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平成14年(ネ)第287号 損害賠償等請求控訴事件(原審・京都地方裁判所平成
11年(ワ)第111号)
判決
控訴人(第1審原告)  A
訴訟代理人弁護士  井 上 二 郎
被控訴人(第1審被告)  B
被控訴人(第1審被告)      C
被控訴人ら訴訟代理人弁護士   羽 倉 佐知子
同                岡 山 未央子
主文
1 本件控訴をいずれも棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人らは,下記作品を複製,出版又は頒布してはならない。
         記
  「戯曲『コルチャック先生』ある旅立ち」と題する戯曲(著者を被控訴人
B,発行者を被控訴人C,発行所を文芸遊人社とする,平成7年8月1日付出版に
係るもの)
3 被控訴人らは,控訴人に対し,各自1000万円及びこれに対する被控訴人
B(以下「被控訴人B」という。)については平成11年1月28日から,被控訴
人C(以下「被控訴人C」という。)については平成11年1月29日から各支払
済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
   事案の概要は,原判決「事実及び理由」中の「第2 事案の概要」(2頁5
行目から3頁22行目まで)のとおりであるから,これを引用する。
 ただし,原判決2頁7行目,3頁19行目,同24ないし25行目,4頁1
行目の各「個々の翻訳」を各「個々の対応する該当部分」と,同7行目の「翻訳」
を「翻訳の複製権侵害」,「200頁」を「199~200頁」とそれぞれ改め
る。
第3 争点に関する当事者の主張
 次に当審における当事者の主張を付加するほか,原判決「事実及び理由」中
の「第3 争点に関する当事者の主張」(3頁24行目から21頁17行目まで)
のとおりであるから,これを引用する。
1 争点(1)(本件戯曲は原判決摘示の原告著作(以下「控訴人著作」という。)
の翻案に当たるか。また,本件戯曲中の個々の対応する該当部分が控訴人著作中の
翻訳の複製権侵害に当たるか。)について
  (控訴人の主張)
(1) コルチャックの生涯は,次のように約20年ずつの概ね3期と,最後の3
年に区分できる。
ア 1878年~1898年(出生から医学部入学まで)資本主義批判・社
会改革。教育改革を夢見た青少年時代。
イ 1898年~1918年(医学生からロシア革命を経てポーランド独立
まで)社会主義の実現とポーランド独立を目指して戦った時代ー孤児院(ホーム)
の草創期
ウ 1918年~1939年(両世界大戦間)ポーランド独立後,ナショナ
リズム,反ユダヤ主義,ナチズムの狭間で,政治的思想的にも最も困難な時代,し
かし,コルチャックにとって二つの孤児院を創立し夢と実り多き時代
エ そして,1939年~1942年8月(ドイツ軍ポーランド侵攻,第2
次世界大戦勃発からワルシャワゲットー・トレブリンカでの死まで)
 控訴人著作は,上記アないしエを描いているが,このうちアないしウは,
いわばクライマックスというべきエへの導入部としての意味が大きい。そして,控
訴人著作は,エをコルチャックの思想・実践の核心として位置付けている。ワルシ
ャワゲットーの飢餓地獄の中で子供たちを守るため,人間の尊厳をかけて闘い,吹
きすさぶファシズムの嵐の中,コルチャックは自分だけに差し伸べられた救いの手
を拒んで,子供たちと共にガス室への道を選んだ。そこにファシズム・ナチズムの
本質とコルチャックの子供たちに対する深い愛情と,子供の人間としての尊厳を求
め続けたコルチャックの教育者としての神髄が活写されている。これが控訴人著作
の本質的な特徴である。
 本件戯曲は,まさに控訴人著作のこの本質的な特徴が顕現された部分を戯
曲化しているのである。
(2) 控訴人著作に著されているのは,まさに歴史的事実が中心になっており,
それはノンフィクションであるから当然のことである。だが,歴史的事実の単なる
羅列的描写と,事実の取捨選択,選択に要する感性,書き手の価値判断,評価,歴
史解釈とそれを基にした表現とは,その本質を異にする。後者は,まさに書き手の
思想の表れであり,これこそ書き手の主観の所産による創作にほかならず,これが
著作権の保護対象である。
(3) 仮に本件戯曲の作成に当たり,一部他の文献が使用されたとしても,本件
戯曲の翻案性が払拭されるわけではない。翻案・戯曲化とは,原作をベースとして
舞台化し,ときには原作にない架空の人物や事柄を自由に加えたり,他の参考資料
を一部参考にしたりなどして,観客が原作品をより理解しやすく構成するものだか
らである。また,舞台劇では,劇的効果を高めるために事柄の時間的飛躍を行うこ
とは,翻案・戯曲化の常識的技法である。時間的順序が平板であっては,劇的効果
が薄くなるからである。一般に原作と寸分違わない戯曲はなく,原作のエッセン
ス・本質・核心を基調として,脚本作者によりいろいろな工夫がなされ,脚本作者
はこのようにして原作の地の文に依拠し,ト書き,台詞を作成し,原作の翻案とし
ての二次的著作物を作成するのである。なお,コルチャックの「舞台化作品」は,
ヨーロッパに数多くあるが,すべてワルシャワゲットー以後を中心に描かれている
のであり,この手法は決して本件戯曲の独自性を示すものではない。
(被控訴人らの主張)
 ノンフィクションに書かれる歴史的事実は,歴史的事実の叙述そのものに意
味があるのではなく,歴史的事実の叙述を用いて,書き手の思想,歴史観,解釈,
書き手が訴えたいことを表現することに意味がある。そして,比較対照の作品との
間で,その創作性ある表現それ自体の部分において同一性が認められ,当該作品の
本質的特徴を直接感得できるような場合において,初めて翻案性が認められるので
ある。
 この基準によると,本件戯曲からは控訴人著作の表現上の本質的特徴を直接
感得することはできない。
2 争点(2)(控訴人は被控訴人らに控訴人著作の利用を許諾したか。)について
(被控訴人らの主張)
 控訴人は,利用許諾不存在の根拠として,排他的許諾か単純許諾か,許諾の
範囲はどこまでか,著作権者に支払われる許諾料はどれだけかなどが約定されるの
が常であるにもかかわらず,本件ではそれが明確かつ具体的に約定された証拠がな
いと指摘する。しかし,数年間にわたる控訴人・被控訴人間の膨大な文書のやりと
りの存在に示される当時の両者の親密な関係,それもコルチャックの生涯を日本国
内に知らしめるという共通目標のために共同歩調を取ってきたことに鑑みれば,そ
のような具体的な取り決めが交わされていないのは,むしろ極めて当然なことであ
る。営業行為として出版活動を行っている出版社でさえ,必ずしも著作者との間で
正式な出版権設定契約を交わしていない場合があるのが我が国の著作権の現状であ
る。そうした社会一般の現状の当否はともかく,少なくとも本件においては,当
時,控訴人も被控訴人も営利活動目的などさらさら持ち合わせないままに,いわば
持ち出しで,コルチャックの活動の普及活動に邁進していた。許諾料などの話が出
るはずがない。また,控訴人の翻訳をできる限り使用して,統一した表現で,日本
にコルチャックの言葉を広めようとしたのであるから,そこに「排他的許諾」等と
いう概念の登場するはずもない。それが「単純許諾」であることは当事者間で明白
に合意されていたはずである。控訴人が被控訴人に与えた控訴人著作の使用許諾
は,まさに翻訳部分の使用を含めた包括的許諾である。
  (控訴人の主張)
(1) 被控訴人ら提出のファックスや手紙類のいずれを精査しても,控訴人著作
の利用許諾を明確かつ具体的に示す文言・表現は見当たらない。許諾とは,著作物
の利用を求める者に対し,一定の範囲ないし方法で著作物の利用を認める意思表示
をいうが,許諾の際には排他的許諾ないし単純許諾か,著作権者に支払われる許諾
料はどれだけかなどが約定されるのが常である。
(2) 翻案の許諾は,原作の全部か又はある部分を,いつ,どのように利用する
かを特定して求めるものであるし,許諾者も同様,許諾する場合は,これらを特定
して許諾するものであり,包括的な許諾はあり得ない。
第4 当裁判所の判断
1 争点(1)(本件戯曲は控訴人著作の翻案に当たるか。また,本件戯曲中の個々
の翻訳が控訴人著作中の翻訳の複製権侵害に当たるか。)について
(1) 本件戯曲の翻案性について
ア 言語の著作物の翻案とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の
本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,
新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作
物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為
をいう。そして,ここに同一性を維持しつつ,直接感得することのできる表現上の
本質的な特徴とは,創作性のある表現上の本質的な特徴をいい,思想,感情若しく
はアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性が
ない部分において既存の言語の著作物と同一性を有するにすぎない著作物を創作す
る行為は,翻案には当たらないと解するのが相当である(最高裁判所平成13年6
月28日判決・民集55巻4号837頁参照)。
イ 引用に係る基本的事実関係並びに下記認定・説示中に記載の各書証及び
弁論の全趣旨によれば,次のとおり認められる。
(ア) 全体
a 控訴人著作(甲2)は,コルチャックのほぼ全生涯を対象としてい
るのに対し,本件戯曲(甲1)は,序幕シーン1にコルチャックの幼年時代を取り
