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平成16年12月2日判決言渡・同日原本領収 裁判所書記官
平成13年(行ウ)第398号 退去強制令書発付処分取消等請求事件(以下「第1事件」
という。)
平成14年(行ウ)第99号 難民の認定をしない処分無効確認等請求事件(以下「第2事
件」という。)
口頭弁論終結日 平成16年9月16日
判決
当事者の表示        別紙当事者目録記載のとおり
主文
1 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月27日付けでした出入国管
理及び難民認定法49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない
旨の裁決を取り消す。
2 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年11月27日付
けでした退去強制令書発付処分を取り消す。
3 原告の難民の認定をしない処分の無効確認に係る請求を棄却する。
4 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認
定をしない処分を取り消す。
5 訴訟費用はこれを4分し、その1を原告の、その余を被告らの各負担と
する。
事実及び理由
第1 請求
1 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月27日付けでした出入国管理及び難
民認定法(以下「法」という。)49条1項に基づく原告の異議の申出は理由がない
旨の裁決(以下「本件裁決」という。)を取り消す。
2 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年11月27日付けでした
退去強制令書発付処分(以下「本件退令発付処分」という。)を取り消す。
3 (主位的請求)
  被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認定をしない
処分(以下「本件不認定処分」という。)が無効であることを確認する。
  (予備的請求)
  被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした本件不認定処分を
取り消す。
第2 事案の概要
本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、本件各処分当
時、アフガニスタンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けていたから難民の地位
に関する条約(以下「難民条約」という。)上の難民に該当する等と主張して、本件
裁決、本件退令発付処分の取消し、本件不認定処分の主位的には無効確認、予
備的に取消しを求めた事案である。
1 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いの
ない事実か、弁論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)
(1) 原告は、1973年(昭和48年)3月3日に、5人兄弟の長男として出生したアフ
ガニスタン国籍を有する外国人である(乙7の1添付資料)。
  (2) 原告は、1995年(平成7年)6月29日、アフガニスタンのジヤウジャン州で旅券
の発効を受け、1998年(平成10年)3月30日、アラブ首長国連邦(以下「UA
E」という。)のアブダビのアフガニスタン大使館で旅券の更新をした(有効期限2
001年3月29日、乙35,36の各添付資料)。
  (3) 原告は、これまでパキスタン・イスラム共和国(以下「パキスタン」という。)にある
日本大使館から発給を受けた渡航証明書を用いて6回にわたり本邦に入国し、
中古自動車部品の買い付けをするなどしていた。原告の本邦への出入国歴は
以下のとおりである(乙37)。
   ① 1997年(平成9年)4月2日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸
し、同年6月29日に出国。なお、同年4月14日、居住地を千葉県佐倉市abと
して外国人登録を行っている。
   ② 1997年(平成9年)10月15日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上
陸し、1998年(平成10年)1月13日に出国。なお、1997年(平成9年)12
月12日、居住地を千葉県四街道市cdとして外国人登録を行っている。
   ③ 1998年(平成10年)7月1日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸
し、同年9月26日に出国。
   ④ 1999年(平成11年)3月8日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上陸
し、同年6月5日に出国。なお、同年3月9日、居住地を千葉県佐倉市abとし
て外国人登録を行っている。
   ⑤ 1999年(平成11年)9月22日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上
陸し、同年12月20日に出国。
   ⑥ 2000年(平成12年)4月24日、短期滞在90日の上陸許可を受け本邦に上
陸し、同年7月22日に出国。なお、同年4月24日、居住地を千葉県佐倉市ab
として外国人登録を行っている。
     原告は、渡航証明書を得るため、2000年(平成12年)12月4日付けで在パキ
スタン日本大使館に査証を申請したが(乙36)、査証を受けることはできなか
った。
     原告は、パキスタンの滞在査証を有しており、上記査証申請時の有効期限は、
2001年(平成13年)4月22日までであった(乙36添付資料)。
  (4) 原告は、本邦において難民申請をしようと考え、パキスタンのブローカーに依頼
して2001年(平成13年)7月13日、パキスタンから航空機によりシンガポール
を経由して大韓民国に到着し(乙111)、同月25日ころ、釜山港から船名船籍等
不詳の貨物船で出発し、同月30日ころ、横浜港に到着し、本邦に不法入国し
た。
    その後、原告は、千葉県佐倉市内及び東京都八王子市(以下「八王子市」とい
う。)内の知人のアフガニスタン人居宅に居住していた。
  (5) 原告は、同年8月17日、八王子市長に対し、同市efgコーポhを居住地として、
外国人登録の新規登録申請をした(乙7の1)。
  (6) 原告は、同年8月20日、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)において、
法務大臣に対し、難民認定申請をした(乙8)。
    東京入管難民調査官は、同年9月12日、同月19日及び同年12月27日、難民
調査を実施した(乙27、28、29)。
  (7) 東京入管入国警備官は、同年10月3日、違反調査を実施し(乙7の1及び2)、
原告が法24条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、東京入
管入国審査官から収容令書の発付を受け(乙9)、同日、同令書を執行して原告
を東京入管収容場に収容し、同月5日、法24条1号該当容疑者として東京入管
入国審査官に引き渡した(乙10)。
  (8) 東京入管入国警備官は、同年10月15日及び11月14日、違反調査を実施した
(乙7の3及び4)。
  (9) 被告東京入管入国審査官は、同年10月5日、17日及び19日、違反審査を実
施し(乙11の1ないし3)、原告が法24条1号に該当する旨認定し、原告にこれ
を通知したところ、原告は、同月19日、東京入管特別審理官に対し口頭審理を
請求した(乙12)。
 (10) 被告東京入管入国審査官は、同月31日、本件収容令書に基づく収容期間を
同年12月1日まで延長した(乙9)。
 (11) 東京入管特別審理官は、同年10月30日、口頭審理を実施し(乙13)、入国審
査官の上記認定に誤りがない旨判定し、原告にこれを通知したところ(乙14)、
原告は、同日、法務大臣に対し異議の申出をした(乙15)。
  (12) 被告法務大臣は、同年11月20日、原告からの上記(6)の難民認定申請につい
て、不認定処分をし、同月26日、原告に告知したところ(乙16)、同月28日、異
議の申出をした(乙17)。
  (13) 被告法務大臣は、同月27日、原告からの上記(11)の異議の申出については、
理由がない旨裁決し(乙18)、同裁決の通知を受けた被告東京入管主任審査官
は、同日、原告に本件裁決を告知するとともに(乙19)、退去強制令書を発付し
た(乙20)。
  (14) 東京入管入国警備官は、同日、本件退令を執行し、引き続き原告を東京入管
収容場に収容した後、入国者収容所東日本入国管理センター(以下「東日本セ
ンター」という。)に移収した(乙20)。
  (15) 原告は、同年12月12日、本件裁決及び本件退令発付処分の取消しを求めて
本件第1事件の訴えを提起した。
  (16) 原告は、平成14年2月25日、主位的に本件不認定処分の無効確認、予備的
に同処分の取消しを求めて本件第2事件の訴えを提起した。
  (17) 東京入管入国警備官は、平成14年7月1日、原告を仮放免した(乙20)。
 2 争点及び争点に関する当事者の主張
本件の争点は、本件各処分の適法性であり、その内容は原告の難民該当性で
ある。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、平成15年4月
16日付け意見書において、主要な争点は原告の難民該当性の有無であることを
主張し、同年6月27日付け意見書において、原告の難民該当性以外の争点につ
いては、第一審において争わない旨を明らかにしたことが、当裁判所に明らかであ
る。
(1) 原告の主張
被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申
請を認めなかったのであるから、本件不認定処分は重大かつ明白な瑕疵がある
というべきものであって、無効又は取り消されるべきである。
また、被告法務大臣は、原告の法49条1項の異議の申出に対して、在留特
別許可を認めずに異議の申出に理由がない旨の本件裁決をしたが、原告の難
民該当性を看過した同被告の判断には重大かつ根本的な事実誤認による裁量
権の逸脱があって、本件裁決は違法であるから、本件裁決は取り消されるべき
である。
さらに、本件退令発付処分は、法務大臣の異議の申出に理由がない旨の裁
決が適正に行われたことを前提として発付されるものであるところ、前提となる
処分が取り消されるべきものであることは上記のとおりであって、退去強制令書
の発付もその根拠を欠くものであるから、本件退令発付処分は違法として取り消
されるべきである。
ア 難民認定の際の立証基準の解釈の在り方
(ア) 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民
として認定することが義務付けられているから、いかなる者が難民として認
定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべきであ
る。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的安定性の確保という一般
の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の争訟手続
と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復
が不可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これ
までの同手続の実務において形成されてきた様々なルール(例えば、後記
の供述の信ぴょう性に関する議論や、灰色の利益のルール等)に共通する
「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できるだけ広く保護の網をか
ぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。
(イ) 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例等で示された解釈
も、難民認定手続における立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。
そして、アメリカ合衆国においては、「十分に理由のある恐怖」については、
迫害を受ける可能性が50パーセント以下であっても、その者が抱く恐怖に
は十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォンセカ事件に
関する1987年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言
の解釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分
な基盤があれば足りる旨が示されている(アジェイ事件に関する1989年1
月27日ブリティッシュコロンビア州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さ
らに、英国においても、同文言は、客観的な状況ではなく本人の立場に立
った状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴァクラマン
事件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおい
ても、迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある
恐怖になり得ることが明らかにされている(チャン事件における1989年最
高裁判所判決、オーストラリア難民再審査委員会1995年8月11日決定
及び同委員会1997年9月17日決定等)。
このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証につい
て、極めて緩やかな判断基準を用いている。
(ウ) 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の
可能性ではなく、主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理
由とは、当該申請者がおかれた状況に合理的な勇気を有する者が立った
ときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感じ、国籍国への帰国をた
めらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。
イ 難民認定における信ぴょう性判断の在り方について
(ア) 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因
(例えば、証拠収集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレス
