弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1被告は、原告に対し、59万9571円及びこれに対する平成19年1
月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2原告のその余の請求をいずれも棄却する。
3訴訟費用は原告の負担とする。
4この判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1原告が被告に対し雇用契約上の権利を有する地位にあることを確認する。
2被告は、原告に対し、145万6444円及び内金72万8222円に対す
る平成19年1月18日から、内金72万8222円に対する同年2月17日
から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3被告は、原告に対し、平成19年3月から本判決確定の日まで、毎月17日
限り(ただし、その日が土曜日に当たるときは16日限り、日曜日に当たると
きは15日限り(ただし、15日が休日に当たるときは18日限り))、月額
72万8222円及びこれらに対する各支払期日の翌日から支払済みまで年
5分の割合による金員を支払え。
4被告は、原告に対し、平成19年6月から本判決確定の日まで、毎月6月3
0日限り(ただし、平成19年6月は29日限り)161万8192円、同1
2月10日限り171万6344円及びこれらに対する各支払期日の翌日か
ら支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は、被告の大学院教授として雇用され、RNA(リボ核酸)研究の分野
でその研究成果が注目されていた原告が、自らが責任著者となって科学学術論
文を発表するに際して、研究の実験担当者である助手の提示した実験結果につ
いて慎重な検討を加えることなく、同助手と共同で再三にわたり信憑性と再現
性の認められない論文を作成して国際的な学術誌に発表したことが被告の名
誉又は信用を著しく傷つけたとして、被告から懲戒解雇されたため、その懲戒
解雇の無効を主張して、雇用契約上の地位の確認及び懲戒解雇された日以降の
賃金の支払を求めた事案である。
1前提事実(争いがない、又は各項記載の証拠により容易に認定できる。)
(1)被告は、平成16年4月1日、国立大学法人法の施行により、P1大学、
P1大学大学院及び諸研究所等の機関を前身として設立され、教育・研究等
の活動を行っている国立大学法人である(以下、国立大学法人法の施行の前
後を問わず、単に「被告」という。)。
(2)原告(昭和▲年▲月▲日生まれ)は、RNAの研究者・教育者であり、平
成11年から被告大学院工学系研究科化学生命工学専攻教授として被告に
勤務していた者である。なお、原告は、平成18年まで独立行政法人P2研
究所(以下「P2研」という。)P3研究センターセンター長を併任してい
た。
(3)P4助手(以下「P4」という。)は、平成12年10月に被告の職員と
なり、平成13年4月からは被告大学院工学系研究科助手として、原告の研
究室に所属し、勤務していた者である。(乙8の16)
(4)平成17年4月1日、P5学会から、被告大学院工学系研究科長P6教授
(以下「P6工学系研究科長」という。)に対し、原告が関与した論文等1
2編の文書について、原告の研究内容の再現性と信憑性に関し、国内外から
疑義が提出されているとして、事実関係の調査依頼がされた。
P6工学系研究科長は、同月11日、上記調査依頼につき科学的立場から
調査することを目的として、工学系研究科内に調査委員会(以下「工学系調
査委員会」という。)を設置し、工学系調査委員会は、P5学会から調査依
頼があった論文等のうち、実験結果の再現性の検証が比較的容易であると判
断された別紙記載の論文3、7、8、12(以下、各論文を「論文3」のよ
うにいい、これら4編の論文を併せて「本件各論文」という。)を選び、調
査の対象とした。本件各論文は、いずれも、筆頭著者がP4、責任著者が原
告又は原告及びP4とされている論文で、原告が被告に赴任してから発表さ
れたものである。本件各論文で述べられている実験を担当したのはいずれも
P4であった。
工学系調査委員会は、平成18年3月29日、P6工学系研究科長に対し、
本件各論文すべてについて、再現性、信頼性はないものと判断されるという
内容の最終報告書を提出した。(乙6の27)
工学系調査委員会と並行して、平成18年1月25日に設置された「RN
A関連論文の疑惑問題についてP7教授等の責任に関する調査委員会」(以
下「工学系責任委員会」という。)は、平成18年5月2日、P4及び原告
の行為は、被告教職員就業規則38条5項に規定する懲戒事由に当たり、懲
戒処分の類型中で最も厳しい処分が妥当するという内容の調査報告をした。
(乙7の19)
工学系責任委員会の報告を受けて、被告総長は、被告教員懲戒委員会(被
告教員懲戒手続規程4条所定の常置機関)に対し、同規程3条2項に基づき、
懲戒処分の要否及び懲戒処分を要する場合のその内容についての審査を付
議した。教員懲戒委員会は、平成18年5月16日、同規程5条1項に基づ
き調査委員会(以下「懲戒委員会調査委員会」という。)を設置した。
懲戒委員会調査委員会は、関係者からの事情聴取を行うとともに、P4及
び原告の弁明等の内容に関する審議を経て、平成18年12月26日、P4
及び原告について懲戒解雇とすることを相当とする報告書を教員懲戒委員
会に報告した。(乙8の1ないし16)
教員懲戒委員会は、同日、教員懲戒手続規程8条に基づき、P4及び原告
に対する懲戒処分案を決定し、これを被告総長に報告した。
(5)被告総長は、原告を平成18年12月27日付け懲戒処分書をもって同日
付けで被告教職員就業規則38条5号の規定により、懲戒解雇処分(以下「本
件解雇」という。)を発令し、同処分書は原告に同月28日に到達した。
同懲戒処分書に記載された処分理由は次のとおりである。
「1.原告は、責任著者として論文の科学的な信頼性について最も重い責任
を負い、論文の発表に関する最大の権限を有する立場にありながら、P
4の提示した実験結果について慎重な検討を加えることなく、P4と共
同で再三にわたり信ぴょう性と再現性の認められない論文を作成し、国
際的な学術誌に発表した。
2.原告は、責任著者の立場にありながら、問題とされた論文の対象領域
である分子生物学の細胞実験について、その妥当性を的確に評価し得る
だけの識見を有しておらず、P4が行ったと主張する一連の実験の具体
的な企画立案や進行管理にもほとんど関与していなかった。また、P4
によって提示された実験の結果について、その生データを系統的にチェ
ックすることもなかった。
3.P4が実験ノートを記録していなかったことについて、原告は長年に
わたりこれを把握していなかった。また、検証の対象とされた論文にか
かわる実験試料や生データの多くが保存されていないことも、工学系調
査委員会(委員長は工学系研究科副研究科長(当時)P8教授)による
提出要請があるまで認識していなかった。
4.原告に対しては、P5学会の調査依頼が行われる前から、P4の実験
に注意を喚起する指摘が、研究室のスタッフの一部やP5学会のメンバ
ーらから寄せられていた。その中には具体的な論文についての疑義の指
摘も含まれていた。にもかかわらず、原告がこれらの指摘を真しに受け
止めて適切に対処したとはいい難い。
5.研究室においては、日ごろからサブグループ間で情報交換や研究討議
が行われることはなく、他のサブグループの仕事に対して率直な意見を
述べることができない雰囲気が醸成されていた。P4と原告によって信
ぴょう性と再現性の認められない論文が繰り返し作成され続けたこと
の背景として、このような研究室の環境の下でP4がいわば密室の状態
で実験を続けたことや、研究のプロセスや結果を巡る構成員相互のチェ
ック機能がほとんど働いていなかったことを指摘できる。しかるに、原
告にはこのような研究室の状態がさまざまな問題の温床になり得ると
の自覚は希薄であり、したがって、原告が研究室の運営改善に力を注い
だ形跡もほとんどない。
6.本件が工学系研究科における教育活動に与えた影響も小さくない。特
に当該研究室に所属していた大学院生らにとって、勉学・研究に専念す
べき環境が著しく損なわれたばかりでなく、最終的に所属の変更を余儀
なくされるなど、その影響は甚大であった。
以上を要するに、責任著者としての原告の論文の作成・発表に関する
行為と、研究室の最高責任者としての原告の助手等の指導監督や研究室
の運営を巡る種々の怠慢は、直接・間接に本学における研究活動と科学
の健全な発展をその本質において脅かす深刻な結果を招いた。
以上により、原告の行為は被告教職員就業規則38条5号に定める「大
学法人の名誉又は信用を著しく傷つけた場合」に該当すると判断した。」
(6)被告教員就業規則には、懲戒に関して、次の規定が存在する。(甲1)
(懲戒の事由)
第38条教職員が次の各号の一に該当する場合には、懲戒に処する。
(5)大学法人の名誉又は信用を著しく傷つけた場合
(懲戒)
第39条懲戒は、戒告、減給、出勤停止、停職、諭旨解雇又は懲戒解雇
の区分によるものとする。
(1)戒告将来を戒める。
(2)減給1回の額が労基法第12条に規定する平均賃金の1日分の
2分の1を超えず、その総額が一給与計算期間の給与総額の10分
の1を超えない額を給与から減ずる。
(3)出勤停止1日以上10日以内を限度として勤務を停止し、職務に
従事させず、その間の給与を支給しない。
(4)停職2月以内を限度として勤務を停止し、職務に従事させず、そ
の間の給与を支給しない。
(5)諭旨解雇退職願の提出を勧告し、これに応じない場合には、30
日前に予告して、若しくは30日以上の平均賃金を支払って解雇し、
又は予告期間を設けないで即時に解雇する。
(6)懲戒解雇予告期間を設けないで即時に解雇する。
(7)被告は、原告に対する本件解雇の発令に際して、中央労働基準監督署長に
対し、解雇予告除外認定申請をしたが、その後、上記申請を取り下げ、平成
19年1月31日、原告に対し、解雇予告手当の支給をするため原告に手続
を依頼したが、原告はこれに応じず、解雇予告手当を受領していない。(甲
3、4の1・2、弁論の全趣旨)
(8)原告は、本件解雇時まで、教育職(一)5級57号俸の俸給を毎月末日締
め当月17日支払で受けており、平成18年7月から12月までの間に支払
を受けた月額給与は、俸給支給額56万4200円、扶養手当4万5000
円、地域手当7万9196円の合計68万8396円及び通勤手当であり、
その平均は月額72万8222円である。(甲9の1ないし6、23)
また、被告においては、毎年6月30日及び12月10日にそれぞれ夏季
及び冬季の期末手当及び勤勉手当が支給されることとされており、原告は、
平成18年6月30日に合計161万8192円、同年12月8日(10日
が日曜日だったため)に合計171万6344円の支払を受けた。(甲9の
7・8)
2争点
原告が責任著者として本件各論文を作成、発表したことは、被告教員就業規
則が定める懲戒事由「大学法人の名誉又は信用を著しく傷つけた場合」に該当
するか。懲戒事由に該当するとしても、本件解雇は、懲戒権、解雇権の濫用に
当たらないか。
また、本件解雇に手続上の違法はないか。
懲戒事由該当性、懲戒権、解雇権の濫用を判断するに当たって、検討すべき
