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平成七年(ワ)第二三五二七号謝罪広告等請求事件
口頭弁論終結日平成一一年一一月三〇日
判決
原告【A】
右訴訟代理人弁護士弘中惇一郎
同加 城 千 波
被告【B】
被告株式会社講談社
右代表者代表取締役【C】
右両名訴訟代理人弁護士美 勢 克 彦
主文
一原告の請求をいずれも棄却する。
二訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
 一被告らは、株式会社朝日新聞社、株式会社読売新聞社及び株式会社日本経済
新聞社各発行の各朝刊全国版社会面に、縦二段抜き、横七センチメートル、見出し
はゴシック体一・五倍活字、本文及び広告者(被告ら)名は明朝体一倍活字によ
り、別紙目録(一)記載の謝罪広告を各一回掲載せよ。
 二被告株式会社講談社は、別紙目録(二)記載の書籍を製作、販売、頒布しては
ならない。
 三被告【B】は、原告に対し、金一〇八〇万円及びこれに対する平成四年一〇
月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
 四被告株式会社講談社は、原告に対し、金六六〇万円及びこれに対する平成四
年一〇月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、「企業主義の興隆」という題の書籍(以下「原告書籍」という。)の著
者である原告が、被告【B】(以下「被告【B】」という。)が英語で著作した
「HUMANCAPITALISM」という題の書籍(以下「被告英語書籍」と
いう。)を日本語に翻訳した別紙目録(二)記載の書籍(以下「被告書籍」とい
う。)は、原告書籍を翻案したものであるので、被告書籍の出版販売は原告の著作
権を侵害すると主張して、被告【B】に対しては、謝罪広告及び損害賠償を、被告
書籍を出版販売した被告株式会社講談社(以下「被告講談社」という。)に対して
は、謝罪広告、被告書籍の製作、販売、頒布の差止め及び損害賠償を、それぞれ求
めている事案である。
 一争いのない事実等(括弧内に証拠の摘示をしない事実は当事者間に争いがな
い。)
1原告は、原告書籍を著作し、昭和五八年二月一五日、財団法人日本生産性本部
から出版した(甲七、弁論の全趣旨)。
原告書籍は、平成三年に、イギリスの出版社であるキーガン・ポール・インター
ナショナル社より、「ザ・ライズ・オブ・ザ・ジャパニーズ・コーポレート・シス
テム」(以下「原告英訳書」という。)の書名で英訳出版された(甲一一の一、
二、甲一二の一、二、弁論の全趣旨)。
2被告【B】は、平成三年七月、米国において、被告英語書籍を出版した。
被告英語書籍を日本語に翻訳した被告書籍が、平成四年一〇月二〇日、被告講談
社から出版された。
 二争点
1被告書籍が原告書籍に依拠したものであるかどうか
(原告の主張)
被告【B】は、原告書籍を読み、多くを学んだことを認めながら、被告書籍の参
考文献リストには原告書籍が掲載されていない。右不掲載の事実を原告から告げら
れた被告は、大変狼狽したというが、その他の著作をもれなく引用しておきなが
ら、多大の示唆を受けたという原告の作品をもらしたというのはにわかに信じられ
ない。被告書籍が、原告書籍に依拠しているために敢えて記載しなかったと推察さ
れるのであって、被告書籍は、原告書籍に依拠したものである。
(被告の主張)
被告【B】が、原告書籍にアクセスしたこと自体は否定しないが、後記のように
両書籍の間に著作権法上問題になる類似性は皆無であるから、依拠については争
う。
2被告書籍の全部又は一部が原告書籍の全部又は一部の翻案といえるかどうか
(一)対比箇所ごとの部分的翻案について
(原告の主張)
以下の番号は、別紙原被告書籍対比表記載の番号を示す。
(1)日本の企業体制の特性
①上段の被告著作部分は、「日本企業の株式は法人間で相互に持ち合うのが特徴
で、その結果経営(者)が外部資本の影響を受けない」という下段の原告著作部分
の趣旨とまったく同一の内容を、細部の表現や語彙の選択を微妙に変えて記述して
いるものである。
②上段の被告著作部分は、「日本企業の一つの特質として、白紙委任状の交付に
より株主総会が形式化・無機能化していること(二〇分以内、三〇分以内に終了す
る会社が九五パーセントに達する)、取締役会の監督は虚構でありそのため代表取
締役の権力が大きくなっていることがある」という下段の原告著作部分の趣旨とま
ったく同一の内容を、全体的にコンパクトな内容にしているだけのものである。
なお、白紙委任状の交付、総会が二〇分で終了するという表現は、原告の表現と
同じである。
③上段の被告著作部分は、「日本企業では、資本サイドによる経営チェックがき
かないが、経営者が無責任になっているのではなく責任の向けられる方向が違う
(資本サイドへの責任観念でなく企業内部への責任という趣旨)」という下段の原
告著作部分の趣旨と同一内容について、たとえば「資本サイドによる経営チェッ
ク」という言葉を「外部規制」という言葉に置き換えたり「責任の向けられる方向
が違う」という表現の趣旨を「企業内部からの自己規制」という表現であらわすな
どしているものである。
④上段の被告著作部分は、「日本企業の特質のひとつである従業員にとっての終
身雇用制、年功制の持つ意味」についての下段の原告著作部分とまったく同一の趣
旨のことを、語彙の選択や細かい表現を簡略にするなどして記述したものにすぎな
い(たとえば、原告著作では「年功は他の企業ではほとんど意味を持たない」とい
う部分を「譲渡不能な資産」という表現に置き換える等)。
⑤上段の被告著作部分は、「日本企業の特質のひとつとして、労働者も経営者も
ともに企業のリスクを負担する集団として融合し、従業員集団として企業の発展を
めざしている」という下段の原告著作部分前半の趣旨と同一内容のことを表現を変
えて述べており、「日本の企業社会では労働者等の従来の言葉で表現できない異質
の存在があり、「社員」という言葉が日常化しているのが現実である」という下段
の原告著作部分後半と同一の趣旨を表現を微妙に変えて記述している。
⑥上段の被告著作部分は、「日本企業では不況時に職種を越えた大量の配置転換
等を行い、自由な企業内移動により対処する」という下段の原告著作部分とまった
く同一の趣旨のことを、「レイオフを避け・・・社内で需要の強い部署へ移転す
る」などと表現を変えて記述している。
⑦「広島の東洋工業」の例は、まったく同一内容である。
⑧上段の被告著作部分は、「日本企業における人事管理の重要性」についての下
段の原告著作部分の趣旨と同一内容のことを表現を変えて述べている。
⑨上段の被告著作部分は、「日本企業では、競争相手の企業こそが直接的な対立
関係である」という下段の原告著作部分の趣旨とまったく同一内容のことを「競争
相手」という表現を「ライバル」に置き換えるなどして記述しているものである。
⑩企業内部の人的集団の特質については、同一趣旨のことを「同じボートに乗
る」を「同じ船に乗る」などと変えて表現しているものである。
⑪上段の被告著作部分は、「本来労働は苦痛であるはずがない」という下段の原
告著作部分と同一内容のことを、原告があげた芸術家、政治家という例示に、法律
家、科学者などを加えただけのものである。
⑫上段の被告著作部分は、「過去の労働と生活の関係」についての下段の原告著
作部分と同一趣旨の内容を、表現を微妙に変えただけの記述である。
⑬上段の被告著作部分は、「日本企業の意思決定のあり方につき、専門的職務ご
とに行われるのでなく、自分の担当に即して関係部門と自主的に調整を取りながら
情報交流ネットワークの中で行われる、そのためチームワークが核心となる」とい
う下段の原告著作部分と同一の趣旨のことを、「調整、チームワーク」という要の
表現は同一のままで、内容を簡略にまとめたものである。
⑭戦後の意思決定の変化について、アメリカ式を取った鉄鋼業の例示が同一であ
り、変革の例示として本田技研、ソニー、京セラなど、社名まで同一のものをあげ
て記述している。このような例示が、偶然の一致で説明できるはずがない。
(2)企業主義の経済体制
⑮上段の被告著作部分と下段の原告著作部分は、細部の表現に若干の差があるだ
けで、一読してまったく同じ内容である。
⑯上段の被告著作部分は、「日本企業での労働者には企業組織内部での組織的自
由がある」という下段の原告著作部分と同一の趣旨のことを、表現を変えて記述し
ている。
⑰上段の被告著作部分は、「資本主義、社会主義を問わず労働者の自発性の不足
や欠如を労働者の倫理の問題に帰しているが、これはいずれの主義も権力を支柱に
していることによる」との下段の原告著作部分と同一趣旨のことを、説明を補充す
る形で述べているに過ぎないものである。
⑱上段の被告著作部分は、「日本企業の経済体制のあり方のひとつとして、(損
益計算書を例にして)賃金は原材料費と同じ次元として扱われ、賃金引き下げも企
業成績の向上をもたらす発想がある」という下段の原告著作部分と同一趣旨のこと
を、表現を変えて記述しているものである。
⑲上段の被告著作部分は、下段の原告著作部分の「一九七六年に制定された西ド
イツの共同決定法の説明、その制度が労使対立によって緊張している」という内容
と、およそ同趣旨のことを表現を変えたり付加したりして記述しているものであ
る。
⑳上段の被告著作部分は、下段の原告著作部分の「ユーゴスラビアの労働者によ
る企業の支配」と同一内容のことを表現を多少変えて記述しているものである。
<21>上段の被告著作部分は、「ユーゴのような体制は資本主義とは正反対である
が、どちらも企業が参加の場でなく支配の対象として捉えた点で同じである」とい
う下段の原告著作部分と同一の趣旨のことを、表現を変えて記述したものである
(たとえば「企業を支配の対象と捉える」という内容を「一集団への権力集中」と
いう表現に置き換える等)。
(3)形成過程の特質
<22>上段の被告著作部分は、「経済体制のでき方には、先行する理論や理屈に従
