弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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主文
1 原告らの請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
 1 被告は、原告らに対し、それぞれ3677万6494円及びこれに対する平成9年9月
5日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 2 訴訟費用は被告の負担とする。
 3 仮執行宣言
第2 事案の概要等
本件は、亡Aの死亡は被告の医療上の過誤によるとして、Aの相続人である原告
らが、被告に対し、診療契約の債務不履行又は不法行為に基づいて、損害賠償及
びこれに対する民法所定の遅延損害金(始期は訴状送達の日の翌日である。)を
請求する事案である。
1 争いのない事実等
(1)当事者
原告BはAの父、原告CはAの母であり、両原告とAの夫であったDがAの相
続人である。
被告は、北海道大学医学部附属病院(以下「被告病院」という。)を設置してい
る。
(2)Aは、昭和60年3月27日、Dと婚姻した。
Aは、妊娠しないため、平成3年1月31日、被告病院産婦人科を受診し、同年
7月25日に被告病院に入院し、翌26日、全身麻酔下で腹腔鏡検査(ラパロスコ
ピー)を受けた。
腹腔鏡検査とは、腹壁を穿孔して腹腔内に炭酸ガス(二酸化炭素)を送り込
み、これによってできた空間を利用して、腹腔鏡を用いて子宮、卵管等の臓器を
精査するものであり、その際、癒着剥離等の必要があればその治療も行うこと
ができる。
Aは、腹腔鏡検査及び腹腔鏡を用いた癒着剥離術を受けているときに、循環
不全、呼吸不全を起こし、その結果、低酸素脳症に陥った。
Aは、その後意識を回復することなく、平成3年12月4日に、被告病院におい
て死亡した。
(3)Aの腹腔鏡検査は、被告病院産婦人科のE医師(当時被告病院助手)とF医師
(当時北海道大学医学部大学院生。以下E医師とF医師をあわせて「産婦人科
担当医」という。)、被告病院麻酔科のG医師(北海道大学医学部助手。)、H医
師(当時北海道大学医学部講師。)とI医師(医員、研修医。以下G医師とI医師を
あわせて「麻酔科担当医」という。)により行われた。立会看護婦はJ看護婦であ
った。
2 争点
(1)産婦人科担当医の注意義務違反の有無
(原告らの主張)
ア Aが循環不全、呼吸不全を起こし低酸素脳症に陥ったのは、腹腔鏡検査時
に、炭酸ガスあるいは空気による肺のガス塞栓をおこしたことによる。Aが肺
のガス塞栓を起こしたのは、腹腔鏡検査の際、産婦人科担当医が、炭酸ガス
の圧力を高くしすぎた状態で手術を行ったか、血管のどこかを通常以上に損
傷したか、あるいはその双方による。
産婦人科担当医は、Aの血管内に炭酸ガスを混入させないために、炭酸ガ
ス圧を適正に保ち、また過度に血管を損傷しないようにすべき注意義務があ
るのに、これを怠った過失がある。
イ 卵管の癒着剥離の方法について、Aは、腹腔鏡検査前日まで、開腹手術に
よるか腹腔鏡検査時に行うかを検討する機会をもてなかった。産婦人科担当
医は、Aに対し、腹腔鏡検査がどのような検査でどのような危険があり、さらに
その効用はどのようなものかを十分に説明しなかった。
(被告の主張)
ア(ア) Aが循環不全、呼吸不全を起こした原因は不明である。産婦人科担当医
がその発生を予見することは不可能であった。
(イ) 仮に、Aが循環不全、呼吸不全を起こした原因が、炭酸ガス塞栓による
ものだとしても、産婦人科担当医は、Aの腹腔鏡検査の機器操作及び手
術の実施に際し、腸管や血管を損傷した事実はない。このことは、術中、
術後の血液検査において貧血状態などが認められなかったことからも明
らかである。産婦人科担当医の機器操作に何ら過誤はない。また、Aの
腹腔鏡検査時に使用した気腹装置は、自動式であり、設定した内圧を常
時保つ構造になっていて、欠陥はなく、正常に作動していたから、腹腔内
に適正内圧を超える炭酸ガスが流入した事実もない。
イ 産婦人科担当医は、Aに対し、腹腔鏡検査、治療の入院期間は2、3日に過
ぎないこと、全身麻酔下で行われるため苦痛はないこと、検査のほかに治療
として比較的小規模の癒着剥離術は行うこと、二酸化炭素使用による検査は
安全であるが、稀には5000件に1例という事故があること等はすべて説明し
たうえで、Aから腹腔鏡検査と簡単な剥離術実施の承諾を得た。
ウ 以上のとおり、産婦人科担当医には何らの注意義務違反はなく、過失はな
い。
(2)麻酔科担当医の注意義務違反の有無
(原告らの主張)
ア Aは、腹腔鏡検査中の午前10時25分、動脈血中の酸素飽和濃度(以下「S
aO2 」という。)が97パーセント(以下単位は省略する。)に低下した。これ
は、動脈血中の酸素の取り込みが悪くなったことを示しているから、麻酔科担
当医としては、麻酔薬の投与を中止し、純酸素にして経過を見て、改善の兆し
がみられない場合には、産婦人科担当医に対して手術を中止して炭酸ガスを
排出するよう指示すべきであった。
