弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     原判決を破棄する。
     本件を徳島地方裁判所に差戻す。
         理    由
 本件控訴の趣意は、記録に綴つてある徳島地方検察庁検察官検事佐藤直作成名義
の控訴趣意書(第一回公判期日において控訴趣意書訂正書記載のとおり訂正)、高
松高等検察庁検察官検事亀岡忠彰作成名義の、昭和三九年一〇月三日付検察官の意
見書(第一回公判期日において検察官意見書の正誤表記載のとおり訂正)、同年一
一月一二日付釈明書、同年一一月二八日付意見書、昭和四〇年二月三日付釈明書
(第五回公判期日において、三行目に「両製」とあるを「再製」と、六行目に「工
業第二燐酸ソーダ」とあるを「工業用第二燐酸ソーダ」とそれぞれ訂正)、同日付
「控訴趣意のふえんについて」と題する書面(第六回公判期日において、同年三月
一五日付「誤謬訂正について」と題する書面記載のとおり訂正)及び同年三月一五
日付釈明書(第七回公判期日において、同高等検察庁検察官検事井下治幸作成名義
の同年五月一一日付釈明書により、上記釈明書の記載の趣旨をさらに釈明)、並び
に同高等検察庁検察官検事村上惣一作成名義の同年九月二四日付釈明書及び同年一
一月五日付意見書(この意見書を以下「控訴趣意補充書」と略称する)記載のとお
りであり、これに対する答弁は、被告人両名の弁護人海野普吉、同松山一忠、同土
屋豊、同坂上寿夫共同作成名義の、同小玉治行(同年二月二八日当裁判所受理の辞
任届により辞任)、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共同作成名義の各答弁書、
被告人両名の弁護人海野普吉、同小玉治行、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共
同作成名義の検察官の意見書に対する弁護人の反駁書及び「検察官の釈明に対する
意見」と題する書面、被告人両名の弁護人海野普吉作成の昭和三九年一二月二二日
付求釈明書、被告人両名の弁護人海野普吉、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共
同作成名義の、昭和四〇年八月七日付求釈明書(第八回公判期日において、九頁七
行目に「その取消し、変更」とあるを「その取消、撤回」と、一一頁三行目に「五
月一一日」とあるを「五月一一日付」と、一五頁一二行目に「特殊物質以外にも」
とあるを「特殊物質以外に」とそれぞれ訂正)、「公訴事実、訴因並びに訴因につ
いての検察官の釈明に対する弁護人の意見」と題する書面、最終陳述書及び補足陳
述書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。
 右控訴趣意に対し、当裁判所は、記録を精査し、当審における事実取調の結果を
も参酌して、次のとおり判断する。
 (本判決の用語例)
 (一) 原判決の用いた略語は、控訴趣意書及び答弁書等にも援用せられている
ので、本判決においてもそのままこれを踏襲することにした。
 (二) 単に「証人何某」と記載してあるのは、すべて「原審証人何某」と記載
すべきを省略して記載したのであつて、当審で取調べた証人(鑑定人)について
は、「当審証人(鑑定人)何某」と記載した。
 (三) 証人の氏名下の括弧内の職業は、大部分当該証人が尋問を受けた当時の
職業であり、証人尋問当時証言事項と関係のない職業に従事している者について
は、概ね証言事項に関連する職業を「元何々」という形式で表現することとした。
 (四) 証人氏名下の括弧内の数字は、記録の冊数番号及び丁数の表示であつ
て、多くは当該証人尋問調書の冒頭の丁数を記載したものである。なかには特に関
連のある供述記載部分の丁数を掲記した場合もあるが、これとてもその部分に限定
する趣旨ではない。原審における同一証人が二回以上取調を受けている場合の当該
証人の尋問調書の特定方法は、公判回数や証人尋問期日の年月日によらないで、も
つぱら記録の冊数番号と丁数によることにした。(なお、原判決挙示の各証人尋問
調書等に冠せられている年月日は、いずれも当該証人を取調べた日の年月日ではな
く、文字どおり調書作成日付であるから念のため)
 (五) 「証何号」と記載してあるのは、すべて、当裁判所昭和三九年押第九三
号(徳島地方裁判所昭和三年一押第四六号)の枝番号のみの表示である。
 第一 公訴事実について。
 原判決は、第一章検察官主張の公訴事実の第一として、本件公訴事実の要旨を詳
細摘示しているのであるが、原審は、昭和三七年一〇月二〇日公判期日外において
検察官に対し、被告人両名の監督上の過失責任についての訴因を追加することを命
じ、第五四回公判期日において、検察官の同年一〇月二四日付訴因変更請求書記載
のとおり、訴因の変更を許可しているのにかかわらず、この部分は公訴事実の要旨
摘示のうちから脱落しており、このほかになお公訴事実の要旨がそのまま忠実に表
現せられていないのではないかとの疑の存する部分も見受けられるので、同年三月
二四日付及び同年一〇月二四日付各訴因変更請求書に基づき、改めてここに公訴事
実の全文を摘示することとする。
 (公訴事実)
 被告人A1は、昭和二六年一月一日より同三〇年五月一日迄の間、乳幼児用ドラ
イミルク等の製造販売を業とするB1乳業株式会社(東京都港区甲1町甲2の甲3
所在)C1工場(徳島県名西郡甲4町字甲5所在)の工場長として、さらにその翌
日から同月一六日C2工場長D1と事務引継をなす迄の間は、実質上工場長とし
て、被告人A2は、同二七年四月一日より同工場の製造課長として、前記ドライミ
ルクの製造及びこれに要する原材料の購入等の業務に従事してきたものであるが、
被告人等は、右ドライミルクの製造にあたり、安定剤として牛乳に工業用第二燐酸
ソーダとして取引された薬剤を購入し、混和使用していたところ、右ドライミルク
は、一般人の飲用に供するほか、特に身体未熟で抵抗力の弱い乳幼児の飲用に供す
るものであるから、被告人等としては、人体に有害な物質の混入を完全に抑止すべ
き業務上の注意義務があるとともに、従業員をして抑止させるよう監督すべき業務
上の注意義務があり、殊に右薬剤が本来食品に使用される性質のものでほなく、主
として工業用に使用される関係上、含有物質の種類、分量等の規格がなく、品質の
保証もなくその成分も詳らかでないばかりでなく、往々にして人体に有害な砒素そ
の他の物質を多量に含有する粗悪品のある場合もあるから、その購入にあたつて
は、あらかじめ局方品、試薬品など成分規格の明らかな薬剤を指定して注文し、或
いは製造元・製造過程・仕入経路等を調査し、成分の分析表を添附させるなどし
て、人体に有害な粗悪品の入荷を防止するとともに、その使用にあたつても、薬剤
の色、結晶状態、夾雑物の有無などを十分に検査し、特に成分規格の明らかでない
薬剤については厳密な化学的検査を行ない、無害なものであることを確認すべき業
務上の注意義務があるとともに、従業員をして確認させるよう監督すべき業務上の
注意義務があるのに、不注意にもそのいずれをも怠り、右工場において
 一 被告人両名は、昭和三〇年四月一三日より同年五月三一日迄の間前記成分規
格のあるものを注文する等のことをなさず、漫然、徳島市甲6町甲7丁目甲8番地
B2産業株式会社より、B3株式会社C3工場(清水市甲9甲10の甲11所在)
産出、B4製薬株式会社(大阪市甲12区甲13町甲14丁目所在)再製にかかる
工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤四箱(合計一六〇瓩)を購入し、その
頃うち三箱(合計一二〇瓩)の使用にあたり、右薬剤には人体に害を与える程度の
砒素その他の有害物質を含有していないものと軽信し、前記化学的検査等をなすこ
となく、右薬剤を安定剤として牛乳に混和し、乳幼児用ドライミルク合計四〇二、
五七六缶(一缶四五〇瓦入り)を自らもしくはその監督下に製造し
 二 被告人A2は、昭和三〇年六月一日より同年八月二三日迄の間前同様成分規
格のあるものを注文する等のことをなさず、前記B2産業株式会社より右同様の工
業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤一箱(五〇瓩)を購入し、その頃これを
右一記載の四箱のうち未使用の一箱とともに(合計二箱合計九〇瓩)使用するにあ
たり、前同様化学的検査等をなすことなく、定定剤として牛乳に混和し、乳幼児用
ドライミルク合計四四三、九五二缶(一缶四五〇瓦入り)を自らもしくはその監督
下に製造したが、右購入使用した薬剤に人体に害を与える程度の砒素を含有してい
たため、その頃B5商事株式会社を介して徳島市その他において販売された右乳幼
児用ドライミルクのうち、七缶ないし二〇缶を飲用した徳島県麻植郡甲15町甲1
6居住のE1(昭和三〇年五月六日生)を同年八月二六日同町F1病院において、
九缶以上を飲用した同県三好郡甲17村甲18甲19番地居住の林啓(昭和二九年
九月一六日生)を昭和三〇年八月二〇日右住居地において、右ドライミルク飲用に
基づく慢性砒素中毒によりそれぞれ死亡するに至らせたほか、原判決添附の別表第
一及び同第二記載の者らをして、右各別表記載のとおり、それぞれ右中毒により死
亡させ或いは中毒症に罹らせて傷害を与えたものである。
 第二 控訴趣意第一点(控訴趣意補充書第一の一及び第二)について。
 一 第二燐酸ソーダの主たる用途、製造方法及びその性質等から考えて、人体に
有害な程度の砒素を含有するものも薬品業界に出廻る虞があるとの論旨について。
 1 所論は、縷々述べているが要するに、工業用第二燐酸ソーダは、砒素の含有
量の多寡には関係なく、主として清缶剤、洗液剤として使用されるものであつて、
これを食品製造の際添加物として使用するようなことは極めて変則的用法であるか
ら、工業用第二燐酸ソーダの製造業者及び販売業者でさえ、それが食品製造の際添
加物として使用されるというようなことは全く予想もしていなかつたのであり、元
来、第二燐酸ソーダという薬剤の原料となる燐鉱石とか硫化鉱とかの中には砒素が
含有されており、この砒素が不純物として第二燐酸ソーダの中に残るのであるが、
第二燐酸ソーダの製造業者が、これを製造するにあたつては、その清缶剤、洗滌剤
としての効能を高める工夫はしても、本来の用途には何らの関係もない食品衛生的
配慮を払わないことも至極当然のことであるから、製造工程の管理いかんによつて
は、人体に有害な、重量比で〇・〇三%(以下単に%だけを示す場合はすべて重量
比である)を超える砒素を含有する第二燐酸ソーダが製造され、これが薬品業界に
出廻る虞もあるわけであるにかかわらず、原判決が、人体に有害な程度の砒素を含
有する第二燐酸ソーダが薬品業界において製造されることはなく、したがつて、そ
のような第二燐酸ソーダが業界に出廻る虞はないと判断したのは事実誤認である、
というのである。
 2 よつて、按ずるに、証人D2(B6化学工業株式会社C4工場長、昭和三二
年八月までは同会社C5工場技術第二部長、二三の一〇八五〇)、同D3(B7化
学工業株式会社社長、七の三三一四)、同D4(B8化学工場経営者、三の一〇七
四)、同D5(B4製薬株式会社社長、一二の五六〇七、一四の六三六四)、同D
6(B7化学工業株式会社製薬部長兼同会社C6工場長、二の九四七、三五の一五
八八三)、同D7(B10化成工業株式会社常務取締役、六の二七四一)及び同D
8(株式会社B11商店販売課員、二〇の九一七一、「D8」とあるは「D8」の
誤記である)らは、第二燐酸ソーダは、主として清缶剤及び洗擦剤等の原料として
用いられるものであつて、食品製造にあたつて、これに添加使用されるというよう
なことは考えていなかつた旨それぞれ供述していることが認められる。〔もつと
も、前記証人D3は、右のような供述をしているにかかわらず、他方では、第二燐
酸ソーダは、ハムにも塗られるし、皿洗い等にも用いられる旨供述しており、論旨
指摘の証人D9(B6化学工業株式会社C5工場薬品課長、二二の一〇四六四は、
所論のような供述をしているとは認められない。〕しかし、一方、証人D10(B
12製薬株式会社常務取締役、七の三二二四)、同D11(B13工業株式会社C
7工場化工課長、七の三二五〇)、同D12(B14製薬株式会社専務取締役、一
九の八七九〇)及び同D13(B15学薬品株式会社営業部長、一九の八七三三)
らは、いずれも第二燐酸ソーダが食品加工業に使用されることがある旨それぞれ供
述しているのである。
 前記各証人、証人D14(I1院I2部I3課長、九の三八八二)、同D15
(B16株式会社社長、七の三〇八六)、同D16(B17化学工業株式会社代表
取締役、八の三七三七)、同D17(株式会社B18技術課員、一九の八九一
八)、同D18(B1乳業株式会社C8工場製造課長、一七の七六七五、同七八二
六)、同D19(B19乳業株式会社取締役、二〇の九四三五)の各尋問調書及び
押収にかかる注解第六改正日本薬局方(証五四号)を綜合すると、次の各事実が認
められる。
 (一) 第二燐酸ソーダの大部分は、清缶剤及び洗滌剤等の原料に用いられるの
であり、ときには亜鉛メッキ(砒素の含有量が多いと使用できない)や水素イオン
の濃度調節等(学問的に必要なのは緩衝液としてである)に用いられる。食品製造
加工の際の添加物等としては、製糖、B58(プレンソーダのミネラル等とし
て)、酒の醸造、酵母(イースト)の製造、ふくらし粉(べ―キングパウダー)及
びかまぼこ、はんぺん等の練製品にも用いられ、ことに、乳製品では、無糖練乳、
チーズ及び乳児用調整粉乳製造の際、安定剤として原料牛乳に添加使用されていた
が、食品用としての使用量は、清缶剤等の原料用に比較すると極く少なかつたので
ある。なお、医薬品としては、下剤として用いられる。
 (二) 昭和三〇年当時において、我が国の第二燐酸ソーダ製造業者のうち、一
部分の者は、第二燐酸ソーダが食品に添加されることを知つていたけれども、相当
多数の者が、右の事情を知らなかつたことが窺われるのである。そして、第二燐酸
ソーダの原料となる燐鉱石や硫化鉱の中に砒素を含んでいることは事実であるが、
しかし、後記第二の一の6の(二)の(1)で説示するように、第二燐酸ソーダ中
の砒素含有量は極めて微量であつたため、第二燐酸ソーダ製造業者は、これを製造
するにあたり、砒素の含有量については、あまり念頭に置いていなかつたのが、一
般の常識であつた。また、第二燐酸ソーダ製造業者の大部分は、その製造にかかる
無規格品の工業用第二燐酸ソーダが、食品添加物として使用されるというようなこ
とは、まず考えていなかつたのである。
 右に認定した各事実及び前記2の冒頭以下掲記の各証人の供述記載を綜合する
と、本件発生以前において、第二燐酸ソーダの製造業者が、第二燐酸ソーダことに
工業用第二燐酸ソーダの製造にあたつて、食品衛生的配慮を払わなかつたであろう
ことも容易にうなずけるのであるが、しかし、記録を精査しても、右の事情が第二
燐酸ソーダの製造に影響を及ぼし、そのため特に砒素を多量に含有する第二燐酸ソ
ーダが製造されたことを認めるに足る資料はない。
 3 原判決第二章第三の四の一の冒頭、同章第一の二の5の(一)及び(二)に
掲げる各証拠、証人D20(B20株式会社検査課長兼生産課長代理)の各尋問調
書)二の五四八、七の三〇七一)、同D21(B3株式会社C3工場業務課長)の
尋問調書(六の二七七一)、前記証人D5の各尋問調書(一二の五六〇七、一四の
六三六四)、証人D22(B2産業株式会社社長)の各尋問調書(一三の六〇四
〇、一五の六八一六)、同D23(元本件工場事務課資材係)の尋問調書(一六の
七三〇八)、同D24(B21工業株式会社取締役)の尋問調書(七の二九二
〇)、同D25(B22薬品工業株式会社社員)の尋問調書(六の二八〇一)並び
に同D26(F2大学教授)の尋問調書(三の一二九一)を綜合すると次の各事実
が認められる。
 (一) 第二燐酸ソーダの製法は、化学上では、第二燐酸ソーダという化合物を
構成する各元素を寄せ集めればできるわけであるし、次に説明する以外の方法も考
えられているようであるが、しかし、工業的には、昭和三〇年当時まで我が国の薬
品業界において、「燐酸ソーダ」という名称の下に製造され(かつ取引され)てい
た薬剤は、すべて燐酸をソーダ灰もしくは苛性ソーダで中和させるという方法で製
造されていた(我が国における燐酸及び第一、第二、第三燐酸ソーダの全生産量
は、昭和二九年には約一一九七屯位、昭和三〇年には約一四四一屯位であつた。記
録六の二六一一丁参照)。右製造方法の原理は、大規模な製造工場であろうと、小
規模ないわゆる町工場程度の製造工場であろうと変りはないのである。しかも、薬
品業界において普通一般に行なわれている右製造方法は、薬剤としては比較的低廉
なコストで製造ざれる方法であつたため、他の特殊な製造方法を発見することは、
むしろ困難であつたとさえいえるのである。
 ところで、燐酸ソーダの原料となる燐酸の製法には、燐鉱石を電気炉でコークス
還元して作る方法(乾式燐酸)と、燐鉱石に硫酸を加えこれによつて生成される石
膏を遊離して燐酸を製造する方法(湿式燐酸)との二方法があり、さらに、硫化鉱
を原料とする右硫酸の製造方法にも接触式と鉛室式との二方法があるが、右燐鉱石
と硫化鉱との中には砒素を含有しているところ、その砒素は、燐酸及び燐酸ソーダ
の製造工程ことに精製工程において相当程度除却されるのであるが、完全に脱砒さ
れないため、でき上つた燐酸ソーダ中には極く微量の砒素が不純物として残留する
ことになるのである。右にいう燐酸ソーダというのは、第一、第二、第三燐酸ソー
ダの総称である。そして、燐酸ソーダの製造業者は、できるだけ純度の高い燐酸ソ
ーダ、すなわち、不純物の少ない燐酸ソーダを製造することを意図していたのであ
り、消費者側においても純度の高い燐酸ソーダを希望していたのであるから、燐酸
ソーダ中の砒素含有率も、他の不純物とともに順次減少する傾向にこそあれ、それ
が増加する傾向の如きは全くなかつたというべきである。
 湿式燐酸の方が乾式燐酸に比して不純物(砒素を含む)の混入率が高かつたので
あるが、昭和三〇年当時我が国において湿式燐酸を製造していた工場は、B6化学
工業株式会社、B23株式会社、B24化学工業株式会社、B25株式会社、B2
6株式会社及びB27化学工業株式会社等(但し、昭和二八年三月頃以降昭和三〇
年二月頃までの間)の数社位に過ぎなかつたし、右各会社によつて製造された燐酸
そのものが外販されたことはなく、また、この燐酸を原料として製造された燐酸ソ
ーダも、大部分は自家消費に廻されたのであつて、外販されたものは少なかつたの
である。さらに、小規模な製造工場において、湿式燐酸を原料とする燐酸ソーダが
製造されていた事実は認められないのであつて、いずれも市販されている乾式燐酸
を原料として製造されていたことが窺われるのである。
 (二) 昭和三〇年当時、我が国の薬品業界における燐酸ソーダの製造方法は、
本件記録に現われたところでは、右(一)に記載した方法だけに限定されていたと
いつて過言でないが、ただ、認められる例外の方法は、次の各場合に限られるので
ある。
 (1) B28化学工業株式会社において、昭和二八年五月頃から、臭素、赤燐
及びメタノールを原料として、メチルブロマイドを製造する際に生じた残留液(燐
酸、亜燐酸及びメタノール水)に硝酸ソーダを添加して亜燐酸を燐酸に変え、この
残留液を濾過し、これに適量の苛性ソーダを添加する方法により、月産約三屯位の
第三燐酸ソーダを製造し、製造過程が通常の方法と異なるので、その用途を清缶剤
の原料に限定して、B29産業株式会社、B30化学(正式の名称不明)及びB3
1化学薬品株式会社のみに販売した(広島県三原市所在のB32化学工業株式会社
においても、一時右と同一方法により第三燐酸ソーダが製造されたことが窺われ
る)のであるが、こうして製造された第三燐酸ソーダの砒素含有率も〇・〇〇二%
以下であるに過ぎない。(記録六の二七五九丁以下参照)
 (2) B20株式会社において、昭和三〇年頃、弗化セリウムを製造する過程
で、モナサイドサンド(通称モナズ石)を微粉に粉砕して苛性ソーダとともに加熱
するときに生ずる物質を濃縮して第三燐酸ソーダを作り出していたが、これは全部
同会社内において自家消費してしまつたのであり、自家消費であつたため純度は八
〇%位であつたが、精製すれば勿論純度率は向上するのであり、砒素含有率も〇・
〇〇〇八%程度に過ぎなかつたのである。
 (3) 次に説示する各物質が、例外としても、第二燐酸ソーダと称し得るか否
かは問題であるが、第二燐酸ソーダと称して取引された事実のあることは明らかで
あるので、一応ここで説明することとする。
 (イ) 静岡県清水市所在のB3株式会社C3工場において、ボーキサイトから
アルミナを製造するとき輸送管等の内部に付着する物質(以下「B3産出物」と略
称する)が除去され、不純物である右物質が、同工場から、順次、B20株式会
社、B33産業株式会社を経て、B4製薬株式会社(原判決三丁裏六行目参照)に
譲渡された。B4製薬においては、右B3産出物を「燐酸ソーダ」という名称で売
出そうと考え、B34工業株式会社をして、原判決説示のような方法で、右物質の
脱色をさせた。右のように、B3産出物を脱色した物質が、原判決のいう「本件物
質」(原判決一五丁裏四行目参照)である。
 (ロ) B4製薬においては、第二燐酸ソーダの注文のあつた徳島市甲6町甲7
丁目甲8番地所在のB2産業株式会社(以下「B2」と略称する、原判決三丁裏九
行目参照)に対し、(a)昭和三〇年四月一二日頃、本件物質八〇瓩(木箱入り二
箱、一箱の容量四〇瓩)を、一瓩の単価八五円で、(b)同年同月二八日頃、右と
同量同箱数の本件物質を同単価で、(c)同年七月二六日頃、本件物質一〇〇瓩
(木箱入り二箱、一箱の容量五〇瓩)を、一瓩の単価七五円で、いずれも第二燐酸
ソーダと称して、それぞれ売渡し、B2においては、第二燐酸ソーダの発注をした
徳島県名西郡甲4町甲5所在のB1乳業株式会社C1工場(以下「本件工場」とい
う。原判決二丁表九行目参照)に対し、右(a)、(b)及び(c)の各本件物質
を、そのまま三回に亘り、原判決別表第四の第一〇、第一一、第一三回各取引記載
のとおり、売渡したのであつて、右合計二六〇瓩の各本件物質が、原判決のいう
「B9製剤」(原判決一六丁裏一三行目参照)である。
 (ハ) さらに、B4製薬は、右(ロ)に記載した外、昭和三〇年四月以降同年
八月までの間において、B35株式会社、B36株式会社、B37化学株式会社及
びB38商店等十数社に対し、本件物質を第二もしくは第三燐酸ソーダと称して売
渡したのである。
 (4) B3株式会社C3工場は、B22薬品工業株式会社に対し、昭和二九年
九月頃から同年一〇月頃にかけて、数回に亘り、B3産出物合計五〇屯を、代金一
屯当り八、〇〇〇円で売渡し、同会社は、右と同じ頃、B17化学工業株式会社に
対し、右産出物全部を代金一屯当り一五、二〇〇円で売却し、同会社は、これに他
の原料及び正常な第一燐酸ソーダ約三%位を添加して清缶剤一〇四屯を製造して、
これを全部B39に納入したのであるが、右清缶剤中に約一・五%ないし一・九%
の砒素が含有していたことが判明したため、問題化し返品されたのである。
 4 (一) (1) 証人D27(B6化学工業株式会社肥料課長)が論旨指摘
(控訴趣意補充書第一の一の(四)の(5)参照)のような各供述(六の二六三四
ないし二六三六、二六三八、二六四〇、二六四一、二六四五、二六四六)をし、前
記証人D2が論旨指摘(右控訴趣意補充書同項参照)のような各供述(二三の一〇
八六一ないし一〇八七九、一〇九〇二、一〇九〇三、一〇九一九ないし一〇九二
九、一〇九三五、一〇九三六)をしていることは所論のとおりである。なるほど、
同証人らの各供述記載によると、昭和二七年頃B6化学工業株式会社C5工場にお
いて製造していた工業用第二燐酸ソーダは、鉛室式硫酸を用いる方法で作つた湿式
燐酸を原料として製造されていたのであり(この点について、原判決が、第二章第
三の四の1の(二)の(2)のロの項において、鉛室式製造方法による硫酸が、昭
和三〇年までの間に第二燐酸ソーダの原料として用いられたと断定することはでき
ない、と判断したのは事実を誤認したというべきである)、昭和二七年四月一一日
に製造された第二燐酸ソーダ中に亜砒酸が〇・〇二五%、同年同月一二日及び一三
日に製造された第二燐酸ソーダ中には亜砒酸が〇・〇三%それぞれ含まれていたこ
とは所論のとおりである。しかし、右のように、当時第二燐酸ソーダの製造業者間
において一般に製造されていた第二燐酸ソーダよりも、著しく高率の亜砒酸を含有
する第二燐酸ソーダが製造されたのは、右証人D2の供述記載(二三の一〇九一九
ないし一〇九二九)によると、同工場においては、昭和二七年二月頃から継続して
工業用第二燐酸ソーダの製造をしていたのであるが、同年四月一一日頃に至り、急
に収率(生産量)が五〇%位に落ちたうえ、結晶も濾過の困難な小さい粒になつた
ので、調査すると、結局、第二燐酸ソーダの母液を精製しないで連続使用していた
ため、それに不純物がたまつて汚染し、老化現象を生じたのが原因であつたことが
判明したので、母液を精製した結果、収率及び結晶も従前の状態に回復したのであ
り、そして、収率が低下し結晶の粒が小さかつたのは、同年四月一一日ないし一三
日の三日間に製造されたものであつて、これは、すべて再製され、従前製造されて
いた第二燐酸ソーダと同様の品質のものとされたのであり、したがつて、右異常な
状況の下で製造ざれた亜砒酸の含有率の高い第二燐酸ソーダは、市場には全く出廻
らなかつたことが認められるのである。
 (2) 右の各事実から判断すると、昭和二七年四月一一日ないし同月一三日分
間に前記B6化学工業株式会社C5工場において製造された第二燐酸ソーダは、当
時同工場における第二燐酸ソーダ製造工程中の母液の老化現象が極限に達した状況
下で製造ざれたものであることが窺われるから、論旨のいうように、母液の汚染、
老化現象が継続的使用のため徐々に惹起されたものであるとしても、同年四月一〇
日までは、収率の低下も顕著でなく、結晶の粒子の細小化も同工場の従業員に認識
されなかつたのであるから、同年四月一〇日以前においても、同工場において、亜
砒酸含有量が〇・〇二五%ないし〇・〇三%の第二燐酸ソーダが製造されて市場に
出廻つていたとなすのは早計であつて、むしろ、同年二月第二燐酸ソーダの製造を
再開した頃から製造されていたものに近い品質の第二燐酸ソーダが生産されていた
