弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
被告人を懲役10年に処する。
未決勾留日数中240日をその刑に算入する。
理由
(犯罪事実)
 被告人は,平成15年3月12日午前3時15分ころ,名古屋市a区bc丁目d番e号
所在のfビル(鉄筋コンクリート造り5階建て)の5階部分にあるA居宅の南側10畳
間において,B(当時60歳)に対し,同人の間近で同人に向けて,石油ファンヒータ
ー用のカートリッジを振って灯油を撒布し,さらに同室内に敷かれた絨毯の上に灯
油を撒き散らした上,同人らが同室内に佇立などしていることを知りながら,敢え
て,その絨毯に持っていた簡易ライターで点火して火を放つ暴行に及び,その火
を,同室の壁面,床,同人の全身等に燃え移らせ,A及びC(当時88歳)が現に住
居として使用し,Bらが現在する居宅(床面積約72.9平方メートル)のうち,前記1
0畳間及び同室に隣接する仏間等約42.53平方メートルを焼損し,同日午後10
時58分ころ,同市g区h町i番地j号所在のD病院において,前記暴行によりBを全
身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡するに至らせるとともに,前記仏間の焼
損の際,同仏間で就寝していたCを全身火傷により死亡させた。
(弁護人の主張に対する判断)
第1 本件公訴事実の要旨は,「被告人は,fビル5階A居宅の南側10畳間におい
て,B(以下,Bという。)に対する殺意をもって,同人の着衣及び床のじゅうたんの
上に灯油約3リットルを撒き,そのじゅうたんに所携の簡易ライターで点火して放火
し,その火を,同室の壁面,床,同人の全身等に燃え移らせ,A及びC(以下,Cと
いう。)が現に住居として使用する居宅のうち前記10畳間及び同室に隣接する仏
間等を焼損し,同日午後10時58分ころ,D病院において,前記暴行によりBを全
身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡させて殺害するとともに,仏間の焼損の
際,同所にいたCを全身火傷により死亡させた。」という現住建造物等放火及び殺
人を内容とするものである。
 これに対し,被告人及び弁護人は,本件犯行当時,被告人にはBに対する殺意
はなかったとして,殺人罪の成立につき争うものであるが,当裁判所としても,本件
において,被告人にBに対する殺意があったとするには合理的な疑いが残り,殺人
罪が成立するとは認められず,被告人のBに対する行為は傷害致死罪に該当する
にとどまるとの判断に至った。以下,その理由について述べる。
第2 前提事実
 関係各証拠によれば,本件犯行に至る経緯及び犯行状況等として以下の事実が
認められる。
1 被告人は,父Bと母Eの間に次男として出生し,高校を中退後,土木会社の作
業員等として稼働し,本件犯行時に至った。被告人は,本件犯行時,E及び実兄
Fとともに名古屋市a区k町所在のmマンションn号(以下,E方という。)に居住し
ていた。また,同所からほど近いfビル5階には,被告人の祖母C及び叔父Aが居
住していた。
  Bは,被告人らと共に生活することなく頻繁に外泊を繰り返し,家計を省みること
もなく,被告人から借金をするなどの生活を送っており,被告人は,かかるBと関
わり合いたくないという思いを抱いていた。一方,Fは,定職に就くことなく,Eらか
ら金銭をせびり取るなどして生活しており,自己の要求が受け入れられないとE
や被告人に暴言を吐き,暴力を振るうなどしていたものであり,被告人は,Fに対
して,強い嫌悪の情を抱いていた。
2 ところで,被告人ら家族は,かつてfビルに同居しており,平成13年夏ころ同ビ
ルが競売に掛けられ,1階から4階部分を明け渡すこととなったことを受けて,被
告人,F及びEは転居したのであるが,そのころより,Fは,同ビルを取り戻すため
に借金をしたなどとして,Bに対して執拗にその支払いを求め,曖昧な返事しか
できない同人に対して暴力を加えるようになったため,同人は,今まで以上に頻
繁に外泊し,ほとんどE方に戻らなくなった。Bが家に寄りつかなくなったことに憤
激したFは,被告人に対し,Bがこのまま金を返さなければ暴力団員に引き渡す
