によると、被告人の取調中の姿勢は自由で煙草、茶、水、
パンも支給され、火鉢にもあたつており、その他食事、便も普通に行なわれている
ことがうかがわれ、「このたびあんまり情ようしていただいて、はしからはしから
自分がまあ身のおき所がないようになるから」(一〇―二〇九)とか「まあ皆さん
から期待かけられて情ようしてもろうたので」(一〇―二一〇)との被告人の発言
にてらしても、被告人の供述するがごときはげしい肉体的拷問のあつたことを想像
することは困難である。
 (ロ) 「君もようがまんしたよ」(二―三一C5)、「またつらい思いをせん
でもいいで」(三―五三C5)、「つらい思いはしません、もう」(三―五三被告
人)、「ここでこの間からがんがんがんがんいいよられたあの顔がやつぱりすーと
でてきます」(三―五五被告人)、「のうこの間からつらかつたろうが」(三―六
〇C5)、「四の五の四の五のいうたときにはありやあれはやつぱり意地になりま
す」(三―六一被告人)、「あんな腹が、腹が」(四―八四被告人)、「腹立たし
ちやいけんじやない、おこらしたらいけんど」(六―一二〇C5)、「そんなに手
間をかけるんじやつたら君が苦しむ、苦しんで」(八―一七三C5)、「はあいつ
たあ」(九―二〇一被告人)、「つらかつたのう」(一二―二五七C5)、「君が
まあ今まで痛いのはみな君がああやつて手間をかけるから、君だけ痛うなるのう」
「修養さしたんよ」(一二―二六七C5外一名)、「これでまた楽になるよのう」
(一三―二八三C5)、「Nを怒つたけどね、お前が憎うて怒るんじやないぞ」
(一四―三一五H3)、「わかつてくれるじやろうと思つて怒る」(一四―三一五
C5)、「お前につらいこと言うたこともあるし、君が往生ぎわが悪いから根性が
のう、それでやつたことで、お前をかわいいからこそやつた」(三〇―六二〇C
5)
 以上の各発言の意味は必ずしも明白でないけれども「かわいいからこそやつた」
とか「修養さしたんよ」等の言葉は、通常の説得を続けた程度で出るものとは考え
にくく、程度はともかく何らかの強制もしくは威迫的取調べがあつたことをうかが
わせるものがある。
 (ハ) 「主任さんにおすがりするよりほかにもう今はどうにもならんのじやか
らのう」(一―九C5)、「驚きやせんよ一つも、これは既成の事実だからね」
(三―六六C)、「自分がやつた、犯したことについてはどうでも自分が話さんに
やこれは解決がつかんなあ」「三―七三C)、「今頼つとかにやあ、頼る時期で今
が、のう潮時で、今」(四―八六C5)、「いずれ話をせにやけりやいけないんだ
から。おそかれ、はやかれ」(六―一二四C)、「今後話をするというても聞かん
で」(八―一七三C5)、「ほんとうにお話しとかんにや、こんだあお前救うても
らえんようになるで」(二九―六〇八C5)、「結局その話をせにやすまんのじや
からのう」(三〇―六二〇C5)
 以上の発言は、被告人が自白しなければいつまでも勾留が続くことをほのめか
し、頼れるのは取調官のみであることを示し、被告人にどうしても自白しなければ
すまないような窮迫ないし絶望感、あきらめを与えるものであり、被告人も「はよ
う言うて送つてもらわんにやいけんですわ」(二―二六)、「もうあきらめました
いよいよ」(一―四七)など発言している。
 (ニ) 「中でなんとなあ、よいよつい体がもてんことがあることがある」(二
―三一)、「ああやつてねとるけど」(同上)、「えろう、ああえろう、しまつが
とれん」(四―九一)、「弱つたのう」(四―九二)、「ちよつと主任さん待つ
て」「はあ休まにややれん、どうも統一をとれんようになつた、はあ弱つちやうな
あ」(六―一二三)、「頭がボーとしてくる、ほいてじつとまた目をつぶつてこう
ねとる、うつらうつらする」(八―一七七)、「留置場に入れてやつてや今晩、頭
がしやんとせん」(九―一八六)
 以上被告人の発言は被告人の心身が実際に衰弱していることを示すようにもみえ
るが、単に追及をまぬかれるため口先だけで弱つたと言つているにすぎないともみ
られなくはなく、いずれにしても警察官の被告人に対する追及がかなりさびしかつ
たことをうかがわせるものである。
 (ホ) 「ゆんべでも出とうなかつたんです、本当のことをいうとまだ考えたか
つたんです」(三―五六)、「主任さんあかんけ」(四―八〇)、「主任さんあか
ん」「あかんて」「はああかんのや」(四―八二)、「言つちやだめ」「言つちや
だめなんだ、そのあというたらあんた」(四―八五)、「ねえ主任さんかんにんし
て」(六―一二七)、「主任さんこらえてくれんねえ、こらえてくれんねえて、主
任さん、かんにんして主任さん、たのむ、たのむ、たのむて、と、と、統一、統一
をとらして」(六―一三九)、「もう一日安心させる、たのむ主任さん、かんにん
なされや」(七―一四六)
 以上は被告人が警察官の取調を明らかに拒否し、その中止方を必死に歎願してい
る発言であり、このほか被告人はすすり泣き、沈黙、ため息をくり返しているとこ
ろも数多くあり、これに対し、警察官は、「あかんけどそこを力を入れて話さに
や」「なんぼ泣いても同じこと、のう話したら楽になる」(四―八一C5)、「話
しなさい、顔を上げて一気に話しなさい」(四―八一C)、「どこから入つたかA
1へ、それだけでいいんだ」(四―八三C5)、「あしたじやいけん」(六―一二
七C5)等かわるがわる話せ、話せとつめよつているのであつて、これらは警察官
において説得の限度をこえ、供述の自由を実質的に侵害していることをうかがわせ
る。もつとも被告人には右のような発言のほか、「話をしようと思つて出たんで
す」(二―二五)、「何か一口でも言うたら気が楽になるんじやろなちゆう気がし
たんです」(二―四六)、「それで頼んだのです」(二―四七)、「話そうと思う
て主任さん来たんやて」(六―四〇)との一一月一一日の取調が被告人の申し出に
より始まつたことを示す発言、「いおうと思うとつてもええくそもうどうにでもな
れいと思うてもやつぱりそのこの一本にこうなりかけて、いやあ、こうあねえ、あ
ねえ、あねえ迷うときがあります」(三―五五)、「どねいでも統一とつたら話す
気がでて来た」(三―五八)、「nが目の前に写つてはあ自分では話せん、お母さ
んの顔が浮んで、子供の顔がちらつきやがるんで」(六―一二五)、「(侵入口を
言つたら)命を早める」(七―一四六)との言おう言おうと思いながらも親や子を
思い或いはnを思いどうしても言い出せない、また命も惜しいという趣旨にうかが
える発言も多々あり、警察官をしてもう一息押せば、また元気づければ自白するに
違いないと思わせる状況もあつたとうかがえるのであるが、この点を考慮しても前
記発言の内容、その執拗の程度、長時間であることに照らし、やはり説得の限度を
こえているものといわざるを得ない。
 (ヘ) 以上録音テープ検討の結果によると、右(ロ)ないし(ホ)のような主
として心理的強制、威迫をうかがわせる発言内容があるかと思えば、一方では
(イ)のような種々配慮した親切な言動もあり、これらが同一巻中に混在している
のであるが、これらの全録音中に占める割合からみるとやはり(ロ)ないし(ホ)
が取調べ初期において圧倒的に多く、(イ)のような配慮をもつてしても全体とし
て自白強制を疑わしめる無理な取調べという印象を免れ得ないのである。そして右
結果は厖大な全取調状況のうちの一部しか採用されていない録音テープによるもの
で、重要な新供述、供述の変更の経緯が採取されていないことを考慮するとき、右
採取されなかつた取調状況について録音テープにあらわれた取調状況とは異質な穏
健な取調が行なわれたものとは保証し難く、ほぼ全部を採取したと思われる一一月
一一日の分に(ロ)ないし(ホ)がことさら多く目につくのはそれがほぼ全部の録
音だからで、その余の日は一部録音が多いため(ロ)ないし(ホ)のごとき部分が
採取されていない疑もないことはない。
 (4) そこで以上検討の結果を総合し、さらに前記第二(とくに(三)の(1
3)。(四)の(1)、(2))により明らかな取調場所、期間、回数、時間、取
調官の数、取調方法をもあわせ考慮するときは、被告人の供述するようなはげしい
拷問があつたとまでは認めることができないけれども、物証の乏しい重大事件の解
決を焦る警察官において、数名掛りで被告人に対し十数日にわたり昼夜の別なく執
拗な説得追及を反覆した結果、被告人も精神的にも肉体的にも窮迫の末ついに自白
するに至り、爾後警察においては右自白を維持する外なかつたのではないかとの疑
もあり、すくなくとも警察官調書については強制による自白を録取したものとして
一審判決の認定のごとくその任意性に疑があるといわざるを得ない。
 (三) そこで次に検察官の取調について検討するのに、その概要は前記第二の
(四)の(7)ないし(10)のとおりであつて、右取調を通じて強制、強要が加
えられた形跡はなく、被告人において自白をひるがえしたこともなく、山口刑務所
へ移監後は接見交通が自由に認められる状況下にあり、ことに検察官採取の録音テ
ープにあらわれている質問応答の状況からは被告人が任意に発言していることが明
らかであるし、被告人の経歴、前科歴にてらし警察官と検察官との違いは熟知して
いた筈であること、警察官の取調にはげしい拷問のあつたことは認め難いこと及び
被告人の年令、健康、生活歴等をも考慮すると、検察官取調に警察官取調の際の強
制による心理的影響が残存していたものとは認められない。
 もつとも、被告人が山口刑務所に移監されるまでの検察官の取調場所は警察官の
取調場所と同一であり、しかも警察官一名が立会つており、検察官の取調と並行し
て警察官の取調がされており、検察官の取調以前に行なわれた警察官の取調が二ヶ
月半に及ぶ長期のものであつて、少くとも移監までの検察官取調には警察官取調の
際の強制による心理的影響が残つているのではないかと考えられなくもないのであ
るが、取調場所の同一については身柄を検察庁に運ぶ場合の危険性、検察庁取調室
の状況が報道機関にのぞかれるおそれがあつたこと(移監後も検察官は検察庁で調
べず刑務所内で行なつている)に照らしやむを得ない措置であつたといえなくはな
く、警察官の立会、警察の並行捜査についても右立会が身柄監視のためのみであつ
たこと、並行捜査の内容はむしろ検察官取調にあらわれた新供述(k川橋のパン屋
等)、或いは変更供述(物色、刺殺の手順等)の確認、補充的捜査にとどまつてい
ることに照らし、さして重視するにはあたらず、警察官の長期取調については一面
被告人の虚言を交えての供述の度重なる変更によることがうかがわれるし、昭和三
一年一月に入つてからの警察官の取調はそれまでの取調と異なり回数も時間も追及
の程度もゆるやかになつていたと認められるので、昭和三〇年一二月末までの影響
をさほど重視することはできず、結局検察官の取調に際しては移監前のそれをも含
めて警察官取調の際の強制による心理的影響は残存していなかつたものと認める。
 なお、被告人は、検察官の録音採取に際しこれを拒否したところ、検察官が「そ
んなことなら刑事さんに取調べてもらう」と言つた旨供述するが、旧二審証人C1
4、一審証人C23の各証言に照らし、また右録音の内容に照らしても信用し難
く、また被告人は検察官の検証時にも同行警察官から暴行をうけた旨供述するが、
当審証人C24の証言に照らし信用できず、更に被告人の右検証前何回も現地の地
図や図面を見せられ予習させられたとの供述についても右供述し始めた時期が旧二
審の結審直前であり、それ以前の上申書には検証前予習したことなど何ら触れてい
ないことに照らしても信用できない。
 (四) 被告人の検察官に対する自白が不当に長く拘禁された後の自白にあたる
か否かについて考えるのに、被告人が強殺事件につき警察官により本格的取調をう
け始めたのが昭和三〇年一一月四、五日頃で自白に近い供述をしたのが同年一一月
一一日、最初の自白調書が作成されたのが同年一一月二二日であること前記第二の
とおりであり、その後は犯行前の徘徊経路、犯行の動機、順序等につき訂正補充変
更がなされたのにすぎないとみられ、検察官に対する自白の内容も右警察官に対す
る自白の内容と大差ないので、検察官に対する自白をもつて刑事訴訟法三一九条に
いう不当に長く拘禁された後の自白ということはできない。
 第五、 別件逮捕、勾留に関する主張についての判断
 (一) この点に関する論旨は要するに、本件捜査の経緯に照らし、捜査当局は
当初から強殺事件捜査を目的とするものであるのにその証拠がないため、住居侵
入、窃盗未遂というそれのみでは起訴価値の乏しい別件を表面に出し、これに基づ
いて逮捕、勾留を続け、実際には強殺事件について取調を行なつたのであるから、
かかる捜査手続は令状主義を規定した憲法三三条、三四条等に違反する違法不当な
ものであるというのである。
 (二) そこで先ず前記第二の(一)の(5)、(6)の被告人に対する逮捕状
の請求、(6)の逮捕状の執行(同(10))の適否について考えるのに、右
(5)の逮捕状記載事実は当時より二年前の窃盗で、被告人に窃盗の累犯前科があ
つたこと、被告人が当時所在不明であつたことにてらし右窃盗事実自体につき逮捕
の理由、必要性がなかつたとはいえず、また右(6)の逮捕状記載事実は当時より
三年前の住居侵入、窃盗未遂で、(5)の事実よりはある程度事案軽微といえるに
しても、起訴処罰価値がなかつたといえないことは、この事実について一審裁判所
が懲役四月の刑を言渡し、この裁判が確定していることに照らし明らかであり、右
(6)の事実自体についても逮捕の理由、必要性があつたものと認められる。た
だ、第二の(一)の(2)、(4)の捜査経過および全国に指名手配したことに照
らすと、捜査当局が右(5)の窃盗、(6)の住居侵入、窃盗未遂の逮捕状を請求
したのは、右事実の捜査のためでなく、強殺事件と被告人の結びつき(アリバイ)
の有無をも捜査するためであつたと認めるに難くないのであるが、逮捕状記載事実
につき起訴処罰の価値があり、逮捕の理由、必要性がある以上は、他の事件につい
ての捜査の目的が含まれていたからといつて捜査権の濫用とまではいえないことも
ちろんであり、また逮捕後、前記第二の(二)の(3)の勾留請求までの間被告人
が取調べられたのはすべて逮捕事実に関するものである(同(二)の(2)、
(3))から、この点からも本件逮捕を違法ということはできない。
 (三) 次に勾留請求、勾留状執行後の取調の適否について考えるのに、当時被
告人か大阪市h公園で浮浪的生活をしていて逃走のおそれがあつたこと、逮捕事実
についても捜査が全く完了していたとも認められないこと(第二の(二)の(2)
の自白調書の内容は非常に簡単である)にかんがみると、逮捕事実につき勾留請求
をしたことをもつて捜査権の濫用ということはできない。
 ただこの場合も逮捕状請求のときと同様勾留事実の捜査のためだけでなく、強殺
事件と被告人の結びつきの有無をも捜査するためであつたことは否定し難く、しか
も勾留状執行後同事実による起訴までの間に同事実に関する取調(第二の(二)の
(5))のほかに、同(二)の(4)の三日間にわたる被告人が郷里を出てから逮
捕されるまでの生活行動についての取調があるので、これについて検討する。右取
調の一部は前記勾留事実に関する経歴調書の内容となつていると思われるので、こ
の点では勾留事実の情状調査の面も全くないとはいえないのであるが、主たる趣旨
はやはり強殺事件発生当時の被告人の所在とくに山口に帰つたことはないかとの点
を間接的に知り、同事件の捜査の資料を得ようとしたことにあると考えられる。し
かし右被告人の取調は説得、追及の全く含まれない文字通りの事情聴取であつて、
その内容、方法、期間にてらすと、他事件(勾留事実)による勾留中になされた取
調べであるとはいえ、未だ令状主義の趣旨にもとる取調と非難すべき程のものでは
なく、住居侵入、窃盗未遂事件の勾留後起訴前の取調をもつて直ちに違法というこ
とはできない。なお、本件では右勾留期間中に警察官が大阪に出張して被告人のア
リバイ関係を捜査しているのであるが、かかる任意捜査の行ないうることはいうま
でもなく、この捜査のためとくに起訴がおくれて勾留期間が長期化したとも認め難
いので、右捜査も違法とはいえない。
 (四) そこで次に、右勾留事実についての起訴の当否について考えるのに、住
居侵入、窃盗未遂の公訴事実が起訴処罰価値のないものでないこと前記のとおりで
あり、右起訴の時点において起訴検察官としては起訴までの前記のような捜査の経
緯にてらし強殺事件についていまだ深く検討もしていなかつたものと考えられるの
で、本件起訴事実について本来起訴の必要性はないけれども起訴さえしておけばそ
の事実による勾留が続くから、これを強殺事件の捜査とくに被告人の取調に利用し
ようとの意図であえて起訴したとまで認めることはできず、右起訴をもつて公訴権
の濫用であるとまではいえない。
 (五) 問題は、むしろ右起訴後における強殺事件についての被告人取調の適否
である。
 <要旨>本来起訴後の勾留は、被告人の逃走或いは罪証隠滅を防止し、右勾留の基
礎となつている起訴事件の審理の円滑、適正な遂行を確保するためのもので
あるから、起訴事件以外の余罪事実捜査のため被告人の身柄を確保し被告人を取調
べる必要があれば右余罪事実について新たに令状の発付を求め、これに基づいて身
柄を拘束すべき筋合である。しかし、すでに起訴事実につき適法に身柄が拘束され
ている以上再度身柄拘束の手続をとることなく起訴事実についての身柄拘束を利用
して被告人を取調べても、その取調の期間、方法、程度にてらし起訴後の勾留本来
の目的を著しくそこなうことのない限り、とくに弊害もないと考えられる。ここに
起訴後の勾留本来の目的を著しくそこなうというのは、たとえば、余罪事実につい
ての被告人取調が起訴事実の審理に通常必要と考えられる期間または右事実が有罪
であるとして通常予想される刑期に相当する期間を超えるほど甚だしく長期にわた
り、しかもその間取調が連続、集中して多数回にわたり行なわれるような場合であ
つて、このような場合は取調の期間、方法、程度にてらし起訴後の勾留がほとんど
余罪事実についての被告人取調のための身柄拘束に転化しており、起訴後勾留の利
用の限度を超えているものというべきである。従つて、もしこの限度を超えてまで
身柄確保の上余罪事実の取調が必要と予想されるときは、事件単位の令状主義の原
則に帰り、捜査官はこの余罪事実について令状請求等の措置をとり裁判官の審査を
経た上その令状によつて身柄を確保し、法定の期間内に取調を行ない、起訴、不起
訴、身柄釈放等の措置をとるべきであり、かかる措置をとることなく起訴後勾留の
利用の限度を超えて取調を続行した場合は令状主義の趣旨にもとる取調として違法
の疑を免れない。
 これを本件についてみるに、前記第二の(三)、(四)のとおり、住居侵入、窃
盗未遂による最初の起訴後右事実による勾留中、捜査官によつて強殺事件につき被
告人取調が行なわれたのは、昭和三〇年一一月二日から翌三一年三月二三日まで
で、その期間は約四ヶ月半にも及んでおり、その間検察官取調の一部を除き、絶え
間なく取調が続けられているのであつて、かかる取調の期間、方法、程度にてらし
強殺事件についての被告人取調は起訴後の勾留の利用の限度を超えているといわざ
るを得ない。
 すなわち、警察官取調は昭和三〇年一一月二日から翌三一年一月下旬項まで、検
察官取調は同三一年一月一一日頃から三月二三日まで行なわれているのであるが、
被告人の刑務所移監後である二月一九日以後三月二二日録音採取に至る間を除きお
おむね取調は継続してなされており、ことに昭和三〇年中の約二ケ月間は五三回
(一日を一回として)うち夜間取調二六回にも及んでいて、その連続、集中の度合
は甚だしく、しかも、最初の起訴にかかる住居侵入、窃盗未遂の事案、並びに第二
の(四)の(5)の追起訴にかかる窃盗の事案はその内容、証拠関係に照らし、お
そくても昭和三〇年一二月末から翌年一月中旬頃までには審理が終結し判決され得
る状態にあり、有罪の場合の刑期もさほど長くないと考えられるのに、被告人取調
は右通常予想される審理期間を超えてなお続行されているのであり、しかも、第二
の(三)の(10)のとおり検察官からの申請ですでに指定されていた起訴事実に
ついての第一回公判期日が変更になり、その上期日が追つて指定となつたまま強殺
事件の追起訴あるまで右指定がなされなかつた経緯に照らすと、右審理の遅延は追
起訴待ちいいかえれば強殺事件についての被告人取調の継続に基因するとしか考え
られないのであつて、以上のような起訴後勾留の利用はいわば本末を顛倒したもの
であり起訴後勾留をほとんど強殺事件についての被告人取調のための身柄拘束と化
し、右勾留の利用の限度を超えているといわざるを得ないのである。
 そうだとすると、右勾留中強殺事件の起訴あるまで検察官から同事件につき令状
請求の措置を行なつた形跡は全くないから、右勾留中の被告人取調は令状主義の趣
旨にもとる違法の疑を免れないというべきである。
 第六、 検察官自白の証拠能力についての判断
 以上第二ないし第五において検討した結果によれば、警察官調書の任意性には疑
があるので、これを証拠とすることはできないのであるが、検察官調書および検察
官録音はその任意性に疑があるとはいえないので、この点から証拠能力がないもの
ということはできない。しかし、前記第五に説示のとおり検察官の被告人取調は警
察官のそれとあいまつて起訴後勾留の利用の限度をこえながらなお令状によること
なく続行されているのであつて令状主義の趣旨にもとる違法の疑のある取調であ
り、しかもこの間前記第三に説示のとおり選任遅延のため弁護人がいまだ付されて
いなかつたことをも考慮すると、右取調によつて得られた検察官調書および検察官
録音に証拠能力を認めることにはちゆうちよせざるを得ない。
 第七、 結論
 果してそうだとすると、被告人の自白以外に強殺事件と被告人との結びつきを証
明する証拠に乏しい本件においては、その余の主張(事実誤認)に対し判断の要な
きに帰する筋合である。
 しかしながら、本件においては前記第六のとおり検察官調書および検察官録音の
証拠能力の判断にはなお微妙な点があるうえ、差戻判決の法律点に関する拘束力に
ついてもこれを消極に解することに疑問の余地がないとはいえない。すなわち、差