いできるもの(社会主義、民主主義)、人間の試行錯誤の繰り返しの結果できるも
の(資本主義、封建主義)のふたつがある」との下段の原告著作部分と全く同一内
容のことを、表現を変えて記述している(前者は「改革思想家、抽象モデルによっ
て作られる」と表現を変え、後者は「自然にできる」と表現を変えているが、趣旨
が同一であることは一読して明らかである)。
<23><22>の記述の例として、資本主義におけるアダム・スミスの国富論と、社会
主義におけるマルクスの思想を述べた箇所であり、上段の被告著作部分と下段の原
告著作部分が全く同一内容のものであることは明らかである。
<24>上段の被告著作部分は、「(企業主義は)現実の中から目立たない形で自然
発生的に生じた革命である」という原告著作部分と同一の趣旨のことを表現を変え
て(「青写真もなく静かに」という表現にして)記述したものである。
<25>上段の被告著作部分は、「(企業主義は)経済学者からもマルクス主義者か
らも批判された」とする下段の原告著作部分と同一の趣旨のことを、多少表現を付
加するなどして述べたものである。それぞれの批判の内容も、きわめて類似してい
る。
(4)日本の特殊性についての考察
<26>日本の特殊性(文化論、集団主義)を述べるにあたっての稲作(被告著作の
表現では「米作り」)についての記述である。
このような例示そのものが偶然の一致では説明できないことに加え、記述の内容
も極めて類似している。
<27>同じく、日本の労働者が仕事の前に会社の歌を歌うという例示であるが、こ
れも偶然の一致では説明できないもので、内容も酷似している。「集団主義の証
拠」という表現もまったく同じである。
<28>同じく、中世の戦闘についての記述であり、右と同様である。封建時代とい
う表現を一二、一三世紀と置き換えるなどしているが、名乗り、矢に刻印、といっ
た細部にわたる記述がまったく同じである。
<29>同じく、儒教についての記述であり、右と同様である。儒教と集団主義を結
びつけることを否定する見解も同一である。
<30>上段の被告著作部分は、「ナショナリズムを作り出したのはヨーロッパ人で
あるから、彼らも個人主義者であると同時にナショナリストであることを否定でき
ないのではないか」という下段の原告著作部分と同一の趣旨のことを、若干の表現
を変えて記述しているものである。
<31>上段の被告著作部分は、「アメリカ社会も統合された一国民である」との下
段の原告著作部分と同一の趣旨のことを、表現を変えて(「同質性」という言葉を
用いて)記述している。
<32>上段の被告著作部分は、「韓国社会の特質」についての下段の原告著作部分
を要約したものである。要約の順序も原告著作に従っている。
(5)自由・平等・福祉
<33>市場の自由と組織された自由が両立しないことについての記述であり、被告
著作部分と原告著作部分はほぼ同一の趣旨のものである。
<34>能力差と自由についての記述であり、右と同様である。
<35>労働者の自由についての記述であり、右と同様である。
<36>企業主義(人間的企業)の組織的自由についての記述であり、右と同様であ
る。
<37>組織された自由の効果についての記述であり、右と同様である。
なお、右<33>から<37>は、一貫した論理展開のもとに記述されており、すべてを
まとめてひとつの剽窃であると主張する。
<38>戦前の賞与についての記述であり、被告著作部分と原告著作部分は同趣旨で
あると同時に「社長のボーナスが全従業員賞与の半額」「年収差が一〇〇倍」とい
った表現はまったく同一である。
<39>中産階級意識に関する記述であり、右と同様である。九〇パーセントという
数字も同一である。
<40>部長の給与と新卒の給与の比較に関する記述であり、「五〇歳」「三倍」と
いう表現がまったく同一である。偶然の一致では説明がつかないはずのものであ
る。
<41>給与から見た企業主義の平等についての記述であり、同一の趣旨のものであ
る。
<42>人的能力の活用についての企業主義の特質を述べた部分であり、同一趣旨の
記述である。
<43>企業主義では所得が問題とされていないことをアメリカと比較して述べた部
分であり、同一趣旨の内容である。
なお、右<38>から<43>は、一貫した論理展開のもとに記述されており、すべてを
まとめてひとつの剽窃であると主張する。
<44>福祉国家における福祉依存についての記述であり、被告著作部分と原告著作
部分は同一の趣旨のものである。
<45>企業主義が企業単位の福祉体制であることを述べた部分であり、右と同様で
ある。
<46>企業内福祉の特質について、企業人としては保護される反面保護する側にも
あるということを述べた部分であり、右と同様である。
なお、右<44>から<46>は、一貫した論理展開のもとに記述されており、すべてを
まとめてひとつの剽窃であると主張する。
(被告の主張)
原告の主張を争う。
原告は、原告書籍と被告書籍のそれぞれから恣意的に抽出した部分を順不同に並
べて対比している。原告の対比箇所は、それだけを見ても、論理の流れや表現の類
似性がないが、右対比箇所について前後の部分を含んだ位置づけを見ると、より一
層論理の流れや表現の類似性がないことが明らかになる。また、原告が類似すると
主張する事項は、事実の摘示又はパプリックドメインに過ぎない。
(二)被告書籍全体による原告書籍の翻案について
(原告の主張)
被告書籍は、原告書籍の独自性の高い切り口、論理の展開、表現において類似し
ており、被告書籍全体が原告書籍と類似する原告書籍の翻案であるというべきであ
る。
(被告の主張)
原告の主張を争う。
原告書籍と被告書籍は、主題、各章の内容、論理の展開のいずれもが相違するか
ら、何ら類似するものではない。
3原告の損害について
(原告の主張)
被告書籍は、一冊一六〇〇円で現在までに少なくとも五〇〇〇部売れたから、少
なくとも総額八〇〇万円の売上げがあった。
被告【B】は、被告書籍の印税として、売上高の一〇パーセントである八〇万円
の利益を得た。
被告講談社は、被告書籍の売上高から印税、材料費、印刷費などの諸経費を控除
した一六〇万円(売上高の二〇パーセント相当)の利益を得た。
被告らによって、原告書籍の翻案権を侵害する被告書籍が出版されたことによ
り、原告の著作者人格権(氏名表示権)が侵害され、原告は精神的苦痛を被った
が、この精神的苦痛を慰藉するに足りる金額は合計で一五〇〇万円(被告【B】と
の関係で一〇〇〇万円、被告講談社との関係で五〇〇万円)を下らない。
(被告の主張)
原告の主張を争う。
第三当裁判所の判断
 一国際裁判管轄について
1被告らは、被告英語書籍が出版されたのは米国であるから、不法行為地は米国
であって、わが国に裁判管轄権を認めるべきではないと主張するので、この点につ
いて判断する。
2わが国の民事訴訟法の規定する裁判籍のいずれかがわが国内にあるときは、原
則として、わが国の裁判所に提起された訴訟事件につき、被告をわが国の裁判権に
服させるのが相当であるが、わが国で裁判を行うことが当事者間の公平、裁判の適
正・迅速を期するという理念に反する特段の事情があると認められる場合には、わ
が国の国際裁判管轄を否定すべきである。
3本件で原告が主張する翻案権侵害の不法行為は、わが国における被告書籍の出
版販売であるから、被告両名につき、わが国に不法行為地があるものと認められ
る。
しかるところ、本件について、わが国で裁判を行うことが当事者間の公平、裁判
の適正・迅速を期するという理念に反する特段の事情があるとは認められない。
4したがって、本件については、わが国に裁判管轄権が認められる。
 二争点について
1原告書籍と被告書籍の比較
(一)証拠(甲七)によると、以下の事実が認められる。
(1)原告書籍において、原告は、全従業員をまきこんだダイナミックな革新性、資
本主義的な活力が生み出されていることが、日本の企業及び経済を特徴づけている
とした上で、このような体制を既存の体制概念と関連づけて説明することは困難で
あり、かつ適切ではないとして、右のような体制を「企業主義」と表現している。
そして、「企業主義」が、資本主義や社会主義といった既存の理論を追い抜いて
しまったこと、したがって「企業主義」が発生させるであろう問題はもはや資本主
義的な問題ではありえず、その解決のためには、全く異なったアプローチと発想が
必要であると結論づけている。
(2)原告書籍においては、第1章(日本産業の達成)及び第2章(企業人の企業)
で日本産業の現状と日本企業の実態を分析し、第3章(各国企業との比較)で各国
の企業との比較検討を行った上、第4章(日本の企業体制の先進性)で日本企業体
制の特徴を示し、第5章(経済体制としての企業主義)及び第6章(社会体制とし
ての企業主義)で、それぞれ経済体制、社会体制としての「企業主義」を説明し
て、前記の結論に到達するという方法によって論述が展開されている(別紙原告書
籍目次参照。)。
(3)原告書籍においては、「企業主義」とそれ以外の体制との比較について、「企
業主義とそれ以外の体制の相違は簡単に要約することができる。企業主義は、初期
資本主義時代の資本家の持っていた機能のうち、参加を生み出す責任を引き継ぎ、
そしてそれ以外の体制は、強制をその本質とする権力を引き継いだ。こうして責任
と権力が持っているさまざまな属性が、そのまま両体制の中に持ちこまれ、今日に
至っているのである。」(二六一頁)とされ、企業主義の特徴とされる「責任」と
いう機能が初期資本主義に由来することを強調する一方、社会主義において主柱と
されている「権力」が企業主義以外の体制に引き継がれたことが指摘されている。
(二)証拠(甲六)によると、以下の事実が認められる。
(1)被告【B】は、被告書籍の冒頭の「はじめに」の部分で、資本主義でも社会主
義でもないが、生産性の高い、人間志向の体制で、金や物質ではなく人間が富の創
造と増進のためには一番大切な資本であるという考え方を基礎としているものを
「ヒューマン・キャピタリズム(人間資本主義)」または「人間的企業体制」と定
義し、被告書籍のその後の論述の中で「ヒューマン・キャピタリズム」が従来の資