主要な点は、次のとおりである。
(1)本件各論文は、記載されている実験結果に再現性がないかどうか。(前記
1(5)の処分理由1に関する事項)
(2)本件各論文の作成、発表において、原告は責任著者として、どのような役
割、責任を負うのか。本件各論文が複数著者による学際的研究の論文である
ことはどのような影響があるか。(同)
(3)原告は、本件各論文を作成するに当たり、どのような検討をしたのか。そ
の検討は十分なものであったか。(同)
具体的には、原告は、P4が行った実験に対して、どのような関与、チェ
ックをしたか。その関与、チェックは十分なものであったか。原告は実験を
チェックする識見を有していたか。(以上は、同処分理由2に関する事項)
実験ノートやデータの保存管理はどうだったか。(同処分理由3に関する
事項)。
本件各論文作成に当たり、原告は研究室の中で十分な情報交換や研究討議
を行ったか。(同処分理由5に関する事項)
(4)P4の行った実験に信頼性があったか。P4が行う実験について疑義が寄
せられていた事実があるか。P4の実験に疑義があったとすれば、原告の関
与、チェックは十分といえるか。(同処分理由4に関する事項)
(5)本件各論文の発表が被告に与えた影響はどうか。とくに教育活動に与えた
影響はどうか。(同処分理由6に関する事項)
(6)他の事例との比較や、その他の事情に照らして、懲戒解雇としたことに相
当性があるか。
3争点に関する当事者の主張
(1)論文の再現性について
(原告の主張)
一部論文の再現性に疑義が生じたが、再現実験の条件が十分でなく、また、
再現性を得るには十分な期間ではなかったから、「再現性がない」とは断定
できない。
(被告の主張)
実験結果の再現性の調査については、平成17年9月8日に被告工学系研
究科長から原告に対して要請し、平成18年2月にかけて行われた再実験の
結果を受けて、工学系調査委員会は、再現性、信頼性はないと判断した。
(2)責任著者の義務について
(原告の主張)
科学分野における学術論文の「責任著者」とは、当該論文の発表に関する
対外的窓口を担い、学術論文を発表する際に、論文掲載予定の科学専門雑誌
の編集者との間で、論文掲載の調整を行い、掲載論文に対する問い合わせ先
となるなどの役割を受け持つものである。責任著者は、論文の発表に関して、
科学倫理的な責任を負担する。
(被告の主張)
責任著者の役割は、論文の科学的な信頼性について最終的な責任(最も重
い責任)を負い、論文の論理の流れなどだけではなく、論文の基礎となった
実験の妥当性について確認・検証を行い、当該論文の再現性が確保されてい
ることを確認した上で論文を発表することである。
(3)原告が行った実験結果の確認等について
(原告の主張)
ア原告は、本件各論文に関して、論文作成にかかわったP4との間で、論
文の対象研究分野、当該論文の具体的内容、原告とP4の専門研究分野の
違い、P4の研究実績・研究能力、論文作成上の役割分担等に照らして、
責任著者として、必要な役割を誠実に果たし、論文内容の事前確認等を行
った。博士号を持つ一人前の研究者であるP4の実験経験や研究実績を前
提として、原告は、必要な範囲で、実験データを確認しながら十分な議論
を行って論文作成を進めた。
イ学際的論文の責任著者に求められる識見は、論文のテーマ全般にわたっ
て科学の視点で理解する総合的な識見と研究全体を総合的に論文にまと
め上げる力量であり、原告はこれを有していた。
ウ研究者であるP4が行う実験に信頼すべき合理的基盤があり、原告が進
行管理に関与しなかったことは問題視すべきことではない。生データのほ
とんどは保存ができないものであったので、「生データに準じるデータ」
を検討した。原告は、実験担当者であるP4の分子生物学での研究実績等
を踏まえた上で、自らの識見を生かして、責任著者として必要な役割を果
たしている。仮に、P4が悪意によりデータの加工を巧妙な方法で行って
いたとするならば、原告のみならずとも、責任著者や研究室責任者におい
て阻止することが非常に難しいものであった。
エ実験担当者が実験ノートを作成・保管することは常識であり、P4が実
験ノートを作成・保管していなかったことを疑う余地はなかったから、そ
のことに原告が気がつかなかったとしても落ち度はない。また、実験試料
や実験データについても、実験担当者において一定の期間保存・管理して
おくものであり、原告がP4の実験試料や実験データの保存に特段の関与
をしていなかったことについても落ち度はない。
オ被告学内において、実験ノート、実験試料及び実験データの保管・保存
に関して規定した規則等は存在せず、教授等の研究室責任者に対して、そ
の定期的な確認の励行や集合的な保管体制の確立に関する指導はされて
いなかった。
カ原告の研究室においては、マンスリーミーティングなどを通じ、グルー
プを超えた情報交換や研究討議が自由闊達に行われ、研究者間、グループ
間での競争関係はあったものの、グループを超えた議論により、研究のプ
ロセスや結果に対してメンバー相互のチェック機能が実現していた。ま
た、原告は、研究室の雰囲気やミーティングのさらなる向上のために様々
な努力をしており、他の研究室と比較して、特に問題視されるような雰囲
気ではなかった。
(被告の主張)
ア原告は実験データのチェックをしていない。特にP4については、P9
誌にも掲載されるような新規性の高い実験結果を、学会の常識からは異例
のスピードで発表しており、更に、P4は夜間に1人で実験を行うことを
常態としており、P4がどのような実験をしているのか、他の研究室構成
員は全く認識できない、という極めて特殊な状況にあったから、本来原告
としては、P4の実験結果についてはとりわけ慎重な検討・精査を加える
べきであったにもかかわらず、客観的事実として、原告はP4の実験結果
について必要最小限の検討すら加えていなかった。
イ原告は、論文の科学的な信頼性について責任を持ちうるだけの識見、す
なわち論文の対象領域である分子生物学の細胞実験について、その妥当性
・信頼性・再現性を的確に判断しうるだけの識見を有していなかった。
ウ責任著者としては、論文の論理の流れなどだけでなく、論文の基礎とな
る実験のデータ等についても、とりわけ慎重な検討・精査を行うべきであ
った。特にP4については夜間に1人で実験を行う特殊な状況が常態化し
ていたことや、一連の論文については原告の業績として学会や専門家に認
知されることとなっていたから、原告においてはより一層、慎重な精査を
要した。しかしながら、実際には、原告は、P4が実験で得たとする生デ
ータ(ゲルの写真、電気泳動のデータ、分析データ等、論文に記載された
実験が行われたことの裏付けになる一次データ)をチェックしておらず、
P4作成のパワーポイントの資料を見ることしか行わなかった。原告のい
う「生データに準じるデータ」も、原告はチェックしていない。
エP4については、P9誌に掲載されるような新規性の高い実験結果を、
しかも研究者の常識からは考え難いスピードで発表していた。特にP4
が、夜間に1人で実験を行うことを常態としており、P4がどのような実
験をしているのか、他の研究室構成員は全く認識していなかったという特
殊な事情が存在した。また、P5学会からの調査依頼(平成17年4月)
以前にも原告の研究室の内外から信憑性に疑問を呈するコメントが複数
原告に寄せられていた。
このような特殊事情の下においては、原告が助手を科学者倫理・行動規
範の側面において指導教育すべき教授職の基本的職責及び責任著者の責
務として、P4の実験ノートの作成・保管状況についても確認し、P4に
よる実験試料や生データの管理状況にも意を払うべきであった。
オ研究者において、論文の正しさを客観的に説明する責任を履行するため
に、実験ノートを記録し、実験試料や実験データを保管すべきこと、この
説明責任を果たすための体制が取られているか指導・確認を行うことが、
研究室の最高責任者としての教授の基本的職責であり、論文に責任著者と
して名を連ねた者の基本的責任であり、改めて規定化するまでもない。
カ原告の研究室におけるマンスリーミーティングの実態は、日常的に科学
的なコミュニケーションを行う機会のほとんどない原告に対する月1回
の御報告会であり、あらかじめ指名されたコメンテーターによるコメント
も形式的なものであり、研究室メンバーにおいて発表内容に関する実質的
な議論がなされていたものではない。P4と他の構成員との間でもコミュ
ニケーションがほとんどなく、不協和音が存在した。原告が研究室の現状
の問題性を自覚した上、率直な議論を交わすことのできる研究環境を構築
するべく改善努力した形跡はない。
(4)P4の実験結果の信頼性について
(原告の主張)
アP5学会からの指摘よりも前に、原告に対し、P4に関する肯定的でな
いコメントを複数受領していたが、それらは抽象的なものであり、いずれ
も既に取り下げられた論文3に関連して述べられたものにすぎなかった
から、これらのコメントを受けてP4の実験について特別に解明や検証の
作業をすべきであったとまではいえない。
イ本件では、原告は、調査の初期段階から速やかな対応をしていた。P5
学会からの調査依頼の事実を知らされた6日後には、回答書面を作成し、
被告に渡したし、その過程で、原告は、P4の実験試料と実験方法を用い
た研究者や指摘された内容について共同研究を行っていた外部の研究者
に、実験成果とP4の実験に対する評価を確認するなど、原告なりの確認
調査を行った。P4が、実験ノートや実験試料や実験データを保存してい
ないなどということは、想像すらできないことであり、調査依頼があるま
で、確認しなかったことは責められるべきことではない。
(被告の主張)
ア論文の取下げをすること自体、研究者生命を脅かしかねない深刻な事態
となりうる上、論文3について、その理由が遺伝子名の取り違えという生
命科学に携わる研究者としてはあり得ないことであり、P10P11大学
教授(以下「P10教授」という。)からのコメントは具体的にP4の実
験方法について疑義を提示するものであった。P4が夜間に1人で実験を
行うことを常態としていたという事情の下では、責任著者である原告は、
再度P4の実験試料や生データの管理状況等を確認するなどの適切な対
応をするべきであった。
イ責任著者である原告が直ちに自ら検証作業に取りかかることは当然のこ
とであるにもかかわらず、実験ノートや実験試料・生データの存在の確認
すら要求されるまで行わなかったものであり、進んで事実を解明しようと
する姿勢に欠けていたものである。
(5)本件が工学系研究科における教育活動に与えた影響について
(原告の主張)
本件事件が原告の研究室所属の大学院生へ影響したのは事実であるが、再
現性の実験結果が出る以前の段階で被告が原告に対して研究室所属大学院
生の所属変更を求めてきており、その変更が既定事実であるという前提で説
明していたために、原告はさらなる混乱を避けるためにやむを得ず同意した
ものである。教育活動に影響を最も大きな影響を与えたのは、被告が不当に
行った原告に対する本件解雇そのものである。被告自身の不適切な情報管
理、情報発信により、その影響は拡大した。
(被告の主張)
被告が記者会見等に至ったことも、原告が本件解雇をされたことも、すべ
ての発端は、原告が再現性と信憑性の認められない論文を繰り返し発表した
ことにある。
(6)本件処分の相当性について
(原告の主張)
ア被告は、本件に関して原告に一切の結果責任を負わせるものであり、相