などと言い出し,Bを捕まえて暴力団員に引き渡すまでの間,被告人に見張りを
していてもらいたいなどと依頼した。被告人は,Fとの間で,Bを暴力団員に引き
渡したらEに暴力を振るわないことを条件としてこの申し出を受け,Bを見付けた
ら,連絡を取り合うことも約束したが,その後も被告人はFに隠れてBと連絡を取
り合っていた。
3 本件当日午前1時ころ,fビル5階において,偶然Bに遭遇したFは,Bを足蹴に
するなどした後,被告人に連絡をして,同所に呼び寄せた。被告人は,fビル5階
の南側にある10畳間(以下,10畳間という。)でBを見るや,同人の右肩付近を
殴打したが,数回殴るに止まり,それ以降はFがBを多数回にわたって殴打し足
蹴にするなどの暴行に及んだ。
  本件10畳間は,床全面に絨毯が敷かれているほか,布団,こたつ台,さらには
段ボール箱等の可燃性の物が置かれていた。また,同室の南側にはベランダに
通じる掃き出し窓が設置され,カーテンが掛けられていた。なお10畳間に隣接す
る仏間には,高齢のため足が不自由なCがいた。
4 Bに対する暴行を一旦止めたFは,被告人に対してBを見張るように命じ,E方
に向かった。Fが外出した後,被告人は,しばらくの間Bを見張っていたが,その
うち,Bをビニール紐で10畳間南側掃き出し窓近くに置かれた椅子に縛り付け,
自身は,10畳間の出入口付近に布団を敷いて横になった。
5 一方,Fは,E方にあったファンヒーターから灯油入りのカートリッジタンク(容量
3.5リットル,以下,カートリッジという。)を取り出し,それを持ち,Eを連れてfビ
ルへと戻った。その際被告人は,10畳間で依然横になっていた。Fは,再び手拳
や同所に置いてあった金属棒などで,Bの腕や背中等を殴打し,腰部を足蹴に
するなどの暴行に及んだ。かかる暴行の最中,Bを椅子に縛り付けていた紐が
ゆるんでほどけた。さらに,Fは,持ってきたカートリッジをBやEに示しながら,
「灯油を撒け。火を付けろ」などと怒鳴って,Bらを脅すとともに,Eに対しても同女
の腕部を殴打するなどの暴行に及んだ。
6 Eが殴打されるのを見た被告人は,布団から起きあがり,「なに弱い者いじめし
とるんだ」などと言うとともに,Bに対し,「お前がだらしないからだろう」などとも言
った。さらに,台所より包丁2本を持ち出して,10畳間に置かれていた衣装ケー
スに包丁を突き刺したが,Fは,何ら態度を改めず「灯油を撒け。火を付けろ」な
どと怒鳴り続けた。
7 すると,被告人は,カートリッジを持って給油口を開けてB(この際にBが床に座
っていたのか立っていた状態なのか必ずしも明確ではないが,被告人の供述等
によれば座っていた状態と認定できる。)やFがいる付近に行き,Bから110ない
し135センチメートルほどの距離で,Bの方向に向けて両手に持ったカートリッジ
を横に倒して前後に数回振って灯油を撒布し,さらに,若干後退した上で,カート
リッジの給油口を下に向け,中に入った灯油のほぼ全量を絨毯の上に撒き散ら
した。そして,引き続き,被告人は,簡易ライターを取り出し,B及びFに見せつけ
ながら火を付ける素振りをした後,ライターに点火し,Bから1メートルほど離れた
自分の足元の絨毯にこれを近づけて火を放った。この前後ころ,Bは,掃き出し
窓を背にしてFと対峙しており,絨毯の上に置いておいたハーフコートを着込み,
Fに対して,外で話をしようなどと述べて,10畳間から出ようとする素振りをみせ
ていた。
8 絨毯から燃え上がった炎は,間もなく南側掃き出し窓にかかっていたカーテンに
燃え移るとともに,Bのズボンに引火した。B及び被告人らは,Bのズボンの火を
消そうとしたが,その際にBは,灯油が撒布されていた絨毯の上に転倒し,同人
の上着にも着火するに至った。
  被告人は,Bの着衣に炎が上がっているのを見ると,Fらとともに,布団を被せて
消火しようとしたが,炎はさらに燃え上がった。このころ,Eは南側掃き出し窓を
開けて,ベランダに逃げ出した。被告人らは,Bを台所に連れ出し,水をかけ,B
が着ていたズボンやハーフコートを脱がせるなどした。
被告人は,Bを連れて一旦玄関から逃げたが,Cが仏間に取り残されていること
に気付いたため,同女の救出を試みたものの,炎と煙にまかれ,助け出すことが
