弁護士法人ITJ法律事務所

裁判例


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         主    文
     原判決中、被告人らに関する部分を破棄する。
     本件を東京地方裁判所に差し戻す。
         理    由
 東京地方検察庁検事正代理岡崎格の上告趣意第一について。
 そもそも憲法二一条の規定する集会、結社および言論、出版その他一切の表現の
自由が、侵すことのできない永久の権利すなわち基本的人権に属し、その完全なる
保障が民主政治の基本原則の一つであること、とくにこれが民主主義を全体主義か
ら区別する最も重要な一特徴をなすことは、多言を要しない。しかし国民がこの種
の自由を濫用することを得ず、つねに公共の福祉のためにこれを利用する責任を負
うことも、他の種類の基本的人権とことなるところはない(憲法一二条参照)。こ
の故に日本国憲法の下において、裁判所は、個々の具体的事件に関し、表現の自由
を擁護するとともに、その濫用を防止し、これと公共の福祉との調和をはかり、自
由と公共の福祉との間に正当な限界を劃することを任務としているのである。
 本件において争われている昭和二五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集
団示威運動に関する条例(以下「本条例」と称する)が憲法に適合するや否やの問
題の解決も、結局、本条例によつて憲法の保障する表現の自由が、憲法の定める濫
用の禁止と公共の福祉の保持の要請を越えて不当に制限されているかどうかの判断
に帰着するのである。
 本条例の規制の対象となつているものは、道路その他公共の場所における集会若
しくは集団行進、および場所のいかんにかかわりない集団示威運動(以下「集団行
動」という)である。かような集団行動が全くの自由に放任さるべきものであるか、
それとも公共の福祉――本件に関しては公共の安寧の保持――のためにこれについ
て何等かの法的規制をなし得るかどうかがまず問題となる。
 およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および、冠婚葬祭等の行事
をのぞいては、通常一般大衆に訴えんとする、政治、経済、労働、世界観等に関す
る何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団
行動には、表現の自由として憲法によつて保障さるべき要素が存在することはもち
ろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版
等によるものとはことなつて、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する
一種の物理的力によつて支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、
あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によ
つてきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団で
あつても、時に昂奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒
と化し、勢いの赴くところ実力によつて法と秩序を蹂躪し、集団行動の指揮者はも
ちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在する
こと、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである。従つて地方公共団体が、
純粋な意味における表現といえる出版等についての事前規制である検閲が憲法二一
条二項によつて禁止されているにかかわらず、集団行動による表現の自由に関する
かぎり、いわゆる「公安条例」を以て、地方的情況その他諸般の事情を十分考慮に
入れ、不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に
講ずることは、けだし止むを得ない次第である。
 しからば如何なる程度の措置が必要かつ最小限度のものとして是認できるであろ
うか。これについては、公安条例の定める集団行動に関して要求される条件が「許
可」を得ることまたは「届出」をすることのいずれであるかというような、概念乃
至用語のみによつて判断すべきでない。またこれが判断にあたつては条例の立法技
術上のいくらかの欠陥にも拘泥してはならない。我々はそのためにすべからく条例
全体の精神を実質的かつ有機的に考察しなければならない。
 今本条例を検討するに、集団行動に関しては、公安委員会の許可が要求されてい
る(一条)。しかし公安委員会は集団行動の実施が「公共の安寧を保持する上に直
接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」の外はこれを許可しなければならない
(三条)。すなわち許可が義務づけられており、不許可の場合が厳格に制限されて
いる。従つて本条例は規定の文面上では許可制を採用しているが、この許可制はそ
の実質において届出制とことなるところがない。集団行動の条件が許可であれ届出
であれ、要はそれによつて表現の自由が不当に制限されることにならなければ差支
えないのである。もちろん「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らか
に認められる場合」には、許可が与えられないことになる。しかしこのことは法と
秩序の維持について地方公共団体が住民に対し責任を負担することからして止むを
得ない次第である。許可または不許可の処分をするについて、かような場合に該当
する事情が存するかどうかの認定が公安委員会の裁量に属することは、それが諸般
の情況を具体的に検討、考量して判断すべき性質の事項であることから見て当然で
ある。我々は、とくに不許可の処分が不当である場合を想定し、または許否の決定
が保留されたまま行動実施予定日が到来した場合の救済手段が定められていないこ
とを理由としてただちに本条例を違憲、無効と認めることはできない。本条例中に
は、公安委員会が集団行動開始日時の一定時間前までに不許可の意思表示をしない
場合に、許可があつたものとして行動することができる旨の規定が存在しない。こ
のことからして原判決は、この場合に行動の実施が禁止され、これを強行すれば主
催者等は処罰されるものと解釈し、本条例が集団行動を一般的に禁止するものと推
論し、以て本条例を違憲と断定する。しかしかような規定の不存在を理由にして本
条例の趣旨が、許可制を以て表現の自由を制限するに存するもののごとく考え、本
条例全体を違憲とする原判決の結論は、本末を顛倒するものであり、決して当を得
た判断とはいえない。
 次に規制の対象となる集団行動が行われる場所に関し、原判決は、本条例が集会
