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判示事項の要旨
本件は,原告が被告Aに対する傷害被告事件で起訴され有罪判決を受けたこと等
につき,原告が,被告A及び同被告の受傷について加療4日を加療4か月と誤診し
た被告Bに対し,不法行為に基づく損害賠償を,被告国に対し,検察官(札幌地方
検察庁浦河支部検察官事務取扱副検事)の違法な公権力の行使を理由とする国家賠
償法1条1項に基づく損害賠償を請求した事案で,検察官が通常要求される捜査を
怠ったとして被告国に対する請求を一部認容し,その他の請求を棄却したものであ
る。
主文
1被告国は,原告に対し,50万円及びこれに対する平成17年10月1日か
ら支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2原告の被告国に対するその余の請求並びに被告A及び被告Bに対する請求を
いずれも棄却する。
3訴訟費用のうち,原告と被告国との間に生じたものは,これを20分し,そ
の19を原告の,その1を被告国の負担とし,原告とその余の被告らとの間に
生じたものは,原告の負担とする。
4この判決は,第1項に限り,本判決が被告国に送達された日から14日を経
過したときに,仮に執行することができる。ただし,被告国が40万円の担保
を立てるときは,その仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第1当事者の求める裁判
1請求の趣旨
(1)被告らは,原告に対し,連帯して,1000万円及びこれに対する被告国
は平成17年10月1日から,被告A及び被告Bは同月2日から各支払済み
まで年5分の割合による金員を支払え。
(2)訴訟費用は,被告らの負担とする。
(3)仮執行宣言
2請求の趣旨に対する答弁
(1)被告Aの答弁
ア原告の被告Aに対する請求を棄却する。
イ訴訟費用のうち,原告と被告Aとの間に生じたものは原告の負担とする。
(2)被告Bの答弁
ア原告の被告Bに対する請求を棄却する。
イ訴訟費用のうち,原告と被告Bとの間に生じたものは原告の負担とする。
(3)被告国の答弁
ア原告の被告国に対する請求を棄却する。
イ訴訟費用のうち,原告と被告国との間に生じたものは原告の負担とする。
ウ仮執行の宣言は相当ではないが,仮執行宣言を付する場合は,その執行
開始時期を判決が被告国に送達された後14日経過したときとすること,
及び担保を条件とする仮執行免脱宣言を求める。
第2事案の概要
本件は,原告が被告Aに対する傷害被告事件で起訴され有罪判決を受けたこ
と等につき,原告が,被告A及び同被告の受傷について誤診をした被告Bに対
し,不法行為に基づく損害賠償を,被告国に対し,検察官(札幌地方検察庁浦
河支部検察官事務取扱副検事)の違法な公権力の行使を理由とする国家賠償法
1条1項に基づく損害賠償を請求した事案である。なお,地名等は,当時の名
称による。
1前提となる事実
争いのない事実並びに後掲証拠及び弁論の全趣旨によると,次の事実を認め
ることができる。
()当事者1
ア(ア)原告は,肩書地においてCファームという名称の繁殖馬を飼育する牧
場を経営している。(乙イ2)
(イ)原告は,昭和61年ころD軽種馬農業協同組合の組合員となり,原告
の飼育馬は平成9年ころから同組合の診療事業部診療課E診療所(以下
「E診療所」という。)の獣医師による診療を受けていた。(乙イ2,
3)
イ被告Aは,E診療所の所長であり,上記事業部所属の獣医師である。
(乙イ2)
ウ被告Bは,北海道苫小牧市所在のF総合病院の歯科医師である。(甲3,
乙イ2)
()本件事件等2
ア平成14年6月5日,Cファーム坂路馬場内において,原告が被告Aに
暴行を加えて傷害を負わせるという出来事があった(以下,この出来事を
「本件事件」といい,被告Aが負った傷害を「本件傷害」という。)。
(乙イ2ないし4)
イ原告は,本件事件につき,平成15年2月24日に北海道警察札幌方面
E警察署(以下「E署」という。)に傷害罪で通常逮捕され,同月25日
に札幌地方検察庁浦河支部検察官に送致され,同支部検察官事務取扱副検
事G(以下「G副検事」という。)の請求により,同日,勾留された。
(乙イ2)
ウG副検事は,平成15年3月14日,原告に対する傷害被告事件(以下
「本件刑事事件」という。)の公訴を札幌地方裁判所浦河支部に提起し
(以下,この公訴の提起を「本件起訴」という。),同事件は,同年4月
8日,札幌地方裁判所苫小牧支部に回付された。
本件刑事事件の公訴事実は,「被告人は,平成14年6月5日午後2時
45分ころ,北海道沙流郡E町字Haaa番地Cファーム坂路馬場内にお
いて,A(当時45歳)に対し,その顔面を手拳で殴打するなどの暴行を
加え,よって,同人に全治約4か月間を要する下顎骨亀裂骨折等の傷害を
負わせたものである。」というものであった。(甲5,乙イ2)
エ札幌地方検察庁苫小牧支部検察官事務取扱副検事I(以下「I副検事」
という。)は,平成15年7月15日の本件刑事事件の第4回公判期日に
おいて,「公訴事実中「全治4か月間を要する下顎骨亀裂骨折等」を「加
療約4日間を要する左頬部,上口唇・下口唇部等擦過創」に改める。」と
する訴因変更を請求し,札幌地方裁判所苫小牧支部はこれを許可した。
(甲6,乙イ2)
オ札幌地方裁判所苫小牧支部は,平成15年8月26日,原告に対し,本
件刑事事件について,罪となるべき事実を「被告人は,平成14年6月5
日ころ,北海道沙流郡E町字Haaa番地Cファーム坂路馬場内において,
