平成15年(行ケ)第75号 審決取消請求事件(平成15年12月24日口頭弁
論終結)
判 決
原 告 オプティシェ ヴェルケ ジー.ローデン
ストック
訴訟代理人弁理士 渡 部 敏 彦
同復代理人弁理士 別 役 重 尚
同 村 松 聡
被 告 特許庁長官 今井康夫
指定代理人 森 正 幸
同 谷 山 稔 男
同 大 野 克 人
同 伊 藤 三 男
主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理申立てのための付加期間を30日
と定める。
事実及び理由
第1 請求
特許庁が不服2000-10511号事件について平成14年9月25日に
した審決を取り消す。
第2 当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯
原告は,平成6年10月28日,発明の名称を「累進焦点眼鏡レンズ」とす
る特許出願(特願平7-512949号,パリ条約による優先権主張日平成5年1
1月2日〔以下「本件優先日」という。〕・ドイツ連邦共和国,以下「本件特許出
願」という。)をしたが,平成12年4月11日に拒絶の査定を受けたので,これ
に対する不服の審判の請求をした。
特許庁は,同請求を不服2000-10511号事件として審理した上,平
成14年9月25日に「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その
謄本は,同年11月2日,原告に送達された。
2 本件特許出願の願書に添付した明細書(平成12年8月10日付け手続補正
書による補正後のもの。以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の記載
【請求項1】少なくとも第1面において,面屈折力が実質的に一定の領域から
始まる少なくとも一つの線状の経路に沿って,面屈折力が変化すると共に所定の非
ゼロ非点収差が規定され,かつ,前記経路は視覚の前方向において遠くの点状の物
体の眺めが近くの点状の物体の眺めに変化する際に光線が通過する面上の略全ての
点を含む主線であり,前記主線は平面内にあるか又は湾曲している累進焦点眼鏡レ
ンズであって,
前記主線上の非点収差は,特定の大きさを有するだけでなく,主曲率の方向
によって与えられるその斜光線方向が前記主線に沿って必要に応じて変化し,
かつ,前記主線においてレンズを通過した光線に関する表面非点収差及び斜
光線方向の非点収差による全非点収差が,実質的に一定であるか,又は望ましい非
点収差から生理学的に許容できる限度内で,その量及び斜光線方向に関して変動す
るように,前記全非点収差が規定されることを特徴とする累進焦点眼鏡レンズ。
(【請求項2】~【請求項10】は省略。以下,上記【請求項1】の発明を
「本願発明」という。)
3 審決の理由
審決は,別添審決謄本写し記載のとおり,本件明細書の特許請求の範囲の
【請求項1】の「全非点収差」の意味内容は,技術常識や本件の明細書全体の記載
を参酌しても不明である結果,【請求項1】に,特許を受けようとする発明の構成
に欠くことができない事項のみを記載しているとは認めることができないから,本
件明細書の特許請求の範囲の記載は,特許法36条(平成6年法律第116号附則
6条2項の規定により,なお従前の例によるとされる同法による改正前の特許法3
6条〔以下「旧36条」という。〕の趣旨と解される。)5項2号に規定する要件
を満たさないものであり,また,本件明細書の発明の詳細な説明において使用され
る「全非点収差」の意味内容は,技術常識や本件の明細書全体の記載を参酌しても
不明であるため,上記「全非点収差」で規定される累進焦点眼鏡レンズを当業者が
容易に実施できるように発明の詳細な説明に技術事項を開示しているとはいえない
から,本件明細書の発明の詳細な説明は,同条4項に規定する要件を満たさないも
のであり,本件特許出願は拒絶すべきものであるとした。
第3 原告主張の審決取消事由
審決は,本件明細書の特許請求の範囲の【請求項1】の「全非点収差」の意
味内容が不明であると誤って認定判断した結果,旧36条5項2号所定の記載要件
の充足性の判断を誤り(取消事由1),上記「全非点収差」で規定される累進焦点
眼鏡レンズを当業者が容易に実施できるように発明の詳細な説明に技術事項を開示
しているとはいえないと誤って認定判断した結果,旧36条4項所定の記載要件の
充足性の判断を誤った(取消事由2)ものであるから,違法として取り消されるべ
きである。
1 取消事由1(旧36条5項2号所定の記載要件の充足性の判断の誤り)
(1)審決は,「『表面非点収差』と『斜光線方向の非点収差』との幾何学的加
