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平成24年第10183号自動車運転過失傷害被告事件
平成25年4月18日千葉地方裁判所刑事第2部判決
主文
被告人は無罪。
理由
第1本件公訴事実
本件公訴事実(訴因変更後のもの)は,「被告人は,平成24年3月21日午
後1時25分頃,普通乗用自動車を運転し,千葉県佐倉市(以下省略)先の右に
湾曲する道路を同市a方面から同市b方面に向かい時速約30ないし40㎞で進
行するに当たり,前方左右を注視し,ハンドル・ブレーキを的確に操作し,進路
を適正に保持して進行すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り,前
方左右を注視せず,ハンドル・ブレーキを的確に操作しないまま,漫然前記速度
で進行した過失により,自車を道路右側部分に進出させ,折から対向車線上で右
折待ちのため停止中のA(当時32歳)運転の普通乗用自動車に気付かず,同車
右前部に自車右前部を衝突させ,よって,同人に加療約2週間を要する頸椎捻挫
の傷害を,自車同乗者のB(当時80歳)に全治約3か月間を要する左上腕骨骨
折の傷害をそれぞれ負わせたものである。」というものである。
第2当事者の主張
1検察官の主張
検察官は,本件は,被告人の過失によるものであり,想定される事故原因と
しては,被告人の注意力散漫により,道路状況に応じた運転操作ができなかっ
たことが推認される旨主張する。
2弁護人の主張
弁護人は,本件は,被告人が,衝突直前に完全房室ブロックによるアダム
ス・ストークス発作により意識消失(以下「完全房室ブロックに伴う意識消
失」という。)したものであり,被告人には予見可能性,結果回避可能性はな
く,過失がないから,被告人は無罪である旨主張する。
第3判断
1関係証拠によれば,次の事実が認められ,当事者間に特に争いもない。
被告人は,昭和49年8月に自動車運転免許を取得し,その後の交通違反
歴は見当たらない。
被告人は,千葉県佐倉市(以下省略)所在の飲食店「T」から,友人4名
を乗せて普通乗用自動車(以下「被告人車両」という。)の運転を開始し,
Tから約1.6㎞離れた千葉県佐倉市(以下省略)先の右に湾曲する道路
(以下「本件現場」という。)を同市a方面から同市b方面に向かい進行中,
自車を対向車線に進出させ,路外施設に右折するため停車していた,Aが運
転する普通乗用自動車の右側前部から運転席にかけて衝突し停止した(以下
「本件事故」という。)。
衝突する際の被告人の運転姿勢は,前を向き,両手でハンドルを握った状
態で着座しており,特段変わったところはなかった。衝突後,Aが,被告人
に対し「ふざけるな。このやろう。」などと怒鳴ると,被告人は「すまん。
すまん。」と手刀を切りながら謝り,被告人は運転席から助手席に移動して
被告人車両を降り,Aに対し「良い車なのに悪いね。」と謝った。(この事
実は,主にAの供述により認めるが,その信用性を疑わせる事情はない。)
現場に到着した佐倉消防署c出張所救急隊長Cが,被告人に「どうしまし
たか。」と声をかけると,被告人は「気が付いたらぶつかっていて,ぼうっ
としている。」などと述べた。被告人は少し間をおくような感じがあったが,
住所氏名は答えられていた。被告人を救急車で病院に搬送する際,血圧測定
等の処置をしたところ,被告人の脈が弱かった。(この事実は,主にCの供
述により認めるが,その信用性を疑わせる事情はない。)
被告人が搬送された病院の医師は,被告人を診察し,「完全房室ブロッ
ク」と診断し,その後,被告人はペースメーカー植え込み術等の入院治療を
受けた。被告人は本件事故以前に,高血圧症,不整脈による通院治療を受け
たことはあるが,心臓疾患のために医師から自動車の運転を止められたこと
はない。
完全房室ブロックとは,心房からの興奮が心室に全く伝導されない状態で
あり,心房から心室への血液供給量が不均一となり,かつ徐脈となる結果,
心拍出量や血圧が低下することが多くなり,これにより,アダムス・ストー
クス発作(症候群)を引き起こすことがある(弁1)。アダムス・ストーク
ス発作とは,不整脈により心拍出量の急激な低下をきたし,それに伴う脳血
流減少によりめまい,意識消失(失神),けいれんなどの一過性の脳虚血症
状を引き起こす病態をさす(弁2)。
