弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1厚生労働大臣が原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律11条1項
に基づき原告に対し平成21年11月19日付けでした原爆症認定申請
却下処分を取り消す。
2原告のその余の請求を棄却する。
3訴訟費用はこれを2分し,その1を原告の負担とし,その余を被告の
負担とする。
事実及び理由
第1章請求
第1主文1項と同旨
第2被告は,原告に対し,300万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平
成22年1月22日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2章事案の概要
第1事案の骨子
本件は,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(以下「被爆者援護法」と
いう。)1条に定める被爆者である原告が,厚生労働大臣に対し,被爆者援護法
11条1項に定める厚生労働大臣の認定(以下「原爆症認定」という。)を受け
るため,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律施行令(平成22年政令第2
9号による改正前のもの。以下「被爆者援護法施行令」という。)8条1項に定
める申請(以下「原爆症認定申請」という。)をしたが,同大臣がこれを却下し
たため,被告に対し,同却下処分の取消しを求めるとともに,国家賠償法1条1
項に基づき,300万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで
民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。
第2法令の定め等
1被爆者援護法の内容
(1)被爆者援護法の趣旨目的
被爆者援護法は,その前文において,以下のとおり同法の趣旨目的を記し
ている。
「昭和20年8月,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類の
ない破壊兵器は,幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず,たとい一
命をとりとめた被爆者にも,生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し,
不安の中での生活をもたらした。
このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康の
保持及び増進並びに福祉を図るため,原子爆弾被爆者の医療等に関する法律
及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し,医療の給付,
医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また,我ら
は,再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下,
世界唯一の原子爆弾の被爆国として,核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和
の確立を全世界に訴え続けてきた。
ここに,被爆後50年のときを迎えるに当たり,我らは,核兵器の究極的
廃絶に向けての決意を新たにし,原子爆弾の惨禍が繰り返されることのない
よう,恒久の平和を念願するとともに,国の責任において,原子爆弾の投下
の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特
殊の被害であることにかんがみ,高齢化の進行している被爆者に対する保健,
医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ,あわせて,国として原子爆
弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため,この法律を制定する。」
(2)被爆者の定義
被爆者援護法において,「被爆者」とは,次の各号のいずれかに該当する
者であって,被爆者健康手帳の交付を受けたものをいう(1条。なお,以下,
特に断らない限り,「被爆者」とは同条所定の者を指すものとする。)。
ア原子爆弾が投下された際当時の広島市若しくは長崎市の区域内又は政令
で定めるこれらに隣接する区域内に在った者(同条1号)
イ原子爆弾が投下された時から起算して政令で定める期間(広島市に投下
された原子爆弾については昭和20年8月20日まで,長崎市に投下され
た原子爆弾については同月23日まで(被爆者援護法施行令1条2項))
内に前号に規定する区域のうちで政令で定める区域内(おおむね爆心地か
ら2キロメートル以内の区域。被爆者援護法施行令1条3項,別表第二参
照)に在った者(被爆者援護法1条2号)
ウ前2号に掲げる者のほか,原子爆弾が投下された際又はその後において,
身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者(同条
3号)
エ前3号に掲げる者が当該各号に規定する事由に該当した当時その者の胎
児であった者(同条4号)
(3)被爆者健康手帳
被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は,その居住地(居住地を有し
ないときは,その現在地)の都道府県知事に申請しなければならず(被爆者
援護法2条1項),都道府県知事は,同申請に基づいて審査し,申請者が被
爆者に該当すると認めるときは,その者に被爆者健康手帳を交付する(同条
3項)。
(4)被爆者に対する援護
ア健康管理
都道府県知事は,被爆者に対し,毎年,厚生労働省令で定めるところに
より,健康診断を行い(被爆者援護法7条),同健康診断の結果必要があ
ると認めるときは,当該健康診断を受けた者に対し,必要な指導を行う
(同法9条)。
イ医療の給付
厚生労働大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,又は疾病にか
かり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を行
う。ただし,当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射能に起因するものでない
ときは,その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現
に医療を要する状態にある場合に限る(同法10条1項)。
上記医療の給付の範囲は,①診察,②薬剤又は治療材料の支給,③医学
的処置,手術及びその他の治療並びに施術,④居宅における療養上の管理
及びその療養に伴う世話その他の看護,⑤病院又は診療所への入院及びそ
の療養に伴う世話その他の看護,⑥移送,であり(同条2項),これら医
療の給付は,厚生労働大臣が同法12条1項の規定により指定する医療機
関に委託して行われる(同法10条3項)。
上記医療の給付を受けようとする者は,あらかじめ,当該負傷又は疾病
が原子爆弾の傷害作用に起因する旨の厚生労働大臣の認定(原爆症認定)
を受けなければならない(同法11条1項)。
ウ一般疾病医療費の支給
厚生労働大臣は,被爆者が,負傷又は疾病(被爆者援護法10条1項に
規定する医療の給付を受けることができる負傷又は疾病,遺伝性疾病,先
天性疾病及び厚生労働大臣の定めるその他の負傷又は疾病を除く。)につ
き,都道府県知事が同法19条1項の規定により指定する医療機関から同
法10条2項各号に掲げる医療を受け,又は緊急その他やむを得ない理由
により上記医療機関以外の者からこれらの医療を受けたときは,その者に
対し,当該医療に要した費用の額を限度として,一般疾病医療費を支給す
ることができる(同法18条1項)。
エ医療特別手当の支給
都道府県知事は,被爆者援護法11条1項の認定(原爆症認定)を受け
た者であって,当該認定に係る負傷又は疾病の状態にあるものに対し,医
療特別手当を支給する(同法24条1項)。同法24条1項に規定する者
は,医療特別手当の支給を受けようとするときは,同項に規定する要件に
該当することについて,都道府県知事の認定を受けなければならない(同
条2項)。医療特別手当は,月を単位として支給するものとし,その額は,
一月につき13万5400円である(同条3項)。医療特別手当の支給は,
同条2項の認定を受けた者が同認定の申請をした日の属する月の翌月から
始め,同条1項に規定する要件に該当しなくなった日の属する月で終わる
(同条4項)。
オ特別手当の支給
都道府県知事は,被爆者援護法11条1項の認定(原爆症認定)を受け
た者に対し,特別手当を支給する。ただし,その者が医療特別手当の支給
を受けているときは,この限りでない(同法25条1項)。同法25条1
項に規定する者は,特別手当の支給を受けようとするときは,同項に規定
する要件に該当することについて,都道府県知事の認定を受けなければな
らない(同条2項)。特別手当は,月を単位として支給するものとし,そ
の額は,一月につき5万円である(同条3項)。特別手当の支給は,同条
2項の認定を受けた者が同認定の申請をした日の属する月の翌月から始め,
同条1項に規定する要件に該当しなくなった日の属する月で終わる(同条
4項)。
カ健康管理手当の支給
都道府県知事は,被爆者であって,造血機能障害,肝臓機能障害その他
の厚生労働省令で定める障害を伴う疾病(原子爆弾の放射能の影響による
ものでないことが明らかであるものを除く。)にかかっているものに対し,
健康管理手当を支給する。ただし,その者が医療特別手当,特別手当又は
原子爆弾小頭症手当の支給を受けている場合は,この限りでない(被爆者
援護法27条1項)。
キ保健手当の支給
都道府県知事は,被爆者のうち,原子爆弾が投下された際爆心地から2
キロメートルの区域内に在った者又はその当時その者の胎児であった者に
対し,保健手当を支給する。ただし,その者が医療特別手当,特別手当,
原子爆弾小頭症手当又は健康管理手当の支給を受けている場合は,この限
りでない(被爆者援護法28条1項)。
クその他の手当等の支給
都道府県知事は,一定の要件を満たす被爆者に対し,上記各手当以外に
も,原子爆弾小頭症手当(被爆者援護法26条),介護手当(同法31
条)等を支給する。
ケ手当額の自動改定
医療特別手当,特別手当,原子爆弾小頭症手当,健康管理手当及び保健
手当については,総務省において作成する年平均の全国消費者物価指数が
平成5年(手当の額の改定の措置が講じられたときは,直近の当該措置が
講じられた年の前年)の物価指数を超え,又は下るに至った場合において
は,その上昇し,又は低下した比率を基準として,その翌年の4月以降の
当該手当の額を改定する(被爆者援護法29条1項)。なお,平成23年
4月以降の月分の医療特別手当の金額は,13万4590円である(被爆
者援護法施行令17条1項)。
2原爆症認定の手続等
(1)原爆症認定の申請手続
被爆者援護法11条1項の規定による厚生労働大臣の認定(原爆症認定)
を受けようとする者は,厚生労働省令で定めるところにより,その居住地の
都道府県知事を経由して,厚生労働大臣に申請書を提出しなければならない
(被爆者援護法施行令8条1項)。この規定を受けて,原子爆弾被爆者に対
する援護に関する法律施行規則(平成20年厚生労働省令第41号による改
正前のもの。以下「被爆者援護法施行規則」という。)12条は,上記申請
書は,①被爆者の氏名,性別,生年月日及び居住地並びに被爆者健康手帳の
番号,②負傷又は疾病の名称,③被爆時以降における健康状態の概要及び原
子爆弾に起因すると思われる負傷若しくは疾病について医療を受け,又は原
子爆弾に起因すると思われる自覚症状があったときは,その医療又は自覚症
状の概要,等を記載した認定申請書(様式第5号)によらなければならず
(同条1項),また,同申請書には,医師の意見書(様式第6号)及び当該
負傷又は疾病に係る検査成績を記載した書類を添えなければならない(同条
2項)旨規定している。そして,上記医師の意見書には,①負傷又は疾病の
名称,②被爆者健康手帳の番号,③被爆者の氏名及び生年月日,④既往症,
⑤現症所見,⑥当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射能に起因する旨,原子爆
弾の傷害作用に起因するも放射能に起因するものでない場合においては,そ
の者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けている旨の医師の意見,⑦
必要な医療の内容及び期間,を記載すべきものとされている(被爆者援護法
施行規則様式第6号)。
(2)審議会等の意見聴取
厚生労働大臣は,被爆者援護法11条1項の認定(原爆症認定)を行うに
当たっては,審議会等(国家行政組織法8条に規定する機関をいう。)で政
令で定めるものの意見を聴かなければならない。ただし,当該負傷又は疾病
が原子爆弾の傷害作用に起因すること又は起因しないことが明らかであると
きは,この限りでない(被爆者援護法11条2項)。同法11条2項の審議
会等で政令で定めるものは,疾病・障害認定審査会とされている(同法23
条の2,被爆者援護法施行令9条)。
厚生労働省組織令(平成12年政令第252号)132条は,厚生労働省
に疾病・障害認定審査会を置く旨規定し,同令133条1項は,同審査会は,
被爆者援護法等の規定に基づきその権限に属させられた事項を処理する旨規
定している。そして,疾病・障害認定審査会に関し必要な事項については,
疾病・認定審査会令(平成12年政令第287号)の定めるところによるも
のとされている(厚生労働省組織令133条2項)。
そして,疾病・認定審査会令によれば,疾病・障害認定審査会は,委員3
0人以内で組織し(1条1項),同審査会には,特別の事項を審査させるた
め必要があるときは,臨時委員を置くことができ(同条2項),これら委員
及び臨時委員は,学識経験のある者のうちから,厚生労働大臣が任命し(2
条1項),同審査会には,被爆者援護法の規定に基づき疾病・障害認定審査
会の権限に属させられた事項を処理する分科会として,原子爆弾被爆者医療
分科会(以下「医療分科会」という。)を置き(疾病・認定審査会令5条1
項),医療分科会に属すべき委員及び臨時委員等は,厚生労働大臣が指名す
るものとされている(同条2項)。
(3)認定書の交付
厚生労働大臣は,原爆症認定の申請書を提出した者につき被爆者援護法1
1条1項の規定による認定(原爆症認定)をしたときは,その者の居住地の
都道府県知事を経由して,認定書を交付する(被爆者援護法施行令8条2
項)。
3原爆症認定に関する審査の方針
医療分科会は,平成13年5月25日付けで「原爆症認定に関する審査の方
針」(乙A2。以下「旧審査の方針」という。)を作成し,原爆症認定に係る
審査に当たっては,これに定める方針を目安として行うものとしていた。その
概要は,次のとおりである。
(1)原爆放射線起因性の判断
ア判断に当たっての基本的な考え方
申請に係る疾病等における原爆放射線起因性の判断に当たっては,原因
確率(疾病等の発生が原爆放射線の影響を受けている蓋然性があると考え
られる確率をいう。)及びしきい値(一定の被曝線量以上の放射線を曝露
しなければ疾病等が発生しない値をいう。)を目安として,当該申請に係
る疾病等の原爆放射線起因性に係る「高度の蓋然性」の有無を判断する。
この場合にあっては,当該申請に係る疾病等に関する原因確率が,
(ア)おおむね50パーセント以上である場合には,当該申請に係る疾病の
発生に関して原爆放射線による一定の健康影響の可能性があることを推
定し,
(イ)おおむね10パーセント未満である場合には,当該可能性が低いもの
と推定する。
ただし,当該判断に当たっては,これらを機械的に適用して判断するも
のではなく,当該申請者の既往歴,環境因子,生活歴等も総合的に勘案し
た上で,判断を行うものとする。
また,原因確率が設けられていない疾病等に係る審査に当たっては,当
該疾病等には,原爆放射線起因性に係る肯定的な科学的知見が立証されて
いないことに留意しつつ,当該申請者に係る被曝線量,既往歴,環境因子,
生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を判断するものとする。
イ原因確率の算定
原因確率は,次の申請に係る疾病等,申請者の性別の区分に応じ,それ
ぞれ定める別表(添付省略)に定める率とする。
白血病男別表1-1
女別表1-2
胃がん男別表2-1
女別表2-2
大腸がん男別表3-1
女別表3-2
甲状腺がん男別表4-1
女別表4-2
乳がん女別表5
肺がん男別表6-1
女別表6-2
肝臓がん,皮膚がん(悪性黒色腫を除く。),卵巣がん,尿路系がん
(膀胱がんを含む。),食道がん
男別表7-1
女別表7-2
その他の悪性新生物
男女別表2-1
副甲状腺機能亢進症
男女別表8
ウしきい値
放射線白内障のしきい値は,1.75シーベルトとする。
エ原爆放射線の被曝線量の算定
申請者の被曝線量の算定は,初期放射線による被曝線量の値に,残留放
射線による被曝線量及び放射性降下物による被曝線量の値を加えて得た値
とする。
初期放射線による被曝線量は,申請者の被爆地及び爆心地からの距離の
区分に応じて定めるものとし,その値は別表9に定めるとおりとする。
残留放射線による被曝線量は,申請者の被爆地,爆心地からの距離及び
爆発後の経過時間の区分に応じて定めるものとし,その値は別表10に定
めるとおりとする。
放射性降下物による被曝線量は,原爆投下の直後に次の特定の地域に滞
在し,又はその後,長期間に渡って当該特定の地域に居住していた場合に
ついて定めることとし,その値は次のとおりとする。
α1又はα2(広島)0.6~2センチグレイ
α3×,××又はα4(長崎)12~24センチグレイ
オその他
前記イの「その他の悪性新生物」に係る別表については,疫学調査では
放射線起因性がある旨の明確な証拠はないが,その関係が完全には否定で
きないものであることにかんがみ,放射線被曝線量との原因確率が最も低
い悪性新生物に係る別表2-1を準用したものである。
前記ウの放射線白内障のしきい値は,95パーセント信頼区間が1.3
1~2.21シーベルトである。
(2)要医療性の判断
要医療性については,当該疾病等の状況に基づき,個別に判断するものと
する。
(3)方針の見直し
この方針は,新しい科学的知見の集積等の状況を踏まえて必要な見直しを
行うものとする。
4新しい審査の方針
(1)医療分科会は,平成20年3月17日付けで「新しい審査の方針」(乙A
1。以下「新審査の方針」という。)を作成し,原爆症認定に係る審査に当
たっては,被爆者援護法の精神に則り,より被害者救済の立場に立ち,原因
確率を改め,被爆の実態に一層即したものとするため,次に定める方針を目
安としてこれを行うものとしている。その概要は,次のとおりである。
ア放射線起因性の判断
(ア)積極的に認定する範囲
①被爆地点が爆心地より約3.5キロメートル以内である者
②原爆投下より約100時間以内に爆心地から約2キロメートル以内
に入市した者
③原爆投下より約100時間経過後から,原爆投下より約2週間以内
の期間に,爆心地から約2キロメートル以内の地点に1週間程度以上
滞在した者
から,放射線起因性が推認される以下の疾病について申請がある場合に
ついては,格段に反対すべき事由がない限り,当該申請疾病と被曝した
放射線との関係を積極的に認定(以下「積極認定」という。)するもの
とする。
①悪性腫瘍(固形がんなど)
②白血病
③副甲状腺機能亢進症
④放射線白内障(加齢性白内障を除く。)
⑤放射線起因性が認められる○
この場合,認定の判断に当たっては,積極的に認定を行うため,申請
者から可能な限り客観的な資料を求めることとするが,客観的な資料が
無い場合にも,申請書の記載内容の整合性やこれまでの認定例を参考に
しつつ判断する。
(イ)(ア)に該当する場合以外の申請について
(ア)に該当する場合以外の申請についても,申請者に係る被曝線量,
既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を
総合的に判断するものとする。
イ要医療性の判断
要医療性については,当該疾病等の状況に基づき,個別に判断するもの
とする。
ウ方針の見直し
この方針は,新しい科学的知見の集積等の状況を踏まえて随時必要な見
直しを行うものとする。
(2)新審査の方針の改訂(乙A13)
医療分科会は,平成21年6月22日付けで新審査の方針を改訂し,新審
査の方針の放射線起因性が推認される疾病に,次の疾病を追加した。
⑥放射線起因性が認められる甲状腺機能低下症
⑦放射線起因性が認められる慢性肝炎・肝硬変
第3前提となる事実(当事者間に争いのない事実及び掲記の証拠等により容易に
認められる事実。以下,書証番号は特に断らない限り枝番号を含むものとす
る。)
1原子爆弾の投下
アメリカ軍は,昭和20年8月6日午前8時15分,広島市に原子爆弾を投
下し,同月9日午前11時2分,長崎市に原子爆弾を投下した(以下,広島市
に投下された原子爆弾を「広島原爆」といい,長崎市に投下された原子爆弾を
「長崎原爆」という。)。
2本件訴訟に至る経緯等(乙B1,3,4,7~9,顕著な事実)
(1)原告は,広島原爆の被爆者であり,昭和▲年▲月▲生まれ(被爆当時16
歳)の男性である。
(2)原告は,平成19年9月6日,兵庫県知事に対し,被爆者健康手帳交付申
請をした。
兵庫県知事は,同年11月20日,原告に対し,被爆者健康手帳を交付し