若しくは集団行進については「道路その他公共の場所」、集団示威運動については
「場所のいかんを問わず」というふうに、一般的にまたは一般的に近い制限をなし
ているから、制限が具体性を欠き不明確であると批判する。しかしいやしくも集団
行動を法的に規制する必要があるとするなら、集団行動が行われ得るような場所を
ある程度包括的にかかげ、またはその行われる場所の如何を問わないものとするこ
とは止むを得ない次第であり、他の条例において見受けられるような、本条例より
も幾分詳細な規準(例えば「道路公園その他公衆の自由に交通することができる場
所」というごとき)を示していないからといつて、これを以て本条例が違憲、無効
である理由とすることはできない。なお集団的示威運動が「場所のいかんを問わず」
として一般的に制限されているにしても、かような運動が公衆の利用と全く無関係
な場所において行われることは、運動の性質上想像できないところであり、これを
論議することは全く実益がない。
 要するに本条例の対象とする集団行動、とくに集団示威運動は、本来平穏に、秩
序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、
暴力に発展する危険性のある物理的力を内包しているものであり、従つてこれに関
するある程度の法的規制は必要でないとはいえない。国家、社会は表現の自由を最
大限度に尊重しなければならないこともちろんであるが、表現の自由を口実にして
集団行動により平和と秩序を破壊するような行動またはさような傾向を帯びた行動
を事前に予知し、不慮の事態に備え、適切な措置を講じ得るようにすることはけだ
し止むを得ないものと認めなければならない。もつとも本条例といえども、その運
用の如何によつては憲法二一条の保障する表現の自由の保障を侵す危険を絶対に包
蔵しないとはいえない。条例の運用にあたる公安委員会が権限を濫用し、公共の安
寧の保持を口実にして、平穏で秩序ある集団行動まで抑圧することのないよう極力
戒心すべきこともちろんである。しかし濫用の虞れがあり得るからといつて、本条
例を違憲とすることは失当である。以上の理由によつて、上告人の主張は結局正当
なるに帰し、本条例を違憲、無効とする原判決は破棄を免れない。
 よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとお
り判決する。
 この判決は、裁判官藤田八郎、同垂水克己の反対意見があるほか、裁判官全員一
致の意見によるものである。
 裁判官藤田八郎の反対意見は次のとおりである。
 憲法二一条の規定する表現の自由の完全な保障が民主政治の最も重要な基本原則
の一つであること、国家、社会は表現の自由を最大限に尊重しなければならないこ
とは多数意見の説くとおりであり、新憲法の保障する表現の自由は、旧憲法下にお
けるそれと異り、立法によつてもみだりに制限されないものであることは、つとに
当裁判所の判例の示すところである。
 そして、本件東京都条例の規制の対象となつている「道路その他公共の場所にお
ける集会若しくは集団行進および場所のいかんにかかわりない集団示威運動」はす
べて憲法の保障する表現の自由の要素をもつものであることは多数意見のみとめる
ところである。(ただし、「集会の自由」は、憲法二一条が直接明文をもつて保障
するところであるのみならず、本件はいわゆる集団行動に関する事案であつて、単
なる「集会の自由」は直接関係するところでないから、憲法の「集会の自由」を許
可にかからしめる制度の合憲なりや否やの論議は、これを省く。)ただ、憲法上の
基本的人権といえども、国民はこれを濫用してはならないのであり、常に公共の福
祉のために利用する責任を負うのであるから、新憲法下における表現の自由も公共
の福祉によつて調整されなければならないことも、既に当裁判所の判例とするとこ
ろである。されば、地方公共団体が、「いわゆる公安条例をもつて地方的情況その
他諸般の事情を十分考慮に入れ不測の事態に備え、法と秩序を維持するに必要かつ
最小限度の措置を事前に講ずることはけだしやむを得ない」ところであり、本件に
おいて争われている東京都条例が憲法に適合するや否やの問題も、本条例の定めて
いる措置が、憲法の保障する表現の自由に対する「必要にしてやむを得ない最小限
度」の規制として許されるものであるかどうかに帰着するのである。
 最高裁判所大法廷は、さきに、新潟県条例の合憲性に関して一五名の裁判官全員
一致の意見をもつて、「行列行進又は公衆の集団示威運動は、公共の福祉に反する
ような不当な目的又は方法によらないかぎり、本来国民の自由とするところである
から、条例においてこれらの行動につき単なる届出制を定めることは格別、そうで
なく一般的な許可制を定めてこれを事前に抑制することは、憲法の趣旨に反し許さ
れないと解するを相当とする」と判示して、この種自由とその規制に関する根本原
則をあきらかにした。(昭和二六年(あ)第三一八八号同二九年一一月二四日大法
廷判決)この意は、かくのごとき表現の自由に関する行動を行政庁の一般的な許可
にかからしめて、行政庁の許可というごとき行政行為があつてはじめて自由が得ら
れるものとし、許可を得ないでした行動は違法であつてこれを処罰するというがご
とき制度は、表現の自由の本質と相容れないものであつて、憲法上許されないとの
趣旨を宣明したものと理解すべきである。これに反して届出制なるものは、行政庁
の行為を前提とするものでなく、表現せんとする者自身に届出なる行為を要求する
にとどまるものであるから、表現の自由の本質を害するものではなく、しかも届出
に対応して、予め不測の事態の発生を防止すべき諸般の処置を講ずることができる
のであるから、この程度の規制は現下の情勢においてやむを得ない措置であるとの
意を表わしたものである。(最高裁判所大法廷はさきに、貸金等の取締に関する法
律の合憲性に関し、何人でも届出をすれば自由に貸金業を行うことができるのであ
るから、届出を怠つて貸金業を営んだ者が、これがため同法の罰則の適用を受ける
に至るとしても、これをもつて職業選択の自由を不当に圧迫するものとはいえない
旨を判示した。昭和二六年(あ)第八五三号、同二九年一一月二四日大法廷判決)
 如上新潟県条例に関する大法廷判例に示された自由とその規制に関する根本原則
は、あくまでもこれを堅持しなければならない。けだし憲法の保障する基本的人権
の本質的な理解にもとづくものであるからである。これを単に概念乃至用語の問題
として一蹴さるべきものではない。これが西独、仏、伊の立法例がこの種行動規整
の制度としてひとしく届出制をとり、許可制を採らない所以であり、また、アメリ
カ連邦最高裁判所が多年数次に亘つて表現の自由に関連する行為について、許可制
を採る各州の州法又は市条例をもつて、アメリカ憲法に違反するものと判決した根
本理念の因つて来るところでもあろう。多数意見といえども、今日たやすく前示新
潟県条例に関する大法廷判決に表明された基本原則に変更を加える意図あるものと