イ Aは、腹腔鏡検査中の午前10時30分、呼気中の二酸化炭素濃度(以下「E
TCO2 」という。)が20台前半㎜Hg(以下単位は省略する。)に低下した。こ
の時点で、Aに異常事態が発生していることは明白であり、麻酔科担当医とし
ては、肺のガス塞栓の発生を疑い、直ちに産婦人科担当医に対して、手術を
中止して炭酸ガスを排出すべきことを指示すべきであった。
ウ Aは、腹腔鏡検査中の午前10時35分、SaO2 及びETCO2 の低下傾向
が決定的になった。麻酔科担当医としては、当然、肺のガス塞栓を疑うべきで
あり、産婦人科担当医に対して直ちに手術を中止し、炭酸ガスを排出するよう
指示すべきであった。
エ 産婦人科担当医が炭酸ガスを排出したのは、午前10時42分から43分のこ
とである。炭酸ガスの排出が著しく遅延した結果、Aの血管及び心臓内に大量
の炭酸ガスが気体の状態で蓄積してゆき、ガス塞栓が進行した。
したがって、麻酔科担当医は、産婦人科担当医に対して手術を中止し、炭
酸ガスを排出するよう指示すべきであったにもかかわらず、指示をしなかった
という過失がある。
(被告の主張)
ア 午前10時25分ころ、SaO2 が99から97に低下したが、97は正常な変動
幅の範囲内であり、血圧、脈拍数も正常で、麻酔科担当医が特段の異常を認
めることはできなかった。本件手術当時、腹腔鏡検査時のガス塞栓事故は極
めて稀な事故と報告されていて、単にSaO2 が97に低下したとの理由だけ
で、肺のガス塞栓を起こすほどの大量のガス吸引があることを直ちに疑うこと
は不可能であったから、直ちに産婦人科担当医に対して手術を中止して炭酸
ガスを排出すべきことを指示することまでは要求されない。
I医師は、SaO2 が97に低下したので、念のため上級医の来室を求め、
麻酔指導医であるL医師が午前10時30分ころ来室して2、3分間患者を診察
したが異常は認めなかった。この時点に麻酔科担当医の注意義務違反はな
い。
イ 午前10時30分にAのETCO2 が20台前半まで低下した事実はない。午
前10時30分ころのETCO2 は33である。20台前半まで低下したのは午前
10時35分の後であり、これ以前の時点で用手換気を行いながら慎重に観察
を継続していたI医師に、肺動脈のガス交換機能の異常やガス塞栓の発生を
疑う余地は全くなかった。したがって、この時点に麻酔科担当医の注意義務
違反はない。
ウ 午前10時35分にG医師が来室し、その時点のAの血圧は最大110、最低
55、脈拍数は72であり特別の異常は認められなかった。その直後にETCO
2 が20台前半まで低下するという異常事態が生じた。産婦人科担当医はA
の異常を察知して午前10時37分ころに炭酸ガスを排出した。麻酔科担当医
は、麻酔薬、笑気ガスの投与を素早く中止し、純酸素による換気を行い、エフ
ェドリン、アトロピン等の投与を行った。
麻酔科担当医は、直ちに十全の救命蘇生措置を行っていて、何ら注意義
務違反はない。
(3)損害額
 (原告らの主張)
ア 逸失利益   3796万2988円
 慰謝料     2500万円
 葬儀費用    100万円
 弁護士費用   959万円
 合計      7355万2988円
イ 原告らは、原告らとDとの遺産分割協議により、Aの被告に対する損害賠償
請求権をそれぞれ2分の1ずつ相続した。
Dが被告に対しAの事故に関する損害賠償請求権を放棄したという被告の
主張は、否認する。Dは、被告に対する損害賠償請求権を放棄したのではな
く、D自身が被告に対して訴訟を提起しないという意思を表明したのであり、訴
訟の追行を他の相続人に任せたにすぎない。
仮に、Dが損害賠償請求権を放棄するという意思表示をしたとしても、それ
は担当医に過失がなかったことを前提にしていて、その前提は虚偽であり、被
告がDの無知に乗じて自己の保身のために一方的に被告に有利な意思表示
をさせたものであるから、公序良俗に反し無効である。
(被告の主張)
ア 損害額については不知。
イ Dは、平成4年5月20日、被告に対し、Aの事故に関する自己固有の損害賠
償請求権及びAの死亡により相続した損害賠償請求権のいずれも放棄する
旨の意思表示をした。
 したがって、原告らが取得した損害賠償請求権は、原告らの法定相続分
である3分の1である。
第3 争点に対する判断
1 前記争いのない事実に、証拠(各項末尾に掲記したもの)及び弁論の全趣旨をあ
わせると、以下の事実が認められる。
(1)腹腔鏡検査開始まで
ア Aは、昭和60年5月に流産し、同年10月に子宮外妊娠のため右卵管摘出
手術をし、昭和61年10月に流産した。その後、妊娠しないため、昭和62年1
1月から函館のM産婦人科病院、平成元年8月から旭川医科大学医学部附
属病院婦人科、同年9月から八雲総合病院産婦人科を受診し、ホルモン療法
を受けていたが妊娠が成立しなかった。(乙2の3ページ、5ないし7ページ、1
0ページ)
イ Aは、体外受精を希望し、平成3年1月31日、八雲総合病院産婦人科の紹
介により被告病院産婦人科を受診した。(以下、特に年の記載がない日付け
は平成3年中を示す。)
同日Aを診察した被告病院産婦人科K医師は、続発性不妊症と診断し、A
