弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


戻る

主      文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
 被告は,原告に対し,金2907万5320円及びこれに対する平成13年5月9日
から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
 本件は,被告が原告から建物を賃借し,同建物において消費者金融業を営んで
いたところ,強盗犯人が同建物に放火し,建物が焼損して多数の死傷者が出た事
件が発生し,その結果,建物の取り壊しを余儀なくされ,建物の敷地の交換価値が
下落したのは,借主である被告が目的物保管の善管注意義務を怠ったためである
として,貸主である原告が,債務不履行に基づく損害賠償請求として,建物の価
格,建物取壊費用及び下落した土地の交換価値相当額並びにこれらに対する債
務不履行の日から支払済みまで,民法所定の年5分の割合による遅延損害金の
支払いを求める事案である。
1 争いのない事実等
(1)原告は,レコードの販売等を目的とする株式会社であり,被告は,消費者金融
業等を目的とする株式会社である。
(2)別紙物件目録(略)1記載の土地(本件土地)及び同目録2記載の建物(本件
建物,以下,本件土地と本件建物を併せて「本件土地建物」という。)は,平成8
年7月1日当時,いずれも原告代表者のAが個人で所有していた。
(3)原告と被告は,平成8年7月1日,原告を貸主,被告を借主として,本件建物の
3階部分(本件賃借部分)について賃貸借契約を締結した(本件賃貸借契約)。
被告は,本件賃借部分においてb支店を開設し,消費者金融業を営んでいた。
(4)平成13年5月8日午前10時50分ころ,Kが被告b支店に押し入り,店内にガ
ソリンとオイルの混合油(以下,単に「ガソリン」という。)を撒いて現金を要求し,
放火後に逃走するという事件が発生した。この事件により,同支店の従業員5名
が死亡し,4人が重軽傷を負った(本件事件)。
 本件事件当時の本件賃借部分の状況は,別紙図面(略)のとおりである。
(5)被告は,同月下旬,b支店を閉鎖した。本件建物の所有者は,平成13年12月
28日,本件建物を取り壊した。
2 争点
(1)争点1…被告の予見可能性の存否
(原告の主張)
ア 賃借人は,賃借物を返還するまで,その保管につき善管注意義務を負って
おり,この注意義務に違反して賃借物を毀損するなどにより賃貸人に損害を
与えた場合には,その損害を賠償すべき責任を負う。
イ 本件賃借部分は消費者金融業の店舗として使用され,営業時間中は店舗内
に一定額の現金が常備されていたのであるから,被告としては,この現金を
狙って客を装った強盗が入り込み,従業員の抵抗を抑圧するために有形力を
行使するであろうこと,その有形力の行使により本件賃借部分が毀損される
であろうことは,十分に予見可能であった。
ウ 強盗が従業員の抵抗を抑圧するために有形力を行使し危害を加えることが
予想される以上,危害の程度は予想される最悪のものを想定すべきであり,
強盗が従業員の抵抗を抑圧するために引火性の油類を撒いてこれに点火
し,これにより本件建物が焼損し,従業員が死傷することまで予見すべきであ
った。
 使用者の従業員に対する安全配慮義務については,使用者において,盗賊
の侵入が予見できる場合には,盗賊が宿直員に危害を加えることがあるかも
しれないことも予見可能であり,この点が予見できる以上,危害の程度はその
延長線上において予想される最悪の程度を想定すべく,状況如何によっては
その盗賊が目的を達成するためにその宿直員を殺害することもあり得ると予
想すべきであったとする最高裁判例があるが,予見可能性の有無という点に
ついては,使用者の安全配慮義務と賃借人の賃借物保管上の善管注意義務
との間で異なるところはない。
エ 現に,平成12年6月11日,c市において,客を装って宝石店に入った強盗
が,女性従業員の手足を粘着テープで縛った上でガソリンを撒き,従業員を
焼殺した上で1億4000万円相当の貴金属を強取するという事件が発生して
おり,本件事件当時,強盗犯人が犯行手段としてガソリン等引火物を利用して
放火することは,具体的に予見可能であった。
(被告の主張)
ア 賃借人である被告が賃貸人である原告に対して賃借目的物保管についての
善管注意義務を負っていること自体は認めるが,被告において,原告が主張
するような予見義務があることは争う。
イ 現金を常備している業種は枚挙に暇がなく,原告の主張を前提とするならば
賃貸物件を店舗としている商人すべてに(原告の主張)欄イ記載のような予見