と認めるのが相当であつて、その砒素含有率は〇・〇〇x%位であつたことが認め
られるのであり、尠なくとも、同年四月一一日に生産された亜砒酸含有率〇・〇二
五%のものに比して、亜比酸含有率が右と同等かそれ以下のものが生産されていた
と認めるのが相当である。
 (二) 論旨は、右当時前記B6化学工業株式会社C5工場において生産されて
いた工業用第二燐酸ソーダの砒素含有量は、数字的には人体有害量といわれる〇・
〇三%には達しないのであるが、この場合、およそ〇・〇三%であるから人体に有
害であり、〇・〇二九%であるなら無害というように数学的に割り切れるものでは
ないというのである。
 よつて、按ずるに、原判決が、第二章第二の各項に挙示する関係各証拠による
と、同章第二の一ないし四の各項において認定する各事実は、いずれもこれを肯認
できるのであり、かつ、右各事実に基づいて認定した同章第三の二の安定剤無害量
の項において判示する事実も首肯できるのである。(但し、原判決二七丁裏二行目
<要旨第一>及び同三二丁裏一一行目にそれぞれ「別表第七」とあるのは、いずれ
も、「別表第八」の誤記である)。すなわち、乳児用調整粉乳の製造に
あたり、原料牛乳一〇、〇〇〇瓦に対し一瓦の割合(〇・〇一%)の第二燐酸ソー
ダを安定剤として添加するとき、よつて製造される右粉乳中の亜砒酸含有率(最も
多量に、かつ、最も頻繁にこれを飲用する生後八ケ月までの人工栄養乳児にも無害
であるような)(生後八ケ月の乳児の一日の粉乳摂取量は約一五五瓦である)を一
〇〇万分の〇・三未満にとどめるためには、第二燐酸ソーダ中の砒素含有率が〇・
〇三%以下のものを使用しなければならないということになるわけである。逆にい
うと、砒素含有率〇・〇三%の第二燐酸ソーダであるならば、これを原料牛乳に前
記のような割合で添加する限り、よつて製造される乳児用調整粉乳は、人体に無害
なのである。
 ところが、原判決は、右〇・〇三%の砒素を含有する第二燐酸ソーダが、本件の
場合、無害か或いは有害かの点について、概念の混乱を生じているのではないかと
の疑問がないわけではない。というのは、原判決は、前記のように、原判決三五丁
表において、本件工場が使用する第二燐酸ソーダの砒素含有率は〇・〇三%以下の
ものであればよいとしながら、三九丁裏一行目においては〇・〇三%(原判決に
〇・三%とあるのは〇・〇三%の明白な誤記である)以上と記載し、四〇丁裏五行
目においては、〇・〇三%未満のものがあるに過ぎないと記載し、四〇丁裏六行目
以下においては、「砒素含有率が重量比で〇・〇三%以上の第二燐酸ソーダが出現
するかも知れない。」というような不安感と判示し、四一丁表三行目においても、
〇・〇三%以上と記載しているからである。したがつて、右のような判示の仕方か
ら考えると、原判決が、〇・〇三%の砒素を含有する第二燐酸ソーダは、本件の場
合、果して人体に有害であるとなすのか、それとも無害であるとなすのか必ずしも
明らかでない。 しかし、原判決が認定した右〇・〇三%の数字は、原判決掲記の
右各証拠と照しあわすと、無害と有害との間のぎりぎりの数字ではなく、〇・〇三
%の砒素を含有している第二燐酸ソーダである限りにおいては無害であることは勿
論、僅かではあるにしても或る程度余裕のある数字であることが窺われるのであ
る。したがつて、原判決の判示の趣旨も、〇・〇三%のものは無害であると認定し
たものと解するを相当とする。そうすると、右〇・〇三%の砒素含有量は、論旨の
いうように、人体有害量でないことは勿論、かりに、これが〇・〇三一%とか〇・
〇三二%であつても未だ必ずしも人体に有害な程度の砒素含有量とはいえないのみ
ならず、原判決の判示する〇・〇三%というのは砒素含有率であるのにかかわら
ず、論旨のいう〇・〇二五%というのは亜砒酸含有率であることは前記説示によつ
て明らかであり、亜砒酸含有率〇・〇二五%を砒素含有率に換算すると〇・〇一八
%位になるのであるから(亜砒酸中の砒素は約四分の三である)、論旨は、ことが
らの性格を適切に把握していないとの非難を免れ難いというべきであつて、昭和二
七年四月頃B6化学工業株式会社C5工場において生産された第二燐酸ソーダ中に
は、人体に有害な程度の砒素を含有するものがあつたとの論旨は失当である。
 5 (一) 証人D28(B40塗料工業株式会社取締役、七の二九四九ないし
二九五七)、(同D29(B35株式会社取締役、七の三二〇二ないし三二一
六)、前記証人D4(三の一〇八三、同一〇八四)及び同D24(七の二九二一な
いし二九四五)が、それぞれ論旨指摘のような供述(控訴趣意補充書第一の一の
(三)、同一の(四)の(1)ないし(4)参照)をしていることは所論のとおり
であるが、同証人らの各供述記載を仔細に検討すると、その供述はいずれも推測の
域を出ない部分が多いし、一部分真実であると認められる部分があつて、いわゆる
第二燐酸ソーダの粗悪品が出廻つたとしても、右事実によつては未だ昭和三〇年当
時我が国薬品業界に人体に有害な程度の砒素を含有する第二燐酸ソーダの粗悪品が
出廻つていたとは認めることができない。論旨にいう粗悪品は、良質のものに比し
若干程度が落ちていたことは否めないが、第二燐酸ソーダには変りはなく、それら
に砒素が多量に含まれていたとは考えられないのである。
 (二) また、前記証人D27(六の二六三一及び一〇の四三五五)、証人D3
0(B6化学工業株式会社C9工場肥料課長、一二の五三九七)、前記証人D9
(二二の一〇四六四及び二三の一〇九七一)、証人D31(同会社C5工場分析課
長、二二の一〇五七九及び二三の一〇六九九)、前記証人D2(二三の一〇八五〇
及び二三の一一〇七二)、証人D32(同会社C5工場分析課員、二三の一〇六六
四)、同D33(B27化学工業株式会社試験研究係員、六の二六七四)、同D3
4(同会社C10出張所勤務、二三の一〇七八六)及び同D35(B24化学工業
株式会社C11製造所第一製造部長、七の三四三九及び一四の六二六〇)らの各供
述記載を仔細に検討しても、昭和三〇年当時、燐酸肥料を製造する際生ずる廃液か
ら燐酸ソーダを製造していたというような事実は全く認められないのである。
 (三) 前記証人D5(一二の五六〇七)が、論旨指摘(控訴趣意補充書第一の
一の(四)の(4)参照)のような各供述(一二の五七五二ないし五七五四、五七
六四、五七六五)をしていることは所論のとおりであるが、しかし、同証人は、燐
酸ソーダについては、過去においても現在においても、副生品からこれを製造する
ということは聞いていないが、化学薬品工業全般からみれば、B4製薬が、本件物
質の如き薬剤を製造したのは珍しいケースではないと証言しているのみならず、後
記第二の二の3の(四)において説示するような同証人の立場から考えると、所論
の右各供述を根拠として、廃液を利用して製造した燐酸ソーダが薬品業界に出廻つ
ていたとの論拠とするのは失当である。
 6 (一) 前記証人D26の尋問調書中の供述記載(三の一二三二及び同一二
九一)並びに前記第二の一の2の(一)及び同3の(一)でそれぞれ認定した各事
実によると、「第二燐酸ソーダ」は、右2の(一)で説示したような用途に用いら
れ、右3の(一)に記載したような方法で製造される薬剤であつて、右名称は化学
上のものではなくむしろ商品名といつた方が適当であるが、化学上は、Na2HP
O4・12H2O(またはNa2HPO4・7H2O)の化学式によつて現わされ
る化合物であつて、第二燐酸ナトリウムもしくは燐酸二ナトリウムと称せられ、学
問上最も厳格な名称では、燐酸水素ナトリウム一二水化物(または七水化物)とい
われている。右化学式によつて表象される文字どおり純粋な物質は、化学理論の上
で考えられるものであつて、現実に取引の対象とせられるものは、右化学式によつ
て現わされる物質に微量の砒素その他の不純物を含有しているのである。そして、
右一二分子水のものが試薬及び工業用であつて、右七分子水のものが局方品(現在
においては改訂せられてひとしく一二分子水のものとなつていることは後記第二の
三の5の(一)の(1)の項において説示するとおりである)である。
 (二) 原判決第二章第三の四の1冒頭に掲げる各証拠(ことに記録三の一〇八
六、一〇八七、六の二五三二、八の三五七六、三六三二、六の二六七九、二六八
九、六の二七〇九、六の二七四五、二七四九、六の二七六四、七の三〇八九、七の
三二三一、三二三七、七の三二五九、七の三三二一ないし三三二六、六の二六四〇
ないし二六四二、一〇の四四四五、四四五〇ないし四四五二、一九の八七四六、八
七七一、一九の八八二五、八八四三、二二の一〇四六四、二三の一〇九七一)及び
前記証人D2の尋問調書(二三の一〇八五〇、一一〇七二)並びに押収にかかる清
缶剤の分析試験成績について(通知)と題する書面一通(証六六号)を綜合する
と、次の各事実が認められる。
 (1) 昭和三〇年頃までに、我が国の薬品業界において製造された通常の燐酸
中の砒素含有率は、〇・〇〇三%以下位であると思われ、接触式、鉛室式方法によ
つて製造された硫酸の砒素含有率は、〇・〇〇一%ないし〇・〇一%位であると考
えられ、昭和二五年以降における第二燐酸ソーダの純度は、稀には九五%程度のも
のもあつたが、殆んど九八%以上であり、ことに試薬特級、同一級並びに良質のも
のは九九%以上であり、第二燐酸ソーダ中の砒素含有率は、少ないものでは〇・〇
〇〇x%(〇・〇〇〇一%ないし〇・〇〇〇四%位)であり、やや多いものでも
〇・〇〇x%(〇・〇〇一%ないし〇・〇〇九%位)であり、最も多いものでも
〇・〇一%位であつたのである。(前記第二の一の4の各項で認定したB6化学工
業株式会社C5工場製品の〇・〇一八%の数字は極めて例外の場合である)。した
がつて、我が国の薬品業界においては、本件の砒素中毒事故が発生するまでは、製
造業者ことに乾式燐酸を原料として第二燐酸ソーダ(第一、第三燐酸ソーダをも含
めて)を製造していた業者は、いずれも、第二燐酸ソーダ中の砒素の含有率は極め
て微量であつたし、第二燐酸ソーダ中の砒素による中毒事故の発生したことはなか
つたため、局方品及び試薬以外の工業用第二燐酸ソーダ中の砒素の含有量について
は、殆んど意に介していなかつたというべきである。
 (2) B27化学工業株式会社、B29産業株式会社及びB41化学株式会社
からB39仙台管理局へ納入された清缶剤中に、右B27及びB29のものについ
てはいずれも〇・〇二五%、B41化学のものについては〇・〇二五%以下の砒素
を含有していた旨の報告が、昭和二九年二月一六日付でB39C12鉄道管理局総
務部長から同局運転部長宛行なわれている事実がある。ところが、右は、当時同局
衛生試験室勤務のB39職員D36が、日本薬局方に定めるグートツァイト法によ
つて砒素の定量試験を行なつた結果現われた数字なのであるが、右数字は、もとも
と亜砒酸の含有量として表示すべきを砒素の含有量と誤解して表示しているのみな
らず、同証人も供述しているように、同証人がグートツァイト法による砒素の定量
試験をしたのはその時が始めてであつたこと並びに前記証人D33の供述(六の二
六八九)に照して、前記砒素定量試験の結果の数字はにわかに信用できない。
 7 以上第二の一の2ないし6の各項において詳細説示したところによつて明ら
かなように、昭和三〇年当時(この以前においても同様)我が国薬品業界における
第二燐酸ソーダの製造方法は、B3産出物(本件物質であり、B9製剤でもある)
を除いては、前記第二の一の3の(一)に記載した方法に限られていたと認めるの
が相当であり(同3の(二)の(1)及び(2)に記載した数少ない例外も、第三
燐酸ソーダを製造した場合であつて、第二燐酸ソーダを製造した事例ではない)、
第二燐酸ソーダにはその性質上不純物として砒素を含有しており、また、かりに、
第二燐酸ソーダの製造業者が、食品添加物として第二燐酸ソーダが使用されること
はむしろ例外的なことであるとして、その製造にあたり食品衛生的配慮を払わなか
つたとしても、業者によつて製造される第二燐酸ソーダは、自然に前記6の(二)
の(1)に説示した程度の砒素含有率のものに生産されていたというべきで<要旨第
一>あり、製造工程の相違、すなわち、乾式燐酸を用いるか湿式燐酸を用いるかによ
つて、或る程度砒素の含有率に相違を生ずるけれども、しかし、より多
く砒素を含有するといわれる湿式燐酸を用いた製造方法による場合でも、前記程度
の砒素含有率に過ぎなく、したがつて、人体に有害な程度の砒素(本件では〇・〇
三%を超えるもの)を含有する第二燐酸ソーダが薬品業界に出廻つていたような事
実もなかつたし、また、出廻る虞もなかつたというべきである。したがつて、原判
決が、第二章第三の四の2の項において、「前記の方法で作られる燐酸を原料とし
てこれをソーダ灰等で中和させるという製法によつて作り出される第二燐酸ソーダ
である以上、最悪の方法(すなわち、鉛室式硫酸を用いて作られた湿式燐酸を原料
とする方法)を前提として最悪の条件を考えても、砒素含有率が重量比で〇・〇三
%未満のものができあがるに過ぎない。」と説示し、人体に有害な程度の砒素を含
有する第二燐酸ソーダが業界に出廻る虞はないと判断したのは相当であつて、この
点に関する限り、原判決には事実の誤認はないといわなければならない。そうする
と、検察官が前記1の論旨で主張するような事実は、到底認められないといわなけ
ればならない。
 二 「第二燐酸ソーダ」という名称は商品名であるから、第二燐酸ソーダとして
薬品業界に出廻る薬剤の成分規格は必ずしも一定しているものではなく、化学上は
第二燐酸ソーダと称することはできなくても、取引上は第二燐酸ソーダと称し得る
薬剤も存在するとの論旨について。
 1 所論の要旨は次のとおりである。
 (一) 第二燐酸ソーダという薬剤も取引の対象となるときは商品であり、「第
二燐酸ソーダ」というのは商品名であるから、そういう商品名で取引される薬剤
が、一般的にどのような成分規格のものであるかということは、薬品業界がどのよ
うな成分規格の薬剤に「第二燐酸ソーダ」という商品名をつけるかということに帰
着し、また、個々の具体的取引において、「第二燐酸ソーダとして売買される薬
剤」がどのような成分規格であるかということは、当該薬剤を製造販売するもの
が、どのような成分規格のものにその商品名をつけるかということに帰着し、商品
としての用途に適する限り、ある薬剤の過半量を占めている成分の名称をもつてそ
の薬剤の代表的商品名とするのが、業界の実状においては普通行なわれている習慣
であると認められる。
 (二) したがつて、「第二燐酸ソーダ」という商品は、(1)昭和三〇年当時
行なわれていた第二燐酸ソーダの量産方法によつて製造される薬剤、(2)若干量
の不純物を含有していても、成分として第二燐酸ソーダが過半量を占めて清缶剤、
洗滌剤としての用途に適すると考えられる薬剤、(3)主成分の組成の仕方によ
り、化学的には第二燐酸ソーダとはいえなくても、成分として第二燐酸ソーダが過
半量を占めて清缶剤、洗滌剤としての用途に適すると考えられる薬剤(例えば公訴
事実一、二掲記の薬剤の如きもの)等が、第二燐酸ソーダという商品名で市販され
て業界に出廻ることもあるわけである。そして、本件の場合、右のうち、(1)の
薬剤は、工業用第二燐酸ソーダの正常品に該当し、(2)の薬剤は、工業用第二燐
酸ソーダの粗悪品に該当し、(3)の薬剤は、工業用第二燐酸ソーダの類似品であ
つて、しかも、工業用第二燐酸ソーダの粗悪品に該当すると云い得るのである。 
(三) 前記のようにして出廻る第二燐酸ソーダという商品は、食品衛生的配慮が
払われないで製造されるものであるために、原料の選択、製造工程の管理いかんに
より、人体に有害な程度の砒素を含有していることもあり得るのである。然るに、
原判決が、第二燐酸ソーダという商品を、昭和三〇年当時行なわれていた第二燐酸
ソーダの量産方法によつて製造される薬剤のみに限定し、第二燐酸ソーダという限
り、人体に有害な程度の砒素を含有する薬剤はなく、そのような薬剤が業界に出廻
る可能性はなかつたと判断したのは事実誤認である、というのである。
 2 原審で取調べた各証拠によると、昭和三〇年四月一三日頃以降本件工場で製
造された乳児用調整粉乳中に、人体に有害な程度の多量の亜砒酸を含有するに至つ
たのは、本件工場が乳児用調整粉乳を製造するにあたり、安定剤として、前記第二
の一の3の(二)の(3)の(ロ)で説示したB9製剤(本件物質でもあるし、B
3産出物でもある)に四・二%ないし六・三%の多量の砒素を含有していたためで
あり、それ以外には原因のなかつたことが明らかである。そうすると、B9製剤
は、本件の核心をなす物質であるというべく、しかも、論旨は、B9製剤も取引上
は第二燐酸ソーダの範疇に属する薬剤であると主張するので、まず、B9製剤の化
学上の性質を明らかにする必要がある。
 原判決第二章第一の二の3に掲げる各証拠によると、B9製剤の可溶性部分の主
成分の化学式は、2Na.3(PO4,ASO4,VO4)・NaF・18H2O
〔学者によつては、2Na3(PO4,AS4,VO4)・NaF・nH2Oもし
くは2Na3(P・As)O4・Na(F・OH)・22H2Oと表示する〕で現
わされ、従来、右物質と同じ化学式で表示せられる物質は、我が国の化学界におい
て研究の対象物とされたこともなく、化学上は極めて異例に属する特殊化合物であ
り、日本語による命名も困難な物質であつて、燐酸(燐酸と同一資格で砒酸とバナ
ジン酸を含んでいる)ナトリウムと弗化ナトリウムとの複塩及び水とからなつてい
ることが認められ、また、B9製剤中に含まれている砒酸の重量は、B9製剤の重
量の約一〇・八八%ないし一一・〇四%位であると推定されるのである。さらに、
警察庁科学捜査研究所化学課警察庁技官G1、同G2及び同G3共同作成にかかる
昭和三〇年一二月一二日付鑑定書(三七の一六五〇二)によると、B9製剤中の砒
素の含有量は、約四・二%ないし六・一%位であり、B9製剤の水溶液からは燐酸
イオン、砒酸イオン、弗素イオン及びナトリウムイオンが比較的多く検出されるた
め、これらをナトリウム塩の形として算出すると、二五・五%の第三燐酸ナトリウ
ム、二・〇%の第二燐酸ナトリウム、一六・六%の第三砒酸ナトリウム、〇・二%
の第二砒酸ナトリウム及び八・二%の弗化ナトリウムからなり、その他には少量の
アルミニウム等外数種の夾雑物を含有する物質であることが認められるのである。
 したがつて、右に認定した各事実及び前記第二の一の6の各項において認定した
各事実に徴すと、B9製剤は、燐酸とナトリウムとを主たる成分とする化合物、す
なわち、化学上の第二燐酸ナトリウムとは全く異なる性質の物質であるといわなけ
ればならないし、第一もしくは第三燐酸ナトリウムともいえない物質であつて、こ
とに、第二燐酸ナトリウムの含有量が二・〇%に過ぎない点は、看過し得ないこと
がらである。
 3 「第二燐酸ソーダ」という名称が取引上で用いられる商品名であることは、
前記第二の一の6の(一)において説示したとおりである。
 (一) 所論の証人D26の各供述記載(三の一二三二、同一二九一)を仔細に
検討すると、同証人は、本件物質(B9製剤)は、化学上第二燐酸ナトリウムと異
なる物質であるのみならず、本件物質が燐酸ナトリウム分を含んでいるため、たと
え清缶剤もしくは洗滌剤としての効能があるからといつて、商取引上においてもこ
れを第二燐酸ソーダと称することのできないのは、あたかも、サッカリンが砂糖と
同様な用途に用いられるからといつて、サッカリンを砂糖と称して売買することが
許されないのと同じであるとさえ供述しているのである。然るに、論旨が、同証人
が所論のような供述(控訴趣意書八丁表一行目以下)をしていると主張するのは、
同証人の供述の趣旨を正解しないでなす誤つた議論であるといわなければならな
い。
 (二) 前記証人D21(六の二七七一)が、所論(控訴趣意書八丁裏五行目以
下)のような供述をしていることが認められるが、同証人は、他方、B3産出物
は、通常の取引界においては、第二燐酸ソーダとしては通用しないことは判つてい
た旨供述しているのみならず、さらに、昭和三一年六月一〇日付同証人の供述記載
(一の三八九)によると、本件物質を第二燐酸ソーダと呼称することは無理である
とも供述しているのである。
 (三) 前記証人D25(六の二八〇一)が、所論(控訴趣意書八丁裏一〇行目
以下)のような供述をしていることが認められるが、しかし、同証人もまた、B3
産出物が取引界で正常な第二燐酸ソーダとして通用しないことは判つていた旨、並
びに、右物質が危険であることは予想ざれたので、B22薬品工業株式会社がB1
7化学工業株式会社に対しB3産出物を売却する際、同会社係員に対し、右物質を
食品関係に使用してはならないといつてあつたし、同会社は、右物質を原料として
清缶剤を製造したが、これをB39へ納入しただけで、市販はしていない旨供述し
ていることが認められる。
 (四) 前記証人D5の供述記載(一四の六三六四)によると、所論(控訴趣意
書八丁裏一三行目以下)のような供述をしていることが認められるけれども、同証
人は、他方、本件物質の成分が判明しておれば、これをそのまま第二燐酸ソーダと
して普通一般に取引することのできないのは当然であるが、もし本件物質の成分内
容を公開した上ならば取引できると供述しているのみならず、同人は、本件物質を
第二燐酸ソーダとして流通過程においた人物であるから、自己の責任を免れるため
にも、所論のような供述をするのは、むしろ当然のことであるといわなければなら
ない。
 (五) 前記証人D14(六の二五九四)が、論旨指摘(控訴趣意書八丁表一二
行目以下)のような供述をしていることは所論のとおりであるが、しかし、同証人
も、不純物が使用目的を阻害しなければ、大部分の含有率の成分の名称をもつて、
当該物質全部を代表させ得ると供述していることを看過してはならないのである。
 4 B3産出物が、取引の対象におかれたことは、前記第二の一の3の(二)の
(3)の(イ)、(ロ)、(ハ)及び同(4)において説示したとおりであるが、
右(3)の(イ)の各取引及び同(4)の各取引のうちB3株式会社、B22薬品
工業株式会社及びB17化学工業株式会社間の各取引は、粗製燐酸ソーダという名
称で取引せられたとしても、売買の各当事者間において、右B3産出物が燐酸ソー
ダでないことを十分知悉して取引したのであり、その取引価格も、右(4)に記載
したような低廉なものであり、右(3)の(イ)の各取引も右(4)の各取引価格
とよく似たものであつたし、右(4)の取引のうちB17化学工業株式会社とB3
9間の取引は、B3産出物を原料として製造した清缶剤の取引であるから、右各取
引は、、いずれも「燐酸ソーダ」としての取引であつたとは認め難いというのを相
当とする。ただ、右(3)の(ロ)及び(ハ)の各取引だけ、すなわち、B4製薬
が、B3産出物を本件物質にしたうえ、第二もしくは第三燐酸ソーダとして売り捌
いた各取引だけが、第二もしくは第三燐酸ソーダとしての取引であつたというべき
である。なお、燐酸ソーダというと、第二燐酸ソーダを意味することが多いし、第
一、第二もしくは第三燐酸ソーダの総称として用いられることもあるが、取引の
際、当該具体的の物質が、燐酸ソーダとはいえるが、第一、第二もしくは第三燐酸
ソーダのいずれとも断定し難いような薬剤が、燐酸ソーダとして取引ざれたよ5な
事例は、B3産出物以外には認められない。
 5 前記第二の二の2ないし4の各項で説示したことによつてすでに明らかなよ
うに、前記第二の二の3の<要旨第二>(一)ないし(五)掲記の各証人の供述によ
つては、前記第二の二の一の(一)記載のような所論事実、すなわち、第二燐 旨第二>酸ソーダの製造業者間において、その製造する第二燐酸ソーダという薬剤の
組成成分を自由に決定したり、または、第二燐酸ソーダでない或る薬剤中に、一部
分燐酸ナトリウム分が存在し、第二燐酸ソーダの主用途である清缶剤、洗滌剤等に
適するからといつて、その薬剤中に存する燐酸ナトリウム分以外の化合物である他
の組成分子の存することを無視して、これを第二燐酸ソーダとして取引するような
業界の習慣は、存在しなかつたことが窺われるのである。もともと、第二燐酸ソー
ダという物質は、化学的化合物であつて、日本薬局方に燐酸ナトリウムとして収載
されているし、日本工業規格においても、試薬品及び工業用品につきそれぞれ規格
を定められている薬剤であるにかかわらず、化学を離れて別個の第二燐酸ソーダが
商取引上一般的に横行するということは到底考えられないことであつて、化学上第
二燐酸ナトリウムと称せられるものが、取引上においても第二燐酸ソーダとして通
常売買せられていると認めるのを相当とする。 よつて、昭和三〇年当時我が国の
薬品業界において取引されていた第二燐酸ソーダという薬剤は、前記第二の二の一
の(二)の所論(1)の薬剤(局方品、試薬品及び工業用品を問わず第二燐酸ソー
ダ全部)に限られていたのであり、同所論(2)のような薬剤の存しなかつたこと
は、既に前記第二の一の各項で詳細説示したとおりであり、<要旨第二>さらに、同
所論(3)の薬剤、すなわち、B9製剤の如き化学上第二燐酸ソーダでない薬剤
が、取引上においては第二燐酸ソーダとして取り扱われるというような
ことは、薬品業界一般において承認されていなかつたことといわなければならな
い。
 したがつて、原判決が、B9製剤は、化学上の第二燐酸ソーダでないことは勿
論、取引上においても第二燐酸ソーダの範疇に属しない薬剤であると判断したのは
相当である。然るに検察官が、前記所論(3)のような化学上第二燐酸ソーダでな
い薬剤が、取引上においては第二燐酸ソーダとして薬品業界に一般に出廻る可能性
があつたことを前提として、原判決の前記認定を非難攻撃するのは、失当であると
いわなければならない。
 三 商取引上において、注文した品物と異なる品物が納入される場合があるとの
論旨について。
 1 所論は、その趣旨必ずしも明らかでないが、要するに、工業用第二燐酸ソー
ダの発注に対しては、第二燐酸ソーダでない薬剤(以下「非第二燐酸ソーダ」と略
称する)が納入される危険性があるというに帰着するのである。
 <要旨第三>2 商取引上において、買主が甲という品物を注文したとき、売主か
ら買主に対し、注文品甲が納入されるのが普通であるが、往々にして買
主の予期に反して注文品甲とは異なる乙という品物の納入されてくることも我々の
日常生活において経験するところである。多くの場合、すでにその品物の包装もし
くは容器自体に乙と表示されているので、買主は直ちに自己が注文した甲品でない
ことを発見し、注文品と相違するということで、これを返品するか、もしくは乙品