当性を欠く。原告については、過失による監督責任のみが問題となる余地
があるのであって、P4が問われるべき実験者としての行為者責任ではな
い。また、科学倫理的な基準からの逸脱に関する倫理的な批判と雇用契約
上の法的な懲戒責任は明確に区別すべきものである。これを区別しない、
本件解雇は相当性を欠く。
イ「P1大学憲章」、「P1大学の科学研究における行動規範」、「科学
者の行動規範」は、いずれも問題論文の発表後、ないしは問題論文に関す
る実験がほとんど終了した後に施行されたものであるので、規範的判断の
時限性の観点から、これらは、本件での原告の責任を論じるに当たって、
具体的な評価根拠規範とならない。
ウ被告工学系研究室において、共同研究論文が実質的に実験の再現性が確
認されないとの理由で取り下げられた前例がある。この例は、本件と同じ
く、助手の実験結果自体に問題があったため、ミスコンダクトという疑い
が非常に強いと判断された、専門学会内では著名な例である。しかし、被
告では、この論文発表に関する懲戒問題が正式に取り上げられたり、責任
著者であった教授らに何らかの懲戒処分が問擬されたことがない。同種の
事案において著しい不均衡がある。
エ人事院の「懲戒処分の指針」や被告の「P1大学教職員に係る懲戒処分
の指針(案)」においては、指導監督不適正については、減給又は戒告な
いし出勤停止、減給又は戒告とする旨定められている。
オよって、原告について懲戒事由が存在するとしても、懲戒解雇処分は、
相当性を欠き、平等取扱いの原則に反するから、懲戒権、解雇権の濫用に
当たり無効である。
(被告の主張)
ア被告が問題としているのは、あくまで責任著者及び被告の教授職として、
そして、科学者・研究者としての行動規範・行動準則に違反したこと、す
なわち、責任著者、被告教授職及び科学者・研究者として、行うべき行為
を行っていなかったという行為責任を問責しているものである。原告のい
う行為者責任と監督責任の区別は無意味である。
イ懲戒処分の相当性の判断においては、懲戒処分の対象となる非違行為が
もたらした結果の重大性についても重大な考慮要素になるものである。再
現性を担保した形で論文を発表し、他の研究者の疑義の提示に対して直ち
に説明責任を尽くすべきことが、科学技術の分野における研究者の基本的
責務・行動規範であり、被告教職員としての基本的責任である。P1大学
憲章等からもこの基本的行動規範は明らかであるが、被告としては、明文
化された規定やガイドラインを適用して本件解雇を行ったものではない。
あくまで、原告が当然に認識し、遵守していて然るべき最低限の基本的責
務・基本的行動規範に背馳する行為を繰り返したことをもって、原告を本
件解雇としたものである。
ウ共同研究論文が取り下げられた前例において責任著者であった教授が、
論文について生じた疑義に対して、直ちに再実験・検証実験を行い、短期
間で論文を撤回し、その混乱の影響を最小限にとどめる努力をし、科学者
・研究者としてできうる限り誠実に対応したことと原告の対応とでは大き
な差があり、内容、性質が異なるから、平等取扱いの原則に反しない。
エ人事院の指針が、国立大学法人とその教職員との間の雇用契約関係を規
律するものではないし、指針は、処分量定をするに当たっての参考にすぎ
ず、個別の事案の内容によっては、標準例に掲げる量定以外とすることが
ありうる。また、本件は指針においても全く予定していないものである。
オよって、原告に対する懲戒処分の程度として、懲戒解雇以外の選択肢は
なく、本件解雇は相当であって、有効である。
(7)懲戒解雇の手続違法について
(原告の主張)
本件解雇は、平成18年12月27日に、30日前の解雇予告又は30日
分以上の解雇予告手当の支払なく行われており、かつ、労働基準監督署長の
解雇予告除外認定が存在しないから、労働基準法20条1項本文に違反して
無効である。
さらに、被告の就業規則上、懲戒解雇は「予告期間を設けないで即時に解
雇する」場合に限定されるから、労働基準監督署長から解雇予告除外認定を
受けていない本件解雇は、懲戒解雇に該当せず、本件解雇は就業規則に反し、
無効である。
(被告の主張)
争う。労働基準法20条1項ただし書にいう「労働者の責めに帰すべき事
由」が存在する場合とは、およそ使用者による懲戒解雇処分が有効とされる
よりも一層強度の重大性・悪質性が認められる場合に限定されることが解雇
予告除外認定の実務であり、解雇予告除外認定がないことから本件解雇が無
効になるものではない。
第3争点に対する判断
1認定事実
前提事実に各項記載の証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認め
られる。
(1)原告及びP4の経歴等
ア原告は、昭和52年P12大学理学部化学生化学科卒業後、P12大学
大学院理学研究科化学生化学専攻に入学し、昭和54年にP13大学大学
院理学研究科化学専攻に編入し、昭和59年に同大学院にて博士号を取得
し、P14大学博士研究員となった。昭和62年に帰国し、P2研の前身
であるP15技術院に入所し、主任研究官等を経て、平成18年当時は、
P2研のP3研究センターセンター長であった。また、原告は、上記と併
せて、平成6年から平成11年には、P16大学応用生物化学系教授を務
め、平成11年から平成18年まで被告大学院工学系研究科化学生命工学
専攻教授の職にあった。
原告は、平成6年からP16大学に所属し研究室を有し、平成11年9
月に被告大学院工学系研究科教授として被告に移籍してからは、被告大学
院工学系研究科担当を命じられて、研究室を持っていたが、平成18年1
月、同担当を免ぜられた。(甲5、乙8の16)
イP4は、平成5年3月にP17大学工学部を卒業後、平成7年3月にP
18大学大学院材料科学研究科機能科学科専攻博士前期課程(修士課程)
を終了し、同年4月からP16大学大学院農学研究科応用生物化学専攻博
士課程に進学し、原告の研究室に所属し、平成10年3月に同博士課程を
修了し、博士号を取得した。同年4月から原告が所属していたP15技術
院特別技術補助職員となり、平成12年10月、被告工学部工学系研究科
教務職員となり、平成13年4月から被告大学院工学系研究科助手を務
め、原告の研究室に所属していた。(乙8の16、13の1・4)
P4は、P18では、環境ホルモンの研究をしており、分子生物学の分
野に入ったのは、P16大学大学院で原告の下で研究するようになってか
らであった。P4自身は、工学系調査委員会(後記(4)イ)による事情聴
取において、分子生物学の実験技術は、P16大学大学院博士課程の1年
次に、夏休みもなしで必至に覚え、同年の12月ころには、大学4年生に
教えられるレベルになったと述べている。(乙7の5、13の4)
(2)原告の研究室の運営及びP4の実験、研究の方法
ア被告における原告の研究室では、助手や博士研究員など博士号を有し、
研究実績のある者をサブリーダーに指名し、サブリーダーを責任者とする
グループ研究を行っていた。サブリーダー3ないし5名と学生を合わせて
総勢約30名の研究室であった。サブグループは、それぞれ別の部屋を使
用して、実験研究を行っていた。学生の指導は、それぞれのサブグループ
のサブリーダーが行っていた。(甲25、28、乙7の4、証人P19)
イ原告の研究室においては、原告以外に分子生物学の分野に通じている博
士研究員なども参加して、月に1回程度の頻度で、研究室の全員が参加す
るマンスリーミーティングが行われ、そこで、各自研究発表を行い、ディ
スカッションが行われていた。マンスリーミーティングにおける報告時間
は1名当たり15分から長くても1時間程度であった。報告の中での実験
データの示し方については、当初から、資料を作成して個々の参加者に配
付したり、直接データを見せるという形式ではなく、機械を使って実験ノ
ートをスクリーンに映す等をしていたが、平成12年又は13年ころか
ら、パワーポイントを使用してスクリーンに映すことが多くなっていた。
(甲21、25、28、乙7の4、証人P20)
ウP4は、原告の研究室において、夜間に単独で実験、研究をしていた。
研究の対象や、実験の内容を原告の研究室内で前もって話すことはなく、
テーマを自ら決め、実験結果のデータをいきなり持ってくることが少なく
なかった。P4が、どのような実験をしているかということが研究室の構
成員に分かるのは、マンスリーミーティングにおける報告を通してであっ
た。(乙7の7・19、乙8の2、証人P20)
(3)本件各論文の発表
ア論文8
(ア)論文8(筆頭著者:P4、責任著者:原告、他に共著者2名)は、平
成14(2002)年4月、P21誌に発表された。
論文8の概要は、mRNA(メッセンジャーRNA)に対するランダ
ムな基質結合アームを持つハイブリッド・リボザイムのライブラリーを
導入したMCF-7細胞の中で、アポトーシスを誘導する腫瘍壊死因子
TNF-αを加えても生き残ったクローンから回収したハイブリッド
・リボザイムの塩基配列を解析し、DNAデータベースを探索すること
により、TNF-αを介したアポトーシス経路に関与する多くの前アポ
トーシス遺伝子を同定したというものであった。なお、mRNAに対す
るランダム化した基質結合アームを持つハイブリッド・リボザイムを用
いて遺伝子を同定する方法をジーンディスカバリー(GeneDiscovery)
という。(甲55、乙6の27)
(イ)原告は、平成10年ころ、ハイブリッド・リボザイムを作ることに成
功し、ハイブリッド・リボザイムを使って特定の遺伝子を探す技術を開
発できるのではないかと発案し、P4にこのテーマを伝えて、実験を指
示していた。P4は、実験をして、ハイブリッド・リボザイムを使用し
てアポトーシスという現象を起こす遺伝子を同定することができたと
して、生データから作成したとするデータを原告に見せるなどし、原告
とディスカッションを行い、マンスリーミーティングで発表をした後、
論文を作成した。原告は、論文の論理展開などについて指導し、論文8
が完成した。なお、ジーンディスカバリーによる遺伝子同定については、
P22とP23がこれを使用した遺伝子同定の論文を発表し、議論に参
加していたので、原告は両名を共著者に加えた。(甲5)
イ論文7
(ア)論文7(筆頭著者:P4、責任著者:原告、他に共著者2名)は、平
成15(2003)年2月1日、P24誌に発表された。
論文7の概要は、活性型組み換えヒトダイサー(re-hDicer)
を大腸菌で発現させ、活性させることに成功したというものである。こ
のダイサーを用いて作製したsiRNA(shortinterferingRNA)の
RNA干渉活性によって、それぞれの遺伝子の発現を特異的に抑制でき
ることになるというものであった。(乙6の27)
(イ)原告は、平成13年ころ、研究室の構成員に、siRNAを効率的に
作る技術が必要になるという話をしていた。P4は、ダイサーを使って
長いRNAを切断してsiRNAを作ることはできないかと発案し、P
4から指示を受けた博士課程のP23がダイサーの遺伝子を構築する
ことに着手した。これをP23から引き継いだP4は、ダイサーの構築
に成功し、活性化させ、長いRNAを切断することに成功したとして、
生データから作成したとするデータを原告に見せるなどし、原告とディ
スカッションを行い、マンスリーミーティングで発表をした後、論文を
作成した。原告は、この論文の構成や論理展開などについて指導をして、
論文7が完成した。原告は、論文作成の際には、論文に掲載した最終的