義務が課されることになる。
ウ そもそも予見義務は,当時の状況に鑑みて被告が具体的に予見が可能であ
ったか否かを前提に判断されるべきであり,そのような事情のない本件では
予見可能性がなく,それを前提とする予見義務も被告には存在しない。
 すなわち,犯人であるKは,本件事件以前に被告b支店を訪れたことはなく,
従業員に対して何らかの接触をした事実はない。また,Kが,本件事件以前
に,被告に対して犯行を示唆する行動をとったことは全くない。
エ 使用者の安全配慮義務と,賃借人の保管義務は全く性質の異なる義務であ
り,それらにおける予見可能性を横並びに比較することはできない。
 安全配慮義務は,使用者が従業員の生命・身体が危険にさらされないよう
に安全措置を講じる義務であり,従業員の生命,身体に危険を及ぼす行為に
ついて予見可能であったかという問題である。他方,賃借人の保管義務は,
その賃借物件を,善良なる管理者の注意義務を持って保管する義務であっ
て,賃借物件が毀損された場合,その毀損行為に対して予見可能であったか
という問題である。
オ 原告が引用するc市の事件についても,業種を異にし,しかも,1年近く前に
発生した事件であるので,本件事件発生の発端ないし兆候とはなりえないの
は明白である。
(2)争点2…予見義務を前提とした被告の結果回避義務違反の存否①・物的設備
(原告の主張)
ア 被告は,賃借物保管上の善管注意義務の内実として,このような強盗の有
形力による賃借部分の損壊や,深刻な人的被害の発生を防ぐことができるよ
うな物的施設を備えておくべき義務がある。
イ 具体的内容としては,以下のとおりである。
① 強盗犯人が店舗に放火しても被害の発生ないし拡大を防ぐためにスプリ
ンクラーを設置する必要があった。
② 本件賃借部分には出入口が1箇所しか設けられていないので,強盗犯人
による加害から従業員を守るために,出入口とは別に避難路を設ける必要
があった。
 強盗が脅迫する場所として考えられるのは入金カウンター前か受付カウ
ンター前なので,ATMを設置してあった部分に避難路を設けていれば,従
業員が脱出することは可能であった。
ウ 原告は,被告に対して,本件賃借部分を自由に改造,改装することを許可し
ていたので,被告において前記のような物的施設の設置をすることは可能で
あった。
(被告の主張)
ア 原告は,被告において物的設備を整備する義務があると主張するが,単な
る賃借人である被告が避難路,スプリンクラーを設置する義務はない。むし
ろ,業として賃貸用建物を建築し賃貸した建物所有者において設置すべきも
のであるし,賃貸人の賃借人等に対する安全配慮義務を考えれば,建物所有
者又は賃貸人において設置すべきものである。
 また,原告は,ATMが設置されている部分を避難通路として確保すべきで
あったと主張するが,カウンター付近に強盗がいる場合に,これと壁一枚を隔
てた通路を通って,強盗犯人の背後から丸見えのガラスドア部分を抜けて階
段へ避難することができるという想定自体に全く現実性がない。
 しかも,本件事件においては,Kがガソリンを撒いてから点火するまでの時
間が短く,炎の燃え広がりの勢いがすさまじく,黒煙で全く視界が利かない状
態になったのであるから,仮にATM部分を避難通路として確保していたとして
も,実際に従業員が避難することは全く不可能な状況であった。
イ 自由に改造することができるとの特約の存在は否認する。かえって,賃貸借
契約においては,被告が施設した諸設備は撤去し,原状回復して原告に明け
渡さなければならないとされており,事実上,被告が自由に改造できない契約
となっている。
(3)争点3…予見義務を前提とした被告の結果回避義務違反の存否②・人的措置
(原告の主張)
ア 被告は,賃借物保管上の善管注意義務の内実として,このような強盗の有
形力による賃借部分の損壊や,深刻な人的被害の発生を防ぐことができるよ
うな人的措置を講じる義務がある。
イ 具体的内容としては,以下のとおりである。
① 強盗犯人による被害の発生ないし拡大を防ぐには,強盗犯人の要求に応
じることで犯人を店舗外に退出させるべきであり,そのような防犯マニュア
ルを作成する必要があった。
 強盗による被害の発生ないし拡大を防止する最善の方策は,強盗の要
求に応じることによって一定の満足を与え,強盗を店舗外に退出させること
であるから,防犯マニュアルの内容も,従業員に対してそのような行動を指
示するものでなければならない。
 ところが,被告の防犯マニュアルは,強盗に金を渡さなければならない状
況になったときには,金を小出しにして時間を稼ぐか,直ぐに札束を渡すの
か,という判断を,強盗に対応して畏怖動揺し微妙かつ細心な判断を期待