による記憶の変容等の心理的要因、言語的障害等の文化的要因、対審構
造が取られていないことに由来する構造的要因)等にかんがみ、慎重な検
討が必要である。
(イ) したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠け
るとしても全ての証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合に
は、合理的な理由に基づかなければならない。また、申請者の供述に一貫
性や誠実性が認められる場合には、補強証拠がなくとも信ぴょう性を認め
るべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等
があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう
性が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定され
る可能性があるというべきである。
(ウ) さらに、前記(ア)の特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わ
しきは申請者の利益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当
するというべきであり、同原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア
等の実務・判例で採用されている。
(エ) そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする
機関のみにとどまらず、その処分の適法性を判断する裁判所にも妥当する
ものである。
ウ アフガニスタン一般情勢について
(ア) ハザラ人は、2300年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する
先住民族であり、1880年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がる
ハザラジャットという山岳地帯で完全な自治を確立していたものの、1890
年代に王位についたパシュトゥーン人の王によって決定的な変容を迫ら
れ、以後3回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハザラ人は
社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。
(イ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結
成し、連合、解散を繰り返して来たが、1990年代に入り、ヘズベ・ワハダッ
ト党(以下「イスラム統一党」ということもある。)とその指導者であるマザリ
師を中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワハダット党は、ナジブラ政権崩
壊後に成立した暫定政権から閉め出され、暫定政権はペシャワールを拠点
とするムジャヒディンにより構成されたため、結局のところシーア派ハザラ
人は無視され、1993年(平成5年)2月には、西カブールのアフシャール地
区において数百人のハザラ人がラバニ大統領とその司令官マスードの命
令により虐殺されるという事件が起きた。
(ウ) ヘズベ・ワハダット党は、1995年(平成7年)2月、マスード部隊の攻撃
に対処するため、当時勢力を増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリ
バンが西カブールの前線に入ることを許可したものの、タリバンはヘズベ・
ワハダット党を援助することなく、政府軍の攻撃に耐えられず撤退する際
に、マザリ師を連行する等して同党を裏切った。その後マザリ師は死体で
発見されたことから、シーア派ハザラ人の活発な活動と苦闘は終局し、ハ
ザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を受けることとなった。
(エ) タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体と
するイスラム原理主義の急進主義者であり、1995年(平成7年)以降、急
激に勢力を増大すると、1996年(平成8年)9月にはアフガニスタンの首都
カブールを占拠した。これに対しムジャヒディン各派は、反タリバン勢力とし
て統一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、その後タリバン
政権が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、タジク人
を主体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・
イスラム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。
少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下にお
いて迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シー
ア派に属することから、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とさ
れ、1998年(平成10年)8月8日にタリバンがマザリシャリフを攻略したと
きには、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組織的に虐殺さ
れ、生き残った者に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。1998年(平
成10年)9月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐
殺された上、同年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われ
た700人以上のハザラ人が投獄されたこと等が報道されている。
(オ) 2001年(平成13年)12月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機
能を喪失し、同月22日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が
発足したと報道された。しかし、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリ
バン誕生前からのものであり、かっての北部同盟構成各派がハザラ人迫害
を行ってきたこと、今なおタリバン復権の動きが見られること、暫定政権は
米国や国連の後ろ盾手によって辛うじて支えられている状況であること等
からすれば、タリバンが崩壊したとの報道のみでハザラ人に対する迫害の
危険がなくなったと判断するのは早計にすぎる。同暫定政権において、ハ
ザラ人勢力は、重要性の低い5つのポストを与えられたのみであり、北部
同盟内部についても、分裂が危惧される状況にある。
(カ) 上記(オ)のような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権
の発足という事実のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じ
たと認めることはできない。したがって、本件各処分当時、シーア派ハザラ
人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、
人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められる。実際
に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当
性が認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、公
開されているケースの中で、アフガニスタン国籍のハザラ人が難民と認定さ
れなかったケースは存在していない。
(キ) 被告らは、国際機関等から、およそシーア派ハザラ人であれば殺害され
るという報告はされておらず、タリバン支配地域の非パシュトゥーン人につ
いて、民族浄化は経験されなかった旨主張する。
しかしながら、被告らがその主張の根拠とする連合王国の2001年(平
成13年)4月に公表された「アフガニスタンアセスメント」(乙21)において
も、1998年(平成10年)8月に、タリバンがマザリシャリフにおいて、「シー
ア派マイノリティ、ハザラ人屠殺作戦」あるいは「ハザラ人を根絶するための
作戦」と評される虐殺をしたこと、ハザラ人少数民族が、主として拘束の標
的とされた旨の報告がされたことが明記されている。また、デンマーク移民
サービス局の「アフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパ
キスタン視察団報告」(乙45)によれば、ハザラ人は、その民族のために反
タリバン勢力であるワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を
信仰しているために攻撃を受ける旨が記載されており、また、ワーダット党
とのつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的な根拠もなく暴力
が行われる場合もあるとの記載が認められる。さらに、東京弁護士会から
UNHCRへの照会に対する回答(甲194の3)からも、およそシーア派・ハ
ザラ人であれば殺害されるという報告がされたと解されるのであって、民族
浄化が経験されなかったとする被告らの主張は、文献資料の恣意的な引
用に基づく不当なものであるといわざるを得ない。被告らは、東京入管難民
調査部門入国審査官の報告書(乙50)を引用して、実際に平成13年6月
にカブールを訪れた際、特にハザラ人であることから迫害されている様子
は確認されなかった旨を主張するが、実質的な調査期間がわずか2日間で
あったこと、同審査官の訪問の目的は現地NGO視察であって、人権状況
調査ではなかったこと、判断の根拠もカブール西部地区を車で通過した際
に、ハザラ人が店舗を並べていたこと等内実に乏しいものであることからす
ると、このような資料に何ら証拠価値を見いだすことはできない。
被告らは、タリバンにはハザラ人も含まれていたことを指摘するが、確固
たる情報源によるものではなく、また仮に含まれていたとしても、取るに足り
ない程度の勢力であったことが明らかである。また、被告らは、マザリシャリ
フ、バーミヤン、ヤカウラン等で行われた虐殺は、報復行為として行われた
側面が強いことを指摘するが、仮にそのような側面があったとしても、その
背景に宗教的・民族的な要因があったことは、前記に指摘した被告ら提出
の書証の記載等からも明らかであり、シーア派ハザラ人に対する民族的・
宗教的な理由に基づく迫害の事実を否定することはできない。
エ パキスタン及びUAEにおけるアフガニスタン人の状況
  複数の文献によれば、パキスタン政府のアフガニスタン難民の受け入れ政策
は厳格になっており、パキスタンへの入国を制限するほか、退去強制の対象
としていること、パキスタン国内のアフガニスタン人がパキスタン警察による恣
意的な逮捕、脅迫、殴打の対象となっており、賄賂を要求され、支払った者は
釈放されるが、そうでない場合は殴打され強制送還されていることが報告され
ている。特にハザラ又はタジク民族に属するアフガニスタン人にとってパキス
タンは安全は庇護国とはいえないというのがUNHCRの見解となっている。
オ 原告の難民性について
(ア) 原告は、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であり、本件各
処分当時、タリバンによる迫害の対象となっていたから、難民条約上の難
民に該当することは、前記のとおりである。そして、原告の供述によれば、
原告及びその家族は、個別的にもタリバンによる迫害を受けたことが認め
られるから、原告は難民条約上の難民に該当する。
(イ) 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。
① 原告は、アフガニスタン国籍の父B、母Cのもと、5人兄弟の長男として
1973年(昭和48年)3月3日、アフガニスタンのiで出生し、5ないし6歳
ころからカブールに居住していたが、1993年ないし1994年ころムジャヒ
ディン間の内線が激化し、戦闘が終了するまで自宅の地下室に隠れるこ
とを余儀なくされた。
② このような中、原告は、ハザラ人勢力であるイスラム統一党から「寄付
をするか、軍隊に参加するか、この地区から出ていくか。」迫られ、4回く
らいにわたり、合計100万アフガニ(当時のアフガニスタンでは3ないし4
年分の収入に相当する。)を支払った。原告の親戚には、イスラム統一党
の軍隊に参加させられ、戦闘に巻き込まれて死亡した女性もいた。
     ③ 1996年(平成8年)9月ころ、タリバンがカブール市内を制圧するようになる
と、原告の周囲の者がイスラム統一党の支援者であるとしてタリバンに連
行され、また多数の若いハザラ人が連行されるようになった。
       原告は、1996年(平成8年)11月15日の深夜に自宅で寝ていたところ、父
から「起きろ、ドアの向こうからパシュトゥーン語が聞こえた。タリバンが来
ているから逃げろ。」と言われ、自宅の屋上に出て、他の家屋の屋上を伝
って逃げ出したところ、タリバンに後方から右足の大腿部を狙撃された。
       原告は、知り合いのハザラ人に助けを求め、かくまってもらった。その後夜間
に会いにきた家族と相談しパキスタンのペシャワールに逃げることにし
た。
     ④ 1997年(平成9年)6月ころ、父がタリバンに連行されたため、カブールから
妻子を含む家族がペシャワールに避難してきた。母の話では、タリバンの
兵士らが「息子はどこにいる。パキスタンに送り込んだだろう。」などと言っ
て父を連行し、4ないし5日後に母が面会に行ったところ父の身体は拷問
のため痣だらけになっており、1週間後再び面会に行ったが「ここにいな
い。」と言われて行方が分からなくなってしまった。
     ⑤ その後、原告は、1997年(平成9年)から2000年(平成12年)6月までの
間、家族とともにペシャワールに居住し、時々UAEや日本に赴いて中古
部品の買い付けの仕事などをしていたが、ペシャワールではアフガニスタ
ンから出国してきた多くの難民に対して、パキスタンの警察官が恐喝や暴
行を行い、退去強制をおこなったりする事態が相次ぎ、原告も同様の被
害を度々受けていた。
       2001年(平成13年)6月ころ、原告が2人の子供と通りを歩いていると、パ
キスタンの警察官から呼び止められ、公衆の面前で、また、2人の子供の
目の前で屈辱的な暴行を受け、もはやパキスタンに滞在することはでき
ず、出国して、以前に行ったことのある本邦で難民認定申請することを決
意し、パキスタン人のブローカーを紹介してもらい、1万2000ドルを支払
い、同年7月初め頃、ペシャワールからカラチへ移動し、シンガポール、ソ
