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平成17年(行ケ)第10719号審決取消請求事件
平成18年8月31日口頭弁論終結
判決
原告ヴィアトリスゲゼルシャフト
ミットベシュレンクテル
ハフツングウントコンパニー
コマンディートゲゼルシャフト
訴訟代理人弁護士加藤義明
同角田邦洋
同三留和剛
訴訟代理人弁理士杉本博司
被告特許庁長官中嶋誠
指定代理人森田ひとみ
同横尾俊一
同唐木以知良
同大場義則
主文
1原告の請求を棄却する。
2訴訟費用は原告の負担とする。
3この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間
を30日と定める。
事実及び理由
第1請求
特許庁が不服2002-6240号事件について平成17年5月24日にし
た審決を取り消す。
第2当事者間に争いのない事実
1特許庁における手続の経緯
訴外アスタメディカアクチエンゲゼルシャフト(以下「アスタメディ
カ」という。)は,平成6年12月21日(優先権主張:1993年12月2
1日,ドイツ連邦共和国),発明の名称を「糖尿病の治療用薬剤」とする特許
出願(特願平6-318836号,以下「本願」という。)をし,平成13年
9月27日,願書に添付した明細書を補正する手続補正をしたが,平成14年
1月15日発送の拒絶査定を受けたので,同年4月11日,これを不服として
審判を請求するとともに,上記明細書を補正する手続補正をし(以下,この補
正を「本件補正」といい,本件補正後の本願に係る明細書を「本願明細書」と
いう。),上記審判請求は,不服2002-6240号事件として,特許庁に
係属した。
その後,アスタメディカは,平成15年3月31日,本願に係る特許を受
ける権利を原告に譲渡し,原告は,同年4月18日,本願の出願人の名義変更
届を特許庁に提出した。
特許庁は,上記事件につき,審理の結果,平成17年5月24日,「本件審
判の請求は,成り立たない。」との審決(附加期間90日)をし,その謄本は,
同年6月9日,原告に送達された。
2特許請求の範囲
本件補正後の請求項1,3の各記載は次のとおりである(以下,請求項1,
3に係る各発明をそれぞれ「本願発明1」,「本願発明3」といい,両者をま
とめて「本願発明」という。)。
「【請求項1】R-(+)-α-リポ酸,R-(-)-ジヒドロリポ酸又
はそれらの塩,エステル,アミドを含有することを特徴とする,真性糖尿
病I型の治療用薬剤。」
「【請求項3】R-(+)-α-リポ酸,R-(-)-ジヒドロリポ酸又
はそれらの塩,エステル,アミドを含有することを特徴とする,代償及び
代償不全インスリン抵抗症の治療用薬剤。」
3審決の理由
別紙審決書の写しのとおりである。要するに,本願発明1及び3は,本願の
優先権主張日前に頒布された刊行物1ないし5(下記①~⑤)に記載された発
明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであって,特許法2
9条2項の規定により特許を受けることができない,としたものである。なお,
審決は,本願の優先権主張日当時の技術常識を示すものとして,下記⑥~⑧の
文献を例示した。
①欧州特許出願公開第572922号明細書(以下「刊行物1」という。
甲14の1)
②「InnereMedizin,48(1993),pp223-2
32」(以下「刊行物2」という。甲15)
③「J.Biosci.Vol.11,Numbers1-4,Marc
h1987pp59-74」(以下「刊行物3」という。甲16)
④「J.Biosci.Vol.6,Number1,March1
984pp37-46」(以下「刊行物4」という。甲17)
⑤「FreeRad.Res.Comms.,Vol.17,No.
