弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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       主   文
1 原判決を破棄し,第1審判決を取り消す。
2 被上告人が上告人に対して平成2年7月19日付けでした労働者災害補償保険
法に基づく療養補償給付を支給しないとの処分を取り消す。
3 訴訟の総費用は被上告人の負担とする。
       理   由
 上告代理人松丸正の上告受理申立て理由について
1 本件は,貿易会社の営業員として勤務していた上告人が,海外出張中の平成元
年12月7日にせん孔性十二指腸かいよう(以下「本件疾病」という。)を発症し
たことにつき,被上告人に対し,労働者災害補償保険法に基づき療養補償給付の請
求をしたところ,被上告人から,本件疾病は業務に起因することの明らかな疾病に
当たらないとして同2年7月19日付けで不支給決定(以下「本件処分」とい
う。)を受けたため,その取消しを求めた事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) 上告人は,昭和59年3月1日に神戸市所在のA社に入社し,営業員とし
て勤務していた。同社は,主に,日本及び極東地域の商品製造業者と諸外国の業者
との間の商品売買の代行等の代理店業務を営む会社である。上告人の通常の業務内
容は,海外の顧客との通信文書の原文作成,商品製造業者との価格,納期等の交
渉,顧客からの依頼に対する回答,新しい商品の探索,海外の代理店への指示など
を行うことであった。上告人の所定労働時間は,午前9時から午後5時30分まで
のうち休憩時間を除いた7時間30分で,所定休日は,土曜日,日曜日,夏期休暇
7日間及び冬期休暇14日間であった。上告人は,1年間に4回程度海外出張をし
ていたが,これらは,香港ないし台湾の同社の現地事務所に赴き打合せをするとと
もに,これと前後して目的の国において商談等を行うというもので,出張先はおお
むね1か所だけであった。
(2) 後記(3)の出張を別として,上告人の本件疾病の発症以前1年間におけ
る各月の時間外労働等の状況をみると,上告人は,出張がない月にはおおむね時間
外労働又は休日労働をしておらず,出張をした月においても,時間外労働は18時
間,休日労働は3日間を超えることはなかった。上告人は,後記(3)の出張以前
2か月間は,時間外労働も休日労働もしていなかった。
(3) 上告人は,平成元年11月20日から同月24日にかけて,大阪,東京,
三重等に出張し,海外の顧客を上記各地の事業所に案内して商談ないし接待を行っ
た。上記国内出張(以下「本件国内出張」という。)に係る5日間において,商談
その他の付随業務及び接待に要した時間は,合計68時間(1日当たり平均13.
6時間)であった。また,同月25日は休日であったが,上告人は,前日までの記
録の整理及び翌日からの海外出張(以下「本件海外出張」といい,本件国内出張と
併せて「本件各出張」という。)の準備を行った。
(4) 本件海外出張は,平成元年11月26日から同年12月9日までの予定
で,大韓民国,台湾,シンガポール,マレイシア,タイ及び香港を出張先とし,上
告人が,A社のB社長と共に,同社の顧客である英国のC社のD取締役及びE取締
役の出張に随行し,現地代理店の業務の促進,営業等を行うというものであった。
C社は英国の大手の文具問屋であり,A社は,従前から上記会社が取り扱うアルバ
ムの貿易代行をしていたが,本件海外出張当時,貿易代行の対象となる商品を文具
一般に広げる準備を進めており,本件海外出張はその実績を作る重要な出張として
位置付けられていた。
(5) 本件海外出張中の上告人の業務内容,本件疾病の発症に至る経緯等は,次
のとおりである。
ア 平成元年11月26日,航空機で大阪から大韓民国のソウルに移動し,B社長
と共にD,E及び現地代理店担当者と打合せをし,D及びEを接待した。
イ 同月27日,D及び現地代理店担当者と共に商品製造業者4社を訪問し,商談
をした後,商品製造業者側の接待を受けた。
ウ 同月28日,航空機でソウルから台湾の台北へ移動し,英文でレポートを作成
した後に,B社長及び現地代理店担当者と打合せをし,Dを接待した。
エ 同月29日,D及び現地代理店担当者と共に商品製造業者4社と商談を行い,
商品製造業者側の接待を受け,さらに,Dを接待した。
オ 同月30日,D及び現地代理店担当者と共に商品製造業者3社と商談を行い,
商品製造業者側の接待を受けた。
カ 同年12月1日,航空機で台北から香港を経由してシンガポールへ移動し,シ
ンガポールで商品製造業者1社と打合せをした。
キ 同月2日,D,E及びタイの代理店担当者と共にマレイシアの工場を訪問して
商談をした後,シンガポールで商品製造業者側の接待を受けた。
ク 同月3日,B社長及びタイの代理店担当者との打合せ並びに英文の業務レポー
ト作成をした後,D及びEを接待した。
ケ 同月4日,シンガポールで,B社長と共にE及びタイの代理店担当者と打合せ
をし,Dと共に商品製造業者1社を訪問した後,タイのバンコクへ移動し,Dを接
待した。なお,上告人は,同日から食欲減退を訴えている。
コ 同月5日,タイの現地代理店と打合せを行った後,現地代理店担当者と共にD
を市内に案内し,接待した。
サ 同月6日,D及び現地代理店担当者と共に商品製造業者1社を訪問して商談を
した後,Dを接待した。
シ 以上の11日間の接待を含む労働時間は合計144.5時間(1日当たり平均
約13.1時間)であり,時間外労働は62時間,休日労働は2日間であった。
ス 同月7日,D及び現地代理店担当者と共に商品製造業者1社を訪問して商談を