た。
(3)原告は,平成20年1月9日,厚生労働大臣に対し,「○」を申請疾病と
する原爆症認定申請を行った。
(4)原告は,同年12月9日,厚生労働大臣に対し,行政不服審査法7条に基
づき,不作為についての異議申立てを行った。
厚生労働大臣は,同月22日付け通知により,原告に対し,不作為の理由
を示した。
(5)厚生労働大臣は,平成21年11月19日付けで,原告の上記申請を却下
した(以下「本件却下処分」という。)。
(6)原告は,同年12月24日,本件訴訟を提起した。
3放射線量の単位について(乙A112,弁論の全趣旨)
(1)グレイ(Gy)とは,吸収線量の単位であり,物質1キログラム当たり1
ジュールのエネルギー吸収が1グレイである(1グレイ=100センチグレ
イ=1000ミリグレイ)。以前はラド(rad)が用いられていた(1グ
レイ=100ラド)。
(2)シーベルト(Sv)とは,等価線量の単位であり,吸収線量値に放射線の
種類ごとに定められた係数(放射線加重係数)を乗じて算出する(1シーベ
ルト=1000ミリシーベルト)。
等価線量とは,人体が吸収した放射線の影響度を示すものであり,原爆放
射線にはガンマ線と中性子線が含まれていたところ,中性子線は同じ線量で
あってもガンマ線よりも生体組織への作用が強いので,中性子線による線量
に加重係数を掛けたものとガンマ線の総量の和を等価線量として用いる。
放射線加重係数は,ベータ線やガンマ線は1,アルファ線は20,中性子
線は,エネルギーにより,5~20とされている。
(3)レントゲン(R)とは,照射線量,すなわち,ある場所における空気を電
離する能力を表す量の単位である。1レントゲンは,放射線の照射によって
標準状態の空気1立方センチメートル当たりに1静電単位(esu)のイオン
電荷が発生したときの放射線の総量であると定義され,ほぼ0.87ラド
(センチグレイ)に相当する。
第4争点及び争点に関する当事者の主張
1本件の争点は,①放射線起因性の判断基準,②原告の原爆症認定要件該当性,
及び③国家賠償の成否である。
争点②及び③に係る主張の要旨を以下に記載するほか,原告の主張は別紙1
の1(争点①)及び1の2(争点②及び③)記載のとおりであり,被告の主張
は別紙2の1(争点①)及び2の2(争点②及び③)記載のとおりである。
2原告の原爆症認定要件該当性(争点②)
(原告の主張)
(1)被爆状況等
原告(当時16歳)は,広島原爆投下当時,航空機燃料とするアルコール
精製工場建設の作業管理・監督にあたる選抜部隊の一員として,工場建設予
定地のα5(現在の福山市内)に向かうべく,岩国市内の陸軍燃料廠内に集
められていた。
原告は,昭和20年8月6日の原爆投下当日,軍の命令を受け,α6港か
ら大量の菜種油を積んで船でα7へ向かい,α7港で菜種油の入ったドラム
缶を陸揚げした後,同日夕刻から翌日の早朝頃まで,α7港近くで重傷の被
爆者らに次々と菜種油を塗るなどの救護活動に従事した。
その後,原告は,一旦α6に戻り,列車の復旧を待って,同月8日頃,復
旧した列車に乗ってα1駅まで入った。同駅で長時間待機後,徒歩で線路沿
いにα8駅(爆心地から約1.5キロメートル)まで歩き,同所で重傷の被
爆兵数十名の看護救護にあたった。その後,同被爆兵らを列車に乗せて看護
しながらα9駅まで行き,同駅(爆心地から約2キロメートル)でも下車し
て,同駅で待機していた他の被爆兵らの看護救護を行った。さらに同被爆兵
らも列車に乗せ,そのままα10駅まで被爆兵ら(総勢約60名)を看護救
護しながら輸送して被曝した。
(2)被爆後に生じた症状,被爆後の生活状況,病歴等
原告は,2回目に入市してα10駅まで被爆兵らを救護看護した日の夜か
ら,下痢,頭痛,発熱がはじまり,翌朝には歯茎からの出血も生じた。また,
全身倦怠感もひどく,終戦の日まで全く仕事ができない状態が続いた。
原告は,被爆前は健康体であったが,被爆後は身体の酷いだるさが続き,
やせ細ってほぼ寝たきりのような状態が続き,昭和20年末の時点でも,体
調不良のため仕事に就くことが不可能な状態であった。その後も,原告はひ
どい倦怠感に苦しめられ続け,ようやく仕事についてもすぐに体調を崩して
は辞めざるを得ず,職を転々とせざるを得なかった。また,原告は,頭痛や
上腹部痛にも苦しめられてきた。
原告は,昭和57年1月には,○で手術を受け,昭和62年には,○の診
断を受けた。さらに,原告は,平成14年4月,申請疾病である○を発症し,
以後,通院および治療を続けてきた。そして,原告は,平成21年6月,○
を発症し,その後も通院服薬を続けていたが,平成22年1月,○が再発し,
後遺症が残っている。
(3)放射線起因性(○)
原告は,上記(1)の被爆状況によれば,相当量の残留放射線に被曝したこ
とは明らかである。このことは,上記(2)のとおり,原告に様々な急性症状
が生じていることや,被爆前後で体調の変化が明らかに認められることなど
からも裏付けられる。
そして,財団法人放射線影響研究所(以下「放影研」という。)の寿命調
査第11報第3部:改訂被曝線量(DS86)に基づく癌以外の死因による
死亡率,1950-85年(乙A159。以下「LSS第11報」とい
う。)によれば,1950(昭和25)年から1985(昭和60)年の循
環器疾患による死亡率は線量との有意な関連を示し,後期(1966(昭和
41)年から1985(昭和60)年)になると,被爆時年齢が低い群(4
0歳未満)では,循環器疾患全体の死亡率及び脳卒中又は心疾患の死亡率は
線量と有意な関係を示している。また,原爆被爆者の死亡率調査第12報第
2部:がん以外の死亡率1950-1990年(乙A160。以下「LSS
第12報」という。)においても,1950(昭和25)年ないし1990
(平成2)年までのがん以外の疾患による死亡者について解析した結果,循
環器疾患に有意な増加が観察されたとされ,原爆被爆者の死亡率調査第13
報:固形がんおよびがん以外の疾患による死亡率1950-1997年(乙
A161。以下「LSS第13報」という。)によっても,1968(昭和
43)年ないし1997(平成9)年の期間の寿命調査における心疾患,脳
卒中等に有意な過剰リスクが認められており,心疾患の1シーベルト当たり
の過剰相対リスクは0.17,脳卒中で0.12とされている。また,○に
ついては,原爆被爆者におけるがん以外の疾患の発生率,1958-199
8年(乙A162。以下「AHS第8報」という。)において,40歳未満
で被爆した人の○に,有意な二次線量反応が証明されている。以上のような
知見の集積により,循環器疾患の放射線起因性が明らかとなり,原爆症の集
団訴訟においてもこれらの科学的知見に基づき○の放射線起因性を認める判
決が多数積み重ねられた結果,被告は,新審査の方針において,○を積極認
定の対象疾病として位置付けるに至っている。このように,原爆放射線被曝
により○の発症が促進されることについては,疫学的にも明確に因果関係が
認められている。
したがって,原告の申請疾病である○の放射線起因性は優に認められる。
(被告の主張)
(1)被爆状況等
原告は,昭和20年8月6日から翌7日の早朝頃にかけて入市し,重傷被
爆者らに菜種油を塗るなどの救護活動に従事したと主張するが,入市日につ
いて,被爆者健康手帳交付申請書には,「8月7日午後3時ころ」と明記し
ており,同月6日から翌7日早朝にかけて入市したとの主張は全く信用する
ことができない。そして,原告は,1度目の入市の際に,被爆者らに菜種油
を塗るなどの救護活動に従事したと主張するが,被爆者健康手帳交付申請書
や原爆症認定申請書には,α7港において被爆者らに菜種油を塗ったなどと
いう記載は一切認められず,原告の主張は到底信用することができない。
また,原告は,同月8日に2度目の入市をした旨主張し,その理由として,
「最優先で復旧した一番列車に乗ったはずであること」を挙げるが,あくま
で原告の推測に基づくものであり信用することができず,この点を措くとし
ても,被爆者健康手帳交付申請書には,2度目の入市につき「8月10日」
と記載していたり,「8月9日~10日はっきりと記憶が出ない。」と記
載していることからしても,原告の主張は信用することができない。しかも,
原告は,2度目の入市に関し,α1・α8間を徒歩で移動した以外は全て列
車に乗車して,α8から,α9,α10の各駅を経由してα5駅まで移動し
たと供述するが,α9駅及びその周辺の駅における列車の復旧状況によれば,
国鉄α11線のα9・α12間が開通したのは昭和20年8月9日とされて
いるから,原告が同月8日に入市することはあり得ない。また,国鉄α13
本線上り線のα9・α8間が開通したのは同月12日であるから,原告が爆
心地から2キロメートル以内の区域にあったのは同日以降という可能性もあ
る。
(2)被爆後に生じた症状,被爆後の生活状況,病歴等
原告は,α5に到着した日の夜から下痢が始まり,頭痛と発熱が見られ,
その翌朝には歯茎から出血し,倦怠感もあったと主張する。
しかし,下痢,頭痛,発熱等といった症状は,原爆放射線に特有の症状で
はなく,ごく日常的に見られる症状であるから,これら日常的な症状と放射
線被曝による急性症状の鑑別には十分留意しなければならない。しかも,原
爆投下から50年以上が経過した後のことであるから,記憶の減退や記憶違
いが生じている可能性もあるし,原爆症認定や手帳交付が受けられるかもし
れないという状況下では,バイアスが生じている可能性もある。
しかも,放射線被曝による急性症状には,発症する症状,発症時期,程度,
回復時期,しきい線量等に明確な特徴が認められることが確立した医学的知
見である。しかし,原告に生じたとする症状をみると,放射線被曝による急
性症状の特徴を備えていないし,そもそも,原告の被爆状況からすると,放
射線被曝による急性症状を引き起こすような高線量被曝をしたとは到底認め
られないから,放射線被曝による急性症状とは認められない。
(3)放射線起因性(○)
○は,一般的な医学的知見に照らし,原告が被曝していなかったとしても,
種々のリスク要因の下で発症し得るものであるところ,原告については,加
齢に加え,喫煙,高血圧,○等のリスク要因が認められるのであるから,こ
れらを原因として発症したものとみるのが自然である。また,寿命調査(L
SS)や成人健康調査(AHS)などの疫学的知見を踏まえても,○に関し
ては,相当量の放射線被曝との間に関連性があるとの調査結果が存在するに
とどまり,低線量被曝についてまで○との関連性を認める的確な疫学的知見
もなく,また,原告が高線量被曝をしたとも認め難い。
そうすると,原告の申請疾病(○)については,原爆放射線被曝と何らか
の関連性がある可能性を否定しきれないとしても,原爆症認定に要求される
放射線起因性,すなわち,原告の○が原子爆弾の放射線によって発症したこ
とが高度の蓋然性をもって立証されたとはいえない。
3国家賠償の成否(争点③)
(原告の主張)
(1)国家賠償法上の違法性(実体的違法)
集団訴訟における敗訴判決を受けて,平成20年3月17日,医療分科会
において新審査の方針が策定され,1986年線量評価体系(DosimetrySy
stem1986,以下「DS86」という。)及び原因確率を柱とする旧審査の
方針は廃止された。
新審査の方針の基準によれば,原告は積極認定の対象となることは明らか
である。すなわち,原告は,昭和20年8月6日に広島市内に入市し,同月
8日にも爆心地から1.5キロメートル付近まで入市したものであり,積極
認定対象者に該当するから,積極認定対象疾病である○の認定申請について
は,「格段に反対すべき事由」がない限り積極的に認定されなければならな
い。にもかかわらず,厚生労働大臣は,かかる事由がないのに本件却下処分
を行ったものであり,本件却下処分は国家賠償法上違法である。
(2)国家賠償法上の違法性(手続的違法)
ア行政手続法5条1項違反
行政手続法5条1項は,「行政庁は,(申請により求められた許認可を
するかどうかをその法令の定めに従って判断するために必要とされる)審
査基準を定めるものとする。」としている。しかし,厚生労働大臣は,原
爆症認定に必要な同条における審査基準を定めていない。
したがって,厚生労働大臣が審査基準を定めることなく本件却下処分を
行ったことは,行政手続法5条1項に違反するものであり,国家賠償法上
の違法行為に該当する。
イ行政手続法8条1項違反
行政手続法8条1項本文は,「行政庁は,申請により求められた許認可
等を拒否する処分をする場合は,申請者に対し,同時に,当該処分の理由
を示さなければならない。」としている。しかし,本件却下処分の決定通
知には,疾病・障害認定審査会の審議の結果,原爆症とは認定しないとい
う結論しか記載されておらず,同審査会においていかなる事実を前提に審
議がされ,却下されるに至ったかについてなど実質的な理由は全く示され
ていない。これでは,原告が本件却下処分の当否を争う権利が著しく害さ
れ,手続保障の見地からも極めて不当である。
したがって,厚生労働大臣が拒否処分の理由を示さずに本件却下処分を
行ったことは,行政手続法8条1項に違反するものであり,国家賠償法上
の違法行為に該当する。
(3)損害の発生及びその額
ア慰謝料200万円
厚生労働大臣による違法な本件却下処分により,原告が被った精神的苦
痛を慰謝するには,200万円をもってするのが相当である。
イ弁護士費用100万円
原告は,厚生労働大臣の違法行為により本来不要な裁判を余儀なくされ
た。原告が代理人に支払うことを約した着手金・報酬のうち少なくとも1
00万円については,上記違法行為と相当因果関係のある損害というべき
である。
(被告の主張)
(1)国家賠償法上の違法性(実体的違法)
国家賠償法1条1項は,「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員
が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害
を加えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定す
るものである」(最判平成17年9月14日・民集59巻7号2087頁)。
そして,本件却下処分は,厚生労働大臣が,新審査の方針に基づき,科学的,
法的専門的知見を備えた専門家から構成される医療分科会等の委員の意見を
聴いた上で,放射線起因性が認められないとしてされたものであり,十分な
科学的根拠に基づいてされたものであって,厚生労働大臣が職務上の法的義
務に違反して本件却下処分をしたものでないことは明らかである。
(2)国家賠償法上の違法性(手続的違法)
ア行政手続法5条1項違反
行政手続法5条1項の審査基準設定義務は,いかなる場合であっても例
外が認められないものと解すべきではなく,許認可等の性質上,個々の申
請について個別具体的な判断をせざるを得ないものであって,法令の定め
以上に具体的な基準を定めることが困難であると認められる場合など,審
査基準を設定しないことに合理的な理由ないし正当な根拠がある場合には,
行政庁は,審査基準を設定することを要しない。
しかるところ,原爆症認定の要件である放射線起因性及び要医療性の判
断の個別具体性に鑑みれば,行政庁である厚生労働大臣が,被爆者援護法
11条1項の定め以上に具体的な基準を定めることは,極めて困難である。
また,同条2項は,厚生労働大臣は,原爆症認定に当たり,原則として審
議会の意見を聴かなければならないとしており,処分の客観的な適正妥当
と公正を担保し,処分を適正ならしめている(なお,医療分科会の判断の
目安である新審査の方針は,当時,厚生労働省のホームページに公開され
ていた。)。したがって,厚生労働大臣は,原爆症認定に関して審査基準
を設定することを要しないというべきであるから,厚生労働大臣が審査基
準を定めることなく本件却下処分をしたことは,行政手続法5条1項に違
反するものではない。
イ行政手続法8条1項違反
理由付記の程度は,処分の性質と理由付記を命じた各法律の規定の趣
旨・目的に照らして決定すべきものである。
原爆症認定において,放射線起因性がないという理由で却下処分がされ
る場合には,申請者の放射線起因性があるとして申請をした疾患について,申
請者が提出した添付書類に基づき,医学的・科学的知見を踏まえて,その疾患
が原爆放射線の影響によるものか否かが判断され,その結果,放射線起因性が
認められるに至らなかったことが明らかで,その却下処分の基となった事実関
係は申請者において明らかである。したがって,根拠条文のほか,単に「申請
疾患については,通常の医学的知見に照らして放射線起因性が認められない」
旨の理由付記をすれば,十分に処分庁の恣意が抑制され,申請者に対しても不
服申立ての便宜が図られているというべきである。
よって,本件却下処分の通知書の理由付記は,付記されるべき理由とし
て何ら欠けるところはないから,本件却下処分は,行政手続法8条1項に違
反するものではない。
(3)損害の発生及びその額
争う。
第3章当裁判所の判断
第1放射線起因性の判断基準(争点①)
1放射線起因性の立証の程度等
(1)被爆者援護法10条1項は,「厚生労働大臣は,原子爆弾の傷害作用に起
因して負傷し,又は疾病にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対
し,必要な医療の給付を行う。ただし,当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射
能に起因するものでないときは,その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影
響を受けているため現に医療を要する状態にある場合に限る。」旨規定し
(なお,上記の「放射能」とは放射線の意味である。),同法11条1項は,
上記医療の給付を受けようとする者は,あらかじめ,当該負傷又は疾病が原
子爆弾の傷害作用に起因する旨の厚生労働大臣の認定(原爆症認定)を受け
なければならない旨規定する。これらの規定によれば,原爆症認定を受ける
ための要件としては,①被爆者が現に医療を要する状態にあること(要医療
性)のほか,②現に医療を要する負傷又は疾病が原子爆弾の放射線に起因す
るものであるか,又は上記負傷又は疾病が放射線以外の原子爆弾の傷害作用
に起因するものであって,その者の治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受
けているため上記状態にあること(放射線起因性)を要すると解される。
(2)ところで,行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に,
その拒否処分の取消訴訟において被処分者がすべき因果関係の立証の程度は,
特別の定めがない限り,通常の民事訴訟における場合と異なるものではない。
そして,訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証
明ではないが,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の
結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり,
その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るも
のであることを必要とすると解すべきである(最判平成12年7月18日・
裁判集民事198号529頁参照)。
そして,被爆者援護法は,健康管理手当の支給の要件については,都道府
県知事は,被爆者であって,造血機能障害,肝機能障害その他の厚生労働省
令で定める障害を伴う疾病(原子爆弾の放射能の影響によるものでないこと
が明らかであるものを除く。)にかかっているものに対し,支給する旨規定
し(27条1項),また,介護手当の支給の要件については,都道府県知事
は,被爆者であって,厚生労働省令で定める範囲の精神上又は身体上の障害
(原子爆弾の傷害作用の影響によるものでないことが明らかであるものを除
く。)により介護を要する状態にあり,かつ,介護を受けているものに対し,
支給する旨規定する(31条)。このように,被爆者援護法上,健康管理手
当や介護手当の支給要件についてそれぞれ弱い因果の関係で足りることが規
定上明らかにされていることと対比すると,医療の給付の要件を定める同法
10条1項については,放射線と負傷又は疾病ないしは治癒能力の低下との
間に通常の因果関係があることを要件として定めたものと解するのが相当で
ある。
したがって,被爆者援護法10条1項の放射線起因性の要件については,
原告において,原爆放射線に被曝したことにより,その負傷又は疾病ないし
は治癒能力の低下を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明する必要
があり,その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持
ち得るものであることを要すると解すべきである。
(3)この点,原告は,被爆者援護法の国家補償的性格及び公平の理念などから
すると,放射線起因性の要件については,被爆者が放射線に影響があること
を否定し得ない負傷又は疾病にかかり医療を要する状態となった場合には,
放射線起因性が推定され,放射線の影響を否定し得る特段の事情が認められ
ない限り,その負傷又は疾病は原爆放射線の影響を受けたものとして原爆症
認定がされるべきであると主張する。
確かに,被爆者援護法の目的は,原子爆弾の投下の結果として生じた原爆
放射線に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であること