本主義からの連続であると述べ、その集団志向の特徴は、わが国以外にも存在した
組合型企業あるいは利益分配経営にも表われていることから、「ヒューマン・キャ
ピタリズム」が普遍性を有するものであり、世界中に広がるものであると結論づけ
ている。
(2)被告書籍は、第一章(人間中心に企業を作る)で日本の「人間的企業」を分析
し、第二章(競争的平等主義)及び第三章(市場と組織の中間にあるもの)で、主
としてアメリカとの比較において、競争や市場の観点から「人間的企業」の特徴を
説明し、第四章(発生の経緯)で「ヒューマン・キャピタリズム」の発生経過を歴
史的に検証し、第五章(文化問題)で「人間的企業」が日本で発生したことについ
ての従来からの説明が適切でないことを示し、第六章(日本型経営方式との関係)
で、日本型経営方式を「ヒューマン・キャピタリズム」の日本文化への適応と位置
づけ、第七章(思わぬ効用)で人間的企業のもたらす副次的な効用を挙げ、第八章
(資本主義と社会主義の比較)及び第九章(社会主義と資本主義の修正実験)で
は、「ヒューマン・キャピタリズム」が社会主義と資本主義のよい面を合成したも
のであり、社会主義と資本主義の修正実験がなしえなかった成果をもたらしたこと
を述べて、前記の結論に到達するという方法で論述が展開されている(別紙被告書
籍目次参照。)。
(3)被告書籍においては、「ヒューマン・キャピタリズム」とそれ以外の体制との
比較について、「資本主義は効率の名のもとの競争主義で成り立つ。社会主義は平
等のための協力を支持する。従来の経済学では競争と協力は企業体制に関する限り
互いに相容れない二つの異なる概念である。企業は競争するか協力するかである。
私的企業間の協力は即ち私的独占であり、これは非効率に陥る。企業間の公的協力
は社会主義であるが、同様に実のない結果に終わる。ヒューマン・キャピタリズム
では対照的に、ゲームの規則を変更する。基本的には従来の資本主義のような自由
な私的市場経済である。企業間および企業集団間の競争は激しい。それにより効率
が増進する。高度な協力は企業内部および企業集団内部にある。企業の付加価値は
平等にメンバー間に分配される。相互援助の傘の下で、企業集団のメンバーとし
て、失敗しても市場の厳しい罰を避けることが可能である。新しい体制としてのヒ
ューマン・キャピタリズムは、資本主義と社会主義のよい面を合成し、矛盾を解消
して、効率と平等を同時に増進する。この意味でヒューマン・キャピタリズムは資
本主義(thesis)と社会主義(antithesis)の『合(synthesis)』である。」(一
六三頁から一六四頁)とされ、「ヒューマン・キャピタリズム」が資本主義から競
争を、社会主義から平等を、それぞれ引き継いでいることが指摘されている。
(三)(1)右(一)及び(二)の各(1)のように、両書籍は、日本の企業経営の現状を一
つの経済体制と捉え、これを「企業主義」又は「ヒューマンキャピタリズム」と表
現して、それぞれの主題にしているという意味で共通するといえる。さらに、「企
業主義」も「ヒューマンキャピタリズム」も、人間を重視した視点が強調されてお
り、この点もその発想を共通にするものであるといえる。
しかし、原告書籍の結論部分では、「企業主義」が従来なかった新しい経済体制
であることを示す点に重点がおかれているのに対して、被告書籍の結論部分では、
「ヒューマンキャピタリズム」が普遍性を有するとともに、今後輸出され、世界的
に広がって行くことが強調されている。
(2)右(一)及び(二)の各(2)のように、両書籍は、日本の企業経営の現状を分析
し、外国の企業経営との比較・検討を行って特徴を説明し、資本主義及び社会主義
との比較を行っているという共通点がみられる。
しかし、右(一)及び(二)の各(2)のように、両書籍の具体的な章立て及び論述の順
序・構成は明らかに異なっている。
(3)さらに、右(一)及び(二)の各(3)によると、「企業主義」又は「ヒューマン・
キャピタリズム」と資本主義及び社会主義との関係についても、原告書籍(企業主
義)と被告書籍(ヒューマン・キャピタリズム)では異なる捉え方をしているもの
というべきである。
2証拠(甲六、七、乙七の一、二、乙一〇の一ないし一一、乙一五の一、二、乙
一七の一、二、乙一九の一、二、乙二〇の一、二、乙三〇の一、二、乙三二の一な
いし四、乙三三の一、二、乙三四の一ないし三、乙三五の一、二、乙三六の一、
二、乙三七の一、二、乙四〇の一ないし三、乙四二の一、二、乙四七の一、二)と
弁論の全趣旨により、別紙原被告書籍対比表記載の各対比箇所(別紙原被告書籍対
比表記載の番号に対応させて、各部分を「原告①」「被告①」などという。)につ
いて対比すると、次のようにいうことができる。
(一)原告①と被告①について
原告①と被告①は、「日本の株式会社の多くが、相互に株式を持ち合ってい
る」、「株式の持ち合いを一つの原因として、経営が資本から独立している」とい
う点において共通しているが、「日本の株式会社の多くが、相互に株式を持ち合っ
ている」ことは公知の事実であり、株式の持ち合いを経営の自由と結びつける議論
が、原告が主張するように原告書籍以前になかったとしても、それ自体はアイデア
である。
被告①では、原告①で使われている特徴的な単語である「はめこみ合い」という
言葉は使われておらず、原告①と異なり、配当と税法上コストとされる金利の違い
について言及しつつ、配当が少ないことを述べているなど、その表現は大きく異な
っているから、被告①は原告①の翻案とはいえない。
(二)原告②と被告②について
原告②と被告②は、「日本の株主総会の多くが白紙委任状によって運営され、無
機能化している」、「日本の企業においては社長の権力が強い」という点で共通し
ているが、これらは、一般論としては、他の書籍でも取り上げられている公知の事
実である。
原告②は、二二ページにおいて、株主総会の無機能化について、昭和五五年度
「株主総会白書」の具体的な数字を挙げて説明しており、二四ページにおいて、
「日本の企業においては社長の権力が強い」ことを説明しているのに対し、被告②
では、社長が最高意思決定者であることを説明する中で、その三番目の根拠とし
て、株主総会の無機能化が挙げられており、それも、「舞台の上で取締役が二〇分
位で、会社の業績、新年度の展望を短く述べ、式が終わる。」と簡単に述べられて
いるにとどまる。
このように、被告②は原告②と公知の事実を取り上げている点において共通する
ものの、その表現が異なるといえるから、被告②は原告②の翻案とはいえない。な
お、「白紙委任状」、「二〇分」という単語が同じであるからといって、被告②が
原告②の翻案とはいえない。
(三)原告③と被告③について
原告③は、株式の相互持合による株主の権利の空洞化を前提として、日本の企業
経営は無責任体制に陥っているとする説に対して、経営者が経営に対して感じる責
任の方向が違うのであると述べ、その責任は、欧米とは異なり、従業員に対して向
けられている旨述べている。
これに対して、被告③は「誰が経営を正すのか?」と自問し、自ら定義する「人
間的企業」では企業内部からの自己規制があると述べている。被告③では、右の問
いの前提として、経営を監督する株主がいないことが述べられているが、労働者が
協力的であって、短期利益を極大化する緊張がないことも述べられている。
このように、被告③は、原告③と、日本の企業経営に対する捉え方に共通する点
があるが、それ自体はアイデアであり、右のように表現が異なることからすると、
被告③は原告③の翻案とはいえない。
(四)原告④と被告④について
(1)原告④の前半部分は終身雇用と年功序列の慣行を「当初年功の少なさによって
失った処遇上の損失を、年功が重なるにつれて、少しずつ取り返してゆく制度」と
みなし、これを企業内での「給与及び地位の『貯蓄』」であると表現し、企業が倒
産すれば「貯蓄」を失い、他の企業に就職すれば、もう一度「貯蓄」をやり直すし
かない、と説明している。
これに対し、被告④の前半部分は、「年功制では生産性に比し、若いものには支
給不足、年輩者には支給過剰の傾向になる。」とし、労働者にとって企業での年功
は「譲渡不能な資産」であると表現し、同じ会社にいる限り、時とともに増加し、
転職してしまえば、価値のほとんどがなくなる、と説明している。
原告④と被告④の前半部分はそれぞれ終身雇用と年功序列の慣行を一人の労働者
の処遇という観点から分析したものである点で共通であるが、原告④の前半部分
が、給与のみならず地位を含めた処遇について取り上げているため「貯蓄」という
言葉に特別の意味を持たせているのに対して、被告④の前半部分では、年功の評価
は、生産性と給与の対比を中心に行われており、「資産」という語が使用されてい
る。
このように、被告④の前半部分と原告④の前半部分は、年功序列あるいは終身雇
用という日本の企業における周知の慣行を取り上げ、分析したという点は共通して
いるが、その表現は異なり、被告④の前半部分が、原告④の前半部分の翻案である
とはいえない。
(2)原告④の後半部分は、前半部分に続き、従業員のボーナスの総額が平均すると
定期給与の四ヵ月分に達しているとしつつ、このボーナスが企業の業績と連動して
いることから、従業員のリスク負担機能を給与制度の上で具体化したものであると
説明している。
これに対し、被告④の後半部分は、ボーナスが個人の業績と会社の財務状況を反
映するものであり、良い時には四─五ヵ月分となると述べている。
このように、右の各部分は、ボーナスを取り上げており、一部共通する記載も見
られる。しかし、被告④の後半部分は、日本の企業のおけるボーナスについての客
観的な事実を記載したにとどまり、原告④の後半部分が行っているようなボーナス
の機能についての分析は含まれていないから、そのような事実に関する記載が一部
共通するからといって、被告④の後半部分が、原告④の後半部分の翻案であるとは
いえない。
(3)被告④の前半部分、後半部分のいずれも、それぞれ原告④の前半部分、後半部
分の翻案とはいえないのであるから、被告④は原告④の翻案とはいえない。