3,pp211-217」(以下「刊行物5」という。甲18)
⑥平成元年10月10日学会出版センター発行,日本化学会編「季刊化学
総説,No.6,1989光学異性体の分離」p2,16,212~2
14(甲19)
⑦「月刊薬事」Vol.29,No.10,1987p23~26
(甲20)
⑧「ファルマシア」Vol.25,No.4,1989p333~
336(甲21)
なお,審決が,「上記刊行物中の『リポ酸』『α-リポ酸』『DLα-リポ
酸』を以下単にリポ酸という。『リポ酸のR鏡像体』『R-α-リポ酸』はR
-(+)-α-リポ酸と同義であり,以下これらを単にR-リポ酸という。」
(審決書4頁1行~3行)とした点は,原告も認めるところであり,また,
「リポ酸」,「α-リポ酸」,「DLα-リポ酸」は,いずれもラセミ体のリ
ポ酸であること,「リポ酸のS鏡像体」,「S-α-リポ酸」,「S-(-)
-α-リポ酸」,「S-リポ酸」は,いずれも同義であること,刊行物1に記
載されている「糖尿病タイプⅠ」と,本願発明1における「真性糖尿病I型」
とは,同義であることについては,当事者間に争いがない。
第3原告主張の取消事由の要点
審決は,刊行物1及び5の解釈を誤り(取消事由1),本願発明1及び3の
顕著な作用効果を看過したものであって(取消事由2),これらの誤りが審決
の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,違法として取り消されるべき
である。
1取消事由1(刊行物1及び5の解釈の誤り)
(1)刊行物1の解釈の誤り
ア審決は,刊行物1(甲14の1)に,「R-リポ酸が単独で抗糖尿作用
を示すことの記載」(審決書4頁27行)がある旨認定したが,誤りであ
る。
刊行物1には,「ビタミンEのような作用物質と,α-リポ酸の光学的
に純粋な異性体(R-及びS-形,つまりR-α-リポ酸及びS-α-リ
ポ酸)と組み合せにおいて,α-リポ酸のラセミ体に対して,R-鏡像体
は単独で抗炎症及び抗糖尿,つまり血糖低下の作用を示し,S-鏡像体の
抗炎症性作用は,ビタミンEと組み合わせて,抗有害受容性の作用を示し,
その際,同様に意想外に,ビタミンEと組合せたR-鏡像体の抗炎症性作
用は,α-リポ酸のラセミ体のそれよりも強いことが見出された。」(2
頁54行~3頁3行)と記載されている。
すなわち,刊行物1には,R-リポ酸が,ビタミンEのような作用物質
との組合せにおいて,抗糖尿作用(血糖低下作用)を示すことが記載され
ているにすぎず,単独で抗糖尿作用を示すことは記載されていない。
このことは,刊行物1に,「ビタミンEと組合せたR-鏡像体(R-α
-リポ酸)はラットに関するアロキサン糖尿モデルにおいて又はストレプ
トサイトシン糖尿モデルにおいて抗糖尿作用を,つまり血糖低下作用を示
し,この作用はα-リポ酸(単独)又はビタミンE単独での作用を上回っ
ている(経口投与)。」(3頁45行~49行)と記載され,ラセミ体の
リポ酸(単独)での作用との比較が記載されていることからも,明らかで
ある。
また,ラセミ体のリポ酸が単独で,抗糖尿作用(血糖低下作用)を有す
ることは,本願明細書の段落【0004】にも紹介されているように,公
知の事実である。
したがって,刊行物1の記載から認定することができる発明は,抗糖尿
作用,つまり血糖低下作用を示す,ビタミンEとR-鏡像体の組合わせに
すぎないから,審決が刊行物1に「R-リポ酸が単独で抗糖尿作用を示す
ことの記載」があると認定したのは誤りである。
イ本願発明1を刊行物1記載の上記発明と対比すると,両者は,R-リポ
酸を含有する点及び抗糖尿作用を奏する点で一致するが,本願発明1はこ
れを特に真性糖尿病Ⅰ型の治療用薬剤としているのに対し,刊行物1記載
のものは単に抗糖尿病作用の存在を示すにとどまる点で相違する。
そして,本願発明1は,R-リポ酸が,ラセミ体のリポ酸及びS-リポ
酸より優れていることにとどまらず,S-リポ酸は真性糖尿病及びインス
リン抵抗症の治療のために実際に使用することができないことから,R-
リポ酸のみしか使用できないことを内容とするものである(本願明細書の段
落【0011】参照)。
ラセミ体を構成する光学活性体の一方が他方より比較優位であることは,
引用刊行物及び出願当時の技術常識から導かれるであろう(このことは,
本願明細書の段落【0004】に示されるように,本願発明も前提として
いる。)。しかし,光学活性体の一方の鏡像体には毒性があるため,その
他方の鏡像体のみしか治療薬として使用することができないことは,公知
