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平成16年2月19日判決言渡
平成12年(行ウ)第33号 難民の認定をしない処分取消請求事件(以下「平成12
年事件」という。)
平成13年(行ウ)第277号 退去強制令書発付処分取消等請求事件(以下「平成1
3年事件」という。)
平成15年(行ウ)第608号 退去強制令書発付処分無効確認請求追加的併合事件
(以下「平成15年事件」という。)
判決
当事者の表示   別紙当事者目録記載のとおり
主文
1 被告法務大臣が原告に対し平成10年8月25日付けでした難民の
認定をしない処分を取り消す。
2 被告東京入国管理局主任審査官が原告に対し平成13年7月9日
付けでした退去強制令書発付処分を取り消す。
3 原告の本件訴えのうち、被告法務大臣が原告に対し平成13年6月
22日付けでした出入国管理及び難民認定法49条1項に基づく原告
の異議申出は理由がない旨の裁決の取消し及び無効確認を求める
部分を却下する。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 主文第1項、第2項同旨
2 被告法務大臣が平成13年6月22日付けで原告に対してした出入国管理及
び難民認定法49条1項に基づく原告の異議申出は理由がない旨の裁決を取
り消す。
3 被告法務大臣が平成13年6月22日付けで原告に対してした出入国管理及
び難民認定法49条1項に基づく原告の異議申出は理由がない旨の裁決が無
効であることを確認する。
第2 事案の概要
1 事案の要旨
 本件は、ミャンマー国籍を有する外国人である原告が平成9年2月3日付け
でした出入国管理及び難民認定法(以下「法」という。)61条の2に基づく難民
認定申請(以下「本件申請」という。)に対し、被告が、原告は難民の地位に関
する条約(以下「難民条約」という。)及び難民の地位に関する議定書(以下「難
民議定書」という。)にいう難民と認められないとして、平成1 0年8月25日に
難民に認定しない処分(以下「本件不認定処分」という。)をしたことから、原告
が、自らが難民条約及び難民議定書にいう難民に該当するのに難民に該当し
ないとしてした本件不認定処分が違法である旨主張し、本件不認定処分の取
消しを求めるものである(平成12年事件)。原告は、被告が本件不認定処分の
後である平成13年7月9日に、原告の法49条1項に基づく異議申出に理由が
ない旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をし、原告に対し退去強制令書発付
処分(以下「本件退令発付処分」という。)を行ったことから、平成13年10月9
日に、本件裁決及び本件退令発付処分の取消訴訟を提起し(平成13年事件。
なお、この事件において当初から本件裁決の取消しが求められていたか否か
については、後記のとおり、当事者間に争いがある。また、同事件は、難民の
認定をしない処分取消請求事件と弁論併合されている。)、平成15年10月31
日には本件裁決の無効確認を求める訴えを提起した(平成15年事件)。
2 判断の前提となる事実(認定根拠を掲記しない事実は、当事者間に争いがな
いか当裁判所に顕著な事実である。)
(1) 原告は、昭和40年1月17日、ミャンマー(当時はビルマ連邦)ヤンゴン(当
時はラングーン、以下年代を問わず「ヤンゴン」という。)において出生したミ
ャンマー国籍を有する外国人である(乙1)。
(2) 原告は、平成元年11月18日、新東京国際空港に到着し、東京入国管理
局(以下「東京入管」という。)成田支局入国審査官に対し、渡航目的「観
光」、日本滞在予定期間「15日間」とそれぞれ外国人入国記録の所定の欄
に記入して上陸申請をし(乙2)、同日、平成元年法律第79号による改正前
の法4条1項4号所定の在留資格及び在留期間を30日とする上陸許可を受
け、本邦に入国した(乙1)。
(3) 原告は、在留期間の更新又は在留資格の変更の許可を受けることなく、
前記上陸許可の在留期限である同年12月18日を超えて本邦で不法残留
することとなった(乙1参照)。
(4) 原告は、平成5年3月26日、平成6年5月19日、同年12月12日及び平
成8年4月24日に、それぞれ在京ミャンマー大使館において、原告名義の
旅券の有効期間の延長許可を受けた(乙1)。
(5) 原告は、平成9年2月3日、東京入管において、被告法務大臣に対し難民
認定申請をした(乙3)。
(6) 原告は、平成10年5月14日、新宿区長に対して、東京都新宿区ab丁目c
番d号を居住地として外国人登録申請をした(乙4)。
(7) 東京入管難民調査官は、平成10年5月18日及び同年6月1日、原告から
事情を聴取するなどの調査をした(乙5、6)。
(8) 被告法務大臣は、平成10年8月25日、「特定の社会的集団の構成員で
あること」及び「政治的意見」のために迫害を受けるおそれがあるという申立
てについては、これを立証する具体的な証拠がないので、原告は難民条約
第1条A(2)及び難民議定書第1条2に規定する「特定の社会的集団の構成
員であること」及び「政治的意見」を理由として迫害を受けるおそれは認めら
れず、難民条約及び難民議定書にいう難民とは認められないとして、本件不
認定処分をし、同年10月2日、原告に対し本件処分を告知した(乙7)。
(9) 原告は、平成10年10月7日、被告に対し、本件不認定処分について異議
の申出をした(乙8)。
(10) 東京入管難民調査官は、平成10年11月18日、東京入管第二庁舎にお
いて、原告から事情を聴取するなどの調査をした(乙9の1、2)
(11) 被告は、平成11年9月10日、(9)の異議申出については、原告の難民認
定申請につき再検討しても、難民の認定をしないとした原処分の判断に誤り
は認められず、他に、原告が難民条約上の難民に該当することを認定する
に足りるいかなる資料も見出し得なかったとして、理由がない旨の裁決をし、
平成12年1月7日、原告に告知した。
(12) 東京入管入国警備官は、平成10年9月21日違反調査を実施した結果
(乙11)、原告が法24条4号ロに該当すると疑うに足りる相当の理由がある
として、同月29日、東京入管主任審査官から収容令書の発付を受け、同年
10月2日、同令書を執行し、原告を法24条4号ロ該当容疑者として東京入
管入国審査官に引き渡した。
(13) 被告主任審査官は、平成10年10月2日、原告の請求に基づき、原告に
対し仮放免を許可した。
(14) 東京入国審査官は、平成10年10月2日及び同年11月5日、原告につ
いて違反審査をし、その結果、同日、原告が法24条4号ロに該当する旨の
認定をし、原告にこれを通知したところ(乙17)、原告は、同日、口頭審理を
請求した。
(15) 東京入管特別審理官は、平成11年3月17日、口頭審理を実施し(乙1
8)、その結果、特別審理官は、同日、入国審査官の前記認定に誤りがない
旨判定し、原告にこれを通知したところ(乙19)、原告は、同日、被告法務大
臣に異議の申出をした(乙20)。
(16) 被告法務大臣は、平成13年6月22日、原告からの上記(4)の異議の申
出については、理由がない旨裁決し(本件裁決、乙21)、同裁決の通知を受
けた被告主任審査官は、同年7月9日、原告に本件裁決を告知するととも
に、本件退令発付処分をした(乙23)。
3 当事者の主張
(1) 原 告
ア 難民条約の解釈基準
(ア) 難民認定手続を正しく運用するためには、「難民」の定義、立証基
準、立証責任、信憑性などの諸原理について正しい解釈を得なければ
ならない。しかし、我が国の難民認定手続を定める入管法には、これら
の諸原理に関する明文の規定がなく、これらの諸原理を解明するため
には入管法の解釈を要するところであるが、入管法の難民認定制度に
関する諸規定は、我が国が難民条約及び難民議定書を批准したことに
よりこれらを国内法化するために制定されたものであり、その解釈は全
面的に難民条約及び難民議定書の解釈に依拠するものである。
 ことに、難民の意義については、入管法上の「難民」と難民条約及び
難民議定書が定める「難民」とは全くの同義であり、かつ、難民の意義
について締約国は何らの留保を付することも認められていない(難民条
約42条1項)から、我が国は難民条約及び難民議定書の定める難民を
「そのまま難民として」認定する義務を負っている。したがって、「難民」
の意義の解釈や、いかなるものを難民として認定すべきかの基準につ
いては、全て難民条約及び難民議定書の解釈によって導かれなければ
ならない。
 以上の理由から、難民条約の解釈は不可欠な作業となる。
(イ) 難民条約解釈のルール
 条約を含む国際法規は、これを批准した締約国間に共通の法規であ
って、締約国間に客観的に存在し、締約国を等しく拘束する法秩序とな
る。したがって、国際法規は締約国ごとの区々の解釈がされるべきでは
なく、個々の締約国の政策や思惑を超えた国際的に統一された解釈が
される必要がある。
 このような観点からすれば、難民認定手続における諸原理を難民条
約の解釈によって導出するに際しても、その解釈が締約国ごとに独自
なものであることは許されず、各締約国において共通に運用される、統
一的かつ普遍的な解釈がされることが難民条約それ自体の要請である
ことは明らかである。
 「条約法に関するウィーン条約」(以下「条約法条約」という。)31条及
び32条は、条約その他の国際法の解釈基準を定めており、同条約が
それまで国際慣習法として成立した解釈基準を確認したものであるか
ら、難民条約もそれにより定められる解釈基準により解釈されるべきも
のである。そして、条約法条約31条は、文言解釈ないし文理解釈と称
される原則に依拠し、条約の文言が明らかに不合理な結果や条約の他
の部分との整合性を有しない結果を来したり、締約国の意図するところ
を明らかに逸脱する場合を除いては、用語の通常の意味に解釈しなけ
ればならないものとし、同32条では、31条の規定による解釈では意味
があいまい又は不明瞭である場合、明らかに常識に反した不合理な結
果がもたらされる場合には、条約の準備作業段階の事情や条約に基づ
く判例法、同種の他の条約又は類似の条項に関する裁判例を補足的
手段として、解釈を行うべきであると定める。
 以上によれば、難民条約は、その条約文や締約国間でされた難民条
約の関係合意である「最終文書の規定」さらには、難民の人権の広範
な保障という難民条約の趣旨・目的に照らし、国連難民高等弁務官事
務所(UNHCR)の見解や難民条約を実施する各国の先例等をも解釈
の準則として解釈を行うべきである。
イ 難民認定の要件
(ア) 難民の定義
 難民として認定され、保護されるための該当条項に係る要件は、①本
国の外にあること、②十分に理由のある恐怖、③迫害、④理由であり、
これら全ての要件を合わせ満たす必要があるが、以下、本件で問題と
なる「国外にいること」以外の3要件につき検討する。
(イ) 十分に理由のある恐怖
 この要件は、「恐怖」という主観的要素と、「十分に理由のある」という
客観的要素の双方を明示的に求めており、当事者の内心及びこれを合
理的に裏付ける客観的な事情の両方の要素が考慮されなければなら
ないが、難民の認定が覊束的なものであることからすれば、客観的な
要素を確定し、その内容を予め明確にすることが必要であり、その指標
として、申請者の個別的状況、出身国の人権状況、過去の迫害、同様
の状況におかれている者の事情などが考慮されるべきである。
(ウ) 迫害
 迫害とは「国家の保護の欠如を伴う基本的人権に対する持続的若しく
は系統的危害」であり、迫害の認定をするに当たっては広く、経済的・
社会的・精神的自由に対する抑圧や侵害も検討されなければならず、
そのように迫害を広く捉える解釈が、条約法条約の解釈手法、難民条
約「前文」との間での整合性を有するものといえる。
(エ) 理由
 迫害の理由として列挙されている、人種、宗教、国籍、特定の社会的
集団の構成員であること、政治的意見は、これらのうちいずれか一つ以
上があれば足り、このうちの1つであるのかいくつの理由を組み合わせ
るのか、どの1つに該当するのかといったことは申請者において特定す
る必要はない。
ウ 立証責任・立証基準
(ア) 難民認定手続は、申請者の難民該当性に関する事実認定及びあて
はめ作業を内容とする手続であるから、証明に関するルールが明らか
にされる必要がある。そして、難民認定申請を行ったものが本国を捨
て、保護の確証のない外国で手続を行うものであること、本来、対立当
事者間の武器対等を前提とした対審構造が予定されたものではなく、
非対審構造が予定されていること、訴訟が過去の事実を認定する手続
であるのに対し、難民認定手続は将来予測的な事実の証明を行うもの
であること、難民認定機関は、認定者であると同時に申請者に対する
協力者であることが求められていることによれば、訴訟手続における証
明のルールをそのまま導入することは妥当なものではないというべきで
ある。そして、その証明のルールを検討する際には、締約国各国の判
例や先例が重要な参考資料となり、それらを重視して、検討を行うべき
である。
(イ) 立証責任
 難民認定手続における立証責任の問題は、訴訟手続における立証手
続とは異質のものであり、訴訟手続における立証責任の概念は妥当し
ない。そして、我が国の難民認定制度立法過程での国会の審議におけ
る当時の法務省入国管理局長の答弁や法61条の2の3の規定によれ
ば、同条は、難民認定申請者には身分事項、経歴、迫害の根拠とされ
る事由についての説明、活動歴、自己又は同じ集団に属する他人若し
くは集団自体に対する過去の迫害の事実、出国から入国の経過、入国
後申請に至るまでの経過、入国後の活動状況について事実を提供する
義務を負い、一方で、出身国情報や、申請者が記憶する過去の事件の
有無・内容、同種の理由による我が国への難民認定申請の有無、同種
の理由による他国への難民認定申請事例の有無、申請者の活動を裏
付ける資料の収集や申請者の知人・親族等からの事情聴取などを積
極的に行うべきである。
(ウ) 立証基準
 我が国の難民認定制度は、条約上の難民をそのまま難民として認定
することが義務付けられており、いかなるものが難民として認定される
べきかは、難民条約に従って、その規定及び解釈により決せられるべ
きものであり、難民認定の目的は、紛争の解決や法的安定性の確保で
はないから、それらを目的とする訴訟制度のルールを導入する合理的
基盤はないし、その証明対象は、主観的要素を含み、将来予測を含む
ものであり、訴訟手続と異なっており、また、判断の誤りにより侵される
法益は重大であり、事後的な回復は不可能であるから、難民認定手続
の立証基準は、訴訟手続との対比からではなく、難民条約の文言に基