に鑑み,高齢化の進行している被爆者に対する保健,医療及び福祉にわたる
総合的な援護対策を講じることなどにあり(同法前文),その根底には国家
補償的配慮があるということができる(最判昭和53年3月30日・民集3
2巻2号435頁参照)。また,被告と原告との間に,各種調査結果等に係
る証拠の収集能力に差があることも一概に否定することができない。しかし,
被爆者援護法が,健康管理手当及び介護手当の支給につき,「原子爆弾の傷
害作用の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。」という弱
い因果の関係でよいことを明文で規定していることとの対比において,同法
10条1項の医療の給付については,原爆放射線と疾病等又は治癒能力の低
下との間に通常の因果関係があることを要すると解すべきことは前述のとお
りであり,被爆者援護法の解釈として,一般的に上記のような推定ないし立
証責任の転換をすべきであるということはできない。
また,新審査の方針は,行政手続法12条所定の処分基準ではなく,あく
までも医療分科会の審査における目安を定めたものにすぎないのであるから
(乙A1,弁論の全趣旨),新審査の方針において,一定の場合に放射線起
因性を推認するという積極認定の考え方が導入されたからといって,立証責
任の所在に関する上記説示が左右されるものではないというべきである。
したがって,原告の上記主張は採用することができない。
2被曝線量の評価方法について
(1)検討の方針
前記法令の定め等によれば,厚生労働大臣が原爆症認定を行う場合には,
被爆者援護法11条2項により原則として医療分科会の意見を聴かなければ
ならないとされている。そして,医療分科会は,旧審査の方針の下では,申
請者の被曝線量の算定につき,①初期放射線による被曝線量の値に,②残留
放射線(誘導放射線)による被曝線量の値及び③放射性降下物による被曝線
量の値を加えて得た値とするものとし,④内部被曝による被曝線量は特に考
慮していなかったところ(乙A2,弁論の全趣旨),平成20年3月に策定
された新審査の方針の下においても,大枠としては,上記の算定方法を踏襲
しているものと認められる(弁論の全趣旨)。
そこで,以下,新審査の方針の下における医療分科会の具体的な評価方法
を踏まえつつ,上記①から④までの点についてその評価方法の合理性を検討
し,さらに,上記の各点に関連する⑤遠距離被爆者及び入市被爆者に生じた
症状の評価について検討を加え,被曝線量の評価方法の在り方について検討
する。
(2)初期放射線による被曝線量について
ア初期放射線とは,原爆のウランあるいはプルトニウムが臨界状態に達し,
爆弾が爆発する直前に,瞬時に放出される放射線であり,その主要成分は
ガンマ線と中性子線である。
(ア)旧審査の方針においては,被爆者の初期放射線量を別表9により算定
するものとしており,同別表9は,DS86の原爆放射線の線量評価シ
ステムにより求められた数値に基づいて作成されていた。
このDS86の線量評価システムとは,核物理学の理論に基づく空気
中カーマ(爆弾から空気中を伝播してきた放射線量で被爆者周囲の遮蔽
を介する前の被曝線量),遮蔽カーマ(被爆者の周囲の構造物による遮
蔽を考慮した被曝線量),臓器カーマ(人体組織による遮蔽も考慮した
被曝線量)の計算モデルを統合した線量計算方法に,被爆者の遮蔽デー
タを入力して被爆者の被曝線量を計算するコンピュータシステムであり,
特定の被爆者の入力データに基づき,超大型コンピュータにより行われ
た膨大な計算の結果得られた次の3つのデータベース,すなわち,自由
空間データベース,家屋遮蔽データベース,臓器遮蔽データベースを組
み合わせて,所要の線量を出力として取り出すことができるようになっ
ているものであって,計算値の妥当性が広島及び長崎で被曝した物理学
的な試料(瓦,タイル,岩石,鉄,コンクリート,硫黄等)の中の残留
放射能の測定値との比較により検証されたものである(乙A107,弁
論の全趣旨)。
(イ)新審査の方針においては,DS86を更新する2002年線量評価体
系(DosimetrySystem2002,以下「DS02」という。)に基づく線
量評価方式により被曝線量評価が行われており,具体的には,申請者の
被爆地点の爆心地からの距離を,DS02日米合同評価作業グループ報
告書(以下「DS02報告書」という。乙A105)195頁の表11
(広島)又は同201頁の表13(長崎)の「Groundrange」に当ては
め,「Neutrondose(Total)」(中性子線量・合計)の値と,「Total
gammadose(total)」(ガンマ線総線量・合計)の値を合計する方法
により算定されている(弁論の全趣旨)。
DS02は,DS86策定後の研究成果を踏まえて,平成12年に設
立された日米合同原爆線量実務研究班においてDS86の再評価が行わ
れた結果,これを更新するものとして平成15年(2003年)に策定
された現時点で最新の被曝線量評価システムである。DS02は,新た
な線量評価システムではなく,DS86の基本的な評価方法を踏襲した
いわばDS86の改訂版であり,DS86を大きく変更するものではな
い。なお,DS86からDS02への主な変更点としては,広島につい
ては,原爆の出力が15キロトンから16キロトンへ,爆発点の高度が
580メートルから600メートルへ,爆心位置が15メートル西へ修
正されたこと,ガンマ線量(地上1メートルでの空気中線量。以下同
じ。)が爆心地から0.5キロメートル以遠で10パーセント以内の増
加,中性子線量が爆心地から1.8キロメートルまで10パーセント以
内の増加(2キロメートル以遠では若干減少)とされたことであり,長
崎については,爆心位置が3メートル西に修正されたこと(出力と高度
は変化なし),ガンマ線量が約10~12パーセント増加,中性子線量
が約17パーセント減少(距離とともに漸減し,1~2キロメートルで
10~30パーセント減少)とされたことである(乙A105,107,
弁論の全趣旨)。
イ被告は,DS86の初期線量評価システムは,再評価の過程でその信頼
性が確認されたものであり,さらに改良が加えられ策定されたDS02は,
DS86よりもさらに信頼性に勝る線量評価システムであると主張し,他
方,原告は,DS86の線量評価システムは,爆心地から遠距離において
過小評価となっており,DS02においても問題は解消されていないなど
と主張する。
そこで,DS02の線量評価システムの合理性について検討するに,証
拠(乙A102~107,112)及び弁論の全趣旨によれば,DS02
の基であるDS86の初期放射線の線量評価システムは,当時の最新の核
物理学の理論に基づき,最良のシミュレーション計算法と演算能力の高い
高性能のコンピュータを用い,爆弾の構造,爆発の状況,爆発が起きた環
境(大気の状態,密度等),被爆者の状態等に関する諸条件を可能な限り
厳密かつ正確に再現し,データ化して,被曝放射線量を推定したものであ
り,DS86は,国際放射線防護委員会(ICRP)による基準の根拠と
しても用いられ,世界の放射線防護の基本的資料とされるなど,世界中に
おいて優良性を備えた体系的線量評価システムとして取り扱われてきたこ
と,その後策定されたDS02は,DS86の基本的な評価方法を踏襲し
た上で,更に進歩した最新の大型コンピュータを駆使し,最新の核断面積
データ等や,DS86の策定後に可能となった最新の離散座標法やモンテ
カルロ計算等を用いるなどして,DS86よりも高い精度で被曝線量の評
価を可能にしたものであること,以上の事実が認められ,さらに,DS8
6及びDS02の線量評価システムの計算過程に疑問を抱かせるべき事情
は証拠上見当たらず,また,より高次の合理性を備えた線量評価システム
が他に存在することを認めるに足りる証拠もないことからすれば,DS8
6を更新するDS02の線量評価システムは,現在において,被爆者の初
期放射線量を高い精度で算定することが可能な,相当の科学的合理性を有
する線量評価システムであるということができる。
しかし,DS02は,コンピュータによるシミュレーション計算の結果
を基礎として策定されたものである以上,それらに基づく初期放射線量の
推定値(計算値)は,飽くまでも近似的なものにとどまらざるを得ない
(DS02の誤差解析の結果によれば,代表的なDS02被爆者線量の合
計誤差は両市とも30パーセント程度であるとされている(乙A105・
45頁))。しかも,広島,長崎に投下された原爆は,兵器として使用さ
れ,甚大な被害を生じさせたのであって,そのような広島,長崎の被害の
実態がどこまでシミュレーションに反映されているかについての疑問が払
拭しきれているとは言い難いのであり,特に広島原爆については,原爆機
材の構造など基本的事項が公表されておらず,その後同じ型のものが作ら
れなかったため,その出力推定は困難であるとされている(甲A10,1
1)。また,後述するとおり,DS86による初期放射線量の推定値(計
算値)と測定値の不一致の問題については,DS02による検証を踏まえ
ても,いまだ完全に解決したとはいえない状況にある。これらの点を踏ま
えると,DS02が相当の科学的合理性を有するとしても,その適用につ
いては上記の観点から一定の限界が存することにも十分留意する必要があ
るというべきである。
ウ計算値と測定値の不一致については,次のとおり,指摘することができ
る。
(ア)ガンマ線に関する不一致
初期放射線のガンマ線量については,DS86に係る日米原爆線量再
評価検討委員会報告書(以下「DS86報告書」という。乙A112)
において,計算値と熱ルミネッセンス法による測定値との間の不一致,
すなわち,広島の測定値が,爆心地から1000メートル以遠では計算
値よりも大きく,1000メートル以内では計算値よりも小さく,長崎
の測定値は,これとは逆の関係にあることが指摘されており(同185
頁),さらに,P1教授らによって,1992年(平成4年),広島の
爆心地から2050メートルの距離では,実測値がDS86による推定
線量の2.2倍(129±23ミリグレイ)となったことが報告され
(「広島の爆心地から2.05㎞における測定ガンマ線量とDS86の
評価値との比較」甲A24),1995年(平成7年),広島の測定値
が,爆心地から約1300メートル以遠で計算値を超過し始め,不一致
が距離とともに増加することが指摘された(「爆心地から1.59㎞か
ら1.63㎞の間の広島原爆のガンマ線量の熱ルミネッセンス法の線量
評価」甲A25)。
その後,DS02で再検討が行われた結果,結論的には,DS02に
よる計算値は,DS86による計算値と同様,測定値と全体的に良く一
致しているとされたが,他方で,DS02報告書によれば,広島につい
ては,遠距離では測定値が計算値よりも高いことを示唆する若干の例が
あるとされ(乙A105・463頁),また,広島及び長崎の爆心地か
ら約1500メートル以遠の距離におけるガンマ線量の測定値について
は,バックグラウンドの誤差に大きく影響されるので,正確に決定する
ことができないとされている(同402頁)。以上に加え,P1教授ら
が求めた広島の爆心地から2.05キロメートルのガンマ線線量の値は
過大評価ではない旨のP2教授の指摘(甲A60)なども踏まえると,
爆心地から約1300~1500メートル以遠の距離におけるDS86
によるガンマ線量の計算値が過小評価されている可能性は,特に広島原
爆において,DS02による検証を経てもなお否定することができない
というべきである。
(イ)熱中性子線(運動エネルギーの低い中性子線)に関する不一致
初期放射線の熱中性子線量については,DS86報告書において,計
算値とコバルト60の測定値の不一致,すなわち,爆心地から近距離で
は測定値よりも大きく,遠距離になるに従って測定値を下回り,爆心地
から1180メートルの地点においては,測定値の4分の1になるとい
う系統的な不一致があることが指摘されていた(乙A107,112)。
このような指摘を踏まえて,DS02においては,コバルト60以外
に,ユーロピウム152や塩素36についても解析が行われ,①ユーロ
ピウム152については,P3教授らが,バックグラウンドの影響を極
めて低く押さえた環境で,高い検出効率での測定を行った結果,ユーロ
ピウム152の放射化測定値とDS02による計算評価値とを比較する
と,広島の爆心地から1424メートルの測定値も含めて,よく一致し
ていることが判明したとされた(乙A105・602頁)。また,②塩
素36については,アメリカ,ドイツ及び日本の各国において,広島・
長崎で採取された鉱物試料中の熱中性子を測定するため,加速器質量分
析法(AMS)によって熱中性子により誘導放射化した塩素36の放射
化測定実験が行われ,その測定値は,バックグラウンドの影響のため塩
素36の測定が困難となる距離(地上距離1100~1500メート
ル)までDS02の計算値と一致したとされ(同534,552,57
2頁),ユーロピウム152の測定値との相互比較においても一致した
とされた(同599頁)。
以上のとおり,DS86報告書において指摘された熱中性子線に関す
る計算値と測定値の不一致の問題は,DS02報告書の中で,一応の解
決を見たものとされている。もっとも,前述のバックグラウンドの影響
を極めて低く押さえた環境における測定においても,1400メートル
付近ではコバルト60及びユーロピウム152の測定値がいずれも計算
値を上回っており(同487,603頁),塩素36についても,爆心
地からの地上距離1100~1500メートル以遠では測定が困難であ
るというのであるから,広島及び長崎の爆心地から約1500メートル
以遠の距離における熱中性子線量の計算値が過小評価されている可能性
は,DS02においてもなお,完全には否定することができないという
べきである。
(ウ)速中性子線(運動エネルギーの高い中性子線)に関する不一致
初期放射線の速中性子線量については,DS86報告書において,広
島のリン32の測定値と計算値とが比較され,「爆心地から数百メート
ル以内の距離では,計算と測定との間に大きな隔たりはみられない。そ
れ以上の距離では,一致しているかどうかを言うには測定値の誤差が大
きすぎる。」とされていた(乙A112・192頁)。
その後,銅試料中のニッケル63を測定することにより,速中性子線
を測定する方法が開発され,広島の爆心地から900~1500メート
ルの距離における速中性子の測定値が初めて得られた結果,ニッケル6
3の測定値とDS86及びDS02の計算値が良く一致するとされた
(乙A105・693頁)。もっとも,広島の速中性子線の測定値は,
爆心地から1470メートルの地点ではDS02に基づく推定線量の1.
88±1.72倍となっており,遠距離における測定値と計算値のずれ
は解消されておらず(同688頁),また,1800メートル以遠のバ
ックグラウンドについては依然として完全には理解されておらず,さら
に検討すべきものとされている(同694頁)。
(エ)まとめ
以上のとおり,DS86の線量評価システムを検証し策定されたDS
02においてもなお,爆心地から1300~1500メートル以遠にお
いて,初期放射線の被曝線量を過小評価している可能性を否定すること
ができない。
もっとも,DS02において,バックグラウンドによる測定自体の誤
差等が検討され,バックグラウンドによる影響を極めて低くした精度の
高い測定を行うなどした結果,完全とはいえないまでも,測定値とDS
86による計算値との不一致が,バックグラウンドによる測定自体の誤
差等の問題として相当程度解決されたと評価し得ることもまた事実であ
る。また,①P1教授らの前記報告によれば,広島の爆心地から205
0メートルの距離では実測値がDS86による推定線量の2.2倍であ
るとされているが,その実測値は平均で129±23ミリグレイ(0.
129±0.023グレイ)にとどまり(甲A24),放射線の空中輸
送において距離減衰が見られることは確立した知見である(大気中の原
子核との衝突による減衰がないと仮定すれば,ガンマ線は距離の二乗に
反比例して線量が低下する。)から,爆心地から2050メートル以遠
においてはこれよりもさらに小さい数値となること,②原爆による中性
子線量の全線量に対する割合は,広島の場合は1000メートルで5.
8パーセント,1500メートルで1.7パーセント,2000メート
ルで0.5パーセントと非常に低く,長崎の場合はさらに低いとされて
おり(乙A102,106),また,広島の爆心地から1424メート
ル地点における中性子線量の実測値も0.038±0.019Bq/m
g(約0.0285グレイ相当)にすぎず(乙A105・603頁,弁
論の全趣旨。なお,DS02によれば,広島の爆心地から1.4キロメ
ートル地点における原爆の中性子線量は0.0171グレイ,2.0キ
ロメートル地点では0.000386グレイ,2.5キロメートル地点
では0.0000199グレイとされている。),少なくとも爆心地か
ら2000メートル以上の遠距離における中性子線の過小評価の可能性
は,その生物学的効果比を考慮してもなお,被曝線量全体から見ればご
くわずかであると考えられることからすると,DS86及びDS02に
おいて,爆心地から遠距離において初期放射線の被曝線量が過小評価さ
れている可能性があるとしても,その絶対値はそれほど大きなものであ
るとは考え難い。したがって,DS02に基づく初期放射線量の評価に
は,爆心地から1300~1500メートル以遠において過小評価とな
っている可能性を否定することができないものの,これをあまり過大視
することも相当ではないというべきである。
(3)誘導放射線による被曝線量の算定基準の合理性
ア誘導放射線とは,地上に到達した初期放射線の中性子が,建物や地面を
構成する物質の特定の元素の原子核と反応を起こし(誘導放射化),これ
によって生じた放射性物質(誘導放射化物質)が放出する放射線である。
旧審査の方針の下では,誘導放射線による外部被曝線量は同別表10に
基づいて算定されており,広島においては原爆爆発から72時間以内に爆
心地から700メートル以内に,長崎においては原爆爆発から56時間以
内に爆心地から600メートル以内に,それぞれ入った場合に,同別表に
従って算定するものとされていた(乙A2。なお,旧審査の方針の「残留
放射線」とは,誘導放射線の意味である。)。これに対し,新審査の方針
の下では,誘導放射線による外部被曝線量の算定基準は明示されていない
が,医療分科会においては,旧審査の方針の考え方を基本的に踏襲し,そ
の理論的根拠であるDS86報告書第6章(乙A112・209頁以下)
の分析結果に加え,DS02に基づいた分析結果であるP4「DS02に
基づく誘導放射線量の評価」(以下「P4論文」という。乙A106・1
52頁以下)を踏まえて,誘導放射線による外部被曝線量を算定,評価し
ているものと認められる(乙A6,弁論の全趣旨)。
誘導放射線については,P5及びP6により,DS86による初期放射
線(中性子線)の線量評価を前提に,広島・長崎の実際の土壌中の元素の
種類等を基に生成された誘導放射能量を計算した研究結果が報告され
(「原爆が誘発した土壌の放射化による線量の計算」乙A128),P7
らにより,広島の土壌及び建築材料に中性子線を照射してどのような放射
性核種が生じるかの検証を行った研究結果が報告され(「広島・長崎にお
ける中性子誘導放射能からのガンマ線量の推定」乙A129),さらに,
P8らが,DS86報告書第6章において,これらの調査結果を総括し,
爆発直後から無限時間を想定した爆心地における地上1メートルの地点で
の積算線量は,「広島について約80R,長崎について30ないし40R
であると推定される」,これを組織吸収線量に換算すると,「長崎につい
ては18ないし24ラド(0.18~0.24グレイ)」「広島では約5
0ラド(0.5グレイ)」になると結論付けた(乙A112・227頁)。
そして,P4は,DS02策定後の平成16年,P4論文において,P5
らによる上記計算結果をDS02に応用することにより,誘導放射線によ
る地上1メートルでの外部被曝線量(空気中組織カーマ)を求めた結果,
爆発直後から無限時間同じところに居続けたと仮定したときの放射線量
(積算線量)は,爆心地においては広島で120センチグレイ,長崎で5
7センチグレイ,爆心から1000メートルでは広島で0.39センチグ
レイ,長崎で0.14センチグレイ,爆心から1500メートルでは広島
で0.01センチグレイ,長崎で0.005センチグレイとなったとし,
これ以上の距離での誘導放射線被曝は無視して構わないと結論している
(同152頁)。そして,これらの各研究,調査結果の計算過程の合理性
を疑わせる事情は特に見当たらないことも考慮すると,医療分科会が新審
査の方針において用いている誘導放射線による外部被曝線量の算定方法は,
相当の科学的根拠に基づくものということができる。
イしかし,他方で,広島及び長崎の土壌に由来する誘導放射線については,
DS86報告書第6章自体が,「(複数の測定者による測定土壌濃度に係
る放射能活性化前元素の)各組の間の変動性はかなり大きく,それは計算
された放射化が広範には適用できないかも知れないことを示す。」として
おり(乙A112・220頁),しかも,P7らが昭和44年に広島の1
6か所及び8か所の土壌の科学的成分を測定した結果によれば,有力な誘
導放射化物質となり得るマンガン55及びナトリウム23の含有量につい
て,同一市内でも測定場所により3倍から15倍程度の開きがあったこと
が認められること(乙A129・6頁),P9による「広島および長崎に
おける残留放射能」では,広島における最も重要なガンマ線放出同位元素
として,DS86報告書第6章では挙げられていない珪素31(半減期2.