ウルを経由した上、釜山港から貨物船で本邦に不法入国した。
   カ 原告の供述の信用性
(ア) 客観的事実との符合
 ① 原告の身上に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券の写
し(乙7の1添付資料、乙35別添資料7、乙36別添資料7)、在パキスタ
ン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35別添資料1、乙36別
添資料1)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35別添資料
8ないし13、乙36別添資料8ないし13)、外国人入国記録カード写し
(乙37添付資料)があるが、これらの記載と原告の供述はいずれも一致
している。
 ② 原告が供述する旅券取得及び更新の状況、UAE及びパキスタンにおけ
る在留状況、在留資格及び在留期間、今回本邦に入国するまでの6回
の出入国における査証の取得状況、出入国状況、居住状況についても、
旅券の写し(乙7の1添付資料、乙35別添資料7、乙36別添資料7)、在
パキスタン日本大使館に提出した査証申請書の写し(乙35別添資料1、
乙36別添資料1)、在パキスタン日本大使館発行の渡航証明書(乙35
別添資料8ないし13、乙36別添資料8ないし13)、東京入管審査管理
部門入国審査官が調査した原告の出入国状況及び外国人登録状況(乙
37)と一致している。
     ③ 原告が、西カブールのダシテバルシェに居住するようになった後、1996年
(平成8年)9月にタリバンがカブールを制圧するまでの状況及びタリバン
がカブールを支配した後、同年11月にタリバンに銃撃され、ペシャワー
ルへ出国するまでの状況についての原告の供述は、アフガニスタンにお
けるタリバンの台頭及びカブールの制圧等の歴史的経緯、英国移民局
が2001年(平成13年)4月に作成したアフガニスタン・アセスメントの報
告等と合致している。
     ④ 原告が1996年(平成8年)11月15日ころ、自宅からタリバンに連行されそ
うになり、屋上を伝って逃走したと供述する点については、原告代理人が
作成した報告書(甲161・32頁)におけるダシテバルシェの家屋の状況
と合致する。
     ⑤ 原告が背後からタリバンに右足の大腿部を銃撃され、その後、パキスタンの
ペシャワールに逃避したと供述する点については、原告の右足の大腿部
の傷跡の状況と合致している。
     ⑥ 原告が、2001年(平成13年)6月ころ、ペシャワールでにパキスタンの警
察から暴行を受けた状況についての供述は、アムネスティ・インターナシ
ョナルが同年6月29日に発表したニュース等と合致している。
     ⑦ 被告らは、原告が、今回本邦に入国するまでの6回の入国において提出し
た外国人入国記録カードの写しの住所欄には、マザリシャリフ、カブー
ル、ペシャワール、マザリシャリフ、ペシャワールと記載されており、原告
の供述と矛盾する旨主張するものとも思われる。
       しかし、原告は、英語の読み書きができないことから、同行した者が外国人
入国記録カードの記入を行い、自らはその者の指示にしたがって署名を
したが、これらの住所の記載については重要と思っていなかったもので
ある。このことは、外国人入国記録カードの署名以外の記載については
一見して異なる筆跡によるものであること(乙37、添付資料)、原告が在
パキスタン日本大使館に提出した査証申請書について2000年(平成1
2年)3月27日付けのものと同年12月4日付けの記載とが一見して異な
る筆跡によるものであることからも裏付けられる。
(イ) 内容の自然性及び合理性
      原告の供述は、その内容において、極めて自然であり、合理性を有するもので
あるところ、特に原告が1996年(平成8年)11月にタリバンに銃撃され、
ペシャワールに出国した状況、1997年(平成9年)前半に父がタリバンに
連行されたことから、ペシャワールに逃避していた家族と再会した状況及
び2001年(平成13年)6月ころ、ペシャワールでパキスタンの警察から暴
行を受けた状況に関する供述は、極めて具体的かつ詳細であり、実際に
事実を体験した者しか供述することのできない迫真性を有するものであ
る。
      被告らは、原告が違反調査が開始された当初は「タリバンに命をねらわれる経
験があった。」旨の抽象的な供述に終始していたにもかかわらず、口頭審
理において「足を撃たれた。」旨供述を具体的に変遷させているのは不自
然である旨主張するが、原告は2001年(平成13年)8月20日、東京入管
に難民認定申請した際の申請書には「1996年11月、機関銃による銃撃
を受け足を負傷した。タリバンによる捜索を受けて自宅から逃走するところ
であった。」旨記載されており(乙26)、難民認定申請を行った当初から「足
を撃たれた」という迫害状況を一貫して供述していたものであり、被告の主
張には根拠がない。
      被告らは、原告が、1996年(平成8年)以降パキスタンに滞在しながら、同国
において庇護を求めず、その間、本邦に6回短期滞在していたが、その際
にも保護を求めていないのであり、また、原告の家族が現在もパキスタン
に居住しており、迫害から逃れて他国に保護を求める者の行動としては不
自然である旨主張するが、原告は1996年(平成8年)にタリバンに銃撃さ
れ、パキスタンに逃れた後はアフガニスタンには帰国していないのである
から、パキスタン、日本、UAEにおいて在留資格を取得して滞在していたと
しても、それが難民として特段不自然な行動であるとはいえない。原告が
パキスタンに保護を求めていないのは、パキスタンがタリバンを政府承認
している数少ない国であり、難民条約にも加盟していないことや、アフガニ
スタン人がパキスタン警察による恣意的な逮捕の対象となっていることか
らすれば、ハザラ人にとってパキスタンは到底安全であるとは言えないか
らである。本邦に短期滞在した際に保護を求めていないのは、アフガニス
タンの状況が好転するのではないかとの希望を持っていたが実際は悪化
する一方であったからであり、タリバンが1996年(平成8年)9月にカブー
ルを制圧した後、その支配地域を拡大していったという歴史的経緯を考慮
すれば、この点も格段不自然なものではない。
      被告らは、原告は、アフガニスタンの隣国のUAEに滞在し中古自動車部品の
販売業に従事していた経歴を有するものであるが、同国への入国によって
難を逃れることができた原告が、何故、遠方の本邦に多額の手数料を払っ
て渡航する必要があったのかについて合理的な説明がない旨主張する
が、原告がUAEに保護を求めていないのはUAEがタリバンを政府承認し
ている数少ない国であり難民条約にも加盟していないからであり、安全に
生活できる国で平穏に過ごしたいと考え、以前に滞在した本邦を選んだこ
とは何ら不自然ではない。
      被告らは、原告と母が逃亡する際、母がパキスタンとアフガニスタンを往復し
た際、原告の妻子がパキスタンに逃亡する際、何らかの問題が生じた旨の
供述がなく、また、他の兄弟に何らかの迫害等があった旨の供述もないこ
とから、原告とその家族に差し迫った危険があったとは考えられない旨主
張するが、原告はタリバンに銃撃され、このままでは生命に危険があった
ことからすれば、原告に差し迫った危険があったことは明らかであり、原告
やその家族がトルハムで国境を通過した際には、担当官に賄賂を支払うこ
とにより通過させてもらった旨供述していること、原告の父がタリバンに連
行されたことから他の兄弟もペシャワールに逃避してきていること、原告の
弟のDがパキスタンからイギリスに出国し、難民認定申請していることから
すれば、被告らの主張には根拠がない。
    (ウ) 供述の一貫性
      原告の供述は、難民認定手続及び退去強制手続きにおける供述調書、報告
書(甲3、4)及び原告本人尋問を通じて、その細部にわたるまで一貫して
述べられている。
      被告らは、本邦への入国経緯について、退去強制手続においては、パキスタ
ンから韓国までブローカーが同伴していた旨供述していたのに対し、執行
停止申立書においては、単独でパキスタンを出て韓国に行ったと主張して
いるとして両者に齟齬がある旨主張するが、上記申立書には、ブローカー
が同行していたと記載されており、単独で行ったという記載が家族と離れて
単身渡航したという意味であることは明らかである。
      被告らは、釜山港から本邦への渡航手段につき、退去強制手続においては貨
物船と供述していたところ、執行停止申立書においては、漁船と申し立てて
おり、齟齬がある旨主張するが、難民認定手続及び退去強制手続におけ
る供述調書、報告書(甲3)のいずれにおいても貨物船と一貫して供述して
おり、些細な違いでそもそも供述の変遷と評価することはできない。
  被告らは、原告は、故意に自己名義のアフガニスタン旅券を所持しないで
本邦に入国した旨供述していながら(乙7の1)、当該アフガニスタン旅券は
ブローカーに取り上げられた旨供述する(乙7の2)など一貫性のない供述
をしている旨主張するが、被告らが、原告が故意に旅券を所持しないで本
邦に入国した旨供述したと指摘する供述調書には「旅券はブローカーに渡
していた。ブローカーとは韓国で別れたが、旅券は返してもらえなかった。」
旨記載されており、一貫性がないとの主張には根拠がない。
  被告らは、不法残留していながら不法入国した旨虚偽の供述をしていた他
のアフガニスタン人の難民認定申請者を例にとって、同趣旨の供述をして
いる原告においても虚偽供述している可能性がある旨主張するが、単なる
憶測にすぎず、原告の供述の信用性に何らの影響も与えるものではない。
  被告らは、原告は、入国後直ちに難民認定申請の手続をとっていない理
由について、2001年(平成13年)10月15日の取調べにおいては申請方
法の不知のみを理由としていたが(乙7の3)、同月17日の取調べでは体
調不良を理由として追加するなど供述に変遷が見られれる旨主張するが、
そもそも、原告は入国後速やかに難民認定申請を行っていることに加え、
前者は来日後申請まで20日間を要した説明であるのに対し、後者は本邦
到着時点で申請しなかった理由の説明であることからすれば、供述には何
ら変遷は見られず、その主張には根拠がない。
  被告らは、原告が1996年(平成8年)11月15日ころタリバンに銃撃され
た後に、難民認定手続における調査では親戚の家に逃げ込んだと供述し
たが、報告書及び異議申出手続では知り合いの家に逃げ込んだと供述し
ており内容が変遷している旨主張するが、この点について原告は、逃げ込
んだ家とは血縁関係はなく「qoum」というダリ語で説明したところ、通訳が
これを親戚と訳したからではないかと供述しており、同単語には国民、民
族、部族、親戚と複数の語義があることからすれば、その説明には合理性
があり、原告の供述が変遷したと評価できるものではない。
(エ) このように原告の主張する事実は、客観的事実に符合し、その内容も自
然であり合理性を有するほか、概ね一貫していると認められるから、十分
信用することができる。そして、これらの事実に照らせば、原告が、本件各
処分当時アフガニスタンに帰国した場合、人種及び宗教を理由に迫害を受
けるおそれがあると信じる相当な理由が認められる。したがって、原告は難
民条約上の難民に該当するというべきである。
(オ) これに対し、被告らは、原告には迫害を受けるおそれがあるという十分
に理由のある恐怖が認められない旨主張するが、被告らの主張は以下の
とおり理由がない。
     a 被告らは、原告がパキスタンにおいて受けた迫害については、パキスタンの
警察から脅迫されて現金を奪われたり、子供の面前で暴行されたりした
という程度のものであり、迫害と評価できるものではない旨主張する。
       しかし、アフガニスタン国籍を有する原告の難民該当性の判断にあたって検
討されるべきは、原告がアフガニスタンに戻ったとすれば迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有するか否かであり、パキス
タンにおいて原告が受けた迫害の程度は、原告の難民該当性の判断を
何ら左右するものではない。
     b 被告らは、原告は今回本邦に入国するまで6回の入国において中古車部品
の買付目的で来日していたところ、2000年(平成12年)12月4日に在
パキスタン日本大使館に査証申請を行ったが、これを拒否されたことか
ら、中古車部品の買付目的で不法入国した旨主張する。
       しかし、原告は子供の面前でパキスタンの警察官から暴行を受け、ペシャワ
ールにおけるアフガニスタン難民の状況が悪化していたことから、ペシャ
ワールに滞在し続けることはできないと考え、家族と相談し、安全に生活
できる国に出国することを決意し、本邦に不法入国して難民認定申請し
たと供述するところ、この供述内容は、アムネスティ・インターナショナル
が2001年(平成13年)6月29日に発表したニュースにおけるパキスタ
ンにおけるアフガニスタン難民の状況と合致しており、十分信用できる。
       もっとも、原告が、本邦を選択して、本邦に不法入国した背景には、原告が
今回本邦に入国するまで中古車部品の買付けという商用目的で6回来
日した経験を有していたことから本邦で生計を立てることができる見込み
があったことは考えられるが、難民認定申請する者が、できるだけ生計
を立てる見込みがある国を選択したいという心情は極めて自然であり、こ
のような心情を有していたからといって、責められるべき事情は存しな
い。
       そもそも、原告の難民該当性の判断にあたって検討されるべきは、原告が国
籍国であるアフガニスタンに戻ったとすれば迫害を受けるおそれがある
か否かであるから、原告がペシャワールから本邦に向けて出国した動機
に本邦で就労する目的が含まれていたとしても、原告の難民該当性の判
断が左右されるものではない。
c 被告らは、本件が組織的な不法入国事案であり、原告は、難民認定制
度に乗じて就労目的で入国した旨を主張する。しかし、難民条約上の難
民に該当すれば、原告の入国の態様が組織的背景を有する不法入国
事案であるか否かは原告の難民該当性に何の影響も与えないというべ
きであるし、就業の動機と難民認定申請の意思は併存し得るものであ
る。また、原告と同時期に不法入国を摘発された者の中には、原告と類
似した迫害の事実を主張する者もいるが、これをもって不自然であるとい
うことはできないし、原告の難民認定申請の際にも通訳等を務めたEが、
実は本邦におけるブローカーの手引をしており、中古車自動車販売業に
関わるアフガニスタン人の難民認定申請について積極的に主導した可
能性がある等とする部分は、単なる憶測を述べているにすぎず、到底事
実と認めることはできない。したがって、被告らの主張には、いずれも理
由がないというべきである。
  (2) 被告らの主張
ア 本件不認定処分の適法性について
原告は、「人種」及び「宗教」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそ
れがあり、国籍国の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取
消しを求めているが、原告の主張は、以下のとおり理由がない。
(ア) 難民、迫害の意義について
