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平成13年12月21日 判決
平成11年(ワ)第1632号 損害賠償請求事件
主       文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
 被告らは,原告に対し,各自金1000万円及びこれに対する平成10年12月
15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
 本件は,原告がコンサートにおいてヴァイオリンを演奏中,突然,ヴァイオリン
の弓から弓毛がはずれる事故が発生したのは,その前日,同弓の毛替え作業を行っ
た被告Aが弓毛を固定する「くさび」の大きさ等につき適切でなかったことの過失
があるとして,不法行為責任に基づく損害賠償を請求し,併せて,被告Aの使用者
である被告株式会社ジュージヤ(以下「被告会社」という。)に対し,使用者責任
に基づく損害賠償を請求した事案である。
1 紛争に至るまでの経過事実
 争いのない事実,及び証拠(甲1の1,2,甲2,甲8の1,2,乙1,乙5,
乙6,原告本人,被告本人A)並びに弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められ
る。
(1) 当事者(争いのない事実)
ア 原告は,昭和52年に東京芸術大学音楽学部器楽科(ヴァイオリン専攻)を卒
業し,同大学院修士課程在学中に渡独し,その後ヨーロッパ等で演奏活動をしたの
ち,平成7年9月1日よりB交響楽団のコンサートマスターをつとめるヴァイオリ
ニストである。
イ 被告会社は,各種楽器類等の売買,修理及び輸出入を業務目的とする株式会社
である。
ウ 被告Aは,昭和60年1月に東京ヴァイオリン製作学校を卒業し,同年2月に
被告会社に弦楽器修理業務担当の社員として入社し,現在に至ってい
る。
(2) 原告は,1986年(昭和61年)9月,スイスのジュネーブのヴィドデに
て,フランソワ・ペカット(フランス人)製作のヴァイオリンの弓(以下「本件
弓」という。)を購入し(甲2),以来演奏会等で使用していた。
 本件弓は,1850年頃に製作されたものであり,そのスティック部分はフェル
ナンブコという硬材木で作られた,ベルナルド・ミラン作成の1986年6月23
日付け鑑定書の付いた弓である(甲1の1,2)。
(3) 原告は,平成10年12月14日午後に,被告会社に対し,本件弓の毛替え
作業を委任し,同作業を担当したのが被告Aであった。
 その際,原告から弓毛を従前より少し短めにしてほしい旨の注文があったので,
被告Aはそのように毛替えを行った。
 これまでにも,被告Aは,平成8年3月から平成10年9月9日までの間10回
にわたり,原告所有のヴァイオリンの弓(その殆どが本件弓であった。)の毛替え
作業を行った経験を有していたが,かつて一度も,原告から同各作業につき不具合
等の苦情が出たことはなかった。
(4) 被告Aは,本件弓の毛替え作業に約2ないし3時間を要し,同日の夕方には
前記作業を完了し,これを原告に引き渡した。
 修理代金は5500円であった。
 原告は,翌12月15日午後7時開演の,京都コンサートホールで行われるB交
響楽団の演奏会において,コンサートマスターとして,本件弓を使用してヴァイオ
リンの演奏をする予定であったので,同日の夜,自宅で少し本件弓で試し弾きをし
てみたが,異常はなかった。
(5) 翌12月15日午後4時45分頃から行われたリハーサルにおいて,原告
は,本件弓を使用したが,その時には異常はなかった。
 同日午後7時,演奏会が開演となり,原告が最初の演目であるべートーヴェン作
曲の序曲コリオランを演奏し始めて1分位経過したころ,突然本件弓の弓毛(馬
毛)が抜けるとともに,弓毛が納められているスティックの弓頭部(以下「ヘッ
ド」という。乙1)の毛箱の底辺部分がチップ(プレートともいう。以下「チッ
プ」という。乙1)と一緒に剥離する事故が発生した(以下「本件事故」という。
甲8の1,2)。
(6) このため,本件弓は使用できない状態となり,原告は,直ちに,隣席のヴァ
イオリン奏者の弓を借りて序曲コリオランの演奏を続行し,さらに次の演目である
交響曲第九番も本件弓とは別の弓で演奏せざるをえなかった。
