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平成16年2月26日判決言渡
平成14年(行ウ)第2号 退去強制令書発付処分取消請求(追加的併合)事件(以下
「第1事件」という。)
平成14年(行ウ)第88号 難民の認定をしない処分無効確認等請求事件(以下「第2事
件」という。)
平成14年(行ウ)第90号 裁決取消請求(追加的併合)事件(以下「第3事件」という。)
口頭弁論終結日 平成15年11月17日
判決
当事者の表示        別紙当事者目録記載のとおり
主文
1原告の被告法務大臣が原告に対し平成13年12月27日付けでした裁
決の取消しを求める訴えを却下する。
2 被告法務大臣が原告に対し平成13年11月20日付けでした難民の認
定をしない処分が無効であることを確認する。
3 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年12月27日付
けでした退去強制令書発付処分を取り消す。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対してした退去強制令書発付処分を
取り消す。
2 被告法務大臣の原告に対する出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原
告の異議の申出は理由がない旨の裁決を取り消す。
3 (主位的請求)
被告法務大臣が原告に対して行った難民の認定をしない処分が無効であること
を確認する。
(予備的請求)
被告法務大臣が原告に対して行った難民の認定をしない処分を取り消す。
第2 事案の概要
原告は、平成13年7月ころ、本邦に不法入国した者であるところ、同年10月3
日、東京入国管理局(以下「東京入管」という。)の違反調査を受け、同月23日に
出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)24条1号に該当する旨の認定が
され、同年11月8日に同認定に誤りがない旨が判定されたため、同日被告法務大
臣に対し、異議の申出をしたが、同年12月27日、被告法務大臣は、上記異議の
申出に理由がない旨の裁決をし(以下「本件裁決」という。)、被告東京入管主任審
査官(以下「審査官」という。)は、同日、原告に対し、退去強制令書(以下「退令」と
いう。)を発付した(以下「本件退令発付処分」という。)。また、原告は、平成13年8
月27日、難民認定申請をしたところ、被告法務大臣は、同年11月20日、原告に
ついて難民の認定をしない旨の処分をした(以下「本件不認定処分」といい、本件
裁決、本件退令発付処分と合わせて「本件各処分」という。)。
本件は、原告が、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、本件各処分当
時、アフガニスタンにおいて、タリバン勢力から迫害を受けていたから難民の地位
に関する条約(以下「難民条約」という。)上の難民に該当する等と主張して、本件
裁決及び本件退令発付処分について取消しを、本件不認定処分について主位的
に無効確認、予備的に取消しを求めるものである。
1 前提となる事実(括弧内に認定根拠を掲げた事実のほかは、当事者間に争いの
ない事実か、弁論の全趣旨により容易に認定できる事実である。)
(1) 原告は、1974(昭和49)年1月20日に出生した、アフガニスタン国籍を有す
るイスラム教シーア派に属するハザラ人である(甲1の10、乙7の1)。
(2) 原告は、平成13年7月ころ、船籍船名不詳の貨物船で横浜港に入り、本邦に
不法入国し、本邦入国後、千葉県佐倉市ab番地の自動車解体現場敷地内に居
住している。
(3) 原告は、平成13年8月22日、千葉県佐倉市長に対し、同市b番を居住地とし
て外国人登録の新規登録申請をした。
(4) 原告は、平成13年8月27日、東京入管において、被告法務大臣に対し、難民
認定申請をした(以下「本件難民申請」という。)。
(5) 東京入管入国警備官は、平成13年10月3日、原告について、違反調査を実
施し、原告が法24条1号に該当すると疑うに足りる相当の理由があるとして、被
告審査官から収容令書(以下「本件収令」という。)の発付を受けた(乙7の1ない
し7の3、乙9)。
なお、原告は、同月19日、当庁に収容令書発付処分の取消しを求める訴え
を提起したが(当庁平成13年(行ウ)第287号事件)、平成14年9月25日、こ
の訴えを取り下げた。
(6) 東京入管入国警備官は、平成13年10月22日及び同年11月7日、原告につ
いて、違反調査を実施した(乙7の4、7の5)。
(7) 東京入管入国審査官は、平成13年10月5日、同月17日及び同月23日、原
告について、違反審査を実施し(乙11の1ないし11の3)、同日、原告が法24
条1号に該当する旨を認定し(乙12)、原告にこれを通知したところ、原告は、同
日、東京入管特別審理官に対し、口頭審理を請求した。
(8) 東京入管特別審理官は、平成13年11月8日、B弁護士の同席の下で原告に
ついて口頭審理を実施し(乙13)、入国審査官の上記認定に誤りがない旨を判
定したところ(乙14)、原告は、同日、被告法務大臣に対し異議の申出をした(以
下「本件異議申出」という。乙15)。
(9) 被告法務大臣は、平成13年11月20日、原告からの本件難民申請につい
て、不認定とする旨の本件不認定処分をしたところ(乙17)、原告は、同月30
日、同被告に対し、異議の申出をした。
(10) 被告法務大臣は、平成13年12月27日、本件異議の申出について理由がな
い旨の本件裁決をし(乙19)、被告審査官は、同日、原告に本件裁決を告知す
るとともに(乙20)、本件退令発付処分をした(乙21)。
(11) 原告は、平成14年1月4日、被告審査官に対し、本件退令発付処分の取消
しを求める訴え(第1事件)を提起し、同年2月25日、被告法務大臣に対し、主
位的に本件不認定処分の無効確認を、予備的にその取消しを求める訴え(第2
事件)及び本件裁決の取消しを求める訴え(第3事件)を提起した。
2 争点及び争点に関する当事者の主張
本件の争点は、本件各処分の適法性であり、その内容は原告の難民該当性で
ある。なお、原告は、従前、各処分の手続違反の主張をしていたが、第3準備書面
において、主要な争点は原告の条約難民該当性の有無であることを主張し、平成
13年1月30日付け意見書において、手続的瑕疵等の諸問題については主要争
点と捉えていない旨を、同年2月13日付け意見書において、原告の難民該当性以
外の争点については、第一審において争わない旨を重ねて明らかにした上、本件
第10回口頭弁論期日において、「(処分の手続的瑕疵について言及した)第12準
備書面は、本件処分の手続違反の主張をするものではない」旨を陳述したことが、
当裁判所に明らかである。
(1) 被告らの主張
ア 本件不認定処分の適法性について
原告は、「人種」及び「宗教」を理由に、国籍国において迫害を受けるおそ
れがあり、国籍国の保護を受けることができないとして本件不認定処分の取
消しを求めているが、原告の主張は、以下のとおり理由がない。
(ア) 難民、迫害の意義について
法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定により
難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規定によれ
ば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であ
ること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理
由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国
の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにそ
の国籍国の保護を受けることを望まないもの及び常居所を有していた国の
外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができ
ないもの又はそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に
帰ることを望まないもの」とされている。そして、その「迫害」とは、「通常人に
おいて受忍し得ない苦痛をもたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身
体の自由の侵害又は抑圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるお
それがあるという十分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該
人が迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的事情
のほかに、通常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱く
ような客観的事情が存在していることが必要である(東京地裁平成元年7
月5日判決・行裁例集40巻7号913頁、東京高裁平成2年3月26日判決・
行裁例集41巻3号757頁)。
ある者が難民条約所定の難民に該当するか否かを確認する難民の認
定は、上記難民の定義に照らし、申請者各人につき、その申請内容の信ぴ
ょう性等も吟味し、各人の個別の事情に基づいてされるべきであるところ、
難民であることの立証責任は、申請者が負うべきである。つまり、いかなる
手続を経て難民の認定手続がされるべきかについては、難民条約に規定
がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだねられているところ、我
が国においては、法61条の2第1項において、被告法務大臣は、申請者の
「提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定を行うことができ
る」と規定し、法61条の2の3において、被告法務大臣は、申請者により
「提出された資料のみでは適正な難民の認定ができないおそれがある場合
その他難民の認定又は取消しに関する処分を行うため必要がある場合に
は、難民調査官に事実の調査をさせることができる」と規定していることか
らも明らかなとおり、難民認定申請者が、まず自ら条約に列挙された事由を
理由として迫害を受けるおそれがあるという恐怖を抱いているという主観的
事情があり、かつ、通常人が当該人の立場におかれた場合にも迫害の恐
怖を抱くような客観的事情も存在していることを認めるに足りるだけの資料
を提出することが求められている。外国人である申請人が難民であるか否
かを判断する資料を、我が国が有権的に当然に把握できるものではない。
(イ) シーア派・ハザラ人に属することのみをもって、難民該当性が認められる
ことがないこと
a ラバニ政権成立(1992(平成4)年)以降のアフガニスタンにおいて、ハ
ザラ人を基盤とし、又はハザラ人が含まれるグループとして、イスラム統
一党マザリー派(ハリリ派)、同アクバリー派、イスラム運動、イスラム国
民運動党、タリバンがある。そして、各グループは、それぞれ複雑な対立
構造の下に抗争を繰り返しており、タリバン台頭以前のアフガニスタン情
勢は、ラバニ大統領派とヘクマティール首相派の双方にハザラ人を主体
とするグループとパシュトゥーン人を主体とするグループの双方が属し、
ハザラ人同士、パシュトゥーン人同士の抗争を含め複雑多岐にわたる抗
争関係が存在しており、アフガニスタン全土が混沌とした内戦状態だった
ものであるから、特定の民族や集団について、常に当該民族や集団等
が一方的に被害者であった等と断じることはできない。
b 次に、タリバン台頭後のアフガニスタンに関しても、シーア派・ハザラ人
であることのみで難民該当性が認められるものではない。
すなわち、被告提出の書証(乙29、142、143、147)等に記載され
ているとおり、タリバン政権下において発生した人権侵犯の主要な要因
は、宗教的又は民族的特性というよりも、むしろタリバンに対し、軍事的
又は政治的に対立する者であったか又はそのように解されたことによる
と評価することが適当である。
そして、タリバンが、ハザラ人を迫害の対象とすることを意図する旨の
公式見解を出したとの報告はいかなる国際機関等からも示されていない
(乙29、142、143)。さらに、タリバンは、パシュトゥーン人全体を代表
するものでもないのであって(乙138、144、145)、タリバンと対峙する
北部同盟側にも多くのスンニー派又はパシュトゥーン人がいたという事実
からは、むしろ、タリバンと北部同盟との間の対立構造が、宗教的又は
民族的背景によるものというよりは、むしろ軍事的又は政治的な背景に
よるものであったことをうかがわせるものである。
c 原告は、ハザラ人迫害の根拠として、マザリシャリフ、バーミヤン等にお
ける虐殺事件を指摘するが、これらについては、虐殺された被害者の数
やその実態等について判然としない上、これらの虐殺は、北部同盟との
戦闘地域に集中しており、両陣営の軍事衝突に伴い互いの報復行為と
して行われた側面が強いものといえる(乙139、142)。
d 諸外国政府においても、およそハザラ人に属することのみをもって難民
認定を行うといった取扱いは行われておらず、申請者の迫害に係る個別
の具体的事情等を考慮した上で難民認定の可否が判断されている(乙1
46の1ないし6)。
(ウ) 原告が迫害されたとする事実は客観的事実に反すること
a 原告は、2001(平成13)年にアフガニスタンのlにおいてタリバンに捕ま
ったことを挙げる。
原告の供述によれば、タリバンに捕まった時期について、陳述書(甲
4)、原告本人尋問第1日目においては同年3月か4月とするものの、平
成15年7月23日に実施された原告本人尋問第3日目においては、あい
まいな供述を繰り返しており、これらの供述をまとめると、原告は、2000
(平成12)年11月7日に本邦を出国してからドバイ及びペシャワールに
1、2か月滞在し、同年12月末から2001(平成13)年1月初めの間にl
に戻り、そこで2か月か4か月暮らした後タリバンに捕まったことになる。
しかしながら、在ドバイの日本国総領事館に提出された査証申請書
(乙160)、同申請書に添付された原告名義の旅券に貼付されたUAE滞
在査証の記載と、原告本人の供述を合わせると、原告は、同滞在査証
の発行日である2001(平成13)年3月13日ころまでの間にUAEにお
いて査証申請を行っていたことが推認され、上記供述と矛盾することとな
る。この点について、原告は合理的な説明をしていない上、UAEの滞在
査証更新の事実について、原告が本人尋問第3日目に至るまで供述し
ていなかった点等を合わせると、原告のこの点の供述を信用することは
できない。
b 次に、原告は、1998(平成10)年8月、マザリシャリフにタリバンが攻め
てきた1週間後にタリバンに拘束されたが、1週間後に逃げ出すことがで
き、友人や親戚の家を1か月ほど渡り歩いた後、アフガニスタンからパキ
スタンに出国した旨を主張する。そうすると、原告がパキスタンに出国し
た時期は、早くとも同年9月20日ころとなるはずである。
しかしながら、原告は、1998(平成10)年8月27日付けでアラブ首長
国連邦(以下「UAE」という。)の在ドバイ日本総領事発行の渡航証明書
を取得しており(乙157)、原告が自ら査証を取得したことを認めているこ
と(原告本人3日目23ないし26項)からすると、原告がタリバンに拘束さ