法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により
難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれ
ば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であ
ること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理
由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国
の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにそ
の国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の
外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができ
ないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に
帰ることを望まないもの」とされている。そして、その「迫害」とは、「通常人に
おいて受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身
体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該
人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情
のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱く
ような客観的事情が存在していることが必要である(東京地裁平成元年7
月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月26日判決・
行裁例集41巻3号757頁)。
ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認
定は、上記難民の定義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴ
ょう性等も吟味し、各人の個別の事情に基づいてされるべきであるところ、
難民であることの立証責任は、申請者が負うべきである。つまり、いかなる
手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条約に規定
がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我
が国においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の
「提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定を行うことができ
る」と規定し、法61条の2の3において、被告法務大臣は、申請者により
「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合
その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場合に
は、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることか
らも明らかなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を
理由として迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的
事情があり、かつ、通常人が当該人の立場におかれた場合にも迫害の恐
怖を抱くような客観的事情も存在していることを認めるに足りるだけの資料
を提出することが求められている。
そして、難民ないし迫害の意義において難民と認定されるための要件と
される、当該人が抱くであろう迫害の恐怖は、単に迫害を受けるおそれが
あるという抽象的な可能性では足りず、迫害を受けるおそれがあるという恐
怖を抱くような現実的で個別かつ具体的な事情が存することが必要であ
る。
(イ) シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められる
ことがないこと
① ラバニ政権が成立した1992年(平成4年)以降のアフガニスタンにお
いて、ハザラ人を基盤とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イ
スラム統一党マザリー派(ハリリ派、ハザラ人が主体)、同アクバリー派
(ハザラ人主体)、イスラム運動(ハザラ人主体だがパシュトゥーン人も含
まれる)、イスラム国民運動党(ウズベク人主体だがハザラ人も含まれ
る)、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立構造
の下に上記グループ相互の間で、あるいは上記グループと外のグルー
プとの間で抗争を繰り返しており、タリバン台頭以前のアフガニスタン情
勢は、ラバニ大統領派とヘクマティール首相派の双方にハザラ人を主体
とするグループとパシュトゥーン人を主体とするグループの双方が属し、
ハザラ人同士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多岐にわたる抗
争関係が存在しており、アフガニスタン全土が混沌とした内戦状態だった
ものであるから、特定の民族や集団について、常に当該民族や集団等
が一方的に被害者であったと断じることはできない。
② 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人
であることのみで難民該当性が認められるものではない。
すなわち、被告提出の書証(乙21、45)等に記載されているとおり、タ
リバン政権下において発生した人権侵犯の主要な要因は、宗教的又は
民族的特性というよりも、むしろタリバンに対し、軍事的又は政治的に対
立する者であったか又はそのように解されたことによると評価することが
適当である。
そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の
公式見解を出したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていな
い。さらに、タリバンは、パシュトゥーン人全体を代表するものでもないの
であって、タリバンと対峙する北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシ
ュトゥーン人がいたという事実からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間
の対立構造が、宗教的又は民族的背景によるものというよりは、むしろ
軍事的又は政治的な背景によるものであったことをうかがわせるもので
ある。
③ 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等にお
ける虐殺事件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数
やその実態等について判然としない上、これらの虐殺は、北部同盟との
戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝突に伴い互いの報復行為と
して行われた側面が強いものといえる。
④ 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民
認定を行うといった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別
の具体的事情等を考慮した上で難民認定の可否が判断されている(乙4
9の1ないし6)。
(ウ) パキスタンに滞在するアフガニスタン人の状況
  パキスタンに滞在するアフガニスタン人の状況については、「何人かの著
名なアフガン人は、タリバン支持者及び難民のコミュニティ内の保守派の嫌
がらせと暴力の対象とされていることが報告されている。新聞報道による
と、2000年内に少なくとも10人のアフガン人が殺害され、それは政治的
見解によるものとされている」ことが報告されているものの、一般的なアフガ
ニスタン人については「政府は、アフガン難民に法的な永住的再定住を認
めてはいないが、彼らに国内での居住と稼働を許可している。多くは自活
し、難民キャンプ外で生活しており、その結果、その住人が経済的対立に
憤慨し、難民が高い犯罪率を生んでいると信じている地方のコミュニティで
は、ある種の敵対を生んだ。」と報告されているにとどまり、このような状況
下は、一般のアフガニスタン人が迫害を受けているような状況にあるとはい
えない。
(エ) 原告の個別主張に対する反論
  原告が、自らが難民であるとして「迫害を受けるおそれがあるという十分に
理由のある恐怖」を有すると主張する根拠は、アフガニスタンでは一般にイ
スラム教シーア派ハザラ族であれば迫害を受けるおそれがあることを前提
に、原告自身、かってイスラム統一党に資金援助を行ったことがあったた
め、1996年(平成8年)11月15日、タリバンに連行されそうになり、その
際、タリバンから銃撃される被害に遭ったこと、その後、原告の父親がタリ
バンに連行され、所在不明になったこと、以来、一家はパキスタンのペシャ
ワールへ移住したが、パキスタンにおいても警察官に脅迫され、2001年
(平成13年)6月、原告自身が子供の前で殴られ、金を巻き上げられ、悔し
くて恥ずかしい思いをしたことを主張しているが、以下に述べるようにかか
る主張についての原告の供述は信憑性がない。
     ① 原告は、イスラム統一党に資金援助を行ったことが原因でタリバンに逮捕さ
れそうになり、逃げたところタリバンから狙撃された旨主張しているが、原
告がイスラム統一党に資金援助を行ったことについて何ら客観的な証拠
は存在しない。また、原告の足の傷が銃痕であるかどうかは判別しがた
いし、銃痕であったとしても、1996年(平成8年)11月当時のアフガニス
タンは内戦状態にあったことからすれば別の機会による負傷の可能性も
否定できない。
      仮に原告がイスラム統一党支援者である旨疑われたのであれば、わずかし
か歳の違わない弟らも同様に疑われてしかるべきであるのに、銃撃まで
して原告を連行しようとしたタリバンが、何故弟らを連行しなかったのか
不可解であること、銃撃を受けた状況についても曖昧な表現に止まって
いること等からすれば原告の供述は信用できない。
       さらに原告は逃亡先について、「私はそれでも何とか親戚の家にたどり着き、
そこで約2週間、足の治療をしながら隠れていました。」(乙27号証2丁
裏)、「そこで私は、同じj地域の親戚の家に屋根づたいに逃げようとした
のですが、途中でタリバンに狙撃されました。私は重傷を負ったものの、
何とか親戚の家にたどり着き、約2週間後にパキスタンに逃げたので
す。」(乙28の4丁表)と供述していたが、これらの供述後に原告から提
出のあった報告書には「逃げていた屋上から飛び降りて知り合いのハザ
ラ人の自宅のドアを叩いた。」(乙31の6頁)とあり、逃亡先が親戚から
知り合いに変化しているが、変遷の理由について合理的な説明がない。
     ② 原告は、原告の父が原告の身代わりとしてタリバンに逮捕され、現在も消息
不明である旨主張するが、原告自身が父の逮捕を目撃したのでなく、母
から聞いたというに過ぎず、逮捕事実について何ら客観的証拠がなく、
原告の母がどのようにして父の拘留場所を知り得たのか、女性のみで外
出することが禁止されているのにどのようにして母が面会に行ったのか
等何ら供述していないこと等からすれば、直ちに原告の主張は信用でき
るものではない。
       なお、原告は、「タリバンは、特に何の罪も犯していなくても、何らかの嫌疑を
かけ、ハザラ人を逮捕して拷問します。また、容疑をかけられた当人だけ
でなく、その家族や親族まで、同様に逮捕したりする。」(乙28)と供述し
ているにもかかわらず、パキスタンに逃亡する際、原告の妻子、父親を
危険なアフガニスタンに残し、また、原告の母親が2度にわたりパキスタ
ンからアフガニスタンに帰っていながら、特に危険な目にあったような事
情が窺われないこと、原告の妻子がパキスタンに逃亡する際に何らかの
問題が生じたとの供述がないこと、原告は5人兄弟であるが、他の兄弟
について何らかの迫害等があったとの供述もないことからすると、原告
の供述には誇張が見られ、原告及びその家族に差し迫った危険があっ
たとは考えられない。
     ③ 原告は、入国を決意することになったパキスタンにおいて受けた暴行につい
て、「警察官から脅迫されて金を巻き上げられ、子供の前で金を取られ、
悔しくて恥ずかしい思いをした。」等と述べているが、難民条約上の迫害
と評価できるものではない。
       そもそも、原告は、1996年(平成8年)にパキスタンに入国し、有効な旅券と
有効なパキスタンの査証を有する正規滞在者であること、(乙35別添資
料7《旅券の有効期限は2001年(平成13年)3月29日、滞在査証の有
効期限は2000年(平成12年)8月31日》、乙36別添資料7《旅券の有
効期限は2001年(平成13年)3月29日、滞在査証の有効期限は200
1年(平成13年)4月22日》)、原告がパキスタンのペシャワールで居住
していたハヤタバードは高級住宅街であり、原告は同所で安定した生活
基盤を有し、特段の問題なく生活していたものであり、迫害を受けるよう
な状況にはなかったものである。
     ④ また、原告については、1996年(平成8年)以来、パキスタンに在住しなが
らも同国において5年間も保護を求めず、その間、本邦に6回も短期滞
在するなどして中古自動車部品の買い付けをするなどしていたが、その
際にも何ら保護を求めていないこと、原告の母、妻、弟らは現在もパキス
タンに居住していること等からすれば、迫害から逃れるために我が国に
来たとの原告の供述は全く信用できない。
     ⑤ 原告は、UAEに滞在し、中古自動車部品の販売業に従事していた経歴を
有する者であるが、同国への入国によって難を逃れることができた原告
が、なぜはるか遠方の本邦に1万2000米ドルという多額の手数料を支
払って渡航する必要があったのかについて合理的な説明もなく不自然で
信用できない。
     ⑥ 供述の変遷
       原告は、アフガニスタンにおける迫害に関し、2001年(平成13年)10月3
日に違反調査が開始された当初は、「1996年(平成8年)12月にタリバ
ンに命を狙われるということがあり、怖くなったので、パキスタンへ逃げま
した。」、「アフガニスタンにおいてタリバンに命を狙われるという経験があ
り、私の父や友人も行方不明となっており、とてもアフガニスタンには戻
れない」旨の極めて抽象的な供述しかしていなかったところ(乙7の2)、
2001年(平成13年)10月30日の口頭審理において「アフガニスタンに
いた頃は、ハザラ族からなるワダット党に徴兵されるか、献金するかをし
なければなりませんでした。このため、徴兵代わりの献金をしたのです
が、タリバンにこれが知られることとなり、ある晩タリバンが我が家に来た