づき決せられるべきものであり、難民条約の内容や難民保護の目的、
各締約国の運用実務からみれば、難民性の立証基準としての「十分に
理由のある恐怖」とは、客観的な迫害の可能性ではなく、主観的な「恐
怖」に十分な理由があることであり、その「十分な理由」とは、当該申請
者がおかれた状況に、合理的な勇気を有するものが立ったときに、「帰
国したら迫害を受けるかもしれない」と感じ、国籍国への帰国をためらう
であろうと評価し得る場合に、その恐怖に「十分な理由」があるというこ
とができる。
エ 信憑性判断
(ア) 難民認定手続は、難民であることを有権的に確定する行為であるか
ら、認定機関は、個々の外国人が難民に該当する事実を具備している
か否かを誤りなく判断することが要求される。そして、この事実の確定
作業において、申請者の申請・供述の信憑性の判断は決定的な要素と
なるものである。そして、申請者が証言の全てを裏付ける物証や書証を
提出し得ることがむしろ例外的であるという難民認定手続の特殊性をか
んがみれば、信憑性評価の重要性は一層増すこととなる。
(イ) このような難民認定手続が取り扱う保護法益の重要性、難民認定に
おける信憑性判断のもつ重要性から、難民認定機関においては信憑性
判断を誤りなく行うことが求められ、難民認定における信憑性判断の有
する、①申請者及び難民認定機関の双方で証拠収集が制限されてい
るという物理的要因の特殊性、②申請者が本国において現実に迫害を
受けてきたか、あるいは潜在的に迫害の危険を有していることから、し
ばしば申請者の心的作用に障害が認められることがあり、また、官憲に
対する不信感・警戒心、出身国に残る家族や知人に危害が及ぶことを
避けようとする意識等が存するという心理的要因の特殊性、③申請者
が言語的障害・文化的相違をもち、申請者の言語や概念について審査
官の解釈が常に合致しているとは限らないという文化的要因の特殊
性、④難民認定手続について対審構造が採られていないという構造的
特殊性といった特殊性により、信憑性判断は困難で専門的な作業とな
っており、これらの特殊性を十分念頭におかねばならず、信憑性判断
が無原則なものとなれば、難民認定行為の覊束性は無に帰することと
なる。
(ウ) そして、各締約国の信憑性判断の経験上、注意すべき点の共通点
をまとめると①疑わしきは申請者の利益に(灰色の利益の原則)。この
原則は、主張の実質的本案審議と申請者の信憑性評価の両方に適用
される。②信憑性についての懸念を申請者や証人に提示し、釈明の機
会を与えなければならない。③信憑性についての否定的な判定には、
証拠中に適当な根拠がなければならず、申請者の供述は、単なる憶測
や推測により排除されるべきではない。理由を説明せずに申請者の話
を「あり得ない」とするだけでは不十分であり、なぜその証言が合理的
にあり得ることと明らかに矛盾するか説明できなければならない。特に
矛盾しない証言を排除する際には注意を払うべきである。④信憑性に
ついての否定的な判定は、申請の重要な面に基づいて行われるべきで
ある。ただし、主要でないことに関する矛盾でも、それが重なると申請者
の信憑性に疑問を投げかけることになる。⑤証拠を全体として、また客
観的で偏見のない目で考慮することが重要である。⑥矛盾のない、信
憑性のある説明については独立した裏付けは必要ではない。⑦信憑性
の欠如が理由で認めらない証拠があっても、必ずしも申請の却下につ
ながるとは限らない。⑧矛盾を見つけるのに過度の熱意を示してはなら
ない。認定者は矛盾点や信憑性がない証拠などを探し、結果として申
請者の信憑性を攻撃するために証拠を調べてはならない。⑨信憑性を
評価する際には事情に通じていなければならない。証言の信憑性と価
値は申請者の出身国の状況や法等について一般的に知られている事
実に照らし合わせて評価されなければならない。⑩信憑性について明
確な判定をし、それについて適切な理由が付されなければならない。認
定者は供述の中で信憑性がないようにみえる部分を明確に指摘し、そ
の結論に至った理由も明確に伝える義務を負う。⑪不真実表示・事実
隠ぺいや証言内容の変遷は、信憑性評価に影響を及ぼすものである
が、人が嘘をつく背景には様々な動機があり得、それ自体は申請の却
下を意味しないし、逆に、申請者の主張の信憑性を裏付ける証拠にも
なり得る。⑫常識とは、歴史的に構築されたものであり、文化によって
決定され、それゆえ普遍的でないから、その評価は重視されるべきでは
ない。⑬手続の特徴を考慮に入れるべきである。難民認定手続はしば
しば迅速で形式張らず、本質的に探求的であり、口頭の証拠のほとん
どは通訳というフィルターを通している結果、認定過程は誤解の可能性
に満ちている。申請者の緊張、トラウマや文化的相違も混乱や誤解を
作り出すことがある、⑭信憑性判断の要素として証人の様子に頼るの
は避けるべきである。⑮申請の遅延は、そのこと自体決定的な要素と
はならず、申請が遅れた背景事情を追求しなければならない。といった
ものが挙げられる。
オ 難民認定手続と適正手続
 行政手続においても憲法上、適正手続の保障があることが認められて
おり、難民認定手続においても適正手続の保障が及ぶというべきであると
ころ、我が国の難民認定手続においては、事後手続としての異議申立て
は認められるものの、難民不認定処分を出す前に申請者に釈明の機会
が与えられていない点、処分書に要求されるべき理由が明記されていな
い点、判断の主体が直接手続に関与していない点(直接主義違背)にお
いて、適正手続を欠くものといわざるを得ない。
カ 原告の難民該当性
(ア) 原告の供述の信憑性
 前記ウ(ウ)の信憑性評価の注意点に加え、供述の信用性に関する一
般原則を勘案すれば、供述の信憑性の評価に当たっては、些末な事項
についていちいち細かい点をとらえて表現の違いを問題としたり、まして
や、最初からあら探しをするような態度で供述を吟味することは妥当で
なく、全体的な供述の自然性や一貫性、重要な部分についての供述の
詳細さ、客観的証拠との符合などに重きをおいて供述をみるべきであ
る。
 このような観点から原告の供述をみるに、原告の供述は、基本的な流
れにおいて一貫しており、とりわけ不自然という点もみられない。特に、
原告が仕事を辞めて学生達の民主化運動に加わる決意をした事件の
様子、インセイン刑務所で受けた尋問の様子、原告がデモ参加中に発
砲を受けた様子などについての供述は、自ら体験したものでなければ
語り得ない具体性、迫真性がある。
 さらに、客観的証拠との符合という観点でも、原告のビルマにおける
活動の内容は、民主化運動の歴史的経緯と合致しており、原告の日本
における民主化運動の参加についての供述も客観的証拠により裏付け
られている。
 被告は、原告の供述の信憑性を疑うべき事情を縷々述べるが、いず
れも、前記ウ(ウ)の注意点に背を向けて独自の信憑性評価原則に固執
し、その信憑性評価を誤ったものというほかない。
(イ) 原告の難民該当性
a 出身国の外にあること
 原告はビルマ出身であり、現在日本に在留し当該国の外にある。
b 迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖
 原告は、民主化運動の活動家として、1988年に民主化運動に公
然と参加し、一度は逮捕され、拷問を受けたこともある。また、原告が
日本におけるビルマ民主化運動の中心的活動家の一人であることは
明らかである。
 かかる人物についての迫害の危険性についてみると、ビルマの当
時の状況やビルマにおける民主活動家に対する逮捕・拘禁そして拷
問等の迫害の実態にかんがみ、原告がビルマに継続してとどまって
いたならば、原告の自由と権利が危害を被る客観的可能性は十分に
認められたというべきであるし、我が国における活動の継続を経た本
件不認定処分時、本件退令発付処分時において、原告がビルマに
帰国すれば、逮捕や殺害の危険をはじめとして、原告の自由と権利
が危害を被る客観的可能性は十分に認められたというべきである。
 少なくとも、原告がおかれた状況に合理的勇気を有するものが立っ
たときに、「帰国したら迫害を受けるかもしれない」と感じ、国籍国へ
の帰国をためらうであろうと評価し得ることは明白である。
 したがって、原告には、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理
由のある恐怖」は優に認められる。
c 迫害
 原告に及ぶ危害の内容が生命及び身体の自由への脅威を含んで
いることは、1988年以降のビルマにおける民主化に対する弾圧の
内容をみれば明らかである。
d 理由
 原告は、ビルマにおいても、日本においても、ビルマの現軍事政権
に反対し、民主化を求めて活動してきた結果として、迫害の危険にさ
れされている。したがって、原告には、政治的意見を理由とする根拠
がある。
キ 本件不認定処分の違法
 前記アないしカによれば、原告は難民として認められること、及び十分な
理由の附記を欠いている点のいずれからしても本件不認定処分は違法で
あり取り消されるべきものである。
ク 本件裁決の違法及び無効
(ア) 前記アないしカのとおり、迫害及び拷問のおそれが認められる原告
については、難民条約33条1項及び拷問及びその他の残虐な非人道
的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰を禁止する条約3条1項に違
反しないために、また、人道上の見地からも、被告法務大臣は、原告に
対し在留特別許可をすべきであった。しかし、被告法務大臣はこれをせ
ず、原告に対して、本件裁決をした。これは、処分の前提たる事実に誤
認があったものであり、同裁決は、取り消されるべきものであり、その瑕
疵の重大性にかんがみれば、本件裁決は無効であるともいえる。
(イ) 平成13年事件の請求の趣旨の記載について
 原告は、平成13年事件訴状において、被告法務大臣を被告とする本
件裁決の取消訴訟を提起したのであるが、請求の趣旨において、その
旨の記載が脱漏していた。
 事件名を退去強制令書発付処分等取消請求事件と「等」を付している
こと、当事者目録において被告主任審査官と列記して法務大臣を被告
としていること、訴状の請求原因において「行政処分の存在」の項で本
件裁決の告知を受けたことについて述べていること、請求原因4項の表
題が「本件裁決及び退去強制令書発付の違法性」となっていること、同
項(3)の表題も「原告に対する本件裁決・退去強制令書発付の是非」とし
ていることから、これが単なる脱漏にすぎず、訴状において既に原告が
本件裁決の取消しを求めていることは、一見明白である。
ケ 本件退令発付処分の違法
 本件裁決が違法であることにより、本件退令発付処分も当然に取り消さ
れることになるが、本件退令発付処分は、難民条約33条1項及び拷問等
禁止条約3条1項のノンルフールマン原則に違反して、送還先を本国と指
定しており、本件退令発付処分は、難民条約及び拷問等禁止条約に違反
する違法なものである。
(2) 被告ら
ア 難民・迫害の意義
(ア) 法に定める「難民」とは、難民条約1条又は難民議定書1条の規定に
より難民条約の適用を受ける難民をいうところ(法2条3号の2)、同規
定によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団
の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあ
るという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者
であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのよう
な恐怖を有するために国籍国の保護を受けることを望まないもの及び
(中略)常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居
所を有していた国に帰ることができないもの又はそのような恐怖を有す
るために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」とされ
ている。そして、その「迫害」とは、「通常人において受忍し得ない苦痛を
もたらす攻撃ないし圧迫であって、生命又は身体の自由の侵害又は抑
圧」を意味し、また、上記のように「迫害を受けるおそれがあるという十
分に理由のある恐怖を有する」というためには、「当該人が迫害を受け
る恐れがあるという恐怖を抱いていたという主観的な事情のほかに、通
常人が当該人の立場に置かれた場合にも迫害の恐怖を抱くような客観
的な事情が存在していること」が必要である。
(イ) そして、ここにいう客観的な事情があるというためには、単に迫害を
受ける恐れがあるという抽象的な可能性が存するにすぎないといった
事情では足りず、当該申請者について迫害を受ける恐れがあるという
恐怖を抱くような個別的かつ具体的な事情が存することが必要である。
すなわち、ある国の政府によって民族浄化が図られていることが明らか
な場合はともかく、そうでなければ、当該政府が特に当該難民認定申請
者を迫害の対象としたことが明らかになる事情が存在しなければならな
いのである。そのことは、難民条約及び議定書が集団全体を一個の難
民として認定する手法を採用していないこと、原告が頻繁に引用するU
NHCR作成の難民認定ハンドブックにおいても「各個人の状況はそれ
ぞれの事案ごとに評価されなければならない」(43項)、「ある特定の人
種的集団に属するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏
付けるのに十分とはいえない」(70項)、「ある特定の宗教的社会に属
するという事実のみでは、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十
分とはいえない」(73項)、「特定の社会的集団に属するという事実のみ
では、通常、難民の地位の申請を裏付けるのに十分とはいえない」(79
項)、「政治犯罪人が難民に該当するか否かを決定するに当たっては次
のような要素が考慮に入れられなければならない。即ち、申請人の人
格、政治的意見、犯罪の動機、犯された行為の性質、訴追の性質及び
動機、そして最後に訴追がなされる基礎となっている法律の性質がこれ
である」(86項)とされていることからも明らかである。
イ 難民であることの立証責任は原告にあり、真偽不明な場合は難民とは認
定されないこと
(ア) いかなる手続きを経て難民の認定手続がされるべきかについては、
難民条約に規定がなく、難民条約を締結した各国の立法政策にゆだね
られているところ、我が国において法61条の2第1項は、「法務大臣
は、本邦にある外国人から法務省令で定める手続により申請があった