(五)原告⑤と被告⑤について
原告⑤は、五〇ページで、日本の企業においては、ブルーカラー労働者が企業に
とりこまれ、取締役や監査役など、資本の利益を代表すべき機関も、企業リスクを
負担する従業員集団の中に融合されていることを述べ、四六ページで、従業員集団
が主体的に発展をめざしている反面、企業と利害関係を共有しない投資家などの介
入を排除していると述べ、四四ページで、欧米における「労働者」に対応する言葉
は、日本においては「社員」という、それとは異質の言葉であると述べている。
これに対して、被告⑤は、経営者と労働者は共通利益をわかち合う一つの集団で
あるとし、このような集団の名称として、適切なものがないことから、自ら「労使
運命共同体」と名付けている。
このように、原告⑤と被告⑤は、日本企業において、経営者と労働者が一つの集
団として共通の利益を追求していると分析している点及び言葉を通して日本におけ
る従業員の立場を分析している点が共通しているが、それ自体はアイデアにすぎな
い上、原告⑤は、右のとおりひとまとまりの部分ではなく、被告⑤では、「労使運
命共同体」という造語を使用するなど原告⑤にはない特徴を有しているから、被告
⑤が原告⑤の翻案であるとはいえない。
(六)原告⑥と被告⑥について
原告⑥は、日本では、組織変更時や不況時に職種を越えた大量の配置転換が行わ
れることが多く、これらが迅速な対応を可能にしていることを説明している。
これに対して、被告⑥は、被告【B】のいう「人間的企業」では、不況時にレイ
オフを最低限にして、ダメージを共有するために、トップから順に報酬を削る、労
働時間を短縮して残った仕事を分け合う、配置転換を行う、という方策がとられる
ことが述べられている。
このように、原告⑥が不況時の雇用調整について、配置転換を中心に取り上げて
いるのに対して、被告⑥では、配置転換は、報酬カット、労働時間の短縮と並んで
位置づけられており、両者は日本の企業において不況時に配置転換が行われるとい
う客観的な事実を述べる点のみを共通にするものであるから、被告⑥が原告⑦の翻
案であるとはいえない。
(七)原告⑦と被告⑦について
原告⑦は、原告⑥の前半部分に引き続いて、職種間の大規模な配置転換が行われ
た例として、東洋工業が、一九七四年から一九八〇年までの間に、延べ一万三〇〇
〇人の工場労働者をセールスマンとして派遣したことを述べているが、この部分
は、他の著書(乙三四の一ないし三)で記載されているのと同内容である。
これに対して、被告⑦は、被告⑥に引き続いて、同じ東洋工業の配置転換の事実
を、レイオフを避けるという視点で捉えている。
このように、原告⑦と被告⑦は、東洋工業が行った配置転換という客観的事実に
触れている点のみを共通にするものであるから、被告⑦が原告⑦の翻案であるとは
いえない。
(八)原告⑧と被告⑧について
原告⑧の前半、後半はいずれも、終身雇用制と年功処遇制をとる日本の企業にお
いて人事管理の重要性が高いことを述べている。
これに対して、被告⑧は、終身雇用制では人事部が重要な役割を演ずることを述
べており、人事管理が重要であることを指摘する限度で原告⑧と同趣旨であるが、
その理由について、長期視野で、熟慮して、社内の人的資源を開発し、協力的な労
働力養成のため効果的に職務を果たすためであるとしている。
このように、原告⑧と被告⑧は、日本の企業で人事管理が重要とされているとい
うことを述べる点が共通するが、それ自体はアイデアにすぎず、表現は異なってい
るから、被告⑧が原告⑧の翻案であるとはいえない。
(九)原告⑨と被告⑨について
原告⑨は、「企業人集団」にとって、競争相手の企業の「企業人集団」がもっと
も直接的な対立関係にある存在であると述べている。
これに対して、被告⑨は、「人間的企業」では労使両者が利益とアイデンティテ
ィーを共にするため、対決的組合がほとんど意味をなさず、労働者にとっては他の
企業の労働者がライバルであることを述べている。
このように、原告⑨と被告⑨は、日本の企業のような特徴を備えた企業におい
て、労働者と対立関係にあるのは、他の企業の労働者であるという評価を共通にす
るものであるが、それ自体はアイデアにすぎず、表現は異なっているから、被告⑨
が原告⑨の翻案であるとはいえない。
(一〇)原告⑩と被告⑩について
原告⑩は、日本の社員の企業に対する帰属意識について、利害の共通性、同質
性、考え方や行動様式の類似性という要素が、社員の中に「同じボート」に乗った
仲間であるという感覚を育てるということを述べている。
これに対して、被告⑩は、「人間的企業」の労働者が損益をともにしていること
を「同じ船」に乗っていると表現し、外部の誰からも利益を侵害されないことにつ
いて自覚していることを述べている。
このように、原告⑩と被告⑩は、「船」という意味の言葉を使っているという点
で共通するが、それ以外の表現は異なっているから、被告⑩が原告⑩の翻案である
とはいえない。
(一一)原告⑪と被告⑪について
原告⑪は、労働それ自体が本来苦痛ではないことを述べ、そのような例として、
政治家や芸術家にとっての労働が、たんなる苦痛でしかないとは考えられないこと
を述べている。
これに対して、被告⑪は、「仕事は嫌なもの」であるという命題はある人に対し
ては当たっていても他の人には明らかに当たらないと述べ、後者の例として、創造
的芸術家、才能ある音楽家、成功した法律家、生産的学者、熱心な科学者、革新的
な技術者、野心的な政治家、とどまることなき起業家などを挙げている。
このように、原告⑪と被告⑪は、「仕事」又は「労働」が「苦痛」又は「嫌なも
の」であるということが当てはまらない場合があることを述べている点で共通する
が、それ自体は公知の事実であるということができる上、その例の挙げ方も同じで
はないから、被告⑪が原告⑪の翻案であるとはいえない。
(一二)原告⑫と被告⑫について
原告⑫は、過去の社会の中で、伝統的な社会においては、労働は生活の一部であ
り、今日に比べて生活は苦痛にみちたものに違いないが、農民や職人にとって、労
働が生活の不可分の要素であったことを述べ、手作りでものを作る職人の仕事が苦
痛一色で塗りつぶされているとは考えられないことを述べている。
これに対して、被告⑫は、近代以前の世界では、工芸家、職人が、仕事振りとそ
の環境に不満だったとは思えないと述べるとともに、その理由として、これらの人
々は自分のために働き、美しいもの、効用のあるものを自分の手で簡単な道具だけ
で作り出していたこと、職場は家であり、家族や隣人と一緒だったことを挙げてい
る。
このように、原告⑫と被告⑫は、過去の社会における職人などの仕事に関する記
述に共通する点があるが、過去の社会において労働と生活が不可分であったこと
は、公知の事実であり、そのような事実に基づく表現は、原告⑫と被告⑫では異な
っているから、被告⑫が原告⑫の翻案であるとはいえない。
(一三)原告⑬と被告⑬について
(1)原告⑬で述べられていることは、以下のとおりである。
企業人と企業の間には、基本的な利害の一致があるから、企業は企業人の自発性
に期待し、権力的に管理する必要は減少し、企業人は企業に勤続することを前提に
することができるから、マニュアルによる客観化の必要がないばかりでなく、この
ような画一的な管理は自発性を害し、かえって非効率なものとなってしまうという
ことから、現場を熟知する企業人に仕事を任せ、他方、企業人は、組織内における
自分の位置と役割とを測定し、自ら企業目的に適った企業人相互間の調整活動を行
うこと(チームワーク)が日本の組織の核心である(一七八ないし一七九頁)。
チームワークは情報の共有によって可能となるから、必要な情報を適確に流すこ
とが日本の組織にとって決定的に重要な条件となる。したがって、各職務ごとに行
われる独立の意思決定の総和が企業の決定となる欧米企業と異なり、日本において
は、情報交流のネットワークの中で意見が形成され、さまざまな情報、判断、意見
がこれに追加されることによって、自らを洗練させてゆくという過程をたどって意
思決定が行われるので、スタッフ制度や専門職制度が根づかないのは当然である
(一八三、一八四頁)。
(2)これに対し、被告⑬の前半部分は、「人間的企業」では、意思決定が分散され
ていること、細かく仕事を説明したりしないこと、職種が少なく、労働者は万能選
手になるように期待されていること、そのために労働者が仕事をまわり、全体を考
え、調整の習慣を身につけること、仕事を向上させることが奨励されること、労働
者は予測力、判断能力、緊急で身近な問題の解決能力を習得すること、戦術決定は
現場の者にゆだねられること、質や生産性の向上のために情報、アイデア、意見な
どが下から上へと伝わることが並列的に述べられている。
そして、後半部分は、「人間的企業」では、分配システムが労働者に強力なイン
センティブを与えていること、生産高がチームワークの成果として理解されるこ
と、労働者は個人としてよりもメンバーとしての任務を果たすことが期待、奨励さ
れることを述べている。
(3)このように、被告⑬では、被告【B】が、日本の企業を念頭において記述する
「人間的企業」の特徴が述べられており、その特徴のうち複数のものが、原告⑬で
挙げられたものと同趣旨といえるが、原告⑬と被告⑬の共通点はそれのみであっ
て、被告⑬では原告⑬で展開されている論理が全く再現されていないから、被告⑬
が原告⑬の翻案であるとはいえない。
(一四)原告⑭と被告⑭について
原告⑭は、戦後の鉄鋼業における生産管理システムの合理化は、アメリカ経営思
想の導入によって始まったが、高度成長期になってから徐々に放棄されていったこ
とを紹介し、近年、本田技研、ソニー、新日電、前川製作所、京都セラミックスな
どによって、従来の組織概念とは異なった、なかには想像を超えた風変わりな形態
の組織の形成が試みられていることから、一九七〇年代は日本の企業がその企業体
制に合致した組織の形成をめざして奔放な実験を始めた時期として記憶されるであ
ろうと述べている。
これに対して、被告⑭は、鉄鋼業でアメリカ方式を一時採用したが、成長が早す