技術から推考容易ではない。
しかるところ,刊行物1には,ラセミ体との比較優位な効果しか記載さ
れておらず,S-リポ酸が使用され得ないこと,すなわちR-リポ酸のみ
しか使用できないことは,記載されていない。
S-リポ酸は使用することができず,R-リポ酸のみしか使用できない
ことに関する本願発明の作用効果は,刊行物1記載の発明の作用効果から
連続的に推移したものではなく,異質な効果であり,また血糖値低下とい
う同質の効果について,本願発明は際だって優れているのであるから,本
願発明の効果は,当業者の予測を超えた顕著な作用効果である。
したがって,本願発明が刊行物1記載の発明に基づいて当業者が容易に
発明することができたということはできず,刊行物1の記載内容について
の審決の上記誤りが,結論に影響を及ぼすことは明らかである。
(2)刊行物5の解釈の誤り
ア審決は,刊行物5(甲18)に,「R-リポ酸についてグリコヘモグロ
ビンの減少を確認していることの記載」(審決書4頁28行~29行)が
ある旨認定したが,誤りである。
刊行物5には,「我々の研究所における最近の研究から,R-α-リポ
酸を食事に補うことにより,ストレプトゾトシン誘導糖尿ラットモデルで
グリコヘモグロビン含有量が減少することが明らかになった(未発表デー
タ)。」との記載があるが,具体的データや具体的説明を伴わないもので
あり,未発表データであることも明示されている。
したがって,当業者といえども,刊行物5の上記記載に基づいて,「R
-リポ酸についてグリコヘモグロビンの減少」との知見を確認することは
不可能である。つまり,刊行物5には,本願の優先権主張日当時の技術常
識を前提としても,当業者が,R-リポ酸の用途発明として,その用途を
利用できるように記載されていないから,これを引用発明とすることはで
きない。
イ審決は,刊行物5に,「長期の糖尿病の後期併発症に対し,リポ酸が有
効である旨が記載」(審決書4頁7行~8行)されている旨認定したが,
刊行物5には,糖尿病により起こる併発症に対してリポ酸が治療薬として
利用可能であることが示唆されているにとどまるから,審決の上記認定は
誤りである。
2取消事由2(顕著な効果の看過)
(1)本願発明は,本願明細書(甲3,9)の段落【0013】,【0014】,
【0017】,【0023】,【0027】,【0030】及び【表8】に
記載されているように,①R-リポ酸が,ラセミ体のリポ酸に比し,真性糖
尿病Ⅰ及びⅡ型,並びにその続発症及び後期併発病の治療及び亜臨床的及び
臨床的顕性インスリン抵抗症及びその続発症の治療に顕著に優れた効果を有
し,かつ,その毒性が,ラセミ体のリポ酸及びS-リポ酸よりも小さく,②
S-リポ酸が,上記の疾病の治療薬から積極的に排除されるべき効果を有す
る,という当業者が予測することができなかった新たな知見に基づくもので
ある。
刊行物1~5には,R-リポ酸及びS-リポ酸の有する独自の生理的活性
の有無や強弱については記載も示唆もなく,本願発明は,当業者の予測を超
えた顕著な効果を有するものというべきであるが,審決はこれを看過したも
のである。
(2)審決は,「実施例の結果は,血糖低下作用の機序を解明し,学問的に貢献
するものとは認められるものの,・・・新たな用途が導かれるものではな
い。」(審決書6頁1行~3行)と説示するが,医薬発明について正しい理
解を示したものとはいえない。
光学異性体を用いる医薬発明が成立するためには,活性成分の薬効の存在
を確認するだけでは十分ではなく,副作用に至るまで確認して示すことが必
要であるところ,本願発明は,R-リポ酸のみに治療効果があるとの発見に
基づくものである。また,医薬発明においては,活性成分の薬理効果が奏さ
れるように使用する投与量,投与方法の規定も重要である。
本願明細書に記載された実施例は,化学物質,実験条件が定量的に記載さ
れているし,製剤型も具体例が記載されているのである。
(3)被告は,「遅かれ早かれ」当業者が検討を行うであろうという理由で本願
発明の進歩性を否定しようとするが,進歩性判断は特許出願時(優先権主張
日)を基準に当業者が容易に想到することができたか否かによって判断され
るのであるから,被告の主張は進歩性の時期的判断基準を誤ったものである
し,当業者が容易に想到できたことを十分に論理づけているといえないこと
は明らかである。
前記(1)でも述べたとおり,本願発明は,R-リポ酸が,ラセミ体又はS-
リポ酸よりも優れていることにとどまらず,S-リポ酸には毒性があり治療