A(当時45歳)に対し,その顔面を手拳で殴打するなどの暴行を加えて,
同人に加療約4日間を要する左頬部,上口唇,下口唇部等擦過創を負わせ
た。」とする罰金6万円の有罪判決をした。
原告は,上記判決に対して控訴及び上告をしたがいずれも棄却され,同
判決は平成16年6月29日に確定した。(乙イ2ないし4)
カ原告は,平成15年2月24日に逮捕されて同月25日に勾留され,同
年6月4日に保釈されるまでの間,身柄を拘束されていた。(乙イ2)
キ本件傷害については,本件起訴までの間に,以下(ア)ないし(エ)の診断書
等が存在していたが,(ウ)及び(エ)における被告Bの,被告Aには下顎骨亀
裂骨折があり初診日から3か月程度の経過観察を要するとする診断(以下
「被告B診断」という。)は誤診であった。
(ア)平成14年6月5日付けJ病院のJ医師作成の診断書(以下「J診断
書1」という。)(甲1,乙イ2)
(イ)平成14年6月6日付けJ医師作成の診断書(以下「J診断書2」と
いう。)(甲2,乙イ2)
(ウ)平成14年8月27日付け被告B作成の診断証明書(以下「被告B診
断書1」という。)(甲3)
(エ)平成15年3月5日付け被告B作成の診断証明書(以下「被告B診断
書2」という。)(乙イ8の1,2)
2当事者の主張
(原告の主張)
()本件事件及び被告B診断と本件起訴1
ア本件事件は,原告と被告Aが言い合いの結果もみ合いとなり,原告も加
療約7日間を要する傷を負ったというものである。
イ原告は,本件事件から8か月経過して突如逮捕され,本件事件の2か月
以上後に作成された下顎骨亀裂骨折で加療約4か月を要するという被告B
診断書1に基づいて起訴され,本件刑事事件の公判の過程で被告B診断が
誤診であることが判明して訴因変更がされたが,有罪判決を受け,また,
100日間にわたって勾留された。
()被告Aの責任2
ア被告Aは,本件傷害が加療約3日間を要する左頬部,上口唇・下口唇擦
過創であったにもかかわらず,本件事件から約1か月経過後の平成14年
7月1日に被告Bの診断を受け,事実とは異なる「全治約4か月間を要す
る下顎骨亀裂骨折」という被告B診断書1を作成させ,これをE署や札幌
地方検察庁浦河支部に提出し,原告を傷害罪で起訴させ,100日間の勾
留をさせた。
イこれは,民法709条の不法行為を構成する。
()被告Bの責任3
ア被告Bは,本件傷害につき,下顎骨亀裂骨折と事実と異なる診断をした
点に故意又は過失がある。
イまた,被告Bは,被告Aの下顎骨亀裂骨折に疑問を抱き始めて以降も,
検察官からの問い合わせに対して,診断を変えておらず,この点に作為な
いし重大な過失がある。
ウ被告Bの誤診がなく,本件傷害が全治4日間程度のものなら,原告に対
して逮捕,起訴及び長期の勾留がされることはなく,原告が刑事責任を問
われたとしても,通常の事件処理に従えば,略式命令あるいは在宅起訴の
可能性が大であった。
()被告国の責任4
アG副検事には,本件傷害につき,既に「加療約3日間」とするJ診断書
1及び2が存在したにもかかわらず,被告Aが被告Bをして作成させた被
告B診断書1を安易に信用し,漫然と原告が被告Aに全治約4か月間を要
する下顎骨亀裂骨折の傷害を負わせたとして起訴した過失がある。
イG副検事は,平成15年3月13日に,被告Bに対して簡単な電話聴取
をしたのみで上記診断書をそのまま信用しているが,J診断書1及び2と
の違いが大きいのであるから,起訴するに際しては,改めてほかの医師の
診断を求めるべきであったにもかかわらず,これをしなかった過失がある。
ウG副検事が少しの注意を払い,慎重に捜査をすれば,被告Bの誤診に気
付いたはずであり,本件起訴のような誤った起訴がされることはなく,裁
判の進行や勾留期間は異なっていたはずである。
エG副検事は国の公権力の行使に当たる公務員であり,同副検事には上記
のとおりその公権力の行使に当たって過失があるから,被告国は,国家賠
償法1条1項の責任を負う。
(5)損害
原告は,本件事件による逮捕が新聞で報ぜられ,狭い地域社会の中で名誉,
信用が毀損され,また,原告が身柄を拘束されていた期間は牧場において最
も忙しい出産や種付けの時期であった。これらのことからすれば,原告が被
告らの不法行為によって被った損害は,1000万円を下らない。
()よって,原告は,被告らに対し,連帯して,損害賠償金1000万円及び6
これに対する各訴状送達の日の翌日から各支払済みまで民法所定年5分の割
合による遅延損害金の支払を求める。
(被告Aの主張)
()原告の主張()(本件事件及び被告B診断と本件起訴)のうち,アは否認11
し(被告Aは原告から一方的に暴行を受けたもので,原告は負傷していな
い。),イの被告B診断書1の作成経緯は認め,その余は知らない。
()原告の主張()(被告Aの責任)は,否認し争う。22
被告Aが被告Bから下顎骨亀裂骨折との診断を受け,その旨の診断書を捜
査機関に提出した行為には,不法行為を構成する故意及び過失はない。
すなわち,被告Aは,本件傷害につき,本件事件直後の平成14年6月5
日及び同月6日にJ医師による左頬部擦過創,上口唇・下口唇擦過創により
約3日間経過観察等との診断を受け,捜査機関にJ診断書1及び2を提出し
た。しかし,被告Aは,数日経過しても顎部の痛みが消えず,次第に口を開
くことが困難になったため,改めて同年7月1日にF総合病院を受診し,被
告Bから「下顎骨亀裂骨折」との診断を受けたため,その旨の被告B診断書
1を捜査機関に提出した。被告Aは,本件事件の被害者として,傷害の程度
を正確に捜査機関に伝える意図で各診断書を提出したのであって,事実を歪
