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平成18年2月8日判決言渡
平成15年(ワ)第24123号 損害賠償請求事件
判決
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告は、原告Aに対し、3946万4525円及びうち2213万2008円につき平成12
年12月23日から支払済みまで、うち933万2517円については平成14年1月22日
から支払済みまでそれぞれ年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告Bに対し、1823万2262円及びうち1356万6004円につき平成12
年12月23日から支払済みまで、うち466万6258円については平成14年1月22日
から支払済みまでそれぞれ年5分の割合による金員を支払え。
3 被告は、原告Cに対し、1823万2262円及びうち1356万6004円につき平成12
年12月23日から支払済みまで、うち466万6258円については平成14年1月22日
から支払済みまでそれぞれ年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 事案の要旨
 脊髄小脳変性症(オリーブ橋小脳萎縮症)に罹患し、東京都の在宅難病患者緊急
一時入院制度を利用して被告が設置経営する病院に入院していた患者が、肺炎に罹患
し、その後、突然呼吸が停止し、蘇生後も低酸素性脳症となって植物状態となり、さらに
その約1年後に死亡した。
 原告らは、上記患者の相続人であるところ、上記患者が植物状態になり、さらに死
亡したのは、病院の医師らが肺炎罹患を防止する義務に違反した過失や、肺炎に対す
る適切な治療を怠った過失、痰の吸引を怠った過失等によるものであるとして、被告に
対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づき、損害賠償及び民法所定の年5
分の割合による遅延損害金の支払を求めた。
2 前提となる事実(認定の根拠となった証拠等を()内に示す。直前に示した証拠のペ
ージ番号を〔〕内に示す。)
(1) 当事者
ア 原告ら関係
(ア) 原告Aは、亡Dの夫である。原告B及び同Cは、いずれもDの子である(争いの
ない事実)。
(イ) Dは、昭和11年5月11日生まれの女性であり、次の(2)の入院当時、64歳で
あった(甲C1、乙A1〔1〕)。
イ 被告関係
(ア) 被告は、東京都杉並区甲a丁目b番c号において、内科、循環器科、消化器科
等21の診療科目を有するE病院(以下「被告病院」という。)を設置経営している(争い
のない事実)。
(イ) F医師は、本件診療当時、被告病院に勤務していた医師であり、平成12年1
2月20日から平成14年1月22日までDの担当医として同人の診療に当たっていた(争
いのない事実)。
(2) 診療契約(被告病院への入院)
 Dは、平成12年12月20日、脊髄小脳変性症(オリーブ橋小脳萎縮症)のため、被
告病院に入院をした(争いのない事実、乙A1〔1〕)。
(3) 被告病院における診療経過
 被告病院における診療経過の概要は、別紙「診療経過一覧表」記載のとおりであ
る(別紙「診療経過一覧表」の「診療経過」欄及び「検査・処置」欄うち、網掛けの部分を
除いた部分は当事者に争いがなく、診療経過に関する原告らの主張は「原告らの反論」
欄に記載のとおりである。)。
3 争点
(1) Dの肺炎罹患を防止しなかった過失の有無
(2) Dに発症した肺炎について適切な対処を怠った過失の有無
(3) Dの人工呼吸器の管理及び心電図のモニタリングを怠った過失の有無
(4) Dの痰の吸引を十分に行わなかった過失の有無
(5) 被告病院におけるカフ付きカニューレの使用方法の適否
(6) 前記(1)ないし(5)の過失とDの死亡との間の因果関係の有無(判断する必要がな
かった争点)
(7) 損害額(判断する必要がなかった争点)
4 争点についての当事者の主張
 別紙「主張要約書」記載のとおりである(これは、平成17年9月7日の本件第2回口
頭弁論期日において当事者双方が陳述した主張要約書に字句の修正を加えたもので
ある。)。
第3 当裁判所の判断
1 認定事実
 前記第2-2の前提となる事実に加え、証拠及び弁論の全趣旨等によれば、次の事
実が認められる(認定の根拠となった証拠等を()内に示す。直前に示した証拠のページ
番号を〔〕内に示す。以下同じ。)。
(1) Dの既往症と入院までの状態
ア Dは、平成2年ころから体調を崩すようになり、平成3年ころ、脊髄小脳変性症
(オリーブ橋小脳萎縮症)と診断され、平成7年からは人工呼吸装置を用いることとなっ
た。また、Dについては、病状が進行したため、G大学神経内科において、気管切開をし
て呼吸が確保された。(甲A10〔1、2〕、乙A1〔48〕、証人F〔3〕)。
イ Dは、東京都から、難病医療等助成対象疾患の指定を受けた(甲B1、弁論の全
趣旨)。
ウ 原告らは、普段、24時間体制でDの介護を行っていたところ、一定の休息をとる
ため、難病患者の家族を支援することを目的とする東京都の在宅難病患者緊急一時入
院制度(乙B3)を利用して、Dを被告病院に何度も入院させていた(甲A4、A10〔2〕)。
(2) 被告病院への入院
ア 原告らは、平成12年12月19日、Dについて、かかりつけ医であったH医師に病
状確認を診察してもらったところ、Dの病状が安定しており、被告病院へ入院しても問題
がないとの診断があった(弁論の全趣旨)。
イ 原告らは、平成12年12月20日、Dの介護に当たる原告らの疲労回復を目的と
して、在宅難病患者緊急一時入院制度を利用し、Dを被告病院に第13回目の入院をさ
せた。入院の際、F医師はDについて2時間ごとに吸引及び体位交換を行うことを決め
た。(甲A10〔3〕、乙A1〔1、2、48、62〕)
ウ 原告ら家族は、上記入院以前において、Dに抗生剤を投与する時は、事前に原
告らの同意を得てから投与することを求め、被告病院もその旨を約した(甲A10〔3〕、証
人F〔6、7〕)。
 この点に関し、原告Aは、要望はしたが許可を取れとは言っていないと供述する
が(原告A〔1〕)、他方で自己の経験に照らして抗生物質が非常に危険だという認識の
下で被告病院に対して要望したとも述べていること(原告A〔14、15〕)に照らすと、むし
ろ強い口調で被告病院側に申し入れたと認めるべきである。
(3) 平成12年12月23日までの診療経過(この項における日付はすべて平成12年
である。)
ア 12月21日
(ア) 10時に気管吸引及び口腔吸引を行ったところ、白色のサラサラ痰が多量に
引けた(乙A1〔62〕)。
(イ) Dは、12月21日15時、ハーバードと呼ばれる被告病院内の入浴施設に入浴
した。その際に、白色の粘稠性ないしサラサラの痰が鼻腔や気管切開部分から吸引さ
れた。また、同日20時の吸引の際には、白色の痰が多量に鼻腔、口腔及び気管切開
部分から吸引された。その後、同日22時には、気管吸引及び口腔吸引により白色サラ
サラ痰が中等量吸引されたほか、Dの呼吸数が1分当たり12回へと上昇していることが
確認された。(乙A1〔63、64〕)
(ウ) また、原告Aは、Dの呼吸管理のために自宅で使用している人工呼吸器を被
告病院でも使用することを前提として、被告病院の看護師らとの間で、Dの看護につい
て次のとおり取決めをした(乙A1〔63〕、証人F〔13、14〕)。
a 人工呼吸器の設定についてBPM(人工呼吸器の設定つまみで、分時呼吸回数
を設定する(甲B19〔14〕)。)を、[1]朝の回診(6時30分から7時30分)の際、本人が
覚醒しているときは「4」にする。[2]就寝時(消灯時)には入眠を確認してから、「8」にす
る。[3]日中の傾眠がちの時は「4」のままでいじらなくてよい。
b 吸引はこまめにする(特に気管、サイトチューブ、鼻腔よりしっかりひく)。
c 2時間ごとの体位交換をきちんとする。
d 吸引セットは被告病院のものでよい。ただし、口腔・鼻腔用のカテーテルは本
人持参のものを使用する。2、3日に1本のペースで交換することでよい。使用後は捨て
る。
e 浣腸は(石鹸浣腸)、持参のボトルの下のラインまで石鹸水を入れ、その後上
部まで人肌よりやや熱めの微温湯を加え、腹部マッサージを行ってからする。
f 経管栄養注入後、白湯を通した後には、おなかにガスがたまってしまうため、空
気は入れない。
g 胃管チューブの固定はきちんとたるませて行う(前回入院時につっぱって固定
されていないことがあったそうである。)。