 本件弓から剥離した破片が客席に落ちていたのを,前記楽団の職員が見つけて原
告に渡した。
2 原告の主張
(1) 責任原因
ア 本件事故の原因は,本件弓のヘッドの毛箱の中で弓毛を固定するくさび(つ
め,プラッグともいう。以下「くさび」という。)の大きさ,形状,強度が不適当
であったために,くさびによってヘッドに過剰な力が加わって,本件弓の張力によ
る毛箱破損を防止するために設置されている象牙及び黒壇によるチップを裂いて剥
離させてしまったものである。
 これは,被告Aがその過失によって,弓毛を固定するくさびを適切に密着させる
べき義務を怠った結果である。
イ よって,被告Aは,被告会社の業務遂行中の過失により,本件弓を損傷
させたものであるから,原告に対し,民法709条の不法行為責任に基づく損害賠
償責任を,被告会社は,民法715条の使用者責任に基づく損害賠償責任を負う。
(2) 損害額
ア 本件弓の物的損害
 本件弓の弓頭部(ヘッド)は,本件事故により損傷を受け,経済的無価値となっ
たものであり,その損害は,時価相当額の800万円を下らない。
イ 慰謝料
 原告は,本件事故により,前記演奏会において,第1曲目序曲コリオランを演奏
中にこれを中断しなければならなかったし,しかもその精神的苦痛の中で交響曲第
九番を全曲別の弓で演奏せざるを得ないという精神的動揺と苦痛を味わった。
 さらに,その後も本件弓と同等の弓を入手することができるまで不本意な弓で弾
かなければならない精神的苦痛を受けた。
 これを慰謝するには,100万円が相当である。
ウ 弁護士費用
 原告は,本件訴訟を遂行するために,本訴状肩書の原告代理人に訴訟を委任し,
着手金及び報酬金として100万円を支払う旨合意した。
(3) よって,原告は,被告らに対し,第1請求記載のとおりの判決を求める。
3 被告らの反論
(1) 本件事故の原因は,チップの劣化,温度や湿度,フェルナンブコ材の劣化等
の本件弓の側の複合的な事由が原因となったものであり,被告Aの毛替え作業にお
ける人為的ミス,即ち,くさびの不適切処理が原因となったものではない。
(2) よって,原告の請求は棄却されるべきである。
4 争点
 本件事故の原因は,被告Aが毛替え作業を行う際,毛箱の中で弓毛を固定するく
さびの大きさ,形状,強度につき不適切であったという被告Aの過失により発生し
たものであるか,それとも,チップの劣化等の本件弓の複合的な事由が原因となっ
たものなのか。
第3 争点についての判断
1 前記認定の経過事実,及び証拠(乙1,乙5,乙8,乙9,証人C)によれ
ば,本件事故の原因は,次のとおりと認めるのを相当とする。
(1) 本件事故の原因には,チップの接着不良もしくは劣化が考えられる。
ア 本件弓のヘッドの平面部に,白い象牙(その下は黒壇である。)で張りつけて
あるのがチップであり,平面部の中央の台形のボックスが毛箱であり,毛箱の中に
嵌め込まれている台形の木材がくさびである(甲8の1,乙1)。弓毛はその先端
を松脂で固めて毛箱に収め,くさびを嵌め込んで固定させるのである(乙5)。
 チップは,ヘッドの両側や後端を補強して壊れるのを防ぐ役目をしているが,接
着不良の場合には十分その役目を果たさないことがある。
イ チップの素材は,ペカットによって製作された約150年前は,牛骨を使うこ
とが多かったが,近年は象牙や金属を使用することが多く,かなり頻繁に張り替え
られる。
 本件弓のチップは象牙であるが,色が黄色ではなく,白いことから比較的近年に
なって張り替えられたことが分かる。
ウ 毛替えの際,毛箱に収める弓毛を束ねるため松脂を用いるが,この脂が弓のス
ティックやヘッドに付着することがあり,これを除去するためにトルエンなどの薬
品を用いて拭き取るのであるが,その際,それらの薬品がチップの部分に入り,接
着を弱めることがある。
 本件事故では,ヘッドの1部が欠損しているが,それと同じ幅でチップも欠損し
ており,欠損面の線が直線になっているのは,接着が弱いことを明白に示している
(甲8の1,証人Cの調書5頁)。
 もし,接着が強ければ,このように一直線ではなく,横へ曲がって割れたり,移
行して,ひびが入った状態になったりするものである。
エ また,チップが接着するヘッド部分は曲線になっているので(乙1),チップ
を接着するときは湾曲した形を作るために,熱したハンダごてなどの熱を加えるこ