な結果以外のデータは見なかった。なお、原告は、当初ダイサー構築を
行っていたP23とダイサーの役割を調べるためのリボザイム構築等
に協力したP25を共著者に加えた。(甲5、乙7の3)
ウ論文3
(ア)論文3(筆頭著者:P4、責任著者:原告及びP4)は、平成15(2
003)年6月19日、P9誌に発表された。
同論文の概要は、マイクロRNA-23が転写リプレッサーHes1
(Hairyenhanceofsplit)由来のmRNAを標的として結合し、He
s1の発現を抑制していることを実験により、明らかにしたというもの
である。マイクロRNA-23は、Hes1由来のmRNAの一部と7
7%の相補的な配列を持っている(ホモロジー解析から導かれる。)。
レチノイン酸誘導によりニューロン細胞に分化するNT2細胞にマイ
クロRNA-23を発現させると、Hes1のmRNA量は変化しない
もののHes1の発現量は抑制されること、また、マイクロRNA-2
3に対するsiRNAを同時に細胞内に導入するとHes1の発現量
が増加してレチノイン酸誘導によるNT2細胞の神経分化を阻害した
ことが確認されたことから、マイクロRNA-23がHes1のmRN
Aを標的として転写後レベルでHes1の発現を制御し、NT2細胞の
レチノイン酸誘導神経分化にかかわっていることを明らかにしたとい
うものであった。(乙6の27、16)
(イ)P4は、単独で、独自に、マイクロRNA-23とHes1の関係に
関する実験を行い、成功したとして、生データから作成したとするデー
タを原告に見せるなどし、原告とディスカッションを行い、マンスリー
ミーティングで発表した後、論文を作成した。原告は、この論文を読み、
出来がよいと評価し、2、3時間かけてチェックをし、論文3を完成さ
せた。(甲5、乙8の13)
(ウ)論文3がP9誌オンライン版に掲載された2日後、海外の専門家から、
論文3においてHes1の遺伝子配列として記載されているものは、H
es1ではなく、ヒトESホモログ(HES1)遺伝子の配列であると、
遺伝子の取り違えが指摘された。(乙16)
(エ)Hes1について研究していたP10教授は、論文3を読み、同僚で
あった博士ともに、P9誌の編集者に対し、平成15年7月17日付け
で、(ウ)と同じ指摘を行った。
その後、原告と話す機会を得たP10教授は、論文3について、He
s1タンパク量が特異的に変化したことを証明するためには、論文3に
記載されている市販のHes1抗体を用いたエリザ法では不十分であ
り、ウェスタン・ブロッティング法を行う必要がある旨をアドバイスし
た。(甲55、乙18の1、原告本人)
(オ)原告は、遺伝子を取り違えていることを伝えられ、P4に確認した。
P4の話から、P4が遺伝子のデータベースを調べた際、Hes1を検
索するつもりで、HES1を検索してしまったが、これをHes1と思
って実験を進め、HES1のmRNA量を調べるなどしていたことがわ
かった。そこで、改めて、Hes1のタンパク量の変化やHes1由来
のmRNA量の変化を実験して調べることになった。この実験もP4が
単独で行った。原告は、P4から、実験結果はHES1を調べたときと
同じであり、論文3の内容は間違っていないとの報告を受け、実験結果
として電気泳動のゲル写真を見せられた。(甲80、乙7の3、8の4、
13の2、16、証人P20、原告本人)
(カ)そこで、原告は、P9誌の編集者に、論文3でHes1としていたの
はHES1の取り違えであったが、同論文に記載したHes1でも同じ
結果が得られるデータを持っている旨を伝えた。
また、原告は、平成15年10月に開催された第76回P26学会大
会の期間中に行われたセミナーで、講師として、「論文3で遺伝子を間
違えはしたが、マイクロRNA-23はHES1のmRNAと同様、H
es1のmRNAとも結合し、Hes1タンパク量の発現を抑制してい
るというデータを得ている」という趣旨の発言をした。これに対し、セ
ミナーを聴講していたP10教授は、原告が論文3に記載したのと同じ
市販のHes1抗体を用いたことを確認した上で、上記(エ)同様に、ウ
ェスタン・ブロッティング法を行う必要がある旨を改めて指摘し、論文
3の結果自体はさも正しいかのように発表するのはおかしいと指摘し
た。(甲55、乙16、18の1、原告本人)(なお、P27教授は、
原告がP10教授のアドバイスにしたがって同年9月までにウェスタ
ン・ブロッティング法による追加実験データを得ていた旨を陳述書に記
載している(甲79)が、前記のとおり、P10教授の指摘に対して原
告はウェスタン・ブロッティング法によるデータを得ている旨の回答を
しなかったものであり、原告が同データを得ていたことを認めるに足り
る的確な証拠はない。仮にP4から同データを得ていたとすると、原告
が回答をしなかったことから原告が追加実験にそれほど関心を持って
いなかったあるいは理解をしていなかったことが窺われる。)
(キ)被告のP28教授は、論文3の内容に疑義があるという話を聞き及び、
原告に対して直接電話をかけて、ことの経緯を聞き、P4の生データを
確認したかを尋ねたが、原告は「生データは確認していません。彼は嘘
をつくような人間ではなく、100%信用していますから。」と答え、
P28教授が、「生データは確認したほうが良いですよ。重要な問題で
すからきちんと対応してください。」と言って通話を終えたことがあっ
た。(乙18の3)
(ク)原告及びP4は、論文3について、平成15年11月6日、ホモロジ
ー解析によって同定した遺伝子は、Hes1ではなく、HES1であっ
たとして、遺伝子の同定を間違えたことを理由に取り下げた。
原告らは、取下げ理由として、「遺伝子の命名法が混乱していたため、
遺伝子の同定を間違えた。NT2細胞における我々の実験は、転写リプ
レッサーHes1のタンパク量がマイクロRNA-23によって減少
することを明らかにした。マイクロRNA-23は、転写リプレッサー
Hes1のmRNAとも結合する可能性を示唆する未発表データを我
々は持っているが、転写リプレッサーHes1のタンパク量がマイクロ
RNA-23に応じて減少するという発見に対する説明は、その機構と
特異性に関して、まだ明らかではない」旨の記載をした。(乙6の27)
(ケ)RNA干渉の研究者で原告と親交のあったP29教授は、上記(カ)のP
26学会におけるP10教授の指摘を聞き、また、論文3の取下げがあ
ったことから、同月24日から同月27日にかけて開催されたP5学会
の「P30」で原告に会った際、「P4は危ないのでラボから出した方
がよい」と忠告し、さらに、翌平成16年5月、P26学会中国・四国
支部例会で原告に会った際にも、同旨の忠告をした。(乙18の2)
(コ)そのころ、サブリーダーとして原告の研究室に所属していたP20(被
告医学系研究科特任助教授)も、論文3に関してそのような偶然がある
のか気になり、原告に対して、P4を留学に出してはどうかと勧めた。
原告も、P4に対して、絶対に間違いないよね、作っていることはない
よね、と話したことがあった。(乙7の7、13の6)
(サ)原告は、平成16年に、P31誌及びP32誌に小論文を発表し、新
たな実験データを示すことなく、マイクロRNA-23はHes1由来
のmRNAとも、HES1由来のmRNAとも結合するという趣旨の記
載をした。(乙18の1)
エ論文12
(ア)論文12(筆頭著者:P4、責任著者:原告及びP4)は、平成16
(2004)年9月9日、P9誌に発表された。
同論文の概要は、ある種の合成siRNAは、ヒト細胞のDNAのメ
チル化とヒストンH3のメチル化を引き起こし、このDNAのメチル化
は転写レベルで遺伝子発現抑制を誘導できることを明らかにしたとい
うものである。(乙6の27)
(イ)平成14年ころ、siRNAが植物細胞のDNAをメチル化すること
が発表されたことから、P4は、単独で、独自に、同じ現象が哺乳動物
でも起こるのではないかと発案し、実験で確認ができたとして、生デー
タから作成したとするデータを原告に見せるなどし、原告とディスカッ
ションを行い、マンスリーミーティングで発表した後、論文を作成した。
原告は、この論文は出来がよいと評価し、2、3時間のチェックをして、
論文12を完成させた。この論文をP9誌に投稿したのは平成14年か
15年であったが、実験方法について、投稿した論文に記載されている
方法は感度が高くないと査読者から指摘され、やり取りがあり、同年1
1月当時、P4が再実験のデータを追加するなどしていた。(P4は、
工学系責任委員会の事情聴取に対して、査読者からDNAメチル化部位
を検出するために必要と指摘されたバイサルファイト法によるシーケ
ンスデータをとるなどの実験を追加して平成16年3月に論文を再投
稿し、同年4月末又は5月初めころにアクセプトされたと説明してい
る。)(甲5、乙7の6、8の13、13の2)
(ウ)ところが、オンライン公表の当日、P9誌のオフィスに、論文12に
掲載されているDNAのプライマー配列は間違いであるという指摘が
寄せられ、バイサルファイト法によりDNAメチル化部位を検出するた
めのDNAプライマーの配列は後に「検出不能」であることが判明した
ため、後日、その訂正記事がP9誌に掲載されている。(乙6の27、
18の2)
オ原告は、平成18(2006)年3月26日付けで、既に取下げ済みの
論文3を除く本件各論文及び論文6の各掲載誌編集者に対して、本件各論
文(論文3を除く。)及び論文6を取り下げる旨の連絡をした。(乙6の
29、9の14)
(4)工学系調査委員会の調査
ア平成17年4月1日、P5学会から、P6工学系研究科長に対し、本件
各論文を含む論文等別紙記載の12編の文書について、国内外から疑義が
提出されているとして、事実関係の調査依頼がされた。(前提事実(4))
イ平成17年4月11日、工学系調査委員会が発足し、専門調査委員とし
て、いずれもRNA研究を専門とする研究者4名が選任された。調査が終
了するまで、専門調査委員の名前は、原告及びP4には知らされなかった。
いずれもP5学会学会のメンバーであった。(甲30、31、乙6の27、
弁論の全趣旨)
ウ工学系調査委員会は、P5学会から調査依頼があったことを原告に伝え
疑惑の解明に協力するとの回答を得ていた。そこで、P5学会から指摘を
受けた論文等のうち、実験結果の再現性の検証が比較的容易であると判断
された本件各論文を選び、専門調査委員の意見を聴取して、平成17年7
月7日、原告に対し、以下のとおり、本件各論文ごとに疑問とされる点を
指摘して、その再現性を検証するために実験記録(実験データ(生データ。
ゲルやその写真等)、実験ノート等)、実験試料、プロトコル(実験の手
順・条件についての記述)等の提出を求めた。(乙6の2)
(ア)論文8について
1012
の多様性をもつランダム化した基質結合アームを持つハイブ
リッド・リボザイムを107
個の細胞に導入した場合に同定したという
前アポトーシス遺伝子8個をヒットする確率は10―14
程度であり、こ
のような奇跡的なことが本当に起こりうるのか。
(イ)論文7について
論文に記載された方法では、大腸菌内で活性型組み換えヒトダイサー
(re-hDicer)を得ることはできないはずである。
(ウ)論文3について
マイクロRNA-23と77%程度の部分的に相補的な配列を持つ遺
伝子の数は2000以上あるが、その遺伝子群の中からHes1のm