算により得られるとされる『全非点収差』の意味内容を確定するために必要な,
『幾何学的加算』なる用語は一般に用いられる用語ではない。そこで,本件明細書
及び上記請求の理由を参酌しても当該『幾何学的加算』についてその意味内容を何
ら説明していないので,『全非点収差』なる用語の意味内容を確定することはでき
ない。そこで,本件の明細書の斜光線方向0°,30°,45°,60°及び90
°の好ましい実施形態の,複数のx(「k」とあるのは誤記と認める。),y,z
座標に対するAstv:ジオプターを単位として示された主線上での面非点収差の規定
値,Ast:主線上での全非点収差の値,及びAxis:度を単位として示された斜光線方向
の非点収差の値(表1~表5)を検討しても,『全非点収差』(表中,「Ast」に対
応),『表面非点収差』(表中,「Astv」に対応)及び『斜光線方向の非点収差』(表
中,「Axis」に対応)の間の関係は不明であり,好ましい実施形態を示す表1~表5
からも『全非点収差』なる用語の意味内容を確定することはできない。したがっ
て,本件の請求項1に記載された『全非点収差』の意味内容は技術常識や本件の明細
書全体の記載を参酌しても不明である」(審決謄本10頁第2~第4段落)と認定
判断したが,誤りである。
(2)「斜光線方向の非点収差」(以下「斜光線非点収差」という。)は,米国
特許第3711191号明細書(甲2)の各図面に記載されている。同明細書の
Fig.2は,球面レンズにおけるレンズの中心を通る「垂直」線に沿ったタンジェン
シャル(メリディオナル)面の屈折力Ft及びサジタル面の屈折力Fsの見る方向
の角度Uに依存する変化を示す。球面レンズでは,面上各点における主曲率又は曲
率の主円弧が同じであるため,いかなる面非点収差も発生しない。各点における全
非点収差を示すタンジェンシャル(メリディオナル)面の屈折力Ft及びサジタル
面の屈折力Fsの変化における差ADは,専ら斜光線非点収差によって引き起こさ
れる。屈折の法則によれば,表面の微小領域に入射する光線の偏角は,この微小領
域の表面における法線と光線とが成す角度に依存する。斜めの入射光において,互
いに直交し,かつ,各々が上記表面における法線を含む二つの平面の各々において
上記角度が違うため,上記光線はこれらの平面に関して異なるように偏角し,これ
によりタンジェンシャル方向及びサジタル方向における異なる平面において焦点が
合う。この焦点におけるずれ(difference)が斜光線非点収差を引き起こす。光線
の入射角が傾くほど,上記角度の違いが大きくなるため,斜光線非点収差は,見る
方向の偏角が増大するにつれて増大する。
面非点収差のレンズの表面の一点における大きさ(量)は,米国特許第2
878721号明細書(甲3)に記載されているとおり,
面非点収差 = 1000(n-1)(1/r1-1/r2)
(r1及びr2は曲率の主円弧である。)
によって示される。面非点収差は,斜光線非点収差と同様,大きさ(量)だ
けでなく,「軸方向」として知られる軸方向位置や方位を有する(ThePrinciples
ofOphthalmicLenses,TheAssociationofBritishDispensing
Opticians,pp41-42,391-395,515-517,1994,FourthEdition,甲4)。すなわち,面
非点収差及び斜光線非点収差はスカラーではなくベクトル量であり,面非点収差及
び斜光線非点収差は,全非点収差を得るためにベクトル法則を使用して互いに加算
される。これが幾何学的加算の意味である。さらに,「面非点収差は光線の斜光束
の光行差的な非点収差に対抗するために使用されてもよい」(甲4の訳文5頁最終
段落)ことも知られている。
そして,昭和59年1月10日小学館パーソナル版第7刷発行の「ランダ
ムハウス英和大辞典」162頁(甲17),ThePrinciplesofOphthalmic
Lenses,TheAssociationofBritishDispensing
Opticians,pp40-41,382-385,394-395,1977,ThirdEdition(甲18),昭和38年
3月15日日本眼衛生協会発行の「新眼鏡学講座」100頁~101頁(甲1
9),昭和62年7月1日メディカル葵出版発行の「眼鏡」98頁(甲2
0),PhysiologicalOptics,Y.LeGrand,S.G.ElHage,pp158-161,1980(甲2
1),特表平4-500870号公報(甲22),berdenFl
chenastigmatismusbeigewissensymmetrischenAsphren,pp224-227,1963(甲2