とき、外でパシュトゥ語が聞こえたため、父が私に逃げるように言い、私
は足を撃たれました。このため15日間友人宅で療養し、その後、パキス
タンに逃れました。」旨供述を具体化させた(乙13)経緯が認められるの
であるが、自己の難民該当性を主張する者が、自己の生命・身体に対す
る具体的な危険を示す「足を撃たれた」という状況を当初から供述しない
のは極めて不自然である。
       原告は、本邦への入国経緯について、本件退去強制手続における取調べに
おいて、「パキスタンを出国してから韓国に入国するまでブローカーが同
伴していた」と供述していたのに対し、執行停止申立書においては「単独
でパキスタンを出てシンガポール経由で韓国へ行った」旨主張しており明
らかな齟齬が認められ、釜山港から本邦までの渡航手段についても、退
去強制手続においては「大型貨物船に乗船した」と供述しながら、執行
停止申立書においては「漁船で日本に来た」旨主張しており、重要な事
実につき大きな食い違いが見られる。
       原告は、本邦への渡航歴につき、「過去6回の入国の際は、在パキスタン日
本国大使館で発行を受けた渡航証明書を使い来日しておりました。しか
し、今回はアフガニスタンの情勢が良くならず、本邦に行って難民申請し
たいと考え、そのためにはアフガニスタンの旅券等を持っていない方が
良いのでないかと思いました。そこでブローカーに依頼し、日本に行くこと
にしました。」(乙7の2)と故意に自己名義のアフガニスタン旅券を所持し
ないで本邦に入国した旨供述していながら、当該アフガニスタン旅券は
ブローカーに取り上げられた旨供述するなど(乙7の2)、アフガニスタン
旅券を所持していないことの理由について一貫性のない供述をしてい
る。
       原告は、入国後直ちに難民認定申請の手続を行っていないところ、2001年
(平成13年)10月15日、入国警備官による第3回目の取調べにおい
て、当初、どのように手続をしたらよいかわからず、知り合いのアフガニ
スタン人のEに相談し、同人の協力を得て申請した旨説明し、申請方法
の不知のみをその理由として挙げていたが(乙7の3)、その後同年10
月17日の入国審査官による第2回目の取調べにおいては、「日本到着
時は体調も悪く、申請方法も分かりませんでした」と説明し(乙11の2)、
「体調不良」をその理由として追加するなど供述に変遷が見られる。
     ⑦ 原告の本邦への入国目的は不法就労活動であること
       原告は、1996年(平成8年)以降、パキスタンに正規の滞在査証を有して滞
在するかたわら、UAE所在の中古車部品輸出会社に所属し、本邦所在
の中古車部品輸出会社との取り引きを理由に、1997年(平成9年)4月
2日の入国を初めとして、今回の入国に至るまでに計6回の出入国歴が
あるものの、この間、一時庇護を求めることも、難民認定申請を行うこと
もなかったこと、2000年(平成12年)から2001年(平成13年)にかけ
て在パキスタンや在UAEの日本大使館において多数の中古車部品貿
易業を営むアフガニスタン人の本邦への査証の発給が不許可とされたこ
と、本邦以外の第三国に査証を申請するなどして正規に渡航する選択
肢が存在し、特に同じイスラム教シーア派を国教とする隣国のイランが
第1の選択肢として考えてしかるべきであるのに、多額の費用をかけ、家
族をパキスタンに残して本邦に不法入国するなど入国経緯が不自然で
あることからすれば、原告が事業を維持するために難民を偽装し本邦へ
の入国・在留を計画したと考えられる。
     ⑧ 本件が組織的背景を有する不法入国事案であること
   原告と同時期に摘発された9名のアフガニスタン人のうち、原告と同じ場
所で摘発された者が6名(原告、F、G、H、I、J、K)いること、上記9名
中、摘発場所の1つである千葉県佐倉市ab番地をそれぞれの外国人登
録居住地としていた者が3名(F、G、H)いること、アフガニスタン人のLな
る者が賃借していると認められる八王子市e所在のgアパートh号室を外
国人登録居住地としている者が3名(原告、M、K)いること、上記9名の
中には以前から不法就労目的で本邦への入出国を繰り返していたアフ
ガニスタン人がいること(原告、G、H、N等)が認められる上、摘発を受け
た者のアフガニスタンにおける迫害や今回の入国経緯に関する供述内
容が相互に類似していること、入国後の生活も9名中、7名が中古車部
品販売に関する職種を有し、千葉県佐倉市の同一住居に居住している
者もいること、原告と同様にパキスタンのペシャワールに在留し、中古車
部品会社の社員であり、難民不認定処分取消事件が係属しているアフ
ガニスタン人が今回本邦に入国する直前に韓国に同時に入国しているこ
とが判明していること(乙111)、平成12年以降難民申請を行ったアフガ
ニスタン人で既に本邦から自費出国している29名のうち25名が原告と
同じ中古車部品業を営んでいること(乙68)、平成13年以降に東京地方
裁判所に難民不認定等取消訴訟を提起した原告41名のうち中古車部
品業を営んでいた者が30名おり、また2回以上の来日歴を有している2
5名はすべて中古自動車部品業を営んでいた者であること(乙109)など
を考慮すると、原告らは、従来から緊密な連絡を取り合って組織的に不
法入国及び難民認定の申請に及んだもので、本件は組織的背景を有す
る不法入国事案である。
(オ) 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のあ
る恐怖を有するとは到底認めることができないから、本件不認定処分は適
法にされたものというべきである。
イ 本件裁決の適法性について
原告は、2001(平成13)年7月初めころ、釜山港から船名船籍等不詳の
貨物船で出発し、横浜港に到着して本邦に不法入国した者であり、法24条1
号所定の退去強制事由に該当すると認められ、特別審理官の判定には何ら
の誤りもない。
そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に
原告に対し在留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟
酌しなければならない事情は見当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民
の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して生活することに支障はないか
ら、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱濫
用した違法があるということはできない。
ウ 本件退令発付処分の適法性について
退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁
決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を
発付しなければならないのであって、退去強制令書を発付するにつき裁量の
余地はないから、本件裁決が適法である以上、本件退令発付処分も当然に
適法であるというべきである。
エ 以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも
適法であるから、原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。
第3 当裁判所の判断
1 原告の難民該当性について
原告は、本件不認定処分は、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわ
らず、これを看過してされた処分であるから無効あるいは取り消されるべきであり、
本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれ
のある国に送還することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフール
マン原則に違反し取り消されるべきである旨主張する。そこで原告の難民該当性
について検討する。
(1) 歴史的沿革
本件各証拠(甲101、126ないし130、137ないし148、乙38ないし42、5
3ないし56)によれば、アフガニスタンの歴史的沿革について、以下の事実が認
められる。
ア アフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系の
ウズベク人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。このうち、パ
シュトゥーン人が最大の民族グループで、人口の約35パーセントを占め、次
に多いのがタジク人で約25パーセント、ハザラ人は約19パーセント、ウズベ
ク人は約6パーセントを占める。
イ アフガニスタンには、1979年(昭和54年)12月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支
援の下で、共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義者を中
心とするムジャヒディン(イスラム聖戦士達)がソ連及びカルマル政権に対する
抵抗運動を開始し、以後、内戦状態が続いた。
ウ 政権は、1986年(昭和61年)5月にカルマルからナジブラへと引き継がれ、
1989年(平成元年)2月にはジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退し、19
92年(平成4年)4月には、ナジブラ政権は崩壊してムジャヒディン各派による
連立政権が誕生したが、各派間での主導権争い等により、国内の内戦は激
化した。
エ 1994年(平成6年)末には、イスラム教スンニ派のパシュトゥーン人を中心と
したタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、イスラム原理主義政
権の樹立を目指して勢力を拡大し、1996年(平成8年)末には、タリバンが首
都カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣言した。これ以降、タリバンに反対
するムジャヒディン各派、すなわち、タジク人中心のイスラム協会(ラバニ派)、
パシュトゥーン人中心のイスラム党(ヘクマティヤール派)、イスラム教シーア
派のハザラ人中心のヘズベ・ワハダット党(イスラム統一党、ハリリ派等)、ウ
ズベク人中心のイスラム国民運動党(ドスタム派)の四大勢力の統一戦線(通
称北部同盟)とタリバンとの内戦が続いた。統一戦線は、タリバンによりカブー
ルを追われた政府であるアフガニスタン・イスラム国(旧政府)を支持してお
り、旧政府の最高指導者であるグルバディン・ラバニが形式上の最高指導者
とされていた。
オ タリバンは、1998年(平成10年)夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一
党の拠点であるバーミヤンを陥落させ、2001年(平成13年)10月ころには、
国土の9割を掌握し、アフガニスタンを実質的に支配していた。
カ アメリカ合衆国におけるいわゆる同時多発テロを契機とした米英軍の空爆と
統一戦線による攻撃により、2001年(平成13年)12月には、タリバンは統
治機能を喪失した。そして、同月22日には、アフガニスタン暫定政権が発足
し、本邦は、同政権を承認した。暫定政権は、パシュトゥーン人のハミド・カル
ザイ元外務次官を首相に相当する議長とする合計30人の閣僚で構成され、
うち11人がパシュトゥーン人、8人がタジク人、5人がハザラ人、3人がウズベ
ク人、その他が3人であった。
キ 暫定政権成立以後のアフガニスタンについては、パキスタン等の隣国に逃
れていた避難民の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸
念する報道もされており、さらには、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラ
バニ元大統領派のタジク人が政権の要職を占めつつあったことに反発して、
ウズベク人の指導者であるドスタム将軍やクルド人の指導者であるイスマイ
ル・カーン司令官が暫定行政機構への参加を一時見送ろうとしたことや、暫定
行政機構の中心となっているパシュトゥーン人については、以前にあった部族
有力者らの腐敗と権力闘争が再燃するおそれがあること等から、暫定行政機
構には全土統一を達成できるだけの軍事力もなく、カリスマ性もイデオロギー
もないとして、タリバンによる政権掌握前の内戦状態に後戻りすることを危惧
する報道もされていた。
(2) アフガニスタンにおけるハザラ人の状況
ア 本件各証拠(甲102ないし108、203、乙21、45)によれば、アフガニスタ
ンにおけるハザラ人の状況については、以下の事実を認めることができる。
(ア) ハザラ人は、アフガニスタンに存在する最も古い移住民族の1つであり、
今から2300年以上前に今日ハザラジャットとして知られる地域に移住し、
1880年代までは、完全に自治を確立し、同地域を支配していた。
(イ) しかしながら、アブドゥル・ラーマンがアフガニスタンの王位に就いた189
0年(明治23年)から1901年(同34年)にかけて、ハザラ人は、宗教上の
理由及び民族的理由により、同王による迫害の対象とされ、3度の反乱を
起こしたが失敗に終わり、以後1970年代まで社会的経済的差別の対象と
され、厳しい政治的抑圧を受けた。
(ウ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、
連合や解散を繰り返してきたが、1990年代に入ると、ヘズベ・ワハダット党
とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。ハザラ人は、1992年
(平成4年)までにカブールのほとんどの地域に住むようになり、西カブール
は、シーア派ハザラ人の居住地域として国内最大のものとなっていた。しか
しながら、ナジブラ政権崩壊後、ムジャヒディンにより構成された暫定政権
から、ヘズベ・ワハダット党は完全に閉め出され、シーア派ハザラ人は無視
された。1993年(平成5年)2月11日には、西カブールのアフシャール地
区で、数百人のハザラ人が、ラバニ大統領とその主任司令官マスードの命
令により虐殺されるという事件が起きた。
(エ) その後、ヘズベ・ワハダット党は、1995年(平成7年)2月、当時勢力を
増大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入
ることを許可したものの、タリバンは同党を裏切り、同党の指導者であるマ
ザリ師等を連行した。その後、マザリ師は死体で発見されるに至った。
(オ) タリバンは、1996年(平成8年)にカブールを制圧し、1998年(平成10
年)8月8日、マザリシャリフを奪取したが、その際、わずか3日間に数千人
(最大8000人ともいわれる。)のハザラ人の民間人が殺害された。また、タ
リバンは、同年9月には、当時ヘズベ・ワハダット党の根拠地であり、ハザラ
人のホームランドとして同党に支配されていたバーミヤンを制圧した。これ
に対し、北部同盟は、1999年(平成11年)4月21日、バーミヤンを奪還し