h エアーマット及び本人の身体もベッドの一番上の方まできちんと上げる。
i 結膜炎が出やすいため、持参の脱脂綿に眼洗浄液を浸して、両眼周囲を拭い
てから点眼する。
イ 12月22日(乙A1〔64〕)
 6時には、気管吸引により白色ないし黄色の粘稠痰が、口腔吸引により唾液様痰
がそれぞれ多量に吸引された。その際、酸素飽和度は98%であった。
 10時には、気管内・サイドチューブ・口鼻腔から白色ないしやや黄色の痰が中量
ないし多量に吸引された。その際、酸素飽和度は95%であった。F医師は、Dについ
て、吸引を1時間ごとに行うことを決めた。
 14時には、痰が著明であって、吸引によって白色の粘喀痰が多量に吸引され
た。
 22時には、Dは38.4度の発熱があり、口唇及び顔面にチアノーゼが確認され、
アイコンタクトはとれなかった。その際の酸素飽和度は95%であり、吸引により多量に
かなり汚い痰が吸引された。
ウ 12月23日
 0時以降、看護師が痰を1時間ごとに吸引したところ、かなり汚いもの(茶色の粘
稠痰)が引けた。この際のDの体温は38.6度であり、酸素飽和度は94ないし95%で
あった。(乙A1〔64〕)
 5時には、鼻腔より黒茶色のものが流出しており、診療録上、「右鼻腔より黒茶色
のもの流出している。嘔吐か?」との記載がある(乙A1〔65〕)。さらに吸引したところ鼻
腔から多量に吸引され、その色に着目して朝の経管栄養を中止した。その後、F医師が
診察したところ、肺ラ音がはっきりしないものの、胸部レントゲンで左肺に浸潤影があっ
たことから、F医師はDが肺炎に罹患していると判断し、治療については家族と相談の上
で決めることとした。(乙A1〔65、204〕)
 10時には、黒色粒状混入痰が気管鼻腔より吸引された。この際のDの体温は3
6度、酸素飽和度は90%であって、肺に雑音が軽度に見られた。そこで、F医師は、Dに
ついて吸引を30分ないし1時間ごとに行うことに決めた。(乙A1〔65〕)
 昼には、経管栄養が再開された(乙A1〔220〕)。
 14時には、Dの呼吸が頻回となり、肺に雑音が見られた。他にも、鼻腔及び気管
から薄茶色の痰が多量に引け、その痰には黒色の粒が見られた。また、軽度の末梢冷
感があった。この際のDの体温は37.7度であり、呼吸数は1分当たり28回であった。
(乙A1〔66〕)
 15時30分には、鼻、気管、サイドチューブから黒色粒を含む薄茶色の痰が中等
量引けた。F医師が診察したところ、Dの経皮的酸素飽和度は86ないし90%であった
が、次のとおり採血を試みているうちに90%台後半へと推移した。もっとも、肺に雑音が
見られた。当初の経皮的酸素飽和度が低かったことから、医師が血液ガス検査のため
の採血を試みたが、Dの血管の状態から採血はできなかった。この際、医師は、原告ら
の家族の同意を得た上で抗生剤を投与しようと考えたが、血液ガス検査のための採血
ができないことから、点滴ルートも確保することが困難であると判断し、抗生剤は経胃管
投与する予定とした。(乙A1〔66〕)
 16時20分に看護師がDのいる病室を訪室すると、Dの顔面にチアノーゼが生じ
たため、看護師は、F医師を呼ぶよう依頼したが、Dは自発呼吸のない状態となり、吸引
したところ、鼻と気管から薄茶色の痰が中等量ないし多量に引けた。その後、F医師が
駆けつけ、Dに対して救急蘇生を施行し(この際、F医師は気切部からアンビューバッグ
(空気を人工的に送るバッグ)を用いて肺に空気を入れたが、その際、アンビューバッグ
を押す時の抵抗は、通常どおりであった(証人F〔8〕)。)。さらに点滴ルートの確保を3人
の医師(F医師、I医師、J医師)が試みたが、成功せず、右手背皮静脈からかろうじて点
滴ルートを確保することができた。その後、17時までの間に嘔吐反射があり、口腔内に
嘔吐物の流出が数回見られ、嘔吐物の色は薄茶色ないし茶黒色であった。17時ころ、
原告らが被告病院に到着したため、F医師は、原告らに対し、Dが低酸素脳症になって
いる可能性が高いと説明した上、抗生剤の使用の同意を得て、抗生剤チエナムの投与
を開始した。(乙A1〔47、66、67、68〕)
 なお、そのころ、Dに用いていた人工呼吸器を被告病院で使用しているもの(CV3
000)に改めた(乙A2〔1〕、証人F〔30〕)。
エ これ以降、Dは、死亡に至るまで植物状態であって、意識が回復することはなか
った(証人F〔28〕)。
(4) 平成12年12月23日の原告らの行動
 原告らは、平成12年12月23日、Dが呼吸停止状態になった後に被告病院から連
絡を受けて被告病院に駆けつけ、その際、呼吸停止状態になるまでDが使用していた人
工呼吸器をビデオカメラで撮影したほか、その人工呼吸器を原告らの自宅に持ち帰って
保管した(甲A5、A10〔5、6〕、A11〔3〕、A14(枝番号を含む。)、乙A1〔69〕、原告B
〔3〕)。
 上記人工呼吸器の蛇腹部分には痰と考えて矛盾しない物が付着しており、かつ、
ウォータートラップ部分には白濁した液体が半分以上貯留していた(甲A5、A14(枝番
号を含む。)、証人K〔7〕)。
(5) 平成12年12月24日以降の診療経過
ア 平成12年12月24日、Dについて胸部X線検査を施行したところ、全体的に胸
水があるように見え、しかも右肺が前回のX線写真と比べて陰影が濃くなっている模様
であるとの所見を得たことから、F医師は、これを家族に説明した(乙A1〔70、71〕)。
イ その後、Dに対しては、定期的に胸部X線検査を実施したほか、腹部エコー検査
等を実施し、経過を観察していたところ、平成13年1月29日には、同月23日に撮影し
た胸部X線写真や血液検査の結果、喀痰の状態等を検討し、肺炎が治癒したと考えら
れたことから、F医師は、Dに対する抗生物質の投与を中止して経過を見ることとした
(乙A1〔72ないし99〕、証人F〔11、25、26〕)。
ウ 平成13年12月19日、Dについて肝膿瘍の疑いがあり、敗血症が既に発症して
いるとの所見がもたれた(乙A1〔180〕)。
(6) Dの死亡
 Dは、平成14年1月22日、死亡した(乙A1〔189〕)。
(7) 口腔ケア、体位交換及び気管吸引について
ア 上記に関する診療録上の記載
(ア) 口腔ケアに関しては、ケアシート上「M・C ×3」との記載がある。その右欄に
は、各日付に相当する欄がいずれも手書きの線で縦方向に3分割されており、それぞれ
の枠内に氏名が記載されている欄もあれば、×印が記載されている欄もある(乙A1〔2
20〕)。
(イ) 体位交換に関しては、ケアシート上「体交 2h毎」との記載がある。その右欄
には、各日付に相当する欄ごとに2から24までの12個の偶数の数字が不動文字で印
刷されており、それらの数字が丸で囲まれたり、数字の上を下向きの矢印が重なるよう
に記されている(乙A1〔220〕)。
(ウ) 吸引の実施に関しては、実施頻度の決定に関わる記載(乙A1〔64、65〕)の
ほか、ケアシートには「サクション 2h毎(Sp〔裁判所注;喀痰の意〕量で30-1h毎
に!)」と記載された項目があり、その右の欄には上記イと同様に12個の不動文字で印
刷されており、12月20日の欄の数字はすべて丸で囲んであるが、「2 4 6 8」及び「
10 12」についてはそれぞれ斜線が引かれており、その余については、「14 16」、「18 
20」、「22 24」について、それぞれ上から下向きの矢印が数字に重ねて記されている。1
2月21日以降については、上記のとおり数字が丸で囲まれ、かつ下向きの矢印が重な
るように記されているものや、特定の数字が丸で囲まれ、その下の数字には下向きの矢
印が重なるように記されているものがあり、他には氏が記された印が押印されているも
のもある。(乙A1〔220〕)
イ 口腔ケア
 上記において認定したところによれば、被告病院の看護師は、Dに対し、口腔ケ
アは1日3回の割合で実施したものと認められる。
ウ 体位交換
 上記において認定したところによれば、被告病院の看護師は、少なくとも平成12
年12月22日には14時から24時まで2時間ごとに、同月23日には2時から24時まで
2時間ごとに行われたものと認められる。
エ 痰の吸引
 上記において認定したところによれば、被告病院の看護師は、Dについては、平
成12年12月20日の入院当初は2時間に1回、同月22日10時以降は1時間に1回、
同月23日10時以降は30分ないし1時間に1回の割合で痰の吸引を行い、かつ、体位
交換についても2時間おきに行っていたものと認められる。
 すなわち、診療録(乙A1)上、同月20日においては、2時間に1回吸引を行う旨