3),CalculationofAstigmatismatAnAsymmetricalAspherical
Surface,pp684-685,1984(甲24),FehleranalysebeiSehproblemenmit
Gleitsichtglsern,DieterKalder,1988(甲25),SpezielleGesichtspunkte
beiderRefraktionfrprogressiveBrillenglser,DieterKalder,1984(甲2
6),ドイツ特許公開第4242267号明細書(甲27),Optometrie
BestimmenvonSehhilfen,DieterMethling,UlrichMaxam,pp151,1989(甲2
8),HandbuchfrAugenoptik,HelmutGoersch,pp32-35,1987(甲2
9),KorrektionswirkungundAstigmatismussphrischerBrillenglser,Heinz
Diepes,pp44-45,1984(甲30),SpectacleLensDesign,Alan
L.Lewis,pp68-69,Feb.8,1991(甲31),Einstrken-undMehrstrken-Brillengl
ser,AlfredSchikorra,pp234-236,1994(甲32),Optik-Konstruktionmit
Splines,G.Frter,pp23,1985(甲33)Physik,Dmmlers
Verlag,pp32-33,1978(甲37証),Physik,EdituraDidactica
siPedagogica,pp14-15,1981(甲38),bungenzurPhysik,VEBFachbuchverlag
Leipzig,pp41-42,1981(甲39),LehrbuchDerTheoretischen
Physik,AkademischeVerlagsgesellschaftLeipzig,pp4-6,1956(甲40)及び
DictionaryofPhysics,VerlagHarriDeutsch,pp296,954-955,1987(甲41)に
よれば,本件優先日当時において,表面非点収差,斜光線非点収差,全非点収差及
び幾何学的加算の意味内容は,当業者の技術常識であったことが明らかである。
2 取消事由2(旧36条4項所定の記載要件の充足性の判断の誤り)
(1)審決は,「明細書の発明の詳細な説明において使用される『全非点収差』
の意味内容は技術常識や本件の明細書全体の記載を参酌しても不明であるため,前
記『全非点収差』で規定される累進焦点眼鏡レンズを当業者が容易に実施できるよ
うに発明の詳細な説明に技術事項を開示しているとはいえない」(審決謄本10頁
第6段落)と認定判断したが,誤りである。
(2)審決は,上記認定判断の前提として,「本件の明細書(注,本件明細書
〔甲36添付〕)の斜光線方向0°,30°,45°,60°及び90°の好まし
い実施形態の・・・値(表1~表5)を検討しても,『全非点収差』(表中,「Ast」
に対応),『表面非点収差』(表中,「Astv」に対応)及び『斜光線方向の非点収差』
(表中,「Axis」に対応)の間の関係は不明」(審決謄本10頁第3段落)であると
認定したが,本件特許出願の願書に最初に添付した明細書(甲34,以下「当初明
細書」という。)には「軸方向位置0,30,45,60及び90°」(5頁最終
段落)と記載され,表1~5には面非点収差の規定値が軸方向ごとに例示されてい
るから,誤りである。
(3)本件明細書(甲36添付)の「Ast:主線上での全非点収差」(段落【00
38】)及び「Axis:度を単位として示された斜光線方向の非点収差」(同)は,
それぞれ当初明細書(甲34)の「Ast:主線上での実面非点収差」(12頁第1段
落)及び「Axis:度を単位として示された実軸方向位置」(同)の誤記であり,出
願人が審査の段階において補正を誤ったために生じたもので,当初明細書の上記記
載が正しいことは,その記載から明らかである。
そこで,当初明細書の表1~5に基づいて説明すると,表1~5における
x,y,zはデカルト座標系の座標であり,xは水平軸,yは垂直軸,zはx,y
平面と直交する第3の軸である。x0(y)はx,y平面への主線の射影を表し,
主線の水平シフトとも呼ばれるものであり,z0(y)はz,y平面への主線の射
影を表し,主線のサグ・ハイト(sagheight)とも呼ばれるものであり,共にyの
関数である。これらの関数x0(y)とz0(y)によって,主線はあいまいさな
しに決定される。Delta(y)は,水平区間の傾斜であり,これは次のようにして得
