弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     原判決を破棄する。
     本件を東京高等裁判所に差戻す。
         理    由
 東京高等検察庁検事長岸本義広の上告趣意第一点は判例違反を主張するけれども、
引用の判例はいずれも事案を異にし本件に適切でないから、論旨は前提を欠き、同
第二点は単なる法令違反、事実誤認の主張をいでず、いずれも刑訴四〇五条の上告
理由に当らない。
 しかし、刑訴四一一条により職権をもつて原判決に法令違反がないか否かについ
て審査する。
 所論の点に関する原判決の事実認定によれば、
 被告人は昭和三一年五月七日午後一一時三〇分頃判示A(明治四五年二月一日生)
方居宅において就寝中の同女の顔面を目掛けて(かねて同夜一升壜より移しかえて
鍋に容れておいた)濃硫酸約五合を浴せかけ、よつて同女に対し治療数ケ月を要す
る頭部、顔面、頸部、前胸部、背部、両上下肢の硫酸腐蝕傷及び両眼の角膜潰瘍の
傷害を負わせたものである、そしてAは前示傷害を受けるや翌八日午前四時頃判示
成毛医師の治療を受け、次いで翌九日B外科病院に入院治療の結果、同年八月一八
日頃には上下肢、前胸部、右顔面頂部、右頸部の潰瘍も縮少し、総体的にみて約八
割以上は治癒していたところ、同月二四日に至り食欲不振発熱三七度八分となり左
呼吸音減弱し胸膜炎と診断され、同月二六日さらに循環機能不全と診断され、同月
二九日胸痛を訴え呼吸困難となり胸部X線撮影の結果左胸膜炎の陰影が認められた
ので循環機能不全及び胸膜炎に対する内科医C医師の治療を受けたが、同八月三一
日胸内苦悶を訴え一般状態悪化し遂に同日午前九時四五分死亡するに至つたもので
ある、というのであり、
 原判決は、これに続く右傷害と死亡との間の因果関係の存否に関する認定と判断
において、(1)Aの直接の死因は左胸膜炎に基づく循環機能不全であつた、(2)
同女の左胸膜炎は結核性のものと認められ、硫酸腐蝕傷治療途上における下顎部の
変化による栄養障碍、長期間病臥による全身衰弱及び精神的打撃等はその誘因と考
えられる、とした後、(3)「原審Dの鑑定書及び証言によると、結核性胸膜炎は
結核菌の侵入によつて起るもので硫酸腐蝕傷を受けた者が結核性胸膜炎にかかり循
環機能不全を起すことは極めて稀有の事例に属することが認められる。」として被
告人の判示所為とAの死亡との間の因果関係の存在を否定するのであるが、右鑑定
人Dに対する鑑定事項は、単に一般的に「昭和三一年五月七日硫酸腐蝕傷を受けた
患者がその症痕形成において約八割以上治癒した場合、同年八月二九日頃に至り右
硫酸腐蝕傷に基因して結核性胸膜炎による循環機能不全を発病する場合ありや、若
しありとすれば斯る場合は稀有の事例に属するや。」というのであつて、Aの硫酸
腐蝕傷の部位、程度等の状態についても、また治癒の経過、程度、治療中の健康状
態等についても何ら示すところがなかつたため、その鑑定結果は「硫酸腐蝕傷を受
けた人が結核性胸膜炎にかかり循環機能不全をおこすことは極めて稀れにある。し
かし、結核性胸膜炎は結核菌の侵入によつておこるものであつて、硫酸腐蝕傷と直
接因果関係があるものではない。」との一般的判断のみを示したものと解される。
すなわち、この鑑定は、何ら具体的に、本件Aの硫酸腐蝕傷治療経過、治療途上に
おける下顎部の変化による栄養障碍(第一、二審判決は特に詳しく認定しないが、
検察官に対する医師Eの供述調書によれば、同女の口許は右へ引張られ、歯列が上
下約一糎位くいちがい開口不十分になり、正中線において口を開閉する際最大約二・
八糎しか開かず咀嚼も思うようにできなくなり、半流動食又は極くやわらかい物し
か食べられなくなつた、という。)、長期病臥による全身衰弱及び精神的打撃等の
具体的事情が直接又は間接に右結核性胸膜炎ないし循環機能不全に影響を及ぼした
か否か、また、これに影響を及ぼすことは通常ありうることか否か、については鑑
定するところがないものであるのに、原判決が前示一般的判断の部分のみを採り上
げて本件具体的事実関係における因果関係否定の資料としたのは右鑑定の趣旨を正
解せず、証拠理由不備の違法あるものといわねばならない。
 そして、右D鑑定書は傍論として、本件具体的関係について言及し「本鑑定例で
は、硫酸腐蝕傷は約八割以上治癒しても、硫酸腐蝕傷にもとづく合併症として骨髄
炎、食慾不振、瘢痕による摂食困難などを併発しておる。また、硫酸腐蝕傷の範囲
が、全身皮膚面積の三分の一以上にわたつているなどの点からみて、恐らく火傷の
ときにおこると同じような退行性の変化が、心臓、肝臓、腎臓などの重要臓器にお
こつていたものと思われる。さらに、傷面より体液の滲出があつて、水分欠乏、低
蛋白血症などもあつたことと想像せられる。このように全身状態が悪くなつている
ときに、結核性胸膜炎を併発するようなことがあれば、単独の結核性胸膜炎のとき
よりも循環機能不全は起り易いと考えられる。」といつている。
 当裁判所はこの鑑定書記載部分を採用すべきや否やを別問題として、被告人が判
示のとおりAに対し濃硫酸を浴せかけ、判示の部位程度に硫酸腐蝕傷その他の傷害
を与えた結果、同女は判示の経過で判示の頃には未だ二割足らずは治癒しておらず、
判示八月二四日に至り、胸膜炎、同月二六日循環機能不全を診断し、同月三一日一
般状態悪化して死亡するに至つたという判示事実関係において、被告人の所為と同
女の死亡との間に刑法上の因果関係があつたか否かを判断するには、先ずもつて、
Aは右硫酸腐蝕傷に基づく合併症として他の何らかの疾病を併発し或いは硫酸腐蝕
傷の範囲が広かつたこと等により重要臓器が害された等のため全身状態が悪くなつ
ていたことはなかつたか否か、かようなことがあつたとすれば、そのために同女は
単独の結核性胸膜炎のときよりも循環機能不全を起し易い関係にあつたか否かの点
を厳格な証拠に基いて確定しなければならない筋合であると思料する。
 以上の理由で、原判決には証拠理由不備の違法があり、右違法はこれを破棄しな
ければ著しく正義に反するものと認める。
 よつて刑訴四一一条一号により原判決を破棄し更に審理をなさしめるためこれを
原裁判所に差し戻すべきものとし、同四一三条本文により主文のとおり判決する。
 検察官 田中万一公判出席
  昭和三七年八月二一日
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    垂   水   克   己
            裁判官    河   村   又   介
            裁判官    石   坂   修   一
            裁判官    五 鬼 上   堅   磐
            裁判官    横   田   正   俊

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