たが、翌5月9日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによる
バーミヤン地方のヤカオラン奪取直後には、多くのハザラ人の一般市民が
殺害された。また、タリバンは、2000年(平成12年)12月、同地域におい
て数百人に上る一般市民を即決処刑した。
イ 被告らは、アフガニスタンにおけるハザラ人は、タリバン台頭前においては、
複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、常に一方的な被害者であった
と認めることはできないと主張し、また、タリバン台頭後については、ハザラ人
に対する人権侵害の主要な要因は、宗教的又は民族的特性によるものでは
なく、むしろタリバンに対立する者であったか、そのように解されたことによるも
のであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又は宗教の
みを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。
ウ そこで検討するに、本件各証拠中には、被告らの主張に沿うものとして、以
下の記載があることが認められる。
(ア) 民族に基づく深刻な虐待行為は、反タリバン派も犯してきた。例えば、1
999年(平成11年)4月21日から5月9日の3週間に、バーミヤンを制圧し
ようとした反タリバン勢力は、新しく移ってきたパシュトゥーンの人々や、タリ
バンの協力者の疑いのある人々を激しく殴ったり、何人もの民間人を恣意
的に拘束したり、それら家族にひどい仕打ちをしたといわれる(1999年1
月付けUNHCR資料・甲105、4頁)。
(イ) タリバンによる処刑は、2000年(平成12年)12月、反タリバン勢力イス
ラム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。
今回の処刑は、この地域を征服する際にタリバンが被った被害に対する報
復だと見られている。反タリバンと見られる13歳から70歳までのすべての
男性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。
イスラム統一党も、この地域を支配していたときにタリバンに協力したと
見なされた人々を虐待してきたと報告されている(アムネスティ発表国際ニ
ュース2001年1月23日・甲107、1頁)。
(ウ) 1997年(平成9年)5月末、およそ3000人のタリバン兵士の捕虜が、
マザリシャリフ周辺で、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下の軍によっ
て略式処刑された。また、同軍は、同年1月5日、空からカブールの住宅街
にクラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われたこの無差別空襲により、
市民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポート(2001年
10月5日付け)甲119)。
(エ) 発生した侵害の主要な要因は、宗教への加入又は民族的特性によると
は限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であったか又はそのよう
に解されたことによる。
1998年(平成10年)8月に、タリバンはマザリシャリフを占拠した。約5
000人(たいていはハザラ民族の民間人)が占拠後にタリバンにより虐殺さ
れたとの報告があった。タリバンは、1997年(平成9年)に、ハザラ人及び
他の戦闘員が彼らに敵対し、彼らの側の約2000人を虐殺したことに対す
る報復をすることに集中していたとされる(連合王国における「国別評価 ア
フガニスタン アセスメント2001年4月」(以下「連合王国アセスメント」とい
う。)・乙21、訳文5・3・27の箇所)。
(オ) 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン指導者がその権限をどう行使
するかによる。一部地域では宗教的少数派も平和に暮らし、自分たちの宗
教を奉じることができるが、他の地域では彼らへの嫌がらせや迫害の事件
が起こっている。
国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等、いくつかの情報筋は、タリ
バンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるためで、
主に政治的な動機によると強調した。これはつまり、戦闘地域及び衝突の
恐れのある地域の少数民族が特に危険であるということである。
ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害
されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢
力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われている(デ
ンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにおける治安及び人権状況
検討のためのパキスタン視察団報告(2001年1月18日から29日、以下
「デンマーク報告書」という。)・乙45、20頁、甲203)。
(カ) 上記(ア)ないし(オ)の各記載からは、ハザラ人を中心とするイスラム統
一党等は、タリバンに協力したとみなされた者に暴行等の虐待を加えたこ
とがあり、タリバンにより1998年(平成10年)8月に行われたマザリシャ
リフの大虐殺や、1999年(平成11年)に行われたバーミヤンにおける虐
殺は、これらの反タリバン勢力による虐殺行為に対する報復として、反タリ
バン勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象とし
てされた側面のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民
族に対し、主に戦闘地域において反対勢力との接触の疑いのある場合に
殺害や連行等の迫害を行ったことが認められる。
エ 他方で、被告がその主張の根拠として引用する連合王国アセスメントやデン
マーク報告書には、以下のような記載があることが認められる。
(ア) まず、連合王国アセスメントには、以下の記載がある。
継続した紛争等による人権侵害の状況下では、アフガニスタンで、誰が
危険で、誰がそうでないかについて明確に区別する法則はない。しかしな
がら、人権侵害の主要な標的の中には、以下のような者が含まれていると
いえる。タリバンと関係しない非パシュトゥーン民族のメンバー、宗教的マイ
ナリティーグループ等(乙21、訳文5・3の箇所)。
(イ) また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。
a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する箇所(乙45
の18、19頁)
中央の国連情報筋、アフガニスタン協働センター(CCA)、多くのNGO
等いくつかの情報筋は、全体としてアフガニスタン少数民族の政治的迫
害や追放は一般的ではなかったが、それは彼らがどこに住んでいるかに
よると述べた。しかし、戦闘地域又は衝突の恐れのある地域の少数民族
は極めて危険である。この情報筋は、衝突のある地域数は、1997年
(平成9年)以来増加しており、ハザラジャットとアフガニスタン西部での
政治的不安定を伴っていると述べた。
ある国連幹部情報筋は、戦闘が行われている地域、特に北部及びハ
ザラジャットの少数民族の状況は、現在非常に悪いため、彼らを非常に
特別な危険状態にあると見なされなければならないと報告した。ハザラ
人は特に迫害を受けやすいグループで、1998年(平成10年)以来そう
である。
国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等は、タリバンと非パシュト
ゥーン人少数民族の間で民族分化が行われていると説明した。ある情報
筋は、ハザラ人は「二重の少数派」であるために苦しんでいると付け加え
た。ハザラ人は、その民族のためにハザラ人をベースとする反対勢力ワ
ーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているために
も攻撃を受けるからである。
全ての情報筋は、少数民族への攻撃は組織的ではなく、恣意的なも
のだと述べた。CCAは、1997年(平成9年)にカンダハルの刑務所を、
また1998年(平成10年)末にバグラン州ナハリン地区の刑務所を訪れ
ることができたが、タリバンが「政治犯」とする多くの拘留者が、実際には
少数グループの普通の労働者または農民で、街で捕らえられたものだと
報告した。
b 「紛争の宗教的様相の拡大」と題する箇所(乙45の19頁)
これまで述べたように、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族へ
の対応は、反対勢力とのつながりの疑いによる主に政治的動機によるも
のだと確信していた。
しかし、国連幹部情報筋や、CCA、アフガニスタン救済団体調整局(A
CBAR)等の多くの情報筋は、最近数年、宗教的要素が戦争に加わって
きたと述べた。これは、タリバンが多くの外国人イスラム教スンニ派原理
主義者を自軍に組み込み、彼らが非スンニ派を殺害することを自分たち
の宗教的使命と見なしているからである。同様に最近、戦闘の実施に関
して、強い反シーア派的声明が発されている。
c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所(乙45の2
0頁)
ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫
害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反
対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われてい
ると報告した。タリバンが脅威を感じると、彼らはハザラ人に恣意的な逮
捕等を押しつけて反応し、少数ながら処刑も行われた。この情報筋は、
ハザラ人を基盤とするワーダット党(イスラム統一党)とのつながりを疑わ
れるという理由で、その疑いの客観的根拠もなく暴力が行われる場合も
あると述べた。
CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつも
ハザラ人とウズベク人を逮捕すると報告した。
d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所(乙45の22頁)
ある中央の国連情報筋は、反対勢力とのつながりを疑われることが少
数民族への迫害の主な理由だが、これは宗教的な迫害の点でも連鎖反
応を招くと指摘した。例えば、シーア派教徒は、反対勢力に属していると
疑われることがあるという。
(ウ) 以上の被告らがその主張の根拠とする資料中、被告らが引用していな
い部分の記載からは、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫
害は、必ずしも組織的に行われたものではないとしても、現実には、ハザラ
人がその民族及び宗教的信仰のゆえに、タリバンから反対勢力に属するこ
とを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴行や殺害等を受けること
が相当の頻度であったことや、少なくとも一部のタリバン勢力が、非スンニ
派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。
オ さらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。
(ア) アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバン
の警備兵によって、故意にかつ恣意的に殺害されている。1998年(平成1
0年)9月、アムネスティ・インターナショナルは、同年8月8日のマザリシャリ
フの奪取において、タリバンの軍隊が街中及び市場で一般市民が逃げよう
とすると無差別に発砲したことを報告した。タリバンは、その後直ちに各家
の捜索を行い、タジク人、ウズベク人及びハザラ人の男性と10代の少年を
拘禁し、街中又は家で度々ハザラ人を射殺した。
上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特
別報告官は、タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱
の中で、広範かつ無差別な発砲を行ったと報告している。(中略)タリバン
は、路上で動く者を見ると、自分の家の窓やドアから覗いていただけかもし
れない人も含め、誰であっても発砲した。
住民の中で攻撃と迫害を受ける特別の可能性があった、又は可能性が
ある集団としては、彼らに敵対的な軍事的指導者に支配された地域にいる
特定の民族的、宗教的又は政治的集団が含まれ、政治的又は民族的に対
立した集団に属している、あるいは属していると疑われた武装していない一
般市民は、人権侵害の標的となっている旨の記載がある(UNHCR資料・
甲102、5頁、同11頁)。
(イ) 何千人ものハザラ人系住民が、1998年(平成10年)にタリバンにより
殺害されたと推定されている。また、民族的な理由による市民の強制追放
も行われた形跡がある。1999年(平成11年)中、新たにタリバンの支配下
に入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制的に追放されたとす
る複数の報告がされている。そして、ハザラ系住民は、パシュトゥーン系で
あるタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の対象となっていると伝え
られている(アメリカ合衆国国防省による2000年2月25日公表の1999
年国別人権状況報告書・甲103、20頁、同31頁)。
(ウ) タリバンが1998年(平成10年)8月にマザリシャリフを軍事的に制圧し
てから数日間、数千人のハザラの民間人がタリバン警備兵に意図的かつ
組織的に殺害されたという報告が相次いだ(アムネスティ・インターナショナ
ルの「アフガニスタン:マイノリティの人権」と題する資料・甲105、3頁)。
(エ) 1999年(平成11年)5月にタリバンが前回ヤカオランを奪取した際に多
くのハザラ民族の一般市民が、侵入してきたタリバン警備隊の組織的殺害
の標的とされたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース(2001年
1月23日)・甲107)。
(オ) タリバンは、1998年(平成10年)8月のマザリシャリフ制圧及び同年9
月のバーミヤン制圧に際し、ハザラ人を虐殺したと伝えられているが、1つ
の動機は、1997年(平成9年)5月にマザリシャリフを制圧しようとした際に
タリバン側に死傷者が出たことに対する報復であったが、もう1つの動機
は、シーア派ムスリムのハザラ人に対する宗派的憎悪であったと思われ