られる角度(単位,度)である。すなわち,表面と水平面(y=一定)との交線を
取り,その平面内のz=一定である方向に対する角度を考え,主線で評価する。Kh
(y)は主線における水平の曲率を表す。これらの関数x0(y),z0
(y),Delta(y)及びKh(y)によって,二次の帯(stripe)はあいまいさなく
決定される。水平区間y=yc=一定におけるサグ・ハイトは,次のとおり計算で
きる。
z(x,yc)=z0(yc)+a1(x-x0(yc))+a2(x-x0
(yc))2
ここで,a1=tan(Delta(yc)),a2=0.5*Kh(yc)である。
すなわち,全表面では,
z(x,y)=z0(y)+a1(x-x0(y))+a2(x-x0
(y))2
ここで,a1=tan(Delta(y)),a2=0.5*Kh(y)である。
主線のコースにおける関数D0v(y)(面屈折力の規定値),Astv(y)(面
非点収差の規定値),及びεv(y)(軸方向の規定値)は,性能関数F=∫
[(A-Av)2
+(H-Hv)2
+(ε-εv)2
]dy を最小にする(又は解
く)ことによって関数z0(y),Delta(y)及びKh(y)をあいまいさなく決
定する。性能関数Fでは記述が変わっているが,当初明細書の記載から,
D0v=Hv(面屈折力の規定値)
D0=H(実面屈折力)
Astv=Av(面非点収差の規定値)
Ast=A(実面非点収差)
軸方向=εv(軸方向の規定値)
軸=ε(実軸方向)
であることは明らかであり,任意変分法又は最適化法を用いて,関数z0
(y),Delta(y),及びKh(y)は,実面屈折力H,実面非点収差A及び実軸
方向εの値が規定値Hv,Av及びεvと等しくならない限り変化させられる。こ
の作業は,実値が規定値と等しくなるときに完了する。すなわち,各規定値は人間
の眼に対する処方値であり,各実値は,各規定値に基づいて性能関数Fによって計
算される累進面の値である。Listingの法則などの生理的な要求を無視することによ
って,面非点収差の規定値は人間の眼の処方と同一になる。したがって,面非点収
差の規定値Astvと軸方向の規定値εvはすべてのy座標で一定である。屈折力の規
定値D0vは,主線に沿って累進レンズの上方領域の遠用部の値から,下方領域の近用
部のもっと高い値まで変化する。主線の水平シフトx0(y)は主視線(mainline
ofvision)の水平シフトで決定される。表1~5は,性能関数Fが最小になるとい
うだけでなく,ほぼ0という値になることを示している。例えば,表1は次の処方
の例を示す(眼の屈折異常)。
球面屈折力の規定値 D0v=2.340dpt
面非点収差(円柱力)の規定値Astv=1.500dpt
軸方向の規定値 εv=0.00Grad
付加の規定値 Add=2.000dpt
「D0v」の欄で,球面屈折力の規定値D0vは遠用部ゾーン(y>20mm)にお
ける球面屈折力=2.340dptから近用部ゾーン(y<-14mm)における球面屈折力
プラス付加=4.340dptまで連続的に変化しており,付加の規定値は明らかに
2.000dptである。Listingの法則などの生理的な要求及び斜光線非点収差を無
視すると,表1は,実面屈折力D0,実面非点収差Ast及び実軸εの値がすべてのy座
標に対して規定値に対応することを示している。これは,関数z0(y),Delta
(y)及びKh(y)を変化させて最適化法を用いて達成される。表を単純化する
ために生理的な要求及び斜光線非点収差を無視したが,これは,面非点収差の規定
値に対してこれらの調整が非常に小さいからである。表の役目は,関数z0
(y),Delta(y)及びKh(y)を変化させることによって面非点収差の規定値
をその軸方向も含めて非常に精密に調整することが可能であることを示すことであ
る。ここでの,最大の差はy=2mmにおける非点収差に関する0.08dptである。
水平シフトx0(y)は主視線のシフトに対応する。表2は次の処方の例を示す。
球面屈折力の規定値 D0v=2.340dpt
面非点収差(円柱力)の規定値Astv=1.500dpt
軸方向の規定値 εv=30.00Grad
付加の規定値 Add=2.000dpt
球面屈折力の規定値D0vは遠用部ゾーンにおける球面屈折力=2.340
dptから近用部ゾーンにおける球面屈折力プラス付加=4.340dptまで連続的に
変化している。表2は,実面屈折力D0,面非点収差Ast及び軸εの値がすべてのy座
標に対して規定値に対応することを示している。これは,関数z0(y),Delta
(y)及びKh(y)を変化させて達成される。最大の差は非点収差に関する0.
