弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主   文
被告人は無罪。
理   由
第1 当事者の主張と本件の争点等
 1 当事者の主張
   検察官主張の本件公訴事実は,「被告人は,平成15年8月23日午前3時
10分ころ,大阪市a区bc丁目d番e号所在のホテルAにおいて,いわゆるテレクラ
で知り合ったB(当時40年)から金を返すよう執拗に迫られたことなどに立腹し,
同人に対し,同室備付けの電気ポット(重さ約2キログラム)でその顔面等を多数
回殴打し,さらに,引き続き,同室前廊下において,同所に備え付けのスタンド
式金属製灰皿(同約2キログラム)で同人の頭部を多数回殴打するなどの暴行を
加え,よって,同人に加療約10日間を要する頭部,顔面打撲及び頭部挫創の
傷害を負わせた」というものである。
   これに対し,被告人は,捜査・公判を通じ一貫して,「公訴事実記載の犯行
を行ったことはないし,同記載の日時に同記載の場所にいたこともない。」旨陳
述し,弁護人も当公判廷でこれに沿う主張をしている。
 2 本件の争点と証拠構造
   ところで,本件の被害者とされるB氏(以下「B被害者」という。)の捜査・公判
における各供述にその余の関係証拠を総合すれば,B被害者が,公訴事実記
載の日時・場所において若い女性犯人から同記載の暴行を受け,傷害を負った
事実については,優にこれを認めることができ,弁護人もこの点については強く
争っていない。
   問題は,その女性犯人が被告人であると認められるか否かである。この点
に関する証拠関係を通覧すると,検察官の主張に沿う証拠としては,① まず直
接証拠として,被告人が犯人であるとするB被害者の捜査・公判における犯人識
別供述(B被害者の第2回公判における証言及び同証人尋問終了後同意書証
として取り調べた同人の検察官調書〔甲5〕・警察官調書〔甲3,4〕。以下,これら
を総じて「B供述」と,そのうちの犯人識別供述部分を特に「B識別供述」とそれ
ぞれいう。)があり,② 次に,被告人が犯人であることを窺わせるような若干の間
接事実が認められる。しかし,後述のとおり,間接事実はこれをすべて総合して
も,その証明力はあまり高度なものとは言えないので,犯人と被告人との同一性
が認められるか否かは,結局のところ,B識別供述の信用性のいかんに係って
いるといえよう。
   よって,以下では,まずB識別供述の信用性について詳細な検討を加えた
後,最後に上記間接事実につき若干の検討を加えておくこととする。
第2 B識別供述の信用性
 1 本件の捜査経過及びB被害者の犯人識別過程
   B供述に,B被害者作成の被害届〔甲1〕及び任意提出書〔甲22〕,警察官
作成の写真撮影報告書〔甲6〕,捜査報告書〔甲8〕,領置調書〔甲23〕,捜索差
押調書〔甲25-証拠排除部分を除く。〕,被告人の検察官調書〔乙7〕,警察官
調書〔乙2〕や,本件記録中の身柄関係書類を総合すると,以下の各事実が認
められる(なお,以下,ゴシック体部分は,B識別供述の信用性を検討する上で
極めて重要であると思われる箇所である。)。
  (1) 本件傷害事件が発生した平成15年8月23日同日,B被害者は,警察官
の指示に従い,医師の診察を受けて診断書をとった上,午後零時ころ,大阪府
C警察署に被害届を提出した。同被害届は,B被害者の供述に基づき同署地域
係の警察官が代書したものであるが,そのうち,犯人を特定する上で重要性を
持つ「犯人の住居,氏名,又は通称,人相,着衣,特徴等」の欄には,次のよう
な記載が存するにとどまっている。
    「犯人の女は,身長160㎝位,髪は肩位の長さで黒色でした。女は,自称
D年齢29歳,体格中肉でした。」
  (2) なお,事件当日B被害者から事件の申告を受けたC署は,上記被害届と
診断書とを受理し,同被害者が犯人に折られたとする携帯電話を撮影した写真
撮影報告書〔甲6〕と同被害者の受傷状況を写真撮影した捜査報告書〔甲8〕を
作成したのみで,事件現場や凶器とされる電気ポット,スタンド式金属製灰皿か
らの指紋採取はおろか,その写真撮影すらも行っておらず,また,犯人が現場
に遺留した疑いの強いヘアークリップ1個〔平成16年押第179号の1〕についてま
