弁護士法人ITJ法律事務所

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         主    文
     原判決を破棄する。
     本件控訴を棄却する。
         理    由
 弁護人永山忠彦の上告趣意は、憲法三一条違反及び判例違反をいう点を含め、実
質はすべて事実誤認の主張であり、弁護人堀川文孝の上告趣意のうち、被告人の自
白の任意性を争って憲法三一条違反をいう点は、記録によると、被告人の自白の任
意性を肯定した原判断は相当と認められるから、前提を欠き、その余は、憲法三一
条違反をいう点を含め、実質はすべて事実誤認、単なる法令違反の主張であり、弁
護人安福謙二の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、被告人本人
の上告趣意は、事実誤認の主張であって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由に当
たらない。
 しかしながら、所論にかんがみ職権をもって調査すると、原判決は、以下の理由
により破棄を免れない。
 一 本件公訴事実と第一、二審判決
 本件公訴事実は、「被告人は、昭和六〇年七月一三日午後六時ころ、東京都板橋
区ab丁目c番d号eマンション(以下「本件マンション」という。)前通路にお
いて、帰宅途中のA(当時九歳。以下「A」という。)を認めるや、同女が一三歳
未満であることを知りながら同女にわいせつ行為をしようと企て、同女を同マンシ
ョンf号棟二階に通ずる階段踊り場に連れ込み、同所において、同女に対し、着衣
の上から右手で陰部をもてあそんだうえ、更に同女を同マンションg号棟に連行し、
同日午後六時三〇分ころまでの間、三階から七階に至る各階段において、同女に対
し、着衣の上から陰部を触り、パンティ内側に手を差し入れて手指で陰部をもてあ
そんだほか、パンティを下げて陰部を舌でなめるなどし、もって、一三歳に満たな
い婦女に対し、わいせつ行為をなしたものである。」というのである。
 Aが右のとおりの被害を受けたことは、証拠上明らかであり、本件の争点は、そ
の犯人が被告人であるか否かの一点に帰するところ、第一審判決は、犯人と被告人
との同一性に疑いがあるとして被告人に無罪を言い渡したが、原判決は、検察官の
事実誤認の論旨を容れて第一審判決を破棄し、右公訴事実と同旨の犯罪事実を認め、
被告人を懲役一年二月に処した。
 二 事件及び捜査の経過
 本件記録から窺われる事件及び搜査の経過は、概ね以下のとおりである。
 1 Aは、本件当時小学四年生であり、本件マンションg号棟k号室に両親と共
に居住していたものであるが、昭和六〇年七月一三日(以下昭和六〇年については、
月日のみを記すことがある。)午後六時ころから午後六時三〇分ころまでの間、一
見外人(白色人種)風の容貌でありながら日本語を流暢に話す若い男から本件の被
害を受けた。その際、本件マンションの管理人であり、f号棟h号室に居住するB
(以下「B」という。)は、たまたま、f号棟二階に通ずる階段踊り場を通り掛か
り、そこにいるAと犯人を見掛け、犯人と言葉を交わしたが、犯行には気付かない
ままその場を通り過ぎた。他方、被告人は、アメリカ人の父と日本人の母との間に
福岡県で出生し、以来日本国内で生育し、昭和五九年一〇月ころから本件マンショ
ンf号棟i号室に祖父や母親と共に居住していたものである。
 2 Aは、本件被害のことを当初は誰にも告げなかったが、被害の翌々日の七月
一五日、通学先の学校で、同級生のC(以下「C」という。)とD(以下「D」と
いう。)に本件被害の事実を告げたことから、その話が担任教師に伝わり、同月一
六日夕刻、同教師からAの母E(以下「E」という。)に連絡された。そこで、E
がAに問いただしたところ、Aは被害の事実を認めるとともに、犯人は本件マンシ
ョンに住む外人風の若い男であると告げた。そのため、EがBに右被害の事実を伝
えて、本件マンションの住人中に右のような若い男がいるかどうかを尋ねたところ、
Bは本件マンションの住人で右の特徴に当てはまる人物は被告人だけであると答え
るとともに、a警察署j派出所に右被害発生の事実を通報し、駆けつけた警察官に
対しても、犯人は被告人と思われる旨を申し立てた。このため、ほどなく、被告人
は、警察官によりa警察署に任意同行を求められて取調べを受け、同日夜右警察署