めて診断書を作成させたことはなく,これらの行為に原告に対する不法行為
を構成するような故意は観念できない。また,被告Aは,下顎骨亀裂骨折と
の診断を受けたからこそ,その旨の診断書を提出したのであって,自己の症
状の理由につき専門家たる歯科医師の診断を信じたことをもって被告Aに不
法行為を構成する過失があるとはいえない。
()原告の主張()(損害)は,否認する。35
(被告Bの主張)
()原告の主張()(本件事件及び被告B診断と本件起訴)のうち,イの被告11
B診断書1の記載内容は否認し(同診断書の記載は「今後3ヶ月程度の経過
観察を要する」である。),被告B診断が誤診であることが判明したことは
認め,その余は知らない。
()原告の主張()(被告Aの責任)のうち,被告Aが被告Bの診断を受け,22
被告Bが被告B診断書1を作成したことは認め,被告Aが「全治約4か月間
を要する下顎骨亀裂骨折」の診断書を作成させたことは否認し,その余は知
らない。
()原告の主張()(被告Bの責任)のうち,被告Bが誤診をしたことは認め,33
その余は否認し争う。
被告Bは,J病院でのレントゲンを見るまでは,ほかに客観的な資料がな
かったため,診断書に従い,警察,検察庁からの問い合わせに対応したので
あり,その対応は過失に当たらない。
()原告の主張()(損害)は否認する。45
仮に原告に損害が生じたとしても,それは原告の犯罪行為に基づき国家権
力が正当に実施した逮捕,勾留及び起訴によって生じたもので,現に原告は
有罪判決を受けている。
また,被告Bの作成した診断書は,検察官などの国家権力が逮捕,勾留及
び起訴につき判断をする際の資料の一つにすぎず,原告の身柄拘束は罪証隠
滅のおそれがあることを理由としており,原告が保釈されたのは,被告Aの
証人尋問が終わって罪証隠滅のおそれがなくなったためであって,傷害の程
度とは無関係であると考えられること等からすれば,被告Bの誤診と国家権
力による逮捕,勾留及び起訴との間の因果関係は検察官等の判断により断絶
されており,したがって,原告の損害と被告Bの誤診との間の相当因果関係
もない。なお,被告B診断における下顎骨亀裂骨折の点は誤診であったが,
被告Aには左下顎顎関節捻挫で受傷日から4か月間の治療が必要であり,治
療期間の点に間違いはなかった。
(被告国の主張)
()原告の主張()(本件事件及び被告B診断と本件起訴)のうち,アの原告11
の受傷は原告の愁訴のみによる診断であり,イの逮捕,本件起訴,誤診の判
明と訴因変更及び勾留は認め,その余は否認し争う。
()原告の主張()(被告国の責任)のうち,本件起訴前にJ診断書1及び224
と被告B診断書1が存在したこと,G副検事が平成15年3月13日に被告
Bに対する電話聴取をしたこと,本件起訴をしたことは認め,その余はいず
れも争う。
原告に対する逮捕,勾留は,原告が暴行の態様等について不合理な弁明を
繰り返すなどしたため,原告には罪証隠滅及び逃亡のおそれが認められると
してされたもので,最終的に原告の主張は裁判所により排斥され,原告は本
件刑事事件において有罪判決を受けているから,原告の主張する損害は,本
件起訴によって生じたものではない。
公訴の提起は,検察官が裁判所に対して犯罪の成否,刑罰権の存否につき
審判を求める意思表示であるから,起訴時における検察官の心証は,その性
質上,起訴時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程によ
り有罪と認められる嫌疑であれば足り,公訴提起時において検察官が現に収
集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を
総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば,その
公訴の提起は違法性を欠く。G副検事は,本件起訴の際,J診断書1及び2,
被告B診断書1及び2の計4通の診断書があったところ,J医師によれば,
全治に要する期間あるいは加療を要する期間は診断当時の状況では確定し難
いものであったとされていたのに対し,F総合病院は,設備を備えた総合病
院であり,口腔専門の歯科医師がレントゲン撮影等の諸検査を行った上で診
断をしたこと,被告Bが受傷後1か月程度経過してから骨折が判明すること
も通常あり得ると述べていたこと,暴行の態様から下顎骨亀裂骨折が生じる
ことは十分考えられたこと等から,F総合病院における診断の方が信用性が
高い正確な診断であると考え,被告B診断書1及び2に基づいて,原告が被
告Aに対して全治4か月間を要する下顎骨亀裂骨折等の傷害を負わせたとす
る公訴事実を認定したもので,その判断過程は起訴時における各種の証拠資
料を総合勘案した合理的なものであった。本件状況下において,G副検事に
は,ほかの医師の診断を求めるべき法的義務もなかったから,本件起訴には
国家賠償法上の違法はない。
また,本件起訴後に,被告Bの診断はF総合病院のレントゲン機器の不具
合による誤診と判明したが,そのようなレントゲン機器の不具合による誤診
が生じていたとは通常予見し難く,G副検事の本件起訴に過失はない。
()原告の主張()(損害)のうち,本件事件による原告の逮捕が新聞で報じ35
られたことは認め,その余は不知ないし争う。
第3争点に対する判断
1前提事実並びに証拠(甲1ないし7,乙イ2ないし10)及び弁論の全趣旨
によれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる証拠はない(なお,括