でも,あろうことか,有り合わせのコンビニの袋に入れてB被害者に持って帰らせ
る始末であった。また,犯人識別の関係では,前記のとおり被害届の一部に犯
人の特徴をわずかに留めたのみで,改めて,事件後早期にB被害者から犯人の
容貌・着衣の特徴等について事情聴取を行い,供述調書を作成するようなこと
は一切行っていない。
  (3) その後,捜査の進展が全くないまま推移していたが,事件発生からちょう
ど4か月が経過した同年12月23日の昼ころ,B被害者は,C署から電話を受け,
同人の言葉(警察官調書〔甲3〕)によれば「私に怪我を負わせた女を捕まえたの
で,顔を確認して欲しい」旨の連絡を受けた。そのため,同被害者が早速同署に
赴くと,担当の警察官は,まず同被害者に被害届の内容を一度確認の上,当日
被告人が本件と類似したトラブルを起こして同署刑事課で取調べを受けていた
ことから,その取調室の隣室から透視鏡を通してB被害者に被告人に対する面
通しを行わせた(以下,これを「1回目の単独面通し」という。)。
  (4) その結果,B被害者が肯定的な答えをしたため,警察官は,同日直ち
に,同被害者から事件のことや犯人と被告人との同一性について詳細な事情聴
取を行い,初めて警察官調書〔12月23日付け。甲3〕を作成した。同調書中で,
B被害者は,犯人と被告人との同一性に関し,次のとおり供述している。
    「私に怪我を負わせた自称Dという女は,年齢27,8歳,身長160センチ
位,中肉,角顔で目の細い女でした。(1回目の単独面通しにより)只今見せて
貰いました女に間違いありません。角顔で目が細く,あごのとがった感じからこの
女です。」
    このB識別供述に基づき,被告人は,本件被疑事実により同日通常逮捕
され,その後勾留されて現在に至っている。
  (5) そして,その後約2週間経過した平成16年1月7日,B被害者に対する
検察官の事情聴取が行われたが,その結果作成された検察官調書〔同日付け。
甲5〕の中で,同被害者は,犯人と被告人との同一性に関し,その特徴を新たに
付加して次のとおり供述している。
    「(被告人に対する1回目の単独面通しの折)女の顔は,やや斜めから見
ました。女は,刑事さんの取調べを受け,椅子に座っていました。女は,目が細
く,角張った顔をしていて,取調べの刑事さんに対し,ふてくされた態度を取って
いて,その顔は『口がゆがんでいる。』という状態で,私が見た犯人の顔と記憶が
一致し,私は,刑事さんに『刑事さん,間違いありません。この女です。私にケガ
を負わせた犯人は,この女に間違いありません。』と言いました。」
  (6) しかし,このような断定的な供述状況にもかかわらず,B被害者は後記の
とおり裸眼視力が片眼0.3であり,上記1回目の単独面通しが裸眼のまま行わ
れたことから,これを懸念した担当検察官は,透視鏡越しではなく,直に被告人
に面通しさせるため,同被害者に指示して,翌8日再度C署に赴かせ,今度は眼
鏡をかけた状態と裸眼のままの状態の両方で直に単独面通しをさせた。そして,
当日は,① まず,通路を歩いている被告人をB被害者が椅子に座った状態で
その横から(最短距離は約2メートル)身体の向きを変えながら観察するという方
法(以下,これを「2回目の単独面通し」という。)により面通しが行われた後,今
度は,② 取調室の奥で入口側に向かいうなだれながら座っている被告人を,
その正面である取調室の入口側からB被害者が立ったまま被告人の顔が見える
よう身体を反らしながら観察する方法(以下,これを「3回目の単独面通し」とい
う。)でも単独面通しが実施された。その結果,同日作成された警察官調書〔甲
4〕の中で,同被害者は,犯人と被告人との同一性に関し,その特徴を新たに付
加して次のとおり供述している。
    「(犯人は,)年齢27~8歳くらい,身長160センチくらい,中肉からがっち
りした体格,角顔で目が細く,顎がややしゃくれ上がった女性です。特に,角張
った感じの顔型には特徴があって,よく覚えています。それと,話し言葉の中に
は関西弁とは違うアクセントがあり,東方面の地方の方言もあったと思いますの
で,もう一度会って,その話し言葉を聞けば,更によく分かると思います。」