戻判決は、「他に若干の重要な論点かあるのであるが」と触れただけで自白調書、
録音の証拠能力があるともないとも直接明示した判断をしていないので、当審が証
拠能力の存否について自由に判断しても差戻判決の拘束力には反しないと解したの
であるが、差戻判決の判文中には暗黙に自白調書、録音の証拠能力を認めていると
理解され得る説示も存するのである。たとえば差戻判決には、「本件の自白がもし
も信用することができその内容が真実に合致するものであると認められるならば…
…本件犯行を被告人の所為となすべきことは当然であり、原判決は正当である」と
か、「六点のうち一ないし五のいずれか一つてもその存在が確実と認められるなら
……自白とあいまつて本件犯行と被告人の結びつきを肯認するに足りる」と判示し
ている。そして自白の証拠能力の存在はその信用性判断の当然の前提条件であるこ
とにかんがみると差戻判決は明示してはいないにせよ自白に証拠能力があることを
前提として判断していると解する余地もないことはない。当番としては、たとえそ
うであつても、本来法律審として憲法その他の法令違反の主張に対してその余の主
張に優先して審判すべき最高裁がことさら明示の判断をしていない以上暗黙の判断
にまで拘束力を認めることはできないと考えたのであるが、これには異論のあるこ
とも考えられる。
 のみならずもともと差戻判決はとくに、「審判の核心をなすべきものはこの本件
犯行の外形的事実と被告人との結びつき如何であると考える」と判示してなお審理
を尽すべく当審に差戻され、当審もその趣旨に則り証拠調を行なつて審理を尽した
のである。従つて以上のような本件の特殊性にかんがみ以下自白の信用性、真実性
これを補強する間接事実、補助事実を中心に事実誤認の論旨についても判断を示す
こととする。
 事実誤認の論旨について
 本件控訴趣意中事実誤認の主張は、要するに、被告人は本件強盗殺人の犯人では
ないのに、被告人の自白に信用性があり、これを裏付ける証拠もあるとして被告人
を犯人と認め有罪とした一審判決は事実を誤認しているというのである。
 そこで検討するのに、一審証人C25、同C26、同C10、同C4の各証言
(一の一二二、一の一三九、一の一四八、五の一八二一)、司法警察員作成の検証
調書(二の四九六、二の五九三)O作成の鑑定書(一の一六八、一の一八八、一の
二〇四)O1作成の鑑定書(一の二一三、一の二四六、一の二六七)O作成の鑑定
書(二の六一三、六一五)C27作成の鑑定書(二の六一八)およびPの司法警察
員に対する供述調書(二の七四四)等を総合すると、次のような犯罪の外形的事実
が認められる。すなわち、
 (1) 昭和二九年一〇月二六日朝前夜午後九時頃までは格別異状の認められな
かつた山口県吉敷郡i村nのA1一家六人が目を覆うような惨殺死体となつて発見
された。
 (2) 右家族中、A1と長男A4、次男A5の玉名は夜具をはね、敷布団から
乗り出し異状な体位で死亡していて、防禦ないしは逃げ出そうと試みた形跡かうか
がわれるが、他の三名はおおむね自然の寝姿に近い体位のまま死亡しており、犯人
はA1方家人の熟睡中を急襲し、抵抗も逃げ出す隙もないほど短時間のうちに、六
人を殺している。
 (3) しかも右六名の死体には、いずれも頭部ないしは顔面に、有刃鈍器によ
る重大な切創或いは裂傷が多数あつて、それそれ顕著な骨折を伴つていて、右受傷
のみでももはや抵抗することも逃げ出すこともできなかつたと思われるのに、頸部
にはそれそれ尖鋭な刃物による刺傷または切創があつて、ほとんどの者が頸動脈、
頸静脈、気管、頚椎などを切断され、さらにA1夫婦および老母A6は胸部、心臓
部にも刺傷をうけ、なかには心臓に大穿孔の創傷を負つている者もあり、その間に
老幼の区別なく、年齢一一歳の三男A3にも既に七七歳に達し抵抗力も逃げ出す力
も衰えている老姿A6に対しても、何らの容赦もなく攻撃が加えられていて、とく
にA6に対する攻撃の熾烈なことに不可解の感すら抱かしめる。
 (4) 現場にはA1夫婦等の死体のあつた中六畳の間に、山口地方でちようの
鍬と呼ばれる厚刃の鍬一丁が血塗れのまま放置され(その一端刃の部分はA1の死
体の下に隠れるようになつている)、A6の死体のあつた四畳半の西縁側には、血
に塗れた尖端鋭利な庖丁一丁が放置されていて、右鍬、庖丁はA1方の所有物件で
あり、本件被害者等の創傷の性状と対比して、本件犯罪に使用された兇器と判断さ
れる。
 (5) 前記A6の死体のあつた四畳半の部屋には、長さ約一八五糎、直径約一
〇耗前後の縄切一本が遺留されていて、右縄は農林一〇号の稲藁をE1式製縄機に
よつて製造した縄の一片で、長石、石英、木炭末と小量のO型血液か付着している
外、一〇箇所の屈曲部を有するが、犯行時の用途とその出所は不明であつた。
 (6) 金品物色の形跡としては、(イ)母屋台所付近の土間に、一握り程度の
白米が散乱していて、犯人が近くの物置内から白米を盗み出そうとしたのではない
かという形跡があり、(ロ)A1夫婦の死体のあつた中六畳の間の東北隅の書箱の
抽斗内かかき乱されていて、金銭物色の形跡があり、付近の畳の上にA2が使用し
ていたと認められる黒色ビニール製財布一個が放置されていて、その中には五円硬
貨一枚だけが残つており、(ハ)A1夫婦の死体の足許にあたる重ね箪笥の小抽斗
は、うち一つはメリヤス手袋をはさみ込んだまま押し込まれてあり、他の二つは
一・五糎ないし一〇糎程度引き出されたままになつていて、金品物色を疑わせるの
てあるが、内部は比較的整然としてかき乱した形跡は顕著てない、(二)以上の外
には金品物色の形跡はなく、A6の死体のあつた四畳半の間の箪笥その他から現金
合計九、二三〇円余および三万一〇四三円の預金通帳等が発見されている。
 (7) 本件犯罪発覚当時のA1方の戸締状況は、同家南側出入口、座敷、納屋
等の板戸は完全に閉められているが、A6の部屋の西側、A1夫婦の部屋の北側は
いずれも開閉自由の障子のみで屋外に接し、容易に侵入することか可能であり、ま
た納屋裏出入口の板戸と右納屋から母屋土間に通ずる板戸も鍵その他の戸締がな
く、右経路から母屋に侵入することも可能であり、A6の四畳半の部屋の西側の障
子の一枚は開けられており、その外縁側には山形の裏の地下足袋の足跡と推測され
る土足の跡があり、また台所の板の間にも形状不明の大人の土足の跡らしい土の汚
れがあつた。
 (8) 各被害者の死体のあつた部屋の畳や寝具の上、炊事場の土間、台所板の
間などには、血に染まつた地下足袋の足跡が多数散在し、それらはほぼ同種の地下
足袋の足跡と認められ、うち一つは明らかにE印の商標のある十文半ないし十文七
分の地下足袋の足跡であり、右以外に異種の足跡と認められるものはなかつた。
 (9) 本件犯罪現場からは犯人を特定し得るほどの指紋は遂に検出されず、ま
た夜間照明なくして他家において本件のような多数殺害を実行することは至難と思
われるのに、A1方の電燈はいずれも発見時消燈されており、しかも台所並びに納
戸の各電燈には犯人が触れた際に付着したと思われる血痕があり、本件犯行のため
侵入し歩き廻つたと認められる各室の境の障子や襖が発見時はそれそれ閉められて
いた。
 以上の事実が認められ、これらをあわせ考えると、六人殺害という兇悪な犯行に
比し金銭物色の形跡の少くない点に怨恨による一家塵殺事件ではないかとの疑もな
いではないが、やはり金品目当の兇悪周到な強盗殺人事件とみるのが相当であり、
しかも本件は単独犯であつて、その犯人は冷酷残忍で大胆不敵な性格者であり、犯
行中或いは脱出時に、被害者に顔を見られたり、近隣の者に怪しまれることのない
ように、障子、襖の開放を避けたり消燈などについて周到な配慮をした疑がある。
そして生存被害者がなく、他に犯行の目撃者もなく、犯罪現場からは直接犯人を特
定するに足る指紋その他適確な物証痕跡も発見されていないので、有罪認定のため
には、犯人の確実な自白と、その裏付けとなる確実な補強証拠を要する案件といわ
なければならない。
 ところで、被告人は捜査官に対し、前記法律点の論旨に対する第二において認定
したとおり昭和三〇年一一月一一日に一旦本件犯行を匂わす供述をし、同月二二日
付の警察官調書以来昭和三一年二月一九日付の検察官調書に至る二〇通にも達する
警察、検察官調書、同年三月二二日に採取された録音三巻等においていずれも本件
犯行を自白し、或いはその自白を前提として、犯行数日前当時の住居地であつた大
阪市のh公園を出発して犯罪地の山口県吉敷郡i村に帰来し、犯行までの数日間を
過した俳徊経路、寝食の場所、出会つた知人の氏名、会話その他の状況、犯行後の
逃走経路、出会つた人物、犯行によつて汚れた着衣の処分その他身辺の整理、小郡
駅から大阪に帰るまでの行動、大阪に帰つてからh公園の住居小屋に帰るまでの行
動、強取した金品の使途処分なとにつき詳細な供述をしている。
 そして、これらの供述には迫真力を有する幾多の供述があり、また犯人でなけれ
ば知り得ないと思われる供述部分や客観的事実と符合する供述部分もあつて、この
ような供述内容に被告人の経歴、年齢、右自白するに至つた経緯、その後の供述経
過、公判廷における被告人の弁解の態様等をあわせ考えると、右自白に信用性があ
ると判断することも、一概に不当とはいえない。すなわち、被告人は、かつて短期
間とはいえ警察官をしたことがあり、窃盗の前科もあり、捜査や裁判について或程
度の知識を有し、一応の思慮分別もある壮年てあつたのであるが、警察官の取調に
被告人が訴えてやまない苛酷な拷問が行なわれた形跡はなく、ただ説得追及の程度
を超えた強制の疑のある取調が五、六日続いた段階で早くも被告人は言えば極刑を
免れ得ないような重大犯罪について犯行を匂わすような供述をし、その一〇日後に
は詳細な自白調書が作成され、さらに何らの強制がなかつた検察官の取調に対し、
一度も自白を翻すことなく、むしろ犯行現場の状況等につき極めて詳細に自白し、
検察官の検証時には検察官、検証補助者等の立会人の先頭に立つて事件当時通つた
道順、関係場所を自ら案内し、被害者方屋内で被害者らの位置、物の在り場所、そ
の他犯行の順序、犯行状況の詳細につき指示説明し、右取調期間中真に犯行を犯し
た者の悔悟の心境を表わしたとも解し得る手配、和歌等を捜査官に手渡しているの
である。全く身に覚えのない被告人が、はたして本件のような重大犯罪を右のよう
な経緯で自白し、その後も右のような供述の経過を辿るものであろうか、疑問なき
を得ないところである。のみならず被告人の公判廷における弁解はとかく根拠に乏
しく或いは不自然なものが多く、虚構と疑われる事実に基づくものもある。たとえ
ば、被害者方の納屋と母屋の構造、配置、本件兇器、犯行現場の部屋にあつたもの
等についてはすべて誘導があつたのでなく被告人において言い当てたと偶然の一致
であるかのように弁解しまた後に詳説するように大阪の小屋を一日として不在にし
たことがないと言い張りながら、首肯し得る具体的な根拠をあげることができず、
J銀行一〇月分のカルテに被告人の分が残つていないことについても納得し得る弁
解はしておらず、D駅付近のルーフイング葺の小屋について虚構と疑われる事実を
援用して弁解したり、地下足袋の種類、購入店に関する弁解は公判の進行に伴ない
逐次詳細に或いは反証に合わせるように巧みに変更されている等、被告人の弁解の
中には真の経験、記憶に基づいての弁解と思われない部分がある上、何故そのよう
な弁解をしなければならないのか全く理解に苦しむ部分も多くあるのである。結局
かかる被告人の経歴、年齢、自白の経過、公判廷における弁解の変転推移は、前記
自白の内容とあいまち自白の信用性を認める根拠となり得るとも考えられなくはな
い。
 しかしながら、右自白の内容を更に仔細に検討すると、右自白のうちおおむね一
貫していて本質的な変更の認められない部分は、すべて冒頭認定の(1)ないし
(8)の本件犯罪現場の客観的状況から捜査官においても既知の事柄であること、
六人殺害という兇行中の認識や記憶にしてはあまりにも細部にわたり詳細にすぎる
ものがあること、たとえば、物色した米缶の大きさ、被害者方台所の一部にゴザが
敷いてあつたこと、A1夫婦の部屋の障子は腰高障子であつたこと、台所と老姿A
6の部屋の電燈は共に二股ソケツトで、台所の方は電球が二つついていたこと等、
反面、被告人が侵入口として自白している納屋裏出入口とこれに続く壁際には、玄
米二斗入の叺が一〇箇横一列に並べてあり、その南側の土間には、約二〇俵分の玄
米がほとんど一面に山積されていて、右出入口から母屋台所付近の土間に侵入する
には、板戸並びに壁と叺積の間の巾四〇糎位の間隔を通り抜けるか、或いはその叺
の上を越えて山積されている玄米の中かもしくはその周辺を横切る必要があり、夜
間照明もなく不案内な者が通過するには足許についてかなりの配慮が必要だつたと
考えられるのに、それらの特異な点については被告人は単に判然とは記憶しないと
供述しているだけであること、その他本件犯罪現場の客観的状況のうち、一般人に
は理解困難で犯人であれば納得し得る説明ができると思われる点たとえば、各所に
分散して寝ていた六人もの人を寝姿に近いままで殺害することが何故できたか、右
被害者すべてに何故前記のような徹底的な攻撃を行なつたのか、炊事場の土間に何
故地下足袋の足跡らしいものが残つているのか等については、被告人は全く供述し
ていないかもしくは供述していてもなるほどと思わせることが少ないこと等にてら
すと、おおむね一貫し動揺の跡の少ない犯行自体の供述にしても捜査官の判断の推
移につれ、意識的、無意識的な暗示、誘導が行なわれた結果ではないかと疑われる
部分や被告人自身の経験に基づかずに単なる想像によるものではないかと考えられ
る部分があつて、その真実性につき一抹の疑がある。
 のみならず、後に詳しく挙示するように、右犯行の前後の情況事実、すなわち、
被告人が犯行前大阪から犯罪地のi村付近に帰つた日時、犯行までの俳徊経路、寝
食した場所に関する供述が、第五回警察官調書を境にして一変し、さらに右調書以
後においても、右俳徊中におけるF4、F5等との出会、同人等との窃盗の相談、
その実行、犯行前xの生家に立寄つた日時、その際身を潜めていた場所、母との対
面時の会話、食事の内容、父親や実子I2の動静、A1方侵入の決意の時期、さら
には犯行後の逃走経路、その途中出会つた人物、血に汚れた着衣を処分し、身辺の
整理をした場所、方法、小郡駅から大阪方面行の汽車に乗車した状況、車中での状
況などに関する供述は、四ヶ月余に及ぶ捜査の末期までしばしば変転動揺し、しか
も互に矛盾し両立し得ない変転前の供述部分も変転後の供述部分も真の体験者でな
ければ語り得ないような具体性や真実らしさを備えていて、二、三の例外を除いて
は、いずれが真実でいずれが虚偽なのか容易に判別し難い。
 そうすると、極刑にも値するような重大犯行の核心を自白し、供述調書上や手
記、短歌などに悔悟の情さえ示しているようにみえる被告人が、その犯行前後の情
況事実については、何が故に変転動揺し虚実不明確な供述をするのか、はなはだ不
可解で理解に苦しむところである。すなわち、被告人が真犯人であつて、客観的証
拠の揃つている犯行自体についてはやむを得ないと観念して自白したものの、犯行
前後の情況事実については、捜査官において確実な証拠を握っていないことを見抜
き、ことさら真実を隠蔽し、虚偽の事実を真実らしく粉飾脚色して当面を糊塗し、
捜査によつてその裏付のないことを指摘される都度これを変更するに至つたもの
で、それは捜査を撹乱して確証の発覚することを防ぎ将来犯行否認の際の伏線とす
ることを意図したのではないかとの疑も濃厚であるが、他面右供述の変転動揺部分
は、捜査官において裏付資料も予備知識も有しないために、具体的な誘導、暗示も
行なわれず、また被告人にも犯行並びに犯行前後の体験がないが故に、捜査官の追
及に窮し、過去の知識や別の機会の経験に基づき、その場限りの虚言を真実らしく
粉飾して供述し、当面を糊塗しようとした結果ではないかとの疑も払拭し難いので
ある。
 結局被告人の捜査官に対する自白の信用性、真実性は、さらに高度に確実な他の
証拠によつて補強されることを要するところ、差戻判決は、被告人の自白の信用
性、真実性ひいては本件強盗殺人事件の有罪、無罪を決する上にとくに審理を尽す
必要ありとして六点を指摘しているので、以下この六点を中心に自白の信用性、真
実性を検討する。
 第一、 本件犯罪発生の当時、被告人がその居住場所である大阪市内h公園の図
書館前の小屋から他出不在であつたか否か
 (一) 被告人の捜査段階における供述
 (1) 司法警察員に対する昭和三〇年一一月九日付供述調書によると、
 昭和二九年九月初め頃、大阪市内のh公園で小屋掛けして、同年一二月一日立退
を命ぜられる迄の間バタヤ生活をしていて出稼旅行等で他所へ行つたことはない。
 (2) 司法警察員に対する昭和三〇年一一月二二日付供述調書によると、
 昭和二九年一〇月二〇日過頃、h公園の小屋を出て、翌日午前七時頃梅田駅より
汽車に乗つて同日午後八時頃sに着き、その後本件犯罪を犯し、犯行の翌々日h公
園の小屋に帰つた。
 (3) 司法警察官に対する昭和三〇年一二月一日付供述調書によると、
 昭和二九年一〇月二二日昼前頃h公園の小屋を出て、翌二三日帰郷し、本件犯罪
を犯して、犯行の翌々日の夜小屋に帰つた。
 (4) 司法警察負に対する昭和三〇年一二月一七日、同月二五日、昭和三一年
一月二〇日付各供述調書、検察官に対する同月一三日、一四日付各供述調書、同年
三月二二日検察官に対する供述録音によると、
 昭和二九年一〇月一九日昼頃、h公園の小屋を出て、パチンコなどをして夜を過
し、翌二〇日午前七時大阪駅を汽車で発ち、同日晩sに着き、その後本件犯罪を犯
して、同月二七日夕方小屋に帰つた。
 というのであつて、被告人がh公園の小屋を出た日時、小屋に帰つた日時につい
ての初期の供述には変動があるが、昭和三〇年一二月一七日以降の供述は一貫して
いて変更がない。
 (二) 被告人の公判段階における供述
 被告人は一審以来、右自白を覆えし、本件発生当時は、前記の小屋に住んでい
て、大阪を離れたことはない。そしてその頃G1株式会社Q支店へ廃品回収に行つ
ており、また毎月一、二回大阪市y区z町のJ銀行に売血に行つていた。右J銀行
の昭和二九年一〇月のカルテ中に被告人或いはA1名義のものがないのは、血が薄
くて検査に合格しなかつたことによるか耳や腕の傷痕の検査でことわられ、採血に
至らなかつたことによる。
 というのである。
 (三) 被告人の供述の裏付証拠
 (1) (イ)一審証人C9の証言(二の六九九)によると、
 私は八歳の子供I3を連れて四国の巡礼をした後、昭和二九年九月頃、大阪市内
のh公園へ来て図書館のところで野宿していたとき、被告人と知り合い、同月二〇
日ころから、警察から立退を命ぜられる迄の間図書館前の被告人の小屋で同棲して
いた。その期間中、被告人は大抵夜には小屋に帰つていたが、寒いとき、被告人が
二、三日帰らなかつたことがあつたので、隣のC8のオツサンに「家の人は何処へ
行つたろうか」と聞いたところ、オツサンは「何処へ行つたか知らん」といつてい
た。そのとき、C8のオツサンは子供の所へ金を貰いに行くときでした。それから
二、三日経つた夜小屋で寝ていると、他所の男が今晩小屋へ寝させてくれといつて
来たが、私の自由には出来んとことわつているところへ被告人が帰つて来た。
 というのであり、被告人が不在にした時期について、寒いときというだけで、記
憶がなかつたので、同証人の検察官に対する供述調書が刑訴法三二一条一項二号書
面として一審で取調べられたのである。
 (ロ) 右供述調書(四の一四三七)によると、
 昭和二九年九月頃から同年一二月頃まで、h公園の図書館前近くの小屋で被告人
と一緒にいる間、丸一日被告人の姿を見ないということはなかつたが、ただ一回丈
け一週間位姿を見なかつたことがあつた。何日から何日までかは覚えていないが、
大体昭和二九年一〇月頃のことであつた。被告人は眼帯をかけた男と一緒に出かけ
て一週間して帰つて来た。
 旨供述記載があり、その他公判供述と同旨の供述記載がある。
 (2) 一審証人C8の証言(二の三九六)によると、
 私は昭和二九年頃から、大阪市内のh公園でバタヤ生活をしていたが、同年八月
下旬、被告人が公園の図書館前の私の小屋に来て、「何をして食つているのか」と
話しかけられたので知り合い、被告人に、バタヤの手ほどきを教えてやつた。間も
なく、そこを立退かされたので、公園の坂の所へ小屋を建てた。被告人も私の小屋
から三間位離れた所に小屋を建て、巡礼のオバサン(C9のこと)とその女の子供
と一緒に住んでいた。私は昭和三〇年二月二〇臼茶日山へ行く迄の間、毎月一日と
一五日に娘のC28の所へ小遣銭を貰いに行つていたが、昭和二九年一〇月一五日
行つたときにはC28は居なかつた。そのとき、被告人も居なかつた。そして、私
が一〇月二四日娘の所へ行くときに巡礼に会つたが、巡礼が「うちのオツサン二、
三日帰つて来ん。心配や、何処に行つたか知らんか」というので、私は「何処へ行
つたか知らんけど、二、三日したら帰つて来ますわ」といつた。その日が一〇月二
四日であつたというのは、その日は娘の所へ金を貰いに行つた日で、手帳に書いて
いたので覚えている。その日娘の所へ行つたが、金は貰えなかつた。そして、一〇
月三一日C28の所へ行つて二、三〇〇円貰つた。その夜小便に行つた時、被告人
が帰つて来た。そのとき、私が「にいちやん帰つて来たか。私は娘の所に貰いに行
つて来た」というと、被告人は「俺も用事があつて行つて来た。詳しいことは明日
話す」といつて別れたが、その後会わないので、それつきりきいていない。手帳に
は昭和二九年四月頃から月日を追つて毎日自分がしたことをつけていたが、翌三〇
年一一月一七日、その頃住んでいた茶臼山の小屋に手帳をおいて、病気のため娘の
ところへ行き、帰つてみるとなくなつていた。
 というである。
 右C8の証言に関連して
 (3) 一審証人C6の証言(六の二三二二)によると、
 昭和三〇年一〇月二五、六日ころ、被告人の昭和二九年一〇月頃h公園に居たと
の供述の裏付捜査のため大阪に赴き、当時茶臼山の小屋に居住していたC8を捜し
出し、同人に昭和二九年一〇月中頃被告人が公園に居たかどうか尋ねたところ、同