薬として使用することができないものであって,R-リポ酸のみが治療薬と
して有効であるとの知見に基づくものである。ラセミ体を構成する光学活性
体の一方が他方より比較優位であることが,引用刊行物及び技術常識から導
かれるとしても,光学活性体の一方のみしか治療薬として使用することがで
きないことは,異質な効果であり,また血糖値低下という同質の効果につい
ては際だって優れているのであるから,当業者の予測を超えた顕著な作用効
果である。
第4被告の反論の要点
刊行物1に記載された発明は「R-リポ酸を含有することを特徴とする」と
の点で本願発明1,3と一致するところ,これを,刊行物1~5記載の知見及
び技術常識に基づいて,糖尿病の治療薬とし,「真性糖尿病I型」あるいは
「代償及び代償不全インスリン抵抗症」の治療用とすることに格別の創意は認
められないところであって,審決に誤りはない。
1取消事由1(刊行物1及び5の解釈の誤り)について
(1)審決は,リポ酸について,光学異性体として分離されたものについての検
討が行われている事実を示すために,刊行物1,5を引用したものであって,
R-リポ酸の薬理作用がすでに確立したものとして公知であるという趣旨で
はない。刊行物1及び刊行物5の記載は,ラセミ体のリポ酸ではなく,R-
リポ酸の生化学的作用がすでに検討対象になっていることを示すものである。
(2)仮に,光学異性体別に検討した事実が未だないという場合であっても,刊
行物2~5(甲15~18)に示されるように,ラセミ体の有効性が期待で
きる状況下である以上,審決が認定した技術常識の下では,遅かれ早かれ,
各光学異性体につき,血糖低下作用を実験的に確認し,より有利な異性体で
あるR-リポ酸を選択し,糖尿病などの「治療用薬剤」とすることは,当業
者が容易に想到し得るものである。
(3)原告の「刊行物1の解釈の誤り」(前記第3,1(1))は,次のとおり,
審決の結論に影響を及ぼすものではない。
ア本願発明1は,ビタミンEが格別排除された薬剤ではないから,これと
刊行物1記載の発明を対比すると,両者はR-リポ酸を含有する点(ビタ
ミンEが同時に存在することは相違点にならない。)及び抗糖尿作用を奏
する点で一致し,本願発明1がこれを特に「真性糖尿病Ⅰ型の治療用薬
剤」とするのに対し,刊行物1記載の発明は単に抗糖尿病作用の存在を示
すにとどまる点で相違する。
ところで,刊行物1は,請求項1に「α-リポ酸・ジヒドロリポ酸およ
びその酸化されたまたは還元されたR-またはS-リポ酸ならびに……の
代謝物及び少なくとも1種のビタミン……を含有する医薬」とあるように
成分を異にする複数種の医薬に係るものであって,その適用例として広範
囲の疾病を記載し,その中には糖尿病タイプⅠも含まれている(段落【0
073】)。糖尿病は正式には真性糖尿病と呼ばれ,そのうちのⅠ型はイ
ンスリンの欠乏をきたす糖尿病であることが知られているが,これはまた,
糖尿病タイプⅠとも称されるものである。
そうすると,抗糖尿病作用を有するとされるR-リポ酸とビタミンEの
組合せについて,その医薬用途を,その薬理作用が有効に奏される疾病の
一つである真性糖尿病Ⅰ型(適用例における糖尿病タイプⅠと同義)の治
療用薬剤と特定することは当業者であれば容易になし得ることである。
イ本願発明3は,本願発明1と同様,ビタミンEが格別排除された薬剤で
はないから,これと刊行物1記載の発明を対比すると,両者はR-リポ酸
を含有する点及び抗糖尿作用を奏する点で一致し,本願発明3がこれを特
に「代償及び代償不全インスリン抵抗症の治療用薬剤」としているのに対
し,刊行物1にはビタミンEとR-リポ酸の組合せを代償及び代償不全イ
ンスリン抵抗症の治療薬とする点については明記されていない点で相違す
る。
しかし,糖尿病はインスリン作用の不足に基づく慢性の高血糖状態を主
徴とする代謝疾患群と定義され,このインスリンの効果が不足する仕組み
にインスリンの不足(供給不全)とインスリンが作用する細胞がインスリ
ンに反応しがたくなる(インスリン抵抗性)とがあり,高血糖を是正する
ための代償作用が働きインスリン分泌はインスリン抵抗性とともに増加す
る傾向があることが知られている。
そうすると,インスリン欠乏によって起こる糖尿病とは異なり,代償性
及び代償不全インスリン抵抗症に対しては,インスリンは有効ではないが,
リポ酸(ラセミ体)の血糖低下作用はインスリンを介するものではない
(刊行物3参照)ことから,インスリン抵抗性であるかないかに関わらず