上げているほかは,1940年ナチスドイツによりワルシャワに設置されたゲット
ーに,コルチャック(当時62歳)と子供たち及びホームの職員が移住した以降を
対象としている。
b 本件戯曲及び控訴人著作に描かれた1935年以降のコルチャック
の生涯の大枠をみると,①ポーランドの首都ワルシャワにユダヤ人として生まれた
コルチャックは,ワルシャワに二つの孤児院を作ったが,ナチスドイツが台頭し,
反ユダヤ主義が激化したため,それまで担当していたラジオ番組を中止され,ま
た,自らが設立したポーランド人孤児のホームを追われ,ユダヤ人孤児のホームの
運営のみを行うようになった,②その後,ポーランドに侵攻したナチスドイツ軍に
より,ユダヤ人特別居住区のワルシャワ・ゲットーが作られ,コルチャックとその
ホームの子供たちはゲットーに強制移住させられた,③ゲットーでの生活は苛酷な
ものであったが,コルチャックは,子供たちの生活のために,食糧・寄付集めに奔
走しつつ,ホームの自活による生活を守り,ハヌカの祭りを祝い,劇を上演するな
どした,④しかし,ナチスドイツは,ゲットーのユダヤ人をトレブリンカ絶滅収容
所に移送することを開始し,コルチャックとその子供たちにも移送命令が下りた,
⑤コルチャックが子供たちと共に移送用の貨車に乗り込もうとした時,関係者の努
力でコルチャックに対する助命の知らせが届いたが,コルチャックは,自分だけの
助命を受け入れず,子供たちと共に貨車に乗り込んでトレブリンカへ旅立った,と
いうものである。
  そして,コルチャックの客観的人間像が,ポーランドで生育し,ユ
ダヤ人であるために迫害を受け,これに苦悩しつつも,極限状態の中で子供たちと
共に生き,子供たちと共に死の道を選んだ人物として描かれている。
c しかし,控訴人著作においては,基本的に,史実と先行資料及び関
係者の証言を織り混ぜ,それに説明を加えることによって,時代状況やコルチャッ
クの行動,心情,人間関係等を客観的に描き出すという表現方法が採られているの
に対し,本件戯曲は,舞台演劇という性質もあって,コルチャックや周囲の人々の
会話(台詞)によって,時代状況,コルチャックと関係者の人間関係や心情等を描
くという表現方法が採られている。
 また,控訴人著作及び本件戯曲に描かれているコルチャックの生涯
の大枠ないし客観的人物像については,ベティ・j・リフトン著「コルチャック物
語 子供たちの王様」(乙4。以下「リフトン著作」という。)及びアンジェイ・
ワイダ監督の映画「コルチャック先生」(以下「ワイダ映画」という。乙5がその
採録シナリオであり,以下,乙5のページ数で記す。)においても同様にコルチャ
ックの生涯の大枠ないし客観的人物像が描かれているところであって,上記内容,
表現に関する限り,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり,基礎的な
事実として一般に認識されているものと考えられ,上記生涯の大枠ないし客観的人
物像において,控訴人著作のみに見られる表現上の本質的な特徴があるとはいえ
ず,したがって,その同一性もない。
d 登場人物については,控訴人著作では,前記のような叙述の関係
上,実在した人物しか登場せず,しかもその行動は客観的に記述され,コルチャッ
ク以外の関係者の心情が描かれることはほとんどない。これに対して,本件戯曲で
は,控訴人著作にも登場する実在の人物のほかに,リフトン著作には登場するが控
訴人著作には登場しない人物(シムエル,ジーナなど)及び本件戯曲において創作
された人物(ミリアム)なども登場する。
 また,登場人物の呼称については,原判決添付登場人物対照表記載
のとおり,本件戯曲と控訴人著作は同一であるところ,控訴人は,特にコルチャッ
クの本名をヘンルィクと表記する点及びステファに夫人と付けた点に,控訴人著作
の創作性がある旨主張する。しかし,前者は人名の発音表記にすぎず,また,後者
についてもワイダ映画(18頁)で,「ミス・ステファが帰ってきた。」と言う子
供たちに対して,ステファが,「今日からはミセス・ステファよ。女性も私の歳に
なるとミスではないのよ。」と述べる場面があり,ミセスを邦訳すると夫人となる
ことからすると,ステファに夫人を付けたことをもって控訴人著作の創作性を認定
することはできない。
(イ) 序幕シーン1 コルチャック五歳 愛するカナリアの死
a 5歳の少年であったコルチャックが,可愛がっていたカナリアが死
んだとき,管理人の息子から,「カナリアはユダヤ人だから天国にはいけない」な
どと言われたことを通じてユダヤ人であることの暗い宿命を知らされる(本件戯曲
《以下当該表記を省略する。》17頁~21頁。原判決添付別紙「著作対照表」
《以下「著作対照表」という。》1~3頁上欄)。
b コルチャックの幼年時代における,カナリアが死んだときのエピソ
ードは,控訴人著作(20,21頁)に該当する記述があるが,コルチャック
の「GHETTO DIARY」(乙3の1~15。「JANUSZKORCZAKTHEGHETTOYEARS」に
収録。以下「ゲットー日記」という。)の111頁(乙3の3・15)や,リフト
ン著作(20~21頁),ジョセフヒュームJosephHyams「AFIELDOF
BUTTERCUPS」(以下,書名のみで表示する。)の45ないし47頁(乙12の1
0・11・18),マークベルンハイムMarkBernheimの「FATHEROFTHE
ORPHANS」(以下,書名のみで表示する。)の11ないし13頁(乙15の3・4・
11)及びワイダ映画(26頁)にも描かれているものであり(原判決添付別紙
「原告第一準備書面添付「著作対照表」に対する反論」(以下「反論一覧」とい
う。)の番号2参照),コルチャックにとって,このエピソードがユダヤ人問題の
原体験となったことについては,ゲットー日記では「死ーユダヤ人ー地獄。暗黒の
ユダヤ人天国。いろいろ考えなければならないことだ。」として,また,リフトン
著作(21頁)でも「それは彼が決して忘れえなかった啓示の瞬間であった。」と
して触れられて
おり,また,ワイダ映画(26頁)にも触れられているところであって,コルチャ
ックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に認識されてい
るものと考えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が控訴人
著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表現上の
本質的特徴の同一性があるとはいえない。
  また,控訴人著作の上記記述は,ゲットー日記の翻訳といい得る
が,本件戯曲の表現と異なる点があり,本件戯曲の上記部分が複製に該当しないこ
とはいうまでもない。
(ウ) 中間シーン ドキュメンタリー映画上演(5分)
a この場の概要は次のとおりである。
 ヒットラーの反ユダヤ人スピーチ。ドイツ軍ニュールンベルグスタ
ジアムでの大行進。第2次大戦勃発。ユダヤ人弾圧,ワルシャワゲットー建設シー
ンなどのドキュメンタリー映画が抜粋して上映される(22頁)。
b この場面に対応する事項は,控訴人著作にも一部記述があるが,同
記述は歴史的事実を普通に表現したものにすぎず,控訴人著作のみに見られる表現
上の特徴はない。したがって,上記控訴人著作の記述に創作性を認めることはでき
ない。
(エ) シーン2A 一九四〇年秋,ワルシャワ・ゲットーのホーム
a この場の概要は次のとおりである。
① スピーカーから,ユダヤ人に対する各種の制限(ダビデの星の腕
章の着用,強制労働義務,ワルシャワ・ゲットーへの強制移住等)が告知されてい
る(23,24頁。「著作対照表」3,4頁上欄)。
② ゲットー内の新しいホームとして割り当てられた建物に到着した
コルチャックと子供たちが,将来への不安を隠せないながらも,片付けと掃除など
の作業に取りかかる(24~27頁)。
b この場の①でスピーカーから流される布告の内容は,控訴人著作
(145頁)に記述があるが,リフトン著作(262,263,270頁)や「ホ
ロコースト」(乙10。以下,書名のみで表示する。)にも記述され,ワイダ映画
(19頁)でも描写されており(「反論一覧」番号3参照),歴史的事実を普通に
表現したものにすぎず,控訴人著作のみに見られる表現上の特徴はない。したがっ
て,上記控訴人著作の記述に創作性を認めることはできない。
c この場の②で,ゲットー内の新しいホームとして割り当てられた建
物の様子については,控訴人著作(154,156頁)に記述があるものの,上記
建物に到着した際の,コルチャックらの本件戯曲のような具体的やり取りについて
は,控訴人著作にこれに該当ないし類似する記述はない。
(オ) シーン2B 同夜ホームにて
a この場の概要は次のとおりである。
  ゲットー内のホームに移住した最初の夜,コルチャックは,子供た
ちを寝かしつけた後,ステファと語り合う。その中でコルチャックは,ゲットーが
5万人の生活するスペースに50万人を収容したオリであることを述べ,一方,ス
テファは,ラジオでの講義や,ホームで子供の議会,子供の裁判,子供の法典を作
ったことなどコルチャックの各種業績を賞賛する。コルチャックがクロフマルナの
元使用人ザレツキー(控訴人著作でいうザレフスキ)がジャガイモをゲットーに届
けてくれると喜んでいるのに対し,ステファがポーランド人であるザレツキーを疑
うようなことを言う。これに対し,コルチャックは,ポーランド人とユダヤ人を分
断しようとするナチスの策にはまってはいけないと諌め,コルチャックがポーラン
ド人として4度の戦争と3度の革命に参加したこと,ドイツ軍侵入の際は300ズ
ウォティの高い金で買ったポーランド軍の軍服を着用して救援活動をし,ラジオ放
送でワルシャワ防衛のアピールをしたことを述べる(28~37頁,「著作対照