RNAをマイクロRNA-23の標的候補として取り上げた根拠が不
明確である。また、使用された市販のHes1抗体を利用したエリザ法
では、Hes1タンパク量を正確に測定できないと指摘されている。
(エ)論文12について
論文に記載された遺伝子で、用いられたsiRNAにより発現抑制が
おこるか。配列特異的な遺伝子発現抑制が見られる場合、それは、si
RNAの核移行を促進させるような処理や方法も全く行わなくても起
こるのか。配列特異的な遺伝子発現抑制が見られる場合、それは、DN
Aメチル化によるものであるのか。
エ原告は、このころ、P4に対して、本件各論文に関係する実験ノートを
見せるように求めたが、P4は、実験ノートはないなどと述べて、実験ノ
ートを見せなかった(この時の前には、原告は、P4に対して実験ノート
を見せるように求めたことはなく、実際にP4の実験ノートを見て確認し
たことがなかった。)。原告は、平成17年7月19日、P4から聴取し
た説明や、P4から提供を受けたデータ等に基づいて、工学系調査委員会
に対し、「調査に関わる実験試料、プロトコル、記録の提出依頼について
の返答」を提出し、配列情報や一部のプロトコルを記載したほか、実験記
録や実験材料等について次のように回答した。(乙6の3、13の1)
(ア)論文8について
コンピュータの処分等により記録が残っていない、又は、古い実験記
録やデータは論文発表後に処分した。
(イ)論文7について
ベクター及びホスト株の提供は可能だが、プロジェクトを引き継いだ
大学院生のサンプルと判別がつかなくなっているので、配列確認の必要
がある。
タンパク質のサンプルは、被告での停電で冷凍庫の温度が上がったた
め古いものは処分した。ダイサー検出に用いた試薬は、提供可能である
が、停電で冷凍庫の温度が上がった影響があるので、再実験には新しい
試薬を購入する必要がある。
論文を発表するまでメモの走り書きと生データを集めているので、整
理された実験ノートは存在しない。
ダイサー検出の生写真を添付
(ウ)論文3について
市販のHES1抗体を利用したエリザ法の生データ等を提出する。
マイクロRNA-23の検出については、コンピュータの処分により
記録がない。
マイクロRNA-23に関するその標的配列とルシフェラーゼとの融
合遺伝子を用いた実験についての生データを提出する。
(エ)論文12について
機械の処分によりsiRNA合成、DNAプライマーの合成、ノーザ
ン・ブロッティング法による実験の記録はない。
遺伝子配列のシーケンスデータのプリントアウトを添付
オ上記エの原告回答に記載されていたプロトコルは、論文作成の時の実験
の際に作成されたものではなく、新たに整理されたメモであり、通常当然
保管しているべき核心的な記録や生データが処分したとして、生データと
して提出されたのは、エリザ法の吸光度測定結果のプリントアウト(上記
(ウ)論文3)やシーケンスデータ(上記(エ)論文12)等、絵に描いたよう
な見事な結果を示すものだけであって、作為性が疑われ、本当の実験結果
である可能性が極めて低いものなどであった。
そこで、P6工学系研究科長は、平成17年8月22日、原告に対し、
本件各論文に関する実験試料並びに関連する実験ノートなどを提出する
よう要請した。
これに対して原告は、同年9月5日、回答文書及び添付資料を提出した
が、同回答文書には、P4がウェスタン・ブロッティングやノーザン・ブ
ロッティングなどのデータをコンピュータ上に取り込み、整理された実験
ノートとして記録を残していなかったことを知ったと述べられており、実
験データやプロトコルが記載された実験ノートが存在しないことが工学
系調査委員会にも明らかとなった。また、唯一生データと称して提出され
た添付資料は、論文8中の図そのものであった。(乙6の4ないし7)
カP6工学系研究科長は、実験結果を裏付ける生データの存在を確認する
ことができず、実験結果の信頼性を確認するには至らないため、直ちに再
実験を行い、その結果を提出するよう要請する必要があるとの工学系調査
委員会の指摘に基づき、原告に対し、平成17年9月8日、本件各論文に
ついて、その再現性を確認するための再実験を行い、論文で示された実験
結果を提出するよう要請した。
原告は、上記要請を受け、論文7についてはP4が、論文12について
はP20が、それぞれ再実験を担当し、論文7、論文12、論文3の順で
再実験を行うことにした。その後、原告は、論文7については、第三者で
あるC社にも実験を依頼した。(乙6の10・11・13・16・17)
キ原告は、平成18年1月12日付けで工学系調査委員会に対し、再実験
報告書を提出し、論文7については、P4が行った再実験は、同人から実
験結果の再現に成功し、大腸菌でダイサーの発現と活性が確認されたとし
てそのデータの提出があったが、C社の再実験では、ダイサーの発現は確
認されたものの、発現したダイサーの活性は認められなかったこと、論文
12については、P20の再実験では論文に記載されている発現抑制は確
認できず、再実験そのものがうまくいっていない可能性があること、論文
3及び8については、いまだ再実験を行っていないことを報告した。(乙
6の20)
ク専門調査委員が、原告から工学系調査委員会に報告された論文7に関す
るP4の再実験を精査したところ、実験材料として論文7記載のものとは
異なる発現ベクターが用いられていること、宿主大腸菌についてもP4が
再実験について作成した研究ノートの記載とは異なるものが用いられて
いることが判明した。そこで、工学系調査委員会は、平成18年1月21
日、P4に対して事情聴取を行ったところ、P4は、論文7にある発現ベ
クターは記載ミスである、再実験には研究ノート記載の宿主大腸菌を使用
した等と答えた。
工学系調査委員会は、同年2月3日付けの文書で、原告に対し、論文7
の記載ミスしたという発現ベクターの構築方法の詳細なプロトコル及び
同構築に用いられたすべてのDNAプライマーの発注、納品、塩基配列記
録等の提出と、再実験結果、実験記録、実験試料の提出を求めた。(乙6
の24・27)
ケこれに対して、原告は、追加資料として、平成14年10月時点でP4
が再実験に使用した発現ベクターが存在したことを裏付けるとするP3
3研究員の実験ノートを、また、P4は、「提出資料並びに再実験報告書」
のほか、論文7の記載ミスであったという発現ベクターの構築方法のプロ
トコル、同構築に用いられたとされる6種類のDNAプライマーのうち、
3種類の合成・納入記録等を提出した。
工学系調査委員会は、平成18年2月21日、追加資料等を検討した結
果、以下の事実等を確認し、論文7の発現ベクターの構築に関しては捏造
の可能性が極めて高いと結論づけた。
①C社による論文7の再実験結果は、P4の実験結果と異なり、ダイサ
ーの発現は認められたが、その活性は認められなかった。
②P4が提出した発現ベクターの構築方法のプロトコルは、論文7記載
のプロトコルとは似ても似つかぬものであり、単純な記載ミスというの
には余りに異なる。
③論文7及び再実験で発現ベクターの構築に用いたとする6種類のDN
Aプライマーのうち、3種類の納入記録を提出したが、残る3種類は、
具体的な塩基配列情報は示されず、合成記録も残されていない。また、
業者から納入されたとするDNAプライマーを用いたプロトコルでは、
論文7及び再実験で用いたという発現ベクターを構築することは科学
的に不可能である。
④P33研究員の実験ノートは、平成16年1月7日時点のものである。
(甲47、乙6の27)
コさらに、工学系調査委員会及び工学系責任委員会の調査の過程において、
P4が論文7の再実験を行っている期間中に同再実験においてその発現
と活性を確認すべき現物にほかならないダイサーを個人的に購入してい
た事実及び、P4が論文12に関して平成15年11月に得た生データと
して提出した遺伝子配列のシーケンスデータは、平成16年9月にバージ
ョンアップされた解析ソフトを用いて作られたものであり、論文12作成
時より後に捏造されていた事実が判明した。(乙6の27)
サ工学系調査委員会は、平成18年3月29日、P6工学系研究科長に対
し、最終報告書「P5学会から再現性に疑惑が指摘された論文に関する調
査最終報告」を提出した。同最終報告書は、本件各論文に関しては、再現
性、信頼性はないものと判断されるという内容のものであった。
P6工学系研究科長は、同月30日、P5学会に対し、本件各論文に関
し、再現性・信頼性はないものと判断した旨を報告した。(乙6の27、
30)
(5)その後の調査と本件解雇の通知
アP6工学系研究科長は、平成18年1月25日、工学系調査委員会の同
月18日付け中間報告(第3回)を受け、被告総長に対し、「P5学会か
ら再現性に疑惑が指摘された論文の著者の責任に関する予備調査報告」を
行った。
同報告は、本件各論文について実験結果の再現には至っておらず、これ
らの論文の著者である原告及びP4が、研究者として当然求められる客観
的資料・データ等の管理保存を怠り、論文の正しさを客観的に証明する責
任を果たしていないことは、大学法人たる被告の名誉又は信用を著しく傷
つけたと判断せざるを得ず、懲戒処分を下すことが妥当であると思料され
るというものであった。(乙7の1)
イその後、被告工学系責任委員会は、原告やP4ら関係者の事情聴取を行
い、その結果も踏まえて、平成18年5月2日、被告総長に対して、調査
報告書を提出した。その結論は、原告に対して懲戒処分の中で最も厳しい
処分を下すのが相当とするものであった。(前提事実(4)、乙7の19)
ウ上記を受け、懲戒委員会調査委員会が設置された。懲戒委員会調査委員
会は、原告やP4ら関係者から事情聴取を行い、その結果も踏まえて、同
委員会が認定した事実と原告に懲戒事由がある旨を記載した文書を作成
し、これを原告に示した上で、原告やP4から弁明書(補充書を含む。)
の提出及び口頭による弁明(原告の代理人である弁護士も立ち会った。)
を受け、平成18年12月26日付けで、教員懲戒委員会に対して、報告
書を提出した。その結論は、原告を懲戒解雇とすることが相当とするもの
であった。(前提事実(4)、乙8の1ないし16)
エ上記報告を受け、被告総長は、原告に対し、平成18年12月27日、
懲戒解雇する旨通知した。(前提事実(5))
2懲戒事由該当性、とくに論文の再現性について
(1)前提事実及び1の事実経過に照らすと、第2の冒頭に述べたとおり、被告
は、原告が再現性のない本件各論文を筆頭著者として作成、発表したことに
よって被告の名誉と信用が著しく傷つけられたとし、これを懲戒事由に該当
する事実として、本件解雇をしたことは明らかである。このことは、被告が
挙げる処分理由(前提事実(5))の要約部分(「以上要するに」で始まる段
落」)の記載からも明白である。
(2)上記に示した懲戒事由該当事実「原告が再現性のない論文を筆頭著者とし
て作成、発表したこと」のうち、原告が責任著者として本件各論文を作成、
発表したことは争いがない(前提事実(4))。責任著者はどのような役割を
果たすべきであるか、原告が本件各論文の作成に当たって現実にはどのよう
なことを行ったかという点はともかく(この点は、原告の責任の重さに関係
し、本件解雇の相当性の判断に影響するものであり、後述する。)、責任著
者も対外的には論文作成者であり、論文の発表者であることは明らかであ
る。
(3)そこで、本件各論文で述べられている実験に再現性がないのかどうか(争
点(1))を検討する。