の不妊の原因は左卵管の癒着による捕捉障害の可能性が高いと判断して、
今後、腹腔鏡検査を施行して癒着剥離を試みるか、初めから体外受精を行う
かのいずれかになるだろうと診察した。(乙2の4ないし6ページ、12ページ)
ウ Aは、4月3日に体外受精にむけた準備をすることとなったが、7月1日、被
告病院で子宮卵管造影検査を受けた結果、左卵管(右卵管は子宮外妊娠時
に摘出されている。)が、疎通性は悪いが、完全閉塞の状態ではないことが分
かったため、体外受精の実施を見送ることにして、癒着の状態を調べるため、
腹腔鏡検査を行うことにした。ただし、癒着剥離については、Aの希望により、
腹腔鏡検査時に引き続いて行うことはしないことにした。
このとき、Aは、腹腔鏡検査について、腹腔の中にガスをいれて腹を強くふ
くらませた状態で操作鉗子等を使って行うこと、2泊3日の入院で可能なこと、
身体に対する侵襲度の低い簡単な検査であることなどの一般的な説明を受
けた。(乙2の13ページ、証人E医師)
エ Aは、7月25日の午前10時ころ被告病院産婦人科に入院した。F医師は、
同日夕方、Aに対し、翌日の腹腔鏡検査の説明をした。F医師は、その際、卵
管の癒着剥離については開腹による根治的治療を行わないことの確認をし
た。Aは、このとき、できれば開腹による根治的治療をしてほしいと要望した
が、Dが開腹を希望していないことや、開腹手術をすれば入院期間が長期化
することになり、Aは7月27日に退院予定で長期の入院はできないことなどか
ら、翌日は腹腔鏡検査のみを行い、開腹手術は行わないことにした。このと
き、F医師は、腹腔鏡検査下でも、軽度の癒着であれば剥離術を行うことがで
きることを説明し、Aは、検査時の所見により癒着剥離術も行うことで納得し
た。(甲25の13ないし26ページ、乙3の1の5ページ、乙3の2の13ページ、
証人F医師)
オ Aは、7月26日午前8時50分ころ手術室へ入室した。午前9時に麻酔導入
を開始、午前9時10分ころ気管内挿管を行った。麻酔導入を行ったのは、麻
酔科のH医師とI医師である。午前9時20分ころH医師は退室した。その後
は、G医師とI医師が呼吸管理を行ったが、常時Aのそばにいて呼吸管理をし
ていたのはI医師であった。G医師は手術室近くの麻酔センターにいて、他の2
つの手術室とあわせて見回っていた。I医師は医師免許を取得して2か月だっ
た。(乙3の1の8ページ、乙5、乙8、証人I医師、証人G医師)
(2)産婦人科担当医の診療行為
ア 産婦人科担当医は、午前9時15分ころ、Aの体位を仰臥位から截石位(寝
ている状態で足だけを高くする状態)に変換し、午前9時30分に、手術(腹腔
鏡検査及び腹腔鏡検査下に付随して行われる治療を意味する。以下「本件手
術」という。)を開始した。執刀医はF医師であり、助手はE医師であった。
産婦人科担当医は、Aの腹部1か所に直径約1センチメートル、他の2か所
に直径約5ミリメートルの穴をあけ、腹腔鏡、外套管、操作用鉗子を挿入し、
自動気腹装置によって、炭酸ガスを注入した。
自動気腹装置は、注入圧を20㎜Hgと40㎜Hgの2段階に設定でき、設定し
た内圧を常時保つ構造となっていて、内圧が過剰となればアラームが作動し
てガス注入が自動的に停止し、内圧が減少すれば内圧に至るまでガスが自
動的に補給される。なお、注入圧を40㎜Hgに設定した場合の実際の注入圧
は38㎜Hg、20㎜Hgに設定した場合の実際の注入圧は18㎜Hg程度である。
産婦人科担当医は、自動気腹装置の注入圧の設定をまず40㎜Hgにして注入を
開始し、腹腔内に十分な視野が得られた段階(腹腔内圧が10㎜Hg程度になった
段階であり、炭酸ガスの注入量は約3リットル)で気腹装置のスイッチを切って炭酸
ガスの注入を止めた。その後は、必要に応じて、自動気腹装置の注入圧を20㎜
Hgにして炭酸ガスを注入し、腹腔内圧を10㎜Hg程度に保った。炭酸ガスを注入し
たり止めたりするのは、医師が、医師の手元にある腹腔鏡注入部のバルブによっ
て行うことも可能である。(甲30の43ないし46ページ、甲32の69、70ページ、乙
3の1の8ページ、乙5、乙6、乙8、証人E医師、証人F医師、証人I医師)
イ 産婦人科担当医は、腹部の直径約1センチメートルの穴に硬性鏡を挿入し、
午前9時35分にAの体位を骨盤高位(截石位から頭を低くした状態)に変換
し、手術室の一部を消灯、腹部の直径約5ミリメートルの穴2か所にそれぞれ
鉗子を挿入した。午前9時45分ころ腹水を吸引し、午前9時50分ころからの
骨盤内観察により膀胱子宮窩腹膜に膜状の付着物、右広間膜後葉に子宮内
膜症の病変と思われる点状出血、左卵管采と左卵巣の癒着を認めた。
産婦人科担当医は、午前10時5分ころから癒着剥離術を開始し、午前10
時15分ころまでに、左卵管采と左卵巣の癒着を剥離した。剥離の際、卵巣側
に微量の出血があったが、止血の必要はない程度であった。
産婦人科担当医は、続いて、卵管采開口術を行った。このとき、先端が開
閉できる鉗子を使用し、卵管口から鉗子を挿入して開口部を広げることを試
みたが、卵管の中に鉗子が入ったことは確認できなかった。卵管采開口術を
行っている間、卵管の通過性を確かめるため、子宮口から注入していた通水