ぎて、トレーナーをじゅうぶんに養成できなかったため、交代制度や意思決定の現
場化を含め監督と検査の責任を生産労働者にあずけてしまったことを捉え、当初ア
メリカ方式の導入と真似から始まった戦後日本の新経営方式は、一九六〇年代を通
じて革新されていったと評価し、ホンダ、ソニー、松下、YKK、京セラなどが独
自の経営哲学、原理、技術、習慣を開発したのは一九七〇年代になってからである
と述べている。
このように、原告⑭と被告⑭は、日本の鉄鋼業で当初アメリカ方式の経営方式を
導入したことを述べる点で共通しているが、それ自体は、客観的な事実を記載した
ものにすぎず、原告⑭と被告⑭では、アメリカ方式導入後の経過に関する記述は異
なっている。また、原告⑭と被告⑭は、一九七〇年代に日本のいくつかの企業が独
自の方式を開発したことに触れている点で共通するが、その方式についての説明
は、大きく異なっており、挙げられている企業名も必ずしも同じではない。したが
って、被告⑭が原告⑭の翻案であるとはいえない。
(一五)原告⑮と被告⑮について
原告⑮は、日本の企業が、株主による外的な統制及び横断的産業別・職業別組合
の圧力から自由であること、社会主義国で最も極端な程度に高められている国家の
統制からも、(少なくとも他の多くの先進工業国に比べて)より自由であることを
述べている。
これに対して、被告⑮は、日本の企業を念頭においた「人間的企業」が、国家の
干渉からは完全に自由であり、資本家からもほとんど自由であることが述べられて
いる。
このように、原告⑮と被告⑮は、日本の企業の自由度について触れている点で共
通するが、原告⑮が、株主による外的な統制から自由で、国家の統制から比較的自
由であるとするのに対して、被告⑮は、国家の統制からは完全に自由で、資本家か
らはほとんど自由であるとしているのであるから、原告⑮と被告⑮は、日本の企業
について、異なる評価を述べている。したがって、被告⑮が原告⑮の翻案であると
はいえない。
(一六)原告⑯と被告⑯について
原告⑯は、日本の企業人は、企業間移動という意味の市場的自由を制約されてい
るが、企業組織の内部では、働く過程における大幅な自由を享受しているとし、後
者の自由を「組織的自由」と表現した上、市場的自由と「組織的自由」は、前者の
制約が後者を生み出すという結びつきがあることを述べている。
これに対し、被告⑯は、日本の企業を念頭においた「人間的企業方式」では、他
の会社に移るためのコストが高くつきすぎ、資本市場も自由ではなく、資金も企業
集団内部の論理によって動くことから、アメリカ資本主義の観点から自由でないよ
うに見えるが、「人間的企業」には、従来の資本主義的思考にはなじみがない「組
織された」自由というものが豊富に存在することを述べている。
そして、被告⑯にいう「組織された」自由とは、人間的企業の内部で、経営の意
思決定に参加し、自分自身の労働規約や環境をつくり、仕事内容を改善する自由で
あるとされる(被告書籍一三六頁)。
このように、原告⑯と被告⑯は、日本の企業における組織内部での自由について
述べている点で共通するが、日本の企業において組織内部に自由が存するという評
価自体は、アイデアである。原告⑯では「組織的自由」と市場的自由の関係につい
て述べているのに対し、被告⑯には、そのような記述はなく、「人間的企業」は一
見自由でないようであるが、「組織された自由」が豊富に存在すると述べていて、
各論述の構成は異なるから、被告⑯が原告⑯の翻案であるとはいえない。
(一七)原告⑰と被告⑰について
原告⑰は、権力を主柱にする体制は、人間の自発性に期待していないので、働く
人間の自発性を引き出し、企業目的に結集するようになっていないことを述べ、こ
のことが、資本主義、社会主義を問わず、労働者の自発性の不足あるいは欠如を、
倫理の問題に期する思考方式が「体制的に」広がる理由であると結論づけている。
これに対して、被告⑰は、資本主義は資本家に、社会主義は国家に権力を集中さ
せるので、労働者のモラルが下がり、強力な経営に対抗するための強力な労働組合
の台頭が生産性を低下させることを述べた上で、権力保持者は自分の権力が問題と
は意識せずに、他人を「道徳」的に非難するとし、資本家は労働者の倫理の欠如
を、労働組合は経営の福祉無視を嘆き、社会主義国家は低い生産性を社会主義の理
想に対する労働者の反感あるいは無関心のせいであるとすると説明している。さら
に、権力の腐敗が必至であること、責任感が生ずるのは、自分以外の誰も失敗のコ
ストを吸収しないとわかった時であるとし、市場社会主義は労働者が、資本主義は
資本家が、中央集権的社会主義は国家が、ふさわしい責任なしに権力を持った点に
欠陥があると結論づけている。
このように、原告⑰は、働く人間の自発性について、被告⑰は、労働者のモラル
と責任について、述べており、原告⑰も被告⑰も、それらを、資本主義、社会主義
の権力作用との関係で説明しているが、その構成を大きく異にしているから、被告
⑰は原告⑰の翻案とはいえない。
(一八)原告⑱と被告⑱について
原告⑱は、【D】氏が強調する点として、売上高を示しそこからさしひかれる費
用の内訳けを明らかにしながら企業活動の最終成果としての純利益を表示する損益
計算書が、その基礎に資本主義的な利益第一主義の観念があるという考え方を紹介
し、損益計算書では、従業員の給与が原材料費と同じ次元のものとして扱われ、原
材料の節約だけでなく、賃金の引き下げによっても業績が向上するという思想が表
現されていることを述べている。
これに対し、被告⑱は、労働コストを含むコスト合計の極大化が企業効率の指標
である最大利潤を生むから、賃金を最小にすることは、労働者の利益を損なっても
経営の最大急務であったと述べている。
このように、原告⑱と被告⑱は、賃金の引下げが企業の利益増加につながるとい
う公知の事実が述べられている点で共通するのみであるから、被告⑱が原告⑱の翻
案であるとはいえない。
(一九)原告⑲と被告⑲について
原告⑲は、ヨーロッパで労働者の経営参加が実施されている例として、西ドイツ
とスウェーデンの共同決定法を紹介し、これらの経営参加は、経営を労働者と株主
との合意による経営に切り換え、企業の社会化を図るという観点から導入されたも
のであり、これによって伝統的な資本主義企業の支配構造に大幅な修正が加えられ
ているが、このような参加は、経営の合理性の追求と結びついて自然に実現した日
本の企業における参加とは異なり、法的強制なしには維持され得ないものであると
述べるとともに、そもそも資本と労働の対立関係が克服されていないヨーロッパの
企業構造の下では労働者の経営参加は、労働側にとって一方的に良いことであり、
西ドイツでは共同決定法を財産権の侵害として経営者側が違憲提訴したことによ
り、労使間の緊張が高まっていると伝えられていることを述べている。
これに対し、被告⑲は、西ドイツの共同決定法について紹介し、共同決定は政治
での民主主義を経営にも取り入れる試みであるとの評価を加えた上、政治的民主主
義は関係者間で利害が異なる場合に平和的に紛争を解決する制度を用意するもので
あるが、共同決定は相互に受け入れ可能な譲歩に導かれるのが典型であって、政治
的譲歩が企業にとって経済的に最善の解決になるとは限らないことを述べ、共同決
定方式の問題として、労使間の利害衝突の制度的基本を解決していないことを挙
げ、共同決定に緊張が多いことを述べている。さらに、共同決定は、従来の資本主
義の構造を変えず、労使問題の解決策にはならないことや、共同決定は、むかしは
ストライキなどで外に出していた経営に対する敵意を、強制的に内部化したにすぎ
ず、敵意は形を変えて残っているのに対して、「人間的企業」では労働者も経営者
も共通の主権を実行すると説明している。
このように、原告⑲と被告⑲は、ともに、西ドイツの共同決定法について説明
し、共同決定法の下で労使間に緊張が存在することを述べているが、西ドイツの共
同決定法の内容については、客観的な事実である上、原告⑲では、共同決定法の下
で労使間に緊張が存在することについて、他の文献(乙三三の一、二)を引用して
述べている。原告⑲と被告⑲は、右の共通点以外は、論理の展開が大きく異なって
いるから、被告⑲が原告⑲の翻案であるとはいえない。
(二〇)原告⑳と被告⑳について
原告⑳は、ユーゴスラビアの企業の支配構造が、資本主義体制下の企業の支配構
造を一八○度逆転させたものであり、労働者の経営参加制度としてみれば、株主と
の共同決定制度を徹底したものであると評価している。
これに対し、被告⑳は、共同決定は、経営側と労働側が共同で会社のことを決定
し、より積極的に経営参加するものであり、これが一九七〇年代に西ドイツとスカ
ンジナビア諸国で法制化され、実践されたと述べたあと、括弧書きでユーゴスラビ
アの市場社会主義がその極端な例であるとしている。
このように、原告⑳と被告⑳は、ユーゴスラビアの経済体制について触れ、これ
を共同決定制度を徹底させたものと評価していることは共通するが、このようなユ
ーゴスラビアの経済体制についての評価それ自体はアイデアにすぎず、原告⑳と被
告⑳は、その表現を異にするから、被告⑳が原告⑳の翻案であるとはいえない。
(二一)原告<21>と被告<21>について
原告<21>は、日本及びユーゴスラビアの企業並びに資本主義企業の関係につい
て、日本では責任が権力を生んだといえるとし、ユーゴではその逆を行おうとした
が、資本主義企業と正反対のものとなったユーゴの体制は、実は資本主義と同じ
く、企業を参加の場としてでなく、支配の対象として捉えていることを述べてい
る。
これに対して、被告<21>は、ユーゴスラビアの市場社会主義は、権力が資本家か
ら労働者に移転したという意味で資本主義の逆であり、国家への権力集中を計画経
済の主要な問題だとして、反対の極に治癒を試みたという意味で中央集権的社会主
義の逆であると捉えるが、権力集団がかわっても一集団への権力集中という共通の
欠陥があり、問題の解決にはならなかったと述べている。
このように、原告<21>は、ユーゴスラビアの体制と資本主義の同質性を結論とし