65時間)等が挙げられていること(弁論の全趣旨)なども考慮すると,
誘導放射線による放射線量の算定に当たっては,上記のような制約等から
一定の限界が存することに十分留意する必要があるというべきである。
また,DS86報告書第6章及びP4論文は,地表面(土壌)から生じ
る誘導放射線(ガンマ線)を地表1メートルの高さで積算したものである
が,原爆の爆発によって放出された中性子により誘導放射化されるのは,
土壌に限られるものではなく,建物等の建築資材や空気中の塵埃等も含ま
れ,人体や遺体もその例外ではない(甲A117の14)。しかも,地表
1メートルの高さによるガンマ線の積算という点も,放射性物質に直接接
触し又はこれを体内に取り入れた場合など,様々な形態での被曝線量を必
ずしも的確に算定できるものとは考え難い(広島大学放射線医学研究所で
の計算事例によれば,被爆8時間後,500メートル入市の場合,0.1
ミリメートル厚の埃を2日間浴びていた場合,皮膚を通じる被曝線量は0.
43グレイと示された旨報道されている(甲A212)。)。さらに,P
5らの研究報告やこれに基づくDS86報告書第6章及びP4論文は,爆
心地から600~700メートル以遠においては,原爆の中性子線がほと
んど届かないため誘導放射線もほとんど発生しないことを前提としている
が,原爆爆発後に生じた強烈な衝撃波や爆風によって,誘導放射化された
土壌等が粉塵となって舞い上がり,600~700メートル以遠に飛散す
る可能性も十分考えられるところである(この点,P10らが被爆直後の
昭和20年8月から12月までに収集した資料に基づく調査報告によれば,
「即ち爆心から2粁以内の圏内にあっては光って直ぐ建物土壁などが倒壊
し,塵埃が黒煙のように一時に四方に立って急に周囲が夕闇乃至日食時程
度の暗さになり,晴れて明るくなるまで5~30分も要した。」とされ,
その注釈には,「広島でしきりに『ガス』を呑んだものは原子症がひどい
というが,この『ガス』はおそらく高放射能を持つ有害物質を含む黒塵の
立ったものを指すと思われる。」とされている(甲A69。なお,甲A2
9参照)。また,P11らは,「黒い雨の放射線影響に関する意見書」に
おいて,「地上600mで爆発した空気の圧力振動や突風(衝撃波)が地
上に達し,反射して再び上空にはねかえるとともに,四方に広がっていく
ことで,多くの家屋や樹木を瞬時に倒し,粉じんを発生したり,地表から
土砂を巻き上げたりする。これらの粒子は原爆からの強い放射線により,
二次的放射能となっている。」とし,広島原爆における粉塵の水平スケー
ルを原爆雲の写真判定により4500メートルと見積もった上,「ふんじ
んや煙は二次放射能のため,半減期が短く,長期間残留する可能性は少な
いが,降下量が多いことから,人体への影響は慎重に評価しなくてはなら
ない。」としている(乙A122)。)。そして,このような誘導放射化
された粉塵が身体に直接付着したり,飲食や吸入により体内に摂取された
り,あるいは,被爆者が誘導放射化された瓦礫や人体に直接接触したり,
傷口等から誘導放射化物質が体内に取り込まれたりといったことが考えら
れ,こういった様々な形態での誘導放射化物質による外部被曝及び内部被
曝を引き起こす可能性があることを否定することができない。しかも,D
S86報告書第6章に即した旧審査の方針別表10によれば,原爆投下直
後に爆心地付近に入ったような場合でない限り,被曝線量はせいぜい10
センチグレイにも満たないとされており,P4論文においても,爆心地か
ら1000メートル地点の誘導放射線による外部被曝線量は1センチグレ
イにも満たないとされているが,後述するとおり,初期放射線にほとんど
被曝していない入市被爆者や遠距離被爆者にも放射線被曝による急性症状
とみられる症状が一定割合生じている旨の調査結果が複数報告されており,
上記の外部被曝線量評価だけではこれらの調査結果を合理的に説明するこ
とができないのであり,これには誘導放射線による外部被曝及び内部被曝
の影響を考えざるを得ない。
これらの点を考慮すると,医療分科会が依拠するDS86報告書第6章
及びP4論文は,誘導放射線による被曝線量の評価として過小評価となっ
ている疑いが強いというべきであり,実際に被爆者の被曝線量を評価する
に当たっては,爆心地から600~700メートル以遠の地域(特に爆心
地から2250メートル内)にも誘導放射化物質が相当量存在していた可
能性を考慮に入れ,かつ,その被爆状況,被爆後の行動,活動内容,被爆
後に生じた症状等に鑑み,誘導放射化された放射性物質による様々な形態
での外部被曝及び内部被曝の可能性を十分に考慮する必要があるというべ
きである。
(4)放射性降下物による被曝線量の算定基準の合理性
ア放射性降下物による放射線とは,原爆の核分裂によって生成された放射
性物質(未分裂の核物質,核分裂生成物など)による放射線のことである。
旧審査の方針は,放射性降下物の被曝線量について,原爆投下の直後に
特定の地域に滞在し,又はその後,長期間にわたって当該特定の地域に居
住していた場合について定めており,具体的には,第1の4の(3)の表に
おいて,α1又はα2(広島)につき0.6~2センチグレイ,α3×,
××又はα4(長崎)につき12~24センチグレイとしていた(乙A
2)。これに対し,新審査の方針の下では,放射性降下物の被曝線量の算
定基準は明示されていないが,医療分科会においては,旧審査の方針の考
え方を基本的に踏襲し,その基礎とされたDS86報告書第6章の分析結
果に基づいて,放射性降下物による外部被曝線量を算定,評価しているも
のと認められる(乙A6,弁論の全趣旨)。
放射性降下物については,原爆投下の数日後から複数の測定者が放射線
量の測定を行い,これらの調査の結果,広島ではα1・α2地区,長崎で
はα3地区で放射線の影響が比較的顕著に見られることが分かり,これは,
原爆の爆発後,両地区において激しい降雨があり,これによって放射性降
下物が降下したものであることが確認された(乙A102,108~11
2,弁論の全趣旨)。そして,初期調査に基づく線量率の報告として,①
長崎のα3地区については,爆発1時間後から無限時間を想定した地上1
メートル地点での積算線量を,29レントゲン又は24~43レントゲン
(P12らによる報告),最大で42レントゲン(P13らによる報告)
とする報告があり,②広島のα1・α2地区については,爆発1時間後か
ら無限時間を想定した地上1メートル地点での積算線量を,1レントゲン
(P14らによる報告),1.2レントゲン(P12らによる報告),0.
6~1.6レントゲン(P13らによる報告),3レントゲン(P15ら
による報告)とする報告があり,③P8らは,DS86報告書第6章にお
いて,これらの調査結果を総括して,「(放射性降下物による)1mにお
ける累積的被曝の推定の大部分は,よく一致している。α3地区における
放射性降下物の累積的被曝への寄与は,恐らく20ないし40R(レント
ゲン)の範囲であり,α1-α2地区では,それは恐らく1ないし3Rの
範囲である。」とし,これを組織吸収線量に換算すると,「長崎について
は12ないし24ラド(0.12~0.24グレイ)」「広島については
0.6ないし2ラド(0.006~0.02グレイ)」になると結論付け
ている(乙A112)。以上のとおり,DS86報告書第6章は,初期調
査に基づく複数の調査報告を総括したものであり,また,その後の調査結
果による推定値もこれと特に矛盾するものではないこと(P16ら「広島
原爆の早期調査での土壌サンプル中のセシウム137濃度と放射性降下物
の累積線量評価」甲A27,P16「『黒い雨』にともなう積算線量」乙
A108)も考慮すると,医療分科会が新審査の方針において用いている
放射性降下物による外部被曝線量の算定方法は,相当の科学的根拠に基づ
くものということができる。
イしかし,放射性降下物の測定結果については,DS86報告書第6章自
体が,「測定の正確性に影響する多くの要素は,爆弾投下後40年経って
も良く知られておらず,したがって被曝線量推定は,おおまかな近似にな
らざるを得ない。一般的に,被曝率の測定は風雨の影響がある以前に速や
かには測定されなかったし,その後の風雨の影響を明らかにしたり,放射
能の時間分布を与えるのに十分な程繰り返されなかった。測定場所の数は
あまりにも少なく,放射能の詳細な地理的分布について十分推定できるも
のではなかった。またかかる調査では,代表的でない標本が抽出されるこ
とが多く,かかる標本のかたよりが存在しているかどうかも不明である。
最後に,較正や測定の詳細については,必ずしも入手できていない。」と
し,「我々は,多数の測定の精度やすべての外挿の精度が非常に低いこと
を強調する。」などとしているのであり(乙A112・210頁),しか
も,放射性降下物は必ずしも一様に存在していたわけではなく,降下形態
やその後の集積により局地的に強い放射線を出す場合があり得ること(原
爆投下後数か月以内の複数の測定結果からは,放射性降下物が相当不均一
に存在していたことが推認される(甲A73,乙A109~111)。ま
た,今日のP17発電所の事故においても,いわゆるホットスポットの存
在が広く報道されている。)も考慮すると,DS86報告書第6章に基づ
く放射性降下物による放射線量の算定に当たっては,上記のような測定精
度や測定資料等の制約から一定の限界が存することに十分留意する必要が
あるというべきである。
また,DS86報告書第6章に依拠した旧審査の方針においては,特定
の地域についてのみ放射性降下物による外部放射線量を算定することとな
っていたが,これらの地域において放射性降下物が比較的多かったとして
も,それ以外の地域において放射性降下物が全くなかったとは考え難いの
であり,広島におけるα1・α2地区,長崎におけるα3地区以外の地域
にも放射性降下物が降下し又は浮遊していた可能性は否定し難い(なお,
広島における原爆投下直後の降雨に関する調査結果としては,代表的なも
のとして,前出のP10ら「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」(甲
A69)とP18「広島原爆後の”黒い雨”はどこまで降ったか」(甲A
70)があり,後者による降雨域(いわゆるP18雨域)は前者による降
雨域(いわゆるP10雨域)の約4倍の広さであるところ,P16らが行
った調査結果によれば,降雨域はP10雨域よりも広いことが示唆され,
少なくとも広島市内についてはP18雨域に近いことが示唆されたとされ
ており(甲A27,乙A108),α1・α2地区以外の地域でも相当量
の放射性降下物を含む降雨があったことが推認される。また,長崎につい
ても,α3地区以外の地域における降下物の目撃供述があるとされている
(甲A65)。)。しかも,DS86報告書第6章の放射性降下物に係る
被曝線量は,放射性降下物によるガンマ線を地表1メートルの高さで積算
したものであるが,放射性降下物についても,誘導放射線について論じた
のと同様,放射性物質である放射性降下物に直接接触したり,これを体内
に摂取したりすることによる,様々な形態での外部被曝及び内部被曝の可
能性があることを否定することができない。また,放射性降下物は土壌に
均一に存在しているとは限らず,放射性降下物が集積し局地的に強い放射
線を出している場合も考えられ,これに接し又は近接することにより相当
量の被曝を受ける可能性もある。しかも,DS86報告書第6章に即した
旧審査の方針によれば,広島の放射性降下物による外部被曝線量は最大で
もわずか2センチグレイ(0.02グレイ)とされているが,P10らの
上記調査報告によれば,「この雨水は黒色の泥雨を呈したばかりでなく,
その泥塵が強烈な放射能を呈し人体に脱毛,下痢等の毒性生理作用を示し,
魚類の斃死浮上其他の現象をも現した。」「α1α2方面の人は爆発後約
3ヶ月にわたって下痢するものがすこぶる多数に上った。」などとされて
おり(甲A69),従来と同様の放射性降下物の外部被曝線量評価をもっ
てしては,原爆投下直後の調査結果において放射性降下物の影響であると
みられる現象や症状が報告されていることを合理的に説明することができ
ない。
これらの点を考慮すると,DS86報告書第6章の分析結果は,放射性
降下物による被曝線量評価として過小評価となっている疑いが強いという
べきであり,実際に被爆者の被曝線量を評価するに当たっては,α1・α
2地域又はα3地域以外の地域にも放射性降下物が相当量降下し又は浮遊
していた可能性を考慮に入れ,かつ,当該被爆者の被爆後の行動,活動内
容,被爆後に生じた症状等に鑑み,放射性降下物による様々な形態での外
部被曝及び内部被曝の可能性がないかどうかを十分に考慮する必要がある
というべきである。
(5)内部被曝の影響を考慮しないことの合理性について
ア内部被曝とは,呼吸,飲食,外傷,皮膚等を通じて体内に取り込まれた
放射性物質が放出する放射線による被曝をいう。
旧審査の方針の下では,内部被曝による被曝線量は特に考慮されていな
かった。そして,新審査の方針の下においても,医療分科会は,旧審査の
方針の考え方を基本的に踏襲し,内部被曝による被曝線量を特に考慮して
いないものと認められる(乙A6,弁論の全趣旨)。
内部被曝については,長崎大学のP8博士らが,昭和44年及び昭和5
6年,長崎のα3地区住民を対象とし,ホールボディカウンター(人間の
体内に摂取された放射性物質の量を体外から測定する装置)を用いて,セ
シウム137による放射線量を実測し,内部被曝線量の評価を行ったこと,
そのデータを用いて,昭和20年から昭和60年までの40年間に及ぶ内
部被曝線量を積算したところ,男性で10ミリレム(0.0001グレ
イ),女性で8ミリレム(0.00008グレイ)と推定されたことがD
S86報告書第6章において報告されている(乙A112・219頁)。
旧審査の方針が内部被曝による被曝線量を算出していなかったのは,上記
のような科学的知見に基づくものであるところ,上記報告の他にも,原爆
当日に広島で8時間の片付け作業に従事した場合の内部被曝線量の推定は
0.06マイクロシーベルトであるとして,外部被曝に比べ無視できるレ
ベルであるとするP4論文(乙A106)や,放射性核種により高濃度に
汚染されたα14川の水を大量に飲んだとしても,内部被曝線量は無視し
得る程度のものである旨の意見(P19「内部被曝に関する意見書」乙A
134)も示されており,内部被曝による被曝線量を特に考慮しない医療
分科会の方針は,相当の科学的根拠に基づくものということができる。
イしかし,他方,DS86報告書の上記調査結果については,同報告書自
体が「短命核分裂生成物への潜在的被曝を評価する方法はない。」として
いるとおり(乙A112・227頁),短時間で大きな内部被曝を生じさ
せる可能性のある放射性物質による内部被曝線量については,全く不明で
あると言わざるを得ない上,P8らの上記調査においては,セシウム13
7以外の放射性物質については測定されていないことや,前述のとおり,
局地的に放射性降下物や誘導放射化物質が集積するなどしている場合があ
り得ることも考慮すると,DS86報告書の調査結果やその後の報告等を
もって,内部被曝線量は無視し得る程度のものであると評価することには,
なお疑問が残るといわざるを得ない。
しかも,被告は,放射線被曝による健康影響は,内部被曝か外部被曝か
といった被曝態様で危険性が変わるというものではないと主張していると
ころ,これを支持する見解もあるが(乙A6,101,142等),他方
で,内部被曝については,①ガンマ線の線量は線源からの距離に反比例す
るから,同一の放射線核種による被曝であっても,外部被曝よりその被曝
量は格段に大きくなる,②外部被曝ではほとんど問題とならないアルファ
線やベータ線を考慮する必要があり,しかもこれらは飛程距離が短いため,
そのエネルギーのほとんど全てが体内に吸収され,核種周辺の体内組織に
大きな影響を与える,③人工放射線核種は,放射性ヨウ素なら甲状腺とい
うように,特定の体内部位に濃縮され,集中的な体内被曝が生じる,④放
射性核種が体内に沈着すると,体内被曝が長期間継続することになる,な
どの外部被曝と異なる点があり,一時的な外部被曝よりも身体に大きな影
響を与える可能性があると指摘する見解もある(甲A11,45,60,
129,143,194,196,234,235等。なお,②のアルフ
ァ線及びベータ線の影響については,「原爆放射線の人体研究1992」
においても,「この(体内へ摂取された放射能が内臓諸器官を直接照射す
る)場合は,ガンマー線以外にベーター線やアルファー線も影響している。
とくに爆発直後のもうもうたるチリの中にいた者をはじめとして,後日死
体や建築物の残骸処理などで入市して多量のチリを吸収した者は,国際放
射線防護委員会が職業被爆者について勧告している最大許容負荷量以上の
放射能を体内に蓄積した可能性がある。」とされている(乙A102・7
頁)。)。そして,確かに,内部被曝における機序の違いについてはいま
だ必ずしも科学的に解明,実証されておらず,現状においては,上記の見
解が科学的知見として確立しているとは言い難いとはいえ,放射性物質が
体内にあるか体外にあるかによってその身体に与える影響に大きな差異が
あるという見解には,被告が主張する被曝態様により危険性が変わるもの
ではないとする見解に比して相当の説得力があるように思われるのであり,
しかも,低線量放射線による継続的被曝が高線量放射線の短時間被曝より
も深刻な障害を引き起こす可能性について指摘する科学文献やこれを支持
する見解があり(甲A21,36,37,76,129,143~149
等),このような科学的知見や解析結果を一概に無視することはできない
こと(この点,原子力安全委員会・放射線障害防止基本専門部会・低線量
放射線影響分科会が平成16年3月にまとめた「低線量放射線リスクの科
学的調査-現状と課題-」においても,細胞レベルではあるが,逆線量率
効果(同じ被曝線量であれば,長期にわたって被曝した場合の方がリスク
が上昇する現象),バイスタンダー効果(被曝した細胞から隣接する細胞
に被曝の情報が伝わる現象),ゲノム不安定性(放射線被曝を受けた細胞
集団に長期間にわたる様々な遺伝的変化が非照射時の数倍から数十倍の高
い頻度で生じ続ける状態が続く現象)の可能性が指摘されている(甲A1
98)。また,いわゆるホットパーティクル理論は,ICRP等により相
当の科学的根拠をもって否定されているが(乙A142~145),内部
被曝の機序についてはいまだ知見が乏しい状況にあり,上記バイスタンダ
ー効果等の可能性も含め,なお議論の余地があり得るように思われる。),
後述するとおり,入市被爆者等に放射線被曝による急性症状とみられる症
状が一定割合生じている旨の調査結果があり,推定される外部被曝線量だ
けでは必ずしもこれを十分に説明し得ないこと,前述のP10らの調査報
告に「広島でしきりに『ガス』を呑んだものは原子症がひどいというが,
この『ガス』はおそらく高放射能を持つ有害物質を含む黒塵の立ったもの
を指すと思われる。」といった記載があること等に鑑みれば,原爆による
