弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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○ 主文
本件控訴を棄却する。
但し原判決第二物件目録のAの共有持分「三六〇分の三四八」とあるのを「五六〇
分の王四八」と訂正する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
○ 事実
第一 当事者双方の申立
一 控訴人ら
原判決を取消す。
被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は第一、二審共被控訴人らの負担とする。
二 被控訴人ら
本件控訴を棄却する。
第二 当事者双方の主張
当事者双方の事実上法律上の主張は左に付加するほかは原判決事実摘示と同一であ
るからここにこれを引用する。
(控訴人らの主張)
一 明治初期における陸地と海との取扱い
1 陸地と海との区別
(一) 明治七年太政官布告第一二〇号「地所名称区別」は官有地第三種に海を含
めている。したがつて、右「地所名称区別」における「地所」又は「官有地」は海
を含むものといい得るが、現行民法の「土地」概念に海が含まれないことは明らか
であるから、右「地所」又は「・・・・・・地」は現行民決め「土地」概念とは一
致しない。このように、当時は土地概念を海を含む広義なものとして用いている場
合もあるのであるが、それは、当時における法的観念の未発達から陸地に関する法
技術的処理を海その他の水面について類推していたことによるものであろう。この
ことは、漁業制度に関し、漁場を陸地と同様の不動産と考えていたという沿革から
もいい得るところである。
しかし、当時においても、陸地と海との形態上、利用上の差異から、法制度上も両
者を区別して取り扱つていたことは当然であり、前述した漁業制度はその最たるも
のである。
そこで、明治時代初期の法令等における陸地と海との区別ないし両者の取扱いの差
異について検討し、明治時代初期の土地又は「・・・・・・地」が「地所名称区
別」におけるように河海を含む広義のものとして用いられている場合のほかに、陸
地を意味する狭義のものとして用いられている場合があることを指摘し、後者が現
行民法の「土地」概念に承継されたものであることを明らかにする。
(二) まず、明治九年内務省達丙第三五号「地籍編製地方官心得書」七条は「土
地ノ経界不分明ナルモノハ其証跡ヲ正シ・・・・・・及左ノ三項ニ随ヒ之ヲ定ムル
モノトス」として、その二項において「海ト陸地ノ経界ハ満潮ヲ以テ其区別ヲナス
ヘシ」としている。
右二項の「海ト陸地」の経界の定め方は土地の経界を定めるための基準であるか
ら、右の「海ト陸地」の経界はすなわち海と土地の経界であり、しかも、右経界は
満潮位線とされているのである。
(三) 次に、明治八年内務省達乙第一三号「湖海沼池等埋立地附寄洲等開墾出願
ノ節処分方」は、開墾のための湖海沼池の払下げにつき、水面埋立ての分と陸地の
分(附寄洲及び自然堆積乾燥して平常浸水することのないもの)とを区別し、前者
は原則として無代価で後者は「一般ノ成規ニ照シ相当代価ヲ以払下」げるべきもの
としているのである。そして、水面埋立ての分のうち「海面ハ満潮ノトキ水下トナ
ルモノ」としているのである。
(四) 右の例のごとく、明確に海と陸地について規定しているわけではないが、
規定上専ら陸地を対象としているものと考えられる法令も存在する。
明治五年大蔵省達第二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」及び同規則の改正増
補にかかる規則は、堤外附寄洲、川床敷等には言及しながら、およそ海又は海面下
の地盤については何ら言及していないのであつて、それは地券が陸地に対して交付
されるべきものであることを示しているのである。
また、明治六年「地租改正施行規則」(大蔵省達)も、「海岸」、「河川ノ附洲湖
縁ノ不定地域」、「池沼」には言及しながら、海又は海面下の地盤については全く
言及していないのであつて、それは海を地租制度の対象として考えていないことを
示しているのである。
(五) そして、少し時代が下つて、明治二三年勅令第二七六号「官有地取扱規
則」一三条は、「官ニ属スル私有水面ノ売払譲与交換貸付及使用ハ本令二定ムル土
地ノ規定ニ準拠スベシ」と定め、土地を水面から区別して用いており、土地に対す
る適用法規と水面に対する適用法規の区別をしているのである。
(六) なお、明治二三年に公布された旧民法財産編二二条は「国領ノ海及ヒ海浜
但海浜ハ春分、秋分最高潮ノ致ル処ヲ以テ限リト為ス」を「公ノ法人」に属する公
有物とし、二六条は右公有物をもつて私所有権の目的となり得ないものとしている
のである。
以上のごとき経過を見るとき、民法の「土地」が陸地を意味するものであることは
我が国の明治以来の沿革に照らしても正当というべきである。
2 海没地の取扱い
(一) 明治一〇年太政官布告第八号「民有荒地処分規則」 によれば、「荒地ト
ハ山崩川欠押堀石砂入河原成池成川成海成湖水成等ノ天災ニ罹リタル土地を云フ」
(第一条)とされ、荒地の中には海没地が含まれていた。
そこで、右荒地に対する取扱いを見るに、民有地が荒地となつたときは、「荒地一
筆限帳」及び 「荒地絵図」を提出させ、畝杭を建てさせて境界を明りようにし、
面積を計つた上で、損害の軽重を区別して、免税の年期を定めることとし(第二
条)、免税の年期は損害の軽重、「起返シノ難易」等に応じ一〇年以内をもつて相
当の年期を定め、満期に至つてもなお「起返シ能ハサルモノハ」年期を継ぐべきも
のとされていた(第三条)。
しかし、「川成海成湖水成等ノ荒地」(以下「海没地等」という。)については特
別の規定が設けられ、海没地等の持主が所有の継続を希望するときは、一〇年まで
の年期を定めて無代価の券状を付与し(第四条)、右年期明けに至つてもなお原形
に復しないものについては、更に、一〇年以内の年期を継続することができるが、
それでもなお原形に復しない場合は、付与した券状を還納させ、荒地の名称を除去
して、「川海湖地即チ官有ニ帰スルモノトス」と定めている(第五条)。
これに対し、「池成ノ荒地」については、荒地年期明けに至つてなお原形に復しな
い場合であつても、水草魚鳥等の収利のあるものは、その利益に応じて地価を定
め、生地に組換え「池」と称すべきものとしている(第六条)。
(二) 右「民有荒地処分規則」に定める海没地等の取扱いは、単に租税制度上の
取扱いにとどまらず、海没地等の所有権の存続・消滅についての立法として評価し
得るものである。
すなわち、土地が海、湖、川に没するに至つた場合には、所有者が原形に復する意
志を有することを条件として所有権の存続を認め、原状回復に要する適正な期間を
設定し、右期間を経過して原状に回復しない場合は、原状回復の可能性がないもの
として、所有権を消滅させることとしたものと理解することができるのである。そ
して、右規則が「荒地」の名称を除去し「川海湖地即チ官有ニ」帰するものとして
いるのは、海没地等が原状(陸地)に回復する可能性がなくなつたときは、海没地
等は海、湖、川として扱い、土地としては扱わないということを意味するものであ
り、その結果、私所有権が消滅するのである。
このことは、同時に、海、湖、川はその地盤を含めて私所有権の目的となり得ない
ものであることを当然の前提としているのである。
これに対し、「池成ノ荒地」は取扱いを異にし、年期明け後も所有権の存続を認め
られ、地租の対象となり得るものとされている。このことは、「池成ノ荒地」は年
期明け後も土地としての性格を失わないことを意味し、当該池は私水として取り扱
われるべきことを示している。
なお、海没地等について、前記規則は海没等の後に、「起返シ」のため「杭材打連
子若シクハ篝棚取設ケサルモノ」とそれらを設けたものを区別し、前者については
漁魚採藻等を拒む権利がないものとしている(第四条ただし書)。
右区別の趣旨は必ずしも明らかではないが、海没地等について漁業等を拒む権利が
ないとしているのは、海没地等につき一定期間土地としての性格を保有させるとし
ても、海没地等を覆う海、湖、川は公共用物であるから、「起返シ」のために海没
地等を覆う海、湖、川の公共利用に障害を与えることは当然に許されるとしても、
「起返シ」の目的から離れて公共利用を妨害することは土地所有権の行使として許
されないという公法上の制限を課したものと理解することができる。
(三) 以上述べたように、「民有荒地処分規則」によれば、海没地等について、
原状回復に要する相当な期間、土地所有権の存続を認められているのであるが、同
時に、相当期間経過後は海没地等は法的にも土地としての性格を失い、その結果私
所有権も消滅し、官有水面に帰することとなるのである。
右の取扱いは、明治一七年三月一五日太政官布告第七号「地租条例」においても踏
襲されており、同条例二四条は「川成海成湖水成ニシテ免租年期明ニ至リ原形ニ復
シ難キモノハ更ニ二十年以内免租継年期ヲ許可ス其年期明ニ至リ尚ホ原地目ニ復セ
ス他ノ地目ニ変セサルモノハ川、海、湖ニ帰スルモノトシ其地券ヲ還納セシム」と
規定している。
二 払下海面に対する私所有権の成否
1 問題点
海面下の地盤一般について、これを民法上の「土地」と見ることはできず、したが
つて、そこに「土地」所有権の成立する余地はない。
しかるに、払下海面について「土地」所有権が成立するためには、「払下げ」とい
う事実が、「土地」の作出とその譲渡という二重の機能を果たす必要がある。
ところで、控訴人らが「払下海面」と呼んでいるものの中には、明治時代に入つて
からの払下海面と徳川時代及び明治三年ごろまでの新田開発許可による大縄受の海
面の二種類がある。
したがつて、明治時代における払下げ及びそれ以前の大縄受の制度が「土地」の作
出及びその譲渡という二重の機能を果たすものかどうかが問題の焦点である。
ここで、留意すべきことは、埋立て(干拓)による開墾は、水面を陸地化すること
を目的とするものであつて、海面を海面のまま保持することを目的とするものでは
ないということである。国家の所有する私有水面(公共の用に供されていない小規
模の内水面)については、水面のまま保持させることを目的として譲渡することは
もちろんあり得るところであるが、本件海面のように公共の用に供されている大規
模な水面を水面のまま私人の独占的利用にゆだねるべく公物廃止をして私人に譲渡
するというようなことは本来あり得ないところであるし、また、原判決の認定する
ところによれば本件海面は鍬下年季を付与され、「新開試作地」として地券を交付
されているというのであるから、それが埋立て(干拓)を目的とする大縄受又は払
下げであることは明らかである。
したがつて、現在の法律制度からすれば、正しく公有水面埋立法の手続にのつとつ
て埋立てがなされるべきものであり(同法一条二項参照)、明治時代においても、
明治一二年内務省地理局長通知以後は、現在の公有水面埋立制度に類する手続によ
つて埋立てが行われたのである。右のごとく、払下海面が埋立てを目的とするもの
であるという問題意識なくしては、払下海面の本質を正しく認識することはできな
いのである。
そこで、以下、明治時代の払下海面及び明治時代前の大縄受の海面について順次検
討する。
2 明治時代の払下海面
(一) 明治時代の払下海面を生ずるに至つた経緯は次のとおりである。
(1) 徳川時代から明治三年の「府藩県管内開墾地規則」まで、開墾(新田開
発)のために土地を払下げる(所有権の移転)という観念はなかつたが、明治四年
の「荒蕪不毛地払下ニ付一般ニ入札セシム」に至つて始めて「払下げ」という手続
が導入された。
(2) 明治初期においては、法的観念の未発達、法制度の未分化のため、海面と
陸地との区別の認識が十分でなく、海面に関する法律関係は陸地に関する法律関係
に倣つて処理されていた。したがつて、海面の埋立てによる開墾についても、陸地
の開墾に倣つて海面の払下げという手続が採られた。
(3) 明治五年地所永代売買が許され、地所売買譲渡に際して地券が交付される
こととなつたので、開墾のための荒蕪不毛地の払下げについても地券が交付され
た。
右に倣つて、埋立てによる開墾のための海面の払下げについても、払下時に地券が
交付されたが、払受人が埋立てをしなかつたため、埋立てがなされないまま地券の
み交付された海面、すなわち控訴人らのいう払下海面を生ずるに至つたのである。
(4) しかし、右のごとき払下海面の生ずる不合理が自覚され、早くも明治一二
年には内務省地理局長通知が発せられ、それまで開墾として一括されていた陸地開
墾と埋立開墾が区別され、埋立開墾については公有水面埋立制度の萌芽と認め得る
手続が導入され、埋立開墾においては、埋立て、すなわち陸地(土地)の造成が終
わつてから陸地の払下げ及び地券の交付が行われるようになつたので、以後払下海
面を生ずる余地はなくなつた。
(5) そこで、埋立開墾につき内務省地理局長通知による公有水面埋立制度が導
入されて後の法制度に立脚して、明治初期の埋立開墾制度を振り返つてながめると
き、当時は埋立開墾を行い得る地位の取得という経済的目的に対応する法技術的処
理方法が知られていなかつたので、右経済的目的を超える「払下げ」、及び実体に
符合しない地券の交付という手続形式が採られたことが明らかである。
払下海面に対する「土地」所有権の成否を検討するに当つては、払下海面の右のよ
うな沿革が前提とされなければならない。
(二) 払下海面について「土地」所有権が認められるためには、「払下げ」が
「土地」の作出及びその譲渡という二重の機能を果たす必要があることは、海面下
の地盤一般について「土地」所有権が認められない限り、当然の論理的帰結であ
る。
ところで、「払下げ」という言葉の通常意味するところは譲渡である。したがつ
て、「土地」を払い下げるためには、払下前に払下げの対象たる「土地」の存在す
ることが前提となる。しかし、払下前に存在するのは海面であり「土地」ではない
とすれば、「払下げ」の中に「土地」の作出を見出すほかない。
そうではなくして、払い下げられたがゆえに「土地」であるとするのは、およそ譲
渡されるものはすべて「土地」であり、「土地」以外に譲渡の対象は存在しないと
いうに等しいのであつて、到底成り立たない論理である。
したがつて、「払下げ」行為という事実の中に「土地」の作出という契機を見いだ
し得れば、右「払下げ」行為は「土地」の譲渡としての法律効果を生じ、もしかか
る契機を見いだし得ないとすれば、右「払下げ」行為は「土地」の譲渡以外の他の
法律効果を生ずるものと解するほかない。これが法律行為の合理的な解釈である。
ここで注意すべきことは、作出されるべき「土地」は現行民法上の「土地」でなけ
ればならないということである。そして、作出されるべき「土地」が民法上の「土
地」であるとすれば、「土地」の作出の根拠を当事者の合意に求めることはできな
い。そうすると、「土地」の作出は、「払下げ」行為のうち当事者の意思表示以外
の事実行為の中に求めるほかない。
そこで、「払下げ」行為の中にいかなる事実行為が含まれているかを見る必要を生
ずるが、「払下げ」行為の中に含まれている事実行為としては、埋立予定区域の決
定、すなわち、海面の区画(通常は図面上でなされる。)及びその反射としての海
面下の地盤の区画以外に存しないことは何びとの目にも明らかである。
それでは、海面下の地盤を区画しさえすれば、それが「土地」になるであろうか。
空気、流水が民法上の「物」ではないという理由の一つに、「物」としての限定
性、特定性がないということが挙げられ、空気、流水であつても、それを分難して
容器に封入し、あるいは容器内の存在とすれば、それは「物」になると解されてい
る。
しかし、右のごとき論理は海面下の地盤について妥当しない。
空気、流水を分離することは、単に限定性を与えるということだけでなく、分離行
為そのものが事実的支配行為である。
つまり、空気、流水に対して事実的支配をなし得ない唯一の原因はそれが限定性を
有しないということにあるのであるから、分離して限定性を与えること、即事実的
支配となるのである(独立性と排他的支配可能性が不可分一体となつている。)。
これに対し、海面下の地盤を区画することは、図面上のみでもなし得ることであつ
て、極めて観念的なものであり、区画することが当然に事実的支配を伴うものでは
ない。つまり、海面下の地盤に対して事実的支配が及ばないのは場所的限定性が存
しないからではなく、それ以外の理由によるものである。したがつて、単に場所的
限定性を与えただけで当然に事実的支配が可能となり、それが民法上の「物」とな
り、「土地」となるわけでは決してない。