の用途に従い使用し、甲品の用途には使用しないため、ことなきを得るのである
が、しかし、時には、その品物の包装もしくは容器には甲という標示があるのにか
かわらず、内容品は乙品が入つていることも絶無ではないのである。右のような現
象が起るのは、売主の故意による場合もあるだろうし、何らかの原因に基づく、売
主側、すなわち、製造業者もしくは販売業者の錯誤による場合もあるのである。こ
の理は、第二燐酸ソーダの売買についてもあてはまるのは当然のことである。そし
て、右の事柄は、経験則によりこれを首肯し得るところであつて、証拠によつて認
定しなければならない事実には属しないことはいうまでもないことであるが、本件
においては、次の3の各項において説明するような事情の存したことに徴すると、
右危険性は一層大きかつたといわなければならない。
 3 (一)前記証人D5(一四の六五四五以下)、同D10(七の三二三二、三
二三三)、同D3(七の三三二九、三三六一)、同D6(二の九六四)、証人D3
7(B42化学株式会社員、七の三〇三〇、三〇三九)、前記証人D29(七の三
二〇八)、証人D38(B43薬品産業株式会社営業部次長、七の三二七七、三二
七八)及び同D39(B44薬品株式会社C13出張所店員、一八の八六一五)の
各供述記載を綜合すると、工業用第二燐酸ソーダの卸売業者の或る者は、時による
と、自己の得意先が製造業者と直接取引をするのを防止するため、製造会社名が第
二燐酸ソーダの容器や外装に表示されることを嫌い、製造業者に要求して、容器や
外装が無印の薬剤を受取り、これに卸売業者である自己の名称及び薬剤名を入れて
販売していた事実が認められるのである。右の事実から判断すると、運送の途上に
おいて薬剤の混同を生ずる危険も考えられるし、卸売業者が無印の薬剤を受領した
後、誤つて包装の表面に内容品と異なる薬剤名を記載する虞もあるといわなければ
ならない。
 また、場合によつては、二種以上の薬剤の製造業者が、甲という薬剤を製造した
のにかかわらず、乙薬剤名の標示のある容器に右甲薬剤を詰めたり、甲薬剤を詰め
た容器やその外装に乙薬剤名の標示をいれることも絶無ではなく〔証人D40(B
34工業株式会社常務取締役)の供述記載、七の三四一八参照〕、さらに、同一倉
庫内にある多種多様の薬剤の梱包をし直すような際、包装と内容品とを取違えて梱
包を行なうようなことも考えられないことではない。〔証人D41(厚生省B46
局技官)の供述記載、一一の五一六五参照〕
 (二) 現在の経済機構の中では、いかなる商品の製造及び売買取引でも、業者
間の競争がますます激化していることは公知の事実であり、これに対処するため、
一般の化学工業界においても、生産コストの低下を図つて、できるだけ安い原材料
を用いたり、ある物品の製造工程から派生する副生品の有効な利用を考えたり、製
造工程の短縮を企図していること〔前記証人D14の供述(六の二六〇二以下)、
証人D42(東北化学工業株式会社技術担当社員)の供述(六の二五六八以下)各
参照〕は、想像に難くないのであつて、これによつて正常な名実の一致した薬剤が
製造され、これらがより低廉な価格で薬品業界に出廻るのは望ましいことである
が、薬品製造業者の数は相当多く、その業態も千差万別であつて、薬品製造業者中
の或る者は、右の原理を悪用して、どうせ工業用薬品に使用されるのだからという
ような安易な考から、商業道徳に反するような行為をなす不心得者もいないとは限
らないのである。
 4 なお、本件と同種事案とはいえないけれども、内容品の薬剤とその標示とが
相違していたため、重大な結果を惹起した二、三の事例を、参考までに掲げること
とする。
 (一) 食品添加物として重曹を販売していたものが、重曹一袋を買いに来た顧
客に対し、重曹と誤信して、毒物たる亜砒酸を重曹であると称して販売した結果、
顧客において、これを使用して蒸パンを製造し、これをその二男に食せしめたた
め、同人をして亜砒酸中毒により死亡するに至らしめた事例(昭和二四、一〇、一
四、東京高裁判決、高等裁判所刑事判決特報第一号一四三頁参照)。
 (二) 患者が、注射剤ぶどう糖カルシウムと思料される二〇CC入アンプル五
本在中し、「B47製薬株式会社製ぶどう糖カルシウム」の標示のある紙面一箱を
病院に持参し、医師に注射を依頼したのであるが、実は、右紙函中の二本のアンプ
ルはレッテルが貼つてあつてぶどう糖カルシウムであつたが、他の三本にはレッテ
ルがなく点眼薬カルパノールヒヨリンクロットであつたのに、医師が、これを紙函
に表示されているぶどう糖カルシウムであると誤信して、患者の左腕静脈に注射し
たため、同患者を死亡するに至らしめた事例(昭和三二、二、二六、福岡高裁判
決、高等裁判所刑事判例集一〇巻一号一〇三頁参照)。
 (三) 硝酸ストリキニーネの入つた薬袋の表面にフェナセチンと表示されてい
たため、薬剤師が、これをフェナセチンと誤信し、これを使用して医師の処方筆に
より鎮静剤を調剤した結果、これを服用した者を、死亡させたり、硝酸ストリキニ
ーネ中毒症に陥らしめた事例(昭和三〇、五、一〇、神戸地方裁判所姫路支部判決
参照、本判決については、昭和三一、七、一八、大阪高裁の控訴審判決が、昭和三
四、九、二二、には最高裁第三小法廷の上告審判決がある)。
 5 第二燐酸ソーダの発注に対して、非第二燐酸ソーダの納入される危険性のあ
ることは、前記説示のとおりであるが、第二燐酸ソーダにも他の薬剤と同様、その
用途に従い、局方品、試薬及び工業用薬品の区別が存するところ、第二燐酸ソーダ
の発注に対し、非第二燐酸ソーダの納入される危険性は、右各種の第二燐酸ソーダ
全部について、起り得るかどうかを考えてみる必要がある。そこで、まず、第二燐
酸ソーダの局方品、試薬及び工業用薬品について検討しなければならない。
 (一) (1)局方品
 薬事法(昭和二三年七月二九日法律第一九七号)、押収にかかる前記注解第六改
正日本薬局方(証五四号)及び当審(第一二回公判)証人D43(香川県B45部
I4課指導係長)の供述によると、我が国においても諸外国と同様明治一九年六月
二五日に日本薬局方(第一版)が制定せられ、爾来数次の改正を重ね、本件発生当
時においては、昭和二六年三月一日に改正された第六改正日本薬局方が施工されて
いたのであるが(現在においては、昭和三五年法律第一四五号薬事法第四一条によ
る第七改正日本薬局方が施行せられている)、薬局方は、国家が制定した医薬品の
公定書であり、医薬として基礎的に重要性のある時代の代表的医薬品を収載し、そ
の強度、品質及び純度の基準を定めたものであつて、局方品とは、日本薬局方に収
載せられた医薬品を意味するのである。したがつて、局方品である医薬品の、製造
業については厚生大臣の、販売業については都道府県知事の、各登録を受けなけれ
ばその営業を行なつてはならないし、製造業者及び販売業者の手許にある薬剤は、
薬事監視員による立入検査の対象とされており、その強度、品質及び純度が日本薬
局方の定める基準に適合しなければならないのであり、そのために製造業者自ら製
品の自家試験を実施しているのであり、局方品の標示には、「日本薬局方」の文
字、日本薬局方に掲げる薬品の名称又はその別名並びに製造業者の氏名及び住所等
を表示しなければならないのであり、薬品の容器もしくは被包には封緘を施してい
るのが通例である。右の各事実から考えると、局方品は、医薬品として直接人の生
命及び身体に影響を及ぼすために、製造工程及び販売過程等の各段階において厳重
な管理体制の下に置かれているのであつて、容器に封入されている薬品は、容器も
しくは被包(容器の外側を包む包装)に表示されているとおりの薬品であること並
びに日本薬局方所定の成分規格を有する薬品であることを、製造業者の責任におい
て保証しているものであると解するのを相当とする。
 そして、第二燐酸ソーダも日本薬局方に収載されている薬品であり、名称は第二
燐酸ナトりウム(Na2HPO4・7H2O)と称せられて、その成分規格が公定
せられているのである。〔もつとも、現在においては、昭和三六年四月一日厚生省
告示第七六号によつて公布せられた第七改正日本薬局方が施行せられており、それ
によると、第二燐酸ソーダは、リン酸水素ナトリウム(Na2HPO4・12H2
O)と称せられ、七分子水のものであつたのが、一二分子水のものに変り、試薬や
工業用のものと同一になつた〕。第二燐酸ソーダの局方品が、前記に説示したよう
な各条件を具えた薬品であることはいうまでもない。
 なお、封緘の点については、現行薬事法第五八条、薬事法施行規則(昭和三六年
二月一日厚生省令第一号)第五九条によると、医薬品の製造業者は、その製造した
医薬品を、医薬品の製造業者以外の者に販売し又は授与するときは、厚生省令の定
める方法により、医薬品を収めた容器又は被包に封を施さなければならない旨の規
定が存するのにかかわらず、昭和三〇年当時施工せられていた旧薬事法には、毒薬
又は劇薬については容器に封緘を施さなければならない(同法第三六条)ことにな
つているが、一般の医薬品についてはその旨の規定がない。しかし、医薬品の性
質、もし医薬品の容器に封緘がないとすると、消費者が安心してこれを使用するこ
とができないこと(なお、第六改正日本薬局方通則第四二項及び燐酸ナトリウム
(第六一五番目)の項によると、第二燐酸ナトリウムは気密容器に貯えなければな
らないことになつている)、並びに旧法当時においても現に医薬品についてはその
容器に封緘が行なわれていたこと等に徴すると、旧薬事法に現行法所定の前記のよ
うな一般的な封緘の規定がなかつたとしても、医薬品の容器の封緘の点について
は、現行法と同趣旨であつたと解するのが相当である。
 (2) 試   薬
 当審証人D44(通商産業省I5所I6課長補佐)、同D45(B48連合会及
びB49協会書記長)及び同D46(B50協会副理事長、B51化学工業株式会
社代表取締役)の各尋問調書によると、試薬とは、化学教育、試験研究、分析実験
及び特殊工業等に使用されるために必要な一定純度を保証し得る特定の規格を標準
として、製造販売される薬物の総称であつて、化学試験の結果を数値をもつて現わ
す場合にも、秤や温度計とともに欠くことのできない度量衡的な薬物であることが
認められる。したがつて、その試験結果を正しいものとするために、まず基準とな
る試薬そのものの規格が正しく、かつ、純度の高いことが厳格に要求されるのであ
る。
 右当審証人らの各尋問調書、証人D47(B7化学工業株式会社営業課長、三の
一〇六五、一〇六六)、同D48(株式会社D48商店常務取締役、二三の一〇八
四一)、前記証人D13(一九の八七八八)、同D4(三の一〇九三)、同D6
(二の九六三)、同D18(一七の七六八三)、同D22(一五の七〇八四ないし
七〇九六)、同D40(七の三四三〇)及び証人D49(B41化学株式会社顧
問、六の二六六七)の各供述記載並びに押収にかかる昭和三二年一二月二日付燐酸
ソーダのJIS規格票の送付についてと題する書面(添附のJIS規格票三通を含
む、証二三号)を綜合すると、次の各事実が認められる。
 試薬が前記のような性質の薬品であるため、試薬製造業者は、不純物の含有量の
少ないものの生産に努力しているのであつて、試薬と工業用薬品とでは一般的に製
造工程にも精粗の差異がある。この理は、第二燐酸ソーダについても同様であつ
て、試薬の製造工程は工業用薬品のそれに比して鄭重であつたことが窺われる。
 薬品についても工業標準化法(昭和二四年六月一日法律第一八五号)が適用され
るのであつて、第二燐酸ソーダの試薬については、同法に基づき、昭和二八年五月
六日、日本工業規格(JIS)「リン酸二ナトリウム(結晶)(試薬)」(K90
19)として制定せられ、同年六月四日の官報で公示せられた〔その後、昭和三一
年三月二八日(同年七月九日の官報で公示)と昭和三六年三月一日(即日官報で公
示)の二回に亘り規格改正が行なわれた〕のであるが、右規格は、純度については
特級と一級との二階級に分類し、その含量率を定め、砒素その他の不純物の含量を
一定率以下に限定しているほか、試験方法その他につき詳細な定めをしているので
ある。「JIS」の前身である「JES」の時代においても、第二燐酸ソーダの試
薬について規格が定められており、その当時には、特級、一級及び二級に区分せら
れていた。そして、日本工業規格に定められている薬品の試薬については、製造業
者は、砂なくとも日本工業規格に定められた規格に適合する成分規格の試薬を製造
し、「JIS」マーク表示の許可を受けた製造業者は、その薬品名、「試薬」とい
う文字、等級(特級もしくは一級)「JIS」規格番号、製造業者の氏名及び製造
年を、容器に表示して販売し、「JIS」マーク表示の許可を受けていない製造業
者は、薬品名、試薬特級もしくは試薬一級、製造業者の氏名を、容器に表示して販
売していたのである。
 試薬は、その性質上特に、消費者の手に渡るまでに、他の異物が混入しないよう
にするため、薬剤によつてはその風化もしくは潮解を防ぐため気密容器に入れる等
貯蔵についても慎重に配慮せられ、容器には封緘を施す等の措置がとられていたの
である。日本工業規格で試薬の規格が定められている薬品については、製造業者も
しくは販売業者は、通商産業省I5所(出張所を含む)に対し、当該薬品が日本工
業規格所定の規格を有するかどうかについて、検査を求め、同検査所においては、
右薬品を日本工業規格所定の検査方法によつて検査し、規格に合格し、かつ、検査
を求めた業者が希望すれば、当該薬品の各容器毎に封印をしたうえ、検査合格証紙
を貼付するのであつて、民間ではこれを官封試薬と俗称している。(但し、昭和二
八年ないし昭和三〇年頃において、業界に官封試薬の第二燐酸ソーダが出廻つてい
たことを認めるに足る資料はない。)
 第二燐酸ソーダの試薬製造業者が第二燐酸ソーダを製造し、もしくは、第一燐酸
ソーダの試薬販売業者が第二燐酸ソーダを譲受けたときは、自己の責任において、
右各薬品が日本工業規格の試薬の規格に適合するか否かを検査し、もしこれに適合
しているときには、当該薬品を容器に入れ、これに封をし、その容器及び被包に、
第二燐酸ソーダ、試薬特級もしくは一級並びに製造業者名(卸売業者が自家試験を
実施したうえ、第二燐酸ソーダの試薬を販売するときは、自ら製造したものとして
表示するのが通例のようである)を表示したうえ販売するのである。もし、右製造
業者が「JIS」マーク表示の許可を受けており、これを表示しようとするときに
は、右の外、前記説示のような表示をするのである。
 以上の各事実が認められるのであつて、右各事実に徴すると、第二燐酸ソーダの
試薬は、後記説示の工業用第二燐酸ソーダに比して、純度が高く、最少限或る一定
の成分規格の基準に適合している薬品であつて、取引されるとき、ことに消費者の
手に渡るときには、必ず第二燐酸ソーダの試薬特級もしくは一級である旨並びに製
造業者の氏名の標示があり、かつ、当該薬品が間違いなく第二燐酸ソーダであるこ
と並びに実質的には日本工業規格「リン酸二ナトリウム(結晶)(試薬)」の規格
に適合することを、製造業者の責任において保証しているものであると認めるのが
相当である。被告人A2は当審第一一回公判期日において、試薬には必ずしも試薬
の標示があるとは限らない旨の供述をしているが、右供述は、前掲各証拠に照して
たやすく信用できない。
なお、押収にかかるH1中毒事件と題する写真綴一冊(証一一五号)中の三三頁の
写真によると、B7化学工業株式会社製造にかかる第二燐酸ソーダの試薬一級品に
ついても、「日本工業規格試薬一級第二燐酸曹達」の標示がなされていることが認
められる。
 (3) 工業用薬品
 前掲証人らの各尋問調書並びに原判決第二章第三の四の1に掲げる各証人尋問調
書を綜合すると、工業用薬品とは、局方品及び試薬以外の薬品であつて、主として
一般化学工業のために使用される薬品であるということができる。(局方品もしく
は試薬も、本来の用途を離れて、或る特定の工業のため使用されることのあるのは
いうまでもない)。工業用薬品は、局方品もしくは試薬に比して、純度は低く、し
たがつて、不純物の含有量が多く、製造工程も粗雑である。工業用第二燐酸ソーダ
については、昭和三〇年三月五日、「りん酸ソーダ(正りん酸ソーダ)」(K14
37)として初めて日本工業規格が制定せられ、同年四月二六日の官報によつて公
示せられた〔その後、昭和三一年一〇月二七日、「りん酸ナトリウム(正りん酸ナ
トリウム)」(K1437)として規格改正が行なわれ、昭和三二年一月二日の官
報で公示せられた〕のであるが、それまでは何らの規格の定めもなかつたのであつ
て、製造業者も殆んど製品の成分規格について自主的に検査を実施していなかつた
し、薬品の容器に封緘を施すようなこともしていなかつたことが窺われる。右のよ
うな事情に徴すると、第二燐酸ソーダの製造業者は、自ら製造した工業用第二燐酸
ソーダについては、右に説示した局方品もしくは試薬に関するような強度の保証は
していなかつたと認めるのが相当である。
 <要旨第三>(二) 前記に説示した第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソ
ーダの納入ざれる危険発生の原因となる事情並びに第二燐酸ソーダの局
方品、試薬及び工業用薬品の性格等を、彼此照し合わせて考察すると、第二燐酸ソ
ーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダの納入される虞れのあるのは、工業用第二燐
酸ソーダの場合(但し、後記第二の五の2の(二)の(1)の(ハ)記載のものは
これを除く)に限られるというべく、局方品及び試薬の第二燐酸ソーダ並びに後記
第二の五の2の(二)の(1)の(ハ)記載の規格を指定した第二燐酸ソーダ(特
別注文)の発注に対しては、非第二燐酸ソーダの納入される危険性は、まず考えら
れないと認めるのが相当である。もとより、概念的には、局方品及び試薬等の第二
燐酸ソーダの発注に対しても、非第二燐酸ソーダの納入される危険のあることも絶
無とはいえないであろうが、しかし、その蓋然性は極めて低く、殆んどないといつ
て支障はないであろう。
 なお、原審検察官は、弁護人の求釈明に対し、工業用第二燐酸ソーダの意義につ
いて、(a)日本薬局方に収載されているもの、(b)医薬品集に収録されている
もの、(c)試薬と称するもの、(d)日本工業標準規格のもの以外の第二燐酸ソ
ーダであると釈明しているのであるが(一の一五三)、工業用第二燐酸ソーダにつ
いて日本工業規格が定められ、これが公示せられたのは前記のとおり昭和三〇年四
月二六日であつたのであるから、B9製剤が最初に納入せられた同年同月一三百頃
に日本工業規格品の工業用第二燐酸ソーダが薬品業界に出廻つていたとは思われな
いし、かりに出廻つていたとしても、右(d)のものが果して右(a)(c)と同
様な品質についての保証があるか否かも疑問であるというべきであるから、工業用
第二燐酸ソーダのうちから右(d)のものを除外しなかつたのであるし、右(b)
については、医薬品用の第二燐酸ソーダは、右(a)として収載されていたので右
(b)としては収録ざれていなかつた筈であるから、右(b)のものは論外として
取り上げなかつたのである。
 6 ところで、後記第三の三の1において説示するように、本件工場の従業員ら
は、B2に対し、前後一三回に亘り、工業用第二燐酸ソーダを注文したのである
が、これに対して、B2から、前記第二の一の3の(二)の(3)の(ロ)記載の
とおり三回に亘り、非第二燐酸ソーダであるB9製剤が納入ざれたのであつて、正
常な第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダが納入されるに至つたのは、
前記第二の一の3の(二)の(3)の(イ)及び(ロ)の各項において説示したよ
うな事情に基因するのである。そして、原判決が第二章第一の各項(ことに三の
1)において説示するように、本件工場の従業員らは、右B9製剤の大部分を、非
第二燐酸ソーダであることを知らないで、乳児用調整粉乳を製造する際、原料牛乳
に〇・〇一考の割合で添加使用するに至つたのである。〔なお、原判決は、第二章
第一の一の項において、一方厚生省では乳児用調整粉乳中における砒素化合物の有
無についての試験を国立衛生試験所に依頼し、同試験所で試験したところ別表第三
記載のとおりの試験成績が出た、と判示しているところ、原判決添附の別表第二に
は本件工場製(MF印)以外の乳児用調整粉乳(ML印)からも砒素化合物が検出
された旨記載せられているのであるが、右は、押収にかかる衛生試験所報告別冊第
七四号(証九九号)から転記する際誤つて記載せられたものである。〕 四 右危
険発生の予見は可能であつたこと。
 1 工業用第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダが納入され、本件工
場の従業員らが、乳児用調整粉乳を製造するにあたり、非第二燐酸ソーダを原料牛
乳に添加使用するに至る客観的危険性の存したことは、前記第二の三の各項におい
て説示したとおりである。しかし、たとえ、右のような客観的危険性が存したとし
ても、食品製造の業務に従事する被告人らの立場において、右危険の予見が不可能
であるときには、被告人らに刑事上の過失責任を問擬し得ないことは明らかである
から、右のような危険な結果の発生について予見が可能であつたかどうかを検討し
なければならない。
 2 右予見が可能であつたかどうかを検討するにあたり、果して、第二燐酸ソー
ダの製造業者及び販売業者、右薬品を食品に添加使用していた食品製造業者並びに
その他の者が、食品添加物として使用される第二燐酸ソーダを、いかに理解し、認
識していたかは、これを看過し得ない事柄であるといわなければならない。
 (一) (1) 前記証人D4(三の一〇九六、一〇九七)は、原審第五回公判
期日において、検察官から尋問を受けた際、問「第二燐酸ソーダをあらゆる食品の
原料として使う場合、どんな規格のものを使うのが適当ですか。」答「なるべくな
ら工業用でないものがよいのです。試薬や局方品がよいのです。」問「何故そんな
ことがいえるのですか。」答「燐酸ソーダでなくても、食品に薬品を使うときは、
そんなものを使つている場合が多いのでそういえるのです。」問「工業用を使えば
悪い理由があるのですか。」答「工業用でも燐酸ソーダに関する限り、危険がある
ということは思えません。」問「それならば、なるべくということはいえないので
はありませんか。」答「いえないのです。」と供述している。
 (2) 前記証人D7(六の二七五〇、二七五一)は、「B53製菓から当初第
二燐酸ソーダの注文を受けたときは、注文者から特別の規格を示されたので、それ
に応じて作つている。」旨供述している。
 (3) 前記証人D10(七の三二三七、三二三八、三二四二、三二四三)は、
「取引先から第二燐酸ソーダの注文を受ける際、工業用もしくは試薬と指定してく
ることもあるが、漠然と第二燐酸ソーダといつてきたときには、その用途を聞き、
食品系統に使用する場合であれば試薬でないといけないという。來雑物が少ないの
で安全だから試薬を売る。B54化工及びB55商店へ、ふくらし粉用として第一
燐酸カルシウムを販売しているが、ふくらし粉にするから無砒素の第一燐酸カルシ
ウムをくれと指定して注文があり、無砒素燐酸を原料にして炭酸カルシウムをまぜ
て第一燐酸カルシウムを製造している。」との供述をしている。
 (4) 前記証人D6(二の九七〇ないし九七四)は、検察官の主尋問に対して
は、「局方、試薬以外の第二燐酸ソーダが食品の加工にあたり添加使用されたとい
うことは聞いていない。人体に直接作用する薬品、食料品の原料として第二燐酸ソ
ーダを使用するときは、法規に照らして、局方、試薬を使うべきである。まず第一
に局方品を使うべきである。食品添加物として局方、試薬以外の第二燐酸ソーダを
使うときは、分析したうえで信頼性を得てから使うべきである。」との趣旨の供述
をしているのであるが、弁護人らの反対尋問に対しては、「B7化学で製造した第
二燐酸ソーダであるならば、工業用第二燐酸ソーダでも、砒素の含有量が少ないか
ら、食品添加物として使用しても危険はない。」との趣旨の供述をしているのであ
る。」
 (5) 前記証人D29(七の三二二〇)は、「食品加工に使用するといつて第
二燐酸ソーダの注文を受けたときは、局方、試薬一級ないし特級を購入するように
すすめている。」旨の供述をしている。
 (二) (1) 前記証人D14(九の三九〇二)は、「食品用に添加するの
は、局方品に該当するものを使用すべきであつて、工業用薬品を使用するのは常識
的でない。」旨の供述をしている。 (2) 証人D50(B56薬品協会技術部
長、六の二六二七、一〇の四五一三、四五三九、四五四〇、四五四八、四五四九)
は、「厳密にいえば、注文者が規格をつけて注文するのがよい。一般には純度どの
位ということを条件として注文していた。名のとおつた会社だと、そこまでいわず
に、どこの会社のを、といつている。工業用薬品を食品の添加物として使用するに
あたり、初めて取引をするときは、規格を指定するなり、メーカーの銘柄を指定す
るとか、用途を指定するのが常識である。実際問題としては、局方というものは国
の決めた一般に有害成分のない規格品であるから、そういうような品物ならば、一
応は局方を指定するとか、局方品を使うのはあたりまえである。薬品取扱業者は、
医薬向けの薬品、食品向けの薬品とその他の一般工業用向け薬品とは区別して考え
ているのが常識的である。」との旨の供述をしているのである。
 (3) 前記証人D41(一一の五一四九以下)は、「厚生省においては、目的
物以外の不純物の混入を避け、又は偽贋造品防止のため、局方もしくは試薬一級以
上のものを使用するよう、かなり古くから指導しており、業者はそのことを知つて
いる筈であり、食品会社によつては、局方品のない薬品等については、食品添加薬
品の自社規格を定めているところもある。」旨の供述をしている。
 (三) (1) 前記証人D17(一九の八九一八以下)は、「株式会社B18
においては、プレンソーダを製造するとき、ミネラルとして第二燐酸ソーダを添加
使用しているが、社内で薬品類購買規格を作つており、第二燐酸ソーダは試薬特級
(後に一級に変更された)を購入している。」旨の供述をしている。
 (2) 前記証人D18(一七の七六八六以下)は、「私どもは食品関係で働い
ており、食品製造の責任者であるので、常識として、添加物としては局方を使うも
のと思つていた。」旨の供述をしている。なお、同証人は、工業用第二燐酸ソーダ