ときは、その提出した資料に基づき、その者が難民である旨の認定(以
下「難民の認定」という。)を行うことができる。」と定め、申請者に対し申
請資料として「難民に該当することを証する資料」の提出を求めている
(法施行規則55条1項)。この法令の文理からすれば、難民であること
の資料の提出義務と立証責任が申請者に課されていることは明らかで
ある。
 このように、難民不認定処分は、申請者が自ら難民であることを立証
できなかったために行われる処分であることから、その提出した資料等
からも難民ではないと確認される場合と、難民であるとも難民でないと
も確定的には確認できない(真偽不明)場合との双方を含む概念であ
る。
(イ) このことは、難民認定処分の処分としての性質からも明らかである。
 すなわち、難民認定処分は、当該難民認定申請者(以下単に「申請
者」という。)が難民条約所定の「難民」であるか否かを申請者から提出
された資料に基づいて確認し、処分時において難民であることを認定す
る行為である。このように難民認定処分は本質的には事実の確認であ
るが、法務大臣により難民認定を受けていることが、他の利益的取扱い
を受けるための法律上の要件となっており(法61条の2の5、61条の2
の6、61条の2の8)、この点からすると、難民認定処分は、その処分自
体が申請者に対して直ちに何らかの権利を付与するものではないもの
の、授益処分とみるべきである。
 授益処分については、一般に、申請者側に処分の基礎となる資料の
提出義務と立証責任があると解されているのであって、このような難民
認定処分の性質からみても、難民認定の資料は、授益者となるべき申
請者が提出すべきものである。
(ウ) さらに、このことは、難民認定のための資料との距離という観点から
みても、合理的である。
 すなわち、難民であると認められるためには、前記のとおり、「人権、
宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的
意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖
を有する」ことが立証される必要があり、このような難民該当性の判断
の対象とされる諸事情は、事柄の性質上、外国でしかも秘密裏にされ
たものであることが多い。このような事実の有無及びその内容は、それ
を直接体験した申請者こそが最もよく知ることができる立場にあって、
申請者においてこれを正確に申告することは容易である。しかも、これ
らの事実は難民認定を受けるための積極的な事実であって申請者に
有利な事実である。
 これに対し、法務大臣は、それらの事実につき資料を収集することが
そもそも困難であり、ましてや、難民該当性を基礎付ける事実の不存在
を立証する資料の収集は不可能に近い。
 仮に、法務大臣にこうした資料収集の義務を負わせるとすると、法務
大臣に難民認定手続上の過重な負担を負わせ、適正な難民認定がで
きなくなる恐れが生じる。このような観点からも、法は、申請者に自らが
難民であることを証明する資料を提出する義務を負わせ、真偽不明な
場合には難民不認定処分を行うことができるとしたものと解される。 
ウ 難民認定されるための立証の程度
(ア) 原告は、難民認定されるための立証の程度は、争訟手続と同様に解
することができず、我が国の訴訟制度において採用されている「合理的
疑いを容れない程度の証明」である必要はない旨を主張するところ、原
告の同主張が、難民認定手続において、行政庁である法務大臣が難
民認定申請者の難民該当性を判断する際に当該申請者が尽くすべき
立証の程度を指すものか、不認定処分の取消しを求めた訴訟手続にお
いて、原告として尽くすべき立証の程度を指しているのかは必ずしも明
らかではない。
 しかしながら、本件においては、原告を難民と認定しなかった被告の
判断の適否、すなわち、原告が本件不認定処分当時において難民と認
められるに必要な「十分に理由のある迫害の恐怖」を有していたかが訴
訟の場において争われているのであるから、原告がこの点について「合
理的な疑いを容れない程度の証明」をしなければならないのは当然で
ある。
 すなわち、民事訴訟における「証明」とは、裁判官が事実の存否につ
いて確信を得た状態をいい、合理的な疑いを容れることができないほど
高度の蓋然性があるものでなければならないが、通常人なら誰でも疑
いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信で足りる。行政事件につい
て行政事件訴訟法に定めがない事項については民事訴訟の例による
から、上記の民事訴訟法の原則は、特段の定めがない限り、行政訴訟
における実体上の要件に該当する事実の証明についても当然当ては
まるものである。
 以上のような民事訴訟における事実の証明は、実体法の定める全て
の要件に共通するものであり、特別の定めがないにもかかわらず、特
定の類型の事件若しくは特定の事件の特定の要件に該当する事実に
限って証明の程度を軽減することは許されない。しかるところ、難民認
定手続について、難民条約及び難民議定書には、難民認定に関する立
証責任や立証の程度についての規定は設けられておらず、難民認定に
関しいかなる制度及び手続を設けるか否かについては、締約国の立法
政策にゆだねられているが、我が国の法は、難民認定手続やその後の
訴訟手続について、立証責任を緩和する旨の規定は存しない。そうで
ある以上、難民認定手続やその後の訴訟手続について、立証責任を緩
和する旨の規定は存しない。そうである以上、難民認定されるための立
証の程度は、難民認定手続においても、その後の訴訟手続において
も、通常の民事訴訟における原則に従うべきであり、難民認定申請者
は、自己が難民であることについて、「合理的な疑いを容れない程度の
証明」をしなければならない。
(イ) この点に関し、原告は、いわゆる灰色の利益論を主張するが、原告
の主張が独自の法解釈に基づくもので到底現行法の解釈とし採り得な
いことは明らかである。原告の主張する難民認定手続の特殊性につい
ては、いずれも各事案において自由心証の枠内で当該裁判所が考慮
すべきかどうか検討すれば足りるものであり、法解釈として難民認定の
立証基準や立証責任を原告側に緩和すべき理由はない。現に裁判例
をみても、一般の民事訴訟と同様の立証責任と立証の程度を求めてい
る。
エ 原告が難民とは認められないこと
 前記アないしウのとおり、本件不認定処分が違法であるとしてこれを取
り消すためには、原告において、自らが難民であることにつき「合理的な
疑いを容れない程度の証明」をしなければならないが、本件においては、
次の諸点からすると(被告らは、当初他の事情を指摘していたが、口頭弁
論終結時に陳述した準備書面(6)においては、次の(ア)ないし(エ)を指摘す
るにとどまっている。)、このような立証責任論を持ち出すまでもなく、原告
が難民でないことは明らかというべきである。
(ア) ミャンマー政府が原告を迫害の対象としているとはおよそ考え難いこ

 原告は、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としているという根拠とし
て、1988(昭和63)年3月に反政府活動に参加するようになり、デモや
集会に参加し同年6月に当局に約1週間拘束されたこと、同年10月に
は当局による再度の拘束を恐れてインドへ逃れたこと、1989(平成元)
年1月に帰国した後もビラを配るなどの反政府活動に従事したこと、反
政府活動家としてリストに登載されていることなどを主張する。
 しかしながら、これらを裏付ける客観的な証拠はなく、その指摘する出
来事はいずれもにわかに信じ難いものばかりである上、1989(平成
元)年10月10日、本国政府から原告名義の有効な旅券の発券を受
け、同年11月には何の問題もなく出国し、タイを経由して来日している
ばかりか、その際、成田空港において、在日ミャンマー大使館員の息子
の出迎えを受け、平成5年から平成8年までに入国時に使用した旅券
の更新手続を4回にわたって在東京ミャンマー大使館において行ってい
る。原告が、ミャンマー大使館において旅券の更新手続を行っているこ
とは、原告が本国政府に対して庇護を求めていること、迫害を受けるお
それや恐怖心など抱いていないこと、本国政府から敵視されていないこ
との現れである。本国では、原告の両親も平穏に生活していることがう
かがわれ、平成10年6月には、原告が交際していた日本人女性に会う
ために来日し、無事帰国している。したがって、ミャンマー政府が原告を
迫害の対象としていたなどとはおよそ考え難く、「迫害を受けるおそれ
があるという十分に理由のある恐怖」を原告が有していたとは到底認め
難いというべきである。
(イ) 原告の来日目的は本邦での不法就労であること
 被告らも、申請人が就労活動をしたからといって直ちに難民性を失う
とまで主張するものではないが、原告は、本法入国の動機として日本の
先端技術にあこがれており、電気関係の技術を学びたかったとも供述
し、来日した約1週間後には、栃木県芳賀郡e町所在の会社で溶接工と
して不法就労を開始し、その後、都内のそば屋や清掃員、ラーメン店、
居酒屋等で稼働するなどしていたが、来日後7年余り、その間、難民認
定申請することも、我が国に対して庇護を求めることもなかったもので
あって、原告の本邦への真の入国目的は、不法就労にあったものと推
認せざるを得ない。
(ウ) 原告が反政府活動等に従事していたとは考え難いこと
 原告は、自らが反政府活動をしていたことを裏付ける一つの出来事と
して、1988年に他の学生とともにアウンサンスーチー女史(以下「ス
ー・チー女史」という。)に会いに行き、直接、武装闘争を訴えて同人に
反対されたなどと主張する。
 反政府活動の重要人物と目されるスー・チー女史と直接対話したこと
があるということは、本邦において難民認定申請をする者が自己の難
民性を裏付ける有力な事情として強調する傾向があることが顕著にみ
られるものであるものの、平成9年2月3日に原告によって作成された
難民認定申請書において、この点は何ら触れられていない。原告は、
難民調査官の質問の仕方が原因でこの事実が記載されなかった旨述
べるが、そもそも、スー・チー女史と対話したことがあるなどということ
は、本件各事件の訴状や執行停止事件にかかる疎明資料等のいずれ
においても何ら主張されていなかったのである。一方で、原告は、難民
認定申請時には、この旨を全て代理人に話した旨述べていたというの
であるが、これが事実とすれば訴状等に記載されていないこと自体が
不可解である。結局、本件難民認定申請後6年以上も経過した、平成1
5年6月3日付け原告の供述録取書において初めて、上記のような陳述
を始めたものと認められ、なぜ当初からその点の供述がされなかった
かについて、何ら合理的な説明はされていないのである。
 以上の事情にかんがみると、原告自身がスー・チー女史と会って武装
闘争の話をしたとする供述自体疑わしい。
 こうした点に加え、原告は、本国での迫害をおそれ一時インドに逃れ
たなどと主張しているが、インドに3か月ほど滞在したものの、体の不調
を来して帰国したなどと、本国政府から迫害を受けてインドに逃れた者
とは考えられない供述をするなどしていることに照らしても、原告が反政
府活動をしていたとも考え難い。
(エ) 原告が不自然な供述を繰り返したこと
a 原告は、原告の両親が来日したことがある旨を述べていたが、本人
尋問においては、この事実を否定し、原告の父親のみが1回来日し
たことがあるにすぎないなどと供述したり、一転してさらにこれを翻し
たりするなど、いかにも場当たり的な供述に終始した。
 また、原告は、両親が来日する際、盗聴等をおそれ、両親との連絡
は、全て交際中であった日本人女性が行った旨述べるが、同人は、
英語の会話能力もミャンマー後の会話能力もほとんどないことを自認
しているのであるから、原告の両親と来日に関わる連絡を全て日本
人女性が行ったとの原告の供述はもとより信用できず、原告が本国
の家族との間の手紙が没収されることや電話が盗聴されることを恐
れていると述べていることも信用できない。
b 原告は、本国の家族構成につき、難民認定申請書に父母及び5人
の姉妹を記載し、原告以外に家族で来日歴があるのは両親だけであ
る旨述べ、被告らが入国歴がある旨指摘したBは、原告の姉とは全く
別人である旨供述している。しかしながら、原告の難民認定申請書に
は、姉妹としてBとの記載がある上、原告の外国人登録証明書写し
の表面に世帯主として記載されている人物名と同一である。そして、
Bが供述した家族関係は、原告以外の家族については原告が難民
認定申請書に記載した家族関係と一致している上、本国の住所も一
致していることからすると、原告らは姉弟であるにも関わらず、ことさ
らにこれを隠そうとして虚偽の供述をしていることは明らかである。ま
た、原告にはCという妹が本国におり、同人が来日したことはない旨
述べるところ、原告及びBと本国における住所を同じくするCなる人物
が平成7年12月11日に本邦に入国し、同人の外国人入国記録の連
絡先として原告及びBの外国人登録をした住所が記載されている。
そして、Cは、原告と同様、Bを世帯主及び同人の妹として、前記住
所を居住地として外国人登録を行っており、その際のCの父母の氏
名及び本国の住所は、原告及びBの父母の氏名や本国の住所と一
致しており、原告は、姉妹関係や妹の来日歴を殊更に隠しているとい
うほかない。
 なお、Cは、在留期限である平成8年3月10日を超えて本邦内にと
どまった後、在東京ミャンマー大使館において平成11年5月28日付
け旅行文書となる身分証明書の発給を受け、同年6月1日、東京入
管に出頭し、不法残留事実を申告した。東京入管主任審査官は、同
日、送還先をミャンマーとした退去強制令書を発付し、Cは、関西空
港から送還された。
(オ) 小括
 以上から判断すると、結局、原告は、本邦で専ら稼働することを目的
に入国し、在留資格を得るための口実として、難民認定申請をしたもの
と推認せざるを得ず、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としていたな
どとはおよそ考え難く、「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由の
ある恐怖」を原告が有していたとは到底認め難い。
オ 本件裁決取消の訴えについて
(ア) 本件裁決取消しの訴えについて
 原告は、平成13年事件の平成14年1月29日付け訴状の訂正申立
書及び平成15年11月7日付けの原告準備書面(4)において、請求の
趣旨に本件裁決の取消しを求める訴えの記載が欠落していたとして、こ
れを訂正する旨の申立てをしているが、請求の原因を記載した部分に