2完全房室ブロックの診断結果の存在等について
前記のとおり,被告人は本件事故直後,医師から完全房室ブロックとの診
断を受け,D医師作成の診断書には「乗用車運転中に意識消失発作出現」
「意識消失の原因としては完全房室ブロックによるアダムス・ストークス発
作が考えられた」「ペースメーカー植え込み術にて完全房室ブロック改善し
ており,車の運転は可能と考えられる」などと記載されており,被告人が本
件事故直後にペースメーカー植え込み術の治療を要する完全房室ブロックに
罹患していたことは客観的に明らかであること,被告人の問診をした医師は,
本件事故直後の被告人の言動は少なくとも被告人が自動車運転中に意識消失
したとして矛盾しないと判断していたことが認められ,さらに,これまで長
期間交通違反歴のない被告人が,友人4名を乗せるという,1人で運転する
よりは緊張度が高いと考えられる状況で運転を開始した後,約1.6㎞程度
の走行(時速約40㎞で進行したとして2,3分程度)をした地点で注意力
散漫になって事故を起こすということはやや考えにくいこと,E医師がその
回答書(弁3)において,「①事故発生時も不整脈が生じていたこと,②こ
れによる脳血流低下が『アダムス・ストークス発作』を生じて事故の何らか
の要因となったこと,の蓋然性がきわめて高いと考える」旨述べていること
も併せ考慮すれば,前記事実自体から,本件事故は被告人が罹患する完全房
室ブロックに伴う意識消失の影響によるものである可能性は相当程度に高い
ものというべきである。そして,本件事故が完全房室ブロックに伴う意識消
失によるものであるとすれば,これまで完全房室ブロックのために運転を差
し控えるなどの指導を受けたことがなかった被告人に対して,その予見可能
性,回避可能性を認めることはできないものといわなければならない。
なお,検察官は,①D医師の診断書は,事故原因について被告人があいま
いな供述に終始したため,交通事故捜査専門家でもない医師によって,運転
中に失神(意識消失)が起きた可能性に言及した信用性の低いカルテに基づ
いて作成されたものであるから,これにより,被告人が本件事故時に意識消
失していた,あるいは,その可能性があったとは認めることはできない,②
E医師の回答書は,刑事訴訟法が規定する鑑定書としての証拠能力が認めら
れず,一般的な医学的見解の限度においても,内容面において現実に即した
具体的根拠を何ら示しておらず,その信用性は極めて低い旨主張する。
そこで検討するに,①について,確かに,本件事故時の具体的状況を踏ま
えない診断書の記載をそのまま何らの留保なく採用することはできない。し
かし,被告人が完全房室ブロックに罹患していたと診断したこと自体に疑義
があるのであればともかく,被告人が本件事故直後に完全房室ブロックに罹
患していたことは動かない事実と認められるのであり,その事実を前提とし
て,専門的な知識経験を有する医師が,被告人を問診した上で,意識消失に
よる事故の可能性に言及したことを一概に無視することはできない。被告人
があいまいな供述に終始したという点も,被告人が,本件事故前に意識消失
し,被告人自身が自分の身に何が起きたのか分からず,本件事故の原因につ
いて十分に把握できていなかったからと考えることもでき,医師らが被告人
から運転中に意識を失った旨の話を聞いていないこと(甲29,30)も同
様に考えることができる。そうすると,診断書に意識消失の可能性について
言及のある点を信用できないと決めつけることはできないから,検察官の主
張を採用することはできない。
②について,確かに,E医師の回答書は,弁護人の依頼に応じたもので,
仮に医学的判断に誤りがあるとしても責を問われるものではない旨の条件付
きのものである上,本件事故の具体的状況を踏まえたものであるとは認めら
れない。しかし,同回答書に記載のある一般的な医学的見解や医学的根拠に
ついて,E医師に医学的見解や医学的根拠を述べる資格がないとか,その内
容が不自然不合理であり医学的根拠はないなどの的確な反論となる証拠はな
く,その一般的な医学的見解や医学的根拠自体の信用性は認められるもので
あり,その上で,本件事故の具体的状況を踏まえて判断をするべきものであ
る。
以上を前提に,本件事故の原因が,被告人の罹患する完全房室ブロックに
伴う意識消失によるものではなく,被告人の過失によるものであることが,