しかも、既に述べたように、「土地」としての事実的支配は、陸地の地表の通常の
利用方法と同視し得る現実的利用の可能性でなければならないのである。
しかるに、「払下げ」行為に含まれる埋立予定区域の決定に、右のごとき現実的利
用の可能性を認めることができないことはいうまでもないところであり、現実にも
そのような利用はなされていないのである。
(三) 原判決は、海面下の地盤であつても一定の範囲を区画すれば支配すること
が可能であるから、これを「土地」と認めるべきであるとしているが、具体的にい
かなる事実的支配が可能であるかについては何ら述べるところがない。そこで、原
判決が本件海面について認定している具体的事実を見るに、(1)古来、海藻、貝
類の採取場として利用されてきたをこと、(2)新開試作地として地券の下付を受
けたこと、(3)売買の対象とされたこと、(4)地租台帳、土地台帳に登載さ
れ、登記がなされたこと、(5)地租及び固定資産税を賦課されたこと、(6)公
売処分がなされたこと、(7)漁業権の免許に当たり土地所有者として同意がなさ
れたこと、(8)明治初年海面境界が絵図面で協定されたこと、(9)現地で境界
杭が設置されたこと、(10)昭和一一年頃帝国市町村地図刊行会発行の図面に本
件海面の区画が明確にされていること、以上に尺きるのである。
右(1)から(10)までを一応分類するならば、海面の区画に関するもの
((8)、(9)、(10))、海面の利用に関するもの((1))、地券の交付
及びこれに関連する行政庁の行為((2)、(4)、(5))、私法上の売買その
他「土地」所有権の存在を前提とする行為((3)、(6)、(7))に分けるこ
とができる。
まず、海面の区画に関するもののうち、(9)の現地における境界杭の設置は、陸
地に字界を示す杭を設置したものにすぎず、海面下の地盤に対する事実的支配とは
無関係である。(8)の海面境界の絵図面も、単なる図面上の、しかも見取図的な
不正確極まりない区画の表示にすぎず、しかも、右図面はまだ埋立てのなされてい
ないことを表示しているのであるから、事実的支配とは無関係である。また、(1
0)の図面が無意味なことはいうまでもない。そもそも、海面下の地盤を区画すれ
ば事実的支配が可能であるという命題を論証するために、図面上で区画したという
事実をいくら並べても支配可能性を論証し得ないことは明らかである。
(1) の海藻、貝類の採取は、漁業上の権利の行使であつて、「土地」の利用と
は異なるものである。
(2) の地券の交付の意義については後述するが、右地券の交付及びこれに関連
する(4)、(5)の行為はいずれも事実的支配とは関係がない。
(4) の地租台帳への登載は、地券の交付と表裏の関係にあるので、地券の交付
と離れて独立に論ずる実益はない。土地台帳も地券・地租台帳の後身であり、登記
もこれらと不可分の関係にあるので、一つを誤まれば他も連鎖的に誤まるものであ
る。また、本件海面の登記の適否が問題となつているときに、登記がなされていた
という事実が適否いずれの根拠ともなり得ないことは当然である。もし、登記がな
されていなければ本件のような問題を生ずること自体あり得ないのである。
(5) の地租の賦課も、(2)の地券の交付、(4)の地租台帳、土地台帳への
登載の事後的経過にすぎない。もし、本件海面が「土地」に該当しないということ
になれば、地租の賦課が誤りであつたということになるだけのことであり、地租を
賦課したからといつて、本件海面が「土地」になるというわけではない。
もともと、右地租の賦課は、本件海面に付された鍬下年季(免租期間)の経過とい
う事実に鍬下年季の経過が通常有する法的効果を機械的に適用した結果にすぎない
のである。しかし、問題は海面に付された鍬下年季は、海面が海面である限り地租
の免租期間としての意義を有しないところであるのであり、結局、地券交付の問題
に帰着するのである。
(5) の私法上の売買の対象とされたということも、事実的支配とは無関係であ
り、また、「払下げ」という譲渡行為が「土地」作出という効果を有するか否かが
問題となつているときに、「払下げ」と同じ譲渡行為である売買を「土地」作出の
理由として挙げることは、問いに答えるに問いをもつてする以外の何物でもない。
(6) の公売処分、(7)の漁業権免許に対する同意も(5)の売買と同様であ
つて、「土地」の存在が肯定されて始めて法的意義を有するものであつて、「土
地」の存在そのものの根拠となるものではない。
以上原判決の認定した事実を詳細に検討すると、原判決は海面下の地盤であつても
区画すれば事実的支配が可能であるとしながら、本件海面に対する事実的支配を示
す一片の事実すら提示するところがないのである。
このことは、海面下の地盤に対する支配可能性なるものが単なる机上の議論である
ことを示す何よりの証左であるといえよう。
要するに、原判決は、本件海面の「土地」性を根拠づける事実と本件海面の「土
地」性が肯定されて始めて意味を持ち得る行為とを混同し、本件海面に対する 
「土地」所有権の仮象をめぐつて行われた観念的取引行為をもつて本件海面の「土
地」性を根拠づけようとしているものと評することができる。
(四) 元来、埋立開墾は、埋立てによつて新たな陸地、すなわち「土地」を造成
するものであるということを本質的な内容としているものである。
しかるに、明治初期においては、陸地の払下げと同様に海面払下時に地券を交付し
たため、現状は埋立ても行われず、海面のままであるにもかかわらず、権利の面の
みあたかも既に「土地」の造成が行われているかのごとき外観を呈したのである。
このような状況が不自然であり、不合理であることは明らかであつて、このことが
公有水面埋立制度の分化する端緒となつたのである。
そして、埋立年季と鍬下年季の区別がなされ、埋立年季内に埋立てがなされないと
きは、埋立権は失効するものとされ、地券の交付も埋立工事竣工後になされるよう
に変更されたのである。このことは、地券は、本来、埋立地すなわち「土地」に対
して交付されるべきものであつて、海面に対して交付されるべきものではないこと
を示している。
もしそうであるとすれば、法的観念の未成熟、法制度の未整備な一時期に埋立開墾
についての十分な理解のないまま海面に対して地券が交付されたとしても、そのこ
とをもつて、海面を「土地」なりと強弁することの誤りであることは明らかであ
る。
しかも、右地券は埋立てがなされることを前提として交付されたものであつて、海
面のままにしておくことを前提として交付されたものではない。もし、埋立てがな
されないことが当初から判明しておれば、払下げも地券の交付も行われなかつたは
ずである。したがつて、このような地券は将来の埋立てによつて実体の補完される
ことを予定した地券であり、いわば将来の「土地」所有権を保全するための仮の地
券というべきものであつて、埋立てがなされるまでは、「土地」所有権を証する地
券としては実体を伴わないものと評するほかない。
現に、本件海面を含めて払下海面に交付された地券は「新開試作地」の名称を付さ
れているのであるが、「新開試作地」というのは、埋立開墾を終わつた後の鍬下年
季中の土地を指すものであつて、漁船の行き交う海面がこれに該当するはずがな
い。その意味でも右地券が実体に符合しないことは明らかである。もし、右地券が
海面下の地盤に対して交付されたものであれば、「新開試作地」とする必要はない
のである。右に述べた地券と実体との不一致は、決して単なる地目の不一致という
ようなものではないのであつて、海面に対して地券を交付し得ないからこそ、陸地
を意味する「新開試作地」なる地券を交付しているのである。
これを要するに、埋立前の海面に対しては本来の鍬下年季は存在しないにもかかわ
らず、埋立年季と鍬下年季とを区別することなく、一括して鍬下年季を付与したた
め、その鍬下年季に符合させて、「新開試作地」という地券が交付されたものとい
い得るのである。
右に述べたように、埋立前には本来の鍬下年季があり得ないとすれば、埋立てが行
われていない以上鍬下年季を経過しても、地租を賦課すべきでないことはもとより
のこと、地券そのものを返還するのが本来である。しかるに、本件海面は、当初の
誤つた取扱いから、土地台帳、登記簿へと順次波及し、ついに鍬下年季の廃止によ
り地租を課されるに至つたのである。しかし、そのことによつて海面が「土地」に
転化することはあり得ない。
以上のように、「払下げ」は「土地」の作出及び「土地」所有権の移転という法的
効果を生じないことは明らかであるが、しかし、「払下げ」が何らの法的効果をも
生じないということはできないのであつて、海面の払受人は、海面を埋め立てるこ
とができ、埋立てのために必要な事実的支配を海面に対して及ぼすことはできるの
である。払受人の右のごとき内容の権利を何と呼ぶかは別として、少くとも「土
地」所有権でないことだけは確かである。
三 海面下の地盤に対する土地所有権の成否
1 この問題は、海面下の地盤が現行民法上の「土地」に該当するか否か、また、
「土地」に該当すると認められる場合の基準いかんという問題に帰着するのであ
り、「土地」に該当すると認められる限り、特に所有権の成立を否定する立法がな
されない以上、そこに「土地」所有権の可能性が肯定されることとなるのである。
したがつて、海没地であれ払下海面であれ、そこに「土地」性が認められるか否か
は常に現行民法によつて決せられるのであつて、払下海面の場合に限つて、「土
地」性の有無が払下当時の法制度によつて決定されるべきいわれはない(民法施行
法三五条、三六条参照)。
2 本件では、右に述べたとおり民法にいう「土地」とはいかなるものかが問われ
ているのであつて、右にいう「土地」とは優れて法律上の概念であつて、これに関
する定義的規定が置かれていない現行法の下にあつては、それは民法解釈に委ねら
れた問題といえるのである。この場合、民法の体系を崩壊させるような解釈、ある
いは社会通念に反するような解釈が許されないことは当然であろう。
ところで、民法には、「土地」という用語を用いるものとして、同法八六条、二〇
七条、二〇九条、二一〇条、二一三条、二一四条、二一八条、二一九条、二二一
条、二二三条、二二四条、二六五条ないし二六七条、二六九条、二六九条ノ二、二
七〇条ないし二七二条、二八〇条、二八二条、二八七条、三一三条、三八八条、三
八九条、六〇二条、六〇三条、六一四条、六一七条、六三五条、六三八条、七一七
条がある。しかし、「土地」とはいかなるものかという定義的規定は民法に置かれ
ていないが、以下、右規定中「土地」の意義を確定するに参考となるもの及びその
編纂過程に検討を加えることにより、民法の予定する「土地」概念を明らかにする
ことにする。
前記民法の諸規定のうち、二一〇条は「或土地カ他ノ土地ニ囲繞セラレテ公路ニ通
セサルトキハ其ノ土地ノ所有者ハ公路ニ至ル為メ囲繞地ヲ通行スルコトヲ得 池
沼、河渠若クハ海洋ニ由ルニ非サレハ他ニ通スルコト能ハス又ハ崖岸アリテ土地ト
公路ト著シキ高低ヲ為ストキ亦同シ」と規定し、ここでは、「土地」、「海洋」と
いう法律概念が使用され、「土地」と「海洋」との区分を当然の前提としているこ
とが認められる。
さて、右民法二一〇条は、旧民法(明治二三年法律二八号)の財産編二一八条の
「或ル土地カ他ノ土地ニ囲繞セラレテ袋地ト為リ公路ニ通スル能ハサルトキハ囲繞
地ハ公路ニ至ル通路ヲ其袋地ニ供スルコトヲ要ス但下ニ記載シタル如ク二様ノ償金
ヲ払ハシムルコトヲ得 土地カ堀割若クハ河海ニ由ルニ非サレハ他ニ通スル能ハサ
ルトキ又ハ崖岸アリテ公路ト著シキ高低ヲ為ストキハ之ヲ袋地ト看做スコトヲ要
ス」の規定に、字句の修正を施したものにとどまるものであることは民法の制定経
過に照らして明らかなところである(明治二七年六月一二日の法典調査会調査委員
会において、B委員は、民法二一〇条に相当する条文につき、「本条ハ既成法典財
産編第二百十八条二唯字句ノ修正ヲ加ヘタノミテアリマシテ意味ハ少シモ違ハヌノ
デアリマス」とその趣旨説明を行つている―法務図書館史料「法典調査会民法議事
速記録三第十八回―第二十八回」九四ページ参照)。この旧民法二一八条でも、
「土地」と「海」という法律概念が唆別されて使用されているのであるが、旧民法
財産編二二条第一号は、「土地」と「海及び海浜(海浜とは、潮汐の現象により、
海面上に現れたり、海面下に没したりする部分の地盤を指す。)」の限界につき、
「海浜ハ春分、秋分最高潮ノ到ル処ヲ以テ限ト為ス」と規定し、「土地」と「海及
び海浜」の境界を春分及び秋分における満潮位線に求めていた。すなわち、旧民法
下では、右満潮位線下については、海浜ないし海と定義されていたのである。現行
民法には、かかる規定は置かれていないが、前述のように民法二一〇条は、「土
地」、「海洋」の用語を用い、「土地」と「海洋」とを唆別している以上、そこで
は「土地」と「海洋」との境界線があることを当然の前提としていること、同条は
旧民法二一八条に単なる字句的修正を加えたにとどまるという立法経過に照すと、
現行民法においても、「土地」と「海洋」の限界、これを「土地」の側面からとら
えれば「土地」の外延を画する基準については、旧民法二二条一号の基準を当然の
前提として、立法者は民法二一〇条を制定したものと認められるのである。すなわ
ち、現行民法も、「土地」と「海洋」(旧民法の「海及び海浜」に相当する部分)
の境界を春分及び秋分における満潮位線に求め、民法にいう「土地」は春分及び秋
分における満潮位線以上の地表すなわち陸地を指すことを予定しているものといえ
るのである。
更に、民法二六五条が、「地上権者ハ他人ノ土地ニ於テ工作物又ハ竹木ヲ所有スル
為メ其土地ヲ使用スル権利ヲ有ス」と、また、同法二七〇条が「永小作人ハ小作料
ヲ払ヒテ他人ノ土地ニ耕作又ハ牧畜ヲ為ス権利ヲ有ス」と、陸上生活に応じた内容
を規定していることからすると、右用益物権の対象となる「土地」は、陸地たる
「土地」を目的として構成されていることが認められるのである。
右のように、現行民法は、「土地」の概念につき、日本領土内の陸地部分をその目
的対象として構成し、「土地」の外延を画する基準については、それが春分及び秋
分における満潮位線にあることを当然の前提として、「土地」という法律概念を構
成しているのであつて、右満潮位線以下の地盤ないし地表については、これを「土
地」の概念に含ましめていないことは明らかである。そして、自然の海を民法の
「海洋」とし、春分及び秋分における満潮位線以上の地表すなわち陸地を民法にい
う「土地」であると認識ないし解釈することは、民法体系にも合致し、社会通念に
も適い、国民の法律常識にもそうものである。
3 これに対し、原判決は、「民法上「土地」は陸地と同義でなければならないも
のではなく、また陸地は常に公有水面と接続していなければならない必然性は認め
られない。これを形式的画一的に陸地と海面とに分け、海面下の地盤をすべて法律
上の土地と認めない考え方は現行法上採用することはできない」と判示している
が、このような見解は、前述のとおり「土地」と「海洋」とを区別し、異なつた概
念を与え、その物理的自然的状態及び利用の実態に応じた法的規制ないし法的調整
を行おうとしている現行民法に混乱を与え、民法の体系を崩壊させるものであり、
到底採用に値しないものといわなければならない。また、「海洋」であつても一定
の範囲を区画し、人の支配可能性、支配価値が認められる限り、これを民法上の
「土地」といつてよいとする原判決は、社会通念に反するのみならず、国民の法律
常識にも反し、到底首肯しえないものであることは、再三指摘してきたところであ
る。
4 本件において、被控訴人らが「土地」であると主張する本件係争海面は、原判
決の認定によれば、満潮時には海面下に没し、干潮時には地表を露出する田原湾一
帯のいわゆる干潟の一部であり、秋分の日の満潮時における水深は〇・六ないし
二・〇メートルであり、正に春分及び秋分における満潮位線下にある地盤であつて
(当審における昭和五二年三月二一日(春分)の検証の結果でも満潮位線下にある
ことが判る。)、民法にいう「土地」に該当しないことは明らかである。
よつて、本件係争海面ないしその地盤は、民法上の「土地」とは認められず、有史
以来、自然の海として存在してきたものであり、控訴人が昭和四四年九月二三日の
秋分の日の満潮時に実地調査を行なつた時点においても、これが海面下に没してい
たことが確認され、その結果、本件係争海面ないしその地盤は、民法上の「土地」
とはいえないものとして、本件滅失処分をしたものである。すなわち、不動産登記
法は、民法の「土地」等の不動産取引の安全と円滑を図るために、不動産に関する
権利関係とその客体である不動産の現況を登記簿に記載し、公示する制度を定めた