る。
デンマーク移民局は、1997年(平成9年)11月にアフガニスタンを訪問
し、タリバン支配領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は
述べているが、幅広い国連の情報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべ
てハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの見解を示したと報告した。
(中略)情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属しているという
容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容
されているとのことである。1日に20人から50人のハザラ人がカブールで
拘束されているとの報告がある(オーストラリア難民再審査審判書の決定・
甲112、訳文6頁)。
カ 以上の各証拠中の記載を総合的に考慮すると、被告らの主張するように、タ
リバンによって行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に
対する報復という側面があったこと自体は否定できないし、タリバンも公式に
は組織的かつ日常的にハザラ人を迫害することを肯定していたものでもない
のであるから、ハザラ人が一般的に、その民族的出自や宗教のみを理由とし
て、組織的に迫害の対象にされていたとまで断定することは困難であるが、反
タリバン勢力に荷担し、あるいは協力していると疑われたハザラ人について
は、過酷な迫害が行われるおそれが存したものであり、また、マザリシャリフ
やバーミヤンのような戦闘地域や、ハザラ人が多数居住し、反タリバン勢力が
浸透していると疑われた地域等においては、ハザラ人が、ハザラ人であるこ
と、あるいはシーア派に属することのゆえに、十分な根拠もないまま反タリバ
ン勢力に属するものとみなされて迫害を受けるおそれも存したものというべき
である。
  そして、本件不認定処分がされた2001年(平成13年)11月20日、あるい
は本件裁決及び本件退令発付処分がされた同月27日当時は、タリバン政権
が崩壊に向かいつつあった時期ではあるものの(アフガニスタン暫定政権の
成立は、12月5日である。)、新政権の下で、新しい秩序が形成されたとは到
底いえない時期であったことは明らかなのであるから、上記各処分当時にお
いて、ハザラ人を巡る状況に本質的な変化が生じたということは困難であると
いわざるを得ない。
(3) 原告の供述の内容及びその信ぴょう性
ア 原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の陳述書(甲4)において、シーア
派ハザラ人であること等を理由として、個別的に迫害を受けた経験がある旨
を供述しており、その要旨は、以下のとおりである。
(ア) 原告は、アフガニスタン国籍の父B、母Cのもと、5人兄弟の長男として1
973年(昭和48年)3月3日、アフガニスタンのiで出生した。後述するとお
り、原告の父は、タリバンに連行されて行方不明となっており、現在もその
所在は不明である。弟Dは、現在、ロンドンに居住し、その他の家族は、パ
キスタンのペシャワール、kに居住している。原告には妻子がいるが、妻は
子供を連れて実家に戻ったと聞いているが、居住先は不明である。
(イ) 原告は、父が西カブールのlで中古車部品販売業を営んでいたことから、
5、6歳の頃から西カブールのハザラ人が多く居住しているjに居住するよう
になった。18歳のころから父の仕事を手伝うようになり、そのころ共産主義
政権が倒れ、ムジャヒディンがカブールを支配するようになったが、ムジャヒ
ディン間で戦闘が激しくなり、jにおいても、イスラム統一党とイッテイハディ・
イスラミの戦闘が行われ、戦闘が終わるまで原告は家族と共に地下室に隠
れることを余儀なくされた。
(ウ) カブールでの戦況が激しくなるにつれ、イスラム統一党の兵士が原告ら
家族に対し、寄付をするか、軍隊に参加するように迫るようになった。その
ため、原告ら家族は、イスラム統一党に対し、3、4回くらい合計100万アフ
ガニを支払った。
(エ) その後、タリバンがjにも侵攻し、いったんはカブールから退却していった
が、原告は、情勢がさらに悪化し、海外に逃避しなければならならない時に
備えて、マザリシャリフの申請代行業者に依頼してジャウジャン州でパスポ
ートの発行を受けた。
(オ) 1996年(平成8年)タリバンが再度カブールに侵攻し、カブールを支配
するようになると、ハザラ人に対して厳しい迫害を加えるようになった。例え
ば、原告がバスに乗っていた際、タリバンが、ハザラ人の男性を連行しよう
としたことがあり、また、原告の周囲に居住していたハザラ人の若者がタリ
バンに連行されるようにもなった。原告が、現金を支払うことで釈放された
近所に居住するハザラ人から聞いたところによれば、タリバンは連行したハ
ザラ人を拷問し、誰がイスラム統一党を支援しているのか取り調べていると
のことであった。
  同年11月15日の深夜ころ、原告が自宅で就寝していると、父に「起きろ。
ドアの向こうからパシュトゥン語が聞こえた。タリバンが来ているから逃げ
ろ。」と言われて目を覚まし、階段を上って自宅の屋上に出て、他の家屋の
屋上を伝って逃走したが、途中で右足に違和感を覚え、大量の血が流れて
おり、銃撃されたことに気付いた。原告は、知り合いのハザラ人の家に助け
を求め、かくまってもらった。原告としては、近所に居住するハザラ人で、既
に連行されていた者が原告ら家族をイスラム統一党の支援者としてタリバ
ンに供述したため、タリバンが原告を連行しにきたと考えている。
(カ) 原告は、夜中に会いにきた家族と相談し、このままでは生命の危険があ
ることから、ペシャワールに逃げることにし、原告が足を怪我していたことか
ら母と知り合いのハザラ人に付き添ってもらうことにした。4、5人乗りのタク
シーで早朝にカブールを出発し、トルハムの国境では担当官に賄賂を支払
って通過させてもらい、ペシャワールに到着した。原告はその後はアフガニ
スタンに帰国したことはない。
(キ) ペシャワール到着した後、業者に依頼してパキスタンの査証を取得し
た。以前にカブールで中古車部品の販売の仕事をしていた人と再会し、一
緒に本邦で中古車部品の買い付けの仕事をしないかと誘われ、イスラマバ
ードの日本大使館に赴いて本邦の査証を取得し、1997年(平成9年)4月
に初めて本邦に行った。
(ク) 同年6月にペシャワールに戻ったが、妻子や母、弟らがカブールからペ
シャワールに逃げてきていた。家族から、原告が本邦に滞在している間に
父がタリバーンに連行され、その後行方不明となったしまったことを聞かさ
れた。母の話によれば、父が連行された4、5日後にタリバンの駐屯地に面
会に行ったところ、父の身体は拷問のために痣だらけになっており、顔から
血が流れており、1週間後に再度面会に行ったが会うことができなかったと
のことであった。
(ケ) その後、原告は、ペシャワール、本邦、UAEを転々としながら、中古車部
品の買い付けの業務に従事するようになった。原告は、イスラマバードの日
本大使館を訪ねて査証を取得し、同年10月ころ、第2回目の来日をし、19
98年(平成10年)1月ころ、ペシャワールに戻ったが、その後UAEの中古
車部品販売会社に所属し、いずれもイスラマバードの日本大使館で査証を
取得し、同年7月から9月、1999年(平成11年)3月から6月、同年9月か
ら同年12月、2000年(平成12年)4月ころから同年7月ころまで来日し
た。
  原告は、その後、以前と同様にイスラマバードの日本大使館で査証の申請
をしたが、以前は遅くとも1週間くらいで査証を取得できていたにもかかわら
ず、今回は取得することができなかった。
(コ) 原告は、ペシャワールに滞在していた間、通りを歩いているとパキスタン
の警察官から「カブライ(カブール出身という意味)来い。」などと呼びつけら
れた上、所持品検査と称して、殴られて所持金を奪われることが少なくとも
10回以上あった。
  2001年(平成13年)6月ころ、原告が子供らと通りを歩いていたところ、
パキスタンの警察官に呼び止められ、所持品検査を行った後、原告のポケ
ットから現金を奪おうとしたことから抵抗したところ、現金を渡すまで拳で殴
られたり、銃で殴られる暴行を受けた。
  原告は、このような事態に遭ったことやアフガニスタンの難民の状況が悪
化していたことから、これ以上、ペシャワールに滞在し続けることはできない
と考え、以前に6回来日したことのある本邦に入国して難民認定申請するこ
とを決意した。
(サ) 原告は、パキスタンのブローカに依頼して、1万2000ドルを支払って本
邦に渡航する手続きを依頼し、2001年(平成13年)7月ころ、ブローカーと
ともにパシャワールからカラチに移動し、シンガポールを経由して韓国に到
着し、韓国の釜山港から貨物船で本邦に密入国した。
   イ 原告の供述の信ぴょう性
(ア) 客観的事実との符合の有無
     a 以下の供述部分は概ね客観的事実に符合している。
      ① 原告の身上関係に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券
の写し(乙7の1、35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館
に提出した査証申請書の写し(乙35、36の各添付資料)、在パキス
タン日本大使館発行の渡航証明書(乙35、36の各添付資料)、及び
外国人入国記録カード写し(乙37添付資料)があるところ、これらの
各記載と原告の供述する氏名、生年、出生地、民族の記載はいずれ
も一致している。なお、これらの記載においては、原告の出生した月
日が記載されていないが、アフガニスタンにおいては、必ずしも出生し
た月日は重要であると認識されておらず、多数のアフガニスタン人が
このような記載のない旅券を所持している旨供述していることを合わ
せ考えれば、格別不自然な点は見当たらない。
      ② また、旅券の取得状況、UAE及びパキスタンにおける在留状況、在留資
格、原告の本邦への今回入国までの6回の出入国歴は、原告の旅券
の写し(乙7の1、35、36の各添付資料)、在パキスタン日本大使館
に提出した査証申請書の写し(乙35、36の各添付資料)、在パキス
タン日本大使館発行の渡航証明書(乙35、36の各添付資料)及び被
告が調査した原告の出入国状況及び外国人登録状況(乙37)と一致
する。
      ③ 原告が西カブールのjに居住するようになった後、ムジャヒディン間の内戦
が激化し、戦闘中は地下室に隠れることを余儀なくされたと主張する点
は、1992年(平成4年)4月に、ムジャヒディン勢力の軍事攻勢により
ナジブラ政権が崩壊し、ムジャヒディン政権であるラバニ政権が誕生し
たものの、以降ムジャヒディン間の内戦が激化したとの前記(第3の
1(1)ウ)事実に合致する。
      ④ 1996年(平成8年)9月にタリバンがカブールを制圧した後、ハザラ人の
若者が多数タリバンに連行された旨供述する点は、前記(第3の1(2)エ
(イ)c)のとおり、デンマーク報告書(乙45)において、ハザラ人の中でも
特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢力が形作られている地域
では、反対勢力とのつながりを疑われ、タリバンが脅威を感じると恣意
的に逮捕したり、暴力を受けたり、少数ながら処刑も行われたとの記載
があることや、前記(第3の1(2)オ(オ))のとおり、オーストラリア難民再
審査審判所2001年(平成13年)10月22日決定(甲112)において、
デンマーク移民局が、1997年(平成9年)11月にアフガニスタンを訪
問したところ、情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属して
いるという容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交
換用として収容され、1日に20人から50人のハザラ人がカブールで拘
束されているとの記載があることとも合致する。
        原告は同年11月に、タリバンに連行されそうになり屋根を伝って逃走した
ところタリバンに銃撃されたと供述する点は(以下「核心部分の供述」
という。)、屋根を伝って逃走したと供述する部分は、原告代理人が作
成した視察報告書(甲161)におけるjの家屋の状況と矛盾するもので
はなく、原告がタリバンに右足を銃撃されたと供述する部分は、原告
の右足の大腿部の裏側に円形の傷跡が見られ、この傷跡の状況が
上記供述と矛盾するものではない。
      ⑤ 原告がペシャワールで子供の面前でパキスタンの警察官から暴行を受
け、今回の本邦への入国を決意した旨供述している点については、ア
ムネスティ・インターナショナルが2001年(平成13年)6月29日発表
したニュースにおいて、最近数か月間、何千人ものアフガニスタン難
民の男性が、パキスタン警察による恣意的な逮捕、脅迫、殴打及び強
制退去の対象となっているところ、警察は路上でアフガニスタン人を止
めた上、賄賂を要求するとされている(甲204)記述と合致する。
        この点、被告は、原告は当時パキスタンの滞在査証を有し、パキスタンの
高級住宅街に居住し、一応の生活基盤を有していたことが認められ、
そのような生活基盤を持たないアフガニスタン難民とは立場が異なる
旨主張するが、パキスタン警察による迫害の対象となったアフガニス
タン人の対象をそのように限定する根拠は何ら示されておらず、被告
の主張には理由がない。
        なお、原告の過去の入国歴等を総合的に考慮すれば、原告の今回の本邦
への入国目的には中古車部品販売を継続したいという意図も有して
いたことは否定し難いが、このことと、原告の供述する、パキスタン警
察等による重なる嫌がらせを受けていたところ、子供の面前でパキス
タン警察から暴行を受けたことがきっかけとなってパキスタンを離れて
本邦に入国することを決意したということとは互いに矛盾するものでは
なく併存しうるものである。
     b 他方、原告がタリバンから銃撃を受けた後、カブールからパキスタンのペシャ
ワールに逃れ、その後はアフガニスタンには帰国していない旨供述して
いる点について、原告が今回本邦に入国するまでの6回の入国において
提出した外国人入国記録カードの写しの住所欄には1回目の入国時は
マザリシャリフ、2回目の入国時はカブール、3回目の入国時はパキスタ
ンのm、4回目の入国時はマザリシャリフ、6回目の入国時はmの記載
があり、第1回目、第2回目、第4回目の入国時の住所がアフガニスタン
内になっている(乙37)。また、在パキスタン日本大使館が1997年(平
成9年)1月20日発行した渡航証明書(原告が第1回目の入国に使用)
の住所はマザリシャリフに、同年9月30日発行の渡航証明書(原告が第
2回目の入国に使用)の住所はマザリシャリフに、1998年(平成10年)
6月25日発行の渡航証明書(原告が第3回目入国に使用)の住所はパ
キスタンのmに、1999年(平成11年)2月19日発行の渡航証明書(原
告が第4回目入国に使用)の住所はマザリシャリフに、同年9月9日発行