の記載があり、かつ、ケアシートにも少なくとも2時間に1回吸引を行った旨の記録が存
在するから、Dの入院当初から2時間に1回の割合で吸引を行ったものと認められる。
 次に、同月22日10時、11時、12時に吸引を施行した旨の記載があるほか、同
月23日0時の記載には「タン1hごとに引くが」との記載が、同日5時の記載には「1hご
とに行う」との記載がそれぞれあることからして、同月22日10時以降は、1時間に1回
の割合で吸引を行ったものと認められる。
 さらに、同日10時の欄には「30分~1h毎に行う」との記載(乙A1〔65〕)が、12
月23日に記された中間サマリーにも「30~1h毎に吸引……回路設定のチェックを行
い、ジャバラの水抜き等も施行していた」との記載(乙A1〔68〕)がそれぞれあり、ケアシ
ートにも上記において認定したとおり「30-1h毎に!」との記載がある(乙A1〔22
0〕)。それ以降の吸引の実施状況について、診療録に明記されているものは同日14時
と15時30分の2回のみであるが、14時には痰が多量に引けたのに対し、15時30分
には中等量となっていること(乙A1〔66〕)からすると、この時点までには、少なくともそ
れ以前よりも頻回に吸引が行われていたものと推認でき、これを左右するに足りる事情
は見当たらない。
2 医学的知見
 証拠によれば、次の医学的知見が認められる。
(1) オリーブ橋小脳萎縮症(OPCA)について
 オリーブ橋小脳萎縮症(OPCA)とは、脊髄小脳変性症の一病型であって、中年以
降に発病する弧発性疾患である。その原因は不明で、薬物使用の効果も限られた神経
系の難病である。(甲B1、乙B1〔139〕、証人F〔1、2〕)。
 OPCAの予後については、発症後平均7.5年で死亡し、その標準偏差が2.7、す
なわち、発症後7.5年の後2.7年(約10年後)までの間におよそ85%の患者が死に
至るとの統計結果がある(乙B1〔139〕、証人F〔2〕)。また、OPCAによる死因について
は、感染症が一番多いとされ、その次に、病気自体によって呼吸を司る神経が徐々に衰
えるため、呼吸困難になって死亡することが多いとされている(証人F〔27〕)。
(2) 肺炎について
ア 院内肺炎とは、入院後48時間以上経過してから発症した肺炎であって、入院時
にすでに感染していたものや、市中で感染し、潜伏期間中に入院した例を除いたものを
いう。院内肺炎の中でも細菌性肺炎は、口腔、咽頭、上部消化管に定着している細菌を
誤嚥する結果生じることが多い。院内肺炎のリスクファクターとしては、次のものがあ
る。(甲B12〔44、45〕)
● 外科手術(殊に胸腹部の手術)
● 70歳以上の高齢者
● 乳幼児
● 気管内挿管、人工呼吸管理
● 頭部閉鎖性外傷などによる意識レベルの低下
● 基礎疾患(慢性呼吸器疾患や心疾患、糖尿病、肝硬変など)
● 最近に大量の誤嚥があった患者
● 免疫抑制状態
● 薬物(ステロイド、免疫抑制剤、抗癌剤など)
イ また、患者が高齢者であることは、肺炎の重症化と死亡の危険因子の1つである
とされている(甲B12〔49〕)。
ウ 肺炎の重症度は、軽症、中等症、重症の3つに分類され、軽症と重症の基準は
次のとおりである(甲B14〔4〕)。
軽症重症
判定項目8項目中5項目以上を満
たす
8項目中5項目以上を
満たす
① 胸部X線写真
の陰影の拡がり
1側肺の3分の1未満1側肺の3分の2以上
② 体温<37.5度≧38.6度
③ 脈拍<100/分≧130/分
④ 呼吸数<20/分≧30/分
⑤ 脱水見られない見られる
⑥ 白血球<1万/mm3≧2万/mm3又は
<4千/mm3
⑦ CRP<10mg/dl≧20mg/dl
⑧ PaO2<70Torr≦60Torr
SpO2≦90%
(注)チアノーゼ、意識レベルの低下、ショック状態の症例等は上記とは関係なく重
症とする。
エ 肺炎を治療(化学療法)する際には、肺炎の原因となった病原菌に有効な抗菌
薬による治療が重要であるが、病原菌の特定及び有効な薬剤の判定には時間がかか
ることから、まずはじめは推定病原菌に対しての治療(エンピリック治療;empirictherapy
)を行い、病原菌が特定され次第、その病原菌の薬剤感受性によって治療薬の変更を
検討する(甲B3)。もっとも、院内肺炎の場合には、当初から広域で強力な抗菌薬を十
分量、短期間投与し、かつ施設における抗菌薬の選択をできるだけ偏りのない多様なも
のとする(甲B14〔27〕)。
(3) 低酸素性脳症
 脳への酸素供給が十分でないために起こる脳症の総称である。その病因となる疾
患には、次のものがある。(甲B2)
● 心機能障害によるもの
 心筋梗塞、心停止(麻酔合併症を含む。)、体外循環手術後、出血性・外傷性・感
染性ショック
● 肺機能障害によるもの
 種々の窒息(溺死、絞扼、誤嚥・異物による気道閉塞)、貧血性無酸素症(一酸化
炭素中毒)、シアン中毒、高度の貧血や無酸素血性無酸素症(神経筋疾患)による呼吸
麻痺
(4) 持続的植物状態
 持続的植物状態(PVS)とは、覚醒しているが認識する能力がない状態をいい、患
者は睡眠・覚醒周期を有し、睡眠から覚醒させることができるが、刺激に応答したり、計
画性を持った、あるいは認知機能が必要な行動を何ひとつすることができない。持続的
植物状態の原因には種々のものがあるが、その中には、「低酸素-虚血性脳症」が含
まれる。(甲B5〔50、51〕)
(5) 細菌性肝膿瘍
 胆管や隣接組織の炎症、脈管などから肝臓に細菌などが感染し、肝臓内に膿瘍
(膿の塊)を形成した場合をいう(甲B7、B8)。その感染経路としては、経胆道性、経門
脈性、経肝動脈性胆嚢炎や膵臓炎からの直達性、外傷性などがあるが、細菌感染の原
因についてはよく分からないことが多いとされている。他方、赤痢アメーバが原因となっ
た肝膿瘍をアメーバ性肝膿瘍という。(甲B7、証人F〔27〕)。
(6) 気管カニューレの使用方法
 気管カニューレの使用方法を説明した書面には、「重要な基本的注意」として、「定
期的に分泌物の吸引を行い、患者の気道を確保すること。チューブが閉塞していないか
常にチェックし、必要に応じてチューブを交換すること。」との記載がある(乙B4〔22〕)。
3 争点(1)(Dの肺炎罹患を防止しなかった過失の有無)について
 原告らは、平成12年12月21日の時点において被告病院の医師らがDに対して口
腔ケアの実施や体位の工夫等、嚥下性肺炎の罹患防止のための処置を実施する義務
があったにもかかわらず、これを怠り、何ら措置をしなかった過失により、Dが嚥下性肺
炎に罹患したと主張する。
 しかしながら、上記1(7)において認定したとおり、被告病院においては、Dに対して
口腔ケアや体位交換がされていたものであるから、原告らの主張する注意義務を果たし
たものということができるのであって、被告病院に、Dの肺炎罹患を防止しなかった過失
は認められない。
4 争点(2)(Dに発症した肺炎について適切な対処を怠った過失の有無)について
(1) 上記認定事実に対する評価
ア 上記1(3)ウにおいて認定したとおり、平成12年12月23日午前、すなわち、入院
から48時間経過時以降にDが肺炎に罹患していることが確認されたものであるところ、
上記2(2)エにおいて認定したとおり、肺炎を治療する際には、まずはじめにエンピリック
治療を行うべきであって、しかも院内肺炎の場合には、当初から広域で強力な抗菌薬を
十分量、短期間投与し、かつ施設における抗菌薬の選択をできるだけ偏りのない多様
なものとするべきなのである。
イ しかしながら、上記2(2)ウにおいて認定したとおりの基準のうち、①、②、④及び
⑤を満たす所見がDについては認められないため、Dが重症肺炎であるとは認められな
いし、重症肺炎でなければ直ちに抗生物質の投与をする必要性はないのであるから(証
人F〔6〕)、被告病院が同日午前の時点においてエンピリック治療を始めるべき義務は
認められないというべきであるし、上記において認定したとおり、原告らが被告病院に対
して抗生物質の使用については緊急の場合を除いては家族の了承を必要とする旨の
申入れをし、被告病院もこの申し入れを承諾した経緯があり、同日17時ころに原告らが
被告病院に到着するまで原告らとの連絡は取れなかったのであるから、この点において
も被告病院にエンピリック治療を同日午前の時点で始めるべき義務はなかったというべ
きである。
(2) 原告らの主張に対する判断
 この点に関して、原告らは、平成12年12月23日の時点において肺炎の病原菌
の特定をするべく血液培養検査や喀痰培養検査等を実施すべき義務が被告病院にあ