れ、逃れた時期にはUAEにいたことになるはずである。この点に関する
原告の供述や、その変遷に照らせば、原告のこの主張を信用することは
できない。
(エ) 原告の供述に不自然な変遷が認められること
a 原告は、とりわけ本人尋問第3日目において、迫害の事実に関する質問
に対し、全体としてあいまいな供述に終始し、従前の供述が客観的事実
と矛盾することを指摘されると、はぐらかして回答する(同65項等)等し
た。そして、原告の陳述書(甲4)の内容と本人尋問の回答が齟齬する点
を指摘されると、陳述書の内容や従前の供述は通訳の誤りであること等
を供述した。
b さらに、原告は、原告と同一場所で摘発された訴外C(以下「C」という。)
との兄弟関係の有無について、原告本人尋問第1日目で問われた際に
は親戚である可能性を否定していたものの、DNA鑑定の結果が出た後
になって、前記本人尋問の際にも、親戚であると供述した等と述べてお
り、原告の供述には不自然な変遷が見られ、全体として信用することは
できない。
(オ) 原告の真の目的は不法就労であること
a 原告は、アル・アマナ社の取締役であり(乙149添付資料1及び3)、19
95(平成7)年1月22日の入国を初めとして、今回の入国までに計6回
の入国歴があり、そのいずれも渡航目的を「Business」としている(乙1
48)。そして、原告がタリバンから迫害されたとする1998(平成10)年8
月のマザリシャリフへのタリバン侵攻の後にも4度にわたり本邦に入国す
るものの、この間、一時庇護を求めたり、難民認定申請をすることなく本
邦に滞在しているのであるから、原告には、迫害を受けるおそれがある
という十分に理由のある恐怖があったとは到底考えられない。
b 原告は、本邦滞在期間中、一貫して中古車部品取引に専念し、現在も
継続しているのであり、結局原告の真の目的は本邦での不法就労活動
にあったというほかない。
(カ) 本件が組織的背景を有する不法入国事案であること
a 原告は、C及びD(以下「D」という。)と同一場所で摘発されており、Cに
ついては、アル・アマナ社の従業員であるEと同一人であるほか(乙16
1)、原告と兄弟関係にあることも判明しており、同様にDについては、ア
ル・アマナ社の従業員であるFと同一人であることが判明している(乙16
2)。そして、そもそも原告は、アル・アマナ社において取締役であって、
社員に対して身元保証書を発行できる立場にあり、原告とC及びDは、
過去の本邦入国時の外国人登録上の居住地及び本邦に在留していた
時期が重なること(原告本人2日目211、234項、乙152の1)、Cの査
証申請の際、原告が2度にわたり身元保証書に署名していること(原告
本人2日目204ないし208項、乙164)から、原告が本邦入国前に両名
と面識を有していたことは明らかである。
b 原告は2001(平成13)年3月19日付けで(乙160)、Cは同年1月16
日付けで(乙115の1)、Dは2000(平成12)年10月2日付けで(乙15
4)、それぞれ査証申請をしたものの、いずれも査証が発給されなかった
ため、本邦における中古自動車部品販売に関する業務遂行は困難とな
った。そのため、原告、C及びDは、難民認定されることにより従前どおり
の業務を遂行しようと考え、難民認定され易いように、不法入国が組織
的、集団的なものであることを隠蔽する必要から、原告、C及びDの3名
が親戚関係にあること、同一会社に属していること等を秘匿し、C及びD
は、過去の入国歴を隠蔽するため偽名を使用し、それぞれ難民認定申
請したものである。
c そして、原告を含む中古自動車販売業に係わる一定のアフガニスタン人
が難民認定申請をするに当たり、G(以下「G」という。)が不可欠の役割
を果たしたことは、同人の証人尋問の結果等から明らかである。なお、C
は、原告との兄弟関係についてDNA鑑定のため検体を採取した後、急
遽本国に帰国した旨を述べ、鑑定結果が明らかになる以前に本国に帰
国し(乙134、135)、Dは、原告との血縁関係について被告らが鑑定申
出書を提出した後、訴えを取り下げて帰国した(乙170の1ないし17
8)。
(キ) 以上によれば、原告が迫害を受けるおそれがあるという十分に理由の
ある恐怖を有するとは到底認めることができないから、本件不認定処分は
適法にされたものというべきである。
イ 本件裁決の適法性について
原告は、2001(平成13)年7月初めころ、釜山港から船名船籍等不詳の
貨物船で出発し、横浜港に到着して本邦に不法入国した者であり(乙7の1及
び2)、法24条1号所定の退去強制事由に該当すると認められ、特別審理官
の判定には何らの誤りもない。
そして、原告が難民に該当しないことは、前記アのとおりであり、その他に
原告に対し在留特別許可を付与するか否かの判断において格別積極的に斟
酌しなければならない事情は見当たらず、アフガニスタンにおいては、避難民
の帰還が進んでおり、原告が本国に帰国して生活することに支障はないか
ら、法務大臣が在留特別許可を付与せずにした本件裁決に裁量権を逸脱濫
用した違法があるということはできない。
ウ 本件退令発付処分の適法性について
退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との裁
決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令書を
発付しなければならないのであって、退去強制令書を発付するにつき裁量の
余地はないから、本件裁決が適法である以上、本件退令発付処分も当然に
適法であるというべきである。
エ 以上のとおり、本件不認定処分、本件裁決、本件退令発付処分はいずれも
適法であるから、原告の各請求はいずれも棄却されるべきである。
(2) 原告の主張
被告法務大臣は、原告が難民であるにもかかわらず、原告のした難民認定申
請を認めなかったのであるから、本件不認定処分は違法なものであって、無効
又は取り消されるべきである。また、被告法務大臣は、原告の法49条1項の異
議の申出に対して、在留特別許可を認めずに異議の申出に理由がない旨の本
件裁決をしたが、原告の難民該当性を看過した同被告の判断には重大かつ根
本的な事実誤認による裁量権の逸脱があって、本件裁決は違法であるから、本
件裁決は取り消されるべきである。さらに、本件退令発付処分は、送還先をアフ
ガニスタンとする点で、難民を迫害のおそれのある国に送還することを禁じた難
民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフールマン原則に違反しており、被告審
査官独自の裁量権についても濫用があり違法なものであるから、取り消される
べきである。
ア 難民認定の際の立証基準の解釈の在り方
(ア) 我が国の難民認定制度においては、難民条約上の難民をそのまま難民
として認定することが義務付けられているから、いかなる者が難民として認
定されるべきかは、難民条約の規定及び解釈により決せられるべきであ
る。そして、難民認定の目的が、紛争解決や法的安定性の確保という一般
の争訟の目的と異なること、難民認定制度は、証明対象を一般の争訟手続
と異にすること、判断の誤りにより侵害される法益は重大であり、事後回復
が不可能であることからすれば、難民認定手続における立証基準は、これ
までの同手続の実務において形成されてきた様々なルール(例えば、後記
の供述の信ぴょう性に関する議論や、灰色の利益のルール等)に共通する
「難民の可能性のある者の取りこぼしをせず、できるだけ広く保護の網をか
ぶせる」という姿勢を念頭において検討されるべきである。
(イ) 上記を前提とすると、難民条約締結国における判例で示された解釈も、
難民認定手続における立証の在り方を考える重要な手がかりとなる。そし
て、アメリカ合衆国においては、「十分に理由のある恐怖」については、迫
害を受ける可能性が50パーセント以下であっても、その者が抱く恐怖には
十分に理由があるといえると判断されている(カルドサ・フォンセカ事件に関
する1987年連邦最高裁判所判決)。また、カナダにおいては、同文言の
解釈に際しては、迫害を受ける合理的見込み、あるいはそう信じる十分な
基盤があれば足りる旨が示されている(アジェイ事件に関する1989年1月
27日ブリティッシュコロンビア州バンクーバー連邦控訴裁判所判決)。さら
に、英国においても、同文言は、客観的な状況ではなく本人の立場に立っ
た状況を前提に判断すべきである旨が示されているほか(シヴァクラマン事
件に関する1987年10月12日控訴裁判所判決)、オーストラリアにおいて
も、迫害発生率がたとえ50パーセント以下であっても十分に理由のある恐
怖になり得ることが明らかにされている(チャン事件における1989年最高
裁判所判決、オーストラリア難民再審査委員会1995年8月11日決定及
び同委員会1997年9月17日決定等)。
このように、諸外国の判例等は、「十分に理由のある恐怖」の立証につい
て、極めて緩やかな判断基準を用いている。
(ウ) 以上の検討によれば、「十分に理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の
可能性ではなく、主観的な恐怖に十分な理由があることであり、十分な理
由とは、当該申請者がおかれた状況に合理的な勇気を有する者が立った
ときに、帰国したら迫害を受けるかもしれないと感じ、国籍国への帰国をた
めらうであろうと評価し得る場合を指すものというべきである。
イ 難民認定における信ぴょう性判断の在り方について
(ア) 難民認定における信ぴょう性判断は、難民問題の特殊性や種々の要因
(例えば、証拠収集が困難であるという物理的要因、申請者の心的ストレス
による記憶の変容等の心理的要因、言語的障害等の文化的要因、対審構
造が取られていないことに由来する構造的要因)等にかんがみ、慎重な検
討が必要である。
(イ) したがって、難民認定手続に際しては、証拠の一部が信ぴょう性に欠け
るとしても全ての証拠を検証すべきであり、信ぴょう性を否定する場合に
は、合理的な理由に基づかなければならない。また、申請者の供述に一貫
性や誠実性が認められる場合には、補強証拠がなくとも信ぴょう性を認め
るべきであるほか、仮に証拠の一部に矛盾や不整合、証言内容の変遷等
があってもそれを絶対視すべきではなく、申請者の証言にほとんど信ぴょう
性が見いだせない場合であっても、出身国情報等から難民として認定され
る可能性があるというべきである。
(ウ) さらに、前記(ア)の特殊性にかんがみれば、難民認定に際しては、「疑わ
しきは申請者の利益に」という原則(いわゆる「灰色の利益」の原則)が妥当
するというべきであり、同原則は、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア
等の実務・判例で採用されている。
(エ) そして、以上のような信ぴょう性判断の在り方は、難民認定行為をする
機関のみにとどまらず、その処分の妥当性を判断する裁判所にも妥当する
ものである。
ウ アフガニスタン一般情勢について
(ア) ハザラ人は、2300年以上前から現在のアフガニスタン地域に居住する
先住民族であり、1880年代までは現在のアフガニスタン中央部に広がる
ハザラジャットという山岳地帯で完全な自治を確立していたものの、1890
年代に王位についたパシュトゥーン人の王によって決定的な変容を迫ら
れ、以後3回にわたり反乱を起こすも失敗に終わり、それ以降ハザラ人は
社会的、経済的に社会の最下層として差別を受けている。
(イ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は様々な政党を結
成し、連合、解散を繰り返して来たが、1890年代に入り、ヘズベ・ワハダッ
ト党とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。しかし、ヘズベ・ワ
ハダット党は、ナジブラ政権崩壊後に成立した暫定政権から閉め出され、
暫定政権はペシャワールを拠点とするムジャヒディンにより構成されたた
め、結局のところシーア派ハザラ人は無視され、1993(平成5)年2月に
は、西カブールのアフシャール地区において数百人のハザラ人がラバニ大
統領とその司令官マスードの命令により虐殺されるという事件が起きた。
(ウ) ヘズベ・ワハダット党(以下「イスラム統一党」ということもある。)は、199
5(平成7)年2月、マスード部隊の攻撃に対処するため、当時勢力を増大し
ていたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入ること
を許可したものの、タリバンはヘズベ・ワハダット党を援助することなく、政
府軍の攻撃に耐えられず撤退する際に、マザリ師を連行する等して同党を
裏切った。その後マザリ師は死体で発見されたことから、シーア派ハザラ人
の活発な活動と苦闘は終局し、ハザラ人は、以後タリバン政権下で迫害を
受けることとなった。
(エ) タリバンは、アフガニスタンの最大民族であるパシュトゥーン人を主体と
するイスラム原理主義の急進主義者であり、1995(平成7)年以降、急激
に勢力を増大すると、1996(平成8)年9月にはアフガニスタンの首都カブ
ールを占拠した。これに対しムジャヒディン各派は、反タリバン勢力として統
一戦線(以下「北部同盟」ということがある。)を結成し、その後タリバン政権
が崩壊するまで、両者の間の内戦が継続した。北部同盟は、タジク人を主
体とするラバニ・マスード派、ウズベク人を主体とするアフガニスタン・イスラ
ム運動、ハザラ人を主体とするイスラム統一党を中心としていた。
少数民族であるハザラ人、タジク人、ウズベク人は、タリバン政権下にお
いて迫害対象になっていた。とりわけ、ハザラ人は、多くがイスラム教シー
ア派に属することから、タリバンによる組織的な殺害を含む迫害の対象とさ
れ、1998(平成10)年8月8日にタリバンがマザリシャリフを攻略したとき
には、何千人ものハザラ人の一般市民が、計画的かつ組織的に虐殺され、
生き残ったシーア派に対しては、改宗か死かの選択が迫られた。1998(平
成10)年9月には、バーミヤンにおいて、同様にハザラ人の一般市民が虐
殺された上、同年には、ヘズベ・ワハダット党の支持者ないし党員と疑われ
た700人以上のハザラ人が投獄されたこと等が報道されている。
(オ) 2001(平成13)年12月、タリバンは、アフガニスタンにおいて統治機能
を喪失し、同月22日には、かつての北部同盟を中心とする暫定政権が発
足したと報道された。しかし、アフガニスタンにおけるハザラ人迫害はタリバ
ン誕生前からのものであり、タリバンが崩壊したとの報道のみでハザラ人に
対する迫害の危険がなくなったと判断するのは早計にすぎる。同暫定政権
において、ハザラ人勢力は、重要性の低い5つのポストを与えられたのみ
であり、北部同盟内部についても、分裂が危惧される状況にあった。
(カ) 上記(オ)のような不安定な状況においては、タリバン崩壊及び暫定政権
の発足という事実のみによりハザラ人迫害の歴史に本質的な変化が生じ
たと認めることはできない。したがって、本件各処分当時、シーア派ハザラ
人は、シーア派ハザラ人であることのみをもってアフガニスタンにおいて、
人種及び宗教を理由に迫害を受けるおそれがあったと認められる。実際
に、諸外国においても、シーア派ハザラ人であることを理由として難民該当
性が認められた例は数多く存在し、とりわけオーストラリアに関しては、12
8件の決定例を調査したところ、調査した期間内において、アフガニスタン
国籍のハザラ人のうち、難民と認定されなかった者はいなかった。また、東
京弁護士会からUNHCRへの照会に対する回答(以下「UNHCR回答」と