糖尿病において起こる血糖上昇や,タンパク質の修飾を押さえる作用が期
待できることは,当業者が容易に理解し得るところであり,R-リポ酸に
ついてもリポ酸(ラセミ体)と同様に理解することが可能である。
また,刊行物2にはリポ酸もビタミンE(D-α-トコフェロールと同
義)も糖尿病後期併発症の抑制に導く作用があることが記載されているこ
とも考慮すれば,刊行物1のR-リポ酸とビタミンEを組み合わせた状態
で代償及び代償不全インスリン抵抗症の治療用薬剤とすることは当業者が
容易に想到し得ることである。
2取消事由2(顕著な効果の看過)について
(1)本願明細書(甲3,9)の段落【0014】~【0027】の記載は,
いずれも作用機序についての比較であって,リポ酸の各光学異性体の分布や
代謝機構に関するものではない。
作用機序レベルでR-リポ酸とS-リポ酸との差異を見い出したとしても,
それは当業者が通常行う日常的な業務の範囲内において,いずれの光学活性
体が糖尿病治療薬として適したものであるかを評価する過程で見い出した知
見にすぎず,このこと自体を「治療用薬剤」である本願発明の効果と評価で
きるものではない。
(2)ラセミ体のリポ酸について,血糖低下作用が知られ,糖尿病治療薬とし
ての可能性が引用刊行物に示唆されている以上,本願の優先権主張日当時の
技術常識の下では,上記血糖低下作用がリポ酸の光学異性体のいずれにある
のかの検討は当業者が当然に行うことにすぎず(前記1(2)でも述べたとお
り,ラセミ体のリポ酸が糖尿病治療薬としての有効性が期待できるという状
況下では,遅かれ早かれ,当業者はラセミ体を構成する光学異性体のいずれ
に目的とする公知の薬理活性が存在するのかについての検討を行うのは必至
のことである。),本願発明はその延長線上のものであって,当業者であれ
ば格別の困難なく到達するところというべきである。
第5当裁判所の判断
1本願発明の要旨について
原告主張の取消事由について判断するに先立ち,本件の事案に鑑み,まず本
願発明の要旨について,検討する。
本願明細書(甲3,9)の特許請求の範囲の請求項1,3の各記載は,前記
第2,2のとおりであるから,本願発明1,3は,いずれも「R-(+)-α
-リポ酸,R-(-)-ジヒドロリポ酸又はそれらの塩,エステル,アミドを
含有することを特徴とする」ものであって,上記成分の含有量や含有割合は規
定されていない。したがって,「真性糖尿病I型の治療用薬剤」(本願発明1
の場合)あるいは「代償及び代償不全インスリン抵抗症の治療用薬剤」(本願
発明3の場合)との要件を充足する限り,他の成分(例えば,ビタミンE)を
含有することは妨げられないものというべきである。このことは,本願の願書
に最初に添付した明細書(甲3)の特許請求の範囲における請求項8,本件補
正前の本願に係る明細書の特許請求の範囲(甲6)における請求項7の各記載
に照らしても,明らかである。
なお,上記説示したところによれば,本願発明は,「R-(+)-α-リポ
酸」,すなわちR-リポ酸を含有する上記治療用薬剤であればよいところ,特
許請求の範囲の記載において,S-リポ酸を含むことが明示的に排除されてい
るとはいえないから,ごく少量のS-リポ酸を含有する場合のみならず,ラセ
ミ体のリポ酸を含有する場合や,S-リポ酸をR-リポ酸より多く含有する場
合も,本願発明に含まれ得ると解釈すべきものとも考えられる。しかしながら,
審決は,「本願の請求項1に係る発明は,上記刊行物に記載の抗糖尿作用をも
つことが知られるリポ酸(合成で得られるリポ酸は通常ラセミ体である。)の
うち,R-リポ酸を真性糖尿病I型の治療用薬剤とするものであるから,特に
これに限定することの容易性について以下検討する。」(審決書4頁12行~
15行),「請求項3は,R-リポ酸を代償性及び代償不全インスリン抵抗症
の治療用薬剤とするものである。」(審決書5頁7行~8行)と説示し,本願
発明がR-リポ酸を主成分とするものであって,S-リポ酸を含まないもので
あることを前提にしていることがうかがわれるところ,当事者双方は,第2回
弁論準備手続において,「本願発明1,3は,いずれもR-リポ酸を薬剤とす
るものであり,ラセミ体を薬剤とするものではない。」と釈明するなど,本件
において,本願発明を,R-リポ酸を主成分とするものであって,S-リポ酸
を含まないものと解することについては,当事者間に争いがないから,以下,
これを前提として,検討する。
2取消事由1(刊行物1及び5の解釈の誤り)について
(1)ア刊行物1(甲14の1,その訳文に相当するものであることについて当