内部被曝線量は無視し得る程度のものであるとしてこれを考慮しない方針
には,疑問があるといわざるを得ない。
したがって,前述したとおり,被爆者の被曝線量を評価するに当たって
は,当該被爆者の被爆状況,被爆後の行動,活動内容,被爆後に生じた症
状等に鑑み,誘導放射化物質及び放射性降下物を体内に取り込んだことに
よる内部被曝の可能性がないかどうかを十分に考慮する必要があるという
べきであり,加えて,内部被曝による身体への影響には,一時的な外部被
曝とは異なる性質があり得ることを念頭に置く必要があるというべきであ
る。
ウこれに対し,被告は,①体内に取り込まれた放射性核種は,人体に備わ
った代謝機能により体外に排出される,②チェルノブイリ原発事故では,
事故後10年後辺りから甲状腺がんの有意な増加がみられるが,遠距離・
入市被爆者に見られるがんにそのような傾向は見られず,内部被曝の影響
があったとは考え難い,③医療の現場等においても放射性物質の投与が行
われており,それによる人体影響がないというのが医療の常識である,な
どと主張して,原爆被爆者において内部被曝の影響を重視することは誤り
であると主張する。
しかし,①の点については,体内に取り込まれた放射性核種が体外に排
出されるまでには相応の日数を要する上,短命の放射性物質による内部被
曝の場合には,体外に排出される頃には既に相当の内部被曝が生じている
のであるから,この点をもって原爆被爆者の内部被曝を無視し得るという
ことにはならない。また,②の点については,原爆の被爆者に他のがんと
の比較において甲状腺がんの有意な増加がみられないとする根拠が明らか
ではない上,チェルノブイリ原発事故により小児甲状腺がんが増加したと
いうことは,かえって,内部被曝により特定の臓器に影響を与えることを
明確に裏付けるものであって,この点をもって原爆被爆者の内部被曝を無
視し得るということにはならない上,被爆者とチェルノブイリ原発事故に
おける内部被曝の状況を同一視することは疑問といわざるを得ない。また,
③の点については,そもそも医療上の必要により放射性物質が投与された
場合に内部被曝の影響が生じていないとする根拠が明らかではない上,放
射性物質やそれが体内に取り込まれる態様も異なり,医療上の必要により
放射性物質が投与される場合には,現在の医療水準に基づき,放射性物質
による影響をできる限り少なくするための努力がされるはずであって,全
く無防備であり特段の事後対応もされない原爆被爆者の場合と同視するこ
とにはそもそも疑問があり,この点をもって原爆による内部被曝を無視し
得るということにはならない。したがって,被告の上記主張はいずれも採
用することができない。
(6)遠距離被爆者及び入市被爆者に生じた症状の評価について
ア遠距離被爆者に生じた症状について
(ア)被告は,被曝による急性症状が全体の1パーセント程度の人に出るし
きい線量として,皮下出血(歯茎からの出血,紫斑を含む。)について
は2グレイ程度(DS02に基づく初期放射線量によれば,爆心地から
の距離が広島で1200メートル付近,長崎で1300メートル付近で
被爆した場合に相当する。),脱毛及び下痢については3グレイ程度
(同じく広島で1100メートル付近,長崎で1200メートル付近で
被爆した場合に相当する。)であると主張しているところ,DS86報
告書第6章及びP4論文により算出される誘導放射線及び放射性降下物
による外部被曝線量は最大で数十センチグレイ程度であるから,被告の
上記主張を前提とすれば,広島においても長崎においても,爆心地から
1500メートル以遠において皮下出血,脱毛,下痢といった被曝によ
る急性症状が生じることはほとんどないはずである。
(イ)しかし,原爆投下後比較的早期に行われた調査として,①広島・長崎
における被曝20日後の生存者約1万3000人を調査した結果に基づ
く日米合同調査団報告書(甲A6,124),②爆心地から5キロメー
トル以内の被爆者5120人を昭和20年10月に調査した結果に基づ
く東京帝国大学医学部診療班の原子爆弾災害調査報告(甲A86,12
4),③長崎の被爆者約6000人(死亡者333人を含む)を昭和2
0年10月から12月にかけて調査した結果に基づく調来助らの「長崎
ニ於ケル原子爆弾災害ノ統計的観察」(甲A67文献4,90),④広
島の被爆者約4000人を昭和32年1月から7月にかけて調査した結
果に基づく於保源作の「原爆残留放射能障碍の統計的観察」(甲A5)
等があるが,これらの調査結果からは,調査主体,調査時期及び調査規
模が様々であるにもかかわらず,いずれも一致して,広島についても長
崎についても,脱毛や皮下出血(紫斑)が生じたとする者が,爆心地か
ら1500~2000メートルの地点で被爆した者については10パー
セント前後以上,2000メートル以遠で被爆した者についても数パー
セント以上存在し,かつ,これらの症状(特に脱毛)を生じたとする者
の割合が,爆心地から遠ざかるにつれて,あるいは遮蔽の存在により,
減少する傾向が明らかに認められる。また,以上の調査結果の他にも,
放影研が約8万7000人の被爆者を対象として実施した脱毛に関する
調査(「原爆被爆者における脱毛と爆心地からの距離との関係」甲A8
7),横田賢一らが長崎の被爆者3000人を対象として実施した急性
症状の発症率に関する調査(「長崎原爆における被爆距離別の急性症状
に関する研究」甲A89),同じく横田賢一らが約1万3000人の被
爆者を対象として実施した,遮蔽状況を考慮した急性症状等に関する調
査(「被爆状況別の急性症状に関する研究」甲A88),同じく横田賢
一らが急性症状の情報が得られた被爆者のうち約3300人を対象とし
て実施した,急性症状の発生頻度に与える地形による遮蔽の影響に関す
る調査(「長崎原爆の急性症状発現における地形遮蔽の影響」甲A67
文献15),米軍マンハッタン調査団が昭和20年9月から10月にか
けて実施した,入院中の被爆者ら900人を対象とした調査(甲A12
4の12),厚生省公衆衛生局が昭和40年11月に健康調査を受けた
9042人から被爆後の身体異常の有無に関する調査(甲A199,乙
A151資料30),厚生省保健医療局が昭和60年に死没者について
行った調査(乙A151資料32)等があり,数値の多少はあるものの,
全体的にはいずれも概ね前述した傾向に合致する調査結果となっている。
(ウ)これらの調査結果とその傾向に照らすと,爆心地からの距離が150
0メートル以遠において被爆した者に生じたとされる脱毛や皮下出血等
の症状は,全てとはいえないまでも,その相当部分について放射線によ
る急性症状であるとみるのが自然である。ただし,前述のとおり,初期
放射線による外部被曝線量は,爆心地から2000メートル以遠におい
ては過小評価の可能性を考慮してもせいぜい十数センチグレイ程度であ
り,1グレイにも達しないとみられることや,他方,外部被曝による脱
毛や下痢のしきい線量は3グレイ程度とされていること(乙A123,
158等)なども考慮すると,爆心地から1500メートル以遠にみら
れる脱毛等の症状につき,初期放射線による外部被曝が主たる原因であ
ると理解することもまた困難であって,むしろ,主として,誘導放射化
された大量の粉塵等や放出された放射性降下物から発せられる残留放射
線に,外部被曝及び内部被曝したことによる急性症状であるとみるのが,
最も自然かつ合理的というべきである(なお,遮蔽の有無により急性症
状の発症率に有意な差があることは,原爆爆発直後に発生した短寿命の
誘導放射化物質や放射性降下物への曝露の程度に差があったためと考え
ることも可能である。)。
イ入市被爆者に生じた症状について
(ア)原爆投下時には広島市内又は長崎市内におらず,原爆投下後に市内に
入った者(いわゆる入市被爆者)について,脱毛等の放射線による急性
症状とみられる症状が生じたとする複数の調査結果が存在している。
すなわち,①前出の於保源作「原爆残留放射能障碍の統計的観察」に
よれば,原爆投下時には広島市内にいなかった非被爆者で,原爆投下直
後広島市内に入ったが中心地(爆心地から1キロメートル以内)には出
入りしなかった104人には,発熱,下痢,脱毛等の症状はみられなか
ったが,同様の非被爆者で原爆投下直後中心地に入った525人には,
うち230人(43.8パーセント)にこれらの症状がみられ,その発
熱,下痢,脱毛等の症状は全く急性原爆症そのままであり,そのうち原
爆直後から20日以内に中心地に出入りした人に有症率が高く,他方,
原爆投下1か月後に中心地に入った人の有症率は極めて低い,また,中
心地滞在時間が4時間以下の場合は有症率が低く,10時間以上の人に
有症率が高いなどと報告されている(甲A5)。また,②広島市が昭和
46年に刊行した「広島原爆戦災誌第一編総説」に記載されている「残
留放射能による障碍調査概要」によれば,広島市陸軍船舶司令部隷下の
将兵(暁部隊)のうち,爆心地から約12キロメートル又は約50キロ
メートルの地点にいた将兵で原爆投下後に入市して負傷者の救援活動等
に従事した233人について,下痢患者が多数続出したほか,ほとんど
全員が白血球3000以下と診断され,発熱,点状出血,脱毛の症状も
少数ではあるがあったとされている(甲A112の17)。さらに,③
P20広島局・原爆プロジェクトチームによる「○○」によれば,賀北
部隊工月中隊に所属し原爆投下後入市して作業に従事した隊員99人に
対するアンケート等調査の結果,その約3分の1が放射線障害による急
性障害に似た諸症状を訴えており,その中には脱毛が18人,皮下出血
が1人,白血球減少が11人等であったとされ,そのうち脱毛6人,歯
齦出血5人,口内炎1人,白血球減少症2人については放影研によりほ
ぼ確実な放射線による急性症状があったと思われるとされている(乙A
151資料38)。また,これらの調査結果と同様に,入市被爆者に放
射線による急性症状とみられる症状が生じていた旨の調査結果や証言等
が多数存在している(甲A116,124,152,154,207
等)。
(イ)これらの調査結果等によれば,原爆投下時には広島市内又は長崎市内
にいなかった者であっても,原爆投下直後に爆心地付近に入った者につ
いては,放射線被曝による急性症状とみられる脱毛,下痢,発熱等の症
状が少なからず生じていることが明らかに認められ,爆心地付近に入っ
た時期が早く,また滞在時間が長いほど有症率が高いとされていること
(上記①)も考慮すると,これらの症状は,誘導放射線及び放射線降下
物による外部被曝及び内部被曝の影響によるものとみるのが自然であり,
放射線被曝以外の原因によるものと理解することは困難である。
ウ被告の反論について
(ア)被告は,自然災害や東京大空襲等の被災者にも嘔吐,下痢,脱毛等の
身体症状の発症が確認されているとして,遠距離・入市被爆者に生じた
症状は被曝による急性症状ではなく,精神的影響(ストレス)によるも
のであるなどと主張する。
しかし,おおむね爆心地からの距離に従って脱毛等の症状が減少して
いることは前記認定のとおりであり,前述のとおり,こういった症状が
放射線被曝の影響ではないと断ずることは不合理といわざるを得ない。
自然災害や東京大空襲等において嘔吐,下痢,脱毛等の症状が一定割合
で生じたことを裏付けるに足りる的確な証拠もない上,それが原爆被爆
者に生じた症状と同様の傾向を有するといえるのかも証拠上明らかでは
ない。また,被告が指摘するP37臨界事故における周辺住民の体調不
良についても,その具体的な症状は頭痛,目眩,発疹等が挙げられてい
るのみであり(乙A148),脱毛,下痢,皮下出血等の症状を呈する
ものではないから,これをもって,原爆被爆者に生じた症状を説明する
ことは困難である。したがって,被告の上記主張は採用することができ
ない。
(イ)また,被告は,遠距離・入市被爆者に被曝による急性症状が生じてい
ないことを裏付ける研究報告があるとして,①「原子爆弾による広島戦
災医学的調査報告第8章爆発後被曝地域に入れる者に対する障害」(乙
A153)は,原爆投下後1週間以内に爆心地付近に入り作業を行った
兵員について白血球等の検査を実施した結果,ほとんど異常がなかった
旨報告している,②「原子爆弾症の臨床的研究(1)」(乙A155)は,
「原子爆弾を直接被爆するにあらざれば,爆心部滞在によって少くも爆
発1ヶ月後において,人体に認むべき影響を証明することはできなかっ
た。」と結論づけている,③「長崎市における原子爆弾による人体被害
の調査」(乙A156)は,爆心地から1000ないし1500メート
ルにあったP21工場の従業員110名について,昭和20年9月10
日及び11日に白血球数の集団検診を行ったところ,33名が4000
以下であったが,原爆爆発直後又は数日中に同工場に駆けつけ約1か月
間救護等に当たった17名には,白血球4000以下の者はいなかった
と報告し,「爆心地ならびにその附近の土地は人体に障害を及ぼす程の
残留放射線を有せず」と結論付けている,などと主張する。
しかし,①及び②の研究報告については,対象者数が比較的少ない上,
それでも一部には倦怠感,下痢,白血球数の減少等があったことが報告
されているのであり,全体としては必ずしも前述の各調査報告と矛盾す
るものではなく,これらの研究報告をもって,遠距離被爆者や入市被爆
者に放射線被曝の影響がなかったということはできない。また,③の研
究報告についても,直爆を受けていない者は17名にすぎず,その活動
内容の詳細や入市後の白血球数の推移等も不明であることから,これを
もって入市者に放射線被曝の影響がなかったということはできない。し
たがって,被告の上記主張はいずれも採用することができない。
(ウ)さらに,被告は,被曝による急性症状には,その発症時期,程度,回
復時期等に明確な特徴があることが確立した知見として明らかとなって
おり,原爆被爆者に生じた症状がこのような特徴を備えているかどうか
は,この確立した知見における急性症状の特徴との比較において検討さ
れなくてはならないとした上,遠距離・入市被爆者において嘔吐,脱毛,
下痢等の症状が出たことをとらえて安易に放射線被曝による急性症状で
あると断じたり,最新の科学的知見に基づく線量評価方法の不合理性を
断じたりすることは不当であるなどと主張する。
しかし,被告の上記主張は,放射線被曝による急性症状の典型的な特
徴やしきい線量が原爆被爆者にも同様に当てはまることを前提とするも
のであるが,原爆による放射線被曝は,その後,同様の被害が再現され
たことのない特異なケースであり,原爆放射線の身体影響にはなお不明
な点も多い上,放射性物質が皮膚に付着し又はこれを体内に摂取するこ
となど放射線被曝に全く無防備であった原爆被爆者について,他の一般
的な放射線被曝事故の場合と同列に扱えるかどうかには疑問がある。
むしろ,前述のとおり,遠距離被爆者については,爆心地から150
0メートル以遠の被爆者に放射線被曝による急性症状とみられる身体症
状が発生しており,爆心地から遠距離になるに従ってその発症率が低下
していくといった一定の傾向が存在すること,入市被爆者については,
原爆投下後に爆心地付近に入った入市被爆者に放射線被曝による急性症
状とみられる症状が多数発生しており,爆心地付近に入った時期が早く,
また滞在時間が長いほど有症率が高いといった傾向があることは,いず
れも客観的な事実として優に認定し得るのであり,このような遠距離被
爆者や入市被爆者に生じた身体症状とその傾向を直視するならば,原爆
被爆者の場合には,急性症状の典型的な特徴やしきい線量が必ずしもそ
のとおり当てはまらないと考える方が,より自然かつ合理的というべき
である。遠距離・入市被爆者に生じたこうした症状が,放射線の影響に
よるものではないとすることは不合理であって,被告の上記主張は採用
することができない。
(7)小括
以上によれば,新審査の方針の下での被曝線量の算定方法は,一応の科学
的合理性を肯定することができるものの,シュミレーションに基づく推定値
であることや測定精度の問題等から一定の限界が存することに十分留意する
必要があることに加え,初期放射線については,爆心地から1300~15
00メートル以遠において過小評価の可能性があり,誘導放射線及び放射線
降下物による放射線については,内部被曝の影響を考慮していない点を含め,
地理的範囲及び線量評価の両方において過小評価となっている疑いが強いと
いう問題がある。したがって,DS02及びDS86報告書第6章等により
算定される被曝線量は,あくまでも一応の目安とするにとどめるのが相当で
あり,被爆者の被曝線量を評価するに当たっては,当該被爆者の被爆状況,
被爆後の行動,活動内容,被爆後に生じた症状等に鑑み,様々な形態での外
部被曝及び内部被曝の可能性がないかどうかを十分に考慮する必要があると
いうべきである。
3放射線起因性の具体的な判断手法
前記1記載のとおり,被爆者援護法10条1項の放射線起因性の要件につい
ては,原告において,原爆放射線に被曝したことにより,その負傷又は疾病な
いしは治癒能力の低下を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明する必
要があり,その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持
ち得るものであることを要すると解すべきである。
もっとも,人間の身体に疾病等が生じた場合に,その発症に至る過程におい
ては,多くの要因が複合的に関連していることが通常であって,特定の要因か
ら当該疾病等の発症に至った機序を逐一解明することは自ずから困難が伴うも
のであり,殊に,放射線による後障害は,放射線に起因することによって特異
な症状を呈するものではなく,その症状は放射線に起因しない場合と同様であ
り,また,放射線が人体に影響を与える機序は,科学的にその詳細が解明され
ているものではなく,長年月にわたる調査にもかかわらず,放射線と疾病等と
の関係についての知見は,統計学的,疫学的解析による有意性の確認など,限
られたものにとどまっており,これらの科学的知見にも一定の限界が存するの
であるから,科学的根拠の存在を余りに厳密に求めることは,被爆者の救済を
目的とする被爆者援護法の趣旨に沿わないというべきである。
したがって,放射線起因性の判断にあたっては,当該疾病等が発症するに至
った医学的,病理学的機序を直接証明することを求めるのではなく,当該被爆
者の原爆による放射線被曝の程度と,統計学的・疫学的知見等に基づく申請疾
病等と放射線被曝の関連性の有無及び程度とを中心的な考慮要素としつつ,こ
れに当該疾病等の具体的症状やその症状の推移,その他の疾病に係る病歴(既
往歴),当該疾病等に係る他の原因(危険因子)の有無及び程度等を総合的に
考慮して,原爆放射線被曝の事実が当該申請に係る疾病等の発症又は治癒能力
の低下を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性が認められるか否かを経験則
に照らして判断するのが相当である。そして,当該被爆者の原爆による放射線
被曝の程度を考慮するに当たっては,前記2で述べたとおり,DS02及びD
S86報告書第6章等により算定される被曝線量は,あくまでも一応の目安と