表」4,5頁上欄)。
b この場の,子供たちを寝かしつけた後のコルチャックとステファの
語り合いについては,控訴人著作には記述がなく,むしろワイダ映画(21頁)に
極めて類似するシーンがある。しかし,本件戯曲でコルチャックとステファが語り
合う内容については,ワイダ映画とも相当に異なっている。そして,コルチャック
の業績や,ポーランド軍の軍服を購入し着用したこと,コルチャックが4度の戦争
と3度の革命に参加したことなどは,いずれも控訴人著作(8,143,146
頁)に記述があるものの,リフトン著作(257頁)やマイケル・ベーレンバウム
「ホロコースト全史」(乙20。以下,書名のみで表示する。)の168,169
頁,「Document」(乙36,37の2。「JANUSZKORCZAKTHEGHETTOYEARS」に収
録。)の217,218頁にも紹介されている(「反論一覧」番号5参照)もので
あり,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般
に認識されているものと考えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表
現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
(カ) シーン3 ゲットーの街路地
a この場面の概要は,次のとおりである。
  ザレツキーが馬車に積んだジャガイモをゲットーに持ち込もうとし
て,ゲシュタポに没収される。それを聞いたコルチャックがゲシュタポに赴き,軍
曹に抗議したが,逆に暴行を受けて逮捕される。事件のことをザレツキーから聞い
たステファは,ザレツキーを疑ったことを恥じる(38~46頁。「著作対照表」
5頁上欄)。
b ゲットーへの移住の際に,ジャガイモを積んだ馬車がドイツ軍に没
収されたこと,それを聞いて抗議に赴いたコルチャックが逆に暴行され逮捕された
ことについては,控訴人著作(154頁)に記述がある(ただし,控訴人著作で
は,ジャガイモの搬入をしたのはザレツキーではなく子供たちである。)が,リフ
トン著作(276,277頁)や「AFIELDOFBUTTERCUPS」(91,92頁。乙1
2の12・13・18),YithakPerlisの「FinalChapter」(40頁。乙36,
37の1。「JANUSZKORCZAKTHEGHETTOYEARS」に収録。以下,書名のみで表示す
る。)にも記述され(「反論一覧」番号6参照),ワイダ映画(19頁)でも具体
的に描写されており,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり,基礎的
な事実として一般に認識されているものと考えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表
現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
むしろ,本件戯曲におけるコルチャックに対する暴行及び逮捕のシ
ーンは,リフトン著作(276頁)及びワイダ映画の方が,会話の形でより具体的
に描写されており,これらとの類似性が強く窺われる。
  なお,ザレツキーから事件のことを聞いたステファの心情等につい
ては,控訴人著作に該当ないし類似する記述はない。
(キ) シーン4 ホームの広間(一九四〇年十二月中旬)
a この場面の概要は,次のとおりである。
ポーランド人ホーム卒業生の努力の結果,3000ズウォティのわ
いろによって釈放されたコルチャックがホームに戻ってきた。子供たちとステファ
は大喜びでコルチャックを迎える。その後,コルチャックとステファの間で,客船
サント・ルイス号の悲劇,プラハの駅でユダヤ人の子供が地球儀を見て「ここより
安全なところないの。」と言ったエピソード,ステファが,金髪で目も青くアーリ
ア人に似ているハンナを,マリーナ・ファルスカの経営するポーランド孤児院であ
る「僕たちの家」に預けたこと,コルチャックは翌日から食料カンパの集金に出か
けるつもりであること,ヤミ取引で儲けたユダヤ人が集まるキャバレーの話などが
語られる(47~53頁。「著作対照表」6頁上欄)。
b コルチャックが投獄から帰還した日の子供たちやステファとのやり
とりについては,控訴人著作では言及されておらず,ワイダ映画(21頁)にのみ
描写されている。また,本件戯曲でコルチャックとステファとの間で語られている
客船サント・ルイス号やプラハの駅のエピソードは,控訴人著作には該当ないし類
似する記述がなく,アーリア系の顔立ちのハンナをマリーナに預かってもらったこ
とについても,控訴人著作には記述がなく,「子供たちを守る救援活動はひんぱん
に行われていた。ただし,その子供がポーランド人と全く見分けがつかないような
同化したユダヤ人でなければならなかった。」(177頁)と記述されるにとどま
っている。
次に,コルチャックがホーム卒業生の集めた賄賂によって釈放され
たことについては,控訴人著作でも,コルチャックの保釈金はかつての教え子が調
達したことが記述されている(154頁)。しかし,この点はリフトン著作(27
7頁。「反論一覧」番号7参照)や「AFIELDOFBUTTERCUPS」(95頁。乙12の
14・18)にも記述されており,コルチャックに関する著述・製作に関わる者に
とり基礎的な事実として一般に認識されているものと考えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表
現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
(ク) シーン5 ゲットーの中のキャバレー
a この場面の概要は,次のとおりである。
①盛り場で寄付を求めるコルチャックとテーブルの男とが押し問答を
した後,その場にレジスタンスの青年が乱入する。②ここで盛り場で歌っていた女
歌手ミリアムがレジスタンスの青年の1人と旧知であったこと,コルチャックのホ
ームの出身者であったことが判明し,ミリアムは,コルチャックのために寄付を募
る。一方レジスタンスの青年は,闘争への参加を呼びかけ,寄付を募り,ナチスの
緒戦の勝利をもとに反論する客に対し,ゲビルティッヒの歌を歌って感動を呼ぶ。
③レジスタンスの青年らが引き上げた後,客たちは寄付に応じ,それに対し,コル
チャックはまず余興としてナチスの幹部らの身体的特徴の物真似をし,かつ,その
実名を挙げ,「ナチのならず者」と言い,これに対し観客は笑い転げる者,逃げ出
す者などいたが,最後にコルチャックが一礼して自分は子供たちの宝を守るいわば
管理人にすぎない旨述べる(54~66頁。「著作対照表」7~9頁上欄)。
b この盛り場のシーンは,控訴人著作には「ゲットーには,一部の特
権階級や,金持ちのために,ナイトクラブ,レストラン,カフェなどが開かれてい
た。コルチャックはこういうところも訪ね,乞食のように食料を乞い,時には凄ま
じい形相で,彼らを怒鳴り付け,脅迫すらしたという。」(172頁)と記述され
ているのみで,それ以上の具体的な記述はない。
 これに対し,ワイダ映画では,コルチャックがホーム出身のシュル
ツに連れられて場末の酒場に行き,帽子を回して客たちから寄付を募るシーンがあ
り,ここでコルチャックがガンツバイクと話をしていると,ユダヤ抵抗組織がガン
ツバイクを暗殺しようとして発砲する事件が起こり,その逃走中に,抵抗組織の青
年が「あなたの誇りは?」と訪ねるのに対し,コルチャックが「ない…200人の
子供がいるだけだ。」と答えることが描写されている(27,28頁)。本件戯曲
の盛り場のシーンは,このワイダ映画の酒場のシーンと比較的類似しており,控訴
人著作とは類似性もない。
 なお,ゲットーに秘密のレジスタンス組織があったことは,控訴人
著作(159,161頁)に記述がある。しかし,これはリフトン著作(310
頁)や「ホロコースト」(乙20)にも記述のある歴史的事実を普通に表現したも
のにすぎないから,上記控訴人著作の記述に創作性を認めることはできない。
c これに対し,この場の②でレジスタンスの若者が歌い始める「燃え
ている。…」との詩は,詩人ゲビルティヒ作詞に係るレジスタンスの歌(Our
littlevillageisAflame)の一節を採ったものであるが,控訴人著作において翻
訳されて紹介された詩と内容・表現ともほぼ同一である。
  そして,控訴人著作の同翻訳部分は,原文を翻訳するに当たっての
語句の選択や配列の点において創作性があると認めることができる。さらに,後記
2の引用に係る事実認定に,控訴人及び被控訴人井上の各本人尋問の結果を総合す
ると,本件戯曲の前記各部分は,控訴人著作の上記部分に依拠したものであると認
められるから,控訴人著作の複製というべきである。
d 次に,この場の③で,コルチャックが盛り場の客の前で,コルチャ
ックがヒットラー等ナチスの指導者を風刺する自作の詩を披露し,そのため客の間
で混乱が起こり,その場から逃げ出す者がいたことは,音楽会におけるエピソード
として控訴人著作に記述がある(163,164頁)が,同様の記述はリフトン著
作(289頁)やミシェル ジルバベルグMichaelZylberbergの「AWARSAWDIARY
1939-45」の37ないし39頁(乙17の1・2)にも存し(「反論一覧」番号11
参照),コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一
般に認識されているものと考えられ,「黒いチョビヒゲ」(ヒトラー),「脂肪の
固まり」(ゲーリング),「猫背」(ゲッペルス)の各表現は,それぞれ彼らの外
観を端的に表す一般的なもので,上記著作に同趣旨の表現がある。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表