04dptである。水平シフトx0(y)は主視線のシフトに対応する。表2の目的
は,軸方向の規定値が異なると(0度でなく30度),関数z0(y),Delta
(y)及びKh(y)も表1の例と異なるということを示すことである。表3は次
の処方の例を示す。
球面屈折力の規定値 D0v=2.340dpt
面非点収差(円柱力)の規定値Astv=1.500dpt
軸方向の規定値 εv=45.00Grad
付加の規定値 Add=2.000dpt
球面屈折力の規定値D0vは遠用部ゾーンにおける球面屈折力=2.340
dptから近用部ゾーンにおける球面屈折力プラス付加=4.340dptまで連続的に
変化している。この表は実面屈折力D0,面非点収差Ast及び軸εの値がすべてのy座
標に対して規定値に対応することを示している。これは,関数z0(y),Delta
(y)及びKh(y)を変化させることによって達成される。最大の差はy=-1
0mmにおける屈折力D0に関する0.09dptである。水平シフトx0(y)は主視線
のシフトに対応する。軸方向の規定値が異なるので(45度),関数z0
(y),Delta(y),及びKh(y)も表1及び2の例と異なる。表4及び表5
は,同じ処方で他の軸方向の同様な例である。本願発明において,面非点収差の量
と軸方向が主線に沿って,全非点収差の量と軸方向が視線を下げたときにListingの
法則によって変化する人間の眼の非点収差(非点収差の規定値)の量と軸方向に対
応するように変化し,上記主線は視線を下げるときに眼が描く主視線とほぼ一致
し,主線に沿ってその軸方向も含めて面非点収差の規定値を有する累進面を計算す
ることが可能であり,このことは斜めの軸方向でも成り立つ。いずれの表にも全非
点収差の値が含まれていない理由は,表1~5が,主線に沿って軸方向も含めて面
非点収差の規定値を有する累進面を計算することが,望ましい非点収差の分布がど
んなものであれ,可能であることを示さなければならないということにある。本願
発明の目的は,実面非点収差が性能関数Fを用いるアルゴリズムによって面非点収
差の規定値に軸方向を含めて到達することが可能になる方法を提供することであ
り,この方法を全非点収差に適用することは,類推的に可能である。その場合,性
能関数Fにおいて実面非点収差を実全非点収差に置き換え,面非点収差の実軸方向
を全非点収差の実軸方向で置き換えればよく,本願発明が,全非点収差の場合も考
慮していることは明らかである。また,その場合,実全非点収差Astと全非点収差の
実軸方向Axisが表に示される。このときの全非点収差の規定値Astvと軸方向の規定
値は人間の眼の非点収差に対応する。面非点収差はその軸方向を含めて変化し,全
非点収差が一定となる。
以上のとおり,表1~5を用いて本件出願に係る発明を具体的に説明する
ことが可能であるので,本件明細書には,当業者が容易にその実施をすることがで
きる程度に,発明の詳細な説明に技術事項を開示しているというべきである。
第4 被告の反論
審決の認定判断は正当であり,原告主張の取消事由はいずれも理由がない。
1 取消事由1(旧36条5項2号所定の記載要件の充足性の判断の誤り)につ
いて
(1)全非点収差を面非点収差と斜光線非点収差との数学的演算により求めるこ
と及び幾何学的加算という技術概念は,光学技術の分野において一般的に使用され
ていないものである。
(2)原告が引用する甲17~33は,幾何学的加算がベクトル和を意味するこ
と,レンズの非点収差が,表面非点収差と斜光線非点収差とのベクトル和であるこ
とを何ら示していないから,幾何学的加算の技術内容が当業者の技術常識であった
ことを示す証拠とはなり得ない。したがって,本件優先日当時における当業者の技
術常識を考慮したとしても,本願発明で規定する全非点収差の用語の技術内容が明
確であるとはいえず,その意味する技術事項を確定することができない。
2 取消事由2(旧36条4項所定の記載要件の充足性の判断の誤り)について