弧内の証拠番号は掲記事実を認めた主要証拠である。)。
()本件傷害と診断等1
ア原告は,平成14年6月5日午後2時30分過ぎころにCファームを訪
れていた被告Aから,原告の牧場における診察を打ち切りたい旨伝えられ,
これを応諾したが,さらに被告Aから未払診療費を支払ってほしいと言わ
れ,そのような請求は獣医師である被告Aの職務外であり,また,E診療
所の獣医師が誤診をしたり馬を死亡させたりしているにもかかわらず,そ
のような請求をすることに腹を立て,Cファーム坂路馬場内において,左
右の拳で四,五回連続して被告Aの左右の頬や顎の辺りを殴打するなどの
暴行を加え,被告Aは,この暴行によって顔面に傷害を負った。(乙イ
2)
イ被告Aは,原告の攻撃が終わると直ちにその場を離れ,同日午後2時5
7分ころ,携帯電話で警察に通報した。
E署司法警察員は,同日午後3時15分ころ,上記通報によりCファー
ムに臨場し,被告Aから被害申告を受け,その場で原告及び被告Aから事
情聴取をした上,E署へ任意同行を求めた。原告及び被告Aは,E署にお
ける事情聴取において,それぞれ自らの傷害被害を訴え,相手方から先に
攻撃を受けて防御したなどと供述し,両者とも病院で診療を受けた。E署
は,原告及び被告Aをいずれも相手方に対する傷害事件の被疑者として取
り扱い,同日,Cファームにおいて実況見分を実施し,両者からそれぞれ
同日付けの答申書の提出を受けた。(乙イ2,3)
ウ被告Aは,原告から暴行を受けた後,下顎,頬等に痛みがあり,顔面に
傷があったため,本件事件当日の平成14年6月5日にJ病院を受診し,
J医師は,「H14年6月5日当院受診左頬部擦過創,上口唇+下口唇
擦過創を認める。約3日間の経過観察を要する。」とするJ診断書1を作
成した。
被告Aは,同月6日にもJ医師の診察を受けたが,同医師は,同日ころ
同病院で撮影した被告Aの下顎付近のレントゲン写真などに基づいて,
「H14年6月6日再受診①左頬部②上口唇③下口唇④左下口唇周囲⑤
下顎⑥頚部前面①~⑥に軽度擦過創を認める②③に関しては縫合を必
要とする裂創は認められず⑤に関しX-P上骨折等は認められず①④
⑥に関し出血は認められず上述に関し約3日間の経過観察を要する」と
するJ診断書2を作成した。
被告Aは,そのころ,J診断書1及び2をE署に提出した。(甲1,2,
乙イ2,3)
エ被告Aは,顔面の傷等は2週間ほどでほぼ治ったものの,下顎ないし顎
関節付近の痛みが増し,口を開きにくい状態となったため,同年7月1日
にF総合病院へ行き,被告Bの診察を受けた。被告Bは,同日,被告Aの
下顎付近のレントゲン写真(パノラマ写真。以下「本件パノラマ写真」と
いう。)を撮影し,下顎骨亀裂骨折及び打撲による顎関節の捻挫があるな
どと診断し,下顎骨亀裂骨折については経過観察をし,顎関節の捻挫によ
る痛みを除去するためにソフトレーザー照射(理学療法の一種)による治
療を続けることとした。
被告Aは,同日の初診を含め,同月5日,12日,19日,26日,同
年8月2日,8日,27日及び同年9月5日の9日間,F総合病院に通院
して被告Bの診療を受け,同年9月5日の受診の際には再度レントゲン写
真が撮影されたが,同日以降は診療を受けなかった。
被告Bは,同年8月27日付けで,「診断名下顎骨亀裂骨折上記診
断により今後3ヶ月程の経過観察を要する。右下及び左下の犬歯と第1小
臼歯部相当下顎骨体に2ヶ所亀裂を認める。整復固定の必要性はないと判
断します。7/1初診7/5,7/12,7/19,7/26,8/2,
8/8,8/27」と記載した被告B診断書1を作成し,同診断書は,そ
のころ,被告AからE署に提出された。
なお,被告Bは,同年9月5日に2度目のレントゲン写真を撮影したこ
ろから被告Aの下顎骨亀裂骨折の存在はあやしいと考えるようになった。
(甲3,乙イ2,3,8の1,2)
()本件起訴までの経緯2
アE署は,上記のとおり,本件事件を原告及び被告Aの他方に対する傷害
被疑事件として扱い,両者を取り調べて供述調書を作成し,両者から診断
書の提出を受けるなどして捜査していたが,その後,本件事件を原告の被
告Aに対する傷害被疑事件であると判断し,平成15年2月17日に静内
簡易裁判所裁判官に原告に対する逮捕状を請求し,同裁判官は,同日,逮
捕状を発付した。
原告は,本件事件につき,同月24日にE署に傷害罪で通常逮捕され,
同月25日に札幌地方検察庁浦河支部検察官に送致され,G副検事の請求
により,同日勾留された。
原告に対する上記逮捕,送致及び勾留の際の被疑事実は,原告が,被告
Aの顔面付近を左右の手拳で10数回殴打し,被告Aに対し「左頬部擦過
傷,上口唇・下口唇擦過傷,下顎骨亀裂骨折により115日間程の経過観
察を要する傷害を負わせた」というものであった。(乙イ2)
イ被告Bは,平成15年1月27日,被告B診断書1に関するE署司法警
察員からの電話照会に対し,「その件については,診断書にありますとお
り,昨年7月1日が初診日ですから,その日から3か月程の経過観察を要
するということです。ですから,受傷日が昨年の6月5日ということであ
れば,3か月,つまり90日に25日を足して,115日間程の経過観察
を要すると読みかえて下さい。なお,傷の状態から,殴られたことによっ
て受けたものと認めて矛盾はありません。」と回答した。
被告Bは,原告の逮捕後もE署の司法巡査及び司法警察員から電話によ
る照会を受け,同年3月3日の被告Aの治療内容に関する照会に対しては,
「当歯科において,治療を受けていたAさんについては,下顎骨亀裂骨折