事者間に争いがない甲14の2)には,次の記載がある。
(ア)「α-リポ酸はR-鏡像体の形で,植物および動物中に広く分布し
ており,これは多様な酵素的反応において補酵素として作用し,……α
-リポ酸ラセミ体は抗炎症性,抗有害受容性(鎮痛性)ならびに細胞保
護性,神経保護性,抗アレルギー性および抗腫瘍性特性を有する。α-
リポ酸の光学的に純粋な異性体(R-およびS-形,つまりR-α-リ
ポ酸およびS-α-リポ酸)からは,ラセミ体とは反対に,R-鏡像体
は十分に抗炎症性に有効であり,S-鏡像体は十分に抗有害受容性に有
効であり,その際同様に,R-鏡像体の抗炎症性作用はたとえばラセミ
体のそれよりも係数10だけ強い。」(2頁6行~14行,甲14の2
の段落【0003】【0004】)
(イ)「これらの鏡像体はラセミ体と比較して著しく特異的でかつより強い
有効作用物質である。」(2頁17行~18行,甲14の2の段落【00
06】)
(ウ)「本発明の課題は,鎮痛作用,抗炎症作用,抗糖尿病作用,……なら
びに抗腫瘍形成作用を有する改善された医薬を提供することである。」
(2頁45行~48行,甲14の2の段落【0014】)
(エ)「ビタミンEのような作用物質と,α-リポ酸の光学的に純粋な異
性体(R-およびS-形,つまりR-α-リポ酸およびS-α-リポ
酸)と組み合せにおいて,α-リポ酸のラセミ体に対して,R-鏡像体
は単独で抗炎症および抗糖尿,つまり血糖低下の作用を示し,S-鏡像
体はビタミンEと組み合せて,抗有害受容性の作用を示し,その際,同
様に意想外に,ビタミンEと組み合せたR-鏡像体の抗炎症性作用は,
α-リポ酸のラセミ体のそれよりも強いことが見出された。」(2頁5
4行~3頁3行,甲14の2の段落【0017】)
(オ)「前記したビタミンと組み合せたα-リポ酸,ジヒドロリポ酸また
は酸化または還元されたR-α-リポ酸およびS-α-リポ酸……の製
造は公知の方法で,もしくはこれに類似の方法で行われる(ドイツ連邦
共和国特許出願公開第4137773号明細書)。」(3頁9行~12
行,甲14の2の段落【0019】)
(カ)「ビタミンEと組み合せたR-鏡像体(R-α-リポ酸)は,ラッ
トに関するアロキサン糖尿モデルにおいてまたはストレプトサイトシン
(……)糖尿モデルにおいて抗糖尿作用を,つまり血糖低下作用を示し,
この作用はα-リポ酸(単独)またはビタミンE単独での作用を上回っ
ている(経口投与)。」(3頁45行~49行,甲14の2の段落【0
024】)
(キ)「適応としてはたとえば以下のものが該当する:……糖尿病タイプ
ⅠおよびⅡ,インシュリン耐性,糖尿病由来の,……の多発性神経疾患
……。」(13頁6行~13行,甲14の2の段落【0073】)
イ上記ア(ア)ないし(キ)の各記載によれば,刊行物1には,R-リポ酸を
作用物質であるビタミンEと組み合わせた発明(以下「刊行物1発明」と
いう。)が,下記①~④の知見とともに記載されているということができ
る。
①R-リポ酸及びS-リポ酸が,ラセミ体のリポ酸と比較して,著しく
特異的であり,より強い有効作用物質であること。
②抗糖尿病作用を有する改善された医薬を提供することを目的の一つと
して検討した結果,ビタミンEのような作用物質との組合せにおいて,
R-リポ酸が,ラセミ体としてではなく,単独で,抗炎症及び抗糖尿
(血糖低下)の作用を示すこと。
③ビタミンEと組み合わせたR-リポ酸が,ラットに関する糖尿モデル
において,抗糖尿作用(血糖低下作用)を示し,リポ酸(単独)又はビ
タミンE単独での作用を上回った(経口投与)こと。
④ビタミンEと組み合わせたR-リポ酸を,糖尿病タイプⅠ及びⅡ,イ
ンシュリン耐性,糖尿病由来の多発性神経疾患などに用いること。
(2)ア本願発明1について
(ア)本願発明1と刊行物1発明とを対比すると,両者は,「R-リポ酸
を含有することを特徴とする」点で一致することが明らかである。
刊行物1発明は,R-リポ酸を作用物質であるビタミンEと組み合わ
せたものであるが,次の(イ)で検討するところに照らせば,ビタミンE
を含有していることにより「真性糖尿病I型の治療用薬剤」とすること
が妨げられるものではない。そして,前記1において検討したとおり,
本願発明1は,「真性糖尿病I型の治療用薬剤」との要件を充足する限
り,他の成分(例えば,ビタミンE)を含有することは妨げられない。
そうすると,刊行物1発明がビタミンEを含有していること自体は,本
願発明1との相違点とはならない(なお,この点については,原告も争