できない従業員に委ねており,全く役に立たない。
 しかも,被告の防犯マニュアルは,「『犯人の顔を見たら殺される!』と思
え,証拠を消す犯罪者の共通心理である」と記載されており,これを読んだ
者に,顔を見たら殺される,それなら犯人の感情を刺激してでも,時間稼ぎ
をして警察等の救援を待つしかないという判断をさせる内容になっている
が,これは科学的に何ら検証されている内容ではない。Kと応対した支店
長が,直ぐに金を出さず,時間稼ぎをして110番通報したことで,Kは放火
の犯意を抱くに至ったものであり,被告の前記マニュアルの記載は有害無
益である。
② 強盗犯人に対処するための防犯訓練や,火事が発生した場合の防火訓
練を反復し,従業員に被害の発生ないし拡大を防止するために要求される
行動を習熟させる必要があったが,被告においてはこれをしていない。
③ 本件賃借部分の南側には避難器具があり,いざというときにはこれを使え
ば相当数の従業員が脱出することが可能であるから,避難訓練を実施し避
難器具の扱いに習熟させておく必要があったが,これもしていない。
 仮に,被告において,実際に避難訓練を定期的に行っておれば,本件事
件において人的被害の発生を防ぐことができたか,少なくとも発生の程度を
減少させることができた。
ウ また,被告の担当者がKに対して取った行動は,不適切なものであった。
(被告の主張)
ア 原告は,被告が防火訓練ないし避難訓練を行っていれば,避難器具の使用
と相まって,人的被害の発生を防ぐか減少できたと主張する。
 しかし,本件事件の放火による火災は,一般に想定される火災とは全く性質
の異なる爆発性の火災であり,しかも規模も大きく,そもそも,通常の避難訓
練や避難マニュアルにおいて対応できる性質のものではない。
イ 防犯マニュアルに関する原告の主張は,店員が直ぐに金を出してくれれば,
火をつけることはしなかったという,犯人のKの供述を基調にしているが,この
供述の信用性は極めて疑わしい。すなわち,このような供述は,放火の計画
性がなかったことをことさらに強調し,被告の従業員に対する責任転嫁により
少しでも自らの罪を軽減したいという犯人特有の心理からくる供述であり,こ
のような供述に依拠すること自体,誤りである。
 被告b支店に原告が主張するような防犯マニュアルが備え付けられており,
かつ,Kの要求どおり金を渡していたら本件事件は発生しなかったという原告
の主張は,「一般的抽象的可能性」のレベルにとどまる主張であって,被告の
具体的な結果回避義務を基礎づける主張にはならない。
(4)争点4…損害
(原告の主張)
ア 本件賃貸借契約のように他人物について賃貸借契約がなされた場合,賃貸
人も賃借物の所有者に対し同様の保管義務を負っており,その不履行につい
ては損害賠償の責に任じなければならないのであるから,所有者が被った損
害は,即,賃貸人たる原告が被った損害になる。
イ 本件建物の交換価値相当額 3760万円
 本件事件は大々的に報道され,本件建物が悲惨な事件の現場であることが
広く知られたため,本件建物は,本件賃借部分のみならず,建物全体につい
て使用価値が全く失われ,その交換価値は零となった。
 本件建物の本件事件当時の時価は3760万円を下らない。
ウ 本件建物の取壊費用     625万3800円
 前記のとおり,本件建物の交換価値は零となったので,原告は,本件建物を
取り壊さざるを得なかった。
エ 本件土地の減価相当額    796万1520円
 本件建物の敷地である本件土地も,事件現場であることにより交換価値が
減少した。不動産競売事件における鑑定評価では,自殺現場が対象物件で
ある場合,建物のみならず敷地についても,30%程度の減価がなされるのが
通常であり,まして,本件事件のような悲惨な事件の現場である場合,減価率
は50%を下らない。
 本件土地の本件事件(平成13年)当時の路線価は,1㎡あたり8万4000
円である。
 8万4000円×189.56㎡×0.5=796万1520円
(被告の主張)
ア いずれも否認する。
 本件土地及び建物の価格については,本件事件があった平成13年度の固
定資産評価証明書の金額(本件土地・986万2863円,本件建物・1873万
2575円)によるべきである。
イ 原告が主張する本件建物の価額は,単に火災保険契約時における保険契
約者である原告の申し入れ価額であって,本件事件時の客観的な交換価値
ではない。
(5)争点5…損益相殺
(被告の主張)
 以下の金員は,損益相殺の対象とされるべきである。
① 被告が原告に対し支払った見舞金330万円
② 原告が火災保険から受領した損害保険金1944万円
③ 原告が火災保険から受領した臨時費用500万円と取片付費用43万0500