前記認定事実(4)エないしケによれば、工学系調査委員会の調査過程で、本
件各論文のいずれについてもほとんどの実験記録や実験試料の存在が認め
られず、実験結果として生データも提出されず、その後、平成17年10月
から平成18年2月にかけて、本件各論文について再実験が行われたが、論
文7及び論文12については再実験が成功せず(論文7について、成功した
とするP4の再実験も、論文に記載されたとおりの結果が出たとは確認され
なかった。)、論文3及び論文8については再実験が終了しなかったことが
認められ、本件各論文は、いずれも再現性がないことが認められる。
これに対し、原告は、再現実験の条件が十分でなく、P4が精神疾患を発
症したり、被告の判断によって原告の研究室が事実上閉鎖されるなどした状
況があり、再現性を得るには十分な期間ではなかったから、「再現性がない」
とは断定できないと主張する。
しかし、再実験が行われた期間は、平成17年10月から平成18年2月
にかけてであり、短い期間とはいえないし、論文作成時に実験を行い結果を
出したはずのP4自身が行った論文7にかかる実験も再現ができなかった
のであるから、再現性がないという評価に誤りはない。むしろ、認定事実(4)
エないしケのとおり、実験を行ったはずのP4が正確なプロトコルを示すこ
とができないこと、実験を行ったのであればその経過や結果を記載したはず
の記録(実験ノート等)がないはずはないのに、P4は実験ノートその他実
験経過を記載した書面を全く提出しないこと、認定事実(4)ウ、エのとおり、
本件各論文の実験結果には、理論的にも多くの疑問があること、P4はこれ
らの疑問を解消する明確な回答ができないこと、P4は論文作成の際に行っ
たとする実験をすべて単独で行い、この実験に参加したり補助したりした者
がいないこと、後記3(4)アのとおり、P4が実験結果を出す速度は通常信
じがたいほど速く、かつ、各実験は全く異なる内容のものであったこと、認
定事実(4)コのとおり、P4は再実験を行っている間に実験により発現と活
性を確認すべきダイサーを密かに購入し、また、後に作成したデータを論文
作成前に作成したかのようにして提出するなど不審な行動をしていること
等の事情を総合すると、P4は、本件各論文に記載されている実験の結果を
出していないにもかかわらず、実験結果が出たとして論文を作成したと強く
疑われる。
よって、本件各論文は、いずれも再現性がないと認められる。
(4)以上のとおり、本件各論文は、いずれも再現性がないものであり、これら
は科学学術論文であるから、これらを被告の教授である原告が責任著者とし
て作成、発表をしたことによって、被告の名誉や信用が著しく傷つけられた
ことは明らかである(その程度は、本件解雇の相当性の判断に影響するもの
であり、この点も後述する。)。
したがって、原告は再現性のない論文を筆頭著者として作成、発表したこ
とにより被告の名誉と信用が著しく傷つけたものであり、原告には懲戒事由
があると認められる。(原告は、懲戒解雇の場合の懲戒事由は、重大かつ顕
著な場合に限定的に解すべきであると主張するけれども、後記3(1)のとお
り、この点は、懲戒権、解雇権の濫用において検討すべきものである。)
3懲戒権、解雇権の濫用について
(1)被告教員就業規則は、前提事実(6)のとおり、38条において懲戒の事由を
定め、39条において懲戒解雇を含む懲戒の種類を定めている。懲戒の種類
のうち懲戒解雇は最も厳しい処分であり、また、解雇は労働者の雇用契約上
の地位を完全に奪うものである(とくに、原告の場合には、被告の教授とし
ての地位も失うことになる。)から、懲戒事由に該当する場合であっても、
秩序違反や非違行為の程度が著しく大きい場合でなければ懲戒解雇をする
のは相当でなく、その程度が著しく大きいとはいえない場合に行われた懲戒
解雇は、懲戒権・解雇権を濫用したものとして無効となる。
ところで、前提事実(5)のとおり、被告は、懲戒処分書に処分理由として1
から6までを挙げているが、これは、前記2で示した懲戒事由該当事実を、
その要因や事情に沿って詳しく記述したものと解される。すなわち、被告が
主張する懲戒事由は、処分理由1ないし6に即していえば、原告は、論文の
発表に当たり、責任著者であるにもかかわらず、P4の実験結果を十分に検
討、確認しないで(実験の企画立案、進行管理に関与せず、実験結果を系統
的にチェックせず、実験ノートや生データを確認せず、研究室で情報交換や
研究討議をして相互のチェックをすることもなかった。また、実験を評価す
る識見も有していなかった。)、とくに、P4の実験については疑義があっ
たのに、十分なチェックをせず、再現性のない論文を作成、発表し、被告の
名誉や信用を著しく傷つけたということになる。
以上のような懲戒事由該当事実の要因、事情は、原告の責任の重さ、非難
されるべき程度に関係する事実であり、本件解雇の相当性(懲戒権、解雇権
の濫用)の判断に結びつくものである。以下、1の認定事実を前提として、
争点(2)ないし(6)(被告が主張する処分理由との対応関係は、第2の2「争
点」記載のとおりである。)に従って、被告が主張する事実の有無及び原告
の非難される程度の大きさを検討した上で、最後に総合的して、懲戒権・解
雇権の濫用がないかを検討する。
(2)責任著者としての原告の役割、責任について(争点(2))
ア原告は、責任著者として、本件各論文を発表したものであるが、前提事
実(4)、認定事実(3)のとおり、論文作成の前提である実験を行い、現実に
論文を執筆したのは、いずれも筆頭著者であるP4である。再現性のない
論文を発表したという懲戒事由に該当する行為に関して、P4の責任は極
めて重大であることは明らかであるが、実験や現実の論文執筆を担当して
いない原告の責任、非難されるべき程度が、P4と同等であるかどうが問
題となる。
まず、責任著者は本件各論文のような科学学術論文において、一般的に
どのような役割を果たしているのか、どのような責任を負うのかをみるこ
とにする。
イ責任著者が、論文の発表に関して、科学倫理的な責任を負担することに
ついて、当事者間に争いはない。また、証拠(乙9の3ないし5)によれ
ば、コレスポンディング・オーサーといわれる科学分野の共同執筆論文に
おける責任著者が、一般には、英語(correspondingauther)の字義どお
り、対外的窓口を担い、論文掲載の調整や問い合わせの役割を担っている
ことが認められる。
もっとも、証拠(乙9の3ないし5)によれば、一方で、論文を掲載す
る雑誌によっては、雑誌との連絡を責任著者以外の指名された共著者が担
当させる場合も想定されていること、責任著者とシニア著者が異なる場合
には当該シニア著者の連絡先も知らせるように求めている雑誌が存在す
ること、共同執筆論文の共著者のうち、ある者はその論文全体が正確かつ
立証可能な研究報告であることについて責任を負うべきであり、責任著者
は論文のすべて又は主要部分について保証人でなければならないとする
雑誌編集者がいることが認められるから、責任著者は、単に対外的窓口と
しての連絡役を担っているだけではなく、論文の各部分の科学的信頼性を
吟味し、論文全体の科学的な信頼性について最終的な責任を負うことを本
質的な役割としているというべきである。責任著者が対外的窓口を担って
いるのは、論文全体について最終的な責任を負っているからであると考え
られる。
このような責任著者の一般的な責任は、論文の内容や性格によって変わ
るべきものではないから、本件各論文が学際的な研究であったとしても、
異なるものではないというべきである。また、責任著者は、論文執筆者の
一員であり、原告が主張するような監督責任だけを負うものでもない。
ウしたがって、責任著者として再現性のない本件各論文の作成、発表をし
た原告の責任は、科学倫理的な責任に止まるものではなく、相当に重いも
のといわねればならない。
(3)原告が現実に行った実験の関与、チェックについて(争点(3))
ア以上のとおり、原告が責任著者として再現性のない本件各論文を作成、
発表したことは、一般的に相当に重い責任がある。
もっとも、(2)アで述べたとおり、原告は実験や現実の論文執筆を担当し
ていないのであるから、原告が非難されるべき程度については、さらに検
討する必要がある。
イ前記のとおり、責任著者も著者の一員であり、かつ、論文全体の最終的
な責任を負うことを本質的な役割としていると解されるのであるから、実
験担当者でないことだけから、実験については、結果の合理性や論理性を
確認すれば足り、実験経過については、実験担当者を信頼すればよいとい
うものではないと解される。とくに、本件各論文の内容が正確性を有する
ためには、記載されている実験結果に信頼性があることが不可欠であるか
ら、責任著者としては、プロトコルを把握し、現実に行われた実験経過を
確認し、できるだけ加工されていないデータを確認し、実験結果の処理が
適正かどうかを検証するなどして、実験の内容に関与し、実験結果をチェ
ックをすることが求められるというべきである。
この点に関し、証拠(乙8の1・2、証人P20)によれば、原告は、
もともと化学分野の研究者であり、本件各論文の対象領域である分子生物
学のうち、実際の細胞実験の遂行について、自ら行った経験はほとんどな
いといってよいほど乏しく、実験データの解析は別として、例えばヒト細
胞の培養条件や実験にかかる期間、実験技術について、本質的にこれを見
極める識見が十分ではなかったことが認められる。しかし、そのことによ
って、直ちに責任著者としての責任を果たせないということを意味するも
のではないし、責任著者としての責任が軽減されるというものでもない。
実験技術の詳細について十分な識見がないのであれば、実験担当者のほか
に、実験技術について詳しい者を共著者に加えて、実験結果を検証させた
り、複数の者が実験結果を見てディスカッションをする場を設けるなどし
て、実験の内容に関与し、実験結果をチェックすることが求められるとい
うべきである。この点は、科学分野における多数の研究者が同旨の意見を
述べていること(乙12の1ないし12)からも裏付けられる。
以下、実験データのチェック、実験経過の確認、複数の者による確認等
について、原告が十分に検討をしたといえるか、十分でないとすると原告
の責任はどの程度かをみていくこととする。
ウまず、認定事実(3)に証拠(乙7の3・4)を総合すると、原告は、本件
各論文の作成に当たり、基本的には、P4から実験が成功したとして示さ
れた生データから作成したデータ(加工したデータ)を見るのが中心であ
り、目標とする結果が出ていない実験途中のデータは見ていないし、成果
が現れたとする実験についても、生データ自体の確認はほとんどしていな
いことが認められる。
原告は、P4が、月に数回、多いときには週に数回、実験データを持参
することがあり、個別にディスカッションをしていたと主張し、その旨供
述している。しかし、証拠(乙7の3・4、証人P20)によれば、論文
7についてみれば原告は最終的に論文に載せる実験データしか見ていな
いこと、P4が見せていた実験データはうまくいったデータばかりであっ
たこと、P20が、原告との個別的なディスカッションなどで、実験ノー
トや生データを前に議論をしたことがあっても、原告から実験の条件や手
順について聞くことはなかったことなどの事実が認められ、そうすると、
原告が、P4と行ったと主張する実験データを前にした個別ディスカッシ