カテーテルにつなげた注射器を手で押して通気を2、3回、注射器に色素水
(インジオカルミン)を入れて押す通色素を行っていた。
産婦人科担当医は、通色素により通過性は確認できたが弱く、卵管采開口
術によっても効果があらわれないため、腹腔鏡検査下での操作では著明な効
果はあらわれないであろうと判断し、午前10時25分ころ開口術を終了した。
本件手術の間、骨盤腔内に明らかな出血はなかった。
(甲30の46ないし61ページ、甲31の67、68ページ、甲32の70ないし7
8ページ、乙3の1の6ないし8ページ、証人E医師、証人F医師)
ウ その後、産婦人科担当医は、鉗子を電気メスに変えて右広間膜後葉の点状
出血の電気凝固を行おうとしたところ、麻酔科担当医の様子からAの状態に
異変があることに気付き、午前10時40分ころ、手術操作を中断して、手元の
腹腔鏡注入部にあるバルブによって炭酸ガスを排出し、午前10時40分過ぎ
に腹腔鏡、外套管と鉗子を抜去した。(甲30の50ないし52ページ、甲32の
79ないし83ページ、乙3の1の7ないし9ページ、証人E医師、証人F医師)
エ 本件手術時のAの出血量は50ミリリットル強であった。また、午前11時ころ
と午後0時ころのヘモグロビン(血色素量。標準値は12ないし15である。)は
それぞれ15.4と18.7であった。(乙5、証人E医師)
(3)麻酔科担当医の診療行為等
ア 午前10時25分ころまで、Aの指先に装着していたパルスオキシメーター(S
aO2 を測定する装置。正常値は97ないし100。)の値はおよそ99、カプノメ
ーター(ETCO2 を測定する装置。正常値は35ないし45。麻酔下では30か
ら45を示す。)の数値は35を示していた。
午前10時25分のAの血圧は最大128、最低64、脈拍数は82であった。
そのころ、AのSaO2 が97に低下した。午前10時28ないし30分ころ、Aの
SaO2 は97であり、ETCO2 は33に低下した。午前10時30分のAの血
圧は最大118、最低62、脈拍数は72であった。
午前10時30分過ぎ、I医師は、AのSaO2 とETCO2 が低下したことか
ら、J看護婦に対し、手術室から麻酔センターに通じているインターホンでG医
師に来室を求めるよう連絡をとることを依頼した。
午前10時35分ころ、G医師が手術室に来室した。午前10時35分のAの
血圧は最大110、最低54、脈拍数は73であり、顔面、上半身にチアノーゼ
が見られた。G医師は、人工呼吸器をはずして手押しで換気するバックを押し
たり、聴診器をあてる等してAの状態を確認した。
午前10時38分ころ、AのETCO2 が20台前半まで低下、SaO2 が次第
に低下し、麻酔科担当医は、G医師の判断により、麻酔薬(イソフレン)、笑気
の投与を中止し、100パーセント酸素による換気を行った。
午前10時40分ころ、Aの血圧は最大68、最低18であり、脈拍数は92に
上昇した後急激に低下しはじめた。麻酔科担当医は、昇圧薬(エフェドリン)と
脈拍数上昇薬(アトロピン)を点滴ルートから投与した。
午前10時45分ころ、Aの脈拍数は32であり、非観血的血圧測定(カフに
よる血圧測定)は不能となった。麻酔科担当医は、強心昇圧薬(ボスミン)、昇
圧薬(ノルアドレナリン)、不整脈治療薬(キシロカイン)を点滴ルートから投与
した。
このころまでに、手術室に、被告病院産婦人科L医師をはじめ5、6名の麻
酔科医が集まっていて、午前10時45分に体外式心マッサージを開始した。
午前10時55分ころ、L医師がAの右頸部の内頸静脈から、G医師が左大
腿部の大腿静脈から、合計して50ミリリットル程度の気体を吸引した。
午前11時5分ころ、麻酔科担当医は、右内頸静脈に中心静脈カテーテル
を挿入した。
午前11時17分ころ、心室細動(心臓が無秩序に興奮、収縮し、心臓から
血液が拍出されなくなり、心停止と同じ状態になること)を生じたため、午前1
1時20分電気的除細動を行った。その結果、心拍が再開し、血圧も回復し
た。
午前11時25分に腋窩動脈を触知、以降、麻酔科担当医は脳浮腫、腎機
能障害などの予防、治療のため、脳圧降下剤(マンニトール)、血液の酸性化
を補正する薬(メイロン)、抗ショック剤(ソルメドロール)、ショックの進行を抑
圧する薬(ミラクリッド)、利尿剤(ラシックス)等を投与した。
午前11時35分、Aの血圧は最大165、最低98、脈拍170まで回復し、午
前11時45分には自発呼吸が出現した。
その後、麻酔科担当医は投薬治療を継続しながら経過観察を行った。
(甲21、甲31の77ないし91ページ、甲45、乙3の1の8ないし10ページ、
乙5、乙8、証人I医師、証人G医師)
イ Aは、午後1時10分に手術室を退室した。午後1時30分から午後2時50分
まで高圧酸素療法施行、午後3時に脳CT検査施行、午後3時30分にICUに
入室した。(乙3の1の10ページ)
2 1の認定のうち、①ETCO2 が33に低下した時刻、午前10時30分のETCO2 
の数値、②G医師を呼んだ時刻、G医師が来室した時刻、③ETCO2 が20台前
半に低下した時刻、④炭酸ガスを排出した時刻について、原告ら及び被告は、1の