検察官により合理的な疑いを容れない程度に立証がなされているかどうかを
検討する。
3検察官の主張の検討
本件事故の客観的状況について
検察官は,本件現場の道路は右に湾曲しているところ,カーブ走行中の自
動車は走行速度による遠心力とハンドルの復元力が働くため,ハンドルが元
の位置に戻ろうとする性質がみられること,本件衝突地点に至るには,さら
にハンドルを転把しなければならないこと,衝突直後の被告人の姿勢や頭部
は直立していたことなどの事実関係によれば,被告人に意識消失が起きてい
なかった,あるいは起きた可能性もなかった旨主張する。
確かに,前記検察官の主張する事実関係からは,被告人車両が本件事故現
場の右カーブに至るまでの間に,被告人が完全に意識消失して,脱力してい
た可能性はなく,かつ,右カーブのハンドル操作を開始した後に,被告人が
完全に意識消失をして,脱力していた可能性は低いとはいえる。しかし,E
医師の回答書(弁3)によれば,アダムス・ストークス発作時に全身の筋肉
が脱力,弛緩するとは限らず,むしろ筋肉の強直ないしけいれんを生じる方
が一般的と思われる,意識障害の発現過程は個人差が大きく,突然意識消失
をきたす患者もいれば,数秒から数分で徐々に意識が低下して最終的に意識
消失に至る患者もいる,仮に症状として脱力を生じたとしても,徐々に意識
レベルが低下していく過程では全身筋力はまだ完全に脱力には至らず,四肢
を動かす程度の筋力が残存している可能性がある,このときの筋力は意識レ
ベルが正常でないゆえに,もはや目的性のある協調的な運動とは限らないと
されていることからすると,被告人が右カーブのハンドル操作を開始した後
のいずれかの地点で,突然意識消失をしたが筋肉が強直ないしけいれんした
まま本件事故に至った可能性や,徐々に意識が低下していく中で本件事故に
至った可能性を否定することはできない。
以上からすれば,本件事故の客観的状況自体からは,完全房室ブロックに
伴う意識消失の可能性を排斥することはできない。
被告人車両の同乗者の供述について
検察官は,被告人車両の同乗者4名の供述によれば,運転開始から本件現
場に至るまでの間に被告人の様子に特段変わった点はないこと,また,Tで
被告人が首をこっくりさせたのを見て疲れたのかなと思った旨Bが供述して
いることは,被告人の過失を推認する事情である旨主張する。
しかし,本件事故以前の被告人の運転の様子に特段変わった点がなかった
ことは,本件現場で右カーブのハンドル操作を開始する前に突然被告人が意
識消失したとすれば整合しにくい事実とはいえても,前記E医師の回答書の
ように,右カーブのハンドル操作開始後徐々に意識が低下して意識消失に至
った場合や右カーブのハンドル操作開始後衝突前に突然意識消失し筋肉が強
直ないしけいれんした場合などとは必ずしも矛盾する事情とはいえないし,
被告人の意識消失から本件事故までは短時間の出来事と考えられ,被告人の
様子に変わった点があったことに同乗者が気が付かなかったとして必ずしも
不自然ともいえない。さらに,被告人がTで疲れていたとの事情については,
そもそもBは,被告人自身が疲れたと言っていた記憶はなく,本当に疲れて
いたかどうかは分からない趣旨の供述をしている上,仮に,被告人が疲れて
いたとしても完全房室ブロックの場合に考えられる前駆症状として「疲れ」
があげられていること(甲29)からすれば,疲れていたことは完全房室ブ
ロックに伴う意識消失の可能性を示唆する事情とみることもできる。
この点も検察官の主張を特に支える事情であるとはいえない。
本件事故直後の被告人の言動について
検察官は,前記1の被告人の言動からは,被告人の意識消失は認めら
れない旨主張する。
確かに,本件事故時及び本件事故直後の被告人の言動にことさら不自然な
点は認められず,この点は,被告人が意識消失していたこととは整合しにく
い事情とはいえる。しかし,被告人の運転姿勢に変わった点がなかったとし
ても,強直ないしけいれんの現れ方がいかなるものか判然としないし,前記
のとおり,徐々に意識が低下して最終的に意識消失に至った場合には必ずし
も矛盾するとまではいえない。また,失神している時間の長短には個人差が
あるというのであるから(甲29),意識消失した被告人が,本件事故後に
意識を回復していたとしても格別不自然とはいえず,Aと自然に会話をした
としても本件事故前の意識消失と矛盾するものとまではいえない。かえって,