人は一〇月二四日C9がうちのおつさん、この間から四、五日帰つて来ないが何処
へ行つたか知らんかと心配そうに尋ねたことがある。それでじきに帰つて来るよと
言つてやつたと言つていた。それは何日かと念を押したら、手帳に書いてあるとい
つて本人が手帳を出したので、それを一緒に捜査に来たC7刑事とみた。一〇月二
四日と書いてあつた。
 どういうことで書いたかときくと、尼崎に働いている自分の娘の所に金を借りに
行つた日だと、その日は借りたかどうかときいたところ、行つたが、借りられなか
つたということが何か印がしてあつた。その後三一日に行つて金を借りた。それが
両方書いてあつた。二四日にC9に会つたということは記入していない。借りに行
く途中であつたと申立てていた。その手帳は長さ一〇糎、幅五、六糎位のものであ
つた。同人には何も財産もないのでとり上げるのに忍びなかつたので領置しなかつ
た。西門派出所でC7刑事が同人から供述調書をとつた。
 (4) 一審証人C7の証言(五の一九三三)によると、
 昭和三〇年一〇月二五、六日ころ、C6警部と大阪へ裏付捜査に行つた。C8は
尼崎の赤線地帯で働いている自分の娘の所から仕送りを受けて生活していた。毎月
C8が娘の所へ金を貰いに行くのは二四日で、一四日にはNは居なかつた。C9が
家の父さんは今頃何処へ行つたんじやろうとC8に話したと申していた。そのと
き、私は何かメモでももつているかと尋ねると、C8は小さい帳面を出して自分の
娘から貰つた日を書いていた。一〇月二四日の日が書き入れてあるのを見た。また
毎月二四日の日が書き入れてあつたのは間違いない。私が手帳を呉れないかという
たが、もう少し待つてくれというので、後にあの手帳を呉れと行つたところ、既に
同人が公園を追い出される際に紛失して了つたということで入手できなかつた。そ
のとき、C6が写しをとつたと思う。
 (5) 当審証人C28の証言(二六の一〇六六五)によると、
 私は二四歳から二六歳迄の三年間(昭和四年九月三日生)、尼崎市内のI4経営
の飲食店につとめていたが、その真中の年即ち二五歳のとき秋から夏迄の一年位父
に毎月一五日小遣銭を五〇〇円位渡していた。月のかかりは姉のI5のところへ小
遣銭を貰いに行つていた。父は私が小遣銭を渡すと大変感謝しながら、ポケツトか
ら手帳を出して見せながら、お前と姉の所へ金を貰いに行つた日や貰つた金額を手
帳に書いているというので、私が手帳をみると、鉛筆の縦書きで毎月一日ころ姉I
5から五〇〇円、毎月中ごろC28から五〇〇円と書いてあるのを見た。この手帳
を父が二、三回見せてくれたことがある。父は平素生活に困りながらも日常のこと
をメモすることが好きな人で、ノート、厚紙、ありあわせの紙片に日常の出来事や
先祖のことなどを仔細に書いていた。
 というのである。
 (6) 大阪市土木局長の回答書(三四の一三九一七)によると、
 C8は、明治二八年一月一〇日本籍地の福井県坂井郡a1村大字b1字c1d1
号e1番地で生まれ、R尋常高等小学校を卒業し、大正一三年八月二六日大阪市水
道部下水課に溝渠設守夫として採用され、昭和二五年一〇月三一日依願退職するま
で同一職場に勤務し、退職当時は工手A浚渫作業手として五級四五号八、三一三円
の支給を受けていた旨の記載がある。
 四 そこで、右C9、C8の証言の信用性について検討する。
 (1) まず、C9の証言についてみると、
 同人の検察官に対する供述調書中には、同女が幼時脳を患つたことがあること
や、被告人と眼帯の男との応答の内容として供述する部分に全く意味不明の供述記
載があること、及び被告人の不在の時期につき、その眼帯の男と一緒に出て行つて
から、一週間帰つてこなかつたと供述し、被告人の自供と対比すると、被告人の不
在は一〇月初旬から一週間位であつたような供述部分もあり、また右公判証言中に
は同人が被告人とh公園の小屋で同棲しはじめた時期、終期等についても記憶の薄
れが目立ち、被告人が小屋を不在にした日数についても当初は二、三日だけだつた
と供述するなど、同人の認識、記憶、表現能力に問題があることが窺われるが、同
証人は本件発生当時の時期における被告人との関係からみて殊更被告人に不利なこ
とを供述しなければならない立場にはなく、被告人の小屋で同居していた間に一度
丈け一週間位帰らなかつたことがあり、被告人が帰つて来ないのに不審を抱き、隣
に住むC8にその行先を尋ねたこと、その日を中心にして、前後二、三日被告人が
不在であつたこと、C8に尋ねたとき、同人は娘の所へ金を貰いに行く日であつこ
と、被告人が帰つて来た夜不知の男性から泊めてくれと要求され当惑していたこと
などの点は、検察官に対する供述以来ほぼ一貫して供述しており、その供述内容
は、概ねC8の証言とも符合しており、さらに被告人と同棲していたC9が被告人
の存否について強い関心や記憶をもつのは当然で、帰宅時の状況にしても、女性と
して当惑した経験でたやすく忘れえない出来事であることにかんがみると、同女の
知能の程度や記憶の減退を理由に一概に且つ全面的に信用性を否定するのはやや早
計の謗りを免れず、むしろ隣人の証言よりは高い信用性を有するものと考えるのが
相当である。
 (2) C8の証言についてみると、
 本件発生当時の被告人との関係から、右C8も被告人に不利益なことを証言しな
ければならないような立場にはなく、同人は被告人の小屋の隣りに居住していたも
ので、隣人の動静についての供述ではあるが、C9から「うちのオツサンこの二、
三日帰つて来んが心配や」と尋ねられ、そのときは娘の所へ金を貰いに行くときで
あつたというのであつて、記憶に残る出来事であつたと思われること、昭和三〇年
一〇月二五、六日ころ被告人の供述の裏付捜査にきたC6、C7にもその旨供述し
ていたこと、同人は昭和二九年頃からh公園でバタヤ生活をしていたものである
が、同人の過去の経歴等にかんがみると、当時バタヤ生活をしていたからといつ
て、同人の資質に問題があるとして同人の証言を一概に排斥し難いものがある。
 しかしながら、同人の証言中には「被告人とは昭和二九年八月、被告人がh公園
の図書館前の小屋に私を訪ねて来て知り合つた。同月二四日其処を退去させられた
とき、被告人とは帰るからといつて別れ、その後昭和三〇年三月か四月ころ、茶臼
山で被告人に会つた。私が『ニイサン久し振りだね』というと、被告人は『私も帰
つていたが、また来た』と言つた」と恰かも昭和二九年八月二四日h公園で被告人
と別れてから、昭和三〇年三、四月ころまで交渉はなかつたかのような供述部分が
あるかと思うと、その直ぐ後の質問に対しては「私は八月二四日の立退後直ぐ帰つ
て、図書館の坂の下に小屋を建て、被告人もその傍らに小屋を建てた」旨前後、矛
盾、そごするようなものがあり、また、被告人がh公園の小屋に居なかつた時期に
ついても「一〇月一五日娘C28方に金を貰いに行つたが、C28は居なかつた。
そのとき被告人も居なかつた」旨被告人の不在の始期が一〇月一五日ころとも解せ
られるようなものがあり、さらに被告人から、証人が尼崎の娘さんの所へ行つて主
人が不在であつた旨話していたのは何時ですかとの質問に、それは昭和二九年七月
でしたと答え、被告人との初対面以前の時期に被告人と話したことがあるという前
後矛盾した供述部分が存し、同人の認識、記憶、表現力に疑問を抱かせるものがあ
ること、またC8の証言中被告人が小屋を不在にしていた終期についての証言部分
はC9の証言や、被告人の自白と四、五日の相異があつて、それだけ被告人の不在
日数が多くなること、さらに、同証人はC9から、被告人の不在を尋ねられた日は
一〇月二四日で、その日には娘C28の所へ金を貰いに行くときで手帳に書いてあ
つたから覚えているというのであるが、C8が娘から小遣銭をつた日時、金額を記
帳するということは敢えて異とするに足りないが、小遣銭を貰うことができず、徒
労に帰した一〇月二四日の事実まで記帳していたということは、同人が毎日の行動
や出来事を確実に日記風に記載していたという証明のない限り、にわかに信用でき
ないところというべく、成るほど、同人の証言によると、昭和二九年四月頃から月
日を追つて毎日自分のしたことを記入していたというが、同証言によつても、その
具体的説明がなく、ことに一〇月二四日欄に同証人が証言することをどのように記
載してあつたのかについての具体的な供述がなく、裏付捜査に赴いて手帳を見て確
認したというC6の証言によれば、一〇月二四日に何か印がしてあつたという程度
にとどまり、同じくC7の証言によれば、C8の帳面には一〇月二四日娘の所で金
を貰つた日を書いてあつた。C8は毎月二四日に娘の所へ金を貰いに行つていた。
毎月二四日と書いてあつたというが、右証言はC8本人の証言と相異し、要する
に、一〇月二四日に具体的にどのように記載してあつたのか知ることができないの
である。当審証人C28の証言によれば、同人が毎月中頃父に小遣銭を渡していた
ことがあつたことは認められても、十数年以前のことであつて、その時期が必ずし
も明らかではなく、また父の手帳の記載内容に関する供述も、その見たという時期
からの期間の経過等に照らし、全面的な信頼をおき難い。何よりもC8証言の信用
性を決定づける最重要資料であるC8作成の右手帳を領置しなかつたことはとにか
くとしても、その存在並びに記載内容を証明する写真、少くとも写しさえとられて
いない以上、C8の証言中C9から被告人の不在をきいた日が一〇月二四日であつ
たとの部分は全面的な信用をおき難い。
 (五) 被告人が昭和二九年一〇月中に大阪市y区z町のJ銀行に売血に行つた
事実の有無
 (1) この点に関する被告人の供述
 (イ) 証二七号捜査日誌三〇年一一月七日欄の記載によると、
 昭和二九年一〇月中は供血に行かなかつたと供述していた。
 (ロ) 司法警察員に対する昭和三〇年一一月九日付供述調書によると、
 金に困つて昭和二九年八月一七日J銀行に行きはじめ、その後同年九月初め、中
旬、一〇月初め、同月末頃、一一月中旬、下旬、一二月一〇日頃、二七日頃という
ように多い月は三回、少い月でも二回は必ずJ銀行に行つて供血していた。
 (ハ) 検察官に対する昭和三一年二月一五日付供述調書によると、
 昭和二八年四月神戸へ行つて以来、一度もiへ帰つたことはないと頑張りつづけ
た―中略―困つたことにJ銀行について警察が調査して帰られたことです。そのた
め事件を起した当時J銀行へ行つていないことが分つてしまい、どうすることもで
きず、とうとうiへ帰つたことを話した。
 というのであつて、J銀行へ行つていないことを認めていた。
 (2) 右(ロ)の供述に対する裏付証拠
 (イ) C29の司法警察員に対する供述調書、同添付のJ銀行のカルテ写し
(二の六六八)によると、
 被告人は被告人名義或いはA1名義で昭和二九年八月に二回、九月に二回、一一
月に三回、一二月に二回J銀行で売血していることが認められるが、同年一〇月に
は一回も売血したことの記載がないことが明かである。
 (ロ) 当審証人C29の証言(二六の一〇七六四)によると、
 売血者の採血手続は、まず、売血者は第一受付で受付票を受けとり、これに住
所、氏名、年令、職業、前回採血した年月日を記入して、写真を添付して返還す
る。第一受付から廻された第二受付では受付票に基づいて、売血希望者の氏名を呼
びあげて、前回の採血日から日が経過していないか否か、採血する方の腕と耳たぶ
をみて、腕の採血の針痕の新しいものや、耳たぶの傷痕の新しいものを認めた者は
この段階でことわり、これに合格すると受付票と売血者の腕に割印を押し、カルテ
を起し、これらを一括して診察室に廻す。診察室ではまず血液の比重検査をして、
合格、不合格を決め、いずれも必ずカルテに記入していた。そして、当日のカルテ
に合格と不合格に区分したうえ、一括して編綴して保存していた。
 昭和三〇年一〇月二七日山口県の警察官が来たとき、合格、不合格の双方のカル
テを編綴してあるものを昭和二九年八月一日から同年一二月末日までの分全部を出
した。
 というのである。
 (ハ) また、一審並びに当審証人C6の証言(六の二三二二、三三の一三五四
五)によると、
 昭和三〇年一〇月二七日、山口署から大阪に赴き、大阪府警の補助をえて、J銀
行で、昭和二九年八月一日から同年末までのカルテ約六万枚を一枚宛点検したが、
被告人、A1名義の不合格カルテは一枚もなかつた。
 というのである。
 以上の証拠によれば、被告人が昭和二九年一〇月中もJ銀行に赴いたが、血が薄
く血沈検査で不合格になつたため、採血カルテ等にその記載がないのだという被告
人の弁解は措信し難いのである。
 なお、被告人は耳たぶや腕の検査でことわられたこともある旨主張するが、右供
述は起訴後六年以上を経た一審四九回公判期日(昭和三六年九月一九日)にはじめ
てなされたもので、それより前の昭和三二年三月四日付上申書、一審三九回公判
(昭和三五年五月九日)、昭和三六年三月一五日付上申書(七の二四六四)などで
は右のような供述をしていない点にかんがみ、右供述はたやすく措信し難い。のみ
ならず、前記C29の証言によれば、腕や耳たぶの傷は一週間か一〇日で完治する
し、また、腕の針痕の点検も第二受付は業務が多忙のため、本人が針痕のある腕を
出さず、他方の腕を出した場合でも、その点検のみて通していたということであ
り、被告人自身一〇月を除く、その前後の月には二、三回売血に行つていた実績を
もつていることに照らし、たやすく信用できない。
 以上の次第で、被告人が昭和二九年一〇月に限つて一回もJ銀行に売血に赴いた
形跡のないことはほぼ確実であり、そのことは他に特別の事情のない限り、当時被
告人は大阪にいなかつたことを推測せしめるものである。
 (六) 被告人のアリバイ主張に関する証拠
 (1) 一審証人C30、C31、C32、旧二審並びに当審証人C33の各証
言。
 (イ) C30の証言(五の一六七八)によると、
 私達夫婦は昭和二九年一〇月一〇日頃、被告人の世話で大阪市内のh公園の被告
人の小屋から三米位離れた場所に小屋を建て、隣り合わせに住んでいたが、同年一
〇月下旬頃、被告人が数日間小屋をあけたような記憶がない。バタヤなので朝、晩
一、二度会わん日はないと思う。
 (ロ) 一審証人C31の証言(五の一六九〇)によると、
 昭和二九年一〇月中頃から、被告人の隣に小屋を建てて住んでいたが、被告人と
は毎日一、二度は会つていた。その間四、五日間被告人を見ないというようなこと
はなかつたと思う。
 (ハ) 旧二審証人C33の証言(一四の四六八六)によると、
 Nと隣合わせに住んでいた頃、一ぺん位、一寸Nを見なんだようなことがあつ
た。主人とNが見えんなあいうて話したことがあります。それは二日位ではないだ
ろうかと思う。旧二審公判に証人として出頭する数ケ月前、弁護人から大阪駅近く
に呼び出され、同所へ行く前夜あれこれ思い出したら被告人が二日位不在にしてい
たことを思い出した。
 (ニ) 当審証人C33の証言(二六の一〇八八三)によると、
 Nと隣合わせに住んでいた頃、被告人が二、三日顔を見せないので、隣りのおつ
さん何処へ行つたのかと主人と話したことがある。その後被告人がいつ帰つたのか
自分も忙しいし知らない。
 (2) 一審証人C32の証言(二の四二一)によると、
 私は一〇年前からG1株式会社Q支店に住込警備員として勤務している者である
が、右支店には毎日多量の廃品が出て、三日もそのままにしておくと困るような状
態になる。それを市の清掃人夫にとつて貰つていたが、料金を請求するので、自分
で焼いていたところ、被告人がその廃品を呉れというので、毎日取りに来ることと
附近の清掃をすることを条件に許してやつた。被告人は昭和二九年の寒さに向う頃
から一ケ月以上来ていた。その間一、二日問屋へ行くといつて休んだほかは毎日来
ていた。
 というのである。
 (3) そこで右各証言の信用性を検討する。
 (イ) まず、C30、C31の証言の信用性についてみると、右両名の一審証
言は隣人であつた被告人が四、五日間も他出不在であつたという記憶はないという
漠然たる内容のものにすぎず、両名が特に被告人の存否について強い関心をもつよ
うな生活上、交友上の関係があつたとも認められないので、同人らの証言によつて
直ちに被告人のアリバイの主張を認める訳にはいかないし、C33の旧二審の証言
と対比してたやすく信用できない。また、その反面、C33の旧二審証言、同人の
当審証言は被告人の捜査官に対する供述の裏付になるかというと、いずれもそれは
既に十数年前の隣人の動静に関するもので、その確実性に疑があるばかりでなく、
同人の認識した被告人の不在期間は二日位というのであるから、一週間不在したと
いう被告人の捜査官に対する供述を裏付ける証拠ともなしえない。
 (ロ) C32の証言の信用性についてみると、
 もともと同人の証言では、被告人がG1株式会社Q支店に、廃品回収に行つてい
た始期、終期が明かでなく、「昭和二九年の寒さに向う頃から一箇月以上来ていた
が、妻が他に就職を勧めたところ、被告人は履歴書を出したと言つていたが、それ
から来なくなつた」旨の証言、被告人の旧二審における「昭和二九年の一二月二〇
日頃、C32の奥さんから、就職を勧められ、S名義で、仁保村役場から食糧通帳
と移動証明書を取り寄せたうえ、一二月二五日安定所に行つた」旨の供述(一五の
五四〇七、一六の六〇六三)および当審で証拠調をした証三一号1・2被告人名義
仁保村役場産業課宛の書信の日付が、一二月二三日と記載され、郵便日付もまた同
日となつており、書簡の末尾に同村役場において記入したと認められる「送付済2
9・12・25・」なる記載文言とを対比すると、前記C32証言の「寒さに向う
ときから一ケ月以上」というのは、二九年一二月下旬を終期とし、それから一ケ月
余り前、即ち、二九年一一月初、中旬から一二月末頃までの意味と認められ、既に
この点でC32証言は本件犯罪時における被告人のアリバィの立証となしえない。
のみならず、当審証人C34の証言(二六の一〇七一三)によつて認められるG1
株式会社Q支店の昭和二九年一〇月頃の廃品の種類、分量、C32の所属、倉庫関
係の廃品の処分担当者に照らすと、C32証言自体信用しがたい。
 (七) 以上の各証拠を総合すれば、被告人が昭和二九年九月上旬以降、大阪市
内のh公園で小屋を建てて居住するようになつてから後、同年一〇月頃に四日以上
一週間近く小屋を空けて不在にしたという事実にほぼ間違いないと認められるが、
それが一〇月二四日を中心とした前後各数日のことであつたか否かについてはにわ
かに断定し難いところであつて、被告人が本件発生日の前後にわたり、当時の居住
場所である大阪市h公園にいなかつたという証明は十分ではない。
 第二、 被告人が本件発生数日前、犯罪地のi村附近で、C1、C2等二人の知
人に出会つた事実があるか否か
 (一) 被告人の供述とその変遷
 (1) 被告人の捜査官に対する供述
 (イ) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付供述調書(四の一二三
七)によると、
 昨年一〇月二一日の午後三時か四時頃、f1g1に出てその橋のところにあるv
のTがやつている製材所に行つて、丁度仕事をしていたvのC1という三〇才位の
男に会い、仕事口を聞き、さらに、北河内から深野に養子に行つた製材職友達のI
6の消息を尋ねてみたが、それは分らなかつた。
 ―中略―翌日午後五時前頃、山口市h1通りi1から下がつて一番初めにある製
材所に寄り、主人に仕事口を聞いたが今一杯じゃという答えであつた。丁度そこに
F4がいたので、同人に会つて働き口のことなど話し合つた。
 (ロ) 検察官に対する昭和三一年一月一三日付供述調書(四の一三一七)によ
ると、
 一〇月二一日午後三時過ぎ頃、仕事口を聞いたり製材職当時の友人であるI6の
居所を聞くために、f1の製材所へ行きC1という三〇才位の男に会つたが、同人
の話では仕事口も一杯のようで、I6の居所も知らないということであつた。翌二
二日G製材所に行つて、C2の大将に会つて働き口はないかと聞いて見たが、今一
寸職人はいらんといつて断わられた。
 というのであつて、これらの自供は一貫している。
 (2) 被告人の公判段階での供述
 昭和三二年三月二日付被告人作成の上申書(三の八三八)によると、
 私は当時の取調係官が、お前は製材所に必らず行つていると言つて聞かないの
で、架空の人物としてG製材所の主人と、iのC1という人を出すことにしたので
ある。g1の製材所はvのTの工場で、自分はこの工場には二回行つたことがあ
る。一番初めは同工場がバンド鋸を掘え付けるときで、二回目は年月日は記憶しな
いが、Tさん等四、五名の者が仕事をしており、大きなストーブが有つて、自分が
一服していると若い人が来て、薪を入れて焚いて呉れたことを覚えている。自分は
そのときのことを想い出して供述し、I7の弟に会つたように言つておいた。公判
で会つたC1という人は顔も知らない人で驚いた。またG製材所の主人は会つたこ
とも、話したこともなく、他人から紹介されたこともない。また、同製材所にF4
がいたということであるが、若し私が同製材所に行つたとすれば、一番にF4に会
つて話もしたり、親友だから一杯やつている筈である。
 というのである。
 (二) 被告人の捜査官に対せる供述の裏付証拠
 (1) C1の証言
 (イ) 同証人の一審第三回公判の証言(一の三〇九)によると、
 自分は昭和一三年頃、現在のC1家に養子に来た。その養家と被告人の家とは徒
歩で二〇分位の距離がある。自分が養子に来た当時、被告人の父は製材業をしてい
た関係で、被告人はその頃から知つているが話をしたことはなかつた。自分はiに
養子に行つてから五年間Uの青年学校に行つたので、青年学校で被告人を見たこと
もあると思う。また、被告人がiの製材所に働いていたのを見て知つていた。自分
は二、三年前松茸の出初める頃、C35さんに頼んでif1のG1製材所に、午後
から半日宛三日間程働いたことがある。そこでは製材の向取りという作業をした。
その中の日午後三時か四時頃、向取作業をしているとき、Nが、名前は忘れたが誰
かの名前を言つて、「誰々さんは居ないか」と尋ねたので、私はおつてないと答
え、さらに「何かええことはないか」と私から尋ねると、Nは「何もええことはな
い。」と言つて出て行つた。その場所は工場の入口近くで、私は仕事を五分間位止