いう。甲14の3)においても、UNHCR本部が、2001年8月に各国事務所
に対して発したガイドラインには、「特定地域出身の少数民族(主にシーア
派)のアフガン人大多数については迫害の危険性が高いため(1998年の
タリバンによるマザリシャリフの制圧がよい例である。)、同様の背景を有す
るアフガン人男性を集団別に集団認定に近い形での認定が正当化される」
旨の記載がある。
(キ) 被告らは、国際機関等から、およそシーア派ハザラ人であれば殺害され
るという報告はされておらず、タリバン支配地域の非パシュトゥーン人につ
いて、民族浄化は経験されなかった旨を主張する。
しかしながら、被告らがその主張の根拠とする連合王国の2001(平成1
3)年4月に公表された「アフガニスタンアセスメント」(乙29)においても、1
998(平成10)年8月に、タリバンがマザリシャリフにおいて、「シーア派マ
イノリティ、ハザラ人屠殺作戦」あるいは「ハザラ人を根絶するための作戦」
と評される虐殺をしたこと、ハザラ人少数民族が、主として拘束の標的とさ
れた旨の報告がされたことが明記されている。また、デンマーク移民サービ
ス局の「アフガニスタンにおける治安及び人権状況検討のためのパキスタ
ン視察団報告」(乙142)によれば、ハザラ人は、その民族のために反タリ
バン勢力であるワーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信
仰しているためにも攻撃を受ける旨が記載されており、また、ワーダット党と
のつながりを疑われるという理由で、その疑いの客観的な根拠もなく暴力
が行われる場合もあるとの記載が認められる。さらに、前記UNHCR回答
(乙14の3)からも、およそシーア派・ハザラ人であれば殺害されるという報
告がされたと解されるのであって、民族浄化が経験されなかったとする被告
らの主張は、文献資料の恣意的な引用に基づく不当なものであるといわざ
るを得ない。被告らは、東京入管難民調査部門入国審査官の報告書(乙1
47)を引用して、実際に平成13年6月にカブールを訪れた際、特にハザラ
人であることから迫害されている様子は確認されなかった旨を主張する
が、実質的な調査期間がわずか2日間であったこと、同審査官の訪問の目
的は現地NGO視察であって、人権状況調査ではなかったこと、判断の根
拠もカブール西部地区を車で通過した際に、ハザラ人が店舗を並べていた
こと等内実に乏しいものであることからすると、このような資料に何ら証拠
価値を見いだすことはできない。
被告らは、タリバンにはハザラ人も含まれていたことを指摘するが、確固
たる情報源によるものではなく、また仮に含まれていたとしても、取るに足り
ない程度の勢力であったことが明らかである。また、被告らは、マザリシャリ
フ、バーミヤン、ヤカウラン等で行われた虐殺は、報復行為として行われた
側面が強いことを指摘するが、仮にそのような側面があったとしても、その
背景に宗教的・民族的な要因があったことは、前記に指摘した被告ら提出
の書証の記載等からも明らかであり、シーア派ハザラ人に対する民族的・
宗教的な理由に基づく迫害の事実を否定することはできない。
エ 原告の難民性について
(ア) 原告は、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であり、本件各
処分当時、タリバンによる迫害の対象となっていたから、難民条約上の難
民に該当することは、前記のとおりである。そして、原告の供述によれば、
原告及びその家族は、個別的にもタリバンによる迫害を受けたことが認め
られるから、原告は難民条約上の難民に該当する。
(イ) 原告の個別的迫害の状況は、以下のとおりである。
a 原告は、2歳のころからカブールに居住していたが、1992(平成4)年、
ムジャヒディン間の内戦が激化し、マスード派に属する者により父が連行
されそうになり、従兄弟などの親戚が内戦で死亡し、原告の家もマスード
派のロケット攻撃により破壊される等の事件が起きたことがあった。これ
を契機に、原告は、iへ転居し、さらに内戦のさらなる激化を受けて、同年
のうちにマザリシャリフに転居した。
b 原告は、1997(平成9)年5月、タリバン侵攻の情報を聞いて、イスラム
統一党の拠点の存在するマザリシャリフのm地区から、n地区に避難し
た。しかし、原告の両親は、m地区の自宅に家財を残していたことから、
同地区に戻っていた際、夜間にタリバンが侵入して原告の父が連行され
そうになる事件が起きた。また、このころタリバンにより原告のm地区の
自宅が荒らされ、家財道具がほとんどなくなってしまった。
c 原告は、1998(平成10)年8月、タリバンが再びマザリシャリフに侵攻
したことから、m地区からn地区に再び避難した。そのころ、原告は、タリ
バンから機関銃を突きつけられて連行され、同地区の空き家の地下室
で、約1週間にわたり、約20人のハザラ人の若者とともに監禁されると
いう迫害を受けた。原告は、タリバンに拘束されて約1週間の後、タリバ
ンが早朝の礼拝をしている間に、隙を見て逃走したため無事であった。
d 原告は、2001(平成13)年3月か4月ころ、就寝中に突然やって来たタ
リバンの兵士により、タリバンの駐在地に連行され、他のハザラ人の若
者とともに拘禁された。原告は、この際、タリバンの兵士から暴行を受け
たり、武器や金員を要求されたりしたが、約1週間後、村の長老を通じて
母がタリバンに400ドルを支払ったことから、釈放された。
さらに原告が釈放されてから1週間後、再びタリバン兵士が原告の自
宅に来たが、原告は、自宅の裏口から付近の親戚の家に逃げ、かくまっ
てもらったため無事であった。しかし、このとき原告の父は、タリバンに連
行され、父の連行を止めようとした妹Hは、タリバンの銃でこめかみを殴
られ、2日後に死亡した(父は現在も所在不明である。)。タリバンの来た
翌日に家に戻った原告は、この状況を知り、母から安全な国に行くように
勧められたため、アフガニスタンを出国して、難民認定申請することを決
意した。
(ウ) 以上の原告の主張する事実は、いずれも具体的かつ詳細に供述され、
アフガニスタンの客観的状況とも一致するほか、概ね一貫していると認めら
れるから、十分信用することができる。そして、これらの事実に照らせば、原
告が、本件各処分当時アフガニスタンに帰国した場合、人種及び宗教を理
由に迫害を受けるおそれがあると信じる相当な理由が認められるから、原
告は難民条約上の難民に該当するというべきである。
(エ) 以上に対し、被告らは、原告の供述には信用性が認められないと主張す
る。しかしながら、被告らの主張は以下のとおり理由がない。
a 被告らは、原告が、Cと兄弟であることについて虚偽の供述をしていたと
指摘する。しかし、原告は、Cと幼少時から離れて生活しており、必ずしも
兄弟と認識していなかった上、偽名を用いて来日歴を秘匿して難民認定
申請していたCから、原告とCとは関係がないといわれていたのであるか
ら、原告が、Cと兄弟であることを否定していたことには合理的な理由が
ある。
b 次に、被告らは、1997(平成9)年9月のタリバンによるマザリシャリフ
侵攻に原告が言及しなかったことから、原告は当時マザリシャリフに居住
していなかった可能性を指摘する。しかし、1997(平成9)年9月のマザ
リシャリフ侵攻の際、マザリシャリフ市内は混乱状態にあったのみで、タ
リバンに陥落されることはなかったものであるし、原告は同年5月のタリ
バンによる第1回侵攻の後も、タリバンが遠方から町を破壊したこと等に
言及していることが認められる。
c また、被告らは、原告が仮に1998(平成10)年8月にタリバンにより拘
束されていたとしても、原告が3度目の日本入国(同年11月)後も難民
認定申請をすることなくマザリシャリフに戻ったことからすれば、原告がタ
リバンから迫害を受ける恐怖を有していたとは認められないと主張する。
しかし、原告は、当時日本で難民認定申請をしなかった理由について、
アフガニスタンの情勢が好転する希望を持っていたことや、マザリシャリ
フに家族が居住していたこと等を述べており、これらは十分に首肯できる
理由であるといえる。
d さらに、被告らは、原告が2001(平成13)年3月13日付けでUAEの3
年間の居住資格を延長し、同月19日付けで在ドバイ総領事において査
証申請手続をしたことについて、原告の供述に変遷が見られ、これらの
事実に照らせば、原告は同年3月当時原告がUAEに滞在していたこと
がうかがわれるとして、同年3月から4月ころにeでタリバンに連行された
という原告の供述には信用性が認められないと主張する。しかし、原告
は、居住資格延長を否定したのは、UAEに退去強制されることを恐れた
ためである旨供述しており、供述の変遷には合理的な理由があるといえ
るし、原告が居住資格の延長をした時期が同年3月19日ころであったと
しても、同月か同年4月であったとする原告の主張と必ずしも矛盾するも
のではない。
e その他、被告らは、原告の今回の入国経緯に関する供述の変遷や、原
告や原告の家族が迫害を受けた時期等に関する原告の供述に見られる
曖昧な点を捉えて、原告の主張に信用性がない旨を指摘する。しかし、
原告が今回の入国経緯に関して、ブローカーに口止めされていたため虚
偽の供述をしていたと説明する点は、合理的な理由であると認めること
ができるし、その他の時期の供述に関する曖昧な点や変遷は、原告の
母国で、イスラム暦が使用されていたという事情等からやむを得ないも
のというべきである。そして、難民認定申請者は、迫害の体験又は危険
に起因して心理的作用に障害が及ぶことがあり、2001(平成13)年11
月21日に原告の精神状態を診断した桑山医師は、原告には難民特有
の心的外傷が存在することを指摘しており、そもそも本質的でない部分
の供述の食い違いは、信用性を否定する根拠にはなり得ないというべき
であるから、被告の指摘は当たらないというべきである。
f なお、被告らは、本件が組織的な不法入国事案であり、原告は、難民認
定制度に乗じて就労目的で入国した旨を主張する。しかし、難民条約上
の難民に該当すれば、原告の入国の態様が組織的背景を有する不法
入国事案であるか否かは原告の難民該当性に何の影響も与えないとい
うべきであるし、就業の動機と難民認定申請の意思は併存し得るもので
ある。また、原告と同時期に不法入国を摘発された者の中には、原告と
類似した迫害の事実を主張する者もいるが、これをもって不自然である
ということはできないし、原告の難民認定申請の際にも通訳等を務めた
Gが、実は日本におけるブローカーの手引をしており、中古車自動車販
売業に関わるアフガニスタン人の難民認定申請について積極的に主導
した可能性がある等とする部分は、単なる憶測を述べているにすぎず、
到底事実と認めることはできない。したがって、被告らの主張には、いず
れも理由がないというべきである。
第3 争点に関する判断
1 法49条1項の異議の申出に対する裁決の処分性
(1) 法49条1項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由がある
かどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければならず(法49条3
項)、主任審査官は、法務大臣から異議の申出に理由があるとした旨の通知を
受けたときは、直ちに当該容疑者を放免しなければならない一方で(同条4項)、
法務大臣から異議の申出に理由がないと裁決した旨の通知を受けたときは、速
やかに当該容疑者に対しその旨を知らせるとともに、法51条の規定による退去
強制令書を発付しなければならないこととされている(法49条5項)。
 このように、法は、法務大臣による裁決の結果につき、異議の申出に理由があ
る場合及び理由がない場合のいずれにおいても、当該容疑者に対してではなく
主任審査官に対して通知することとしている上、法務大臣が異議の申出に理由
がないと裁決した場合には、法務大臣から通知を受けた主任審査官が当該容
疑者に対してその旨を通知すべきこととする一方、法務大臣が異議の申出に理
由があると裁決した場合には、当該容疑者に対しその旨の通知をすべきことを
規定しておらず、単に主任審査官が当該容疑者を放免すべきことを定めるのみ
であって、いずれの場合も、法務大臣がその名において異議の申出をした当該
容疑者に対し直接応答することは予定していない(なお、平成13年法務省令76
号による改正後の法施行規則43条2項は、法49条5項に規定する主任審査官
による容疑者への通知は、別記61号の2様式による裁決通知書によって行うも
のとすると定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通
知する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この規則
改正をもって法務大臣が容疑者に直接応答することとなったとは考えられな
い。)。こうした法の定め方からすれば、法49条3項の裁決は、その位置づけと
しては退去強制手続を担当する行政機関内の内部的決裁行為と解するのが相
当であって、行政庁への不服申立てに対する応答行為としての行政事件訴訟法
3条3項の「裁決」には当たらないというべきである。
(2) このことは、法の改正の経緯に照らしても明らかである。すなわち、法第5章の
定める退去強制の手続は、法の題名改正前の出入国管理令(昭和26年政令3
19号)の制定の際に、そのさらに前身である不法入国者等退去強制手続令(昭
和26年政令第33号)5条ないし19条の規定する手続を受け継いだものと考え
られ、同手続令においては、入国審査官が発付した退去強制令書について地方
審査会に不服申立てをすることができ(9条)、地方審査会の判定にも不服があ
る場合には中央審査会に不服の申立てをすることができ(12条)、中央審査会
は、不服の申立てに理由があるかどうかを判定して、その結果を出入国管理庁
長官(以下「長官」という。)に報告することとされ、報告を受けた長官は、中央審
査会の判定を承認するかどうかを速やかに決定し、その結果に基づき、事件の
差戻し又は退去強制令書の発付を受けた者の即時放免若しくは退去強制を命
じなければならないものとされていた(14条)もので、この長官の承認が、法49
条3項の裁決に変わったものと考えられる。そして、長官の承認は、中央審査会
の報告を受けて行われるものとされていて、退去強制令書の発付を受けた者が
長官に対して不服を申し立てることは何ら予定されておらず、長官の承認・不承
認は、退去強制手続を担当する側の内部的決裁行為にほかならない。したがっ
て、同制度を受け継いだものと考えられる法49条3項の裁決についても、退去
強制令書の発付を受けた者の異議申出を前提とする点において異なるものの、
その者に対する直接の応答行為を予定していない以上、基本的には同様の性
格のものと考えるのが自然な解釈ということができる。
(3) また、前記の解釈は、法49条1項が、行政庁に対する不服申立てについての
一般的な法令用語である「異議の申立て」を用いずに、「異議の申出」との用語
を用いていることからも裏付けられる。すなわち、昭和37年に訴願法を廃止する
とともに行政不服審査法(昭和37年法第160号)が制定されたが、同法は、行
政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審査請求」及び「再審査請求」の3
種類(同法3条1項)に統一し、これに伴い、行政不服審査法の施行に伴う関係
法律の整理等に関する法律(昭和37年法律第161号)は、それまで各行政法
規が定めていた不服申立てのうち、行政不服審査法によることとなった行政処