は思われない。
 しかるに、多数意見は、東京都条例がその第三条において、「公安委員会は集団
行動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場
合の外はこれを許可しなければならない。すなわち許可が義務づけられており、不
許可の場合が厳格に制限されている。従つて本条例は規定の文面上では許可制を採
用しているが、この許可制はその実質において届出制とことなるところがない」と
いう。しかし許可が義務づけられていること、不許可の場合が厳格に制限されてい
るという、ただそれだけでこの許可制が実質的に届出制と異るところがないといえ
ないことは多言を要しないであろう。その自由の本質に関する理念の相違は別とし
ても、行動そのものに対する許可不許可の裁量が公安委員会の権限に委ねられてい
る以上、直にこれを届出制と同視することのできないことは当然である。多数意見
はまた「本条例中には公安委員会が集団行動開始日時の一定時間前までに不許可の
意思表示をしない場合に許可があつたものとして行動することができる旨の規定が
存在しない」点に関しても「かような規定の不存在を理由にして本条例の趣旨が許
可制を以て表現の自由を制限するに存するもののごとく考える」ことは「本末顛倒」
の論であるとしている。しかし、およそある法規の内容が憲法に違反するか否かを
判断するにあたつては、その法規の趣意に対する全般的な考察を必要とすると共に、
その法規の内容を為す各条項の意義を、各条項について個々に検討する要あること
は勿論であつて、如上の規定の存否は、条例が文面上許可制をとつていてもその実
質は届出制とことならないといえるかどうかを判定するについて重要な一要素を為
すものと解する。さきに新潟県条例に関する大法廷判決の多数意見が同条例が許可
制であるにかかわらず、なおかつ、これを合憲と判断した一つの重要な要素は、同
県条例にはこの種の規定が存在しこれらの規定を「有機的な一体として考察」した
によるものであることは、同判決における多数意見とその補足意見とを対照して判
読すればたやすく理解し得るところである。許可制でありながら、これを届出制と
同視し得るとするがためには、少くともこの種の規定の存在は、最小限度に必要と
解すべきである。本件東京都条例にはかかる規定は存在しないのである。
 さらに本条例において許否決定の基準が、公共の安寧を保持する上に直接危険を
及ぼすと明らかに認められるかどうかとせられていることは、この許否は道路交通
取締上の見地からするものでなく、また公共の場所等に関し営造物管理等の必要か
らするものでもなく(これらに関しては、それぞれ別個に取締法規が制定されてい
る)もつぱら治安保持の必要に出たものであることを表わしているのであり、この
治安上、明白現在の危険の有無の判定が、行動の事前、しかも、おそくとも行動開
始の二四時間以前において、一に公安委員会の裁量に委ねられ、これにもとづいて
行動の自由が左右せられるとするところに、制度上、事前抑制のおそれなしとする
ことはできないのである。多数意見も「本条例といえども、その運用の如何によつ
ては憲法二一条の保障する表現の自由の保障を侵す危険を絶対に包蔵しないものと
はいえない」という。「しかし濫用の虞れがあり得るからといつて、本条例を違憲
とすることは失当である」という。しかし、ある法規が適憲であるかどうかの判断
は、その法規自体に濫用を防止するに足る内容の条項が備わつているかどうかにか
かるところ大である。そして表現の自由を制限するごとき法規にあつては、規定の
内容自体に濫用を防止すべき最大限の考慮が払われていなければならないことは勿
論であつて、運用の如何に責を帰せんとするがごときは法規の規範性を無視するも
のである。本条例が事前許可制をとるかぎりにおいて、如上の基準は決してその濫
用を防止するに最大限の考慮を払つたものとはいえず、この規準あるの故をもつて、
本件許可制を実質は届出制と異るところないものとすることは到底できないのであ
る。(その他本条例の許可制をもつて、たやすく、届出制と同視し得ないとする点
に関する原判決のもろもろの説示は十分に首肯し得るところである。)
 以上の理由により、自分は原判決と共に、本条例の許可制は、表現の自由に対す
る必要にしてやむを得ない最小限度の規制とはみとめ難く、憲法の趣意に沿わない
ものと断ぜざるを得ない。
 なお、多数意見は、検察官と同じく、この種行動が容易に動員されて不測の災害
を惹起する危険性のあることを強調する。しかし、取締の必要に急なるのあまり、
憲法の保障する自由の本質を見失うようなことがあつてはならない。取締の安易に
堕して、憲法上の大義に対する考慮をゆるがせにすることは許されない。アメリカ
連邦裁判所のロバーツ判事は、ハーグ対CIO事件の判決(一九三九年)において「
意見表明の特権を官憲が無制約に抑圧することをもつて、意見表明の権利行使に関
し生じ得る混乱から社会秩序を維持する官憲の義務に代えることは許されない」と
いつている。またセイア対ニューヨーク事件の判決(一九四七年)において、その多
数意見は「……本件のごとき性格の条例の憲法上の効力を審案するにあたつては種
々の社会の利益が衡量されなければならない。しかしその過程において、修正第一
条による自由権に優位を与えるよう常に留意されなければならない」と。こころす
べきである。
 これを、治安対策の見地からみても、内容に疑義を包蔵する法規をもつてしては、
その実効は期し難い。憲法上疑義のない法規を整備して、事態に対処することこそ
今日の急務であると信ずる。
 裁判官垂水克己の反対意見は次のとおりである。
 (一) 本条例一条のうち集団示威運動のみに関する「場所のいかんを問わず」
の文言を削り、かつ、新潟県条例四条のような「申請を受理した公安委員会が当該
行列行進、集団示威運動開始日時の二四時間前迄に条件を附し又は許可を与えない
旨の意思表示をしない時は許可のあつたものとして行動することができる。」旨の
規定を設けないかぎり、本条例中集団示威運動を許可制とし、無許可又は許可条件
違反の集団示威運動の指導者等を処罰する規定は憲法二一条一項に違反すると考え
る。
 私は、「場所のいかんを問わず」とは「公共の使用に供する」公園等もしくは「
一般交通の用に供する」道路の外は精精、これらの場所に隣接する私有地(例えば、
駐車場、空地)ぐらいを意味すべきものと考える。また、所定時限までに許可、不
許可の処分がないときは申請者と彼の集団は(申請書記載どおりの)集団示威運動を
して差支ないとするのが多数意見の趣旨であるか否かは必ずしも明らかではないが、
万一この趣旨であるとすれば、それも理解できないことはない。けれども、条例の
明文上かような真意が示されていないなら、一般民衆は許可処分を受けないかぎり
集団示威運動をあきらめ、一方、若しこの場合集団示威運動が行われたら、警察は
不法な無許可示威運動としての取締、検挙等の措置を屡々とることなきを保し難い。