認定と異なる主張をするので、以下検討する。
(1)午前10時30分ころまでのETCO2 の推移について
ア 原告らは、麻酔記録及びカルテの記載等を根拠として、午前10時25分に3
3に低下し、午前10時30分に20台前半に低下したと主張する。これに対し
て、被告は、午前10時30分に33に低下し、午前10時35分以降に20台前
半に低下したと主張する。
イ 麻酔記録(乙5)には、午前10時30分の位置付近に、SaO297、ETCO2
33との記載がある。
麻酔記録は、I医師が本件手術中に、カプノメーター等で数値を確認した直
後に記載したものである(証人E医師、証人I医師)から、その記載は信用する
ことができる。
このSaO297、ETCO233との記載位置は、午前10時30分 の位置
のわずかに左側(午前10時側)にあるが、午前10時25分の位置よりは明ら
かに右側(午前10時30分側)であって、ほとんど午前10時30分の位置近く
にあるから、これが午前10時25分の位置に記載されたものとは認められな
い。麻酔記録の記載によれば、ETCO2が3 3であったのは、午前10時30
分あるいはその直前、すなわち、午前10時28ないし30分であると認められ
る。
ウ カルテ(乙3の1の8ないし10ページ)には、午前10時25分の段落にSaO2
99→97%に低下、10時30分の段落にETCO2低下 との記載がある。
カルテのうち本件手術の経過についての記載は、F医師が本件手術の直
後に関係者の話や他の記録等の情報を総合、整理して記載したものであり、
当時もっとも客観的事実に沿うと判断したことが記載されているのであり、ほ
ぼ正確なものと認められる。ただし、このカルテの記載は、午前10時25分か
ら午前11時までの間、5分刻みで記載されていることから、当該時刻の段落
に記載された事項は、当該時刻の前後に起きた事実が記載されているもので
あって、それぞれ記載された事実がその時刻に起きたとは限らないというべき
である。
そうすると、カルテの記載からは、SaO2が午前10時25分前後に 低下
し、ETCO2が午前10時30分前後に低下したことになる。
エ J看護婦が作成した看護記録の午前10時30分の欄にはAのバイタルサイ
ンの定期的記載事項が記載されていてその数値に異常はなく(乙8)、J看護
婦は、午前10時30分ころ、それまでと同様に、通常のとおり手術に立ち会っ
ていることが窺える。また、Aに大きな異変があれば、本件手術を施行してい
たF医師やE医師が変化に気づかないはずがないと考えられるが、同医師ら
が、午前10時30分ころ、とくに異変に気づいた様子はない。
そうすると、午前10時30分の時点で、Aに、ETCO2 が20台に低下する
ような大きな異変が起こっていたとは考えにくい。
オ 以上によれば、午前10時25分ころにSaO2が97に低下し、午前10時28
ないし30分ころにETCO2が33に低下したものと認められる。カルテの午前
10時30分の段落にあるETCO2低下の記載は、33に 低下したことを指
すものであり、20台に低下したことを意味するとは認められない。病状説明会
のときに被告病院麻酔科がAの親族に対して経過を説明するために作成した
麻酔経過表(甲45)の10時30分呼気炭酸ガス分圧低下との記載も、同様で
ある。
(2)G医師を呼んだ時刻、G医師の来室時刻について
ア 被告は、午前10時25分ころAのSaO2 が97に低下したときに、I医師がJ
看護婦を通じてG医師に来室を求めたが、このときG医師は麻酔センターにお
らず、午前10時30分前後にL医師が来室し、午前10時35分にG医師が来
室したと主張する。他方、原告は、G医師は午前10時40分ころに来室したと
主張する。
イ J看護婦は、8月20日の病状説明会において、I医師からG医師を呼ぶよう
に依頼されたが、その前にAの状態を確認したときには何ら異常はなく、I医師
に依頼されてから事態が急変し(甲33の4、5ページ)、手術室へ来室を求め
る連絡の後はすぐに人が集まったと述べている(甲33の10ページ)。J看護
婦の病状説明会における供述は、本件手術直後のものであって信用性が高
いというべきであり、そうすると、G医師を呼んだ時刻は、G医師ら他の医師が
来室した時刻(原告らと被告の間で争いがあるが、早くとも午前10時35分こ
ろ)からそれほど前ではなかったことになる。また、J看護婦の上記供述によれ
ば、J看護婦がI医師にG医師を呼ぶように依頼された後に、事態が急変してA
に明らかな異変がおきたのであるから、J看護婦がI医師にG医師を呼ぶよう
依頼されたのは、J看護婦がAのバイタルサインを確認してもAに特段の異常
を認めなかった午前10時30分(看護記録(乙8)の記載から認められる)より
も後であると認められる。
以上から、J看護婦がI医師にG医師を呼ぶよう依頼され、G医師を呼んだ
のは、午前10時30分の後のことであると認められる。
なお、カルテの午前10時25分の段落には、「SaO299→97% に低下
し/DrI麻酔センターに上級医の応援依頼」との記載があり(乙3の1の8ペー
ジ)、I医師もまた午前10時25分に上級医の応援を呼んだと証言する。そし
