弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1原判決のうち上告人の敗訴部分を破棄する。
2前項の部分につき,本件を仙台高等裁判所に差し戻
す。
理由
上告代理人木ノ元直樹の上告受理申立て理由(ただし,排除されたものを除
く。)について
1本件は,統合失調症により上告人の開設する精神科病院であるA療養園(以
下「療養園」という。)に入院していたBが,消化管出血により多量の吐血,嘔吐
をした際に吐物を誤嚥して死亡したことについて,Bの両親であり,相続人である
被上告人らが,療養園の医師にはBを適時に適切な医療機関へ転送すべき義務を怠
った過失があるなどと主張して,上告人に対し,債務不履行に基づく損害賠償を求
める事案である。
2原審の確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。
(1)Bは,昭和41年3月生まれの男性で,昭和58年ころから異常行動が見
られるようになり,同年11月,統合失調症と診断されて療養園に入院した。
(2)Bは,平成9年ころからは,看護師等の問いかけに対してごく簡単な応答
をしたり,「おかあちゃーん」,「えんちょうー」などの言葉を発することはあっ
たが,意思疎通を図ることは困難であった。平成13年1月以降,Bは不穏で落ち
着かない様子を示すことが多くなり,同年9月13日の診療録には,看護師がバイ
タル検査をするのも困難で,CT検査ができる状態ではない旨記載されている。B
の血圧は80∼90/50∼60(収縮期/拡張期。以下同じ。)と低いことが多
く,また,体温が33℃近くまで低下することもあれば,特に感冒症状がみられな
いのに38℃近くまで上昇することもあった。
(3)Bは,平成13年▲月▲日に死亡した。同日における同人の死亡までの経
過は,次のとおりであった。
ア午前5時ころ,看護師が巡回したところ,Bの衣類が吐物で汚染され,コー
ヒーかすのような少量の吐血が認められた。Bの体温は36.8℃,脈拍は90/
分,血圧は98/60であった。看護師がBに「おなか痛いの」と聞くと,Bはう
なずいた。
イ午前8時ころ,Bは朝食をなかなか摂取しなかったため,いったん膳が下げ
られたが,再度配膳されると自力で全量摂取した。Bに吐き気や嘔吐は見られなか
った。
ウ午前9時におけるBの体温は35.4℃,脈拍は84/分,血圧は80/6
0であった。看護師はBに腹部等に痛みがあるか尋ねたが,Bは「ウーウー」と叫
ぶだけであった。Bの顔色は不良であったが,苦痛の表情はなかった。
エ午前10時30分,医師である療養園の副園長がBを診察したが,Bは,問
いかけに対して「アーウー」と叫ぶだけであった。
オ午前10時40分,療養園から連絡を受けてBの母であるXがBに面会し2
たが,Bは,何を尋ねられても「ア,ア」と叫ぶだけであった。副園長は,Bの吐
血は消化管出血によるものであろうと考え,Xに対し,消化管出血があるが,朝2
食を食べたため今すぐ内視鏡検査をすることはできないこと,胃潰瘍等に対する内
服薬(セダガストン及びセルベックス)を投与して様子を見た上で胃腸科の専門病
院に内視鏡検査を依頼する予定であることを伝えた。
カ午後0時,Bは,りんごのすり下ろし及び昼食の3分の2を摂取した。吐き
気,嘔吐はなかったが,食物を口の中に入れてもなかなか飲み込もうとせず,清涼
飲料水で流し込むようにして食べた。そのため,看護師は,誤嚥に注意し観察を密
にすることにした。
キ午後2時,Bは眠そうにしており,体温37.3℃,脈拍72/分,血圧8
0/60で,吐き気はなかったが,顔色の不良は変わらなかった。
ク午後3時30分,Bは,体温が38.2℃に上昇し,脈微弱で,酸素飽和度
87%,心拍数78/分,唇色不良となった。Bを診察した副園長は,強心剤を注
射するよう看護師に指示し,午後3時40分,看護師がBに強心剤を注射した。こ
の時点でBに肩呼吸が見られたため,副園長の指示により,看護師がBを酸素吸入
設備がある病室に移動させて酸素吸入及び点滴を行った。
ケ午後4時30分,Bの体温は38.9℃で脈微弱のままであったが,四肢冷
感や口唇及び爪のチアノーゼはなく,時々「ア,ア」と叫んで体動もあった。
コ午後4時50分になって,Bは,食物かすの混じった血を多量に吐いた。B
は,脈が触れず,意識もなくなったが,かすかに反応はあった。副園長の指示によ
り,吐物吸引,心マッサージ,強心剤の筋肉注射等の措置が執られたが,Bは,午
後5時14分に呼吸停止となり,死亡が確認された。
(4)病理解剖の結果,胃の内容液で気管支が満たされている誤嚥性肺炎が認め