手続規定であるところ、本件係争海面ないしその地盤は民法上の「土地」すなわち
不動産に該当しないのであるから、そもそもこれを不動産(土地)登記簿に記載な
いし登載しておく法律上の理由がないことは明らかである。
四 田原湾の状況
1 概況
田原湾は、周知のとおり東三河臨海用地造成事業によつて大幅な埋立てがされてい
るので現況から埋立前の状況を想像することは困難であるが、本件係争海面附近は
なお埋立てがされておらず、野鳥の飛来する海面として著名である。
ところで、田原湾は渥美半島の三河湾沿いの海岸が一部湾入して形成されている浅
海であるが、かつては三河湾への開口部附近に小島が点在し、また、東岸沿いに北
から梅田川、紙田川、汐川が流入している。
本件係争海面は汐川河口附近に位置しているが、その範囲は推定の域を出ないので
あり、これを現地で明確に特定することは不可能である。
田原湾は、右に述べたように、浅海であることから、江戸時代から新田開発の計画
が幾度かされたが、大規模な計画は地元漁民の反対あるいは当時の技術力から挫折
し、比較的小規模な新田のみ海岸沿いに順次開発された。
昭和に入つてからも、海軍省が大崎地先の平島を中心として人工島を造成し、豊橋
海軍航空隊を設置した関係で、開口部附近の地形に変動があつたが、なお全体とし
ては田原湾の性格、利用の実態に変動はなかつたということができる。
2 田原湾の水深
(一) 田原湾の水深に関する古い資料は存在しないが、古くからかなり大型の船
が田原港に出入りしていたので、航路部分は相当の水深を維持していたものと想像
される。田原湾は潮流が激しいため、潮流の中心線に沿う部分は自然に深くなり、
その水深は潮流によつて維持されていたものと推定されるが、河口附近は河川から
流出する土砂が堆積し浅くなる傾向があつたので、河口附近の港湾施設維持のた
め、江戸時代からしゆんせつが行われていた模様である。
そこで、田原湾内航路の水深を海図で見ると、大正五年の海図(乙三〇号証の一、
本海図の単位は、尋(六尺=一・八メートル)で表示されている。)によれば最も
深い田原町浦地先附近で基本水準面(最低潮位面にほぼ同じ)下五・八メートル、
その他のところで二ないし四メートル程度、最も浅い汐川河口附近で〇・二ないし
一・二メートル程度である。したがつて、干潮時にも露出することはなく、また、
満潮時には汐川河口附近でも三メートル近くの水深があつたことになる。昭和五年
の海図(乙三〇号証の二、本海図の単位はメートルで表示されている。)によつて
もほぼ同じであるが、昭和三〇年の海図(乙三〇号証の三、本海図の単位はメート
ルで表示されている。)によるとやや浅くなつており、汐川河口附近で基本水準面
上〇・一ないし〇・五メートルとなつている。
(二) そして、東三河臨海用地造成事業開始前である昭和四三年の田原湾の水深
は乙三一号証(田原湾内水深図)に示したとおりである。
右図面の最も青い部分は基本水準面(D・L)以下の部分で、年間を通じて地盤が
海面上に露出することはない。したがつて、右図面の色分けによつて一目瞭然のよ
うに、年間を通じて海面上に露出しない部分が広範囲に存在していたのである。次
に、基本水準面上〇―〇・七メートルの部分(二番目に青い部分)は、〇・七メー
トルの線上の地点で年間を通じて露出時間が全時間の約一〇パーセントであるか
ら、ゼロから〇・七メートルまでの間を平均すれば約五パーセントとなり、平均し
て一日に約一時間程度海面上に露出することとなる。
そして、右図面によれば田原湾は基本水準面以下の部分(最も青い部分)と〇―
〇・七メートルの部分(二番目に青い部分)が大部分を占めているので、全体とし
て見れば田原湾の海面下の地盤は全く海面上に露出しないか、又は露出しても極め
て、短時間であるということができる。
三 番目の基本水準面から〇・七-一メートルの部分(三番目に青い部分)は、一
メートルの線上の地点で年間を通じて露出時間が全時間の約二二パーセントである
から、〇・七から一メートルまでの間を平均すれば約一六パーセントとなり、平均
して一日に約四時間程度海面上に露出することになる。
ところで、右図面から明らかなように汐川河口は非常に浅くなつており、昭和五年
当時基本水準面下にあり、昭和三〇年当時ですら基本水準面上〇・二ないし〇・三
メートル程度であつたところが、昭和四三年当時には基本水準面上〇・七-一メー
トルに達している。これは汐川から流出する土砂の堆積によるものであるが、土砂
が堆積しやや浅くなる傾向は汐川河口から天津新田にかけての海岸に一般的に認め
られるところであり、したがつて、この附近の水深もかつては現在より相当深かつ
たものと考えられる。最後に、本件係争海面附近のボーリングによる地質調査の結
果によれば、土中に貝殻が混入し、古来から海であつたことを知ることができる
し、また、場所によつては新たな土砂の堆積を示しているものもある。
なお、先に本件係争海面は野鳥の飛来地であることを述べたが古老の言によれば、
かつてはこのように多くの野鳥が飛来することはなかつたが、海面が浅くなつてか
ら現在のように多くの野鳥が飛来するようになつたとのことである。
したがつて、本件係争海面についていうならば、現況から直ちに明治初期の状況を
推測するのは誤りであり、その水深は、かつてはより深かつたものということがで
きるのである。
3 田原湾沿岸の港と海上交通
(一) 江戸時代は陸上の交通路が発達していなかつたので、海に面した地方では
海上が重要な交通路であつた。
田原湾においても事情は同じであり、沿岸には漁港及び商業港を兼ねた港が並び、
海上交通の拠点として、漁船の出入、生産物の搬出、旅客の輸送が行われており、
このような状況は明治時代以降も続いていた。
なかんずく、田原港は海上交通の拠点として、最近に至るまで、重要な役割を果た
してきた。
(二) 田原湾沿岸の港の配置状況は乙六五号証図面記載のとおりであるが、沿岸
の地形が新田開発により変化しているので、港の位置も時代によつて変動がある。
まず、大崎村附近については、梅田川流域に古くは高足(高師)港、大口港があ
り、また、梅田下流に早船港、梅田川河口附近に船渡港(船渡船ぐら)があつた。
元禄時代には、梅田川下流の高足村から、伊勢参宮船を出し、多数の参宮客を集め
たため、吉田湊(船町を含む。)と紛争を起こしており、また、高足村からの参宮
船が禁止された後は、高足村の下流である大崎村から参宮船が出るようになり、高
足村の場合と同様に吉田湊と紛争を起こしている。
右のことからも明らかなように、梅田川下流にはかつては相当大きな港があり、海
上交通の用に供されていたものと思われる。
例えば、早船港は東西一町五五間、南北三町、満潮時深さ二間三尺、干汐時深さ六
尺、年間四〇〇余そうの出入りがあつたものとされている。
大崎村の港としては、梅田川河口附近から南下して、平地、地下、浪入、笠松の各
港があり、このうち地下港は最も大きく、一〇〇石積位の帆船が出入して、さつま
いもを積み出していた。
次に、老津村には波入江、中尾、中北、岩塚の各港、大津中港、森崎、多門田等の
各港が並んでいた。このうち大津中港は最も大きく、後述する渥美巡航株式会社の
巡航船が寄港したのはこの港である。
ちなみに、老津村の漁船は、明治二三年六月一五日現在で、大船二、三間九、二間
三四五(計三五六)、明治三八年三四〇隻、昭和二九年手こぎ三〇隻、機械船二一
八隻となつており、また、明治三〇年一月一日現在で五〇石以上船二そう、艀漁船
(五トン以上)三そう、大正元年艀船(はしけ、もくとり船)三五〇隻、帆船日本
形四隻三五〇石、大正一二年三月三一日現在で五トン以上二〇トン未満三隻三二
石、小船一七七隻となつている。
田原湾で最も重要な港は田原港であるが、古くから汐川下流に渡船場が設けられ、
更に、汐川流域の船倉橋に船着場が設けられ、船倉港と呼ばれるようになつてから
はこの船倉港が田原港の最も主要な港となり、明治初年頃には牟呂方面に六人乗り
の帆船が通つており重要な交通手段になつていた。なお、田原港については後述す
る。
また、吉胡からは漁船便を利用して、牟呂方面に通つていたのである。
4 渥美巡航株式会社
明治一七年一一月、Cが汐川(田原川)岸より牟呂まで蒸気船航路を開始したが間
もなく廃船となつた。
その後明治三三年渥美巡航株式会社が設立され、石油発動機船による田原船倉港・
牟呂港間の航路が開設され、交通所要時間が一時間内外に短縮されたので、海上交
通は飛躍的に便利となつた。なお、右航路は老津港(大津中港)にも寄港した。
しかし、大正六年一〇月一一日、牟呂港から田原に向かつて航行中の第八号巡航丸
が、途中、老津森崎海岸附近において転覆沈没し乗客ら七〇余名中二四名が溺死す
るという事故が発生した。
そのため、同社は一時経営不振となつたが、その後立ち直り営業を継続していた
が、渥美電鉄の開通により一挙に経営不振に陥り、大正一三年七月解散した。
5 田原港と海上輸送
(一) 田原港(船倉港)は歴史も古く、田原における最大の輸出入港であるが、
江戸時代には多数の船が出入し、倉庫が建てられ、貨物の集散地となつており、遠
く江戸、浪速方面とも往来があつた。そして、田原港には船番所が設けられ出入す
る船を監視し、運上金を取り立て、港のしゆんせつ費に当てていた。
この田原港の利用状況を見ることによつて、田原湾の海上交通路としての重要性の
一端を知ることかできる。記録によれば、貞享元年(一六八四年)七月一〇日から
一二月二六日までの入港船数は二五七そう(内訳・ひらだ船一六、いさば船九八、
小舟一四三)となつており、また宝永五年(一七〇八年)正月から七月六日までの
入港船数は六六九そう(ひらだ五八、いさば三四五、川船二六六)となつており、
その後も同様の利用状況が続いていたものと思われる。
(二) 明治初期においては、船倉港には五〇ないし八〇トンクラスの帆船が出入
りし、味噌、油類を豊橋、名古屋方面に輸出し、雑貨類を田原へ輸入していたが、
明治一五年田原村にセメント工場ができ、明治二一年右工場が<地名略>に移転し
以後汐川河口の岸壁を利用して石灰石、石炭の原材料を移入し、製品を豊橋、名古
屋方面に移出するようになつた。
大正七年三月一九日付け新朝報は「田原港の現状」と題して、「渥美郡中部に位し
豊橋及び牟呂港以西に通ずる要港にして旅客及び貨物輻輳する田原港は河川より流
出する土砂港口を埋没し近年二百石積以上の船舶は満潮にあらざれば航行する能わ
ず・・・・・・」と述べ、大正六年の入港船舶数一、四五〇隻(二五、五六九ト
ン)、出港一、四四三隻(二五、五〇〇トン)、主な輸出入貨物として、輸入=大
豆一五、〇〇〇石、玉まゆ五八、〇〇〇貫、石灰二、〇四〇万斤、輸出=精まゆ八
万貫、醤油一八、〇〇〇石、生糸一、八九〇貫、玉糸一八、九〇〇貫、セメント四
五、〇〇〇樽と報じている。
また、大正八年二月二〇日付新朝報の記事によれば、田原港の大正七年の出入港船
舶トン数及び取扱貨物量は大正六年とはぼ同様であり、出入船舶のうちには汽船が
含まれている。
(三) 右新聞報道にあるように、田原港は土砂の堆積により水深が浅くなつたの
で、昭和二年から昭和四年にかけて、汐川の改修工事、港湾のしゆんせつが行わ
れ、面目を一新するに至つた。そして、昭和五年一月には前芝、三谷、蒲郡、西浦
の各港とともに内務省指定港となつた。
一方セメント工場も大正年間に発展し、昭和初期の年間生産高は二万五千トン前
後、昭和一〇年代に入つて四万トン台に載せ、昭和一八年小野田セメントに買収さ
れ、同社田原工場となつた。そして、セメント工場の原料、燃料年間約四万トンが
汐川岸壁から移入され、製品が同岸壁から移出された。
更に、昭和に入つて、船倉において田原造船所が操業を開始し、五〇トンないし三
〇〇トン程度の内海機帆船を年間五、六船建造していた。
(四) 戦後、復興のためのセメント需要増大に伴い、セメント工場は昭和二四年
から生産を増加し、昭和二五年には既に四万トン台に載せた。そこで、同年、汐川
岸壁を改造し、満潮時マイナス四メートルにしゆんせつし、岸壁に出荷包装所を新
設した。更に、セメント工場の増設に伴い、昭和三一年一一月、浦海岸荷役設備建
設工事が着手され、着手以来九か月を経て昭和三二年八月二七日遂にこれが完成
し、一、〇〇〇トン程度の船舶による荷役も可能となるに至つた。
昭和二〇年代後半からの貨物取扱量は、原燃料、製品合わせて年間約一〇万トンで
あり、六〇トンないし二〇〇トンの貨物船約二〇船が右貨物の輸送に当たつてい
た。
(五) また、田原港の最盛時は昭和三一年から三六年にかけてであり、昭和三五
年には入港船舶数一一、二七九隻、総トン数四〇六、〇八〇トン、貨物量七八九、
五七九トン(輸出=七六二、三四八トン、輸入=二七、二三一トン)となつてい
る。
な社、田原港に入港した最大の船舶は昭和三二年に入港した第二和進丸三五二総ト
ン、次に昭和四〇年に入港した日高丸三三二総トンである。
(六) 昭和三〇年代半ばから、航路は除々に狭隘となり、港としての機能が低下
してきたところへ陸上輸送の発達が重なつたため、田原港の利用も減少し、昭和四
〇年代に入つて完全に衰微した。
6 田原湾における漁業
(一) 江戸時代の漁業
(1) 田原湾においては古い時代から漁業が営まれていたが、江戸時代において
も、農耕地が狭隘なため、沿岸住民の生活は程度の差こそあれ、海に依存するとこ
ろが大であつた。
そして、沿岸の新田開発によつて、農地の拡大が図られたが、農業に要する肥料そ
のものを海の藻草に依頼していたので、農業の発達が同時に海への依存度を高める
という一面を有していた。
そこで、まず江戸時代における田原湾の漁業を概観する。
(2) 江戸時代の漁業は各種小物成を上納することによつて権利として保障され
ていたが、田原湾においても事情は全く同じであつた。
課税の対象は漁場、漁船、漁網、漁獲物、漁業者であるが、課税の方法、名称等は
各藩によつて必ずしも同じではない。
吉田藩に属する三河湾沿岸各村は海方運上を上納し、旗本中島領である大崎村は磯
運上、藻草運上を上納し、田原藩に属する各村も各種運上を上納して地先海面の漁
場を支配する権利を有していたが、多くの場合は数か村人会であつた。
しかし、大崎村のあさり漁のように他村の立入を許さないものもあり、権利関係は
一様ではない。各村の漁場の範囲は慣行、協定等によりおのずから定まつていたも
のと思われるが、それでもなお漁場紛争は絶えなかつた。
例えば、大崎村と老津村との間の地元海面の境界についての紛争、大崎村と五か村
(西植田、東植田、野依、仏飼、切友谷)との間の藻草採取場をめぐつての紛争、
老津村と杉山村との間の藻草採取場をめぐつての紛争などが起こつている。
このような紛争の例からも分かるように、当時の村の地先海面は村の領海であつ
て、同時に村の漁業上の権利の範囲(漁場の範囲)に関係していたのである。
そして、各村によつて分割された海面は明治時代に入つて漁業権を設定する際にそ
のまま引き継がれ、現在の共同漁業権の漁場の基礎となつているのであり、かつて
の海面上の村界は現在の共同漁業権の漁場の境界として、あるいは同一の共同漁業
権内における各村の地元漁民の漁業権行使区域という形で残つていることが多い。
したがつて、右のごとき海面の分割を海面下の地盤の「土地」性に関連づけるのは
誤りであり、もし、かかる分割をもつて海面下の地盤の「土地」性と関連づけるの
であれば、わが国の領土周辺の海域は、あますところなく、漁業権によつて分割さ
れているのであるから、およそ「土地」でないところはないということになる。
(3) 田原湾における漁業の対象は、魚類、貝類、海草類であつて一般と異なる
ところはないが、魚類は黒鯛、ぼら、かれい、きす、いわし、うなぎなどが獲れ、
漁法は地引網、建干網等の網漁、つき磯、釣り、しばづけなどの漁法が行われてい
た。
貝類の採取は田原湾における漁業を代表するものであり、あさり、はまぐり、かき
などが獲れたが、殊にあさりが有名である。
海草としては藻草が採取され、藻草はにな、よらめなどの貝類とともに農村の肥料
として欠くことのできないものであり、前述したように、村と村との間で採取地を
めぐつて紛争が起きたほどである。
(4) 右に述べたように、田原湾は、漁業が盛んであり、沿岸住民の漁業に対す
る依存度が高かつたのであるが、このことは海面開発に対する沿岸住民の反対運動
によつても知ることができる。
例えば、天保時代に幕府は大津村(老津村)、杉山村等八か村の地先海面の埋立計
画を立てたが、まず、大津村が反対運動を起こし、田畑の肥料となる藻草、になが
とれなくなり、田畑が荒廃すること、あさり、のり、魚鳥、藻草などをとり、余分
を販売して三千両程の収入を得ているが、その収入を失えば困窮者は生計が成り立
たないことなどを理由とする開発中止の陳情書を吉田藩に提出し、大崎村も藻草、
になの利益を失うため領主を通じて反対した。