て、I医師は、その後L医師が来室したと証言し、G医師もまたI医師の応援依
頼に応じたのはL医師であると証言する。しかし、これらの証言は、J看護婦が
I医師に呼ばれた後にすぐ人が集まったというJ看護婦の供述と合致しない。G
医師の証言によれば、J看護婦以外の看護婦が手術室からのインターホンで
G医師を呼んだというのであるが、誰がどのような事情で呼んだのか不明であ
ることや、I医師自身、8月20日の病状説明会において、I医師がAに異変を認
めたのは午前10時30分過ぎのことで、すぐにG医師を呼んだことを前提に説
明していると窺われる(甲32の36ページ)ことからすると、I医師がG医師を呼
んだ時刻に関するI医師及びG医師の証言を採用することはできない。そし
て、カルテのこの部分は、F医師が、本件手術後に、麻酔科担当医から得た
情報を記載したのであるから、カルテのこの部分の記載が事実に基づくと認
めることはできない。
ウ 次に、G医師の来室時刻に関しては、カルテの午前10時35分の段落には、
最初に、G医師来室との記載があり、I医師、G医師もG医師の来室時刻は午
前10時35分であった旨の証言をする。前記のとおり、J看護婦は、G医師を
呼んでからすぐに人が集まってきたと述べている。
また、麻酔記録(乙5)によれば、麻酔科担当医は、午前10時38分ころ、
麻酔薬、笑気の投与を中止して、100パーセント酸素による換気を行ったこと
が認められるが、この処置は、すでに来室していたG医師の指示に基づくこと
は、I医師の証言からも明らかである。
したがって、G医師が来室したのは、午前10時35分前後であると認められ
る。看護記録には午前10時40分にG医師来室との記載があるが、採用する
ことができない。
(3)ETCO2が20台前半に低下した時刻について
ア 原告らは、ETCO2が20台前半に低下した時刻について、午前10 時30
分ころと主張していることは前記のとおりである。
しかし、午前10時30分ころには、ETCO2が20台前半に低下す るよう
な大きな異変はなく、同時刻ころのETCO2は33であったこと は前記のと
おりである。
イ G医師の来室時刻は午前10時35分ころであると認められることは前記のと
おりである。G医師は、AのETCO2 が異常であると感じる程度まで悪化した
のは入室後であると証言する。F医師もまた、G医師が来室後にいろいろなチ
ェックをしていた記憶があり、G医師の入室後4分前後経過した時点で麻酔科
医の様子をきっかけにAの異変に気付いたと証言している。そうすると、G医
師が来室したときにAの状態がすでに明らかな異変をおこしていたとは認めら
れない。AのETCO2 が20台前半に低下して異変が明らかになったのはG
医師の来室後数分が経過してからであり、午前10時38分ころであると認め
られる。このことは、麻酔科担当医が、患者の異変に際してまずとるべき処置
である、麻酔薬、笑気の投与の中止、100パーセント酸素による換気を行っ
たのが前記のとおり午前10時38分ころのことであることとも合致する。
(4)炭酸ガスを排出した時刻について
ア 原告らは、腹腔鏡を抜去した午前10時42分ころであると主張する。
イ 確かに、E医師は、炭酸ガスは外套管を抜去して排出したと証言していて、
外套管を抜去したのは午前10時40分過ぎである。しかし、実際に炭酸ガス
を排出したのは執刀医であるF医師であり(証人F医師)、F医師は、カルテ
に、10時35分の段落に「硬性鏡(腹腔鏡)より炭酸ガス排出」、10時40分の
段落に「硬性鏡(腹腔鏡)、鉗子抜去」と記載しているし(乙3の1の9ページ)、
平成3年8月20日(本件手術の25日後)に行われた病状説明会において、
手元のスイッチにより炭酸ガスを排出し、炭酸ガスを排出した後に機械を抜い
たと述べている(甲32の83ページ)。そして、カルテは、F医師が、本件手術
後に各種の情報を総合し、おこった出来事を整理して客観的事実の確定に努
め、その集大成として産婦人科のカルテに残すべき事実を記載したものと認
められるうえ、炭酸ガス排出や硬性鏡抜去の事実はF医師自身が行い、経験
したことであるから、炭酸ガス排出や硬性鏡抜去に関するカルテの記載は、F
医師が記載当時もっとも客観的事実に沿うと判断したことが記載されていて、
他のメモ類の記載よりも正確なものと認められる。また、本件手術の25日後
のF医師の前記供述は、鮮明な記憶に基づいていて、自分が行った動作に関
する供述であり、正確なものであると認められる。これに対し、E医師の証言
は、本件手術後7年が経過していることもあり、細部の記憶が不正確であると
いわざるを得ない。
以上の点を総合すると、F医師は炭酸ガスを手元のバルブにより排出し、そ
の後腹腔鏡を抜去したと認められ、炭酸ガスを排出した時刻は、午前10時4
0分ころであると認められる。
ウ 原告らは、産婦人科担当医が炭酸ガスを排出したのは、Aの心拍数が低下
してからであるから午前10時40分の後であるとも主張する。しかし、午前10
時40分ころには既に、Aに昇圧薬(エフェドリン)とともに脈拍数上昇薬(アトロ
ピン)が投与されていることからすると、そのころには脈拍数の低下が始まっ