できなかった。
9 Bは判示のとおり,全身熱傷に基づく熱傷性ショックによって死亡した。頭部,顔
面,陰部,腕部をはじめとするBの体表の相当部分には,3度の火傷(表皮と真
皮がすべて壊死し,皮下組織まで熱作用が及んでいる状態)が見られ,Bのほぼ
全身が炎による熱の影響を受けたものと認められた。
また,仏間に取り残されたCも全身火傷によって死亡した。
10 なお,Bが本件被害時に着用していたトレーナー,ハーフコート及びズボンから
は灯油が検出され,このうちハーフコートは,下部分及び左袖部分が焼け焦げ焼
失していた。一方,被告人が当時着用していたスウェットズボン及びFが当時着
用していたジーパンからも灯油が検出されている。
第3 検討
1 まず,被告人の客観的な行為を見ると,絨毯が敷かれ,可燃物が多数置かれた
室内において,カーテンの掛かった掃き出し窓を背にして,直ぐ横にはこたつが
置かれているという場所にいたBの間近で,同人のいる方向に向けて灯油を撒
布するなどした後,同人から1メートル余り離れた灯油の染みこんだ場所で絨毯
に火を付けたというものであるが,被告人の放った火がBの着衣に引火し,その
結果同人の死亡という結果が生じたことについては疑いを容れる余地がない。そ
して,前記認定のとおり,被告人は,Fから呼ばれて本件犯行場所に赴き,Bと対
面するや同人に対して前記のとおりの殴打行為に及び,さらに,FがBを殴打し
ているのを制止せず,FがEを呼びに行った際にも,Fの指示を受けてBを見張
り,同人をビニール紐で椅子に縛り付けるなどしており,これらに鑑みれば,本件
犯行当時,被告人は,Bに対して相当程度の悪感情を有していたことが認められ
る。さらに,前記認定のとおり,被告人は,本件放火に至る直前に,包丁を持ち
出して衣装ケースに突き刺して怒鳴るなどしており,本件当時の被告人は,相当
に興奮し憤激した心理状態にあったとうかがわれる。これらに照らせば,被告人
が放火に及んだ際,激情に駆られた結果,Bの死を予見しながら,これを認容
し,敢えて放火に及んだ,すなわち同人に対し未必的な殺意を抱いて本件放火
に及んだとの疑いは十分認められる。
2 しかしながら他方で,本件においては,被告人に未必的にせよBに対する殺意
があったと認定するに疑いを差し挟む事情となる以下の諸点も指摘できる。
 (1) 本件犯行の態様と人の生命に対する一般的危険性について
 ア 撒布した灯油の量について
   検察官は,被告人が本件において撒布した灯油の量を約3リットルであると主
張し,このことを殺意を推認するにあたっての1つの事情としてあげる。かかる
主張は,カートリッジの中に灯油が8割ないし9割入っていた旨の捜査段階に
おける被告人の供述(乙3号証18丁,乙8号証8丁)を主たる根拠とするもの
と思料される。
   しかしながら,被告人は,前記認定のとおりの激情に駆られた状態で,カートリ
ッジを持つと,直ちに灯油を撒布したことが認められるのであって,かかる状況
下において被告人が,カートリッジ内の灯油の量を正確に認知し,記憶するこ
とができたのか疑いを差し挟む余地がある。
   この灯油の量に関しては,Eは捜査段階において,ファンヒーターを掃除した
際にカートリッジを持ち上げたところ,灯油が入っていると思ったが,余り重くな
かった記憶であり,入っていたとしても3分の1とか4分の1くらいの量ではない
かと思う旨供述しており(甲59号証4丁参照。なお,同供述調書は平成15年
3月31日付けで作成されたものであるが,同月25日付の捜査報告書[甲35]
によれば,Eは同月21日に事情聴取を受けた際にも灯油の量はカートリッジ
の4分の1くらいであった旨供述しており,Eのこの供述を受けて試算した灯油
の残量は約0.875リットルであるとされている。),同供述の内容には,特段
不自然,不合理な点はないのであって,信用できないものとして直ちに排斥す
ることはできない。
   さらに,Fも第2回及び第3回公判において,撒かれた灯油の量はコップ1,2
杯程度であった旨証言している(第2回公判証人尋問調書2丁,第3回公判証
人尋問調書6丁,13丁等)。Fは,捜査段階においても,具体的な量は定かで
はないが,カートリッジ内の灯油の量を被告人よりも少量であったと供述して