めてNと一米位の距離を置いて話したのである。その時Nは黒いスキー帽を着てい
たと思う、最初はNということが分らなかつたが話しかけてから分つた。
 (ロ) 回証人の一審第二九回公判の証言(五の一七一〇)によると、
 Nの件では警察官から二度調べられた。一回目は自宅で写真を見せられ、二回目
は警察官が田圃に来られそれから家に帰つて書類に印を押した。自分は警官にNが
来たということだけ話し、日時は製材所の日誌に書いてあるでしようと答えておい
た。その日時の点について警察官から誘導するような聴き方はなかつた。前回の証
言後、N方の家人に「心にそまんことを言つて相済まんことをした」と言つたよう
なことはない。ただ「Nさんに会つたことを言わなければよかつた。」と言つたの
である。会つたことは会つたのだが、向い合つている仲でこんな所に来るのは人目
が悪いからである。G1製材所に三日間働いているうち山に木出しに行つた日もあ
る。しかしそれが何日だつたかは記憶にない。山に行かない日は製品の整理をして
いた。
 (ハ) 同証人の旧二審証言(一一の三九五三)によると、
 自分は一六歳の頃C1家に養子に来た。被告人を知るようになつたのはそれから
後である。自分が青年学校に行つているとき、被告人がその青年学校に行つていた
かどうか記憶にない。しかしその頃はNの顔は良く知つていた。よくは分らないが
現在のNの顔と昔の顔とひどく変つてはいないと思う。
 日時は良く記憶しないがG1製材所に三日間働いたことは相違ない。その時、被
告人が誰かの名前を言つてその人はいないかと尋ねて来たこと、自分がそういう人
はいないと答えたことがある。それは三日働いた日のうち中の日だつたと思う。製
材は二人でも出来ないことはない。あの時自分は板の整理をしていたと思う。その
時誰が向取りをしていたか覚えていない。被告人が来た時は自分が板の整理をして
いたから、工場の二、三米前まで行つて被告人と立話をした。C36等がいたとす
れば見えている筈である。若しC36がそれを知らないとすれば、同人は山に仕事
に行き、自分は残つて板の整理をしていた時に来たのかも知れない。自分もC36
と山に行つたこともあるが、それが何日かまた何回行つたかも覚えていない。警察
官が二回目私を尋ねて田圃に来たときは、稲はもう刈つて田鋤の後の掘上作業をし
ていた。この掘上作業は、一〇月頃から同月末までにやるもので、一二月頃にする
ことはない。G1製材所で被告人と会う前被告人に会つたのは、同人が製材の仕事
をしている時であつた。しかしそんなに度々会つたのではない。G1製作所のとき
は直ぐNであることがわかつた。
 というのであつて、一審、旧二審に亘る前後三回の証言の骨子をなす、N来訪の
日時、場所、会話の内容は一貫しているのであるが、U青年学校に通学中被告人も
同校に通学していて見知つたのか否か、また、被告人が本件犯罪発生前、G1製作
所に訪ねて来たとき、同証人が向取作業をしていたのか板の整理をしていたのか、
一審証言と旧二審証言との間に相違があり、ことに旧二審の証言の際は、検察官、
弁護人、裁判長の質問に対し、応答しない場合が三〇回を超え、また、記憶しない
旨の答も多数回にのぼり、渋滞の跡が顕著であり、それが年月の経過に伴う記憶減
退の故か、あるいは一審最初の証言後、被告人より書信を受取つたことによる心理
的影響の故か、いずれにしてもその証言態度には疑を容れる余地があるのである。
 (二) ところで同証人の当審証言(二八の一一五九五)では、
 自分がC1家に養子に行つたのはwの尋常高等小学校を卒業した数日後のことと
思う。戸籍上昭和一一年養子に行つたことになつているとすれば、その頃と思う。
養子に行つてから直ぐU青年学校一年に入つた。自分の養家とNの家は直線で五、
六百米離れているが、養家からNの家は見える。自分がUの青年学校一年生のと
き、Nを同校の校庭で見受けたことがある。Nはその頃同校の研究科ではなかつた
かと思う。研究科というのは青年学校五年を終えてから行くのである。私が青年学
校でNを見たとき、Nは青年学校の制服を着て教練を受けていた。Nの父は移動製
材業をやつており、私方から直線で五〇米位離れている妙見公会堂附近で、四、五
日間製材をしていたことがあり、Nがその手伝をしているのを見たこともある。そ
の際私は両名に挨拶したこともある。その外にもNが妻を離婚したということや、
同人方の飼牛が盗まれたと言つていたが、後でそれはNが連れ出していたのだとい
うことが分つたという話を聞いたこともある。また自分は昭和二六年頃、一時、G
2興産という酒場のあつた所の製材所に働いたことがあるが、その後、Nが、同製
材所に元押として働いていたのを見たこともある。I6というのは、私の妻の姉婿
で製材業や大工をしていたことがあり、自分が向取りとしてI6に雇われ働いたこ
ともある。自分はNから手紙や葉書を二、三通受取つたことがあるが、その手紙を
見て、私がつまらんことを言つたばかりに、こんな目に会うといつも情ない思をし
ている。しかし、G1製材所でNに会つたことは間違いない。と証言し、Nを知る
に至つた経緯やNのその後の風評等同人に対する関心につき、かなり具体的にかつ
はつきりと供述し、旧二審などの証言態度と趣を異にするところが見受けられるの
である。
 (2) C1証言に関連する証拠
 (イ) 一審証人C35の証言(八の三〇七五)によると、
 自分は、元Tの主任として会社組織で経営していた製材工場を引受け、昭和二七
年頃からG1製材所を経営している。昭和二九年一〇月二一日頃から三日間、C1
を雇つたことがある。それ以外に同人を雇つたことはない。仕事の内容は向取りで
あつた。工場の作業場は事務所から五〇米位離れている。外来者が工場に入つて行
くのは、気を付けていないと事務所にいる者には分らない。Nは見たこともないし
知らない者である。同人が昭和二九年一〇月頃、工場に来たことは知らないし聞い
たこともない。
 (ロ) 一審証人C36の証言(五の一七二一)によると、
 自分は昭和二八年頃から昭和三三年五月頃まで、G1製材所に勤めていた。昭和
二九年頃、Vがやめた後二、三日間C1が働いたことがある。昭和二八年にも二九
年にもNがG1製材所に訪ねて来た記憶はない。外来者があれば仕事場から分らん
ことはないが、私のところからは帯鋸が陰になつて分らない。しかしその外来者が
向取りと話をするような場合は私には直ぐ分る。C1が働いていたとき、そのよう
なことがあつたかどうか記憶にない。またC1に外来者の名前など聞いたこともな
い。G1製材所で働いていたC37という女性は、場内整理の仕事をしていたが、
時々は向取りもしていた。
 (ハ) 一審証人C37の証言(五の一七五九)によると、
 自分がG1製材所に働いていた昭和二九年秋頃、C1が一寸働いていたことがあ
る。仕事は向取りだつたと思う。私はこわ(木端)の整理をしていた。C36さん
は材木を押す職人である。製材の仕事は三人いなければ出来ないということはな
い。Nは今初めて見る人で、C1が働いていた当時Nが来たことは全く知らない。
外来者が入つて来て私達三人のうち誰かに話しかければ、他の二人にも分ると思
う。
 (ニ) 一審証人C38の証言(五の一七八一)によると、
 自分は、昭和二九年四月から翌三〇年三月までG1製材所で働いていた。自分が
仕事をしている事務所から、工場の鋸のあるところの見透しはきかない。しかし表
の入口から入つて来る人は見える。Nは知らない人であり、G1製材所に来たとい
うことは全然知らない。C37は製材の下働をしていたが向取りもしていた。製材
は一人では出来ず向取りが必要で大抵三人でしていた。証六号の日記帳はG1製材
所の昭和二九年度のもので、出勤状況が記載されてある。この日記帳の中の一〇月
一一日の「C1さん、Vさんの代人として今日より来社」と書いてあるのは私の筆
蹟であるが、一〇日二〇日、一〇月二一日、一〇月二二日の「C1午後来る」「C
1午後」という記載は、私の筆蹟ではなくC35社長の筆蹟と思う。当日私は休ん
でいたのではないかと思う。一〇月一一日以後一時C1の記載のないのは、その間
C1が来なかつたためと思う。社長は万年筆で書き私は普通のペソ先にインクをつ
けて書いていた。
 というのである。
 (ホ) ところで証第六号の日記帳によると、
 同帳簿には、C36、V、C37等G1製材所の従業員の出勤状況、業務関係の
人の往来、製品の注文、発送等が記載されてあり、その大部分の筆蹟はC38証言
のとおり同女の筆蹟で、一〇月一二日、一三日、一〇月二〇日、二一日、二二日の
記事は別人の筆蹟であること、
 が認められ、
 (ヘ) 当審において証拠調をした山口市立U1中学校長作成の回答書(三五の
一四六七三)、山口県警本部長作成の回答書(三四の一三九五三)によると、
 C1は、昭和一一年四月U青年学校に入学し、昭和一六年三月二〇日同校本科五
年を卒業したこと、被告人Nは、U2尋常高等小学校卒業後、同校附設の公民科二
年を終えさらに青年学校一年に進み、昭和一〇年四月(正確には三月か)第一学年
を修了し、その後は青年学校に通学していた形跡がなく、C1証人と被告人が、同
じ青年学校に通学していた時期があるかのようにいうC1証人の証言は記憶違いで
あること、
 が認められる。
 (3) C2の証言
 (イ) 同証人の一審証言(一の三二〇)によると、
 後ろの席にいるNは知つている。同人は今から五、六年前、山口市j1山の下の
G3木工所に働いていた。当時私は商売のことで同木工所に行つてNと知合になつ
た。その後昭和二九年頃、山口市i1の私の工場G製材所にNが来たとき会つたこ
とがある。それはA1一家が殺された事件の起きた日より、二、三日前の昼一一時
頃である。その時職人のF4は鋸の目立をしており、被告人は私に「えゝことはな
いか」と言つたが、使つて呉れとは言わなかつた。被告人はその頃iにいると言つ
ていた。その時それがNだということは忘れていたが、考えてみて後でNだと思い
出した。その時同人の服装は地下足袋を履き、弁当箱位の大きさの風呂敷包を腰に
つけていたこと以外は詳細に覚えていないが、仕事にあぶれた格好でみすぼらしい
様子であつた。Nに会つたのは製材所の前の材木置場の前で、Nは立つたたま私は
腰を掛け二、三尺離れて話をした。そこからF4が鋸の目立をしていた所とは大部
離れていたので、F4は多分気がついていないであろう。Nがいたのは一〇分間位
だつた。G3で二、三回会つた程度ではあるが、Nに間違いないと思う。今見れ
ば、当時より色も白くなり肥えて人相も違うようである。その時もNだと思つたが
Nであつたと断定はできない。見違いがあるかもわかりません確定はできない。判
然したことは言えない。F4はその日から二、三日前に雇い、一〇月二五日頃常傭
にした。
 (ロ) 同証人の旧二審証言(一一の三九七八)によると、
 自分は、昭和一九年頃からi1で製材業をやつている。被告人は同人がG4製材
所で製材工をやつていた当時、同製材所が売りに出たのを私が買いに行つたとき知
つた。自分は同製材所を従業員と共に譲り受ける気であつた。G4製材には二回行
つたが、最初のとき同製材所の主人から、あれが向取り、これがNというように教
えられた。また使用人の名札も掛つていた。しかし直接Nと話合つたことはない。
それは昭和二五年頃のことで、G3がG4を買い取つてG3木工所を経営する前の
ことである。
 G3木工所でNを知つたという一審証言は、誤りであつた。その後被告人が私方
の工場に来るまで、同人に会つたことはないと思う。日時ははつきり記憶しない
が、iの六人殺しの事件が起きた日から、五日前位にF4が私方の製材所に働きに
来るようになり、またその仕事より三日前位にNが訪ねて来たので、そのことをF
4に話したように思う。それはNが帰つた後である。F4はNが来たとき、向うを
向いて鋸の目立をしていたので見ていないと思う。F4が誰か来たのかと尋ねるの
でNが来たことを話した。Nには、F4が勤め出して間がなかつたので、今この人
がいるから雇われんと断つた。G4製材でNを見ていたので、Nが私方工場に来た
ときには分つたが、そのときは色も黒く痩せていたのに、今被告人を見ておかしい
と思う。この人ではないようにも思われる。一審のときも色が白く肥えていて人が
違うかと思つた。Nが私方工場に来たということが警察に知れたのは、警察が事件
後その犯人を探していた当時、F4を調べに私方へ来た際話に出たのではないかと
思うが、その日時は記憶しない。Nが私方工場に来たときは菜葉服を着て弁当箱を
持つていた。私は大怪我をしたり病気をして現在記憶が悪くなつている。
 (ハ) 同証人の当審証言(二九の一一七七二)によると、
 自分がG商会という合資会社を作り、製材を始めたのは昭和二五年頃のことと思
う。その頃G4製材所が売りに出て、弟と二人でそれを買いに行つた。建物、機械
など設備を全部買取る考えであつた。その時WとW1らしい婦人に会つた。工場の
中には二、三人の製材工がおり、そのうちからこれがNという職人だと教えて貰つ
たし、名札も下つていた。製材所では製材職人の技術の一番重要なので目にとまつ
たのである。その時のNは色もあまり白くはなく、黒い方で角形の顔であつた。G
4製材と私方と取引があつたかどうかは弟でないとわからない。G4との売買交渉
は値段の点が纒らず、結局G3が買い取つたということである。このG3木工所と
は取引があり二、三回行つたこともある。iの六人殺しの事件は二六日の新聞号外
を見て知つた。Nが私方工場に来たのはその事件より二、三日前のことと思うが、
確かな日時は覚えない。その時、自分は木切れを扱つていたと思う。Nとは製材鋸
の前で話をした。話の内容は今記憶しないが以前証言しているとおりだと思う。N
が来たとき工場にはF4も私の妻もいた。F4は背を向けて鋸をグライソダーで摺
つて居り、妻は小さい鋸で木を揃えて切つていた。同人等がNを見たかどうかはわ
からない。グライダーは大きな音がするので話声は聞えないと思う。F4には「今
Nが来た。」と話した。F4がそれにどう答えたか記憶しない。またそのことは家
内にも話した。昭和三八年の証言の内容はもう記憶しない。私が製材で片手をもぎ
取られ大きな打撃を受けたのは、昭和三五年でそれから一年半も入院していたの
で、昭和三八年の証言よりは昭和三一年の証言の方が確実であるが、昭和二九年一
〇月私方に来た人はNに間違いない。甲八の26(三四の一三九六〇)、甲八の2
8(当裁判所証四七号)の写真の人物はNであり、同人が私方に訪ねて来た時の顔
形に良く似ている。特に甲八の28の方が良く似ている間違いないと思う。Nが私
方工場に来たときと、G4製材所で同人に会つたときと顔形は余り変つてなかつ
た。ただ私方工場に来た時の方が少し痩せていた位だつた。一審や前の二審のとき
は色が白く肥えていて人相がまるで変つていた。証三三号の日給月給支払帳は、私
の書いたもので、同帳簿にF4と書いてあるのはF4のことであり、同人に対する
日当の支払が記載されている。証三四号の帳面も私が書いたもので、それは出勤簿
のようなものである。F4を本採用にしたのは一〇月二三日からである。それまで
四日位鋸の目立をしていたと思う。その間は金を払つていないから書いてないので
良く覚えない。F4が私方に働いたのは昭和三〇年一月二七日が最後である。それ
からF4は来ていない。従つてX事件が起きて一年後の頃は、F4はもう私方には
来ていないし会つたことはない。
 というのであつて、一審証言はNが同証人の工場に来たという時から、二年以内
の時期の証言であるが、その来訪者がNであつたという確言は避けているのに、右
時点から九年近くを経過した旧二審、一七年余を経過した当審においては、比較的
明確に、それがNであつたことを証言しているのであつて、その証言の経過に若干
の疑もあるのである。
 (4) C2証言に関連する証拠
 (イ) 一審証人C39の証言(五の一七〇一)によると、
 自分は昭和二六年頃からG3木工所を経営しているが、Nを雇つたこともない
し、同人が私方に出入りしたこともない。C2は製材所を経営しており私方にも出
入りしていた。
 (ロ) 当審証人C40の証言(二九の一一七二五)によると、
 自分は昭和二二年八月頃から、山口市k1通りj1山の近くで、G5有限会社、
その後はG5株式会社の組織で机、腰掛類を製造していたが、昭和二三年夏頃、防
府の同業者が倒産した際、これを譲り受け、その機械設備の一部は他に転売し、製
材機などはG5の工場に移設して自家用資材の製材を始めた。Nは、G5が譲り受
ける前から防府のその工場で、製材機械を担当していた人だと思つている。G5が
防府のその工場を買うについても、Nが口をきいて、銀行債務を肩替りするという
条件だけで好条件で買い受けることができるので、Nをそのまま雇い入れ、製材機
の移設も同人に一任したこともあり、その記憶は充分である。Nは私の工場でも製
材を担当していたが、同人がいつやめたかは、自分が病気で長く入院していたので
記憶していない。C2は製材業をしていたので取引があり、材木を持つて来たり集
金などに来ていた。G5は、私の入院中に欠損を生じて負債は増加し、一二月には
解散し建物や設備は債権者に差押えられたが、そのまま使用していた。その後工場
はC39という人に引き継いだ。C2の方で負債の取立のために、倒産後の私方の
工場を買い取るという話は聞いたことはあるが、私の方に金が入るわけではないの
で、余り関心は持つていなかつた。後ろにいる人はすつかり変つているが、面影は
ありNと思う。
 (ハ) F4の検察官に対する昭和三一年四月一六日付供述調書(三の一〇九
一)によると、
 私は昭和二九年一〇月二〇日か二一日頃から昭和三一年一月末頃まで、G製材所
の製材工として働いていた。iのA1は遠縁になるが右製材所で働いている時、A
1方一家殺しの号外を見て驚いた。
 その時より少し前の日だつたと思うが、G製材所の主人が同製材所の休憩室で、
「二、三日前職人が来て使つてくれと頼んだが、自分のところには貴方がいるの
で、今のところ職人はいらないと言つて断つた。」と話されたので、「それは誰で
すか」と尋ねると、「iのNという男だ。」と言われた。Nは自分が刑務所に入つ
ているときから知つており、同人は製材工として良い腕を持つているので、「あれ
なら上手ですが」と話した。Nが来たという頃には、私はG製材所で鋸の目立をし
ていたが、その場所は工場の奥の方で、しかも入口の方を背にしてやかましい音を
立てながらするので、Nの姿は見ておらず、もちろん話もしていない。
 (ニ) 同人の一審証言(一の三二七)によると、
 私は山口刑務所在監中、被告人と一緒に製材の仕事をしていたので被告人を知つ
ている。私は昭和二九年一〇月一三日か一五日頃から昭和三〇年二月初め頃まで、
G製材所に勤めていたことがある。それは同製材所の前を通りかかつた際、鋸の目
立をして呉れと言われ、それでは明日から来ましようということで勤めるようにな
つたのだ。A1方一家六人が殺された事件は、その日の朝一〇時頃新聞号外を見て
知つた。当時私はG製材所に勤めていた。同製材所の主人から、Nが仕事をさせて
呉れと言つて来たこと及び職人を雇つているからといつてそれを断わつたというこ
とは、後で聞いた。Nの事が新聞に出てからそういう話が出たのである。それはN
が製材所に来た当時のことではない。そのときNが逮捕されていたかどうかは知ら
ないが、Nの名が新聞に出たとき初めて聞いた。
 というのである。
 右(イ)ないし(ニ)によると被告人Nは、昭和二三年頃G5が、防府の同業者
の機械設備を買収した際、G5に移り同会社で製材部門を担当していたこと、その
後右G5もまた経営に失敗して倒産し、一時G製材所においてこれを買収するとい
う話もあつたが、結局C39においてこれを買収し、G3木工所として経営するに
至つたが、被告人は右G3木工所とは全然関係がなく、C39も被告人とは全く不
知の間柄にあること、及びF4の供述は、時期的にみて約三箇月の相違があるに過
ぎない検察官調書と一審証言との間に、かなり顕著な供述の変化があつて、同人が
G製材所に働くようになつた始期や同人がC2からN来訪の事実を聞知するに至つ
た時期について、明らかに異なる供述をしているのであつて、その理由につき納得
し難い点があるのである。
 (ホ) そこで当審押収にかかる証三三号日給月給支払帳及び証三四号覚帳等を
検討するに、これら帳簿によると、
 G製材所においてはF4に、昭和二九年一〇月三一日金四、〇〇〇円、同年一一
月三〇日金三、〇〇〇円、一二月三〇日金一万八、〇〇〇円の各賃金の支払をして
いる事実及びF4が、昭和二九年一〇月二三日から昭和三〇年一月二七日までの間
に出勤した日が記載されていることが認められるが、右期間の前後にはF4出勤の
記載がなく、帳簿の上のみからすると、F4がG製材所に働いた初日は、昭和二九
年一〇月二三日であると認めざるを得ないこととなるのである。
 (三) 以上の各証拠の外本件記録中の各証拠を総合判断すると、
 (1) 検察官主張のように、C1が昭和二九年一〇月二〇日から二二日まで、
いずれも午後半日宛、i村f1g1にあるG1製材所に働き、向取りなどの作業に
従事したことがあること、右G1製材所は、元i村v部落のTが経営していた設備
を、C35が引継ぎ経営したものであることは疑がなく、C1証人の証言中、同証
人がUの青年学校で被告人Nと共に在学していた時期があるようにいい、あるい
は、同校で被告人が青年学校の制服姿で教練を受けているのを目撃したという証言
部分は、前記U1中学校長作成の回答書等と対比し、俄かに採用し難いが、同証人
が、戸数も少なく人の移動も少ない農村地帯で、しかも被告人の生家から、直線距
離で五、六百米の視界内にあるC1家に養子に来て、当時移動製材という特殊の職
業に従事していた被告人を見知り、その後軍隊歴や警察官歴を有する被告人に、普
通人に対するそれ以上の関心を持つていたとしても決して異とするに足らず、また
G2興産跡の製材所で、被告人が働いていたのを見たというC1証言も、被告人の
検察官に対する供述調書(四の一三二一)中に被告人の経歴として、昭和二七年一
二年二五日刑務所から出所して後、昭和二八年四月まで、右製材所に勤めたことが
あるという供述記載のあることと符合し信用するに足り、同証人が被告人Nを見誤