も、本件裁決の取消しを求める旨の記載はなく、これを単なる記載漏れ
として処理することは許されない。原告の上記申立てを善解すれば、平
成14年1月29日付けでされた訴えの追加的併合の申立てと解するの
が相当であるが、被告法務大臣が原告に対して本件裁決の告知をした
のは、平成13年7月9日であるから、出訴期間を明らかに徒過してお
り、本件裁決の取消しを求める訴えは不適法というほかない。
(イ) 本件裁決の適法性
 原告が難民であると認め難いことは、前記エのとおりであり、在留特
別許可を付与すべき積極的な理由が原告にあるとは到底考えられない
から、在留特別許可を付与することなくされた本件裁決が適法であるこ
とは明らかである。
カ 本件退令発付処分の適法性
 退去強制手続において、法務大臣から「異議の申出は理由がない」との
裁決をした旨の通知を受けた場合、主任審査官は、速やかに退去強制令
書を発付しなければならず、この点について裁量の余地はない。
 また、主任審査官の送還先に関する判断にも誤りはない。
 したがって、本件退令発付処分は適法である。
第3 争点及び争点に関する当裁判所の判断
 本件の争点は、①本件裁決の取消訴訟の適法性(争点1)、②本件不認定処分
及び本件退令発付処分の適法性であり、②の前提として、原告の難民該当性
(争点2)が問題となる。
1 争点1(本件裁決の取消訴訟の適法性)
(1) 法49条1項の異議の申出に対する裁決の処分性
ア 法49条1項の異議の申出を受けた法務大臣は、同異議の申出に理由
があるかどうかを裁決して、その結果を主任審査官に通知しなければなら
ず(法49条3項)、主任審査官は、法務大臣から異議の申出に理由があ
るとした旨の通知を受けたときは、直ちに当該容疑者を放免しなければな
らない一方で(同条4項)、法務大臣から異議の申出が理由がないと裁決
した旨の通知を受けたときは、速やかに当該容疑者に対しその旨を知ら
せるとともに、法51条の規定による退去強制令書を発付しなければなら
ないこととされている(法49条5項)。
 このように、法は、法務大臣による裁決の結果につき、異議の申出に理
由がある場合及び理由がない場合のいずれにおいても、当該容疑者に対
してではなく主任審査官に対して通知することとしている上、法務大臣が
異議の申出に理由がないと裁決した場合には、法務大臣から通知を受け
た主任審査官が当該容疑者に対してその旨を通知すべきこととする一
方、法務大臣が異議の申出に理由があると裁決した場合には、当該容疑
者に対しその旨の通知をすべきことを規定しておらず、単に主任審査官が
当該容疑者を放免すべきことを定めるのみであって、いずれの場合も、法
務大臣がその名において異議の申出をした当該容疑者に対し直接応答
することは予定していない(なお、平成13年法務省令76号による改正後
の法施行規則43条2項は、法49条5項に規定する主任審査官による容
疑者への通知は別記61号の2による裁決通知書によって行うものとする
と定めているが、この規定はあくまで主任審査官が容疑者に対して通知
する方式を定めたものにすぎず、法の定め自体に変更がない以上、この
規則改正をもって法務大臣が容疑者に直接応答することとなったとは考
えられない。)。こうした法の定め方からすれば、法49条3項の裁決は、そ
の位置づけとしては退去強制手続を担当する行政機関内の内部的決裁
行為と解するのが相当であって、行政庁への不服申立てに対する応答行
為としての行政事件訴訟法3条3項の「裁決」には当たらないというべきで
ある。
イ このことは、法の改正の経緯に照らしても明らかである。すなわち、法第
5章の定める退去強制の手続は、法の題名改正前の出入国管理令(昭和
26年政令319号)の制定の際に、そのさらに前身である不法入国者等退
去強制手続令(昭和26年政令第33号)5条ないし19条の規定する手続
を受け継いだものと考えられ、同手続令においては、入国審査官が発付
した退去強制令書について地方審査会に不服申立てをすることができ(9
条)、地方審査会の判定にも不服がある場合には中央審査会に不服の申
立てをすることができ(12条)、中央審査会は、不服の申立てに理由があ
るかどうかを判定して、その結果を出入国管理庁長官(以下「長官」とい
う。)に報告することとされ、報告を受けた長官は、中央審査会の判定を承
認するかどうかを速やかに決定し、その結果に基づき、事件の差戻し又は
退去強制令書の発付を受けた者の即時放免若しくは退去強制を命じなけ
ればならないものとされていた(14条)もので、この長官の承認が、法49
条3項の裁決に変わったものと考えられる。そして、長官の承認は、中央
審査会の報告を受けて行われるものとされていて、退去強制令書の発付
を受けた者が長官に対して不服を申し立てることは何ら予定されておら
ず、長官の承認・不承認は、退去強制手続を担当する側の内部的決裁行
為にほかならない。したがって、同制度を受け継いだものと考えられる法4
9条3項の裁決についても、退去強制令書の発付を受けた者の異議申出
を前提とする点において異なるものの、その者に対する直接の応答行為
を予定していない以上、基本的には同様の性格のものと考えるのが自然
な解釈ということができる。
ウ また、前記の解釈は、法49条1項が、行政庁に対する不服申立てにつ
いての一般的な法令用語である「異議の申立て」を用いずに、「異議の申
出」との用語を用いていることからも裏付けられる。すなわち、昭和37年
に訴願法を廃止するとともに行政不服審査法(昭和37年法第160号)が
制定されたが、同法は、行政庁に対する不服申立てを「異議申立て」、「審
査請求」及び「再審査請求」の3種類(同法3条1項)に統一し、これに伴
い、行政不服審査法の施行に伴う関係法律の整理等に関する法律(昭和
37年法律第161号)は、それまで各行政法規が定めていた不服申立て
のうち、行政不服審査法によることとなった行政処分に対する不服申立て
は廃止するとともに、行政処分以外の行政作用に対する不服申立ては前
記3種類以外の名称に改め、そうした名称の一つとして「異議の申出」を
用いることとした。
 他方、法の対象とする外国人の出入国についての処分は行政不服審査
の対象からは除外されている(同法4条1項10号)とはいえ、前記のとおり
行政不服審査法の制定に際して個別に不服申立手続について規定する
多数の法令についても不服申立てに関する法令用語の統一が図られた
のに、法49条1項に関しては、従前どおり「異議の申出」との用語が用い
られたまま改正がされず、法についてはその後も数次にわたって改正がさ
れたにもかかわらず、やはり法49条1項の「異議の申出」との用語につい
ては改正がされなかった。そして、現在においては、法令用語としての「異
議の申出」と「異議の申立て」は通常区別して用いられ、「異議の申出」に
対しては応答義務さえないか、又は応答義務があっても申立人に保障さ
れているのは形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されるこ
となく何らかの実体判断を受けることだけである場合に用いられる用語で
あるのに対し、「異議の申立て」は、内容的にも適法な応答を受ける地位、
すなわち手続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権を認
める場合に用いられる用語として定着しているということができる。したが
って、数次にわたる改正を経てもなお「異議の申出」の用語が用いられて
いる法49条1項の異議の申出は、これにより、法務大臣が退去強制手続
に関する監督権を発動することを促す途を拓いているものではあるが、同
異議の申出自体に対しては、被告の応答義務がないか、又は、応答義務
があっても、形式的要件の不備を理由として不当に申出を排斥されること
なく何らかの実体判断を受けることが保障されるだけであり、申出人に手
続上の権利ないし法的地位としての申請権ないし申立権が認められてい
るものとは解されない(最高裁第1小法廷判決昭和61年2月13日民集4
0巻1号1頁は、土地改良法96条の2第5項及び9条1項に規定する異議
の申出につき、同旨の判示をしている。)。
 よって、法49条1項の異議の申出に対してされる法49条3項の「裁決」
は、不服申立人にそうした手続的権利ないし地位があることを前提とする
「審査請求、異議申立てその他の不服申立て」に対する行政庁の裁決、
決定その他の行為には該当せず、行政事件訴訟法3条3項の裁決の取
消しの訴えの対象となるということはできない。
エ さらに、法49条1項の異議の申出については、前記のとおり、申出人に
対して法の規定により手続上の権利ないし法的地位としての申請権ない
し申立権が認められているものと解することはできないのであるから、異
議の申出に理由がない旨の裁決がこうした手続上の権利ないし法的地位
に変動を生じさせるものということはできず、同裁決が行政事件訴訟法3
条2項の「処分」に当たるということもできない(前記ウの最1小判参照。)。
オ 以上によれば、法49条1項の異議の申出に対する法務大臣の裁決は
内部的決裁行為というべきものであり、行政事件訴訟法3条1項にいう公
権力の行使には該当しないというべきものである。
(2) 退去強制令書発付処分における主任審査官の裁量及び比例原則の適用
ア 法24条は、同条各号の定める退去強制事由に該当する外国人につい
ては、法第5章に規定する手続により、「本邦からの退去を強制すること
ができる」と定めている。そして、いかなる場合において行政庁に裁量が
認められるかの判断において、法律の規定が重要な判断根拠となること
に異論はないというべきであり、法律の文言が行政庁を主体として「・・・す
ることができる」との規定をおいている際には、その裁量の内容はともか
く、立法者が行政庁に一定の効果裁量を認める趣旨であると解すべきも
のであって、同条が退去強制に関する実体規定として、退去強制事由に
該当する外国人に対して退去を強制するか否かについてはこれを担当す
る行政庁に裁量があることを規定しているのは明らかであり、法第5章の
手続規定は、主任審査官の退去強制令書の発付に至る手続を規定して
いるにすぎないことからすれば、退去強制について実体規定である法24
条の認める裁量は、具体的には、退去強制に関する前記手続規定を介し
て主任審査官に与えられ、その結果、主任審査官には、退去強制令書を
発付するか否か(効果裁量)、発付するとしてこれをいつ発付するか(時の
裁量)につき、裁量が認められているというべきである。
 このような解釈は、行政法の解釈において伝統的に認められる行政便
宜主義、すなわち権力発動要件が充足されている場合にも行政庁はこれ
を行使しないことができるとの考え方や、警察比例の原則、すなわち、警
察法分野においては、一般に行政庁の権限行使の目的は公共の安全と
秩序を維持することにあり、その権限行使はそれを維持するため必要最
小限なものにとどまるべきであるとの考え方ばかりか、憲法13条の趣旨
等に基づき、権力的行政一般に比例原則を認める考え方によっても肯定
されるべきものである。
イ なお、法47条4項、48条8項及び49条5項は、いずれも「主任審査官
は・・・(中略)・・・退去強制令書を発付しなければならない。」と規定してお
り、その文言は、上記の解釈に反するようにみえないでもない。
 しかし、退去強制手続は、原則として容疑者である外国人の身柄を収容
令書により拘束していることを前提としているため、その手続を担当する
者が何の考慮もないままに手続を中断し、放置することを許さないように、
法47条1項、48条6項及び49条4項において、それぞれ容疑者が退去
強制事由に該当しないと認められる場合に「直ちにその者を放免しなけれ
ばならない」ことを定めるとともに、法47条4項、48条8項及び49条5項
においては、退去強制に向けて手続を進める場合においても、「退去強制
令書を発付しなければならない」として主任審査官の義務としての規定を
おいたものと解され、これらの規定と法24条をあわせて解釈すれば、実
体規定である法24条において退去強制について前記効果裁量及び時の
裁量を認めている以上、主任審査官において、そうした裁量の判断要素
について十分考慮してもなお退去強制手続を進めるべきであると判断し
た場合には、放免又は退去に至らないまま手続を放置せず、法の定める
次の手続に進む(退去強制令書を発付する)べきことを定めたものと解す
べきである。このように法の各規定をその位置づけに応じて解釈すれば、
主任審査官に退去強制令書発付についての裁量を認めることは、法47
条4項、48条8項及び49条5項の各規定と何ら矛盾するものではない。
ウ また、退去強制事由に該当する外国人には比例原則において警察権の
行使と対比されるべき権利利益が存在せず、退去強制令書の発付には、
法の定める要件適合性以外に比例原則違反の有無が問題となる余地が
ないとの考え方もないではない。
 しかし、たとえ正規の在留資格を有しない外国人であっても、その性質
が許す限り基本的人権を享有するのであって、退去強制手続に当たって
も、このことと外国人の出入国の公正な管理という公益上の要請とを調和
させる必要があることはいうまでもないことであり、上記の考え方は、当該
外国人の人権を全く無視するに等しく、到底採用できない。
 なお、退去強制令書の発付は、これまでの訴訟実務上は行政処分とし
て扱われているが、これに応じない者に対しては直ちに実力を持って執行
することが可能なものであることからすると、むしろ義務の賦課という段階
を伴わない即時強制(又は即時執行)手続とみるべきものであって(このよ
うに解しても、その実力行使の継続性からして取消訴訟の対象となること
には問題がない。)、それが、行政処分という義務の賦課にとどまるものに
比べて、より直接的かつ強力な権力行使の手段であることからして、比例
原則のより厳格な適用が求められるべきであり、このことは学説上も異論
がないものと思われる。すなわち、法は、退去強制事由を定めているが、
それらは一般的かつ抽象的にみて比例原則を満たすことが多いと考えら
れる類型にすぎないのであるから、それらに該当することのみをもって比
例原則上の問題がないとは到底いえず、現に退去強制令書を発付するに
当たっては、それが比例原則に違反しないか否かにつき、当該外国人の
個別具体的事情など当該事案に即した個別的かつ具体的な検討を要す
るのであり、退去強制令書の発付が、このような検討を全く経ないでされ
た場合や、考慮すべき事情を考慮せず、考慮すべきでない事情を考慮す
るなどして社会通念上著しく不当な判断をした場合には、当該令書の発付
は、比例原則に反する違法なものになるというべきである。
エ そのほか、上級行政機関である法務大臣の意思決定を同大臣の指揮監