    「調べ室の中で刑事さんが話しかけても,全く返事もしませんので,その
話し言葉を聞くことは出来ませんでしたが,ふてくされた時の顔つきや口元を曲
げたりする癖等もその時のままです。」
    「昨年12月23日に小窓から見せて貰った時には,やや斜めから見せて
貰いましたが,今回取調室にまで入って正面から見せて貰い,前回よりも自信を
持って,この女性が私を殴った犯人と言うことが出来ます。」
  (7) その後,被告人は1月13日起訴されたが,C署は,起訴後の2月10日被
告人の自宅に再度捜索を行った結果,同宅から,いずれも被告人の所有物で
ある白色Tシャツ2枚〔同押号の2,3。いずれも丈が短い,いわゆるチビティー
で,胸付近に文字又は絵柄が入っている。〕,ズボン1枚〔同押号の4。ベージュ
色の,裾が短いサブリナパンツで,裾部分が広がり,紐がついているもの〕が押
収された。
  (8) そして,捜査段階における前記各単独面通しから更に2~3か月経過し
た第2回公判期日(3月18日)においてB被害者の証人尋問が実施されたが,そ
の際にも,同被害者は前記1月8日付け警察官調書〔甲4〕中における犯人の容
貌の特徴に関する詳細な供述を維持する一方,上記捜索差押えの結果に符節
を合わせるかのように(同被害者の証言によれば,同人は,この衣服の押収後,
C署から服を見てほしいと言われ,それで一度C署でその服装について話をした
記憶があるとのことである。),捜査段階では全く供述していなかった犯人の服装
の特徴についても新たに付加して次のとおり供述している。
    「(犯人の)上はTシャツみたいな感じなんですけども,かなり体型にぴち
ぴちの形で,それで,丈が短くおへそが出るぐらい,下のほうはまあジーパンとい
うのかチノパンというのか,まあ綿系統のあれなんですけども,とにかく細い,まあ
細いというのか,もう足のラインがくっきり出るような形のもので,足の下までなく
て,七分とか八分とかいうんでしょうけど,それぐらいで,ひざが隠れるぐらいで,
後はもうくるぶしとかふくらはぎぐらいが出るような形の服だった記憶がありま
す。」
    「(Tシャツは)白っぽくて,多分,胸の辺りにデザインか何かがあったよう
な記憶があります。(ズボンの色は)ベージュから茶にかけてぐらいの感じ。」
    「(犯人の)第一印象は,短い服着てるなと。」「おへそが出てた。丈が短
い。」
    これに対し,各単独面通しの際の犯人と被告人との同一性に関する印象
について,B被害者は,次のとおり,捜査段階の供述からやや後退した証言を行
っている。
    「(1回目の単独面通しの折には)髪の毛が,髪型が変わっているんで,ま
ずあれっと思ったのは確かなんですけども,その後に,一瞬こっちを向く場面が
あって,そのときに,あっ,似てるなというのと,多分,これじゃないかなというふう
には思いました。」
    「(2,3回目の単独面通しを経て)もう一度見してもらって,間違いないだ
ろうというぐらいまでは思いました。」
 2 B識別供述の信用性の検討
   以上のとおり,B被害者は,最終的に被告人が犯人であることは間違いな
い旨供述し,同人が具体的かつ詳細に語る犯人の容貌の特徴なるものも,すべ
て被告人のそれと一致している。しかしながら,前記捜査経過や犯人識別過程
からも明らかなとおり,B識別供述は,いずれも被告人に対する単独面通しを行
った後のものであるから,それが真にB被害者のオリジナルな観察・記憶に由来
するものであるかについては,慎重な検討が必要である。
   そこで,以下,観察条件及び記憶保持情況の良否,犯人識別手続の妥当
性,犯人識別の確信度の3点から,その信用性について検討を加えることとす
る。
  (1) 観察条件及び記憶保持情況の良否
    B供述によれば,同被害者は,本件事件当日午前零時過ぎころ,いわゆ
るテレクラカードの電話をかけ,まもなく電話に出た犯人の若い女性(「D,29
歳」と自称)とfで落ち合った後,以後事件が発生して犯人が逃走した同日午前3
時10分ころまでの約2~3時間,寿司店及びラブホテルの部屋などで犯人と行
動を共にしていたこと,この間,寿司店はもとよりラブホテルの部屋も終始ライトが
つけられて明るい状態であったため,B被害者は比較的観察しやすい環境(もっ