で行われた面通しの結果、Aが、被告人が犯人であることに間違いないと認めたの
で、本件犯行の容疑により緊急逮捕されるに至った。
 3 なお、A及びBは、いずれも、捜査段階及び第一、二審において、一貫して
犯人は被告人であると断定する供述をしている。一方、被告人は、緊急逮捕されて
以来、本件犯行を否認していたが、七月二六日に司法警察員に対し、次いで同月三
一日には検察官に対して、本件犯行を自白し、その旨の供述調書が作成された。し
かし、被告人は、公判廷では犯行を否認している。
 三 原判決の検討
 原判決は、捜査段階以来のA及びBの各供述はいずれも大筋において信用するに
足り、第一審判決が同人らによる犯人と被告人との同一性識別の正確性を疑うべき
根拠として説示するところの大半は、これを支持することができず、かえって同人
らによる右同一性識別の正確性には疑問を容れる余地がないと認められ、他方、被
告人の捜査段階における自白も、第一審判決が指摘するように不完全なものである
とはいえ、その信用性はさほど低いとはいえず、犯罪の証明は十分であるとしてい
る。
 しかしながら、以下のとおり、原判決の右各証拠の評価には、少なからぬ疑問が
ある。
 1 Aの供述について
 (一) Aは、第一、二審を通じて、本件被害状況、その途中でBに出会った際
の状況、犯人の容貌・話し振り・服装・所持品等につき、詳細かつ具体的に供述し
ている。しかも、原判決が指摘するように、Aは、約三〇分間にもわたって犯人と
行動を共にしているのであるから、犯人と被告人との同一性を判断するに当たって
は、Aの供述が最も重視されるべきである。しかし、他方、人物の同一性識別供述
については、成人についてもその正確性が問題とされる場合が少なくないところ、
特にAのような小学四年生程度の年少者の場合は被暗示性が強いから、Aの供述の
信用性についても、慎重に吟味する必要がある。そこで、これを検討すると、その
供述には、次のような疑問点がある。
 (二) まず、原判決は、犯人がAにとって既知の人物であったこと、約三〇分
間にもわたって犯人と行動を共にし、被害者として犯人を注視していたこと、被告
人が純粋な白人とも異なる特徴的な容貌の持ち主であること、Aには過去に白人系
の外国人と交際した経験もあること、Aが被害から三日後のa警察署における面通
しの際に躊躇なく被告人を犯人と指摘したことなどに徴すると、犯人は被告人であ
るとするAの供述の信用性は高いと判示している。しかしながら、犯人がAにとっ
て既知の人物であるという点は、Aの供述によれば、以前に二、三回見掛けたこと
があるという程度であり、言葉を交わしたこともないというのである。また、Aに
よる面通しについてみると、前記二の2のとおり、担任教師及びAの母に本件被害
の事実が伝えられ、Bの申立があつて、警察も被告人を容疑者として任意同行し、
その後右面通しが行われるに至ったという経過をたどっているのであって、このよ
うに、右面通しまでに、かなり多くの人々が被告人を犯人として特定することに関
与しており、Aもそのことを知ったうえで面通しに臨んだものと認められる。しか
も、本件の面通しには、当時の状況からやむをえない面があったにせよ、暗示性が
強いためできる限り避けるべきであるとされているいわゆる単独面通しの方法がと
られている。このような事情に徴すると、Aが面通しにおいて被告人を犯人と指摘
するに当たり、暗示を受けていた可能性を否定することができない。
 (三) 次に、原判決は、被告人が本件の犯人であるとするAの供述が、同級生
との会話により犯人についての暗示を受けた結果によるものではないかとの点に関
し、Aは、第一審において、犯人は初めて見る人物ではなく、以前に本件マンショ
ン一階のスーパーマーケット内やf号棟の前あたりで二、三回見掛けたことのある
人物であり、被害当時既にそのことに気付いていたと供述し、原審においては、被
害当時から犯人が本件マンションの住人ではないかと思っていたと供述しているの
であるから、被害のあった翌々日(七月一五日)のCらとの会話から、犯人が本件
マンションの住人であると思い込み、そのゆえに、本件マンションの住人である被
告人を本件の犯人であると認めるに至ったとみるのは、相当ではないと判示してい
る。しかし、Aは、原審においては、原判示のように被害当時から犯人は本件マン