督を受ける下級行政機関である主任審査官が、その独自の判断に基づ
いて覆し、あるいはその適用時期を考慮できるとすることは行政組織法上
の観点から想定し難いとの考え方もないではないが、前記のとおり裁決
は、行政処分ではなく単なる行政機関内部における決裁手続にすぎない
と解すべきであるから、その決裁の趣旨が退去強制令書の発付を命じる
趣旨であるとしても、それは組織法上の義務を生じさせるにとどまり、それ
により当該発付処分が適法となるのではなく、客観的に裁量違反ないし比
例原則違反の事実がある場合には当該処分は違法といわざるを得ない。
このことは処分庁が事前に上級行政庁の決裁を受けて行政処分をした場
合一般に生じることであり、そのような決裁が行われたとしても、裁量権行
使の主体は、あくまでも当該行政処分を行う行政庁であり、上級行政庁と
なるわけではないのである。
(3) 以上を前提とすれば、法49条1項の異議の申出に対する裁決につきその
取消しを求める訴訟は、対象の処分性を欠く不適法なものといわざるを得な
いこととなり、前記(2)のとおり、退去強制令書発付処分につき効果裁量、時
の裁量が認められていることによれば、退去強制令書発付処分の取消し等
を求める訴訟において、退去強制事由の有無に加え、その裁量の逸脱濫用
についても同処分の違法事由として主張し得ると解すべきである。このよう
な解釈によれば、前記判示の解釈により法49条3項の法務大臣の裁決に
つき独立して適法に取消訴訟を提起することができなくなるが、法49条3項
の裁決の取消訴訟で問題とされた法務大臣の裁量権行使の適否は、退去
強制令書発付における主任審査官の裁量権行使の適否においてもほぼ同
一の内容で審理の対象となるべきものであって、外国人が退去を強制され
ることを争う機会を狭めるものとはならない。むしろ、在留特別許可をするか
否かの判断がたまたま法49条の裁決に当たってされるとの制度が採用され
ていることのみを捉え、本来全く別個の制度である在留特別許可の判断(法
50条3項は、在留特別許可が、専ら退去強制事由に該当するか否かを判
断してされる法49条の裁決とは本来的に異なる制度であることから、在留
特別許可がされた場合には、あえて、それを法49条4項の適用につき異議
の申出に理由がある旨の裁決とみなす旨を定めている。)の当否を法49条
3項の裁決の違法事由として主張し得ることを認めるという無理のある解釈
を採用する必要がなくなるものである。
(4) そうすると、本件訴状の請求の趣旨において裁決の取消しを求める旨の
記載が欠けていたことについて、仮に、原告の主張するとおり、請求の趣旨
の脱漏であり、当初から裁決の取消しを求めるものであったと評価するとし
ても、同請求に係る訴えは、もとより、原告が追加的に申し立てた同裁決の
無効確認の訴えもまた、行政事件訴訟法3条において取消しを求める対象
として挙げられた処分その他の公権力の行使に当たる行為や審査請求、異
議申立てその他の不服申立てに対する行政庁の裁決、決定その他の行為
に該当しないものを対象としている点において不適法なものといわざるを得
ないこととなる。
2 争点2(原告の難民該当性)
(1) 原告の出身国情報
 証拠(甲11ないし甲13)及び顕著な事実(外務省ホームページ各国・地域
情勢、ミャンマー政府/在日ミャンマー大使館公式ホームページビジネス情
報・ミャンマーの歴史参照)によれば、原告の出身国であるミャンマー(ビル
マ)の状況等については、以下の事実が認められる。
ア 歴史的沿革
 ミャンマーにおいては、ネウィン将軍が昭和37年(1962年)のクーデタ
ーで民主的に選出された政権を覆し、ビルマ社会主義計画党を設立し、
社会主義政権を維持してきた。その後、昭和63年(1988年)3月上旬に
学生の先導によって大衆民主化運動が起こったが、この運動は当時の政
権により激しい弾圧が加えられ、政治囚への拷問や虐待はエスカレート
し、治安部隊によって約3000人が殺害されたと推定されている。この民
主化運動によって26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍は、同
年9月にデモを鎮圧するとともに国家秩序回復評議会(SLORC)を組織し
政権を掌握し、民主化運動を暴力的に弾圧した。これにより、何百人もの
学生が反政府的な行動に加わったとして逮捕され、少なくとも43人の政
治囚(実際の数はこれよりかなり多いと考えられている。)が、拷問や虐
待、刑務所内の厳しい状態、不十分な医療、衛生、栄養状態により身柄
拘束中に命を落としている。また、多数の若い活動家が近隣国に逃れた
一方で、国内で闘争を続けようとした者もいたが、その多くが逮捕されるこ
ととなった。政権は国軍司令官タン・シェ将軍を頂点とし、国軍高官により
編成され、同政権による支配は現在も続いている。
 SLORCは、政権樹立と同時に、平成2年(1990年)に選挙を行うことを
表明したものの、選挙の準備段階として政党の活動が活発化するにつ
れ、取締りを強化し、平成元年(1989年)7月には大規模な取締りに至
り、NLDの指導者であるスー・チー女史をはじめ、何百人もの逮捕者が出
た。学生たちも逮捕・投獄の標的とされた。
 平成2年5月に選挙が実施され、スー・チー女史率いる国民民主連盟(N
LD)が圧勝したものの、SLORCは、民政移管のためには堅固な憲法が
必要であるなどとして、国会を召集せず、政権委譲も行わないまま、平成
7年(1995年)に至るまでスー・チー女史に対し国家防御法違反により自
宅軟禁措置を課した。
 平成8年(1996年)末には、5年ぶりに学生デモがヤンゴン、マンダレー
及びその他の主要な都市で連続して発生した。デモは、ヤンゴン工科大
学の3人の学生に対する警察による暴行への抗議として10月に始まり、
12月はじめまでにはヤンゴン大学の本キャンパスにまで広がって、200
0人の学生及び少なくともそれと同じくらいの数の一般市民にまで膨れ上
がった。最終的には武装した暴動警察と兵士が群衆を襲撃し、何百人も
逮捕した。12月4日、政府は609人が拘留され、そのうちの487名は学
生で122人は「煽動者」であるとする声明を発表した(平成9年(1997年)
末の時点で、そのうちほぼ100人は拘留されていると考えられている。)。
デモの間、SLORCは、ヤンゴン、マンダレーなどの主要都市において大
学から小学校までの全ての学校を閉鎖し、学生を強制的に帰省させた。
初等学校及び一部の中等学校は翌年7月ないし8月に再開されたが、ほ
とんどの高等学校、単科大学及び総合大学は、平成10年(1998年)1月
時点ではまだ閉鎖されたままであった。SLORCは、その際の抗議集会等
に関係した34名に対し、翌11年(1997年)1月に判決を下し、最短で7
年の禁固刑が科された。
 SLORCは、NLDが1990年選挙の7周年記念を迎えるために平成11
年(1997年)5月27日に党大会を開催しようとしたのに対し、同党の30
0名を超える選出議員及びヤンゴン以外から参加した党員を拘束し、又は
出席を阻止するために脅迫した。そして、平成10年(1996年)後半から
自宅へ続く道路に軍事バリケードが設置されるなど、自宅外に出る自由や
訪問を受ける自由を制限されていたスー・チー女史に対する自由の制限
をさらに強化した。
 平成10年1月30日付けの米国国務省「各国人権情報」(甲11)には、
「SLORCは、1993年、表向きは新憲法の草案作成を目的とする『国民
会議』を設立した。SLORCは慎重に代表者の指名を行い、国軍関係者
が圧倒的多数を占め、憲法会議の進捗過程を操作し、限定的な反対意見
さえも度外視している。(中略)反政府的な表現を理由にした任意の逮捕
および勾留も継続的に行われており、(中略)1990年の選挙で選出され
た31名の議員を含む数百名-それ以上ではないにしても-の政治犯が
投獄されたままとなっている。1996年5月以降、少なくとも340名が政治
的理由で逮捕・投獄され、その多くが年末の時点でも投獄されたままの状
態であると考えられている。」との記載がある。
イ 平成10年(1998年)1月の人権状況につき、前記米国国務省の文書
(甲2)には、次のような記載がある。
 1998年1月の時点において、国民は、国内のいかなる場所に居住する
法的権利を有するものの、都市部、村落部の住民はともに強制移動の対
象となっている。反政府暴動の起きている地域を除き、国民は国内を自由
に移動することが可能ではあるが、地元当局に居場所を届け出なければ
ならない。
 市民権の制限条項に当てはまらない居住者(中国系、アルカン系、イス
ラム教徒その他)は移動に際し、事前に許可を得なければならない。政府
は見込まれる海外旅行を綿密に調査している。そのため、汚職がはびこっ
ており、多くの旅行申請者は旅券を取得するために多額の賄賂を支払う
よう強制され、さもなくば旅券の取得ができない。旅券申請を審査する委
員会は、政治的とみられる理由で申請を不許可にしている場合があった。
 1998年1月30日現在において、SLORCは、言論、報道、集会及び結
社の自由に関する基本的人権に対する規制を維持し、場合によっては強
化している。NLDを合法的な政党と認めているものの、日常の政治活動
を阻止し、政府は、明白な法的根拠のないまま国内各所の多くの党事務
所を閉鎖した。
ウ ミャンマーにおける拷問の状況につき、平成12年(2000年)12月13日
付けのアムネスティ・インターナショナル報告書(甲13)には、次のような
記載がある。
 ミャンマーにおいては、1988年の軍事政権成立以前の社会主義政権
時代から、情報を引き出し、政治囚を処罰するための道具として拷問が日
常的に使用されてきた。
 当時の政治囚は、足かせをはめられ両手を縄で縛られた状態で殴打さ
れ蹴られたこと、つま先に電極を当てられ強い電気ショックを繰り返し加え
られ、意識を失うまで強さを増加していったことを証言し、また、別の政治
囚は、逮捕時に、当初、後ろ手に手錠をかけられ、拘留場所を知られない
ように頭部に袋を被せられていたこと、軍の情報員が入れ替わり立ち替わ
り一晩中尋問を続けたこと、情報を暴露させるために綱で縛られた両手を
天井から吊され回転させられた(ヘリコプター)こと、つま先立ちの状態で
半分かがんだ姿勢を作ること(オートバイ)を強いられ、その姿勢がいつま
で続くのかと尋ねると「お前が慈悲を求めるまでだ。たぶん10分から15
分と言うところだろう」と応じたこと、尋問が丸1か月に及んだことを証言し
た。
 1988年の民主化運動の後、軍情報部も前記と同様の拷問の方法を用
いており、同じパターンの拷問が国中で行われてきたことは、40年以上に
もわたって報告されている。治安部隊は、情報を引き出したり、政治囚や
少数民族の人々を罰したり、軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付け
る手段として拷問を用い続けている。
 ビルマの軍政、国家平和発展評議会は、拷問は国内法に反していると
主張し、一貫して拷問の事実を否定しているが、政治囚や少数民族が拷
問や虐待を受けることが日常化しており、拷問を禁止した国内法に反する
として処罰された者はいない。
 政治囚は、拘禁の初期段階において、軍の情報員が入れ替わり立ち替
わり行う尋問中に、既に拷問の危険にさらされている。尋問は何時間も、
時には何日間も続く。また、政治囚は、判決後も刑務所の定めた恣意的な
ルールを破ったとして罰せられる場合に拷問や虐待を受けやすい。
 拷問被害者は、軍の情報員が初期の尋問で一貫して用いられてきた特
有の拷問方法を報告しており、その方法には皮がむけるまで脛に鉄を当
てて上下させる「鉄の道」、身体のあらゆる部分への「電気ショック」などが
あり、軍情報部のセンターは、広範囲に国中に張り巡らされ、そこでは拷
問が日常化している。政治的な理由によって逮捕されると、彼らはまずこ
うしたセンターに連れて行かれ判決を受けた後、全国43か所の刑務所の
うちの20の刑務所のいずれかに移される。そして、状態は各刑務所によ
り異なるが、いずれの刑務所でも囚人は残酷で非人道的、品位を落とす
ような処分を受けている。刑務所の看守は、ほとんど換気のない、また光
の届かない小さなレンガ房に数週間か数か月も拘留する「タイクペイク」や
様々な困難な姿勢を長時間強いる「ポンサン」を囚人を処罰する方法とし
て用いている。
 1988年の民主化運動への軍の暴力的な弾圧が始まって以来、少なく
とも43人の政治囚が拘留中に命を落としているが、実際の数はこれより
もかなり多いと考えられ、拷問や虐待、刑務所内の厳しい状態、不十分な
医療、衛生、栄養状態が特に高齢者や慢性的な病にさいなまれている囚
人に拘留中の死をもたらしている。逮捕時には良好な健康状態にある囚
人の中にも拷問によって死に至らしめられている者がいる。
(2) 原告の供述等の内容及びその信憑性評価
ア 原告の供述等の内容
 原告は、原告本人尋問、原告代理人作成の供述録取書(甲第3号証、
甲第8号証及び甲第15号証)において、要旨、以下のとおり供述してい
る。
(ア) 原告は、1965年(昭和40年)2月17日にビルマ国アウンラン市で生
まれ、1970年(昭和45年)の小学校入学から1981年(昭和56年)の
高等学校卒業までヤンゴン市内の学校に通い、1982年(昭和57年)
から2年間ヤンゴン大学に、1984年(昭和59年)からヤンゴン工科大
学に在学していた。
1987年(昭和62年)9月ころ、当時のビルマ式社会主義政府の政
権党であるビルマ社会主義計画党(BSPP)は、インフレーションに対抗
するために廃貨令という、それまで流通している貨幣を無効にする政策
を行ったが、その方法があまりに乱暴で、庶民の持っている紙幣が紙
切れになってしまうという問題が起こった。ヤンゴン工科大学内では、こ
のような問題はビルマ式社会主義という体制自体が抱える問題である
という考え方から、ビルマ式社会主義に反対する学生運動グループが
結成されて活動を開始し、原告も創設時からのメンバーとなった。
学生運動が起きたため、学内の試験が中止され、約1ヶ月間学校が
閉鎖された後、1987(昭和62年)年11月に試験が行われ、原告は、
1988(昭和63年)年1月にヤンゴン工科大学を卒業し、大学院へ進学
するつもりでいたが、その学生募集を待つ間、ヤンゴン市内で飛行場建
設関係の仕事に就いた。原告は、そのころ、日本からビルマに援助に
来ている日本人と知り合い、日本語に興味を持ったので、ビルマ人と結
婚しているD(又はD)という日本人女性に日本語を教えてもらうようにな
った。
(イ) ヤンゴン工科大学内部の学生運動は、原告が卒業した後も次第に
高揚していった。1988年(昭和63年)3月12日の夜に町の有力者の