の渡航証明書(原告が第5回目の入国に使用)の住所はパキスタンのm
に、2000年(平成12年)3月28日発行の渡航証明書(原告が第6回目
の入国に使用)の住所はパキスタンのmになっており(乙35)、原告が第
1回目、2回目、4回目の入国に使用した渡航証明書の住所がアフガニ
スタン内になっていることからすると、原告の上記供述とは異なり、原告
がペシャワールに逃れた後もアフガニスタンに帰国していたことになるの
ではないかとの疑問が生じる。
       この点、原告は、外国人入国記録カードにアフガニスタンの住所が記載され
ている点について、自らは英語の読み書きができないことから、同行した
者が外国人入国記録カードの記入を行い、自らはその者の指示にした
がって署名をしたが、これらの住所の記載については、必ずしも重要で
あるとは思っていなかった旨供述しているところ、外国人入国記録カード
の筆跡(乙37)をみると、全体として筆跡が異なるように見えることに加
え、2000年3月27日付けの在パキスタン日本大使館における査証申
請書と、2000年12月4日付けの同査証申請書の筆跡が一見して異な
っていることが認められ(乙35、36)、英語の読み書きができなかったと
いう原告が同行者に記入を依頼した可能性は否定できないというべきで
ある。
       そして、入国カードの住所欄の記載については、原告は重要ではないと考え
ていた旨述べており、そのことは格別不自然とは考えられないこと、渡航
証明書の住所欄は、地番等までの具体的な住所が記載されているわけ
ではなく、原告が代筆を依頼した同行者が、アフガニスタン国籍を有する
原告の住所は、アフガニスタン国内に存する方が自然であるとの考えか
ら、同国内の都市名を記入したのにすぎないとも考えられることからすれ
ば、これらの記載をもって原告がアフガニスタンに居住していたとまで認
めることはできず、原告のアフガニスタンに帰国していない旨の供述の信
用性を覆す資料とはいえないと解すべきである。
     c 評価
       このように、原告の供述の概要は、提出された各証拠中に記載された客観
的資料の記載と概ね合致していると評価することができる。
    (イ) 内容の合理性の有無
     a 原告の供述は、その内容において概ね自然であって、合理性を有するもので
ある。特に原告のアフガニスタンでの迫害の核心部分については、迫真
性に富む具体的な供述がされているということができる。
     b この点、被告らは、原告がアフガニスタンから出国後、今回入国まで約5年
が経過し、その間6度にわたり本邦に入国しているにもかかわらず、難
民認定申請をしていないことは不自然である旨指摘する。
       確かに、真に迫害を受けた者であれば、迫害を受ける状況から一刻も早く抜
け出したいと願い、そのように行動するのが自然でもあると思われるの
であって、この点に疑問が残らないではない。しかしながら、難民認定
は、難民にとって祖国との断絶という極めて重大な結果をもたらすもので
あるところ、原告は、アフガニスタンを出国後パキスタンで滞在査証を取
得し、不安定ながら一応の生活基盤を有していたことや、アフガニスタン
の状況が好転して欲しいとの希望を持っていた旨供述しており、そのよう
な状況下で難民認定申請が遅れたことが不自然であると評価することは
できない。
       また、パキスタンは難民条約等に調印しておらず、難民の処遇に関する国内
立法を採用していないこと(乙22、甲194の3)、UNHCRの回答書によ
れば(甲194の3)、パキスタン政府の新たな政策は、すべてのアフガニ
スタン人を、パキスタン入国のためには正規の旅券と査証を必要とする
1946年の外国人法の規定の対象としているところ、この法律には庇護
に関する規定がなく、最近の改正では不法移民の就労を禁止し不法入
国に対して厳しい禁固刑及び罰金を課す条項が含まれており、ハザラ又
はタジク出身のアフガニスタン人にとってパキスタンは安全な庇護国とは
いえないとの見解を表明していること(甲194の3)が認められ、原告が
パキスタンにおいて難民申請しなかったことは不自然とはいえない。
     c また、被告は、原告の弟もタリバンから見れば連行する対象となるはずであ
るのに、原告を銃撃までして連行しようとしたタリバンが弟らを連行しな
かったのは不自然である旨主張する。
       原告は、この点、先に連行された近所のハザラ人が、原告の家をイスラム統
一党の支援者であるとタリバンに供述したからである旨供述しているが、
そうであるとしても、何故原告のみが連行の対象となったのかについて
の疑問を解消するものではない。
       しかしながら、原告は銃撃されたことに気付かないくらいにあわてて逃走をは
かる状況にあったのであるから、弟らの状況については知らなくてもやむ
を得ない面があること、そもそもタリバンが誰を連行の対象とするかは原
告には知り得ない事情であり、弟らが連行されなかった理由について明
確な説明がないことをもって直ちに原告の供述内容が不自然と評価でき
るものではないというべきである。
    (ウ) 供述の一貫性
      原告の供述は、その難民該当性を基礎付ける事実については概ね一貫して
おり、とりわけタリバンに連行されそうになり逃走したところ銃撃されたとい
う核心部分の供述については、難民認定手続や違反調査手続の中で一貫
して述べられている。
      なお、被告が供述に変遷があるとして縷々主張している点は(第2、2、(2)、
ア、(エ)、①、⑥の各部分)、些細な食い違いを指摘しているものにすぎず、
これに対する原告の反論部分(第2、2、(1)、カ、(イ)、(ウ)の各部分)は正
当であると認められる。
    (エ) その余の被告らの主張について
a 被告らは、原告の今回の入国の真の目的は、不法就労活動であり、そ
のために難民であるかのごとく偽装して難民認定申請した旨主張する。
しかしながら、アフガニスタン国内において迫害を受けたとする原告の
供述に合理性が認められることや、原告が、今回の入国に至るまで難民
認定申請をしなかった理由について、パキスタンで滞在査証を取得し、
一応の生活基盤を有していたことや、アフガニスタンの状況が好転して
欲しいとの希望を持っていたため、難民認定申請まではしないでいたとこ
ろ、アフガニスタンの状況がますます悪化したことや、パキスタンにおい
て、警察官等から度重なる嫌がらせを受けたことから難民認定申請をす
る決意をしたものであると説明しており、この説明にも合理性が認められ
ることは既に指摘したとおりである。そして、難民認定申請を決意した原
告が、中古車の買い付け等で、度々渡航したことがある本邦において難
民認定申請をしようと考えることも、何ら不自然な行動であるということは
できない。すなわち、原告の意図の中には、本邦において難民認定が受
けられれば、従前から行っていた中古車の買付け等を継続することがで
きるとの意図も含まれていたであろうことは想像に難くないところである
が、難民認定を受けようとする者が、過去に訪れた経験のある国や、生
計を立てる見込みのある国において難民認定申請をしようとすることは、
何ら不自然な事柄ではないのである。そうすると、原告が、これまで何度
も本邦に入国し、中古車の買付等を行っていたという点を捉えて、原告
の入国目的が不法就労にあったと決めつけるのは当を得ないものであ
って、被告らの主張は失当というべきである。
     b さらに、被告らが、Eの役割について論じる点、あるいは組織的な不法入国
事案である旨主張する点については、Eが通訳を務めた難民申請者の
供述に一定程度の共通点が見られたとしても、そのことをもってEが申請
者に虚偽の事実を記載するよう教え、手引きしていたと即断することはで
きず、Eの証人尋問の結果からも、このような事実を認めることはでき
ず、また本件が組織的な不法入国事案であると認めるに足りる証拠はな
くいずれも採用できない。
    (オ) 以上の事実によれば、原告の供述のうち核心部分については、客観的な資
料によって裏付けられ、その内容において自然で合理的なものということが
でき、さらに、一貫性が認められるというべきである。そして、原告が本邦で
難民認定申請をした動機には、就労目的も含まれていることなど、原告が
自らの難民認定手続を有利に進めるために、虚偽の事実を述べていたとう
かがわれる部分もあることは否定できないものの、これらの点は、いずれも
原告の難民該当性と直接の関わりのない部分に関する供述であって、これ
らの事実から、原告が迫害を受けたとする供述の核心部分の信用性を全
面的に否定する程のものとは考えられないというべきである。
   ウ 小括
    (ア) 以上によると、原告が、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であ
って、前記のようなアフガニスタンにおける状況下で、原告が、シーア派ハ
ザラ人であることを理由として、タリバンによって迫害を受けたとする供述
は十分信用することができるし、そのことを前提とすると、通常人が原告の
立場に置かれたとしても、本国に帰国すればいつ何時同様の事態に遭遇
するかも知れないと考えるのが相当であるから、迫害の恐怖を抱くような客
観的事情も存在するものと認められる。したがって、本件不認定処分及び
本件退令発付処分当時、原告は、難民条約及び難民議定書所定の難民
に該当するものと認められる。
    (イ) 以上によれば、原告は、難民条約上の難民に該当するものというべきである
から、この点を看過してされた本件不認定処分は違法であるというべきで
あるが、他方において、被告らが、原告の難民該当性を否定する事情とし
て指摘している点が、明らかに根拠を欠くものであったとまでいえるかどう
かには疑問も残ることは既に検討したところからも明らかである。
      そうすると、本件不認定処分に、重大かつ明白な瑕疵があったとまで断定する
ことは困難である。したがって、原告の主位的請求(難民不認定処分の無
効確認請求)は、理由がなく、棄却すべきであり、予備的請求(同処分の取
消請求)の限度で、これを認容すべきである。
    (ウ) 本件裁決及び本件退令発付処分の取消原因について
      以上によれば、原告は法2条3号の2,難民条約1条に規定する「難民」に該
当するというべきところ,これを前提として,本件裁決及び本件退令発付処
分の各取消原因について検討すると,次のとおりである。
     a 本件裁決の取消原因について
       原告は,前提事実のとおり,釜山港から船名船籍等不詳の貨物船で出発
し、平成13年7月30日ころ、横浜港に到着し、本邦に不法入国した者で
あり,法24条1号所定の退去強制事由に該当するというべきである。
       しかしながら,法61条の2の8によれば,被告法務大臣が,難民の認定を受
けている者に対しては,異議の申出に理由がない場合であっても,その
裁量によって在留を特別に許可することができる旨を定めている。
       被告法務大臣は,前記のとおり,原告が難民条約上の難民に該当するにも
かかわらず,本件難民不認定処分を行っているものであるから、原告が
難民認定を受けるべき者であることを考慮せずに本件裁決を行ったこと
は明らかである。そうすると,本件裁決は,原告が難民条約上の難民に
該当するという当然に考慮すべき重要な要素を一切考慮せずに行われ
たものといわざるを得ないから,その裁量の範囲を逸脱する違法な処分
というべきであって,取り消されるべきである。
     b 本件退令発付処分の違法性について
       退去強制令書は,法務大臣の異議の申出に理由がない旨の処分が適正に
行われたことを前提として発付されるものであるところ,前提となる処分
が取り消されるべきものであることは前記aのとおりであって,退去強制
令書の発付もその根拠を欠くものであるから,その余の点について判断
するまでもなく,違法として取消を免れないものというべきである。
第4 結論
以上によれば、原告の本件不認定処分の無効確認請求は、理由がないから棄
却し、同処分の取消請求、並びに本件裁決及び本件退令発付処分の取消請求
は、いずれも理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事
件訴訟法7条、民事訴訟法61条、64条を適用して、主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第3部
裁判長裁判官      鶴岡稔彦
           裁判官 新谷祐子
                      裁判官 潮海二郎
当 事 者 目 録
原告  A 
第1事件被告  東京入国管理局主任審査官
第1・第2事件被告  法務大臣
以上

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採用情報


弁護士 求人 採用
弁護士募集(経験者 司法修習生)
激動の時代に
今後の弁護士業界はどうなっていくのでしょうか。 もはや、東京では弁護士が過剰であり、すでに仕事がない弁護士が多数います。
ベテランで優秀な弁護士も、営業が苦手な先生は食べていけない、そういう時代が既に到来しています。
「コツコツ真面目に仕事をすれば、お客が来る。」といった考え方は残念ながら通用しません。
仕事がない弁護士は無力です。
弁護士は仕事がなければ経験もできず、能力も発揮できないからです。
ではどうしたらよいのでしょうか。
答えは、弁護士業もサービス業であるという原点に立ち返ることです。
我々は、クライアントの信頼に応えることが最重要と考え、そのために努力していきたいと思います。 弁護士数の増加、市民のニーズの多様化に応えるべく、従来の法律事務所と違ったアプローチを模索しております。
今まで培ったノウハウを共有し、さらなる発展をともに目指したいと思います。
興味がおありの弁護士の方、司法修習生の方、お気軽にご連絡下さい。 事務所を見学頂き、ゆっくりお話ししましょう。

応募資格
司法修習生
すでに経験を有する弁護士
なお、地方での勤務を希望する先生も歓迎します。
また、勤務弁護士ではなく、経費共同も可能です。

学歴、年齢、性別、成績等で評価はしません。
従いまして、司法試験での成績、司法研修所での成績等の書類は不要です。

詳細は、面談の上、決定させてください。

独立支援
独立を考えている弁護士を支援します。
条件は以下のとおりです。
お気軽にお問い合わせ下さい。
◎1年目の経費無料(場所代、コピー代、ファックス代等)
◎秘書等の支援可能
◎事務所の名称は自由に選択可能
◎業務に関する質問等可能
◎事務所事件の共同受任可

応募方法
メールまたはお電話でご連絡ください。
残り応募人数(2019年5月1日現在)
採用は2名
独立支援は3名

連絡先
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所 採用担当宛
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ITJではアルバイトを募集しております。
職種 事務職
時給 当社規定による
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履歴書の返送はいたしませんのであしからずご了承下さい。
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