現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。また,コルチャックの述べるお礼
の言葉は,そのうち,自分が子供たちの宝を守るいわば管理人にすぎないとの部分
が,控訴人著作(168頁)の一部に類似する以外,控訴人著作にこれに該当する
記述はなく,同一性があるとはいえない。
(ケ) シーン6Aホームにて(一九四一年一二月クリスマスの夜 その
一)
a この場面の概要は,次のとおりである。
 ①ステファがコルチャックに,レジスタンスのラジオの情報として,
アメリカがドイツに宣戦布告し,ドイツ軍はロシア戦線で苦戦し,ゲットー内のユ
ダヤ人から毛皮を取り上げたのもロシア戦線のドイツ兵のためと考えられる旨述べ
る。②ステファがコルチャックの業績を載せたユダヤ新聞を持ってくると,コルチ
ャックは最初,執筆者が寄付を断った者であったことから怒るが,結局ステファが
我慢するように言ったのに応じて,返事の手紙を書く。③その後,コルチャックは
ステファに対し,ジェルナ通りの乳児院の劣悪な環境(職員が乳児の食料を横取り
している)に対処するのに協力を求める。④その後,コルチャックがハヌカのお話
をし,子供たちがペレツの詩「同胞」を歌う。(67~80頁,「著作対照表」
9,10頁上欄)
b この場の①について,1941年にアメリカが参戦し,ドイツ軍が
ロシアで苦戦していたことは歴史的事実であり,これがゲットーのユダヤ人にとっ
て希望の灯火となっていた点も,リフトン著作(304頁)にも記述がある歴史上
の基本的な視点であり,また,ドイツ軍がユダヤ人から毛皮を供出させたことも,
リフトン著作(305,306頁。「反論一覧」番号13参照)や「THEWARSAW
DIARYOFCHAIMA.KAPLAN」(乙13の4・5)の288頁,「FinalChapter」の7
0,71頁(乙36,37の1)等にも記述されている歴史的事実にすぎず,これ
に関する控訴人著作の記述は,いずれも,歴史的事実を普通に表現したものにすぎ
ないから,創作性を肯定し得ず,対応した本件戯曲とは,対象事項が同一であるに
すぎず,表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
c これに対し,この場の②における,ゲットーで発刊されている「ユ
ダヤ人の新聞」に掲載されたコルチャックの業績を大きく讃える記事に対するコル
チャックの手紙については,同内容の寄稿を同新聞にしたことが控訴人著作(16
8頁)に記述があり,同記述は,上記寄稿を翻訳したものといえ(「著作対照表」
9頁),その内容は,「Document」の228頁(乙3の13,36,37の2)に
も収録されているところ,本件戯曲の記述は,控訴人著作(168頁)における翻
訳文とほとんど同一である。そして,控訴人著作の翻訳部分は,原文を翻訳するに
当たっての語句の選択や配列の点において創作性があると認めることができる。さ
らに,後記2の引用に係る事実認定に,控訴人及び被控訴人Bの各本人尋問の結果
を総合すると,本件戯曲の前記記述は,控訴人著作の上記部分に依拠したものであ
ると認められるから,控訴人著作の複製というべきである。
d また,この場の③のジェルナ通りの乳児院の惨状及びこれに対しコ
ルチャックが救援を決意したことは,控訴人著作に記述がある(168,169
頁)が,同様の内容はリフトン著作(306~308頁),「FAHTEROFTHE
ORPHANS」(135頁。乙15の7・11),「StudiesintheHeritageofJanusz
KorczakNewsourcesfromtheGhetto」(144頁。乙18の4,5)及びワイ
ダ映画(24頁)などでも取り上げられており(「反論一覧」番号15参照),コ
ルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に認識さ
れているものと考えられる。そうすると,控訴人著作のジェルナ乳児院への救援活
動の部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由に使用されるべきものであり,
翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認め得る範囲は狭いというべきところ,
対応した本件戯曲の本場面は控訴人著作の上記箇所と具体的表現が異なり,表現上
の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
 また,この場の④におけるコルチャックの「ハヌカのお話」及び子
供たちがペレツの詩「同胞」を歌うシーンについては,控訴人著作にこれに該当な
いし類似する記述はない。
   (コ) シーン6Bホームにて(クリスマスの夜 その二)
a この場面の概要は,次のとおりである。
    ①「僕たちの家」の卒業生たちがゴミの運搬車の中に贈り物の箱を隠
してホームを訪れる。驚くコルチャックに,卒業生のうちの一人が。第2次大戦前
はユダヤ人のための「孤児たちの家」とポーランド人のための「僕たちの家」で,
お互いの祝日に他のホームを訪れあっており,この年はポーランド人の青年たちが
ゲットー内のユダヤ人孤児のために贈り物をホームに届けただけと説明する。な
お,そのうちの1人はエステルの恋人である。②彼らが帰った後,箱を開けると,
たくさんの小箱がこぼれ落ち,その中の1つはコルチャック宛のもので,ウォッカ
と黒パンが入っている。コルチャックはこれを抱きしめて姿を消す(81~86
頁,「著作対照表」11,12頁上欄)。
b この場の①について,このころ,ホームでハヌカの祭りが行われた
が,その数日前に,ごみ運搬車に隠れてポーランド人の地下抵抗組織からホームの
子供たちにプレゼントが贈られてきたことは控訴人著作に記述がある(167頁)
が,同様の記述はリフトン著作(305頁。「反論一覧」番号16参照)にも記述
があり,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一
般に認識されているものと考えられる。したがって,控訴人著作のうち,ハヌカの
祭りの際のプレゼントの部分に係る基本的内容の表現は,原則的に自由に使用され
るべきものであって,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認め得る範囲は狭
く,これに対応した本件戯曲は,類似している(もっとも,この場で,プレゼント
を持ってきたのが「ぼくたちの家」の孤児たちである点は,本件戯曲独自の創作に
係るものである。)とはいえ,表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
c また,この場の②の,青年たちのプレゼントにコルチャック宛のも
のがあったこと,それをコルチャックが抱きしめて姿を消すシーンについては,控
訴人著作に該当ないし類似する記述はない。
   (サ) シーン7夜,ゲットーのホームにて
    a この場面の概要は,次のとおりである。
 子供たちが寝静まった後,コルチャックが箱の中から黒パンを取り
出してこっそりと食べる。その後,眠りについたコルチャックは,少年コルチャッ
クの口に,コルチャックの父親が,盗んできたパンを押し込むという悪夢に悩まさ
れる(87,88頁,「著作対照表」12頁上欄)。
b この場面については,コルチャックがパンを盗み食いしたことにつ
いては1989年10月19日付エルサレムポストマガジンに記載がある(乙19
の2・4)。また,リフトン著作(328頁)では,コルチャックの見た夢の内容
について,本件戯曲とほとんど同一の記述があり,コルチャックのゲットー日記
(171頁。乙3の7・15)にも同じ記述があるのみで(「反論一覧」番号17
参照),控訴人著作には該当ないし類似する記述がない。
(シ)シーン8 その翌朝,ホームにて
    a この場面の概要は,次のとおりである。
     コルチャックが,子供たちによる裁判の予定を繰り上げて今日行う
ことを提案し,子供たちによる裁判が開かれる。ヤコブに対する裁判が終わった
後,コルチャックは,黒パンを一人で食べたことを子供達に自首し,自ら子供たち
による裁判にかけられ,二度としないことを誓う(89~100頁)。
b コルチャックのホームで子供による裁判が行われることについて
は,控訴人著作(80~87頁)にも記述があるが,同時にリフトン著作(146
~152頁,155頁)にも記され,ワイダ映画(23頁)にも描写されており,
コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり,基礎的な事実として一般に認
識されているものと考えられる。したがって,当該部分に係る基本的内容・表現
は,原則的に自由な使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現
上の本質的特徴と認め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部
分は,具体的表現が控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人
著作の上記部分と表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
  また,コルチャック自身が子供たちの裁判にかけられたことは,控
訴人著作(87~89頁)に記述があるものの,これに対応した本件戯曲の本場面
とは,内容及び表現において,かなりの違いがあり,表現上の本質的特徴の同一性
があるとはいえない。
(ス) シーン9 ゲットーの街路地(一九四二年七月二十一日頃)
    a この場面の概要は,次のとおりである。