 現に、昭和三二年六月一日だけで東京都公安委員会の許可した例をみても、某火
災映画愛好会のDにおける会員親睦座談会、E協会主催の某寺境内における映画試
写会、某高等学校第八回卒業三年D組のFにおけるクラス会、本所保健所主催の某
氏方での栄養講習会、某睦会某氏主催の同氏方庭での映画の夕が本件昭和二五年東
京都条例四四号に基いて申請され許可されている。(これは本件被告人G外一名に
対する別件につき昭和三四年一〇月一三日東京地方裁判所刑事第四部の言渡した判
決(G無罪)が証拠によつて認めた事実である。)誰がこれを驚かないでいられよう。
同時に我々はこれを見のがしてはならない。
 通常人が見たら道が塞がれているように見せかけておいたら、多くの人は通行を
差控えるだろう。通行をあきらめた人に後になつて通行できたのだというのは公正
でなく、一般人をまどわすものである。計画した示威運動が時機を失してしまつた
後で、許可、不許可処分をしなかつたことを訴訟で争つてみたところで、判決では、
嘗ての大法廷判決(昭和二七年(オ)一一五〇号同二八年一二月二三日判決、集七
巻一三号一五六一頁)のように「昭和二七年五月一日メーデーのために皇居外苑使
用不許可処分の取消を求める訴は右期日の経過により判決を求める法律上の利益を
喪失する」との理由から請求を棄却されるのが落ちで、救済手段はないのである。
だから、本条例中集団示威運動に関する規定は不明確な基準で示威運動の自由を許
可によつて抑圧する結果を是認し憲法二一条に違反するものと解するのを相当と考
える。所定時限内に許可、不許可処分がないため予定の集団示威運動を行なつた場
合にその指導者が処罰されないのは、私をしていわしめるならば、条例が不備違憲
なためである。表現の自由の制限に関するかぎり、多数意見の考える程度にまで合
憲になるよう解するのは当を得ない、すべからく自由を制限する右規定を改正して
明確にすべきである。
 それよりも私が心配することは、多数意見が本条例を合憲と判断するに当り、本
条例が厳守する「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められ
る場合」という基準をさえ若しかすると一擲したのではないか、すなわち、多数意
見が拡大解釈の自由な抽象的で随分広い基準を新たに持ち込んだのではないか、と
疑われないか、という点である。多数意見が判示する「不測、不慮の(思いがけな
い・予見できないの意味であろう)事態に備え」というのは「直接危険を及ぼすと
明らかに認められる場合」というよりは遙かに広い概念であり、また、「法と秩序
の維持の必要」、「平和と秩序を破壊するような、またはさような傾向を帯びた行
動」という判示も同様のように思われる。多数意見は恐らくはこれを新らしい基準
とするとは言わないのだろう。が、もしかような基準をもつてすれば集団表現行動
の自由は法律、条例をもつてすれば殆んどいくらでも制限でき、これでは多数意見
は憲法二一条の軌道から離れて「法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自
由ヲ有ス」とした明治憲法に接近するのではあるまいか、多数意見を私が誤解し心
配し過ぎているなら幸である。多数意見の判示するように、国民は憲法の保障する
自由と権利を常に公共の福祉のために利用する責任を負うが(憲法一二条)、表現の
自由の制限は「公共の福祉のために」という抽象的尺度ではいけない、それぞれの
範疇の表現、集団表現行動なら集団表現行動に即した合理約な明確な基準によつて
なされなければならない。それほど表現の自由は他の自由、権利とは異る憲法上大
切な性質のものなのである。
 私は、本条例中集団示威運動に関する規定は憲法二一条一項に違反するから第一
審判決が被告人H、I、G、Jの判示所為につき本条例を結局違憲として適用せず
無罪を言い渡したのは相当であつて、本件上告は理由がない、と考える。
 以上の結論に到達した理由を次に少しく述べたい。
 (二) 基本的立場 すべての人はその資性能力に応じて精神的または肉体的労
働に従事するとともに、十分な精神的・物質的生活の糧をえることができるが、他
人の労働の所産を搾取し、働かないで食うことは許されない、人が悲惨窮乏のうち
に生涯を終るようなことはなくせねばならぬ。ということは、今日の人類、世界の
すべての憲法や「人権に関する世界宣言」の主義とするところである。しかし、個
人が侵すべからざる尊いものであることに目醒めた国民が、如何に物質的幸福(い
や、ある種の精神的幸福さえも)が十分に与えられても、自由殊に精神的自由ない
し政治的自由が奪われた社会は殆んど生きるに値しない位に考えるとしても、むし
ろ当然であろう。そして一人一人の人間から奪われてならない、侵すことのできな
い基本的自由のうち表現の自由こそは最も大切なものの一つであるとする精神はわ
が憲法を一貫している。その精神は何か。一人一人の個人は尊い、誇り高い存在で
ある。国民の各人は何が真理であり、善であるか、美であるかを宗教、信条、道徳、
学問、世界・人生観の分野において、また社会、政治、経済、文化、芸術等あらゆ
る分野において、自由に考え、考えたところを自由に公表することができるととも
に、自分の考と異る他人の考を知ることができ、彼と互いに腕力でなく活溌自由な
言論や芸術的表現の交換によつて深思反省切瑳琢磨するときは各人は各自の個性を
開発成長洗錬させ自己を完成し生き甲斐のある尊い一生を送ることができるのみな
らず、その総合的成果は次代への遺産となり全人類の進化に貢献することが大きい
のである。法律や政府が言論統制をしないで表現の自由競争を認めるなら、遂には
真理が勝ち、あるいは百花共に咲き実のるであろう。一億一心は排される。若し、
言論、表現の自由競争が抑圧統制されるなら、恰かも一切の運動競技が禁ぜられた
世の中で人間の運動競技のレコードの更新進歩が期待できないのと同様に、国民の
精神そのものが正統派なりに固定、萎縮沈滞して終うのである。更に国民個人は日
常起つた出来事を公表しかつ真の事実を知らされなければならない。国民が多数人
の内心の声を聞き、苦言や悲しむべき事実の報道をも聞いてこそ、実情に適い民意
に副う明るい政治が可能となるのである。十分な報道のないところでは流言、虚報
によつて国民はだまされうる。国民は官報のような制限されたニユースばかりをあ
てがわれるなら、何時の間にかめくら、つんぼになり、また、会議での討論が活溌
に行われない仕組になるなら盲従するおし(唖者)になつてしまうであろう。歴史に
ついても国民は真実を知らせ又知らされなければならない。特定のイデオロギーか
ら取捨選択し一部の事実を抹殺したり誇張したりした歴史だけを知らされるような
統制はされてはならない。同時に、重要なことは、各人は或る事を表現しない自由、
見聞しない自由をも持つということである。だからわが憲法下では、どんな宗教、
信条でも、また、現憲法をやめよという無政府主義、共産主義、独裁主義、あるい
は男女不平等主義でも公表することは一般に自由なのである。これは自由主義憲法