で,3ヶ月の経過観察ということで通院しておりましたが,同骨折により
顎関節に炎症があったことから,通院の際,同炎症部分にレーザー照射治
療を施し,同経過観察期間内に治癒しております。」と回答し,同月4日
の被告Aの受傷原因に関する「貴院において,診断治療されたA45歳に
ついて,下顎骨亀裂骨折と言う診断でしたが,この怪我についてAが,約
2メートル位離れた位置から相手に突進し,その相手がこれを止めようと
して,一回拳を差し出した場合に,このような怪我を負うことは考えられ
ますか。」との照会に対しては,「そのような状況で下顎骨亀裂骨折まで
負うことは考えられません。このような傷病は交通事故,殴り合いの喧嘩
をした場合の双方の当事者若しくは一方的に殴られた場合に考えられま
す。」と回答した。
さらに被告Bは,同月5日,E署司法警察員からの被告Aの具体的治療
内容及びその受傷原因についての捜査関係事項照会書による照会に対し,
「診断名①下顎骨亀裂骨折②H147/1に左の顎関節の鈍痛を主訴
に初診にて受診。パノラマ写真撮影し,右下及び左下の犬歯と第1小臼歯
部相当下顎骨体に亀裂骨折を認めるが,整復固定の必要性はないと判断。
顎関節部の鈍痛に対してはソフトレーザーの照射により,改善したものと
思われる。受診日は7/1,7/5,7/12,7/19,7/26,8
/2,8/8,8/27,9/5の実日数9日で現在に至っています。③
受傷の原因通常下顎骨々折の原因としては,1)交通事故2)ケンカ
等で顔面を殴打された場合3)転倒などの際に顎をぶっつけた場合が考
えられますが,今回のA様の場合は,直接顔面に相手の拳が当ったのかど
うかが不明のため明確にすることは困難です。ただし直接拳が顔面に当っ
たとすれば可能性としては10%~20%の亀裂骨折が考えられます。」
と記載した同日付け診断証明書(被告B診断書2)を提出した。(乙イ5
ないし7,8の1,2)
ウG副検事は,上記のような証拠資料を入手し,さらに平成15年3月7
日,被告Aを取り調べ,要旨「被告Aは,未払の診療代を原告に請求して
帰ろうとしたところ,原告から大声で怒鳴られ,振り向くと同時に顔面付
近を両手の手拳で5,6発くらい殴られ,その後も殴られた。本件事件当
日J病院で治療を受けて診断書を書いてもらったが,その晩ひげを剃った
ら喉にも傷があったので,翌日もJ病院で診察を受けて,左頬部,頚部前
面等の擦過創により3日間の経過観察を要する旨の診断を受けた。2週間
くらいで擦過創は治った。しかし,両顎の痛みが段々と強くなり,終いに
は痛みのため口を指1本くらいしか開けられなくなったので,平成14年
7月1日にF総合病院で診察を受けたところ,レントゲン検査で下顎骨亀
裂骨折が判明した。医師からは,顔面付近を殴られたため左の顎関節がず
れて炎症を起こしていると説明を受け,左顎関節症と診断された。炎症を
和らげるためレーザー治療を受け,鎮静剤を1週間分処方された。下顎骨
亀裂骨折については,特に内科的治療や外科的治療を施さず,保存療法に
より自然に骨がつくのを待つように言われた。受傷してから2か月間くら
いは物を噛むと痛みがあった。顎関節症については,同年8月27日に治
療が終了した。」との供述を得た。
また,原告は,平成15年3月10日のG副検事の取調べに対し,要旨
「原告が被告Aから治療費の請求を受け,支払えない旨答えたところ,被
告Aが大声で「なにお」と言って原告の方に突進してきて,左肩を原告の
方に突き出す形で原告の胸を突いてくるなどしたため,自分の身を守ろう
として被告Aが向かってくる方向に左腕を肩と同じ高さでまっすぐに突き
出したところ,原告の左手の握り拳が被告Aの口元の左側に当たったが,
それが被告Aの一番大きなけがになったと思う。原告は1歩も動いておら
ず,このようなことになったのは被告Aが悪く,原告の方からは手を出し
ていない。」などと供述した。(乙イ2,3)
エG副検事は,平成15年3月13日,J医師に対し,J診断書1及び2
の「約3日間の経過観察を要する」との記載の趣旨について電話で照会し,
J医師から,「経過観察3日間と言うのは,症状が全く気にならなくなる
期間という趣旨です。全治するには,通常1週間から,2週間はかかると
思いますが,それも本人の痛みの訴えがなくなることによって,判断でき
るので全治という表現はしませんでした。加療が何日必要かも全治と同様
に本人の訴えがどうなるか分かりませんので,そのような表現は不適切だ
と思います。加療何日と言う診断もできません。」との回答を得た。
また,G副検事は,同日,受傷直後に発見できなかった骨折が約1か月
後に判明することがあるかを確認するため,被告Bに対して電話照会を行
い,被告Bから,「Aさんの下顎骨亀裂骨折については,暴行の被害を受
けてから約1か月後に私の診察により判明しましたが,そのように発症か
ら1か月くらい経過して判明することは通常あり得ることです。一般的に
上記骨折が発生してから3か月余りは,治癒しないからです。治癒という
のは,ある程度骨の亀裂は残るものの,痛みが消失することをさします。
Aさんの初診は,平成14年7月1日であり,その日から全治約3か月で
あると判断しました。Aさんが傷害の被害にあったのが平成14年6月5
日ですので,その日から起算しますと,全治約4か月ということになりま
す。」との回答を得た。(甲4,乙イ9)
オG副検事は,平成15年3月14日,本件事件につき,原告が被告Aの
顔面を手拳で殴打するなどの暴行を加え,被告Aに全治約4か月間を要す
る下顎骨亀裂骨折等の傷害を負わせたとする公訴事実による本件起訴をし