があることは知らなかつた旨供述しているけれども、右供述は、同人の学歴及び職
業歴等に照して、にわかに信用できない。
 (3) 前記証人D19(二〇の九五〇〇以下)は、「牛乳に中和剤として工業
用第二燐酸ソーダを使用するのは感心しない。工業用第二燐酸ソーダは一応権威が
なく規格がないから。大した量使うんでないから、こちらでも分析する設備もない
し、する意思もないので。気楽に使えるからである。」旨供述している。
 (四) (1) 証人D51(本件工場濃縮係責任者、二五の一一六九九)は、
「私は、食品衛生に使うものだから、当然これは、試薬か局方であると自分自身も
思つていた。」旨の供述をしている。
 (2) 証人D52(徳島県衛生研究所技術吏員、元本件工場受乳係、一八の八
五三一以下)は、「私は、本件工場の試験係D53が当初B57器械店から第二燐
酸ソーダを購入したとき、同人に対し、買うなら試薬の特級か一級を買えと忠告し
たことがある。」旨供述している。
 (3) 証人D54(B1乳業株式会社技術部長)の各供述記載(一七の七六九
四、七七三三、二〇の九三〇四)、被告人A2の原審第六一回公判期日における供
述記載(三八の一六九二一以下、ことに一六九五二)及び押収にかかる証六二号の
一ないし六の各書面を綜合すると、B1乳業株式会社本社においては、傘下各工場
に対し、絶えず、品質が向上し、かつ、衛生的にも無害な製品が製造されるよう注
意を喚起し、ことに、牛乳中に工業用苛性ソーダを使用する乱暴さはどうしても避
けねばならぬと警告し、食品に添加する薬品は、まず局方品を使用すべきであり、
やむを得ないときは試薬一級をもつてこれにかえることができる旨指導し、もつ
て、原料及び添加物の選択には極めて慎重であるべきことを期待していたことが窺
われる。
 なお、右の点について、右証人D54(二〇の九三六六以下)は、B1乳業株式
会社が、原料牛乳に安定剤として添加する第二燐酸ソーダは、局方品もしくは試薬
一級を使用すべきであるとの基本方針をとつているのは、工業用第二燐酸ソーダに
有毒物質が含有されているというためではなく、製品の品質向上のためである、と
供述するので、按ずるに、なるほど、原料牛乳に第二燐酸ソーダを添加使用する
際、局方品もしくは試薬を選ぶことが、製品の品質向上に役立つことはいうまでも
ないが、もし、品質向上のためだけならば、試薬一級の方が局方品よりも純度が高
いのであるから、局方品よりも入手の容易であつた試薬一級だけを使用することに
すればよい筈であるのにかかわらず、まず局方品を使用すべきであるとしているこ
と、並びに第二燐酸ソーダの局方品、試薬及び工業用薬品を比較したとき、食品製
造業者が最も安心して使用できるのは局方品であることも否めない事実であること
等に徴すると、B1乳業株式会社の本社が、第二燐酸ソーダの如き薬品を牛乳に添
加使用する場合には、まず局方品を選ぶべきであり、場合によつては試薬一級をも
つてこれに代えることができるとしているのは、薬品製造業者の工業用第二燐酸ソ
ーダについての保証の程度が薄弱であることをも慮ばかつての措置であると解する
のが相当である。
 (五) 元来、その薬品が、局方品もしくは試薬であろうと、工業用薬品であろ
うと、それが第二燐酸ソーダである限り、人体に有害な程度の毒物を含有していな
いことは、前記第二の一の各項において詳細説示したとおりであり、第二の四の2
の各項に掲げた各証人らは、いずれも右事実を知つていながら、なおかつ、第二燐
酸ソーダを食品に添加するには、局方品もしくは試薬を使用すべきであつて、工業
用第二燐酸ソーダを使用するのは不見識であるというのであり、また、B1乳業株
式会社本社自身が前記説示のような趣旨をも含めて、局方品もしくは試薬を用うべ
き方針を確立していたこと等にかんがみると、右各証人ら及び同会社本社の幹部
も、「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤」のうちには、必ずしも第二燐
酸ソーダであることの明確な保証のない場合もあり得るから、非第二燐酸ソーダを
食品添加物として使用することを防止するため、工業用第二燐酸ソーダの如きもの
を、何らの確認検査をもすることなくそのまま使用することは、これを避けるべき
であると考えていたことが十分窺われるのである。
 三 (一) 我々は、日常生活において、有毒物を含んでいるかも判らないとい
うような不安感のある食物を摂取する筈はない。本来、食品として製造され販売さ
れている物は、外観に異状さえなければ、何らの不安もなくこれを飲食するであろ
う。ところが、もともと、食品として製造された物ではなく、他の用途のため製造
された物については、学理的にはこれを飲食しても無害であるとされていても、我
々は、その製造の由来や流通の過程を確かめない限り、これを飲食するには躊躇を
感ずるであろう。この不安感こそまさに前記にいう危険の予見なのである。
 (二) (1) 右の理は、本件の場合にもあてはまる事柄である。元来、食品
の製造加工にあたつては、有毒な添加物を使用する筈はないのであるから、もし第
二燐酸ソーダが元来人体に有害な物質であるというのであつたならばこれを使用す
るというが如きは論外のことであつて、要は本来無害であるとされている物質を添
加使用するにあたり、それに何等かの事情によつて含有されているかも判らない有
害物をいかにして防止するかにあるのであつて、その物質の添加使用につき些かで
も不安感が伴う以上、そのままではもはやこれを使用してはならないのである。
 (2) 食品の製造、加工にあたり、添加物として使用される薬品が相当多数に
存在することは想像に難くないところである。ところで、証人D55(B58製造
販売業を営むB59食品株式会社取締役会長、B58工業組合全国連合会理事長、
元大阪府B58工業組合理事長、一九の九〇七〇、二一の九七二六)、同D56
(B60化学工業株式会社技術課長、一九の九一〇二、二一の九七六一)の各供述
並びに押収にかかるJ1、J2、J3等に関する各解説書(証一〇一号の一ないし
三、一〇二号の一ないし八、一〇三号)を綜合すると、J2は、米国のB61社製
造にかかり、同社の日本総代理店B62商会の手によつて販売されているが、こと
にJ4は、ジュース類添加剤等として販売されている薬剤であり、J1は、B63
製薬株式会社製造にかかるものであり、ことにJ5は、冷菓、B58用品質改良剤
として販売されている薬剤であり、J3は、B60化学工業株式会社製造にかかる
B58等の品質改良剤として販売されている薬剤であり、右各薬剤は、燐酸塩類を
原料として製造されている薬剤であるが、B58製造業者においては、右各薬剤が
いずれも前記各薬品製造業者によつて食品に添加することを目的として製造された
薬剤であるため、何らの不安感を抱くことなくこれをB58製造の際添加使用して
いることが窺われるのである。また、前記B59食品株式会社においては、B58
を着色する際使用する色素は、食品用色素として販売されているものを購入してい
ることが認められるのであり、さらに、酒石酸及び枸櫞酸等は必ずしも局方品もし
くは試薬一級等を購入していないらしいのであるが、右各薬品はいずれも本来の目
的がB58製造のため使用される薬品であるために、必ずしも局方品や試薬を使用
していないことが窺われるのである。
 (3) 前記のように、本来、食品添加用として製造され市販されている物質
は、特段の事情、すなわち、外観上異状のあることが直ちに判明するような物質も
しくは信用のできないメーカーが製造した物であるような事情のない限り、食品製
造(加工)業者は何らの不安なくこれを使用するのである。蓋し、それは、食品製
造(加工)業者において、右のよらな物質は、その製造業者及び現実にその製造業
務に従事する者も、それが食品に添加されることを意識して、主原料もしくは副原
料の選択に留意し、場合によつてはその無害検査を実施したうえこれを製造してい
ること、並びに販売に従事する者もその積りで販売しているものであることを認識
しているからに外ならないのである。したがつて、右物質は、食品に添加してもよ
いとの強力な社会的保証が存するのであつて、食品製造(加工)業者が、これを食
品に添加使用するにあたり、何らの不安感も抱くことなく、化学的検査を実施しな
いのは至極当然のことである。このことは、恰も本件工場において製造された乳児
用調整粉乳を、何らの不安感も抱かないで飲用に供した多くの消費者の心境と全く
同一であると考えて差支えないであろう。
 (4) ところが、右と事情を異にし、もともと、食品添加用として製造された
ものではなく、食品添加物以外の他の目的に使用されるために製造したものを、食
品製造(加工)業者において、自己の業務達成の便宜上、これを食品に添加する場
合も起り得るのである。第二燐酸ソーダがまさにそのような薬品であることは、前
記第二の一の各項において詳細に説示したところによつて明白である。この場合に
おいて、右薬品を使用する者が一抹の不安を感ずるであろうことは、右(一)の後
段において説示した場合と同様である筈である。この不安感こそ、まさに本件で問
題になつている危険の予見に外ならないのである。右の点に関連して、前記証人D
54(一七の七七一一)は、第二燐酸ソーダは牛乳加工上普通に使用される薬品で
ある旨供述しているので、按ずるに、なるほど乳業界においては同証人の供述する
とおりであつたとしても、薬品業界においては、第二燐酸ソーダが食品ことに牛乳
に添加されることを知らなかつた者が多かつたのであるから、一般的に第二燐酸ソ
ーダが食品に添加されるものと考えられていたとはいえないし、まして、工業用第
二燐酸ソーダが食品に添加されるというようなことは殆んどの薬品製造業者が考え
ていなかつたことは、前記第二の一の2の(二)の項において説示したとおりであ
る。
 <要旨第四>(三) これを要するに、正常な第二燐酸ソーダを注文したのにかか
わらず、非第二燐酸ソーダが、しかも第二燐酸ソーダと表示されて納入
される(紛れ込む)というような過誤(危険)は、始終起るものでないことはいう
までもないが、しかし、前記のような工業用第二燐酸ソーダの性状から判断する
と、良識ある通常の社会人であるならば、当然右過誤(危険)はこれを予見し得た
ことであるといわなければならない。しかも、被告人らは、食品を製造するB1乳
業株式会社の他の工場及び本件工場の従業員として、長期間に亘り食品製造の業務
に従事しており、豊富な智識及び経験を有するのであるから、その立場において細
心の注意を払えば、通常の一般人に比し、より一層右危険の予見が可能であつたと
いわなければならない。のみならず、被告人A2は、後記第四の三の1の項におい
て説示するとおり、原審第六一回公判期日(三八の一六七六三)において、そのよ
うな事実はないのにかかわらず、試験係責任者をして一箱毎に外観検査、溶状検
査、官能検査を実施させた旨供述しているのであるが、右のような各検査は、その
薬品が試薬一級であるかどうか、その砒素含有量がいくらであるかどうかを確認す
るに足りる方法ではないのにかかわらず、事実に反してまで右のような供述をする
のは、同被告人としては、第二燐酸ソーダとして納入されてくる薬剤のうちには、
化学的には第二燐酸ソーダとは異なる薬剤もありはしないかということを懸念して
いたためであるとも推測し得るのである。
 (四) なお、B9製剤が前記第二の二の2の項において説示したとおり、従来
我が国の化学者の間で一度も研究の対象にもなつたことのないような特殊化合物で
あるB3産出物であつたのであるから、何人にもかかる物質の出現を予見し得ない
ことはいうまでもない。この点につき、原判決が、第二章第三の四の2の項におい
て、B9製剤の存在を知らないということの方がむしろ当然であつたと判示してい
るのは正当であるといわ<要旨第五>なければならない。しかし、ここで問題にして
いる予見の可能、不可能ということは、B9製剤それ自体についてでは
なく、第二燐酸ソーダの注文に対し、非第二燐酸ソーダが紛れ込みはしないかどう
かについての予見可能の問題であることは、すでに説示したところによつて明らか
であろう。蓋し、前記のような過誤によつて本件工場に納入されてくるかも判らな
い非第二燐酸ソーダである薬品は、外観が第二燐酸ソーダに似ていなければ誤つて
使用することはなく、外観上第二燐酸ソーダに酷似している場合に誤用を生ずるの
であつて、しかもこの種薬品は多数に存在する筈であるから、その性質は全く不明
であることに帰し、性質が不明であるということになると、いかなる成分からなる
薬品であるかも詳らかでないわけであつて、そのような薬品にはいかなる毒物を含
有しているかも判らないことは想像に難くないからである。
 もつとも、当審証人D43の供述によると、B9製剤は、昭和三〇年当時施行さ
れていた毒物及び劇物取締法(昭和二五年一二月二八日法律第三〇三号)別表第一
の八号所定の「砒素、その化合物及びこれらのいずれかを含有する製剤」にあたる
というべく、したがつて、同法第二条第一項にいう毒物に該当すると解するのを相
当とする。なお、証人D57(元厚生省I11部長)の尋問調書(二六の一二四〇
〇)によると、本件発生当時厚生省薬務局は、右B9製剤と同一性質の物質である
B3産出物が自然物であつて右製剤には該当しないことを理由として、それは同法
の取締の対象とならないとの見解をとつていたことが窺われる。ところで、B9製
剤が同法に定める毒物としての表示をされないまま、本件工場に納入されたもので
あることは本件記録によつて明らかであるが、記録によると、B9製剤はまがりな
りにも清缶剤等の原料としてならば使用できたのであり、使用方法によつては、さ
ほど猛毒性を有した毒物であつたとも認められないから、B9製剤が毒物であつた
からといつて、前記危険の予見が不可能になるとはいえない。
 五 本件工場従業員らの業務上の注意義務。
 1 以上各項において説示したように、本件工場の従業員らは、B2に対し、正
常な工業用第二燐酸ソーダを発注したのに、三回に亘り、非第二燐酸ソーダである
B9製剤が納入され、右薬剤には多量の砒素を含有していたのにかかわらず、その
事実を知らないでこれを原料牛乳に添加使用するに至り、人体に有害な程度の砒素
を含有する乳児用調整粉乳を製造するに至つたこと、工業用第二燐酸ソーダの発注
に対しては非第二燐酸ソーダが納入されこれを使用するに至る危険性があつたこと
並びに右危険性は被告人らにとつては予見が可能であつたことが明らかになつたの
であるが、果してそうだとすると、本件工場の従業員らは、いかなる措置を講ずれ
ば、B9製剤の原料牛乳への添加使用を防止し得たかを検討しなければならない。
 2 (一) まず第一に、本件工場の従業員らが、乳児用調整粉乳の製造にあた
り、原料牛乳に第二燐酸ソーダそのものを添加使用ざえしなければ、B9製剤の使
用を防止し得たことはいうまでもない。ところで、乳児用調整粉乳は第二燐酸ソー
ダを添加しなければ製造することができないというわけではない。現に、本件発生
当時B1乳業株式会社傘下各工場のうち乳児用調整粉乳を製造していたのは、平
塚、松本及び徳島の三工場であつたが、(もつとも、昭和三〇年三月頃までは、右
三工場の外C8工場においても乳児用調整粉乳を製造していたが、同年四月以降は
その製造を中止していた。一七の七七〇四及び同七六七五以下参照)、そのうちで
第二燐酸ソーダを添加使用していたのはC1工場だけであつたことは記録によつて
明らかである。しかし、第二燐酸ソーダを原料牛乳に〇・〇一考の割合で添加使用
する限りにおいては、第二燐酸ソーダが人体に有害であるとはいえないのであつ
て、これを原料牛乳に添加使用することは、原判決が第二章第一の二の1の項にお
いて説示しているとおり、乳製品製造業者間では一般に承認されていたことであ
り、たとえ、それが乳児用調整粉乳の溶解度を向上させるためやむなくとられる措
置であつたとしても、使用自体はこれを咎めることはできない筋合であるから、被
告人らの本件業務上の注意義務を論ずるにあたり、この点は問題にならないという
べきである。
 <要旨第六>(二) (1) 次に考えられる方法は、本件工場の従業員らが、第
二燐酸ソーダを添加使用するにあたり、(イ)局方品を発注購入して使
用するか、(ロ)試薬一級のものを発注購入して使用するか、もしくは、(ハ)信
頼するに足る第二燐酸ソーダの製造業者に対し、食品に添加する旨の用途を告げて
一定の規格を示し、その製造方を依頼し、その製品については、第二燐酸ソーダで
あること(品名)、成分規格及び製造業者の氏名を表示させ、封緘を施ざせたう
え、製造業者から直接本件工場へ納入させた薬品を使用するか(特別注文であ
る)、以上(イ)、 (ロ) 及び(ハ)いずれかの方法(以下規格品発注又は使
用と略称する)を選ぶということである。なお、この点については、本件公訴事実
では、「人体に有害な粗悪品の入荷防止」という表現を用い、原判決では、「第二
燐酸ソーダの発注における過失」という形式で判示しているが、結局は、いかなる
第二燐酸ソーダを使用すべきであつたかが問題なのであつて、勿論、規格品を使用
するためには、その前提として規格品を発注してこれを購入するということが先決
問題であるから、右公訴事実の記載も原判決の判示もその意味に理解すべきである
ことはいうまでもない。
 (2) ところで、検察官は、被告人らの業務上注意義務の内容として、公訴事
実で、「局方品、試薬品など成分規格の明らかな薬剤を指定して注文し、或いは製
造元・製造過程・仕入経路等を調査し、成分の分析表を添附ざせるべきである。」
と主張しているのである。局方品については問題がない。試薬については、特級と
一級との区別のあることは前記第二の三の5の(一)の(2)の項で説示したとお
りであるが、工業用第二燐酸ソーダの発注に対し非第二燐酸ソーダの入荷を避ける
目的からいえば、試薬の特級であろうと一級であろうと別に差異があるとは思われ
ないから、特級まで注文する必要はなく、一級で足ると認めるを相当とする。製造
元・製造過程・仕入経路等を調査し、成分の分析表を添附させるというのは、要す
るに、信用のおける第二燐酸ソーダのメーカーに特別注文をなす趣旨であると解せ
られるから、非第二燐酸ソーダの入荷を防止するためには、前記に説示したような
方法で特別注文をするのが最も適切な方法であるというべきである。
 (3) さて、第二燐酸ソーダの発注にあたり、よし規格品を指定して注文した
としても、概念的には、前記過誤の起り得ることの考えられるのは、前記第二の三
の5の(二)の項において説示したとおりである。蓋し、たとえ、本件工場のB2
に対する発注が規格品を指定したものであつたとしても、受注者であるB2におい
て、注文の趣旨を取違えて工業用第二燐酸ソーダを納入することもあり、その工業
用第二燐酸ソーダ中には非第二燐酸ソーダもあり得るからである。しかし、規格品
を指定して注文したのにかかわらず、工業用第二燐酸ソーダが納入されたときは、
本件工場の従業員らがこれを原料牛乳に添加使用するにあたり、その外観検査をな
すことによつて、それが注文品である規格品と相違することを容易に発見し得る筈
であるから、規格品を発注する限り、非第二燐酸ソーダを使用する過誤の如きは、
これを避け得たというべきであつて、規格品の発注は決して無意義ではなく、工業
用第二燐酸ソーダを発注してこれを使用する以上、非第二燐酸ソーダ使用の危険は
避け難いといわなければならない。もし、万一、規格品の発注に対し、局方品もし
くは試薬等の表示のある薬品が納入され、しかもそれが非第二燐酸ソーダであると
いうが如き事態を生じたときには、非第二燐酸ソーダの使用を防止することはでき
ないわけであるが、もはやこの場合には本件工場の従業員らの過失責任を問擬し得
ないことはいうまでもない。
 <要旨第六>(三) (1) 右の外考えられる方法は、本件工場の従業員らが、
前記(二)の(1)に記載した規格品以外の第二燐酸ソーダを、原料牛
乳に添加使用する前、各容器毎に、それが間違いなく第二燐酸ソーダであるかどう
かを確認するため、適切な化学的検査を実施するということであろう。
 (2) ところで、右にいう適切な化学的検査の実施については、本件工場の検
査設備及び検査についての態度を検討する必要がある。前記証人D54(七の七六
九四)、証人D53(元木件工場試験係責任者、一八の八三三四)及び同D58
(本件工場試験係責任者、一六の七三九六)の各尋問調書、並びに当審第一一回公
判期日における被告人A2の供述を綜合すると、次の各事実が認められる。すなわ
ち、B1乳業株式会社本社においては、技術部(研究、工務、検査の三課)があ
り、昭和二九年九月頃からは右D54が技術部長となり、同人の指揮監督下で、検
査課において、製品ことに乳児用調整粉乳については、前記各工場で生産したもの
のうち、一ロット(一パッチ)毎に一缶宛取寄せ、水分、脂肪分、バクテリア及び
ビタミン等の微量成分その他各種の詳細な検査を実施していたけれども、元来食品
に有毒物を添加する筈がないことを理由として、製品の毒物検査は全く実施してい
なかつたのである。各工場とも共通に使用する副原料等で本社において購入するも
ののうち、必要があるものについては、検査課で検査をしたうえ各工場に送付して
いた。第二燐酸ソーダについては、局方品もしくは試薬を使用するのが建前である
ので、検査課においてこれを検査するようなことはしていなかつたのである。本件
工場においては、製造課に試験係が設けられており、昭和二五年五月頃から昭和二
八年四月一五日頃までは、D53(K1大学K2学部卒業)が、同年同月二八日頃
以降はD58(K3専門学校K4学科卒業)が、それぞれ試験係責任者として勤務
しており、右各責任者の下に少ないときは一名多いときは三名の補助事務員が配置
されていたのであり、製造課長である被告人A2の指揮監督下にあり、物的施設の
面においても、各種検査ことに化学的検査に必要な器具、道具類も一応設備されて
いたことが窺われる。右試験係は、本社技術部検査課の規模を小さくしたようなも
ので、原料牛乳の細菌検査及び成分検査並びに製品ことに乳児用調整粉乳の成分、
内容量及び細菌等の各検査は、いずれも相当精密に行なわれていたようであるが、
副原料については、検査を行なつていたものもあるけれども、全部について丹念に
検査をするというわけではなく、ことに毒物検査についてはこれを実行していなか
つたし、第二燐酸ソーダについては殆んど検査を行なつていなかつた。もつとも、
毒物検査については、元来食品に有毒物を添加する筈がないのであるから、無害な
ものを選択して使用する以上、これを実施しないのは寧ろ当然のことというべきで
あろう。
 (3) さて、前記第二の二の2項において説示したとおり、B9製剤の性質が
化学上第二燐酸ソーダと著しく性質を異にする物質であること、当審における鑑定
人D59(K5大学教授)及び同D60(I7大学教授)の各鑑定の結果と当審証
人D59(第七回公判)及び同D60(第八回公判及び第九回公判)の各供述とを
綜合して認められるとおり、或る一定の化学的検査を実施すれば、B9製剤と第二
燐酸ソーダとの識別は可能であつたこと並びに右に認定したように、本件工場にお
いては一応化学的検査を実施し得る検査機関を有していたこと等に徴すると、被告
人A2が、B9製剤を原料牛乳に添加使用する前、本件工場の試験係をして、B9
製剤が第二燐酸ソーダであるか否かを確かめるために、適切な化学的検査を実施さ
せていさえすれば、その目的を達し得たことが窺われる。そうすると、右化学的検
査の実施によつて、B9製剤の使用は一応防止し得たというべきである。ところ
で、右両鑑定人の鑑定の結果は、必ずしも一致せず、D59鑑定人は、B9製剤と
第二燐酸ソーダとの識別は相当困難であつたとするに対し、D60鑑定人は、右両
者の識別は容易であつたとするのであるが、いずれにしても識別が不能であるとい
うことではない。右両鑑定人の各鑑定の結果及び右両証人の各供述を仔細に検討す
るに、D59鑑定人の鑑定の結果は、やや慎重に失する嫌いがあるし、D60鑑定
人の鑑定の結果は、或る程度割り切り過ぎた憾みがないではない。
 <要旨第六>(四) (1) 以上説示したところによつて明らかなように、本件
工場の従業員らは、乳児用調整粉乳を製造するにあたり、原料牛乳に安
定剤として第二燐酸ソーダを添加使用するときには、B9製剤の如き非第二燐酸ソ
ーダの使用を避けるため、まず第一に前記(二)の(1)に記載したような規格品
を発注購入して使用すべき業務上の注意義務があつたのであり、右注意義務に違反
して規格品外の工業用第二燐酸ソーダを使用するときには、B9製剤使用防止のた
めに、使用前前記(三)の(1)に記載した適切な化学的検査を実施すべき業務上
の注意義務があつたと解するを相当とする。
 (2) もし、本件工場において、工業用第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加使用
するにあたり、右薬品の各容器毎に、常に必ず前記の適切な化学的検査を実施する
としたならば、これから添加使用しようとする薬品が第二燐酸ソーダであることが
必ず確認できる筈であるから、B9製剤の使用を防止するためには、右化学的検査
を実施すればよい筈であつて、製品の質の向上を図るためというならばともかく、
本件業務上過失致死傷の刑責の有無を吟味する点だけから考えると、右化学的検査
の外に、前記の規格品使用の業務上の注意義務まで要求するのは不必要な注意義務
を課する結果にはならないかとの疑問が生じないでもない。しかし、前記に説示し
たとおり、B1乳業株式会社本社においても、第二燐酸ソーダの如き薬品を添加物
として使用するときには、局方品もしくは試薬等の成分規格の明らかなものを使用
することを基本方針としており、工業用第二燐酸ソーダの化学的検査を実施したう
え、これを使用するというようなことは全く予想もしていなかつたし、傘下各工場
に対しその旨通達し、そのような指導をしていたこと、前記鑑定人D59の鑑定の
結果によると、検査方法の選択如何によつては、B9製剤と第二燐酸ソーダとの識
別は必ずしも容易でない場合が起り得ることも窺われること、本件工場の試験係
が、物的及び人的施設の面から判断して、B9製剤が第二燐酸ソーダであるか否か
を識別するが如き目的のためには必ずしも内容の充実した検査能力を有していたと
は認められないこと、並びに本件工場は、乳製品の製造自体については優秀な設備
や能力を有していたとしても、薬品については専門外というべきであるから、むし
ろ薬品の専門家である第二燐酸ソーダの製造業者に一任して規格品を使用するのが