④ 被告が本件賃貸借契約締結の際に差し入れて未だ返還を受けていない敷
金28万円
(原告の主張)
 ①及び②が損益相殺の対象となることは認める。
第3 争点に対する判断
1 争点1(被告の予見可能性の存否)について
(1)原告は,①本件賃借部分は消費者金融業の店舗として使用され,営業時間中
は店舗内に一定額の現金が常備されていたこと,②一般的に,強盗が従業員の
抵抗を抑圧するために有形力を行使し危害を加えること,③平成12年6月11
日,c市において,客を装って宝石店に入った強盗が,女性従業員の手足を粘
着テープで縛った上でガソリンを撒き,従業員を焼殺した上で1億4000万円相
当の貴金属を強取するという事件が発生していたこと,という具体的事実及び経
験則を根拠に,被告は,賃借物保管上の善管注意義務の一内容として,本件事
件のような,強盗犯人が犯行手段としてガソリン等引火物を利用して放火し,よ
って,本件賃借部分が毀損し,従業員に死傷の結果が生じることを予見し,この
ような結果を回避すべき義務を負うものと主張する。
(2)ア しかしながら,従業員の死傷という結果についていうと,従業員の生命,身
体の安全を守るべき義務は,賃貸借契約に基づく賃借人の賃貸人に対する
義務として当然に導かれるものではない。
 原告は,賃借人がかかる義務を負うことの根拠として,賃貸借契約の目的
物件の交換価値が,悲惨な事件の現場になることによって下落することがあ
ることを理由とするようであるが,このような理由による交換価値の下落は常
に生じるものではなく,仮に交換価値の下落が生じるとしても,直接的な建物
の毀損による場合と比較すると間接的な損害に過ぎない。また,賃借人又は
賃借人と同視すべき者(家族や被用者など)が賃借物件で犯罪を起こしたり,
第三者による犯罪をことさらに誘発させるなどした場合であれば格別,第三者
に対しては賃借人の直接の支配が及ばないのであるから,第三者の犯罪行
為によって生じた,人的被害による間接的な交換価値下落についてまで賃借
人にその発生を予見させ,かかる結果を回避すべき義務を負わせるのは,賃
借人に過大な義務を負わせることになり,相当でない。
イ したがって,賃借人は,賃貸人に対する関係においては,賃貸借契約の目
的物件の交換価値の下落をもたらすほどの悲惨な事件が発生することが相
当程度予見できる状況にあるというようなごく例外的な事情でもない限り,第
三者の犯罪行為によって従業員に死傷の結果を生じることを予見し,そのよう
な結果を回避する義務はないものといわざるを得ない。
 そして,後記(3)で検討するとおり,本件において例外的な事情があると認め
ることはできない。
ウ 以上によれば,被告には,原告に対する関係で,避難路を設置したり,避難
訓練を行ったり,人の死傷を回避するための防犯マニュアルを作成したりする
義務があったと認めることはできない。
(3)ア これに対して,賃借物件の毀損という結果についていうと,賃借人が,一般
的に,賃借物保管上の善管注意義務に基づいて,賃貸人に対し,賃借物件
の毀損という結果を防止する義務を負うのは当然であるが,本件事件のよう
な態様による犯行により,本件賃借部分の焼損という結果が発生することが,
本件事件当時,被告において,具体的に予見可能であったかどうかについて
は検討が必要である。
イ 確かに,一般論としては,被告のような金融機関に金目当ての強盗が押し入
る危険性は,他の業種と比較して多いものではあり,強盗事件が発生するこ
とについて具体的な予見可能性を認めることは不当ではない。また,一般的
抽象的にいえば,本件事件のように,ガソリン等の引火物を撒いて,それに点
火したり,点火すべきことを示して脅迫する犯行がなされるという事態を想定
することも可能である。
ウ しかしながら,本件事件当時,わが国において本件事件と同様の犯行がし
ばしば行われ,金融機関等の,一般的に強盗が押し入る可能性の多い企業
において,このような態様の犯行の被害に遭う危険性が現実化していたと認
めるに足りる証拠はない。原告は,平成12年にc市内で発生した強盗事件に
ついて指摘するが,被告と異なる業種における1年近く前に発生した事件であ
り,しかも,同事件から本件事件に至るまで,わが国において,c市における
事件を模倣したような犯行が頻発していたわけでもない。
 また,被告b支店や被告の他支店又は周辺の金融機関の店舗において,本
件事件と同種の事件の発生が見込まれるような状況が存在したことを認める
に足りる証拠もない。
 原告においても,本件事件のような態様の犯行が発生することを想像すらし
ていなかったことを認めている。
 そうすると,少なくとも,Kが本件事件の実行に着手する前の時点では,被
告において,本件事件のような犯行が発生することを具体的に予見すべき状
況にはなかったといわざるを得ない。
 したがって,このような犯行により本件賃借部分の焼損という結果が生じる
ことを事前に防止するための措置をとる義務を被告に認めることはできない。