ったと主張する。しかし、上記2(2)エにおいて認定したとおり、肺炎の治療においてはま
ずエンピリック治療がされるべきものであることからすれば、病原菌の特定が必要であ
るということはできるが、仮に同日培養検査を実施したとしても結果が判明するのは病
原菌の特定が同月25日、薬剤感受性の判明は同月26日となり、本件における治療経
過に何ら影響を及ぼさず、これを同日の時点において実施すべきであるとまでいうこと
はできないし、同日は祝日で被告病院の態勢からして上記検査が実施できない状態で
あったから(証人F〔29〕)、これらを実施しなかったのもやむを得なかったものと認めら
れ、原告らの主張は採用できない。
5 争点(3)(Dの人工呼吸器の管理及び心電図のモニタリングを怠った過失の有無)に
ついて
 原告らは、Dが院内肺炎を起こす可能性が高く、しかも肺炎が易感染性宿主にとっ
ては致命的な影響を及ぼす重大な呼吸器疾患であることからすれば、人工呼吸器にア
ラーム機能を備え、心電図をモニタリングすべき義務があったと主張する。
 しかしながら、人工呼吸器にはアラーム機能が付いていたのであるし(弁論の全趣
旨)、単に重大な呼吸器疾患であるとの一事を以て心電図をモニタリングすべきであると
の医学的知見は見当たらず、Dに心電計を装着すべき症状があったとも認められない
から、原告らの主張は採用できず、被告病院に原告らが主張した注意義務は認められ
ない。
6 争点(4)(Dの痰の吸引を十分に行わなかった過失の有無)について
(1) 上記認定事実に対する評価
ア 上記1(3)アないしウにおいて認定したところによれば、Dについて気管吸引した
際に吸引された痰が次第に粘稠性を増し、かつ色も白色から黄色、黒色へと変化し、量
も増加する傾向にあって、さらに上記2(6)において認定したとおり、チューブについては
定期的に吸引する必要があることからすれば、被告病院としては、Dの痰が粘稠性を増
し、量も増加する傾向にあったことに対応して、呼吸確保のためにDの気管吸引の回数
を増加させなければならなかったものと認められる。
イ 他方、上記1(7)において認定したところによれば、被告病院の看護師は、Dにつ
いては、平成12年12月20日の入院当初は2時間に1回、同月22日10時以降は1時
間に1回、同月23日10時以降は30分ないし1時間に1回の割合で痰の吸引を行い、
かつ、体位交換についても2時間おきに行っていたものと認められる。
ウ 以上に照らせば、被告病院には上記アのとおりの注意義務が課せられていたも
のの、上記イのとおり、Dについて気管吸引を頻回に行う必要性を認識し、実際にこれを
施行しており、気管吸引を30分ないし1時間ごとに実施することを決定する前や同日1
4時の時点での痰の量について「多量」「かなり」といった表現が用いられているのに対
し、Dの急変前の最後の吸引となった15時30分の時点では、痰の量は中等量に減少
しているのであるから、この時点でそれまでより頻回に吸引を実施すべき状況が生じて
いたとみることはできず、上記決定に従って50分後の16時20分まで吸引を行わなか
ったことに問題があったとは認め難い。これらに鑑みれば、被告病院として必要な措置
を行ったというべきであり、かつ、被告病院が決定した以上に頻回に気管吸引を行うべ
きことを基礎づける事情は証拠上見当たらないから、被告病院に過失はないというべき
である。
(2) 原告らの主張に対する判断
ア これに対して、原告らは、原告AがDの病室にいた際に看護師が気管吸引をして
いなかったと主張及び供述(原告A〔6〕)し、また、Dが呼吸停止状態に至るまで使用し
ていた人工呼吸器が汚れていたことが確認されたことを理由に、やはり被告病院の看
護師らが気管吸引を怠っていたものと主張する。
 しかしながら、原告A自身が5年前だから記憶がないと供述しているほか(原告A
〔7〕)、人工呼吸器については、痰が複数回、相当量出れば上記において認定したとお
り痰が付着して汚れることがあるというのであり(証人K〔7〕)、しかもウォータートラップ
部分は、人工呼吸器をDから外してしまった状態において上記認定のとおりの量が貯留
していたというのであって(乙A4〔1〕)、人工呼吸器をDに装着した状態での貯留量では
ないのであることに鑑みると、これらのことから看護師らが気管吸引を怠っていたと推認
することはできないのであって、原告らの主張は採用できない。
イ なお、原告らのこの点に関する主張は、Dに生じた急変の直接的な原因が痰に
よる気道閉塞にあるとの推定を前提としており、この推定が正しいものであった場合に
はこのような事態を予見してさらに頻回に吸引を実施すべきではなかったかとの問題が
生じないでもない。
 しかしながら、上記の推定を直接的に裏付ける証拠はなく、前記1(3)ウにおいて
認定したとおり、Dの急変を発見した看護師は直ちに吸引を実施し、Dの鼻と気管から
薄茶色の痰が中等量ないし多量に引けているが、このとき気道が閉塞していたか否か、
仮に閉塞していたとしてその原因が気管に生じた痰によるものか否かは明らかでないと
いわざるを得ない。
 もっとも、呼吸停止を生じさせる原因として気道閉塞以外のものが想定できず、か
つ気道閉塞を生じさせるものが気管に生じた痰以外に考えられないとの事情が認めら
れれば、上記の推定にも相当の根拠があるといえなくもない。しかし、前記1(3)ウにおい
て認定したとおりDには急変当日の朝に鼻腔から黒茶色のものが流出していたことか
ら、嘔吐したものを誤飲した疑いがあったものということができるところ、急変時にも鼻か
ら中等量ないし多量のものが吸引されていること、急変後17時までの間に嘔吐反射が
あり、口腔内への嘔吐物流出が数回見られ、その色も薄茶ないし茶黒色であって、急変
時に鼻から吸引された物の色に類似していることなどに照らすと、仮に急変時に気道閉
塞が生じていたとしても、その原因は気管内に生じた痰によるものというよりは、むしろ
嘔吐物の誤嚥によるものと推認するのが合理的である。
 したがって、原告らの主張は、その前提を欠くものといわざるを得ない。
7 争点(5)(被告病院におけるカフ付きカニューレの使用方法の適否)について
 原告らは、Dが嘔吐しても嘔吐物等が気管内に流入することを防止するため、被告
病院にはカフ圧を適切に保つべき義務があるのに、これを怠り、カフ圧を適正に保たな
かった過失があると主張する。
 しかしながら、カフを用いる際にはカフ内圧を適正に保つ必要があることは認められ
るものの、他方で「カフへの過剰な空気の注入は気管損傷の原因となる」とされており
(乙B4)、カフと気道とを強く接触させると、接触している部分の気管の粘膜にびらんや
潰瘍、壊死が生じかねないため、カフの圧は一定以上には上げないようにしているので
あって(証人F〔10、11〕)、被告病院にカフ圧を適正に保たなかった過失があるとは認
められない。
 この点に関して、原告らは、嘔吐物が気管内に流入したことを仮定し、仮に嘔吐物
が気管内に流入したことからしてカフ圧が適切でなかったと主張するものである。しか
し、カフは誤飲を防止するために設けられているわけではなく気管カニューレが気管切
開口から脱落することを防止し、鼻咽頭を介さず気管カニューレを介して有効な喚気が
なされるよう肺の陰圧を保つことを目的としたもので、上記のようにカフに過剰な空気の
注入をすることが禁止されていることからすれば、もともとカフのみによっては気管内に
誤飲が生ずることを完全に防止することはできないのであるから、嘔吐物の流入という
事実のみを以てカフ圧が適切でなかったと推認することはできないのであって、原告ら
の主張は採用できない。
8 過失の有無についてのまとめ
(1) 以上によれば、原告らの主張する過失はいずれも認められないから、原告らの主
張する過失行為と結果(Dが植物状態となったこと及びDが死亡したこと)との間の因果
関係の有無(争点(6))及び損害額(争点(7))について判断するまでもなく、被告に損害賠
償義務が発生しないことは明らかである。
(2) ところで、本件弁論準備手続の終結までに原告らが主張した過失のうち、Dに生
じた急変の原因が嘔吐物の誤嚥によることを前提とするものは、争点(5)に関するものの
みであったところ、原告らは、平成17年10月12日付の第8準備書面において、仮に吐
瀉物による窒息が急変の原因であるとしても、それは当日朝に取りやめた経管栄養を
昼に再開したことによるものであるから、被告の責任は免れないと指摘するに至った。
 しかし、前記1(3)ウにおいて認定したとおり、同日昼間での時点ではDが嘔吐した
か否かは明確ではなかったし、Dについては点滴ルートの確保が困難な状況があったこ