いたことがうかがわれる(乙8号証18丁)。Fの公判廷での供述は,被告人を
庇うべく,敢えて少なく供述したものとの疑いは禁じ得ないものの,これらの供
述に照らすと,撒かれた灯油の量が3リットル程度と断ずることには躊躇を覚
えると言わざるを得ない。
  以上のとおり,被告人が撒布した灯油の量が約3リットルもの量であったとす
るには多分に疑いが残り,最大でも1リットル程度の量であった可能性が否定
できない。
 イ 灯油を撒布した意図及びその対象について
  また,検察官は,被告人が意図的にBの身体に向けて灯油を撒布したと主張
し,このことを殺意を推認させるもう1つの事情とする。かかる主張は,Bのズ
ボンのみならずハーフコート及びトレーナーなどの上着からも灯油が検出され
たこと及び被告人が捜査段階において,灯油をBの身体にかけた旨の供述を
していること(乙8号証8丁)を主たる根拠とするものと思料される。
なるほど,前記のとおり,被告人は座り込んだ状態のBのいる方向にカート
リッジの給油口を向けてカートリッジを前後に揺する方法により灯油を撒布し
ているのであるが,かかる態様及び被告人とBとの間の距離からすれば,客
観的にはBの身体に灯油がかかる可能性はあるし,被告人もそのような可能
性を認識し,若干量はBにかかっていることを認識はしていたであろう。
しかし,被告人が意図的にBの身体に灯油をかけようと考えていたのであれ
ば,Bの身体に近付いた上で,カートリッジの給油口を下に向けて直接灯油を
撒布するなどの方法をとるのが通常というべきであって,カートリッジを数回前
後に振った後,同人から一歩退き,給油口を下に向けて絨毯に向けて撒布す
るという方法は,同人の身体に対して敢えて灯油を撒布するやり方としては,
いささか不自然と評せざるを得ない。灯油が最も多量に撒かれたのは,Bから
離れた被告人の足元の絨毯であったと認められる。このような灯油撒布の態
様は,BのみならずF,Eら全員に対しての示威行為と見るのが自然である。
また,Bが着ていたトレーナー及びハーフコートから灯油が検出されたこと
は前記のとおりであるが,灯油の付着量については証拠上必ずしも明らかで
はない。さらに,Bの上着に灯油が付着した原因としては,被告人の撒布した
灯油が直接かかった可能性の他に,前記のとおりBが灯油の撒布された絨毯
に倒れて転がった際に付着した可能性,あるいは,被告人が灯油を撒布した
際,Bの近くに置かれていたハーフコートに灯油が付着した後,ハーフコートを
着たためにトレーナーにも付着するに至った可能性も存する。そして,前者の
可能性については,全身にわたってほぼ同じ程度の火傷が認められるという
Bの遺体の状況に齟齬するものではないばかりか,むしろ符合するものという
ことができる。他方,後者の可能性について,検察官は,灯油がかかったハー
フコートを着ることなど不合理である旨主張するが,Bが本件犯行の前後にハ
ーフコートを着て外に出ようとしたことについては,捜査段階においてE及びF
が一致して供述しているところであり(Eについて甲59号証11丁,Fについて
甲61号証15丁),前記に検討したとおり,そもそも,撒かれた灯油の量がさほ
ど多いものではなく,それ故ハーフコートにも若干量の灯油がかかったにとど
まったことを前提とするならば,室外に出ようとするにあたってハーフコートを
着用した可能性をおよそ不合理なものとして排斥することはできないというべ
きである。また,被告人が敢えてハーフコート目掛けて灯油を撒布したと認め
るに足る証跡もない。
これらに加え,被告人が灯油を撒布した意図について,Eに無理強いをする
Fに腹を立てた結果として,その様な行為に及んだと述べる被告人の供述に
照らせば,Bの身体に対し意図的に灯油を撒布したという点についても相当の
疑いが残るといわざるを得ない。被告人がBの方向に向けてカートリッジを振
り,結果として灯油がBのズボンにかかり,あるいはハーフコートに染みたと見
うる余地がある。これは,Bに灯油がかかっていたことを被告人が認識してい
たことまでを否定するというものではない。
 ウ 灯油の燃焼に関する性質及び被告人の点火の位置について
   さらに,そもそも灯油は,ガソリンやシンナーなど揮発性の強い物質とは異な