た。(甲5,乙イ2)
()本件刑事事件の経緯3
ア本件刑事事件は,札幌地方裁判所苫小牧支部に回付され,平成15年5
月20日に第1回公判が行われた。原告は,「起訴状記載の公訴事実は違
います。私は暴行を加えていません。被害者が殴ってきたので,防御する
ために手を出しました。私から殴ってはいません。」と陳述し,原告の主
任弁護人は,「被告人の暴行は,被害者からの暴行に対する反撃という意
味での対応です。全治4か月は事実と異なります。」と陳述した。なお,
主任弁護人の上記陳述のうち,前段部分は,同年6月3日の第2回公判期
日において,「被告人は,被害者からの暴行に対して応戦しただけであり,
傷害を負わせる意思はなかった。」と訂正され,また,同年7月22日の
第5回公判期日において正当防衛の主張がされた。
原告は,捜査段階及び同月15日の第4回公判期日における被告人質問
においても,上記のような主張ないし供述を続けていた。(乙イ2)
イ本件刑事事件の公判を担当したI副検事は,第1回公判期日において被
告B診断書1の取調べを請求したが不同意とされたため,第2回公判期日
において被告Bの証人尋問を請求して採用され,同年6月24日の第3回
公判期日において被告Bの尋問が実施されることとなった。
I副検事は,同年5月21日,被告Aの症状等について確認するため,
受傷直後にJ病院で撮影したレントゲン写真を持参して,被告Bのもとを
訪ねた。被告Bは,I副検事に対し,本件パノラマ写真を示しながら,
「この部分が亀裂骨折である」などと説明した。
ところが,被告Bは,同月22日,I副検事に対し,「昨日,受傷直後
のものというレントゲン写真を見せてもらい,当院で撮影されている亀裂
骨折がはっきりと撮影されていないことから念のため当院の他のレントゲ
ン写真を確認したところ,骨折のない人に対してAさんと同じような傷が
撮影されているものが数件発見されました。当院のレントゲン機器のトラ
ブルでAさんの亀裂骨折が撮影されたものと思われます。Aさんや検察官
に申し訳ないと思いますが,Aさんに対する亀裂骨折の私の診断は誤診で
した。」,「なお,レントゲンの専門技師も交えてさらに調査中ですが,
とりあえず,報告させていただきます。」と電話で申出をした。
その後,F総合病院においてさらに調査が行われ,同年6月上旬ころ,
同病院のレントゲン機器(以下「本件レントゲン機器」という。)で撮影
した場合,撮影の角度によって時折一定の場所に影が映ることがあること
が明らかとなった。
被告Bは,第3回公判期日に行われた証人尋問において上記の経緯を供
述し,被告Aに下顎骨亀裂骨折があるなどとする被告Bの診断が誤診であ
ったことを認めた。
なお,原告は,この間の同年6月4日,3回目の保釈請求に基づく保釈
許可決定(保証金額200万円)により,保釈された。(乙イ2,10)
ウI副検事は,同年7月15日の第4回公判期日において,上記経緯を受
け,起訴状記載の公訴事実中,「全治約4か月を要する下顎骨亀裂骨折
等」を「加療約4日間を要する左頬部,上口唇・下口唇部等擦過創」に改
めるとする訴因変更請求をし,その旨の訴因変更許可決定がされた。
I副検事は,同月22日の第5回公判期日において,原告に対し,罰金
10万円を求刑した。(甲6,乙イ2)
エ札幌地方裁判所苫小牧支部は,同年8月26日,原告に対し,原告が被
告Aに対し「加療約4日間を要する左頬部,上口唇,下口唇部等擦過創」
を負わせたとして,被告を罰金6万円に処する有罪判決を言い渡し,同判
決は,その後確定した。(甲7,乙イ2ないし4)
2上記認定事実及び前提となる事実に基づき,各被告の責任について検討する。
(1)被告Aの責任の有無について
ア被告Aは,平成14年6月5日及び同月6日にJ病院で診療を受け,顎
や歯のあたりの痛みの訴えに対しては歯科医の診察を受けるように言われ
ていたが(乙2の被告Aに対する証人尋問調書),顎の痛みが増すなどし
たため,同年7月1日にF総合病院へ行き,被告Bから下顎骨亀裂骨折と
の診断を受け,同年9月5日まで同病院に通院してレーザー照射等の治療
を受け,被告B診断書1をE署に提出した。しかし,その後,平成15年
5月下旬になって被告Bの上記診断が誤診であることが判明した。
以上のような事実が認められるものの,被告Aの痛みの訴えが虚偽のも
のであったとか,被告Aが被告Bに対して何らかの働きかけをするなどし,
事実を歪めて虚偽の内容の診断書を作成させたといった事実が存在したこ
とを窺わせる証拠はない(被告Aが被告Bに被告B診断書2を作成させ,
これを捜査機関に提出したとの事実を認めるべき証拠もない。)。なお,
被告Aは,獣医師であるが,人体やその外傷についても専門的な知識があ
ると認めるべき証拠はなく,自己の怪我の状態については専門家である医
師の判断を信じるほかはないと考えられ,被告Bの診断を信じ,上記診断
書を提出したことに過失は認められず,その他,被告Aの行為に不当なも
のがあったとする根拠はない。
イよって,被告Aについて,原告に対する故意又は過失に基づく違法な行
為があったとはいえず,不法行為責任は認められない。
(2)被告Bの責任の有無について
ア被告Bは,本件傷害について,平成14年8月27日付け被告B診断書
1に下顎骨亀裂骨折により今後3か月ほどの経過観察を要する旨記載し,
平成15年3月5日付け被告B診断書2にも同旨の記載をし,さらにE署
の司法警察員やG副検事からの照会に対しても,被告Aには下顎骨亀裂骨
折の傷害が認められ,原告の暴行によってこれが生じ得る旨回答していた
が,被告Aに下顎骨亀裂骨折の傷害が存するとの診断が結果的に誤診であ