息子とヤンゴン工科大学の学生が喫茶店で喧嘩するという事件が起
き、その際、ヤンゴン工科大学の学生だけが逮捕されたことから、同大
学の学生が騒ぎ始め、翌日、原告の高校の同級生で大学では後輩で
あったEが警察の発砲で射殺されるという事件があったため、さらに学
生の怒りが増幅され、全国の大学で学生が集会やデモを行うという事
態に発展した。同月16日にはヤンゴン大学の学生がヤンゴン工科大
学での集会に参加するためにデモ行進しながら移動しているのを警察
が道を封鎖して阻止しようとしたが、原告も、警察が学生たちを警棒で
殴り始め、多くの学生が血を流して路上に倒れたり、湖の岸辺から湖の
中に突き落とされ、その学生に警察隊が襲いかかったりする様子を職
場からの帰宅途中に原告の家の近くで目撃した。原告もそこから逃げ
出したが、その際、学生が死亡した。
(ウ) 原告は、そのような経緯から、自分も学生たちの民主化運動に参加
しようと決意し、即日仕事を辞め、顔見知りのヤンゴン工科大学の学生
たちに話をして、彼らをグループにまとめて活動していくように説いて、
学生たちとデモや集会に参加するようになり、学内集会で演説したり、
地元であるヤンゴン管区f区のリーダーとして学生を指示するような主
導的な立場で民主化運動のために活動した。
(エ) 1988年(昭和63年)6月22日、原告らの学生運動グループ数百人
がヤンゴン大学内にある広い場所において、集会をするとか、あるいは
組織を作ろうとかいった話をしている際、ロンテインという治安部隊が学
内に侵入し、集会参加者の身柄を拘束し、原告も逮捕され身柄を拘束
された。その際、原告は、逃げようとしたが、盾で進路をふさがれ、1メ
ートル近くある警棒で殴られて捕まった。原告は、頭を押さえられる状態
で目隠しをされ、トラックに乗せられ、どこか分からない施設(方向など
からインセイン刑務所であると推測され、釈放されるときにはインセイン
刑務所であることが分かった。)に収容された。そこでは、10人くらいの
定員の広さの部屋に30人くらいが押し込められ、翌日から1人ずつ呼
び出されて取調べを受けた。連日12時間に及ぶ取調べが行われ、そこ
では、「何をやっているか」、「これから何をやる予定か」、「仲間は何人
か」「リーダーは誰か」「シュプレヒコールの内容はどんなことか」「隣に
いたのは誰か」「その隣にいたのは誰か」などの尋問を受けた。尋問は
12時間連続して行われるのではなく、寝ることができないように、いっ
たん居室に戻り少し眠くなったという感じの時にまた尋問に呼び出すと
いうものであり、前で尋問している係官と後ろに立っている係官がいて、
質問にすぐ答えなかったりすると、後ろの係官が後頭部を殴ったりし、
身柄拘束の間には食べ物も十分に与えられなかった。
 逮捕された者の親のところには、警察や地区評議会などを経由して連
絡が行き、親が警察に対して、今後は政治・民主化運動に参加させな
いという念書を書いた者から釈放された。原告の両親もその念書を書
き、原告は、約1週間後である同月30日に釈放された。
(オ) ビルマにおける民主化運動は、その後も高揚を続け、1988年(昭
和63年)8月に最高潮に達し、学生だけでなく市民も含めて、全国で民
主化を求めるデモ、集会が行われるという事態に至った。原告は、釈放
後も民主化運動を続け、新聞を出したり、ビラを配ったり、デモをやろう
と相談したりし、7月ころからはデモを行ったが、7月22日か24日のデ
モの際、デモのルートにある警察署から発砲を受けた。また、同年6月
ころから学生が集まってされた全ビルマ学生連盟(ABFSU)の結成に
関与した。原告は、ヤンゴン工科大学の学生組織をまとめる活動をし、
その他の大学の学生組織と合流して、同年8月にはABFSUの結成に
至ったものである。同年の8月の中旬くらい(陳述書においては7月の
終わりないし8月のはじめとされている。)には、スー・チー女史宅の警
備をしていた知り合いの学生を通じて、他の学生たち4、5人とともにス
ー・チー女史に会いに行き、武器を取って戦いたいという話をしたが、そ
ういうことは絶対にするべきではないと強く言われた。
 しかし、同年9月18日に国軍による全権掌握の事態となった。原告
は、その翌日の19日にも中学生や高校生のデモに加わった際に発砲
を受けた。軍部は、民主化運動の参加者の逮捕に乗り出し、ABFSU
のメンバーも次々と逮捕された。
 原告は、軍事政権の成立直後である同年10月初めに逮捕される危
険を感じ、また、武器を取って戦いたい気持ちがあったため、ABFSU
のメンバーであり一緒に学生運動をしていた他の学生4名とともにイン
ド国境の山岳地帯に逃げ出した。9月18日直後には、多くの学生がタ
イビルマ国境に逃げ出したが、10月になるとその方面は警戒が厳しく
なり、途中で見つかると殺されてしまう様な状況であったため、原告の
両親の故郷があり土地勘があるビルマ北部に逃げることにした。
 原告らは、ヤンゴンからマンダレーまで列車で行き、マンダレーから原
告の両親の故郷に近い町であるgまでは自動車で行った。gからは河を
ボートで遡航してhという町に行き、それから徒歩で1週間かけて国境
のiという町に着いた。そこから、川を徒歩で渡って軍事政権が追って来
られないインド国内に逃げ込んだ。国境を越えると、インドの官憲がい
て、jという町の郊外にインド政府が設置した難民キャンプに連れて行か
れた。そこには、ビルマから逃げてきた学生民主運動の活動家数百名
がいた。そこで、インド政府から支給されるわずかな米や豆を食べなが
ら、自分たちで竹を切って柱や床を組み、シュロなどの大きな葉で編ん
で屋根を作って建てた建物で生活した。
 原告らは、武器を調達して軍事政権と戦うつもりであったが、武器の
調達はできない状況であった。その上、難民キャンプ付近は山岳地帯
であり、10月を過ぎるととても寒かったが毛布や服の支給がなかった
ため、原告は、12月ころには健康を害するに至り、ビルマに戻ることに
した。1988年(昭和63年)の年末から1989年(平成元年)初めにか
けて、一緒に来た他の4人にもう1人の友人を加えた6人でヤンゴンに
戻ってきた。
 原告は、逮捕される恐怖心から自宅に帰ることはできず、学生活動に
理解のある僧侶を頼ってヤンゴン市内の僧院などで潜伏生活を続けつ
つ、秘かに医師の治療を受けて健康を回復し、友人を介して両親にヤ
ンゴンに戻ってきたことを伝えたものの、その後も両親との連絡は友人
を介して行った。
(カ) 原告は、潜伏生活を強いられながらも、全ビルマ学生連盟のリーダ
ーであるFやG、一緒にインド国境に逃げたHとともに民主化運動を続
けた。原告は、1989年(平成元年)1月には、スー・チー女史の母の逝
去を悼む追悼大会に参加したり、その後も反政府活動のビラを配った
り、迫害を受けた学生らの消息を求めたりした。
 FとHは、ヤンゴン市内のkという町に出かけたときに捕まってしまっ
た。原告は、Fは、今も刑務所におり、Hは、7年くらい刑務所にいた後
釈放され、オーストラリアに逃げたと聞いている。また、原告が後記(ク)
のとおり我が国に出国した後、原告の友人であるI、J及びKの3名も捕
らえられ、このうち、Kは現在も刑務所におり、他の2人は釈放されてオ
ーストラリアで難民の認定を受けたと認識している。
(キ) 軍事政権は、政権掌握後、政党の登録を始め、1990年(平成2年)
5月に総選挙を実施するということを発表したため、Gらが中心となって
DPNS(新社会を作るための民主党)という政党を作って、選挙のため
の準備活動を始めた。原告は、逮捕歴もあり、今後は地下活動をしよう
という気持ちがあったため、正規の党員として登録をしなかったが、学
生たちを相手に、同党の宣伝活動を行った。DPNSは選挙の際、1議
席を獲得したが、総選挙の後解散させられた。Gらは、タイビルマ国境
に逃げ、国境地帯の学生組織であるABSDFに合流した。
(ク) 原告の両親宅(lmnYANGON)は、学生街にあったこともあり、ビル
マの軍情報局(MI)の監視下にあり、原告が潜伏生活をしている間に
も、MIの者が4、5回実家を捜索に来て家中を探し回ったことから、原
告の両親、特に母親は、原告が逮捕されることをおそれ、外国に逃げる
ように勧めた。そして、実際にパスポートの取得等に要する費用を出し
てくれた。そこで、原告は、1989年(平成元年)の8月か9月ころに内務
省特別調査局に対しパスポートの交付申請をした。その役所では、正
規にパスポートの発給業務を行っている役人が賄賂を取ってパスポー
トを発給しており(そのためその役人はブローカーと呼ばれている。)、
原告は、ブローカーに賄賂2万チャットを支払い、そのブローカーがMI
による調査をおそれて偽の生年月日(1965年1月17日生まれ、実際
は同年2月17日生まれである。)で申請をするように言ったため、偽の
生年月日でパスポートを申請した。当時は、反政府活動歴があっても賄
賂を払えばパスポートが発給された時期であり、申請に必要な国民登
録証も入国管理局の役人に2、3000チャットの賄賂を払って偽の生年
月日のものを偽造してもらった。そして、1989年(平成元年)10月ころ
にはパスポートを入手した。
 その一方で、原告は、前記(ア)のとおり以前日本語を習っていた日本
人女性(名前はD又はD)にビザ取得のための援助をしてもらい、在ビ
ルマ日本大使館から日本への入国ビザを取得し、1989年(平成元年)
11月14日にビルマを出国し、タイのバンコクで3泊し、同年11月18日
に新東京国際空港に上陸した。
(ケ) 原告は、ビザの取得に協力してくれた日本人女性から、川崎市の日
本人学校の紹介を受け、そこに通って在留資格を就学に変更したらどう
かと言われたが、日本人学校入学の資金がなく、栃木県の溶接工場で
働くことになった。その後、東京に戻り、そば屋で働くようになったが、そ
のころまではビルマ人と知り合うこともほとんどなく、日本語もほとんど
できず、難民申請という制度の存在すら知らなかった。
(コ) 原告は、1992年(平成4年)夏ころにビルマでの学生運動時代から
の知人であるLから、在日ビルマ人協会という団体があり、そのメンバ
ーのMらが中心となって、民主化を求める在日ビルマ人の集会が熱海
で開かれるということを聞き、それに参加した。それが、原告の日本で
の民主化運動参加の始まりであった。しかし、その後、在日ビルマ人協
会は在日ビルマ人の互助会のようで、政治団体であると感じられなくな
ったため、たまに誘われてデモや集会に参加したり、国境地帯の学生
たちに資金カンパしたりするだけで、それ以上の関与をすることもなか
った。
(サ) 1995年(平成7年)春ころ、在日ビルマ人の知人Nの兄であり、在
学当時面識はなかったがヤンゴン大学の後輩でもあり、その後、アメリ
カに逃れて難民認定を受けているOが来日し、民主化運動をして米国
に逃れた学生のメンバーが中心となってビルマ民主学生連盟(DBSO)
を結成したので、日本でも結成したらどうかと勧めたため、原告らが中
心となり、日本でもビルマ民主学生連盟(DBSO)を結成した。
(シ) その後原告は、DBSOの中心メンバーとして、在日ビルマ大使館に
対する抗議デモをしたり、日本の大学に行ってビルマの民主化運動の
ことを説明したり、依然として国境地帯に残っていた元学生たちに対す
る送金活動などを行った。
(ス) 1996年(平成8年)始め、スー・チー女史率いるNLDの指導者の一
人で、当時はアメリカにいたウィン・ケNLD-LA議長が来日し、日本で
もきちんとした政党を結成して活動するように指示したため、原告やPが
中心となって、NLD-LA日本支部を結成した。Pが同支部の代表にな
り、原告は、労働問題担当の役員、書記長、青年学生担当の役員など
を歴任し、在日ビルマ大使館に対する抗議デモのほか、日本の大学に
行ってビルマの民主化運動のことを説明したり、日本の政治家・国会議
員にビルマの民主化運動に対する支援を求める陳情をしたりした。
(セ) 原告は、上記(サ)ないし(ス)のように、積極的に活動を始める前の1
994年(平成6年)ころ、匿名で日本のMXテレビに出演し、ビルマ大使
館が在日ビルマ人から税金を徴収しているという問題を告発していた
が、NLD-LA日本支部の活動を開始した後は、積極的にテレビやラジ
オに出て同支部の主張を訴えようという考えに至り、実名を明かして、
米国のビルマ語放送(レディオフリーエイシア(RFA)・VOA)や英国BB
Cのビルマ語放送、原告の高校時代の同級生が担当しているノルウェ
ーのビルマ語放送などで、日本におけるビルマ民主化運動の活動状況
を述べたり、軍事政権に対する批判を強い口調で展開したりした。その
ほか、NHKテレビやTBSテレビが日本のビルマ人の民主化運動を紹
介する番組を放映した際にも、他の仲間とともに出演してインタビューに
答えたりした。このように匿名から実名に転換したことについては、初め
にMXテレビに出た際には、未だ在日ビルマ大使館に反政府側の人間
として把握されていないのではないかと考えて匿名で出演したものの、
その後、在日ビルマ大使館前で頻繁にデモを行うようになり、自分の顔
や名前などは在日ビルマ大使館も把握しているであろうと考え、顔や名
前を出すことに躊躇がなくなったことによるものである。
(ソ) 原告は、来日してから1995年(平成7年)ころまでは、間もなくビル
マが民主化されて、自分が帰れるような状況になるだろうという気持ち
から、パスポートだけは有効なものを持っていたかったことと、大使館に
個人的な知り合いがいたため、両親を通じてその知人に頼んで、知人
の便宜のもとパスポートの更新をしていた。原告は、そのころまでは日
本でほとんど反政府活動をしていなかったし、ビルマで政治活動をして
いたといっても有名な活動家だというわけでもないので、国外の大使館
まで名前が把握されているとは思わなかったためである。しかし、199
5年(平成7年)以降は、DBSOを結成し、活発に民主化運動をするよう
になったので、同年10月を最後にパスポートの更新を受けるのをやめ
た。パスポートの更新日付は1996年(平成8年)4月になっているが、
原告は、パスポート期限の切れる1995年(平成7年)10月以前にパス
ポートを大使館員である知人に渡しており、翌年4月までその知人がパ
スポートを持っていたか、大使館に保管されていて、4月以降に、その
知人から原告に送られてきたものと思われる。原告が在日ビルマ大使
館に税金を払っていなかったため、その知人がパスポートの更新に苦
労したのではないかと思われる。
(タ) 1995年(平成7年)秋にはDBSOが中心となってヤンゴン大学75
周年記念集会を代々木の青少年センターで行ったが、原告が実名を明
かして司会を行い、その模様はVOAやBBCのビルマ語放送によって
広く報道された。同集会は、ヤンゴン大学75周年記念集会という名目