安全策であり、その方法を遵守することこそB9製剤の使用を防止する適切な手段
であつたと認められること等に徴すると、本件工場の従業員らには、まず第一義的
に規格品を発注購入して使用すべき業務上の注意義務があり、右注意義務に違反し
て敢えて工業用第二燐酸ソーダを使用する場合には、さらに、化学的検査義務もあ
つたと解するのが相当であつて、本件工場の従業員らに右二個の業務上の注意義務
を認めることは、決して矛盾する考え方でもないし背理でもない。
 (五) 本件工場の従業員らに規格品発注(使用)義務及び化学的検査義務のあ
つたことは、前記説示のとおりであるが、本件工場の従業員らが第二燐酸ソーダー
を原料牛乳に添加使用した最終日とされている昭和三〇年八月二三日以前におい
て、右の点に関する食品衛生法による規制はどうであつたかを検討することとす
る。食品添加物についての同法の取締規定は、同法四条二号、六条及び七条等であ
るところ、右各法条は、本件発生の前後を通じて同一であつて、何ら変更せられて
いないのである。
 前記証人D41(六の二五三八、九の四一一九、一一の五〇五八)、同楠木正康
(二六の一二四〇〇)及び証人D61(厚生技官、厚生省環境衛生局I12課勤
務、二六の一二五六八)並びに押収にかかる「食品に添加する化学薬品の規格に関
する通牒の写送付について」と題する書面中、「飲食物に添加する石灰類の取扱に
ついて」、「中華麺製造に使用するかん水の取扱について」、「豆腐製造に使用す
る硫酸カルシウムについて」、「食品衛生法施行規則及び告示の改正について」と
それぞれ題する各書面(証六五号の一ないし四)を総合すると次の各事実が認めら
れる。
 すなわち、乳製品に混和する添加物は、同法六条に規定する化学的合成品及び調
整粉乳における厚生大臣の承認を受けた微量栄養素以外は、人体に有害でない限
り、特に規格基準は制定されていなかつたのである。本件発生以前においては、乳
製品製造等についての取締の立場にあつた厚生省当局は、同法六条にいわゆる化学
的合成品は、化学的手段によつて新しい物質を作り、もしくは新しい物質に変化
(分解以外の一切の化学変化)させてできた物質であるとし、第二燐酸ソーダは、
ビタミンB1、砂糖、食塩等と同様に天然物であると解していたため、右の化学的
合成品には該当しないと解釈していたのである。したがつて、第二燐酸ソーダを食
品に添加するについては、取締法規上は局方品等の規格品を使用すべきことを命じ
た規定はなかつたのである。
 ところが、本件発生直後である昭和三〇年八月三〇日厚生省令第一五号をもつ
て、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和二六年一二月二七日厚生省令第
五二号)の一部を改正して、乳製品のうち、無糖練乳、加糖練乳、加糖脱脂練乳、
全粉乳、脱脂粉乳、加糖粉乳及び調整粉乳には、薬事法による公定書に収載されて
いる医薬品であつて公定書に定める基準に適合したもの、または厚生大臣の承認し
たもの以外のものは、添加物として使用してはならないと定めたのであつて、その
後においては、第二燐酸ソーダ等も同法六条の化学的合成品に該当するとの立場を
とるに至つたのである。右省令の改正は、従来の取締法規の不備の点を整備したも
のであるというべきであろう。
 同法六条によれば、化学的合成品である以上、人の健康を害う虞のない場合とし
て厚生大臣が定める場合を除いては、これを食品添加物としては使用できないので
あるが、第二燐酸ソーダを化学的合成品と解しない限りは、厚生省令による成分規
格の制定の行なわれることはなかつた筈であり、また、第二燐酸ソーダが同法四条
二号本文にいわゆる有毒な又は有害な物質が含まれもしくは附着しているものと解
せられない以上は、同条による使用等の禁止の対象にもならないといわなければな
らない。しかし、第二燐酸ソーダが天然に存在する物質であるとしても、現実に薬
品業界に出廻つている第二燐酸ソーダは化学的に製造されるのであるから、化学的
合成品を右のように解釈することについては、疑問がないわけではないのである
が、尠なくとも本件発生以前においては、厚生省当局は右のように解釈していたこ
とが窺われるのである。
 元来、化学的合成品である食品添加物の品質については、同法七条一項に基づ
き、厚生大臣がその成分規格を告示すべきであるが、右のような薬品は多数存在
し、全部について一々検討することが容易でないため、厚生省としては、規格の定
められていないものについては、局方品、日本工業規格の試薬一級以上のものを使
用するよう指導していたのである。そして、前記化学的合成品に該当しないため、
厚生大臣がその成分規格を定めない薬品、すなわち、第二燐酸ソーダ等について
は、食品製造業者の良識に基づく自主規制に委ねられていたと解せられるのであ
る。したがつて、B1乳業株式会社本社が、第二燐酸ソーダ等の食品添加薬品につ
いては、局方品を使用するのを建前としていたことも決して理由のないことではな
い。(前記第二の四の2の(四)の(3)参照)。しかし、厚生省当局としても、
規格は制定していないにせよ、薬品を食品に添加するのであるから、なるべく局方
品、試薬一級もしくはこれに準ずる純良な薬品を使用することを期待し、都道府県
の食品衛生取締担当の係官等が集つた会議の席等においては右の旨を伝え、各食品
製造業者を指導するよう希望していたことも窺われるのである。そうすると、形式
的には、本件発生を契機として、乳製品に安定剤として混和使用する第二燐酸ソー
ダ等についての取締態度を豹変したかのように見えるけれども、実質的には、従来
厚生省当局が乳製品製造業者の良識に期待していたことを、法によつて規制したと
も見られないことはないのである。
 本件工場の従業員らが、B9製剤を原料牛乳に添加使用した当時においては、食
品衛生法によつては、規格品を使用すべきことを義務づけられていなかつたこと
は、前記説示によつて明らかであるが、しかし、そうであるからといつて直ちに規
格品発注(使用)義務がなかつたと速断することはできない。本件工場の従業員ら
は、行政上の取締規則に従つていたというだけでは、業務上の一切の注意義務を尽
したものということはできない。(大正三年四月一六日大審院判決、刑録二〇輯五
七四頁、同年四月二四日大審院判決、刑録二〇輯六一九頁、昭和三二年一二月一七
日最高裁第三小法廷決定、最高裁判例集一一巻一三号三二四六頁各参照)。
 3 (一) 或いは、稀にしか発生しない過誤、すなわち、工業用第二燐酸ソー
ダの発注に対しては非第二燐酸ソーダが納入されるかも判らないというようなこと
まで予想して、本件工場の従業員らに規格品使用義務を課したり、化学的検査義務
があるとするのは、失当であるという議論も考えられないことはない。工業用第二
燐酸ソーダの発注に対し非第二燐酸ソーダの納入されるというような危険は常に発
生することでないことはいうまでもないが、しかし、極めて稀にしか発生しないこ
とであると言いきれるものではなく、往々発生するものであることはすでに説示し
たところによつて明らかである。論者のいうように、かりに、右危険が稀にしか発
生しないものであるとしても、その予見が可能である以上、食品製造業者が右危険
を無視してよいかどうかは問題である。
 我々は、物質文明の進歩発達にともない、社会生活の環境が複雑になればなるほ
ど、常に何らかの原因による多くの危険に直面しているといつても過言ではない。
我々は、危険の発生率の高いときにはこれを避けるために万全の策を講ずるであろ
うが、これに反して危険の発生率が極めて小さいときには、これを無視して行動す
ることもあるであろう。しかし、危険の発生を無視してまで敢えて行動するのは、
これを無視しなければ社会生活に著しく支障が起る場合であるからであつて、危険
の発生を無視することなく、それを防止する措置をとつても、このことが毫も社会
生活に影響を及ぼさないときには、よし危険発生率が小ざくても、これを無視しな
いで慎重に行動するのが良識ある一般人の態度であろう。例えば、大暴風雨で視界
の全くきかないような悪天候の場合には航空機の運行は中止されるであろうが、気
象条件としては飛行には必ずしも適当ではなく、天候のために、極めて小さな確率
ではあるが、危険の発生が予見できてもなお敢えて運行するのは、そうしないと航
空機の運行できる日は極めて尠なくなつて、航空事業の本来の目的を達し得ないこ
とになるからに外ならない。しかし、我々は、危険の発生率を最少限度に食いとめ
るようにしなければならないのは当然のことであつて、それが人間の知性なのであ
る。
 さて、本件の場合においても、危険の発生率が小さいからということを理由とし
て、これを無視して行動することが果して許されるであろうか。本件の場合におい
ては、右にいう危険発生の避止は極めて容易であつたのである。すなわち、規格品
を使用することにより、飛行条件に最も適した天候のよい日だけの運行を選択する
ことができたのであり、また、そうすることにより本件工場の業務には何らの支障
も起らなかつたのであつて、かかる状況の下にあつたのにかかわらず、工業用薬品
を使用することにより、危険な悪天候の日の運行までする必要は毫もなかつた筈で
あるといわなければならない。規格品を使用したり、簡単な化学的検査をするため
に、莫大な資金を要するわけでもないし、複雑な器具、器械を必要としたわけでも
なく、多くの労働力を必要としたわけでもない。ただ、本件工場の従業員らの細心
の注意が必要であつただけである。まして、食品製造業者は、食品に有害物を混入
してはならないことはいうまでもないことであつて、そのために極めて高度な注意
義務が要求されるのは当然のことであるから、たとえ危険の発生率が小さかつたと
しても、危険の発生が予見できる以上、これを防止するため、規格品を使用した
り、適切な化学的検査をなすべき業務上の注意義務があるとしても、毫も本件工場
の従業員らに苛酷な注意義務を課することにはならないというべきである。
 (一) (1) なお、本件公訴事実中には、「人体に有害な物質の混入を完全
に抑止すべき業務上の注意義務がある」と記載されており、その解釈をめぐり、原
審において釈明が繰返されたのみならず、当審においても訴因に関連して検察官か
ら意見が述べられているので、右の点について当裁判所の見解を明らかにしておく
ことも無意義ではない。
 (2) 食品は、人間が医薬として摂取するもの以外の、すべての飲食物のこと
であつて(食品衛生法二条一項参照)、人間が生きてゆくため、日常絶対不可欠の
ものであり、生命維持の要素をなすものであるから、必ず適当な栄養価値を有する
とともに、人の生命、身体、健康に危害を及ぼすようなものであつてはならない。
もし、或る食品が、人体に有害な程度の毒物を含有していたり、病原微生物によつ
て汚染していたり、または腐敗によつて変質していたとしたならば、栄養価がいか
に優れた食品であつても、そのような食品は、もはや食品としての存在価値がない
だけでなく、その存在を許してはならないのである。したがつて、食品製造(加
工)業者及びこれに従事する者は、食品の製造、加工にあたつては、その食品の栄
養価を確保するだけでなく、絶えず、食品の原材料、添加物、器具及び容器、包装
等の衛生面に留意し、飲食物の変質、汚染及び有毒物の混入を防止し、前記のよう
な不良飲食物によつて惹き起される虞のある危害の発生を未然に防止しなければな
らないこと、すなわち、有害物混入防止義務のあることは、条理上当然のことであ
つて、特に食品衛生法の規定を侯つまでもないことである。
 しかし、このような抽象的注意義務は、一般家庭の主婦が食物を調理するにあた
つても用いなければならない注意義務と同一であるというべきである。さらに、有
害物混入防止義務という点だけから考えると、このような義務は、食品製造業者及
び食物を調理する一般家庭の主婦だけでなく、一般人も負担している義務であると
いうべく、過失犯に特有なものでなく、故意犯にも共通することであつて、もし故
意に食品に有害物を混入して人に致死傷の結果を発生させれば殺人罪もしくは傷害
罪を構成するのであり、過失によつて食品に有害物を混入させて人に致死傷の結果
を与えれば過失致死傷罪を構成するのである。したがつて、食品製造業者の業務上
過失致死傷罪の責任の有無を論ずるにあたつて、右抽象的な有害物混入防止義務を
恰も業務上注意義務それ自体であるかのように考えることは誤りであるといわなけ
ればならない。
 (3) およそ、業務上過失致死傷罪における業務上の注意義務は、被告人ら
が、具体的に、いかなる作為をなすべきであつたか、もしくはいかなる作為を避止
すべきであつたのにこれを避止しなかつたかという形で取上げられるのである。本
件で問題になつているのは、第二燐酸ソーダの添加使用によつて、乳児用調整粉乳
中に人体に有害な程度の砒素(毒物)を含有するに至つたことを防止するために、
被告人らが、具体的に、いかなる作為をなすべきであつたか、もしくはいかなる作
為を避止すべきであつたかということが、本件業務上過失致死傷罪におけるいわゆ
る業務上注意義務の内容なのである。すなわち、検察官の主張する規格品発注(使
用)義務及び化学的検査義務が、まさに右本件業務上注意義務に該当するのであ
る。言葉を換えていうならば、有害物混入を防止する目的のために、規格品発注
(使用)とか化学的検査という業務上の注意義務が要求されるのである。もし、食
品製造(加工)業者は、一切の有害物混入防止義務があるから、右具体的な各注意
義務があるというよらなことがいえるとすると、それは、自動車の運転者は、交通
事故の発生を防止すべき注意義務があるから、徐行義務があつたというのと変りは
ないことになるであろう。右徐行の注意義務は、例えば、当該場所が小学校の校門
前であり学童の下校持であつたから、学童が何時飛び出してくるかも判らないとい
う状況にあつたということを基本事実として発生するのであつて、一般的、抽象的
な交通事故防止義務を直接原因として発生するのもではない。本件でも、検察官の
主張する「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤」中には、検察官主張のよ
うな理由で有害物を含有しているかも判らないということを、注意義務発生の基本
事実として、規格品発注(使用)義務や化学的検査義務が具体的に発生するのであ
つて、抽象的、一般的な一切の有害物混入防止義務の存在することを直接的な基本
事実として、右具体的な各注意義務が発生するのではない。
 然るに、検察官が、公訴事実中に、恰も一切の有害物混入防止義務が本件の業務
上注意義務であるとなし、これが基本事実となつて、規格品発注義務や化学的検査
義務が発生するかのような記載をしているのは妥当でなく、却つて無用な論争を招
いた原因となつたわけである。しかし、前記第一に掲げた本件公訴事実によると、
「殊に右薬剤が本来食品に使用される性質のものではなく、……往々にして人体に
有害な砒素その他の物質を多量に含有する粗悪品のある場合もあるから」というこ
とを基本事実として、規格品発注(使用)義務や化学的検査義務のあることが摘示
されているから、本件訴因の明示としては要件を充足しているというべきであつ
て、公訴事実中に、「人体に有害な物質の混入を完全に抑止すべき業務上の注意義
務がある」と記載したところで、その一切の有害物混入防止義務たるや前記に説示
した程度の意義しか有しないのであるから、右のような記載があるからといつて、
直ちに訴因の特定を欠くに至るとは考えられず、したがつて、公訴提起の手続が無
効であるといえないことはいうまでもない。
 六 これを要するに、検察官の主張する前記第二の一の1及び同二の1の(一)
ないし(三)記載のような理由によつては論旨の採用できないことは、前記第二の
一及び二の各項において詳細に説示したところによつて明らかである。しかし、本
件工場の従業員らにおいて、工業用第二燐酸ソーダを発注するきとには非第二燐酸
ソーダが納入され、これを原料牛乳に添加使用する虞があり、しかもその予見が可
能であつたから、本件工場の従業員らには規格品発注義務があると認めるのを相当
とすべきことは前記第二の三ないし五の各項で詳細に説示したとおりである。然る
に、原判決は、第二章第三の四の2の項において、第二燐酸ソーダの発注に対し非
第二燐酸ソーダの納入ざれる虞のあることを一応肯定しながら、この点については
明確な判断を示していない。しかし、原判決が規格品発注義務の存否について判示
した判文の全趣旨に徴すると、右のような場合には客観的に到底予見が不可能であ
つたと判断したものであると認めざるを得ない。もつとも、この点に関する原判決
の判断の論理には一貫しないものがあることは、後記第四の五の項において説示す
るとおりである。そして、原判決は、第二章第三の五の項において、本件工場の従
業員らが、B2から第二燐酸ソーダを購入しようとする際には、「第二燐酸ソーダ
を納入してもらいたい。」といつて注文する以上、それに付け加えて、人体に有害
な粗悪品の入荷を防止するため、規格品を発注すべき業務上の注意義務が注文者側
にあるとは、こと亜砒酸による傷害という点に関する限り、到底考えることのでき
ないところである、と判断して、本件工場の従業員らの規格品発注義務を否定した
のである。してみると、原判決は、事実を誤認し、ひいて法令の解釈を誤つた違法
があるといわなければならない。
 第三 控訴趣意第二点(控訴趣意補充書第一の二)について。
 一 所論は、被告人らが、B2に対し、第二燐酸ソーダを注文する際、規格品を
明示して発注したか否かを決するにあたり、原判決が、B2と本件工場との間の売
買取引価格は、当時の第二燐酸ソーダ試薬一級品の一般小売価格と近似しているこ
とのみを挙げて、本来比較対照されるべき価格は、B2の試薬一級の小売価格であ
ることを看過し、B2から本件工場に対し九回に亘り納入された正常な第二燐酸ソ
ーダの品質が、実質的には局方品や試薬品に比しても全く遜色のないものであつた
と認定し、試薬一級を注文したのではないかと推測されるとしたのは失当である
し、また、論旨一なしい五で指摘する各事実等も併せ考えると、本件工場側の各証
人及び被告人A2の各供述は信用できなく、B2側の各証人の供述は措信できるの
であつて、同証人らの各供述によると、被告人らが、B2に対し、当初第二燐酸ソ
ーダを注文する際に、試薬一級の指定はしなかつたのであり、したがつて、B9製
剤の発注の際も、工業用第二燐酸ソーダの納入を求めていたと認定し得るにかかわ
らず、原判決は、何ら合理的な理由を示さないで、B2側の各証人の供述を排斥
し、右の事実を認めるに足る証拠がないとしたのは、採証の法則を誤り、ひいて事
実を誤認したものであるというのである。
 二 原判決の立場、すなわち、本件工場の従業員らが、B2から第二燐酸ソーダ
を購入しようとする際、規格品を指定して注文すべき業務上の注意義務はないとの
考え方に立つときは、その注文の仕方がどうであつたかを検討することは、被告人
らの本件過失責任の有無を判断するにつき無意味であることは、原判決が説示する
とおりである。しかし、本件工場の従業員らに、第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加
使用する際、規格品を発注購入して使用すべき業務上の注意義務のあることは、前
記第二の五の各項において説示したとおりであるから、本件工場従業員らのB2に
対する第二燐酸ソーダの注文の仕方は、原判決のいうように無意義なことではな
く、極めて重要なことであるといわなければならない。よつて、記録を精査し、以
下順次検討することとする。
 三 1 原判決第二章第一の二の2の(二)掲記の各証拠を綜合すると、次の各
事実が認められる。すなわち、本件工場が、乳児用調整粉乳の製造にあたり、安定
剤として第二燐酸ソーダを本格的に添加使用するようになつたのは昭和二八年四月
以降であるが、本件工場からB2に対する第一回目の第二燐酸ソーダ発注の経緯
は、同年同月上旬頃、被告人A2が製造課副主任D62に第二燐酸ソーダの購入方
を命じ、同人は事務課資材係D23にこれを伝達し、同人はB2の外交員D63と
B2の社長D22に交渉し、第二燐酸ソーダ三五瓩入りの木箱二個を注文して第一
回目の取引が行なわれるようになり、第二回目以降の取引については、被告人A2
の指示により、右D23からB2のD22社長もしくは店員に対し、電話により、
「第二燐酸ソーダ木箱入り二箱を納入して貰いたい」という旨を伝えて第二燐酸ソ
ーダの発注をし、その結果、本件工場とB2との間には、原判決添附の別表第四記
載のとおり、昭和二八年四月一一日頃から同三〇年七月二六日頃までの間、前後一
三回に亘り、同表記載の数量の薬剤が同表記載の代金で売買されたのであるが、第
一回目ないし第九回目及び第一二回目の各取引は、いずれもB7化学工業株式会社
製造にかかる正常な工業用第二燐酸ソーダ(以下正常薬剤と略称する。原判決五〇
丁裏九行目参照)であつたけれども、第一〇回目である昭和三〇年四月一三日頃の
分、第一一回目である同年同月三〇日頃の分、第一三回目である同年七月二六日頃
の分は、正常な第二燐酸ソーダではなく、B9製剤であつたことは、すでに前記第
二の一の3の(二)の(3)の(ロ)の項で説示したとおりである。
 2 さて、本件で問題になつているのは、右第一〇回目、第一一回目及び第一三
回目のB9製剤の各取引であるから、本件工場の従業員らに注文義務の違背があつ
たかどうかの点が取上げられるのも、右三回の取引に限られるといわなければなら
ないのであり、その各注文に際し、本件工場の従業員らは、右1に説示したとお
り、特に局方品もしくは試薬一級のものを納入せられたい旨、すなわち、形式的に
は規格についての明白な指定はしていなかつたことが認められる。
 ところで、本件工場がB2との間に第二燐酸ソーダの取引をしたのは、前記のと
おり、約二年間で前後一三回に及んでいることに徴すると、B9製剤の納入せられ
た第一〇回目、第一一回目及び第一三回目の各取引の行なわれた際の注文の実質的
内容は、第一回目の注文の態様と無関係であるとはいえないが、しかし、第一回目
の注文のとき継統的な取引契約を締結したわけではなく、各取引はそれぞれ別個独
立の取引であるし、第六回目と第七回目との各取引の間には五ケ月以上も経過して
いたことがあること等から考えると、第一回目の注文の際附せられていた条件がそ
のまま第一〇回目の注文にも附せられていたと解するには疑問があり、むしろ、第
一回目の注文にその後の取引間に生じた客観的事情をも加味して、B9製剤が納入
せられた際の発注が規格品を指定して行なわれた注文であつたか否かを判断すべき
である。
 四 1 本件工場の従業員らがB2に対し第一回目の注文をしたときの交渉の経
過については、被告人A2(三八の一六九二一)、証人D62(本件工場製造課副
主任、一六の七一四三)は、資材係のD23に、局方品の大箱三五瓩入り二箱を注
文せよと命じたが、薬屋に局方品の大箱入りは扱つていないというので、試薬三五
瓩入り大箱二個の注文を命じたとそれぞれ供述し、前記証人D23(一六の七三〇
八)は、B2の店員D63に対し、局方品の第二燐酸ソーダを注文したのである
が、D63は、「B2では大箱入りの局方の第二燐酸ソーダは取扱つていないが、
試薬一級なら手に入るから入れさせてくれ、値段は一瓩当り、試薬一級ならば二〇
〇円、工業用品ならば一二〇円位である」というので、D62に連絡したうえ、同
人及び被告人A2の諒解を得て、D63に、試薬一級でよいから三五瓩入り大箱二
個を納入して貰いたい、と伝えた旨供述し、証人D63(昭和二八年一二月頃まで
B2の店員、一五の六六九七)は、注文取りのためB1工場資材係に顔を出したと
ころ、D23から、「第二燐酸ソーダが多少入用だがどれ位するか」と尋ねられた
ので、工業用と試薬大入りの大体の値段を伝えた。すると、「値段を検討してみて
値段があえば注文する」ということで別れた旨供述し、前記証人D22(一三の六
〇四〇)は、外交員D63から、第二燐酸ソーダがB1で入用だという報告を受け
たので、B1に、「問合わせの第二燐酸ソーダの大入りは工業用しか取扱つていな
いがどうか」と問い合わせたところ、「よい品ですか」といわれたので、「自分の
方ではよく判らないから、一応使つてみてくれないか、もし都合が悪ければ取り替
えるなり返品してくれ」と答えた。値段を尋ねられたので、自分の経験した試薬か
ら割り出して値段を伝えた。それては使つてみようということになり、木箱二箱の
注文があつたが、メーカー、純度、包装の指定もなかつた。試薬の値段はメーカー
によつて多少相違するが、当時の試薬の値段を考え合わせてその三分の一位にし
た、と供述しているのであつて、右各供述を比較すると、本件工場側の者の各供述
とB2側の者の各供述ことにD22の供述とは鋭く対立していることが窺われるの
である。そうすると、本件工場の従業員らが、B2に対し第一回目に第二燐酸ソー
ダを注文するにあたり、試薬一級と指定したかもしくは単に第二燐酸ソーダといつ
ただけで試薬一級の指定をしないで注文したかについては、その取引の衝に当つた
各関係者の供述だけを資料として判断するのは困難であつて、右各供述以外の他の
資料によつて認められる諸般の事情をも綜合して判断しなければならないことはい
うまでもないが、まず右各証人らの供述を主軸として検討をすすめることとする。
 2 (一) 被告人A2、証人D62及び同D23は、前記のように、いずれも
まず局方品を注文したと供述する。しかし、証人D63の各供述記載(一五の六六
九七、二六の一二二五八、二七の一二六九九)からは、D23がD63にまず局方
品を注文したというような事実は窺われない。
 (二) 右の点について、被告人A2は、本件工場においては、第二燐酸ソーダ
の局方品を使用したような事実は全くないのにかかわらず、警察官及び検察官から
取調を受けた際(昭和三〇年八月二八日以降同年一〇月二六日までの間に、司法警
察員からは六回、検察官からは一〇回取調を受けている。三七の一六五四八ないし
一六六七四)には、局方品を発注購入してこれを使用したと供述しており、本件工
場においては、昭和二八年四月よりも以前から第二燐酸ソーダを使用しているにか
かわらず、昭和二八年四月以降使用したと供述している。
 本件工場において製造した乳児用調整粉乳中に人体に有害な多量の砒素を含有し
ていることが判明した後、その原因を探究していた頃、本社から被告人A2に添加
物を持参してK7に行くよう連絡があつた際にも、厚生省に添加物として届けられ
ている添加物は持参したけれども第二燐酸ソーダはこれを持参していないこと(三