の弱点であるとともに、これこそがその強味なのである。されば、この自由は、政
府はもちろん国会や地方議会が如何なるイデオロギーや綱領を持つ場合でも、立法
や行政をもつて抑圧されないことが憲法上保障され、抑圧された場合には裁判所の
判決によつて違憲無効とされるのである。
 共産主義ないし共産社会主義は、要するに、次のようなものなのであろうか。す
なわち、土地、建物、工場、交通通信機関その他一切の重要生産手段はすべて私人
から没収して社会有とし、生産は個人の自由でなく計画に従つて万人の労働によつ
てなされ、各人に対する物質的・精神的生活の糧の分配も計画的に分に応じてなさ
れなければならない、かような社会組織を全世界を一つのものとして実現すること
が終局的のねらいであり、一国共産主義は否定される、国家は封建制度と同様に人
類進歩の歴史の必然からいずれ解消すべき運命にある、とはいえ、今日の資本主義
制の国家の下では資本家階級は労働者・無産者階級を搾取しつつあり、彼らの所有
する財産が没収されることに(憲法改正の方法によるにせよ)同意する筈はないから、
これをすべて没収して社会有、少くとも先ず国有とするためにはこれら被圧迫階級
による暴力革命(広範囲の多数人の生命、身体、自由および殆んどの重要財産の奪
取破壊を含む)の手段によるしかない、この革命が全世界において成就した暁から
こそ階級闘争なく国家なく戦争のない恒久平和の社会が続く、この恒久平和をめざ
す勢力が人類進歩の運命に道を開く進歩的、平和愛好勢力であり、これに反対する
者は反動であり、資本家階級のする戦争は(先に手出しをしたか否かを問わず)すべ
て侵略戦争である、平和愛好勢力は世界革命の達成、反革命の完全鎮圧までは矛を
おさめてはならない、平和愛好勢力は革命前にも資本主義の法律組織や官憲の権威
を失墜させ手段を選ばず革命の契機をつくらなければならない、というようなもの
であろうか。とすれば、かような教はわが憲法の理念と著しく相反するものである
が、この教を主張公表し、傾聴することの自由は憲法上保障されており、十分傾聴
してよいことである。それが自由主義憲法における思想に対する寛容性というもの
である。
 けれども、もし、革命後の社会においては、職業の自由、住居移転の自由が抑圧
されるのはまだしも、人身の自由や信教、学問、集会、結社、言論、出版その他あ
らゆる表現の自由、政治的自由が抑圧され、むしろ、会議では自由な発言権なく、
国民は真実を知らされず、言論思想の統制が強度に行われうる組織になるなら、か
ような社会状態は独立自尊の精神に富む目醒めた個人の多数からなる国民がどうし
てこれを生き甲斐ある社会と考えることができよう。万人がひとしく窮乏に苦しみ
あるいは洩れなく豊富な物資を恵まれることは確かに結構なことであるが、表現の
自由を奪われ(頂上にある優れた指導者達はよいとして)無数の下部指導者達(人
間だから弱点の多いものである)の政治的判断、措置に一般民が服従すべく鉄の規
律(これは新らしい鉄鎖になり兼ねない)に縛られるとするなら、人は共産社会主
義の彼岸に自由主義世界を渇望したくならないだろうか。いずれにしても、憲法は
憲法改正手続によらないで改められ、無視されることを許さない。わが国民は、殊
に裁判官はわが自由主義憲法を守らなければならない、イデオロギーの異る国の裁
判官がその憲法を守らなければならないように。
 これらの点に関し、多数意見が示されないのは当然であるが、ここで私見を述べ
たのは多数意見との間のくいちがいを想像したからではなく、以下の私見の出発点
を示したいためであつた。
 (三) 公権力による表現の自由の制限 憲法二〇条が「いかなる宗教団体も、国
から特権を受けてはならない。……国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗
教的活動もしてはならない。」同二一条二項が「検閲は、これをしてはならない。」
とするのは、国やその機関が法律、条例によつて、ないし、官憲が公権力によつて、
宗教を支持又は牽制したり、思想の表現を事前に検閲したりしてはならない、が、
私人が或る宗教を信じ支持し又は排斥し、私立学校が宗教教育をすることはむしろ
その自由として保障することを眼目とするのである。(尤も、憲法は年少者等に選
挙権を与えない立法を是認する(四四条)と同様に、官公立学校で年少者等に何が真、
善、美であるかを教育するについては、現行憲法の理想、民主的自由の精神や憲法
の条規を否定する自由を是認するものではないと考える。)だから、私人である新
聞社、雑誌社、放送局が記事や放送内容を事前に「検査」し取捨選択し欲するもの
だけを公表することは当然その自由であり、これは「検閲」ではない。要するに、
国民、住民の総意の現われである法律、条例をもつてしても、況んや官憲の裁量を
もつてして、個人の表現の自由を制限することは極力避けられなければならない。
でなければ、結果において、官憲の専断恣意(それは悪意に基くものでないとして
も)による自由が抑圧される社会になるであろう、とするのが憲法二一条の意味す
るものである。これは議会も公安委員会も信用するに足りないというよりは、表現
の自由は、彼らが過誤を犯さないような仕組で保障されねばならぬほどに大切なも
のだということである。一体、立憲制度というものが国やその機関ないし官憲の行
為を法で規律し義務づけるという形で個人の人権、自由を保護しようとするもので
あることは、裁判官を法で金縛りにする裁判制度を見ても明らかではなかろうか。
憲法は、特に表現の自由に関しては、公権力の濫用がないだけでは満足せず、官憲
が事実・法律上の過誤を犯さないことの保障をできるだけ合理的で明確な基準によ
つて規律すべきことを要求するものと考えねばならない。けだし、個々の国民、住
民が自己の意見に叶つた自分らの法律、条例を設け行政機関、官憲も自分らととも
にこれに従うこととする民主的な政治的自由の社会は、自分らの意見、思想を表現
する自由が抑圧されては成り立たないからである。
 (四) 集団行動とは 憲法二一条の「集会」「言論」「その他一切の表現」は、
平穏に行われるのを本質とし、他のエレメントが加わらないものを意味するので、
本来、平穏に行われるものだけを指す。これは同一六条の「請願」が「平穏に」な
されるべきものとするのと同様である。集団行動を論ずるに当つては先ずこの認識
の上に立たなければならない。(米憲法修正一条「平穏に集会し……請願する権利」、
西独基本法八条「平和的に且つ武器を持たないで集会する権利」、イタリヤ憲法一
七条「平穏に、且つ武器を持たないで集会する権利」)。侵入、傷害、暴行、汽車
電車交通妨害、公務執行妨害、建造物侵害等々を伴う集団行動を本来の示威運動と
解する見解に立つて、一部の者はこれを正当な「実力行使」だと主張し、一部の者
は逆にこれを全部取締りうると解するかも知れないが、共に誤である。尤も、集会
が単に「騒々しい、やかましい」だけで平穏でないとはいえない。(祭礼の騒ぎや