るようなことはないとも考えられるのであるが、他面その証言中には、昭和二九年
一〇月G1製材所に来たという被告人の服装につき、黒いスキー帽を着ていた旨、
被告人の自供とはくい違いC2証言中には認められない特異な服装を供述している
部分や、被告人がG1製材所で同証人にその消息を尋ねたというI6は、C1証人
の妻の姉婿に当り熟知の間柄にあるI6のことと考えられ、聞き洩らす筈はないと
思われるのに、「被告人は誰かの名前を言つてその人はいないかと尋ねた」とのみ
証言し、また一審では「被告人がG1製材所に来たときは、自分は向取作業をして
いた」と証言していたのに、旧二審では、「C36さんがNの来たことを知らない
というのだつたら、同人は山に行き自分は残つて板の整理をしていたときに来たの
かも知れない。」と言葉を濁すなどやや不確実であいまいな証言部分もあること、
さらに当時G1製材所の従業員であつたC35、C36、C37、C38等の何人
からもN来訪の事実を裏付けるような証言の得られないことなどをあわせ考える
と、C1証人一人の証言に全幅の信頼を措くわけにもいかないのである。
 (2) 次に、C2が昭和二五年頃から山口市i1において製材業を営んでいた
こと、その頃、被告人がG5株式会社に雇われ製材部門を担当していたこと、その
後G5株式会社倒産の際、C2がその設備を買収しようと考え、二回に亘つて同会
社の工場に赴き工場内を検分した際、売主側から製材担当者であるNを紹介された
という事実は、証拠上これを認めるに足り、またC2証人の証言やF4の検察官調
書を総合すれば、本件犯罪発生二、三日前に、被告人NがG製材所に訪ねて来たと
いう事実は、これを肯定して差支えないようにも考えられる。しかし他面、C2証
人の当審証言は、既に一七年以上の日時を経過した後の証言であるにかかわらず、
一審証言や旧二審証言よりかえつて全般的に明確かつ断定的な証言であることに不
自然な感を免れないこと、C2証人が被告人Nを知つたという経緯が、比較的単純
かつ間接的で直接被告人と話し合つたことはなく、しかもその後は会つたことも話
したこともなかつたということなどを考えあわすと、同証人の証言の信用性、確定
性にも一抹の疑いなしとしない。
 (3) 以上要するに、被告人が本件犯罪発生前の一〇月二一日頃、i村f1の
G1製材所を訪れてC1に会い、またその翌二二日頃、山口市i1のG製材所を訪
れて、C2に会つたという事実は、被告人の公判段階における否認弁解にもかかわ
らず、ほぼ間違いないようにも考えられるのであるが、C1、C2証人以外にはそ
の頃被告人を目撃したという者はなく、その後二三日以降本件犯罪までの数日間に
ついても、被告人は郷里のi村周辺の地を俳徊したと捜査官に自供しており、同地
域には被告人を見知つている者もすくないと思われるのに、被告人を見かけたとい
う者はなく、前後五日間を超える俳徊中、被告人を見かけたという者は、結局C
1、C2両証人以外にはいないことを考えると、右両証人の証言に全幅の信頼を措
くことは困難で、その証言により直ちに、それより数日後に発生した本件犯罪と被
告人を結び付けるわけにはいかない。
 第三 被告人が本件犯行数日前、俳徊した経路として供述した内容には、当時被
告人が現にそのような行動をしたのでなければ知り得ない情況が含まれているか否
か(最高裁差戻判決の指摘する三点について)
 (一) D駅前のルーフイング葺の小屋について
 (1) 被告人の捜査段階における供述
 (イ) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付供述調書によると、
 昭和二九年一〇月二〇日朝七時頃、大阪駅を出発し、同日夜sに着き、それから
左波川沿いに歩いてl1迄来た。着いたのが午後一〇時過頃だと思う。それからD
駅前の木函工場の所の木の積んである中で寝た。
 (ロ) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月二〇日付供述調書によると、
 sに着いたのが午後七時半頃で、それからY鉄道の線路を伝うて歩き、夜の一一
時か一二時頃l1に着き、駅前の木函工場の材木の間に寝た。
 (ハ) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月二五日付供述調書によると、
 夜一二時過頃に、D駅前の材木の間に寝た。
 (ニ) 検察官に対する昭型三一年一月一三日付供述調書によると、昭和二九年
一〇月二〇日午後七時頃、三田尻駅に着き、Y鉄道の線路伝いにl1へ上つて行
き、D駅の上手の材木置場の木の間で寝た。
 (ホ) 司法警察員に対する昭和三一年一月二三日付供述調書によると、
 以前の取調べのとき、私が昭和二九年一〇月二〇日夜寝た所をD駅前と申しまし
たが、あれは駅の真前でなく、北側にあたる構内で材木等が積んである所で、その
近くには三〇米位離れた所に小屋があつたのを記憶しております。それで私が寝た
所は小屋と農協との中間辺であります。その小屋は黒いような紙のような物に何か
塗つたもので屋根が葺いてあり、臨時に建てた小屋のように感じました。寝るとき
にはそんなことは分りませんでしたが、朝よく見て分りましたから、記憶がありま
す。
 駅の前といいましたのは駅の建物の横側にも出入口がありますので、そのように
申したのでありますが、正確にいえば、駅の横手にあたる。駅の真前の方は旅館や
店等があることはよく分つている。
 木函工場と申しましたのは駅の上手の農協の横のあたりに板が沢山積んであつた
記憶があつたのでそのように申したのであります。
 というのであり
 (ヘ) 昭和三一年三月二二日検察官録音の内容は前記(ニ)の供述とほぼ同
旨。
 (ト) 同年一月二一日付被告人作成の図面によると、その内容は前記(ホ)の
供述とほぼ同旨(但し、小屋の屋根が黒い色であつたとの表示はない。)
 (2) 被告人の右供述に関する裏付証拠
 右(ト)の図面の外、一審証人C41の証言(六の二二五九)、司法警察員作成
の電話聴取書三通(六の二二三六―三九)、旧二審検証調書(一一の三七六七、一
三の四四六七)、当審証人C42の証言(三四の一三八三五)によると、
 被告人が一〇月二〇日夜寝たという場所は、Y鉄道D駅構内の北側材木置場の中
にあたり、その翌朝見たという屋根を黒い紙のようなもので葺いた小屋というの
は、それより更に約三〇米北方にあたるC41方居宅にあたり、同人は昭和二八年
七月頃、従前の黒いトタン葺の屋根をルーフイング葺に替えたこと、付近には他に
ルーフイング葺の家屋が存在せず、同人方前に当時杭木が沢山置いてあつたことが
認められ、右供述は客観的事実と符合している。
 (3) ところが、被告人は一審以来、右(1)の捜査官に対する供述は自分が
昭和二六、七年頃、山口市内のG6に働いていた当時、同会社がキジヤ台風後、応
急住宅をl1付近に建てたことがあり、その住宅の屋根がルーフイング葺であつた
ことを思い出し、終戦前堀警察署に勤めていた頃の状況とも合わせ考え供述したの
であると本件とは別の機会に得た過去の知識を基礎にして架空のことを供述した旨
弁解している。
 しかしながら、山口県社会課長作成の回答書(三四の一三九二〇)および当審証
人C43の証言(二九の一一九八五)によると、被告人が昭和二六年春頃から翌二
七年夏頃まで、G6株式会社に雇われ、製材工として働いていたこと、その間昭和
二六年七月頃、右G6は外の二社と共に、山口県から佐波郡m1村のl1、n1、
o1、p1等の地区の災害応急仮設住宅三〇戸(各社一〇戸宛)の建設を請負い、
同工事は同年八月一日竣工したのであるが、右住宅の屋根はすべて杉皮葺であり、
しかもG6はl1地区の応急住宅は請負つていないことが認められる。従つて、右
仮設住宅の屋根がルーフイソグ葺であつたことを思い出して架空のことをいつた旨
の被告人の公判供述はその根拠を欠き措信し難い。尤も、前記C43証人は昭和二
六年秋頃、山口県岩国市近郊のq1川流域に災害住宅を建設したことがあり、その
住宅の屋根はルーフイングであつて、被告人もそれを見る機会があつた旨証言する
が、右災害住宅の工事内容等必ずしも明確でなく、にわかに措信し離い。
 (4) ところで、最高裁差戻判決は、被告人の右(1)の捜査官に対する供述
が事前に現地に臨んだ警察官の誘導によるとの疑念を禁じ得ないと指摘しているの
で、この点を検討する。当審証人C42は、
 私は被告人の供述の裏付け捜査のためD駅付近に四回行つたことがある。
 第一回目は昭和三〇年一二月二七日で、その前の二〇日上司のC警部補から、被
告人がD駅近くの木函工場で寝たと供述しているから、右工場の所在、被告人が同
所に寝た事跡があるかどうかを調査せよとの命を受け、H4巡査と共にD駅付近に
赴き捜査した。木函工場はD駅前の農協付近にあつたと思うが、経営者が既に死亡
していたことなどから詳しい捜査ができず、被告人が同所付近に寝たことがあるか
否かについて聞込を行つたが、何ら裏付資料がえられなかつた。
 第二回目は同年同月二九日と三〇日である。前回の捜査で被告人の供述を裏付け
る資料がえられなかつたので、二九日頃、更に被告人をC警部補と共に取調べ、被
告人が寝た場所について図示説明を求めたところ、D駅の佐波川寄りの材木置場の
中にある小屋を図に書き、前回木函工場といつたのは、この小屋である旨説明し
た。
 そこで同月二九日(同日は他地を捜査)、三〇日右図面を携行して現地を調べた
ところ、その小屋というのは材木置場の西寄りにある一戸建ての一坪以内の風呂小
屋に相当し、狭くてとても人が寝られない状態であつたが、念のため、所有者のC
41に昭和二九年一〇月二〇日誰か人が寝たことがあるか否かを尋ねたが、分らな
かつた。右一、二回の捜査のときは、Cから黒い紙で葺いたような屋根についての
捜査は指示されていなかつたので、現地でも目にとまらなかつた。
 第三回目は昭和三一年一月二二日である。それまでの捜査では被告人がいう場所
は風呂場であり、寝られない状況であつたので、さらに一月二一日Cと共に、被告
人に寝た場所の図示説明を求めたところ、被告人はD駅の北西側の材木置場の中程
の材木の間に寝た旨供述し、その場所を図示した。このとき、被告人が翌朝黒いよ
うな紙のようなもので葺いてある小屋を見たと供述して、図面の寝たという場所か
ら、佐波川寄り約三〇米位の位置に小さい小屋と書き込んだので、Cの指示によ
り、翌二二日H4巡査と共に現地へ捜査に行つたところ、被告人が寝た位置は材木
置場の中程で、杭木の間に寝られる場所があり、付近にこもがあつた。また黒い紙
の屋根というのはC41方居宅の屋根であることがわかつた。そしてその結果を上
司に報告した。
 第四回目はその翌日頃、Cから、C41方の屋根をルーフイングにした時期を捜
査するよう命ぜられ、同月二四日私とH4巡査がl1に行き、C41を取調べで調
書を作成した。
 というのである。
 右経過からすれば、昭和三一年一月二一日被告人を取調べ、図示させたときおよ
び同月二三日調書作成時以前に捜査官が現地に臨んでいたことが明らかである。
 ところで、右C42証人は、昭和三〇年一二月二九日、被告人が木函工場の位置
を図示したと証言するが、その図面は現存せず、従つて、被告人が図面を作成した
のか否か、作成したとしても、木函工場の位置を何処と図示したのか確認出来ない
こと、同証人は昭和三〇年一二月三〇日迄のl1の現地捜査にあたつて、C警部補
から黒い屋根のことをいわれなかつたから、現地でも右小屋は目にとまらなかつた
と証言しているが、同人の証言によれば、その頃被告人が供述していた木函工場は
C41の風呂小屋にあたり、そこから二、三間離れたところに同人方の居宅があつ
たというのであるから、その際、右C41方居宅の屋根が目に入らなかつた筈はな
いと考えられること、前記一審証人C41の証言中に警察官が昭和三〇年一二月末
頃と翌三一年一月頃私方へ捜査に来たことがあり、一二月末頃来たとき私方の屋根
のこともきかれたと思う旨の証言部分のあることを総合すると、昭和三一年一月二
一日被告人を取調べ、寝た場所を図示説明させた時には、警察官が事前に現地に臨
んで付近の状況を知悉していたと認めざるをえない。これと被告人の寝た場所に関
する供述の変遷経過ことに被告人の初期の供述の基準となつていた木函工場の存在
の裏付が得られなくなつた時期と時を同じくして、駅構内の材木置場に供述が変化
し、かつ、C41方に相当すると認められる小屋が表面化して来ていること並びに
前記図面および一月二三日付供述調書の内容にかんがみると、被告人のルーフイソ
ーグ葺の小屋に関する供述もまた捜査官の誘導の結果ではないかとの疑を払拭しえ
ない。尤も、捜査日誌(証二七号)の昭和三〇年一二月二五日欄には、D駅前の木
函工場の裏、小さい小屋があるところで青カソをした。その小屋は黒いフアイター
ル塗りのものであつた旨の記載があるが、同日付で採取された供述録音や同日付の
被告人の供述調書には右記載に照応する供述や記載がないことからすると、右日誌
の記載の確実性に疑を抱かせるものがあるが、それはとにかく、黒いフアイタール
塗りとは如何なるものか、また小屋のどの部分がそうであつたのか必ずしも明かで
ないばかりでなく、前記C42の証言によると、被告人が供述していた小屋の所在
位置と前記C41方居宅とはD駅を基準にしてその方向、位置を異にしていたこと
が認められるから、右にいう黒いフアイタール塗りの小屋というのが直ちにC41
方を意味していたとは解し難い。従つて、この点をとらえて、検察官主張のように
警察が現地に臨む以前に被告人が真実の体験者でなければ知り得ない事実を先行し
て供述したものと認める訳にはいかない。
 以上の次第で、当審証拠調の結果によつても、未だ最高裁差戻判決の指摘する疑
問を解消することを得ない。
 (二) k川橋付近のパン屋について
 (1) 被告人の捜査官に対する供述
 検察官に対する昭和三一年一月一三日付供述調書によると、
 昭和二九年一〇月二一日l1の町からi村に向う途中r1の散髪屋の前の店で女
の人からパン三ケを買つた
 司法警察員に対する昭和三一年一月一五日付供述調書によると、
 一〇月二一日午前一一時頃、r1のk川の橋を渡つたところの散髪屋の前の店で
パンを四ケ買つた
 旨各供述し
 昭和三一年一月一七日には、一〇月二一日にパンを買つたという店の位置を図示
している。
 (2) 右供述の裏付証拠
 (イ) 一審証人C5の証言(四の一四一四)によると、
 昭和三一年一月一七日の取調べの際、被告人が昭和二九年一〇月二一日l1から
iへ来る途中、腹がすいたので、r1の橋を渡つたところの散髪屋前の店でパンを
買つたと述べたので、そのパン屋の位置などを図面に書かせた。この図面に基づき
早速その日、C16刑事と二人で、右図面を持ち、k川へ裏付捜査に行つたとこ
ろ、k川橋北詰の散髪屋は河川の復旧工事のため移転して存在しなかつたが、そこ
から三軒行つたところに食料品や荒物を売つている店があつて、私が行つたとき、
パンは売つていなかつたが、本件発生当時はパンを売つていたと店の者からきい
た。
 (ロ) 一審証人C16の証言(四の一四三〇)によると、
 C5部長と二人で裏付に行つたときパン屋は散髪屋のあつたk川橋のたもとか
ら、二、三軒横にあたるC44という店であつた。その日はパンを売つていなかつ
たが、本件発生の頃はパンを売つていたとの聞込をえた。
 (ハ) 当審証人C5の証言(三三の一三四四〇)によると、
 昭和三一年一月一七日、被告人が図面を書いたとき、被告人がk川橋をl1の方
から渡つて橋の北詰めを右へ曲つた三軒目か四軒目の店でパンを買つたと供述しな
がら、被告人がこの家がパンを買つた所と説明して図面に書き込み、四番目の四角
形を鉛筆で濃く書いた。右図面の橋の北詰から二番目の四角形が濃く書いてあるの
は、被告人が橋から二軒目かも知れないといつて鉛筆で濃く書いたのである。ま
た、橋の北詰の左側に書いてある四角形が濃く書いてあるのはここが散髪屋だと説
明しながら、鉛筆で濃く書いた場所である。右図面には散髪屋という文字で表示し
てはないが、k川橋北詰の左側角の四角形が散髪屋である。
 というのである。
 (二) 旧二審証人C45(一三の四四六三)、C46(一二の四一〇三)の各
証言、C45の住民票謄本(一二の四一二九)によると、
 l1方面からk川橋を渡つた左側のたもとに、F6経営の散髪屋が昭和二九年一
一月中旬まで存在していたことが認められる。
 (ホ) 旧二審検証調書(一一の三七七一、一三の四四六九)によると、
 被告人がパンを買つたという店は、前記被告人作成図面及び当審証人C5の証言
によつて認められる散髪屋を基準にして、r1村S1のk川橋北詰から東方四軒目
のC44方に当ることが認められる。
 (ヘ) 当審証人C44の証言(三〇の一二二一八)によると、
 同人は大正一五年頃から、同所で下駄類の製造、販売を営み、併せて文房具、駄
菓子類も店へ出して売つていたが、戦時中は一時休業し、昭和二二、三年頃から商
売を再開して、パンや菓子、文房具を販売するようになり、昭和三一年春頃までパ
ンを売つていたというのである。
 以上の証拠によつて被告人の自供する場所、時期にパンを販売していた店のある
ことが一応証明され、被告人の供述には裏付を得たことになる。
 (3) ところが、被告人は一審以来、右(1)の捜査官に対する供述は、被告
人が堀警察署に勤務していた当時の昭和一九年一二月末、年末警戒のためk川橋際
の散髪屋で二時間位張り込んだことがあり、またその付近には学校や旅館もある
し、ここは昔バスの終点になつていた。それで町だからパン屋の一軒位どこかにあ
ると見当をつけていつたもので、要するに過去の知識と体験を基にして、それに想
像を交えて述べた旨弁解し、(1)の昭和三一年一月一七日図面作成のとき、昭和
一九年頃の自分の記憶ではl1方面からk川橋を渡ると道路はすぐ左に曲り、しば
らく直線で、そして右に曲つていたと思つていたのに、警察官が橋はl1方面から
i方面に向う道路と直線に接続しているというので、どうもそこの所がはつきりし
ない部落があつたから正面にパン屋があつた風になつている訳ですと供述し、昭和
三二年一〇月二二日被告人作成の上申書添付の図面(四の一四七〇)には、右公判
弁解と同じような道と橋の位置を記載している。
 そこで、この点を検討するに、
 C46、F7、C45の司法警察員に対する各供述調書、山口県土木建築部長作
成の昭和三八年一〇月九日付回答書、佐波郡徳地町長作成の住民票謄本(以上一四
の四一〇三、四一〇七、四一一一、四一一六、四一二九)、旧二審証人C45の証
言(一三の四四六三)、旧二審検証調書(一一の三七六七、一三の四四六七)、当
審証人C46の証言(三〇の一二二四七)、同F6の証言(二六の一〇八三四)、
同C44の証言(三〇の一二二一八)、押収にかかる証四四号の一乃至四の写真四
枚を総合すると、
 (イ) 佐波郡r1村S1のk川橋は、昭和二五、六、七年頃のキジヤ、ルース
台風等の豪雨で流失したため、その後昭和三〇年一月初旬元の橋の位置に新橋が完
成するまでは、その上流に架設されていた仮橋が一般の通行の用に供せられていた
こと、
 (ロ) 旧k川橋をl1方面から渡つて橋の左側川下の袂の道路沿いにあつたF
6経営の理髪店は、右新橋架設工事の際、橋の高さ、幅員が拡張されたため移転を
求められ、昭和二九年一一月一六日頃防府市へ移転したこと、
 (ハ) 右架設中の新k川橋とその上流にあつた仮橋との距離は約七、八米であ
つたが、新橋の北詰東端の仮橋の北詰西端との間隔はさらに近接していたのではな
いかとうかがえること
 が認められる。
 そして、これを被告人作成の昭和三一年一月一七日付図面および昭和三二年一〇
月二二日付図面と各対比してみると、強いていえば、前者の図面は旧k川橋および
新k川橋と道路の接続状況に似ており、後者の図面はむしろ仮橋と道路の接続状況
に符合するのであり、このことは一面前者の図面が警察官の誘導によつて作成され
たのではないかとの疑を生ぜしめるとともに、他面、被告人が昭和二九年一〇月二
一日当時真実仮橋を通つたことがあるのではないかとの疑をも生ぜしめる。けだ
し、警察官が被告人の供述の裏付捜査のため現地に臨んだ時には仮橋が存在しなか
つたことが明かであるから、昭和三一年一月一七日付図面に仮橋の位置の記載がな
いのは、警察官の当時の認識のままに被告人を誘導し、右図面を作成させたのでは
ないかとの疑いを残すとともに、他面被告人が捜査官に作成提出した右図面の内容
を争い、むしろ仮橋当時の状況に近い図面を公判に提出し、且つ、公判廷でこれを
主張することは被告人の脳裡に昭和二九年一〇月二一日当時の認識、記憶が潜在し
ていることによるのではないかと思われるからである。
 しかしながら、図面はともかく被告人はパンを買つた店として散髪屋の前の店と
供述しているのであり、散髪屋の存在については警察官は当時現地に臨んでいても
知り得なかつた事情に属するから、右供述自体は誘導に基づくものとは認め難く、
またパンを売つていた店をいいあてることは必ずしも偶然といい切れないものがあ
るが、他方被告人のk川橋と道路の接続状況に関する記憶が、事柄の性質上思い違
いでないとの保障はなく(前記上申書添付図面における散髪屋の位置も実際と異な
る)、また被告人の捜査官に対する供述中に、架設工事中の新橋のことや仮橋のこ
とに関する特徴的な状況に関する叙述の一端が何らあらわれていないことにかんが
みると、右上申書添付の図面の記載、被告人の橋と道路の接続状況についての供述
主張をもつて、被告人が昭和二九年当時の仮橋を通つたことの証左と断言すること
もできない。
 従つて、以上検討の結果によると、被告人の捜査官に対する供述は、図面を除い
ては捜査官の誘導によるものとは認められないけれども、さればといつて右供述が
被告人の昭和二九年一〇月二一日当時の真実の体験によるのか、昭和一九年当時の
経験に想像を交えてのもので、それが偶然客観的事実に符合するに至つたのである
か、いずれとも確定し難く、右供述に真実性を認めることはできない。
 (三) jのC3経営の菓子店について。
 (1) 被告人の捜査官に対する供述
 被告人は司法警察員に対する昭和三〇年一二月一八日付供述調書ならびに検察官
に対する同三一年一月一三日付供述調書で、昭和二九年一〇月二四日午後六時頃、