(1)本件明細書(甲36添付)の表1~5の内容は,当業者が見ても,全非点
収差が表面非点収差と斜光線非点収差との幾何学的加算により得られることと技術
的に整合しないのであるから,全非点収差で規定される累進焦点眼鏡レンズを当業
者が容易に実施できるように発明の詳細な説明に技術事項を開示しているというこ
とはできない。
(2)本件明細書(甲36添付)に記載された,斜光線方向0°,30°,45
°,60°及び90°における,複数のx,y,z座標に対するAstv:ジオプターを単
位として示された主線上での面非点収差の規定値,Ast:主線上での全非点収差の
値,及びAxis:度を単位として示された斜光線方向の非点収差の値を示した表1~5
の内容は,本願発明の具体的態様と推測される。したがって,これらに基づいて,
全非点収差が表面非点収差と斜光線非点収差との幾何学的加算により得られる値で
あることを,表1~5の値を例にとって,表面非点収差の値と斜光線非点収差の値
とにより幾何学的加算を具体的に実行して全非点収差を求め,幾何学的加算の演算
手順を合理的かつ具体的に説明されなければならないところ,原告は,その主張立
証をしていない。
第5 当裁判所の判断
1 取消事由2(旧36条4項所定の記載要件の充足性の判断の誤り)について
(1)原告は,審決の「本件の明細書(注,本件明細書〔甲36添付〕)の斜光
線方向0°,30°,45°,60°及び90°の好ましい実施形態の・・・値(表
1~表5)を検討しても,『全非点収差』(表中,「Ast」に対応),『表面非点収
差』(表中,「Astv」に対応)及び『斜光線方向の非点収差』(表中,「Axis」に対
応)の間の関係は不明」(審決謄本10頁第3段落)であるとの認定は,当初明細書
(甲34)に「軸方向位置0,30,45,60及び90°」(5頁最終段落)と
記載され,表には面非点収差の規定値が軸方向ごとに例示されているから,誤りで
ある旨主張する。しかしながら,本件明細書(甲36添付)には,「非点収差の軸
方向(異なる視線方向つまり,斜光線上)」(段落【0006】),「『全非点収
差』の軸方向(斜光線方向)」(段落【0008】,【0011】),「本発明
(注,本願発明)は,好ましい実施形態を軸方向0°,30°,45°,60°及
び90°について用いて,下記において一層明らかにされる」(段落【002
9】)と記載され,これらの記載から,本件明細書においては「軸方向」と「斜光
線方向」の用語は,同じ意味で使用されていると認められる。したがって,審決
が,上記角度について,「斜光線方向の非点収差」の用語を使用して認定したこと
に誤りはない。
(2)本件明細書(甲36添付)に記載された,斜光線方向0°,30°,45
°,60°及び90°における,複数のx,y,z座標に対するAstv:ジオプターを単
位として示された主線上での面非点収差の規定値,Ast:主線上での全非点収差の
値,及びAxis:度を単位として示された斜光線方向の非点収差の値を示した表1~5
の内容は,本願発明の具体的態様と推測される。したがって,被告が主張するよう
に,これらに基づいて,全非点収差が表面非点収差と斜光線非点収差との幾何学的
加算により得られる値であることを,表1~5の値を例にとって,表面非点収差の
値と斜光線非点収差の値とにより幾何学的加算を具体的に実行して全非点収差を求
め,幾何学的加算の演算手順を合理的かつ具体的に説明されなければならないとこ
ろ,原告は,本件明細書の「Ast:主線上での全非点収差」(段落【0038】)及
び「Axis:度を単位として示された斜光線方向の非点収差」(同)は,それぞれ当
初明細書(甲34)の「Ast:主線上での実面非点収差」及び「Axis:度を単位とし
て示された実軸方向位置」(12頁第1段落)の誤記であり,出願人が審査の段階
において補正を誤ったために生じたもので,当初明細書の上記記載が正しいこと