わないところである。)。
(イ)刊行物1の前記ア(カ)及び(キ)の記載によれば,刊行物1発明を糖
尿病タイプⅠを適応症とする治療用薬剤とすることは,刊行物1自体が
教示しているところである。
なお,「糖尿病はインスリン作用の不足に基づく慢性の高血糖状態を
主徴とする代謝疾患群と定義されるが,このインスリンの効果が不足す
る仕組みにインスリンの不足(供給不全)とインスリンが作用する細胞
がインスリンに反応しがたくなる(インスリン抵抗性)とがあり,高血
糖を是正するための代償作用が働きインスリン分泌はインスリン抵抗性
とともに増加する傾向があることが知られている」(審決書5頁9行~
14行)ことについては,原告も認めるところである(原告第2準備書
面2頁)。そして,そのことについて,本願明細書(甲3,9)の段落
【0007】には,「……真性糖尿病は,インスリン欠乏による疾病で
あるか又はインスリン作用に対する抵抗症(代償不全インスリン抵抗
症)である。……代償されるインスリン抵抗症(臨床的顕性糖尿病Ⅱ型
を含まないインスリン作用の低下)の場合にも……障害が起こる。」と
記載されている。これらの事実に加え,弁論の全趣旨によれば,糖尿病
は正式には真性糖尿病と呼ばれ,Ⅰ型とⅡ型があり,Ⅰ型はインスリン
の欠乏をきたす糖尿病であることが認められ,本願発明1における「真
性糖尿病I型」,刊行物1発明における「糖尿病タイプⅠ」は,いずれ
も上記インスリンの欠乏をきたす糖尿病をいうものと解される。
また,①刊行物3,4に,リポ酸がアロキサン糖尿ラットに対して血
糖値を減少させる作用を有することが記載されていること(審決書4頁
6行~7行),②刊行物2に,長期の糖尿病の後期併発症に対し,リポ
酸が有効である旨が記載されていること(審決書4頁7行~8行),③
刊行物5に,糖尿病により起こる併発症に対してリポ酸が治療薬として
利用可能であることが示唆されていること,④一般に,本願の優先権主
張日当時,光学異性体の存在する化学物質については,ラセミ体だけで
はなく,各異性体についても,目的とする薬理効果や副作用等について
検討を行うことが普通に行われるようになっており,また,光学異性体
の存在する化学物質を医薬品として利用しようとする場合には,その検
討結果に応じて,ラセミ体を使用するか一方の光学異性体を使用するか
を決定することが技術常識であったこと(審決書4頁16行~25行)
は,原告も認めるところである(原告第2準備書面2頁)。
そうすると,刊行物1発明を「真性糖尿病I型の治療用薬剤」とする
ことは,当業者が容易に想到することができたものというべきである。
イ本願発明3について
(ア)本願発明3と刊行物1発明を対比すると,両者は,「R-リポ酸を
含有することを特徴とする」点で一致することが明らかである。
刊行物1発明は,R-リポ酸を作用物質であるビタミンEと組合わせ
たものであるが,次の(イ)で検討するところに照らせば,ビタミンEを
含有していることにより「代償及び代償不全インスリン抵抗症の治療用
薬剤」とすることが妨げられるものではない。そして,前記1において
検討したとおり,本願発明3は,「代償及び代償不全インスリン抵抗症
の治療用薬剤」との要件を充足する限り,他の成分(例えば,ビタミン
E)を含有することは妨げられない。そうすると,刊行物1発明がビタ
ミンEを含有していること自体は,本願発明3との相違点とはならない
(なお,この点については,原告も争わないところである。)。
(イ)刊行物3に,「リポ酸の作用はインスリンを投与した場合の効果と
似ているが,糖尿病時でも正常時でもインスリンのレベルはリポ酸投与
により影響を受けないから,リポ酸の作用はインスリンを介するもので
はないこと」(審決書3頁17行~20行)が記載されていることは,
原告も認めるところである(原告第2準備書面1頁)。
インスリン欠乏によって起こる糖尿病(真性糖尿病I型)とは異なり,
代償性及び代償不全インスリン抵抗症に対しては,インスリンは有効で
はないが,上記のとおり,リポ酸の作用はインスリンを介するものでは
ないことも知られているから,インスリン抵抗性であるかないかにかか
わらず糖尿病において起こる血糖上昇や,タンパク質の修飾を押さえる
作用が期待できることは,当業者が容易に理解し得るところであるとい
うべきである。
上記及び前記ア(イ)で検討したところによれば,刊行物1発明を「代
償及び代償不全インスリン抵抗症の治療用薬剤」とすることも,当業者
が容易に想到することができたものというべきである。