ていたと認められる。したがって、F医師がAの心拍数低下を現認してから炭
酸ガスを排出したからといって、炭酸ガスの排出が午前10時40分の後であ
ると認めることはできない。そして、F医師が、カルテに、午前10時35分の段
落に「硬性鏡(腹腔鏡)より炭酸ガスを排出」、午前10時40分の段落に「HR
(心拍数)73→30に急激に低下」と記載し、午前10時40分の心拍数の低下
の前に炭酸ガスを排出したと記載していて、カルテにはF医師が記載当時もっ
とも客観的事実に沿うと判断した事実が記載されていると認められることは前
述のとおりであるから、F医師は同記載の順番に措置を行ったと認められる。
(なお、F医師が、平成3年8月20日の病状説明会で、午前10時40分の後に
炭酸ガスを排出したと述べたのは(甲32の83ページ)、混乱したものと思わ
れ、この供述がカルテの記載よりも正確なものと認めることはできない。)
エ 前記のとおりG医師が手術室に来室したのは午前10時35分のことであり、
F医師は、炭酸ガスを排出したのはその4分後のことであると証言する。
オ 以上のことからすると、炭酸ガスの排出時刻は午前10時40分ころと認めら
れる。
3 争点(1)について
 以上認定した事実を前提に、産婦人科担当医の注意義務違反の有無を検討す
る。
(1)まず、産婦人科担当医の具体的処置に注意義務違反が認められるか検討す
る。
前記認定した事実のとおり、本件手術の際、産婦人科担当医は、腹腔鏡から
骨盤腔内を観察していて明らかな出血を認めていないし、出血総量が50ミリリッ
トル強と少量であり、ヘモグロビンの値をみても貧血状態ではない。したがって、
産婦人科担当医は、通常腹腔鏡検査時に想定される出血量を超えた出血をお
こすような処置を行っていないと認められる。
また、炭酸ガスの注入は、自動気腹装置により行われているから、設定圧を
超えて注入することはない。Aの異変が生じたのは炭酸ガス注入後1時間近くが
経過してからのことであるから、手術開始時の炭酸ガスの注入が不適切であっ
たと認めることはできない。その他に、手術中の炭酸ガスの注入の際、産婦人科
担当医が、通常の腹腔鏡検査に比して妥当を欠くような圧を加えたことを窺わせ
る事情は認められない。
したがって、産婦人科担当医の具体的処置が、本件手術当時、腹腔鏡検査を
行っていた医療機関の医療水準に比し、不適切で妥当を欠いたものと認めるこ
とはできず、産婦人科担当医に注意義務違反は認められない。
(2)原告らは、Aにガス塞栓が発生したことを前提に、ガス塞栓発生の結果から、産
婦人科担当医が炭酸ガスの圧力を高くしすぎたり、血管を通常以上に損傷した
事実が認められると主張するので、この点について検討する。
ア ガス塞栓の発生について
Aは、本件手術中に循環不全、呼吸不全を起こしているところ、その原因
は、ガス塞栓によるものであると考えられることは、以下のとおりである。すな
わち、証拠(乙12)によれば、ETCO2 が20台まで低下する原因としては、
①換気量増加、②二酸化炭素産生量の低下、③肺血流量の減少が考えられ
るが、全身麻酔中であったAのETCO2 が20台まで低下する原因として考
えられるのは肺血流量の減少のみであること、肺血流量の減少の原因として
考えられるのは、①心拍出量(心臓から駆出される血液量)の減少、②肺動
脈の閉塞があるが、AのETCO2 が20台に低下したころである午前10時3
5分の血圧や脈拍数からみると心拍出量の減少が原因であるとは考えられな
いこと、そうすると、肺血流量の減少の原因として最も考えられるのは肺動脈
の閉塞であることが認められる。そして、Aが循環不全、呼吸不全に陥ったの
が、二酸化炭素を用いた気腹中であることや、午前10時55分ころに麻酔科
医2名が、少なくとも大腿静脈からガスを吸引したと考えられることからすれ
ば、Aにガス塞栓による肺動脈の閉塞が発生したと認めるのが相当である。
イ ガス塞栓に関する産婦人科担当医の注意義務違反について
そこで、Aにガス塞栓による肺動脈の閉塞が発生した結果から、産婦人科
担当医の注意義務違反が認められるかについて検討する。
証拠(乙11)によれば、腹腔鏡検査時にガス塞栓が起きるほど血管内にガ
スが流入する経緯として、血管を穿刺したままガス注入を行うか、腹腔内圧が
高くなりすぎて破れた血管にガスが流入する場合があげられ、毛細血管の損
傷によるガス塞栓の発生の可能性は皆無とはいえないが極めて低いことが
認められる。
本件手術において、明らかな出血がなかったことは前記(1)のとおりである
から、血管を穿刺したままガス注入を行ったり、腹腔内圧が高くなりすぎて破
れた血管にガスが流入したという事実は認められない。また、毛細血管の損
傷や腹腔内圧が高すぎることによりガス塞栓が起きる可能性は、皆無とはい
えないが極めて低いという程度であることからすると、本件では考えられな
い。Aにガス塞栓が起こった原因は、医学的に解明できないといわなければな
らない。
以上のことからすると、産婦人科担当医が毛細血管を損傷したり、腹腔内
圧を高くしすぎたと認定することはできない。仮に、毛細血管の損傷が原因で
Aにガス塞栓が起こったのだとしても、毛細血管の損傷によりガス塞栓を起こ