ョンにおいて、実験データを系統的にチェックしていたとは考えがたい。
原告が、P4が行ったと主張する一連の実験の具体的な企画立案や進行
管理に関与していなかったこと自体は必ずしも科学研究の実際に照らし
て懲戒責任を問われるべき怠慢であるとは解されないが、そのような実験
の企画立案や進行管理への関与がない分、原告は、P4によって提示され
た実験結果について慎重な検討をすべきであったにもかかわらず、実験結
果について系統的なチェックを怠っていたことは、責任著者として、また
大学の教育者としての怠慢な態度であるといわざるを得ず、非難されるべ
き程度は軽くない。
エ次に、原告が実験経過の確認等を行ったかどうかを検討する。
自然科学の分野で実験に携わる者において、実験の経過や結果の処理方
法等を実験ノートに記録することは、余りにも当然のことであり、実験試
料や生データの保存も当然のことである。
実験ノートの保管について、証拠(甲5、25、35、証人P19、原
告本人)によれば、P2研においては、平成14年8月に研究ノートの導
入についての方針が示され、P2研研究ノート(以下「P2研ノート」と
いう。)の使用が奨励されるようになり、原告は、P2研においてP2研
ノートを使用するように指導を行ったこと、また、原告の研究室において
も、平成14年又は平成15年ころから、使用する実験ノートをP2研の
登録番号があるP2研ノートと指定し、かつP2研におけるノートチェッ
ク制度での第三者のチェックを受けるよう指導していたこと、原告におい
てP2研ノートチェックを各人が受けたかどうかについての確認はして
いなかったものの、P4を除く研究室所属の者は実験ノートを保管してい
たことが認められる。実験ノートを記載しているかの確認を原告自ら行う
ことはしていなかったものの、このように、原告の研究室における実験ノ
ートの記録方法等の指導が他の研究室に比べて特別に劣っていたとは認
められない。
また、実験試料の保存保管方法についても、証拠(甲5、20、21、
27、28、証人P20、証人P19)によれば、冷蔵庫の使用するスペ
ースを定めて研究室所属の各人に委ねられていたことが認められるが、こ
の方法が、他の研究室に比べて著しく劣っていたものとは認められない。
しかし、認定事実(4)エ、オのとおり、原告は、工学系調査委員会の調査
が始まるまで、P4の実験ノートを確認したことがなく、実験試料の保管
も確認したことがなかった。実験の経過や実験結果の処理の確認は、実験
ノートを見ることによって容易に行うことができ、これを全く行っていな
かったことは、最も基本的な実験経過の確認を怠ったといわざるを得な
い。結果的に再現性のない論文を作成、発表したことになった根本原因の
一つはこの点にあるというべきであり、論文3や論文12について明らか
な誤りが発表後短時間のうちに指摘を受けるようなことが複数回あった
ことに照らしても、非難されるべき程度は非常に大きい。実験試料の保存
について、全く確認をしていなかったことについても、責任は重い。
オ複数の者による実験結果のチェックについては、原告は、P4の論文に
ついては、原告において最終チェックをするが、分子生物学的なところは、
マンスリーミーティング等で行っており、論理的な流れの短時間のチェッ
クで終わると述べ、実験結果に関する検討のプロセスとして、マンスリー
ミーティングを行っていたことを強調する。
前記認定事実(2)イ、ウ及び証拠(乙7の7・8、8の1、21、証人P
20)によれば、マンスリーミーティングは、総勢30名以上の参加者が
あり、博士研究員も参加していたが、1名当たりの持ち時間は15分から
長くても1時間程度にとどまり、資料などの配付がされることなく、パワ
ーポイントを使用して報告がされていたものであり、実験手順はほとんど
聞かれず、また、実験過程について検証を求めるような議論をすることが
できるような場ではなかったこと、特に、P4の実験については、原告の
研究室の構成員でも、マンスリーミーティングでの発表の際に実験結果の
ブロットなどの写真等が示されて初めてその内容を知ることができると
いう実態があったことが認められるから、実験結果について、実験の過程
を含めた内容について十分な議論ができたとは考えられない。
また、原告は、新規性の高い実験結果などの場合には分子生物の分野で
強い人物にコメントをもらうセミナーなどを行っていたとも述べている
(乙13の2)。しかし、論文3及び論文12については、P4と原告以
外に共著者がおらず、その論文7及び論文8についてもこのディスカッシ
ョンに加わったという分子生物の分野で強い人物が共著者にはなってい
ない。後述のとおり、P4の実験は多くの疑問があったにもかかわらず、
マンスリーミーティング等において、分子生物学に強い研究者から疑問が
出されたり、実験経過の詳しい検討が求められた事実も認められないので
あり、分子生物学や実際の実験に強い研究者が加わって、論文作成に際し
ての実験結果に対する慎重な議論がされたとは認められない。
証拠(甲21、25、28、証人P19、証人P20、証人P34、原
告本人)によれば、原告の研究室におけるサブリーダー同士が不仲である
など、他のサブグループの仕事に対して率直な意見を述べることができな
い雰囲気が一部にあったことは否定できないものの、研究室の運営方法は
研究室ごとに個性があり、原告の研究室の運営方法に、他の研究室に比べ
て明らかな問題があったとは認めらず、研究のプロセスや結果を巡る構成
員相互のチェック機能がほとんど働いていなかったと断定することはで
きない。
しかし、原告の研究室のマンスリーミーティングが、国際的な学術誌に
投稿する論文のP4の実験結果検証のためのプロセスとしては十分なも
のではなかったことは上記のとおりであり、原告の責任は軽微とはいえな
い。
カ以上のとおり、原告は責任著者として実験内容に関与し、実験結果をチ
ェックすべきであるのに、生データを確認することがほとんどなく、P4
との個別のディスカッションは十分でなく、実験経過が記載された実験ノ
ートの確認を全くせず、複数の者が参加するマンスリーミーティングでは
慎重かつ十分な議論がされたとはいえず、原告が論文作成に際して行った
ことは、P4が作成した論文について、論理的な構成という面から短時間
にチェックをするというのが中心であったと認められるから、実験結果に
ついて慎重な検討を加えたとは到底評価できない。その結果、再現性のな
い本件各論文を作成、発表したものであるから、原告に対して非難される
べき程度は相当重いといわなければならず、懲戒として相当に重い処分を
受けてもやむを得ないといえる。
もっとも、前記のとおり、本件各論文について、実験を行ったのはP4
であり、原告はP4が行ったと主張する一連の実験の具体的な企画立案や
進行管理にほとんど関与していなかったところ、証拠(甲20ないし22、
64ないし77、乙8の13、13の1、原告本人)によれば、教授が実
験の計画・管理・実行を、助手や博士研究員などの若手研究員に任せ、教
授自身は実験結果を見て合理性、論理性等をチェックするということが、
全部の場合ではないにせよ、一般的に行われることがあると認められる。
本件各論文の実験を担当したのは、大学院生や学部生ではなく、研究者と
して認められている助手の地位にあったものである。そして、原告は、実
験結果について十分かつ慎重な確認をしたとはいえないにしても、生デー
タから加工されたデータは確認し、不十分ながら複数の者が加わって論文
内容を検討する機会も持ち、実験結果について論理的な面からのチェック
は行っているのであって、実験過程や実験結果について、全く確認をして
いないのではない。
そうすると、原告が実験過程や実験結果について十分に確認しなかった
ことは相当に重い責任があるというべきであり、原告は懲戒の中でも相当
に重い処分を受けてもやむを得ないというべきであるが、実験の再現性が
ないことを認識しながら再現性のない論文を作成した者と同程度の重い
処分が相当な程度に責任が重大であるとまでいえるかどうかは疑問がな
いではない。しかし、教授が助手などの若手研究者に信頼して実験を全面
的に委ねることが許されるのは、助手等による実験について、その信頼性
が疑われる事情がない場合に限られる。実験自体の信頼性に明らかな疑問
があるにもかかわらず、不十分な確認しかせず、その結果、再現性のない
論文を作成、発表した場合は、さらに検討が必要である。
(4)P4の実験結果の信頼性について(争点(4))
アそこで、進んで、本件各論文自体に問題がなかったのか、すなわち、P
4の実験結果は信用できるものであったかどうかを検討する。
認定事実(4)ウのとおり、本件各論文においてP4が成功し結果を出した
とする実験については、工学系調査委員会の専門調査委員から、論文に記
載されているような結果が発生するのは奇跡的である、論文に記載されて
いる方法によって本当に結果が出るのかなど、その内容自体に重大な疑問
が出されている。こうした疑問は、論文作成の段階においても、研究者と
して当然に考えるべきことである。しかも、P4は、本件各論文の実験が
それぞれ別の内容であるにもかかわらず、数年の間に、次々に成功したと
している(乙12の6・9、18の2、証人P34、証人P20)。原告
自身、P4のデータは綺麗すぎるという話を聞いていた事実もある(乙1
3の2)。さらに、P4は、夜間、全く単独で実験を行っていたものであ
り、実験が成功するに至るまでの経過を見ている者はいない(認定事実(2)
ウ)。このことも複数著者により重要な内容を含む論文を作成する過程と
しては異例である。P4が実験に成功したとして示すデータは、成果が出
たものに限られ、かつ、生データを加工したものが大半である(認定事実
(3)ア(イ)、イ(イ)、ウ(イ)、エ(イ)、乙11、13の2)。
以上のとおり、P4の実験は、内容、実行、結論等多くの点から、捏造
が疑われるとまではいえないとしても、実験結果をそのまま信頼できるも
のとはいい難い。したがって、実験結果に対しては、極めて慎重な対応が
求められたというべきである。
イ認定事実(3)ウ(ク)のとおり、論文3については、遺伝子の同定の誤った
という理由で取り下げられた。
遺伝子を誤ったのは、P4がデータベースを検索する際に取り違えたこ
とが原因であり(認定事実(3)ウ(オ))、このこと自体は、P27教授が陳
述書(甲79)で述べるとおり、論文記載の実験が捏造かどうかと直接関
係するものではない。しかし、成果が出るまで実験を繰り返し行っていた
のであれば、その間、間違いに全く気づかないということがあるかどうか
は疑問であるし、遺伝子の取り違えをすることは、通常の研究者として考
られないミスであり(乙15の1・3)、実験全体に対する信頼性を失わ
せる。
さらに、認定事実(3)ウ(オ)のとおり、論文3で遺伝子の取り違えを指摘
された後、P4は追加実験を行い、論文に記載した「マイクロRNA-2
3はHes1のmRNAを標的としている」ことを実験結果で得たとして
いる。しかし、マイクロRNA-23が標的とするmRNAを、標的の候
補となり得る遺伝子配列を持つ多くのmRNA(認定事実(4)ウ(ウ)によれ
ば2000以上あるとされている。)の中からHes1由来のmRNAで
あると推測し(Hes1であると推測した根拠は示されず、直感によるも
のとしか説明できないようである(乙16)。)、これを取り違えてHE
S1由来のmRNAで実験したところ、これがまさにマイクロRNA-2