分に対する不服申立ては廃止するとともに、行政処分以外の行政作用に対する
不服申立ては前記3種類以外の名称に改め、そうした名称の一つとして「異議の
申出」を用いることとした。
 他方、法の対象とする外国人の出入国についての処分は行政不服審査の対
象からは除外されている(行政不服審査法4条1項10号)とはいえ、前記のとお
り行政不服審査法の制定に際して個別に不服申立手続について規定する多数
の法令についても不服申立てに関する法令用語の統一が図られたのに、法49
条1項に関しては、従前どおり「異議の申出」との用語が用いられたまま改正が
されず、法についてはその後も数次にわたって改正がされたにもかかわらず、や
はり法49条1項の「異議の申出」との用語については改正がされなかった。そし
て、現在においては、法令用語としての「異議の申出」と「異議の申立て」は通常
区別して用いられ、「異議の申出」に対しては応答義務さえないか、又は応答義
務があっても申立人に保障されているのは形式的要件の不備を理由として不当
に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受けることだけである場合に用
いられる用語であるのに対し、「異議の申立て」は、内容的にも適法な応答を受
ける地位、すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権
を認める場合に用いられる用語として定着しているということができる。したがっ
て、数次にわたる改正を経てもなお「異議の申出」の用語が用いられている法4
9条1項の異議の申出は、これにより、法務大臣が退去強制手続に関する監督
権を発動することを促す途を拓いているものではあるが、同異議の申出自体に
対しては、被告の応答義務がないか、又は、応答義務があっても、形式的要件
の不備を理由として不当に申出を排斥されることなく何らかの実体判断を受ける
ことが保障されるだけであり、申出人に手続上の権利ないし法的地位としての申
請権ないし申立権が認められているものとは解されない(最高裁第一小法廷判
決昭和61年2月13日民集40巻1号1頁は、土地改良法96条の2第5項及び9
条1項に規定する異議の申出につき、同旨の判示をしている。)。
 よって、法49条1項の異議の申出に対してされる法49条3項の「裁決」は、不
服申立人にそうした手続的権利ないし地位があることを前提とする「審査請求、
異議申立てその他の不服申立て」に対する行政庁の裁決、決定その他の行為
には該当せず、行政事件訴訟法3条3項の裁決の取消しの訴えの対象となると
いうことはできない。
(4) さらに、法49条1項の異議の申出については、前記のとおり、申出人に対して
法の規定により手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認
められているものと解することはできないのであるから、異議の申出に理由がな
い旨の裁決がこうした手続上の権利ないし法的地位に変動を生じさせるものと
いうことはできず、同裁決が行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たるというこ
ともできない(前記(3)の最一小判参照。)。
(5) 以上によれば、法49条1項の異議の申出に対する法務大臣の裁決は内部的
決裁行為というべきものであり、行政事件訴訟法3条1項にいう公権力の行使に
は該当しないというべきものである。
2 原告の難民該当性について
原告は、本件不認定処分は、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわ
らず、これを看過してされた処分であるから無効あるいは取り消されるべきであり、
本件退令発付処分は、送還先をアフガニスタンとしたことが、難民を迫害のおそれ
のある国に送還することを禁じた難民条約33条1項、法53条3項のノン・ルフール
マン原則に違反し取り消されるべきである旨を主張する。そこで原告の難民該当性
について検討する。
(1) 歴史的沿革
本件各証拠(甲1の20ないし30、乙38の1、38の2、39、40、49、53、13
7、142ないし145)によれば、アフガニスタンの歴史的沿革について、以下の
事実が認められる。
ア アフガニスタンは、イラン系のパシュトゥーン人やタジク人、モンゴロイド系の
ウズベク人やハザラ人等の民族が混在する多民族国家である。このうち、パ
シュトゥーン人が最大の民族グループで、人口の約35パーセントを占め、次
に多いのがタジク人で約25パーセント、ハザラ人は約19パーセント、ウズベ
ク人は約6パーセントを占める。
イ アフガニスタンには、1979(昭和54)年12月、ソ連軍が侵攻し、ソ連の支援
の下で、共産主義のカルマル政権が成立したが、イスラム原理主義を中心と
するムジャヒディン(イスラム聖戦士達)がソ連及びカルマル政権に対する抵
抗運動を開始し、以後、内戦状態が続いた。
ウ 政権は、1986(昭和61)年5月にカルマルからナジブラへと引き継がれ、1
989(平成元)年2月にはジュネーブ合意に基づき、ソ連軍が撤退し、1992
(平成4)年4月には、ナジブラ政権は崩壊してムジャヒディン各派による連立
政権が誕生したが、各派間での主導権争い等により、国内の内戦は激化し
た。
エ 1994(平成6)年末には、イスラム教スンニ派のパシュトゥーン人を中心とし
たタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、イスラム原理主義政
権の樹立を目指して勢力を拡大し、1996(平成8)年末には、タリバンが首都
カブールを制圧して暫定政権の樹立を宣言した。これ以降、タリバンに反対す
るムジャヒディン各派、すなわち、タジク人中心のイスラム協会(ラバニ派)、パ
シュトゥーン人中心のイスラム党(ハクマチヤル派)、イスラム教シーア派のハ
ザラ人中心のヘズベ・ワハダット党(イスラム統一党、ハリリ派等)、ウズベク
人中心のイスラム国民運動党(ドストム派)の四大勢力の統一戦線(通称北部
同盟)とタリバンとの内戦が続いた。統一戦線は、タリバンによりカブールを追
われた政府であるアフガニスタン・イスラム国(旧政府)を支持しており、旧政
府の最高指導者であるグルバディン・ラバニが形式上の最高指導者とされて
いた。
オ タリバンは、1998(平成10)年夏には、マザリシャリフ及びイスラム統一党
の拠点であるバーミヤンを陥落させ、2001(平成13)年10月ころには、国土
の9割を掌握し、アフガニスタンを実質的に支配していた。
カ アメリカ合衆国におけるいわゆる同時多発テロを契機とした米英軍の空爆と
統一戦線による攻撃により、2001(平成13)年12月には、タリバンは統治
機能を喪失した。そして、同月22日には、アフガニスタン暫定政権が発足し、
日本は、同政権を承認した。暫定政権は、パシュトゥーン人のハミド・カルザイ
元外務次官を首相に相当する議長とする合計30人の閣僚で構成され、うち1
1人がパシュトゥーン人、8人がタジク人、5人がハザラ人、3人がウズベク人、
その他が3人であった。
キ 暫定政権成立以後のアフガニスタンについては、パキスタン等の隣国に逃
れていた避難民の大量帰国を報じる新聞報道もある一方で、治安の悪化を懸
念する報道もされており、さらには、暫定政権の成立に向けた交渉過程で、ラ
バニ元大統領派のタジク人が政権の要職を占めつつあったことに反発して、
ウズベク人の指導者であるドスタム将軍やクルド人の指導者であるイスマイ
ル・カーン司令官が暫定行政機構への参加を一時見送ろうとしたことや、暫定
行政機構の中心となっているパシュトゥーン人については、以前にあった部族
有力者らの腐敗と権力闘争が再燃するおそれがあること等から、暫定行政機
構には全土統一を達成できるだけの軍事力もなく、カリスマもイデオロギーも
ないとして、タリバンによる政権掌握前の内戦状態に後戻りすることを危惧す
る報道もされていた。
(2) アフガニスタンにおけるハザラ人の状況
ア 本件各証拠(甲1の2、1の3、1の5ないし1の8、1の18、1の19、2、乙2
9、30、47の1ないし3、48、49、53、137、142)によれば、アフガニスタン
におけるハザラ人の状況については、以下の事実を認めることができる。
(ア) ハザラ人は、アフガニスタンに存在する最も古い移住民族の1つであり、
今から2300年以上前に今日ハザラジャットとして知られる地域に移住し、
1880年代までは、完全に自治を確立し、同地域を支配していた。
(イ) しかしながら、アブドゥル・ラーマンがアフガニスタンの王位に就いた189
0(明治23)年から1901(同34)年にかけて、ハザラ人は、宗教上の理由
及び民族的理由により、同王による迫害の対象とされ、3度の反乱を起こし
たが失敗に終わり、以後1970年代まで社会的経済的差別の対象とされ、
厳しい政治的抑圧を受けた。
(ウ) 1980年代から1990年代前半にかけて、ハザラ人は、政党を結成し、
連合や解散を繰り返してきたが、1990年代に入ると、ヘズベ・ワハダット党
とその指導者であるマザリ師を中心として結束した。ハザラ人は、1992
(平成4)年までにカブールのほとんどの地域に住むようになり、西カブール
は、シーア派ハザラ人の居住地域として国内最大のものとなっていた。しか
しながら、ナジブラ政権崩壊後、ムジャヒディンにより構成された暫定政権
から、ヘズベ・ワハダット党は完全に閉め出され、シーア派ハザラ人は無視
された。1993(平成5)年2月11日には、西カブールのアフシャール地区
で、数百人のハザラ人が、ラバニ大統領とその主任司令官マスードの命令
により虐殺されるという事件が起きた。
(エ) その後、ヘズベ・ワハダット党は、1995(平成7)年2月、当時勢力を増
大していたタリバンと停戦協定を結び、タリバンが西カブールの前線に入る
ことを許可したものの、タリバンは同党を裏切り、同党の指導者であるマザ
リ師等を連行した。その後、マザリ師は死体で発見されるに至った。
(オ) タリバンは、1996(平成8)年にカブールを制圧し、1998(平成10)年
8月8日、マザリシャリフを奪取したが、その際、わずか3日間に数千人(最
大8000人ともいわれる。)のハザラ人の民間人が殺害された。また、タリ
バンは、同年9月には、当時ヘズベ・ワハダット党の根拠地であり、ハザラ
人のホームランドとして同党に支配されていたバーミヤンを制圧した。これ
に対し、北部同盟は、1999(平成11)年4月21日、バーミヤンを奪還した
が、翌5月9日には、同市は再びタリバン勢力下に戻った。タリバンによる
バーミヤン地方のヤカオラン奪取直後には、多くのハザラ人の一般市民が
殺害された。また、タリバンは、2000(平成12)年12月、同地域において
数百人に上る一般市民を即決処刑した。
イ 被告らは、アフガニスタンにおけるハザラ人は、タリバン台頭前においては、
複雑な対立構造の下に抗争を繰り返しており、常に一方的な被害者であった
と認めることはできないと主張し、また、タリバン台頭後については、ハザラ人
に対する人権侵害の主要な要因は、宗教的又は民族的特性によるものでは
なく、むしろタリバンに対立する者であったか、そのように解されたことによるも
のであるから、本件各処分当時、シーア派ハザラ人が、その民族又は宗教の
みを根拠に迫害を受けた事実は認められない旨を主張する。
ウ そこで検討するに、本件各証拠中には、被告らの主張に沿うものとして、以
下の記載があることが認められる。
(ア) 民族に基づく深刻な虐待行為は、反タリバン派も犯してきた。例えば、1
999(平成11)年4月21日から5月9日の3週間に、バーミヤンを制圧しよ
うとした反タリバン勢力は、新しく移ってきたパシュトゥーンの人々や、タリバ
ンの協力者の疑いのある人々を激しく殴ったり、何人もの民間人を恣意的
に拘束したり、それら家族にひどい仕打ちをしたといわれる(1999年1月
付けUNHCR資料・甲1の5、4頁)。
(イ) タリバンによる処刑は、2000(平成12)年12月、反タリバン勢力イスラ
ム統一党との激しい戦闘の末、ヤカオランを奪還した直後に行われた。今
回の処刑は、この地域を征服する際にタリバンが被った被害に対する報復
だと見られている。反タリバンと見られる13歳から70歳までのすべての男
性を殺害するようタリバン司令官が命じたと伝えられている。
イスラム統一党も、この地域を支配していたときにタリバンに協力したと
見なされた人々を虐待してきたと報告されている(アムネスティ発表国際ニ
ュース2001年1月23日・甲1の7、1頁)。
(ウ) 1997(平成9)年5月末、およそ3000人のタリバン兵士の捕虜が、マ
ザリシャリフ周辺で、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下の軍によって
略式処刑された。また、同軍は、同年1月5日、空からカブールの住宅街に
クラスター爆弾を投下した。通常爆弾も使われたこの無差別空襲により、市
民の間に死傷者が数名出た(ヒューマンライトウォッチレポート(2001年1
0月5日付け)甲1の19)。
(エ) 発生した侵害の主要な要因は、宗教への加入又は民族的特性によると
は限らず、むしろ、タリバンに対し、実際に反対者であったか又はそのよう
に解されたことによる。
1998(平成10)年8月に、タリバンはマザリシャリフを占拠した。約500
0人(たいていはハザラ民族の民間人)が占拠後にタリバンにより虐殺され
たとの報告があった。タリバンは、1997(平成9)年に、ハザラ人及び他の
戦闘員が彼らに敵対し、彼らの側の約2000人を虐殺したことに対する報
復をすることに集中していたとされる(連合王国における「国別評価 アフガ
ニスタン アセスメント2001年4月」(以下「連合王国アセスメント」とい
う。)・乙29、訳文1・2頁)。
(オ) 宗教的少数派の状況は、地元のタリバン指導者がその権限をどう行使
するかによる。一部地域では宗教的少数派も平和に暮らし、自分たちの宗
教を奉じることができるが、他の地域では彼らへの嫌がらせや迫害の事件
が起こっている。
国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等、いくつかの情報筋は、タリ
バンの少数民族に対する対応は、反対勢力との接触の疑いがあるためで、
主に政治的な動機によると強調した。これはつまり、戦闘地域及び衝突の
恐れのある地域の少数民族が特に危険であるということである。
ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫害
されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反対勢
力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われている(デ
ンマーク移民サービス局によるアフガニスタンにおける治安及び人権状況
検討のためのパキスタン視察団報告(2001年1月18日から29日、以下
「デンマーク報告書」という。)・乙142)。
(カ) 上記(ア)ないし(オ)の各記載からは、ハザラ人を中心とするイスラム統
一党等は、タリバンに協力したとみなされた者に暴行等の虐待を加えたこ
とがあり、タリバンにより1998(平成10)年8月に行われたマザリシャリフ
の大虐殺や、1999(平成11)年に行われたバーミヤンにおける虐殺は、
これらの反タリバン勢力による虐殺行為に対する報復として、反タリバン
勢力に対する協力者、あるいは反タリバンとみなされた者を対象としてさ
れた側面のあることが認められ、タリバンは、ハザラ人を含む少数民族に
対し、主に戦闘地域において反対勢力との接触の疑いのある場合に殺害