とからすると、栄養補給のためと脱水による痰の粘稠化を避けるために経管栄養を再開
することはやむを得なかったものと認められる。その上、経管栄養の実施と急変時との
時間的関係からして、経管栄養で注入したものが急変時に嘔吐されたか否かは明らか
でないといわざるを得ず、いずれにしても経管栄養を再開したことに問題があったとは認
め難い。
9 結論
 したがって、原告らの請求にはいずれも理由がないから棄却することとし、主文のと
おり判決する。
東京地方裁判所民事第34部
裁判長裁判官藤 山 雅 行
裁判官金 光 秀 明
裁判官萩 原 孝 基
(別紙)
主張要約書
第1 亡Dの肺炎罹患を防止しなかった過失の有無(争点(1))
(原告らの主張)
1 被告病院は亡Dの病状(体動困難)を認識していたのだから、一般病院の入院患者
に対する看護・管理義務と比較して、亡Dに対してはより高度の必要かつ適切な看護・
管理義務が課せられていたこと
 原告らは、本件より前に10回にわたって在宅難病患者緊急一時入院制度を利用
し、亡Dを被告病院に入院させていた。すなわち、F医師らは、Dが、脊髄小脳変性症に
よる身体の運動失調により手足を全く動かせず、また、自己の病状が急変した時や緊
急時に自分で対処することはもとより、医師や看護師に速やかに自己の病状の変化等
を連絡するためにナースコールを押すことさえできない状況であることを認識していた。
 したがって、被告病院には、亡Dに対し、一般病院の入院患者に対する看護・管理
義務と比較して、より高度の必要かつ適切な看護・管理義務が課せられていた。
2 亡Dの肺炎は院内肺炎のうちの嚥下性肺炎であったこと
 肺炎は罹患した場所により①市中肺炎と②院内肺炎に分類され、亡Dはこのうち、
「何らかの病気のため入院中に、病気の原因となる微生物が肺の中に侵入して発症す
る肺炎」である②院内肺炎を発症した。
そして、院内肺炎はさらに③日和見肺炎と④嚥下性肺炎に分類されるが、亡Dはこの
うち、「無意識に口の中の菌を気管内に飲み込み、肺炎を起こす」④嚥下性肺炎に罹患
した。
3 亡Dは、平成12年12月21日の入浴後、身体状態を悪化させていたこと
 ハーバードへの入浴後に亡Dの顔色が悪かったことから、原告Aが亡Dに「気持悪
いか」と声をかけると、亡Dは目で同意の合図をした。さらに、同日20時の時点では体
温が35.7度であったものが、22時の時点では37.3度まで上昇し、亡Dは見た目にも
かなり辛そうな様子であった。
4 亡Dの肺炎罹患を防止するためにとるべき措置とその懈怠
 同日の時点で、被告病院医師らが亡Dの肺炎罹患を防ぐため、口腔ケアの実施や
体位の工夫等の嚥下性肺炎への罹患の防止のための処置を実施していれば、亡Dが
肺炎を発症するという結果を防止することができたにも関わらず、被告病院医師らはそ
れらの処置を怠った。
(被告の主張)
1 口腔ケア及び体位交換等の実施
 原告らは平成12年12月21日の時点で、口腔ケアの実施や体位の工夫等の処置
をしていれば、肺炎発症は防止できたとする。
 しかし、この点は原告らの誤認である。口腔ケアも体位の工夫も下記の通り実施し
ている。
 まず、口腔ケアについては、ケアシートにMC(口腔ケア)と明記されており(乙A1〔2
20〕)、処置を行っていることは記録上も明らかである。
 また、体位の工夫というのは、嚥下性肺炎を予防する上体を少し立てた形にすべき
であるとの主張と思われるが、これも以下のとおり行っている。
 看護記録乙A1号証63頁図面で囲んだ部分の8にベッドアップでズリ下がるため、
身体をベッドの上に上げるということにしており、これはベッドアップ、即ち上体を起こす
ということを行っていることに対しての要望であり、原告らの主張の上体を立てた形にす
るという体位の工夫は行っていることを示しており、さらに体位交換も2時間ごとに行っ
ている(乙A1〔220〕)。
 したがって、原告らの主張する義務違反はない。
2 その他義務違反の不存在
 具体的にどのような義務があるという主張であるのか不明であり、被告に、亡Dの肺
炎罹患を防止しなかった過失はない。
第2 亡Dに発症した肺炎について、適切な対処を怠った過失の有無(争点(2))
(原告らの主張)
1 平成12年12月23日の段階での検査義務の懈怠
 平成12年12月23日午前、胸部レントゲン撮影の結果、亡DはF医師から「肺炎」と
診断された。それにも関わらず、カルテに「治療についてはfamilyと相談の上決める」と
記載されていることからも明らかなように、被告病院医師らは亡Dに対し一刻を争って治
療を実施しようとする様子はなく、漫然と従前の処置を繰り返すのみであった。この時点
において、被告病院医師らには、『血液検査』や『喀痰検査』等を実施するなどして、肺
炎を引き起こした病原菌の特定を行うべき義務があったにもかかわらず、これらを怠っ
た過失がある。
2 エンピリック治療を実施しなかった過失
(1) 肺炎一般に対するエンピリック治療実施の必要性
 肺炎を起こした場合、血液検査や喀痰検査を実施し、肺炎を引き起こした病原菌
にあった抗菌薬による治療を実施することが重要であるが、病原菌の特定には時間が
かかる。このため、推定病原菌に対しての治療(エンピリック治療)の実施が必要とな
る。
 特に、院内肺炎においては、患者は既に遅延を許さない状態にあるため、最初か
ら確実に有効であると思われる抗菌薬を選択し、投与することが要求され、院内肺炎の
治療に際しては、当初から広域で強力な抗菌薬を十分量、短期間投与し、かつ、施設に
おける抗菌薬の選択をできるだけ偏りのない多様なものとする必要がある(甲B14〔2
7〕)。
(2) 亡Dに対するエンピリック治療実施の必要性
 同日午前に「肺炎」と診断された時点で、亡Dは熱が38.5度あり、はっきりしない
ながらもラ音が確認され、汚い痰が大量に吸引されていた(乙A1〔65〕)。また、上記の
症状に加え、同日に撮影された胸部X線写真において、亡Dの一側肺の3分の2に陰影
の広がりが生じていたのだから(甲A7)、亡Dの症状は決して軽視できるものではなかっ
た。つまり、被告病院医師らは、亡Dに対し即座にエンピリック治療を実施すべきであっ
た。
 また、前日(22日)22時の時点で、亡Dは「口唇・顔面チアノーゼ及び振戦」が確
認されており、熱は38.4度、呼吸数は32回/分、さらに、既に人工呼吸器管理を要し
ていたのだから、たとえ胸部X線写真で肺炎が確認されていなくとも、被告病院医師らは
この時点で「肺炎」を予想し、エンピリック治療を実施すべきであった(乙A1〔64〕、乙B1
4〔4〕)。
 この際、被告病院医師らが亡Dに対し直ちにエンピリック治療を実施し、適切な処
置を実施していれば、亡Dの肺炎の悪化を防ぐことができたはずであるのに、被告病院
医師らにはこれらを怠った過失がある。
(被告の主張)
1 平成12年12月23日の段階で血液検査や喀痰検査が必要かどうか
 肺炎の患者の治療経過を見るのに、白血球数やCRPなどの血液検査結果は役に
立つが、明らかに肺炎であることが判明している患者には血液検査結果がどうであれエ
ンピリックに抗生剤を投与するという治療方針に変わりはなく、亡Dに対する血液検査が
必要不可欠であるとは言えない。
 そして、血液検査を行うためには、先ず血管穿刺を行う必要があるが、亡Dの血管
は非常に細く、血管穿刺が極めて困難であった。そのため、末梢静脈穿刺は不可能で
あり、一般血液検査の採血は鼠径動脈から行わざるを得なかった。同日15時30分に
鼠径動脈穿刺を試みたが結局成功せず、血液を採取することができなかった。
 喀痰培養検査については、同検査が肺炎の起炎菌の検出及び起炎菌の抗生剤感
受性(どの抗生剤が効果があるか)を調べることを目的として行うものであるが、検体提
出後に、菌の培養、菌の同定、抗生剤感受性検査に2~3日を要してしまうものであり、
直ちに結果が出て治療に反映できるものではない。又、喀痰培養検査を行っても、起炎
菌が検出されるとは限らず、肺炎のときはエンピリックに抗生剤を投与するという治療方
針には何ら変わりがなく、亡Dに対する喀痰培養検査が必要不可欠であるといえないこ
とは、血液検査と同様である。
 なお、その後肺炎は治癒しており、死亡の主な原因は肝膿瘍であり、肺炎とは関係
が無い点指摘する。
2 亡Dの肺炎に対し、同日の段階で、緊急に抗生物質を投与する必要はなかったこと
(1) 亡Dの肺炎は、当時重症ではなかったこと
 亡Dは当時重症肺炎と診断される状態ではなく、緊急の抗生物質を投与すべきと
判断される状態ではなかった。
 重症肺炎と診断される基準は、①ICUに入室する必要が有る程の呼吸不全を呈し