八の一六九六六以下)、そのとき、本社のD54技術部長も被告人A2と同行した
のであるが、その際同部長から、乳児用調整粉乳の製造について、何か変つた方法
はとつていないかと聞かれたときにも、第二燐酸ソーダを添加使用していた事実は
全くこれを報告していないこと(三七の一六六二三)並びにその後右D54技術部
長から被告人A2に電話があつた際、「第二燐酸ソーダは確かに局方を指定して使
つているのだろうな」と念を押されたときにも、試薬一級を使用しているとはいわ
ないで局方品を使用していたと報告していること(三八の一六九七六)が認められ
るのである。
 右各事実に徴すると、被告人A2は、当初は第二燐酸ソーダを添加使用していた
ことは、なるべくならばいいたくないというような気持になつていたのではないか
ということが窺われるし、さらに、その後においては極力局方品を使用していたと
いうように強調しようとしていたことが窺われるのであつて、右各事情から考える
と、被告人A2が、「当初D62に局方品を注文せよと命じた」という供述も、極
めて疑わしいといわなければならない。
 (三) D62の司法警察員に対する昭和三〇年九月三日付供述調書(二四の一
一四〇三)によると、同人は、「A2からは、工業用を使つたらいけないとか、局
方でなければいけないとかの具体的な指示は受けていない。ただ良質のものを使上
えといわれたので私が独自の考えで注文したのである。」旨供述していることが認
められるのであつて、右事実に徴すると、証人D62が、A2から局方品を注文せ
よとの命令を受けたので、D23に局方品を購入するよう指示した旨供述している
部分は、にわかに信用できないといわなければならない。
 (四) 証人D23の前記供述も、同人の司法警察員に対する昭和三〇年八月三
〇日付及び同年九月四日付各供述調書(二四の一一四一一、一一四二九)に照し
て、直ちにそのまま信用し難いといわなければならない。
 (五) 前記証人D53(一八の八三三四)、証人D64(B57器械店々員、
一八の八五六二)及び前記証人D39(一八の八五九四)の各供述調書並びに押収
にかかる振替伝票四葉(証七九号)、同一葉(証八〇号)及び請求書綴一綴(証八
一号)を綜合すると、本件工場においては、被告人A2の発案により、昭和二五年
六、七月頃から同二七年秋頃まで、乳児用調整粉乳の溶解度を向上させ他社よりも
優秀な製品を製造する目的で、原料牛乳に対し、その重量の〇・〇一%の割合で、
安定剤として第二燐酸ソーダを添加するという方法による調整粉乳の試験的製造を
実施したのであるが、この間右研究の中心となつた当時本件工場製造課試験係責任
者であつたD53は、右試験的製造に使用する第二燐酸ソーダを入手するにあた
り、昭和二五年七月四日頃、徳島市内のB57器械店々員D64に対し局方の第二
燐酸ソーダを注文したところ、局方品がなかつたため、試薬一級の第二燐酸ソーダ
一瓩(五〇〇瓦入瓶二本ていずれもB64製薬株式会社製)を代金合計三六〇円で
購入し、次で、大阪薬品株式会社C14(昭昭三二年一〇月にはB65株式会社と
改組)従業員D39に対し局方品の第二燐酸ソーダを注文したところ、局方品がな
かつたため、昭和二六年三月三〇日頃試薬一級の第二燐酸ソーダ三五瓩(本箱入り
一箱でB64製薬株式会社製)を代金七、七〇〇円で購入し、同年四月一一日頃に
は、試薬一級の第二燐酸ソーダ七〇瓩(三五瓩入り本籍二箱で、いずれもB64製
薬株式会社製)を代金合計一六、一〇〇円で購入して、いずれもこれを右試験的製
造期間中に原料牛乳に添加使用したことが認められるのである。
 右各事実に徴すると、本件工場が、従来第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加使用す
るにあたつては、まず局方品を注文し、局方品がなかつたため、試薬一級を購入す
るに至つたことを認めることができるのであるが、しかし、前記証人D53及び同
D52(一八の八五〇〇)の各供述調書によると、D53がまず局方品を注文し、
局方品がないために試薬一級を購入したのは、D53が、自分自身の考えや、D5
2の助言によつたものであつて、特に被告人A2の指示があつたというような事情
は窺われない。被告人A2は、右の際にも、局方品を購入するよう希望した(三八
の一六九四六)というが、右供述はたやすく信用できない。そして、本件工場がB
2に対して第一回目の発注をしたのは、専ら被告人A2及び前記D62の指示に基
づくものであつて、D53は右の発注には何ら関与していないことも看過できない
事情である。もつとも、この点に関連して、前記証人D53(一八の八四二七以
下)は、昭和二七年七月頃、B2に立寄り、社長D22に対し、第二燐酸ソーダの
局方品大箱入りを捜してくれと依頼したというが、かりに、右事実が認められると
しても、B2に対する本件第一回目の発注とは直接関係がないというべきである。
なお、被告人A2らは、本件工場においては、第二燐酸ソーダを購入するときに
は、常にまず局方品を注文したというが、従来局方品を購入したことは一度もない
のであり、局方品入手について、本社技術部に照会する等その他適切な方法を講じ
た形跡も全く認められないのであつて、右の事実に徴すると、D62、D23及び
被告人A2らが、B2に対し第一回目の発注をするとき、まず局方品の有無を尋ね
たということを強調するのは、本件発生後言い始めたのではないかとの疑さえあつ
て、これをそのまま信用するのには躊躇せざるを得ないのである。したがつて、B
1乳業株式会社本社が局方品を使用することを方針としている(前記第二の四の2
の(四)の(3)参照)とか、本件工場において従来局方品を注文していたからと
いつて、直ちに本件においても、まず局方品を注文したとなすのは早計であるとい
わなければならない。
 3 証人D23の前記四の1に記載した供述から考えると、同人がD63に対
し、局方品の大箱入りはないかといつたのに対し、D63が、局方品の大箱入りは
取扱つていないが、試薬一級なら取扱つているから入れさせてくれ、試薬一級の値
段はいくらである、と答えたというのであれば、話は判るのであるが、試薬一級の
値段のみでなく、工業用品の値段まで教えたというのは理解に苦しむ点である。と
ころで、証人D63の前記四の1に記載した供述によると、D63はD23に対し
工業用品の値段をも告げたことが認められるので、この事実に徴すると、D63の
供述するとおり、D23が局方品とか試薬一級の規格を示さないで、大箱入りとい
う点に力を入れて、単に第二燐酸ソーダの値段を聞いたために、D63が工業用品
と試薬一級との値段を示したのではないかとも推測されるのである。また、証人D
23の前記供述によると、同人は、D63との交渉の途中において、被告人A2及
び前記D62のいた工務室に赴き、局方品はなく試薬一級ならばあるがといつこと
を連絡して、右両名から試薬一級でよいから注文せよといわれたので、D63に試
薬一級を注文したというのであるが、D63の各供述(一五の六六九七、二六の一
二二五八、二七の一二六九九)を仔細に検討しても、D23とD63との間の交渉
の過程において右のような場面があつたことは全く窺われないし、却つて、前記証
人D22の供述(一三の六〇四〇)によると、D23がD22と電話で交渉してい
る途中において、前記のような場面があつたのではないかということが窺われるの
である。また、D23の供述によると、同人は、D63と交渉した際、すでに試薬
一級二箱を注文したというのであるが、D63の供述によると、同人は値段を聞か
れただけで未だ正式の注文を受けたのではないと供述しており、この点において
も、D23とD63との供述は相違しており、D63の供述とD22の供述とによ
ると、むしろ、D23がD22と電話で交渉した際、正式に発注が行なわれたので
はないかという疑問も生ずるのである。
 五 1 昭和三九年八月二五日付弁護人海野普吉外三弁護人作成にかかる答弁書
四一丁ないし四三丁掲記の各証人の尋問調書を綜合すると、昭和二八年ないし同三
〇年当時における試薬一級の第二燐酸ソーダ大箱入り一瓩当り卸売価格は約一四〇
円ないし一八〇円位であり、同小売価格は約一六〇円ないし一八〇円位であり、工
業用第二燐酸ソーダ大箱入り卸売価格は一瓩当り約七〇円ないし一〇〇円位であ
り、同小売価格は一瓩当り約七〇円ないし一一〇円位であつたことが認められる。
ところで、本件工場のB2からの買入価格は、原判決添附の別表第四記載のとお
り、一瓩当り、第一回目の分が一九五円であり、第二回目及び第三回目の分がそれ
ぞれ一八八円であり、第四回目ないし第一三回目の分はいずれも一七〇円であるこ
とが認められる。そうすると、右売買価格は、まさに試薬一級の価格に相当し、工
業用第二燐酸ソーダの木籍入りの一般の小売価格として、著しく高価であつたこと
は、原判決説示のとおりであるといわなければならない。
 2 前記証人D22の各供述調書(一三の六〇四〇、一四の六五六三、一五の六
八、一六、六九九一)によると、同人は、第一回目の取引単価を一瓩当り一九五円
としたのは、D23と電話をした際咄嗟に決めたのであつて、その算出の根拠は、
当時B2で取扱つていた五〇〇瓦瓶入り試薬一級の第二燐酸ソーダの価格を二倍し
た金額の三分の一位として決めた旨供述していることが認められる。ところで、証
人D22の右各供述調書、押収にかかるB2の売掛帳四冊(証七〇号のA・B・
C・D)を綜合すると、B2においては、昭和二八年四月一一日頃工業用第二燐酸
ソーダ三五瓩人り二箱を本件工場に納入するより以前には、第二燐酸ソーダについ
ては、試薬一級は勿論、工業用品についても、本籍入りのものを取引した実績は全
くなく、ただ、試薬一級もしくは特級の瓶入り(五〇〇瓦入りが大部分)のものだ
けを取引していたに過ぎなかつたことが認められるから、D22がD23から電話
で本籍入りの値段を聞かれたとき、試薬一級であろうと、工業用であろうと、いず
れにしても何らかの方法で本籍入りの一瓩当りの値段を算出しなければならなかつ
たことは、やむを得ないことであるといわなければならない。
 きて、前記証人D63の各供述(一五の六六九七以下、二六の一二二五八以下、
二七の一二六九九以下)、同D22の供述(一五の六九九一以下)及び押収にかか
る見積書二通(証六三、六四号)を綜合すると、B2の外交員D63は、B2の社
長D22と相談のうえ、昭和二八年二月一七日にはB41化学株式会社大阪支店名
義で、同年同月二五日にはB2産業株式会社名義で、いずれもB66電力株式会社
B67発電所に対し、第二燐酸ソーダその他の薬剤の見積書各一通を提出したので
あるが、同見積書にはそれぞれ第二燐酸ソーダ一〇〇瓩入りのものの一瓩当りの単
価を一二〇円宛と記載しており、右は工業用第二燐酸ソーダの単価であるところ、
D63は、同年四月上旬頃本件工場の資材係である前記D23から、第二燐酸ソー
ダについての交渉を受けた際、同人に対し、工業用第二燐酸ソーダの値段について
は、前記のB66電力株式会社B67発電所に提出した見積書に記載した価格に基
づき、一瓩当り一二〇円てある旨を告げ、試薬一級木箱入りはこれまで取扱つたこ
とがないので、おおよその価格として一瓩当り二〇〇円位である旨述べたことが認
められるのである。また、前記証人D22の供述(一五の六八九八)によると、D
22は、右の頃よりも以前に、B68株式会社から、工業用第二燐酸ソーダの大箱
入りの買入価格の見積を徴していた事実のあることが認められる。右の各事実に徴
すると、D22は、工業用第二燐酸ソーダの大箱入りの値段も大体判つていた筈で
あるから、前記のような迂遠な計算方法をとらなくてもよかつたのではないかとの
疑問が生ずるのは当然である。しかし、D22が、前記B68株式会社から見積り
を徴していたのは昭和二六、七年頃の古いことであつたし、前記B67発電所に提
出した見積書に記載した分とても、現実には取引が行なわれたわけではなく、見積
価格の点についてもD63から相談は受けたものの、見積書の作成やその提出はD
63に一任してあつたことが窺われるから、D22が右の各事情を失念していたと
しても必ずしも不思議ではない。
 そうすると、D22の前記計算方法は、一見いかにも不自然なようではあるが、
しかし、五〇〇瓦瓶入りの試薬の値段を二倍したというのは、一応一瓩当りの単価
に換算したということであり、それは試薬瓶入りの一瓩当りの価格であるのに、現
実に取引しようとしているのは工業用薬品(D22の積りでは)であり、しかも大
箱入りであるため、右価格の三分の一位の金額をもつて現実の取引値段として決め
たということに帰着するのであるから、その趣旨は必ずしも理解できないことでは
ないのである。
 そうだとすると、次に考えてみなければならないのは、その当時のB2における
第二燐酸ソーダの試薬一級五〇〇瓦瓶入り一本の取引価格はいくらであつたかとい
う点である。前記各証拠によると、昭和二六年ないし同二八年頃におけるB2の第
二燐酸ソーダ試薬一級五〇〇瓦瓶入り一本の仕入価格は、殆んどすべて一五〇円位
であり、右瓶入り一本当りの小売価格は、昭和二六年頃は一八〇円ないし二三〇円
位であり、昭和二七年頃は概ね一九〇円ないし二三〇円位であり(昭和二七年一〇
月二九日にI7大学K8学部へ販売したものに三〇〇円というのがあるが、これ
は、D22も供述しているように、試薬特級と認めるのが相当である)、昭和二八
年頃は概ね二〇〇円ないし二六〇円位であることが認めらるのである。してみる
と、B2の右取引価格のうち最高価格である二六〇円をとり、D22の前記計算方
法によつて方法によつて計算しても、一七三円位にしかならず、本件工場との現実
取引価格である一九五円には達しない。ところで、D22は、実際の取引価格は前
記程度のものであつたけれども、当時、B69及びB41化学等からきていた試薬
の定価表に、第二燐酸ソーダ試薬一級五〇〇瓦瓶入り一本の小売価格は二七〇円な
いし三〇〇円位と記載されていたから、それに基づいて計算したというのである。
右三〇〇円を基本にしてD22の計算法に従えば二〇〇円となり、本件工場との第
一回の取引価格一九五円とほぼ一致することになる。したがつて、D22の前記計
算方法そのものは決して荒唐無稽なものではなく、その基本となる価格をどれにす
るかが問題であるが、D22のように、儲けられるときには大いに儲けるのが商人
であるというような誤つた営利主義を徹した型の商人の考え方からすれば、前記試
薬の定価表に掲げられている三〇〇円を計算の基本にしたこともいかにもありそう
なことであつて、必ずしも後から考案した勝手な理窟であるとして、排斥してしま
うわけにもいかないのである。 六 1 原判決は、第二章第三の六の3の項にお
いて、「B2から本件工場に納入された第二燐酸ソーダは、前記のとおりすべて純
度が九九%前後、砒素含有率〇・〇〇〇五%前後のもので、実質的には局方品や試
薬品に比しても全く遜色のないものであつた」と認定し、右事実をも一資料とし
て、本件工場の従業員らが、B2に対し、第一回目に第二燐酸ソーダを発注するに
あたり、「木箱入りの試薬一級品を納入してもらいたい」という内容の注文が行な
われたのではあるまいかという合理的疑問が生じ、これを払拭することのできる資
料はないと説示していることが認められる。なるほど、前後一〇回に亘り、B2か
ら本件工場に納入された正常薬剤の純度が九九%前後、砒素含有率が〇・〇〇〇五
%前後のものであつたことは、原判決の説示するとおりである。しかし、正常薬剤
の性質が原判示のとおりであつたことは、本件公訴が提起せられた後原審で証拠調
をした結果判明したことであつて、本件工場においてこれを使用していた当時、本
件工場の従業員らには判明していなかつた(もつとも、第一回目の分については、
本件工場の試験係責任者であつた前記D53が、純度検査をしたことによつてその
大体の純度だけは判明していたが、第二回目以降の分については、すべて本件発生
後判明した事柄である)のみならず、B2も、薬品の製造業者ではなく販売業者で
あり、B2の社長D22は、B4製薬から工業用第二燐酸ソーダを仕入れて本件工
場に納入していただけて、B4製薬に対し特殊な注文をしていたよらな事情は窺わ
れないし、右薬剤の純度検査等をしていたわけではないから、右正常薬剤が前記の
ような性質を有していたのは、本件工場の従業員らが試薬一級を注文したかどうか
ということとは何ら関係のない偶然のことというべきである。したがつて、右正常
薬剤の純度や砒素含有率が前記のようであつたという事実を捉えて、本件工場の従
業員らがB2に対し試薬一級を注文したことを推測する一資料とすることは失当で
あるといわなければならない。
 2 B2から本件工場に対し、一三回に亘つて納入された薬剤のうち、一〇回に
亘つて納入された薬剤が正常薬剤、すなわち、工業用第二燐酸ソーダであつたこ
と、並びに三回に亘つて納入された薬剤がB9製剤であつたことは、いずれも前記
第三の三の1で説示したとおりであつて、右の各薬剤が客観的に試薬一級でなかつ
たことは極めて明白である。そして、右の事実は、本件工場の従業員らが、工業用
薬品の納入を求めたのではないかとの推測を生ぜしめる資料とはなつても、試薬一
級を発注したことを推定する資料とはなし難いといわなければならない。
 3 前記の正常薬剤及びB9製剤は、工業用品であつたため、その容器である木
箱には試薬一級であるとの表示のなかつたことも記録によつて明らかである。試薬
一級であるならば、容器にその旨の表示のあることは、前記第二の三の5の(一)
の(2)の項において詳細に説示したところによつて明らかである。然るに被告人
A2は、B2から第一回目の薬剤二箱の入荷があつた際、前記D62に外観検査を
なさしめ、自らこれに立会つたというのに、右薬剤の各木箱に試薬一級の表示があ
つたか否か全く気づいていない。もし、試薬一級の注文をしたのが真実であるなら
ば、外観検査をするとき、試薬一級の表示の有無に注意するのが当然であるにかか
わらず、この点については殆んど関心を示していない状況である。このことは、本
件工場の従業員らが、工業用第二燐酸ソーダを発注したのであつて、試薬一級を注
文していなかつたのではないかということを窺わせるに足るといわなければならな
い。(右の点について、前記第二の三の5の(一)の(2)のの項の末尾参照)
 七 1 証人D22の前記各供述調書(前記第三の五の2参照)を仔細に検討す
ると、その供述中には、かなりな薬種商を営んでいる会社の社長の言辞とは思われ
ない程非常識とさえ見える部分もあること並びに仕入原価僅か九五円(一瓩当り単
価)の第二燐酸ソーダを、得意先である本件工場へ単価一九五円もの高価な値段で
納入して憚らないこと等、その人物にも疑問があることを考えると、その供述には
全面的には信用できない部分があることはいうまでもないが、しかし、D22も昭
和一六、七年頃から薬局を開業しており、世間からも一応信用せられていた筈であ
るし、各供述調書中の供述の一部分から推測すると、依怙地であるとさえ窺える点
が看取できること等を考慮すると、試薬一級でもない工業用薬品を、試薬一級であ
ると称して売り込むよらな詐欺に類する行為までするような人間であるとも思われ
ない。もし、前記D23らの供述するように、試薬一級を注文したのが真実である
とすれば、D22は、従来B2が試薬を仕入れていたB69工業株式会社、B41
化学株式会社及びB64製薬株式会社のいずれかから、その薬剤を仕入れる筈であ
るのに、どうして工業薬品の問屋であるB4製薬からこれを仕入れたかということ
も、理解に苦しむ点である。勿論、工業用第二燐酸ソーダを仕入れて、これを試薬
一級品と称して販売すればその利潤の多いことはいうまでもないが、相当長期に亘
つて薬種商を営んできたD22であり、従来このような不正行為をしたことも認め
られない同人が、このときに限つて、僅かな利潤追求(差額としては僅かである筈
である)のために、右のような不正行為をしたのであると決めつけることも躊躇せ
ざるを得ない。
 2 前記各項において詳細に説示したところによつて明らかなように、被告人A
2、証人D62、同D23及び同D22の前記各供述調書中の供述記載は、いずれ
も全面的にはこれを信用することができないのであるが、しかし、右各供述調書及
び右D63の各供述調書並びに前記説示の各事情を綜合すると、本件工場とB2と
の間における第一回目の発注は、次のような経緯で行なわれたものであることが認
定できるのである。
すなわち、本件工場の資材係D23は、B2の店員D63に対し、当初第二燐酸ソ
ーダの局方品を注文したのではなく、試薬一級をしかも大箱入りに重点をおいて交
渉したのであり、B2と本件工場との間に第二燐酸ソーダの売買契約が成立したの
は、D23とD63とが本件工場の事務室において折衝したときではなく、D23
とD22とが電話によつて交渉したときである。そして、その際、D22が、「試
薬一級の大箱入りは取扱つていないが、工業用品の大箱入りならば入手できる」と
いうと、D23が、「どの程度の品物か、よい品か」と尋ねると、D22が、「試
薬一級にも劣らないよい品である」との趣旨の返答をしたので、D23は、電話の
途中で、工務室に赴きD62にその旨報告し、さらにD62から被告人A2にその
旨報告すると、同被告人は、D62を通じて「試薬一級に劣らなければそれでよい
からすぐ注文するように」と指示したので、D23は、直ちに電話のところへ引返
し、D22に対し、「工業用品でもよい、それを使つてみることにする」旨を伝
え、さらに、「値段はいくらか」と尋ねたところ、D22が、「一九五円である」
旨答えたので、D23は直ちに三五瓩入り二箱の第二燐酸ソ―ダを注文したのであ
る。もつとも、右証人D22(一三の六一七一以下)は、D23から、「よい品
か」と問われたのに対し、「私はいいと思いますが、私の方でよくわかりませんか
ら、一度使つてみてくれませんか、もし御都合が悪ければ取換えるなり御返品下さ
い」といつたと供述しているのであるが、右供述は、商品を売る商人の言葉として
はいかにも不自然であり、右証人D62(一六の七二三二)が、「それで、D23
君が薬屋をあつちこつちあたつたと思います。その結果局方のものは扱つていない
が、局方よりか、局方に劣らない試薬があるから、それはどうだ、といつて私に相
談があつたんです」と供述していることや、被告人A2(三八の一六九五一)は、
D23資材係がD62副主任に対し、「薬屋は、局方の大箱入りは扱つたことがな
く、局方に劣らない試薬第一級品の大箱入りなら手に入るといらが、どうするか」
という旨の話をしたと供述していることに徴すると、D22は、D23に対し、前
記のように試薬一級にも劣らない旨返答したと認めるのが相当である。なお、前記
証人D23及び同D63の各供述調書によると、D23がD63と折衝した際、D
23は、D63から、工業用品は一二〇円位であり、試薬一級は二〇〇円位である
と聞いていたことが認められるのであつて、右事実に徴すると、もし、D22が供
述する如く、同人がD23に対し、工業用第二燐酸ソーダを一瓩当り一九五円で納
入すると申し向けたとすると、D23としてはD63から聞いている一瓩当り一二
〇円とは著しく値段が相違するので、この点について何らかの異議を述べない筈は
ないとの疑問を生ずるのであるが、前記説示のように、D23は、D22から、
「試薬一級にも劣らないよい品である」といわれたのと、被告人A2から、D62
を通じて、至急注文するよう命ぜられていたため、D63から聞いていた値段とD
22のいう値段との相違するのをあまり意に介しないで、前記のように、直ちに発
注したと認めるのが相当である。
 3 これを要するに、前掲各証拠を綜合すると、本件工場の従業員らは、B2に
対し、第一回目の注文をしたとき、局方品と指定しなかつたことは勿論、試薬一級
その他規格品を指定しないで、通常の工業用第二憐酸ソ―ダを注文したことが認め
られるのである。
 4 B2から本件工場に第一回目に納入された薬剤が工業用第二憐酸ソ一ダであ
つたこと、第二回目以降の発注について、被告人A2は、単に第二憐酸ソ―ダを注
文せよと命じただけであつとこと並びに資材係D23もB2に対し第二憐酸ソ―ダ
を納入してもらいたいと注文したに過ぎなかつたことは、前記説示のとおりであ
る。
なお、第二回目以降の発注の形式的手続について考察するに、前記証人D23(一
六の七三〇八)、同D53(一八の八三三四)、同D22(一四の六五六三)、証
人D65(元本件工場事務課長代理、一八の八〇九四)、同D66(元本件工場事
務課長心得、一九の八六五四)及び被告人A2(三八の一六九九二以下)の各供述
記載を綜合すると、本件工場製造課において薬剤を購入する場合、従前は、係の責
任者が製造課長である被告人A2の許可を得て、薬種商から直接所要の薬剤を購入
し、納品書及び代金請求書を事務課資材係に送付して購入の事実を通知していたの
であるが、昭和二八年頃以降には製造課の係責任者において、物品購入依頼書とい
う伝票に、品名、数量等必要事項を記入し、製造課副主任D62を経て課長である
被告人A2の决裁を得、これを事務課資材係D23のもとに送付し、同人におい
て、事務課長の决裁を得たうえ業者に発注するという仕組みになつていたところ、
本件工場がB2に対し第二回以降第一三回に亘り第二燐酸ソーダを発注した際にも
製造課において前記のような手続がとられたのであるが、前記物品購入依頼書に
は、単に第二燐酸ソーダと表示するだけで試薬一級とは表示していないのであり、
事務課においても前記のような手続をとつた与え、D23が電話でB2に対し、規
格及びメーカー等を指定しないで、単に第二燐酸ソーダいくらを納入して貰いたい
と連絡しただけであるし、品物を受取る際注文書を手交していたが、その注文書に
も試薬第一級とは記載せず、単に第二燐酸ソーダとのみ記載されていたことが認め
られるのであつて、右各事実に徴すると、第二回以降の注文も、従来納めてもらつ
ていた工業用第二燐酸ソーダを納入してもらいたいとの趣旨であつたというべきで
ある。したがつて、B2から本件工場にB9製剤の納入せられた際の注文も、工業
用第二燐酸ソーダの発注であつたといわざるを得ない。
 5 然るに、原判決が、第二章第三の六の4項において、最初の売買を含めて一
〇度目以降の売買における注文は、特別の指示ないし条件が付けられていない限
り、容観的にはこれまで九回に亘つて納入されていたものと同一品質のものの納入
を求めているものと見るのが妥当である、と判断しているのであるが、しかし、右
の事柄は、規格の定めのない工業用第二燐酸ソーダの納入を求めたことになるとい
うことはできても、決して試薬一級の納入を求めたことにはならないのである。