ではあるが、実際には、1988年(昭和63年)の学生運動を記念するよ
うな集会であった。
 原告は、1999年(平成11年)に在日ビルマ大使館が主催したビルマ
の舞踊団の日本でのコンサートに抗議活動にいった際、MIと思われる
ビルマ大使館員から抗議活動の様子を写真に撮られ、また、2000年
(平成12年)に軍事政権のキン・ニュン第1書記が来日した際には、ビ
ルマ大使館前で抗議活動をしている姿を写真に撮られた。
(チ) 原告は、在日ビルマ人協会会長であるQが難民認定を受けたという
話を聞いたときに難民認定制度の存在自体は知ったが、そのころは、
どういう手続で難民認定申請をするのか知らなかったし、民主化された
らビルマに帰りたいという気持ちがあったので、難民認定申請の手続を
知りたいという気持ちにもならなかった。DBSOとして活動していた199
5年(平成7年)ないし1996年(平成8年)ころには、他の民主化運動の
仲間から、彼らが難民認定申請をしているということを聞いたが、原告
らDBSOのメンバーは、民主化運動をするのは在留資格が欲しいから
ではないという気持ちがあり、また、難民認定を受けること自体を批判さ
れることもあったことから難民認定申請を控える方針であり、それに従
っていた。しかし、その後、1996年(平成8年)秋に、DBSOのメンバー
であるRとSが不法残留で捕まり、強制送還の危機にさらされ、また、同
年12月にビルマで学生運動が弾圧され、依然として帰国すれば危険で
あると再認識したこともあって、1997年(平成9年)2月3日に難民申請
をした。
(ツ) 原告の父は、日本の文部科学省に当たるような教育省の中等教育
局カリキュラム編成課長であったが、原告の出国後、1989年(平成元
年)と1991年(平成3年)にMIに連行され、一晩泊められて、原告がな
ぜビルマを離れたのか、外国で何をしているのかなどについて尋問を
受けた。また、原告の活動を理由に1989年(平成元年)に免職となっ
た。このことは、原告の父が原告の友人に手紙を出して知らせてくれ
た。その後は家族と連絡が取れないため、MIが来ているか来ていない
かは不明である。
イ 原告供述の信憑性
(ア) 客観的事実との符合の有無
a 前記ア記載の原告の供述内容と前記1で認定した出身国情報は、
昭和63年(1988年)3月上旬に学生の主導により民主化運動が起
こった点、その運動には激しい弾圧が加えられ、多数の者が殺害さ
れたとする点、同年9月の国軍による政権掌握後、多くの学生が逮
捕され投獄され、何千という若い活動家が近隣の国に逃れたという
点、その後、選挙の準備のために政党の活動が許容されたが、選挙
の前に大きな取締りがあり、仲間が逮捕されたという点、選挙後にも
民主化を望む活動家に弾圧が加えられ、多くの者が逮捕されたとい
う点、平成8年(1996年)に学生によるデモが起こったという点等に
おいて概ね一致している。原告が書証として提出した出身国情報は、
ビルマで民主化運動に関心をもっている者であれば容易に知り得る
内容で、また、海外においても広く入手が可能な情報である上、その
情報を記載した書証(甲第11号証ないし第13号証)は、供述録取書
の作成日や当裁判所における他の同種事件の書証の提出状況にか
んがみれば、原告の供述録取書の作成や証人尋問の実施前に原告
代理人において入手はされていたものと推認されるものであるから、
原告の供述の信憑性評価において決定的な裏付け(例えば秘密の
暴露が存在するといったようなもの)となるものということはできない
が、客観的情報との不一致という消極的な評価を受けることはないと
いう点において、原告の供述の信憑性を裏付ける上で有意な事項で
あるといえる。
b また、原告は、その本人尋問において、ヤンゴン市内の地図を用
い、自らのデモ行進の目撃の場所や、自らがデモ行進に参加し発砲
を受けた場所についての地理的説明を行い、また、ミャンマー全土の
地図を用いて自らが昭和63年(1988年)10月にインドに逃走した
際の経路について説明を行っており、その説明内容は、その地図の
客観的記載内容との間で齟齬なく行われている。ヤンゴン市内やミャ
ンマー国内の地理的状況も、ヤンゴン市内やミャンマー国内に住ん
だことがある者であれば、当然に把握していてしかるべきものである
から、これも原告の証言の信憑性を基礎付ける決定的な材料となり
得るものとまではいえないが、客観的事実と齟齬するという消極的評
価を受けないものであるということはできるし、その内容が具体的な
ものであり、かつその際の供述態度が誠意に満ちたものであったこと
については、一定の積極的材料ともなり得るものというべきである。
c 甲2号証の1及び2のビルマジャーナル誌2003年3月号には、Tと
いう人物が基礎教育省の科学支部長であり、同人が昭和63年(19
88年)の民主革命運動勃発時に基礎教育省本部のストライキ委員
に参加していた9人のうちの1人であり、運動終結の際には省内の書
類を持ち出したとして3人の要注意人物の中の最先端となっていた
旨の記載があり、乙第3号証及び第5号証中には、原告の父親の名
前は、Tである旨の記載があるところ、前記ビルマジャーナル誌の記
載内容は、原告の自らの父の職業等に関する供述部分の内容とほ
ぼ一致しており、原告の供述内容を基礎付けるものと評価し得る。そ
して、同証拠中、原告の父も民主化運動に関与していたとの記載は、
原告が積極的に民主化運動に参加したことも不自然ではないことを
うかがわせるものである。
d また、甲第6号証及び甲第7号証の内容によれば、日本において、
ヤンゴン大学ダイアモンド・ジュビリー(創立七五周年記念大会)が行
われたこと、原告が日本の国会議員や大学生と会談したり、デモ行
進に参加していることについて、客観的事実と一致していることが認
められる。
e 乙第24号証ないし34号証によれば、Bという人物が、平成3年(19
91年)10月12日に本邦に就学の在留資格で入国し、以後5回の在
留期間の更新及び2回の在留資格の変更を受け、その最終期限で
ある平成8年(1996年)12月20日を超えて本邦にとどまり、平成1
5年7月24日に退去強制令書の発付を受け、同年8月13日にミャン
マーに向け送還されたこと、原告が平成10年5月14日にした外国人
登録の居住地が前記Bの平成6年11月10日以降の外国人登録上
の居住地と同一であり、原告の外国人登録の世帯主の氏名がBとな
っており、原告の外国人登録の国籍国における住所とBの外国人登
録の国籍国における住所が一致していること、原告が難民認定申請
書の家族構成欄に姉妹としてBとの記載をし、また、原告が同申請書
や当裁判所における尋問の際に話した父の名前と前記Bが退去強
制手続の際に供述した自らの父親の名前が一致することが認められ
る。また、乙第38号証ないし第45号証によれば、Cという人物が、平
成7年(1995年)12月11日に本邦に短期滞在の在留資格で入国
し、在留期間の更新や在留資格の変更を受けずに、在留期限である
平成8年(1996年)3月10日を超えて本邦にとどまり、平成11年6
月8日に収容令書及び退去強制令書の発付を受け、同月11日にミ
ャンマーに向け送還されたこと、Cもまた平成7年12月13日に原告
の外国人登録上の居住地と同一地を居住地として外国人登録を行っ
ていること、原告の外国人登録の国籍国における住所とCの身分証
明書及び前記外国人登録の国籍国における住所が一致しているこ
と、原告が難民認定申請書の家族構成欄に姉妹としてCとの記載を
し、また、原告が同申請書や当裁判所における尋問の際に話した父
の名前と前記Cの身分証明書に記載された父親の名前が一致するこ
とが認められる。
 被告らは、これらの事実に基づいて原告とB及びCとが姉弟と兄妹
の関係にあり、姉や妹が来日したことはないという原告の供述は事
実に反すると主張する。
 しかし、甲第8ないし第10号証によると、原告の姉であるBは、被告
らが指摘するBとは別人物ではないかとうかがわれるところであり、
被告らの上記主張はBに関する限り、その裏付けが不十分といわざ
るを得ない(なお、被告ら提出に係るBの供述調書(乙33、34)は平
成15年7月中に作成されており、同女は同月22日から退去強制さ
れて同年8月13日まで収容されていたことが認められるところ、被告
らは、同年7月11日に行われた原告本人尋問の際に、既に原告と同
女との関係について疑問を有していたことは同尋問の内容から明ら
かであるから、同女について上記のような資料が得られた以上、速
やかに当裁判所と原告にこれを示し、証拠保全等によって事実関係
を確認する機会を与えるべきであったと考えられるのであり、このよう
な措置を講じないまま、同女が帰国した後に至って自らが得た資料
のみを提出した被告らの訴訟活動は不相当なものといわざるを得な
い。)。その上、原告は、当初の難民認定申請時から、自己の居住地
の世帯主がBであり、自己がその弟である旨の記載のある外国人登
録原票の写し(乙4)を入管当局者に提出しているところ、原告はこの
点については同地に真に居住するものではなく、形式上そこに登録し
たにすぎず、世帯主はたまたま姉と同名であったというだけで、同居
人として登録する方便として弟と記載したと弁解しており、被告ら主張
のBもまた原告との家族関係を否定していることや、上記のような資
料(乙4)を自ら提出しながら、何ら躊躇なく姉妹の来日の事実を否定
する供述をしていたことからすると、むしろ、原告の弁解は信用する
に足りるものと考えられる。
 そして、被告ら主張のCは、同主張に係るBの妹であるとしながら、
原告との家族関係は否定していることと、上記のとおり、被告ら主張
のBと原告との姉弟関係があるとは認め難いことに照らすと、上記C
と原告との兄妹関係も認め難いといわざるを得ず、結局、被告らの上
記主張は採用できない。
 また、仮に、これら両名と原告との家族関係が肯定できたとしても、
姉妹より前に本邦に入国していた原告も不法就労の目的で入国した
とか、日本での就労を継続するために難民認定申請を行ったとする
のはあまりに早計であるし、Bの入国時期が平成3年10月であって、
Cの入国時期が平成7年12月であり、原告の平成元年11月よりも
約2年以上後であることにかんがみれば、原告が不法就労目的では
なく、迫害を逃れるために本邦に入国したものと仮定しても、その後、
原告が本邦で一定の生活基盤を築いたことから、姉や妹が不法就労
を行うために本邦に入国したという可能性も十分あり得るところであ
る。そうであるとした場合、原告が難民であるにもかかわらず、姉妹
が不法就労目的で来日していることによって自らも不法就労目的で
あるとの認定がされることをおそれて、姉妹の来日の事実を隠蔽した
としても、そのこと自体には合理的な動機があるといえ(現に、Bも東
京入管職員の調査に対して、自らが原告と姉弟関係にあることすら
否定している。)、前記の供述の客観的事実との不一致が、直ちに、
原告の供述の信憑性を阻却し、原告の申請を却下すべきとの結論に
至るものではないというべきである。また、姉妹の来日の事実そのも
のは、原告の難民性、すなわち原告に迫害を受ける恐れを抱く十分
に理由のある恐怖が存するか否かを評価するに当たってはさほど重
要な事実ではないというべきであり、その点を考慮すれば、前記の原
告の供述の客観的事実との不一致によって原告の供述の信憑性が
減殺される程度は著しいものとはなり得ないというべきである。
(イ)内容の自然さ・合理性の有無
 原告の供述は、全体を通じ、その内容において概ね自然で合理性を
有するものといえる。特に、原告が自宅近くで学生が警官から襲撃を受
けるところを目撃し、即日会社を辞めて民主化運動に加わろうとした心
情やデモに参加して発砲を受けた際の状況、身柄を拘束され、その後
厳しい取調べを受けた際の状況は、それを受けたものでなければ語り
得ないと思われる迫真性のある供述がされているといえる。被告は、原
告が本国での迫害をおそれ一時インドに逃れ、インドに3か月ほど滞在
したものの、体の不調を来して帰国したなどと、本国政府から迫害を受
けてインドに逃れた者とは考えられない供述である旨指摘するが、イン
ドに逃れる際の経路やインドからヤンゴンに帰国した後に僧院に身を潜
め生活したことに関する供述は、一定程度詳細なものであるから、イン
ドに逃れる前後の経緯は自然なものといえ、インドに逃れたこと自体を
否定することは困難であるし、インドから帰国する動機についても、イン
ドの寒い気候の影響で体調を崩したことに加え、インドに滞在しても自
らが考えていた武装闘争を行うための武器の入手が困難であったこと
をも理由として挙げており、武装闘争をも辞さないとの覚悟をしていた
者であれば、インドに滞在しても先行きが不透明である上、体調を崩し
たとすれば、多少の身の危険の可能性があっても、状況を変えるため
に危険を承知で帰国をしたとしてもさほど不自然なものとはいえないと
いうべきである。
(ウ) 供述の一貫性の有無
 原告の供述は、父の本邦入国の有無について、本人尋問の主尋問と
再主尋問においてその供述内容が変化し、また、原告が昭和63年(1
988年)8月にスー・チー女史と面会したとの供述も、難民認定手続に
おいては、全く供述がされておらず、原告代理人作成の供述録取書や
原告本人尋問に至り供述がされるなど、必ずしも全てについて供述が
一貫しているものではないといわざるを得ない。
 しかし、父の入国に関する点についていえば、仮に父が本邦に入出国
をしていたからといって、その事実自体が原告の難民性評価に重要な
意味を持つ事項ではないから、このような変遷があったからといって、
そのことが原告の難民性に関する供述の信用性を大きく損なわせるも
のではないし、原告は、当初父の来日の事実を秘していたのは、以前
交際していて現在は交際が終了してしまった女性について法廷で言及
するのは本意ではなく、父の来日の事実を話せばその女性について言
及せざるを得ないことからそれについて虚偽の供述をした旨述べたもの
の、反対尋問の直後、再主尋問に先立ちごく短時間の休廷中に原告代
理人とその供述を行うのか否かを打ち合わせした上(当裁判所に顕著
な事実)、父の来日の事実があったこと、虚偽の供述をしたこと及びそ
の理由が前記のとおりであることを明確に述べているものであり、その
理由は、供述の経過等にかんがみ十分信用し得るし、合理的なもので
あるといえる(我が国の文化にかんがみれば、交際が終了した女性に
ついて公開の法廷での供述をすることを躊躇することには、その合理性
に疑問が生じないでもないが、この点について供述を求められた際、当
初頑なに供述を拒んだ原告の供述態度に照らせば、原告がそのように
考えていたことには、疑問の余地がない。)。また、スー・チー女史との
面会を供述しなかった点についても、原告として、申請書において自ら