結局、右開発計画は中止となつたか、大津村の陳情書によつても沿岸住民の漁業に
対する依存度を知ることができるのである。
(二) 明治時代以降の漁業
(1) 明治八年雑税廃止により、旧来の漁業上の権利は消滅したものとして扱わ
れ、新たに海面借区制が行われたが、海面借区制は失敗し、結局、旧来の漁場に関
する権利関係を全面的に承認するに至つた。
したがつて、田原湾沿岸の各村も江戸時代の旧慣に従つて漁業を実施してきたが、
明治一一年沿岸八か村の申合せ規約が成立し、その後も協定を重ねたが、明治二三
年三月には、「八か村連帯規約書」が成立した。これによれば、各村々地先海面新
開試作地は従来大崎村から波瀬村に至る八か村の連帯負担の地であつたが、鍬下年
季明けに伴い、地租その他の上納の取扱上不便であるから県の許可を得て旧慣によ
り分割して各地元村へ組み入れることとし、以後県の調整した各村の境界確定実測
図を根拠として、捕魚採草をその他の取締を行うこととしている。
そして、明治三五年七月一日漁業法が施行され、田原湾沿岸では大崎、老津村、杉
山、浦片浜の四漁業組合が設立され、杉山を除く各漁業組合は地先海面の専用漁業
権の免許を受けた。
例えば、大崎漁業組合は、明治四一年八月二六日、大崎地先漁場のあさり漁業の専
用漁業権の免許を受け(乙五八号証の一)、老津漁業組合は右同日、老津村地先漁
場のあさり漁業及びはまぐり漁業の専用漁業権の免許を受け、昭和一五年三月二〇
日、かき漁業、もがひ漁業、にし漁業、餌虫漁業、はぜいさり漁業、あおのり漁
業、おごのり漁業、ふのり漁業、肥料藻漁業の各種漁業の追加を許可されている。
(2) 明治初期の漁業は江戸時代と異なるところはなかつたが、その後、漁具、
漁法も発達し、揚操網によるいわし漁、このしろ漁、地引網、角目網、建干網等に
よる鯛、ぼら、さより、だつ等の漁が行われ、そのほか、あさりの養殖、藻草採取
が行われていた。
一例として、老津村の大正年代の漁獲高を示すと次のとおりである。
さより(貫) はぜ(貫) ぼら(貫) うなぎ(貢)
大正 元年  七〇〇   三五〇   四〇〇     二五〇
   二年  五〇〇   三〇〇   二五〇     二五〇
   三年  四〇〇   一〇〇   六二〇     三〇〇
   四年  三〇〇   一〇〇   六二〇   一、八〇〇
   五年  三〇〇    九五   八〇七   二、八〇〇
   六年  一五五    七〇   七五〇   二、八〇〇
   七年  一三〇   二〇〇   九〇〇   三、〇〇〇
   九年   八〇   四〇〇 一、一〇〇   二、五〇〇
  一二年   九〇   一〇〇   三〇〇   二、五〇〇
ぼら、うなぎの漁獲高9か大正四年から急増しているのは養漁場ができた関係であ
る。
次に、老津村のあさりの収入額を老津村沿革誌によつてみると、明治二三年乾あさ
り六、〇〇〇貫、一、五〇〇円、明治三八年最近五か年の平均漁獲高四、四〇〇
円、大正七年干あさり一五、〇〇〇円(漁協共販)、大正八年あさり二万円(漁協
共販)、大正一〇年あさり二三、〇〇〇円(漁協共販)、大正一二年あさり一六、
〇〇〇円となつている。
また、大崎漁業組合所属組合員の大正元年当時のあさりの収獲高は、三か年平均で
干あさり四、四〇〇貫一八〇匁、五、六四七円五九銭。あさり生肉八四石九四升、
一、五二五円九五銭となつている。
(3) 明治以降の漁業のうち最も注目すべきものはのりの養殖の発達である。
のりの養殖が田原湾に導入されたのは比較的遅く、大正のはじめに大崎村、老津村
において試験的にのりの養殖をはじめたのであるが、以後急速に普及し、あさり漁
と並ぶ高収入を上げるようになつた。
例えば、老津村ののりの生産高は昭和一三年三、〇一一、〇〇〇枚(三三、五一二
円)、一五年二、九九二、〇〇〇枚(八四、三一〇円)、一七年二、一〇五、〇〇
〇枚(六〇、六二〇円)となつており、あさりの収入額を大巾に上回つている。
(三) 戦後の漁業
(1) 第二次大戦後も田原湾の漁業はのりの養殖、あさり漁を中心として発展し
た。のりの養殖は田原湾全域において行われており、昭和二六年の区画漁業権の漁
場に比し、昭和三八年のそれは一層拡大されている。次に、貝類藻類の採取もほぼ
田原湾全域において行われており、一部においてはつき磯漁業が行われている。ま
た、本件係争海面附近では角建網、建干網による漁業、しばづけ漁業が行われてい
る。
(2) 漁獲量を愛知県農林水産統計年報に基づき漁業協同組合別に示すと次のと
おりである(のりは昭和三八年から四一年までの生産高を平均したものであり、魚
貝類等は昭和四一年の魚獲高である。
のり(枚)     共同漁業(貝・藻等)(kg)許可漁業(魚)(kg)
田原  二五、三八一、一六二   一、二七六、〇九〇    八六、五九〇
杉山   五、二〇二、四〇二     一五九、二七〇    二八、二〇〇
老津  三〇、〇八四、八七五   五、四二七、三一〇    三六、五二〇
大崎  一八、三八四、二五〇   三、四八九、一三〇   四五〇、一九〇
なお、漁業協同組合別の漁船数を示したものが、乙五六号証であり、これによれば
昭和四一、二年当時の漁船の数は四漁協合わせて二、六二八隻である。
7 結語
以上、田原湾の利用の実態からみると、本件係争海面が、民法上の「土地」といえ
ないことは明らかであり、本件係争海面を含む田原湾は、海洋そのものであつて、
法律的にも、又社会通念的にも、「土地」とはいえないものである。
五 Dの取得した地券の内容
1 Dは、地租改正作業進行中の明治七年七月二日、渥美郡<地名略>ほか七か村
地先海面入江新開反別一三七八町八反歩のうち新開反別八八七町九反歩から四四町
二反歩(これが明治三年埋立開墾が完成した神垣新田の一九町二反歩、青尾新田の
二五町歩に相当するものであることは、前述したところである。)を控除した反別
八四三町七反歩につき、当時の愛知県令Eに地券の下附を願い出て、冥加金を上納
して同年同月四日新開試作地として地券の下附を受けたという。しかし、安政年
間、新田開発に挫折したDがこの時期に地券の下附を願い出た理由、その根拠は審
らかでない。
それでは、Dが下附を受けたという地券はいかなる内容、性質のものであろうか。
壬申地券の発行は、前記明治五年七月の大蔵省達第八三号で同年一〇月に完了する
よう指示されていたが、実際これは不可能で、明治六年七月末に至つても、地券授
与は全国の半ばに達しない有様であつた。それは府県別にみると区々であり、一部
の県では渡し済みとなつているのに対し、全県を通じ一枚も発行をみなかつた例も
ある。このため、地租改正に当たつては、壬申地券発行完了後改租に着手した県
と、地券をほとんど発行しないで改租に着手した県と両極端がある。そこで、地租
改正に入つた時、それまで未着手の県での壬申地券発行は開始しないよう地租改正
事務局から指示されるとともに、明治八年一一月二〇目地租改正事務局達乙第八号
をもつて、新たに地券記載の様式が定められ、従来附与の地券は、書換出願の際漸
次これを改正することとされた。この改正後の地券を壬申地券に対し、「改正地
券」と呼んでいる。
このような地券発行の経緯からすると、Dが下附を受けたという地券は、壬申地券
の発行手続、様式に従つて発行されたものと推定される。
さて、この壬申地券の附与手続は、各村ごとに、土地の所有者から所在、反別、地
価を申告させ、検地帳、名寄帳と突合せ、地引絵図を作製、進達させたものであつ
た。
ところで、安政五年、Dが大崎村ほか七か村地先海面について得た開発許可権に基
づく工事は、防潮堤の完成もみず、挫折するに至つている。したがつて、旧幕時代
の海面開発手続に従い、埋立工事完了後、鍬下年季明け時における新田に対する検
地は、当然のことながら行われていない。よつてDが開発許可を得たという海面に
ついて、検地帳(水帳)も作成されていないことは明らかであるから、正規の壬申
地券は附与できなかつたものといわなければならない。すなわち壬申地券の下附手
続からすれば、Dが大崎村ほか七か村地先海面の新開場について得たという地券は
土地に対して附与された本来の壬申地券とは性格を異にするものだということがで
きる。
このように、Dが得たという地券が本来のものと性格を異にすることは、その下附
を願い出た「地券願」の写しであるという文書の記載形式からも判明する。すなわ
ち、この「地券願」書面には、地券下附手続の要件とされた地価及び検地結果に基
づく反別の記載は全くなされておらず、安政五年幕府に開発許可を願い出た際の反
別と鍬下年季を願うことのみが記載されているにとどまるのである。
おそらく、Dは徳川時代に開発許可を受けながら、開発を行わないままの大縄場
(海面)で鍬下年季中のものについては、地租改正施行規則第一二則により「新開
試作地」として地券が交付される可能性が存したことから、安政五年幕府から得た
開発許可を根拠に地券の下附を願い出たものであろうと推測される。そして、Dが
安政五年の開発許可を根拠に地券の下附を願い出たことを推測させる資料として、
Dが明治一一年七月七日付けで渥美郡大崎村用係に差し入れた「為取換定約証」が
ある。Dはこの中で、安政五年に開墾願い済みの大崎村地先海面における捕魚貝取
採藻諸肥稼方は従来どおり新開新築が成功するまでは村方の自由であり、それは開
発権を他に譲渡した場合にも、その引受人において確守すること、築堤されてもそ
れが破壊された場合には村方において自由に稼ぎができることを約束しているが、
この約定書によれば、Dは安政五年幕府から得た開発許可を根拠に地券の下附を願
い出たものと推測される。
地租改正事業は、担税力ある土地に対し、地券を発行し、その地価を-確定し、旧
幕時代の複雑な貢租制度を改革しようというものであるが、地券は前記のとおり担
税力を具えていない大縄場(海面)に対しても、下附された例も存する。したがつ
て、地券の下附を受けたことをもつて、その対象物が土地であつたと即断すること
並びに地券の下附をもつて土地所有権を附与されたものと断定することは早計の謗
を免れないといわなければならない。
海ないし大縄場(海面)に対しても、土地に対すると同様、地券下附手続が採られ
たのは、陸地と海面に対する開墾に関する法制度が未分化という状況から発したも
のである。
しかし、地租改正は、担税力ある土地に対し、地券を附与し、私的所有権を公認
し、租税制度を改革しようというものであるところから、明治政府は、明治六年三
月二五日太政官布告第4一四号「地券発行ニ付地所ノ名称区別共更正」等により、
地券を発行すべき土地と地券を発行すべきでない土地とを区別した。そして、海は
担税力を有しないところから、当然、地券発行の対象とならないものと認識されて
きたが、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「地所名称区別改定」は、海を
もつて官有地第三種とし、地券を発行せず、地租を課せず、地方税(区入費)を課
さないものとし、人民の願により貸渡す時は、その間借地料を納めさせるものと定
め、私人の所有を認めず、官の所有(公有)に属するものであるとの確認を行つ
た。
このように海は、土地(陸地)とは性格が異なり、その法的取扱いも土地とは区別
して処理する必要のあることが明確に認識されるに至り、明治一二年三月四日内務
省地理局長通知「水面埋立願ニ付取調上心得」等をもつて、公有水面埋立制度が分
化、発展して行く過程の中で、地券発行方法も変更されて行つたのである。
右のとおり地租改正当時においても、海(海面)は、土地とは法的性格が異なるこ
とが認識され、土地とは別の法的構成をもつて処理しようとされていたのである。
したがつて、公有水面埋立制度が未発達という法的状況下において、一時期、海に
対しても地券が発行されたとしても、そのことの故に、地券が下附された対象物は
「土地」であると結論づけることは、早計に失するものといわなければならない。
2 地租改正事業においても、海は土地とは異なる法的取扱いがなされてきたが、
大崎村ほか七か村地先の大縄場(海面)の地券を得たD自身及びその譲受人におい
ても、またこれに関係する各村においても、それが土地であるという意識ないし認
識は全く存しなかつたことを次に明らかにしよう。
(一) ところで、明治七年七月、地券の下附を受けたDが、再度埋め立て開墾に
着手したかどうかについては、これを誌したものがなく、不明である。
しかし、Dが地券を手に入れたことにより、関係諸村との間に、一悶着あつたこと
は確かであろう。また、前述のとおり明治一二年七月七日、Dが大崎村に差し入れ
た「為取換定約証」で、埋立工事完成までの間は自由に漁業を行い得ることを確認
していることからすると、埋立開墾に対する反対運動を鎮めるためにそれが差し入
れられたものとも推測される。
更に、Dは、明治一三年一二月二七日付けで「契約証」を大崎村に差し入れ、埋立
工事完成までの間の捕魚、採藻の自由などを確認しており、老津村にも右と同趣旨
の契約書を差し入れている。
右によれば、Dは、開発権の放棄により、すでに失効した可能性のある安政五年の
開発許可権を根拠に、当該海面(大縄場)について地券を得たものと認められる。
すなわち、Dは、安政五年の開発許可を得た大縄場に対する地券の下附を願い出た
だけで、明治七年、新たに埋立開墾許可を申請して、その許可に基づき地券の下附
を受けたものではないようである。
さて、右約定書類からも判明するとおり、Dが地券の下附を受けた地域は海そのも
のであり、海としての利用がなされているところであり、同約定書類及び前記の海
に対する法意識からすると、Dの取得した権利は、海面埋立権にとどまることを認
識した上で、埋め立て工事完成までの間は自然公物たる海に自由に入会つて、漁業
を営めることが確認されるとともに、右埋立開発権が第三者に売買譲渡された場合
においては、譲受人をして右確認条項を遵守させることが約束されているのであ
る。
(二) Dが地券を取得後、大崎村地先海面の地券は、明治一四年一月F(明治一
三年一二月二七日付けの大崎村への契約証の保証人)、G、Hへ、明治一四年一〇
月Fへ、明治一五年九月Iほか四名へ、明治一七年五月大崎村、植田村、野依村へ
転々譲渡されている。
そして、地券が転々譲渡されるとともに、その譲受人らはいずれも大崎村に対し明
治一三年一二月二七日付けのDの約定証の約定を引き継ぎ、これを確守する旨の証
文を差し入れている。
(三) 老津村地先海面については、老津村史(七六-八四ページー甲八四号証)
によると、その海面地券は、複雑な経路を辿り、明治一五年最終的には老津村共有
総代人Jに譲渡され、大崎村ほか二か村の場合と同様、これにより漁業の安定が図
られるに至つた。
(四) 以上によれば、Dが下附を受けた地券の対象物である海面(大縄場、新開
試作地)は、埋立工事が完成しない以上、D自身及びその譲受人においても海その
ものと認識され、また、それに附与された権限は公有性を有する海面を占有して埋
立工事を行う権能であると理解された上で、各約定証書が作成されていることが判
明する。そして大崎村、植田村、野依村、老津村等の各村では、地券の譲渡ととも
に、右埋立権が転々譲渡され、旧くから営まれてきた漁業が危殆に瀕せしめられな
いようその転々譲渡を差し止め、捕魚、採藻等による漁業の安定化の途を確保すべ
く、土地ないし土地所有権の実体を具えていない地券を取得したものと認められる
のである。
(被控訴人らの主張)
一 控訴人らは陸地のみが土地であつて海面下の地盤は土地ではないとし、その根
拠を公有水面埋立法第一条及び第二四条の規定に求めている。しかし公有水面埋立
法の公有水面とは(イ)公共の用に供されていること(ロ)地盤が国の所有に属す
ることの二つの要件を具備する水流又は水面を指称するものである。地盤が国の所
有に属することを要件とすることは学説も之を認めるところである。従つて、控訴
人らのこの点に関す主張は正当でない。
国は、羽田空港事件(東京地方裁判所昭和三二年(ワ)第二一四七号、同三四年
(ワ)第一四七六号、同三四年(ワ)第五二二四号事件昭和三八年三月三〇日判決
下民集一四巻三号五二一頁以下)においては、海面の払下げを受ければ、その海面
につき排他的総括支配権を取得する旨主張し、裁判所もこの主張を認めた上、土地
の概念をいわゆる陸地と同義に解すべき理由なしとして、国側勝訴の判決を言渡し
ているのである(この第一審判決に対する控訴審である東京高等裁判所昭和三八年
(ネ)第七八四号、第八三二号、昭和四八年(ネ)第一、六九一号事件昭和五一年
七月一二日判決に於ても国側は勝訴し、更に上告審である最高裁判所昭和五一年
(オ)第一、一八二号事件等においても昭和五二年一二月一二日国側は勝訴してい
る)。本件における控訴人らの土地は陸地に限るとする主張は、右羽田空港事件に