 さらに続いて、原判決は、昭和三〇年四月一三日頃以降に行なわれた本件工場か
らB2に対する第二燐酸ソーダの発注は(注文者の主観的内容の問題としてではな
く注文行為という客観的事実として)、「純度九九%前後砒素含有率〇・〇〇〇五
%前後の第二燐酸ソーダを納入してもらいたい」という成分規格に関する指定の付
いているものであつたと考えることもできるのではあるまいか、と判示するのであ
るが、なるほど、第一回ないし第九回の前後九回に亘つて納入された第二燐酸ソー
ダの実質が原判決の説示するとおりのものであり、しかも、本件工場のB2に対す
る第一〇回の注文が、従来のと同様の第二燐酸ソーダを納入してもらいたいという
趣旨であつたとしても、それはただそれだけのことに過ぎないのであつて、それが
局方品や試薬一級の注文をしたことにならないのは勿論、前記第二の五の2の
(二)の(1)の(ハ)の項において説示したような成分規格を指定して注文した
ことにならないのは勿論であつて、あくまで工業用第二燐酸ソーダの注文に過ぎな
いといわなければならない。また、記録によると、九回に亘つて納入された正常薬
剤がいずれもB7化学工業株式会社製のものであつたことは明らかであるが、その
木箱の外側の製造元の表示としては、B7化学工業株式会社と表示されていたもの
もあつたし、B4製薬株式会社と表示されていたものもあつたことが窺われるの
に、本件工場は、この点についても、B2に対し何らの照会もしていない位である
から、第一〇回目の発注がメーカーの指定をして行なわれた注文であるとも認めら
れないのである。かりに、メーカーの指定のある注文であつたと見られるとして
も、この程度のことでほ、前記第二の五の2の(二)の(1)の(ハ)の項におい
て説示した注意義務を尽したとはいえないことはいうまでもない。
 次に、原判決は、第二章第三の七の項において、B2のD22も、B9製剤が第
二燐酸ソーダではない特殊化合物であることを全然知らず、第二燐酸ソーダである
と確信していたことを理由として、本件では、本件工場がB2に第二燐酸ソーダを
発注する際、注文物と異なるものの納入を防止するため、注文物の表示を明確に
し、第二燐酸ソーダ以外のものを納入しないでもらいたいという本件工場側の意思
が、B2に間違いなく届くようにしなければならないという注意義務に欠ける点が
あつたかどうかということは問題にならないことがらであると説示するので、按ず
るに、なるほど、D22がB9製剤が非第二燐酸ソーダであることを知らなかつた
のは事実であるが、しかし、D22がそのことを知らなかつたとしても、本件工場
がB2に対し、局方品や試薬一級品等の規格品を発注することによつて、十分、
「非第二燐酸ソーダを納入しないでもらいたい」という本件工場側の意思を伝える
ことができるのであり、そうすることによつて、B9製剤の如き薬剤の入荷及びそ
の使用を防止し得たというべきであるから、この点に関する原判決の判断も到底首
肯し得ないといわなければならない。もつとも、原判決が前記のような判断をした
のは、本件工場の従業員らの規格品発注義務を否定した当然の帰結であることはい
うまでもないが、その誤りであることはすでに説示したとおりである。
 6 これを要するに、以上説示のとおり、本件工場が、第一〇、第一一及び第一
三回の三回に亘り、B2からB9製剤の納入を受けた際、本件工場の従業員らは、
試薬一級品等の規格品を指定しないで発注していたことが認められるにかかわら
ず、原判決が、その注文に際し、本件工場の従業員らに、注意義務違反行為があつ
たということについては、結局証明がないことになる、と判断したのは、証拠の取
捨選択を誤り、ひいて事実を誤認したものであるというべきである。
 第四 控訴趣意第三点の一ないし三(控訴趣意補充書第一の三及び第二)につい
て。
 一 所論は、縷々述べているが要するに、B2から本件工場に納入された第二燐
酸ソーダという薬剤のうち、B9製剤以外のもの、すなわち、正常薬剤は、検査す
れば必ず合格する薬品であつたから、本件工場の従業員らにこれを検査する義務は
なく、B9製剤についても、包装、容量、薬剤それ自体の外観上では正常薬剤とは
差異はなく、また、本件工場とB2との間には長期に亘り大量の第二燐酸ソーダと
いう薬剤の取引があり、かつ、B2は信用の高い業者であつたから、右B9製剤に
ついても、被告人らが相手方を信頼し、正常薬剤が納入されたと信ずるのが当然で
あるから、この場合も検査義務はない、とした原判決の判断は、事実を誤認し、ひ
いて法令の解釈を誤つたものである、というのである。
 二 工業用第二燐酸ソーダには人体に有害な程度の砒素を含有する粗悪品があ
り、また、化学上は第二燐酸ソーダとはいえなくても、B9製剤の如き薬剤が取引
上は一般に工業用第二燐酸ソーダとして取引されており、それには多量の砒素を含
有するものもあるからということを根拠として、工業用第二燐酸ソーダとして取引
された薬剤であるB9製剤を原料牛乳に添加使用するときには、本件工場の従業員
らに化学的検査義務があるとの論旨は、前記第二の一及び二の各項において説示し
たと同一の理由により、到底採用できない。
 三 1 工業用第二燐酸ソーダの発注に対しては、非第二燐酸ソーダが納入され
る危険性があり、しかも、その非第二燐酸ソーダにはいかなる有毒物を混入してい
るかも判らないということを根拠とする場合に、本件工場の従業員らには、まず第
一に規格品使用義務があり、この注意義務に違反して敢えて工業用第二燐酸ソーダ
を使用するときには、その薬剤が間違いなく第二燐酸ソーダであることを確かめる
ために、適切な化学的検査をなす義務のあることは、前記第二の五の2の(四)の
各項において説示したところによつて明らかである。
 然るに、記録を精査しても、本件工場の従業員らが、前後三回に亘りB2から本
件工場に納入されたB9製剤を使用する前、右薬剤が第二燐酸ソーダであるかどう
かを確かめるため、化学的検査を実施したことを認めるに足る何らの資料もない。
もつとも、被告人A2は、原審第六一回公判期日(三八の一六七六三)において、
昭和二八年四月一一日以降B2から納入されてきた第二燐酸ソーダという薬剤につ
き、試験係責任者をして一箱毎に外観検査、溶状検査及び官能検査を実施させた旨
供述していることが認められるのであるが、右供述記載は、前記証人D58(一六
の七三九六)の供述調書並びに被告人A2の、司法警察員に対する各供述調書(三
七の一六五五三、一六五五九、一六五七〇、一六五九七)、裁判官の面前における
陳述録取調書(三七の一六五八一)及び検察官に対する各供述調書(三七の一六六
五八、一六六六三)を綜合すると、にわかに信用できない。そうすると、本件工場
の従業員らは、B9製剤を使用するにあたり、前記化学的検査義務に違反したもの
であるという外はない。してみると、本件工場従業員らのB9製剤についての化学
的検査義務に関しては、これ以上論ずる必要はない筈であるが、原判決は、第一な
いし第九回に亘つて納人された薬剤が正常品であつたため、これを使用した過去の
実績等に照して、本件工場の従業員らが、その後納入されたB9製剤について一定
の法律的価値を備えた信頼感を抱くのは当然である。と判示しているので、これら
の点についてさらに検討する必要がある。
 2 前記第三の各項において説示したとおり、本件工場の従業員らは、B2に対
し第二燐酸ソーダを発注するにあたり、工業用薬品の納入を求めたのであつて、試
薬一級等の規格品を注文したのではないから、規格品が納入された場合の注意義務
については、もはやこれを論ずる必要はないのであるが、しかし、被告人A2初め
前記証人D62及び同D23らは、いずれも、本件工場がB2に対し第一回目の発
注をしたときには試薬一級と指定したのであり、B9製剤が入荷したときの注文も
試薬一級の規格指定が行なわれていたかのような供述をしているので、規格品使用
にあたつての検査義務についても一言することとする。
 前記第二の五の2の(二)の(1)掲記の規格品を使用する場合、使用前その化
学的検査を実施する必要のないことは前記説示のとおりであるが、しかし、その外
観検査までしないでよい筈はない。すなわち、右規格品を発注購入して使用すると
きには、その使用前、薬種商から納入された薬品が、その容器もしくは被包の表示
等から、果して注文したとおりの規格品であるか否かを点検して、右にいう規格品
であることを確認し、さらに容器内にある薬品自体についても、色、光沢及び結晶
粒の大小等を点検して異状の有無を確認しなければならないことは勿論である。蓋
し、いかに被包等に局方品等の規格品であるとの表示があつたとしても、その内容
たる薬品の色が、本来白色であるべきにかかわらず黒色であるというような場合
に、それをそのまま表示どおりの薬品として使用すべきでないことはいうまでもな
いからである。しかし、色、光沢及び結晶粒の大小等を点検しても、別に異状の認
められないときには、それ以上さらに、その薬品が被包及び容器等に表示されてい
る薬品であるか否かについて、その化学的検査をなすべき義務のないことは前記説
示のとおりである。そして、被告人A2らの供述に従えば、B2に対して第二燐酸
ソーダを注文したときには、試薬一級のものを注文したことになるのであるが(こ
のことが事実に反することはすでに説示したとおりである)、もしそうであると仮
定すれば、前記第二の三の5の(一)の(2)の項において説示したとおり、試薬
一級には必ずその旨の表示があるのにかかわらず、第一回ないし第九回に亘つて本
件工場に納入された正常薬剤には試薬一級の表示がなかつたのであるから、本件工
場の従業員らが、果して右各薬剤が注文したとおりの試薬一級であるか否かについ
ての外観検査をなすことにより、容易に試薬一級でないことが判明した筈であり、
かりに、試薬中にその表示のないものがあるとしても、表示のあるものが多いこと
は否めないのであるから、表示のないことに疑念を抱き、B2ないしは製造業者に
問いあわすべき配慮を払うのが食品製造業に従事する者の当然とるべき措置であつ
たというべきにかかわらず、このような措置をとつた事跡は記録上全く認められな
いのであつて、しかもそのためB9製剤を使用する結果を招来したのであるから、
まさに、右にいう規格品使用に際しての外観検査をなすべき注意義務に違反したも
のであるといわなければならない。
 四 1 本件工場の従業員等が、工業用第二燐酸ソーダを使用する場合にも、な
おかつ、原判決のいわゆる信頼感のために、前記規格品使用の場合と同様に、単に
外観検査をするだけで足り、化学的検査をなすべき注意義務が免除されるといえる
かどうかについて考えてみなければならない。
 2 (一) 原判決は、第二章第四の二の1、2、3の各項で説示するようなB
9製剤が納入された客観的背景という事実を認定して、右客観的背景の下に納入さ
れてきたB9製剤については、これがそれまで納入されていた正常薬剤と同一品質
のものであるという、法律的価値さえ備えた信頼感が生ずるのが当然であり、この
信頼感を動揺させるに足る特別の事情、すなわち、このB9製剤がこれまで既に納
入された(又使用されてしまつた)正常薬剤の外観と異つており、この差異が以上
両者の間に品質上の差異があるも知れないという疑問を生ぜしめる程度のものであ
る、ということが判明しない以上は、この信頼感に従つて行動することが是認され
るのであつて、その上さらに進んで、B9製剤につき、返品、化学的検査による同
一性確認もしくは化学試験による無害検査等の処置をとらなければならないという
義務の履行までも要求されるべき筋合いではない、と判示しているのである。なる
ほど、(1) B2と本件工場との間の第二燐酸ソーダの取引は、昭和二八年四月
一一日頃から昭和三〇年七月二六日頃までの間に前後一三回に亘つて行なわれてお
り、その間売買代金の単価の変動は、昭和二八年一〇月二九日頃行なわれた第四回
目の取引以降は全然なかつたのであり(原判決五〇丁表一三行目に「売買代表」と
あるのは「売買代金」の誤記であり、「昭和二九年一〇月」とあるのは「昭和二八
年一〇月」の誤記である)、 (2) B9製剤が納入されたのは、昭和三〇年四
月一三日頃以降であり、その前に九回に亘つて納入された薬剤は、すべて正常な第
二燐酸ソーダであり、その砒素含有量がいずれも〇・〇〇〇五%前後のものであ
り、その数量は全部で九四〇瓩であつたことは、いずれも原判決の認定するとおり
であり、そして、 (3) B2は、原判決が第二章第三の四の3の項において説
示するような、かなりの商店であつたことも一応首肯できないことはない。 
(二) (1) 原判決のいう信頼感は、主観的認識の問題であるから、B9製剤
が三回に亘つて納入されてきた当時、被告人らが認識していた事情を基礎として判
断されるべきであつて、本件発生後調査の結果初めて判明するに至つた事情を加味
して判断するのは失当である。
 (2) 本件が問題になるまでは、第一回ないし第九回及び第一二回に納入せら
れた正常薬剤も、第一〇、第一一及び第一三回に納入せられたB9製剤も、いずれ
もその成分規格はその当時被告人らにとつて不明であり、右正常薬剤は、正常な第
二燐酸ソーダであつて、その砒素含有量が〇・〇〇〇五%前後であり、右B9製剤
は、特殊化合物であつて、その砒素含有量が約四・二%ないし六・一%位であるこ
とは、本件発生後調査の結果初めて判明したことであつて、右の各事実は記録によ
つて明白である。すなわち、第一〇回目にB9製剤が納入せられたときには、第一
回ないし第九回目に納入せられた正常薬剤の成分規格は不明であり、第一一回目に
B9製剤が納入せられたときには、第一回ないし第九回目に納入せられた正常薬剤
及び第一〇回目に納入せられたB9製剤の成分規格も不明であり、第一二回目に正
常薬剤が納入せられたときには、第一回ないし第九回目の正常薬剤及び第一〇、第
一一回目のB9製剤の成分規格は不明であり、第一三回目にB9製剤が納入せられ
たときには、第一回ないし第九回、第一二回目の正常薬剤及び第一〇、第一一回目
のB9製剤の成分規格は不明であつたのである。ただ、第一〇回目にB9製剤が納
入せられてきたとき判明していたことは、第一回ないし第九回目に納入せられた薬
剤を添加使用して製造した乳児用調整粉乳の溶解度が良好であつて、これを飲用し
た者から事故のあつたという報告がなかつたということであり、第一一回目及び第
一三回目にB9製剤が納入せられ、第一二回目に正常薬剤が納入せられたときにも
右と同様であつたというに過ぎないのである。
 (3) 原判決が認定する前記第四の四の2の(一)の(1)の事実、すなわ
ち、第四回目以降の取引においては単価の変動が全くなかつたという点であるが、
元来、被告人A2は当時右のような事実は全く知らなかつたことが記録によつて窺
われるし、本件の場合、第一回目の取引のときから継続的供給契約が締結されてい
たわけではなく、その都度の取引が重なつて結果的に継続的となるに至つた取引に
あつては、単に単価が同一であつたという事実に重点を置いて、その品質の同一性
を推定するのは慎重でなければならない。
 (4) 次に、売主であるB2が信用のおける商人であつたという点(前記第四
の四の2の(一)の(3))であるが、しかし、被告人A2の昭和三〇年八月三〇
日付供述調書(三七の一六五五九)によると、同被告人は、本件工場において使用
していた第二燐酸ソーダという薬剤が、B2から購入されていたということは、本
件発生後初めて知つたのであつて、B9製剤が納入されてきた当時には第二燐酸ソ
ーダをどこの薬種商から買い入れていたか全く知らなかつたことが認められるの
で、右事実に徴すると、B2が信用のおける商人であるからということを理由とし
て、納入されてくる薬剤を被告人A2が信頼したというのは失当である。のみなら
ず、B2は、仕入先から仕入れた薬品類を検査しないで、そのまま消費者に販売し
ている小売業者であり、本件で問題になつているB9製剤もB4製薬から仕入れた
まま本件工場へ単に取次ぎ販売していたに過ぎなく、薬剤の品質については保証し
ていないのであるから、小売商のB2が信用できるから多分間違いのない商品を納
入してくれるだろうという程度のことは考えられるとしても、それ以上に、B2が
信用できるということを理由として、その納品に原判決のいうような高度の信頼感
を持たせるということは、疑問であるといわなければならない。
 (5) (イ) 原判決は、第二章第四の三の3の項において、薬剤ことに食品
添加物として初めて使用する薬剤を継統的に購入使用する場合、売主ないしこの薬
剤の製造業者において、この薬剤が食品添加物として用いられるということを了解
していないときには、注文に基づき納入されてきた薬剤について、少くとも第一回
に納入される物件については、購入者側としては、その純度と有害物(砒素等)の
含有率との化学的検査を施行しなければならないとしても、B2から本件工場に納
入せられた正常薬剤は、以上のような化学的検査が加えられても、これを通過する
だけの品質ないし成分規格を備えているものであつたのであるから、この化学的検
査が行なわれたか否かということは、B9製剤の入荷、使用という結果の発生に対
して何らの影響力を持つていないのであつて、したがつて、本件においては、本件
工場が第一回目の納入物件(正常薬剤)について、右化学的検査をしたかどうかと
いう点はこれを論ずる必要がない、と説示しているのである。
 なるほど、B2から本件工場に対して第一回ないし第九回及び第一二回目に納入
せられた薬剤は正常薬剤であつたから、化学的検査を加えられてもこれを通過する
だけの品質ないし成分規格を備えているものであつたことは、原判決説示のとおり
であるが、しかし、第一〇、第一一、第一三回目に納入せられてきたB9製剤は、
多量の砒素を含有する特殊化合物であつたから、化学的検査が加えられるとこれを
通過しない品質ないし成分規格のものであつたことも明白である。本件では、右B
9製剤の購入及び使用等についての被告人らの業務上の注意義務が問題になつてい
るのであるから、前記正常薬剤について化学的検査が加えられなかつたとしても、
そのことは、B9製剤使用を原因とする本件事故の発生とは法律上何らの因果関係
もなく、その意味においては、正常薬剤に化学的検査が加えられなかつたというこ
とは、B9製剤の使用による死傷事故の発生に対して何らの影響力を持つものでな
いことはいうまでもない。
 しかし、被告人A2らにとつて、右正常薬剤の成分規格が明確になつたのは、本
件発生後調査した結果であり、これを使用していた当時においては、その成分規格
は不明であり、その品質や成分規格についての強力な保証はなかつたのにかかわら
ず、被告人A2らは、何ら化学的検査を施行しないままこれを使用したというこ
と、すなわち、食品添加薬剤に対する杜撰な態度、すなわち、論旨のいわゆる品質
管理を欠いていたということが、B9製剤が納入されてきた際にも、これを検査し
ないまま使用するに至らせたといえるから、この意味においては、正常薬剤につい
て検査をしなかつたことが、B9製剤に対する化学的検査の懈怠についても影響が
あつたといわなければならならい。
 なお、証人D22及び同D63の前記各供述調書を綜合すると、B2において
は、本件工場が第二燐酸ソーダの本来の用途である清缶剤もしくは洗滌剤として使
用するものと思つて工業用品を納入していたのであつて、牛乳に添加使用されると
いうようなことは全然考えていなかつたことが認められる。もつとも、この点につ
き、前記証人D23(一六の七三五七)は、B2のD22に電話で第二回目の注文
をしたとき、第二燐酸ソーダを牛乳に入れる旨伝えたと供述しているけれども、右
供述は、前記証人D22及び同D63の各供述照して、たやすく信用できない。
 (ロ) さらに、原判決は、継続的取引における納入物件の品質の担保は、過去
に納入されたものに対する化学的検査の結果という要素がなくても、過去における
実績、すなわち、この事件においては、期間にして約二年間、納入回数にして九
回、数量にして九四〇瓩という薬剤を食品添加物として使用し、これによつて約一
五五一、〇〇〇瓩(原判決五三丁裏一〇行目に約一万五千瓩とあるのは、計算を誤
つたための誤記である)の乳児用調整粉乳が製造されたが、これによつて傷害事故
の発生したというような報告が全然なかつたということによつても形成されるので
あつて、この場合に、過去に納入使用されていた物件の品質を化学的に検査しなか
つたということは、この品質の担保力の形成を妨げたり、またはこれを弱体化させ
たりするものではない、と説示している。本件工場が、右正常薬剤を二年間に亘つ
て使用してみた結果、よつて製造された乳児用調整粉乳を飲用した者から、傷害等
の事故があつたという報告のなかつたことは事実である。しかし、人の生命、身体
に直接関係のある食品の製造について、かような考え方が許されるかどうか疑問で
ある。無害であるとの確実な保証のない右正常薬剤を使用して製造した乳児用調整
粉乳の飲用によつて事故が生じなかつたということを理由とする考え方は、これを
飲用する乳幼児の生命及び身体が、右調整粉乳の有害か無害であることを確かめる
ための試験材料に供せられるのと同様の結果になつてもやむを得ないという考え方
に通ずるのである。すなわち、正常薬剤を使用して製造した乳児用調整粉乳は、乳
幼児が飲用検査したところ無害であつたが、B9製剤を使用して製造した乳児用調
整粉乳は、乳幼児が飲用検査したところ、有害であることか判明したということに
帰着するのである。言葉を換えると、品質について何ら保証のなかつた正常薬剤
は、乳幼児が飲用検査をしたことによつて初めて品質の保証を得たのであり、品質
について何ら保証のなかつたB9製剤は、乳幼児が飲用検査をしたことによつて初
めて有害であることが判明したのである。のみならず、原判決が、第二章第一の一
の項で認定するように、B9製剤を添加使用して製造した乳児用調整粉乳を飲用し
たためではないかと推測される人工栄養児の傷害事故は、すでに昭和三〇年六月下
旬頃発生していたことが窺われるのであり、しかも本件工場においては、その後に
おいてもなお相当量のB9製剤を原料牛乳に添加使用して乳児用調整粉乳を製造し
ていることは記録上明らかなところであるが、それでもなお原判決は、傷害事故の
報告がなかつた(B9製剤に砒素を多量に含有していることを発見したのは昭和三
〇年八月二七日である)ということだけで、過去の実績があるとして、右六月下旬
以降使用したB9製剤の品質が担保されていたとなすのであろうか。右のような奇
妙で不自然な結論に到達するのは、原判決が、単に傷害事故の報告がなかつたとい
う事実を重要な価値を有する過去の実績であるとして、これによつて将来納入され
てくる薬品の品質まで担保され得るものであると誤解したことに基因するのであ
る。元来、食品の製造業者が、当該食品の摂取者においてこれを飲食することが、
すなわち、その食品の有害か無害かを確かめる化学的試験になるのと同一の結果に
なるような杜撰な態度で、食品を製造することの許されないことはいうまでもない
であろう。また、本来強力な保証のない薬剤をいかに長期間使用してみて事故が生
じなかつたとしても、それは保証のない薬剤の使用の累積であり、事故の生じなか
つたのは偶然のことであり、保証のない薬剤の使用が累積されたとしても、その後
に納入されてくる薬剤の品質について保証のないことは、従前の薬剤につき保証の
ないのと全く同様であり、したがつて、原判決のいう過去の実績によつては、続い
て納入されてきた薬品の品質の担保は形成されるものではないといおなければなら
ない。この点に関する原判決の判断は到底首肯できない。各容器毎に化学的検査を
実施して初めてその薬品の品質が担保されると解すべきである。
 (ハ) 原判決は、B9製剤が納入されたとき、本件工場からB2に対して、
「納入されたものは第二燐酸ソーダ、しかも正常薬剤と同じ品質ないし成分規格の
ものに間違いないかどうか。」と念を押したか否かということは、この事件では全
く考慮の余地がない、と説示している(原判決第二章第四の三の2参照)。なるほ
ど、B2のD22としては、B9製剤を本件工場に納人したときには、B9製剤を
第二燐酸ノーダであると信じていたことは原判示のとおりであるが、しかし、D2
2は、その取扱う薬品について何らの化学的検査も実施していなかつたのであるか
ら、B9製剤の成分規格が従来の正常薬剤と同一のものであつたと考えていたか否
かは疑問であり、もし、同人が、本件工場から従来納入された薬剤と同一の成分規
格のものかどうかと確かめられたならば、同人は、その成分規格を知らなかつたの
であるから、B2にB9製剤を販売したB4製薬に対し、今回B2に入荷したB9
製剤の成分規格は、従来の正常薬剤と同一成分規格のものかどうかと確かめるであ
ろうし、そうなると、B4製薬においても、従来の薬剤はB7化学工業株式会社製
であるが、今回のB9製剤はB4製薬製であつて従来の薬剤とは成分規格が異なる
と答えたであろうし、用途によつては使用すべきでないということをも附加して回
答したことが窺われるから、B9製剤が本件工場に納入せられたとき、本件工場が
B2に対しB9製剤の成分規格を確かめたか否かということは、決して無意義では
なかつた筈である。然るに、現実には本件工場はB2に対して何ら念を押していな
いのに、原判決が、念を押しても結果は同じてあつたと判断したのは、原判決独自
の見解であるというべきである。
 (6) 原判決が、被告人A2らがB9製剤に対し強い信頼感を抱いた根拠とし
て挙げている客観的背景なるものは、前記(2)ないし(4)の各項で説示した程
度のことであつたし、被告人A2らの正常薬剤に対する取扱態度は、前記(5)の
(イ)の項で説示したようなものであつたし、さらに、原判決のいわゆる過去の実
績の実態が前記(5)の(ロ)の項で説示したような状況のものであつたことから
考えると、被告人A2は、B9製剤が納入せられた当時においては、B2から納入
せられてきていた従前の薬剤について、B4製薬(第一回ないし第九回に納入せら
れた正常薬剤は、すべてB7化学工業株式会社製造にかかる正常な第二燐酸ソーダ
であつたが、被告人A2は、B7製であることを知らなかつたのである。右正常薬
剤の木箱には、B7化学工業株式会社と表示されていたものもあつたし、B4製薬
株式会社と表示されているものもあつたことは、前記第三の七の5の項で説示した
とおりである)という製造業者が製造したもので、紙袋に入つた白色結晶粒の薬剤
が粗末な木箱に入れらており、木箱の外部側面には第二燐酸ソーダと表示されてお