山口市jの角の店でパンを買つて、iへ向つたと供述している。
 (2) その裏付証拠
 旧二審証人C47、同C3の各尋問調書、同検証調書(一一の三八七七、一三の
四三七八、四三八五、四四六七)およびC3の司法警察員に対する供述調書(一二
の四一三〇)を総合すると、山口市t1のC47方では前から煙草、菓子、パン、
飲料水等食料品や雑貨類を販売しており、昭和二九年六月頃、本店から三、四〇〇
米離れたjの袂に、同種の商品を販売する支店を設け、五年間位経営して昭和三三
年頃廃止したことが認められ、もし被告人が煙草、マツチ、パン三箇を買つた店が
j袂の支店の方であるならば、それは恰かも昭和二九年六月以降の体験を供述した
ものとして重要な意味を有するのであるが、前記C47夫婦の旧二審証言は、昭和
四一年四月二二日の供述であり、またC3の司法警察員調書の供述も昭和三八年一
〇月四日で、いずれも年月の経過のためその確実性には疑問があり、ことに被告人
の自供後間もなく行われた警察の足取捜査の結果を報告した昭和三〇年一二月二四
日付捜査報告書の記載によると、右捜査当時には既にjの袂には、C47の支店は
なかつたと認めえられ、C47夫妻が証言するように、支店を五年間経営してやめ
たとすると、右支店はすくなくとも昭和二五年頃から存在していたことになり、被
告人のこの点に関する供述を本件犯罪発生数日前の体験に基く自供であると限定し
て解釈することはできない。
 第四、 前記説示以外の被告人が本件犯行数日前俳徊した経路、飲食した場所、
寝た場所、立寄先として供述した内容に体験者でなければ知りえない状況が含まれ
ているか、またその裏付証拠があるか否か
 (一) 右俳徊経路に関する捜査段階における被告人の供述
 (なお、司法警察員に対する供述調書の大半は右に関するものであつて、逐一そ
の内容を摘記することは困難で煩にすぎるのでその要旨のみを摘記する)
 (1) 司法警察員に対する昭和三〇年一一月二二日付供述調書では、昭和二九
年一〇月二〇日過頃、大阪を出て夜八時頃sに到着し、防府警察署近くの飲食店で
焼酎やうどん等を飲食し、夜田圃の中の藁小屋で寝た。
 翌朝三田尻駅前通りや天神様通りを俳徊、飲食店で飲食後、バスで大道に行き、
同所で秋穂行バスに乗りかえ、潮風呂の旅館の先で下車し、山口刑務所で受刑中知
り合つた五〇才位の男の家を訪ね、表で一〇才位の女の子に父の在否を尋ねたら仕
事に行つているというので、後戻りしてI8の叔母方を訪ねるべく傍まで行つた
が、気まりが悪いので素通りし、潮風呂の所の酒屋で焼酎にブドウ酒をまぜて三杯
位呑み、sに引返し、午後五時半頃、省営バスでu1に行き、近くの酒屋で焼酎を
四杯位呑み、付近の元G7製材所に出ていたI9とかいう三七、八才の男を訪ねた
が、引越した後で会えず、u1に戻り、歩いてv1、iuを経て、生家の自宅上の
小屋に行き、暫く考え、一度は裏の風呂場から家の様子をみたが、子供の声も聞こ
えないし入る気にならず、そこから仁保市へ行き、G8、G9、I10方、I11
方付近さらにw1、n部落を俳徊し、A1方の近くへ行つて様子を見、夜明け前o
山の山頂に上つて寝た。
 午後六時ころ下山して付近を俳個後、A1方を襲つたと供述し、
 (2) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月一日付供述調書では、
 昭和二九年一〇月二三日朝大阪をたち、夜sについたと大阪出発の日を改め、先
の一一月二二日に供述した刑務所で知り合つた男、G7製材所にいたI9を訪ねた
こと、潮風呂の近くで飲酒したこと、o山の山頂で寝たことを取消し、夜明け前D
1駅裏の山に上つて、そこで寝たこと、A1方を襲う前、八幡神社横のI10方横
の小屋に入つて縄を持ち出しこれを腰にくくつて出かけた旨供述した。
 (3) ところが、司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付供述調書以降
においては、被告人が大阪駅を出発したのは昭和二九年一〇月二〇日朝で、同夜s
に着いたと従前のこの点に関する供述を変更したことと関連して、前記(1)、
(2)で述べた経路、立寄先等が殆んど全面的に取消され、従前の供述とは方向の
違う俳祖経路等を供述するに至つた。その供述経過及び内容の概略をみると凡そ次
のとおりである。(なお、昭和三一年一月一三日付検察官に対する供述調書の内容
は、昭和三〇年一二月一七日、一八日、二五日、昭和三一年一月八日付司法警察員
に対する供述調書にあらわれたものとほぼ同旨であるから、右検察官調書で新な事
実を供述したものだけを記する。)
 (イ) 昭和二九年一〇月二〇日夜の経路
 昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二〇日夜sについて、同所から佐波
川沿い(同月二〇日付警察官調書でY鉄道の線路伝いにと変更した)に歩いて、l
1町に出て、D駅前の木函工場の木の積んであるところで寝た(右寝た場所につい
ても変更があつたことは先に説示したとおりであるから、
 省略する)と供述し、
 同月二五日付警察官調書では、sからl1へ行く途中、夜一一時頃、D駅一つ手
前の部落の線路から左側二軒目の裏に杉垣のある農家の裏の一枚障子の閉めてある
所から中に入つて台所の戸棚の中のお櫃の中の飯を皿に盛つて出て長屋の軒先で盗
み食いし、皿は裏手の藪に捨てたと供述し、
 (ロ) 昭和二九年一〇月二一日の経路
 昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二一日午前八時頃、D駅付近で、以
前山口刑務所で知り合つたF5と出会い、盗みの相談をして駅前の飲食店で酒を呑
み、二人で歩いてr1に向い、k川を通りすぎた街はずれで一緒に一仕事をしよう
とl1での再会を約して昼頃別れ、r1の引谷、iの松柄を経て、午後四時頃、f
1g1に出て、Tの経営する製材所に立寄つて、C1という男と会つた後、高野を
経て仁保市に出、G8で寝たと供述し、
 昭和三〇年一二月二五日付警察官調書では、二一日D駅前で元G10組で働いて
いたI12と出会つた。r1からf1へ出て製材所へ立寄る前の午後三時半頃、f
1のお寺の下のG11という店で焼酎をコツプ二杯呑み、パン等を買つたと供述
し、
 昭和三一年一月一三日付検察官調書では、r1のk川橋を渡つた散髪屋の前の店
でパンを買つたと供述し、
 同月一五日付警察官調書では、r1からf1への途中x1で甘藷を掘つて食べた
り、柿をもいで食べた。y1でも甘藷を掘つて食べたと供述し、
 なお、右F5との出会や行動につき、昭和三〇年一二月一八日付警察官調書で
も、これを維持したが、同月二〇日付警察官調書では、同人とD駅前の飲食店に入
つたことはなく、同人と歩いてr1に行、途中同人が買つた酒をr1の川土手で呑
んだと一部変更し、同月二五日付警察官調書では、同人とD駅付近の材木の上に腰
をかけて話したことはあるが、その余は嘘であると一部取消し、その後それを維持
したが、昭和三一年二月一五日付検察官調書では、同人とは会つていないと全面的
にこれを取消した。
 (ハ) 昭和二九年一〇月二二日の経路
 昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二二日午前六時頃、G8を出て、D
1駅、wを経て山口に出て、午後五時頃山口市内のi1の製材所(G製材所のこ
と)に立寄り、主人に仕事を頼んだが、一杯じゃといわれ、恰度そこにいたF4と
話し、午後六時頃、自転車に二人乗りしてtに出て時間待ちをして午後一〇時頃、
G12から現金や煙草等を盗み、z1に出て同人と別れa2に出た。それから先の
ことは後でいうと供述し、
 昭和三〇年一二月一八日付警察官調書では、前記F4と会つて、F4と一緒にz
1まで歩いて出たが、前日盗みをしたといつたのは嘘であると一部取消し(なお、
右F4のことについてはその後、同月二〇日付警察官調書では、同人と会つたのは
午後三時頃で、製材所で三〇分位話しただけだと変更し、同月二五日付警察官調書
では、同人とは全く会つていないと全面的に取消した。)F4と別れてから、a2
のI8を訪ねたが、返事がなかつたので、山口へ出て、九時頃山口駅から行つて裁
判所へ行く道の左側の飲食店で焼酎を呑み(右飲食店のことは昭和三一年一月八日
付警察官調書で取消した)、その後b2を経てwへ行き、夜一一時頃、wのU3の
裏の宿直室に入つて盗人をしょうと思つて、のぞいてみたが、こうもり傘しかなか
つたので盗らず、その北側裏手の一五〇米位はなれた農家の木小屋兼藁小屋に寝た
と供述し、
 昭和三〇年一二月二五日付警察官調書では二二日夜wのU3付近の家から飯を盗
んで食べたと供述し(右は同月三一日付警察官調書で取消した)、
 昭和三一年一月八日付警察官調書では二二日午前九時頃、c2のG13という店
で煙草やパンを買つて、d2の山に行つて時間をつぶしたと供述し、
 同月一三日付検察官調書では、昼頃b2に行き、一番上の飲食店で甘柿、餅、パ
ンを買つたと供述し、
 同月一五日付警察官調書では、I8方からwへ引返す途中、金古曽郵便局前の酒
屋で焼酎二杯を、斜め前の店で買つた竹輪を肴に呑んだ。wd2付近でも甘藷を掘
つて食べたと供述し、
 (ニ) 昭和二九年一〇月二三日の経路
 昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二三日夜山口からwを経て、九時
頃、iw1に入り、w1、nを徘徊したと供述し、
 同月一八日付警察官調書では、二三日午前五時半頃、U3裏の百姓家を出て、六
時頃、Z駅の角から山口寄り五〇米位の左側の店でパンを買い、練兵場跡、雪舟の
寺付近で昼寝をしたり徘徊して時間をつぶし、午後六時頃宮野市営住宅の国道に出
て、角の店でパン、菓子を買つてiへ向い、午後八時頃からw1、nを徘徊し、w
1の奥から二軒目の家の藁小屋で寝たと供述し、
 同月二五日付警察官調書では、二三日夜w1、nを徘徊し、夜一二時頃、A1方
納屋の裏まで行つたが、そのとき傍の道を下から人が来たので、壁に体をつけてか
くれたと供述し、
 (ホ) 昭和二九年一〇月二四日の経路
 昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二四日朝早くwに出て、d2前の山
で時間をつぶし、その後iに帰り、夜明け近くなるまで仁保市、vを徘徊したと供
述し、
 同月一八日付警察官調書では、二四日朝五時半頃w1の藁小屋を出て、鉄道線路
伝いにwに向い、午前一〇時頃、宮野郵便局前の飲食店でうどんを食べ焼酎を一杯
呑み、付近の大きな寺の裏山で時間をすごし、午後六時頃jに出て、パンを五、六
箇買つて、iへ向つたと供述し、同月二〇日付警察官調書では、二四日午後七時頃
ie2のG14散髪店のおばさんに借金を申入れたが、ことわられたと供述し、右
は昭和三一年一月一八日付警察官調書で取消した。
 (ヘ) 昭和二九年一〇月二五日の経路
 昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二五日夜明けまで仁保市付近を徘徊
した後、実家の上の小屋に行つて休み、午後八時頃実家の裏から家に入り、奥の間
で寝ていた子供の顔を見、母といろいろ話をしながら、飯を食わして貰い、冷たく
いわれて家を出たと対話内容や父親や子供の様子まで詳細に述べた後、その晩A1
方を襲つたと供述し、
 右供述は、その後同月一八日、二五日、昭和三一年一月八日付各警察官調書、同
月一三日、二七日付検察官調書等において、さらに具体的に迫真性のある状況、描
写をも付加してそれを維持したが、二月一五日付検察官調書では、二五日午前三時
頃、実家の牛小屋の横の藁小屋に入つて寝たが、実家に入つたことはないと従前の
供述を取消し、さらに午後八時頃とその後もう一度母屋の裏の杉垣の間から家の中
の様子をみ、父母や子供の姿をみたほかZ1の子供が来ているように思つたとこれ
また真実らしい状況を具体的に供述し、
 昭和三〇年一二月二五日付警察官調書では、二五日夜九時半頃家を出て、八幡神
社社務所裏の小屋に入り、縄を腰にまいてnへ行き、A1方に入つたことは同月一
日付調書のとおりであると供述した。
 (二) 右経路として供述した内容に体験者でなければ知りえない情況が含まれ
ているか、またその裏付証拠があるか否かの点
 (1) 昭和二九年一〇月二〇日夜sからY鉄道の線路伝いに歩き、D駅より一
つ手前の駅のある所の部落外れで線路から左側に二軒目の杉垣が裏にある小さい家
で、飯を盗み食いしたとの自供(昭和三〇年一二月二五日付警察官調書)について
は、旧二審検証調書(一一の三七六七)により、被告人の自供に符合する場所に、
自供するとおり裏に杉垣を有し、裏出入口の構造もほぼ符合するI13方があり、
また同人方から一五〇米はなれた場所に昭和三二年頃まで真竹の竹藪があつたこと
が認められ、被告人の供述と一致しているが、被告人は旧二審公判で、右供述は自
分が以前堀警察署に勤務中I13方付近に捜査に行つたことがあり、その時の知識
に基いて供述したにすぎないと弁解しており、この弁解を排斥し去るほどの証拠は
ない。従つて、捜査官に対する右供述をもつて、昭和二九年一〇月二〇日の体験事
実に基く供述だとはいい切れず、前記証拠以外に住居侵入や飯の盗み食いの事実を
裏付ける証拠もない。
 (2) 昭和二九年一〇月二一日、r1を経てiへ向う途中、f2峠で甘藷を掘
つて食べたという自供(昭和三年一月一五日付警察官調書、同月二一日被告人作成
の図面)については、一審証人C5、C16の各証言(四の一四一八、一四三二)
があり、それによると、被告人作成の図面に示された甘藷を掘つた場所というの
は、G15株式会社がZ2管理のもとに耕作していた佐波郡r1村大字g2字h2
所在の甘藷畑に相当すると認められ、昭和三〇年秋には甘藷を栽培していなかつた
が、昭和二九年秋には栽培していたというのである。
 ところで、被告人は右の点につき一審以来、r1からf2峠までの道は歩いて通
つたことはなく、車で通つたこともないが、昭和二三年頃、i村f2峠寄りの一番
上の部落の甘藷畑を借りて整地して製材機を据付けて父と製材仕事をしたことがあ
るので、そのときの体験をもとにしていつたのであると供述しているのであるが、
右供述は旧二審証人C48、C49の各証言(一三の四四二二、四四二九)に照ら
し、たやすく措信し難い。
 しかしながら、農村地帯において畑地が各地に散在し、また畑作として甘藷栽培
が広く行なわれていることは、農村生活経験者にとつては、むしろ常識となつてお
り、被告人作成の図面と前記C5証言等に現われている畑がたまたま一致したとし
ても、被告人のこの点の供述を余り重視するわけにはいかない。
 (3) 昭和二九年一〇月二二日深夜、U3北側の裏手一五〇米はなれた農家の
木小屋兼藁小屋で寝たという自供(昭和三〇年一二月一八日付警察官調書、なお、
同月二五日付警察官調書では農家の納屋で寝たとある)については、昭和三一年三
月二二日検察官録音第一巻中に、U3の上側の道のへりにある、左側に木小屋と納
屋のある向うが母屋になつている百姓家の納屋の中に寝た。その納屋の入口には組
立てた鉄車の荷車があり、これにはござのようなもので覆いがしてあつた。かじ棒
は入口の方へのぞいていた。中には薪や藁が相当入れてあつたという被告人の供述
があり、他方旧二審検証調書(一一の三八七七、一三の四四六七)および当審証人
C50の証言(二九の一二〇五五)によると、被告人がいう木小屋兼藁小屋という
のはU3の敷地に隣接し、同校の校舎の東北方約一〇〇米にあるZ3方木小屋に当
ると考えられ、同人方は南向きで、U3の方から近道を行けば木小屋、母屋、納屋
の順に並んでいること、そして、木小屋は昭和二四年改築するまでは間口一間、奥
行二間で、草葺の粗末な掘立小屋で、その西側にさしかけもあつたが、小さく天井
が低いため大八車を入れることはできず、それまでは母屋東側の納屋においてい
た。昭和二四年右小屋を改築し、さしかけも大きくしたので、それ以来大八車をさ
しかけに入れるようにしていた。木小屋には薪や藁を入れていたというのであり、
被告人の前記供述には右限度において一応裏付があるといえないこともない。
 しかしながら、被告人の前記供述ことに荷車の状況に関する供述自体、昭和二九
年一〇月二二日一夜の経験としては余りにも詳細で徴にわたる認識、記憶に属し、
真実の記憶どおり供述したものか疑問なきをえず(従つて、被告人が公判段階にお
いて弁解するよう昭和一九年頃の経験に基づく供述であるものとは到底認められな
い)、右Z3方の家屋の配置や荷車の所有、置場所、木小屋の収納物などが、農家
では比較的共通して見受けられることであることにかんがみると、前記被告人の供
述をもつて直ちに昭和二九年一〇月二二日夜の体験による事実の供述とみるわけに
いかない。そして、他に被告人が当時同所に寝たことを目撃した者はなく、またそ
の形跡も立証されていない。
 (4) 昭和二九年一〇月二三日夜一二時頃、A1方の納屋の裏に至り、様子を
窺つていたとき傍の道を下から上つて来る人があつたため壁に身を寄せて隠れたと
いう供述(昭和三〇年一二月二五日付警察官調書、昭和三一年一月一三日付検察官
調書、昭和三〇年一二月二四日付被告人作成の図面)については、一審証人C51
の証言、同人の検察官に対する供述調書(一の三三一、三の一〇九五)があり、そ
れによると、被告人が右供述をした以前、既に警察でC51から右事実について聞
込みをえていたのであり、被告人の右供述があつて、C51にその事実を確めたと
いうことではない。また、前記証拠によると、同人は昭和二九年一〇月二三日夜一
二時頃、U4小学校での映画を見ての帰り、A1方裏道にさしかかつた際、同人方
納屋裏に人影を認め、薄明かりにすかしてみたところ、頭に帽子か何かを冠り、黒
つぽい服装をした背丈け五尺五、六寸で横巾もある体格のよい三六、七歳の男が便
所横の納屋の壁にくつつくようにして立つていた。それは元木出人夫をしていたZ
4という男に似ていたように思う。このことは本件犯罪発生後一週間位して警察に
届出たというのであるが、右証言によつても、何者かの人影をみたという程度にと
どまり、Z5の証言に照らしその確実性にも若干の疑があつて、これを直ちに被告
人に結び付け被告人の供述を裏付ける証拠とはなし難い。
 (5) 昭和二九年一〇月二五日夜生家に立寄つたことに関する被告人の供述は
特に詳細で真偽を判別し難いような供述の変遷があるので、念のため掲げると次の
とおりである。
 (イ) 昭和三〇年一一月二二日付警察官調書では、生家の上の小屋に入り暫く
考え、一度は裏の風呂場から家の様子をみたが、子供の声も聞こえないし、入る気
にならず、そこから立ち去つたと供述し、
 (ロ) 同年一二月一七日付警察官調書では、二五日夜八時半か九時頃、裏から
声をかけて家に入つた。台所付近にいた母に大阪の天王寺付近で日雇稼をしている
こと、子供が見たくて帰つて来たが、何も土産物をもつて帰らなかつたと詫言をい
い、人目にたたないうちに大阪に帰つて一生懸命働いて来るなどと話しながら、食
事をさせて貰い、母から家の財産はすべてI2のものにしてあるから心配しなくて
もよい。
 今晩一晩泊つて明日人目につかないうちに早く出てくれといわれ、食事を終つ
て、午後一〇時頃家を出たと供述し、
 (ハ) 昭和三一年一月一三日付検察官調書では、二五日夜明け前の午前三時
頃、生家牛小屋の横にある藁小屋に入つて、その日の夕方まで隠れていた。その
間、二、三回母屋に入りかけたが、父がいて敷居が高くて中へ入れなかつた。夜八
時頃、ご免下さいと声をかけて、中に入ると、水屋の抽斗を開けたりしていた母は
私を見ておどろいていた。私は父に聞えては悪いと思い、手真似で母が声を出すの
を押えるようにして台所へ腰をかけ、母に小さい声で大阪で失敗して土産も買わず
に帰つて来たなどと話した。そして飯を食べさせて貰つた。その後母のぐちをきい
たりしていたが、その言葉の中の人目につかないように帰れというのが胸に来て、
どうせ前科者だから邪魔だろう、明日帰れといわんでも今晩帰つてやるわい。俺が
戻つたということをもしも人に話したら今度お前らが叩き殺されるぞと凄文句を並
べて家を飛び出した。その間父は台所の上の間にいて時々煙管を叩く音がしていた
と供述し、
 (二) 昭和三一年二月一五日付検察官調書では、先に母屋へ入つたといつてい
たのは嘘であると取消し、二五日午後八時頃、牛小屋から出て母屋裏の杉垣の間か
ら家の中の様子をのぞいたところ、いろりのそばに父がおり、母がかまどの前にい
た。いつたん立ち去つた後、しばらくして再び戻つて杉垣の間から硝子障子越しに
屋内をのぞくと父がもとの位置におるのが見え、I2が上の間の方から「じいちや
ん、なにやらしょる」と父のそばへ寄つて来て何か話している姿を見た。I2がた
けつたのは、近所のZ1の子供が来てなにかいたずらをするため、I2が父につげ
に来たように思つた。その時は母の姿は見えなかつたと供述し、
 (ホ) 昭和三一年三月二二日の検察官録音によると、裏の杉垣の所から台所の
硝子越しにのぞいていたら、I2が「じいちやん、じいちやん」といつてたけるよ
うなから、のぞいてみていると、やつぱり誰かほかにも上の間におつたように思う
んです。そのほかの者というのは、子供みたいだつたからZ1の子供でも来ておる
のか、まだ帰らないでわるさでもしよるのかと思うた。或いは、誰か自分の姉が子
供を連れて来ておるのかと思うたと供述している。
 右のように、何れが真実か判別し難い供述内容の変更があるが、被告人が生家に
入つて母と会い、食事をしたことについては、I、I14両名共に検察官に対し
(一四の五一二九、五一三九)、また一審証言(四の一五一四、二六六四)で強く
否定するところで、他にこれを裏付ける証拠はない。
 前記(二)、(ホ)の供述中のI2のほかに近所のZ1の子供か姉が連れて来た
子供がいるのかと思つた旨の供述は、その前頃からI方四女のI15が三才位の子
供を連れて生家に農業の手伝いに来ていたことと微妙に符合することが認められる
(前記I、I14の各検察官調書)。しかしながら、右情景の供述もいずれも、被
告人が出奔前、生家で経験した同種の出来事を基にして述べうるものであつて、右