    ①トレブリンカへの強制移動が始まり,ゲシュタポの布告(強制移住
命令,黒パン2個,ジャム缶1個の支給,労働証明を持つ者等は移送を免除される
こと等)がスピーカーで流される。②ユダヤ人の死体や物乞いの様子が描かれ,子
供が物乞いの歌を歌う。ドイツ軍将校が写真を撮り,ユダヤ人警官が同胞を駆り立
てる。③半裸裸足の男が走り回り,コルチャックにすがって,移送先がガス室であ
る旨を叫ぶ。ゲシュタポはこの男を射殺する。④ドイツ軍将校が射殺された男の写
真を撮る(101~107頁,「著作対照表」13頁上欄)。
b この場の①のゲシュタポの布告については,控訴人著作(200
頁,202頁)に類似の記述がある(別紙対照表13頁)が,同様の記述は,ルー
シー・S・ダビドビッチ(大谷堅志郎訳)の「ユダヤ人はなぜ殺されたか」(乙7
の1~8。以下,書名のみで表示する。)の206頁,213頁にもあり(「反論
一覧」番号18参照),歴史的事実を普通に表現したものにすぎないから,控訴人
著作の当該記述について著作物性を肯定し得ず,対応した本件戯曲とは,対象事項
が同一であるにすぎず,表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
c また,この場の②のゲットー内の状況についても,控訴人著作(1
72頁)に類似の記述があるが,同様の記述はゲットー日記(147頁。乙3の
5・15)にも存し,また,「AbirthdaytripinHell」と題された1988年4
月7日付エルサレム・ポスト・マガジンの掲載記事の掲載写真(乙9。誕生日にゲ
ットーを訪れたナチスの将校が撮影したもの。なお掲載記事の訳文は乙38)でも
同様の状況が写されており(「反論一覧」番号19参照),控訴人著作の当該記述
部分(物乞いの歌の部分を除く。)は,歴史的事実を普通に表現したものにすぎ
ず,創作性を認めることはできない。
  これに対し,この場の②の物乞いの歌については,「母ちゃんもど
っかへ逃げちゃって」の一節が被控訴人Bによって加えられていることを除いて,
控訴人著作(172頁)における翻訳と同一である。そして,控訴人著作の同翻訳
部分は,原文を翻訳するに当たっての語句の選択や配列の点において創作性がある
と認めることができる。さらに,後記2の引用に係る事実認定に,控訴人及び被控
訴人Bの各本人尋問の結果を総合すると,本件戯曲の物乞いの歌の部分は,控訴人
著作の上記部分に依拠したものであると認められるから,控訴人著作の複製という
べきである。
d また,この場の③については,控訴人著作に該当ないし類似する記
述は見当たらず,むしろワイダ映画に,ナチスがユダヤ人を焼き殺す炉を製造中で
ある旨叫びながらゲットーの中を走り回る男が,ドイツ軍に射殺される場面がある
(28頁)。
e この場の④についても,控訴人著作に該当ないし類似する記述は見
当たらず,むしろ前記「AbirthdaytripinHell」に基づいて被控訴人Bが創作し
たものと考えられる。
   (セ) シーン10 ホームのホール(一九四二年七月中旬)
    a この場面の概要は,次のとおりである。
①コルチャックによる子供たちの健康診断の場面で,最初に診察した
男の子との間では,その日に開かれる子供の裁判のことでユーモラスな対話が行わ
れるが,次に診察した少年アハロンについては肺結核で死期が近いことがステファ
に示される。②両親を失ったシムエルとジーナの兄妹がコルチャックのもとにやっ
てくる。シムエルは年齢の関係でホームに入れないが,ジーナはシムエルと別れた
くないと泣く。③コルチャックとステファとの間で,近々子供たちによって行われ
るタゴールの劇「郵便局」の上演が話題となるが,コルチャックは唐突に,自分が
自殺を考えることがあるという話や悪夢(外出時間も過ぎたのにゲットーの外にい
る夢,死人たちと一緒に列車の中に押し込められ,中には子供たちの死骸もある
夢)の話をし始め,茫然自失の状態となる(117,118頁,「著作対照表」1
3,14頁上欄)。
b この場の①のコルチャックによる子供たちの健康診断の場面に関
し,控訴人著作では,コルチャックの子供たちとの触れ合いの様子は,本件戯曲の
ように生き生きとは描写されておらず,「コルチャックは,ユーモアに富んでい
て,子供たちを笑わせ,ホームはいつもなごやかな雰囲気に包まれていた。コルチ
ャックは良き父,ステファ夫人はよき母であり,温かい一つの家庭のようであっ
た。」(72頁)等の記述や,コルチャックの教育理念の形で,客観的に記述して
いるにとどまる。したがって,本件戯曲の本場面と控訴人著作の記述部分とは,一
部事実として共通する事項があるのみで,表現上の本質的特徴に同一性があるとま
ではいえない。
c この場の②については,前記(ア)のとおり,シムエルとジーナに該
当する人物自体,控訴人著作には登場せず,本場面に該当ないし類似する控訴人著
作の記述はない。
d この場の③についても,タゴールの劇「郵便局」の上演に関するコ
ルチャックとステファの対話は,控訴人著作に該当ないし類似する記述がない。ま
た,コルチャックが自殺することを考えたことがあるとの告白と,控訴人が指摘す
る「精神が,身体という狭い籠の中で苦しんでいる」とのコルチャックの詩の一節
が,同一の内容であるとはいい難い。さらに,コルチャックが見たという悪夢の内
容については,控訴人著作に同一内容の記述がある(186,187頁)が,これ
らとほぼ同様の内容の記述は,コルチャックのゲットー日記(171頁。乙3の
7・15)やリフトン著作(328頁)にも見受けられ(「反論一覧」番号20参
照),上記コルチャックの悪夢に関する基本的内容の表現は,コルチャックに関す
る著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に認識されているものと考
えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面について控訴人著作の上記部分
と表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
   (ソ) シーン11 ホームのホール(一九四二年七月十八日頃)
    a この場面の概要は,次のとおりである。
①子供たちによるタゴールの劇「郵便局」の上演当日,それに先だっ
て主役オモルの役のアブラシャが,コルチャックらにバイオリン演奏を披露し,ア
ブラシャのバイオリンの才能を示すものとして,9歳の時にワルシャワの音楽院で
ブラームスの「バイオリンとチェロの協奏曲」を共演したエピソードが,劇を演出
したエステルの口から語られる。②その後,コルチャックからエステルらに,上演
する劇として「郵便局」を取り上げたのが,子供たちに近づきつつある死に対する
心の準備をさせ,死に向かっての勇気を与えるためであったことが明かされる。
③劇中劇として「郵便局」の最終シーンが上演され,子供たちが観劇
する様子が描かれる。上演が終わる。コルチャックは,片隅で身をもたせかけ,う
なだれている(119~131頁,「著作対照表」14頁ないし17頁上欄)。
b この場の①に関し,エステルが「郵便局」の劇の演出をしたこと
は,控訴人著作(198頁)に記述があるが,リフトン著作(333頁。「反論一
覧」番号21参照)にも同様の記述がある。「郵便局」の上演に先立ってアブラシ
ャがバイオリンの演奏を披露することは,控訴人著作に該当ないし類似する記述は
ない。また,アブラシャのバイオリンの才能を示すワルシャワの音楽院でのエピソ
ードは,控訴人著作(198頁)に記述がある(「著作対照表」14頁下段)が,
同様の記述は「AFIELDOFBUTTERCUPS」にも見受けられ(弁論の全趣旨。なお,同
著作の原文は乙12の5。「反論一覧」番号22下段参照),上記アブラシャのバ
イオリンの才能に関する基本的内容の表現は,コルチャックに関する著述・製作に
関わる者にとり基礎的な事実として一般に認識されているものと考えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表
現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
なお,控訴人は,「AFIELDOFBUTTERCUPS」の英語原文には,アブ
ラシャが「ブラームスのヴァイオリン二重協奏曲の第3楽章を演奏した。」との記
述があるものの,ブラームスにヴァイオリン二重協奏曲はないから誤りであり,本
件戯曲で,アブラシャがブラームスの「バイオリンとチェロの協奏曲」を共演した
との記述は,控訴人著作によったもの以外には考えられない旨指摘するが,上記結
論を左右するものではない。
c この場の②に関し,コルチャックが「郵便局」を子供たちに上演さ
せた理由について,控訴人著作(192頁,193頁,197頁)では,「タゴー
ルの宗教的思想によって,子供たちをやさしさと,やすらぎのある,遠い世界へと
誘うことを願ったのである。」(「著作対照表」15頁下段),あるいは「劇が終
わった後に,この戯曲をとくに選んだ理由を問われると,コルチャックは,「最後
にオモルを迎えにきた死の天使を,やはり子供たちも,やさしく安らかな気持で迎
えることを究極的には学ばなければならないだろう」と答えたという」(「著作対
照表」16頁下段)としている。しかし,「FinalChapter」(79~81頁。乙3
6,37の1)で「なぜ,彼がこの劇を特に選んだのか,と聞かれたとき・・コル
チャックは『子供達が,どうやって死の天使を安らかに迎えられるかを学んで欲し
かった』と答えた」との内容が記述されていることに照らすと,「郵便局」の上演
に係る基本的内容・表現はコルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎
的な事実として一般に認識されているものと考えられる。
  したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由な
使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体的表現が
控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記部分と表
現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
d この場の③に関し,劇に先立って来賓代表として挨拶したチェルニ
アクフは,ユダヤ人自治会の議長であり,実在の人物である(リフトン著作266
頁など)。チェルニアクフが孤児たちの置かれている境遇に心を痛めていた点は,
控訴人著作(202頁)に記述があるが,同人が児童福祉に熱心であったことは,
リフトン著作(266頁)にも記述があり,これに関する基本的内容の表現は,コ
ルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に認識さ
れているものと考えられる。したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原
則的に自由な使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本
質的特徴と認め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,
具体的表現が控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の
上記部分と表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
  また,子供たちが演じる「郵便局」の内容は,招待状の点を含め,
控訴人著作に記述がある(196,197頁)が,リフトン著作(333~336
頁)や「FinalChapter」(79~81頁。乙36,37の1)にも同様の記述があ
り(「反論一覧」番号23参照),ワイダ映画でも子供たちが演じる様子が描写さ
れており(26頁),コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な
事実として一般に認識されているものと考えられる。そうすると,控訴人著作のタ
ゴールの郵便局の部分に係る基本的内容・表現は,原則的に自由に使用されるべき
ものであり,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認め得る範囲は狭いという
べきところ,対応した本件戯曲の本場面は控訴人著作の上記箇所と表現上の本質的
特徴の同一性があるとはいえない。
(タ) シーン12 寝静まった夜のホーム(一九四二年八月一日頃)
    a この場面の概要は,次のとおりである。
    ①アブラシャがコルチャックに,エステルが街路でゲシュタポに捕ら
えられたとの噂の真偽を問い質し,それが本当であることを知り,嘆く。②コルチ
ャックが,エステルへの挽歌というべき日記を書く(132,133頁,「著作対
照表」18頁上欄)。
b この場の①でアブラシャがコルチャックに問い質す内容は,控訴人
著作(198頁)に記述があるが,リフトン著作(349頁,350頁。「反論一
覧」番号24参照)にも記述がある。エステルが「人狩り」に遭うことはワイダ映
画でも描かれており(26頁),歴史的事実であると同時に前同様の基礎的事実で
あり,控訴人著作の当該部分について翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認
め得る範囲は狭く,本件戯曲の該当個所との間で具体的な表現の共通性を欠き,表
現上の本質的特徴に同一性があるとはいえない。
c この場の②でコルチャックが書く「エステル嬢よ・・」で始まるエ
ステルへの挽歌というべき日記については,控訴人著作(198頁,199頁)に
ほぼ同一の記述があり,同記述は,コルチャックのゲットー日記(209頁。乙3
の10・15)の翻訳といい得る(「著作対照表」18頁下欄)。そして,控訴人
著作の同翻訳部分は,原文を翻訳するに当たっての語句の選択や配列の点において
創作性があると認めることができる。さらに,後記2の引用に係る事実認定に,控
訴人及び被控訴人Bの各本人尋問の結果を総合すると,本件戯曲の上記部分は,控
訴人著作の上記部分に依拠したものであると認められるから,控訴人著作の複製と
いうべきである。
   (チ) シーン13 ユダヤ自治会議長チェルニアクフ氏の自宅
    a この場面の概要は,次のとおりである。
①コルチャックは,チェルニアクフ夫人が押しとどめるのを振り切っ
てチェルニアクフに会う。チェルニアクフはコルチャックの質問に対して,子供た
ちの移送はないと請け合う。②コルチャックと入れ替わりに,ゲシュタポ将校が入
って来て,チェルニアクフに対し,子供たちの東部移送を開始することを伝え,子
供たちのリストの提出を命じる(134~140,142,143頁,「著作対照
表」18,19頁上欄)。
b この場の①のコルチャックとチェルニアクフとのやりとりは,控訴
人著作には該当ないし類似する記述がないが,ワイダ映画では,チェルニアクフが
コルチャックから孤児たちのことを問われて「私が生命を賭けて彼らに答える」と
述べるシーンが描かれている(27頁)。
c この場の②のチェルニアクフとゲシュタポ将校とのやりとりについ
ては,控訴人著作には直接の記述がなく,ただドイツ軍による布告の内容と,チェ
ルニアクフが子供たちの境遇に心を痛めており,彼らを救えればとドイツ当局との
交渉に努めていたが受け入れられなかったとの記述(202頁。「著作対照表」1
8頁下欄)があるにすぎない。また,このような記述は,リフトン著作(341,
342,344頁)や「ユダヤ人はなぜ殺されたか」(207頁。乙7の6)にも
記述があり(「反論一覧」番号25参照),更にワイダ映画には,チェルニアクフ
がドイツ軍の命令書への署名を拒否したため暴行を受けるシーンが描かれている
(27頁)。したがって,いずれにしろ本件戯曲の場面は,控訴人著作と本質的特
徴の同一性があるとはいえない。
   (ツ) シーン14 同夜ホームにて
    a この場面の概要は,次のとおりである。
    ①チェルニアクフ宅から帰ってきたコルチャックは,子供たちの安全
を保障する旨のチェルニアクフの言をステファに伝え,起きてきたジーナに子守歌
を歌って寝かしつけてやるなどする。②シュルツが入ってきて,チェルニアクフの
自殺の知らせを告げ,手紙(遺書)をコルチャックに渡す。コルチャックは,これ
を読み上げ,子供たちの運命を知る。③コルチャックは,シュルツに対し,エステ
ルと親しくしていたことに謝意を述べた上で,ゲットーに残るシムエルの世話を依
頼する。また,コルチャックは,ステファに,移送の際の準備を頼む。④コルチャ
ックが日記を朗読する(148~152頁,「著作対照表」19,20頁上欄)。
b この場の①については,これに該当ないし類似する記述は控訴人著
作に見当たらないが,ワイダ映画では,ホームの幼子が,夜中に銃声が聞こえて泣
き出すのをコルチャックが安心させるシーン(21頁)があり,それとの類似性が
見られる。
c この場の②について,チェルニアクフが服毒自殺をする点は,控訴
人著作(202頁)に記述がある(「著作対照表」19頁下欄)が,リフトン著作
(344頁。「反論一覧」番号26参照)や「AFIELDOFBUTTERCUPS」(乙12の
16・18),「ホロコースト全史」(169頁)などにも記述があるほか,ワイ
ダ映画でも描写されており(29頁),これに関する基本的内容の表現は,コルチ
ャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に認識されて
いるものと考えられる。したがって,当該部分に係る基本的内容・表現は,原則的
に自由な使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現上の本質的
特徴と認め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部分は,具体
的表現が控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面は,控訴人著作の上記
部分と表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。そして,この場の②に関
するその他の描写は,後記チェルニアクフの遺書の内容を除き,控訴人著作に該当
ないし類似する記述は見当たらない。
  この場の②においてコルチャックが読み上げるチェルニアクフの遺
書については,その内容は,控訴人著作の記述と全く同一であり,同遺書の翻訳と
いい得る(「著作対照表」19頁)。そして,控訴人著作の同翻訳部分は,原文を
翻訳するに当たっての語句の選択や配列の点において創作性があると認めることが
できる。さらに,後記2の引用に係る事実認定に,控訴人及び被控訴人Bの各本人
尋問の結果を総合すると,本件戯曲の上記チェルニアクフの遺書の部分は,控訴人
著作の上記部分に依拠したものであると認められるから,控訴人著作の複製という
べきである。
d この場の③について,ステファが,子供たちの死への旅立ちのため
に晴れ着を準備していたこと(151頁)は,控訴人著作(211頁)に「ステフ
ァ夫人は,出発の日に備えて,子供たちのために一番上等な服を用意していた。せ
めて子供たちを,その日にふさわしい晴着で着飾ってやりたかったのである。」と
記述されている以外,本件証拠として提出されている他の文献には該当ないし類似