や連行等の迫害を行ったことが認められる。
エ 他方で、被告がその主張の根拠として引用する連合王国アセスメントやデン
マーク報告書には、以下のような記載があることが認められる。
(ア) まず、連合王国アセスメントには、以下の記載がある。
継続した紛争等による人権侵害の状況下では、アフガニスタンで、誰が
危険で、誰がそうでないかについて明確に区別する法則はない。しかしな
がら、人権侵害の主要な標的の中には、以下のような者が含まれていると
いえる。タリバンと関係しない非パシュトゥーン民族のメンバー、宗教的マイ
ナリティーグループ等(訳文1頁)。
(イ) また、デンマーク報告書にも、以下のような記載がある。
a 「宗教的及び民族的少数者に対する状況について」と題する箇所
中央の国連情報筋、アフガニスタン協働センター(CCA)、多くのNGO
等いくつかの情報筋は、全体としてアフガニスタン少数民族の政治的迫
害や追放は一般的ではなかったが、それは彼らがどこに住んでいるかに
よると述べた。しかし、戦闘地域又は衝突の恐れのある地域の少数民族
は極めて危険である。この情報筋は、衝突のある地域数は、1997(平
成9)年以来増加しており、ハザラジャットとアフガニスタン西部での政治
的不安定を伴っていると述べた。
ある国連幹部情報筋は、戦闘が行われている地域、特に北部及びハ
ザラジャットの少数民族の状況は、現在非常に悪いため、彼らを非常に
特別な危険状態にあると見なされなければならないと報告した。ハザラ
人は特に迫害を受けやすいグループで、1998(平成10)年以来そうで
ある。
国連幹部情報筋や多くの国際・国内NGO等は、タリバンと非パシュト
ゥーン人少数民族の間で民族分化が行われていると説明した。ある情報
筋は、ハザラ人の「二重の少数派」であるために苦しんでいると付け加え
た。ハザラ人は、その民族のためにハザラ人をベースとする反対勢力ワ
ーダット党への加盟を疑われ、イスラム教シーア派を信仰しているために
も攻撃を受けるからである。
全ての情報筋は、少数民族への攻撃は組織的ではなく、恣意的なも
のだと述べた。CCAは、1997(平成9)年にカンダハルの刑務所を、ま
た1998(平成10)年末にバグラン州ナハリン地区の刑務所を訪れるこ
とができたが、タリバンが「政治犯」とする多くの拘留者が、実際には少
数グループの普通の労働者または農民で、街で捕らえられたものだと報
告した。
b 「紛争の宗教的様相の拡大」と題する箇所
これまで述べたように、いくつかの情報筋は、タリバンの少数民族へ
の対応は、反対勢力とのつながりの疑いによる主に政治的動機によるも
のだと確信していた。
しかし、国連幹部情報筋や、CCA、アフガニスタン救済団体調整局(A
CBAR)等の多くの情報筋は、最近数年、宗教的要素が戦争に加わって
きたと述べた。これは、タリバンが多くの外国人イスラム教スンニ派原理
主義者を自軍に組み込み、彼らが非スンニ派を殺害することを自分たち
の宗教的使命と見なしているからである。同様に最近、戦闘の実施に関
して、強い反シーア派的声明が発されている。
c 「民族的少数者に対する状況」のうちハザラ人に関する箇所
ある中央の国連情報筋は、ハザラ人はその民族のために組織的に迫
害されているわけではないが、特に戦闘年齢の男性は、戦闘地域や反
対勢力が形作られている地域では、反対勢力とのつながりを疑われてい
ると報告した。タリバンが脅威を感じると、彼らはハザラ人に恣意的な逮
捕等を押しつけて反応し、少数ながら処刑も行われた。この情報筋は、
ハザラ人を基盤とするワーダット党とのつながりを疑われるという理由
で、その疑いの客観的根拠もなく暴力が行われる場合もあると述べた。
CCAは、タリバンは脅威を感じると、カブールとマザリシャリフでいつも
ハザラ人とウズベク人を逮捕すると報告した(訳文19頁)。
d 「宗教的少数者に対する状況」と題する箇所
ある中央の国連情報筋は、反対勢力とのつながりを疑われることが少
数民族への迫害の主な理由だが、これは宗教的な迫害の点でも連鎖反
応を招くと指摘した。例えば、シーア派教徒は、反対勢力に属していると
疑われることがあるという(訳文22頁)。
(ウ) 以上の被告らがその主張の根拠とする資料中、被告らが引用していな
い部分の記載からは、タリバンによるハザラ人に対する暴行や殺害等の迫
害は、必ずしも組織的に行われたものではないとしても、現実には、ハザラ
人がその民族及び宗教的信仰のゆえに、タリバンから反対勢力に属するこ
とを疑われ、その疑いの客観的証拠がなくとも暴行や殺害等を受けること
が相当の頻度であったことや、少なくとも一部のタリバン勢力が、非スンニ
派を殺害することを宗教的使命とみなしていたことが認められる。
オ さらに、本件各証拠には、以下のような記載もある。
(ア) アムネスティ・インターナショナルによれば、多数の非戦闘員が、タリバン
の警備兵によって、故意にかつ恣意的に殺害されている。1998(平成10)
年9月、アムネスティ・インターナショナルは、同年8月8日のマザリシャリフ
の奪取において、タリバンの軍隊が街中及び市場で一般市民が逃げようと
すると無差別に発砲したことを報告した。タリバンは、その後直ちに各家の
捜索を行い、タジク人、ウズベク人及びハザラ人の男性と10代の少年を拘
禁し、街中又は家で度々ハザラ人を射殺した。
上記マザリシャリフの奪取について、アフガニスタンにおける国連人権特
別報告官は、タリバンが、主にシーア派ハザラ人を標的とした殺人的狂乱
の中で、広範かつ無差別な発砲を行ったと報告している。(中略)タリバン
は、路上で動く者を見ると、自分の家の窓やドアから覗いていただけかもし
れない人も含め、誰であっても発砲した。
住民の中で攻撃と迫害を受ける特別の可能性があった、又は可能性が
ある集団としては、彼らに敵対的な軍事的指導者に支配された地域にいる
特定の民族的、宗教的又は政治的集団が含まれ、政治的又は民族的に対
立した集団に属している、あるいは属していると疑われた武装していない一
般市民は、人権侵害の標的となっている旨の記載がある(UNHCR資料・
甲1の2、5頁、同11頁)。
(イ) 何千人ものハザラ人系住民が、1998(平成10)年にタリバンにより殺
害されたと推定されている。また、民族的な理由による市民の強制追放も
行われた形跡がある。1999(平成11)年中、新たにタリバンの支配下に
入った地域から、ハザラ系やタジク系の住民が強制的に追放されたとする
複数の報告がされている。そして、ハザラ系住民は、パシュトゥーン系であ
るタリバンによる民族的出自を理由とした攻撃の対象となっていると伝えら
れている(アメリカ合衆国国防省による2000年2月25日公表の1999年
国別人権状況報告書・甲1の3、20頁、同31頁)。
(ウ) タリバンが1998(平成10)年8月にマザリシャリフを軍事的に制圧して
から数日間、数千人のハザラの民間人がタリバン警備兵に意図的かつ組
織的に殺害されたという報告が相次いだ(アムネスティ・インターナショナル
の「アフガニスタン:マイノリティの人権」と題する資料・甲1の5)。
(エ) 1999(平成11)年5月にタリバンが前回ヤカオランを奪取した際に多く
のハザラ民族の一般市民が、侵入してきたタリバン警備隊の組織的殺害
の標的とされたと報告されている(アムネスティ発表国際ニュース(2001年
1月23日)・甲1の7)。
(オ) タリバンは、1998(平成10)年8月のマザリシャリフ制圧及び同年9月
のバーミヤン制圧に際し、ハザラ人を虐殺したと伝えられているが、1つの
動機は、1997(平成9)年5月にマザリシャリフを制圧しようとした際にタリ
バン側に死傷者が出たことに対する報復であったが、もう1つの動機は、シ
ーア派ムスリムのハザラ人に対する宗派的憎悪であったと思われる。
デンマーク移民局は、1997(平成9)年11月にアフガニスタンを訪問
し、タリバン支配領土でも問題なくハザラ人が生きていけると報道担当者は
述べているが、幅広い国連の情報筋やアフガニスタン内外のNGOはすべ
てハザラ人が迫害を受けやすい人々であるとの見解を示したと報告した。
(中略)情報源によれば、ハザラ人が、イスラム統一党に属しているという
容疑、軍への徴発、捕虜とされているタリバン側の者との交換用として収容
されているとのことである。1日に20人から50人のハザラ人がカブールで
拘束されているとの報告がある(オーストラリア難民再審査審判書の決定・
甲1の12、訳文6頁)。
カ 以上の各証拠中の記載を総合的に考慮すると、被告らの主張するように、タ
リバンによって行われたハザラ人の虐殺行為には、反タリバン勢力の攻撃に
対する報復という側面があったこと自体は否定できないし、タリバンも公式に
は組織的かつ日常的にハザラ人を迫害することを肯定していたものでもない
が、実際には、少なくともアフガニスタンの一定の地域(例えば、戦闘地域であ
ったマザリシャリフやバーミヤンのほか、元々ハザラ人が多数居住している地
域等)において、その地に臨んだタリバン兵から、ハザラ人が、ハザラ人であ
ること、あるいはシーア派であることのために、客観的な理由なく反タリバン勢
力に属するものと見なされて積極的暴行を受けたり、あるいは宗教的憎悪の
対象とされて、迫害を受けることが頻繁にあったと認めることができる。そうで
あるとすると、同じくシーア派に属するハザラ人であっても、比較的平和な地
域に居住していて自らはもとより周辺に居住する者もタリバンによる暴行等の
被害に遭うことがなかった者については、その者がシーア派でありハザラ人で
あることのみによって難民に該当するとは評価できず、被告らの主張もこの限
度では正当であるが、原告のように元々ハザラ人が多数居住する地域に住
む者が、自ら又は周辺に住む者についてタリバンから客観的な理由もなく暴
行や拘禁などの被害を受けた経験を有し、それが繰り返されるおそれがあっ
た場合には、客観的にみても、その者がシーア派ハザラ人であることを理由と
する迫害を受けるおそれがあると認めることができる。
なお、被告らは、タリバンによるハザラ人に対する暴行等がより限定的なも
のにすぎなかった旨主張し、2001(平成13)年6月に入国審査官がカブール
市内においてハザラ人が何ら迫害を受けずに生活している状況を現認した旨
の報告書(乙147)を証拠として提出している。しかし、上記認定は、タリバン
が公式に組織的かつ日常的にハザラ人に対して迫害を行うことを肯定してい
るというものではなく、むしろ、タリバンも公式にはそのようなことは否定してい
るものの、タリバンの支配が十分に浸透していない地域においては、現地に
臨んだタリバン兵が恣意的に上記のような行動に出ることが一般化していると
いうものであるから、カブールの中心街に近く、タリバンが確実に制圧している
地域における白昼の状況に関する上記報告書の記載は、上記の認定を左右
するものではない(なお、上記報告書中には、カブール西部の状況を報告した
ものとの記載があるが、カブールの市街地が同報告書添付の地図よりさらに
西側に広がっていることは、当裁判所に顕著な事実であり、同地図には原告
の供述中に現れるカブール西部の地名が全く現れていないことからすると、
原告が居住していた地域付近についても調査が行われたか否か明らかでな
い。)。
キ そして、本件退令発付処分は、タリバン政権崩壊後、アフガニスタン暫定政
権が成立したわずか5日後にされているところ、前記のとおり暫定政権の基盤
自体について、非常に脆弱なものであるとの評価がされ、タリバン政権前の内
戦状態に後戻りすることも危惧される旨の報道がされていたこと、前記の各資
料中の記載からは、ハザラ人に対する差別意識は、タリバン政権により初め
て生じたものとは考えられず、民族的・宗教的な背景を持つものと認められる
ことからすれば、タリバン政権が崩壊した事実のみをもって、直ちにハザラ人
に対する迫害の状況に変化が生じたものとは到底認めることができないし、
本件全証拠からも、このような事実は認められない。したがって、本件退令発
付処分当時においても、タリバン政権下においてハザラ人の置かれた状況に
特段の変化は認められないものというべきである。
(3) 原告の供述の内容及びその信ぴょう性
ア 原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の陳述書(甲4)において、シーア
派ハザラ人であること等を理由として、個別的に迫害を受けた経験がある旨
を供述しており、その要旨は、以下のとおりである。
(ア) 原告は、アフガニスタン国籍の父I、母Jの子供であり、6人兄弟の長男と
して、1974(昭和49)年1月20日にアフガニスタンのc、d、e、fで出生し
た。後述のように、原告の父はタリバンに連行され行方不明となり、妹H
は、父が連行される際タリバンからの暴行により死亡し、その他の家族につ
いては、原告が今回入国のためにアフガニスタンを出国し、日本に入国し
て以来、連絡が取れておらず行方不明である。
原告は、イスラム教シーア派に属するハザラ人であり、ダリ語を母国語と
している。
(イ) 原告は、2歳のころからカブールに居住し、1986(昭和61)年ころまで
ハヤティ小学校に通った後、シシャイスリ中学校、同高校に通った。1992
(平成4)年ころ、原告は、カブールのg、hに居住していたところ、ムジャヒデ
ィン間の内戦が激化し、ラバニ・マスード派に属する者により父が連行され
そうになり、ヘズベ・ワハダットやヘズベ・ハラカット等のグループにより助け
られたものの、Kという名の従兄弟や、L、M、N、O等の親戚が5、6人内戦
で死亡し、原告の家も、コイトリーセンターというテレビアンテナのある山の
上から行われたマスード派によるロケット攻撃により破壊される等の事件が
起きたことから、原告ら家族は、iへ転居した。
しかし、iもロケット弾による攻撃を受けるなどし、内戦がさらに激化したた
め、原告らは、同年のうちにマザリシャリフに転居を余儀なくされた。
(ウ) 原告は、マザリシャリフへ転居後、バフタル高校に約1年間通学し、同高
校を卒業した後、父の自動車修理工の仕事を手伝うなどして過ごしていた
が、その後、親戚であるPから日本での自動車部品の購入を依頼され、19
94(平成6)年8月1日、バルフ州で旅券を取得した。それ以後、原告は、今
回入国に至るまで6度にわたり中古車部品を輸出する目的で日本に入国し
ている。原告の1度目の日本への入国は、1995(平成7)年1月22日であ
り、同出国は同年3月24日であった。このとき、原告は、日本からパキスタ
ンを経由してマザリシャリフに帰国した。
原告の2度目の日本への入国は、1995(平成7)年2月19日であり、そ
の際の出国は、翌1996(平成8)年2月19日であった。このときも、原告
は、パキスタンを経由してマザリシャリフに戻っている。
Pは、その後マザリシャリフからUAEに移転した。
原告は、1997(平成9)年1月28日、旅券の有効期間を延長した。
(エ) 原告は、1997(平成9)年5月、タリバン侵攻の情報を聞いて、イスラム
統一党の拠点の存在するマザリシャリフのm地区から、n地区に避難した。
タリバンは、4、5人で小型トラック等に乗車し、ロケット弾や機関銃で武装し
ていた。原告の両親は、m地区の自宅に家財を残していたことから、同地
区に戻っていた際、夜間にタリバンが侵入して原告の父が連行されそうに
なる事件が起きたほか、タリバンがm地区に侵攻した際、同地区にあった
原告の自宅が荒らされ、家財道具がほとんどなくなる等の事件が起きた。
もっとも、マザリシャリフのn地区の住民がタリバンに抵抗を開始したことか
ら、タリバンはマザリシャリフを制圧することができず、その後同所から撤退
した。
この間、原告は、中古車部品の輸出のため、1997(平成9)年にUAE
