弁護士法人ITJ法律事務所

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         主    文
     原判決を破棄する。
     本件を東京高等裁判所に差し戻す。
         理    由
 上告代理人千葉憲雄、同金綱正巳、同鶴見祐策の上告理由について
一 原審の確定した事実及び記録上明らかな本件訴訟の経緯は、次のとおりである。
 1 上告人は、DとE夫婦の三女として昭和八年に出生したが、生まれつき聴覚
等の障害があり、成長期に適切な教育を受けられなかったため、精神の発達に遅滞
があり、読み書きもほとんどできず、六歳程度の知能年齢にある。
 2 上告人の父Dは昭和四〇年三月二日に死亡し、その相続人は妻E、長女F、
二女G、三女上告人及び長男Hであったが、上告人を除く相続人らは、Dの遺志に
従い、上告人の将来の生活の資に充てるため、遺産に属していた東京都品川区ab
丁目に存する木造二階建店舗(以下「旧建物」という。)の所有権及びその敷地の
借地権を上告人が取得するとの遺産分割協議が成立したこととして上告人に対し旧
建物の所有権移転登記手続をした。そして、E、F、G及びHは、上告人が右1の
ような状態にあったので、以後、上告人と同居していたEとFが上告人の身の回り
の世話をし、主としてFが旧建物を管理することとした。旧建物について、昭和四
三年五月の上告人を賃貸人とする被上告人との間の賃貸借契約の締結、その後の賃
料の改定、契約の更新等の交渉にはFが当たったが、そのことについてだれからも
苦情が出ることはなかった。
 3 昭和五五年、I株式会社において旧建物の敷地及びそれに隣接する土地上に
等価交換方式によりビルを建築する計画が立てられ、右計画を実施するためには旧
建物を取り壊すことが必要になった。このビル建築をめぐる被上告人との間の交渉
には主としてFが当たり、同年九月一九日、被上告人が旧建物からいったん立ち退
き、ビルの完成後に上告人が取得する区分所有建物を改めて被上告人に賃貸する旨
の合意書(甲第四号証)が作成されたが、Fにおいて右合意書の上告人の記名及び
捺印をし、また、同年一一月一四日に作成された合意書(甲第八号証)についても、
Fにおいて上告人の記名及び捺印をした。
 4 その後、FとGは、市の法律相談で知ったJ弁護士に対し、新築後のビルの
中に上告人が取得することになる専有部分の建物(以下「本件建物」という。)に
ついての被上告人との間の賃貸借契約の条項案の作成等を依頼し、同弁護士は、契
約条項案(甲第三二号証)を作成した。これに対し、被上告人も、弁護士に依頼し
て契約書案(甲第七号証)を作成し、FとGに交付した。そして、昭和五六年二月
一七日、被上告人、F及びGがJ弁護士の事務所に集まり、同弁護士において予め
用意していた文書に、被上告人が自己の署名及び捺印をし、Fが上告人の記名及び
捺印をして、本件建物についての賃貸借の予約(以下「本件予約」という。)がさ
れた。本件予約には、(1) 被上告人は、上告人から本件建物を賃借することを予
約する、(2) 上告人は、被上告人に本件建物を引き渡すまでに、被上告人との間
で賃貸借の本契約を締結する、(3) 上告人の都合で賃貸借の本契約を締結するこ
とができないときは、上告人は、被上告人に対し四〇〇〇万円の損害賠償金を支払
う、という内容の合意が含まれていた。
 5 昭和五六年五月七日に上告人を含む土地の権利関係者とIとの間で等価交換
契約が締結され、被上告人は、旧建物を明け渡し、昭和五七年八月にビルが完成し
た。
 6 Fは、被上告人に対し、ビル完成前の昭和五七年四月ころ、Kを介して賃貸
借の本契約の締結を拒む意思を表明したため、被上告人は、上告人にあてて同年五
月一〇日及び二六日に本件建物を賃貸するよう求める旨の書面を送付したが、上告
人側は、これに対する回答をしないで、Lに対し、同年六月一七日付けで本件建物
を借入金の担保として譲渡した。そこで、被上告人は、同年七月九日、本件建物に
ついてのIに対する上告人の引渡請求権の処分禁止の仮処分決定を得、また、同年
八月三日、本件予約に定められた違約による損害賠償請求権を被保全権利として本
件建物につき仮差押えをした。
 7 被上告人は、上告人に対し、昭和五七年八月二七日、本件予約中の右4の(
3)の合意に基づき、四〇〇〇万円の損害賠償等を求める訴えを提起し、昭和六一
年二月一九日、右の請求を認容する旨の第一審判決が言い渡された。これに対し、
上告人から控訴が提起され、控訴審は、上告人による訴状等の送達の受領及び訴訟
代理権の授与が意思無能力者の行為であり無効であるとして民訴法三八七条、三八
九条一項を適用して、第一審判決を取り消した上、第一審に差し戻した。差戻し後
の第一審が被上告人の請求を棄却したので、被上告人が控訴した。
 8 この間、Fは、横浜家庭裁判所に対し、昭和六一年二月二一日、上告人を禁
治産者とし、後見人を選任することを求める申立てをしたところ、横浜家庭裁判所
は、同年八月二〇日、上告人を禁治産者とし、Gを後見人に選任する旨の決定をし
た。
二 原審は、右一の事実関係の下において、次のとおり判断し、被上告人の請求を
認容した。(1) 上告人がFに対し、本件予約に先立って、自己の財産の管理処分
について包括的な代理権を授与する旨の意思表示をしたとは認められないから、F