ている場合、②肺炎を原因とする呼吸不全に対処するために人工呼吸器管理をしなけ
ればならない場合、あるいは、動脈血酸素飽和度90%以上を維持するためにFiO235
%以上を要する様な呼吸不全がある場合、③胸部X線像上の急速な陰影の進行、複数
の肺葉にわたる肺炎、肺浸潤影の空洞化がある場合、④低血圧及び/又は重要臓器
機能不全を伴う重症敗血症の所見:ショック(収縮期血圧<90mmHgあるいは拡張期
血圧<60mmHg)、4時間の血管収縮薬投与の必要、尿量<20ml/hあるいは<80
ml/4h(他の原因がない場合)、透析を要する急性腎不全がある場合、のいずれかを
満たした場合である。
 なお、抗生剤の使用は、家族の了承が得られた段階で使用を予定しており、経管
で投与する予定も事前に立てていた(乙A1〔66〕)。
(2) 亡Dについては、家族から事前の同意無く抗生物質の使用を禁止する申し入れ
があったこと
 被告は、亡Dの7回目の入院である平成11年8月26日から同年9月9日までの入
院の際、亡Dが尿路感染症を発症したため、抗生物質の投与を行ったところ、家族か
ら、事前の了承無く抗生物質の投与をすることは止めて欲しいとの強い申し入れがあっ
たため、以後、抗生物質の使用については緊急の場合を除いては家族の了承をとらな
ければならなくなっていた。
 本件においても、事前に家族の了承を求めて架電しているが、家族が留守であっ
たため、事前の了承がとれず、抗生物質の投与ができなかったのである。
 もちろん、亡Dが当時重症の肺炎であると判断されれば、緊急の場合として抗生物
質の投与を行ったが、そのような場合でなかったことは上記(1)において主張したとおり
である。
(3) 亡Dに対して、家族と面談の上、抗生剤(チェナム)を投与していること
 同日17時に家族が来院した際、直ちに面談を行い、その後亡Dに対し、抗生剤チ
ェナムを投与している。
第3 亡Dの人工呼吸器の管理及び心電図のモニタリングを怠った過失の有無(争点(3
))
(原告らの主張)
1 亡Dについて人工呼吸器の管理(警報アラームを含む)や心電図のモニタリング(警
報アラームを含む)を行う必要性
 「気管内挿管、人工呼吸器管理」、「基礎疾患」は院内肺炎発症のリスクファクターで
あることから、亡Dは院内肺炎を起こす可能性が極めて高かったといえる(甲B12〔4
5〕)。また、「高齢」は院内肺炎の重症化と死亡の危険因子の1つであることから、この
点からも、亡Dは易感染性宿主であった。
 肺炎は易感染性宿主にとり致命的な影響を及ぼす重大な呼吸器疾患であり、急激
に悪化した場合には死亡するという結果を招くことが容易に想像できる病である。このた
め、被告病院医師らには、亡Dの状態を把握するために人工呼吸器にはアラーム機能
を備え、心電図(警報アラームを含め)をモニタリングすべき義務があったことは明らか
である。
2 亡Dの容態急変への対応の可否
 上記モニタリングを亡Dに施していれば、被告病院医師らは亡Dの急変時に即座に
対応することができ、亡Dの状態の悪化を防ぐことができた。しかしながら、被告病院医
師らがこれらを怠ったため、亡Dは、平成12年12月23日16時20分にチアノーゼを起
こし、呼吸停止状態のためにQRS波が心電図モニターでほとんど確認できず、自発呼
吸がなくなったショック状態で発見された。
 つまり、上記モニタリングがされていれば、亡Dがこれほどまでに状態を悪化させた
状態で発見されることはなかったはずであり、この点につき被告病院医師らの過失が存
在することは明らかである。
(被告の主張)
1 亡Dにはアラーム付の人工呼吸器を装着していたこと
 亡Dにはアラーム付の人工呼吸器が装着されており、異常が発生した場合、25秒
でアラームが鳴るようセットされていた。
2 亡Dには心電図をとるべき症状がなかったこと
 亡Dには心電図をとるべき症状が無く、装着すべきとの主張には理由がない。
第4 亡Dの痰の吸引を十分に行わなかった過失の有無(争点(4))
(原告らの主張)
1 亡Dに対する頻回観察及び痰吸引の必要性
 亡Dは、平成12年12月21日のハーバードへの入浴後から、通常と比べ明らかに
多量の痰が確認されていたことから、被告病院看護師らが痰の吸引をきちんと行なわな
ければ、気管カニューレに痰が蓄積してしまうことは必然的な状態であった。
 つまり、頻回の亡Dの状態の観察及び痰の吸引を行なわなければ、亡Dが気管カニ
ューレの管に多量の痰を溜め、痰を詰まらせて呼吸不全を起こして窒息状態に陥り、低
酸素脳症を発症するだけの痰を蓄積させる可能性は容易に想像できた。
2 亡Dに対する観察及び痰の吸引が不十分であったこと
 カルテには、被告病院医師らが同月23日10時の時点で、痰の吸引がそれまで2時
間ごとであったものを30分から1時間ごとに実施することを決定したと記載してある。し
かしながら、原告Aが同月20日の11時から13時、同日16時から22時、翌21日の正
午頃から20時に付き添っていた時でさえ、被告病院看護師らが亡Dに対し当然行なう
べき看護を何ら行なわなかったため、原告A自身が亡Dの痰の吸引を行うありさまであ
ったことから、被告病院看護師らが実際に30分から1時間ごとに亡Dの痰の吸引を行っ
ていたとは考えられない。
 また、確かに、亡Dの状態が落ち着いている際に、被告病院看護師らが痰の吸引を
行っていたこともあったが、原告らが改めて亡Dの痰の吸引を実施してみると痰が引け
るなど、処置として不完全なものだった。
3 亡Dの窒息の原因は痰であって、嘔吐ではない
 カルテには「右鼻腔より黒茶色のもの流出している。嘔吐か?」との記載が見られる
のみで、亡Dが低酸素脳症を発症した原因が嘔吐であったと証明する記載は全くない。
すなわち、被告の「低酸素脳症の原因は予測できない嘔吐であった」との主張は、あくま
で被告の予想に過ぎず、これを明らかにする証拠は何も存在しない。
(被告の主張)
1 被告病院は、亡Dに対して十分な観察及び痰の吸引を行っていたこと
 通常、患者に対する確認及び吸引は2時間おきに行われるところ、亡Dに対しては、
30分~1時間毎に痰の吸引を行うこととし、頻回に痰の吸引を行っている。
2 気管カニューレに痰が詰まったとは考えられないこと
(1) 気管カニューレの直径については、外径が約11ミリメートルで、内径が約8ミリメ
ートルというものである。
 そして、原告らはこの内径を「細い」と言うが、8ミリメートルの内径であれば、人体
に対して使用する器具の中では太い部類に属し、決して原告らが主張するように「細い」
ものではなく、痰が詰まり窒息を招くような細い内径ではない(甲A8号証で、細いという
表現からは、青色の管、或いは緑色の管を見てしまいがちだが、原告が問題としている
のは、2枚目の写真で言えば中央に水平に置かれた形となっている灰色の管で、左側
に喉に固定する平らなベルト状のプラスティック板が付いている管のことであり、これが
気管カニューレの管であることを念のため指摘する。)。
(2) 次に、仮に管に痰がカニューレを閉塞される程にこびりついていたとすれば、ネラ
トンカテーテルによる吸引の際、何らかのひっかかりが必ずあり、吸引を行っている者が
必ず異常に気付き記録するが、本件においてはこのような事実は全くない。
(3) さらに、平成12年12月23日の急変の際、F医師が駆けつけてアンビューバッグ
による酸素投与を行っているが、もし閉塞するほどに痰がこびりついているのであれ
ば、空気を送り込む際に強い抵抗があるはずだが、本件では何の抵抗もなくバッグを押
すことができており、気管カニューレに痰が詰まっていたとはおよそ考えられないのであ
る。
第5 被告病院における、カフ付き気管カニューレの使用方法の適否(争点(5))
(原告らの主張)
 窒息の可能性が嘔吐であった場合、カフの適正圧が保たれていなかった。
 すなわち、亡Dはカフ付きのカニューレを使用していた。カフ付きのカニューレを使用
すると、カフを膨らませることで上気道と下気道を遮断することができることから、下気道
に圧をかけて人工呼吸を行なうと、その圧が上気道に漏れることなく有効な換気を行な
うことが可能となり、これにより、唾液や食物、吐物等が気道内に流れ込むのを防止す
ることができる。つまり、カフ圧が適正に保たれていれば、「気道内への、唾液・食物・胃
の内容物、あるいは血液の流下防止」=「誤嚥の防止」が可能であった。
 たとえ被告が主張するように予測できない嘔吐があったのだとしても、本来であれば
カフによって嘔吐物等の気管への流出が防止できたのであるから、被告病院看護師ら