が逮捕された事実を記載し、その後の難民調査官の調査においても身
柄拘束を受けた事実を詳細に供述していることから、原告において、自
らが受けた最も重大な態様での迫害については供述したものと考えて、
スー・チー女史と面会したことを供述しなかったとしても、さほど不自然
とはいえないし、原告の供述によれば、スー・チー女史との面会の際に
は、原告らが特に約束もなく面会を求め、武装闘争を提案したことに猛
反対を受けたというものであり、原告としてその事実を積極的に表に出
すことが、自らに不利に働くと考えても不思議とはいえない。また、難民
認定申請書の申請者記載の欄は、申請者の全ての経歴を記載するに
はいかにも狭小なものというべきであり、原告が自らが最も主要な迫害
を選別して述べた上、その余の事実については記載を行わなかったか
らといって、そのことから当該供述で述べた以外の事実が存在しないと
か、概括的に記載した事実から詳細な事実を述べた際に、後になって
突如新たな事実を主張したものと評価するのは妥当ではないというべ
きであるし、被告らは、前記のとおり自らの調査義務を否定しており、申
請者が示した事実のみに基づいて調査を進めている以上、申請書に記
載されなかった事実について、調査で言及されないこともむしろ当然の
ことというべきである(なお、原告と同じくミャンマーから逃れて我が国で
難民認定申請をしたものの、一旦不認定処分を受けた後に、改めて難
民認定を受けるに至ったUもまた、難民認定手続において当初の調査
時においては、NLDに迷惑がかかることを恐れて、スー・チー女史に面
会に行ったが会えなかったと述べ、その後に面会の事実を供述するに
至ったところ、同人に対する当裁判所においての本人尋問後、面会の
際の様子に関する同人の供述が信用するに足りることも一事由として、
難民認定がされるに至っており、これらは当裁判所に顕著な事実であ
る。)。
(エ) 小 括
 以上によれば、原告の供述には、両親の来日の点で変遷が存し、ス
ー・チー女史との面会の事実について難民認定手続で述べていないこ
とが存し、その供述の信憑性に全く問題がないということはできないも
のの、前記のとおり、供述の変遷はいずれも原告の難民該当性の認定
とは直接関係がないものである上、変遷に合理的な理由が存し、その
理由を考慮すれば、原告の供述全体の信用性を揺るがすものとはいえ
ないものであるというべきである。そして、本邦入国前に民主化活動に
参加し逮捕された経歴があること、本邦入国後も本邦において積極的
に民主化活動に取り組んでいることについて、その内容は一貫してお
り、その内容も客観的事実と一致した合理的なものであるといえるもの
であるから、原告の供述のうち、少なくともそれらの部分については、原
告が難民であることや難民認定手続の特殊性等の原告が主張する事
由を考慮するまでもなく、仮に、被告らのいうように、通常の訴訟手続に
おける証人尋問や本人尋問における供述の信用性の評価と同様の手
法に立って評価した場合においても、信憑性が存すると認められ、前
記(1)記載の原告の供述内容のとおりの事実が認められるというべきで
ある。
(3) 原告の難民該当性
ア 前記2のとおり、原告には前記2(1)記載の事情が認められるところ、それ
によれば、原告は、ミャンマー出身で、現在日本に在留し出身国の外にあ
るものであり、昭和62年(1987年)ころから、ビルマ式社会主義に反対
する学生運動グループのメンバーであり、昭和63年3月からは民主化グ
ループのメンバーとして主導的に活動をしていたものであって、同年6月
には、大学内で集会を行った際に身柄を拘束され、1週間ほど厳しい取調
べを受け、その後、一旦釈放されたものの、民主化運動を続け、スー・チ
ー女史と面会するなどしたが、同年9月18日の国軍による全権掌握の
後、民主化運動の参加者の逮捕を逃れるため、インド国境に逃げ、その
後、体調を崩してヤンゴンに戻り潜伏しながら民主化活動をしたものの、
仲間が逮捕され、原告の自宅も数回にわたり捜索を受けたことから、平成
元年(1989年)11月18日に、両親の勧めで本邦に向け出国し、本邦入
国後もDBSOやNLD-LA日本支部のメンバーとして民主化活動を行
い、日本のテレビや世界各国のビルマ語放送などに実名を明かして出演
していることなどが認められるところ、これに加え、本件不認定処分時であ
る平成10年8月25日ころの出身国の状況等を加味すれば、原告は、本
件不認定処分時において、政治的意見を理由に拘束された上、拷問を受
け、場合によっては命を落とす可能性があり、政治的意見を理由に迫害を
受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖が存したものと認められ
る。
イ 被告らは、原告が有効な旅券の発行を受け、何の問題もなく出国してい
ること、ミャンマー大使館員の息子の出迎えを受けたこと、ミャンマー大使
館において旅券の更新を受けていること、本件不認定処分当時、本国の
両親が平穏に生活しており、一度来日して無事に帰国していることなどを
主張し、ミャンマー政府が原告を迫害の対象としているとはおよそ考え難
い旨主張する。
 まず、原告が有効な旅券の発行を受けた点については、原告は、ブロー
カーに多額の現金を支払って無事にそれらが行えるように手配した旨の
供述をしており、原告の供述が全体として信憑性を持つものであること
は、前記2のとおりであり、その点についての供述内容は、賄賂の授受に
より旅券が発行されるからくりやブローカーからの指示の内容など極めて
詳細なものとなっている上、旅券の発行について汚職が横行しており、多
くの旅券申請者が旅券を取得するために多額の賄賂を支払うよう強要さ
れていることは、米国国務省作成の各国人権情報(甲11)にも記載されて
いるところであるから、原告の旅券の交付に関する供述は信用し得るもの
であるといえるところ、その説明を前提にすれば、旅券の交付を受けたこ
とが原告の難民該当性を覆す事由とはなり得ない。
 そして、原告がミャンマーを無事に出国できたことについては、原告が出
国した平成元年(1989年)11月は、昭和63年(1988年)9月に国軍が
政権を掌握し、平成2年(1990年)に予定された選挙に向け、具体的な
政党活動等については国軍の規制が及んだものの、原告が実際に身柄
を拘束された昭和63年(1988年)当時と比べれば比較的自由な活動が
できた時期であり、原告としても潜伏して活動することは余儀なくされてい
たものの、出国について規制が及ばないとしてもさほど不自然とはいえず
(軍事政権が常に水も漏らさぬ体勢で空港を警備していたとの前提自体
がかえって不自然であるといえる。)、原告が空港から出国できたからとい
って、そのことが原告が迫害の対象であったことを否定する材料とはなり
得ない。
 また、大使館職員の息子の出迎え及びパスポートの更新の点である
が、大使館員の息子の出迎えを受けた事実について、原告の証人尋問で
一貫して否定しているものの、原告は、難民認定手続における調査(乙第
6号証)の際と退去強制手続の口頭審理(乙第18号証)の際に、大使館
員の息子による出迎えの事実を明確に述べており、この事実があった可
能性は否定し得ない。また、パスポートの更新を受けていたことは原告も
認めるところである。しかし、原告は、乙第6号証において「父の知人の息
子が出迎えに来た」旨を述べ、また、パスポートの更新に関しても、大使
館に知人が複数いて、個人的に便宜を図ってもらいパスポートの更新をし
てもらっていた旨述べているところであり、これを前提に考慮した場合に
は、パスポートの更新は、個人的なつながりのある大使館員が個人的に
便宜を図ってくれていたものとみるべきであり、仮に出迎えの事実が存在
したとしても、これと同様の個人的な配慮であるとみるのが自然である。そ
うすると、出迎えにしても、パスポートの更新にしても、ミャンマー政府が原
告の入国を承認したり、黙認したりといったものではないのであるから、原
告の難民性とは何ら関係を有しないとみるべきである。
 家族がミャンマーで無事に生活していることや両親が本邦に入国し無事
に帰国した点についても、ミャンマー政府が民主化運動に関与した者の家
族に対しても例外なく迫害を加えるという事実が認められるのであればと
もかく、そこまでの迫害の情報はなく、あくまで民主化運動に参加した者に
対する迫害が行われると認められるにすぎないのであるから、特に政治
活動を行っていない原告の家族が全く迫害を受けていないとしても、原告
の難民性には全く関係のない事由である。
 また、被告は、原告が入国後1週間で不法就労を開始していることや入
国後約7年間庇護を求めなかったことから来日目的が不法就労である旨
を述べるところ、本邦で就労したことが直ちに難民性を否定する要素とな
るものではないし、短期滞在のビザで入国している者が労働を行うことは
認められていないものの、申請から処分までには通常相当に長期間を要
するところであり(本件においても約1年半の期間を要している。)、その
間、全く就労をせずに生活を行うことはほぼ不可能というべきであり、難民
が迫害を逃れるために本国を離れてきたことを考慮すれば、入国時に生
活を長期間維持する現金を有している可能性は極めて低く、申請の準備
期間においても取りあえず生活を維持するために仕事を探そうということ
はやむを得ないものというべきであり、そのことをもって、申請者の難民性
を否定するのは酷であるというべきである。また、原告は、本国において
大学を卒業し、父も相当の社会的地位を有する者であって、同国人として
は恵まれた境遇にあったと認められるのであり、そのような者があえて不
法滞在を覚悟の上で単なる就労目的で具体的な職の目当てもなく来日す
るとは考え難く、被告らの主張の方がむしろ不自然なものともいえよう。そ
の上、原告が、入国後長期間にわたって庇護を求めなかった点について
も、そもそもそのことから就労目的を推認することには、あまりに飛躍があ
るといわざるを得ないし、出身国で迫害を受け第三国に逃げ込んだ者が
自分を保護してくれるか否かについて確証を持ち得ないその国の政府に
対して積極的に庇護を求めることは、決して容易なことではなく、その国で
在留を続けることに何らかの障害が生じて初めて庇護を求めようとするの
は出身国で迫害を受けたものにとってはむしろ当然のことというべきであ
り、原告も当初は、難民という言葉が本国では否定的な意味合いを持つこ
とや日本で民主化運動を行っていた組織が日本政府には庇護を求めない
との方針で望んでいたことから、あえてその方針に従ったものであると述
べるところであり、そのことによって、原告の難民性を否定することはでき
ないし、ましてや、就労目的を推認することなどできようはずがない。
(4)結 論
ア 以上によれば、原告は、難民条約及び難民議定書所定の難民に該当す
るものと認められるところ、被告が、原告は難民に該当しないことを理由と
してした本件不認定処分は違法なものといわざるを得ない。
イ(ア) そして、難民条約33条は、締約国は、難民をいかなる方法によって
も、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又
は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれ
のある領域の国境へ追放し又は送還してはならない旨定め、法53条3
項には、法務大臣が日本国の利益又は公安を著しく害すると認める場
合を除き、前2項(退去強制を受けるものの送還先を定めるもの)には
難民条約33条1項に規定する領域の属する国を含まないものとすると
定められているところ、本件退去強制令書は、その送還先をミャンマー
としており、前記のとおり、原告が本件不認定処分当時において難民に
該当すると認められ、その後、本件退令発付処分時までに特段の事情
の変化があったと認めるに足りる証拠が存しない以上、原告をミャンマ
ーに送還することは許されず、本件で原告に発付された退去強制令書
は、その送還先の記載に誤りがあることは明らかといわざるを得ない。
 もっとも、法51条及び法施行規則45条の規定からすると、送還先
は、退去強制令書に記載が求められる法定事項ではなく、退去強制令
書は、それを受ける者に本邦からの退去をせよとの意思表示をすること
をその本質とするものであって、送還先の記載は、処分が有する本来
の効力に関する記載ではなく、同令書の執行の便宜のために記載され
たものとみることもできるのであり、そのような解釈に立った場合、送還
先の記載に誤りがあることは、直ちに退去強制令書発付処分全体を違
法なものとするかには大いに疑問があるといわざるを得ないところであ
る。しかし、弁論の全趣旨によれば、現在の退去強制の実務において、
退去強制令書発付処分の効力は、我が国からの退去のみならず、退
去強制令書の送還先に記載された特定国への送還を本質とするものと
して取り扱われていることが認められ、これによれば、送還先の記載に
誤りがある場合には、退去強制令書全体を違法なものとしてこれを取り
消さない限り、当該送還先への送還を阻止する法的な手段がないこと
になるのであるから、上記のような解釈を前提としても、同令書全体を
取り消し得ると解さざるを得ない。
(イ) また、本件退令発付処分時は、違法な難民不認定処分を前提として
されたものであり、難民認定処分の効力にかんがみればその違法が直
ちに本件退令発付処分に承継されるとまではいえないものであるが、
本件退令発付処分は、原告が難民でないことを前提としてされたもので
あるから、本来、当然に考慮すべき事実を考慮せずにされた社会通念
上著しく不相当なものというべきであり、本件退令発付処分は、被告主
任審査官がその与えられた裁量権を逸脱又は濫用して行ったものであ
ることは明白である。
(ウ) そうすると、いずれにしても本件退令発付処分は違法であり、取り消
されるべきものというべきである。
第4 結論
 以上によれば、原告の訴えのうち、本件裁決の取消し及びその無効確認の請
求にかかる部分は不適法であるからこれを却下するものとし、その余の請求はい
ずれも理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき、行政事
件訴訟法7条、民事訴訟法64条ただし書及び61条を適用して、主文のとおり判
決する。 
東京地方裁判所民事第3部
裁判長裁判官    藤山雅行
裁判官    廣澤 諭
裁判官    新谷祐子
(別紙)
当事者目録
原告   A 
被告   法務大臣
平成13・15年事件被告   東京入国管理局主任審査官
                                 以 上

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