エ この点,原告は,労働関係における安全配慮義務についての最高裁判例
(最判昭和59年4月10日民集38巻6号557頁)を指摘し,被告において,本
件事件を具体的に予見すべきであったと主張する。
 しかしながら,原告が指摘する最高裁判例と本件とは具体的事案を異にし
ているだけでなく,同裁判例は,使用者と労働者との間に特別な人的関係が
存在する雇用契約における安全配慮義務について述べたものであって,賃貸
借契約上の義務が問題となっている本件とはそもそも場面を異にするもので
あるから,原告の主張は適切でない。
オ 以上によれば,被告には,原告に対する関係で,本件事件のような態様の
犯行を具体的に想定して,建物の焼損を防止するような防犯マニュアルを作
成したり,建物の焼損を防止するための防犯訓練を行ったりする義務があっ
たと認めることはできない。
(4)もっとも,賃借人には,一般的に,賃借物保管上の善管注意義務に基づいて,
自己又は自己の家族,被用者などの放火又は失火により賃借物を焼損させるこ
とがないようにする義務があるし,また,Kが被告b支店に押し入り,店内にガソ
リンを撒いて金を要求するに至った時点では,被告(具体的には被告b支店の従
業員)に,本件事件のような態様の犯行が発生することを具体的に予見すること
ができたものと認めるのが相当である。
 そこで,以下においては,原告が,被告による結果回避義務違反行為として主
張する事実のうち,争点2(物的設備)としては,一般的に賃借物件の焼損被害
の拡大を抑えると考えられるスプリンクラーについて,争点3(人的措置)として
は,一般的に賃借物件の焼損を防止するために有効と考えられる防火訓練につ
いてと,Kが実行に着手した後における被告b支店従業員のとった行動の適否
についてのみ検討することとする。
2 争点2(予見義務を前提とした被告の結果回避義務違反の存否①・物的設備)の
うち,スプリンクラー設置について
(1)原告は,放火による賃借部分の焼損を防止するため,被告においてスプリンク
ラーを設置する義務があったと主張する。
(2)しかしながら,本件建物は,消防法施行令別表第1(15)項に規定する「前各項
に該当しない事業場」に該当するところ,同項に規定する建物については11階
以上の階についてのみスプリンクラーの設置義務が課せられる(消防法施行令
12条1項9号)から,本件賃借部分は,消防法上も,スプリンクラーの設置が義
務づけられているわけではない。
 しかも,スプリンクラー設置といった大規模な工事は,通常,建物の所有者に
おいて行うべきものであって,賃借人が賃貸借契約に基づいて当然に設置義務
を負うものとは考え難いし,本件賃貸借契約において,そのような特約がされた
と認めるに足る証拠もない。
(3)なお,原告は,被告に対して,本件賃借部分を自由に改造,改装することを許
可していたので,被告においてスプリンクラーを新規に設置することが可能であ
ったと主張し,証拠(略)によれば,原告は,被告に対して,内装を自由に変更す
ることを許可し,現に,被告は,本件賃借部分を賃借した後,これまで休憩室や
倉庫として用いていた部分の壁などを撤去する工事を行ったことが認められる
が,そのような事実があったからといって,原告が,被告に対する関係で,スプリ
ンクラーを新規に設置することを義務づけたと見ることはできない。
(4)以上によれば,被告においてスプリンクラーを設置する義務があったと認める
ことはできない。
3 争点3(予見義務を前提とした被告の結果回避義務違反の存否②・人的措置)の
うち,防火訓練について
(1)原告は,被告において,火事が発生した場合の防火訓練を反復し,従業員に
被害の発生ないし拡大を防止するために要求される行動を習熟させる必要があ
ったが,被告においてはこれをしておらず,義務違反があったと主張する。
(2)証拠(略)によれば,確かに,被告b支店においては防火訓練を行っていなかっ
たことが認められるが,他方で,本件事件においては,Kがガソリンに点火したこ
とにより,大量の火が爆発したような勢いで一瞬のうちに店内に広がって,真っ
黒な煙が店内に充満し,その結果,店内にいた従業員はパニックに陥って,窓を
探して逃げるのに精一杯の状態になってしまったことも認められる。
 そうすると,本件事件によって生じた火災は,一般に想定される火災とは全く性
質の異なるもので,通常の防火訓練において対応できる性質のものではなかっ
たと考えられる。
(3)以上によれば,被告において,通常の火災を想定した防火訓練を反復して行
っていたとしても,建物の焼損という結果を回避することは不可能であったとい
わざるを得ず,少なくとも,被告において防火訓練をしていなかったことと本件賃
借部分の焼損との間の因果関係を認めることはできない。
4 争点3(予見義務を前提とした被告の結果回避義務違反の存否②・人的措置)の
うち,Kが実行に着手した後における被告b支店従業員のとった行動の適否につい

