弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
被告人は無罪。
理由
第1本件公訴事実は「被告人は,釧路市内のa所有にかかる木造亜鉛メッキ鋼,
板葺2階建家屋に父B,母C,妹D及び同Eと同居していた者であるが,平成
17年7月9日午後3時30分ころ,前記家屋2階南西側洋室において,食用
油を浸したティッシュペーパー数枚にライターで火を点け,同ティッシュペー
パーを同室南東側に敷かれた布団上に置いて火を放ち,同布団を介して,その
火を同室壁,天井等に燃え移らせ,よって,前記B及びその家族が現に住居と
して使用する前記洋室(床面積合計約16平方メートル)を全焼させて,これ
を焼損した」というものである。。
責任能力の点を除き,被告人がこの公訴事実記載のとおりの行為(以下「本
件犯行」という)をしたことは,当公判廷で取り調べた各証拠によりこれを。
認めることができる。
第2ところで,責任能力につき,検察官は,本件犯行当時,被告人は統合失調症
にり患していたものの,心神耗弱であったと主張するのに対し,弁護人は,心
神喪失であったと主張するので,この点につき判断する。
,,1前掲証拠のほか関係各証拠によれば被告人の責任能力の判断の前提として
以下の事実が認められる。
生育歴,生活状況等
ア被告人は,父B,母Cの長男として出生し,1歳年下の妹Dと,8歳年
下の妹Eがいる。被告人は,釧路市内の公立中学・高校を卒業後,工場の
作業員やガソリンスタンドの従業員等として稼働し,平成15年2月ころ
から,釧路市内の中学校で臨時用務員として稼働するようになった。
イ被告人は,幼少のころから大人しく内向的な性格で,強い指導を受ける
と極度に萎縮することがあった。学生時代の成績は総じて振るわず,同級
生などからいじめを受けたこともあったが,目立った欠席などはなく学校
。,,「」,「」,に通っていた被告人は学校関係者から明朗・快活非常に素直
「善悪の判断ができる「何事にも努力する姿勢がある「温和でまじめ」,」,
な性格「決められたことをしっかり守る」などの評価を受けていた。」,
ウ被告人は,平成16年4月の人事異動で釧路市内のb小学校に勤務する
,,,ようになったが遅くとも平成17年4月ころには仕事に対し無気力で
指示された簡単な作業も上手くこなせない状態となり,理由もなく独り笑
いを浮かべたり,空き教室に入って下を向いたままぼうっとしているなど
奇異な行動が見られていた。また,このころから,自宅でも,大音量で音
楽を聴く,意味もなく独り笑いを浮かべる,独り言を言う,冷たいシャワ
ーを浴びる,家族に対して極端に丁寧な言葉遣いをするなど奇異な言動が
見られるようになった。
エこのころ,被告人が,出張先の父の携帯電話に電話をかけ,唐突に「昨
日の件なんだけど「テレクラに行ったこと」などと話し始めたことがあ」,
り,被告人の話に心当たりのなかった父が母に指示して被告人に内容を確
認させたところ「自分は犯罪を犯した,昨日テレクラに行って電話が来,
た相手はb小学校のcだかd先生だった,先生は『A(被告人の氏)君で
しょう明日学校でバラしてやる』と言われた,今日,学校に行ったら周。
りの先生から『A,犯罪犯したのに反省してない』と言われた」などと興
奮した様子で話したことがあった。被告人は,勤務先小学校の教頭に対し
ても,これと同旨の話をしたことがあり,教頭からそのような教師が同校
には実在しないと指摘されても,帰宅後に改めて教頭に電話をかけ「や,
っぱりあれはc先生です」と話したりもした。
オまた,学校に出勤するのを嫌がって布団から出ようとしなかった被告人
を父が叱ったところ,被告人が「死ねぇ「来い」などと大声を出して殴」,
りかかり,父が被告人の頬を叩くと,急に大人しくなって謝るということ
もあった。また,在宅中に,実際には車が自宅付近に来た事実などないの
に,母に対し「今,車,停まったっしょ,b小学校の先生だよ」と言っ,
たり,突然,靴を持って居間にやって来て「隣の叔父さんが『殺す』と,
言うからベランダから逃げるんだ」と言い出したこともあった。
カそして,同年5月に入ってからは,仕事を無断欠勤・無断早退すること
が多くなり,同年6月2日付けで同学校を退職した。