られたほか,空腸に直径約10㎜の穿孔と多発性潰瘍が見られたが,腹膜炎等の所
見はなかった。解剖担当医の診断では,直接の死因としては吐物の誤嚥による窒息
として矛盾せず,穿孔の原因は確定することができないとされた。
(5)Bの直接の死因は,平成13年▲月▲日午後4時50分に食物かすの混じ
った血を多量に吐いたBが吐物を誤嚥したため気道から気管支内に吐物が入ったこ
とによる呼吸不能(窒息)である。
3原審は,上記事実関係の下において,次のとおり判断して,被上告人らの請
求を一部認容すべきものとした。
(1)平成13年▲月▲日午後3時30分の時点におけるBの容態は,脈微弱,
酸素飽和度87%,心拍数78/分,唇色不良であって,何らかの原因によりショ
ックに陥っていたと認められる。多量の消化管出血による循環血液量減少性ショッ
ク又は空腸の穿孔により腹腔内が胃の内容物で汚染されたことによる感染性ショッ
ク等の可能性があるが,ショックの原因は不明である。
(2)他方,同日午前5時ころにはBの衣類が吐物で汚染されてコーヒーかすの
ような少量の吐血が認められ,副園長も,同日午前10時30分ころBを診察して
消化管出血を認識していたから,同日午後3時30分ころBがショックに陥った原
因が消化管出血に関するものであることは認識し得たはずである。また,嘔吐や吐
血は消化管潰瘍の典型的症状であるから,副園長としては,嘔吐や吐血が生ずるこ
とを予想し,ショックに陥って自ら気道を確保することができなくなったBが吐物
を誤嚥しないようにすべき注意義務があったというべきである。そして,療養園は
精神科病院であり,患者がショックに陥った場合の適切な措置を行うことができた
かは疑問であるから,消化管出血を認識した療養園の医師としては,Bがショック
に陥った同日午後3時30分の時点で救急医療を含む適切な医療行為を行うことが
できる病院にBを転送すべき注意義務があり,これを怠った副園長には過失があっ
たといわざるを得ない。仮に転送義務まではなかったとしても,療養園の医師とし
ては,ショックに陥った消化管出血や消化管潰瘍の患者に対し,嘔吐や吐血に備え
て,気道確保の措置を執って吐物を誤嚥させないようにする注意義務があったとこ
ろ,副園長はこの措置を執っていないから,過失があったというべきである。
4しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次
のとおりである。
前記事実関係によれば,Bは,平成13年▲月▲日午後3時30分の時点で,発
熱,脈微弱,酸素飽和度の低下,唇色不良といった呼吸不全の症状を呈していた
が,心拍数は78であって頻脈とはいえず,酸素吸入等が行われた後の同日午後4
時30分の時点では口唇及び爪のチアノーゼや四肢冷感はなく,体動も見られたと
いうのである。また,記録によれば,同日午後3時30分ころのBの収縮期血圧は
96であって,この時点で血圧が急激に低下したような形跡はなく,嘔吐,吐血,
下血,激しい腹痛といった,循環血液量減少性ショックの原因になるような多量の
消化管出血を疑わせる症状があったこともうかがわれない。さらに,前記事実関係
によれば,病理解剖の結果,空腸に穿孔が見られたが腹膜炎等の所見はなかったと
いうのであるから,上記の時点でBが胃の内容物で腹腔内が汚染されたことによる
感染性ショックに陥っていたとも考え難い。これらの事実に照らすと,同日午後3
時30分の時点でBが発熱等の症状を呈していたというだけで,Bの意識レベルを
含む全身状態等について審理判断することなく,この時点でBがショックに陥り自
ら気道を確保することができない状態にあったとして,このことを前提に,療養園
の医師に転送義務又は気道確保義務に違反した過失があるとした原審の判断は,経
験則に反するものといわざるを得ない。
5以上によれば,療養園の医師に転送義務又は気道確保義務に違反した過失が
あるとした原審の判断には,経験則に反する違法があり,この違法が原判決に影響
を及ぼすことは明らかである。論旨のうちこの趣旨をいう点は理由があり,原判決
のうち上告人の敗訴部分は,その余の点につき判断するまでもなく,破棄を免れな
い。そこで,Bが平成13年▲月▲日午後3時30分の時点で自ら気道を確保する
ことが困難な状態にあったか否か等につき更に審理を尽くさせるため,本件を原審
に差し戻すこととする。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官堀籠幸男裁判官上田豊三裁判官藤田宙靖裁判官
那須弘平裁判官田原睦夫)

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