おける主張と全く相反するものであつて、いやしくも公正を使命とすは法務官僚の
とるべき態度ではないと信ずる。
1 土地たるの要件(限界)
土地たるの要件は、支配可能性と財産的価値性の存在であるとする第一審判決の判
示は正当である。
(一) 支配可能性
地所は無限に連続しているから、その儘では人の支配に服さない。しかし地所を人
為的に区分すれば、人の支配は可能となる。従つて、民法上の「土地」であるため
には、人為的に区劃された地所でなければならない。
(二) 財産的価値性
民法上の「土地」であるためには、権利義務の客体たりうることを要するものであ
る。人の利用とか、取引の対象たり得ない土地は、それはたとい土地であつても民
法上の土地とは言えない。
この点に関連して問題となるのは、現に公共の用に供されている水面の下に在る土
地が民法上の「土地」と言えるかどうかである。抑々公共用物について私権の成立
を認めるか否かは、立法政策の問題であるが、我国の現行法律制度では、現に公共
の用に供されている水面の下に存在する土地であつても、私権の対象たり得ること
すなわち民法上の「土地」であることは、原判決の指摘するとおりである(なお、
道路法第四条参照。)。しかしこの点は本件に直接の関係がないので、詳論するこ
とは差控える。本件は、かつて公共の用に供せられていた干潟(水面下の土地)に
ついて、公用の廃止があつた場合の問題であるが、公用の廃止があれば、言うまで
もなく、私権の対象すなわち民法上の「土地」である。而して、公共の用に洪され
なくなつたその水面は土地(池、沼、溝、河川、湖、干潟等の水地)の構成部分若
しくは土地所有権の効力範囲に属する水面として私有水面になる(私有水面の存在
は、原判決判示のとおり港湾法第四条第二項、漁業法第三条、第一三条第四項、公
有水面埋立法第一条等の諸規定の解釈からも認められる。)。
2 本件干潟(本件訴訟の目的物たる干潟を含む田原湾の干潟をいう。以下同
じ。)は民法上の土地である。その理由は次のとおりである。
(一) 本件干潟の支配可能性及び財産的価値の存在。原判決がその第二二枚から
第二六枚目に亘つて詳細且つ正確に認定している諸事実によつて、本件干潟が明確
に他の土地と区劃せられ、実測せられ、財産的価値を有する土地であることは頗る
明白である。
(二) 本件干潟は公用廃止せられ、Dに譲渡された土地である。以下その事由を
述べる。
(1) 本件干潟は、安政五年戊午年にDが幕府に対し地代金を支払つて開発の許
可を受け払下げを受けたものである。但し、Dが払下げを受けた本件干潟の面積は
後記のとおり八百四拾参町七反歩であること及び愛知県史第二巻五二六頁の記載に
よれば、地代金は極めて高額であつた事実及び甲第八七号証の地券願、甲第九一号
証の一の新開場鍬下年期願の記載によれば本件干潟は少くとも三地域以上に区分さ
れて夫々期間の違つた鍬下年季が付されていることがらみて、幕府等の払下げは、
全面積を数次に分けて行われたと推測できることからして、老津村史に記載されて
いる地代金の額三一両一分は、老津村史のミスプリントであるか若しくは著者が一
町当りの単価三一両一分を全面積の代金なりと間違つたのか、或は、一回分だけの
地代金を全面積の地代金なりと誤解したものと思われる。このことは豊橋市史第二
巻七三三頁の記載をみれば、Dが、大津島の立木を五四両余で払下げを受けたこ
と、また大津島の天王社地として四六五坪を残すこと藻草・蜷などの採取海面は開
発地から除外するということで、三百両(この三百両は甲第八四号証の老津村史七
一頁一一行目の五ケ年間村役場に納めるべき金である)は支払われなかつたことと
比較して、甚だしく不均衡であることからしても容易に推測しうるところである。
幕府等が本件干潟につき土地代金を受取つて開発を許可し之をDに引渡したこと
は、当然に幕府等が公用の廃止の明確な意思表示をなし、且つ、Dに本件干潟の排
他的総括支配権を付与したものである。甲第八四号証の「老津村史」七一頁記載の
「地代金」及び甲第九一号証の二の「三河国渥美郡谷熊村下新開場地券証控」記載
の「地代金」とは、本件干潟に対する排他的総括支配権取得に対する対価であると
解するのが正当であつて、控訴人等主張の如く「地代金」を「小物成」(雑税)な
りと解するのは、誤りである。以下その理由を述べる。
(1) 法令の用語からみて「地代金」とは「土地代金」を意味するものであるこ
とは明らかである。すなわち
△ 明治五年地券発行地租収納規則第六条「総テ払下ケ地代金ハ地券相渡候節一時
上納可為致事」。
△ 明治五年三月一八日大蔵省第四四号達「開墾地山林地代金ノ儀以来租税御勘定
組相除其都度勧農寮ヘ可差出事」とあつて税と地代金とを明確に区別している。
△ 明治八年七月八日地租改正事務局議定地所処分仮規則第四条「旧藩県ニテ開墾
願済未タ地代金ヲ納メスシテ現今未着手ノモノハ其所有トナスヘカラス 尤モ地代
金ヲ納メストモ旧藩県ヨリ授与セラレタル確証アルモノハ其所有ト定ムヘキ事」
(2) 開発許可を得るについては、極めて高額の「地代金」を支払わなければな
らなかつたが、開発許可によつて願人が取得する権利が、控訴人ら主張の如く、排
他的総括支配権を包含しない単なる埋立工事権に過ぎないものとすれば、幕府又は
藩は、許可によつて何ら失うものなく(幕府又は藩は依然として当該土地に対する
排他的総括支配権を有していることになる)、干拓成功の時には徴税しうるという
利益のみを取得することになり、他方願人は当該土地の排他的総括支配権を取得せ
ず、干拓工事のため更に莫大な出費を負担して、干拓に失敗すれば、莫大な工事費
は勿論許可を得るために納めた極めて多額の「地代金」が無に帰するという著しく
不当な危険を背負うことになる。このような不合理な解釈は正当でない。地代金が
極めて高額であつたことは、当然、幕府又は藩が許可の時点において、地代金受領
の対価として当該土地の排他的総括支配権を願人に付与したものと解するのが正当
である。換言すれば、願人が地代金の支払の対価として取得した開発権には、単に
埋立権のみに止まらず、当該土地に対する排他的総括支配権の付与を包含すると解
すべきである。このことは、開発権が財産権として譲渡することが認められていた
こと及び明治政府が地代金を支払つて開発権を取得した者を当該土地に対する排他
的総括支配権を有するもの即ち所有者なりと認めて地券に下附したことからみても
首肯し得るところである。
(2) 明治七年七月四日にDに本件干潟について当時の愛知県令Eから新開試作
地(新開試作地が民有地第一種に属するものであることは、明治六年七月二八日大
蔵省達「今般地租改正ノ令アリ。先ニ下付セル券面地価ハ旧来石盛ノ不同ト貢租ノ
甘苦ニ由リ、高低有ルヲ以テ、更ニ上地一歳収穫ノ作益ヲ計リ、各地ノ慣行ニ因
リ、何分ノ利ヲ以テ地価若干ヲ酌量シ、更ニ所有主ヨリ申立シメ、当否ヲ検査シ適
当ニ定ムヘシ。
海川ノ附洲、湖水緑等ノ不定地、或ハ試作ノ地所等、段別確定ナキモノハ、何不定
地凡ソ段別若干ト記シ、地価ヲ定メ収税スヘシ。
総テ旧来大縄受ノ地所ハ、現歩調査ノ上地価ヲ定メ収税スヘシ。」及び明治八年六
月一二日地租改正事務局別報「荒地並ニ新開場、鍬下年季中ノ地所ハ元来賦税スヘ
キ地種ナシトモ、其地収穫ナク一時ノ免税地タルヲ以テ、年季中タリトモ地種ハ民
有地第一種(人民各自所有ノモノ)第二種(人民数人所有ノモノ)ニ編入スヘ
シ。」等によつて明らかである。)として地券の下附を受けた。(地券の下附が幕
府時代の払下げの事実を根拠としたであろうことは甲第六七号証及び甲第九一号証
の二の進達書留の新開場地券証控の記載中に田原藩や、幕府に地代金を支払つて譲
受けた旨が明記してある事実によつて容易に推測できるところである)。
(3) Dは工事に着工し、大津島天王崎と大津村新田山の両面から築堤を開始し
たが資金の欠乏に追い込まれて工事を中止したまま明治維新に至つたが、本件干潟
を取り上げられた事実は全然なく、特に明治一一年一二月老津村総代理人Gから当
時の愛知県令Kに対して新開地取扱御伺がなされたが、愛知県令がDから地券を取
上げたり、土地を返還せしめた事実は認められない。
明治政府は明治八年七月八日の地租改正事務局議定の地所処分仮規則(甲第九〇号
証)第四条をもつて、開墾未着手の土地であつても、地代金を納めた場合には、所
有権の成立を認めた。
以上の諸事情に徴すれば、本件干潟の公用は廃止され、Dに譲渡(排他的総括支配
権の付与)されたことが明白であると信ずる。
(三) 仮に右の諸事情に徴してもなお原判決が判示するように「Dが当初幕府か
ら取得したという権利が土地所有権ないし土地に対する排他的総括的支配権であつ
たか否かを確定することができない」としても、明治七年にDが地券の下附を受け
る以前に、本件干潟の公用は廃止せられ、Dがその払下げを受けて本件干潟につい
て排他的総括的支配権を取得したものと推認するのが正当である。その推認の根拠
は次のとおりである。
(1) 前記(二)の(1)乃至(4)の記載の事実があること。
(2) 明治七年七月四日にDは、当時の愛知県令Eから本件干潟につき地券の下
附を受けたが、地券は、土地所有の公証及び納租の標目であつて、その趣旨は従来
の地籍の錯乱や名実の齟齬等が多かつたので、これを正す目的で地種の区別を明確
にし人民の所有権を確定せんがために付与されたものであること。
(3) 本件干潟は幾つかの筆に分割せられている土地として地券が下付されてい
ること。もし控訴人主張の如くDの取得した権利が土地の排他的支配権を含むもの
ではなく単に本件干潟を開発する利権に過ぎないものとすれば、開墾前に斯る分筆
をなすべき合理的理由は考え難い。開墾前に斯る分筆がなされたことは、Dの取得
した権利が、排他的総括支配権であつたとの一つの証左であると信ずる。
(4) Dが幕府から払下げを受けるに当つては、川敷地、すなわち一般の船の水
路である澪筋、堤塘、用悪堤敷、道溝代敷地等の敷地が官有地として払下げから除
外され、
官有地計四九〇町九反歩を差引いた残りの土地を新開地(すなわち明治初期に民有
地として認められるに至つた八百八拾七町九反歩のうち八百四拾参町七反歩)とし
てDに払下げられて地券が下附されたこと。従つて右の事実によつても民有地部分
につき公用廃止のあつたことは明確である。
(5) 明治七年七月二日にDは愛知県令Eに対して幕府から払下げを受けた本件
干潟について地券願を提出しているが、右地券願の末尾に「第一大区七小区南桑名
町副戸長L、第十五大区四小区谷熊村M、同大区長N前書写之通相違無之候也」と
記載せられ副戸長や大区長の印が押捺されている。右の記載はDの地券願の記載内
容が間違いのないものであることを証明するものであるが、副戸長、大区長は、当
該管轄区の土地関係事務担当者であつたから、右の証明は公の証明であつて、本件
干潟の公用が廃止されていた事実を示すものであること。
(6) Dは明治七年七月二日の「地券願」を以て「鍬下年季願」をしたところ、
国は之を認めて、本件干潟について夫々鍬下年季を認めたこと。
(7) 原審で述べたとおり明治政府は、未登記物件の登記申請には厳格なる手続
を要求し、土地の所有者を確認したこと。
以上の諸事情に徴すれば、Dが明治七年地券の下附を受ける以前に本件干潟の公用
は廃止せられ、Dが、地代金を支払つて本件干潟の排他的総括支配権を取得し、こ
れによつて、明治七年に所有者なりと確認せられ地券の下附を受けたと推認するの
が正当である。
二 時効取得
仮に万一Dが幕府に対して地代金を支払い、又明治七年に地券の下附を受けても、
なおかつ所有権の取得関係が明確でないとしても、前述のとおり本件干潟は、安政
五年にDが地代金を支払つて幕府等から開発許可を得た時、若しくは遅くともDが
明治七年に地券の下附を受ける以前の時点において本件干潟の公用は廃止せられ、
爾来Dは平穏公然に所有の意思を以つて本件干潟を占有してきたり、またその以降
の承継人もすべて平穏公然に所有の意思を以つて本件干潟を占有し今日までその間
おおよそ百年の長期間に亘つて、右の占有は継続してきたものである。従つて、被
控訴人らは、時効により本件干潟の所有権を取得したものである。時効取得に関す
る事実関係は、
既に詳細に述べてあるところなので、その要旨のみを次に摘記することにする。
1 Dは、幕府等に地代金を納めて本件干潟の占有を開始した。幕府は払下げに当
つて官有地部分を除外した。そしてDは埋立工事に多額の出費をした。
2 Dは、明治七年に地券の下附を受け且つ鍬下年季を許された。
3 Dは爾後本件干潟を有償で分割譲渡した。
4 明治一一年一二月本件干潟につき老津村総代理から愛知県令に対し開墾しない
から地券を取上げるかどうかの伺いに対して、Dは地券を取上げられたり、本件土
地を返還すべき請求を受けた事実が全く認められない。
5 本件土地は古くから地租台帳、土地台帳に池沼、汐溜として登載され、地価、
譲渡の事実が記載されて来た。
6 不動産登記法施行後は、登記簿上、本件土地の地目は池沼として登記され、分
筆登記され、所有権移転の事実が記入されてきた。
7 本件干潟は大正一五年頃鍬下年季廃止後、国は地租の徴収を開始し、その後昭
和三六年に豊橋市が、また昭和三八年に田原町がそれぞれ固定資産税の徴収を停止
するまで租税が賦課されてきた。
8 昭和一四年頃、海軍省が共有者から本件干潟の一部を飛行場とするため土地代
金一反当り七〇円の割合で買上げた。
9 大蔵省は大正一五年一月二六日に本件干潟の共有者に対しその共有持分権の差
押えをなした。
10 愛知県は昭和六年一一月一三日に本件干潟の共有者に対し、その共有持分権
の差押をなし公売した。
11 田原町は昭和二九年八月二五日に本件干潟の共有者に対し、その共有持分権
の差押をなし公売した。
12 豊橋市は本件干潟の一部を共有者である大崎海面土地管理組合より賃借りし
昭和三三年七月から昭和四四年七月まで賃借料を支払つていた。
13 本件干潟の水面につき漁業協同組合が漁業権の免許を受けるに当り、共有者
の同意を要したものであり、また漁業権存続期間特例法一条にもとづく土地所有者
の同意もなされている。
14 明治初年頃、Dと当時の大崎村外七ヶ村との間の協議において、本件干潟の
海面境界が絵図面で協定されており、以後現地においては境界杭が設置されてき
た。
15 昭和一一年頃の帝国市町村地図刊行会発行の図面にも本件干潟を構成する各
土地の区画がなされており、本件干潟の区画は明確にされている。
16 昭和四〇年に愛知県は本件干潟の実測を行つたが、その実測で、愛知県は民
有地、国有地、官有地に分けて実測している。
17 明治二三年三月七日に本件干潟の共有者らは愛知県が実測調製した本件干潟
の各村境界確定図により本件干潟における捕魚、採藻等、貝取等の区域について八
ヶ村連帯規約書を作成している。
18 昭和二三年に本件干潟の一部につき共有者である伊藤産業株式会社外二名
は、共有権に基づいて当該土地の不法占有者に対し訴を提起(名古屋地方裁判所豊
橋支部昭和二三年(ワ)第五五号事件)し、昭和二四年一一月一六日に右土地が原
告らの所有に属する旨を確認する旨の裁判上の和解契約が成立した。
三 控訴人らの主張三について
控訴人らの主張する土地概念が誤つている点を指摘すれば、次のとおりである。
1 民法第二一〇条を根拠として「土地」と「海洋」とを区分することは、誤りで
ある。
すなわち、民法第二一〇条は、相隣関係における被囲繞地の概念を定める規定であ
つて、土地の概念を定ぬる規定ではない。控訴人らの論法によれば、「海洋」のみ
ならず被囲続地を囲む「池沼」、「河渠」若しくは「崖岸」等もすべて土地に非ら
ずと云うことになつて、その不合理なことは多言を要しない。民法第二一〇条に定
める「池沼」、「河渠」、「海洋」、「崖岸」は、いずれも、被囲繞地の概念を定
めるための被囲繞地周辺の自然的地形を表現しているに過ぎないのであつて、「池
沼」、「河渠」、「海洋」、「崖岸」が土地でないことを定める規定ではない。
従つて、民法第二一〇条及びその修正前の規定である旧民法財産編第二一八条を根
拠とする控訴人の土地概念は、全くの誤りであることが明らかであるから排斥され
るべきである。
2 控訴人らは、旧民法財産編第二二条第一号を根拠として「土地と海及び海浜の
境界を春分及び秋分における満潮位線に求めていた」とか「この基準を当然の前提
として民法第二一〇条は土地と海洋の境界を春分及び秋分における満潮位線に求め
ているのであるから民法上の土地は陸地を指す」と強弁し、相隣関係における囲繞
地の規定に過ぎない民法第二一〇条に、土地概念規定という全く見当違いの重荷を
背負せて憚からない。それは全くの誤りである。すなわち、
(一) 旧民法は、明治二五年に第三回帝国議会で無期延期が議決され、施行され
ないまま、
明治三一年七月一六日に廃止されたものである。従つて旧民法第二二条を以つて、