り,引火性はさほど強くなく,爆発的な燃焼の仕方をする燃料でないことは一
般的にも知られた事実である。実際,本件後に行われた燃焼実験の結果[甲
55号証]によれば,本件犯行場所に敷かれていたものと同様の素材と認めら
れる絨毯に灯油500ミリリットルを撒布した後に簡易ライターで着火したとこ
ろ,着火直後から10秒経過時には約5センチメートル四方に,20秒経過時に
は約10センチメートル四方に,30秒経過時に絨毯の約20センチメートル四
方に延焼し,60秒経過時に,ようやく絨毯の約30センチメートル四方に延焼
するとともに炎の高さが約30センチメートルとなったことが認められ,その事
実を裏付けている。加えて被告人は,Bの身体や衣類に直接火を付けたわけ
ではなく,近接した場所ではあるが被告人自身の足元の絨毯に火を付けたも
のであり,火が燃え広がるまでには若干の時間を要することからしても,Bが
火を避けようとすれば,それが比較的容易にできる状況にあったことがうかが
える。そうすると,被告人が灯油を撒いて絨毯に点火した行為自体から,被告
人において,その火が直ちにBに燃え移り,同人の死という結果に結びつくほ
どの危険性を有するものであるとまで認識した上で,敢えて放火に及んだとい
えるかは甚だ疑問である。
 (2) 本件犯行時の被告人の心情について
前記のとおり,本件犯行当時,被告人がBに対してある程度は悪感情を抱
いていたことに疑いを差し挟む余地はない。
しかし他方で,被告人は,本件放火に至るまで,Bを見付けたら互いに連絡
を取り合うとの約束をしていたFに隠れてBと連絡を取り合っていたことや,Bと
遭遇した際に数回肩付近を殴打したことを除いては,自らは暴行には及んで
おらず,Fが一旦外出後Eを連れて本件犯行場所に戻り,再度Bに対して暴行
に及んだときも,しばらくの間は布団に入ったままの状態であったことが認めら
れるのであって,本件放火に至るまで被告人はBに対して,殺したいと思うこと
は勿論のこと,Bが死んでしまってもいいとの思いが生ずるほど同人を嫌悪し
ていたとは認めがたい。そして,Fが「灯油を撒け。火を付けろ」などと言ってB
及びEを脅し,同女に暴力を振るうようになったことを受けて,被告人は起き上
がり,「弱い者いじめはやめろ」などと言い,さらには包丁を持ち出してきて衣
装ケースを突き刺すなどの行為に及んでいることなどの経緯に鑑みれば,こ
の時点での被告人は,Eに対して暴行に及び,灯油の撒布を無理強いするF
に対して憤激していたとみるべきであって,その直後に行われた本件放火の
際にも,被告人の憤激は主としてFに向けられていたものと見るのが相当であ
る。
そうすると,本件放火時に主としてFに対して憤激の情を有していた被告人
が,同時に,Fによって脅されていたBに対してまでも未必的にせよ殺意までを
も有していたとみることは不自然と言わざるを得ない。
 (3) 加えて,被告人は,前記のとおりBの着衣に炎が引火した直後から,Bに対し
て積極的に救護措置をとっていることは明らかである。このことは,被告人がB
に対する未必的な殺意を抱いていたということと矛盾する事情とまではいえな
いものの,否定的な方向に働く事情であることは否定できない。
3 被告人の供述について
 (1) ところで,被告人の捜査段階における供述調書中には,前記のとおりカートリ
ッジ内に八,九割灯油が入っていた旨,あるいはBの身体に灯油をかけた旨
の供述のほか,「(灯油を撒いた)状態で父の身体やその近くに火がつけば,
父が焼け死にますし」(乙8号証9丁),「父が焼け死ぬことは十分に分かって
いました」(同号証17丁)など,被告人がBに対して未必的な殺意を有していた
とも受け取ることのできる供述記載(以下,これらの供述を併せて被告人供述
という。)が存する。そして,関係各証拠上,取調べに際し,被告人が取調官か
ら威迫や暴行を受けたなどの事情を認めることはできず,捜査段階の被告人
供述の任意性に特段の疑いを差し挟む余地はない。
   しかしながら,他方で,上記の乙8号証の供述調書を除いては,捜査官に対す
る被告人の供述中に,火を放つことによって父親が死亡する可能性があるこ
とを被告人が認識していたとの供述記載は見当たらない上,被告人の全供述