とがある。
 象牙や牛骨は,高熱に弱く,チップの形を熱したハンダごてで作った場合には,
2~3年で骨はもろくなり,ひび割れが生じたり,ボロボロになったりしやすいも
のである。
オ 平成13年3月29日午後4時の和解期日において,C証人は,原告が持参し
た本件弓を実地に検分したところ,本件弓のチップは,本件事故後2年間未使用の
状態にもかかわらず,新たにチップのひび割れが生じているのを確認した結果,こ
の劣化原因は,前記薬品か,高熱の影響によるもの以外は考えられないと判定し
た。
カ 原告は,本件事故の3年前頃に,本件弓のチップを東京で張り替えたとのこと
であるが,チップの状態からすると,その時の接着不良または材料(骨)に問題が
あった可能性も十分考えられる。
キ チップがヘッドをしっかりとガードしている場合には,チップが砕けてヘッド
の1部が剥離することはないので,以上のように,チップの接着不良もしくは劣化
が本件事故の原因と考えられる。
(2) 以下の理由で,原告が主張するような,くさびの大きさ,形状,強度が不適
当であったとは考えられない。
ア くさびは,通常スティックの材質よりも柔らかい物を使用するものであるが,
本件弓の場合においても,スティックのフェルナンブコよりも柔らかい楓をくさび
に使用していた。
 したがって,くさびが原因でヘッドやチップにひびが入ることは考えがたい(乙
8)。
イ C証人が前記和解期日において本件弓を検分した際,工具の千枚通しをくさび
に軽く突き刺し,容易に千枚通しの先端に刺さったままのくさびを取り出すことが
できたことからも,くさびは毛箱に比して大きくはなかったし,膨張力が強すぎる
こともなかったことが窺える。
 弓毛の量も通常より多くはなかった(甲8の1)。
ウ もし,原告主張のように,くさびがヘッドの毛箱に比して大きく,膨張力が強
すぎたのであれば,被告Aが毛替え作業終了後に,スクリューネジを巻いて,ステ
ィックと弓毛の中央部分の間隔が約1㎝くらいになるように張力を調整した段階で
(乙1),コクンという音がして,最も弱いヘッドやチップの部分が破損して弓毛
が抜けてしまうことになるからである。
エ しかるに,修理者が前記のような調整を行ったときには,何ら事故は発生しな
かったのである。
 原告が被告Aから本件弓の引渡を受けたのち,微調整をしながら,試し弾きを
し,リハーサルをし,演奏時になってから本件事故が発生したことからすると,修
理者である被告Aには,くさびの調整不良という過失があるとは到底考えられな
い。
オ むしろ,原告は,従前より少し弓毛を短くするよう注文を出していたのである
から,ネジを巻いた従前の感覚より,張力が強くなっていたこともあり得るし,こ
れに当時暖房がなされていたコンサートホール内の温度や湿度などの空調条件が重
なって,いつもより強くヘッドに張力が働いた結果,本件事故を招いた可能性も否
定できないのである。
(3) 本件弓の老朽化も,その原因の一つとして考えられる。
ア 本件弓は,フェルナンブコの材質の,約150年前に製作された弓であるか
ら,その経年的変化により粘りけがなくなり,欠損し易い状態になっていたもので
ある。
 通常,安価の弓よりも,本件弓のように高級な材質で,年代を経たものほど欠損
し易く,本件事故のような損傷が生じることはさほど珍しいことではない。
イ なお,本件事故によるヘッドの損傷は,見た目にも傷痕を残さずに修理するこ
とは可能である。
2 まとめ
(1)  以上によれば,本件事故の原因は,被告Aの毛替え作業における過失によ
るものではなく,薬品や熱によるチップの接着不良もしくは劣化,本件弓の材質自
体の劣化など本件弓が備えていた各種要因が複合的に関係しあった結果発生したも
のであると推認するのが相当である。
(2) よって,被告Aは,不法行為責任を負わないから,被告会社も,使用者責任
を負わない。
第4 以上によって,その余の点を判断するまでもなく,原告の請求は理由がない
からこれを棄却し,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条を適用して,主文のと
おり判決する。
京都地方裁判所第1民事部
裁 判 官   阿  部  靜  枝

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