両親は,このような被告人の様子に異常を感じ,被告人を精神病院に連
れて行こうとしたが,被告人がこれを拒否したため,母一人で精神病院に
相談に行った当日,被告人が本件犯行に及んだ。
本件犯行状況等
本件犯行当日,被告人は朝から自宅にいた。父は仕事で外出しており,妹
Dは前日から札幌に出かけていた。午後2時45分ころ,母が被告人に告げ
ずに一人で精神科に出かけ,午後3時30分ころ,妹Eも知人女性と連れだ
って近くのスーパーマーケットに買い物に出かけた。自宅に一人残った被告
人は,ティッシュペーパーに食用油をしみこませ,これとライターを持って
2階のDの部屋に赴き,このティッシュペーパーにライターで火をつけて,
Dのベッドに敷かれた掛け布団の上に置き,本件犯行に及んだ。
犯行後の経過等
ア被告人は,布団が燃える様子をしばらく見ていたが,自分の部屋に戻っ
てライターを置いてから,家の外に出て,その後は自宅付近にたたずみ,
自宅が燃える様子を見ていた。
被告人は,駆け付けた消防隊員に自分が火をつけた旨を申告したが,そ
の際にも,被告人は「目がうつろでボーッとし」た様子であった。犯行直
後に現場に臨場した警察官が,警ら用車両内で事情を聴取した際,被告人
は「e通りの隙間から教職員や家族に僕の様子をのぞかれたので腹が立っ
た」と本件犯行の理由を申し立て,逮捕直後の警察官に対する弁解録取及
び警察官の取調べにおいて「仕事をやめ,お父さんからは,もう口をき,
かない等と言われ,なんだか自分や全部が嫌になり,家に火をつけて燃や
してしまおうと思い,やりました」と述べた。。
本件犯行の翌日(平成17年7月10日,被告人は,警察官の取調べ)
において「犯罪をしてきたこと「隙間から見られていること」が嫌に,」,
なったと述べた。問答の末,被告人は「犯罪をした」とは,テレクラに,
行ったことを意味し「隙間から見ている」というのは,向かいのマンシ,
ョンの隙間からb小学校の教師たちが見ていることを意味し,そのことは
声が聞こえるので分かると述べた。
その翌日(同月11日,被告人は,検察官に対し「自分のことが嫌に),
なって,自分の家に火を付けました。どうして妹の部屋に火を付けたかと
いうと,妹のDが普段から私のことを『仕事ができないから』などと生意
気なことを面と向かって言ってきて,気に入らなかったからです」旨述。
べた。
,,イ検察官から鑑定の嘱託を受けたX医師は同年7月20日に約2時間半
同月21日に約1時間半の間被告人を診察した。
X医師は,同月25日付け簡易精神鑑定書において,上記診察時の被告
人の反応が非常にもどかしく「打てば響く」の正反対であったと指摘し,
た上,被告人が初期の統合失調症にり患しており,是非を十分に弁別し,
その弁別に従って自己の行動を合理的に統御する能力が尋常であったとは
みなし難い,との結論を示した。
ウ同月22日,被告人が家族宛に発信した手紙の中には,本件犯行現場の
屋内を示すと思われる図の中に「d先生」の文字がある。
エ被告人は,同月26日,検察官の取調べの際,本件犯行の動機について
「妹が生意気だったから」と説明し,Dから「死んで欲しい「口を聞か」,
ないから」と陰口を言われた経緯を述べた上,本件犯行はDを困らせてや
ろうと思ってやったことだとし,また,父から「口を聞かない」と言われ
た事実はなかったと述べて従前の供述を訂正した上「自分が嫌になって,
いました。全部嫌になっていました。人生をあきらめていました」と述。
べた。
同月29日,被告人は公訴を提起された。
オ同年10月4日に行われた第2回公判期日において,被告人は,上記ウ
の手紙を示されて「火をつけたときにd先生は1階にいたんですか」と。
問われた際「はい,いました」と答えた。また,本件犯行の動機につい,。
ては「今回,家に火をつけた原因は,テレクラに行ってしまい,性格が,
変わり,そのせいで火をつけてしまいました「もう駄目だと思って火。」,
をつけました」などと述べた。また,隙間からのぞかれていたことは本。
件犯行とは関係ないとして,従前の供述を変更した。Dのベッドに火をつ
けた理由については「長女(D)が好きじゃないから」と述べ,Dに対,。
し嫌悪感を抱いた理由については,Dの性格が悪い,人の悪口を言うなど