(1)証拠(略)によれば,Kが被告b支店に入店してから,ガソリンに点火して逃走
するまでの経緯(Kの主観面についてはひとまず措く。)として,以下の事実が認
められる。
ア Kは,顔を隠すことなく被告b支店内に入って,受付カウンターの手前に立
ち,無言のまま,同カウンター越しに,持参したオイル缶入りのガソリン(正確
には,ガソリンとオイルの混合油)を,事務室内に振り撒き,辺りにガソリン特
有の臭いが広がると,同支店従業員らに向かって,「ガソリンだ。」と叫んだ。
当時,同支店内には,支店長以下9名の従業員がおり,うち,支店長を含む6
名が,カウンターに近い事務室で,3人が,奥の管理室で仕事をしていたが,
事務室に居た支店長以外の従業員は悲鳴を上げるなどして,全員が奥の管
理室に逃げ込んでしまい,支店長だけがKと受付カウンター越しに応対するこ
とになった。
イ Kは,ガソリンを撒いた直後,つなぎ服のポケットから,ライターとねじり紙を
取り出し,従業員らに対し,「金を出せ。」と叫び,「出さねば火を付けるぞ。」と
申し向けて脅した。これを見て,支店長は,Kが強盗であって,金を要求してい
ることが分かり,また,Kが本当に火をつけるかもしれない,仮にKに金を出し
たとしても,顔を見られていることから,Kがガソリンに点火するのではないか
と考え,警察と消防に来てもらい,それまで時間を稼ごうと考えた。そこで,支
店長は,「ちょっとそれはできない,ちょっと待ってください。」などと言って,自
席机下に設置してある警備会社への通報ボタンを押すと共に,立ち上がって
110番通報を始め,管理室に居る他の従業員に向かって,「消防を呼んでく
れ。」とか,「消火器出して。」などと叫んだ。また,管理室では,他の従業員
も,「窓開けて。」とか「ボタンを押せ。」と叫んだ後,それぞれ,大声で通報を
始めた。
ウ さらに,Kは,手にしたねじり紙にライターで火を付けて,「おめだぢ,早ぐ。」
などと叫んで現金を要求した。これを見て,支店長は,本気で火をつけるのだ
と感じ,金を出してしまいたいと思う反面,金を出したら火をつけられるかもし
れず,それまで時間を稼いで警察官に早く来てもらった方がよいとも考え,ど
うしてよいかわからず,なおも110番通報をし続けた。
エ ついに,Kは,火の付いたねじり紙をカウンター内のガソリンを撒き散らした
辺りに向けて投げ入れ,同ガソリンに点火し,店内から逃走した。
(2)ところで,被告においては,一般的な強盗に対処するためのマニュアルとして,
①最大の防犯とは,「相手の感情を刺激しないこと」であること,②危険を感じた
ら,要求に応じることとして,できるだけ時間をかけて小額紙幣から小出しにする
か,日常から札束を作っておいて,犯人の要求により手渡せるようにしておくこ
と,③強盗が侵入したときは,「お客様へウーロン茶を」という合い言葉で奥の部
屋にいる者に伝達して,奥の部屋にいる者が直ちに警報ボタンを押すと同時に1
10番通報すること,以上のような内容のものを定めていたことが認められるが,
このようなマニュアルの内容自体には,特段,不相当な点は見当たらない。
(3)そうすると,支店長は,マニュアルに定められた合い言葉を用いず,Kの要求