3が標的とするものであることが確かめられたというのであって、このこ
と自体容易に信じることができないものである。その上、追加実験を行い
Hes1由来のmRNAで実験すると、これもマイクロRNA-23が標
的とするものであることが確かめられたというのは、極めてまれな偶然が
二度重なって成果を出したというに等しく(P35教授は「高額の宝くじ
を2回連続で当てるようなもの」と述べる(乙15の3))、こうしたこ
とが現実にあり得るとは考えがたい。(なお、P27教授は、陳述書(甲
79)において、極めてまれな事態が実際に起こっているのだから、「高
額の宝くじを2回連続で当てるようなもの」とのP35教授の主張は無意
味な指摘であると述べるが、極めてまれな事態、すなわち、論文の記載さ
れたような実験の成果が現実に出ているのかが問題なのであるから、P2
7教授の指摘は正当でない。)
それでも、実験結果が出たというのであれば、そのようなことがあり得
るのかを慎重に確認するため、実験の経過や結果を詳細に調べるのが、研
究者としては当然である。そのためには、実験ノートを確認するだけでも、
実験の経過がわかったはずであるが、原告は、P4の話と電気泳動のゲル
写真だけを見て、実験ノートを確認することもなかったのであり、研究者
あるいは論文の責任著者として、一般には考えられない態度というべきで
ある。
ウさらに、認定事実(3)ウ(カ)、(キ)、(ケ)、(コ)のとおり、原告は、平成15
年10月以降、P10教授、P28教授などの研究者、同じ研究室のP2
0から、論文3の実験結果に対する疑問等を提起され、「P4は危ない」
とまで指摘されている。このような指摘がされることは、相当に異例のこ
とと思われ、それだけ多数の研究者が原告とP4が著者となっている論文
に対して疑問を有していたことが推測される。原告自身もP4の実験に対
して不安を持っていなかったわけではないことが窺われる(認定事実(3)
ウ(コ))。ところが、これに対して、原告がP4を信用し、これらの指摘
をさほど重く受け止めていなかったことは原告が自らも認めているとお
りである(甲55)。
原告は、P4が実績と力量を備えたものであったから、その提出する実
験データ自体の科学的信頼性は一般的に高いと主張し、その根拠として、
P4が博士号を持つ一人前の研究者であったこと、被告大学院工学系研究
科の助手採用基準にもかなった立場にあり、他大学からも招聘されるほど
に力量が評価されていたこと、分子生物学分野で過去に高い研究業績を積
んでいたこと、原告の研究室でのマンスリーミーティングや原告とのレベ
ルの高い議論を挙げている。
しかし、前記のとおり、P4の行った実験には数多くの疑問点があった
上、論文3に関する実験においては、容易に起こりえないような結果が出
ているなど疑問を持って当然な点があり、その上で、複数の研究者からP
4の実験に対して具体的な指摘を受けたというのであるから、原告として
は、これを真摯に受け止めて、適切な対処をするのが当然である。ところ
が、原告は、実験ノートを見るなど容易な対応すら行わず、むしろ、論文
3の実験に関して、遺伝子の取り違えをしたが論文の内容は追加実験で確
認されたとして、雑誌に発表などを続けている(認定事実(3)ウ(サ))。そ
の上、原告は、平成15年秋ころにP4が査読者からの指摘に基づいて続
けていた論文12に関する実験についても、P4が単独で行うに任せて、
関与をせず、P4の実験ノートを確認することなく、結果として、再現性
の認められない論文(論文12)を、またもや発表するに至った。
以上のとおり、論文3の発表後、P4の実験については、疑問点が相当
に明確になり、複数の研究者から具体的な指摘までされていたにもかかわ
らず、原告は、その後もP4の実験結果について、それまでと同様の対応
を続け、再現性の認められない論文12の発表に至ったのであり、研究者
として通常あってはならない対応というべきであり、責任は著しく重いと
されてもやむを得ない
(5)本件各論文の発表が被告に与えた影響について(争点(5))
原告が再現性のない本件各論文を作成、発表したことは、教育機関、研究
機関である被告の名誉、信用に対して著しい影響を与えたことは明らかであ
る(この点は、(6)において、さらに触れることにする。)。
また、証拠(甲7、乙6の8・9、18の4)及び弁論の全趣旨によれば、
工学系調査委員会及びP6工学系研究科長が、平成17年9月13日に、工
学系調査委員会の中間報告(第2回)を受けて、P5学会に対し、本件各論
文の実験結果の再現性を確認できていない旨の中間報告を行うとともに、記
者会見を行って同中間報告が一般にも公開されたこと、これが原告の研究室
に所属していた大学院生らに動揺を与えたこと、最終的に、原告が、平成1
8年1月19日、被告大学院工学系研究科の担当を免ぜられたことにより、
原告の研究室に所属していた大学院生や、同年4月から原告の研究室に進学
する予定であった学部学生が所属の変更をしなければならなかったことが
認められ、影響が甚大であったことは明らかであり、このことも、原告に対
する本件解雇の相当性の判断において考慮すべき重要な要素である。
(6)以上を総合して、懲戒権、解雇権の濫用について判断する(争点(6))。
原告は本件各論文の責任著者として、論文全体の内容について、最終的な
責任を負うにもかかわらず、P4が行った実験について、データや実験ノー
トのチェック等の基本的な確認を行わず、研究室内でも実験の過程を含めた
内容について十分な議論をせず、この結果、再現性のない論文を複数作成、
発表したものであって、非難されるべき程度は重く、加えて、P4の実験に
ついては、多くの疑問があり、具体的な指摘までされていたにもかかわらず、
論文の作成、発表を続けたのであり、大学の教育者、研究者としてあり得な
い行為と評価されても仕方がなく、懲戒処分として極めて重い処分を受けて
も、不当とはいえない。
このような原告の行為が、研究機関としてまた大学という教育機関として
の被告の名誉と信用を著しく傷つけたことは、研究者及び大学等の研究機関
の評価が引用論文数によって測られる場面があること(乙9の13)に鑑み
ても明らかである。再現性の認められない実験研究に関する論文を繰り返し
発表し、取り下げるに至ることは、学術研究成果の蓄積という科学の発展の
基盤を根底から覆しかねない行為である。被告は、教育機関、研究機関とし
て、的確で優れた学術研究成果を発信することが求められ、そのことに被告
の存在の意義もある。被告に属する教授が再現性のない論文を作成、発表す
ることは、このような被告に対して、他のあらゆる不祥事、非違行為とも比
較にならないくらいに、教育、研究の両面で社会的な評価、信用の低下を招
くものであることは想像に難くない。前記(5)に説示のとおり、原告の研究
室に所属していた大学院生等に対する影響という結果も重大である。被告が
原告を被告教職員就業規則39条に規定する懲戒処分の中でも、懲戒解雇に
値すると判断したことには、合理性や相当性がないとはいえない。
原告は被告の教授であった者であり、原告に対し、懲戒解雇をして被告の
従業員としての地位を終了させることは、被告における教育者、研究者とし
て地位を失わせる意味を持つ。そして、本件解雇の懲戒事由は、再現性のな
い論文を作成、発表したことであり、被告の教育機関、研究機関としての本
質的行為と深く関係する。こうした行為に対する処分については、教育や研
究という性格上、被告の自律性を尊重すべき部分があることを否定できな
い。その反面として、被告が懲戒処分を行うに当たっては、慎重な手続によ
り、かつ専門的な検討を踏まえて行うことが求められ、本件解雇についても、
前提事実(4)、(5)のとおり、専門調査委員を含む工学系調査委員会等の複数
の調査委員会が詳細な調査をした上で、慎重な判断をしていることが認めら
れる。
以上を総合して考えると、本件解雇は懲戒権、解雇権を濫用したものとは
いえない。
原告は、被告工学系研究室において、共同研究論文が実質的に実験の再現
性が確認されないとの理由で取り下げられた前例において、責任著者であっ
た教授らに懲戒処分が問擬されなかったこととの不均衡があるなどと主張
するが、証拠(乙15の1・2)によれば、当該論文の責任著者であった教
授及び共著者は、当該論文について生じた疑義に対して、実験担当者の実験
ノートを元に実験の過程を再検討し、原因を論文の基礎となる測定手法が不
適切であったのではないかとの仮説を立てて、直ちに再実験を行い、約3週
間という短期間で論文を撤回するなどのできうる限りの対応をした事実が
認められる等、本件とは事案を異にするものである。原告に対する本件解雇
の理由において問題とされているのは、責任著者の役割を果たしていないと
いう義務違反行為を中心としているのであって、指導責任又は監督責任の問
題であることを前提として平等取扱いの原則の違反をいう原告の主張はい
ずれも採用できない。
4懲戒解雇手続の違法について
前提事実(7)のとおり、被告が原告に対し、平成18年12月27日に本件解
雇を発令した時点では、30日分以上の解雇予告手当の支払をすることなく、
労働基準監督署長へ解雇予告除外認定を申請したものの、その後、平成19年
1月30日に申請を取り下げ、翌31日に、原告に対し解雇予告手当を支給す
る手続をしようとしたが、原告が応じていないことが認められる。
本件解雇は、被告教職員就業規則の規定に基づき行われたものであり、解雇
予告除外認定がないことのみによって無効となるということはできない。ま
た、解雇予告手当の支払がない解雇自体が当然に無効となるということはでき
ず、解雇予告手当の支払のない解雇は即時解雇としては効力を有しないが、使
用者が即時解雇に固執する趣旨でないときは、解雇通知から30日の期間を経
過するか、あるいは通知後に予告手当の支払をしたときは、そのいずれかの時
から解雇の効力が発生すると解される。
本件において、上記経過及び弁論の全趣旨によれば、被告は必ずしも即時解
雇に固執する趣旨ではないと認められるから、本件解雇は無効ではなく、原告
に本件解雇の意思表示が到達した平成18年12月28日(前提事実(5))か
ら30日を経過した平成19年1月27日に懲戒解雇としての効力が発生す
るものと解すべきである。
そうすると、原告は、平成18年12月31日までの給与の支給を受けてい
る(前提事実(8))から、平成19年1月1日から同月27日までの給与の支
払を受けることができるところ、通勤手当は実費補償的な性質を有すると認め
られる(甲23)から、通勤手当を除く月額給与68万8396円を日割り計
算した27日分の59万9571円を請求することができるというべきであ
る。
第4結論
よって、被告が原告に対して行った本件解雇は有効であって、平成19年1
月27日にその効力を生ずるところ、同日までの未払給与59万9571円及
びこれに対する給与支給日の翌日である同月18日から支払済みまでの遅延
損害金の支払を求める限りで原告の請求は理由があるからこれを認容し、その
余の原告の請求は理由がないから棄却し、以上の結論に鑑み訴訟費用の負担に
つき民事訴訟法64条ただし書を適用して、主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第19部
裁判長裁判官中西茂
裁判官荒谷謙介
裁判官遠藤貴子

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