と説明した。しかし,なぜDの性格が悪いと思うのかについては「親の,
口,きかないからです」とだけ答え,検察官から「親に口答えをすると。
いうことですか」と問われれば「はい,そう」と肯定するものの,それ。。
以上の具体的な説明はなかった。また,Dから悪口を言われた具体的状況
について問われた際も,答えに詰まり,覚えていないと供述するばかりで
あった。
カ同年11月11日から同年12月9日までの間,被告人は,鑑定留置さ
れた上,当裁判所が選任した鑑定人Yの精神鑑定を受けた。Y鑑定人は,
同年12月9日付け精神鑑定書において,被告人が,Y鑑定人に「火を点
けたときに,家にd(あるいはc)先生はいたのですか」と問われた際,
「はい,いました」と答えたこと,鑑定留置されていた間の同年11月。
25日被告人がペットボトルを壁に投げつけ表情をこわばらせてb,,,「
小学校の先生の声で『のぞいているぞ』と聞こえてきた。前にも聞こえて
いたが,今日は特に強く聞こえてきた」と述べたことを指摘した上,被。
告人が本件犯行当時,統合失調症による幻覚妄想状態にあったもので,責
任無能力であったと考えられる,との結論を示した。
キX医師は,平成18年2月20日,検察官の取調べにおいて,Y鑑定人
作成の精神鑑定書を踏まえても,被告人が幻聴や妄想に直接支配されて放
火したわけではなく,犯行時期を主体的に選んでいることなどから,責任
能力が十分であったとはいい難いものの,心神喪失の段階にまでは達して
いたとは全く思わないと述べた。
クY鑑定人は,同年4月14日に行われた第3回公判期日において,被告
人の統合失調症は,発病して10年,20年過ぎて,治療しているのに症
状が治まらないものという意味での重症には当たらず,一般的に言えば軽
症であり,善悪の認識はある程度保たれていたとは思われるが,病的な衝
動に動かされ,それが動機となり,悪いことだという認識を超える大きな
力の影響を受けて行った行為であるという意味で責任能力はなかったと考
える旨供述した(以下「Y鑑定」という。,。)
ケ同年6月8日から同年8月18日までの間,被告人は,鑑定留置された
上,当裁判所が選任した鑑定人Zの精神鑑定を受けた。Z鑑定人は,同月
21日付け精神状態鑑定書において,被告人の疎通性が十分でないことか
ら,同年6月16日から抗精神病薬による治療をしたところ,疎通性が改
,,,,善しその後の問診時において被告人が家に火を点けることについて
「悪いことだと思っていた」とも「悪いことだと思っていなかった」。,。
とも述べることが複数回あったことを指摘した上,本件犯行当時,被告人
は統合失調症にり患していて,その程度は中等度であり,事理の弁識能力
及びその弁識に基づいて自己の行動を制御する能力は失われていた,との
結論を示した。
Z鑑定人は,同年10月24日に行われた第4回公判期日において,時
,,間経過と病状の程度とは必ずしも一致しないものであって本件犯行当時
被告人は寛解期にはなく,むしろ病勢が著しかった時期にあり,思考障害
も含めた人格水準の低下の病状が,横断的にみて決して軽症であったとは
いえず,事理弁識能力及び行動制御能力の双方が失われていたと判断する
旨供述した(以下「Z鑑定」という。,。)
コX医師は,同年12月20日に行われた第5回公判期日において,簡易
鑑定後の5回の診察を踏まえ,被告人の統合失調症の陽性症状は初期とし
ては活発にあったと思われるが,火をつける以外に,激しく興奮したり,
突発的に他人に危害を加えるような重症ではなく軽症であり,妄想はあっ
たもののこれに直接的には支配されておらず,動機も誤った基礎の上から
出発したものとはいえ了解可能で,火をつける時期を選択していることに
照らし,行動を制御する能力もあったといえるから,心神喪失とは考えて
いない旨供述した(以下「X鑑定」という。,。)
2責任能力の判断
生物学的要素について
X鑑定,Y鑑定及びZ鑑定によれば,被告人は,本件犯行当時,初期のい
わゆる破瓜型(ないし解体型)の統合失調症にり患していたと認められる。
また,その発症時期についても,遅くとも平成17年4月ころには明らかな
症状が確認されるようになったことについてほぼ争いがない。