調書を子細に検討しても,被告人がBの死を認容していた旨の記載も存しな
い。むしろ,逮捕後まもなくの取調べに際しては,放火することによってB及び
Cを死なせたことにつき,「(自分は)2度死刑になってもいい」などの強い自責
の念を示しながら,「父親を殺すつもりはなかった」(乙1号証1丁)旨明確に供
述している。乙8号証のみに,未必的な殺意があった旨の供述記載が存在す
るものである。
   そして,第4回公判において被告人は,被告人供述が録取された経緯につい
て,「取調官が殺意がないことを分かってもらったから署名指印した」旨供述す
る一方で,「人を殺したいと思って殺したのなら殺人だと思う」とも供述している
(速記録4丁等)。このことに,被告人供述が,いずれもBに対して確定的な殺
意を有していなかった旨を内容とするものであることをも併せ考えたとき,上記
の殺人の未必の故意を認めるがごとき供述は,以下のとおりの心理過程を経
て録取されたと見る余地が生じる。すなわち,被告人は,Bらを死に至らしめた
ことに対して強い自責の念を有しているとともに,未必的故意に対する知識を
持ち合わせていなかったことから,被告人としては,取調官からの追及を受け
た際に,自分が引き起こした結果から見れば,Bが焼死する可能性を認識して
いたと思われても仕方がないし,Bを殺したいと思っていたのではないというこ
とさえわかってもらえればよいと考え,その旨をわかってもらえた,すなわち殺
人の故意がなかったことを記載してもらったものと理解して,録取されるに至っ
たとみる余地が生じる。乙8号証の被告人の供述調書の記載をもって,Bに対
する未必的殺意を認定することはできない。
 (2) また,被告人は,公判廷において,父親に対する殺意を有してはいなかった
旨供述するとともに,本件放火に至った動機について,概要,「灯油を撒け,火
を付けろ」と怒鳴っていたFに対する憤激の余り,言われたとおりに火を付けて
Fを驚かせ,諫めようとした旨の供述をしており,これは,犯行再現の実況見分
時にも,「こうやって何度かライターの火をつけて,兄と父を脅した」との説明を
していること,包丁を持ち出してきた際の言動等をも併せ考えれば,公判廷で
の供述を何ら信用できないものとして排斥することはできない。
第4 結論
 以上の検討のとおり,被告人が,Bに対して,未必的にせよ殺意を有していたと認
めるには,なおその認定の妨げとなる諸事情が多数認められ,被告人にBの死に
ついての予見及び認容があったとするには合理的な疑いを差し挟む余地があるの
で,殺人の故意を認定することはできない。
 もっとも,被告人の本件放火行為は,Bを含めてF及びEが在室しているなか,B
らに対する脅しの意味を込めて敢えて灯油の散布された絨毯に火を放ったというも
ので,Bらに対する暴行と評価することができる。そして,その暴行と相当因果関係
の認められる結果としてBが死亡したことも明らかである以上,被告人には傷害致
死罪が成立するというべきである。
(法令の適用)
罰 条
 現住建造物等放火の点     刑法108条
 傷害致死の点         刑法205条
科刑上一罪の処理        刑法54条1項前段,10条(重い現住建造物    
            等放火罪の刑で処断)
刑種の選択           有期懲役刑
未決勾留日数の算入       刑法21条
訴訟費用の不負担        刑事訴訟法181条1項ただし書
(量刑の理由)
1 本件は,判示のとおりの現住建造物等放火及び傷害致死の事案である。
2 前記認定のとおり,本件は,日頃からF及びBに対して悪感情を有していた被告
人が,Fの言動に憤激して放火に及んだものと認められるのであるが,灯油を撒
布した上,深夜室内で放火におよぶという危険極まりない行為を正当化するもの
ではない。本件犯行は極めて短絡的に行われたという他なく,酌量の余地は乏し
い。
また,被告人は,現に人がいるとともに,隣室には高齢で足が不自由なCがお
り,多数の可燃物が置かれた本件犯行場所において,B,F及びEの目前で灯油
を撒布して火を放ったものである。fビルの周辺には雑居ビルや住居が密集して
いることをも併せ考えた時,本件犯行は,人の生命及び身体に対する重大な危
険を省みない悪質なものというほかない。