(3)原告の主張について
ア原告は,刊行物1には,R-リポ酸が,ビタミンEのような作用物質と
の組合せにおいて,抗糖尿作用(血糖低下作用)を示すことが記載されて
いるにすぎず,単独で抗糖尿作用を示すことは記載されていないと主張す
る。
なるほど,前記(1)で検討したところによれば,原告が主張するとおり,
刊行物1には,R-リポ酸が,ビタミンEのような作用物質との組合せに
おいて,抗糖尿作用(血糖低下作用)を示すことが記載されているにすぎ
ない。しかし,前記1で検討したとおり,本願発明は他の成分(例えば,
ビタミンE)を含有することは妨げられないものであり,刊行物1発明が
ビタミンEを含有していること自体は,本願発明1との相違点とはならな
いことも,上記(2)で検討したとおりである。
なお,原告は,S-リポ酸は使用することができず,R-リポ酸のみし
か使用できないことに関する本願発明の作用効果は刊行物1発明とは異質
な効果であり,また,血糖値低下という同質の効果についても本願発明は
際だって優れている旨主張するが,この点に関する原告の主張に理由がな
いことは,後記3において検討するとおりである。
したがって,審決が「R-リポ酸が単独で抗糖尿作用を示すことの記
載」(審決書4頁27行)がある旨認定したことは誤りであるが,この誤
りは審決の結論に影響を及ぼさないものというべきである。
イ原告は,刊行物5について,①その記載に基づいて,「R-リポ酸につ
いてグリコヘモグロビンの減少」との知見を確認することは不可能である,
②糖尿病により起こる併発症に対してリポ酸が治療薬として利用可能であ
ることが示唆されているにとどまるなどと主張する。
しかし,上記(2)で検討したところによれば,刊行物5に,「R-リポ酸
についてグリコヘモグロビンの減少を確認していることの記載」(審決書
4頁28行~29行)があるといえるか否か,「長期の糖尿病の後期併発
症に対し,リポ酸が有効である旨が記載」(審決書4頁7行~8行)され
ているか否かは,審決の結論を左右するものではない。
(4)以上によれば,原告主張の取消事由1は理由がない。
3取消事由2(顕著な効果の看過)について
(1)原告は,本願発明が,①R-リポ酸が,ラセミ体のリポ酸に比し,顕著に
優れた効果を有し,かつ,その毒性がラセミ体のリポ酸及びS-リポ酸より
も小さく,②S-リポ酸が,積極的に排除されるべき効果を有するという,
当業者が予測することができなかった新たな知見に基づくものであり,審決
は本願発明の有する顕著な効果を看過した旨主張する。
しかし,仮に原告が主張する毒性に関する事項が新たな知見であったとし
ても,当業者は,リポ酸のラセミ体,R-リポ酸,S-リポ酸について,S
-リポ酸の毒性の認識の有無にかかわらず,最も薬理効果が高いもの(すな
わち,R-リポ酸)を採用するものであり,しかも,前記2(2)で検討したと
おり,刊行物1発明はR-リポ酸を含有するものであり,これを「真性糖尿
病I型の治療用薬剤」あるいは「代償及び代償不全インスリン抵抗症の治療
用薬剤」とすることは,当業者が容易に想到することができたものというべ
きであるから,原告が主張する上記毒性に関する知見の発見は,本願発明の
特許性を基礎づけることになるものではない。
(2)原告は,審決が「実施例の結果は,血糖低下作用の機序を解明し,学問的
に貢献するものとは認められるものの,・・・新たな用途が導かれるもので
はない。」(審決書6頁1行~3行)としたことを論難するが,上記説示し
たところによれば,審決の説示が不相当であるとはいえない。
(3)なお,原告は,被告が「遅かれ早かれ」当業者が検討を行うであろうとい
う理由で本願発明の進歩性を否定しようとしているとして,これを非難する。
確かに,「遅かれ早かれ」当業者が検討を行うであろうというだけの理由
で特許を受けようとする発明の進歩性を否定することはできないが,本願発
明の進歩性を肯定することができないことは,すでに検討したとおりである。
(4)以上によれば,原告主張の取消事由2は理由がない。
4結論
上記検討したところによれば,原告主張の取消事由はいずれも理由がなく,
その他,審決に,これを取り消すべき誤りがあるとは認められない。
よって,原告の本訴請求は理由がないから,これを棄却することとし,主文
のとおり判決する。
知的財産高等裁判所第3部
佐藤久夫
裁判長裁判官
大鷹一郎
裁判官
嶋末和秀
裁判官

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