ところで,被告人の統合失調症の重症度については,軽症とするもの(X
鑑定,Y鑑定)と中等度とするもの(Z鑑定)に分かれる。
,,,このうちY鑑定は被告人の統合失調症の発症が平成17年4月ころで
本件犯行は,それからさほど時間が経過しておらず,発症から長期間を経た
ものではないという意味において重症ではなかったというにすぎない。Z鑑
定は,発病からの期間の長さとは別に,横断面としての病勢が著しい時期と
そうでない時期があるとしているが,その点は,X鑑定も認めるところであ
る。
Z鑑定及びX鑑定は,時間軸と横断面とを総合的に評価した結果,重症度
の判断について見解が異なっているが,いずれも,その判断過程が著しく不
合理であるということはできない。
この点,検察官は,Z鑑定の鑑定時には,X鑑定の鑑定時や,ひいては本
件犯行時よりも病状が進行していたため,重症度について見解が異なったの
ではないかと指摘する。しかし,Z鑑定は,上記の重症度を判断するに当た
っては,本件犯行前後にみられた妄想や幻覚の状況,社会的機能の低下の度
合い等を総合して判断しており,必ずしも鑑定時の状況のみに基づく判断と
はいえない。
また,前記認定のとおり,初期の統合失調症ながら,被告人には妄想や幻
覚の存在をうかがわせる奇異な言動が多数確認されており,X鑑定において
も,被告人には本件犯行前に初期の統合失調症としては活発な陽性症状があ
ったとしている。したがって,本件犯行時の被告人の統合失調症が寛解期に
はなく,むしろ病勢の著しい時期にあったという限度では,両鑑定の見解は
おおむね一致しているといえる。
心理学的要素について
ア動機について
被告人は,前記のとおり,いくつかの犯行動機を供述しているが,X鑑
定,Y鑑定及びZ鑑定のいずれもが,被告人があえて虚偽の供述をするこ
とは考えられないとしていることに照らし,供述の変遷は意図的なもので
はないと認められる。
前記供述経過に照らすと,自己への嫌悪感を中心とする供述と,妹への
嫌悪感を理由とする供述は,捜査・公判を通じてほぼ一貫しており,相対
的に信用性は高いといえる。しかし,隙間からのぞかれていたとする供述
についても,被告人が本件犯行直後にこれと同旨の発言を自発的かつ具体
的にしていることに鑑みると,その後の供述変遷を考慮してもなお,犯行
の契機となった一因であった可能性は否定できない。
そこで検討すると,まず,被告人のいう「自己への嫌悪感」が,捜査段
階の供述のとおり,仕事もせずに自宅にひきこもっている自分をだらしな
いと感じたことから生じたものであり,このことから何だか全部嫌になっ
て放火したというものであれば,犯行の動機は一見了解可能にも思える。
しかしながら,被告人が供述する自己への嫌悪感を抱いた具体的契機と
なる前提事情については,いずれも,客観的裏付けを欠くものである上,
以下に述べるとおり,通常人には理解し難いものである。
,「」。第一に被告人は父から口をきかないと言われたことを挙げている
しかし,客観的に父が被告人に対してこのような発言をした事実は認めら
れず,また,被告人がほかにも父から「死ね」と言われたなどと極端に被
害感の強い認識を示していることも考慮すると,統合失調症による被害妄
想である可能性が高いといえる。
第二に,被告人は公判廷では,自己を嫌悪した理由についてもっぱら前
記テレクラでの一件に関連付けて説明している。しかし,被告人が語るテ
レクラでの一件は,客観的事実に基づかない不合理な確信であるのに,被
告人自身は,訂正の機会を与えられても認識を改めようとしなかったもの
であり,まさに真正の妄想と認められ,これを犯罪と捉えること自体も通
常人からは容易に理解し難いものである。
ゆえに,いずれの供述を前提としても,被告人が自己を嫌悪した理由と
して挙げる事情は,客観的事実とは異なる不可解なものであり,妄想によ
る誤った事実認識が影響したものと考えられる。
次に,被告人が「妹に対する嫌悪感」を抱き,妹Dのベッドに火をつけ
たとするならば,これも動機としては一見了解可能である。しかし,妹に
嫌悪感を抱いたとする理由について,被告人は,Dから悪口や陰口を言わ
れた,同人の性格が悪いなどと説明するが,被告人とDとは近年交流が少