するにとどめるのが相当であり,当該被爆者の被爆状況,被爆後の行動,活動
内容,被爆後に生じた症状等に鑑み,様々な形態での外部被曝及び内部被曝の
可能性がないかどうかを十分に考慮する必要があるというべきである。
第2原告の原爆症認定要件該当性(争点②)
1認定事実
前記前提となる事実等に加え,掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下
の事実が認められる。
(1)被爆状況等(甲B1,乙B1,4,5,証人P22,原告本人)
ア原告は,昭和▲年▲月▲日生まれ(被爆当時16歳)の男性である。原
告は,高等小学校を卒業後,昭和18年4月に陸軍の技能者養成所に入り,
陸軍燃料廠のP23精油所(山口県岩国市)に配属されていた。その後,
昭和20年5月にP23精油所が爆撃で被害を受けたため,山口県防府市
所在のα22出張所に移動していたが,同年8月初め頃,α5に松根油を
原料とするアルコール精製工場を建設する作業管理等に従事するよう命ぜ
られ,同年8月5日に防府を出発し,同日夜,α6の陸軍燃料廠の養成所
に泊まった。
イ原告は,同月6日午前8時15分頃,α6の陸軍燃料廠敷地内のグラウ
ンド(爆心地から約40キロメートル)にいた。すると,突然ピカッと強
烈な閃光が走り,大きな爆音が響いた。その後しばらくして,原告が広島
の方を見ると,大きなキノコ雲が広がっていた。
ウ原告は,翌日(同月7日)の朝礼後,α9に救援に向かうよう命ぜられ,
α6のα15港において,暁部隊の船舶に菜種油の入ったドラム缶を積み
込み,同じ部隊の約20名と共に,広島市のα7港へと向かった。そして,
原告が乗った船は,α16,α17を通り,同日午後3時頃,α7港の東
側(陸軍船舶練習部付近。爆心地から約4キロメートル)に到着した。
原告は,α7港に到着すると,船から菜種油のドラム缶を陸揚げする作
業に従事した。広島市の方角は,まだ火がくすぶっている様子であった。
α7港の倉庫周辺の広場には,重傷の火傷を負った多数の被爆者がおり,
中には男女の別も分からないほどの者もいた。原告は,陸揚げした菜種油
を被爆者の救護活動に従事する医療班に配る作業をしたほか,原告自身も,
翌日早朝頃まで,夜を徹して,数多くの被爆者らに対し,持っていた薄い
日本手ぬぐいで菜種油を火傷に塗るなどの救護活動を行った。
エ原告は,同月8日の朝,船でα6のα15港に戻った。その頃,国鉄が
復旧したとの連絡が入り,原告は,上官の命令により,同月9日の朝,当
初の目的地であったα18に向かうため,同じ部隊の十数名の者と共に,
国鉄α19駅(現α6駅)から列車に乗った。
原告は,その後,α1駅まで列車で来たが,同駅において約3時間待機
させられた。そして,原告は,上官の命令により,他の者と共に徒歩でα
8駅まで移動した。原告は,その際,川の近く(爆心地から1.5~2キ
ロメートル付近)を歩いたが,川には膨らんだ水死体が多数浮かんでおり,
また,市内中心部はまだ火がくすぶっているように見えた。
オ原告は,α8駅(爆心地から約1.6キロメートル)において,被爆し
て重傷の火傷を負った見習士官数十人を列車に乗せ,同列車でα9駅(爆
心地から約2キロメートル)まで行った。さらに,原告は,α9駅で一旦
列車を降り,同じく被爆して重傷の火傷を負った兵数十人を列車に乗せた。
そして,原告は,この被爆した見習士官らや兵ら(以下「被爆兵ら」とい
う。)の看護をしながら,国鉄α11線を列車でα10駅まで行った。
α8駅及びα9駅で列車に乗ってきた被爆兵らは合計で60人くらいで
あり,みな身体も着衣もぼろぼろの状態であった。原告は,被爆兵らのた
めのアルミの飯缶を開けて食べさせようとしたが,被爆兵らはみな火傷を
負って顔や口も腫れ上がっており,水も飲めないような状態であったため,
ほとんど食べさせることができなかった。また,薬や包帯等もなく,原告
は,被爆兵らの火傷の手当もできず,汗,汚れや垂れ流しの下痢便などに
まみれた被爆兵らの身体を,私物の手ぬぐいや着替えなどで拭いてやるこ
とくらいしかできなかった。この列車内は非常に暑く,下痢便のにおいや
皮膚の焼けたにおいで充満しており,また,大声で泣く者,うなる者,怒
鳴る者などの声であふれかえっていた。
カ列車がα10駅に到着すると,原告は,山陰方面へ行く被爆兵らと別れ,
同じ部隊の者と共に列車を降り,列車を乗り継いで,当初の目的地であっ
たα5(α18)へと向かった。原告は,同日中にα5駅に到着すること
ができたが,到着した時にはすでに夜になっていた。
(2)被爆後に生じた症状,被爆後の生活状況,病歴等(甲B1,2,7,乙B
1~3,5,10~25,証人P22,証人P24,原告本人)
ア原告は,昭和20年8月9日の夜,α5の滞在先の農家に到着した。そ
して,その日の夜から,液状の激しい下痢が始まった。頭痛と発熱もあり,
頭痛は四,五日続いた。また,翌日から,鼻血が出たり,歯茎から出血し
たりした。また,原告は,体が非常にだるく,満足に動くことができなか
った。同じ部隊の隊員も原告と同じような症状であり,原告の部隊は,同
月15日に戦争が終結するまで,予定の作業に従事することができなかっ
た。
イ原告は,終戦後の同月17日頃,列車で広島市内を通り,α6の実家に
戻った。
原告は,実家に戻ってからもひどいだるさ(倦怠感)に襲われ,ろくに
食べられずやせ細り,寝たきりのような状態となった。そして,原告は,
昭和20年末頃,陸軍燃料廠の上官だった人の世話で,P25(後のP2
6)から採用通知をもらうことができたが,当時あまりに体調が悪い状態
であったため,これを辞退せざるを得なかった。また,被爆から二,三年
後には,脱毛があった。
ウ原告は,体の不調が続いたため,仕事に就いてもすぐに動けなくなって
辞めざるを得ず,安定した職を得られずに職を転々としていた。
原告は,昭和36年(当時32歳)頃,P27という会社に就職した。
原告は,体調を崩して動けなくなると一旦仕事から離れ,体調の回復によ
り復職するということを何度か繰り返したが,昭和56年(当時52歳)
頃まで,同社において稼働した。
原告は,その頃,再び体調を崩したため,これ以上会社に迷惑をかけら
れないと考えて同社を自ら退社し,その後,二種免許を取得してタクシー
の運転手となった。
エ原告は,昭和30年頃以降は,頭痛や胃痛にも悩まされた。なお,原告
は,昭和60年頃,胃透視検査の結果,○の診断を受けた。
原告は,昭和57年1月(当時53歳),○を発症し,P28脳神経外
科に入院し手術を受けた。
原告は,昭和62年(当時58歳),○の発作を起こし,救急車でP2
9病院に運ばれた。原告は,当時の担当医から,○という診断を受けたが,
○に75パーセントの○が認められている。
オ原告は,平成12年頃から,○の治療のため近くの病院に通院しており,
投薬治療を受けていた。また,医師から,食事の際に塩分が多くならない
よう指導を受けたことがある。
○発症前に記録のある原告の血圧(収縮期血圧/拡張期血圧・mmHg)は,
昭和62年8月頃は110/64,昭和63年1月11日は160/80,
同年4月20日は164/90,同年6月1日は136/86,同年10
月5日は144/86,同年12月21日は164/94である。
カ原告は,平成14年4月15日(当時73歳),深夜急に胸が痛くなり,
救急車でP29病院を受診したところ,P30医療センターに搬送され,
○との診断を受けた。
このときの原告の血圧(収縮期血圧/拡張期血圧・mmHg)は172/1
07であり,同じく総コレステロール値(T-chol・mg/dl)は16
2,LDLコレステロール値(LDL-chol・mg/dl)は103であ
った。なお,この当時,原告の身長は157センチメートル,体重55キ
ログラムであった。
キ原告は,平成21年6月末,急に右半身が動かなくなり,○と診断され
た。そして,原告は,平成22年1月,○を再発し,現在もその後遺症が
残っている。
ク原告は,20歳頃から,一日20本(1箱)程度のたばこを吸っており,
52歳でタクシー運転手になってからは,一日20本以上のたばこを吸う
こともあった。しかし,原告は,昭和62年に○を発症してから喫煙本数
を減らしており,○を発症する約1年前(平成13年)からは禁煙をして
いた。
ケ原告は,平成14年4月に○を発症した後,その再発を防ぐため,血管
拡張剤などの投薬治療を受けている。
(3)事実認定の補足説明
ア1回目の入市日時及び活動内容について
(ア)原告は,1回目の入市日時につき,原爆投下当日である昭和20年8
月6日夕方から翌7日早朝にかけてα7港に入市したと主張し,これに
沿う供述及び陳述(甲B1)をする。
しかし,原告は,平成19年9月6日受付の被爆者健康手帳交付申請
書(乙B5)に,初めて入市した日時として「8月7日午後3時ころ」
「8月7日第1回(α7)」と記載し,その日時を覚えている理由とし
て,「朝礼が終わってから。α15港にて乗船。α16経由α7港に着
岸ドラム缶陸揚げ」と記載している。また,原告は,同申請書添付の申
述書においても,「7日点呼で私と後1名使役に駆出される。α15港
(α6港)にて暁部隊の船舶に乗船し陸軍燃料廠の岸壁にて菜種油の入
ったドラム缶を積込みα9に向かって出港する。総員約20名α20海
α21からα17を通りα9湾に入りα7港に着岸陸揚げ翌朝α15港
に帰港」と記載し,地図にも「α6港7日」と記載しており,一貫して,
8月7日にα7港に行った旨を明確に記載している。しかも,2回目の
入市日については「はっきりと記憶がない」といった記載があるが,1
回目の入市日時についてはそのような記載はない上,原告が最初の入市
日につきあえて虚偽の事実を記載する必要性も全く認められない。さら
に,原告は,被爆者健康手帳交付申請書に上記のような記載をした理由
を質問されても,あいまいな供述をし,その理由を何ら説明できておら
ず(原告本人),また,原告の上記主張及び供述等は,被爆者健康手帳
申請書の内容を原告に有利に変更するものであることや,原爆投下の翌
日朝から救護用の菜種油を積んでα7港に向かうという経緯自体は特に
不自然ではないこと(なお,陸軍所属の部隊であるとはいえ,α9から
約40キロメートル離れたα6から,α9の状況を原爆投下直後に的確
に把握できたかどうかには疑問がないではなく,原爆投下翌日にα7に
向かったという被爆者健康手帳交付申請書の内容の方がより自然である
とも言える。),さらに,原告の妻である証人P22も,原告から原爆
投下の翌日に船でα9に行ったと聞いた旨証言していることも考慮する
と,上記の各記載は本件訴訟における原告の主張及び供述等よりも信用
性が高いというべきであり,1回目の入市日は昭和20年8月7日と認
めるのが相当である。これに反する原告の上記主張及び供述等は,採用
することができない。
(イ)原告は,1回目の入市の際,α7港において,菜種油を被爆者に塗る
などの直接の救護活動を行った旨主張し供述するところ,被告は,この
ような活動をした旨の記載は被爆者健康手帳交付申請書にはないなどと
して,これを争っている。
しかし,原告は,同申請書において,「救護,死体処理などを何町
(旧市町村名)のどこでしましたか。」との質問に対し,「(1)α7
港」と記載しており,α7港における救護活動について全く記載してい
ない訳ではない。また,α7港に行ったのは総勢約20名であったとい
うのであるから,単に菜種油を届けるだけではなく,被爆者の救護活動
をも目的としていたと考えるのが自然であるし,原告が船でα15港に
戻ったのは翌日(8月8日)の朝というのであるから,菜種油を陸揚げ
しただけで後は何もせず朝を待ったというより,夜を徹して被爆者の救
護活動に当たったという方が自然であり,これに沿う原告の供述等は十
分信用することができる。したがって,原告は上記認定のとおり救護活
動に従事したと認めるのが相当であり,被告の上記主張は採用すること
ができない。
イ2回目の入市日及び活動内容について
(ア)原告は,2回目の入市日につき,列車が復旧した直後の一番列車に乗
って昭和20年8月8日(原爆投下から2日後)に入市したと主張し,
これに沿う供述及び陳述をする。
しかし,原告の主張及び供述によれば,原告は,2回目の入市日にお
いて,α1駅まで列車で行き,同駅からα8駅まで歩いて移動し,α8
駅から列車でα9駅まで行き,さらに,国鉄α11線でα10駅まで行
ったというのであるが,証拠(乙A194,195)によれば,国鉄α
11線のα9・α12間が開通したのは同月9日であるとされており,
これに反する証拠も見当たらないから,同月8日に原告主張のとおり列
車で移動することはできないと考えられる。しかも,原告は,被爆者健
康手帳交付申請書(乙B5)には,「8月10日第2回(国鉄)」「②
8月10日国鉄α19駅(α6)…」「8月9日~10日はっきりと記
憶が出ない」などと記載し,同申請書添付の申述書にも,「8月9日か
10日α19駅(α6駅)軍用列車にて…」と記載し,地図にも「9
日?10日」「至α1010日」と記載し,原爆症認定申請書(乙B
1)の別紙にも,入市日として「S20.8.9」と記載している(な
お,医師の意見書も入市日を同月9日としている(乙B2)。)。しか
も,前述のとおり,原告が被爆者健康手帳交付申請の際に被爆状況をあ
えて過少申告する必要性は全く認められないことや,原告の上記主張及
び供述等は,被爆者健康手帳申請書の内容を原告に有利に変更するもの
であることなども考慮すると,昭和20年8月8日に2回目の入市をし
たとは認め難く,原告の上記主張及び供述等は採用することができない。
(イ)ただし,原告が供述する広島市内の状況,原告が行った救護活動とそ
の列車内の状況などからすると,2回目の入市日は原爆投下からあまり
日が経っていないと考えるのが自然である。また,列車の復旧後直ちに
当初の予定であるα18に向かったという説明にも一定の合理性が認め
られることや,被爆者健康手帳交付申請書には,2回目の入市日につい
て,同月9日か10日かはっきりしない旨が記載されており,入市日が
同月10日であると断定している訳ではないことなども考慮すると,原
告の2回目の入市日は,同月10日ではなく,同月9日であったと認め
るのが相当である。
これに対し,被告は,α8・α9間の上り線が開通したのは同月12
日であるから,原告がα8・α9間を列車で移動したとすれば,同日以
降であったとみられる旨主張する。しかし,広島原爆戦災史第三巻(乙
A195)によれば,「八日,ついに本線が開通した。上り線十六時四
十二分第二二二列車,下り線十五時三十分第三三列車を初列車として,
α9・α8間は単線で旅客列車のみ運転した。」とされており,国鉄α
13本線のα8・α9間は,同月8日に単線で開通していることが認め
られる。他方,「八月十二日頃α9-α8間上り線開通」とされている
こと(乙A194)からすると,α8・α9間で最初に開通した線路は
もともとは下り線であったものと思われるが,当時は非常事態である以
上,この単線が上り下り共用又は折り返し運転に利用されていたとして
も不自然ではない。したがって,この点は上記認定を左右するものでは
なく,被告の上記主張は採用することができない。
ウ喫煙習慣等について
被告は,原告は平成13年に禁煙するまで約50年間にわたり,1日2
0本以上の喫煙をしていたと主張する。これに対し,原告は,34歳又は
35歳頃から1日10本程度の喫煙をしていたにすぎないと主張し,これ
に沿う供述及び陳述をする。
そこで検討するに,原告が昭和62年7月に○の発作を起こして入院し
た際の診療録によれば,1日の喫煙本数につき,「20本×35年,20
~40本×5年」(乙B13,14)と記載されており,原告が平成14
年に○を発症して受診した病院の診療録等には,「20本×50年」と記
載されている(乙B3,10,11,17)。また,原告が平成21年に
○を発症した際の看護情報には,「1日20~40本50年間18~
70歳禁煙」と記載されている(乙B18)。これらは,原告が医師又
は看護師に対して自ら申告した内容と考えるほかはなく,原告が医師又は
看護師に対して喫煙本数を過大に申告する理由もないから,上記各記載の
信用性は高いというべきである。
これに対し,原告は,平成14年に○を発症した際の看護情報(甲B
7)には,「たばこ1日7本→現在禁煙中」という記載があることを指摘
するが,年数が空欄になっていることからすると,これは昭和62年に○
を発症した後のことであると考えるのが自然であり,原告が1日当たり1
0本程度しか喫煙していなかったことを裏付けるには足りないというべき
である。
以上によれば,原告の喫煙習慣については,前記(2)クのとおり認める
のが相当であり,これに反する原告の主張及び供述等並びに証人P22の
供述は採用することができない。
2放射線起因性(○)について
(1)放射線被曝の程度について
ア前記認定事実によれば,原告は,広島原爆が投下された昭和20年8月
6日当時,山口県岩国市の陸軍燃料廠にいたものであり,広島原爆の初期
放射線には被曝していない。また,原告は,同月7日にα7港に行ったこ
とが認められるものの,原告が船で上陸した場所は爆心地から約4キロメ
ートル離れた場所であり,放射性降下物が多く降ったα1・α2地域から
も離れており,α7港周辺での誘導放射線や放射性降下物による外部被曝
はほとんど考慮する必要がないと考えられる。しかし,原告は,α7港付
近において,夜を徹して,多数の被爆者の火傷に菜種油を塗るなどの救護
活動を行っていたというのであり,被爆者自身の身体から発せられる誘導
放射線自体はさほど多くないとしても(乙A130),爆心地付近から逃
れてきた被爆者に付着した塵埃などの放射性物質が,救護活動の際に呼吸
等を通じて原告の体内に取り込まれ,相当量の内部被曝を与えた可能性は
否定できないというべきである。
また,前記認定事実によれば,原告は,広島原爆投下から3日後の昭和
20年8月9日,列車でα19駅(α6)からα1駅まで行き,α1駅で
約3時間待たされた後,同駅からα8駅まで川の近く(爆心地から1.5
~2キロメートル付近)を徒歩で移動し,α8駅(爆心地から約1.6キ
ロメートル)において,被爆して重度の火傷を負っている見習士官数十人
を列車に乗せ,さらに,α9駅において,同じく被爆した兵数十人を列車
に乗せ,密集した列車内で被爆兵らの汗や汚物を拭いてやるなどして,α
10駅まで被爆兵らの救護活動を行っていたというのである。そうすると,
α1地域は放射性降下物を含む黒い雨が比較的多く降下した地域であるか
ら,原告は,α1駅において約3時間待たされ,α8駅まで歩いていく間
に,相当量の放射性降下物からの外部被曝を受け,また,地表に降り積も
った放射性降下物が集団の歩行により空気中に巻き上げられ,呼吸等を通
じて原告の体内に取り込まれることにより,相当量の内部被曝を与えた可
能性がある。しかも,α1駅からα8駅までの地域及びα8駅周辺は,爆
心地から約1.5~2キロメートルの距離であり,爆心地付近で放射化さ
れた誘導放射化物質が衝撃波や爆風と共に運ばれて地表に集積していた可
能性もあり,放射性降下物と同様に誘導放射化物質の影響も一概に否定す
ることができない。さらに,原告は,被爆して火傷を負った被爆兵ら約6