が上告人の代理人として本件予約をしたことは無権代理行為である。(2) しかし、
Fが上告人の事実上の後見人として旧建物についての被上告人との間の契約関係を
処理してきており、本件予約もFが同様の方法でしたものであるところ、本件予約
は、その合意内容を履行しさえすれば上告人の利益を害するものではなく、上告人
側には本契約の締結を拒む合理的理由がなく、また、後見人に選任されたGは、本
件予約の成立に関与し、その内容を了知していたのであるから、本件予約の相手方
である被上告人の保護も十分考慮されなければならず、結局、後見人のGにおいて
本件予約の追認を拒絶してその効力を争うことは、信義則に反し許されない。
三 原審の認定判断のうち、二の(1)は正当というべきであるが、同(2)は是認す
ることができない。その理由は、次のとおりである。
 1 禁治産者の後見人は、原則として、禁治産者の財産上の地位に変動を及ぼす
一切の法律行為につき禁治産者を代理する権限を有するものとされており(民法八
五九条、八六〇条、八二六条)、後見人就職前に禁治産者の無権代理人によってさ
れた法律行為を追認し、又は追認を拒絶する権限も、その代理権の範囲に含まれる。
後見人において無権代理行為の追認を拒絶した場合には、右無権代理行為は禁治産
者との間においては無効であることに確定するのであるが、その場合における無権
代理行為の相手方の利益を保護するため、相手方は、無権代理人に対し履行又は損
害賠償を求めることができ(民法一一七条)、また、追認の拒絶により禁治産者が
利益を受け相手方が損失を被るときは禁治産者に対し不当利得の返還を求めること
ができる(同法七〇三条)ものとされている。そして、後見人は、禁治産者との関
係においては、専らその利益のために善良な管理者の注意をもって右の代理権を行
使する義務を負うのである(民法八六九条、六四四条)から、後見人は、禁治産者
を代理してある法律行為をするか否かを決するに際しては、その時点における禁治
産者の置かれた諸般の状況を考慮した上、禁治産者の利益に合致するよう適切な裁
量を行使してすることが要請される。ただし、相手方のある法律行為をするに際し
ては、後見人において取引の安全等相手方の利益にも相応の配慮を払うべきことは
当然であって、当該法律行為を代理してすることが取引関係に立つ当事者間の信頼
を裏切り、正義の観念に反するような例外的場合には、そのような代理権の行使は
許されないこととなる。
 したがって、禁治産者の後見人が、その就職前に禁治産者の無権代理人によって
締結された契約の追認を拒絶することが信義則に反するか否かは、(1) 右契約の
締結に至るまでの無権代理人と相手方との交渉経緯及び無権代理人が右契約の締結
前に相手方との間でした法律行為の内容と性質、(2) 右契約を追認することによ
って禁治産者が被る経済的不利益と追認を拒絶することによって相手方が被る経済
的不利益、(3) 右契約の締結から後見人が就職するまでの間に右契約の履行等を
めぐってされた交渉経緯、(4) 無権代理人と後見人との人的関係及び後見人がそ
の就職前に右契約の締結に関与した行為の程度、(5) 本人の意思能力について相
手方が認識し又は認識し得た事実、など諸般の事情を勘案し、右のような例外的な
場合に当たるか否かを判断して、決しなければならないものというべきである。
 2 そうすると、長年にわたって上告人の事実上の後見人として行動していたの
はFであり、そのFが本件予約をしながら、その後Lに対して本件建物を借入金の
担保として譲渡したなどの事実の存する本件において、前判示のような諸般の事情、
特に、本件予約における四〇〇〇万円の損害賠償額の予定が、Lに対する譲渡の対
価(記録によれば、実質的対価は二〇〇〇万円であったことがうかがわれる。)等
と比較して、被上告人において旧建物の賃借権を放棄する不利益と合理的な均衡が
取れたものであるか否かなどについて十分に検討することなく、後見人であるGに
おいて本件予約の追認を拒絶してその効力を争うのは信義則に反し許されないとし
た原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるものというべきであり、右
違法は判決に影響することが明らかである。
四 以上の趣旨をいうものとして論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そ
して、右の点について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととす
る。
 よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判
決する。
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    尾   崎   行   信
            裁判官    園   部   逸   夫
            裁判官    可   部   恒   雄
            裁判官    大   野   正   男
            裁判官    千   種   秀   夫

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