なく,同人が被告人に対し悪口や陰口を言った事実も客観的には認められ
ない。なお,本件犯行前にDが父と口論になったことがあり,被告人が偶
然これを耳にし,自己に対する非難と誤解した可能性もあるが,第三者間
のやりとりを自己に対する非難と捉える発想自体が,極端に被害感の強い
曲解であって,通常人からは容易に理解し難いものである。
検察官は,被告人が公判廷において,Dについて,親に口答えして生意
気であると述べた点を捉えて,こうした理由から同人を嫌悪する心理は十
分に了解可能だと主張する。しかし,検察官が指摘する被告人の発言自体
は「親の口,きかないからです」という,口答えして生意気であるとい,。
う意味か否か必ずしも判然としない意味不明なものであって,捜査段階で
も同旨の供述はなかったことをも考慮すれば,本件犯行当時の認識をその
まま述べたものとはにわかに信用し難い。結局,これらの供述を総合して
も,被告人がDの部屋に放火するほどに同人を嫌悪した理由を合理的に理
解することは困難であり,妄想や幻覚等による誤った事実認識が根底にあ
ったと考えられる。
そして,被告人が隙間からのぞかれていたと供述する点は,供述内容自
体が非現実的であり,まさに,統合失調症に典型的な注察妄想と考えられ
る。
そうすると,被告人が語る動機の前提事情は,統合失調症に伴う妄想や
幻覚に基づく誤った事実認識が基盤となったものであり,動機を形成する
過程に精神疾患の影響があったことは明らかである。
加えて,被告人は公判廷では,これら動機の前提事情について供述する
ことがあっても,その前提事情が何故に放火という行為に結びつくのかを
明確に供述しているわけではない。総じて,被告人の公判廷における供述
態度は,個々の質問に対し言葉少なに答えるだけで,論理的にまとまった
説明をすることはなく,全体としてひどくまとまりを欠いたものである。
本件犯行後11日目及び12日目に被告人を診察したX医師も,前記のと
おり,診察時の被告人の反応は非常にもどかしく「打てば響く」の正反,
対であったと指摘することに照らすと,捜査段階での被告人の供述態度も
同様のものであったと推認される。放火行為の本質的動機が何かについて
被告人の供述は曖昧模糊として,証拠上,確たるものを指摘できる状況に
はない。
イ犯行態様等について
前記のとおり,被告人はティッシュペーパーを導火材とし,これを食用
油に浸した上,燃えやすい布団を選んで火を放っており,犯行態様は一見
すると合理的かつ合目的的である。また,被告人は犯行当時の記憶をおお
むね保持しており,犯行時の意識が清明であったことが推認される。
しかしながら,Z鑑定によれば,重い統合失調症患者であっても必ずし
も支離滅裂な行動をとるものではなく,表面的にはかなり計画性のある行
動を取ることもあるというのであるから,行動が一見合理的であるからと
。,いって直ちに一定の判断能力を有していたとすることはできない同様に
犯行時の意識が清明であることも,判断能力が存することの前提条件であ
ることは間違いないが,その一事をもって被告人に判断能力が残っていた
と結論づけることはできない。
むしろ,被告人が犯行後,自己の犯罪であることを知らしめるように本
件犯行に用いたライターを自室に置きに行ったこと,犯行現場から逃走す
るでもなくぼう然と自宅付近にたたずみ,駆け付けた消防隊員に犯行を申
告した際にも目がうつろでぼうっとした様子であったことなどは,放火と
いう重大犯罪を行い終わった者の行動としておよそ現実感に乏しく,精神
疾患の影響が色濃くうかがわれる。
なお,検察官は,被告人が主体的に家人の留守を選んで放火に及んでい
ると指摘し,こうした行動は被告人に一定の判断能力が存したことの証左
であると主張する。
確かに,被告人は,捜査段階で「僕は,家族を火事に巻き込むつもり,
はありませんでした。この日は,午後から家族が僕以外家からいなくなり
ました。そこで,僕は,この日に火を点けることにしました」旨述べた。
と供述調書に記載されている。しかし,公判廷では「あなたが火をつけ,
て(中略)死亡者が出てしまう。そういうのは嫌だったんですか,それ,
とも,それでも構わないという気持ちだったんですか」との問いに,い。