控訴人らの主張の根拠となし得ないことは明らかである。
旧民法第二二条を根拠とする控訴人らの主張は、既にこの点において失当であるか
ら排斥されるべきである。
(二) また、旧民法第二二条は、内容的に見ても、公有物の範囲を定める規定に
過ぎず、土地と海洋とを区別する規定では全くない。この点に関する控訴人の主張
も亦我田引水の全面的に誤つた論と云わざるを得ない。斯る謬論を更に囲繞地に関
する民法第二一〇条に当嵌めて、土地概念を定めんとすることは、更に誤りを重ね
るものであり著しく失当であるから、この点に関する控訴人らの主張は排斥さるべ
きである。
3 控訴人らは、民法第二六五条の地上権に関する規定及び同第二七〇条の永小作
権に関する規定を根拠として「右用益権の対象となる土地は、陸地たる土地を目的
として構成されているから、民法は、土地の概念につき陸地部分をその目的対象と
して構成されている」旨極めて飛躍した独特な論法を展開するが、それは全く誤り
である。控訴人らの主張の誤りを指摘すれば、次のとおりである。
民法第二六五条は、地上権の権利内容を定めた規定であり、同第二七〇条は、永小
作権の権利内容を定めた規定であつて、土地所有権の内容を定めた規定ではない。
地上権や永小作権の対象となる土地は、通常陸地であり而も人の住居や農業に適し
ている土地であろう。
もし、控訴人らが地上権や永小作権の対象となる土地は右のような土地であること
を前提として、地上権や永小作権の対象となる以外の土地は全部民法上の土地に該
当しないとでも云うのであれば、それはそれとして一応理屈として通るであろう
が、控訴人らの主張は、そうではなく、地上権や永小作権が、陸地を対象としてい
るから、現行民法上、土地は陸地に限られると云うのである。その論法には大飛躍
があり不合理極まるものがある。すなわち、陸地部分と雖も地上権や永小作権の対
象となり得ない土地、例えば、池、沼、沢、溝、湖、河川、人も住めず農業も出来
ない山岳、丘陵、渓谷、堤塘、道路等がある。これらの地上権や永小作権の対象た
り得ない土地が、何が故に陸地であるとの一事を以つて民法上の土地概念に含まれ
るとするのか、また、斯る土地が民法上の土地の概念に含まれるとすれば、
本件干潟のような土地が何故民法上の土地概念に含まれないとするのか到底理解し
得ないところである。
抑々土地所有権の内容は、法令の制限内に於て自由にその所有地の使用、収益及び
処分をなす権利であり、それは、非限定的である。地上権や永小作権の内容に限定
されるものではない。従つて、地上権や永小作権の対象たり得ないこれらの土地と
雖も支配可能性と財産的価値(例えば、養魚池、庭園用池、魚貝類の養殖池採取
場、貯水池、貯木池、行楽地、礦物、土砂採取地、埋立可能地等は、いずれも財産
的価値がある)さえあれば、その土地が住居地若しくは農地たり得るものであろう
となかろうと、山地であろうと平地であろうと、陸地であろうと干潟であろうと、
すべて民法上の土地に該当する。
控訴人らの主張は、要するに民法上の土地の概念を論ずるに当つて、不当に民法第
八五条に定める物の概念(支配可能性と財産的価値)規定を故さらに無視して擅に
全く別個の「土地」対「海洋」(海洋なる概念は、陸地に対立するものであつて、
土地に対立する概念ではない。)なる間違つた対立概念を創り出して、これを前提
として土地の外延は陸地に限定されると強弁するに過ぎず、そこには何らの合理性
も正当性もなく著しく失当であるから排斥さるべきである。
四 控訴人らの主張四について
1 田原湾の水深について
(一) 田原湾の干潟は、被控訴人らが既に詳述したとおり私有地と官有地(澪
筋)等に分れており、乙第三〇号証の一乃至三の水深図は、官有地である澪筋に関
するものであつて、田原湾内航路はこの官有地である澪筋なのである。従つて、斯
る澪筋の水深図を以つて、私有地たる干潟の水深を云々することはできない。
(二) 乙第三一号証の田原湾内水深図は、本件訴訟の結果につき重大な利害関係
を有する愛知県が、本件訴訟において証拠として提出する目的を以つて既存の図面
に色鉛筆を以つて勝手に水深に関する色彩をほどこしたに過ぎないものであるか
ら、本件証拠としての価値のないものである。乙第三一号証の水深図は乙第三七号
証の汐川河口部干潟底生生物の調査報告書乙第三八号証の汐川河口部鳥類生息調査
について報告書、当審の検証の結果並びに田原湾の干潟の実態に著しく反し全く信
用できないものであるから、斯る水深図を根拠とした控訴人らの田原湾の水深に関
する主張は失当であり否認する。
本件田原湾内の土地が往時より干潟であつて、訴外愛知県が埋立工事を開始するま
で、格別の変化がなかつたことは原審証人Oの昭和五〇年四月二六日付証人調書及
び甲第二号証の「藻草争論と義民半六たち」一三頁五行目から一〇行目まで、乙弟
三七号証の汐川河口部干潟底生生物の調査報告書、乙第三八号証の汐川河口部鳥類
生息調査について報告書の記載によつて明確である。
2 田原湾の海上交通について
控訴人らの海上交通に関する主張は、田原湾とは関係のない港に関するものを含
み、田原湾内の港に関するものは、大半漁船の船倉であつて、一般海上交通とは無
縁のものである。
すなわち、大崎村附近の梅田川流域の高足(高師)港、大口港、梅田川下流の早船
港、梅田川河口附近の船渡港は、いずれも田原湾の外にあるもので、田原湾の干潟
とは何の関係もないものである。
次に平地、地下、浪入、笠松は大崎地区の漁船の船倉であり、波入江、中尾、中
北、岩塚、大津中港、森崎、多門田等は老津地区の漁船の船倉に過ぎないのであつ
て、一般海上交通とは無関係のものである。
田原港は一般の港として利用されたが、それに出入する船は、すべて官有地である
澪筋を航路として使用していたものであつて、私有地である田原湾の干潟上を通交
していたものではない。
従つて、この点に関する控訴人らの主張は、見当外れの失当のものであつて、排斥
さるべきである。
3 漁業権と干潟所有権との関係について
(一) 控訴人は「海草、貝類の採取は海の利用であつて土地の利用ではないか
ら、海草、貝類の採取をもつて本件海面下の地盤が『土地』として利用されてきた
ことにはならない。例えば、漁業法二条一項は『この法律において漁業とは、水産
動植物の採捕又は養殖の事業をいう』と規定しているのに対し、民法二六五条は地
上権につき、『工作物又ハ竹木ヲ所有スル為メ其土地ヲ使用スル権利』であると
し、また、同法二七〇条は永小作権につき『他人ノ土地ニ耕作又ハ牧畜ヲ為ス権
利』であるとしているのであつて、そこにおいては、海と土地とではその利用の態
様が異なることが前提とされているのである」と主張し、原判決が、本件係争海面
は古来、海面下の土地として、主として海藻、貝類の採取場として利用されてきた
ものであり、明治七年七月四日Dが地券の下附を受けて土地所有権を取得したもの
であるとの正当な認定を、
不当に非難している。
原判決の右の認定が正当であることは、以下に述べるとおりである。
(二) 土地(干潟を含む)の利用
(1) 所有権の内容
所有者は法令の制限内に於て自由に其所有物の使用、収益及び処分を為す権利を有
するものである(民法第二〇六条)。
(2) 土地所有権の範囲
土地の所有権は法令の制限内に於て其土地の上下に及ぶのである(民法第二〇七
条)。
(3) 土地(干潟を含む)の利用
右にみるとおり、土地所有者は、法令の制限内に於て自由にその土地の地表のみな
らず、その土地の上下をも利用し得るものである。従つて、土地所有者は法令の制
限内に於てその地上に家屋を建築し、工作物を設置し、竹本を栽植し、田畑として
耕作し、牧畜をなし、その地上の水面を採藻、採貝、捕魚、魚貝の養殖、繋船、貯
木の場所として或は船の航路等として之を使用し、或は地中の土砂、岩石、鉱物、
地下水、温水を採取し、或は自然的若しくは人工的景観の観賞用、汚物塵芥捨場、
墓地、灌漑用水路、排水路等その他各種の用途に之を使用し得るものである。殊に
海草や貝類は、海面下の土地に根を張つて生育し、または棲息し、海面下の土地自
体に養殖されるものであつて、海面下の土地と直接的に密接不可分のものである。
工作物又は竹木を所有するための土地の利用とか耕作又は牧畜をなすとかの権利の
みが土地の利用であつて、海草、貝類の採取は海の利用であつて土地の利用ではな
いとする控訴人らの主張は全く何らの正当性もない独自の見解に過ぎず失当のもの
である。海草、貝類の採取も、海面下土地の利用の一態様であつて、固より海面下
土地所有権の範囲内に属するものである。
もし、控訴人らの主張に従うとするならば、海面における採藻、採貝、捕魚、繋
船、貯木等はすべて海の利用であつて、土地の利用ではないことになるし、更にそ
の理論をふ衍すれば、すべての池、沼、河、川、湖等におけるこれらの利用も亦土
地の利用ではないことに帰し、その不合理であることは多言を要しないところであ
る。
ただ漁業法第二条、第四条によつて、仮令私有水面であつても、公共の用に供する
水面と連接して一体をなすものには業としてその水面において漁業を営むことは禁
止されるので、その海面下土地所有者と雖も所有権の内容として業として漁を営む
ことはできないだけである。斯る関係は、土地の所有者と雖も所有権の内容として
土中の一定の鉱物や岩石、砂利等を業として採取できないのと同様である(鉱業法
第四条、採石法第一条)。業として営まぬ限り、土地所有権は、所有権の内容とし
て私有水面で魚貝を採取し、海藻を採取し、地中の鉱物や砂利を採取することがで
きるのである。
(4) 利用期間
土地所有権に基づく土地の利用は期間的制限はなく永久のものであるが、漁業権や
鉱業権に基づく利用は存続期間がある。これは恰も地上権や、永小作権に類似する
ものであつて、土地所有権の存在と地上権、永小作権の存在とは、併存し得るもの
であつて、地上権や永小作権の存在する土地には土地所有権は成立し得ないという
ものではないのと同様に漁業権や、鉱業権に対する関係においても漁業権の存在す
る水面下土地や鉱業権又は採石権の存在する土地についても土地所有権は成立し得
る(漁業法第一三条第一項第四号、鉱業法第二五条、採石法第四条第一項及び第二
項参照。)ものであつて、漁業権や鉱業権や採石権の設定されている土地には土地
所有権は成立し得ないというものではない。
(5) 漁業権は一定の限られた水面において特定の水産動植物を採捕又は養殖を
なすことを営業として行う権利である。これ以上に当該水面たる漁場を総括的に独
占支配し或は漁場内に於ける採捕又は養殖の目的たる水産動植物に対し占有権又は
所有権を有するものではない。従つて、水面について漁業権が設定されたとして
も、それは水面下土地所有権の存在を否定する理由とはなり得ない。
以上に述べたとおり、私有に属する海面下土地上の海面が漁業に利用せられている
との理由を以つて海面下土地の土地性を否定することは全くの誤りである。「海」
なる概念と対比さるべきものは、「陸」であつて「土地」ではない。控訴人らの如
く「海」は「土地」ではないと言うことは「山」は「土地」ではないと言うのと均
しく馬鹿げた言分に過ぎない。民法上の「土地」は、「海」であろうと「山」であ
ろうと、支配可能性と財産的価値とを具備する限り、いずれも「土地」である。控
訴人らは何ら正当の理由もなく、全く独自の見解に基づいて不当に原判決を非難す
るものである。
また控訴人らは、「いわし」「よらめ」が本件干潟でとれるかの如く主張するが、
これらの魚貝はいずれも海洋でとれるものであつて、干潟ではとれない。
もとより本件田原湾の干潟においても「いわし」及び「よらめ」の魚貝はとれな
い。この点に関する控訴人らの主張は事実に反し失当のものである。
五 控訴人らの主張五の事実について
1 五の1の事実について
(一) Dが明治七年七月二日に<地名略>及び<地名略>を除いた反別八四三町
七反歩につき地券の下附を願い出て(甲第八七号証の地券願によれば、大区長等の
連署があることは、前述したとおりである)、冥加金を上納して同年同月新開試作
地として地券の下附を受けたとの点は認める(<地名略>及び<地名略>について
は、後日Dがその所有者から譲渡を受けて地券の下附を受けたことについては、前
述したとおりである。)。
(二) 次に控訴人らはDがこの時期に地券の下附を願い出た理由、根拠は審らか
でないと主張するが、被控訴人らが従前詳述してきたとおり、Dは、安政五年に地
代金を払つて、田原湾一帯の干潟につき払下げを受けて排他的総括支配権を取得し
たのであるから、この理由を以つて地券の下附願いがなされたであろうことは明ら
かである。このことは、前述のようにPが、Dに対し、詳細な証拠を副えて地券冒
認の告訴をなしたが、その告訴が却下された事実によつても裏付けられるのであ
る。
すなわち、Dの地券取得が正当なものであつたことは、右告訴の却下された明治一
二年四月八日の時点で確定したのである。
(三) 控訴人らはDが新田開発に挫折したというが、前述したとおり、甲第九一
号証の一の新開場鍬下年期願の記載をみると、二四字谷熊下反別二一町歩のうち六
町九反九畝一一歩については、明治九年より追々開墾し、明治一二年一一月の時点
では、残反別一四町一九歩であつたことが明瞭である。
(四) Dが下附を受けた地券の内容、性質に関する控訴人らの主張事実は否認す
る。
(1) 地券下附手続
明治五年(一八七二年)二月二四日大蔵省達二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規
則」によつて地券交付の方針が出され、翌明治六年七月二八日太政官布告二七二号
「地租改正条例」を以つて地租改正の実施が決定されたが、その基礎作業として各
村では土地を検査し、測量をする地押丈量が行われた。この地押丈量に基づいて作
成されたのが、地引帳と地引絵図である。
各村では区長、戸長の指導のもとに改正掛、村総代、土地所有者などが小村は一村
ごとに大村では各字ごとに調査作成にあたり、その後県庁及び地租改正事務局の派
出官吏の検査を受け提出した。
地引帳には、地番に従つて土地一筆ごとに列記し、それぞれ所在地の字名、地目、
地種、面積、所有者名、収穫物の品種と数量、地価、地租額などを記載した。
また同じく地番の順に土地一筆ごとの状況を地図に描き地引絵図を作成した(甲第
一一六号証の大塚史学会編新版郷土史辞典二三九頁の「地押丈量」の項及び二五七
頁の「地引帳」の項参照。)。
右のような手続(すなわち地引帳に基づいて)を経て、所有者に対して地券は下附
されたものである。Dの取得した地券も亦右の手続を経て明治六年七月の地租改正
施行規則第一二則に基づき新開試作地の所有者として地券を下附されたことは間違
いのないところであろう。従つて、これに反する控訴人らの壬申地券の附与手続に
は検地帳が作成されていることを要するとの主張は誤りであり失当である。
(2) 次に控訴人らの主張するところの「地券」に二種類があつて、本来の地券
とそうでない地券とが存在するなどとの論は未だかつてみたこともなく全く奇説珍
説の類であつて、おそらく控訴人らの我田引水の論であろう。その点は措くとして
も、甲第八七条証の「地券願」は、前記地租改正施行規則第一二則に定める新開試
作地に関するものであつて、それは「無代価の地券」であるから、「地券願」に地
価に関する記載のないことは当然のことである。また、本件「地券願」の末尾に
「右内訳之通鍬下御免被成下別紙地券仕出張番号之通地券証御下渡被成下置度右図
相添此段奉願候也」と記載されているが、おそらく、ここに書かれている「別紙地
券仕出張」とは、県や地租改正事務局に提出された地引帳に載つているDの所有土
地の一覧表(一筆ごとに反別が記載されていることは勿論である。)を意味し、
「右図」とは、地引図の写しを意味するものと解せられるのである。従つて、この
点に関する控訴人らの主張は失当のものとして排斥さるベきである。
(3) 次に、乙第六六号証の「為取換定約証」には次のとおり記載されている。
「安政五年中手続ニヨリ開墾願済分間内(一字不明)村地先捕魚貝取採藻諸肥稼方
之義従来之通り聊故障申間敷候 且右ケ所ニ於而何程収利有之候共新開新築成功候
迄ハ当方ニ於而少茂掛念無之自儘ニ稼下相成候拙者共都合ニヨリ右地他ヘ譲渡シ候
共右規定書通り相用下申候也
但風破高浪等ニ而万一亡消相成再築イタシ候迄ハ本文之通被取扱下御成候也」
右の記載によれば、Dは、土地所有者として大崎村に対して開墾までの期間に限つ
て捕魚貝取採藻諸肥の稼方を許したのであり、また他方、大崎村はDが、所有者と
して土地(控訴人らは、勝手に「開発権」と変改して主張している)を他人に譲渡
する権利を有することを明確に認めて、その場合には、Dにおいて土地譲受人にも
大崎村の捕魚貝取採藻諸肥稼方を引き継がせることを約束させたものであることが