スポーツ応援団の騒ぎとくらべれば明らかである。)
 また、市場、広場に集まつて売買取引、求職、広告宣伝をするが如きは経済的活
動であつて憲法二一条にいう「表現」から除外される。経済的自由は表現の自由よ
りも強く制限されてよい。歓送迎集団や旅行、通学のための勢揃い、運動会、娯楽
の集りや消防演習のような業務上の集団行為も、一般に何らの「表現」ではない。
これに反し、芸術としての音楽の発表会、演劇、映画の集会は「表現」に属するで
あろう。
 つまり、憲法にいう「集会」とは或る場所で信条、知識、情操、意見、要望、思
想を互いに交換し、またこれらを来会の聴衆に表明し訴えんとする多数人の集合で
ある。本条例にいう「集団示威運動」および「集団行進」も集会と同じく本来平穏
な集団のする思想の表現ではあるが、その表現はもはや集団のメンバー相互間の思
想の交換でなく具体的問題についての集団全員の一致した意見の対外的表明であり、
それは政府、国民又はその一部あるいは特定人に対し要望、反対、抗議、賛成しあ
るいは実情を訴え、もつて政府、各界、世人の心をとらえ集団の念願を実現せんと
する意図を持つものである。そして集団示威運動は一定の場所に停止してでもなさ
れるが、集団行進と同様に公園、広場、道路の如き公共用の場所又は一般交通の用
に供された場所を行進して行われることが多い。これらの示威運動、行進はプラカ
ード、旗等をかかげたり、声を出したりして、場合により、拡声器を用い行われる。
行進は徒歩又は車両で、時には騎馬、舟行によつて行われる。注意すべきは本来の
示威運動はデモンストレーシヨンの意味であつて、その「威」とは刑法二三四条、
九六条ノ三、暴力行為等処罰ニ関スル法律一条にいう「威力」の「威」でなく、「
威光」「威風」「権威」の「威」であり、示威とは有力なことを示す意味だという
ことである。
 さて、集団示威運動、行進が右の如き意図を持つものである以上公園、道路など
一般人の耳目に触れるところで行われるのが多いのは当然であり、そこでは他の反
対の意図を持つ集団示威と同時同所で競合し、或は多数第三者の反感を買うことも
あることは考えられる。
 そして、集団は、体積、重量、エネルギーを持つ生物としての人間の集合(人垣、
人海)であり、かつ予定の方針、指導者の指令等に従い組織的、集中的、効果的に
その物理的力を正当に又は破壊的に行使することができ、又、多数意見のいう如く
「突発的に内外からの刺激、せん動等によつて容易に動員され、時に昂奮、激昂の
渦中に巻きこまれ」あるいは自ら収拾できない混乱に陥り、遂には生命、身体、自
由、財産等の破壊を惹起するに至る抽象的おそれが絶対にないとはいえない。もし、
集団示威が多数自動車を用いて行われる場合はなお更らである。
 かように、集団が一つの主張、要求をかかげて一般公衆の立ち入り通行できる公
園、道路を大きい物理的力をもつて占拠、通行する場合には、集団行動の規模、目
的、やり方、その他の情況によつては、若しかすると計画的又は偶発的な生命、身
体、自由、財産等の破壊(誰の過失とも判らない遭難を含む)が起こるかも知れない、
遠い抽象的な虞を出ずること絶無とはいえない。集会もこれに準ずる関係がある。
これこそ集団行動が、公園、道路のような公共財産を利用しない新聞、出版、ラヂ
オなどによる「表現」と異り、また、遠足、広告宣伝行列、葬礼の如き「非表現」
と異る特性といわねばならない。人、或は尋ねるかも知れぬ、「同じく自分らの車
を列ねて道を行くのに、観光のためなら交通法規に服するだけでよく、法律改正要
求のためならその外に許可を要するとするのは「表現」なるが故に余計な束縛を受
けることになり、話はアベコベではないか。」と。しかし、集団行動はどんな時刻、
どんな道で数万人、十数万人でも自由に行われてよいとすることが常識、条理上許
されないことは明らかである。ここに、合理的かつ明確な基準の下に、集団行動を
届出制ないし許可制によつて軽く制限することの許されるべき理由があるのである。
 要するに、集団行動は本来の姿で平穏に行われるのが普通である。しかし、それ
は、集団の内部的殊に心的状態や外部的状態如何によつては、それが外部に対する
又は外部からの、或は集団内部における暴力的破壊を惹起する蓋然性があるかも知
れない。その蓋然性(危険)が明白でかつ差迫つているか否かを法規又は公権力によ
つて決定し、それが認められる場合には集団行動は事前に制限、禁止され、そのた
めに届出制、許可制を採用してもその基準が合理的かつ明白な以上憲法二一条に違
反するものでなく、むしろ公共の福祉のために必要なことである。
 (五)場所の限界
 (1) 一般公共用の場所 国有財産法にいう「公園又は広場として公共の用に
供し、又は供するものと決定した公共用財産」(一三条)は大蔵大臣(又はその事務
分掌者)の管理に属し、道路法にいう一般交通の用に供する」「道路」(二条、三条
)のうち、国道は建設大臣もしくは知事の、都道府県道は都道府県の、市町村道は
市町村の各管理に属する(一二条ないし一六条)が、以上は、すべて公共の用に供し、
又は一般交通の用に供することを目的として開放されているものであるから、普通
地方公共団体がその区域内の事情や住民の理想に従い、以上の道路、公園等を一般
公衆が使用する権利を条例で規制することは、道路、公園等の公共用目的を没却せ
ず、また管理権者の権限を害しない限り許されてよい。ただ、かような場所での集
団行動については規制の方法、限度が憲法二一条の問題となるのである。地方自治
法では「普通地方公共団体は」「地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、
健康及び福祉を保持する」(地方自治法二条三項一号)「公園、運動場、広場、緑地、
道路、橋梁、河川、運河、溜池……を設置、管理又は使用する権利を規制する」事
務を処理することができる(同条項二号)が、この場合においても同様である。尤も、
ここに公園、運動場、道路等というのは、無制限には一般公衆の利用に開放されて
いないもの(例えば有料遊園地)をも含むとすれば、そこでの集団行動のための使用
権の規制方法にも限界があり、それは次に述べる私有場所の場合と大体同様になる
のであろう。
 (2) 私有場所 私人である所有者ないし使用権者の使用する土地、建物(事
務所、工場、デパート、私立の学校、病院、体育館等の各構内で屋上、駐車場を含
む)のなかで、集団行動をしてよいかどうか。これは所有者、使用者が決定する権
利を有するので(構内での従業員の集団行動の制限は労働者の権利を害することは
できないが)、たとえ集団行動が公開される場合でも、条例でこれを規制し、許可
制にかからしめる如きは私人の使用権を無視するもので越権である。許可又は不許
可の処分は使用権者の意思に反することを許されない。かような場所では一般公衆
は場所使用の権利もしくは自由を有しないのである。
 ここで注意すべきは、一般に、私立の学校、病院、デパートなどはその構内を公
共の用に、又は一般交通の用に供しているものではないということである。(これ