ったことは上記認定のとおりである。
しかし,被告Bが,故意に内容虚偽の診断書を作成したとか,虚偽の診
断内容を診断書に記載するなどし,これを捜査機関に直接あるいは被告A
を介して間接的に告げたなどと認めるべき証拠はない。
イ次に,上記誤診あるいは被告B診断書1及び2の作成等が被告Bの過失
によるものであるか否かを検討するに,被告Bが上記診断をしたのは,被
告B診断書2に記載されているとおり,平成14年7月1日の初診の際に
撮影した本件パノラマ写真上,右下及び左下の犬歯と第1小臼歯部相当下
顎骨体に亀裂骨折があると認めたことに加え,被告Aが被告Bに説明した
ように顔面に拳が当たったのであれば,下顎骨亀裂骨折が生ずる可能性が
あると考えたことによるものであり(乙イ2),このような外力の作用に
より下顎骨亀裂骨折が生じ得るとした判断が不合理であるとする根拠はな
い。また,本件レントゲン機器の不具合は,本件パノラマ写真を撮影して
から10か月以上も経過した平成15年5月22日になって初めて発見さ
れ,しかもそれは前日に被告Bが本件事件直後にJ病院で撮影されたレン
トゲン写真をI副検事から見せられ,念のため,F総合病院の他のレント
ゲン写真を確認したところ,骨折のない人についても傷が撮影されていた
ことから発見されたものであることからすれば,その不具合は気付きにく
い性質のものあったと認められ,歯科医師である被告Bがこのような本件
レントゲン機器の不具合を平成15年5月22日よりも前の時点で認識す
ることは不可能であったと考えられ(この判断を覆すに足りる証拠はな
い。),被告Bが下顎骨亀裂骨折があると診断したことについて,過失が
あるとすることはできない。
また,被告Bは,被告Aの2度目のレントゲン写真撮影をした平成14
年9月5日ころに下顎骨亀裂骨折との診断に疑いを持つようになっていた
が,被告Aの症状は軽減し,顎関節捻挫に対してはレーザー照射による治
療をしていたものの,下顎骨亀裂骨折については積極的な治療をしていな
かったこと,同日で被告AのF総合病院における診療は終了したことから
すれば,その時点でさらにCT等の他の検査の必要性を認めなかったこと
は不合理とはいえない。そして,被告Bは,本件起訴に至るまでの間,上
記のとおり,G副検事らの照会に回答したり,被告B診断書2を提出した
りしているが,それらの時点では本件レントゲン機器の不具合の事実を知
らず,また,J病院において撮影されたレントゲン写真等,下顎骨亀裂骨
折の存在に疑問を抱かせるに足りる確たる資料や理由を認識していなかっ
たことからすれば,上記のような回答をしたり,被告B診断書2を提出し
たことがその注意義務に違反するとはいえない。
したがって,被告Bの上記各行為について,過失があるとはいえない。
ウよって,被告Bについて,原告に対する故意又は過失に基づく違法な行
為があったとはいえず,不法行為責任は認められない。
(3)被告国の責任の有無について
ア公訴の提起は,検察官が裁判所に対してある特定の犯罪について,その
成否,刑罰権の存否につき審判を求める意思表示であるから,起訴時にお
ける検察官の心証は,その性質上,起訴時における各種の証拠資料を総合
勘案して合理的な判断過程により公訴事実に該当する罪につき有罪と認め
られる嫌疑であれば足り,公訴提起時において検察官が現に収集した証拠
資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案
して合理的な判断過程により公訴事実に該当する罪につき有罪と認められ
る嫌疑があれば,その公訴の提起は違法性を欠くと解すべきである(最高
裁判所昭和53年10月20日第2小法廷判決・民集32巻7号1367
頁,最高裁判所平成元年6月29日第1小法廷判決・民集43巻6号66
4頁参照)。
イ(ア)原告は,上記認定のとおり,本件傷害について,捜査の当初から自ら
の暴行やその態様を否認し,その供述は理不尽な部分があり,必ずしも
一貫したものではなかったが,被告Bの体当たりを止めるために拳を肩
まで上げたところ被告Aの顔面に原告の拳が当たったなどとして正当防
衛が成立するかのような主張をしていた。これらのことからすれば,本
件傷害について刑事被告事件として起訴がされれば,犯罪の成否,本件
傷害の具体的内容,程度,その発生機序等が公判においても争われる蓋
然性が高いと予想し得た(現に,原告及びその弁護人は,本件刑事事件
の公判においても正に上記の各点を争っている。)。そして,本件傷害
の内容や程度は,原告による暴行の態様等を判断するためにも必要な客
観的事実であるから,本件起訴に当たっては,それを認定し得る客観的
な証拠資料を収集することが必要不可欠であった。
また,傷害の内容や程度は,犯罪の軽重に影響を及ぼす重要な事項で
あり,これを認定し得る客観的な証拠資料の存否を見極めることは,原
告の起訴又は不起訴の判断,あるいは勾留の理由及び必要性の判断のた
めにも必要であった(なお,G副検事は,原告に対する保釈請求に対し,
「被害者が加療4か月間という重傷を負っていること」等から保釈は相
当ではない旨の意見を述べていること(乙イ2)からすれば,G副検事
も,本件刑事事件において,傷害の程度を,原告の身柄を拘束するかど
うかの判断資料の一つとしていたことが認められる。)。
このように,本件刑事事件においては,傷害の内容や程度は極めて重
要であり,そのために必要十分な証拠資料を収集することは捜査におい
て通常要求されるものであったといえる。
(イ)そして,本件傷害については,上記に加え,その程度等につき,骨折