ションの住人であると思っていたと供述しているが、第一審においては、被害当時
犯人が本件マンションの住人であるかどうかは分からず、Cとの会話により本件マ
ンションの住人であると思ったと供述していたのである。しかも、Aは、前記七月
一五日学校でCやDと話をした際、本件マンションf号棟一四階に住むCから、日
本語が堪能な外人にマンションのエレベーターの中までついて来られたことがあり、
そのときその外人はエレベーターの五階のボタンを押していた旨聞いたと第一審及
び原審において供述し、Dからは、本件マンション近くの歩道橋の上で男から英語
を教えてあげようかといって肩を掴まれた旨聞いたと原審において供述している。
そうすると、Aは、被害当時は本件の犯人が本件マンションの住人であるかどうか
は分からなかったのに、Cらとの会話を通じて、本件の犯人はCやDの話す男と同
一の人物で、本件マンション五階の住人であると思い込み、そこから本件マンショ
ンに住んでいる被告人を本件の犯人であると特定するようになったのではないかと
の疑いを否定することができない。
 (四) さらに、原判決は、犯人が胸に「ポパイ」というような英字の入ったT
シャツを着ていたというAの第一審における供述は、本件マンションに住む中学二
年生のFが、原審において、本件犯行があった昭和六〇年夏ころ、本件マンション
の近くで被告人がそのようなTシャツを着ているのを見掛け、流行遅れのものを着
ていると感じて印象的であったと供述していることによって、その信用性が補強さ
れていると判示している。なるほど、Fは、原審において一見原判決の説示に沿う
かのような証言をしている。しかし、右証言をみると、Fは、被告人を見掛けたの
は、昭和六〇年の夏で、小学校が夏休みに入った七月下旬以降のことであったとか、
昭和六一年中にも見掛けたと明確に供述しているのであり、他方、被告人は昭和六
〇年七月一六日に逮捕され、以後引き続き昭和六一年一二月一一日第一審の無罪判
決により釈放されるまで継続して勾留されていたのであるから、右Fの証言は、時
期の点において疑問があり、被告人以外の人物を被告人と見誤っているのではない
かという重大な疑いがある。また、後述のとおり、被告人は、捜査段階の自白にお
いてすら、このようなTシャツを着ていたことは述べておらず、他に被告人がこの
ようなTシャツを所持していたことを裏付ける証拠もない。
 (五) なお、犯人の特徴等を確認する尋問に対するAの供述をみると、例えば、
第一審において、背の高さは忘れた、自分の父親より高いかどうかも分からない、
目の色、眉毛、髭がどのようなものであったかも分からないと供述しているのに、
原審においては、目のあたりが窪んでいることと背の高さからみて被告人が本件の
犯人であることに間違いないと供述するなど、第一審よりも原審の方が詳細であり、
また、被告人をより強く本件の犯人であると断定する内容となっている。しかし、
いうまでもなく、犯人識別供述の正確性は、一般的にも、むしろ犯行時により近い
時点での供述内容が重要であり、被告人について見聞きした後に至っての詳細、強
固となった供述をそのとおり信用することには、問題があるというべきである。
 (六) 以上のとおり、本件の犯人と被告人の同一性識別に関するAの供述の信
用性については、疑問を挟む余地があり、原審が、これを前示のような理由によっ
て信用性が高いとした判断は、たやすく是認することができない。
 2 Bの供述について
 (一) Bは、第一、二審公判において、七月一三日夕刻本件マンションf号棟
一、二階の間の階段踊り場で被告人とAが一緒にいたのは間違いないと供述してお
り、原判決は、右のBの供述は本件の犯人が被告人であるとするAの供述の信用性
を裏付けていると判示している。しかし、Bの供述には、次のとおり、その信用性
を疑わせる幾多の重大な疑問がある。
 (二) まず、B及びAの供述によれば、犯人が、本件犯行の際通り掛かったB
に対し、「Gさんという人の家を知りませんか。英語を教えに来たんですけど。」
などと尋ね、Bが、「そういう人はいない。ここは英語をやるところじゃない。無
断でそのようなことをすると館内放送をする。」などと答えた事実が認められる。
 ところで、原判決は、右の「館内放送をする。」というBの発言は、その放送の
意義や実態等からみて、Bがその際犯人を本件マンションの住人ではなく、外部か
ら立ち入って来た者と認識していた疑いがあるとしながらも、Bは、七月一三日の