に応じる素振りすら見せなかっただけでなく,その目の前で110番通報をすると
ともに,管理室にいる従業員に対しても消防署への通報を命じており,また,管
理室にいた従業員も,Kに聞かれないように気を配ることもなく,大声で通報をし
ており,事後的,客観的にみれば,このような支店長らの行動は,いたずらに犯
人であるKを刺激する不適切なものであったといわざるを得ない。
(4)しかしながら,Kは,顔を一切隠さずに店内に入った上で,ガソリンをカウンター
越しに撒き,ライターとねじり紙を手に持って今にも火を付けるかのような態度を
示して「火をつけるぞ。」と脅迫しているところ,このような態様の犯行において
は,金員強取の目的を達した後でも,犯人が罪証隠滅や追跡阻止の目的で放
火するということもあり得ないことではなく,十分にこれを想定し得るというべきで
ある。
 しかも,前述したとおり,本件事件のような犯行が発生することを事前に予見す
べき状況にはなく,したがって,この様な事態にいかに対処するかについての検
討もしていなかったことからすれば,当時の極限的な状況下において,支店長
が,冷静な判断力を失い,たとえKの要求に応じて金を出したとしても,ガソリン
に点火するであろうから,金を出さずに警察官などが来るまでの時間を稼いだ方
がよいと考えたことや,Kの目の前で110番通報をしたことも,やむを得ない面
があったといわざるを得ないのであって,このような支店長の行動を義務違反行
為であると非難することはできない。この点は,奥の管理室における従業員の行
動についても同様である。
(5)これに関し,Kは,ガソリンを撒けば,店員は恐怖して金を出してくれると思っ
た,金さえ出してくれれば火をつけるつもりはなかった,にもかかわらず,支店長
が,自分を無視して110番通報をし始めたので,予定が狂ってしまい,逃げるた
めには火をつけるしかないと思った,と供述している。
 そうすると,確かに,被告も指摘するように,このようなKの供述は,放火の計
画性がなかったことをことさらに強調し,被告の従業員に責任を転嫁することに
より少しでも自らの罪を軽減したいという心理からくる供述である可能性もあり,
その信用性を慎重に吟味する必要はあるが,さりとて,Kがガソリンに点火する
に至る経緯について,Kの供述に反するような証拠もないので,支店長がKの要
求に応じて速やかに金を出していれば,Kが実際に火を付けることはなかった可
能性は高いと認めざるを得ない。
 しかしながら,これはあくまで,他人には知る由もないKの内心の問題にすぎな
いであって,このような事情を,支店長など従業員の行動を評価するにあたって
重視するのは相当でない。
 したがって,このような事情が認められるからといって,前記(4)の判断が左右
されるものではない。
(6)以上によれば,Kが犯行に着手した後における,支店長をはじめとする被告b
支店従業員がとった行動にも,結果回避義務違反と評価すべきものは認められ
ない。
第4 結論
 よって,その余の点について判断するまでもなく,原告の請求は理由がない。
青森地方裁判所弘前支部
 裁判長裁判官    土 田 昭 彦
 裁判官    佐 藤 哲 治
 裁判官    加 藤   靖
(別紙)物件目録(略)