がカフの圧力を適正に保っていれば、嘔吐が気管に逆流して気道を閉塞することはなか
った。
 つまり、亡Dが窒息状態に陥り、低酸素脳症を発症することを防ぐことができたはず
である。この点につき、被告の過失が存在することは明らかである。
(被告の主張)
1 気管カニューレの装着方法
 気管カニューレを装着する際には、器具がはずれないようにするために首の周囲に
紐を回し固定するが、その首に回した紐と首の間には、首が紐で絞まることがないよう
に多少遊びを設けておかなければならず、そのため体動で気管カニューレが多少ずれ
ることがある。原告ら主張の、痰が蓄積したことにより気管カニューレが浮き上がってし
まうというようなことは、あり得ない想像である。
2 カフ付き気管カニューレによって完全な誤嚥防止はできないこと
 カフ付き気管カニューレによって完全に誤嚥防止ができるわけではない。
 カフは空気を入れて入れる空気の量を増減させることによってその圧力(カフ圧)を
調整するのであるが、気管とカニューレの間に全く隙間をなくす程度にカフ圧をかける
と、かえってカフと接触している気管粘膜の壊死・出血や肉芽形成を招来し、最悪のケ
ースではカフによる穿孔を生じさせてしまうことも有り得るので、期間とカニューレの隙間
を密閉するほど強い圧をかけることはできない。
 したがって、カフの存在によって誤嚥防止ができるわけではない。
 なお、G大学病院からの申し送り書によると、カフ付きカニューレを付けた状態であ
るのもかかわらず、平成9年3月27日に亡Dが誤嚥性肺炎で緊急入院したことがあり、
「今回は球麻痺症状が強いことにもかかわらず経口摂取したことが誘因となっており、家
族の理解が不十分であることが問題と思われた。退院時には水以外の経口摂取ができ
ないことを強くムンテラし、病気の理解を促した。」との記載がされている。これは、気管
切開によってカフ付きカニューレが使用されている状態においても、カフの存在によって
必ずしも誤嚥防止ができるわけではないということ、そして、亡Dの家族(原告ら)がカフ
があることによって完全に誤嚥防止ができると誤解してしまっていることを明らかにした
記載なのである。
第6 前記第1ないし第5の過失と亡Dの死亡との因果関係の有無(争点(6))
(原告らの主張)
1 亡Dの死因について
(1) 亡Dの入院時の平成12年12月20日までの容態
 亡Dは平成3年頃から脊髄小脳変性症を発症し、時とともに進行する病気であるた
め、その後、手足を動かすことが全くできず、人工呼吸器をつけての生活を余儀なくされ
ていたが、原告Aらの作成した月間介護予定をもとに、原告らの他、訪問看護師、ケア
マネージャーらの協力を得、日常行動全般の看護等を受けて、一定の生活の質(クオリ
ティ・オブ・ライフ)を維持し、病状を安定させていた。
 そして、入院の前日である平成12年12月19日、東京都の在宅難病患者緊急一
時入院制度を利用するにあたり、かかりつけ医であるH医師に病状確認の診察を受け
たところ、「亡Dの病状は安定しており、被告病院への入院は問題ない」との診断を受け
たことから、原告らは安心して同病院に亡Dを入院させた。
(2) 気管カニューレに痰をつまらせたことによる窒息状態の発生とこれによる低酸素
脳症から生じた脳障害によって亡Dが植物状態に陥ったこと
 亡Dは、平成12年12月21日のハーバードへの入浴後から、通常と比べて明らか
に多量の痰が確認されていたことから、被告病院看護師らが痰の吸引をきちんと行なわ
れなければ、気管カニューレに痰が蓄積してしまうことは必然的な状態であった。
 それにもかかわらず、被告病院看護師らが頻回に亡Dの痰の吸引を実施する等適
切な看護を実施しなかったことから、同月23日16時20分に亡Dはチアノーゼを起こし、
呼吸停止状態のためにQRS波が心電図モニターでほとんど確認できず、自発呼吸がな
くなったショック状態で発見された。
 亡Dは、被告病院看護師らにより痰の吸引さえ頻繁にされていれば、人工呼吸器
の管に痰を溢れさせてしまうほど気管カニューレに大量の痰を溜めることはなく、低酸素
脳症に陥り植物状態になることはなかったことから、被告病院にはこれを怠った結果、
亡Dの低酸素脳症を引き起こした過失が存在することは明らかである。
(3) 基礎疾患としての肺炎に上記(2)の植物状態による体力及び抵抗力の低下が加
わって亡Dが急性呼吸促迫症候群(ARDS)に罹患したこと
 亡Dは、平成12年12月23日に肺炎と診断されていたにも関わらず、被告病院医
師及び看護師から適切なタイミングで痰の吸引をしてもらえなかったために、人工呼吸
器の管に溢れ出すほど気管カニューレに痰を溜め、人工呼吸器の管に痰を詰まらせた
ことで呼吸不全を起こし、低酸素脳症により植物状態に陥った。このため、前記肺炎を
基礎疾患とし、同日に植物状態に陥ったことによる体力及び抵抗力の弱まりが肺炎とい
う基礎疾患に加味され、同月26日に急性呼吸急迫症候群(ARDS)に罹患した。
(4) 上記(2)ないし(3)の経過を辿らなければ、肝膿瘍によって死亡することはなかった
こと
 亡Dは、平成12年12月23日に「肺炎」を引き起こし、その後低酸素脳症により植
物状態に陥って以降、ARDS、肝障害等様々な病気を併発し、平成14年1月22日に肝
障害を直接の死因として死亡した。被告病院の呼吸器管理のミスにより植物状態に陥っ
ていなければ、亡Dは原告らの介護のもとに病状を安定させ、生命を維持していたので
あるから、植物状態に陥ったことと死亡との間に因果関係が存在することは明白であ
る。
 なお、ARDSに関しては、カルテに「急性呼吸急迫症候群は極めて難治であるとさ
れており、今後再度状態悪化、生命の危機に陥る可能性あり」との記載があり、被告病
院医師及び看護師が亡Dの生命予後は厳しいと判断していたことは明らかである。ま
た、平成12年12月26日に亡Dが「急性呼吸急迫症候群」と診断されてから、平成14
年1月22日に死亡するまでの間、問題リストとして常に『ARDSにて再度の呼吸状態悪
化、急変の恐れ』と記載されていることからも、被告病院医師及び看護師が亡Dの生命
予後は厳しいと判断していたことが分かる。
 つまり、亡Dは平成14年1月22日に「肝膿瘍」を直接の原因として死亡したが、平
成12年12月23日に植物状態に陥って以降は常に「急性呼吸急迫症候群」により生命
の危機に瀕していたといえ、被告病院医師らが亡Dの肺炎に対し適切な処置をしていれ
ば、「肺炎→低酸素脳症による植物状態に伴う、体力及び抵抗力の弱まり→急性呼吸
急迫症候群(ARDS)」という経過を辿って、肝膿瘍により死亡するという結果を避けるこ
とができた。
2 肺炎に対する治療を平成12年12月23日の段階で開始していれば、肺炎の症状
の悪化、とりわけ呼吸状態の悪化を防ぐことができたこと
 被告病院医師は、同日午前の胸部レントゲン撮影を行った時点で、亡Dの左中肺に
浸潤影を確認し、「肺炎」と診断していたのだから、直ちに血液検査や喀痰検査を行なう
等して、肺炎の病原菌の特定を行なうとともに、病原菌の特定までには時間がかかるこ
とから、推定病原菌に対しての治療(エンピリック療法)を行なうべきであったにも関わら
ず、F医師はこれらの処置を怠った。
 この時点でF医師が適切な処置を開始していれば、亡Dが人工呼吸器の管に痰を
溢れさせるほどに大量の痰を気管カニューレにつまらせ、呼吸不全を起こし窒息状態に
陥ることはなかったのだから、この点につき、被告の過失が存在することは明らかであ
る。
3 痰の吸引を十分に行っていれば、窒息状態にはならず、低酸素脳症やそれに引き
続く脳障害も回避できたこと
 被告病院看護師らが痰の吸引を頻回に行なっていれば、亡Dが人工呼吸器の管に
溢れるほどに、気管カニューレの管に痰を溜めることはなかったのであり、管に痰を詰ま
らせることもなかった。気管カニューレの管に痰を詰まらせなければ、亡Dが低酸素脳症
に陥ることもなかったのだから、この点につき被告病院看護師らの過失が存在すること
は明らかである。
4 亡Dの容態が急変したとき、より早期に発見していれば、回復不能な低酸素脳症や
それに引き続く脳障害も回避できたこと
 肺炎は、亡Dのように難病に罹患し、寝たきりで免疫力が低下している患者にとって
致死的な影響を及ぼす重大な呼吸器疾患であり、病状が急激に悪化した場合には死亡
するという結果を招くことが容易に想像できる。このため、被告病院看護師らは、普段よ
りもより頻繁に亡Dの病状の確認をすることが必要かつ適切な管理・看護であった。そ
れにもかかわらず、亡Dの病状の確認が頻繁に行われていなかったために、亡Dはチア
ノーゼを起こし、F医師が駆けつけた時はすでに呼吸停止状態で心電図モニターでQR