夕刻には午後七時から開始予定の本件マンションの自治会役員会の準備に追われて
おり、Aと一緒にいた犯人から、英語教授うんぬんの話を聞いて、とっさにその男
を本件マンション外部の者と早合点して、前記のような応対をしたものであって、
そのときはこの件を格別気にも留めていなかったが、その後同月一六日に、Eから、
Aの本件被害の模様や犯人の人相、特徴等を聞くに及んで、直ちに、同月一三日の
夕刻にAと一緒にいた男と英語教授の件で話をしたことを思い出すとともに、その
ときの会話の相手が被告人であることに気付くに至ったものと認められると判示し
ている。しかし、そもそも、右の原判示のような経過による記憶の喚起ということ
自体が不自然というべきで、にわかに首肯し難いばかりでなく、記録によると、B
は、右の点に関し、捜査段階から第一、二審公判を通じ、従前から被告人の顔をよ
く知っており、本件当日Aと一緒にいた男と前記のような会話をした時点で既にそ
の相手が被告人であると気付いていた旨を一貫して供述しているのであって、一度
も原判示のような経過で記憶を喚起したとは供述していない。したがって、右の原
判示には、疑問がある。
 加えて、右の会話をした時点で相手が被告人であることに気付いていたというB
の供述は、明らかに外来者に対して向けられたものと解せられる「館内放送をする。」
などというBの犯人に対する言動とは、合理的な説明がない限り矛盾するというほ
かはない。そのため、Bは、第一、二審公判において、繰り返し訴訟関係人からそ
の点について説明を求められたのに、結局納得のいくような説明ができないまま尋
問を終えているのであるから、右の供述についても、重大な疑問がある。
 (三) また、原判決は、右のBの記憶喚起の点について、Bは、被告人が本件
マンションに入居する以前に二回ほどB方に同人の子供を訪ねて来たことがあり、
本件犯行当時、被告人の顔を知っていたと認められるものの、Bがいかに本件マン
ションの管理人であるとはいえ、被告人の顔を、他の多数のマンションの住人の顔
からとっさの間に逐一識別して、思い出せるほどに熟知していたものとは到底考え
られないから、七月一三日の夕刻にAと一緒にいた男すなわち犯人が被告人であっ
たことを、前記のような経過で同月一六日に至って思い出したとしても、あながち
不自然であるとはいえないと判示している。しかし、Bの供述中、前記の従前から
被告人の顔をよく知っていたと供述する部分については、Bの居室と被告人のそれ
とが同じ棟で近接していることや、被告人が純粋の白人とも異なる特徴的な容貌の
持ち主であることなどに照らし、その信用性を疑うべき理由を見出せないから、B
が被告人の顔を他の者と識別できるほどに熟知していなかったとの原判示にも、疑
問がある。また、仮に、Bの被告人に対する面識が原判示の程度のものに過ぎなか
ったとすれば、Bは犯人との会話をその後特に気にも留めていなかったというので
あるから、三日後に犯人の顔などを思い浮かべて、それが被告人であったと確信を
持って断定できるなどということは、これまた不自然というほかはなく、容易に首
肯できることではない。
 (四) さらに、記録によると、Bは、七月一六日にAの母Eから本件被害のこ
とを聞いて初めて本件犯行があったことを知ったが、その際、Eに対し、本件犯行
のあったときに被告人がAと一緒にいたのを目撃した事実を告げておらず、その後
自室を訪れたH巡査に対しても、右の事実を告げていないことが明らかである。原
判決は、この点について、七月一六日にBがEやH巡査と話をした際の会話の主題
が、本件犯行による被害の有無とか、そのときBが本件犯行の際にAや被告人を見
掛けたことの有無などではなく、問題となっている人物が本件マンションの住人で
あるかどうかであったことなどに徴すると、その際にBがEや同巡査に前記目撃の
事実を話さなかったからといって、直ちに、七月一六日の時点においても、Bが右
目撃した際の会話の相手が被告人であったことに十分な確信を持っていなかったも
のと断ずることはできないと判示している。しかしながら、Bは、EやH巡査と話
をした際、Aがいつどこでどのような犯人にいたずらされたと言っているのかは聞
かされているのであり、犯人を特定することがこの時点での最も重要な課題であっ
たことは明らかである。そうすると、Bが一三日の会話の相手が被告人であったこ