す可能性が、皆無とはいえないが極めて低いという程度であることからする
と、産婦人科担当医が、自己の処置により毛細血管を損傷してガス塞栓が起
こることを具体的に予見することは不可能である。
したがって、産婦人科担当医に注意義務違反は認められない。
(3)産婦人科担当医の、Aに対する本件手術の説明について注意義務違反がある
か検討する。
前記認定の事実によれば、産婦人科担当医は、Aに対し、腹腔鏡検査につい
て一般的な説明をして、AとDが腹腔鏡検査を受けることを決めるために必要な
説明をしたことが認められる。腹腔鏡検査によりガス塞栓等が起きる可能性が
あることの説明までしたとは認められないが、証拠(乙10)によれば本件手術当
時に腹腔鏡における合併症として、心停止が1000例あたり0.2、不整脈が10
00例あたり0.4、肺塞栓が1000例あたり0.2の確率で発症するとされてい
て、極めて稀な発症率であることが認められる。そして、被告病院においても本
件手術までそのような例がなかったことからすると、その説明をしなかったことが
不適切であるとまでいうことはできない。
また、Aは、手術の前日、癒着剥離の方法には、開腹術による方法と腹腔鏡
検査下に行う方法があることを理解していなかったことが認められるが、F医師
の説明により、Aが腹腔鏡検査に引き続いて腹腔鏡検査下で癒着剥離術を行う
ことに納得したのであり、産婦人科担当医の説明に不適切さは認められない。
したがって、産婦人科担当医の、Aに対する本件手術の説明に関する注意義
務違反は認められない。
4 争点(2)について
前記2で認定した事実を前提に、麻酔科担当医の注意義務違反の有無を検討
する。
(1)原告らは、AのSaO2 が97、ETCO2 が33に低下した時点での、麻酔科担
当医の注意義務違反を主張するので、この点を検討する。
証拠(乙12)によれば、SaO2 97は正常値の範囲内であり、ETCO2 35
から33への低下は臨床上よく見られる変化であり、とくに問題とする低下ではな
いことが認められる。
そうすると、それまでSaO2 はほぼ99、ETCO2 は35を保っていたことを
前提としてもなお、SaO2 が97、ETCO2 が33に低下した直後である午前1
0時30分のAの血圧と脈拍数が正常値の範囲内にあることからすれば、特別な
処置を行わずに経過を観察することとした麻酔科担当医の判断が不適切であっ
たと認めることはできない。
したがって、AのSaO2 が97、ETCO2 が33に低下したときに、麻酔科担
当医の注意義務違反は認められない。
(2)原告らは、AのETCO2 が20台前半に低下したのは午前10時30分であるこ
とを前提に、麻酔科担当医の注意義務違反を主張する。しかし、前記のとおり、
ETCO2 が20台前半に低下したのは午前10時38分ころであると認められる
から、原告らの主張の前提は事実に反する。なおこの点を措くとして、原告らは、
麻酔科担当医が上記低下の時点まで経過観察を続けたことや産婦人科担当医
に対して炭酸ガスの排出を指示しなかったことが不適切であると主張するので、
その点についても検討しておく。
前記認定の事実によれば、確かに、麻酔科担当医は、AのSaO2 が97、ET
CO2 が33に低下した後10分以上の間、特別な処置を行わずに経過を観察し
ていたことが認められる。しかし、午前10時30分の時点ではJ看護婦や本件手
術を施行していたF医師とE医師がAになんら異常を感じていないこと、午前10
時35分の脈拍、心拍数は正常値の範囲内であり、ETCO2 は麻酔下において
臨床上みられる値であったこと、気腹開始後1時間近くが経過していて、産婦人
科担当医が顕著な出血をおこす処置を行っていないなど、ガス塞栓発生を認識
できる事情はなかったことからすると、午前10時38分ころまで経過観察を続け
たことは、注意義務違反と評価できるほど不適切なものであったとは認められな
い。
さらに、前記のとおり、ガス塞栓が発生した原因が医学的に解明できない本
件において、いつの時点で炭酸ガスを排出していれば、結果発生を回避できた
かどうかも不明であることからすれば、麻酔科担当医が経過観察を止め、何ら
かの処置をすることによって結果発生が回避できたのか不明であるといわなけ
ればならない。
また、炭酸ガスの排出に際し、麻酔科担当医が産婦人科担当医に対して排出
を指示しなかったのは、Aの異変に気づいた産婦人科担当医が自らの判断で炭
酸ガスを排出したからであり、麻酔科担当医が指示をしなかったことが不適切で
あるとはいえない。
したがって、麻酔科担当医に注意義務違反は認められない。
5 結論
以上によれば、原告らの請求は、その余の判断をするまでもなく理由がないか
ら棄却することとして、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結の日 平成13年9月21日)
札幌地方裁判所民事第3部
裁判長裁判官   中西茂
    裁判官   川口泰司
    裁判官   戸村まゆみ

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