ったん「・・・はい,そう,そうです」と答え,検察官から,どちらの。
趣旨かと問い返されて,ようやく「それは嫌だったです」と述べたにす。
ぎず,犯行時期の選択に関して主体的に説明したものとはいえない。こう
した被告人の供述態度に照らすと,捜査段階で,家族を巻き込むことは嫌
だったという程度の供述がなされたことは事実としても,調書に記載され
たとおりの論理的な説明がなされたとはにわかに信用し難い。
もっとも,被告人は公判廷で,自分以外の人が家にいたなら犯行には及
ばなかった,そういうことをすると親に怒鳴られるなどと述べており,少
なくとも被告人にこの程度の発想はあったと認められる。しかし,被告人
はその一方で,本件犯行当時,自宅1階にd(c)先生がいたと述べてお
り,自分以外の人がいたなら犯行に及ばなかったとする先の供述とは明ら
かに矛盾した供述をしている(なお,検察官は,被告人が捜査段階では本
件犯行時にd先生がいたとは述べておらず,本件犯行時に真にそのような
認識があったかは疑問であるとするが,同供述に沿う内容が,本件犯行後
間もない平成17年7月22日に被告人が家族宛に発信した手紙の中にも
記載されていることからすると,被告人が事後的に誤った認識を持つよう
になったものとは考えられず,同供述は,本件犯行時の認識をそのまま述
べたものとして信用できる。そうすると,少なくとも本件犯行当時の被。)
告人の主観面では,犯行当時に自宅に人がいると認識しながら犯行に及ん
でおり,自分以外の者がいないと認識したから犯行に及んだという関係に
はない。被告人の上記供述も,本件犯行が人に見とがめられる行為だとい
う抽象的な認識があったことの証左ではあっても,本件犯行当時,人のい
ない時期を選んで犯行に及ぶという判断があったことを裏付けるものとは
いえない。
責任能力に関する各鑑定の検討
アX鑑定は,被告人が妄想による誤った事実認識を有していたとしても,
それが放火という犯行に直接結びつくものではなく,不快感やいらいらを
解消するために短絡的に放火に及んだというにすぎないのであれば,動機
は一定程度了解可能であると指摘する。そして,被告人が観念的には善悪
の判断を有していることなどを考慮し,事理弁識及び行動制御能力が減退
した状態にあったとしても,これを全く欠いていたとはいえないとする。
確かに,本件は統合失調症による幻聴や妄想により直接命令され,支配
された犯行でなく,従って,妄想や幻覚の影響は間接的ともいえる。
しかし,Z鑑定が指摘するように,不快感やいらいらを解消するためだ
けに放火に及ぶという行動様式は,元来,内向的で大人しく,決められた
ことを守るなどと評価される人物であった被告人の行動としては,かなり
異質なものであり,本件犯行にみられる衝動性・短絡性が,被告人本来の
人格の発露として了解できるものとはいい難い。かえって,前記認定のと
おり,被告人が本件犯行当時,隙間からのぞかれ,あるいは実在しない人
物が自宅にいるなどと不合理で歪んだ現実認識に囚われていたのであるか
ら,そこから生じる圧迫感や不快感は,本人の主観面において,制御不能
な精神的負担を強いるものであったとも考えられる。
また,X鑑定は,鑑定留置を経たものではなく,限られた診察時間に基
づくものであるし,統合失調症患者の責任能力について,妄想や幻覚に支
配された犯行でなければ原則として心神喪失には相当しないという基本的
立場に立つもので,こうした立場に立った場合,責任無能力を認める範囲
が限定されすぎるのではないか,という疑念を抱かざるを得ない。
イY鑑定は,被告人が本件犯行当時,統合失調症に基づく幻覚妄想状態に
あり,本件犯行は幻覚妄想に基づいて行われたものであるとして,被告人
。,,が心神喪失であったと結論付ける同鑑定は犯行態様や犯罪性の認識等
犯行動機以外の要素についての検討が十分でない面があるものの,長年に
わたる精神科医師としての知識及び臨床経験に裏打ちされた見解であり,
犯行当時の幻覚や妄想の程度が著しかったことから,被告人が心神喪失で
あった可能性を示唆するものとして,無視することはできない。
ウZ鑑定は,本件犯行が妄想や幻覚に影響されたものであることを前提と
し,かつ,被告人が統合失調症に基づく思考障害により,本件犯行当時,