0人を列車に乗せ,密集した列車内でこの被爆兵らの救護活動を行い,α
10駅まで行ったというのであるから,救護を受けている被爆兵らに付着
した塵埃などの放射性物質が,皮膚に直接付着して至近距離で外部被曝を
与え,又は,呼吸等を通じて体内に取り込まれることにより,相当量の内
部被曝を与えた可能性もあると考えられる。
さらに,原告は,2回目に入市した昭和20年8月9日の夜から,激し
い下痢に見舞われ,頭痛や発熱も生じ,鼻血や歯茎からの出血もあったと
いうのであり,その後も長い間,倦怠感や体の不調に苦しんだというので
あって,このような原告の一連の身体症状については,原爆放射線に被曝
した影響によるものと考えるのが自然である(甲B2,証人P24)。
そうすると,原告の原爆放射線による被曝線量は,DS86報告書第6
章等に基づく推定値ほど小さいものではなかったと考えられ,原告は,健
康に影響を及ぼすような相当程度の外部被曝及び内部被曝を受けていたと
認めるのが相当である。
イこれに対し,被告は,次のとおり反論するが,いずれも採用することが
できない。
(ア)被告は,①DS02に基づく最新の研究(P4論文)によれば,爆発
直後から無限時間同じところにとどまっていたと仮定しても,爆心地か
ら1500メートル地点における積算線量は0.0001グレイにすぎ
ないから,原告はほとんど誘導放射線を受けていない,②α1・α2地
区に無限時間とどまったとして放射性降下物から受ける線量は,多く見
積もってもわずか4レントゲン(約0.03グレイ)であり,α1駅で
数時間待機したからといって,有意な被曝をしたとは認め難い,③内部
被曝については,健康被害への影響は重視する必要はないというのが確
立した科学的知見である,などと主張して,原告の被曝線量は低いと主
張する。
しかし,前述したとおり,誘導放射線及び放射性降下物による被曝線
量評価につき,医療分科会が依拠しているDS86報告書第6章やP4
論文の分析結果は,被曝線量評価として過小評価となっている疑いが強
く,また,原爆による内部被曝線量は無視し得る程度のものであるとし
てこれを考慮しない方針には,疑問があるといわざるを得ない。前記認
定に係る原告の当時の行動,活動内容等に鑑みれば,微少な放射性物質
を吸入等することによる内部被曝を中心に,相当程度の放射線被曝を受
けている可能性は否定し難いのであり,内部被曝による身体への影響に
は一時的な外部被曝とは異なる性質があり得ることも考慮すると,原告
の被曝線量は低いとして直ちに放射線起因性を否定することは適当では
ないというべきである。被告の上記主張は採用することができない。
(イ)また,被告は,原告に生じたとされる下痢,頭痛,発熱,鼻血,歯茎
からの出血,倦怠感といった症状は,記憶の減退や記憶違いによる誤り
が含まれている可能性があるとか,仮にこれが実際に生じていたとして
も,これらの身体症状は,放射線被曝による急性症状としての特徴を備
えておらず,原告がしきい線量を超える放射線に被曝したとも考え難い
などとして,原爆放射線による急性症状とは認められないと主張する。
しかし,原告が主張し供述する一連の身体症状につき,特に不自然,
不合理というべき点はなく,供述内容に特に変遷も見られないことから
すると,身体症状に関する原告の供述等は信用することができ,前記認
定のとおり認めることができる。また,急性症状としての特徴やしきい
線量からの反論については,前述のとおり,原爆による放射線被曝は,
その後,同様の被害が再現されたことのない特異なケースであり,これ
を他の一般的な放射線被曝事故の場合と同列に扱えるかどうか自体疑問
であって,原爆被爆者の場合には,急性症状の典型的な特徴やしきい線
量が必ずしもそのとおり当てはまらないと考える方が,より自然かつ合
理的というべきであるから,被告の上記主張は採用することができない。
なお,かつての厚生省は,昭和33年,都道府県知事等に対し,厚生省
公衆衛生局長通知「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健
康診断の実施要領について」を発しているが,そこでは,「…被爆後数
日ないし,数週に現れた被爆者の健康状態の異常が,被爆者の身体に対
する放射能の影響の程度を想像させる場合が多い。すなわち,この期間
における健康状態の異常のうちで脱毛,発熱,口内出血,下痢等の諸症
状は原子爆弾による障害の急性症状を意味する場合が多く,特にこのよ
うな症状の顕著であった例では,当時受けた放射能の量が比較的多く,
したがって原子爆弾後障害症が割合容易に発現しうると考えることがで
きる。」としており(甲A33),同時期の同局長通知「原子爆弾後障
害症治療指針について」にも上記と同趣旨の記載があるのであって(甲
A112の2),いずれも脱毛,発熱,口内出血,下痢等の症状と放射
線被曝との関連性を正面から認めている。
(2)○と原爆放射線被曝との関連性について
ア原告の申請疾病は「○」であるところ(乙B1),○とは,冠動脈が何
らかの原因で閉塞して心筋への血液供給が阻害され,その結果,心筋細胞
が酸素不足(虚血)に陥り壊死を来す疾患であり,その病因の90パーセ
ント以上が冠動脈硬化症,すなわち,冠動脈に生じる粥状動脈硬化に起因
するとされている(乙A502,503)。
粥状動脈硬化症(アテローム性動脈硬化症)とは,動脈の内側にアテロ
ームというもろい粥状の物質が沈着してプラーク(動脈硬化巣)を形成す
る疾患であり,その結果,血管の内腔が狭くなり血液が流れにくくなり,
また,プラークが破れて血液中に血栓を形成し,これが重要臓器の血管に
詰まることにより,○や○を引き起こすものである(乙A504~507,
弁論の全趣旨)。
イ○及び動脈硬化については,放射線被曝との関連性につき,以下のよう
な知見があることが認められる。
(ア)放影研のLSS第11報(乙A159・平成5年)によれば,195
0年(昭和25年)から1985年(昭和60年)までの循環器疾患に
よる死亡率は線量との有意な関係を示し,1966年(昭和41年)か
ら1985年(昭和60年)までの後期になると,被爆時年齢が低い群
(40歳未満)では,循環器疾患全体の死亡率及び脳卒中又は心疾患の
死亡率は線量と有意な関係を示しているとされている。
(イ)放影研のLSS第12報(乙A160・平成11年)によれば,19
50年(昭和25年)から1990年(平成2年)までのがん以外の疾
患による死亡者について解析した結果,放射線との統計的に有意な関係
ががん以外の複数の疾病(心臓病,脳卒中,消化器疾患,呼吸器疾患及
び造血器系疾患)に見られるとされ,心疾患(死亡数6826人)の1
シーベルト当たりの過剰相対リスクは0.14(90パーセント信頼区
間0.05~0.22,P値(片側検定)0.003),そのうち冠状
動脈性心疾患(死亡数2362人)の同過剰相対リスクは0.06(9
0パーセント信頼区間-0.06~0.20)とされている。また,そ
の考察においては,「低線量,例えば約0.5Svにおいてどの程度の
関連性があるかはまだ不明であるが,影響はもはや高い線量域に限らな
い。」,「○および○,ならびにアテローム性動脈硬化症と○の様々な
指標について有意な線量反応が観察されている。」といった内容が指摘
されており,その機序に関し,「このような影響に関する機序が解明さ
れていないからといって,機序が存在しないという意味ではないと我々
は考えている。…一つの興味深い機序として免疫能不全が考えられる。
健康に直接影響が出るわけではないが,T細胞とB細胞の機能的・量的
異常において原爆放射線の後影響がみられる。最近の研究では,クラミ
ジア・ニューモニエ,…に感染するとアテローム性動脈硬化症が発症し
やすいことが示唆されている。」とされている。
(ウ)放影研の原爆被爆者の死亡率調査第13報:固形がんおよびがん以外
の疾患による死亡率1950-1997年(乙A161・平成15年。
以下「LSS第13報」という。)によれば,1968年(昭和43
年)から1997年(平成9年)までの期間の寿命調査における心疾患,
脳卒中,呼吸器疾患及び消化器疾患に有意な過剰リスクが認められたと
され,心疾患の1シーベルト当たりの過剰相対リスクは0.17(90
パーセント信頼区間0.08~0.26,P値0.001)とされてい
る。
(エ)放影研のAHS第8報(乙A162・平成16年)によれば,40歳
未満で被爆した人の○に有意な二次線量反応関係を認めたとされ(P値
0.049,1シーベルト当たりの相対リスク1.25,95パーセン
ト信頼区間1.00~1.69),二次モデルで,放射線被曝の寄与リ
スクは16パーセントであったとされている。
(オ)P31(放影研)の「原爆被爆者の動脈硬化・虚血性心疾患の疫学」
(甲B4・平成20年。以下「P31論文」という。)は,放影研で行
った放射線被曝と心・血管疾患及びその危険因子との関連についての調
査結果によれば,心疾患による死亡及び○が増加しており,大動脈弓の
石灰化及び網膜細動脈硬化を認めることから,被爆者でも被曝の影響と
して動脈硬化による心・血管疾患が増加していると考えられるとされ,
動脈硬化あるいは心・血管疾患の危険因子である高血圧,○及び炎症に
も放射線被曝が関与していることも明らかになり,これらを介して動脈
硬化が促進され,心・血管疾患の増加につながったと考えられるとして
いる。
(カ)P32(P33センター)の「原爆被爆者と心血管疾患」(甲B5・
平成20年)は,1987年(昭和62年)から2003年(平成5
年)までに原爆検診を受診した40歳から79歳の被爆者1万6335
例につき,大動脈脈波速度(PWV)を測定したところ,被曝と大動脈
硬化の関連を認める結果が出たとし,特に被爆時年齢が20歳未満の男
性の若年直接被爆者では大血管の動脈硬化が強く,特に10歳未満の近
距離被爆者に強いとの結果を得たとしている。また,頸動脈超音波法に
おいても,近距離被爆者,特に10歳未満で被爆した男性の若年被爆者
に頸動脈内膜中膜複合厚(IMT)の肥厚が強い傾向があるとの結論を
得た(ただし,指尖加速度脈波(APG)とCAVIにおいては被爆状
況では差が見られなかった。)とし,最近の循環器疾患と被曝について
の疫学的研究においても若年被爆者における同様の結果が報告されてい
るとしている。
(キ)P34ら「BMJ放射線被曝と循環器疾患のリスクの関係:広島,
長崎の被爆者データに基づく,1950-2003」(甲B3,乙A1
88,189・平成22年。以下「P34論文」という。)によれば,
1950年(昭和25年)から2003年(平成8年)までの間に,対
象者のうち8463人が心臓病で死亡し,心疾患については1グレイ当
たり0.14の過剰相対リスク(95パーセント信頼区間0.06~0.
23,P値<0.001)があったとされ,さらに,線形モデルが最も
適合し,低線量被曝領域でも過剰リスクがあることが示唆されたが,線
量反応関係は一定の被曝線量以上に限定しており,0~0.5グレイの
被曝線量では有意差は認めなかったとされ,結論として,0.5グレイ
を上回る被曝線量は心疾患のリスク上昇に関連していたが,それより少
ない線量では明確ではなかったとされている。
(ク)なお,平成19年12月17日付け「原爆症認定の在り方に関する検
討会報告」(乙A6)は,○については,原爆被爆者を対象とした疫学
調査のみならず,動物実験を含む多くの研究結果により,一定以上の放
射線量との関連があるとの知見が集積してきており,認定疾病に追加す
る方向でしきい値の設定等の検討を行う必要があるとしており,これを
受けて,平成20年3月17日付けで策定された新審査の方針は,被曝
した放射線との関係を積極的に認定する疾病として,「放射線起因性が
認められる○」を掲げている。
ウ以上のとおり,○については,原爆放射線被曝との関連性を肯定する疫
学的知見が集積しており,しかも,医療分科会が策定した新審査の方針に
おいて,放射線起因性が推認される疾病に「放射線起因性が認められる
○」が掲げられていることも考慮すると,○と放射線被曝との関連性につ
いては,これを一般的に肯定することができる。
さらに,近時,放射線被曝が,ヘルパーT細胞数の減少に伴う免疫機能
低下を引き起こし,ウイルスによる慢性的な炎症反応を誘発し,○の発症
の促進に寄与していることを示唆する複数の研究報告が示されており(L
SS第12報及びP31論文のほか,P35ほか「原爆被爆者における炎
症マーカーに対する放射線の長期影響」甲A151,乙A192,P36
ほか「電離放射線被曝による免疫システムの長く継続する変化:被爆者に
おける疾患の進展に対する意味」甲A258,同「原爆放射線が免疫系に
及ぼす長期的影響:半世紀を超えて」甲A260,P35ほか「原子爆弾
被爆者の炎症反応マーカーの放射線量に依存した上昇」乙A193等),
放射線被曝が粥状動脈硬化及び○の発症を促進する機序についても科学的
な知見が集積しつつあるということができるのであって,このことは,○
と放射線被曝との関連性をさらに強固に裏付けるものである。
エこれに対し,被告は,次のとおり反論するが,いずれも採用することが
できない。
(ア)被告は,LSS第11報においてリスクの増加が想定されているのは,
被曝線量がおおむね2グレイ以上の場合に限定されており,低線量被曝
における放射線起因性を肯定できるようなものではないとか,LSS第
13報においても,約0.5シーベルト未満の線量域については放射線
影響の直接的な証拠は認められなかったとされているなど,低線量の放
射線被曝の心疾患への影響は肯定されていないとして,低線量被曝の場
合には○との関連性はないと主張する(なお,原爆症認定の在り方に関
する検討会報告も,○について,しきい値の設定等の検討を行う必要が
あるとしている。)。
しかし,確かにLSS第11報(平成5年)の時点では,心疾患のリ
スクの増加は被曝線量が2グレイ以上の場合に限られているようにみえ
るが,LSS第12報(平成11年)は,「低線量,例えば0.5Sv
においてどの程度の関連性があるかはまだ不明であるが,影響はもはや
最も高い線量域に限らない。なぜならば…初期にみられたU字型線量反
応は追跡調査の経過に伴いより線形の反応へ移行するからである。」と
しているように(乙A160・26頁),調査及びその分析が進むにつ
れて,心疾患と放射線被曝との関連性は高線量被曝の場合に限られない
ことが明らかになってきている(なお,原爆放射線の人体影響1992
「循環器疾患」によれば,かつては循環器疾患と放射線被曝との関連性
すら明らかではなかったようである(乙A102・160頁以下)。)。
また,LSS第13報は,「がん以外の疾患のリスクは1Sv以下の線
量においても増加していることを示す強力な統計的証拠がある。低線量
における線量反応の形状については著しい不確実性が認められ,特に約
0.5Sv以下ではリスクの存在を示す直接的な証拠はほとんどないが,
LSSデータはこの線量範囲で線形性に矛盾しない。」「リスク増加の
全般的特徴から,また機序に関する知識が欠如していることから,因果
関係については当然懸念が生ずるが,この点のみからLSSに基づく所
見を不適当と見なすことはできない。」(乙A163・40頁)として
おり,低線量被曝の場合でも関連性があることを示唆する内容であると
いえるのであって,約0.5シーベルト以下の低線量被曝の場合に関連
性を否定すべきであるとか,心疾患に一定のしきい値があるといったよ
うな被告の主張に沿うものではないことは文脈上明らかである。
また,平成22年に発表されたP34論文は,0.5グレイ以下の被
曝線量では心疾患のリスク上昇との関連が明確ではなかったとしている
ものの,心疾患死亡に対する過剰相対リスクにつき,線形モデルが最も
適合し,低線量域でも過剰リスクがあることが示唆され,しきい値線量
の最良の予想は0グレイであった(95パーセント信頼上限でおよそ0.
5グレイ)としている。また,P34論文は,その末尾において,これ
からのより長期の期間の追加研究が低線量被曝のリスクについてより正
確な推測を提供するであろうとしていることからしても,心疾患と放射
線被曝との関連性につき,しきい値が存在しないことを想定していると
みるのが合理的である。
そして,○は心疾患の主要な類型の一つであることからすれば,○は,
しきい値のあるいわゆる確定的影響に係る疾病(放射線による健康影響
のうち,ある一定の線量以上の放射線に被曝すると影響が出るもの)で
はなく,確率的影響に係る疾病(放射線による健康影響のうち,被曝し
た放射線量が多いほど影響の出現する確率が高まるもの)であると考え
るのが合理的というべきであり,そうすると,たとい約0.5グレイ以
下の被曝線量であっても,○との関連性は直ちには否定することができ
ないというべきである。
したがって,○には一定のしきい値があり,低線量被曝の場合には関
連性がない旨の被告の主張は,採用することができない。
(イ)また,被告は,P34論文に添付されているウェブ表B「循環器疾患
の亜分類による放射線リスク要約」(WebTableB)によれば,○につ
いては,1グレイごとの過剰相対リスクは0パーセント,P値も0.5
より大となっており,虚血性心疾患についても,同過剰相対リスクは2
パーセントであるが,95パーセント信頼区間の下限値はマイナス10
パーセントであり,P値も0.5より大となっており,○及び虚血性心
疾患と放射線被曝との関連性は認められていないと主張する(なお,P
値とは,帰無仮説,すなわち,この場合であれば放射線に被曝しても○
や虚血性心疾患が発症するリスクは変わらないとの仮説が起こる確率の
ことである。ちなみに,P値が0.05以下の場合を統計学上有意であ
るとすることが多い。)。
しかし,P31論文において「放射線治療に伴う高線量被曝により○
が増加する事に異論を唱える人はいないと考えられる。」とされている
ように(甲B4・45頁),○と放射線被曝との関連性は,少なくとも
高線量被曝においてはほぼ争いのないところであり,このことは,新審
査の方針が「放射線起因性の認められる○」を積極認定の対象疾病とし
ていることや,放射線被曝により粥状動脈硬化が引き起こされる機序に
ついて研究が進められていることからも明らかであって,ウェブ表Bの
○及び虚血性心疾患の分類に係るデータについては,その信頼性を慎重
に検討する必要がある。そして,P34論文は,死亡診断書上の分析の
正確さについて,広いカテゴリー(脳卒中及び心疾患)についてはかな
りよかった(fairlygood)としているのに対し,より細かな疾患の下
位分類については相当悪い(ratherpoor)としており,死亡診断書と
剖検報告書との一致度は,虚血性心疾患では69パーセントにとどまる
とされ,しかも,高血圧性心疾患については,その一致度は22パーセ
ントとかなり低く,高血圧性心疾患に分類されているもののうち相当数
が虚血性心疾患又は○である可能性があるし,また,心不全とは心臓の
機能不全を意味する概念であることから,心不全のカテゴリーには相当
数の○が含まれていると考えるのが自然である(なお,ウェブ表Bによ
れば,高血圧性心疾患に係る1シーベルト当たりの過剰相対リスクは0.