する記述はない。しかしながら,控訴人著作の該当部分はわずか2行であり,その
量的なまとまりの面からみても,また,内容面からみても,当該部分に関する控訴
人による創作性を認めるには足りない。
e また,この場の④のコルチャックの日記の部分は,控訴人著作の記
述(199~200頁)と内容・表現がほとんど同一であり,同記述はゲットー日
記(197,198頁。乙3の8・9・15)の翻訳といい得る(「著作対照表」
20頁)。そして,控訴人著作の同翻訳部分は,原文を翻訳するに当たっての語句
の選択や配列の点において創作性があると認めることができる。さらに,後記2の
引用に係る事実認定に,控訴人及び被控訴人Bの各本人尋問の結果を総合すると,
本件戯曲の上記ゲットー日記の引用部分は,控訴人著作の上記部分に依拠したもの
であると認められるから,控訴人著作の複製というべきである。
   (テ) シーン15 ワルシャワ近郊「僕たちの家」
    a この場面の概要は,次のとおりである。
コルチャックが,マリーナに最後の別れを告げるため,レジスタン
スの若者たちの助けを得て,地下道を通ってゲットーを抜け出し,「僕たちの家」
にやって来る。コルチャックは,スープを飲むようにとのマリーナの勧めを「子供
たちはもう2日も何も食べていない」と言って断る。マリーナが匿っていたコルチ
ャックのホームの子供たちのことを語り合った後,コルチャックはレジスタンスの
若者たちと共に再びゲットーの中に戻って行く。あとに残ったマリーナは泣き崩れ
る。(154~157頁,「著作対照表」20,21頁上欄)
b控訴人著作部分のうち,本場面に対応するマリーナとの別れの部分
(175,176頁)は,身の危険を顧みず,「ぼくたちの家」にコルチャックの
ための隠れ家を用意していたマリーナの救援の申し出が拒否されたこととともに,
イゴール・ネヴェルリイの話として,トレブリンカに送られる直前にコルチャック
がマリーナに別れを告げに「ぼくたちの家」を訪れたことが具体的に著述されてお
り,近づく死を覚悟したコルチャックの具体的行動を表現している点に表現上の本
質的特徴があるといえ,思想感情の創作的表現も認められ,著作物性を肯定し得
る。
  そして,この場に描かれているように,強制移送の直前にコルチャ
ックが「ぼくたちの家」に別れを告げにやってきたことは,控訴人著作に記述され
ているが,他の著作にはない。
  コルチャックが,ゲットーでの生活中にゲットーを抜け出して「ぼ
くたちの家」を訪れマリーナと会ったことについては,リフトン著作(303,3
04頁。「反論一覧」番号28参照)に記述があるが,強制移送前年の1941年
11月ころのこととされており,コルチャックらがトレブリンカに送られる時より
も相当前であり,しかも別れの要素がなく,内容上・表現上の違いが大きい。
  他方,ワイダ映画では,強制移送の直前に,ゲットーを抜け出した
コルチャックがマリーナと会い,マリーナによるゲットー脱出の勧めを断るシーン
が描写されている(28頁)が,墓地での出来事であり,「ぼくたちの家」でのこ
とでない上,マリーナがコルチャックに食べ物や飲み物を勧める描写はなく,具体
的表現上の違いが大きい。
  そして,本件戯曲におけるマリーナとの別れの部分は,時期や場所
等を初めとして,子供たちが何日も食べ物を口にしていないことを理由にマリーナ
の勧めるスープに手を付けなかったことについても共通しており,控訴人著作との
表現の同一性が顕著である。
  さらに,後記2の引用に係る事実認定に,控訴人及び被控訴人Bの
各本人尋問の結果を総合すると,本件戯曲の上記シーンは,控訴人著作の上記部分
に依拠して創作されたものであると認められる。
  したがって,本件戯曲の上記シーンは,控訴人著作の翻案といえ
る。
(ト) シーン16 最後の朝(一九四二年八月上旬)
    a この場面の概要は,次のとおりである。
①コルチャックは,ジョウロで花に水をやりながら,こちらを眺めて
いるドイツ軍の歩哨の徴用前の職業に思いを巡らし,ステファと語り合う。②ホー
ムの朝食の席で,少女ポーラは,死んでしまったアハロンのためにパンとジャムを
用意する。③レジスタンスに加わったシムエルが,ジーナの様子を見にホームにや
ってくる。ジーナと言葉を交わした後,労働に出かける少年たちと共に去ってい
く。④ドイツ軍軍曹が現れ,コルチャックらに対し,即座にダンツィヒ駅に集まる
よう命じるが,コルチャックの,子供たちに着替えをさせたい,ピクニックとして
行きたいという要請に応じ,20分の猶予を与える。コルチャックは,少年の1人
に,旗を持たせ,4列に並んだ子供たちを先導するように指示する(158~16
9頁,「著作対照表」21,22頁上欄)。
b この場の①については,控訴人著作(208頁)にも本件戯曲と同
内容の記述があるが,この部分は,コルチャックの「ゲットー日記」の最後の日の
記述(209,211,212頁。乙3の10~12,35)であり,リフトン著
作(354頁)にも同様の記述があり(「反論一覧」番号29参照),ワイダ映画
にも同様のシーンがある(28頁)。したがって,控訴人著作の上記部分に係る基
本的内容・表現は,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事
実として一般に認識されているものであって,原則的に自由に使用されるべきもの
であり,翻案権を肯定し得る表現上の本質的特徴と認め得る範囲は狭いというべき
ところ,これに対応した本件戯曲の場面は,具体的表現が控訴人著作と異なる点が
あり,控訴人著作と本質的特徴の同一性があるとはいえない。
c この場の②ないし④については,控訴人著作に該当ないし類似する
記述はない。④のドイツ兵に移送開始を告げられたコルチャックが,若干の時間的
猶予をもらい,ピクニックに行くと言って子供たちに準備をさせるシーンは,むし
ろリフトン著作(354~358頁)及びワイダ映画(29頁)と,内容及び表現
上の同一性が顕著であり,控訴人著作との同一性はない。
(ナ) ラストシーン(シーン1~4)ある旅立ち
    a この場面の概要は,次のとおりである。
(a)シーン1ワルシャワ・ダンツィヒ駅
     ドイツ軍とユダヤ人カポが,駅のプラットホームで,ユダヤ人を
貨車に乗り込ませようと駆り立てている。
 ドイツ軍兵士2人が,黒パン2個のエサで集まってくるユダヤ人
を嘲笑すると共に,ユダヤ人カポが,自分と家族可愛さに同胞を駆り立てている
が,いずれ同胞と同じ運命になるのにと語り合う(171~173頁)。
   (b) シーン2同駅
 子供たちの,ペレツの詩「同胞」の歌が聞こえてくる。
 ロムチアを抱き,もう1人の男の子の手を取ったコルチャックを
先頭に,整然として,晴着姿の子供たちが入場する。アブラシャもヴァイオリンを
持って加わっている。コルチャックがドイツ軍将校と言葉を交わし,子供たちに何
が待っているかを知らせたくないので,ドイツ軍兵士とユダヤ人カポを遠ざけてく
れるよう頼む(173~179頁)。
(c) シーン3 同駅プラットホーム
 ポーランド人シュルツが現れる。コルチャックにパスポートを示
し,逃げるように言うが,コルチャックは子供たちやステファの分がないことを知
るとこれを拒否する。ドイツ軍将校は,自分が子供のとき「ジャックの破産」を読
んで感銘を受けたこと,コルチャックが「ジャックの破産」を書いた著者であるこ
とを思い出し,コルチャックにそのことを確認した上,シュルツと共に逃げるよう
に勧めるが,コルチャックは,盗んだパンを食べたのと同じことはしたくないとし
て,ドイツ軍将校らの勧めを拒否し,子供たちの方に向かう。(179~187
頁)
   (d) シーン4 出発(終幕)
コルチャックと子供たちが列車に乗り込む。「別れの言葉」を語
るコルチャックの声がホームに響き渡る(190,191頁。「著作対照表」2
5,26頁上欄)。
b この場のシーン1における移送当日の駅のホームの状況描写につい
て,控訴人著作(213頁)では,「積換場は,数千の群衆でごったがえしてい
た。」という記述しかない。むしろリフトン著作(360頁,361頁)に詳細な
描写があり,ワイダ映画(29頁)にも同様の場面があり,本件戯曲の上記ホーム
の状況は,これらとの類似性が強い。
c この場のシーン2における,コルチャックに引率された子供たちが
ホームの旗を掲げ,4列で整然と行進して駅に到着し,貨車に乗り込もうとする状
況については,控訴人著作(211頁,212頁)に記述がある(「著作対照表」
24頁下欄)。しかし,リフトン著作(356~362頁)やワイダ映画(29
頁),それに「ユダヤ人はなぜ殺されたか」(乙7の8)にも同様の記述があるこ
とに鑑みると,前記コルチャック及び子供たちの行進に関する基本的内容の表現
は,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に
認識されているものと考えられる。したがって,当該部分に係る基本的内容・表現
は,原則的に自由な使用に供されるべきものであるから,翻案権を肯定し得る表現
上の本質的特徴と認め得る範囲は狭いというべきであるところ,本件戯曲の上記部
分は,具体的表現が控訴人著作と異なる点があり,本件戯曲の上記場面について控
訴人著作の上記部分と表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
  この場のシーン2におけるコルチャックとドイツ軍将校のやりとり
については,控訴人著作にこれに該当ないし類似する部分はない。
d この場のシーン3に該当する場面は,コルチャックに関する他の作
品にも触れられている。
  本件戯曲の本場面のうち,ポーランド人シュルツが,コルチャック
にパスポートを示し,逃げるように勧めたのに対し,コルチャックがこれを拒否す