ているのに対し、被告<21>は、ユーゴスラビアの市場社会主義と中央集権的社会主
義の同質性を結論としており、ユーゴスラビアの市場社会主義は資本主義の逆であ
るという途中の記述が共通するのみであるから、被告<21>が原告<21>の翻案である
とはいえない。
(二二)原告<22>と被告<22>について
原告<22>は、これまで社会経済上の根本的な大変動を引き起こした革命を二つの
型に分け、一つは民主主義や社会主義のように先行する理論や思想に従って現実が
創造されるものであり、他の一つは封建制度や資本主義のように、現実に内在する
合理性に基礎をおいた目に見えない力に導かれて、終極的に大きな変動を引き起こ
すものである、と述べている。
これに対し、被告<22>は、歴史的に経済体制のでき方には二通りがあり、一つ
は、一八世紀のイギリスの資本主義のように自然にできるもの、もう一つはカー
ル・マルクスが抽象モデルを作り、その弟子達が革命によって作り出した社会主義
のように才能と熱意ある改革思想家によって作り出されるものである、と述べてい
る。
被告<22>が記述するように、経済体制のでき方を、資本主義のような自然発生的
なものと、社会主義のような先行する理論を実現するものの二種類に分けて捉える
ことは、公知の事実であり、原告<22>と被告<22>は、そのような捉え方が共通する
のみであるから、被告<22>が原告<22>の翻案であるとはいえない。
(二三)原告<23>と被告<23>について
原告<23>は、資本主義におけるアダム・スミスと、社会主義あるいは共産主義に
おけるマルクスの位置は同じではないとした上で、マルクスの思想は「社会主義の
現実」を作り出したが、スミスは既にあった「資本主義の現実」を理論化し、その
本質的要素を抽出したのである、「理論による革命」は、理論の壮大性、論理的首
尾一貫性が知識人を魅了し、その中の活動的な分子が、その実現に向けて行動を起
こす、と説明している。
これに対し、被告<23>は、社会主義革命は、マルクスの描いたシナリオから多少
はずれているが、インテリ集団の理論による革命であり、資本主義のおこりは人工
的というより自然発生的であって、アダム・スミスが「国富論」を書いたのは事後
である、と述べている。
右(二二)のとおり、経済体制のでき方を、資本主義のような自然発生的なもの
と、社会主義のような先行する理論を実現するものの二種類に分けて捉えること
は、公知の事実であり、原告<23>と被告<23>は、そのような捉え方に基づいて、こ
れも広く知られた人物であるアダム・スミスとマルクスについて記述したものであ
るから、このような類似性のみでは、被告<23>が原告<23>の翻案であるとはいえな
い。
(二四)原告<24>と被告<24>について
原告<24>は、日本の産業において起こった「企業の革命」ともいうべきものは、
特定の理論や思想によって先導されたものでなく、現実の中から目立たない形で自
然発生的に生じたものであったため、その根本的な新しさや重要性に相応する注意
をひくことが少なかったと述べている。
これに対し、被告<24>は、被告【B】が、日本企業の経営体制について述べる
「ヒューマン・キャピタリズム」は、マスタープランにしたがって派手に宣伝さ
れ、政治革命によって突然にできたものではなく、青写真もなく、静かに進行した
ものであると述べている。
このように、原告<24>と被告<24>は、戦後日本の企業の経営体制が、突然できた
ものではなく、自然発生的に生じたものであるという歴史的事実について述べてい
る点を共通にするのみであるから、被告<24>が原告<24>の翻案であるとはいえな
い。
(二五)原告<25>と被告<25>について
原告<25>は、日本企業の経営が、さまざまな思想的立場から悪口をいわれてきた
とし、その例として、経済学者は労働力の移動を妨げることによって最適配分を損
なうと言い、マルクス主義者は労働者の本来の意識を歪めるものであると非難し
た、と述べている。
これに対して、被告<25>は、戦後初期において、日本型経営方式は、新古典派か
らも、マルクス派からもひどく批判されたとした上、新古典派の批判として、自由
な開放市場という原理を侵す非合理的なものである、終身雇用が企業間労働移動を
極端に少なくし、人的資源配分の最適が達せられない、年功制はコストを歪曲し、
内部効率を害する、というものを挙げ、マルクス派の批判として、封建感情の悪
用、資本家による労働搾取の新手である、というものを挙げている。
このように、原告<25>と被告<25>は、日本型経営方式に対する批判が存在したこ
と及びその批判の一つとして終身雇用が労働力の最適配分を阻害するというものが
ある、という事実に触れている点を共通にするのみであって、他の批判の内容は異
なっており、また、具体的表現も大きく異なるから、被告<25>が原告<25>の翻案で
あるとはいえない。
(二六)原告<26>と被告<26>について
原告<26>は、日本的経営の特徴を、日本人が稲作民族であるため、緊密な協同労
働を行う慣行が受け継がれたとか、江戸時代の藩の体制が引き継がれたものである
とか、儒教や武士道精神のような伝統的倫理を持ち出したりして説明されることが
あるが、いずれも観念的に過ぎ、日本的経営の特徴が労働面にのみあると考えてい
ることに基本的な問題があり、日本が稲作民族であることについては、同じく稲作
民族である韓国の企業経営が欧米型に近いことからも、説明として無理があるとの
指摘をしている。
これに対して、被告<26>は、日本の企業経営の特徴である調和の起源が米作りに
あるという考えは、日本の農業史が長い水争いの歴史であったことを忘れた議論で
あること、韓国やタイのように米を作っても同様な企業体制が生まれていないこと
を指摘している。
このように、原告<26>と被告<26>は、日本的経営の特徴を稲作民族であることに
求める説を否定していること、その反証として同じく稲作民族である韓国の例を挙
げていることが共通するが、それ自体は、アイデアにすぎないものであり、被
告<26>では、水争いの歴史に触れるなど、原告<26>とは違った観点から記述してい
るから、被告<26>が原告<26>の翻案であるとはいえない。
(二七)原告<27>と被告<27>について
原告<27>は、作業開始の前に労働者が集まって会社の歌をうたう日本の工場があ
り、日本を訪れる外国人が好んで取り上げ、外国のテレビ局は工員が整列して歌っ
ている有様をフィルムにおさめて、集団主義の証拠として宣伝するが、このような
ことをしている企業は大企業では例外的であることを述べている。
これに対して、被告<27>は、西欧のメディアは工場労働者が一日の仕事始めに社
歌を斉唱していることに日本の集団主義の証拠を見ようとするが、実際には日本で
毎朝社歌を歌う工場は少ない、と述べている。
このように、原告<27>と被告<27>は、日本の工場労働者が始業前に社歌を斉唱す
ることがあり、外国のメディアがこれを集団主義の象徴として取り上げるが、実際
にはそのような工場は少ない、という客観的な事実を述べていることと「集団主義
の証拠」という言葉が共通するが、それらのみでは、被告<27>が原告<27>の翻案で
あるとはいえず、それ以上に表現に共通性があるとはいえない。
(二八)原告<28>と被告<28>について
原告<28>は、封建時代の日本では、武士は戦いの前に名乗りをあげ、自分と同格
の武士を見つけて一騎打ちで勝敗を決することを紹介して、戦争が個人の戦闘の寄
せ集めとして行われていたことを説明し、一二~一三世紀には矢に自分の名前を彫
り込んだことを紹介して、個人の功績によって個人的に恩賞が行われていたことを
説明している。
これに対し、被告<28>は、一二世紀一三世紀において侍が決闘の前に敵に名を名
乗り、矢に刻印して戦闘後に功績を確認するのに使ったという習慣を紹介し、中世
日本の兵士達は活発な個人主義者であったと推測されるとの評価を示している。
原告<28>は、他の文献(乙三七の一、二)からの引用によって、右の中世日本の
武士の戦闘における習慣を紹介しており、このような習慣の紹介については、被
告<28>も同様であるが、原告<28>と被告<28>は、それ以上に表現に共通性があると
はいえないから、被告<28>が原告<28>の翻案であるとはいえない。
なお、原告は、経済書に中世日本の武士の戦闘における習慣を引用したところが
独創的であると主張するが、それ自体はアイデアにすぎず、そのこととから直ちに
被告<28>が原告<28>の翻案であるとはいえない。
(二九)原告<29>と被告<29>について
原告<29>は、日本的経営の特徴を儒教精神によって説明しようとする立場に対し
て、儒教は旧中国の支配階級である文人官僚の倫理であり、日本的経営の特徴であ
る平等性、主体性、ボトム・アップの意思決定方式を生み出すとはとうてい考えら
れない、と述べている。
これに対し、被告<29>は、儒教を日本企業の集団活力の源とする考え方に対し、
同じ儒教が中国停滞の原因とされることからしてもおかしいし、儒教は世俗宗教
で、少数の高級官僚や国家役人のための昔の倫理規定であって、企業家精神や金銭
的冒険とは関係がないことからしてもこじつけと思われる、と述べている。
このように、原告<29>と被告<29>は、日本的経営の特徴を儒教によって説明しよ
うとする立場を否定している点で共通するが、それ自体はアイデアにすぎないもの
であり、否定する理由づけや具体的な表現は、かなり異なっているから、被告<29>
が原告<29>の翻案であるとはいえない。
(三〇)原告<30>と被告<30>について
原告<30>は、そもそもナショナリズムは近代ヨーロッパが生み出した思想である
から、ヨーロッパ人は個人主義者が同時にナショナリストでありうることを否定で
きないだろうと述べた上で、それならば、個人主義者は、なぜ「企業主義者」であ
ることはできないのか?と問うている。そして、その後の部分で、日本的な労働形
態は、個人主義倫理と十分に調和することが述べられている(甲七)。
これに対して、被告<30>は、国家主義の概念を作ったのは西欧であり、個人主義