とも,性行為にまでは至らなかったため,正面から至近距離で犯人を観察する機
会はさほど多くはなかったと思われる。)の下で犯人に接していたこと,以上の事
実が認められ,これらの事情に照らせば,少なくとも観察の客観的条件に関する
限り,検察官主張のとおり比較的良好なものがあったと言い得るように思われる。
    しかし他方,再びB供述に鑑みれば,① 同被害者は犯人とは全くの初
対面であって,いわゆる既知性が認められない上,② 同被害者は,裸眼視力
が両目とも単眼0.3,両眼で0.5の近眼である(したがって,運転免許も眼鏡等
着用が条件となっている。)にもかかわらず,本件事件当時,同被害者は終始眼
鏡を付けていなかったものであって,必ずしも明瞭に物事を観察し得る状況に
はなかった(それゆえにこそ,検察官は,1回目の単独面通しの後,再度同被害
者に指示して,直に,しかも眼鏡をかけた状態での単独面通しを改めて行わせ
たものである。)こと,そればかりか,③ 同被害者は,事件前夜の午後7時半過
ぎから本件当日の午前1時~2時ころまでの間,パブ,居酒屋,ラウンジ,寿司
店の飲食店4軒を梯子し,この間,酒の総量にして焼酎720ミリリットル瓶約1本
程度を飲酒し,少なくとも3軒目のラウンジを出た段階で既に,本人の認識で「ホ
ロ酔い状態を少し越えたぐらい」の状態にあったものであり,いくら同被害者が酒
に強いと自認していても,本件事件当時は更に酔いが回っていたものと推認さ
れ,その身体的観察能力は一層低下していたものと考えられること,④ このよう
に観察の主観的条件にはかなりの制約があって,観察の正確性自体にも相当
問題があったことから,その記憶もかなり脆弱なものであったと思われるのに,B
被害者が最初に犯人識別手続を行ったのは,前記認定のとおり,本件事件発
生からちょうど4か月も経過した後であったこと,以上の事実が認められる。
  (2) 犯人識別手続の妥当性
    以上見たように,もともとB被害者の観察の正確性には相当の問題があっ
たことに加え,最初の犯人識別手続が行われる平成15年12月23日に至るまで
には事件後既に4か月も経っており,時の経過に伴う記憶保持の困難性という観
点からも多大の問題点があったのであるから,その段階で犯人識別手続を行う
に当たっては,よほど慎重にその手続を進めなければ,捜査官側の不用意な暗
示に同被害者が安易に乗ってしまいかねない危険性が多分に存したものと指摘
することができる。
    しかるに,本件においては,既に前1で詳細に認定したとおり,① 具体
的な犯人識別手続に入る前の段階で,犯人の容貌・着衣等の特徴等に関する
詳細な事情聴取やその記録化が全く行われていない(なお,B被害者の12月2
3日付警察官調書〔甲3〕においては,一応警察官において同被害者から「年齢
27,8歳,身長160センチ位,中肉,角顔で目の細い女」という犯人の容貌等の
特徴を聞き取った上で1回目の単独面通しをさせたかのような体裁になっている
が,現実にこのような手続段階を踏んで単独面通しが行われたかについてはこ
れを客観的に証明するだけの証拠資料が何もない上,同被害者は事件直後の
被害届においてすら,前1(1)に記載のような抽象的な犯人像しか語り得ていな
いことに照らしても,単独面通し前に既に「角顔で目の細い女」という犯人の特徴
を同被害者が語っていたとする供述記載部分については,にわかに信用するこ
とができない。)上,② 警察官において,単独面通しに先立ち,同被害者に対
し,同人に怪我を負わせた女を捕まえたので顔を確認して欲しいなどという発言
を行うことにより,既にこれから面通しさせる女性は同被害者に傷害を負わせた
犯人であるなどという強烈な暗示・誘導を与えてしまっている(同被害者も,その
点は自認している〔同証言調書64丁〕。)ばかりか,③ 犯人識別手続において
も,写真面割り等複数選択の余地のある手続を先行させることなく,いきなり,判
例・実務において暗示性が強いためできる限り避けるべきであるとの認識が確立
している単独面通し(1回目)をB被害者に行わせている上,④ さらに追い打ち
的に,その約2週間後にも,今度は透視鏡を通してではなく実物を直に見る形の
単独面通し(2回目,3回目)を同被害者に行わせてしまっているのである。