は個々の場合に判断されるべき事実問題、法律問題であるが。)これらの構内はそ
の施設に赴くべき公用、私用のある人に出入りすることを許しており、デパートな
ら商品を見るだけに来ることにも開放されているが、これらの構内で部外の人達が
どんな競技、集会、合唱をやつてくれてもよいという意思は表明していないのであ
る。公共の道路、公園と異り、これら施設の構内を使用権者が何時、何日間閉鎖し
ても部外一般公衆の権利ないし自由を害しないのである。
 私人の所有する道路で一般交通の用に供されていないものは、単に公衆が事実上
通行していても、概ねこの範疇に属すといえよう。
 (3)官公署の構内 国又は地方公共団体が所有権ないし使用権を持つ国会、裁
判所、官公署、国公立学校等の庁舎および構内も、決して公園、道路などと同様に
公共の用に、もしくは一般交通の用に供されているものでないのが一般である。こ
れらの構内で無断で集会、貼紙、示威運動をすることは概ね管理使用権の侵害であ
つて、条例を用いず庁舎管理者の権限でこれを禁止し、貼紙ならはぎ取つて貼紙人
に返すなどしてもよく、その集会、示威運動は住居侵入不退去罪となろう。だから、
かような場所で集団行動を許可する権限はその管理者にあるが、管理者でない地方
公共団体にはない。ただ公安委員会は自己に許可する権限のないことを集団行動申
請者に知らせれば足りる。(かような場合に、申請者に許可、不許可の処分をしな
かつたら、勝手に集団行動をやつてよろしいということにはならない。)
 (4) 公園や道路の特性 前述の公共の用に供された公園、広場などは、一般
人が一人又は数人で自由に出入りし、観光、レクリエーシヨン、会合、社交、談笑、
論議などに平穏、快適に時を過ごすことができるために造られている。一般交通の
用に供された道路も一人又は数人で自由に通行し右と同様にまた、いろいろの用を
足すのにここで時を過ごすことができるために存在する。これらの場所で時を過ご
すには定められた用法に従わねばならないと思う。公園の花壇やテニスコートを踏
みにじり破壊することはこれによつて楽しむ一般人の利用を害し、また公園を損傷
するものであるから、表現の自由は財産よりも大切だからといつて示威運動のため
にはこれらを破壊してもよいとはいえまい。
 私達のグループが公園、道路にいることは他の人達の邪魔になるが、それが公園、
道路の利用というものである。およそ、かような場所の利用は一過性を原則とすべ
き筋合であつて、特定の非常に多数の人の集団で公園、道路を広範囲に、長時間、
独占使用するが如きは合理的に禁止、制限されてよいことはむしろ明らかであろう。
しかし、この道理は集団行動の場合に限つたことでなく、歓送迎のために集会し、
遠足旅行、葬式、貨物輸送のために多数のバス、トラツクをつらねて行進する場合
にも大部分は(即ち思想の表現であると否とに拘わりなく集団の物理的行動という
面では)妥当するといつてよい。が、だからといつて思想表現としての集団行動も
交通法規で取締れば足りるとはいえない。この点は後に述べる。
 (5) 「場所のいかんを問わず」 本件東京都条例一条は「場所のいかんを問
わず集団示威運動を行おうとするとき」は公安委員会の許可を要するとする。たと
え秩父多摩国立公園(東京都部分二万九千余ヘクタール)が条例にいう公園に当ると
したところで、その人跡稀な場所で示威運動をする人はなかろうし、したければ許
してよく、罰してはならないに決まつている。会社、商店、住宅の密集するなかの
私有ビルの屋上や道路に直面する私有駐車場での示威運動を制限することは、通行
の公衆が屋上や駐車場を利用する自由を有しない以上彼らの自由を害する筈なく、
前述の如く本来所有者が決定する事柄である。尤も、かような場所での示威運動は
喧騒を極め近隣の公務、業務の従事者に妨害を与えたり、その場所から道路にハミ
出すようなことがあるかも知れないが、前の場合には、それが、警察官職務執行法
五条、六条の場合に当るなら警察官が適正に制止し、また昭和二九年東京都条例一
号騒音防止に関する条例で処置し、後の場合には無届集団示威運動として処置すれ
ば足りよう。
 川や湖の水面あるいは長い年月の間事実上一般の利用に任せられて来た国公有土
地(海水浴場、河川堤防内の安全な広場の如き)は前述の公共の用に供された公園等
又は一般交通の用に供する道路ではない他の場所といつてよかろう。
 本条例によると、かような水面では多数ボートを集めての集会や行列舟行は差支
えないが、集団示威運動には許可が要ることになる。
 また港湾法にいう港湾の管理者は地方公共団体又はその設立した港務局であり、
港務局は「水域施設の使用に関し必要な規制を行う」(一二条四の二号)がこれら港
湾特有の利用管理方法に関する規制と本件東京都条例一条とは互に牴触せず両立す
るものと考えられる。
 「場所のいかんを問わず」というのは東京都の管理権の及ばない公私有の建物内
や屋外の私有有料野球場内の如きを含むものとは解されない。私は、この文言に関
する多数意見には賛成できない。
 附言。 わが国で、公園、広場又は道路などがあらゆる人の風物鑑賞、レクリエ
ーシヨン、会合、社交、談笑、政見公表などのために快適に利用されるべきものと
されてからまだ百年に満たない。それまでは鎌倉幕府(西紀一一九四年)以降将軍に
よる封建武断道義的専制政治が支配していたから民衆が広場で意見を公表できたこ
とは極めて稀であり公衆にアツピールすることは無駄で役人に秘かに嘆願するほか
なかつた。だから紀元前数世紀から広場が社交や意見の公表に利用されて来た西欧
諸国と異り、今日のわが国では釈迦、キリスト、孔孟の教その他の信条にも従わな
い人々、又、未だ広場を他人の自由や私的秘密(プライヴアシイ)を尊重しつつ自分
達のために利用することの快適さの味を知らない人々が極めて多いこと、殊に公徳
心の欠け無法無秩序にわたる行動をする人々、あるいは、自分のことを他人に考え
てもらい無自覚に上部の指図通りに行動する人々の多いこと(これは敗戦にも影響
されていよう)に鑑みれば、いろいろ無秩序の取締を厳にすべしという説は理解で
きるが、表現の自由の制限は慎重に最小必要限度に止めなければならないという憲
法の至上命令は守らなければならない。これがなおざりにされると立法、司法、行
政は全体主義に傾く危険が生ずる。
 (六) 合理的で明確な基準 (イ)すでに(五)で述べた「公共の用に供する
公園又は広場」(国有財産法一三条)、「一般交通の用に供する道路」(道路法二条)
あるいは「港湾」(港湾法)の特定の一部で、特定の時間に、特定の方法、態様によ
る集団行動を禁止制限する法律、条例(後者については地方公共団体が条例制定権
を有する場所)を立法することはそれが合理的である以上憲法二一条に違反しない。
(ロ)また、集団行動につき、場所を右の場所の特定の一部に限り、その時間、方
法、態様を特定限定した上、届出制、許可制を定め、そして、公共の安全に対し明
らかな差迫つた危険を及ぼすことが予見されるときは警察がこれを許可せず又は禁