被告人がCに対し,ぼうっとしているなどと述べていたことは,「失神状態
から回復したときには,・・・ぼやーっとした感じになる人も」いる(甲2
9)ということに整合する事情ともいえる。
そうすると,本件事故直後の被告人の言動も,必ずしも検察官の主張を支
えるものとまではいえない。
被告人の公判供述について
検察官は,被告人は,①第3回公判期日では,右カーブにさしかかる手前
で意識がなくなった旨供述し,第4回公判期日では,左手にスーパーを見た
記憶はあるが,その後は記憶がないと変遷させている,②意識消失地点を動
かすなどあいまいな供述をしている,③自己に都合の良い内容は覚えている
旨不自然な供述をしていることなどから,被告人の弁解を信用することはで
きない旨主張する。
①について,被告人は,検察官の「意識の失い方ですが,急に意識がなく
なったのか,徐々になくなったのか,どうでしょうか」との質問に対し,
「すぽんと何か記憶がないみたいな感じですね。」と答えており,意識を失
うとの供述と記憶がないとの供述が必ずしも変遷しているとは言い難い。②
③について,確かに,被告人の公判供述は,本件事故の状況について,どの
地点まで意識があったのか,意識はあったが現在では記憶がないのか,本件
事故後の状況についてどこまで記憶があるのか等についてあいまいな部分が
多い。しかし,本件事故直後,被告人はCに対し「気が付いたらぶつかって
いた」旨話し,F医師,G医師に対し「センターラインをはみ出す瞬間は覚
えているが,なぜはみ出したかは覚えていない」などと述べており,本件事
故直後からあいまいな供述をしていたことが認められ,公判においても,自
己に不利にならないような意識は働いているかもしれないが,あえてあいま
いな供述をしているのではなく,もともとあいまいな記憶しかない中で,そ
の場の質問に応じて被告人なりに答えようとしているとみることができるの
であって,被告人の公判供述をことさら被告人に不利に評価することは相当
でない。
被告人の供述調書について
なお,検察官が論告で特に指摘しているものではないが,被告人の供述調
書(乙1,2)について付言する。被告人の供述調書には完全房室ブロック
の記載がなく,自身の過失を認める内容となっている。しかし,被告人は,
公判において,取調官に対して病気のことを言ったところ,取調官から病気
のことを言うと不利になる,内容に異議があれば裁判も受けられると言われ
たため,裁判をすればいいと思って署名した旨述べている。この点について,
被告人は本件事故の3日後くらいに完全房室ブロックの説明を医師から受け
た旨述べ,同じ頃には,Aが被告人の妻等から被告人が病気で意識を失って
しまったとの話を聞いていたことからすれば,被告人が本件事故の取調時に
完全房室ブロックについて何ら話をしなかったとは考えられず,この旨の記
載が供述調書に一切ないことは不自然であるし,また,警察官調書には被害
者を発見したとき被告人車両の時速が約20㎞であったという,A供述や客
観的な状況にそぐわない内容の記載があることなどからして,被告人の供述
調書が被告人の言い分を十分に録取したものかについては疑いがある。そう
すると,自身の過失を認める旨の被告人の供述調書の信用性を直ちに認める
ことはできず,被告人の供述調書から被告人の過失を認定することもできな
い(さらにいえば,被告人の供述調書中,本件事故原因について「一瞬ぼん
やりした」とあるのは,完全房室ブロックに伴う意識消失を表現したものと
考えることもできる。)。
4結論
以上からすれば,検察官の主張する点は,いずれも被告人の過失を推認する
相応の根拠となる事情とはいえるものの,他方で,いずれも完全房室ブロック
に伴う意識消失の可能性を排斥するものとまではいえず,検察官の主張を検討
してみても,本件証拠関係からは,被告人の過失を認定することはできない。
第4結語
以上のとおり,本件事故の原因が,被告人の罹患する完全房室ブロックに伴う
意識消失によるものではなく,被告人の過失によるものであることについて,合
理的な疑いを容れない程度の立証はないといわざるを得ず,結局本件公訴事実に
ついては犯罪の証明がないことになるから,刑事訴訟法336条により被告人に
対し無罪の言渡しをする。
(裁判官三浦隆昭)

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