弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     本件上告を棄却する。
     上告費用は上告人の負担とする。
         理    由
 上告代理人長井亜歴山(名義)、同野口良光、同雨宮正彦の上告理由について
 一 原判決が本件の具体的な事実関係のもとにおいて上告人の求める本件の訂正
が許されないとした理由は、次のとおりである。
 1 本件特許発明において、特許請求の範囲の項に示され式(化学式は末尾添付)
中の「甲は分枝を有するアルキレン基」との部分は、本件特許発明の構成に欠くこ
とができない事項の一に属するところ、「甲は分枝を有するアルキレン基」なる記
載を「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と訂正することは、前者に「分枝
を有しないアルキレン基」を付加し、それだけ前者(本件特許発明の構成に欠くこ
とができない事項の一)、ひいては特許請求の範囲を拡張することになる。
 2 本件特許発明において、その特許請求の範囲の項中の「甲は分枝を有するア
ルキレン基」なる記載が、当業者であればそのままで「甲は分枝を有することある
アルキレン基」と解される、という事実も認められない。かえつて、「甲は分枝を
有するアルキレン基」としても、発明所期の目的効果を奏しえないものではなく、
ただ、「甲は分枝を有しないアルキレン基」としたときに、よりよい効果を収めう
るにすぎないことからしても、「甲は分枝を有するアルキレン基」を「甲は分枝を
有することあるアルキレン基」と解する以外にないとの見解を採りえないことが明
らかである。
 3 「甲は分枝を有しないアルキレン基」とした方がよりよい効果を奏するもの
とすれば、訂正によりそれを本件特許発明の権利範囲に持ち込むことは、それだけ、
後に至つて第三者の利益についてたやすく保護を薄くし、他方、誤記等の端緒ない
し原因を作り責めを負うべき特許権者を保護することになり、右両者間の利害の権
衡を図ろうとする特許法一二六条二項の趣旨にも副わない結果を生ずる。
 二 原判決が本件において誤記の訂正が許されないとした理由は、右のとおりで
あるが、原判決は、右の説示に先だつて、特許法(以下単に法という)一二六条二
項の趣旨につき一般的に言及するところがあり、論旨は、主として、右の一般的説
示についての論難であるので、以下、上告理由の記載の順序に従つて判断すること
とする。
 1 上告理由一ないし三について
 論旨はまず、原判決が、法一二六条二項は訂正前と訂正後とで特許権の効力の及
ぶ限界に差異を生ずることを許さない趣旨であるとした点を捉えて、原判決の解釈
によれば、同条一項一号の規定はまつたく無意味に帰する、と非難する。
 按ずるに、同条一項一号は、特許請求の範囲の減縮を目的とする明細書の訂正を
可能とするが、特許請求の範囲の減縮は当然に特許権の効力範囲の変動を齎すもの
であるから、一般に、同条二項の趣旨が訂正前と訂正後とで特許権の効力の及ぶ限
界に差異を生ずることを許さない点にある、とした原判決の説示を文字どおりに読
むと、同条一項一号が無意味となることは、所論のとおりである。しかし、本件は
誤認の訂正(同項二号)に関する事案であつて、右の説示も、実は本件の事案に即
してなされたものであることを窺うに難くなく、したがつて、原判決の当否は、必
ずしも、右の一般的に立言された説示自体の当否によつて決せられるものではない。
 論旨は、法一二六条二項の解釈にあたり、そこにいう「実質」とこれに対するも
のとしての「形式」との各領域を想定して、訂正の結果変動を生じうる事項として
考えられる(イ)特許請求の範囲の記載自体、(ロ)その記載から帰結される特許
権の効力範囲、(ハ)発明の内容・思想の同一性の三者につき、そのいずれを「形
式」の領域に属せしめ、また、そのいずれを「実質」の領域に属せしめるかによつ
て、訂正の許否を決すべきものとし、右三者のうち、(イ)が形式、(ハ)が実質
の領域に属することはまず疑いを容れず、(ロ)ついては、同条一項は、特許請求
の範囲の減縮(特許請求の範囲の記載から帰結される特許権の効力範囲の変動)を
訂正可能なもの、すなわち「形式」の領域に属するものとして、まさに同条二項の
「実質上」の変更と対置している旨を主張する。
 しかしながら、右にいう実質と形式とはたしかに対立する概念であるが、同条二
項の解釈問題における両者の関係は、一方に属するものは他方に属しないというよ
うに、截然と相互に無関係に区分されうるものではなく、特許請求の範囲を実質的
に拡張または変更するものでないかぎり、これを形式的に拡張または変更すること
も許されるという意味での、相関関係にあることが明らかである。そして、特許請
求の範囲の減縮を目的とする場合においても、法は、これをつねに訂正可能とする
のではなく、「実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更するものであつてはなら