S波がほとんど確認できないという状態で発見された。したがって、頻繁な症状の確認に
よりもっと早く発見されていれば、回復不能なまで低酸素脳症により脳障害が進行して
植物状態に至るという結果を避けることができた。
(被告の主張)
1 亡Dの死因について
(1) オリーブ橋小脳萎縮症(OPCA)とその予後
 亡Dは、脊髄小脳変性症、ことにその中でもオリーブ橋小脳萎縮症(OPCA)に罹
患しており、その予後は極めて厳しい状況にあるものであり、従前安定していたというこ
とが今後の安定を推測させるなどと到底いえる状態のものではない。
 原告ら自身も認める様に、OPCAは原因不明の難病であり、東京都の難病医療等
助成対象疾患の指定を受けている程である。
 そして、発症から死亡までの平均が7.5年であり、発症後10.2年までの間に実
に84.14%が死亡してしまうという病気なのである(乙B1号証)。
 原告ら自身その訴状4頁冒頭に書いているように、亡Dについては、平成3年ころ
に発症しているとされていることからも、平成12年段階では発症から9年を経過し、統
計的にも既に極めて危険な状態にあり、死亡の結果を防止するのがそもそも難しい段
階に来ていたといわなければならない。
 なお、SDとは正規分布における標準偏差を意味し、SD2.7とはその中心となる
平均生存期間の7.5年を中心として増減2.7年の間に68.27%の死亡者が存在す
ることを意味する。また、7.5年+2.7年である、10.2年を経過した段階で生存してい
る患者は、わずか15.87%しか居ないことを示している(図については被告準備書面(2
) 3頁参照)。
(2) 亡Dの肺炎と肝膿瘍の発生との関連性がないこと
 亡Dの肺炎は、植物状態に陥った後の時期である平成13年1月29日には治癒
し、抗生剤投与も中止されて、その後、1年にもわたり状態が安定していたことからも明
らかなように、植物状態になったからといって抵抗力が特に低下したということはない。
 また、亡Dは高齢であり、寝たきりという意味では通常の他の同種の患者と同様に
抵抗力が低下していたということはあると考えられるが、亡Dの疾病は神経系のもので
あり、それのみで免疫力が低下しているという状況ではない点、注意すべきである。
 したがって、亡Dの肺炎と肝膿瘍の発生との関連性はない。
(3) 亡Dの死亡は、脊髄小脳変性症という原因不明の難病に起因する不可避的なも
のであること
 亡Dの直接の死因は、肝膿瘍とそれに伴うショックであり、植物状態と死亡との間
に因果関係はなく、植物状態になったから肝膿瘍が生じやすいとの医学的根拠もなく、
亡Dの死因は被告病院の医療行為が原因ではない。
 そして、脊髄小脳変性症という原因不明の難病を原因とする不可避的な死亡が本
件の原因であり、被告の医療行為と亡Dの死亡との間の相当因果関係はない。
2 肺炎の治療と亡Dの死亡との間に関連性がないこと
 亡Dの直接の死因は、肝膿瘍とそれに伴うショックであることから、前記のように、亡
Dの肺炎と肝膿瘍の発生との関連性がない以上、肺炎の治療と亡Dの死亡との間に関
連性は当然ない。
3 亡Dの窒息状態の原因が突発的な嘔吐であること
 平成12年12月23日0時に茶色の粘稠痰が引け、同日5時には鼻腔より黒茶色の
ものが流出しており嘔吐を疑わせる経過が確認されている。
 その為、被告病院ではその嘔吐の危険を考慮し、同日の朝の経管栄養も中止して
対処をしていた。
 しかし、チアノーゼを起こした同日16時20分頃に予測できない嘔吐が有り、それが
気管に逆流し、気道を閉塞し、亡Dを窒息状態に陥れたものと被告は考えている。
 この様な突発的な嘔吐は予測できるものではなく、また、確実な予防方法は残念な
がらない。
第7 損害額(争点(7))
(原告らの主張)
1 後遺障害による損害
(1) 逸失利益
 亡Dは、平成12年12月23日以降低酸素脳症による植物状態に陥り、その後意
識が戻ることもなかった。したがって、平成14年1月22日に死亡するまで、後遺障害当
級第1級3号(労働省労働基準局長通牒(昭32.7.2基発第551号)別表労働能力喪
失率表)に該当するものと考えられる。
 よって、後遺障害による逸失利益は、基礎収入を平成13年の賃金センサス産業
別・企業規模計・女性労働者年齢別平均給与の300万8500円とし、労働能力喪失率
は100%。労働能力喪失期間を平成12年12月23日から平成14年1月22日までの3
96日として計算すると326万4016円となる。
(2) 入院慰謝料
 本件により、亡Dは植物状態に陥り、死亡するまで約1年1箇月の間、被告病院で
の入院治療を余儀なくされた。それにより被った精神上の苦痛を慰謝するために要する
費用は300万円を下ることはない。
(3) 後遺症慰謝料
 亡Dは、本件により植物状態に陥り、その後1度も意識を回復することがなかった。
医療機関において本件のような事態に陥るとは本人も予想しておらず、本人の無念さを
考えるとその精神的苦痛は甚大なものである。このため、慰謝料としては2800万円を
下ることはない。
2 死亡による損害
(1) 逸失利益
 死亡による逸失利益は、基礎収入を平成13年の賃金センサス産業別・企業規模
計・女性労働者年齢別平均給与の300万8500円とし、この額の半額を休業損害とし
た上、労働能力喪失期間を平成12年簡易生命表の余命年数23.31年の2分の1であ
る12年間(ライプニッツ係数8.863)、生活費控除割合を30%として計算すると1866
万5034円となる。
(2) 死亡慰謝料
 亡Dは、本件により植物状態に陥り、その後も一度も意識を回復することなく死亡し
た。原告らの献身的な介護により、一定の生活の質を維持していた亡Dにとっては思い
もよらないことであり、本人の無念さを考えると精神的損害は甚大なものであるため、慰
謝料として2400万円をくだることはない。ただし、当該損害は植物状態(後遺障害)に
よる損害と重なることから、植物状態(後遺障害)による損害及び死亡による損害を合計
して2800万円とする。
(3) 原告らの慰謝料
 原告A及びBは、日頃24時間体制で亡Dの介護を行なっており、今回一定の休息
を得るために、東京都の在宅難病患者緊急一時入院制度を利用し、亡Dを被告病院に
入院させたところ、亡Dには植物状態、自動体動不可という重篤な後遺障害が生じた。
これにより、原告A及びBは、同人が死亡した時にも比肩し得べき精神上の苦痛を受け
たと認められる。さらには、結果として、原告Aの最愛の妻であり、原告Bの母であるDを
失うこととなった。このような経過もあり、原告A及びBは、被告病院の過失は別として、
自分が休息を得るために亡Dを被告病院に入院させたことを悔やみ、現在も自分自身
を責め続けている。
 このような原告A及びBの精神上の苦痛を慰謝するために要する費用は、それぞ
れ500万円を下ることはない。
 また、原告Cは、同AやBとともに、金銭的な負担に耐えながら精神的にも亡Dを支
えてきた。それにもかかわらず、本件により亡Dには植物状態及び自動体動不可という
重篤な後遺症が生じた。これにより、原告Cは同人が死亡した時にも比肩しうべき精神
上の苦痛を受けたと認められる。さらに、この結果として、母であるDを失うこととなった
のであるから、このような原告Cの精神上の苦痛を慰謝するために要する費用は500
万円を下ることはない。
(4) 弁護士費用
 被告が任意の賠償に応じないので、原告らは訴訟代理人として弁護士伊藤芳朗ら
に本件訴訟を委任せざるを得なくなった。上記(1)ないし(3)を経済的利益として弁護士会
報酬規定第17条に従えば、着手金は消費税を含め272万7871円、報酬は消費税を
含め545万5743円の合計818万3614円を下らないところ、このうち800万円の支
払を求める。
3 相続
 亡Dの相続人については原告ら3名とし、亡Dにかかる請求権につき法定相続分に
従い、原告Aがその2分の1、その余の原告らが各4分の1ずつ相続した。
 なお、弁護士費用については、原告らの間で原告Aが負担する旨合意した。
(被告の主張)
 争う。
 なお、逸失利益を主張する以上、就労の可能性を前提としなければならないと考え
るが、原告がどのような構成を採るのか疑問である。
 亡Dの病状は既に「相当程度進行しており、手足を動かすことはまったく出来ず、人
口呼吸器をつけての生活を余儀なくされていた。」(原文のまま)とされており、そもそも
逸失利益が発生する状態か疑問がある。

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