した後,航空機でバンコクから香港へ移動する途中の午後3時45分ころから腹痛
を訴え,香港到着後も腹痛が治まらず,同日午後10時ころ,ホテルから救急車で
病院に搬送された。上告人は,同日,同病院に入院し,同月8日に抗かいよう剤の
投与を受けたが,翌9日に本件疾病と診断されて開腹手術などの治療を受けた。上
告人は,翌平成2年初めころからは回復に向かい,その後退院した。
(6) 上告人は,昭和27年3月27日に出生し,昭和44年ころに十二指腸か
いようにり患し,同55年ころにも十二指腸かいようの傾向があるとして治療を受
けた。さらに,同63年2月,腹部に痛みがあったため病院で受診したところ,十
二指腸球部に活動期のかいよう2個及び治癒期のかいよう1個が発見された。この
発症部位は本件疾病の発症部位とほぼ同一である。同病院では,上記疾病の治療と
して,抗かいよう剤の投与と食事指導が行われた。その結果,同年3月1日には自
覚症状が消失した。その後,上告人は,同年4月25日に胃内視鏡検査の予約をし
たが来院せず,更に2回の通院後,同年6月28日以降翌年12月の本件疾病発症
に至るまで通院しておらず,医師の処方による抗かいよう剤も服用していなかっ
た。上告人は,本件疾病発症当時は,37歳であった。
(7) 十二指腸かいようその他の消化性かいようは,胃液中の塩酸によって活性
化されたペプシンの消化作用により生ずる胃や十二指腸を中心とした上部消化管の
壁組織欠損をいい,せん孔はその合併症である。消化性かいようの発生の要因とな
るものは,遺伝的又は体質的素因としての生物学的要因,かいよう患者が示す一定
の性格や行動様式といった心理的要因及びストレス刺激となる社会的要因の三つで
あると考えられていたが,近時においては,人の胃粘膜などに生育するグラム陰性
のらせん菌であるヘリコバクター・ピロリ菌への感染が重要な要素であり,消化性
かいようはヘリコバクター・ピロリ菌感染に伴う胃粘膜障害等にストレス等の複数
の要因が加味されて発生することが多いと考えられるようになり,消化性かいよう
にり患した患者の中でヘリコバクター・ピロリ菌の除菌に成功した例とそうでない
例との間ではその再発率に格段の相違があることが明らかになった。上告人が本件
疾病以前に前記のとおり十二指腸かいようの既往を有し,本件疾病が前回の疾病と
ほぼ同一部位に生じていること,壮年期以降の日本人の60%程度はヘリコバクタ
ー・ピロリ菌に感染している旨の平成8年発表の報告があることによれば,本件疾
病は,上告人のヘリコバクター・ピロリ菌感染を要因の一つとして,上告人の既往
症である慢性十二指腸かいようが再発してせん孔に至ったものと推認される。
(8) 本件疾病の治療を行った3人の医師は,それぞれ,本件疾病について,上
告人の海外出張中の業務によるストレスのため,慢性十二指腸かいようが悪化し,
せん孔が起こった可能性が高いとの見解を示している。
3 上記事実関係等の下において,原審は,本件各出張が上告人に著しいストレス
を与えたとまでは認められない上,上告人が前回の疾病後に十二指腸かいようの治
療を怠っていたことからすると,このことが本件疾病発症の原因ではないかと疑わ
れ,上告人の上記ストレスが相対的に有力な原因として本件疾病を発症させたとま
では認めることはできず,本件疾病が本件各出張中の業務上のストレスに起因する
疾病であると認めることはできないと判断した。
4 しかし,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおり
である。
 前記事実関係等によれば,上告人が本件疾病の発症以前にその基礎となり得る素
因又は疾患を有していたことは否定し難いが,同基礎疾患等が他に発症因子がなく
てもその自然の経過によりせん孔を生ずる寸前にまで進行していたとみることは困
難である。そして,本件疾病を発症するに至るまでの上告人の勤務状況は,4日間
にわたって本件国内出張をした後,1日おいただけで,外国人社長と共に,有力な
取引先である英国会社との取引拡大のために重要な意義を有する本件海外出張に,
英国人顧客に同行し,14日間に六つの国と地域を回る過密な日程の下に,12日
間にわたり,休日もなく,連日長時間の勤務を続けたというものであったから,こ
れにより上告人には通常の勤務状況に照らして異例に強い精神的及び肉体的な負担
が掛かっていたものと考えられる。以上の事実関係によれば,本件各出張は,客観
的にみて,特に過重な業務であったということができるところ,本件疾病につい
て,他に確たる発症因子があったことはうかがわれない。そうすると,本件疾病
は,上告人の有していた基礎疾患等が本件各出張という特に過重な業務の遂行によ
りその自然の経過を超えて急激に悪化したことによって発症したものとみるのが相
当であり,上告人の業務の遂行と本件疾病の発症との間に相当因果関係の存在を肯
定することができる。本件疾病は,労働者災害補償保険法にいう業務上の疾病に当
たるというべきである。
5 以上によれば,本件疾病が業務上の疾病に当たらないとした原審の判断には,
判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決
は破棄を免れない。そして,前記説示によれば,本件処分は違法であり,その取消
しを求める上告人の本件請求は認容されるべきものであるから,これを棄却した第
1審判決を取り消した上,本件処分を取り消すこととする。
 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 濱田邦夫 裁判官 金谷利廣 裁判官 上田豊三 裁判官 藤田
宙靖)

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