り、本件工場の資材係D23が被告人A2の指示に基づき、第二燐酸ソーダを納入
してもらいたいと注文したことにより、徳島市内のいずれかの薬種商から、第二燐
酸ソーダであると称して納入されてきている薬剤であり、従来納入されてきた薬剤
を使用して製造した乳児用調整粉乳を飲用した者に傷害事故を生じたというような
ことは聞いていなかつた、という程度の認識を有していたに過ぎなく、それ以上の
認識はこれを有していなかつたと認めるのが相当である。被告人A2は、原審第六
一回公判期日(三八の一六九四八)において、B2から本件工場に一三回に亘り納
入せられていた各薬剤はすべて試薬一級であると確信していた旨供述するのである
が、右供述の信用できないことは、前記第三の各項において説示したところによつ
て明らかである。
 したがつて、前記に説示したような状況の下において、納入されてきたB9製剤
については、被告人A2らに、それが、これまで納入されていた正常薬剤と多分同
一品質のものであろうという位の軽い信頼感が生じたというのならばともかく、法
律的価値まで備えた信頼感が生ずるいわれはなく、生じてもいなかつたのであり、
また、客観的にも、過去の実績によつてB9製剤の品質の担保が形成され得ないこ
とは、前記説示によつて明らかである。
 3 以上詳細に説示したところによつて明らかなように、本件工場の従業員ら
が、同一の薬種商であるB2から、約一年九ヶ月の間に前後九回に亘り合計九四〇
瓩の工業用第二燐酸ソーダを購入し、これを原料牛乳に〇・〇一%の割合で添加使
用して乳児用調整粉乳合計約一五五一、〇〇〇瓩を製造販売し、これを飲用した乳
幼児に傷害等の事故を生じたとの報告がなかつたとしても、B2から第一〇回目に
工業用第二燐酸ソーダと称して納入されてくる薬剤につき、それが間違いなく第二
燐酸ソーダであるか否かを確かめるための化学的検査義務が免除されることはない
というべきである。化学的検査義務の免除されるのは、前記に説示した規格品を使
用する場合に限られるのである。
 4 原判決が、前記説示のように、一定の法律的価値を備えた信頼感というよう
な考え方をとつたのは、或いは、ドイツの判例によつて確立されているといわれる
交通関係者の信頼の原則、すなわち、他の交通関係者は交通規則に従つた態度をと
るということを信頼してよいとの原則と同一の理念に基づくものではないかとも推
測されないことはない(吉田常次郎氏の「過失犯」、法曹時報一七巻六号一四頁参
照)。我が国では、未だ前記のような判例の確立していないことはいうまでもない
が、しかし、当裁判所としても、自動車等高速度交通機関の運転者が交通事故を惹
起したときに、右信頼の原則の適用により、免責され得る場合のあることをもとよ
り否定するものではない。
 しかしながら、高速度交通機関の運転者と食品製造業者とでは、その置かれてい
る立場は全く異つているし、他の交通機関や通行人が交通規則に従つて行動するだ
ろうということと薬品製造業者や販売業者が業界のルールに従つて行動するだろら
ということとは必ずしも同一性格のものではなく、ことに、高速度交通機関の運転
者の場合は、運転中に不法に自分の車の前に飛び出す自動車や通行人のあることを
慮つて、いつでも止まれる用意と注意とをもつて、常に運転しなければならないと
いうことになると、高速度交通機関の迅速性は著しく阻害される結果を招く虞があ
ることも考慮しなければならないのに反し、食品製造業者が、食品添加物として薬
品を購入したり、これを食品に添加使用するにあたつては、前記のような事情の毫
も存しないことに鑑みると、本件の場合に、信頼の原則が適用される余地は全くな
いといわなければならない。
 五 ここで、原判決の判断は、果して論理が一貫しているのかどうかの点につい
て考慮してみる必要がある。原判決は、第二燐酸ソーダを食品に添加使用するにあ
たつても、たとえそれが工業用薬品であつても、第二燐酸ソーダには人体に有害な
程度の砒素を含有していないし、第二燐酸ソーダを納入してもらいたいと注文すれ
ば第二燐酸ソーダが間違いなく納入されてくるのであつて、万一右注文に応じて非
第二燐酸ソーダが納入されることがあつたとしても、そのようなことは到底予見不
可能であるということを理由として、本件工場の従業員らには規格品発注(使用)
義務はないとしているのにかかわらず、B9製剤の使用にあたつては、本件工場の
従業員らが、原判決のいわゆる客観的背景の下においては、B9製剤につき一定の
法律的価値を備えた信頼感を抱くのは当然であるとなしたり、過去の実績によつて
B9製剤の品質の担保が形成ざれるとするのは何故であろうか。原判決が規格品発
注義務を否定した理由から判断すると、第一〇回目に納入されてきたB9製剤につ
いても、本件工場の従業員らは、B2に対し第二燐酸ソーダの納入を求めたのであ
り、B2も第二燐酸ソーダと称して納入したのであり、しかも外観検査の結果、外
箱には第二燐酸ソーダと表示されており、内容品である薬剤の外観も第二燐酸ソー
ダと同一であつたというのであるから、原判決のいわゆる一定の法律的価値を備え
た信頼感を抱かなくても、また、過去の実績がなくても、化学的検査を実施しない
でそのまま使用することができたという結論に到達してよい筈ではなかろうか。原
判示からすると、信頼感が生じないときないしは過去の実績がないときには、化学
的検査義務があつたと判断したと解せざるを得ない。しかも、原判決は、第一回目
に納入せられた正常薬剤については、かりに化学的検査が加えられたとしても通過
するだけの品質ないし成分規格を備えていたことを理由として、化学的検査をした
かどうかという点はこれを論ずる必要がないとしてはいるが、その前提においては
化学的検査義務のあることを肯定しているのである。したがつて、原判決も、化学
的検査義務の有無を論ずるにあたつては、第二燐酸ソーダの納入を求めたのに対
し、非第二燐酸ソーダの納入されることもあり、しかもそのことは予見可能であつ
たことを肯定したがために外ならない。何故ならば、B9製剤が第二燐酸ソーダで
あることが間違いないのならば、もはやそれ以上化学的検査を加える必要は毫もな
い筈であるからである。以上のとおりであつて、原判決が、規格品発注義務の有無
について検討した際に示した判断と、化学的検査義務の有無について検討した際示
した判断との聞には、矛盾があり論理が一貫していないとの譏を免れ難いといわな
ければならない。
 六 前記第四の三ないし五の各項において説示したとおり、原判決が、本件工場
の従業員らがB2から購入した第二燐酸ソーダのうちには非第二燐酸ソーダのある
ことを認定し、かつ、その予見が可能であつたことをも一応肯定しながら、事実を
誤認して、B9製剤が納入せられた客観的背景の下においては、本件工場の従業員
らがB9製剤に対し法律的価値を備えた信頼感を抱くのは当然であるとなし、約二
年近くに亘る過去の実績によつてB9製剤の品質の担保が形成されるとし、その結
果、本件工場の従業員らにB9製剤に対する化学的検査義務がないと判断したの
は、法令の解釈を誤つたものであるといわざるを得ない。
 第五 訴因について。
 一 被告人ら両名の弁護人らは、当審検察官の主張によると本件訴因は特定しな
いことになるので、刑訴三三八条四号により、判決で公訴を棄却すべきであり、然
らずとしても、訴因追加の検察官の主張は許容せらるべきでない、と答弁するので
(弁護人海野普吉外三名共同作成名義の「公訴事実、訴因並びに訴因についての検
察官の釈明に対する弁護人の意見」と題する書面参照)、この点に関連して、本件
訴因についての当裁判所の見解を説明することとする。
 二 第一審は、その審理終結当時、検察官の主張によつて確定した訴因に基づき
審理判決するのであり、また、しなければならないのである。控訴審は、原判決の
当否を審査することを目的とする事後審であるから、原審で確定された訴因を基準
にして審判すべきであることはいうまでもない。したがつて、控訴審において検察
官が、訴因について意見を表明したところで、訴因変更手続をしない限り、原審で
確定した訴因に影響を与えるものでないことは当然である。控訴審においても、事
実の取調を進めるにつれ、検察官から訴因変更の申出がある場合に、訴訟記録並び
に原裁判所及び控訴裁判所において取調べた証拠によつて原判決を破棄し自判して
も被告人の防禦に実質的不利益を及ぼさないと認められるようなときには、訴因変
更を許すべきものであろうが(昭和三〇年一二月二六日最高裁第二小法廷判決、最
高裁判例集九巻一四号三〇一一頁参照)、それはあくまで破棄自判する場合に限ら
れるのであつて、かりに、原判決を破棄しなければならないとしても、本件の如く
検察官の立証が全部尽くされていないため、控訴審において自判できないことが極
めて明白であるときは、訴因変更の問題を生じないことはいうまでもない。当審検
察官が訴因変更の請求と認められるような申出をした事実もないのであるから、も
とより当裁判所が訴因変更を許可する筈もない。したがつて、訴因不特定を理由と
して公訴棄却の判決をなすべきであるとの弁護人らの見解を採用できないことは明
らかである。
 三 1 本件訴因については、もはやこれ以上説明を加える必要はないのである
が、原審ではもとより当審においても、「工業用第二燐酸ソーダとして取引された
薬剤」の解釈をめぐつて、当事者双方が驚くほど多数回に亘り求釈明これに対する
釈明を繰り返しているので、念のため、原審が審理を終結した当時における本件訴
因はいかなるものであつたかの点について検討することとする。
 2 本件記録によると、原審検察官は、本件公訴を提起した当時においては、工
業用第二燐酸ソーダは砒素を含有し、しかも往々にして砒素を多量に含有する粗悪
品もある場合もあるから、被告人らは、購入した工業用第二燐酸ソーダを開函して
原料牛乳に混和使用するにあたり、その都度砒素の含有量を化学的に厳重検査すべ
き業務上の注意義務があつたと主張していたのであるが、原審における証拠調の結
果、本件で問題になつたB9製剤の出所、移動の経路及びその性質等が明らかにせ
られ、B9製剤が必ずしも工業用第二燐酸ソーダとは称し得ないことが判明したた
め、原審検察官は、昭和三二年四月一一日の第七回公判期日において、同年三月二
五日付釈明書(五の一九七〇)により、「公訴事実冒頭に記載した工業用第二燐酸
ソーダとは、工業用第二燐酸ソーダとしてこれまで取引せられ、また、将来取引さ
れる薬剤の総てを指称する。」と釈明するに至つたため、原審は、同年四月二七日
の第八回公判期日において、検察官の右釈明内容が、起訴状記載の公訴事実とは著
しく相違することを理由として、釈明の趣旨に従つて訴因変更の手続をなすことを
命じたため、原審検察官は、同年五月三一日の第九回公判期日において同年同月二
二日付訴因変更請求書(五の二〇二四)により、起訴状記載の公訴事実中五ヶ所に
工業用第二燐酸ソーダと記載されているところ、第一番目、第四番目及び第五番目
にそれぞれ「工業用第二燐酸ソーダ」と記載されているのをいずれも「工業用第二
燐酸ソーダとして取引された薬剤」と変更し、第二番目及び第五番目にそれぞれ
「工業用第二燐酸ソーダ」と記載されているのをいずれも「工業用第二燐酸ソーダ
として取引される薬剤」と変更し、その後、昭和三七年五月一九日の第四九回公判
期日において同年三月二四日付訴因変更請求書(三四の一五三二六)により、同年
一〇月二九日の第五四回公判期日において同年一〇月二四日付の訴因変更請求書
(三四の一五六〇六)により、前記第一の項で説示した公訴事実記載のとおり訴因
変更の請求をなし、原審が右各訴因変更を許可したことが認められるのである。
 3 (一) 前記公訴事実の記載、弁護人らの求釈明に対する原案検察官の各釈
明の趣旨並びに訴因変更の行なわれた経緯等に徴すると、公訴事実中に、「殊に右
薬剤が本来食品に使用される性質のものではなく」とある「薬剤」は、その数行前
に摘示されている「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」を指称している
ものであるところ、右「薬剤」の意義は、化学的検査義務を論ずる場合にはそのま
ま妥当するが、規格品発注義務を論ずるについては「工業用第二燐酸ソーダとして
取引される薬剤」の趣旨でなければならないことは論理上当然のことであり、そし
て、右にいう「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤もしくは取引された薬
剤」には、(a)正常な工業用第二燐酸ソーダ、(b)人体に有害な程度の砒素を
含有する工業用第二燐酸ソーダ、(c)化学上は第二燐酸ソーダとは称することは
できなくても、清缶剤等の用途に適するため、取引上の概念としては工業用第二燐
酸ソーダの範疇に入る薬剤、及び(d)化学上はもとより取引上も工業用第二燐酸
ソーダの範疇に属しない非第二燐酸ソーダである各種薬剤を含む趣旨であることが
認められる。検察官は、工業用第二燐酸ソーダは、本来食品に使用される性質のも
のではなく、主として工業用に使用される関係上、工業用第二燐酸ソーダなどとい
つて取引される薬剤もしくは取引された薬剤は、含有物質の種類、分量等の規格が
なく、品質の保証もなく、その成分も詳らかでないため、往々にして人体に有害な
砒素その他の物質を多量に含有する前記(b)、(c)及び(d)のような粗悪品
のある場合もあるから、被告人らは、第二燐酸ソーダを原料牛乳に混和使用するに
あたり、規格品発注(使用)の業務上の注意義務があり、規格品以外の第二燐酸ソ
ーダを混和使用するときには厳密な化学的検査を行ない、無害なものであること並
びにそれが第二燐酸ソーダであるか否かを確認すべき業務上の注意義務があつたと
主張しているのである。
 (二) 検察官は、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダ」なる用語に
は、概念として、工業用の粗悪な第二燐酸ソーダとともに工業用の正常な第二燐酸
ソーダをも包含しておると釈明し、(検察官の昭和三七年一〇月五日付釈明書参
照、三四の一五五七七)、さらに、右は、冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとし
て取引された薬剤」なる用語の概念を説明したものであり、そのような概念に該当
する薬剤は実在するものであり、現に実在した公訴事実一及び二掲記の薬剤(本件
事故惹起薬剤)も工業用第二燐酸ソーダの一例であると釈明している(昭和三七年
一〇月二四日付検察官釈明書参照、三四の一五六〇七)ことが認められる。
 (三) しかし、一方検察官は、本件は、工業用第二燐酸ソーダとして販売きれ
ていた薬剤を購入し、無検査で使用したことについて注意義務の懈怠を問擬してい
るのであるから、この場合はおいては、注意義務発生の前提となる事実は、工業用
第二燐酸ソーダとして取引せられていた薬剤に有毒なものが存在していたことまた
は存在する虞があつたことであつて、化学上の第二燐酸ソーダの有毒性の有無では
ない。したがつて、本件薬剤が、化学上の第二燐酸ソーダがあるか否か、或いは工
業用第二燐酸ソーダと称することが妥当であるか否かの議論は、注意義務の存在と
は関係のない事柄であるから、工業用第二燐酸ソーダの化学式を論ずることは何ら
必要がない、と釈明し(検察官の昭和三二年三月二五日付釈明書参照、五の一九七
〇)、そのようなことは予想されないが、もし現実に、硼酸、重曹、岩塩等が工業
用第二燐酸ソーダとして取引されたものがあれば、当然そのようなものも含まれる
趣旨である(原審第九回公判調書参照、五の二〇三三)と釈明し、公訴事実にいう
粗悪品とは、多量の不純物を含む化学薬品の意味である(検察官の昭和三三年一二
月五日付釈明書参照、一五の六六八八)と釈明し、本件公訴事実一及び二掲記の物
件(薬剤の意)は、取引界においては一応工業用第二燐酸ソーダの範疇に入るもの
であつたと考えられる、検査義務違反には同一性確認義務違反をも含めて併せて主
張する(原審第五二回公判調書参照、三四の一五五〇五)旨釈明し、公訴事実一及
び二記載の薬剤は「工業用第二燐酸ソーダとして取引されたものである」との主張
を維持するものであり、その意味は、第二燐酸ソーダという名称を付して取引され
た薬剤であるという意味である(検察官の昭和三七年七月一八日付釈明書参照、三
四の一五五一六)と釈明しているのである。
 (四) 右(三)に説示した検察官の各釈明内容から考えると、検察官が前記
(二)に説示したような釈明をしているからといつて、検察官主張の本件訴因の内
容は、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」の概
念を前記(a)、(b)及び(c)だけに限る主張であり、公訴事実一及び二記載
の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」、すなわち、B9製剤は前記
(c)に該当すると主張するのであるから、万一右B9製剤が(c)には該当せず
前記(d)に該当するという場合には、もはや被告人らの本件過失責任を追究する
ものではないとの趣旨の主張であるとは到底考えられないのである。そのことは、
検察官が、前記(三)で説示したとおり、原審第五二回公判期日において、B9製
剤は、取引界においては一応工業用第二燐酸ソーダの範疇に入るものであつたと考
えられる、と釈明している点にも端的に表明せられているというべきである。前記
第五の三の2で説示したとおり、検察官は、当初、被告人らの本件業務上注意義務
発生の基本的事実の内容をなす薬剤は、「工業用第二燐酸ソーダ」であると主張し
ていたのを、「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」であると訴因の変
更をしたのは、公訴事実一及び二掲記のB9製剤を右基本的事実をなす薬剤の概念
中に包含せしめるために外ならなかつたのである。元来、B9製剤が、取引上の概
念にせよ、「工業用第二燐酸ソーダ」の範疇に確実に入るというのであるならば、
毫も訴因変更の手続までする必要はなかつた筈である。
 (五) 要するに、前記(一)に記載したとおり、公訴事実冒頭に記載されてい
る「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」というのは、「工業用第二燐
酸ソーダとして取引される薬剤もしくは取引された薬剤」のことであり、右薬剤中
には前記(a)、(b)、(c)及び(d)を包含していることは明らかであると
いわなければならない。すなわち、検察官は、食品製造の業務に従事する被告人ら
が、原料牛乳に第二燐酸ソーダを添加使用するにあたり、工業用第二燐酸ソーダな
どと称せられて取引される薬剤を購入して使用したりしていると、時には右薬剤に
は前記(b)、(c)及び(d)のような薬品もあつて危険であるということを被
告人らの業務上注意義務発生の基本事実として、被告人らには規格品発注(使用)
及び化学的検査の業務上注意義務があつたと主張しているのであつて、かりに、B
9製剤を(c)であると主張しようと(d)であると主張しようとB9製剤が被告
人らの業務上注意義務発生の基本事実の将外に出るものではない。ただ、B9製剤
が(c)であるという場合には、実質上工業用第二燐酸ソーダと称し得る(b)及
び(c)には人体に有害な程度の砒素を多量に含有しているから危険であるという
ことであり、もし、B9製剤が(d)であるというときには、人体に有害な程度の
砒素を多量に含有する非第二燐酸ソーダである品名不詳の薬品が紛れ込む虞がある
ため危険であるという点に相違があるに過ぎないのである。
 検察官の主張する公訴事実一及び二掲記の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せ
られた薬剤」は、公訴事実冒頭掲記の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた
薬剤」の概念に包摂されるものではあるが、同一用語で表現せられていても、右両
者が異なる概念であることは、検察官の主張自体によつて明白であり、したがつ
て、公訴事実一及び二掲記の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」で
あるB9製剤は、具体的に一定の化学式で表示可能な薬剤であることはいうまでも
ないことであるが、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられ
た薬剤」を化学式で表示せよと要求するというが如きことは、論理上全く不可能な
ことを求めることであるといわなければならない。
 検察官は、公訴事実一及び二掲記の各薬剤は、B2から本件工場に三回に亘つて
納入せられたB9製剤であり、そのB9製剤に人体に有害な程度の砒素を多量に含
んでいたと主張しているのであるから、検察官がB9製剤を(c)もしくは(d)
であると主張したところで、そのために訴因が不特定になるというようなことは毫
もないのである。もし、検察官が、被告人らの本件業務上の注意義務が、第二燐酸
ソーダを使用すべきでなかつたと主張するのか、規格品使用義務があつたと主張す
るのか、いずれであるか不明であるような主張をしたり、または、本件事故惹起薬
剤が、砒素を多量に含有するB9製剤であると主張するのか、青酸加里を含有する
B9製剤以外の他の薬剤であると主張するのか、いずれの主張であるか不明である
ような主張をするときに、初めて訴因が特定しないということになるのである。
 (六) 原判決によると、原審は、原審の審理終結時までに確定された前記第五
の三の3の(一)で説示した内容の訴因に基づき、判決していることが認められる
のである。すなわち、原審も、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして
取引された薬剤」との主張のうちには、前記(a)、(b)、(c)及び(d)の
ものを包含していることを肯定し、昭和三〇年当時我が国の薬品業界に出廻つてい
た第二燐酸ソーダという薬剤は、(a)だけに限定され、(b)のように人体に有
害な程度の砒素を含有するものはなかつたし、(c)の如きものも存在していなか
つたとなし、(d)の存在は考えられないことはないとなしながら、被告人等の規
格品発注義務の有無を判断するにあたつては、このようなものの出現を予見するこ
とは不可能であつたと判断して、被告人らの規格品発注義務を否定したのであり、
また、被告人らの化学的検査義務の有無を判断するにあたつては、(d)の出現も
一応予見可能であつたとなしつつ、原判決のいわゆる法律的価値を有する信頼感や
過去の実績により、被告人らには化学的検査義務はなかつたと判断していることは
原判示の趣旨に照して明らかであるというべきである。
 したがつて、当審において、検察官が、B9製剤は特殊物質であり、工業用第二
燐酸ソーダの発注に対しては非第二燐酸ソーダの納入される危険性があると主張す
るのは、原審検察官が訴因として主張していたことを主張しているに過ぎないので
あつて、決して当審において初めて主張することではない。原審検察官が、B9製
剤は、一応(c)であると主張するが、(c)であることを固執するものではな
く、(d)である場合もあり得ると主張し、そのために公訴事実冒頭記載の「工業
用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」中には(a)、(b)、(c)及び
(d)が包含されると主張していたものであることは、前記説示によつて明らかな
ところであり、この意味においては、原審検察官がB9製剤の評価を択一的に主張
していたことが窺われるが、右公訴事実冒頭記載の薬剤、すなわち、(a)、
(b)、(c)及び(d)については、これを択一的に主張しているのではなく
て、終始(a)であることもあり(b)であることもあり(c)であることもあり
(d)であることもあると並列的に主張しているものであると理解できるのであ
る。検察官がB9製剤の評価を前記の程度に択一的にしたところで、そのことによ
つて訴因が不特定にならないことはもとよりであり、いわゆる訴因の択一的主張に
あたらないことはいうまでもない。
 第六 結論。
 原判決は、前記第二の六の項で説示したとおり、事実を誤認しひいて法令の解釈
を誤り、前記第三の七の6の項において説示したとおり、事実を誤認したものであ
り、さらに、前記第四の六の項において説示したとおり、事実を誤認しひいて法令
の解釈を誤つたものであるといわなければならない。 果してそうだとすると、右
各事実誤認や法令の解釈を誤つた違法が、判決に影響を及ぼすことが明らかである
か否かの点であるが、原判決は、本件工場の従業員らには何人にも注意義務の違反
はなかつたとし、その第二章第五の結論の項において説示しているように、被告人
A1及び同A2が、乳児用調整粉乳の製造に関し、どのような地位にあつたかとい
う点については全く判断を示していないことは原判示に徴し明白である。そして、
本件工場が乳児用調整粉乳を製造するにあたり、原料牛乳に安定剤として第二燐酸
ソーダを添加使用するとき、本件工場の従業員らのうちの何人かに、規格品発注
(使用)義務及び化学的検査義務のあつたことはすでに説示したところにより明白
であり、記録を精査しても、本件工場の工場長であつた被告人A1及び製造課長で
あつた被告人A2が、右乳児用調整粉乳の製造及びこれに伴う第二燐酸ソーダの購
入及び使用につき全く関係がなかつたという明白な資料はないのであり、したがつ
て、原判決別表第一及び第二に記載されている数百名の乳児が亜砒酸を多量に含有
する本件粉乳(原判決二〇丁表一二行目参照)を飲用したかどうかという点並びに
右乳児達がこれを飲用したために死亡したりもしくは傷害を被むるに至つたか否か
の点について審理して判断を加えてみたところで、到底被告人ら両名に検察官の主
張するような業務上の注意義務違反の事実を認め得べくもない、というような段階
にはないのであるから、原判決の前記のような事実誤認及び法令の解釈を誤つた違
法は、判決に影響を及ぼすことが明らかであるといわなければならない。
 よつて、検察官のその余の論旨に対する判断を省略し、刑訴三九七条一項、三八
二条及び三八〇条を適用して原判決を破棄し、同法四〇〇条本文にしたがつて本件
を徳島地方裁判所に差戻すこととし、主文のとおり判決する。
 (裁判長裁判官 加藤謙二 裁判官 木原繁季 裁判官 加藤龍雄)

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