の15日ないし3か月の在留資格を取得し、また1998(平成10)年4月20
日には同所の3年間の居住資格を取得し、パキスタンを経由してUAEに数
度出国し、マザリシャリフに中古車部品を輸出していたが、それ以外は、マ
ザリシャリフで父の仕事の手伝い等をして家族と共に生活していた。
(オ) 原告は、1998(平成10)年8月、タリバンが再びマザリシャリフに侵攻し
たことから、イスラム統一党の幹部であり、親戚でもあるQの助言に従い、
一度戻っていたm地区からn地区に再び避難した。原告が家族と避難した
直後、タリバンがマザリシャリフに侵入したが、タリバンは原告の親戚や友
人を含む多くのハザラ人を殺害し、あるいは連行した。原告の親戚であるL
も、タリバンに連行された上、銃器で殺害された。
原告は、n地区に避難したものの、タリバン侵入の約1週間後、タリバン
が家の中を調べるという名目で原告の家に来た。タリバンは、頭にタオルを
巻き、長いひげを持ち、肩にロケットやカラシニコフ銃を持ち、5、6人であっ
た。その際、タリバンは、原告に機関銃を突きつける等した上、原告をハイ
ラックスという車に乗せて連行した。その結果、原告は、同地区の空き家の
地下室で、約1週間にわたり、約20人の若者とともに監禁されることになっ
た。地下室の部屋は、敷物も何もない土の床であり、日光が当たらないた
め常に湿ったままであった。また、一緒に監禁された約20人の者は、大体
ハザラ人であったが、タリバンから虐待を受けることを恐れたため、話をす
ることはできなかった。地下室の中では、部屋が狭かったため横たわること
はできず常に座ったままであり、トイレは一日一度、武器を持ったタリバン
に連れられ部屋の外に出て行い、風呂やシャワーはなく着替えることもでき
なかったため、部屋の中はひどい臭いがしていた。また、食事は1日1回腐
ったパンを与えられるだけであった。原告は、監禁されていた間、タリバン
から侮辱を受けたり、銃尾や鉄製の鞭で暴行を受けたことがあった。原告
は、監禁されてから約1週間後、タリバンが早朝の礼拝をしている間に、地
下室に空気と光を入れるために少し開けられたドアからハザラ人の若者2
人と部屋を出て、階段を駆け上り、2メートルくらいの高さの塀を上って逃走
することができた。このときタリバンに監禁された理由について、原告は、自
分がシーア派ハザラ人であることが原因であったと考えている。
(カ) 原告は、友人の家等に身を隠すように生活した後、中古車部品の輸出を
するために、再度日本に入国することにした。原告は、安全に移動するた
め、パシュトゥーン人のブローカーを使ってパキスタンのペシャワールまで
移動し、UAEに出国して、1998(平成10)年8月27日、在ドバイ総領事か
ら有効期限を同年11月27日までとする渡航証明書の交付を受けた。原告
は、再びパキスタンに戻りマザリシャリフの親戚の消息を調査した後、同月
25日に日本に入国し、1999(平成11)年2月23日に日本を出国し、ドバ
イ、ペシャワールを経由してマザリシャリフに戻った(3度目の出入国)。帰
国の際にも、原告はブローカーを利用した。また、原告は、友人の家に行く
等しながら自宅でタリバンから身を隠すように生活した後、同年6月2日に
日本に入国し、同年8月29日に日本を出国し、UAE、パキスタンを経由し
てマザリシャリフに戻った(4度目の出入国)。原告は、UAEやパキスタンに
は住む場所も仕事もなく、マザリシャリフには家族が一緒に住んでいたた
め、危険はあったものの3度目及び4度目の帰国の際、同所に戻ってい
た。
しかし、その後、原告は、ハザラ人の連行が相次ぐ等したことから、同年
後半になると、家族とともにマザリシャリフを出て、父の故郷であり原告の
出生地でもある山間の村eに移転した。
(キ) 原告は、eで、父の農作業の手伝い等をしていたが、中古車部品の買い
付けのため、2000(平成12)年1月24日に日本に入国し、同年4月21日
に日本を出国し(5度目の出入国)、さらに、同様の目的から同年8月10日
に日本に入国し、同年11月7日に出国した(6度目の出入国)。5度目及び
6度目の帰国の際には、日本からドバイ、パキスタンのペシャワールを経由
して、eに戻った。ペシャワールからeに戻る際には、ハザラ人であるという
理由で車から降ろされ捕らえられることがあったため、原告は、安全のため
にいつもブローカーを利用していた。
原告は、2001(平成13)年3月13日付けでUAEの3年間の居住資格
を延長した後、パキスタンを経由してeに帰国した。
(ク) 原告は、2001(平成13)年3月か4月ころ、jのk、lという場所に居住して
いたところ、就寝中に突然タリバンの兵士が家に来た。原告は、母に「起き
なさい。タリバンが来ている」と言われて目をさますと、タリバンが懐中電灯
で原告の顔を照らしていた。原告は、そのまま5人のタリバン兵士に腕を捕
まれてタリバンの本隊のあるローレンジュに車で連行され、他のハザラ人
の若者4、5人とともに監禁された。ローレンジュに監禁されたハザラ人男
性は、カンダハルに連行されるといわれていた。原告は、タリバンの兵士か
ら手に持っていた銃で叩かれたり、蹴飛ばされる等の暴行を受け、食事は
一日大体1回水やかびの生えたパン等を与えられたのみであった。監禁さ
れた場所は、元は学校であった平屋建ての建物の中で、窓からタリバンの
兵士が武器やロケットを持って歩いている様子や戦車が1台見えたが、外
を見ていることが分かると虐待を受けるのではないかと恐れていたため、原
告はたまに外を見るだけであった。部屋の床は土であり、座ったり横になる
ことができた。しかも、トイレは一日1回若しくは2日おきであり、山の方へ連
れて行かれて行ったほか、風呂やシャワーを利用することはできず、着替
えをすることもできなかった。原告は、度々タリバンから「武器を隠している
のであれば武器を出せ。」「釈放されたいのであれば金を出せ。」等と言わ
れたが、多くのハザラ人の若者がカンダハルに連行され、あるいは殺害さ
れているという話を聞いていたので、自分もカンダハルに連行されるかもし
れないと考えておびえていた。しかし、原告は、約1週間後、母が村の長老
を通じてタリバンに400ドルを支払ったことから釈放された。原告は、このと
き自分が監禁された理由は分からないが、自分がハザラ人であることと、
親戚であるR、Qがヘズベ・ワハダット党に入党していたことであると考えて
いる。なお、Rは、カブールのデマザンというところで、ヘズベ・ワハダット党
の司令官をしていて有名であり、ナジブラ政権崩壊後に、イスラム統一党が
マスードらと戦闘をした際、数十人の兵士を率いてタジク人らの勢力と戦
い、多数のタジク人らを殺害していた。また、同人は、西カブールから脱出
した後も、マザリシャリフ等で数百人の兵士を率いて戦闘を行い、1997
(平成9)年ないし1998(平成10)年、ウズベキスタンとの国境にあるハイ
ラタンでドストム将軍の勢力との戦闘で死亡した。他方、Qは、現在デンマ
ークで家族とともに難民認定を受けて生活している。
(ケ) さらに原告が釈放されてから1週間後、再びタリバン兵士が原告の自宅
に来た。原告の居住していた地域は、夜は誰も車を使わず静かであり、約
1キロメートルくらいの距離まで車が接近すると、タリバンが車で来たことが
分かるため、原告は、車の音を聞いて裏口から外へ出て、山の方にある親
戚の家に逃げ込み、かくまってもらった。このとき、原告の父は、タリバンに
連行され、父の連行を泣いたり大声を出して止めようとした妹Hは、タリバン
の銃口や銃尾でこめかみを殴られ、右側から出血し、ハンカチのようなもの
で頭を縛って止血したものの、2日後に大量の出血により死亡した。また、
もう1人の妹であるTも、銃で叩かれて足にけがをした。このとき、原告の旅
券の入った鞄も持ち去られてしまった。タリバンの来た翌日に家に戻った原
告は、この状況を母から聞いて知り、母から安全な国に行くように勧められ
たため、アフガニスタンを出国して、難民認定申請をすることを決意した。
原告は、父がタリバンに連行されたことを聞いて、ローレンジュに連行さ
れたのだと思い、長老を通じてタリバンから事情を聞いてもらったところ、父
は、ローレンジュにはいないとのことであり、またどこに連行されたか分から
ないが、おそらくカンダハルに連行されたのだろうと聞いた。カンダハルに
連行された場合には、連れ戻すことはほぼ不可能であったため、原告は、
父が自分の身代わりとして連行されたのだと思い、悲しくて仕方がなかっ
た。
(コ) 原告は、父が所有していた農地を売却する等して費用を捻出し、アフガ
ニスタンを出国するための手続を母の従兄弟であるUというブローカーに依
頼した。上記事件から約2週間後の2001(平成13)年4月ころ、原告はブ
ローカーとともにjからガズニー、カブール、ジャララバードに出て、ジャララ
バードからアフガニスタンを出国するため約3日かけて陸路でペシャワール
に向かい、同所で他のブローカーを探して約20日間滞在した後、飛行機で
カラチへ向かい、さらにUAEのドバイ、香港を通ってソウルへ行き、同所に
約40日間滞在した後、釜山へ移動して11日間滞在し、釜山港から船籍船
名不詳の貨物船で約7日間かけて移動し、同年7月13日ないし14日ころ、
横浜港に到着し、日本に入国した。
原告は、かつてパキスタンで警察に捕まったり、警察官から金銭を支払
うよう要求された上、払わない場合には車に乗せられて連行されたり、逮捕
すると脅されたりしたことが複数回あったため、パキスタンに留まることは考
えられなかった。
原告は、同年8月27日、東京入管において、難民認定申請をした。
イ 原告の供述の信ぴょう性
(ア) 客観的事実との符合の有無
a 原告の身上関係に関する原告の供述以外の証拠としては、原告の旅券
の写し(乙156、158、160)、身分証明書の写し(乙7の1、63の3)、
在パキスタン日本大使館及び在ドバイ日本総領事に提出された査証申
請書、本邦入国時の入国記録カード(乙148)があるところ、これらの各
記載と原告の供述する氏名、生年月日、出生地、民族の記載は、いずれ
も一致している。なお、原告の査証申請書及び入国記録カードの中に
は、原告の出生年について1974年と記載されたものと、1977年と記
載されたものがあるが、原告の旅券が発給された当時、原告の旅券に
は出生年は1977年と記載され、後に1974年に訂正されていること(乙
7の1)、原告が査証申請書の記載をアル・アマナ社の社員に依頼するこ
とがあり、入国記録カードについては、近くにいた英語の分かる人に旅券
等を渡して依頼することがあった(原告本人3日目98項)と供述している
ことを合わせ考えれば、特段不自然な点は見当たらない。
b また、原告の本邦への今回入国前までの6回の出入国歴は、被告らが
把握している原告に関する出入国歴と一致する(乙4の別紙1)。もっと
も、第5、6度目の日本からの帰国の際の出国先は、被告らの把握する
出入国歴によればロサンジェルスと記録されているところ、原告は、来日
前からドバイを経由する往復チケットを買っていたのでロサンジェルスへ
は言っていないと供述しており(乙11の2、16丁)、その真偽は不明であ
る。
c 次に、原告が、1992年ころ、居住していた西カブールでムジャヒディン
間の内戦が激化し、マスード派に父が連行されそうになり、親戚が死亡
し、原告の家がマスード派のロケット攻撃を受けたと主張する点について
は、同年4月に、ムジャヒディン勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩
壊し、ムジャヒディン政権であるラバニ政権が誕生したものの、以後ムジ
ャヒディン間での内戦が激化したとの前記(1)ウの事実に合致する上、西
カブールが、同年5月から1995(平成7)年3月まで、主たる戦場とな
り、全方向から空爆を受けることになった(甲2・49頁等)ことや、翌199
3(平成5)年2月に、ラバニ大統領とその司令官マスードにより数百人の
ハザラ人が虐殺されたこと(前記(2)ウの事実)とも合致する。
また、原告が、1997(平成9)年5月にタリバンのマザリシャリフ侵攻
の情報を聞いて、マザリシャリフのm地区からn地区に避難したとする点
や、その際父が連行されそうになったり、家財道具を全部取られる等の
事件が起きたものの、住民が抵抗を開始したことからタリバンはマザリシ
ャリフを制圧することができなかったと供述する点については、1997(平
成9)年5月25日に、タリバンがマザリシャリフに侵入したものの、マリク
等の攻撃を受け、同月28日に撤退を余儀なくされたという事実に合致す
る(乙163、3枚目)。
d また、原告が1998(平成10)年8月に、タリバンがマザリシャリフに侵
攻し、原告の親戚や友人を含む多くのハザラ人を殺害又は連行したと供
述する点や、タリバンが家に来て、原告を連行して1週間にわたり監禁し
たと供述する点は、同月8日に、タリバンがマザリシャリフを奪取し、その
際、数千人のハザラ人の民間人が殺害されたという前記(2)オの事実
や、その際、ハザラ人の家を捜索したり、若者を軍用車でマザリシャリフ
市内の拘禁施設に連行した上、暴行を加え、あるいはカンダハルに移送
しさらには殺害したという公的機関の報告書中の記載(甲1の2、1の3、
乙29、142等)等と一致する。
e さらに、原告が、1999(平成11)年後半になると、ハザラ人の連行が相
次ぐ等したため、マザリシャリフを出てeに移動したと供述する点や、原告
が2001(平成13)年3月又は4月ころ、タリバンにより1週間にわたり拘
束され、賄賂を渡して釈放されたという点や、同年4月ころタリバンにより
父が連行され、妹が殺されたという点についても、タリバンの支配下にあ
る地域の治安状況ないし人権状況について、正式な司法機関や警察機
関は存在しないため、市民は恣意的な拘束に脅かされており、タリバン
の民兵が市民の監獄からの釈放又は逮捕しないことと引き替えに賄賂
を要求する等していたことや、タリバンの民兵は、大小の都市の街路を
パトロールしていたが、事前の通告や所有者の承認なくして家宅に入っ
て捜索していたという公的機関の報告書中の記載(甲1の2・訳文10、1
2頁、乙142・訳文8頁)と一致する。
f これに対し、被告らは、原告が1998(平成10)年8月に、タリバンがマザ
リシャリフに攻めてきた約1週間後にタリバンに監禁され、その約1週間
後に逃走した後、1か月ほど友人や親戚の家を泊まり歩き、アフガニスタ
ンからパキスタンに出国したと供述する(原告本人3日目5ないし22項)
ことからすると、原告がパキスタンに出国した時期は、早くとも同年9月2
0日になるはずであるにもかかわらず、原告は、実際には同年8月27日
付けで在ドバイ日本総領事発行の渡航証明書を取得しており(乙15
7)、原告が自らこの査証を取得したことを認めていること(原告本人3日
目23ないし26項)を合わせ考えると、原告がタリバンに監禁されていた
とする時期には、原告はUAEにいたことになるはずであり、原告の供述
はこの客観的事実と反する旨を主張する。
そこで検討するに、原告は、被告ら指定代理人から、友人や親戚の家
を転々としていた期間について問われた際、正確には覚えていないとし
た上で、ひょっとすると1か月より多かったか、少なかったと供述した上、
その答えに続けて、自分の命が危険にさらされている戦争状態であった
ため、当時日付を意識することはなく、覚えられる状況でもなかったと自
ら供述している(原告本人2日目21項)。そして、戦時下に日付や期間を
正確に記憶することが困難であることは原告の供述するとおりであると
思われる上、自らが迫害を受けた時期やその態様、その後の逃走の経
緯等は、非日常的な体験であるために、記憶の中で強調されて鮮明に