ない」という制限のもとにおいてのみその訂正を許容するのである。したがつて、
同条一項一号の規定を根拠として、特許権の効力範囲の変動が齎される場合であつ
てもつねに訂正が許されるべきである、とする論旨の理由のないことが明らかであ
る。
 2 上告理由四、五について
 論旨は、実質上特許請求の範囲を拡張または変更するものであるか否かの判断は、
特許請求の範囲の項にとどまらず明細書全体の記載を基準とし、あるいはその記載
事項から認定されうる発明の基本的思想の同一性を基準としてなされるべきである、
と主張する。
 しかしながら、法は、特許出願に際し願書に添附すべき明細書の「特許請求の範
囲には、発明の詳細な説明に記載した発明の構成に欠くことができない事項のみを
記載しなければならない」(三六条五項)ものとし、また、「特許発明の技術的範
囲は、願書に添附した明細書の特許請求の範囲の記載に基いて定めなければならな
い」(七〇条)ものとするのであつて、明細書中において特許請求の範囲の項の占
める重要性は、とうてい発明の詳細な説明の項または図面等と同一に論ずることは
できない。すなわち、特許請求の範囲は、ほんらい明細書において、対世的な絶対
権たる特許権の効力範囲を明確にするものであるからこそ、前記のように、特許発
明の技術的範囲を確定するための基準とされるのであつて、法一二六条二項にいう
「実質上特許請求の範囲を拡張し、又は変更するもの」であるか否かの判断は、も
とより、明細書中の特許請求の範囲の項の記載を基準としてなされるべく、所論の
ように、明細書全体の記載を基準としてなされるべきものとする見解は、とうてい
採用し難いのである。また、発明の基本的思想の同一性が失われる場合に、これが
特許請求の範囲の実質上の変更にあたるとして訂正の許されえないことは勿論であ
るが、同条二項にいう実質上の拡張または変更にあたる場合を、ひとりこれにとど
まるものということはできないのである。
 三 おもうに、訂正の審判が確定したときは、訂正の効果は出願の当初に遡つて
生じ(法一二八条)、しかも、訂正された明細書または図面に基づく特許権の効力
は、当業者その他不特定多数の一般第三者に及ぶものであるから、訂正の許否の判
断はとくに慎重でなければならないのが当然である。
 原審の確定事実に照らして本件を観るのに、上告人が訂正を求める「甲は分枝を
有するアルキレン基」との記載は、特許請求の範囲の項中の本件特許発明の構成に
欠くことができない事項の一に属するものであつて、これが「甲は分枝を有するこ
とあるアルキレン基」の誤記であることは当事者間において争いのないところであ
るとはいえ、本件における特許請求の範囲の項に示された式(化学式は末尾添付)
中の「甲は分枝を有するアルキレン基」とする記載は、それ自体きわめて明瞭で、
明細書中の他の項の記載等を参酌しなければ理解しえない性質のものではなく、ま
た、それが誤記であるにもかかわらず、「甲は分枝を有するアルキレン基」という
記載のままでも発明所期の目的効果が失われるわけではなく、当業者であれば何び
ともその誤記であることに気付いて、「甲は分枝を有することあるアルキレン基」
の趣旨に理解するのが当然であるとはいえないというのである。これによると、前
記の「甲は分枝を有するアルキレン基」との記載は、上告人の立場からすれば誤記
であることが明かであるとしても、一般第三者との関係からすれば、とうていこれ
を同一に論ずることができず、けつきよく、本件特許発明の詳細な説明の項中にそ
の趣旨を表示された「甲は分枝を有するアルキレン基」と「甲は分枝を有しないア
ルキレン基」との両者のうち、前者のみを記載したのが本件特許請求の範囲にほか
ならないのである。
 以上説示するところによれば、本件の場合、特許請求の範囲の「甲は分枝を有す
るアルキレン基」との記載を「甲は分枝を有することあるアルキレン基」と訂正す
ることは、形式上特許請求の範囲を拡張するものであることは勿論、本件明細書中
に記載された特許請求の範囲の表示を信頼する一般第三者の利益を害することにな
るものであつて、実質上特許請求の範囲を拡張するものというべく、法一二六条二
項の許容しないところといわなければならない。したがつて、これと結論を同じく
する原判決は相当であつて、諭旨はすべて理由がない。
 よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官
全員の一致で、主文のとおり判決する。
     最高裁判所第一小法廷
            裁判官    大   隅   健 一 郎
            裁判官    藤   林   益   三
            裁判官    下   田   武   三
            裁判官    岸       盛   一
 裁判長裁判官岩田誠は退官につき署名捺印することができない。
            裁判官    大   隅   健 一 郎

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