止することができる旨の法律、条例を設けても憲法同条に違反するとはいえない、
と私は考える。(これが昭和二六年(あ)三一八八号同二九年一一月二四日大法廷
判決の基本原則と考えたところではなかつたのか。)
 だから、「何人も議会の一院の開会、招集、停会されている日に又は大法官裁判
所、王座裁判所がウエストミンスターホールで開廷される日に、教会、国家に関す
る事項の変更を求めて国王又は一院に対し抗議、宣言その他の要請を考慮もしくは
提出することを目的又は口実として同ホールの門から一マイルの範囲内のウエスト
ミンスター市内の街路又は公開の場所で五〇人以上の集会を招集し又は五〇人を越
える人が集合することは違法である(略摘)」とする如き(英一八一七年不穏集会法
二三条)、あるいは「連邦立法機関についての禁制区域の限界はボン市内のウエー
バー通からロイター通の下のガードまでのカイザー通、……とする(略摘)」(西独
一九五五年禁制区域法一条)、あるいは「集会は公道で行うことはできない、夜の
一一時を超えて延長することはできない。」(仏一八八一年公共の集会に関する法
律六条)とする如きは、合理的明確で殆んど争う余地がない。
 私は、集団行動を午前〇時から四時までは安眠のために禁止し、道路は全幅何メ
ートル以下もしくは歩車道の区別のない部分では、幅何メートルの隊列、集団で行
進し、車を利用して行い、あるいは一定の堪重能力を欠く指定された橋では一定重
量の一定数の集中自動車行列をし、駅、埠頭、飛行場の特定の隣接広場、道路やそ
の他交通、通信施設、発送電施設などの特定の隣接広場道路では、例えば、四時間
以上出入交通を阻止するような多数の人、車による特定場所の独占的集団行動、車
道全幅に亘る絶え間なき四〇分以上のスクラム集団行進の如きを法律、条例で禁止
することは適憲と考える。
 集団行動のためには、公園、広場、道路を利用し交通する自由権を持つ一般公衆
や隣接地の官公署、会社、事務所、商店で従業や娯楽する人々が無制限にこれを甘
受しなければならないものではない。集団のメンバーや見物人の誰かが卒倒したり、
隣接商店の家族が急病にかかつた場合、救急車、医師が通行できず、消防車も立往
生しなければならないものではない。
 右の場所を利用する集団員と一般人との生命、身体、健康、自由又は重要な財産
の損壊を防ぐためには以上のような基準を法律、条例が定めてこれを禁止すること
は適憲である。
 次に、「公共の安全に対し明らかな差迫つた危険を及ぼすこと」を警察が認定す
ることは、変動常なき現実直接の自然的(颱風・水害等)、社会的現象や集団や反対
集団、第三者民衆の動向、心的状態を捉えなければ至難であるから、法律、条例で
この「明白切迫危険」の内容を更に逐一規定しなくても、違憲ではないと私は考え
る。これはけだし避けられないであろう。
 しかし、具体的にいえば、刑法所定の内乱罪、外患罪、国交ニ関スル罪、公務執
行・審判妨害罪、被拘禁者奪取罪、騒擾罪、放火・失火・溢水罪、往来妨害罪、住
居侵入罪、礼拝所不敬罪、職権濫用共犯罪、殺傷罪、逮捕監禁罪、脅迫罪、略取誘
拐罪、名誉毀損罪(個人の尊厳を傷つける)、強窃盗・恐喝罪、建造物公文書・重大
な財産を毀棄損壊する罪や暴力行為等処罰ニ関スル法律違反罪は自由人権の侵害で
あるから集団行動によつてこれらが行われる明らかな差迫つた危険が認定される場
合には警察が集団行動を許可せずこれを禁止する旨の規定を設け、これによつて警
察がこれを禁止する処分をしても適憲であるこというまでもない。
 右犯罪のうち過失犯でないものでも、或る種のものは過失によつて不法結果が惹
起される場合でも禁止処分をしてよいであろう。また、誰の過失とも判らない多数
人の混乱による死傷が起る明白切迫危険の存する場合(彌彦神社事件、二重橋事件、
歌謠大会事件等の多数死傷遭難事件の如き)も同様である。わが国民が、公園、広
場、道路を安全快適に、きれいに利用することの味を知らないうちに、始終暴力的、
破壊的、一方的集団行動にここが使用されるとすれば憲法の理想は失われてしまう。
 なお、前述の如く、集団行動の場合でもこれらの場所の利用はその用法に従つて
行われなければならない。数千、数万人による占拠はひどく芝生を荒らし紙屑を残
すかもしれないが、これは行動拒否の理由とならない。ただ、花壇やテニスコート、
竹木、垣根が全く破壊されるようなことは用法に従つた使用とはいえないのではな
いか。それはこれらの場所を設けた国民、住民の意思を同時に踏みにじることにな
らないだろうか。が、この場合、これが集団行動不許可の理由になるかは、なお問
題であろう。起つた結果に対して賠償責任は生ずるとしても。
 (それは悪意に基くものでないとしても)による自由が抑圧される社会になるで
あろう、とするのが憲法二一条の意味するものである。これは議会も公安委員会も
信用するに足りないというよりは、表現の自由は、彼らが過誤を犯さないような仕
組で保障されねばならねほどに大切なものだということである。一体、立憲制度と
いうものが国やその機関ないし官憲の行為を法で規律し義務づけるという形で個人
の人権、自由を保護しようとするものであることは、裁判官を法で金縛りにする裁
判制度を見ても明らかではなかろうか。憲法は、特に表現の自由に関しては、公権
力の濫用がないだけでは満足せず、官憲が事実・法律上の過誤を犯さないことの保
障をできるだけ合理的で明確な基準によつて規律すべきことを要求するものと考え
ねばならない。けだし、個々の国民、住民が自己の意見に叶つた自分らの法律、条
例を設け行政機関、
 検察官 村上朝一、同井本台吉、同吉河光貞、同中村哲夫公判出席
  昭和三五年七月二〇日
     最高裁判所大法廷
         裁判長裁判官    田   中   耕 太 郎
            裁判官    小   谷   勝   重
            裁判官    島           保
            裁判官    斎   藤   悠   輔
            裁判官    藤   田   八   郎
            裁判官    河   村   又   介
            裁判官    入   江   俊   郎
            裁判官    垂   水   克   己
            裁判官    河   村   大   助
            裁判官    下 飯 坂   潤   夫
            裁判官    奥   野   健   一
            裁判官    高   橋       潔
            裁判官    高   木   常   七
            裁判官    石   坂   修   一
 裁判官池田克は海外出張中につき、署名押印することができない。
         裁判長裁判官    田   中   耕 太 郎

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