印象付けられることもあれば、逆に少なからぬ精神的苦痛を与えるが故
に思い出すことが困難になり、あるいは断片的で歪んだものになる場合
もあることもまた経験則上明らかである(UNHCRの研修マニュアルであ
る「難民申請者を面接する」(甲13の7)の中にも、「誰にでもある物忘れ
は、過去の出来事を思い出すのに最大の障害の一つである。庇護希望
者の場合、精神的ショックや時間の経過によって、日付、場所、距離、事
件や重大な個人的体験までも忘れ去ったり、混乱してしまうことがある。
要領を得ない供述や不正確な情報は、必ずしも申請者が不誠実である
ということではない。今までの体験すべてを記憶しておくことを申請者に
要求するのは無理である(中略)。時系列順に事件を思い出すのには、
とりわけ困難が伴うかもしれない。申請者は精神的・身体的に最も打撃
を受けた出来事を記憶していても、その順序をほとんど憶えていないこと
が多い。(中略)面接が進むにつれて、この順序どおりに事件がおこった
のではないことが明らかになるかもしれない。(中略)このような混乱自体
は、必ずしも意図的な虚偽とはいえない」旨の記載がある。)。また、原告
が、上記被告ら指定代理人からの質問を受けるまで、タリバンに監禁さ
れた時期及び監禁された期間について陳述書や本人尋問において供述
する一方で、親戚の家を泊まり歩いていた期間については明確に述べて
いなかった点からは、原告が元々この期間について正確な記憶を有して
いなかったことをうかがうことができるものである。そうすると、そもそも原
告が監禁を受けたと供述する時期(1998(平成10)年8月15日前後)
と、UAEにいたと推認される時期(同年8月27日ころ)自体は重なってお
らず、原告の供述は、原告自身が正確に思い出せないとする親戚の家
を泊まり歩いていた期間との整合性に疑問があるというだけであること
からは、原告が、迫害を受けたと主張する時期が客観的事実に反すると
いうこともできないというべきである。
g また、被告らは、原告が、タリバンに2度目に監禁された時期について2
001(平成13)年3月か4月と供述する点は客観的事実に反する旨を主
張する。すなわち、原告は、2000(平成12)年11月7日に本邦を出国
してから、ドバイ及びペシャワールに1、2か月滞在し、同年12月末から
翌年1月初めまでの間にlに戻り、そこで2、3か月暮らした後にタリバン
に監禁されたと述べた上、タリバンに監禁された時期は2001(平成13)
年3月か4月である旨を供述していたが、他方で原告は2001(平成13)
年3月13日付けで発行されたUAEの滞在査証を自分で受け取ったと供
述しており、UAEでは滞在査証の有効期間が6か月を切ると出国できな
くなるとも供述しているところ、更新前の同滞在査証の有効期間が同年4
月19日までであったこと(乙156)を合わせ考えると、原告は、2000
(平成12)年11月7日に日本を出国した後、少なくとも2001(平成13)
年3月13日までUAEに滞在していたはずであり、lに戻って2、3か月し
た後にタリバンに監禁されたとする供述と整合しないことになるというも
のである。
しかしながら、原告がUAEで滞在査証を更新した(2001(平成13)年
3月13日)後、パキスタンを経由してlに戻ったという事実と、原告が200
1(平成13)年3月か4月にlで監禁されたとする事実は、それ自体矛盾
するものではなく、我が国を出国後UAE及びパキスタンを経由してlに戻
り、そこで2001(平成13)年3月か4月ころ監禁されたという点では、原
告の供述は入管による事情聴取の段階から一貫しており、被告らの主
張のように原告の供述が全体として矛盾しているのは、上記の供述にlに
戻ったのが2000(平成12)年末か2001(平成13)年1月初めであっ
て、その後2、3か月してから監禁されたとの供述部分が加わることによ
るものであるところ、この供述部分は、入管による事情聴取や原告の供
述を2001(平成13)年10月ないし11月に聴取して作成された報告書
(甲4)中には現れず、今回の入国後約2年が経過した後の2003(平成
15)年7月23日にされた原告本人尋問において初めてされたものであ
り、同尋問において、原告がlに戻るまでの時間的経過についてはもはや
記憶が定かでないと述べており、パキスタンに滞在していた期間は1週
間程度であったかもしれないとも供述していること(原告本人3日目129
ないし131項、143項)等を合わせ考えると、むしろ上記供述部分の信
用性には疑問があって採用できず、そのことによって原告が当初から一
貫して述べている部分の信ぴょう性に疑問が生じるものではない。また、
原告は、当初UAEの滞在査証を更新していないと供述していたところ、
被告ら指定代理人からこの点を追及されると、更新していないというのは
言い間違いであったと述べ(原告本人3日目217項)、その直後今度は
原告代理人から、UAEに退去強制されることを恐れて更新していないと
述べていたのではないかとの質問されると、今度はそれを認めるような
供述をした上、実際にUAEに送還されたアフガニスタン人がいると聞い
たことがある旨を供述している(同218ないし220項、247ないし249
項)。このような供述の経緯に照らせば、原告は、UAEの滞在査証を更
新したことが、難民認定申請の際に不利益に扱われることを恐れて意図
的に更新の事実を隠していたものと解するのが相当である。そうすると、
原告は、UAEでの滞在査証の更新の事実を隠すために、6度目の出国
後lに戻るまでのドバイ、ペシャワールの滞在期間を真実よりも短く述べ
ていたものと推認することも可能である。これらのことからすると、被告ら
の主張は、原告が迫害を受けたと主張する事実の認定を左右するもの
ではなく採用することができない。
h 以上によれば、原告の供述の概要は、提出された各証拠中に記載され
た客観的資料の記載と概ね一致するということができる。このうち、原告
が個別的に迫害を受けたとする供述の時期や内容が書証として提出さ
れた前記各資料中の記載と一致する点については、これらの資料の多く
が国内外で比較的容易に入手可能であることに照らせば、原告の供述
の信ぴょう性を高めるものとして重要視することはできないが、少なくとも
原告の主張する事実と客観的事実との間に齟齬がないという点で、原告
の供述の信ぴょう性を裏付けるものとなるものである。
(イ) 内容の自然さ・合理性の有無
a 原告の供述は、その内容において概ね自然であって、合理性を有するも
のである。特に、原告が2度にわたりタリバンに監禁されたとする点につ
いては、迫真性に富む具体的供述がされているということができる。
b もっとも、被告らは、原告が、1998(平成10)年8月にタリバンに拘束さ
れた後もマザリシャリフに居住し、今回入国まで4度にわたり日本に入国
しているにもかかわらず、その間難民認定申請をしていないことは不自
然である旨を指摘する。確かに、真に迫害を受けた者であれば、迫害を
受け得る状況から一刻も早く抜け出したいと願い、そのように行動するの
が自然であると思われるのであって、この点には疑問が残らないでもな
い。しかしながら、難民認定申請をするか否かは、本来的に申請者の意
思に委ねられているのであって、申請者が申請をしないからといって、申
請者の抱いている迫害を受けるおそれが一概に低いものということはで
きないし、原告は、1998(平成10)年8月の大虐殺以降のマザリシャリ
フの状況について、タリバンに無差別に虐殺されるという状況ではなくな
り、状況は一定程度改善されたことを供述していること、それでもなおハ
ザラ人が連行されるという事件は続いていたため、原告も友人宅や自宅
で隠れるように生活していたと供述していたこと(原告本人1日目165な
いし175項、甲4)、原告が、アフガニスタンに家族を残しており、同国の
状況が好転して欲しいとの希望を持っていた旨供述していること(原告本
人1日目192ないし201項、同3日目78項)、及び、難民認定が、難民
にとって祖国との断絶という極めて重大な結果をもたらすものであること
からは、原告が、3度目以降の出入国の際にもアフガニスタンに戻ったこ
とに被告らが主張する程の不自然さはないものというべきである。このこ
とは、先進諸国におけるアフガニスタン人の難民認定申請者の数が19
98(平成10)年には比較的少なく翌1999(平成11)年及び2000(平
成12)年にはそれぞれ飛躍的に増加していることからも裏付けることが
できる(乙142、「Refugee Council of Australia」による統計、「Eur
opean Council on Refugees and Exiles」による統計等参照。)
また、原告は、3度目の出入国の後一度マザリシャリフに戻ったもの
の、危険を感じ、家族でeに転居しているのであるから、原告がタリバン
に拘束された後、漫然とマザリシャリフに居住していたものでもないことも
また明らかである。したがって、この点の被告らの指摘を重要視すること
はできない。
c 以上によれば、原告の主張は概して自然で合理的なものと認められる。
(ウ) 供述の一貫性
a 原告の供述は、その難民該当性を基礎付ける事実については概ね一貫
しており、とりわけ2度にわたりタリバンに監禁されたとする点及び父が
連行され、妹Hが殺害された点に関して、原告の供述は、難民認定手続
や、違反調査等の手続の中で、一貫して述べられているものと認めるこ
とができる。もっとも、以下の各点については、原告の供述に変遷が見ら
れると評価され得ると解されるので、以下検討する。
b 当初の入国経緯について
原告は、2001(平成13)年10月3日に行われた入国警備官の取調
べにおいて、今回入国の経緯を、アフガニスタンを出国し、同年7月23
日ころにパキスタンのカラチに到着し、約1か月滞在した後、同年8月13
日ころ、船で横浜港に同年8月13日ころ到着した旨を述べ(乙7の1、7
の2)、入国経緯につき虚偽の事実を述べていたが、同年10月3日に行
われた第3回目の取調べにおいて、それまで虚偽の供述をしていたこと
を認め、本訴において主張する入国経緯を供述するに至ったことが認め
られる(乙7の3)。そして、原告は、虚偽の供述をした理由について、ブ
ローカーからきつく口止めされていたため虚偽の入国経緯を述べたもの
の、韓国の出国カードを発見されたために言い逃れができなくなって正し
い経緯を述べた旨を供述しており、このような供述の変遷の経緯には不
自然な点は認められないから、この点が、原告の供述全体の信ぴょう性
に影響を与えるものということはできない。
また、被告らは、前記のように、原告がUAEの滞在査証の更新を行っ
ていないとの供述を翻したとして、原告の供述全体の信用性に影響を与
える旨の指摘もするが、原告が同査証の更新をしていないと供述してい
たのは、それによりUAEに送還されてしまうことを恐れてしたものと認め
られることは前記のとおりである上、本来この点は、迫害の事実と直接
関係のない点であるから、仮に原告が虚偽の事実を述べていたとして
も、それゆえに、原告についての個別的な迫害の事実等に関する供述
の信ぴょう性に直接影響を与えるものともいうことはできない。
c Cとの関係について
被告らは、原告がCとの兄弟関係について、当初否定した上、Cとは
今回入国した後に初めて会ったとする供述をしていたものの、DNA鑑定
の結果、原告とCが両親を共通とする兄弟であるとしたときの総合肯定
確立を98.43パーセントとする結果が出るや、原告はCと兄弟であるこ
とを認め、Cは生まれてしばらくして里子に出されたことや、アフガニスタ
ンにいる頃から原告宅に遊びに来ていたこと、及び1998(平成10)年
ないし1999(平成11)年にUAEのシャルジャにあるアル・アマナーで会
ったことがある旨の供述を始めており、このような供述の変遷は、原告の
供述全体の信ぴょう性に影響を与える旨を主張する。
そこで検討するに、原告は、原告本人尋問第2日目において、Cは、
幼いときに里子に出されていたのであって、アフガニスタンでは、里子に
ついては兄弟とはいわないため、従前は兄弟関係を否定する供述をして
いたものと弁解している(原告本人2日目65ないし67項)。しかしなが
ら、原告が、原告本人尋問第1日目において、Cとは何らの血縁関係も
ないと思うと述べていること(22、23項)や、今回入国後に初めてCと知
り合ったと述べていたこと(24項)等からすると、原告は、Cと兄弟である
ことを意図的に隠していたものといわざるを得ず、上記弁解は採用でき
ないし、Cが1997(平成9)年と2000(平成12)年の2度にわたって来
日する際の査証申請書に添付された原告作成の渡航証明書には、Cの
父親が「I」である旨記載されており、原告自身がCの父親が自己の父親
と同名であることを認めていることからすると、Cが里子に出されたとの
原告の後の供述もまた信用できないと考えるのが相当である。
したがって、この点は、原告が明らかに虚偽を述べるものといわざるを
得ない。そして、原告の前記各供述とCのそれ(乙80)を対比すると、家
族構成はもとより難民該当性を基礎付ける事情についても両者はかなり
異なった供述をしており、仮にCの供述に信用性が認められるとすると、
それに反する原告の供述の信用性が認められなくなる関係にある。しか
し、Cの供述は、少なくとも今回の来日の直接のきっかけとなったのが、c
のeの自宅から父親がタリバンに連行されて帰らなくなったことにあり、そ
の時期等に相違がある点を除くと、原告の父親に関する供述と一致する
ところであるし(なお、Cは父親が2回にわたって連行された旨供述してい
るところ、1回目に連行されたのが父親ではなく原告であると読み替える
と、原告の供述とほぼ一致することとなる。)、それ以前の出来事に関す
るCの供述は、時期及び場所に関する点においてあいまいであり、この
点において、ほぼ同時期にされた原告の供述(甲4)と質的に異なってい
ると認められるし、Cの法廷における供述態度は原告に比べ明らかに落
ち着きのないものであったことは、当裁判所に明らかである。これらのこ
とは、Cが偽名を用いたことに伴って難民性を基礎付ける事実について
も虚偽の事実を供述するほかなかったことによるものと認めるのが相当
であり、同様のことが家族関係に関する供述についても認められる。こ
のようにCの供述に信用性が認められないことからすると、原告の供述
は、Cの供述に反することのみによってはその信用性に疑問が生ずる余
地はない。もっとも、原告が、当初Cと兄弟であることを否定していたこと
からすると、その供述全体の信用性に疑問が生じないでもないが、その
点については、上記のように原告の供述内容がCのそれとは質的に異な
るものであることに照らすと、Cとの関係について虚偽の供述をしたこと
を過大視することは相当でなく、供述内容全体に着目してその信用性を
判断すべきものというべきである。
d また、被告らは、原告の陳述書(甲第4号証)には、タリバンがマザリシャ
リフに侵攻した際、n地区には侵入することができなかったと記載されて
いるにもかかわらず、原告は、本人尋問の際、タリバンがサイドバードに
侵入し、ハザラ人を連れ去った旨を供述しており、この点を指摘される
と、原告は、陳述書の内容や従前の供述は、通訳の誤りである等と述べ
ており(原告本人2日目365、381、383項)、原告の供述には信ぴょう
性が認められない旨を主張する。
しかしながら、甲第4号証中には、n地区は、ハザラ人の勢力が強いと
ころであり、住民はタリバンに強行に抵抗した旨が記載されており、この
記載からは、タリバンが同地区への侵攻を試みたものの、住民からの抵
抗を受けたことが読みとれるのであって、タリバンがn地区へ侵入できな