明らかである。
大崎村は、Dが土地に対して排他的総括支配権を取得したので、Dにおいて、その
権利を行使し、大崎村の捕魚貝取採藻諸肥の稼方を排除する恐れが生じたからこ
そ、斯る契約を締結したのである。もし、控訴人ら主張の如く、開発許可の海面は
依然として公共の海面であるとすれば、大崎村は、Dと前記契約を締結する必要は
なく、公共海面として従前通り捕魚貝取採藻諸肥の稼ぎを自由に行い得たものと言
わなければならない。従つて、Dと大崎村との間に前記契約を締結したという事実
は、従前の公共海面は、公用を廃止し、地代金の支払によつて開発引請人に払下げ
られ、Dの土地所有権に属する私有水面となつたことの明らかな証拠であると言わ
なければならない。
(4) 地券は担税力のある土地であると否とに拘らず、土地所有権確定の公証と
して土地一般につき発行せられたものである。すなわち、明治五年二月二四日の大
蔵省達二五号の「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」の第六則に「地券ハ地所持主タ
ル確証ニ付大切ニ可致所持旨兼テ相論置可申候」と定めて、地券の目的が「地所持
主の確定」であつたことが明確であり、また、同規則第一三則に「従来ノ持地ハ追
テ地券渡シ方ノ儀可相達事」と定め之を受けて同年七月四日大蔵省達八三号を以つ
て、「地所売買規則方十三則ニ従来持地ハ追テ地券渡方ノ儀可相達旨掲載布告ニ及
置候所即今己ニ売買ノ者ヘ地券相渡従来所持ノ者ヘハ不相渡候ハテハ不都合ニ付管
下人民地所所持ノ者ヘ最前相達候規則ニ準シ都テ地券相渡候様可致尤其代価ノ儀ハ
田畑ノ位付ニ不拘方今適当ノ代価為申出地券面ヘ書載可致候」と定めて、土地一般
について地券を発行する制度としたことが明らかである。そして、明治五年九月四
日大蔵省達一二六号及び同年十月晦日大蔵省達第一五九号の各第二九条、第三〇条
及び第三二条には、無税地である「堰料堤敷道敷川床敷等之類濱地、墓所地、年期
中の荒地」等について、地券が発行されたことは明白であるし、また明治六年七月
の地租改正施行規則第五則、第七則、第十則及び第十二則には、無税地である「郷
蔵其外学校貧院ノ類ノ地、一村又ハ数村ニテ貢租弁納致シ来候堤敷、道敷、共有墓
地等ノ類、年季中ノ荒地及ビ年季中ノ新開試作地(被控訴代理人註、本件田原湾の
干潟は年季中の新開試作地に該当するものである)」に対して地券が発行されたこ
とは一点の疑を容れる余地もない。更に明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号
「地所名称区別改正」によれば「民有地第三種の官有地に非ざる郷村社地及び墳墓
地等」の無税地に対して地券が発行されていることは明白である。この点に関する
控訴人等の担税力ある土地に対して地券を下付する制度であつたとの主張は事実に
反する失当のものである。
次に、控訴人等の述べている明治六年三月二五日太政官布告第一一四号の「地券発
行ニ付地所ノ名称区別共更正」及び明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「地
所名称区別改定」によれば、官有地第三種として、
「地券ヲ発セス地租ヲ課セス区人費ヲ賦セサルヲ法トス
但人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ヒ区入費ヲ賦スヘシ
一 山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニアラサル
モノ」
と定めている部分があり、また、民有地として、
「第一種 地券ヲ発シ地租ヲ課シ区入費ヲ賦スルヲ法トス
一 人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等ヲ言
但此地売買ハ人民各自ノ自由ニ任スト雖モ潰地開墾等ノ如キ大ニ地形ヲ変換スルハ
官ノ許可ヲ乞フヲ法トス
第二種
一 人民数人或ハ一村或ハ数村所有ノ確証アル学校病院郷倉牧場秣場社寺等官有地
ニアラサル土地ヲ言
但此地売買ハ其所有者一般ノ自由ニ任スト雖モ潰地或ハ開墾等ノ如キ大ニ地形ヲ変
換スルハ官ノ許可ヲ乞フヲ法トス
第三種 地券ヲ発シテ地租区入費ヲ賦セサルヲ法トス
一 官有ニアラサル墳墓地等ヲ言
但其地形ヲ変換スルトキハ管轄庁ノ許可ヲ請フヘシ」
と定めている部分がある。
右の太政官布告によれば、山岳、丘陵、林、藪、原野、河、海、湖、沼、池、沢、
溝、渠、堤塘、道路、田畑、屋敷等には、民有に属するものと官有に属するものと
の二種類があることが明らかである。民有に属する「海」とは、公用を廃止され、
私人に払下げられたものを指す(新開試作地)ことは明らかであろう。このような
民有地乃至は私有地については、明治五年二月二四日大蔵省達二五号「地所売買譲
渡ニ付地券渡方規則」、同年九月四日大蔵省達一二六号「地券渡方規則の追加規
則」及び明治六年七月「地租改正施行規則」に基づいて地券が所有者に授与された
のである。Dが明治七年七月四日に当時の愛知県令Eから授与された地券は、これ
までに詳述してきた事情に徴すれば、前記「地租改正施行規則」第一二則に基づく
新開試作地の地券であつたことは頗る明確である。従つて、この点に関する控訴人
等の主張は、全く正当性がなく失当のものであるから排斥されるべきである。
2 五の2の事実について
控訴人ら主張事実のうち、各種契約書、海面新開試作場売渡証券及び委任状等が作
成され、そのような各種の契約がなされた事実は認めるが、その他の点は、いずれ
も否認する。すなわち、
(一) 明治七年七月四日に地券の下附を受けたDが、その後、<地名略>の六町
九反九畝拾壱歩を開墾したことは前述したとおりである。
(二) 控訴人らが記載した各種契約証の文言(例えば、「新開場成功ノ上ハ現地
反別拾分ノ壱分四厘其成功シタル反別ノ歩合丈宛其都度相渡可申」とか、「拙者共
ノ都合ニ由リ右地他人ヘ売渡且譲渡候節ハ必ス後ノ所有者ニ於テ此契約ハ無相違相
続可為致候」とか、「官有地海面ト新開場トノ境界ハ言々」とか、「拙者共今般該
御村地先新開試作地持主Dヨリ買受ケタ上ハ」とか、契約書の表題を「海面新開試
作場売渡証券」としたとか、「大崎村地先海面新開試作地ノ儀ハ明治一五年中地元
入会村々協議ノ上買受候ニ付其代金割賦法ハ地元村ニ於テ七分入会村々ニテ三分ト
定メ其所有権ニ至リテハ右買受ノ歩合ニ準拠スヘキハ勿論」の文言参照。)によれ
ば、D又はその後の譲受人等は、新開試作地につき所有権を有していたことは疑い
を容れないところであつて、その契約の相手方も亦明確にD又はその後の譲受人を
新開試作地の所有者と認識して、それら所有者から捕魚採藻貝取等の稼方について
承諾を得ているのである。すなわち契約の相手方が捕魚採藻貝取等の稼をなし得る
のは、契約上の合意に基づく形成的乃至は設定的事実関係であつて、控訴人らの主
張する如き契約の相手方が従前から有していた公共海面(公用を廃止した海面につ
きDが地代金を支払つて払下げを受けたのであるから、相手方の従前の公共海面に
おける稼方は不能になつたものである)における稼方の確認条項ではない。
契約の相手方は、右の事情を適確に認識して、前記各種の契約を締結したのであつ
て、もし契約の相手方において依然として公共海面として稼方が可能であつたとす
れば、何も斯る契約を締結する必要のないことは、既に述べたところである。
控訴人らは、要するに地代金の支払による土地の払下げ制度と、埋立開墾等による
土地の大変換が近隣地域に及ぼす影響をチエツクせんとする目的を持つ開発許可制
度とか全く別個の制度である点を認識せず、地代金の支払を開発許可の対価である
との間違つた認識を持つているため誤つた主張を繰返しているのである。新開試作
地の開発許可の場合には、一般に土地の払下げと、開発許可とが殆んど時を接して
行われるので、控訴人らの如き誤解が生じ易いのである。
土地の払下げ制度と、開発許可制度とは、右に述べたとおり、別個の制度であるか
ら、明治八年七月八日地租改正事務局議定の「地所処分仮規則」第四条は「旧藩県
ニテ開墾願済未タ地代金ヲ納メスシテ現今未着手ノモノハ其所有トナスヘカラス 
尤モ地代金ヲ納メストモ旧藩県ヨリ授与セラレタル確証アルモノハ其所有ト定ムヘ
キ事」と定めて、地代金を納めていれば、開墾に着手していなくても土地所有者で
あるという当然の理を明確にしたのであり、また、明治一一年一二月老津村総代理
Gが、当時の愛知県令Kに対して、Dが年季継年限中に開墾しないから地券証を引
上げるのかとの「新開地取扱方御伺」をしたのにかゝわらず、県がDより地券を取
上げなかつたのは、払下げ制度と開発許可制度とが別個のものであつたからであ
る。
本件新開試作地は後日地目の変更があり、最終的には「池沼」として地租が賦課さ
れるに至つたことは、既に述べたところである。
第三 証拠関係(省略)
○ 理由
一 被控訴人らが、本件土地について原判決の別紙第一ないし第三物件目録(但し
第二物件目録記載の物件については本判決主文において訂正したもの、以下同じ)
記載のとおりの共有持分の登記を有していたこと、本件土地の共有者中被控訴人ら
を除く一部の者から「登記原因及びその日付」を「年月日不詳海没」とした滅失登
記申請がなされたので、控訴人らにおいて昭和四四年九月二三日の秋分の日の満潮
時に実地調査をなした結果、本件土地が海面下の土地となつていることを確認した
上、同月二四日及び二五日に本件各滅失登記処分をしたことは当事者間に争いがな
い。
そして、成立に争いのない乙第六号証の一、二、第七、八号証、第九号証の一、
二、第一〇号証の一ないし一二、第一一号証の一ないし一〇によれば、右の秋分の
日の満潮時において本件土地は控訴人らの確認したとおりの状況にあつたことが認
められ、また、当審における検証の結果によれば昭和五二年三月二一日の春分の日
の満潮時にも本件土地は海面下に没していたことが認められる。
二 控訴人らは、本件滅失登記処分をしたのは、潮の干満のある水面について、陸
地と公有水面との境界線は春分及び秋分の日における満潮時の潮位を標準として定
めるべきであり、本件土地のように右標準時に海面下となる土地は、現行法上私権
の成立を認めることができないからであると主張する。そして成立に争いのない乙
第一ないし第四号証によれば、海面下の土地の登記等に関し、控訴人らの右主張の
とおりの内容の法務省民事局の通達・回答が出されており、控訴人らの右主張もこ
の行政先例の見解に従つたものであることが認められる。
三 しかしながら、以下に述べるとおり、控訴人らの右主張はこれを採用すること
ができない。
先ず、こゝで問題とされる所有権の客体としての「土地」とは、飽くまで法律上の
概念であつて、自然的・物理的な概念ではないから、土地の定義について格別の規
定がない現行法の下では、法律上所有権の客体となりうる性質を備える物であるか
どうかが土地の概念を決定する要素として捉えられなければならない。そうする
と、右の意味における土地であることの要件としては、人による事実的支配が可能
であつてかつ経済的価値を有する地表面であることを以て足りると解すべきであつ
て、海面下の地盤であつても右の要件を充たす限り、これを法律上所有権の容体と
なりうる「土地」と認めて妨げないと解するのが相当である。
もつとも、土地について所有権の成立を認めるか否かは立法政策の問題であつて、
時の法律いかんによる訳であるから、現行法上、海面下の地盤について明確に私所
有権の成立を否定しているものがあるかどうかを検討しなければならない。
この点に関し、控訴人らは民法上「土地」とは「陸地」のみを意味し、本件のよう
な海面下の地盤は土地ではないと主張し、民法二一〇条、二六五条、二七〇条等の
規定はこの解釈を裏付けるものであると主張する。しかし、右の民法二一〇条の規
定及びその前身である旧民法財産編二一八条の規定は相隣関係における被囲繞地の
概念を定めるために土地、河川、海洋等の用語を用いているに過ぎないものであつ
て、所有権の容体となるべき土地の概念を定める規定ではない(なお、控訴人らの
指摘する旧民法財産編二二条一号のような規定は現行民法には存在しないし、旧民
法の右規定自体も所有権の成立しうる土地の範囲を定めたものとは解せられな
い)。また民法二六五条、二七〇条の各規定も、地上権、永小作権の内容を定める
ために土地という用語を用いているに過ぎず、これらの規定があるからといつて、
民法上の土地の意味を控訴人らの主張のように解することはできないといわざるを
えない。
次に、控訴人らは、河川法の規定の類推適用により、海面下の土地は私権の目的と
することができない旨を主張する。しかし旧河川法(明治二九年法律第七一号)三
条は「河川並其ノ敷地若ハ流水ハ私権ノ目的トナルコトヲ得ス」と規定していたけ
れども、現行河川法(昭和三九年法律第一六七号)は二条二項において「河川の流
水は私権の目的とすることができない。」旨を規定するだけで、河川敷についての
私権排除の規定を置いていない。そうすると、現行法は、河川敷について私権の成
立を否定しなくても、公共用物である河川の適正な管理に必要な限度で右の私権に
制限を加えることができるとすれば足りるものとして、河川敷についての私権排除
の規定を設けなかつたものと解される。なお右のように解するときは不動産登記法
八一条ノ八第二項「河川法ノ適用又は準用セラルル河川ノ河川区域内ノ土地が滅失
シタルトキハ河川管理者ハ遅滞ナク滅失ノ登記ヲ嘱託スルコトヲ要ス」る旨の規定
が適用されるのは、単に河川区域の土地が流水敷になつた場合ではなく、流水が常
時流れることになつた結果、右土地について人による支配可能性及び財産的価値が
なくなつた場合であると解すべきである。そうすると、現行河川法は河川敷につい
て私権の成立を認めているものと解される上、海面については現行法上、海水が私
権の目的となり得ない旨の規定すら存在しないのであるから、控訴人らの前記主張
は、いずれにしても採用の限りでない。
更に、控訴人らは、公有水面埋立法一条、二四条を援用して、公有水面は個人の独
占を許さない公共用物であつて、私人の所有権の目的とはなり得ないものであるか
ら、その地盤も、公有水面と同一体をなすものとして公共用物を構成し、私権の成
立を許すべきではない旨を主張する。しかし同法にいう公有水面とは、公共の用に
供しかつ国の所有に属する水流又は水面を指称するものであること、及び私人の土
地上の水面や公共の用に供されていない水面は私有水面であつて、同法にいう公有
水面とはいえないことは、同法一条一項の法文上明らかであるといわねばならな
い。また、公有水面埋立地の所有権取得について定めた同法二四条の規定も、国の
所有に属する公有水面についてのみ適用され、意味があるのであつて、私有水面を
埋立てた場合に同条の適用のないことは明らかである。したがつて、本件における
海面下の地盤が既に国の所有に属し、かつ海面が公共の用に供されていることを前
提とする控訴人らの右主張は、右の前提自体が問題とされている本件においては無
意味な主張であつて、採用の限りでない。
その他、現行法には、海面下の土地について私人の所有権の成立しうろことを前提
とする法規がいくつか存在する。すなわち、先ず海岸法三条は、海岸保全のために
陸地及び水面を含めて海岸保全区域を指定する制度を設けているが、この指定の対
象となる陸地及び水面には民有地も含まれると解される。また、港湾の開発利用管
理のために、地方公共団体による港務局の設立等を定めた港湾法は、その四条二項
において、港務局の設立に関し、私有港湾の存在を前提とする例外規定を設けてい
る。更に、漁業法一三条一項四号は都道府県知事が漁業の免許をなし得ない場合の
一つとして「免許を受けようとする漁場の敷地が他人の所有に属する場合又は水面
が他人の占有に係る場合において、その所有者又は占有者の同意がないとき」と規
定し(漁業権存続期間特例法一条二項二号にも同旨の規定がある)ているが、右の
規定は漁場(水面)の敷地が私人の所有に属することがあることを前提とするもの
である。
したがつて、民法上の土地が陸地に限る旨の控訴人らの主張は現行法制上もこれを
認めることができない。民法上の土地は陸地と同一でなければならないものでもな
く、陸地は常に公有水面と接していなければならないものでもない。海面下の土地
も、単に海面下にあることの故に私権の対象とならないということはできない。そ
れは、常時自然公物たる海水によつて覆われることにより一種の公用負担を負う土
地であり、あるいは、海岸法により海岸管理上の規制を受ける場合もある土地であ
るにしても、支配可能性と経済的価値とを備える限り、私権の客体となりうるもの
と解すべきである。海と陸との境界を春分又は秋分の日の満潮位の線を以て画し、
この基準時に、海面下に没する土地については私人の所有権は認められないとする