    前1で認定したとおり,B被害者は,事件当日の被害届においては,街中
どこででも見かけるような極めて抽象的な犯人像しか述べていなかった(もっと
も,同被害者は,当公判廷での証人尋問において,被害届の段階で既に,同尋
問で証言したような具体的かつ詳細な人物像を警察官に申告していた旨供述し
ているが,仮にそのような訴えがあったとすれば,被害届を代書した警察官にお
いて特徴的なその旨の記載を書き落とそうはずがないと考えられるのであって,
同被害者の上記供述は信用することができない。)にもかかわらず,その後4か
月も経過した後,しかも1回目の単独面通し後に作成された同日付で警察官調
書〔甲3〕において初めて「角顔で目の細く,あごのとがった感じの女」などという
犯人の容貌に関する具体的特徴を供述したのを初めとして,その後,1月7日付
検察官調書〔甲5〕,2,3回目の単独面通し後作成された1月8日付警察官調書
〔甲4〕,当公判廷での証言と,回を負うごとに,また,時期が後になるほどに,よ
り具体的でより詳細な犯人の特徴を語るようになっていっているのであって,この
ような特異な事態の推移は,前述のようないきなりの,しかも複数回にわたる単
独面通しとこれに先立って行われた警察官の強烈な暗示・誘導による決定的な
影響なくしてはおよそ考えられないものであると断じざるを得ない。
  (3) 犯人識別の確信度
    もっとも,これに対し,検察官は,B被害者が,自己の証言が被告人の罪
責を決する重要な事実であることを自覚した上で,確信をもって被告人が犯人
であると証言している点をとらえて,その信用性を裏付けるものである旨主張して
いる。
    しかしながら,周知のとおり,犯人識別供述の危険性は,他の供述証拠と
異なり,その供述自体に内在しているのであって,その意味では,その信用性の
いかんは供述者の中立性・誠実性,供述の一貫性,供述態度の誠実さなどとは
関わりが乏しいといわざるを得ないし,また,供述者の犯人識別の確信度とその
識別の正確性との間には有意的な関連性を認めないのが,近時の認知心理学
上の知見(菊野春雄『嘘をつく記憶』〔平成12年〕205頁,吉川左紀子「顔を見分
ける,顔が分かる-顔の知覚と記憶-」渡部保夫監修『目撃証言の研究』〔平成
13年〕162頁等)でもあり,また,裁判例一般の傾向(司法研修所編『犯人識別供
述の信用性(司法研究報告書第49輯第2号)』〔平成11年〕81頁等)でもある。
    しかも,本件においては,前1(8)で認定したとおり,B被害者も,公判証言
においては,1回目の単独面通しの折には「あっ,似てるなというのと,多分,こ
れじゃないかなというふうには思いました。」という程度の認識であったのに対し,
2回目,3回目と単独面通しを重ねるに従って,確信度を強めていき,「もう一度
見してもらって,間違いないだろうというぐらいまでは思いました。」という認識に
至っているのであって,このような事情に照らしても,同被害者本人の確信度の
強さが同識別供述の信用性を高めるものでないことは明らかである。
    よって,上記検察官の主張は採用し難い。
  (4) 小括
    以上見たとおり,B識別供述は,もともと観察の正確性自体に問題を内包
していたことに加え,長期間経過後に行われたものであり,しかも,複数回にわ
たる,いきなりの単独面通しとこれに先立つ警察官の強烈な誘導的言辞によっ
て決定的かつ回復困難な不当な暗示・誘導を受けた状態の下で行われたもの
であって,到底信用することができず,このように重大な欠陥を内包する同供述
を事実認定の柱として供することは許されないというべきである。
第3 被告人の犯人性を推認させる間接事実について
  以上見たB識別供述のほか,本件では,被告人が犯人であることを窺わせる
ような若干の間接事実が存在している。すなわち,検察官の釈明によれば,① 
被告人が事件当日大阪にいたこと,② 被告人の交際相手であるE氏との交際
状況が,本件におけるB被害者との交際状況と類似していること,③ 被告人が
本件事件当日から4か月経過後に本件と類似する行動をしていることの3点がこ
れである。また,それ以外にも,立証趣旨の拘束力の問題を度外視して考えるな