る部分は,控訴人著作に該当ないし類似するエピソードがないのに対し,ワイダ映
画(29頁)にほぼ同一の場面がある。
また,子供のとき「ジャックの破産」を読んで感銘を受けたドイツ
軍将校が,コルチャックが「ジャックの破産」を書いた著者であることを思い出
し,逃げるように勧める部分については,控訴人著作に記された貨車積換場に着い
て貨車に乗り込むまでのコルチャックの状況に関する複数の事実(証言にかなりの
食い違いがあることが指摘されている。)のうちの最後のエピソード(217,2
18頁)と同趣旨の内容といえるが,控訴人自身もネヴェルリイからの再伝聞とし
て引用しているのであり,また,前記「FATHEROFTHEORPHANS」の146頁(乙1
5の10・11)でも,「物語は,最後の瞬間にコルチャックが,自分が子供のこ
ろ愛した本の著名な作家であることを知ったドイツ指揮官が,子供達を行かせるこ
とで彼自身の追放を遅らせ,さらには安全を約束した,と言われている。」とのエ
ピソードが紹介されており,更に「FinalChapter」の98頁(乙36,37の1)
にも控訴人著作の最後のエピソードと同内容の記述がされていることなどに照らす
と,コルチャックに関する著述・製作に関わる者にとり基礎的な事実として一般に
認識されているものであって,原則的に自由に使用されるべきものであり,翻案権
を肯定し得る表現上の本質的特徴と認め得る範囲は狭いというべきところ,本件戯
曲の上記部分は,具体的な表現が控訴人著作と異なる点があり,控訴人著作の上記
部分と表現上の本質的特徴の同一性があるとはいえない。
e シーン4のコルチャックの独白「別れの言葉」については,控訴人
著作にほとんど同一の記述がある(95,96頁)。控訴人著作では,ホームの卒
業の際のコルチャックの別れの言葉として1919年に青少年向けの雑誌「太陽の
もと」に掲載されたものとして引用されており(95頁),控訴人著作も上記雑誌
に掲載されたものを翻訳したものであるが,原文を翻訳するに当たっての語句の選
択や配列の点において創作性を認めることができる。さらに,後記2の引用に係る
事実認定に,控訴人及び被控訴人Bの各本人尋問の結果を総合すると,本件戯曲の
上記「別れの言葉」の部分は,控訴人著作の上記部分に依拠したものであると認め
られるから,控訴人著作の複製というべきである。
ウ 以上のとおり,本件戯曲の各場面のうちには,コルチャックのゲットー
日記や手紙及び詩等控訴人著作の翻訳部分の複製であると認められるものがあり,
また,シーン15 ワルシャワ近郊「僕たちの家」の場面が,控訴人著作の翻案で
あると認められるが,その余の各場面については,いずれも控訴人著作の複製又は
翻案であるとは認められず,上記複製ないし翻案とされる場面は,その本件戯曲に
おいて有している意味・効果を考慮すると,本件戯曲全体に占める重要性や分量が
小さく,その余の各場面の占める重要性や分量の方が大きいから,本件戯曲全体が
控訴人著作の複製又は翻案であるとすることはできない。
  なお,控訴人は,本件戯曲のうち当裁判所が認めた箇所以外にも控訴人
著作の翻案部分が存在する旨を,陳述書(甲9,16)においてるる指摘するが,
いずれも当該部分に関する翻案性を否定した前記認定・判断を左右するものではな
い。
2 争点(2)(控訴人は,被控訴人らに控訴人著作の利用を許諾していたか。)に
ついて
(1) 認定事実
 本争点に関する認定事実については,次のとおり訂正するほかは,原判決
「事実及び理由」第4の2(1)(41頁19行目から45頁21行目)のとおりであ
るから,これを引用する。
ア 44頁12行目から13行目にかけての「本件戯曲71,72頁」から
同14行目「(若干異なる部分もあるが)が」までを「本件戯曲中,コルチャック
のゲットー日記や手紙及び詩等控訴人著作の翻訳部分の複製であると認められる部
分並びに控訴人著作の翻案であると認められるシーン15 ワルシャワ近郊「僕た
ちの家」の場面が」と改める。
イ 45頁18行目「(被告らは,」から21行目「明確ではない。)」ま
でを,次のとおり改める。
 「 しかし,被控訴人Bは,本件戯曲の第1稿,第2稿と同様,その後に
完成させた本件戯曲の第3稿,第4稿についても,被控訴人Cに送付した原稿のコ
ピーを控訴人に送付することとし,平成7年(1995年)1月24日付劇団ひま
わりの砂岡誠宛のファックス通信でも,本件戯曲の第4稿につき同旨の依頼を砂岡
に行っていた(乙78)。また,控訴人は,第4稿で新たに挿入されたシムエルと
ジーナのエピソードは事実無根であり,劇団ひまわりの上演台本から削除すべきで
あるとの申入れを,劇団ひまわりないし朝日新聞社に対してしたが,それ以上に本
件戯曲につき苦情を述べなかった。被控訴人Bは,イスラエルに帰国後,シムエル
のモデルであった人物を探しだし,上記エピソードが事実であることを確認し,そ
の旨平成7年(1995年)4月25日付ファックスで朝日新聞社の伊藤正孝編集
委員に送信した(乙54,被控訴人B)。」
(2)ア 上記引用に係る認定事実,ことに①平成4年1月上旬,控訴人がイスラ
エルの被控訴人B方に滞在した際,被控訴人が控訴人に対し,コルチャックの生涯
の劇化の構想を述べ,被控訴人Bがその脚本を書くのに控訴人著作を参考にしてよ
いかと尋ねたところ,控訴人は,「一緒に雑魚寝をし,飯を食べた仲。それに,そ
の本は井上君が活躍し,伊藤さんのおかげで出たもの。本はもちろん手許の資料も
好きなだけ使ってください。だが友人の間でそんなことを聞く方がおかしい。」と
述べていること,②控訴人は,本件戯曲の第1稿(前記1で控訴人著作の複製・翻
案と認められる部分が既に描写されている。)について,気がついた点について被
控訴人Bの原稿に自ら手を入れたり,被控訴人宛の書簡等で指摘し,また,控訴人
の講演において,本件戯曲の第1稿の一部を一般聴衆に披露していること,③控訴
人は,本件戯曲の最終稿である第4稿についても,サムエルとギエナのエピソード
は事実無根との指摘を行ったものの,控訴人著作の利用自体については特に異議を
述べていないことなどに照らすと,控訴人は,被控訴人Bに対し,本件戯曲制作に
当たって控訴人著作を使用することについて,包括的許諾を行ったものと認めるの
が相当である。
 なお,控訴人は,本人尋問において,第3稿,第4稿を見ていないと供
述するが,乙54,78に照らして,採用できない。
イ 控訴人は,許諾に係る書面が作成されていないことを問題とするが,乙
56ないし77から窺える控訴人と被控訴人Bの親密な関係に照らせば,書面の作
成がなくとも,控訴人が許諾したと認めることは不自然とはいえない。さらに,控
訴人は,控訴人から被控訴人Bに宛てた手紙に本件戯曲の第1,2稿に対する賛辞
のようなものがあったとしても,表面的・儀礼的なものである旨主張するが,例え
ば乙68(1992年7月17日の控訴人の被控訴人B宛の手紙)は6枚にわたり
横書きでびっしりと書き込まれたものであり,表面的・儀礼的なつきあいであった
とするのは不自然であり,また,同号証の2頁には,当時企画されていた本件戯曲
に基づくドイツ公演について「初日にはぜひ2人揃って行きましょう」と,5頁に
は「井上さんの台本,成功間違いなしです。」とあり,さらに,平成6年2月15
日には,控訴人から被控訴人に対し,本件戯曲に基づくドイツ公演の企画(乙8
2)について報じる朝日新聞を添付した上で,「ドレスデンでの勝利の暁には劇場
のテッペンでビールで乾杯」とするファックス(乙76)をも送っていることなど
に照らすと,前記本件戯曲の第1,2稿に対する控訴人の批評が表面的・儀礼的な
ものにとどまると解することはできず,控訴人の主張は採用できない。
ウ また,控訴人は,被控訴人Bの本件戯曲創作に当たっての控訴人著作の
利用に関し,利用の範囲,許諾内容,許諾料等が約定されていないことを指摘す
る。しかし,原判決引用に係る前記(1)の認定事実に徴すると,昭和61年1月ころ
に知り合った以降の控訴人と被控訴人Bの交友状況や,被控訴人Bの尽力もあって
控訴人著作の出版に漕ぎ着けられたことなどもあり,孤児院等の運営や児童の教育
に関するコルチャックの思想,実践活動を日本等に普及させるという控訴人と被控
訴人Bの一致した方針のもと,控訴人が被控訴人Bによる本件戯曲の制作に控訴人
著作の利用を含めて全面的に支援・協力していく旨意思表明していたのであって,
両名の関係は,控訴人著作の利用に関し,利用の範囲,許諾内容,許諾料等を問題
として許諾するか否かを決めるというようなものではなく,何の留保もなく,当然
に包括的に許諾を与える間柄であったというべきである。したがって,控訴人の前
記主張を採用することはできない。
エ そのほか,本争点に関する控訴人の主張は,いずれも前記認定・判断を
左右するものではなく,採用の限りでない。
オ したがって,前記1のとおり本件戯曲において,控訴人著作の複製又は
翻案と認められる部分が複数箇所存するとしても,いずれも控訴人の事前の包括的
許諾に基づき利用されたものである以上,被控訴人Bによる本件戯曲の制作及び被
控訴人Cによる本件戯曲の出版は,いずれも控訴人著作物に関する複製権ないし翻
案権を侵害するものとはいえない。
第5 結論
 以上の次第で,その余の争点について判断するまでもなく,控訴人の被控訴
人らに対する請求はいずれも理由がなく,これを棄却した原判決は,結論において
相当であって,本件控訴はいずれも理由がない。
 よって,主文のとおり判決する。
(平成14年6月26日口頭弁論終結)
大阪高等裁判所第8民事部
     裁判長裁判官  若 林   諒
              
            裁判官  小 野 洋 一
            裁判官  西 井 和 徒

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