とに十分な確信を持っていたのであれば、犯行の現場に出会わせた当人として、E
やH巡査と話をした際前記目撃の事実に言及するのが自然であり、言及しなかった
というのは容易に首肯できることではない。
 また、記録によると、Bは、七月一六日に本件犯行を警察に通報した直後、被告
人方に電話を掛け、電話に出た被告人の祖父に被告人が英語を話すかどうかを確認
していることが明らかである。原判決は、この点については、Bの供述によると、
七月一三日夕刻の前記会話の相手が英語の教授うんぬんを口にして、その教授を装
っていたふしがあったので、既に被告人を犯人として派出所に通報していた手前も
あり、念のため、果たして被告人が英語を話すかどうかを確認しておこうとの考え
に出たものであることが明らかであるから、この点は、七月一六日の時点でBが、
右会話の相手が被告人であることを認識していた証左であるとはいいえても、逆に
Bがそのことに確信を持っていなかった証左になるものではないと判示している。
しかし、Bは、この被告人方への電話をする以前には、EやH巡査に対してはもち
ろん、誰に対しても自分が七月一三日にAと被告人が一緒にいるのを見掛けたとは
告げていないのであるから、わざわざこのような電話をしたという事実は、むしろ、
Bが、その時点においても、一三日の会話の相手が被告人であったかどうかについ
て、必ずしも十分な確信を持っていなかったことを窺わせるものと考える方が自然
である。
 (五) このようにみると、Bの供述については、幾多の重大な疑問があり、そ
の信用性はむしろ低いというべきである。その他原判決がBの供述の信用性を裏付
ける事情として述べる点を考慮しても、前示のような理由によって、Bの供述はA
の供述の信用性を裏付けているとした原判断は、これを是認することができない。
 3 被告人の自白について
 (一) 捜査段階における被告人の自白については、第一審判決が、AやBの供
述と矛盾する点が含まれており、いわゆる秘密の暴露もないことなどから、その信
用性はそれほど高くないとしているのに対し、原判決は、自白が第一審判決の指摘
する欠陥を含み、不完全なものであることを認めつつも、被告人がそれまでの否認
から自白に転じた動機に関する部分は、十分に首肯しうるものであるうえに、犯行
の経緯及び状況自体に関する部分は、極めて詳細かつ具体的であって、A及びBの
供述にも概ね符合していること、一般的に、被疑者が種々の思惑から必ずしも犯行
の全容を余さず供述するものとは限らないことを指摘し、被告人の自白の信用性は、
原判決の認定に沿う限りにおいて認めることができるとしている。
 (二) しかし、具体的に、被告人の自白とA及びBの供述とを対比してみると、
以下のとおり、たやすく看過し難い相違点がある。すなわち、①犯行時の犯人の服
装に関し、Aは、上半身が「ポパイ」というような英語の文字が書かれた暗い色の
Tシャツ、下半身がグリーンがちょっと灰色っぽくなった色の長ズボンであったと
供述しているが、自白調書では、上半身が白色半袖ポロシャツ、下半身が紺色ズボ
ンとなっている(Bは何も覚えていない旨供述している。)。②犯行時の犯人の所
持品に関し、Aは、濡れていない黒の折り畳み傘、東京二三区の地図、英単語とそ
れに対応する絵が書かれたカード数枚と供述しているが(原審供述では、これらに
黒のポーチも加わっている。)、自白調書では、友人のIに届けるために作ったお
にぎり二個を入れたJ百貸店の紙袋を持っていたとあるだけで、Aの供述にある物
品については何らの記載もない。また、Aは自白にあるような紙袋は見ていないと
供述している(Bは右の所持品の点についても何も覚えていない旨供述している。)。
③犯人がAに接近した際の言葉などに関し、Aは、犯人に後ろからまず右肩を、次
に右腕を掴まれ、「このマンションで、Gさんという人はいませんか。Gさんとい
う人に英語を教えに来たんですけど。」などと言われ、「知りません。」と答えた
と供述しているが、自白調書では、僅かに、Aには肩を右手でたたきながら「今日
は。」と声を掛けたとなっているのみである。④階段踊り場での犯人とBとの会話
などに関し、A及びBは、BがAに「Aちゃん。」と呼びかけたところ、犯人はB
に「Gさんという人の家を知りませんか。英語を教えに来たんですけど。」などと
尋ねたのに対し、Bが「そういう人はいない。ここは英語をやるところじゃない。