物事の善悪を論理的に考える能力を失っていた可能性があることなどを理
由に,心神喪失との見解を示す。
被告人は,捜査・公判を通じて,本件犯行は悪いことであったと繰り返
,。し述べており観念的には本件犯行の犯罪性を認識していたと考えられる
,,,しかしZ鑑定は被告人は質問の仕方によって答えが変わる傾向があり
本件犯行についても,悪いことだと言ってみたり,悪いことだとは思わな
いと言ってみたり,またその供述の矛盾を何とも思っていない様子が見ら
れることを指摘し,これは統合失調症にみられる思考障害に基づくアンビ
バレンツであるとする。そして,本件犯行当時もこのように思考障害が著
しい状態であったとすれば,論理的に行為の是非を判断する能力は失われ
た可能性があるとする。
,,,Z鑑定は被告人を鑑定留置し投薬等により疎通性の改善を図りつつ
十分な時間をかけて問診等を行った結果であり,鑑定手法も合理的なもの
である。鑑定の実施時期が本件犯行から1年近く経過した時点であったた
め,犯行当時の被告人の精神状態については,犯行時から鑑定時までに著
しい病状の変化がないことを前提として鑑定時の精神状態から推認するこ
とを余儀なくされたが,こうした判断手法自体は適切なものである。
これに対し,X鑑定は,簡易鑑定時にはZ鑑定の鑑定時よりも被告人の
疎通性が良く,本件犯行については悪いことだと一貫して供述していたと
し,Z鑑定時には,本件犯行から相当時間が経過し,病状も進行していた
ため,被告人の記憶が不鮮明になり,供述が後退した可能性があると指摘
する。検察官も,被告人が捜査段階では一貫して本件犯行の犯罪性を認め
る供述をしていたと主張し,Z鑑定の指摘は必ずしも本件犯行当時の被告
人の精神状態に妥当するものではないと主張する。
しかし,本件犯行から約3か月しか経ない第2回公判期日においても,
被告人は「本件犯行を悪いことだと思うか」と誘導的に尋ねられればそ,
う思う旨の答えはするものの,本件犯行についてどう思うかなどと自由な
回答を求められると,返答できない状態であったことが認められ,質問の
仕方によって供述が変わる傾向があるというZ鑑定の指摘がよく当てはま
。,,,るまた捜査段階における供述にも従前の供述を理由なく変更したり
前後に相矛盾する供述がまま見受けられ,被告人の思考が相当混乱してい
たことがうかがわれる。前記Z鑑定の指摘は,鑑定時に被告人の病状が進
行し,供述状況が変わっていたために判断を誤ったものというよりも,む
しろ,鑑定人の丁寧な問診の結果,被告人の思考の状態が的確に把握され
た結果であると考えられる。ゆえに,Z鑑定の指摘するとおり,本件犯行
当時,被告人は統合失調症に伴う活発な幻覚・妄想の影響から思考障害に
陥り,論理的に行為の是非を判断する能力,すなわち,観念的な善悪の問
題を自己の直面する現実に当てはめ,当該行為の是非を判断する能力が失
われていた可能性があると認めるのが相当である。
3まとめ
既にみてきたとおり,被告人は初期の統合失調症にり患しており,本件犯行
当時は活発な妄想や幻覚が存し,病勢の著しい時期にあったと認められる。本
件犯行の動機は,こうした妄想や幻覚が多分に影響して形成されたものと考え
られ,通常人の心理から了解できる範囲を超えている。そして,被告人が観念
的には是非善悪の判断を有していたとしても,統合失調症に伴う思考障害のた
めに,観念的な善悪の問題を自己の直面する現実に当てはめ,当該行為の是非
を論理的に判断して行動する能力が失われていた可能性がある。これらの事情
に照らすと,犯行態様が一見すると合理的であることなど,検察官が指摘する
事情を最大限考慮しても,被告人が本件犯行当時,是非弁識能力及び行動制御
能力を欠いた状態にあったという合理的疑いを払拭し得ない。よって,刑事訴
訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをすべきものとして,主文のと
おり判決する。
【求刑−懲役3年】
平成19年2月26日
釧路地方裁判所刑事部
裁判長裁判官本田晃
裁判官本村曉宏
裁判官石田佳世子

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