者と自称する西欧人の大多数が国家に忠実でありながら生活の他の面では個人主義
的であることにはなんら矛盾を感じていないことから、西欧人は、職場では個人志
向的でも国家に対しては集団志向的でいられることを示し、西欧人も集団志向の企
業体制の可能性を認識できるはずであると結論づけている。
このように、原告<30>と被告<30>は、西欧人が個人主義的でありながらナショナ
リストであることから、個人主義的な西欧人であっても、集団的志向の日本の経営
体制になじまないという理由はないことを述べている点で共通するが、論理展開は
全く異なるから、被告<30>が原告<30>の翻案であるとはいえない。
(三一)原告<31>と被告<31>について
原告<31>は、アメリカは多民族国家であるが、ソ連のように民族の違う共和国に
よる連邦ではなく、基本的には同一言語、同様の生活様式によって統合された一国
民であることを述べている。そして、その後で、ヨーロッパ各国について言及し、
イギリス、フランス、ドイツは決して多民族国家とはいえないと述べている(甲
七)。
これに対して、被告<31>は、アメリカは民族の多様性から異質社会といわれる
が、一つの言語と民主主義・自由企業体制という共通の信条によっており、言語、
民族、文化的な多様性で知られるユーゴスラビアと対比して、高度に統一的な同質
社会といってよいとし、日本も言語的、民族的に少数派が少ないので同質社会と見
られるが、同じ基準ではイタリア、オランダ、スウェーデン、フィンランドも同様
に同質的であり、同質性と経済の成功の因果関係がはっきりしないことを述べてい
る。
このように、原告<31>と被告<31>は、アメリカは、見方によっては同質社会を形
成しているといえることを述べている点が共通するが、そのようなアメリカ社会に
対する見方自体はアイデアにすぎないものであり、原告<31>と被告<31>とでは、表
現が大きく異なるから、被告<31>は原告<31>の翻案であるとはいえない。
(三二)原告<32>と被告<32>について
原告<32>は、韓国人が日本人以上に同質性が高いことを、韓国の中央集権的統治
の歴史から説明し、日本のような分権的な封建的政治組織を持ったことがなかった
ために、例えば方言などの地方性が韓国では著しく乏しいが、韓国の企業経営は、
同族による経営支配が一般的である点と血縁原理が強く浸透している点を除けば、
アメリカ的経営に近いとしている。そして、もしも単一民族であることから、日本
企業の特徴である共同体的性格や平等性、ボトム・アップ、企業内での濃密な人間
関係、チームワークなどを説明するなら、日本以上の単一民族国である韓国の企業
でもこれらの特徴があらわれていなければならないが、必ずしもそうではないとし
て、社長の権限が大きく、トップ・ダウン経営が行われ、随時採用のウェイトが高
く、正規社員の年間離職率も高く、同業他社からの引き抜きが多く、労働組合も産
業別に組織され、従業員の定着を促進する制度もあまり発達していない、という例
を挙げる。以上のような例に加えて、韓国でも年長者の上のポストに若年者をすえ
ることはタブーに近く、給与も年長になるにつれて上がってゆくが、これは勤続年
数とは直接かかわりない「年齢処遇制」とでもいうべきものであり、日本の「年功
処遇制」とは異なると評価している。以上を踏まえて、韓国の企業には日本的な企
業共同体的要素が著しく少ないと結論づけ、企業と個人とのかかわり方における日
韓両国の相違を述べる「日韓両国の総合生産性の比較に関する調査研究」(日本生
産性本部)を引用している。
これに対し、被告<32>は、韓国が一言語、一民族であり、中央集権の長い歴史を
有し、地理的に狭いこと、地方色があまりないこと、朝鮮戦争で破壊されたことを
挙げ、日本と似ているとしながらも、韓国の企業は、資本家所有、家族支配が普通
で、企業間労働移動も激しく、年功制もなく、企業が準家族的共同体とも見られて
いないし、移動、選択、事業設立が好まれ、企業内でない個人的な人間関係を好む
など、韓国では「人間的企業」が発生しなかったと結論づけている。
このように、原告<32>と被告<32>は、日韓の国家、国民の類似点を挙げつつ、両
国の企業の特徴を比較して、相違点を述べる点で共通しており、類似点や相違点の
記載は部分的に共通するところがあるものの、それらは、客観的な事実の記載とい
うべきものが多い。その反面、両国の類似点や相違点の捉え方は必ずしも同じでは
なく、論述の構成や具体的な表現も異なっているから、被告<32>が原告<32>の翻案
であるとはいえない。
(三三)原告<33>と被告<33>について
原告<33>は、市場的自由の制約が「組織的自由」をもたらすと述べている。
これに対して、被告<33>は、市場の自由と組織された自由は二者択一であると述
べている。
そもそも、特定の概念と別の概念の関係を端的に表現する原告<33>に創作性があ
るとは認められないが、この点を措くとしても、原告<33>と被告<33>は、市場的自
由と「組織的自由」又は「組織された自由」の関係に触れている点で共通するのみ
であり、表現が異なるから、被告<33>が原告<33>の翻案であるとはいえない。
(三四)原告<34>と被告<34>について
原告<34>は、自分の能力の多彩さと発展性に自信のある人は「市場的自由」すな
わち「不自由な組織を比較的自由に選択できる」という方を選んで、飛躍的な上昇
の機会をつかもうとするだろうが、そうでない大多数の人にとっては職場や企業を
変えても状況はそれほど変わらないと述べている。
これに対して、被告<34>は、市場の自由は、才能ある個人に経済的成功への無限
の機会を与え、各人が自分の潜在的可能性を開発するが、同時に普通の人はそれに
よって無個性的、疎外的職場環境におかれがちになると述べている。
このように、原告<34>と被告<34>は、仮に「市場的自由」や「不自由な組織を比
較的自由に選択できる」ということと「市場の自由」が同じことを意味するとして
も、能力のある人は企業間移動が自由であることによって、成功への可能性を広げ
るという当然の事実を述べている点で共通するのみである。原告<34>では、「そう
でない大多数の人」にとっては、「それほど変わらない」と述べるのみであるのに
対し、被告<34>では、「普通の人」は「無個性的、疎外的職場環境におかれがちに
なる」と述べており、明らかに異なる。したがって、被告<34>が原告<34>の翻案で
あるとはいえない。
(三五)原告<35>と被告<35>について
原告<35>は、ヨーロッパ人は、労働者はいつでも企業を離脱する自由があるか
ら、企業の中でいかに専制的に管理されているとしても、それは自由意志による選
択であり、本質的には自由であるというかもしれないが、彼は企業をやめて一体ど
こへゆくのか、と問いかけている。
これに対し、被告<35>は、西欧資本主義において、個人労働者にとっての個人の
自由とは会社を選ぶ自由、辞める自由、移動の自由であり、職場での個人的自由は
ほとんどない、と述べている。
このように、原告<35>と被告<35>は、西欧資本主義でいうところの労働者の自由
が移動の自由であるという一般的な評価を述べている限度で共通するが、それ以外
の表現は全く異なるから、被告<35>が原告<35>の翻案であるとはいえない。
(三六)原告<36>と被告<36>について
原告<36>は、日本が、現代の産業社会の諸要請にもっとも適合し、大多数の国民
にとって実質的にもっとも意味のあるものとして、「組織的自由」をより多く与え
ている、と述べている。
これに対し、被告<36>は、「人間的企業」が、従来の資本主義的思考にはなじみ
がない「組織された」自由を豊富に提案している、と述べている。
このように、原告<36>は「組織的自由」に対する積極的評価を行った上で結論を
述べているのに対し、被告<36>では「組織された」自由が従来の資本主義的思考に
なじみがないものであるとの説明を加えて結論を述べているのであるから、「組織
的自由」と「組織された」自由が同じことを意味するとしても、被告<36>が原
告<36>の翻案であるとはいえない。
(三七)原告<37>と被告<37>について
原告<37>は、日本の体制が、社会の内部に、組織と個人との利害の一致関係を人
工的に作り出すことによって、組織の効率性とその中で働く多数の平均的な人々の
生きがいとを両立させるという課題(原告書籍三〇六頁)を比較的巧妙に達成して
いることを述べている。
これに対して、被告<37>は、日本の戦後経済の業績を見れば、組織された自由の
原理で成り立つ、被告【B】のいう「ヒューマン・キャピタリズム」が自由経済を
さらに進めた代替案を示していることに気づく、と述べている。
このように、原告<37>と被告<37>に共通する点は存在せず、被告<37>が原告<37>
の翻案であるとはいえない。
なお、原告<33>ないし原告<37>と被告<33>ないし被告<37>を一体とみても、被
告<33>ないし被告<37>が原告<33>ないし原告<37>の翻案ということができないこと
は、既に述べたところから明らかである。
(三八)原告<38>と被告<38>について
原告<38>は、賞与総額の半分を取ったという戦前の社長と違って、現代の日本の
経営者はそのようなことはないこと、日経連の調査によると、戦前の社長の年収
は、新入社員の一〇〇倍であったこと、戦前には工員には終身雇用制が適用されて
いないことが多く、給与も職員と異なり時間給または日給で、賞与もほどんどなく
退職金制度も適用されなかったことを述べている。
これに対して、被告<38>は、戦前の日本では、家族支配の企業では社長一人のボ
ーナスが従業員に支払われる額の合計の半分以上であることがめずらしくなかった
こと、重役の給料が最低賃金の一〇〇倍は普通だったこと、ホワイトカラーは月給
制でボーナスがあり、ブルーカラーは時間給制でボーナスはほとんどなく、制度的
年金支給もないなど、ホワイトとブルーには歴然とした差があったことを述べてい
る。
原告<38>は、原告書籍の別々の三箇所の記述をつなぎ合わせたものであり、右の