がなく,3日ないし4日間の経過観察を要する擦過創であるとするJ診
断書1及び2と,下顎骨亀裂骨折があり,受傷日から約4か月の経過観
察を要するとする被告B診断書1及び2という,診断内容が顕著に異な
る2種類の診断書が存在していたこと,さらに,J診断書2の記載から
すれば,J病院においてもレントゲン写真が撮影され,被告Aの傷害の
部位や程度につき比較的詳細な診断がされていたことが認められる。
これらの事実からすれば,検察官としては,顕著に相違する2種類の
診断書のいずれが正当なものであるかを検討すべきは当然であり,その
検討のためには,それぞれの診断の根拠とされているレントゲン写真を
含む医療記録を入手して第三者の意見を聴取し(なお,平成15年5月
21日にI副検事がF総合病院に行く際にJ病院で撮影されたレントゲ
ン写真を持参していることからすれば,G副検事においても本件起訴の
前にこれを入手することは容易であったといえる。),あるいは,少な
くともJ医師及び被告Bに対し,相反する診断書の存在を告げた上で各
診断書についての反論や補足説明を聴取し,その供述を記載した調書等
を作成するなどすべきであったといえる。しかるに,G副検事は,本件
起訴に至るまで,勾留延長を得て原告の身柄を確保した上での捜査をし,
上記のように顕著な相違のある診断書の存在を認識しながら,J医師に
対し,経過観察という用語について尋ね,被告Bに対し,亀裂骨折が後
に判明することがあり得るかなどと確認したのみであって,診断の相違
が何故生じたのか,各診断の根拠はどのようなものであるかなどを確認
し,その相当性をさらに吟味しようとはしなかった。
上記の第三者の意見やJ医師及び被告Bの供述は,G副検事が,通常
要求される捜査を遂行すれば容易に収集し得た証拠資料であり,そのよ
うな証拠資料を総合勘案すれば,本件傷害につき,合理的な判断過程に
より訴因変更前の公訴事実に該当する罪につき有罪と認められる嫌疑は
ないと認められ,上記公訴事実による本件起訴がされることはなかった
といえるから,本件起訴は違法である。
ウまた,G副検事は,本件起訴に至るまで,本件傷害の内容及び程度につ
き,容易に行える上記のような捜査をせず,漫然と原告を勾留したまま本
件起訴をしたものであり,このような公権力の行使に過失があると認めら
れる。
エ被告国は,起訴時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断
過程により被告Aの負傷内容を認定して本件起訴をしたのであり,本件レ
ントゲン機器の不具合によって誤診が生じていたなどとは通常予見し難い
こと等から,本件起訴に違法性や過失はないと主張する。
しかし,検察官は医療の専門家ではないから,レントゲン写真を見るこ
とのみで本件レントゲン機器の不具合があったことに気付くことなどは難
しいとしても,本件事件において,重要である被告Aの傷害の程度につき,
顕著な相違のある2種類の診断書が存在していたのであるから,医療の専
門家ではない素人として,どちらの診断が正確かをより慎重に吟味するこ
とが求められていたと考えられる(前記のような捜査をすれば,むしろ簡
単に本件レントゲン機器の不具合が判明したことも考えられるところであ
る(K会L病院副院長Mの意見書(乙イ3)参照)。)。したがって,本
件レントゲン機器の不具合による誤診の予見が難しいことを理由として本
件起訴の違法性や過失がなくなるとすることはできない。
その他,被告国のG副検事の行為の違法性や過失を否定する主張は,上
述したところによって採用することができない。
オ以上より,G副検事には公権力の行使に当たって,違法性,過失が認め
られるから,被告国は国家賠償法1条1項の責任を負う。
()損害について4
本件刑事事件の判決及びそれに至る公判の経過からすれば,本件において
通常要求される捜査を遂行して収集し得た証拠資料によれば,被告Aの傷害
は,全治約4日間の擦過創であったと認められる。この程度の傷害であれば,
いかに原告が本件事件につき理不尽な弁解をしていたとしても,原告が,勾
留されたままで,いわゆる身柄付きの通常起訴をされ,しかも平成15年6
月4日までの相当長期間にわたって勾留を続けられる事態は生じなかったと
考えられ,原告は,本件起訴後の勾留による身体拘束により精神的苦痛を受
けたことは明らかである。
しかし,一方で,原告は現に有罪判決(確定)を受けており,原告の被告
Aに対する本件傷害が何ら正当化されるものではないのに,捜査段階からこ
れを否認して理不尽な弁解を続けていたことからすれば,罪証隠滅のおそれ
があること等を理由に継続された上記身体拘束は,原告自身が招来したもの
との側面を有することは明らかであり,これら諸般の事情を総合考慮すれば,
上記苦痛に対する慰謝料は50万円とするのが相当である。
3以上によれば,原告の被告国に対する請求は主文第1項の限度で理由がある
からこれを認容し,被告国に対するその余の請求並びに被告A及び被告Bに対
する請求はいずれも理由がないからこれらを棄却することとし,訴訟費用の負
担について民事訴訟法61条,64条を,仮執行の宣言及び免脱宣言について
同法259条をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結の日平成18年6月16日)
札幌地方裁判所民事第5部
裁判長裁判官笠井勝彦
裁判官馬場純夫
裁判官矢澤雅規

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