戻る



採用情報


弁護士 求人 採用
弁護士募集(経験者 司法修習生)
激動の時代に
今後の弁護士業界はどうなっていくのでしょうか。 もはや、東京では弁護士が過剰であり、すでに仕事がない弁護士が多数います。
ベテランで優秀な弁護士も、営業が苦手な先生は食べていけない、そういう時代が既に到来しています。
「コツコツ真面目に仕事をすれば、お客が来る。」といった考え方は残念ながら通用しません。
仕事がない弁護士は無力です。
弁護士は仕事がなければ経験もできず、能力も発揮できないからです。
ではどうしたらよいのでしょうか。
答えは、弁護士業もサービス業であるという原点に立ち返ることです。
我々は、クライアントの信頼に応えることが最重要と考え、そのために努力していきたいと思います。 弁護士数の増加、市民のニーズの多様化に応えるべく、従来の法律事務所と違ったアプローチを模索しております。
今まで培ったノウハウを共有し、さらなる発展をともに目指したいと思います。
興味がおありの弁護士の方、司法修習生の方、お気軽にご連絡下さい。 事務所を見学頂き、ゆっくりお話ししましょう。

応募資格
司法修習生
すでに経験を有する弁護士
なお、地方での勤務を希望する先生も歓迎します。
また、勤務弁護士ではなく、経費共同も可能です。

学歴、年齢、性別、成績等で評価はしません。
従いまして、司法試験での成績、司法研修所での成績等の書類は不要です。

詳細は、面談の上、決定させてください。

独立支援
独立を考えている弁護士を支援します。
条件は以下のとおりです。
お気軽にお問い合わせ下さい。
◎1年目の経費無料(場所代、コピー代、ファックス代等)
◎秘書等の支援可能
◎事務所の名称は自由に選択可能
◎業務に関する質問等可能
◎事務所事件の共同受任可

応募方法
メールまたはお電話でご連絡ください。
残り応募人数(2019年5月1日現在)
採用は2名
独立支援は3名

連絡先
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所 採用担当宛
email:[email protected]

71期修習生 72期修習生 求人
修習生の事務所訪問歓迎しております。

ITJではアルバイトを募集しております。
職種 事務職
時給 当社規定による
勤務地 〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
その他 明るく楽しい職場です。
シフトは週40時間以上
ロースクール生歓迎
経験不問です。

応募方法
写真付きの履歴書を以下の住所までお送り下さい。
履歴書の返送はいたしませんのであしからずご了承下さい。
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所
[email protected]
採用担当宛