控訴人らの主張はこれを採ることができない。土地が海没によつて、滅失したと見
るべきか否かは、そのような基準によるべきではなく、当該土地が海面下になつた
経緯、現状、当事者の意図、科学的技術水準などを勘案して、その支配可能性及び
経済的価値の有無を判断することによつてきめなければならないものである。
四 そこで次に本件土地の沿革及び現状について検討する。
いずれも成立に争いのない甲第二号証、第四ないし第一三号証、第二三ないし第二
五号証、第二六号証の一、二、第三五号証、第四四ないし第四八号証、第五六ない
し第六一号証、第七四ないし第七六号証、第七八号証の一ないし三、第八〇ないし
第八二号証、第八四号証、第九九ないし第一〇三号証、第一〇五ないし第一一一号
証、第一一三号証、乙第六号証の一、二、第七、八号証、第一〇号証の一ないし一
二、第一一号証の一ないし一〇、第八一ないし第八八号証、いずれも原本の存在及
び成立について争いのない甲第三九ないし第四三号証、第五〇ないし第五五号証、
乙第六六ないし第七一号証、原審証人Oの証言(第一回)により、成立を認める甲
第三号証、第二一、二二号証、第二八号証、第一二六、三七号証、第三八号証の一
ないし三、原審同証人の証言(第二回)により、成立を認める甲第六七号証、原審
同証人の証言(第四回)により成立を認める甲第二七号証の一、二、第九一号証の
一、二、当審同証人の証言(第二回)により成立を認める甲第一一七ないし一一九
号証、原審証人Qの証言により成立を認める甲第八五号証、第八七号証、第九二号
証、第九五号証、原審における被控訴人R本人尋問の結果により成立を認める甲第
三一ないし第三四号証、当審証人Sの証言により成立を認める乙第三〇号証の一な
いし三、第三四号証、第三五号証の一ないし九、第三六号証の一ないし六、第四三
号証、当審における検証の結果、原審並びに当審証人O(原審は第一ないし第五
回、当審は第一、二回)原審証人T、同Q、同U、当審証人S、同V、同W、同X
の各証言、原審における被控訴人R本人尋問の結果を総合すると次の事実が認めら
れる。
(一) 本件土地は、いずれも田原湾沿岸を形成するいわゆる海面下土地の一部で
あるが、田原湾内の豊橋市<地名略>、同市<地名略>、同市<地名略>、渥美郡
<地名略>の各地区の海面下土地の総面積は約一三七九万平方メートル(但し土地
台帳上の総面積は約六四一万平方メートル)であり、右のうち本件土地は豊橋市杉
山町地区と渥美郡田原町地区の二カ所に分かれており、右二地区の登記簿上の面積
は前者が三六万〇八九〇平方メートル、後者が一八万二六七九平方メートルであ
る。
(二) 前記のように本件土地は満潮時においては海面下に没するが、日に二回の
干潮時においては砂泥質の地表を露出するいわゆる干潟(汐川干潟という)であ
る。そして田原湾の潮の干満の差は最大約三メートルに達するものであり、昭和四
四年九月二三日の秋分の日のほぼ満潮時における本件土地の水深は〇・六メートル
ないし二メートルであつたが、この潮の干満の程度は昔も現在もあまり変りはな
い。もつとも干潮時において、右干潟のすべての部分が露出することはなく、澪筋
と呼ばれる川状の部分は、水面下に残り、船舶は右の澪筋を通つて田原湾へ出入り
している。
(三) 右の干潟を形成する田原湾一帯を外海(三河湾)と別個のものとして干拓
しようとした計画は古く江戸時代初期からあつた。後期に入つてから天保五年(一
八三四年)二月頃には尾張国名古屋鉄砲町の住人専一外三名が徳川幕府にその開発
を願い出て、新開に着手し、また安政五年(一八五八年)には尾張国名古屋桑名町
平民Dが大崎、老津、杉山、谷熊、今田古胡、浦、波瀬八ヶ村地先、海面大縄反別
四八七町九反歩を地代金三一両一分と永一四〇文を徳川幕府に上納して右干潟の新
開に着手したが、いずれも資金の欠乏から失敗した。そして本件土地は古くから右
の村々の住民が田の肥料とするために藻草を採取し、また貝や魚を捕取していた場
所であつたため、右の開発を願い出たDは地元の村々との間で新開落成するまでの
間は村々の住民は自由に本件土地で採藻捕魚をしてもさしつかえない旨の約定をと
り結んでいた。
(四) 明治七年七月二日、Dは当時の愛知県令Eに対して本件土地を含む渥美郡
<地名略>外七ヶ村地先海面入江新開大縄反別一三七八町歩の内、新開反別八八七
町九反歩について新開試作地として地券の下付を願い出て、同年同月四日、地券の
下付を受けた。その後、明治一一年一二月、三河国渥美郡老津村総代理G他の者が
当時の愛知県令Kに対して、右の地券下付後鍬下年期中に開墾が行われていないか
ら地券を引上げてはしい旨の上申がなされたが、同県令はこの上申を取上げなかつ
た。(同県令の右の処置は明治八年七月八日地租改正事務局議定地所処分仮規則第
三章第四条「旧藩県ニテ開墾願済未タ地代金ヲ納メスシテ現今未着手ノモノハ其所
有トナスヘカラス尤モ地代金ヲ納メヌトモ旧藩県ヨリ授与セラレタル確証アルモノ
ハ共所有ト定ムヘキ事」によつたものと推認される。)
右地券の交付を受けたDは、明治一三年一二月二七日大崎村惣代に対し、新開場中
捕魚藻採貝取等は新開落成にならない間は、其の村において自由にできること及び
地券に記載された土地を他へ譲渡するときは、後の所有者にこの旨を必らず引継ぐ
ことを約したが、その後地券が転々譲渡されるとともに、その譲受人らはいずれも
大崎村に対し、右のDの約定を引き継ぎ、これを守る旨の証文を差入れていた。そ
して、明治一七年五月に大崎村、野依村、植田村は、大崎村地先の海面下土地につ
いての地券を取得し、また老津村地先の海面下土地についての地券は、明治一五年
に同村共有総代人に譲渡され、これにより、大崎村老津村の村民は安んじて、漁業
に専念できるようになつた。
右地券に表示された土地の鍬下年期は当初五カ年であつたが、延期願が認められて
明治一八年までとなつた。そこで右土地が有税地となるので、明治一九年一〇月二
六日旧慣によつて分割することの願出がなされ、これが愛知県によつて認められて
各村の境界を確定する図面が作成され、八ヶ村に下付された。
その後本件土地は、転々譲渡され、現在被控訴人らが買受けた結果、原判決の物件
目録記載のとおり被控訴人らの共有持分権が登記されている。
(五) 本件土地は、地租台帳、土地台帳に池沼汐溜として登載され、地価、譲渡
の事実が記載されており、また不動産登記法施行後は登記簿上地目を池沼として登
記された。そして本件土地は転々譲渡され、金融機関は本件土地に担保権を設定し
て所有者に金融をしていた。このような本件土地を含む田原湾一帯の土地の譲渡は
私人と私人との間だけでなく国との間でも行われた。すなわち、昭和一四年頃には
海軍省が前記地券に表示された田原湾内の土地一部を飛行場とするため土地代金一
反当り金七〇円、漁業補償金一反当り金七二円で買収している。
国は、本件土地について大正一五年頃鍬下年季が廃止された後、地租の徴収を開始
し、その後昭和三六年に豊橋市がまた昭和三八年に田原町が固定資産税の徴収を停
止するまで本件土地には租税が賦課されていた。
また、本件土地と同様の土地である渥美郡<地名略>池沼一二〇八五二平方メート
ルについて大正一五年一月二六日大蔵省が、昭和八年五月二五日愛知県が、昭和二
九年八月二六日田原町がそれぞれ当時の共有者の持分について差押をなし、特に後
二者は公売処分がなされている。また本件土地のうちの原判決第三物件目録一記載
の土地についても昭和八年九月二七日愛知県が滞納処分による差押をしている。
(六) Dが地券を取得した当時、同人と当時の大崎村七ヶ村との間の協議で本件
干潟の海面境界が絵図面で協定されており、以後現地において境界杭が設置されて
きた。その後分筆登記がなされてきたことは前記のとおりであるが、昭和一一年頃
の帝国市町村地図刊行会発行の地図にも各土地の区画が記載されており、本件干潟
の区画は明確になつている。
(七) 本件土地等の海面について漁業協同組合が漁業権の免許を受けるに当た
り、土地所有者(大崎地区については大崎海面土地管理申合組合)の同意を要し
た。また、漁業権存続期間特例法の施行に伴い、大崎漁業協同組合は昭和三六年八
月一日、同法一条の規定による土地所有者の同意を右大崎海面土地管理申合組合か
ら受け、かつ同組合に対して本件土地の使用料を支払つていた。
また、右組合は昭和三三年七月二三日と同三六年三月二〇日に豊橋市長との間で、
愛知県が行うしゆんせつ工事に関し海面下土地の借地契約を締結し、借地料の支払
を受けている。
(八) 昭和二三年頃、原判決の第二、第三物件目録記載の土地の当時の所有者は
田原町漁業会を被告として、名古屋地方裁判所豊橋支部に右土地への立入禁止等を
求める訴を提起したが、右の訴訟につき同二四年一一月二六日、被告は右土地につ
いて原告が所有権を有することを認め、右土地で入漁しないことを約する旨の和解
が成立している。
(九) 昭和三九年頃、愛知県は本件土地を含む田原湾一帯の干潟について埋立を
計画し、この計画を実行するため、本件土地を含む海面下土地につき海没により滅
失したものとしてその旨の登記を行うことを考え、右土地の登記簿上の共有持分権
者に対して任意に滅失登記申請をなすことを勧告し、任意に滅失登記申請をした者
に対し、協力感謝金の名目で一坪当り金二五〇円の金員を支払つた。右の協力感謝
金は愛知県の予算執行及び勘定科目上は「補償費」として処理された。
一方、昭和四四年三月一七日愛知県は、福田産業株式会社が共有持分権を取得した
原判決の別紙第二、第三物件目録記載の土地を含む田原湾内の海面下土地につい
て、同社との間に、同社は滅失登記の申請に協力し、県は同社に対し優先的に埋立
地の分譲を行うこと、埋立地の譲渡価格及び支払条件については同社の取得価格に
鑑み県は格別の配慮をもつて決定すること等の約定を結んでいる。
以上の事実が認められ他に右認定を左右するに足る証拠はない。
五 右に認定した事実関係によれば、本件土地は満潮時には、全域にわたつて海水
で覆われる場所であるが、かつて陸地であつた場所が海没して海面下になつた場所
でも、人為的に土地を堀さくして海面とした人工海面でもないことが明らかであつ
て、明治七年にDは本件土地につき地券の交付を受けたことによりこれを海面のま
まで払下を受けたものであるということかできる。
控訴人らは海面のままで払下げても、海面に私人の所有権を認めることはできず、
Dは右の地券によつて海面の埋立権を取得したにすぎないものである旨を主張する
ので、当時の法制について次に検討する。
明治政府は地租改正の準備のため、租税を負担する土地(田畑)の永代売買の禁を
解いて土地の流通取引を許し(明治五年二月一五日太政官布告第五〇号)、土地を
して新租税制度における租税額決定の標準たる地価を有するものとし、地価及び租
税義務者たる土地所有者を確定する手段として「地券」の制度を創設した(明治五
年二月二四日大蔵省達第二五号地所売買譲渡ニ付地券渡方規則)。右規則第六には
「地券ハ地所持主タル確証ニ付大切ニ可致所持旨兼テ相論置可申候・・・・・・」
と定められており、Dが取得した地券は右の規則にのつとつて発行されたものとい
うことができる。
そうすると、Dは、被控訴人らの主張するように、安政五年に徳川幕府から本件海
面を埋立の目的で払下げを受けたことによつて本件土地の総括的支配権を取得した
ものであると断定することは困難であるけれども、明治七年に右地券を交付された
ことによつて本件土地を含む本件干潟の払下を受けたものと認めるのが相当であ
る。そして、以下に述べるように、本件地券が発行された当時の法令は、海水に覆
われている海面であつても、これが公物であることを前提として、埋立の目的で私
人に払下げ(譲渡)することができるとしていたものということができる。
すなわち、明治四年八月大蔵省達第三九号「荒蕪不毛地払下ニ付一般ニ入札セシ
ム」は海岸寄洲及び海面の払下げを認め(その地域に民法上の土地所有権が認めら
れた事例がある。最高裁判所昭和五一年(オ)第一一八三号事件、昭和五二年一二
月一二日言渡、判例時報八七八号六五頁)、また明治七年太政官布告第一二〇号
「地所名称区別」は官有地第三種に海を含め、明治六年七月の太政官布告第二七二
号地租改正法の地租改正施行規則は担税力のない土地についても地券が下付される
べき旨を定めている。
また、本件地券交付後の法令中にも海面下の土地の払下を認める規定を見出すこと
ができる。すなわち、明治一〇年一月二〇日太政官布告第八号民有荒地処分規則四
条は「川成海成湖水成等ノ荒地ニシテ地主持続クベキ望アルモノハ拾年ノ年期ヲ定
メ無代価ノ券状ヲ付与スヘシ・・・・・・」と定め、明治一七年三月太政官布告第
七号地租条例(明治二二年法律第三〇号による改正)二四条は「川成海成、湖水成
ニシテ免租期明に至り原形ニ復シ難キモノハ更ニ二十年以内免租継年期ヲ許可ス其
年期明に至り尚ホ原地目ニ復セス他ノ地目ニ変セサルモノハ川、海、湖ニ帰スルモ
ノトス」と定め、昭和六年法律第二八号地租法五五条は「荒地ニ付テハ納税義務者
ノ申請ニ依リ荒地ト為リタル年は其ノ翌年ヨリ十五年内ノ荒地免租年期ヲ許可ス。
前項ノ年期満了スルモ尚荒地ノ形状ヲ存スルモノニ付テハ更に十五年内の年期延長
ヲ許可スルコトヲ得。海湖又ハ河川ノ状況ト為リタル荒地ニ付テハ前項ノ延長年期
ハ二十年内トス。其ノ年期満了スルモ尚海湖又ハ河川ノ状況に在ルモノハ本法ノ適
用ニ付テハ海、湖又ハ河川ト為リタルモノト看做ス。」と定めている。これらの規
定は、海面下の土地についても一定の免租期間を設け、海面下になつていることを
もつて直ちに、これを国の所有に帰属させることはせず、なお一定の期間私人の土
地所有権を認めているものであることが明らかである。
したがつて、大正一〇年四月九日に公有水面埋立法が制定されて公有水面埋立手続
が整備された後は、国の政策上、海面のまま私人に払下げることはなくなつたけれ
ども、一たん払下によつて付与された私権は、その後の法令の改廃によつて当然に
消滅するものではないと解すべきである。
六 右のようにDは地券の交付を受けることによつて本件土地の払下を受けたもの
と認めるべきであるが、前記四において認定した事実関係から見れば、本件土地が
私人の所有権の対象となるものであることは明らかであるといわねばならない。
すなわち、本件土地は干潮時に地表を露出し、満潮時の水深も約〇・六九メートル
ないし二メートル程度に過ぎない田原湾干潟の一部であつて、右干潟は他の海面と
は明確に区画区別されてきたもので、実測の上地図が作成されたこともあること、
明治七年七月四日にDが地券の下付を受けて以来、約九〇年の間本件土地は地狙台
帳、土地台帳に池沼、汐溜として登載され、登記簿上は地目を池沼として登記さ
れ、分筆登記されて転々売買譲渡され、又は金融機関に対する担保に供されてきた
こと、本件土地及びこれと同様の土地につき大蔵省・愛知県・田原町が差押公売処
分をなしたことがあり、海軍省が本件土地の一部を買収したことがあること、国又
は地方公共団体が昭和三八年までは本件土地につき地租固定資産税を徴収してきた
こと、漁業会や漁業協同組合が本件土地の所有権を認め、本件土地の使用料の支払
をしていたこと、愛知県が本件土地の滅失登記申請をなした者に対して、「協力感
謝金」を支払い、予算執行上これを「補償費」として処理し、福田産業株式会社と
の間に本件土地に経済的価値があることを前提とする約定を結んでいること、はい
ずれも前認定のとおりである。これらの事実によれば、本件土地は、私人による事
実的支配が可能であつて現実にそのように支配されて来たものであり、かつ経済的
価値を有するものであつて国や地方公共団体からもそのようなものとして扱われて
来たものであるということができる。
七 以上の認定判断によれば、本件土地は、Dが明治七年七月四日に地券の交付を
受けたことによつて、その所有権を取得したものであり、その後の譲渡により現に
被控訴人らにおいてその主張する割合の共有持分権を有しているものであるといわ
ねばならない。そうすると、本件土地について、被控訴人らをのぞく一部の共有名
義人の申請にもとづき「海没により滅失」したとしてなされた本件滅失登記処分
は、その余の点について判断するまでもなく、違法であるといわなければならな
い。
よつて右処分の取消を求める被控訴人らの本訴請求はいずれも理由があり正当とし
て認容すべきところ、右と同旨に出た原判決は相当であるから、本件控訴はこれを
棄却すべきである。なお原判決の第二物件目録のAの共有持分に誤記があるのでこ
れを訂正し、民事訴訟法八九条、九三条一項本文九五条を適用して主文のとおり判
決する。
(裁判官 秦 不二雄 三浦伊佐雄 高橋爽一郎)

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