供述に犯行前夜の一〇月二五日夜の体験でなければ知りえない情況が含まれている
とはいい難く、他に被告人の供述を裏付けるに足りる証拠はなく、さらに供述の変
遷推移からみても被告人の供述が真実であるとはたやすく断定し難い。
 (6) その他被告人の徘徊中における寝食等の自供の裏付証拠をみるに、
 (イ) 被告人が立寄つて飲食したという店は、i村f1のG11商店(昭和二
九年一〇月二一日午後三時半頃、以下日時のみを記する)、山口市i2のC47商
店(二二日午前九時頃)、同市j2k2F8商店(二二日昼頃)、同市l2m2の
F9商店(二三日午前六時頃)、同市n2住宅付近のF10商店(二三日午後六時
頃)、同市o2のF11商店(二四日午前一〇時頃)に該当することおよび右各店
は以前から、被告人が買つたという品物と同種の物品を販売していたことが認めら
れ、
 (ロ) 被告人が泊つたというG8(二一日夜)は、i村p2にあるZ6らが昭
和二四年頃、酒蔵を改造してはじめた製材所であり、i村w1の奥から二、三軒目
の藁小屋(二三日夜)というのは、w1にあるZ7方かZ8方のいずれかであると
思われるが、被告人の自供と旧二審検証結果を総合すると、Z7方にあたる可能性
が強く、そうだとすれば、当時同人方には飼犬がいて、深夜他人がその屋敷内で野
宿することは困難な状況であつたことが認められ、
 (ハ) また被告人が盗みに入ろうとしたというwのU3(二二日夜)は、山口
市wのU3学校であり、立ち寄つて縄をとり腰に巻いたという仁保八幡神社横の農
小屋(二五日夜一〇時頃)は、同所にあるA7所有の農小屋であることが明かであ
る。
 このように被告人が供述する飲食店、寝た場所、入つた学校、農小屋はいずれも
その供述するところに存在していたことは認められるが、被告人がi村で生まれて
成長し、その後家業の移動製材に従事して諸所を廻り、山口市内の商店に勤めた
り、製材工として働いたことがある経歴、職歴等に照らすと、右の諸点はその頃に
えた知識と体験をもつてしても供述しうる事柄の範囲内に止まり、他に当時被告人
に酒食等を売つたと証言する者はなく、また被告人が野宿し、或いは侵入したのを
目撃した者もその形跡を確認している者もない。
 以上検討したとおり、被告人が徘徊経路として供述した内容には、昭和二九年一
〇月二〇日頃から数日間において、現に体験した者でなければ知りえない情況が含
まれているとは認められず、またその供述を裏付けるに足りる証拠も十分ではな
い。
 第五、 A1方の被害金品と被告人がそれを所持していた事実の有無
 一家全員が殺害され生存被害者のいない本件で、被害金品の種類数量を精確に知
ることは困難である。ことに金銭については、C10の証言等により、A1方が、
i村においてほぼ中流の生活を営み、農業の外桐材や竹の仲買をしていた関係で、
比較的金銭の出入りが多く、仲買資金として、時には一〇万円前後の現金を所持し
ていたこともあるという程度のことしかわからず、本件被害当時、A1方にはたし
て総額幾何の金があつたのか、そして幾何の金を強奪されたのかは、被告人の自白
を除いては明らかではない。そこで以下主として最高裁差戻判決の指摘する国防色
上衣について、本件により、はたしてA1方に国防色上衣の被害があつたのかどう
か、また被告人が右被害品と認められる国防色上衣を所持していた事実があるかど
うかの点を検討する。
 (一) 被告人の自白の経過と内容、
 (1) 被告人の司法警察員に対する昭和三〇年一一月二二日付調書(三の一一
七八)によると、
 A1方で盗つたものは、現金七、八千円とカーキ色折襟上衣一着である。
 (2) 同年一二月一日付調書(四の一二〇一)によると、
 盗つたカーキ色の服は、将校の着るような襟の折れた軍服であつた。
 (3) 同月四日付の調書(四の一二二四)によると、
 A1方で盗つて出た服は、軍服と言つていたがあれは軍服ではなく、将校の着る
ような木綿よりは良い国防色の折襟服で、襟が普通の背広服とは狭く折るようにな
つたものであつた。生地は薄く夏物か合物と思われる触りの柔い感じのものであつ
た。
 (4) 昭和三一年一月二〇日付調書(四の一三〇九)によると、
 A1方で盗つた上衣は、国防色の少し濃いような色で、割に薄い軽い生地で襟は
折れているが、普通の背広のように大きく開いていない一寸国民服に似ており、バ
ントは付いておらず、ポケツトは、と両脇に蓋の付いたポケツトがあり、その生地
や色は証六四号(原審の証一号)のズボンと同じような上服であつた。
(5)検察官に対する昭和三年一月一四日付調書(四の一三四六)によると、
 盗んだ服は濃いカーキ色で折襟であつたが、その襟は普通の服のように大きなも
のではなく細いものであつた。裏はなく夏服のような生地で、余り良いものには見
えなかつた。両脇のポケツトには覆があつたが、胸ポケツトは覆がなく左側につい
ていた。
 というのであつて、折襟といい軍服といい一寸国民服に似ていたといい、国防色
あるいは濃いカーキ色といい、表現は区々であるが結局は証一号スボンと同じよう
な生地と色合の襟元の開いた上衣というに帰するようである。
 (二) 被告人の自供にかかる国民服類似の上衣が、本件犯罪発生までA1方に
存在し、それが本件後なくなつているか否か、
 (1) 司法警察員作成の検証調書(二の四九六、五九三)によると、
 本件発生直後被害者A1方に残つていた衣類の中に、軍服上衣一点、国防色上衣
一点、軍服上下一着、ズポソ四点が箪笥の中あるいは部屋の鴨居に、納めてあつた
り吊されていたこと。
 (2) 司法警察員作成の昭和三一年一月一〇日付捜査報告書(六の二二四
五)、同月七日付領置調書(六の二二五二)によると、
 前記軍服類や国防色の上衣やズボン三点は、他の衣類とともに形見分として近親
者に分配され(ズボン一点は焼却処分)、右軍服上衣一点、国防色上衣一点はF1
2に、軍服上下一着のうちズボンはF13に、その他の軍服上衣一点とズボン三点
はC10に各分配され、右スボソ三点のうち一点は国民服用のズボンで、本件の証
拠としてC10より任意提出され、証六五号(原審における証一号)として領置さ
れていること、
 が認められるが、叙上証拠によつてはF12が分配を受けたという軍服上衣一点
及び国防色上衣一点と、C10の分配を受けた証一号を含むズボン三点の組合せ上
下関係は、必らずしも明らかではない。
 (3) 証人C10の一審証言(一の一四八)によると、
 兄A1は背広を四着と国民服と軍服を合せて四、五着持つていた。国民服という
のは、色は国防色で甲号という立襟の襟が折れているものであつた。自分が同居し
ていた頃はまだ余り古くなつていなかつた。事件直前頃は見たことはない。
 (4) 同証人の旧二審証言(一一の三九一三)によると、
 私が終戦で昭和二一年帰つた頃、兄A1が国民服を着ているのを見たことはな
い。帰つてから三月ばかり一緒にいたがその当時は軍服みたいな国民服であつた。
貰つた分は襟のあいた分である。自分は国民服を貰つた。
 (5) 同証人の当審証言(二八の一一三二六)によると、
 自分は昭和二一年六月復員して六ケ月位実家にいた。兄の家には証一号のズボン
と対になつた上衣があつたように思う。その上衣というのは襟は開襟で、現在Y1
鉄の職員が着ているような型であつたと記憶している。ポケツトは胸と両脇に四つ
あつたと思う。事件より一年前の秋一〇月頃、実家に行つたとき、その服を母から
出して貰つて松茸狩に着て行つた記憶がある。それまでその服を見た記憶がなかつ
たが、いろいろ考えているうちに右のような記憶が浮んだのである。形見分のとき
自分は、証一号のズボンを貰つたが、上衣のことには気が付かなかつた。警察の方
から国民服の上衣とズボンがあれば出して呉れといわれたとき、上衣はなかつたの
でズボンだけ出した。自分が形見分で貰つた上衣は、折返しのある立襟の分であつ
た。
 というのであり、
 (6) 一審証人C25の証言(一の一二二)及び前記捜査報告(六の二二四
五)によると、
 A1は、昭和二四年頃まで、会合その他の場所で国防色の国民服を着用してい
た。その国民服というのは、襟の折れた立襟の国防色の服で、色合は証一号のズボ
ンのような色であつた。
 というのである。
 右(1)ないし(6)の証拠のように、A1方にあつたという国民服に関するC
10の旧二審までの証言は、あいまいで、それを見たという時期も不明確であるう
えに、その国民服は折返しのある立襟であつた。貰つた分(形見分として貰つた分
と解せられる。)は襟の開いた分であると証言しながら、当審においては、A1方
には自分が貰つた証一号スボンと対になつた開き襟の国民服の上衣があつたが、形
見分のときには無かつたとかなり明確かつ具体的に証言し、さらに自分の貰つた上
衣は、折返しのある立襟の上衣であると旧二審までの証言とは異なる証言をするの
であるが、従前の証言の内容、当審証言までの変遷推移からみて、同証人の当審証
言を採つて、直ちに、A1方に本件犯罪発生時まで、被告人の自白に符合する国民
服の上衣が存在し、それが本件犯罪後なくなつていたとまで認定することは困難で
あり、C25の証言等前記(6)の証拠もまた、右の点に関する証拠としては不十
分である。
 (三) 被告人が本件犯罪後、自白にかかる国民服類似の上衣を所持していたか
否か
 (1) 一審証人F1の尋問調書(二の四〇七)によると、
 私は昭和三〇年四月頃から被告人と知合になつたが、当時被告人は、国防色の四
ツボタン付の海軍の将校の着るような立襟で胸と両脇にポケツトがあり、縫付のバ
ンドのある服を持つていた。その服は証一号のズボンより一寸生地が良くて厚く、
色も一寸濃い色だつた。裏は背抜の合服で、右測の横ポケツトのところに血のシミ
を洗つたような跡があつた。
 (2) 同C8の尋問調書(二の三九六)によると、
 被告人は昭和三〇年三、四月頃、カーキ色の青年団服のような上衣を着ているの
を見たことがある。
 それは証一号のズボンのような色で、腰を上から締めるようになつていた。
 (3) 同C9の証言(二の六九九)によると、
 被告人が所持していた衣類については良く記憶していない。国防色の上衣は兄ち
やんから借りていた。被告人が数日小屋を留守にして帰つて来た時の服装は、小屋
から出て行つた時の服装と同じであつた。
 というのであつて、本件犯罪発生当時被告人と同棲していたC9からは、国民服
について明確な証言は得られず、F1、C8両証人の証言も、それは被告人が茶臼
山に移居した後の昭和三〇年三、四月頃見知つた事実で、はたして被告人が何時か
らそのような上衣を所有所持していたのかは不明であり、ことにその上衣が腰バン
ド付であつたという点は看過し得ないところである。
 (四) 以上を要するに、被告人が捜査官に自白しているような国民服の上衣
が、本件犯罪発生時まで、被害者A1方に存在していたか否かに関する一審竝びに
旧二審までの証拠は、その上衣の襟元が、折返し襟付の立襟であつたという点で、
開襟であつたようにいう被告人の自白と相違するばかりでなく、その上衣がA1方
にあつたという時期が不明確であり、当審C10証言は、国民服の襟元の状況、存
在の時期について、従来の証言の矛盾や不備をほぼ修正し補足する内容のものでは
あるが、これに全幅の信頼を措き難いことは既に説示したとおりである。そして、
被告人が本件犯罪発生後、それまで所持所有していなかつた国民服の上衣を、所持
所有するに至つたこと、しかもそれが、被告人の自白するような生地、色合、型の
国民服であつたという裏付証拠は、ついに発見し得ないのであつて、最高裁差戻判
決の指摘する疑問は、当審の証拠調をもつてしても解消し難いのである。
 第六、 本件犯行現場に遺留されていた藁縄(証四号以下現場遺留縄と略す)は
A7方農小屋から持ち出されたものであるか否か
 (一) 一審証人C(三の八六二)、C5(五の一八八二)、C6(六の二三二
二)の各証言、C27作成の鑑定書(二の六一七)、C42ら作成の捜査報告書一
五通(三の一一〇一以下一一三七)、旧二審証人C42の証言(一四の四六八五)
によれば、
 現場遺留縄は、A1方居宅西側納戸の老母A6の死体の頭付近の畳の上に落ちて
いたものであり、警察当局は、右縄の落ちていた場所、状況から犯人が持ち込み遺
留したものと考え、この縄こそ犯人検挙の鍵を握るものとして直ちに鑑定を行つた
結果、右縄は農林一〇号の稲藁を材料にしてE1式製縄機で製縄されたよりの多い
三分の縄であることが判明したので、これに基づいて多数の捜査員を動員して、昭
和二九年一一月初めから同年一二月下旬にかけて、i村は勿論近隣数ケ町村に亘つ
て、農林一〇号の稲を栽培している農家およびE1式製縄機を所有する者を調べる
などして右縄の出所を捜査した。しかし、昭和二八年頃農林一〇号の稲は山口県下
の山間、山麓地帯に適した品種として奨励されていたので、i村やその近辺の町村
でも多数の農家で作付されており、またE1式製縄機を所有している農家も多数に
及び、若干の類似品を発見したが、照合の結果現場遺留縄と合致するまでに至ら
ず、現場遺留縄の出所は不明であつた。
 (二) 現場遺留縄の特徴
 C27(二の六一七)、O2(二の六一八)、O3(二の六一九)作成の各鑑定
書、一審証人C27(二の六五九、五の一九七四)、C52(六の二〇四五)の各
証言、C42ら作成の捜査報告書(三の一一〇一以下一一三七)、旧二審証人C2
7の証言(一四の四六八四)および証四号藁縄によれば、
 (1) 右縄は昭和二八年産の農林一〇号の稲藁を材料にして、E1式製縄機て
製縄されたよりの多い全長一八五糎、直径九耗ないし一二耗の縄である。
 (2) 右縄には〇型の血液および若干の長石、石英(土砂の成分)ならびに木
炭粉末か付着していたこと、右縄には一〇ヶ所の屈曲部があり、その屈曲は両端の
部分の角度が深いものであつたこと、屈曲部位、その間隔等は前記O3作成の鑑定
書記載のとおりである。但し、鑑定によつてもその用途は不明であつた。
 (三) 現場遺留縄に関する被告人の自供
 (1) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月一日付供述調書によると、
 被告人は、昭和二九年一〇月二五日午後九時か一〇時頃、船山八幡宮境内のF1
4方裏にある小屋に入り、三、四〇分腰を下ろして休んだ。この時、米か酒を盗も
うと考え、これらを盗んだ場合にその荷造に必要なものはないかと思つて手探りで
捜したところ、小屋の奥にある鋤にかけてあつたと思いますが、縄が手に触れたの
で、これを一回腰にまいて、両端を体の両横にはせて出かけた。これは一尋半位の
藁縄であつた旨供述している。
 司法警察員に対する昭和三〇年一二月二五日、同三一年一月八日、一月一五日付
各供述調書、検察官に対する同年一月一三日、二月七日付各供述調書、同年三月二
二日検事録音も右とほぼ同旨で、この点に関する被告人の供述には変更は認められ
ない。
 (2) なお、司法警察員に対する昭和三〇年一二月三一日付供述調書九項によ
ると、
 捜査官から、被告人が八幡さんの社務所裏の小屋から出して待つて行つた縄はこ
れかと現場遺留縄を示されたのに対し、被告人は右縄を腰に巻いて結ぶ真似をし、
更に縄の質をよく見てこれです。このような機械縄でしたと供述した旨記載されて
いる。
 (四) 右自供に対する裏付証拠
 (1) 被告人が供述する小屋の存在、その所有者、右小屋の戸締状況ならびに
内部の収納物の状況
 (イ) 一審証人A7の証言(二の四六五、六の二四〇八)によると、
 被告人が供述する船山八幡宮のF14方裏の小屋とは、同神社西側の畠に建てら
れている一戸建の農小屋であり、この小屋は同所から約一五〇米はなれたところに
住んで農業兼新聞販売業を営むA7の所有であつて、昭和二九年一〇月頃、右農小
屋には藁や新聞梱包縄、その他農機具を入れていたが、戸締りがなく開け放しで、
誰でも自由に出入することができたこと、
 (ロ) 昭和三一年一月二〇日H5作成の実況見分調書(六の二二二七)による
と、右農小屋は南北三間、東西二間の瓦葺平家建の西面した独立家屋で、東、南、
北の三面は壁で西方が開放されていて自由に出入することができ、見分時には内部
には唐箕、莚、平鍬、ふご、叺、藁、稲ハデの支柱などが収納されていたこと、
 (ハ) 検察官の昭和三一年三月二二日付検証調書(三の七八六)によると、農
小屋の位置、戸締り状況は前同様であり、その内部に唐箕、足踏脱穀機、小車、
鋤、熊手等の農機具が雑然とおかれ、藁束が雑然と堆積されていたこと、
 が認められるが、右各調書には、何故か右農小屋内に藁縄があつたか否かについ
て触れるところが全くなく、従つて、当時、農小屋の内部には縄が存在していたか
否か明かではなく、むしろ存在していなかつたのではないかと思われる。
 (2) 現場遺留縄とA7方に送られて来た新聞梱包縄との類似性について、
 (イ) 前記A7の証言によると、
 昭和二九年九月、一〇月頃、A7方で取扱つていた新聞はZ9、Z10、Z11
の各新聞であり、これらの各新聞は包紙と藁縄で梱包されて、国鉄仁保駅まで送付
されて来るが、Z11新聞は一二〇部の場合には六〇部宛重ねて二つ折りにし、そ
の折目を外側にして二個をかみ合わせ、これをハトロン紙で包んだうえ、一本の藁
縄で表も裏も一重まわしで十文字型にかけ、Z9(約三四〇部)、Z10(約二六
〇部)は、部数が多いため、長短二本の藁縄で表も裏も「キ」型に二重に縄がけし
てあり、これらの縄は短い方でもZ11新聞を梱包した縄より約三〇糎以上長く、
一見して分ること、同人は右新聞梱包縄を荷解きし(もつとも、当審における証言
では、Z11新聞の場合は一重であるため結び目を解かないではずしていたともい
う)、その都度出た藁縄を薪取りや農作業に使用するため一旦自宅横の木小屋に納
め、一、二ケ月に一回位まとめて、前記の農小屋へ運んでおいて、農作業等に使用
していたが、右縄以外の縄を他から購入したことはなかつた。示された現場遺留縄
は縄の先端の曲り具合が新聞梱包を解いた縄と似ているので、新聞梱包の縄だと思
う。
 (ロ) 一審証人C53の証言(二の四七二、当時Z11新聞社発送課長)によ
ると、
 Z11新聞社は本件発生当時新聞梱包用として太さ三分の縄をG16から購入し
ていた。私方で使用している縄は現場遺留縄ほどよりがかかつていなかつたと思
う。新聞を梱包した場合、その縄に縛つた形が残ることはないと思う。
 (ハ) 一審証人C54の証言(二の四七七、当時G16専務取締役)による
と、
 昭和二六年頃から、Z11新聞社へ新聞梱包用の縄を納入していた。縄の太さは
二分五厘と三分で、三分の方が多かつた。昭和二九年頃は佐賀市のF15商店と山
口県q2町のG17工場から仕入れていたが、F15からの仕入れの方が多かつ
た。現場遺留縄はよりが多い点でG17工場の製品と似ている。F15商店の製縄
機はE2式と思う。
 (二) 一審証人C55の証言(二の六五四、G17の経営者)によると、
 昭和二八、九年頃使用していた製縄機はE1式で、稲藁は近郊の滝部、特牛、粟
重、田耕の農家から買付けた。稲藁の材質は旭と農林来で、旭の方が多かつたよう
に思う。現場遺留縄のようによりの多いのを出していたと思うが、私方の縄より少
し太いようだ。もつとも太いのも製造していた。
 というのである。
 (ホ) 一審五八回公判期日における検証の結果によると、
 右公判期日に、検察官が未使用の藁縄を用い、これに現場遺留縄に存する屈曲部
一〇ケ所と同じ間隔、位置に印をつけて、証五号(Z11新聞社発送係が同新聞一
二〇部を梱包したもの)のZ11新聞一二〇部の梱包方法(六〇部宛二つ折にし、
かみ合わせ、ハトロン紙で包んである上を藁縄を一重にまわし、表も裏も十文字に
かけて角結びに梱包する)と同じ方法で新なハトロン紙包みのZ11新聞一二〇部
を縛つたうえ、右実験の結果縄に出来た屈曲ケ所を点検したところ、屈曲部はB、
C、D、E点において一糎乃至二、五糎の相違があつたが、その他のA、F、G、
H、I、Jの各点は各間隔が一致したことが認められ、
 (ヘ) 旧二審証人C42の証言(一四の四六八五)によると、
 被告人がA7所有の農小屋から縄を持ち出したと供述したので、右農小屋へ捜査
に行つたところ、そのなかに現場遺留縄と同種類の縄があつたので、捜査本部に持
ち帰つた。そして現場留追縄の折損ケ所と対比し鑑定の必要があるというので鑑定
してもらつたと思う。その結果は現場遺留縄と相違ないということであつたと思
う。
 (ト) 当審証人C56の証言(二五の一〇三二〇)によると、
 昭和三〇年一二月初め頃、C警部補から農小屋の存否、所有者、縄の存否、縄の
入手、搬入の経路、使用目的等を調査せよと命ぜられ、当時仁保下郷駐在所の巡査
H6と一緒にA7方に赴き、同人の妻に色々と事情をきき、同女の立会で右農小屋
を調べたところ、中に太さ、長さ、屈曲部などからみて現場遺留縄と類似した縄が
乱雑におかれているのを見たが、そのとき右類似の縄は持ち帰らなかつた。その後
二、三日してH6巡査が、丸めれば直径約二〇糎になる分量の縄を山口署の捜査本
部に持つて来たのをみたことがある。またその後、C57が沢山の縄をもつて来た
のを見たことがある。H6とC57がもつて来た縄は、当時被告人の取調室にあて
ていた山口署二階幹部宿直室の押入れに区別して収納されていたが、その後検察庁
へ送るとき命により点検をした際前記の縄は一緒になつたと思う。一審でA7方か
ら沢山縄を借りて帰つたように供述しているのは、表現が不十分でC57がもつて
来たことをいつたものである。
 (チ) 当審証人C57の証言(二五の一〇五〇〇)によると、
 昭和三〇年一二月二二日頃、C6警部からA7方居宅横の木小屋に行き、縄があ
れば領置せよとの命を受け、H6、C42の三人でA7方に赴き、木小屋内にあつ
た藁縄約二貫目の任意提出を受け、後日、H6が炭俵二俵にいれて山口署の捜査本
部にもつて来た。そして、これを当時被告人の取調室にあてていた山口署二階幹部
宿直室の押入れに収納して保管していた。その押入れには私が領置した縄以外にも
縄が相当数あつた。
 (リ) 当審証人C6の証言(二八の一一四五一)によると、
 昭和三〇年一二月一日頃、被告人の供述があつてから一両日して部下のH6、C
42らに被告人がいう農小屋の存否、その内部に縄があるか否か、あれば預つて帰
るように命じたところ、H6らが農小屋にあつた縄一〇数本を無雑作に山口署にも