被告人の本件犯行により,実の父親であるBを死に至らしめたのみならず,何
ら落ち度が認められない,祖母であるCをも火災に巻き込み死亡させた。結果は
極めて重大である。自らの着衣に火がつき,あるいは,火災によって生じた煙に
巻き込まれた際の被害者らの恐怖,苦痛,そして,ついには生命を奪われてしま
った被害者の驚愕や無念の情は察するに余りある。加えて被告人の本件犯行に
より,本件犯行場所等に居住していたAは焼け出されることとなったのであり,か
かる財産的損害も軽くみることはできない。
これらの事情を併せ考えると,被告人の刑事責任は極めて重い。
3 しかしながら他方で,前記のとおり,被告人にはBに対する殺意までは認められ
ないこと,同人が死亡するに至った点については,同人らが消火を試みた際,灯
油が撒布された絨毯の上に転倒してしまったといった不幸な偶然が関わった面
があること,放火後,被告人は,自らの危険を省みることなくB及びCを救出しよ
うと試みたこと,捜査公判を通じ,本件犯行によって生じた結果を深く悔悟してい
ることがうかがわれ,反省の情がみられること,被告人の亡祖父と知己の間柄に
あった者が,社会復帰後の被告人の監督を誓約していること,前科がなく,家庭
が崩壊するなか,被告人は一人真面目に稼働していたことなど被告人には酌む
べき事情も認められる。
4 そこで以上の諸事情を総合考慮して,主文掲記のとおりの刑を量定した。
(求刑・懲役15年)
平成16年3月5日
名古屋地方裁判所刑事第4部
裁判長裁判官   沼   里   豊   滋
   裁判官   田   邊   三 保 子
   裁判官   安   達       拓

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採用情報


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答えは、弁護士業もサービス業であるという原点に立ち返ることです。
我々は、クライアントの信頼に応えることが最重要と考え、そのために努力していきたいと思います。 弁護士数の増加、市民のニーズの多様化に応えるべく、従来の法律事務所と違ったアプローチを模索しております。
今まで培ったノウハウを共有し、さらなる発展をともに目指したいと思います。
興味がおありの弁護士の方、司法修習生の方、お気軽にご連絡下さい。 事務所を見学頂き、ゆっくりお話ししましょう。

応募資格
司法修習生
すでに経験を有する弁護士
なお、地方での勤務を希望する先生も歓迎します。
また、勤務弁護士ではなく、経費共同も可能です。

学歴、年齢、性別、成績等で評価はしません。
従いまして、司法試験での成績、司法研修所での成績等の書類は不要です。

詳細は、面談の上、決定させてください。

独立支援
独立を考えている弁護士を支援します。
条件は以下のとおりです。
お気軽にお問い合わせ下さい。
◎1年目の経費無料(場所代、コピー代、ファックス代等)
◎秘書等の支援可能
◎事務所の名称は自由に選択可能
◎業務に関する質問等可能
◎事務所事件の共同受任可

応募方法
メールまたはお電話でご連絡ください。
残り応募人数(2019年5月1日現在)
採用は2名
独立支援は3名

連絡先
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
ITJ法律事務所 採用担当宛
email:[email protected]

71期修習生 72期修習生 求人
修習生の事務所訪問歓迎しております。

ITJではアルバイトを募集しております。
職種 事務職
時給 当社規定による
勤務地 〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
その他 明るく楽しい職場です。
シフトは週40時間以上
ロースクール生歓迎
経験不問です。

応募方法
写真付きの履歴書を以下の住所までお送り下さい。
履歴書の返送はいたしませんのであしからずご了承下さい。
〒108-0023 東京都港区芝浦4-16-23アクアシティ芝浦9階
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