ようにひとまとまりの記述があるわけではない。また、原告<38>の戦前の会社に関
する記述は、日経連の調査結果等に基づく客観的な事実であり、他の書籍にも記載
されている(乙一〇の七)。被告<38>は、原告<38>とは異なってひとまとまりの記
述である上、右の客観的な事実に関する記述を共通するにすぎないから、被告<38>
が原告<38>の翻案であるとはいえない。
(三九)原告<39>と被告<39>について
原告<39>は、日本の国民の九〇%が自らを中産階級に属していると考えるに至っ
ていることを述べている。
これに対して、被告<39>は、今日、大衆の九〇パーセントが自分を中産階級だと
考えていることを述べている。
原告<39>と被告<39>は、ともに、総理府の調査結果として公知である事実を述べ
ているにすぎないから、被告<39>が原告<39>の翻案であるとはいえない。
(四〇)原告<40>と被告<40>について
原告<40>は、五〇歳の大学卒の部長の給与が二〇歳台の高卒の工場労働者の給与
の三倍程度にすぎないことを述べている。
これに対し、被告<40>は、五〇歳の部長の税引き後収入は新人の三倍程度でしか
ないことを述べている。
原告<40>と被告<40>とでは、「五〇歳の部長」、「三倍」という言葉は同じであ
るが、他の部分は異なっており、原告<40>と被告<40>で述べられているのと同様の
事実は他の書籍でも述べられている(乙三〇の二)から、被告<40>が原告<40>の翻
案とはいえない。
(四一)原告<41>と被告<41>について
原告<41>は、日本の取締役の給与は総じて部長の給与よりも多少高いところに決
められていること、日本社会の「垂直的流動性」の高さが日本が既に実質的に階級
社会でなくなったことをあらわしていること、現代の日本社会に見られる著しい平
等性は、原告のいう「企業主義」が生み出したものであることを述べている。
これに対して、被告<41>は、日本がいま世界で一番平等な社会であることを、所
得分配、トップと現場労働者との給与ギャップ、垂直職業移動などの標準的基準か
ら説明し、これが最近の現象であり、第二次大戦後に被告【B】のいう「ヒューマ
ン・キャピタリズム」が起きてからであることを述べている。
原告<41>は、原告書籍の別々の三箇所の記述をつなぎ合わせたものであり、右の
ようにひとまとまりの記述があるわけではない。被告<41>は、ひとまとまりの記述
である上、原告<41>とは、現在の日本の社会が平等であるという評価を共通にする
のみであるから、被告<41>が原告<41>の翻案であるとはいえない。
(四二)原告<42>と被告<42>について
原告<42>は、日本のシステムが、少数の優れた人の才能を最大限に発揮させるこ
とにを可能にし、これに依存するものではなく、多数の平均的な人たちに安定した
環境を提供して、職場内により多くの自由を与えることで働きがいのあるものに
し、多数の人間の集団的活力に依存するシステムであり、日本の産業の発展がこの
ような活力を引き出すことによってもたらされたことを述べている。
これに対し、被告<42>は、戦後日本には大勢の有能な企業経営者がおり、成功を
誰か一人の功績として選ぶのは難しく、むしろ被告【B】のいう「ヒューマン・キ
ャピタリズム」によって動員されたエネルギーの塊が成功をもたらしたと述べてい
る。
このように、原告<42>と被告<42>に共通する点は存在せず、被告<42>が原告<42>
の翻案であるとはいえない。
(四三)原告<43>と被告<43>について
原告<43>は、日本の社会に価値配分の多様性(原告書籍二九八頁)をもたらした
もっとも基本的な要因は、所有が支配と結びつかず、富と権力の所在が必ずしも一
致しないということであることを述べ、そのことを、高い社会的威信を発生させる
大企業組織で高い地位についている人が必ずしも大資産家ではなく、逆に大資産家
であっても高い社会的威信や地位が手に入るわけではないことを示して説明し、こ
れと比べてアメリカでは、社会的階層のランクづけは、概ね所得によって行われ、
都市では所得の大小に応じて居住地域の住みわけが行われており、社会的地位の上
昇も所得の増大によって図られるとしている。そして、さらに続けて、日本におい
ては所得はそれほど問題にされず、社会的地位はその人間が属している企業の序列
と企業内において彼が占める地位という二つの要素の掛算で決まると考えられてい
るとしているのである。
これに対して、被告<43>は、被告【B】のいう「ヒューマン・キャピタリズム」
は従来のアメリカ資本主義より金銭志向の少ない社会を作ったとし、アメリカでは
金銭が社会的地位、権威の象徴といってよく、金はあればあるほど尊敬されるが、
いまの日本はそうではないとしている。
このように、原告<43>と被告<43>は、アメリカでは所得が社会的地位に結びつい
ているが、いまの日本はそうではないという客観的な事実を述べる点は共通してい
るが、それ以上に表現に共通する点はないから、被告<43>は原告<43>の翻案である
とはいえない。
なお、原告<38>ないし原告<43>と被告<38>ないし被告<43>を一体とみても、被
告<38>ないし被告<43>が原告<38>ないし原告<43>の翻案ということができないこと
は、既に述べたところから明らかである。
(四四)原告<44>と被告<44>について
原告<44>は、福祉国家体制の下では、人は収入以上に支出することができ、個人
から責任意識と人生を計画的に編成する長期的視野が失われ、堅実な生活態度が欠
けてくることになると述べている。
これに対して、被告<44>は、自由社会においては、福祉国家は福祉の適用の範囲
が拡大され、永続化されるという問題があると指摘し、その構造を、個人は自由だ
が責任がないという前提に立ち、特権は権利となり、福祉依存という新たな社会病
が生じ、社会的生産性以上に、人々はますます要求するようになると説明してい
る。
このように、原告<44>と被告<44>は、福祉国家について触れている点で共通する
のみであり、原告<44>には、被告<44>にみられるような福祉の拡大の構造に対する
視点は全く存在しないのであるから、被告<44>が原告<44>の翻案であるとはいえな
い。
(四五)原告<45>と被告<45>について
原告<45>は、原告のいう「企業主義」がある意味で企業を単位とした多元的な福
祉体制といえると述べている。
これに対し、被告<45>は、被告【B】のいう「ヒューマン・キャピタリズム」が
個人、家庭、国家に代わる企業福祉を提案すると述べている。
このように、原告<45>と被告<45>は、原告及び被告【B】の定義する「企業主
義」及び「ヒューマン・キャピタリズム」が、それぞれ構成員に対する福祉の機能
を備えているものであると述べる点で共通するが、前記のとおり、「企業主義」と
「ヒューマン・キャピタリズム」は同一の概念ではないことからすると、日本企業
には社員に対する福祉機能が備わっているという公知の事実を述べる限度でしか共
通しないといえるから、被告<45>が原告<45>の翻案であるとはいえない。
(四六)原告<46>と被告<46>について
原告<46>は、原告のいう「企業主義」では、個人の保護にともなうコストは企業
が、すなわち企業人が集団として負担するので、個人としては保護を受けるが、集
団の一員としては保護する側にあることになると述べ、そのため、国民は福祉国家
に対しては際限のない要求ができるが、企業人は企業に対してそのようなことはで
きないと結論づけている。
これに対して、被告<46>は、被告【B】のいう「ヒューマン・キャピタリズム」
を国家福祉と較べたときの利点として、利用者が企業によって財源が賄われている
ことを承知しているため、彼ら自身の対企業貢献に較べての無茶な期待をしないこ
とを挙げている。
このように、原告<46>と被告<46>は、国家に対する国民の福祉についての要求と
比べて、原告及び被告【B】の定義する「企業主義」及び「ヒューマン・キャピタ
リズム」では、保護される者である構成員の要求に際限があることを述べている点
で共通するが、前記のとおり、「企業主義」と「ヒューマン・キャピタリズム」は
同一の概念ではないことに加えて、要求に際限がある理由について、原告<46>が、
自らがコストを負担する集団の一員であることに求めているのに対して、被告<46>
は、利用者が企業による財源であることを承知した上、自らの貢献度と比較するこ
とによる自制に求めている点で異なるから、被告<46>が原告<46>の翻案であるとは
いえない。
なお、原告<44>ないし原告<46>と被告<44>ないし被告<46>を一体とみても、被
告<44>ないし被告<46>が原告<44>ないし原告<46>の翻案ということができないこと
は、既に述べたところから明らかである。
3被告書籍全体による原告書籍全体の翻案
右1(三)のとおり、被告書籍全体を原告書籍全体と対比したとき、両書籍には着
想において共通する部分が存在するが、両書籍の各主題は必ずしも同じではなく、
それぞれの主題の位置づけ及び論述の構成も異なる。
さらに、右2のとおり、各対比箇所ごとの対比においても、被告の論述が原告の
論述の翻案であると認められる部分は存在しない。
したがって、全体として両書籍の表現形式は異なるというべきであり、このこと
に証拠(甲四)及び弁論の全趣旨を総合すると、被告書籍は、原告書籍の成果をそ
の基礎の一部とするものではあるが、全体として全く別の著作物であり、被告書籍
が原告書籍の翻案であるとは認められない。
 三以上の次第で、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求はいず
れも理由がないから、主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第四七部
裁判長裁判官森  義 之
裁判官榎 戸 道 也
裁判官杜 下 弘 記

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