つて来た。取調室で右縄を点検したところ、現場遺留縄と類似したのもあつた。そ
れを取調室の押入れに収納させた。そして、その際のH6らの報告によると、右農
小屋はA7のものであり、同人は毎日来る新聞の梱包縄を荷解きしてこれを自宅横
の木小屋にいれ、一定量たまると、それを農小屋へ運んでいるということであつた
し、二〇日後位に私自身他の捜査の序にA7方横の木小屋に立寄つて内部を見たら
沢山の縄が無雑作においてあるのを現認したので、C57に木小屋内の縄を領置す
るように命じたところ、炭俵二俵に入れてもつて来たので、これも取調室の押入れ
に収めさせた。
 昭和三一年一月終り頃、事件を検察庁に送致したのであるが、その際右各縄は区
分して送致すべきところ、一括してしまつたかも知れない。そして事件発生直後
頃、近隣の農家等から、捜査員が現場遺留縄と類似しているとして参考のため蒐集
して来た縄は、その頃仁保下郷巡査派出所に設置されていた捜査本部に持込まれて
いたが、昭和三〇年一月下旬同所の捜査本部が解散となり、山口署に引揚げるとき
処分した。捜査本部を山口署に移してからは縄の出所の捜査をしていなかつた。
 というのである。
 (ヌ) 縄約二貫目(証五二の一乃至一〇一)の証拠調の結果
 右縄の中には、当審証人C6の証言に反し、本件発生直後頃、現場遺留縄の出所
捜査の際、捜査員がA7方木小屋および農小屋以外の一般農家等から、参考資料と
して蒐集したと思われる藁縄(r2村s2Z12と書かれた紙札が付いている。)
が混入していて、右縄二貫目はその立証趣旨に照らし証拠としての適格性に疑があ
るばかりでなく、右縄の前記保管状況に照らし、現在その屈曲の有無や屈曲部、形
状、間隔等を現場遺留縄のそれと対比検討することは無意味であり、さらに右縄を
当裁判所において検討してみても、その材質、太さ、よりの具合、変色の程度等か
らして現場遺留縄と近似しているものはなく、むしろ、現場遺留縄と材質、太さ、
よりの具合の似ていると思われるのは、前記二貫目の縄の中に混入している初期の
捜査の際蒐集した他所の縄であることが認められる。
 (3) 以上の事実によると、本件犯罪後A7方から蒐集された縄には鑑定を侯
つまでもなく、現場遺留縄に類似したものがなく、むしろ、材質、製造上の特徴に
類似したものがA7方以外の他所にもあつたことが認められ、旧二審証人C42お
よび当審証人C56のA7方農小屋内に現場遺留縄と類似した縄が存在していた旨
の証言部分は、その当時、その類似性について何等鑑定等の措置もなされていない
捜査経過にかんかみ措信し難いし、一審証人C53、C55各証言は必ずしも類似
性を肯定したものではない。成る程、一審検証の結果によれば、Z11新聞一二〇
部を梱包した場合の屈曲部と現場遺留縄の屈曲部の大半に類似性が認められるが、
なお一部の相違があり、しかも屈曲部の類似性自体同寸法のものを同一方式の結び
方をすれば生じうると考えられ、当時縄は広範囲の用途に使用されていたのである
から、荷礼その他特に何らかの標識のある場合は格別、これをたやすくZ11新聞
を梱包したものに限定して認定することはできないから、現場遺留縄をたやすくA
7の農小屋から持ち出した縄と認めることはできず、結局被告人の供述を裏付ける
に足りる確実な証拠かないといわざるをえない。
 第七 本件犯罪発生当時、被告人がE印の十文半もしくは十文七分の地下足袋を
所持着用していた事実があるか否か
 本件犯罪現場に血に塗れたE印地下足袋の足跡が残つていて、それが十文半もし
くは十文七分の地下足袋に相当することは、既に説示したとおりである。従つて本
件発生当時、被告人がE印の十文半もしくは十文七分の地下足袋を所持着用してい
たか否かの点は、最高裁差戻判決の指摘するように、被告人の自白の信用性を判断
する重要な資料である。
 (一) 被告人の供述の経過内容
 (1) 捜査段階における供述
 (イ) 司法警察員に対する昭和三〇年一一月八日付供述調書(三の一一四八)
によると、
 昭和二九年八月二日頃名古屋市のG18組Z13飯場の仕事を終つて次の職場に
行く途中、名古屋駅裏の商店街でンヤツ、ニツカーズボンの外地下足袋を買つた。
 (ロ) 司法警察員に対する昭和三〇年一二月四日付供述調書(四の一二二四)
によると、
 悪いことをするとき履いて来た地下足袋は、昨年八月三日頃、名古屋駅の裏通り
の駅から四、五町位行つた所の商店街に行けば右側のゴム類専門店で買つた十文七
分の普通の型の地下足袋で、裏は波形になつている地下足袋てあつたが、何印であ
つたかはわからない。
 (ハ) 司法警察員に対する同月二五日付供述調書(四の一二六七)によると、
 昨年一〇月一九日大阪市h公園を出たときは、十文七分の普通の新しい方に地下
足袋を履いていた。
 というのであつて、検察官に対する供述調書においても、検察官録音の際にも、
右一二月二五日付の司法警察員調書とほぼ同旨の供述をしているのである。
 なお、右各供述調書の任意性立証のため提出された警察官録取の録音テープ中に
も地下足袋に関する供述が散見されるので、これを摘記すると、
 (ニ) 「あの来た時にさらを履いて来たんや、いよいよいたんではおりやへ
ん。ありゃ土方につかわれん足袋ぢやつたからのう」(第五巻)
 (ホ) 「土方用かそれとも仕事に使われん方かよう考えて言うてみい」との質
問に対し、「両方に使われるのです。下はほとんど同じで二重底の分、辺りが巻い
てあるやつで下は違わん同じです。とびは下だけ一枚に」(第一三巻)
 (ヘ) 「あれは名古屋で八月に買つた地下足袋です。十文七分で朝日ぢやつた
と思いますがあんまりよくは覚えてはいない。裏は波形ぢやつたと思う。」
 (2) 公判段階における供述
 (イ) 昭和三五年五月一二日一審第四一回公判調書(六の二一〇五)による
と、
 名古屋で買つた地下足袋は、十文七分の五枚ハゼの鳶職用の一枚裏の地下足袋で
あつた。
 (ロ) 昭和三六年三月二二日一審証人C11の尋問調書(七の二五〇六)中の
被告人の供述によると、
 自分が地下足袋を買つた店は、駅から真直ぐに行つて右側の神社から二〇〇米位
先の右側の店であつた。
 (ハ) 昭和三八年二月一八日受付上申書(一〇の三四七七)によると、
 名古屋でニッカーズボン等を買つた所とは反対側の店で、四枚ハゼのオカ足袋を
買つた。
 (ニ) 昭和四一年二月一八日旧二審第四回公判調書および被告人作成の図面
(一二の四三二三)によると、
 地下足袋は名古屋駅裏口から真直ぐに行つて右側に八幡様があるその近くの店
(但しその供述を明確にするため作成提出した図面では、その距離は一五〇米)で
買つた。その店先には下駄、ゴム草履も陳列してあつた。自分の買つた地下足袋の
裏ゴムは、色は黒色で横一文字の山形に突起したひだがあり、
 普通の地下足袋のように底から上の布の部分にかけてゴムが貼つてあるのとは違
い、上にゴムは貼つてなかつた。
 というのであり、さらに同年二月二二日受付の上申書(一二の四三三七)では足
袋と裏ゴムの縫付部分を明示した図面を添付して提出している。
 (3) これを要するに、被告人は地下足袋の銘柄についてそれがE印であると
供述したことは一度もなく、また種類についても供述の都度様々に異なる供述をし
ている。もつとも捜査段階においては供述調書上普通地下足袋で一貫しているよう
であるが、右(1)の(ニ)(ホ)(ヘ)のような録音供述も存在することに照ら
すと終始普通地下足袋の主張をしていたものとも認め難い。さればといつて終始鳶
職用の地下足袋であると主張していたとも認め難い。すなわち、右録音供述中には
「鳶職用」という当時の被告人の知識、経験からはいとも容易に言い得る言葉が全
く使用されていないのであつて、右の(1)の(ホ)のように土方用の足袋であつ
たかどうかにつき選択の余地を残した質問に対しても単に両方に使われる足袋であ
つたと答えたのにとどまり「鳶職用」であつたとは明言しておらず、この点からす
ると被告人が捜査段階で当初から鳶職用の地下足袋であると主張供述していたもの
とも認め難いのである。しかるに、被告人は公判段階において鳶職用の地下足袋で
ある旨主張供述しているのであるが、ハゼの数においては異なる供述をし、また第
一回公判から九年以上を経過してそれまでとかく明確な供述をしていなかつた地下
足袋の模様、裏ゴムの色、縫付部分の状況など異状といえる程の詳細な供述をする
に至つているのであつて、このような公判供述の経過に照らすと、右供述にいう地
下足袋に似たものが現実に存在したとしても、右供述が昭和二九年当時の記憶に基
づくものと信ずるわけにはいかないのである。そうすると結局被告人の地下足袋に
関する供述中終始変らないのは、地下足袋を買つた店が名古屋駅裏商店側の行けば
右側のゴム類専門店であるということだけであるから、右店を確定することによつ
て被告人が当時着用していた地下足袋の銘柄、種類を推定する外はなく、以下この
点を検討する。
 (二) 被告人が地下足袋を買つた店に関する裏付証拠
 (1) 一審、旧二審で取調べられた証拠中名古屋駅裏商店街の右側の店で当時
地下足袋を販売していたところとして取調べられたのは、旧二審証人C58、同C
59の各尋問調書(一三の四五九三、四六〇三)のみであつて、これらによると、
 昭和二〇年一二月頃から、この名古屋市t2区u2町で商売を始めた。昭和二九
年夏頃には靴とカバンと半々位置いていた。下駄を販売したことはない。地下足袋
は手製の縫付の地下足袋と貼りつけの地下足袋の両方を売つていた。四枚、五枚、
七枚、一〇枚ハゼの地下足袋を扱つていた。そのうち四枚ハゼの地下足袋は昭和二
九年頃短期間扱つたたけである。この図面(昭和四一年二月二二日被告人作成提出
の図面を複製したもの)はE3印地下足袋の特徴を表わしている。神社から西でE
3足袋を扱つているのは私方だけである。E印は扱つたことはない。
 というのである。
 しかし、旧二審検証調書(一三の四六一三)によると、G19商店は神明社(椿
神社ともいう)の西方五軒目にあつて(なお後記(2)の(二)参照)、被告人が
右(一)の(2)の(二)の図面で指示した店の位置とは著しく異なり、また、G
19商店がゴム類専門店といえず、下駄も売つていなかつた点で右(一)の(2)
の(二)の供述と異なり、地下足袋の類似性をもつてしてもこれに関する被告人の
供述の信用できないこと右(一)(3)に説示のとおりであるから、結局被告人が
地下足袋を買つたのがG19商店であるとは認め難い。
 なお、検察官は一審、旧二審において被告人が地下足袋を買つた店はC11商店
であると主張し、一審、旧二審証人C11、旧二審証人C60の各尋問調書による
と、同人らは昭和二九年八月当時名古屋駅Z14商店街の左側の店でE印の地下足
袋を売つていたこと、鳶職用の地下足袋を扱つていたことはなく、C11店の近く
で靴類専門店はなく、神社の側でE印地下足袋を売つている店も一軒もなかつたこ
と、被告人に地下足袋を売つたかどうかは分らないことが認められるのであるが、
被告人はE印の地下足袋を買つたとは一言も供述したことがないので、たとえE印
を売つていた店があつたとしても直ちに同店が被告人の買つた店とはいえないこと
はいうまでもなく、その上C11店は名古屋駅Z14商店街の左側というのてある
から被告人の供述と明らかに相反し、その他検察官の立証によつても被告人が右C
11方で買つたとの証明は十分でない。もつとも一審証人C5は、被告人が地下足
袋を名古屋駅の裏を真直ぐに行くと右側にお宮があり、そこから一町位行つたとこ
ろのゴム製品を売つている店で買つたと自供し、図面を作成したので、これを持つ
て裏付捜査に名古屋市に行つたところ、被告人の自供どおりのところにC11商店
があつた旨証言しているのであるが、被告人が書いたという図面が現存しないので
右証言をもつて被告人が買つた店を左側に指示したことがあるとの証左とはなし難
く、むしろ、C5証人はE印を販売していたC11店の発見に幻惑され、同店こそ
被告人が買つた店と速断し同店が商店街のどちら側にあつたかの点で被告人の供述
とそごするかどうかにつき関心をもたなかつたものと考えられる。
 (2) ところが、検察官は当審になつて、C11は昭和二九年八月当時は、左
側店舗の外に右側の同人の元の住居でも店を持ち、その店でも、E印地下足袋を販
売していた事実があると主張し、検証、証人尋問、書証の取調を求めたので、その
証拠調の結果を検討する。
 (イ) 当審証人C61の尋問調書(二七の一一一〇一)によると、
 私方は乳母車の製造、卸、販売をしていたが、昭和二五年初頃名古屋市t2区v
2町w2のx2に小さな店を出した。最初の間は主人の弟達が住込んで店をやつて
いたが、昭和二九年二月二五日頃その弟も結婚して転居したので、それまでときお
り店に行つていただけの私も、同年一二月頃から毎日清洲から定期券で店番に通う
ようになつた。その店は間口一間半、奥行四間半位で、南隣にはC11靴店があ
り、同店の間口、奥行は私方の店とほぼ同じであつたと思うが、奥に鍵の手に部屋
があつた。そして店先に一寸したケースが置いてあつたが、その中に何があつたか
記憶にない。ただ若い人が靴の修理をしていたのを見た記憶がある。昭和三二年八
月頃私方のv2町w2丁目のその店から他に転居する頃は、C11方にはy2通の
方に店を持たれ、私方の南隣りでは店はしていなかつたと思う。
 (ロ) 当審証人C11の尋問調書(二七の一一一八九)によると、
 私は戦時中b3町に疎開していたが、昭和二三年頃名古屋市v2町w2丁目x2
番地に家を買つて移転し、主として皮靴の販売と修理をし、ゴム靴なども売つてい
た。その店は間口一間半、奥行八間位で奥に六畳位の部屋もあつた。その店は十
二、三年やつていたと思う。その後y2通の南側(左側)に店を出した。その場所
はv2町w2丁目z2番地というのが正確である。E印の地下足袋の特約店となつ
たのがその店を出した頃と思う。その時までは特約店制度がなく、どこで仕入れて
売つても良かつたと思う。v2町w2丁目x2番地の元の店は、その建物などを
「G20」に売渡す半年位前までは、y2通の店と並行してやつていた。しかし経
営の八割位はy2通の店に注ぎ、x2番地の古い店には、陳列棚に皮靴を置き、皮
靴の修理をする位で、その店に来た客が注文すれば、E印の地下足袋をy2通の店
から取り寄せて売つたり、たまたまその店に有合せのE印の地下足袋を売る程度で
あつて、家族の炊事や食事、一部家族の住居として利用していた。
 (ハ) 当審証人C60の尋問調書(二七の一一一四四)によると、
 昭和二三年頃名古屋市t2区v2町w2丁目x2番地に皮靴やゴム長の靴の店を
出した。その店の間口は二間、奥行は店の方が二間半でさらにその奥に一部屋寝起
きする部屋があつた。その店は七、八年位していたと思う。初孫のZ15が生れた
昭和三〇年二月頃まではa3通の店とx2番地の古い店と両方やつていたが、私達
はa3通の方の店にいて、商売はその方に集中し、古い方の店には長女夫婦がい
て、食事は全部そちらの方でし、家財道具もそちらの方に置いていた。a3通の店
には、男女皮靴やゴム靴類の外、E印の地下足袋も置いて販売していたが、x2番
地の古い店の方にはE印の地下足袋をあまり並べて置いてはいなかつたと思う。し
かしその店に来たお客さんが言われれば、a3通の店から持つて来て売つたことも
あると思う。
 というのである。
 (ニ) 次に名古屋市中村区長作成の「関係書類謄本送付について」という書
面、同区長作成の住民票謄本(二五の一〇二一一、一〇二二六)および当審検証調
書(二七の一一〇〇五)によると、
 旧二審まで名古屋市t2区v2町w2丁目x2番地と考えられていた名古屋駅a
3通左側のC11商店の地番は、実は同町w2丁目z2番地で、C11は、同所に
店舗を設ける以前の昭和二三年五月三一日頃、v2町w2丁目x2番地に愛知県西
春日井郡b3町より転入して住宅兼店舗を構え、昭和六年生れの長女Z16等の子
女と居住していたこと、右住宅兼店舗は、名古屋駅a3通商店街の一角にある神明
社の境内入口より西方一五六米位の地点で、a3通道路と交差する南北道路を北方
(右側)に約一二、三米入つた地点の道路西側沿いに当り、直接a3通に面しては
いないが右側商店街のG21店北側に隣接していること、右住宅兼店舗は新幹線名
古屋駅西出口(これと東海道線旧名古屋駅西出口の位置関係は明確ではないが、当
審証人C62の証言により大差はないと認められる)からは、西方四四五米余(四
町余)の地点に当り、なおG19商店は神明社入口から僅かに三六米、新幹線名古
屋駅西出口からは三二五米余(約三町)の地点に当り、またa3通左側のC11商
店はG19商店のななめ向側にあつて同店の西方約五〇米の地点に当ることが認め
られる。
 (ホ) 以上の証拠によると、昭和二九年八月当時名古屋駅から四町余り、神明
社から一六〇米位の駅から行つて右側にもC11商店があり、同所でも小規模なが
ら靴、地下足袋等を売つていたと認められ、これと被告人の前記(一)の(2)の
(ニ)の供述、指示、同(一)の(1)の(ロ)の供述と対比すれば、駅から或い
は神明社から右店までの距離がほとんど一致していることが明らかであるから、被
告人が当時右C11商店(元の店)で地下足袋を買つた可能性はかなり強いと考え
られる。しかし、右(ニ)のように右C11商店はa3通から北にやや入つたとこ
ろにあつてこれをa3通の右側の店といえるかどうか疑問の余地があり、被告人が
捜査段階で書いたという買つた店を指示した図面が存在しない上、初期捜査の誤り
から右C11店についての捜査やその他a3通右側のゴム類専門店の存否について
の捜査を怠つているので、被告人が右C11商店で地下足袋を買つたことについて
はなお疑が残り、これがほとんど確実であるとまでは断言できない。
 (三) これを要するに、地下足袋の種類についての被告人の供述は首尾一貫し
ているとはいえず、専ら被告人が地下足袋を買つたという店の如何により地下足袋
の銘柄、種類を推定するほかないところ、検察官が旧二審判決までに主張していた
a3通左側のC11店或いは弁護人が主張するG19商店が被告人の地下足袋を買
つた店であるとの根拠に乏しく、検察官が当審で主張したC11店(元の店)が被
告人の地下足袋を買つた店である蓋然性はかなり強いけれども初期捜査の誤り等か
らこれを確実であるとまでいうことはできないので、結局買つた店が証拠上確定し
難く、その他被告人が逮捕されたときに履いていた地下足袋についてその銘柄、種
類を確認保全する措置をも講じておらず、以上検討の結果を総合すると、被告人が
本件発生当時着用していた地下足袋の銘柄が、E印であつたと断定することはでき
ない。
 従つて本件犯罪現場に残つていたE印地下足袋の足跡を被告人の足跡と認めるこ
とはできないところである。
 以上のとおり、差戻判決の指摘する六点についての被告人の供述の裏付は、一部
を除きその確実性は増加し、被告人の自白、真実性の信用性も一段と増強した感は
あるが、なお程度の差はあつてもそれぞれの点に合理的な疑をいれる余地を残し、
差戻判決にいう高度に確実で合理的な疑をいれないほど決定的な証拠はついに発見
しえなかつたのである。そして、右六点以外についてもできる限り審理を尽し、記
録を精査したのであるが、前記第四に説示のとおり他にも決定的な証拠はなく、ま
た逃走経路についても、被告人がその生育歴、職業歴からして付近の地理に詳しい
と認められることを考慮にいれると、たとえ被告人の供述が客観的事実と符合する
ところがあつても、直ちに、被告人が本件犯行後逃走の際の体験を供述したものと
限定して推論することはできない。
 してみると、被告人の自白に真実性、信用性があるとしてこれと挙示の証拠によ
り、本件強盗殺人の罪につき被告人を有罪とした一審判決は、証拠の価値判断を誤
り、事実を誤認した疑があり、本件については疑わしきは被告人の利益に従うとの
原理に則り、被告人に無罪を言渡すのを相当と考える。
 これを要するに、本件強盗殺人の公訴事実に関しては、自白の証拠能力に疑問が
あるばかりでなく、事実誤認の疑も存するので、一審判決中右事実に関する部分は
もとより、これと刑法四五条前段の併合罪の関係にあるものとして一箇の刑を宣告
されている同判示第二に関する部分もともに破棄を免れない。
 よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条、三八二条により、一審判決中第一
の部分を除きその余を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所は直ちに判決す
る。
(罪となる事実)
 一審判決判示第二の事実
 (累犯前科、確定裁判)
 被告人は
 1 昭和二五年四月二七日(五月一二日確定)、飯塚簡易裁判所で、窃盗罪によ
り、懲役一年に処せられ、同二六年三月二七日、右刑の執行を受け終つた。
 2 同二七年七月一七日(八月八日確定)、山口簡易裁判所で、窃盗罪により、
懲役六月に処せられ、同二八年一月三一日、右刑の執行を受け終つた。
 3 同三七年六月三〇日(確定)、山口地方裁判所で、住居侵入、窃盗未遂の各
罪により、懲役四月に処せられた。
 右の各事実は、検察事務官作成の昭和四六年一月二〇日付前科調書(三五の一四
六八八)によつて、これを認める。
 法律に照らすと、一審判決認定にかかる判示第二の所為は、刑法二三五条に該当
するところ、右罪と前示(3)の確定判決を受けた罪とは同法四五条後段の併合罪
の関係にあるから、同法五〇条によりさらに判示第二の所為につき処断することと
なるが、前示(1)(2)の前科があるので、同法五六条、五七条、五九条により
累犯加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処する。
 なお、本件公訴事実中強盗殺人の点は、さきに説示したとおり犯罪の証明が十分
でないから、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により、無罪の言渡をする。
 よつて、主文のとおり判決する。
 (裁判長裁判官 幸田輝治 裁判官 村上保之助 裁判官 一之瀬健)

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