は,その記載から明らかである旨主張する。しかしながら,当初明細書は,平成1
2年8月10日付け手続補正書(甲36)により添付の本件明細書に全文が変更さ
れたものである。しかも,当初明細書記載の「実面非点収差」の値と本件明細書記
載の「全非点収差」の値は,いずれも非点収差の値であり,また,当初明細書記載
の「度を単位として示された実軸方向」と本件明細書記載の「度を単位として示さ
れた斜光線方向」は,いずれも度を単位とするものであることから,上記補正によ
り明白な文脈上の不明確さや矛盾が生ずるとはいえず,当該補正が誤ってされたも
のであることは,本件明細書に接する当業者にとって客観的かつ一義的に明らかで
あると認めることもできない。したがって,原告の上記主張は採用することができ
ず,本件特許出願において,明細書が旧36条4項所定の記載要件を充足している
か否かは,本件明細書の記載に基づいて判断されるべきであり,その際,当初明細
書の記載を参酌すべき理由はない。
(3)そうすると,原告が補正を誤ったと自認するとおり,「全非点収差」及び
「斜光線方向の非点収差」に係る本件明細書の上記記載は,それぞれ正しくは「実
面非点収差」及び「実軸方向」に係る技術事項を意味するものであり,そうである
以上,本件明細書の上記記載が技術的に誤ったものであることは明らかである。そ
して,「全非点収差」は,【請求項1】に「表面非点収差及び斜光線方向の非点収
差による全非点収差」と規定されると共に,本件明細書において「全非点収差は,
前記主経線上における表面非点収差と軸外光線(obliqueray斜光線上)の非点収差と
を幾何学的に加算した結果生じる」(段落【0008】)と記載され,「斜光線方
向の非点収差」に直接関係付けられていることから,「全非点収差」及び「斜光線
方向の非点収差」に係る本件明細書の上記記載は,本件明細書に記載された本願発
明の「全非点収差」に係る技術事項の理解の支障となることは明らかである。加え
て,本件明細書記載の表1~5は,その記載と技術的に異なるものを意味する「全
非点収差」,「斜光線方向の非点収差」に係る「Ast」欄,「Axis」欄を有するか
ら,当該表1~5記載の上記誤った数値データから,当業者は,本件明細書記載の
本願発明の「全非点収差」に係る技術事項やその実施形態を明確に理解するとは認
め難い。
(4)以上検討したところによれば,「全非点収差」及びこれと直接技術的関連
を有する「斜光線方向の非点収差」について,当業者に誤記であることが客観的か
つ一義的に明らかであると認めることはできない誤った記載がされ,この誤った記
載に基づいて全非点収差及び実施形態が説明された本件明細書に接した当業者は,
本件明細書に記載された「全非点収差」の意味内容を正しく理解することは不可能
であり,本件明細書の表1~5に記載された数値データに基づいて本願発明を実施
できるということはできない。したがって,本件明細書の発明の詳細な説明には,
本願発明に係る「全非点収差」で規定される累進焦点眼鏡レンズについて,当業者
が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果を記
載しているとはいえないから,その発明の詳細な説明は,旧36条4項に規定する
要件を満たさないというべきであり,これと同趣旨の審決の判断に誤りはない。
2 以上のとおり,原告主張の取消事由2は理由がないから,その余の点につい
て判断するまでもなく,本件特許出願は拒絶すべきものであるとした審決の判断に
誤りはなく,他に審決を取り消すべき瑕疵は見当たらない。
よって,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとお
り判決する。
東京高等裁判所第13民事部
裁判長裁判官 篠 原 勝 美
裁判官 岡 本 岳
裁判官 早 田 尚 貴
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