かったとの陳述書中の前記記載は、タリバンが同地区を結果的に制圧
するに至らなかったことを指摘するものと解され、同地区のハザラ人住
民にタリバン侵攻により何らの被害が生じていないことを述べたものでは
ないものと解することが十分可能であるから、原告の供述にはそもそも
変遷がないものというべきである。そして、このようなニュアンスの違い
は、通訳を介して供述が行われている以上、不可避の事柄というべきで
あって被告らのこの点に関する主張は、あまりに些細な言葉の違いを捉
えて供述の信用性が判断に影響するものという主張である点で不相当
である。
e その他、被告らは、原告はとりわけ原告本人尋問第3日目において、迫
害の事実に関する被告ら指定代理人からの質問に対し、全体としてあい
まいな供述に終始しており、矛盾を突かれるとはぐらかした回答をする等
と主張する。
しかしながら、被告ら指定代理人の質問には原告の6度の出入国の
経路や個々の出入国の際の経由地での滞在期間に関する質問等、相
当に詳細な質問が多く含まれるところ、原告が本邦に今回入国までの間
に6回入国しており、その都度異なる入国経緯を有すること、迫害を受け
たと述べている事実も、1998(平成10)年から2001(平成13)年前後
に起きたことであり、尋問の時点はそれから2年以上が経過し、その間、
原告が貨物船潜入による密入国や、入管当局による身柄拘束といった
異常かつ過酷な事態に遭遇していること等を考慮すれば、原告が、被告
ら指定代理人からの質問に即答できず、質問を聞き返したり、曖昧な供
述をする点があったからといって、そのことを重要視して供述全体の信
用性の問題に結びつけるのはあまりに早計であるといわざるを得ない。
また、原告が自己の供述を信用せず身柄拘束までした入管当局の関係
者に対して敵意を抱き、その質問に素直に応じないことには無理からぬ
ものがあり、被告ら指定代理人の質問に対する原告の供述内容を吟味
する際には、この点にも十分留意すべきである。
f 以上によれば、原告の供述は、Cとの兄弟関係及びUAEの滞在査証の
更新に関する部分を除いて変遷は見られず一貫したものと認めることが
できるし、上記2点についても原告の難民該当性に関する事実認定を左
右するものではないというべきである。
(エ) その余の被告らの主張について
a 被告らは、原告の今回の入国の真の目的は、組織的背景を有する不法
就労活動にあると主張する。
その根拠として、被告らは、原告が中古車部品販売を行うアル・アマ
ナ社の取締役であること(乙149添付資料1及び3)、原告には平成7年
以降、今回入国までに6回の入国歴があり、いずれも渡航目的が「Busi
ness」とされていたこと(乙148)等を挙げるほか、原告は、C及びDと同
一場所で摘発されており(乙166)、Cについては、アル・アマナ社の従
業員であるEと同一人であり(乙161)、原告と兄弟関係にあることが判
明している上、Dについても、同社の従業員であるFと同一人であり原告
と親戚関係にあることが判明していること(乙162)や、同社の従業員数
は6人ないし8人であり、取締役を務める原告は、社員に対し身元保証
書を発行できる立場にあり(乙149)、原告とC及びDは、いずれも過去
の本邦入国時の外国人登録上の居住地及び本邦に在留していた時期
が重なっており(原告本人2日目211項、234項、乙152の1)、3人は
互いに面識を有していたことが明らかであること、原告ら3人は、いずれ
も2000(平成12)年10月ないし2001(平成13)年3月までに本邦入
国のための査証申請をしたものの、いずれも査証が発給されなかったた
めに、本邦における中古車自動車部品販売が困難になり、難民認定さ
れることにより本邦に在留しようと企て、難民認定され易くするために、3
人は親族関係にあり同一の会社に属することを秘匿していたと解される
こと等を主張する。そして、原告らを含む中古車自動車販売業に関わる
アフガニスタン人が難民認定申請をするに当たり、被告らは、G証人が
不可欠の役割を果たした旨等を主張する。
しかし、本件第1事件に伴って申し立てられた執行停止申立事件(当
庁平成14年(行ク)第1号事件)の疎甲第24、25号証によると、我が国
では、平成12年夏ころからアフガニスタン人が我が国へ入国しようとす
る際に必要な渡航証明書の発行事務についての審査を厳格化し、その
結果、アフガニスタン人に対する入国査証発行件数は、平成11年の11
18件に対して平成12年は584件、平成13年は1月から10月までで2
4件と激減していることが認められ、このこと自体が異常なものといわざ
るを得ないし、この間、前記(イ)bのとおり、他の先進諸国においてアフガ
ニスタン人の難民認定申請者が急増していることと対比すると、多数の
アフガニスタン人が密入国を企てた背景には、このような我が国の対応
があったことに留意しなければならない。
そして、原告の過去の入国歴や、C及びDとの関係については、被告
らの指摘するとおりであって、これらの事情を総合的に考慮すれば、原
告ら3人が難民認定申請をする際、中古車部品販売を継続したいという
意図をも持っていたことが一定程度推認される。しかしながら、難民申請
者が、母国から出て別の国で難民申請をする際には、その国で生活して
いく必要性があることから、過去に訪れた経験のある国や、自分が生計
を立てることのできる見込みのある国をできる限り選択した上で難民認
定を受けたいと考えることは人間として自然な感情であって、難民申請
者の心情のうちに難民認定を受ける希望と就労の希望が併存したからと
いって、それ自体責められるべき点は存在しない。そうすると、過去に原
告が6回にわたり日本に入国していたという事実から、原告が迫害の事
実をねつ造した上、日本での居住・就業を望み難民認定申請をすること
としたと断定するのは短絡にすぎるというべきである。また、原告が、C
及びDとの関係を当初明らかにしなかった点についても、両名がそれぞ
れ身分を偽った上で難民認定申請をしていたこと、原告が両名と親族で
あることを合わせ考えれば、原告が真実を語ることに躊躇をおぼえてい
たことは一定程度理解可能であって、この事実が原告の難民該当性の
判断に決定的な意味を持つものということもできない。
b また、被告らの主張は、原告が日本における中古車部品販売事業を継
続するために、真実は迫害を受けた事実が存在しないにもかかわらず、
難民であるかのごとく偽装して難民認定申請をしたというものである。し
かし、日本においては、2000(平成12)年の難民認定申請件数は216
件であるのに対し、同年に認定された件数は22件、2001(平成13)年
は申請件数は353件であるのに対し、認定件数は24件にすぎない。ま
た、アフガニスタン国籍を有する難民認定申請については、1998(平成
10)年1月1日から2001(平成13)年11月30日までの間に難民認定
申請をした者は149人であるが、このうち認定を受けた者はわずか6名
にとどまっていることは、当裁判所に顕著である。また、前記のように20
01(平成13)年に入ると我が国はアフガニスタン人に対する査証の発給
を極度に制限しているのである。これらのことをアフガニスタン人からみ
れば、我が国は以前からアフガニスタン人を保護しようという姿勢に欠け
たばかりか、この時期はさらにその傾向を強めて入国すら拒否しようとし
ているものと理解できるのであって、そのような国で難民として認定され
ることは期待できないと考えるのが通常であると考えられる。また、我が
国には常時相当多数の不法入国又は不法滞在者が存在することは当
裁判所に顕著であり、原告のように度々来日している者は、このような実
態についてもある程度認識しており、あえて難民としての保護を受けなく
ても我が国に一定期間事実上留まることは可能であると認識していたも
のと認められる。そして、法の規定上、難民認定を受けた者に対して本
邦における在留資格が付与される制度にはなっておらず、難民と認定さ
れた者に対して退令が発付され、第三国に送還されることも制度上予定
されていること(法53条)にかんがみれば、原告が難民であるかの偽装
をしたとしても本邦に在留して事業を継続することができる見込みがあっ
たとは到底考え難い。さらに、難民認定がされた場合であっても、本邦へ
の不法入国の事実について不問に付されることになるわけではなく、有
罪判決を受けた上で刑の免除を受け得るにとどまるのであるから(法70
条の2参照)、原告が自ら入管に出頭して不法入国の事実を自白し、難
民の偽装をして難民認定申請することが、原告の事業の継続にとって利
益に働くものとは解し難い。これらのことからすると、仮に被告らの主張
するように原告の本邦入国の目的が単に中古車部品買い付けにあった
のであれば、何らの調査も受けていない段階で入管に自主的に出頭して
不法入国した事実を自白し、難民認定申請をするとは考え難いというべ
きである。
c さらに、被告らが、Gの役割について論じる点については、Gが通訳を務
めた難民申請者の供述に一定程度の共通点が見られたとしても、そのこ
とをもってGが申請者に虚偽の事実を記載するよう教え、手引きしていた
と即断することはできず、Gの証人尋問の結果からも、このような事実を
認めることはできない。また、G自身が、かつて難民不認定処分を受け、
同処分の取消しを求める訴えを当庁に提起したものの(乙129)、同訴
え提起後に在留資格が付与されたため、同訴えを取下げたところ(乙13
0の1)、Gが当部に提出した取下書に難民であることが考慮されて在留
資格が付与された旨の記載がされていたことに対し、同訴えの被告法務
大臣は、そのような事実はないと強く反発して取下げに同意せず、Gが
上記記載を撤回した取下書(乙130の2)を改めて提出したことにより、
ようやく取下げに対する同意が得られたことは当裁判所に明らかであ
る。そうすると、Gについては、難民であった事実や難民認定申請をして
いたという事実は在留資格を得る際の考慮要素にすらならなかったもの
というべきであるから、偽装難民が難民認定の獲得に成功すると信じて
Gに手引きを依頼しているということ自体、合理性に欠ける推測であると
いうべきである。そもそも被告らは、本件第3回口頭弁論期日において、
被告らが主張する原告らの今回入国の組織的関連性について、証拠は
所持していないと明言していることが当裁判所に明らかであることから
は、被告らが各処分の際、確たる証拠もないままに、本件が真の目的は
就労である組織的不法入国事案であると即断していたことがうかがわ
れ、不当であるといわざるを得ない。
(オ) 以上の事実によれば、原告の供述は、客観的な資料によって裏付けら
れ、その内容において自然で合理的なものということができ、さらに、概して
一貫性が認められるというべきである。そして、原告の供述に変遷が見ら
れる部分のうちには、被告らの指摘が当たる部分が認められることは前記
のとおりであり、また、原告が日本で難民認定申請をした動機には、就労目
的も含まれていること、原告が自らの難民認定手続あるいは親族の同手続
を有利に進めるために、虚偽の事実を述べていたとうかがわれる部分もあ
ることは否定できないものの、これらの点は、いずれも原告の難民該当性と
直接の関わりのない部分に関する供述であって、これらの事実から、原告
が迫害を受けたとする供述の信用性を全面的に否定する程のものとは考
えられないというべきである。
ウ 小括
(ア) 以上によると、原告が、アフガニスタン国籍を有するシーア派ハザラ人であ
って、前記のようなアフガニスタンにおける状況下で、原告が、シーア派ハザ
ラ人であることを理由として、タリバンによって迫害を受けたとする供述は十分
信用することができるし、そのことを前提とすると、通常人が原告の立場に置
かれたとしても、本国に帰国すればいつ何時同様の事態に遭遇するかも知れ
ないと考えるのが相当であるから、迫害の恐怖を抱くような客観的事情も存在
するものと認められる。したがって、本件不認定処分及び本件退令発付処分
当時、原告は、難民条約及び難民議定書所定の難民に該当するものと認め
られる。
(イ) したがって、原告が難民条約上の難民に該当するにもかかわらず、この点
を看過してされた本件不認定処分には、少なくとも重大な瑕疵があるというべ
きであり、難民認定処分が難民該当性を有する者に対してもたらす結果の重
大性にかんがみれば、本件不認定処分は当然に無効なものというべきであ
る。
(ウ) また、難民条約33条は、締約国は、難民をいかなる方法によっても、人
種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意
見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境
へ追放し又は送還してはならない旨を定め、法53条3項には、法務大臣が日
本国の利益又は公安を著しく害すると認める場合を除き、前2項(退去強制を
受けるものの送還先を定めるもの)には難民条約33条1項に規定する領域
の属する国は含まないものとすると定められているところ、本件退去強制令書
は、その送還先をアフガニスタンとしており、前記のとおり、原告が本件不認
定処分当時において難民に該当すると認められ、その後、本件退令発付処分
時までに特段の事情が生じたと認めるに足りる証拠が存しない以上、原告を
アフガニスタンに送還することは許されず、本件で原告に発付された退去強
制令書は、送還先の記載に誤りがあることは明らかといわざるを得ない。
もっとも、法51条及び法施行規則45条の規定からすると、送還先は、退
去強制令書に記載が求められる法的事項ではなく、退去強制令書は、それを
受ける者に本邦から退去をせよとの意思表示をすることを本質とするもので
あって、送還先の記載は、処分が有する本来の効力に関する記載ではなく、
同令書の執行の便宜のために記載されたものとみることもできるのであり、そ
のような解釈にたった場合、送還先の記載に誤りがあることは、直ちに退去強
制令書発付処分全体を違法なものとするには疑問が生じないでもない。しか
し、弁論の全趣旨によれば、現在の退去強制の実務において、退去強制令書
発付処分の効力は、我が国からの退去のみならず、退去強制令書の送還先
に記載された特定国への送還を本質とするものとして取り扱われており、被告
審査官も送還先を退去強制令書の本質的要素ではないとの解釈を前提とし
た訴訟活動をしていないことが認められ、これらを前提とすると、送還先の記
載に誤りがある場合には、退去強制令書全体を違法なものとしてこれを取り
消さない限り、当該送還先への送還を阻止する手段がないことになるのであ
るから、上記のような解釈を前提としても、同令書全体を取り消し得ると解さざ
るを得ない。
第4 結論
以上によれば、原告の本件裁決の取消しを求める訴えは不適法であるからこれ
を却下するものとし、その余の本件不認定処分の無効確認を求める請求及び本件
退令発付処分の取消しを求める請求は、いずれも理由があるから認容することとし
(予備的請求は判断の必要がない。)、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟
法7条、民事訴訟法64条ただし書及び61条を適用して、主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第3部
裁判長裁判官       藤山雅行
           裁判官新谷祐子
                      裁判官加藤晴子
当 事 者 目 録
原告  A 
第1事件被告  東京入国管理局主任審査官
第2・第3事件被告  法務大臣

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