らば,④ 被告人の前科,ことに平成14年3月18日に略式命令が発布された傷
害の前科〔乙16〕については,その犯行態様が本件とかなり類似していることも
付加して挙げることができよう。
  しかし,これらの間接事実は,検察官の意図したとおり,そのすべてが完璧に
立証されたとしても,その性質上,これらを全部総合したところで,被告人が犯人
であることを「合理的な疑い」を容れる余地なく推認できるとは到底考えられず,
また,これらが前記のように重大な欠陥を内包するB識別供述の信用性や証明
力を飛躍的に高め得るものとも認め難いところである。
  よって,当裁判所は,第2回準備手続段階までになされた上記間接事実に関
する立証以上に検察官の立証活動を許したとしても,公訴事実に関する証明の
存否を決する上では実益がないものと認め,上記①②の各間接事実に関しなさ
れた検察官の証人請求をいずれも却下し,早々に証拠調べを打ち切った次第
である。
第4 結論-併せて,当裁判所の所感
  そうすると,弁護人のその余の主張について判断するまでもなく,本件公訴
事実については犯罪の証明がないということに帰するから,刑事訴訟法336条
により被告人に対し無罪の言渡しをする。
  なお,最後に一言,本事件の審理を担当して当裁判所の感ずるところを述べ
ておきたい。
  犯人識別供述は,実務上,有罪立証のための極めて重要な証拠であるととも
に,前述のとおり固有の問題性を内在させていることから,その採取の方法や信
用性の判断を誤ると,冤罪の温床ともなりかねない危険性を孕んでいる証拠で
ある。そのため,犯人識別供述の信用性を巡っては,これまでも多数の裁判例
や裁判実務家の論考が蓄積されてきたし,また,近時は,ロフタス等を嚆矢とす
る認知心理学上の研究成果にも目覚ましいものが認められる。
  そして,このような裁判例や諸研究の成果によって,今日ほぼ一致した理解
が得られているのは,第1に,犯人識別過程においては,捜査官側において,
極力目撃者に暗示を与えないように勤めなければならないこと,第2に,その意
味からして,強い暗示を与えやすい単独面通しはできる限り避けるべきこと,第3
に,犯人識別に関しては,目撃者の初期供述が極めて重要であり,その意味か
らも,初期供述の保全に可能な限り努めなければならないこと,第4に,その反
面,犯人識別に関する供述者の主観的確信は,あまり当てにはならないこと,以
上の4点であった。
  ところが,本件の捜査過程においては,これら4点の帰結はいずれも無視さ
れる結果となってしまい,第1に,B被害者の初期供述については,前記被害届
以外には全く保全されていないし,第2に,同被害者に対してはいきなり単独面
通しが実施され,さらに,第3には,その単独面通しに先立ち,警察官から同被
害者に対し強い暗示を与える言辞が弄され,その結果,第4として,ほとんど同
被害者の主観的確信そのものでしかない本件犯人識別供述のみに基づき,被
告人が逮捕・勾留され,起訴されるに至っているのである。
  特に,単独面通しの危険性については,最高裁判所が,いわゆる板橋の強
制わいせつ事件に関する平成元年10月26日の判決(裁判集刑事253号
167頁,判時1331号145頁,判タ713号75頁)で,単独面通しの方法は暗示性が
強いためできるだけ避けるべきである旨警告を発しているにもかかわらず,本件
のみならず,他の事件においても,警察がこの警告を無視して,依然単独面通
しの方法を多用していることは,誠に憂慮に堪えないところである。
  誤った犯人識別供述で事件を立件することは,冤罪を生む危険を有している
ばかりか,真の犯人を取り逃がす結果にもなりかねないのであって,二重の意味
で重大な問題を含んでいると言わねばならない。
  今後,大阪府警が,先に述べた最高裁判例を初めとする近時の裁判例の動
向や認知科学上の研究成果に学び,一刻も早く本件のような旧態依然たる捜査
方法を改められることを切に要望する次第である。
  よって,主文のとおり判決する。
    平成16年4月9日
  大阪地方裁判所第7刑事部
      裁判官   杉  田  宗  久

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