無断でそのようなことをすると館内放送をする。」などと答えたと供述しているが、
自白調書には、僅かに「二階エレベーターの方から来た管理人さんに何か声を掛け
られました。私は一瞬ビックリしましたが、『今日は。』と言ってその場をごまか
しました。」と記載されているのみである。
 (三) さらに、右の相違点に関し、その余の証拠をみると、①の服装の点につ
いては、被告人の母及び前記Iが本件当日の被告人の服装として右自白に沿うよう
な供述をしている一方、Aの供述にある「ポパイ」のTシャツと被告人の関係につ
いては、前記1の(四)で触れたF証言のほかには、被告人が当時このようなシャ
ツを所持していたことを裏付ける証拠はない。また、②の所持品の点については、
自白にある紙袋等は、本件犯行前後の時間帯に付近の病院に入院していた前記Iを
見舞いに行ったという自白にも出ている被告人の行動と密接に結び付いており、こ
れに符合するIの供述もあるが、Aの供述にある所持品特に英単語カードのような
ものを被告人が所持していたことを裏付ける証拠はない。
 以上のとおり、被告人の自白とA及びBの供述とを対比してみると、容易に無視
できない食い違いがある。しかも、そのことは、捜査段階でも、捜査官が容易に知
ることができ、かつ、捜査を尽くすことができたと思われるのに、本件においては、
捜査官が、当時これらの食い違いに気付き、関心を持って被告人やAを取り調べた
り、Aの供述にある犯人の着衣や所持品について被告人方を捜索するなどの捜査を
したような形跡もなく、問題点が解明されないまま起訴されるに至っている。
 (四) 他方、被告人の自白中犯行状況に関する部分は、極めて詳細かつ具体的
であり、特にわいせつ行為については各階段等の場所毎に分けてAの供述とほぼ完
全に一致している。しかし、被告人が自白する前に、Aが捜査官に対し被害状況に
ついて詳細な供述をしていたことが明らかであるから、これらの供述は、犯人でな
ければなしえないものということはできない。また、自白調書には、被告人の犯行
時の心理描写はあるが、自白調書全体を精査しても、本件の犯人でなければ述べえ
なかったであろうと思われる事実の記載は見当たらず、もとより、被告人の自白に
いわゆる秘密の暴露がないことは、原判決も述べているとおりである。
 (五) このようにみてくると、被告人の自白の信用性については、疑いを容れ
る余地が多分にあるというべきであるから、原判決の認定に沿う限りにおいて信用
できるとした原判断は、これを是認することができない。
 四 結論
 以上のとおり、A及びBの供述と被告人の捜査段階の自白は、その信用性に疑い
を容れる余地があり、被告人を犯人と断定するについてはなお合理的な疑いが残る
というべきである。そうすると、被告人を有罪とした原判決は、証拠の評価を誤り、
判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認を犯したものといわざるをえず、これを破
棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。そして、本件については、既
に第一、二審において、必要と思われる事実審理は尽くされており、今後、A及び
Bに対し更にその供述を求めても、事柄の性質上、その各供述に関する前記のよう
な疑問点が解消することは期待できないと考えられるから、本件は、当審において
自判するのが相当である。
 よって、刑訴法四一一条三号により原判決を破棄し、被告人を無罪とした第一審
判決は相当であり、これを維持すべきものであって、検察官の控訴は理由がないか
ら、同法四一三条但書、四一四条、三九六条によりこれを棄却することとし、裁判
官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
 検察官松田昇 公判出席
  平成元年一〇月二六日
     最高裁判所第一小法廷
         裁判長裁判官    四 ツ 谷       巖
            裁判官    角   田   禮 次 郎
            裁判官    大   内   恒   夫
            裁判官    佐   藤   哲   郎
            裁判官    大   堀   誠   一

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