37,心不全については0.22である。)。そうすると,ウェブ表B
の○及び虚血性心疾患に係るデータを数値どおりに捉えて,心疾患のう
ち虚血性心疾患及び○については放射線との関連性がないと結論するこ
とは相当ではないというべきである。したがって,被告の上記主張は採
用することができない。
(ウ)さらに,被告は,①LSS第12報によると,冠状動脈性心疾患の1
シーベルト当たりの過剰相対リスクは0.06であるが,90パーセン
ト信頼区間の下限値が負(-0.06)となっており,統計学的に有意
な結果ではないとか,②AHS第8報によると,虚血性心疾患全体の1
シーベルト当たりの相対リスクの推定値は1.04であるが,95パー
セント信頼区間の下限が1を下回っており(0.94),○についても,
同相対リスクの推定値は1.11であるが,同信頼区間の下限が1を下
回っている(0.90)から,いずれも数値に信頼できる有意性がない,
などと主張する(なお,例えば95パーセント信頼区間とは,100回
の同一の調査を行い,同一の計算方法を用いた場合,95回はこの信頼
区間の中に母平均値が入るということである。)。
しかし,LSS第12報についてみると,冠状動脈性心疾患の過剰相
対リスク自体は正の値を示している上,心疾患の「その他」(過剰相対
リスク0.17,90パーセント信頼区間0.05~0.31)の中に
は,「心不全」と記載されているものが1787例(55パーセント)
含まれており,その中には○が相当数含まれているとみるのが自然であ
ることも考慮すると,被告の上記主張①の点は,○と放射線被曝との関
連性を否定するには足りないというべきである。
また,AHS第8報についてみると,同報告は,40歳未満で被爆し
た人の○につき有意な二次線量反応関係を認めたとしており,その相対
リスクの95パーセント信頼区間は常に1以上である(1シーベルト当
たりの相対リスク1.25,95パーセント信頼区間1.00~1.6
9)ことからすると,少なくとも原爆投下当時16歳であった原告のよ
うな若年被爆者に関しては,有意な関連性が認められているというべき
である。また,LSS第12報が「追跡調査の経過に伴いより線形の反
応へ移行する」としていることを踏まえると,AHS第8報が二次線量
反応関係としているからといって,直ちに低線量域において関連性がな
いと結論付けることはできないし,仮に二次線量反応関係であるとして
も,全線量域において相対リスクが1を下回っていない以上,しきい値
があるということにはならないはずである。したがって,被告の上記主
張②は採用することができない。
(エ)さらに,被告は,P31論文に対して,①低線量被曝と心血管疾患と
の間に関連性があるとしている訳ではなく,同論文が基にしているLS
S第13報及びAHS第8報も同様である,②高血圧やコレステロール
値についても,被爆者と非被爆者との間の差はごくわずかであって,一
般的に放射線との関連性があるとはいえない,また,炎症マーカーの増
加についても,臨床的に意味のある上昇というようなものではない,な
どと主張する。
①については,確かに,約0.5グレイ(又はシーベルト)以下の低
線量被曝と○との関係については,現在もなお明確な証拠はなく,P3
1論文も低線量被曝との関連性を明確に肯定している訳ではないことは
被告が主張するとおりである。しかし,放射線との関連性を有する疾病
には,しきい値のある確定的影響に係る疾病か,しきい値のない確率的
影響に係る疾病かのいずれかしかないのであり,○については,統計学
的に有意とはいえないものの,これまでに述べた各種知見を総合すれば,
しきい値がない確率的影響に係る疾病と考える方が合理的であることは
前述のとおりである。したがって,被告の上記主張①は採用することが
できない。
②についてみると,P31論文が,「1930年以降に生まれた被爆
者つまり若年被爆者においては,加齢に伴う収縮期血圧および拡張期血
圧経過が,上方に偏位している。」「加齢に伴うコレステロール経過は
全ての被爆時年齢において,被爆者では上方に偏位している。」「CR
P,IL-6,TNF-α,INF-α,赤血球沈降速度などの炎症マ
ーカーが,被曝線量の増加と伴に増えている事が報告されている。」と
していること自体は何ら間違っておらず(甲B4,乙A192,193,
202,弁論の全趣旨),放射線被曝とこれらの数値の上昇との間に一
定の関連性があることは否定し難い。循環器疾患と放射線被曝との関連
性自体,比較的最近になって明らかになってきたものであり,また,放
射線被曝による影響には個人差も大きいことも考慮すると,放射線被曝
による血圧,炎症マーカー等の増加の平均値がそれほど大きな数値では
ないからといって,これにより放射線被曝が循環器疾患(動脈硬化)と
関連していないということにはならない。
しかも,P31論文は,放影研の研究者が長年の研究成果を総合的に
検討分析し発表した最近の論文であり,特に何らかのバイアスがかかっ
ていることもうかがわれないのであって,十分に信頼できる科学的知見
を提示するものというべきである。したがって,P31論文は,放射線
被曝と○との関連性を肯定し,かつ,その機序に関する一つの有力な知
見を示すものであるということができる。被告の上記主張はいずれも採
用することができない。
また,被告は,P32論文についても,原告のような入市被爆者のP
WV値(大動脈脈波速度)が高値であったとするものではないとか,近
距離被爆者のPWV値が高値であったとしても,年齢,血圧,耐糖能と
いった因子の方がはるかにPWV値に影響を及ぼしているとか,CAV
I値(動脈硬化検査)やAPG(指突加速度脈波)に有意な差がみられ
なかったなどと主張する。しかし,これらの被告の主張を考慮しても,
P32が,P33センターにおける被爆者検診の結果及びその報告等を
踏まえて,特に若年男性被爆者の動脈硬化と放射線との関連性を肯定し
ていることは明らかであり,その内容は十分信頼するに足りるものとい
うべきである。被告の上記主張はいずれも採用することができない。
(3)検討
ア放射線起因性について
以上のとおり,○と放射線被曝との間には有意な関連を認めることがで
き,そこに一定のしきい値は存在しないと考えるのが合理的である。そし
て,原告は,前述のとおり,初期放射線には被曝していないものの,広島
原爆投下の翌日にα7港に行き,翌朝まで夜を徹して被爆者の救護活動を
行い,さらに,広島原爆投下3日後には,α1駅で数時間待機した後,α
8駅まで集団で徒歩で移動し,多数の被爆者を列車に乗せ,救護活動をし
ながら,α9駅を通ってα10駅まで行ったというのであり,原告のその
後の身体症状の内容,程度等に照らしても,原告は健康に影響を及ぼす程
度の放射線被曝(特に内部被曝)を受けていた可能性が高いというべきで
ある。加えて,原告が,○,○など放射線被曝との関連性が疑われる疾患
に次々にかかっていることや,原告が放射線被曝の影響が大きいとされる
若年時(当時16歳)に被爆していること,新審査の方針によれば,「放
射線起因性が認められる○」が積極認定の対象疾病とされているところ,
原告が「原爆投下より約100時間以内に爆心地から約2km以内に入市
した者」に該当することなども併せ考慮すれば,後述する他の危険因子の
存在を考慮しても,原告の申請疾病である○は原爆放射線に起因する,す
なわち放射線起因性があると認めるのが相当である。
イ○の危険因子について
(ア)被告は,原告の○は生活習慣病等に起因する高血圧や喫煙の生活習慣
等により発症したものと考えるのが合理的であると主張し,その危険因
子として,①加齢(発症当時73歳),②喫煙習慣,③○,④○,⑤ス
トレス,⑥性(男性),性格(几帳面,負けず嫌い),⑦家族歴(母親
が30代後半に心臓疾患に罹患)等を挙げる。
(イ)なるほど,被告が主張するとおり,これらはいずれも動脈硬化及びこ
れを原因とする○の危険因子であると認められる(乙A504~511,
弁論の全趣旨)。しかし,AHS第8報は,○につき有意な二次線量反
応を認めた上で,喫煙や飲酒で調整しても結果は変わらなかったとして
おり(乙A162),また,P34論文は,心疾患の放射線リスクを認
めた上で,喫煙,飲酒,教育,職業,肥満,糖尿病等の交絡因子を調整
しても,心疾患の放射線リスクの評価にほとんど影響を及ぼさなかった
としている(甲B3,乙A188)。これらの知見を踏まえれば,喫煙,
肥満等の危険因子があるからといって,動脈硬化やこれを原因とする○
と放射線被曝との間の関連性が直ちに否定される訳ではないというべき
である。
(ウ)○(③)及び○(④)については,P31論文において,「動脈硬化
あるいは心・血管疾患の危険因子である高血圧,○および炎症にも放射
線被曝が関与している事も明らかになり,これらを介して動脈硬化が促
進され心・血管疾患の増加に繋がったと考えられる。」(甲B4)とさ
れており,また,P34論文のウェブ表Bでは,高血圧性心疾患の過剰
相対リスクが0.37(P値0.009,95パーセント信頼区間0.
08~0.72)とされているなど(甲B3),高血圧及び○自体が放
射線被曝による影響を受けている可能性が否定し難いのであるから,こ
れらの危険因子が存在することをもって,○と放射線被曝との関連性を
否定することは困難である。しかも,前記認定事実によれば,○発症時
の血圧は172/107と高値ではあるが,○を発症した昭和62年頃
から既に○であったとはいい難く(なお,昭和62年8月当時の血圧は
110/64である(乙B14・15頁)),前記認定によれば,○の
ため治療を受けていた期間は約2年間とそれほど長くはないのであって,
これが○の発症に大きく影響したとは言い難い(証人P24)。また,
○については,○による入院先の診療録に,かつて指摘されたことがあ
る旨の記載があるものの,その数値等は不明である上,○の治療を受け
ていたことは証拠上特にうかがわれないし,また,○発症時の検査によ
れば,原告の総コレステロール値は162,LDLコレステロール値1
03であって,○(高コレステロール血症)の基準値である総コレステ
ロール値220,LDLコレステロール値140には達しておらず,い
ずれも適正値である(乙A504,505参照)。また,原告は,糖尿
病には罹患しておらず,また,身長157センチメートル,体重55キ
ログラムとすると,BMI値は約22.3となるところ,これは肥満の
指標となるBMI値25を超えておらず,動脈硬化の危険因子である肥
満があるともいえない。
(エ)喫煙習慣(②)についてみると,原告は,20歳頃から○を発症する
68歳頃までは1日20本程度,多いときはそれ以上のたばこを吸って
いたと認められ,喫煙習慣を有する者が虚血性心疾患を発症する率は,
1日当たりの喫煙本数が15~34本の者では非喫煙者の3倍であると
されていること(乙A510)などに照らしても,このような原告の喫
煙習慣が,○の発症に寄与した可能性は高いといわざるを得ない。しか
し,前述のとおり,AHS第8報やP34論文は,喫煙により心疾患の
放射線リスクの評価にほとんど影響しなかったことを報告しており,喫
煙習慣があることから直ちに動脈硬化やこれを原因とする○と放射線被
曝との間の関連性が直ちに否定される訳ではないというべきであるし,
原告は,○を発症した平成9年からは喫煙本数を減らし,平成13年か
らは禁煙をしていたというのであり,禁煙1年後から○の発生率は低下
し,禁煙後2年以降で非喫煙者と変わらなくなるという指摘もあること
(甲B6,8)を考慮すると,喫煙習慣の危険因子を過大視することは
相当でないというべきである。
(オ)以上によれば,原告の喫煙習慣等の危険因子が○の発症に影響してい
ることは否定できないとしても,それをもって,原爆放射線の影響まで
否定されるものではなく,むしろ,原告の原爆放射線被曝と喫煙習慣等
の危険因子とが相まって,○の発症に寄与したものと考えるのが自然か
つ合理的であるから,被告の上記主張は採用することができない。
3要医療性について
前記認定事実によれば,原告は,平成14年4月に○を発症した後,その再
発を防ぐため,血管拡張剤などの投薬治療を受けているというのであるから,
申請疾病について要医療性の要件を満たしていたと認められる。
4小括
以上のとおり,原告は,本件却下処分当時,原爆症認定申請に係る○につい
て放射線起因性及び要医療性の要件を満たしていたものと認められるから,本
件却下処分は違法というべきである。
第3国家賠償請求の成否(争点③)
1国家賠償法上の違法性(実体的違法)について
(1)国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が
個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加え
たときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するもの
であり,原爆症認定申請に対する却下処分が放射線起因性又は要医療性の要
件の具備の有無に関する判断を誤ったため違法であり,これによって申請者
の権利ないし利益を害するところがあったとしても,そのことから直ちに国
家賠償法1条1項にいう違法があったとの評価を受けるものではなく,被爆
者援護法11条1項に基づく認定に関する権限を有する厚生労働大臣が職務
上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく漫然と当該却下処分をしたと認
め得るような事情がある場合に限り,違法の評価を受けるものと解するのが
相当である(最判平成5年3月11日・民集47巻4号2863頁参照)。
ところで,厚生労働大臣が原爆症認定を行うに当たっては,申請疾病が原
子爆弾の傷害作用に起因すること又は起因しないことが明らかである場合を
除き,疾病・障害認定審査会の意見を聴かなければならないとされている
(同法11条2項,被爆者援護法施行令9条)。これは,原爆症認定の判断
が専門的分野に属するものであることから,厚生労働大臣が処分をするにあ
たっては,原則として,必要な専門的知識経験を有する諮問機関の意見を聴
くこととし,その処分の内容を適正ならしめる趣旨に出たものであると解さ
れ,厚生労働大臣は,特段の合理的理由がない限り,その意見を尊重すべき
ことが要請されているものと解される。そして,同審査会には,被爆者援護
法の規定に基づき疾病・障害認定審査会の権限に属させられた事項を処理す
る分科会として,医療分科会を置くこととされ(疾病・認定審査会令5条1
項),同分科会に属すべき委員及び臨時委員等は,厚生労働大臣が指名する
ものとされているところ(同条2項),医療分科会の委員及び臨時委員は,
放射線科学者,被爆者医療に従事している医学関係者,内科や外科等の専門
的医師といった,疾病等の放射線起因性について高い識見と豊かな学問的知
見を備えた者により構成されていることが認められる(弁論の全趣旨)。以
上に鑑みれば,厚生労働大臣が原爆症認定申請につき疾病・障害認定審査会
の意見を聞き,その意見に従って却下処分を行った場合においては,その意
見が関係資料に照らし明らかに誤りであるなど,答申された意見を尊重すべ
きではない特段の事情が存在し,厚生労働大臣がこれを知りながら漫然とそ
の意見に従い却下処分をしたと認め得るような場合に限り,職務上通常尽く
すべき注意義務を尽くすことなく漫然と当該却下処分をしたものとして,国
家賠償法上違法の評価を受けると解するのが相当である。
以上を前提として検討するに,本件却下処分については,厚生労働大臣が
疾病・障害認定審査会の意見を聴いた上で,その意見に従ってされたもので
あると認められるところ(乙B9,弁論の全趣旨),その意見が関係資料に
照らし明らかに誤りであるなど,答申された意見を尊重すべきではない特段
の事情が存在したとまでは認められず,厚生労働大臣が本件却下処分を行っ
たことにつき,国家賠償法上違法であるとは認められない。
(2)この点,原告は,新審査の方針によれば,原告の申請疾病は積極認定の対
象となることが明らかであるにもかかわらず,厚生労働大臣は「格段に反対
すべき事由」がないのに本件却下処分を行ったものであり,本件却下処分は
国家賠償法上違法であると主張する。
しかし,これまでに認定説示したところに照らせば,原告の○が「放射線
起因性が認められる○」に該当するかどうかは,原告が相当程度の放射線被
曝を受けたかどうかの事実認定も含め,慎重な検討を必要とするものであっ
て,関係資料に照らし明らかであったとまではいえない。
したがって,いわゆる総合認定の場合との違いが明らかではない上記文言
の当否はともかくとして,原告の○が「放射線起因性が認められる○」に該
当することが明らかであったとまではいえないから,原告の上記主張は,そ
の前提を誤るものであって採用することができない。
2国家賠償法上の違法性(手続的違法)について
(1)行政手続法5条1項違反について
原告は,厚生労働大臣は,行政手続法5条1項の審査基準を定めることな
く本件却下処分を行っているから,本件却下処分については同項違反の違法
があり,国家賠償法上も違法であると主張する。
ところで,行政手続法5条1項は,行政庁は,審査基準を定めるものとす
ると規定し,同条2項は,行政庁は,審査基準を定めるに当たっては,許認
可等の性質に照らしてできる限り具体的なものとしなければならないと規定
し,同条3項は,行政庁は,行政上特別の支障があるときを除き,法令によ
り申請の提出先とされている機関の事務所における備付けその他の適当な方
法により審査基準を公にしておかなければならないと規定し,行政庁に対し
て審査基準の設定,具体化及び公表を義務付けている。その趣旨は,行政庁
による法令の解釈適用に際しての裁量行使を公正なものとし,行政過程の透
明性の向上を図ろうというものであり,申請をしようとする者は,それによ
って許認可等を受けることができるかどうかについて,一定の予見可能性を
得ることができることになる。このような同法5条の趣旨に鑑みると,審査
基準の設定が不要であり又は不可能であるような場合にまで,審査基準の設
定を行政庁に義務付けるものではないというべきであり,しかも,同条1項
が「ものとする」という努力義務を課す場合の表現を用いていることも考慮
すると,許認可等の性質上,個々の申請について個別具体的な判断をせざる
を得ないものであって,法令の定め以上に具体的な基準を定めることが困難
である場合には,行政庁は,審査基準を定めることを要しないと解するのが
相当である。
そうであるところ,被爆者援護法11条1項の規定する原爆症認定の申請
がされた場合には,同項に基づく処分においては,同法10条1項所定の放
射線起因性及び要医療性の有無について判断がされるところ,その判断は,
医学的知見や疫学的知見などを踏まえた高度に科学的・専門的なものであり,
その性質上,個々の申請について個別具体的な判断をせざるを得ないもので
あって,同条項の規定以上に具体的な基準を定めることは困難であると認め
られる。したがって,同法11条1項の原爆症認定については,審査基準を
定めることを要しないものと解するのが相当である。
したがって,本件却下処分は,行政手続法5条1項に違反したものとはい
えず,そうである以上,国家賠償法1条1項にいう違法性があったといえな
いことも明らかであるから,原告の上記主張は採用することができない。
(2)行政手続法8条違反について
原告は,本件却下処分は,具体的な理由が示されることなくされたもので
あるから,行政手続法8条に違反した違法なものであり,国家賠償法上も違
法である旨主張する。
ところで,行政手続法8条1項本文が,許認可等の申請に対して行政庁が
拒否処分をする場合は,申請者に対し,同時に,当該処分の理由を示さなけ
ればならないとしているのは,行政庁の判断の慎重と合理性を担保してその
恣意を抑制するとともに,処分の理由を申請者に知らせて不服申立てのため
の便宜を図ることにあると解される。そして,同項本文に基づいてどの程度
の理由を提示すべきかは,上記のような同項本文の趣旨に照らし,当該処分
の根拠法令の規定内容,当該処分に係る処分基準の存否及び内容並びに公表
の有無,当該処分の性質及び内容,当該処分の原因となる事実関係の内容等
を総合考慮してこれを決定すべきである(行政手続法14条1項に係る最判
平成23年6月7日・民集65巻4号2081頁参照)。
この見地に立って被爆者援護法11条1項に基づく原爆症認定申請に対す
る却下処分について見ると,申請者は,被爆者健康手帳交付申請の際に,被
爆者援護法1条各号のいずれかに該当する事実(被爆状況)を認めることが
できる書類等を添付しなければならず(被爆者援護法施行規則1条),また,
原爆症認定申請の際には,自ら申請疾患を特定し,その病状・病歴等を認定
申請書に記載した上,医師の意見書及び当該疾病等に係る検査成績を記載し
た書類を添付してこれを厚生労働大臣に提出することが求められているから
(同規則12条),原爆症認定申請が却下された場合,当該申請者において,
その却下処分の基礎となった事実関係は明らかということができる。また,
これを審査する医療分科会においては,本件却下処分当時,新審査の方針を
判断の目安として用いていたところ,この新審査の方針は厚生労働省のホー
ムページを通じ一般に公開されていたものであり(弁論の全趣旨),原告に
おいて,その判断の目安を容易に知り得たということができる。しかも,原
爆症認定における判断対象は,被爆者援護法10条1項の定める放射線起因
性及び要医療性であるところ,これらの処分要件該当性の判断は,医学的知
見や疫学的知見などを踏まえた高度に専門的なものである上,放射線起因性
については,申請疾病等に関する科学的疫学的知見に加え,被曝線量,既往
歴,環境因子,生活歴等の総合的な判断を要求されるものであり,その性質
上,その判断の過程を詳細に説明することには困難が伴うものである。
以上の点に加え,原爆症認定はその要件効果において裁量の余地はなく,
また,厚生労働大臣が原爆症認定を行うに当たっては,申請疾病等が原子爆
弾の傷害作用に起因すること又は起因しないことが明らかである場合を除き,
疾病・障害認定審査会(医療分科会)の意見を聴かなければならないとされ
ることにより,行政庁の判断の慎重と合理性を担保してその恣意を抑制する
ための制度的手当があることも考慮すれば,原爆症認定申請却下処分におい
ては,当該却下処分に至る判断の過程やその根拠となる科学的疫学的知見ま
で詳細に摘示しなければならないものではなく,医療分科会に諮問された場
合にはその審議の概要と結果のほか,放射線起因性と要医療性のいずれの要
件を欠くものとされたかを明らかにすれば足りると解するのが相当であり,
そのように解しても,行政手続法8条1項本文の上記の趣旨には反しないと
いうべきである。
本件では,厚生労働大臣作成の本件却下処分の通知書(乙B9)には,原
爆症認定を受けるために必要とされる被爆者援護法10条1項の要件が具体
的に摘示された上,疾病・障害認定審査会において,申請書類から得られた
被爆時の状況,申請時に至るまでの健康状況及び疾病の治療状況等に関する
情報をもとに,これまでに得られた医学的知見や経験則等に照らし総合的に
検討されたが,当該疾病については,放射線起因性があるとすることは困難
であると判断され,このような疾病・障害認定審査会の意見を受けて,却下
処分を行った旨が記載されている。このような通知書の理由の記載からは,
原爆症認定の要件が示された上で,医療分科会における審議の概要と結果の
ほか,放射線起因性を欠くものとされたことが明らかにされており,本件却
下処分の通知書の理由の記載は,行政手続法8条1項本文に反するものでは
ないというべきである。
したがって,本件却下処分は,行政手続法8条1項に違反したものとは認
められず,そうである以上,国家賠償法1条1項にいう違法があったといえ
ないことも明らかであるから,原告の上記主張は採用することができない。
3小括
以上によれば,原告の被告に対する国家賠償法1条1項に基づく損害賠償請
求は,その余の点について判断するまでもなく,理由がない。
第4結論
以上のとおりであるから,原告の本訴請求のうち,本件却下処分の取消しを求
める請求は理由があるから認容し,被告に対し損害賠償を求める請求は理由がな
いから棄却することとして,主文のとおり判決する。
大阪地方裁判所第2民事部
裁判長裁判官山田明
裁判官徳地淳
裁判官藤根桃世

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